乾杯、と小さなお猪口を突き合わせて、私と慧音さんは一気にその酒を煽った。
蝉も静かになり始めた晩夏の夜を私達は飲み明かして過ごす。
こうして慧音さんと飲むのも何度目だろうか。
寺子屋に関わるようになって始まったこの関係は、最初はぎこちなかったものの今では随分とフランクになっている。
お互いに持った徳利を傾け、お互いのお猪口へと冷酒を注いでいく。
どちらも酒には強く、まだまだ夜は始まったばかり。小さな寺子屋の校舎の片隅には、氷精に貰ってきた氷水で冷やした一升瓶がまだ五本も残っている。
「いい月ですね」
「あぁ、いい月だな」
校舎の窓から空を見上げれば、そこには半分の月が浮かんでいる。
雲一つ無いその幻想的な光景に、私達はもう一度乾杯をした。
「さて、それじゃ今日はどうしますか?」
「んー、そうだな。里の面白話は前回もしたばかりだしな」
二人で探しているのは今夜の話題。前回は慧音さんの里でこれまでに起きた珍騒動、その前は紅魔館の住人の意外な素顔について語り合った。
最近で何かあったことと言えば……
「あ、そういえば」
「ん?何かあったか?」
「いえいえ、たいした話じゃないんですけれどね。この間一緒にラーメンを食べたさとりさんですけど」
この間、と言っても一緒に食べたのは三ヵ月近くも前のことだ。そういえばさとりさんはそれからしばらくラーメンにハマっていたようだが、最近はパッタリ里で見なくなってしまった。どうしたんだろう。今度聞いてみようかな。
「最近はうちのパチュリー様のところによく来てるんですよ」
「パチュリーとさとりか。珍しい組み合わせだな」
「それがなんだか、二人とも本を読むのが好きらしいんですよね。その延長で色々と付き合いが始まったらしいです」
さとりさんも本を借りに来ていた最初の頃と比べ、今では随分と打ち解けている。
静かだった図書館から笑い声が聞こえることは珍しくなくなったし、今ではごく当たり前の光景だ。
「それほど仲がいいのか。何かあったりしたのか?」
「小悪魔も交えて、三人で色々と語り合ったみたいですね。一週間くらいぶっ続けで泊まってましたよ。その週は図書館の話し声が絶えることはなかったですねー」
「女三人寄れば姦しい、とはよく言ったものだな」
「やっぱり仲良くなるには互いのことを良く知ること、ってことですかね」
そうか、うん、そうだな、と返事した慧音さんは、少しばかりもじもじしながら辺りに視線を彷徨わせた。
うーん、なんだろう。お酒はまだ残っているし、肴も目の前にでんと積まれている。トイレ……は前そうやって聞いたら殴られたから止めておこう。
まぁこんな時は正面切ってどうしたのか聞いてしまえばいい。
「どうかしました?」
「あー、いや、そのなんだ。以前美鈴の過去について少しばかり聞いたが、もしよかったらもう少し色々聞かせてくれないか?」
「あぁ、何か聞きたそうにしていると思ったらそんなことですか」
「やっぱり人のプライベートなことだからな。だがまぁ、それでも知りたいと思うのは私の本心だ。美鈴のことがもっと知りたい、という気持ちだ」
慧音さんはこういう時すごく直線的に気持ちを表してくる。それはきっと妖怪としてはまだ若いその年齢と、嘘偽りの無い本心を露にすることを厭わない性格からだろうが、それは私にとってとても気持ちのいいものだ。
私もよく他人から同じように言われるだけに、慧音さんのその明け透けな性格はむしろありがたくもある。
端的に言えば気が合う、ということだ。
「まったく構いませんよ。別に隠しているわけでもないですし。ただ……」
「ん、ただ?」
「あんまり覚えてないんですよね、昔のこと。ある程度経ってからなら覚えているんですけど、物心つくのが遅かったんでしょうかね」
「ふむ、そうなのか。まぁ長い生を持つ以上仕方の無いことなのかもな」
私が覚えているのはだいたい二千年前くらいから。妖怪になったのはその前のはずなのだが、その頃のことはほとんど覚えていない。
時が経って忘れてしまったのではなく、二千年前の当時からそれ以前の記憶は曖昧だったのだからこればかりはどうしようもない。
だから私がこうやって他人に過去を語る時は、私が自分の名を獲得した時のこと。そう、今からちょうど千八百年くらい前のことを語るようにしている。
「それではお話いたしましょう。今からはるか昔、当時でいう荊州の南域、長江のほとりに住み着いた一人の娘がいたそうな」
「あ、その前に。その当時の名前は言うんじゃないぞ。前回私だけ美鈴の正体がわからなかったからな、今回は当ててみせる」
「はいはい、わかりましたよ。それでは開幕、お楽しみ頂ければ幸いです。そうですね、ことの始まりは……」
ことの始まりはその娘が川沿いで一人の流れ者を見つけたところから始まる。
その流れ者は何本もの矢を背中に刺し、わずかばかりの手荷物の入った小袋を右手に倒れていた。
傍らには真っ赤な水溜り。死んでそうは経っていないのか、水溜りの端の方すら乾いてもいない。
娘はまたか、と思った。おおかた深手を負って戦から逃げ、ここで力尽きたのだろうと予測する。
この国が生まれて早四百年。平和だった国は麻のように乱れ、戦は絶えない。村の近くで小競り合いが起こることも日常茶飯事であるだけに、娘はこういった死体を見かけるのにも慣れてしまっていた。
娘は小袋の中に幾ばくかの食料を見つけるとそれを脇に置き、続いて死体から鎧を剥ぎにかかった。
これから来る戦のためと銘打った重税。こちらの兵糧を奪いつくさんとする敵兵。そんな中で死体から金品を奪う娘を誰が非難できようか。
娘は背中で堅く結ばれた鎧の紐を解くのを諦め、自身のその爪で切り落とした。
ガラン、と音を立て剥がれ落ちた鎧の裏には、その若者のものであろう名が小さく刻まれていた。
鎧と小袋を持ち帰った娘は、そのままの足で我が家へと向かった。
小さな家の周りで駆け回る少年に小袋を手渡すと、かつて娘がこの村へ流れ着いた時その家を与えた村長の元へと歩く。
娘が流れ着いた当時は同じくらいの年に見えた村長と娘だが、今では村長は齢五十を越え、この時代にあって長生きだと言われる方の部類になった。対して娘は当時とまったく変わらぬ風貌で、長い紅色の髪の似合う少女のままだった。
その事実が示す通り娘は妖怪である。それがいつからだったのかも、そして何故そうなったのかも覚えてはいない。ただ覚えているのは、自分はかつて人間であったということ。
この国には龍が住むと言われている。それはつまり、霊的な場として優れているということだ。最近ではこの辺りでも于吉仙人だとか言う仙人が出現したと娘も聞きかじっていた。霊的な力、すなわちこの国の大地に宿る龍脈が人に力を及ぼしているのか、そういった後天性仙人や妖怪の噂は昔から伝わっている。
娘は自分もその中の一人なのだろうと漠然と考えていた。そういった後天性の者だから妖怪としては力も弱く、これといった能力も持っていないのだろう、と。
そんな風に自身の妖怪性に対してこれといって気を使うことのない娘であったから、それまで流れてきた村や里では大いに恐れられた。
曰く、人を取って食う妖怪だの、年を取らないのは子供の肝を食らっているからだの、そういった噂は絶えることはなかった。
実際のところ彼女は人間―――元々彼女がそうであったものを食べることはないし、彼女を恐れない子供達と遊ぶことは大の楽しみだった。だが、それをただ言っても信じられないであろうことは、彼女自身にもわかっていた。
それ故に、娘は住み着いた村々を数年単位で捨て歩いていた。そんな当ても無い旅路の途中、行き着いたのがこの村だった。
村は、娘が長い年月でこれまで見てきたものの中でも最も窮状に喘いでいた。だが南方の人間の気質がそう感じさせるのか、娘がこれまで渡ってきた北の大地に比べて村には活気があった。
旅人をもてなすのは歴史的な村の慣わしだと、娘には村長から一夜の宿と暖かい食事―――村長である彼自身でさえも滅多に食べられないであろう米が与えられた。
娘は、この村とともに生きることにした。
村人皆が出し合った幾ばくかの食料を手に山へ入る。狙うのは熊であったり、狐であったり、村の周辺を荒らす害獣だ。
返り血にまみれた姿で平然と片手に一匹ずつの熊を抱えて帰ってくる娘だったが、村の住民は誰一人避けることなく、笑顔で迎え入れた。
そんな村人達の笑顔に、娘は何かあれば自分を呼ぶようにと、小さな鈴を紐で結んだ輪を配った。通常は紐の内側に鈴をしまい、何かあった時腕を強く振れば輪から零れ出た鈴が鳴る。静かな村の環境もおかげもあって、人間とは比較にならないほどの聴力を持つ娘は十里のかなたから鈴の音を聞き分けることも可能だった。
そうして獣を狩り、木々を切り落とし、田畑を開墾し、娘にとって初めての安息がかれこれ三十年ほど。
年月が経てど姿かたちの変わらぬ娘に対し、村人達は感謝こそすれ忌避することなどまったくなかった。
やがて村人を襲う動物は周囲から消え、獣の肉や皮を生業として村の生活は多少なりとも潤った。娘の仕事はやがて今日のように村の周りを見回るだけ、といったことも多くなった。
自らを受け入れてくれた村に対して成すことのないそんな現状に、娘はもちろん満足はしていなかった。
「入りますよーっと」
娘は入り口から中へ声をかけると、返事も待たずに村長の家へと入ってゆく。
かたくなに身を固めることを拒んだ、介護してくれる子もいない寝たきりの村長は皺だらけの顔でにっこりと笑って応対した。
もはや色の識別すらもままならない彼の目。それが娘の両手に抱えられた鎧を映すなり、ゆっくりと閉じられた。
瞑ったままの瞳の代わりに、行くのかね、とその口が小さく動いた。
「うん、行ってくる」
娘が抱えているのは大きめの重鎧。歩兵の着る簡素な、そして体のラインの出やすい軽鎧ではなく、主に騎馬に乗る者がガッチリと身を守るために使う物。
娘はこれまで何度となく戦へ出ようと思ったことがあった。義勇兵として兵役に就いた者の村は、領主から一定の税が免じられる。今では仕事のあまり無い彼女にとってはそれが村のため自身に出来得る一番の仕事だった。
だが、義勇兵として志願する度に実感させられるのは自身の性のことだった。女性は戦いに出向くものではない、というこの国の風潮は南国のこの地にも浸透していた。
だからこそ娘はずっとこの機会を待っていた。
娘は村長から一枚の長い布を受け取る。生まれて三百年ほど、だんだんと女性らしさを主張し始めたその胸を押し潰すように強くその布を巻きつけると、娘は先程死体から剥ぎ取った鎧を身に纏った。
その途中、鎧の裏に刻まれたかつての持ち主の名に目を留める。
娘は己の自慢だった長い紅色の髪をバッサリと切り落とすと、その頭に小さな頭巾を被って目元を隠した。
そこにいるのは立派な鎧を着た、一人の精悍な若者だった。
「どう、この姿?」
村長がゆっくりと口を動かす。駄目だな、と小さく呟いた。
「……どうだい、この格好はよ」
村長は静かに頷いた。
娘は村長へこれまでの礼と、これからの村のことを頼むと、義勇兵の募集をしているという遠くの街へと向かった。
甘寧興覇、と言う名の青年がその地―――江夏の正規軍へ編入された、という噂が村長の耳に届いたのは翌週のことだった。
「と、冒頭はこんな感じですかね」
「…………」
「あれ?慧音さん?」
「……話を聞いて誰か当てるから名前は言うなと言ったのに」
……あ、そうだった。つい流れでそのまま言ってしまった。
ムスッ、とした顔で視線を合わせてくれない慧音さん。
顔を合わせようとする度にプイッ、とあらぬ方向を向いてしまう。
「慧音さん」
「……」
「慧音さん機嫌直してくださいよー」
「…………」
「け、慧音さーん……」
「………………プッ、クッフ、アハハハハハ!すまん、すまん美鈴!いやほんとすまん!」
堪えきれなくなったように笑いだす慧音さん。
くそう、なんてこった演技だったのか。
「いや、オロオロする美鈴の顔があんまり可愛かったものだからな」
「ホントに機嫌損ねちゃったかと思ったんですよ」
「いや、実は村人に鈴を配った、ってとこでピンと来てな。当時の名前に鈴が入ってるわけではなく、当時の異名が鈴だったんだな」
当時の私が使った、あの鎧の持ち主の名。甘寧興覇、後の通称は鈴の甘寧。
日常、戦場を問わず常に鈴を身に付けていることから付いたその名は、鈴の鳴るところに鬼人あり、などと言われ恐れられた三国時代屈指の武将。
「と、するとだ。甘寧と言えば若い頃は乱暴者で、各地で狼藉を働いていたとされているが、そんな悪事を働いた後でお前さんがその名を乗っ取ったわけか」
「そういうことですね。とは言っても、その話は私が武将として有名になってから明らかになってきたもので、私の前の甘寧さんの名前はそんなに売れてたわけじゃないんですよね」
だから甘寧興覇、という若者の実際を知る者など特にはおらず、私の偽名を糾弾する者は誰一人いなかった。
後々になって、甘寧さんが乱暴を働いた地では、甘寧も武将になって大人しくなったもんだ、だなんて噂されていたらしいけれど。
「とにかくそうして私は江夏の正規軍に編入されました」
「正規軍なんだな。義勇兵でなく」
「入隊テストみたいなのがあったんですが、少し力を入れすぎてしまって」
「見事飛び級、と言うわけか。なるほどな」
「動物相手にしか力を振るったことがなかったから、人間相手のさじ加減がわからなかったんですよね」
おかげで大の大人三人ばかりを片手で吹き飛ばしてしまった。
それが評価されてしまったのが、私の失敗の始まりだったのだろう。評価されず義勇軍に入れていれば、あぁはならなかったかもしれない。今更言っても仕方のないことだが。
「まぁ、そんなこんなで入った軍でしたが……」
「三国志正史でも演義でも、数年で江夏の軍を抜けて敵である呉軍へと身を投じた……だったか。なんだ、もし差し支えなかったらその時のことも聞かせてもらっていいか?」
「ええ、大丈夫ですよ。当時は色々ありましたけど、もう千八百年も経ってますからね。こうして語るのも平気です」
「……そうか。では頼む」
「そうですね、それでは第二幕。軍へと編入された甘寧は、いかにしてその軍を裏切り、敵軍へと身を投じたのか、乞うご期待。かくして娘は……」
かくして娘はその並外れた力を評価され、正規軍に迎え入れられた。
正規軍での毎日は娘にとっては退屈なものだった。
ただ訓練だけが続く日々。かといって、規律を主とする軍の訓練を抜け出せるわけもない。村の免税も破談になることだろう。
娘は当初自分の村から義勇兵に志願した者達と会おうと思っていたが、正規軍に入ったことでそれすらもできなくなってしまっていた。
義勇軍と正規軍では陣構えの位置が離れている。正規軍は街の程近くに。義勇軍は前線近くの川沿いに。
娘は仕方なく訓練に精を出した。誰よりも強く矛を振るい、誰よりも遠くへ弓を射る新兵のことを女だと思うような者はいなかった。
そうして娘が日々を過ごすこと数ヶ月。江夏の陣に、敵軍が大きな動きを見せたという伝令が伝わった。
敵はこの江夏の属する荊州の東、楊州の孫権。かつてこの軍が射殺した孫家の先々代、孫堅の息子にして、江東の小覇王と呼ばれ長江以南を征するも病に倒れた先代、孫策の弟。
その力を持ってかの董卓をも震え上がらせた父や、項羽の再来と呼ばれた負け知らずの兄と戦い続けてきた江夏の長、黄祖にとっては取るに足らない相手だった。
数十隻の船が長江を渡ろうとしている、という情報を陣の各地に知らせ終わると、黄祖はもう一つの指令を持たせ、義勇軍の陣へと伝令を走らせた。義勇軍を川沿いから引き上げさせるために。
そして翌日早朝、戦いは始まった。
船上から矢を射掛けるとともに上陸を開始した軍は、空き陣となった目の前の義勇軍の陣を踏み越え、江夏本陣へと殺到した。
兵達の間を何千もの矢が飛び交い、赤に染まった死体が次々と地に伏してゆく。
粗末な盾を構えていた義勇兵の一人は、隣の者の盾を貫いた矢がその者の脳漿を飛び散らせたのを見てたまらず逃げ出した。
背中を向けたその体に瞬時に数本の矢が刺さった。そのうちの一本が彼の首筋を突き、彼はもんどりうって倒れた。
瞬く間に屍が辺りを埋めた。降り注ぐ矢の雨の中、娘は義勇兵と新兵のみで構成された本陣と言う名の肉の壁の一人として、盾を構えて動けずにいた。
初めての人間同士の戦い。目の前で倒れてゆく仲間達。血で染まってゆく大地。そして、戦場のどこかで鳴っては消える、あの鈴の音。
娘は、盾の下で声も殺さず泣いた。
義勇兵に支給されたものよりはまだマシなその盾に、何十本目かの矢が刺さった時、ふいにその圧力が止まった。
娘はそっとその顔を盾の脇から出し、周囲を見渡した。
そこにあるのは、地を埋め尽くす無数の死体と、それを乗り越えて迫る敵兵。
娘は動いた。目の前の敵兵から逃げるためでなく、今まさに迫らんとしている味方からの矢から逃れるために。
矢を撃ちつくした敵兵が屍の群れの中心、江夏の本陣中央を制圧したその瞬間、左右の丘に隠れていた江夏正規軍がありったけの矢を撃ち込んだ。
死体が一瞬のうちにその数を増やし、江夏軍の死者の倍ほどになった頃、船上に残った敵兵が丘陵の背後を突いた。
伏兵の片翼が崩れ、薄くなった矢雨の中を中央の敵軍はもう片翼に向かって走る。
本陣の脇でへたりこんだ娘にも迫り来る敵兵。しかし村人を守るための戦いしか知らない娘に、敵兵との殺し合いなどできようはずがなかった。
そんな娘が手にしたのは敵兵の死体の傍らに落ちていた弓と、その死体に刺さった何本もの矢だった。
娘は撃ち続けた。狙いなどつけられるわけもなく、敵兵のいるであろう方向に無我夢中で撃ち続けた。顔は涙に濡れ、口は声にもならない声を上げ続けて。
娘はただ生きたかった。生きて村へ帰りたかった。
そうして周囲の矢を全て撃ち尽くした時、娘はようやく気付いた。敵兵が一向に進んでこないことを、そして騒然として盾の下で固まる敵兵のことを。
娘のでたらめな矢は、幸運にも敵将の喉笛を突き破っていた。
敵兵の様子を機と見た黄祖は兵を伴って丘を駆け降りた。烏合の衆と化した敵軍を蹴散らし、矢も刺さったままの敵将の首を携えて壊滅した本陣へ戻る。
「貴様の手柄だ」
黄祖は娘に声をかけるなり、すぐさま敵に突かれた右翼の伏兵の下へと走った。
残された兵達からは娘を称える声が響いた。しかし娘は首を受け取ったまま、ピクリとも動けなかった。
娘は近くの兵に首を預け、村人達の死体を捜した。見つかったのは十人中六人。残りは顔も判別できない死体の中に埋もれてしまっていた。
村人達の手首にはめられた小さな鈴を娘は集め、その全てを束ねると自分の手首に通した。
チリン、という音がとても遠いところで鳴った気がして、娘はもう一度泣いた。
「陣へ戻ると、私は歓声を伴って出迎えられました。よくやった、でかした、そんな声があちこちから聞こえてきました」
「そうして、お前は軍を離れたのか」
「……仲間達を犠牲にしてのうのうと喜ぶ彼等が許せず、私は敵軍の元へと身を投じました。私は敵軍においても歓迎的に迎えられました。敵の陣容を知る者であり、かつ武勇に優れている者、そして復讐心に燃える者。……もちろん、私を歓迎したのは唯一人を除いてですが」
「お前が殺した敵将……凌操の息子、凌統だな」
「はい。しかし私はそんなことを気にしてはいられませんでした。その時の私はただ敵を殺す、それだけしか頭にありませんでしたからね」
そうして次の戦い。私が身を投じた軍は、散々に敵を打ち破った。
陣を構えた位置も、伏兵を配置する時の癖も、大将の身なりや格好も、補充をする前の今なら敵軍の義勇兵はいないことも、全てを知った軍は負けようがなかった。
「私は復讐を果たしました。けれども、もちろん私に達成感などあるわけもなく、ただあるのは空虚でした」
慧音さんは黙って聞いてくれている。
「そんな中で、私の耳に届いたのが関羽さんの話でした」
「赤壁では協力し合った仲間、その後はお前達呉軍の前に立ちふさがった強敵、それが関羽というわけだ」
「そうですね。あとは第三幕にして最終幕、娘こと甘寧興覇は何を思ってその名を捨てたのか、です」
宿願としていた江夏を手に入れたとはいえ、それは荊州のほんの一部。戦いはひたすらに続いた。
終わることのない戦いの中で、娘が気にしていたのはかつての村のことだった。
戦に負けたことで荊州太守がさらなる重税をかけたりはしていないか。またしても貧困に喘いではいないか。働き手を何人も失ってやっていけているのか。
けれども、直接その様子を見に行くことはできなかった。村人達を守れなかった自分だけがのうのうと村に戻ることなど、娘にはできなかった。
代わりに娘は孫権にとある進言をした。荊州全域を奪い取り、そのまま長江を遡って西の益州を制する。そしてそれら広大な長江流域をもって北の大地に覇を唱える曹操に対峙する。
後の世で周喩が唱えたと言われる天下二分の計である。
とはいえもちろんこれは建前であり、本音は娘のみが知っている。
江夏を取ったとはいえなお勢力外である村を少しでも安心できる環境に置いておきたい、という思いが娘にその進言をもたらした。
しかし、その計は結局果たされることなく終わる。
建安十二年、皇帝を奉戴した曹操率いる軍が荊州を飲み込んだ。
小さな村の行く末は河向こうの娘の元に伝わることもなく、娘は悶々とした日々を送り続けた。
曹操軍はそのままの勢いで娘のいる揚州へ迫らんとしている。
娘が初陣で知った人間の戦。それは一騎当千の武を誇る者がいくらいようと、結局は多勢に押し潰されるだけ、というもの。
戦争は数であり、そして曹操軍の数に対してこちらは数分の一ほど。負けだ、と娘は思った。
そんな中で、一つの報せが娘の元に届いた。
曹操に荊州から追われた劉備の軍の、その顛末。
劉備軍の諸葛亮なる新参が孫権軍諸侯に語ったそれは、娘にとって簡単には信じられないものだった。
曰く、曹操軍から逃げた劉備の元に、何万もの民衆が付き従った、と。
曰く、圧倒的な勢いで迫る曹操軍からの逃避行の中、幾多もの武将達が民衆を守り、ひたすらに行軍を続けた、と。
曰く、船団を引き連れ先回りした武将、関羽がそれら民衆を乗せ、犠牲は出したものの大多数は無事に逃げ切った、と。
足手まといでしかない幾万もの群集を率いて、それを守りながら強大な曹操軍から逃げ切った、そいうその事実に娘は興味を抱いた。
その中でも武神と謳われる男、関羽。それは妖怪である自分が守りきれなかったものを守り通した劉備軍の中でも、人の身にあって神と呼ばれる男。
娘は自分もそんな風になりたいと思った。守りたいものを守り通せる者になりたいと願った。
そして娘はいつか必ず村をこの手に取り戻すことを誓って、己を磨く日々を続けた。
大軍勢を率いてきた曹操軍の船を焼き払い、数百の手勢で突撃してきたかつてない強敵の手から主君を守り通し、お返しとばかりに百騎の部下で敵襲を敢行し、ひたすらに戦う日々が続いた。
いつしか娘は何千もの部下を率いる、江南でも五指に入るほどの将となっていた。
しかし娘の努力の甲斐なく、戦乱に乱れる世の中で村は荊州南部・益州を取って国を打ち立てた劉備の領土となっていた。
その荊州を守るは関羽。今は呉と蜀は同盟を結んでいるが、どちらも天下を目指す以上はいつしか破棄してぶつかり合うのは必然。
娘は自らが目標とした相手とぶつかりあえること、そしてその結果次第で三国の間に揺れた村の行く末が変わることを思い、さらに己を高めることに専念していた。
そんなある日のことだった。瞑想中の娘の部屋に飛び込んできたのは、つい先程届いた伝令の内容を抱えた部下だった。
早口にまくし立てた部下に、娘は叫んだ。
「もう一度言え!」
「呂蒙将軍が関羽を討った、とのことです!」
娘は我が耳を疑った。もしそれが本当であるならば、呉はいまだ同盟国である蜀に攻め入ったということになる。しかも討ち取ったのは国を思い、民衆を守り戦い抜いてきた侠者、関羽。
信じたくない、という気持ちに染まった中で娘はその詳細を確認するよう手勢を放った。
あの関羽が討ち取られるはずがない、そんな娘の思いも空しく、手勢が持ち帰った情報はその全てを肯定するものだった。
蜀が魏との戦闘にかかりきりな中、背後を襲って関羽の首級を挙げた、というその報せは、娘にかつてない衝撃を与えた。
その時娘が思い出したのは、十数年前のことだった。仲間だ、と言っておいて背後を襲う自国のやり口は、かつて仲間だと思っていた江夏正規兵に使い捨てにされたあの義勇兵達のことを思い起こさせた。
娘は右腕に巻いた鈴を静かに見やった。
そうして娘は国を出た。長年使ってきたヒビ割れた鎧と、手首に通した鈴だけを持って。
娘は再び行く当てのない旅に出た。村に戻ることもできず、国に戻ることもできず。
長い戦に疲弊した国々において、流れ者の娘はどこへ行っても疎んじられた。
かくして周辺の州を見て回ること三年。辿り着いた益州、蜀の首都成都で娘は大軍団の旅立ちを目の当たりにした。
軍の目指す地は荊州。目的は仇討ち。
三年の雌伏を経て軍を立て直した蜀軍は、皇帝劉備自らに率いられて進軍を開始した。大船団が長江を下り、騎馬の一群が地を疾走する。
大国である魏を前にして争おうという二国。この戦いに負けた方は凋落の一途を辿るのは間違いない。娘はその行く末を見に行くことにした。
進軍すること七日、辿り着いた荊州の真っ只中で両陸軍は激突した。
戦いは苛烈を極めた。
己の義弟を失った劉備の怒りが乗り移ったかのように、蜀軍は幾多の犠牲を出しつつもただひたすらに突き進んだ。
その勢いに押されたか、呉軍は数度のぶつかり合いの後に転進した。蜀軍は逃げる呉軍を追って追走する。
後に残された戦場を娘は歩く。死屍累々と評するほか無いそこに漂うのは腐臭と死臭。
見捨てられた屍は埋められることもなく、ただそこに倒れ続ける。不憫に思った娘は墓を掘った。いくつもの、いくつもの墓を。
その墓が三百を越えた頃だったろうか。娘が抱え上げたボロボロの鎧を着た死体―――義勇兵なのか、粗末な格好をした蜀軍兵士の右手から、小さな何かが滑り落ちた。
血に濡れたそれは地面へ当たると、カチン、という鈍い音を立てた。
兵士とともに埋めてやろうと、娘はそれを拾おうと膝を曲げて屈みこんだ。
そこに落ちていたのは、血塗れた小さな鈴だった。
娘は震える左腕に抱えた兵士の顔を見た。
何本もの矢に貫かれた穴だらけの横顔には、二十年以上も前に鈴を手渡した子供の面影が確かに残っていた。
娘は数年ぶりに泣いた。物言わぬ屍をかき抱いて、静まり返った死体の丘で。
どれほどそうしていただろうか。辺りが夕闇に染まり、東の空に新円を描いた月が昇り始めた頃だった。
「一体いつまでそうしているつもりだ?」
唐突に背後に湧き上がった尋常ならざる気配に、娘は瞬間的に振り返った。
「あなた、は……?」
月明かりが照らすこの闇よりもなお暗き、漆黒の鎧を着たその男は娘も良く知る孫呉の将だった。
かつて娘が甘寧興覇だった頃ともに戦ったこともある、先代より二代に渡って呉軍を支えた参謀にして名将。
だがそこにいたのは、娘が知る好々爺然とした齢六十を越える老将ではなかった。
鎧から伸びる手足は力に満ち溢れ、重装備を物ともしないその体格は精悍に引き締まっている。
そして何より兜を外して露わになったその顔は、娘が二十年近くも前に赤壁で見かけたものと寸分変わっていなかった。
「一体いつまでそうしているつもりだ?」
いぶかしむ娘に対し男は繰り返す。娘は死体を抱えたまま、もはや声を偽ることもなく叫んだ。
「そんなの……そんなの、わかりません!」
鈴を持った死体の、その暗く濁った目が己を非難しているかのように思えて、娘は下を向いた。
一度ならず二度までも守れなかった自分などこのまま朽ち果ててしまえばいい。そんな気持ちが娘の中でとぐろを巻いてゆく。
「……見込み違いだったか」
男は一切の興味を失ったかのように娘に背を向け、両軍が向かった先へと歩き出す。
その途中、ピタリ、とその動きが止まった。
「まもなく東の空が紅に染まる。……聞き逃すことの無いようにするんだな」
男は再び歩き出し、やがてその気配は溶け入るように消えた。
娘は呆けたように男が消えて行った方向を見つめて、考えていた。
聞き逃す?何を?―――そんなものは決まっている。
娘は動き出した。抱えていた若者の死体を穴へと移し、その鈴を首元へ。残りの死体を埋葬している暇は無かった。
娘は走った。
ここは江夏ではない。村人達を捨て駒として、餌として差し出したあの地獄ではない。追撃に向かった軍の中にもまだ村人達は残っているだろう、と。
降り注ぐ矢雨の前に、助けられなかったあの日。
一人で絶望して、助けを呼ぶ音すら聞こえなかった今日。
もう繰り返したくは無かった。
娘は走った。
何人もの村人を死なせ、敵軍に身を投じ、村を忘れたかのように二十年も顔も出さなかった娘。
しかしそれでも若者は鈴を手放さなかった。今わの際にも、娘を信じてそれを握り締めていた。
娘は、もう誰一人死なせるつもりは無かった。
娘は全速を持って駆け、半刻ほどを経て蜀軍の最後尾に到達するとその速度を落とした。
輜重隊―――補給物資を運ぶその群れは本隊からは相当離れた距離にいるのか、長く連なった列は林の中をどこまでも続いている。
隊列が長すぎる、と娘は小さな舌打ちをした。小さな林道にあって、蜀軍の隊列は密度を失っている。かつての勇将甘寧ならば、これを機と見て反撃していただろう。
だがどこを攻めるか。娘はそれを思い、この先の地形を思い起こした。そしてその刹那、再び爆発的な勢いを持って走る。見慣れぬ者を押し留めようとした部隊長は一瞬で小さくなった。
娘の記憶ではこの鬱蒼とした林を抜けた先には、少しばかり開けた小さな平野と、それに沿うように長江の支流が流れている。
薪と水、それが揃う場所は夜を徹するのに格好の場所だ。娘もかつてその周辺で一軍とともに夜営したこともある。
だが今日だけは駄目だ。『東の空が紅に染まる』という先程の男の言葉を娘は思い出す。
その言葉が意味するものを娘が思い描いた時、隊列の前方から一際大きな悲鳴と、怒号が響き渡った。
大きな曲線を描いた林道を走り抜け、平野へとようやく辿りついた時。娘が見たものは夜を朱に染める火炎と、逃げ惑う兵の群れだった。
風上からは何百もの火矢が降り注ぎ、舞い上がった火の粉が煌々と虚空を照らす。
火達磨の兵士が簡素に構えられた陣内、燃え上がる幌の中から飛び出した。断末魔の叫びを上げて転がること数秒。兵はそれきり動かなくなった。
兵達は統率を失い、ある者はもと来た林へ逃げ、ある者は川へと走った。
逃げ惑う兵達の中、娘は静かに両耳の感覚を研ぎ澄ませた。しかしいくら妖怪の超感覚を持ってしても、大混乱の中で鈴の音は聞こえない。小さな鈴の音は、ただ目の前で泣き叫ぶ兵達の声にかき消されゆくばかりだった。
力が欲しい、娘はそう願った。自分の守りたいもの全てを守れる、そんな力が。
娘は小さく屈み大地に手を付けると、その精神を集中させてゆく。
小さく息を吸っては吐き、かつて自らを妖怪足らしめた龍脈―――大地の気を感じ取ろうと、娘は目を瞑った。
火矢の一本が娘の頬を撫で、地面へと突き刺さった。娘は微動だにせず、ただひたすらに聞き続けた。この大地を覆う龍脈が運ぶ音を。
必死に逃げる兵達の足音。それらを追って川上から船を漕ぐ音。後方へと先回りする騎馬の駆けゆく音。全てが混在したその中で、娘は聞いた。ちりん、と確かに鳴った鈴の音。
目を見開き、すっくと立ち上がった娘は目の前を走る兵達を見やる。そこにいたのは既に逃げる蜀軍でなく、追う呉軍だった。
何人かが立ち止まっては娘の方を指差し、何やら話している。数年前まで自分達を率いていた将、それも病死したと伝えられている勇将がここにいるとあって、周囲は騒然となった。
娘は踵を返し、林へと駆けた。
甘寧将軍だ、と背後で声が上がった。娘はそれを意に介することもなく、風と見紛う速度で走ってゆく。
弓を片手に走る歩兵達を追い抜き、やがて蜀軍を追いかける呉軍の先頭まで追いついた娘は、走りながらにもう一度気を読み取った。
大地を行き交う龍脈と同化し周辺の大地を探ってゆく。ちりんちりん、と先程よりも激しく鳴る鈴の音。場所は北西、林を抜けた先。
娘は湾曲する林道から外れ、木々の中を一直線に北西へと向かった。密集した木々の間をすり抜け、茂みを突き破って飛ぶ。
走り続ける中でもはや限界に達そうとしながらも、大地を駆ける両脚は龍脈の気を吸い上げて動き続ける。
そうして見えた森の出口。そのさらに先に見えるのは潰走する蜀軍、距離はほんの一里ほど。その距離まで来て、ようやく娘はその両耳でも鈴の音を聞くことができた。
間違いなく自分が配った鈴の音だと、娘は確信した。
逃げる蜀軍の中でも最後方を走る一団から聞こえる鈴の音は、一団の走るペースに合わせてちりん、ちりんと鳴り響く。
まだ襲われてはいない。娘がそう安堵した瞬間、その鈴のペースが一気に上がった。
娘は目を凝らして一団のさらに北、平原のかなたを見る。大きな土煙を立てながらに走るそれは騎馬の一軍。
蜀軍から一定の距離を置いて止まった彼等がゆっくりと弓を番えゆく姿が、娘の目に鮮明に映った。
ヒュンッ、と風を切る音とともに放たれた矢は放物線を描いて一団へと飛来する。
瞬時にその身に迫った脅威に対し、その一団の中、手首に鈴を巻いた男は強く目を瞑った。次に目を開く時は自分が極楽浄土にいることを願って。
だが男がどれだけその身を竦ませようと、矢は一向に男の骨肉を突き破ることは無かった。
恐る恐る目を開いた男が見た物は、自分の前に立ちふさがる、何十もの矢をその背に受けた血まみれの娘だった。
「あっちの森まで駆けて。行けるわね?」
幼い頃にはその姿に男も憧れた、そして今もわずかな望みを抱いて信じ続けた娘が目の前にいる。
その事実に驚きのあまり言葉の出ない口の代わりに、男は両眼を見開いて何度も頷いた。
「ほら動いて。その若さでばーさんとこ行く気?こっぴどく叱られるわよ」
娘が未だ腰を落としたままの男に手を差し出すと、男は慌てて自分の右手を伸ばした。
二人の右手の鈴がちりん、と鳴る音に娘は目を細めた。
「行きなさい。後のことは任せておけばいいわ」
娘は男に背を向け、先程の騎兵達に目を向ける。
確かに撃ち抜いたはずの標的が今も立っている姿をいぶかしんでいるのか、騎兵達は弓を撃った場所で止まったままだった。
「そら行け!」
その言葉に駆け出した男は、しかし一歩を踏み出した後にすぐさま立ち止まった。
男は探していた。娘に会ったら伝えようとずっと思っていた数々の言葉の中で、今一番伝えたい言葉を。
お元気でしたか。村はなんとかやっていけています。誰もあなたのことを悪く言ってなどいません。助けてくれてありがとう。村に戻ってきてください。ずっとあなたの背中を追ってきました。
男の中でいくつもの言葉が浮かんで消える。男は娘に背中を向けたまま、一言を搾り出した。
「……また、村で」
男は駆け出した。
「……うん、またね」
届くはずもない呟きを返し、娘は天を仰いだ。
村に戻ってもいいのだと、自分は赦されたのだと、娘はそっと目を閉じた。
今まで背負ってきた肩の荷が、全て下りたかのような気分に、静かに娘は息を吐く。
しかし数瞬の後、戦場の最中の娘を現実に引き戻したのは背中に刺さった矢傷の痛みだった。
いくら強靭な肉体を持つ妖怪と言えども、数十の矢に内臓器まで貫かれては生きていられない。
今も娘が立っていられるのは、つい先程娘が自身のものとした能力―――龍脈、すなわち気を操る能力のおかげだった。
大地に面した足から気を吸い上げ、自身の生命力へと加算する。娘はつい今しがた目覚めた己の能力を完璧に把握していた。
背中から刺さった矢を思い切り引っ張る。矢尻の返しが体内の内臓を引っ掻き回すが、娘はためらいもなく全ての矢を抜いた。
体内に残る異物さえなくなれば、娘はもはやいくらでも傷を治すことができた。即死するほどの衝撃を受ければ無理だが、人間の中にあってそれだけの威力を出せる者など三国の中でも数人しかいない。
いや、数人しかいなくなってしまった。
かつてこの中華の地には娘がいくら逆立ちしても倒せない、そんな武将が両手では数え切れないほど存在した。
神と評された関羽。その神自身に自分より強いと言わしめた弟、張飛。病に負けるまで一度たりとも膝を着く事のなかった孫策。人の中にあって最強と称えられた呂布。怪力無双、並ぶ者などないと言われた典韋。
皆死んでしまった。
娘は、この場の誰にも―――自分が守護する村人だけでなく、他の全ての人間達にも、もうこれ以上死んでほしくないと思った。
娘は再び戦場を見渡す。立ち止まっていた騎兵が今もなお動く標的を再び撃ち抜かんと矢を番える姿が目に入った。
高速度で飛来したはずの矢は、娘の柔肌に一つとして傷を付けることなく両の手で打ち落とされる。
娘はそのまま彼等に背を向けて、蜀軍が潰走することとなった東側の森でなく、村の男や蜀軍が逃げこんた南西の蜀側へと広がる森へと足を進めた。
降り掛かる矢の雨を全て両手で叩き落しながら娘は歩く。
強敵と見た娘をすり抜けて蜀軍本隊へと迫る騎馬達には、大地に殺気を流して馬の走りを止める。
そうして娘は、誰一人殺すことなく追う呉軍の足を止めて森へ入った。
小さな林道が通り、いくつもの分かれ道が行き交う森。その二股に分かれた最初の岐路で娘は立ち止まった。
人の行き交う道には気の流れができる。そういった場所はやがて人の集まる街になり、より大きな気の流れを生み出す。
逆に人の通らない場所には澱んだ気が溜まっていく。それは薄汚れた路地裏の片隅のように、ほの暗い廃墟の一角のように、近寄り辛い何かを人に感じさせる。
娘は分かれ道の片側、森を抜ける最短の道のその入り口の気を乱していく。どろりとしたヘドロ状の幕がそこにあるような、作り出した娘本人すらも敬遠するほどの空気がそこに溜まりゆく。
そうして娘はいくつもの分かれ道を潰して歩いた。なるべく大回りになるような、行き止まりへと行き着くような、元来た道へと帰り着くような道のみを通らせるようにして。
やがて娘は八つ目の分かれ道―――森の出口へと通じるそれを潰し終わると、そのまま森の外へと抜けていった。
広がる夜の平原のはるか遠くに、米粒大の人影が見える。蜀軍はどうにかその大部分が戦場から逃げおおせていた。
娘は大きく息を吐いて、地面へとその体を投げ出した。
心地よい眠気が一瞬で娘を襲う。娘はそれに逆らうことなく、身を任せることにした。
ぐっすりと眠りに付いた娘には、二十年ぶりの笑みが浮かんでいた。
そうしてその夜から七日ばかりが過ぎた。
呉軍は迷い迷った森の中で結局一夜を明かし、翌朝になんとか領内へ戻ったと娘は宿で伝え聞いた。蜀軍を追い切ることはできなかったものの、数に負ける軍で敵を追い返して領土を広げた以上は大勝利であったと言っていいだろう。
蜀軍は大打撃を受けつつも半数以上がどうにか生きて帰ることができていた。だが、それを束ねるはずの長、劉備の心に負った傷は治りそうにないようだった。
長らく共に生きてきた義兄弟を失い、その復讐に燃えた戦でまさかの大敗北を喫した劉備の心情は復讐に生きた娘にとってあまりにも想像に容易いものだった。
苦虫を噛み潰したような顔の娘の後ろでパタン、と音がして戸が閉まる。それを閉めた若者の右手には、小さな鈴が一つ。
「それじゃ行きましょうか」
「あー……うん……」
娘は煮え切らない返事を一つして歩き出す。
村で会おうと誓った二人だったが、娘が途中宿をとった小さな街でたまたま再会してしまい、二人は結局共に村まで歩くことにした。
しかし村が近づくにつれ、娘は言いようのない不安に襲われるのだった。
自分の右手の鈴がずっしりと重みを持ったかのように、歩みは小さくなり心は沈んでゆく。
若者はそんな娘を諭しながらも村へと突き進んでゆく。
その日止まった宿は村までの道のりにおいて最後の宿。そこからあと数刻も歩けば、そこは娘がかつてあれほど戻りたいと思った村だ。
だがその村のことを思うほど、娘の足取りは重くなっていくのだった。
ひたすらにゆっくりと歩き続けること半日、ようやく村の目の前に迫ったところで立ち止まった娘に、見るに見かねた若者は大きく口を開いた。
「あー、もういい加減にしてよ姉ちゃん!」
娘は目をキョトン、とさせてその動きを止めた。
若者の口から出たのは、かつて彼が幼い子供だった頃に娘を呼んだ呼び方、その口調。
二十年前に娘の周りを跳び回った小さな少年は、大きく成長したその姿で言う。
「そんなに戻りたくない?」
「え、いや、そういうわけじゃないけど……」
娘はしどろもどろになりながらも、目の前の若者に返す。
「村のみんなは誰一人姉ちゃんのことをうらんだりしてない、って言ってるじゃんか」
そうかもしれない。とも娘は思う。けれども娘はその右手の鈴が揺れる度に、かつて死なせてしまった彼等が、そして残された彼等の家族が自分をどう思っているか考えてしまうのだった。
そしてそれを考えれば考えるほど、娘の足はすくんでいく。
「うん……それはそうかもしれないんだけど、でも……」
「あーそう、姉ちゃんは俺たちのこと信じてないってわけだ。俺たちはずっと姉ちゃんのこと信じて待ってたってのにさ」
「え、それは違っ……」
「だってそういうことでしょ?姉ちゃんにとってはその鈴は重みなんじゃないか。俺たちにとっては姉ちゃんとの思い出が詰まってるのにさ」
「あ……」
男は娘に大きく手の平を広げて差し伸べる。
「ね、ほら行こう姉ちゃん」
差し伸べられた手に、娘は戸惑いながらも恐る恐る手を伸ばしていく。
男がその手を力強く掴むと、二人は歩き出した。
「だいたい姉ちゃんは気にしすぎなんだよ。姉ちゃんがいなかったらみんなもっと貧しい暮らしをしてるか、とっくに死んでるんだからさ」
「ぅ、うー……そうかもしれないけどさぁ」
いつのまにか自分の背丈よりも大きくなった若者を娘は見上げる。
幼い頃から唐竹を割ったような性格をしていた少年だったが、それは今も変わっていないようだった。
「んじゃ姉ちゃん、試してみようか。ちょっと立ち止まってみ?」
「え?……うん」
二人はもう目の前の丘を越えれば村が見えてくるところにいる。
若者は娘の手を離し、一人丘まで登ると一際大きな声で叫んだ。
「帰ってきたぞーーーーーーーーーーっ!」
娘がつい耳を塞いでしまうほどの音量で叫ばれたそれは、丘の反対側の山へとぶつかり山彦として戻ってきた。
その山彦が三度ほど響いた時、男は足元の村に向かって大きく右手を振った。ちりんちりん、と男の右手から鈴の音が鳴る。
山彦として返ってくるはずも無いその小さな鈴の音は、やがていくつもの小さな音の集合となって娘の耳へと到達した。
娘は丘を駆け上がる。目の前に広がるのは懐かしい村、そしてその前で手を振る、何人もの村人達。
村の皆から届くいくつもの鈴の鳴る音に、娘は駆け出した。
強く振り上げたその右腕の六つの鈴が合唱に加わった。
そうして娘の二十年の戦いは終わったのだった。
「めでたしめでたし、と」
「ちょっと待て」
「あれ、なんか変なところありましたっけ」
多少脚色してはあるものの、ほぼ実話だし間違いもないはずなんだけれど。
二千年経ってるとはいえ記憶違いなんてないはずだけどなぁ。
「いや、村に戻ってその後も幸せに暮らしました、ならわかるんだが、なんでまた村を離れて紅魔館に行ったんだ?」
「あ、そういうことですか。いや物語の都合上、ここで終わらせた方が気持ちいいエンディングかなーと思ったんですけどね」
実際にはその後も戦乱の世が続くわけで、あそこで円満解決、みんな幸せに暮らしました、だなんていうわけにはいかない。
呉蜀の緊張が高まっていく中で、その中間に位置した村はあまりにも危険だった。村人達は戦禍を逃れるため、それぞれ地方へと散っていった。
私は別れ際に右腕の六つの鈴をそれぞれの家族へと受け渡した。若者の言った通り、家族達は感謝こそすれ私を恨むようなことなどまったく無かった。
右手の鈴を手放した私は、村はずれの川沿いへ向かった。長らく友とした鎧を手にして。
小さな穴を掘ると、その中に鎧を埋めた。木で出来た墓標に甘寧興覇―――私のものではない、かつてここで死んでいた若者の名前を刻んで、私は村を後にした。
「村人達は一緒に暮らそう、とは言ってくれたんですけれどね」
「行かなかったのか?」
「だって私が知ってるのは二十年も前の子供達とその両親なんですよ?それが子供たちはいつの間にやら皆結婚して、親の方なんてもう死んじゃってるわけですよ」
「そして、その子供たちの子は美鈴を知らない世代なわけだ」
「ですねー。流石に夫、妻、子の幸せな家庭にお邪魔なんてできませんって」
私が助けた若者だけはなんとか私に来てもらおうと必死で縋り付いてきたが、流石に新婚家庭に乱入するわけにも行かない。
それにあの時の若者の妻―――立派に成長した、少年の幼馴染だった彼女の目といったらいやもうあれは怖かった。
顔は笑ってるのに目だけはシベリアンブリザードにも勝る氷結地獄なのだ。
結局二人は魏にいる叔母を頼ると言って村を出た。私の手元に一つだけの贈り物を残して。
「で、まぁやることないなー、と思ったところに来たのが……」
「戦場で出会った呉軍の将で、その男が紅魔館の先代当主だったというわけか」
「その通り。そうして娘は、新しい居場所を求めて男とともに旅立ったのでした。これでホントにめでたしめでたし、と」
散り散りになった村人達は、呉蜀が一気に疲弊したために多くの者が大国である魏へと向かった。
おかげで戦乱の影響も受けず、皆が皆大往生できたそうだ。後になってそれを聞いた時が、私にとってはこの物語のエンディングだった。
エンディングを迎えてどうなったか?それはもちろん決まっている。新しい物語が始まるのだ。それが先代と、奥様と、そして二人のお嬢様―――レミリア様とフラン様との出会いと冒険だったのだ。
「しかし、前回ラーメン屋で聞いた話と結構印象が違うな」
「そりゃまぁ、みんなご飯食べてるラーメン屋さんで内臓に刺さった矢がどうのこうのとか、死体が山を作ってどうこうだとか言えませんからね」
それもそうだな、と慧音さんは大きく笑った。
ラーメン屋でこんな話をしたら店は開店休業状態になってしまうだろう。もっとも店はこの間閉店してしまったのだが。残念なことだ。
「あ、そういえば先代当主は西洋妖怪だろう?中国へ来ていたのか?」
「もちろん西洋出身ですよ。訳あって東へ来てみたら、何やら三つ巴で面白そうなことしてたから参加した、だとか言ってました」
先代がシルクロードを一人歩いて辿りついた東の果て。その更に東の国に先代と同じ道を通って私達はやってきたわけで、中々に面白い話だ。
幻想郷へ引越しの際のレミリア様は歩き通しで色々と駄々をこねていたが、私にしてみればとても感慨深いものだった。
「一体何でまた先代は大陸の端まで?」
「奥様が―――あぁ、当時はまだ結婚はしていなかったので婚約者だったんですが、今のレミリア様と同じ能力を持っていたんですよね」
「『運命を操る程度の能力』、か。あの能力は親譲りと言うわけだ」
「奥様は漠然と、『東の方になんかよさげな従者候補が現れる』と感じ取ったそうで、先代に日傘と干し肉を与えて東に向かわせたそうです」
そうして長らく旅すること数十年、そこそこ見どころのあった私を見かけて拾って帰った、と。
先代に拾われてからもう千八百年も経っているというのに、その日々はまるで昨日のことのように思い出せる。
きっとそれは人生の密度の問題なのだろう。あの村で生活するまでの私はただただ無為に生きていただけで、過ぎて行くだけの年月は記憶にも残らなかった。
それに対してそれ以降の日々は喜びと悲しみと驚きとの連続で、今も私の記憶に残る大切な思い出となっている。
村で暮らして、先代に仕えて、レミリア様達が生まれて、紅魔館が代替わりして、幻想郷に来て、こうして過去を分かち合えるだけの友を得て。
そしてこれからも私―――紅美鈴の歴史は積み重なっていく。
「それじゃまぁ、次は私の話でも聞いてもらおうかな」
「えぇもちろん、是非ともお願いしますよ。でもその前に」
「あぁその前に」
乾杯、と二人でかち合わせた右腕。
その右腕にたった一つ残った小さな鈴がちりんと鳴いて、私は目を細めて笑った。
二人の夜はまだまだ続いていく。今日も明日も、これからも。
読みやすくていいです
いや、スカーレット家の先代=朱治だろ
見ようによってはかなりのトンデモ話なのにぐいぐい引き込まれる。
話として、普通に面白かったです。
こんな美鈴の過去話もいいですよね。優しい美鈴が大好きです。
……しかしお嬢様。美鈴、長い付き合いなのに給料が―― いやきっと長い付き合いだから遠慮がないだけですようん!
めーりんとけーねが仲良しなこのシリーズ、二人で学校教諭という設定も大好きですょ。