Coolier - 新生・東方創想話

椰子の実

2024/09/30 17:44:02
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名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
ふるさとの岸をはなれて なれはそも波にいく月


 賽の河原に椰子の実が漂着した。
 幻想郷には海がない。三途の川は淡水なのにそこには何食わぬ顔で海水魚が泳いでいることがある、というのが数少ない海要素である。これとて魚しかいなくその上下が欠けた歪んだ生態系だから海や海辺の植物の知名度は極端に低い。現世には外の世界にパイプがあったり外の世界から来たりした人妖が何人かいるから、現世においては彼女らの解説でこれは椰子であるという語彙が広まった。しかし賽の河原の水子達は誰も椰子を知らなかった。
 椰子は芽吹き、成長をはじめた。賽の河原は決して温暖な気候ではないが、それでも椰子は枯れることなく伸びた。水子達は椰子が自分達の身長の二倍を超えるとそれを「キ」と読んだ。四倍を超える頃には「ノッポノキ」と呼ぶようになった。大雑把極まる呼び方だったが、賽の河原には他に木がないので単純ながら正確で特定性の高い呼称だった。
 椰子は伸びて、実をつけ、それからまた芽が出てと増えていったが、しばらくの間、賽の河原の水子の生活に椰子が及ぼした影響といえば、それこそ「キ」「ノッポノキ」という二つの語彙が水子達の辞書に追加されたくらいだった。
 傍から見たら、椰子の実が石積みの材料となって作品に組み込まれるようになったことも変化かもしれない。しかし、丸くて硬くて河原に落ちているのだから水子にとってそれは石だった。椰子の実が、それが有機体の植物であることにより生じているあらゆる利点を無視されて単に石として、それも球に近すぎて積みにくい石として少し疎まれるものとして扱われていたというのはむしろ水子達の保守性の表れと言えた。
 変化があったのはある水子が割れた椰子の実に出会ってからだった。
 どうして実が割れたのか理由は判然としない。硬い石敷きの地面に落とされていてはそのうち割れる実が出てくるのが自然とも言えるし、その水子が癇癪を起こして実を石に叩きつけるかその逆かをしたからかもしれない。子供というのは意味もなく癇癪を起こすものだ。
 ともあれ実は割れて中から液体がこぼれてきた。その水子が中身を口につけたことは想像に難くないだろう。子供というのは何でも口に入れたがるものなのだ。
 椰子の実の水はほのかに甘かった。仮に現世に持っていったとしてもっと甘いものがいくらでもあると見向きもされないであろう程度の薄味な甘みだったが、甘味はおろかそもそも食べ物すらない賽の河原では歓迎された。水子に食欲というものはないはずだが、それにも関わらず甘さと喉の潤いが何かしらの快楽を与えていた。
 水子の娯楽に椰子の実の水を飲むことが追加された。ただ、硬い殻を割るか割れるのを待つかしないといけないというのは面倒なことであり、娯楽の質は石積みに比べて一段階劣ると言わざるをえなかった。それに全水子が娯楽を欲していたわけではなく、救済されるために楽しみを捨ててただひたすらに石を積むというストイックな水子もそれなりにいた。賽の河原の椰子は決して数は多くなかったが、水子の椰子の実需要もそこまで肥大化しなかったので実は時折思い出されたときに食べられるだけで健全に消費されていった。


***


 賽の河原で起こったことは「椰子の実がどこかから流れ着いた」だが、そこに住む水子達の認識は厳密にはこうではなかった。水子達にとっては「ある日から木の実があり、キがあり、ノッポノキがあった」という出来事だった。
 つまり、水子にとっては賽の河原が世界の全てで、世界の外側で起きていることや賽の河原世界と外側世界との関係などということには全くもって関心が向かないのである。水子にとって宇宙の中心とは石積みの塔で、宇宙の果ては三途の川の流れだった。水子にとって数少ない外の世界への関心は自分達の親に関するものだが、これは普通の人にとっての神への想いに近い。つまり外側世界が存在するという認識が倫理規範を規定しはするが、逆に自分達が何かすることで外側の世界を何かしら変えることができるとは思っていないし、世界の外側で今何が起きているかを想像することすらよくないこと、あるいは無駄なことと考えている。神が昨日の夕食に何を食べたのかと想像する信者は普通はいない。
 だからそれが椰子の実というあからさまな異物だったとしても、それがどこから来たかということに思いを馳せる水子はいなかった。それは水子以外の、賽の河原を通りがかったもっと年上の役割である。
 賽の河原で霊が一人目を覚ました。やや老いた男の霊だった。彼はどうして自分がこんなところにいるのかということが分からなかった。記憶喪失というわけではなく目を覚ます前の記憶もちゃんとあるのだが、それと椰子の木が生えた石だらけの河原にいるという事実が噛み合わなかった。山を登っていたはずだったのだが。
 男は冒険家だった。冒険家だから世界を人並み以上には見てきており、ここが椰子の木が自生するにはあまりにも異常な環境であるということは理解していた。また椰子の木は均等に川辺に並べられているという感じではなくコロニーを形成するように生えていたから人工的な植樹ではないことも予想された。こう思う根拠はもう一個あって、この地には行政というものが存在しないようだったということだ。あえて差別的な言い方をすれば未開であると一目見て分かった。ただ、子供、それも生気を感じない子供しかいない子供しかいないのが奇妙だった。この社会には捨て子の風習があって捨て場所がここなのだろうか?
 男は冒険家だった。冒険家だから関心はまだ見ぬ世界にあった。つまりこの場合河原の子供世界と椰子の木の出自についての二つだが、男が関心を向けたのは後者だった。前者について、正直男にとって居心地が悪かったというのもある。構成者が望み望まれてここにいる子供ではないというのは新参者の彼にも雰囲気から感じ取れることではあったが、望まれない子供の集合体にも社会があり、その社会の中で老いた男は余所者扱いだった。
 椰子の木の元に関心を向けて、やるべきことは川を渡る船の調達だ。男は冒険家だった。賽の河原の子供にとっては遊び道具か儀式道具の河原の石も、石の代用品でたまに飲み物を出すだけの椰子の木も、男にとっては重要な道具だった。
 男は石を石で打ち付けた。賽の河原の石は黒曜石のような石器用に最適化された石というわけではなかったが、不格好な石斧の頭を作れる程度の石はあった。水子が何人か見物に来た。癇癪を起こして石を叩きつける水子はこれまでにもいたが、目的をもって意図的に石を打つ者は水子社会では前代未聞だった。
 男は石斧の頭で一本目の椰子の木を折った。低く細い木を狙ったとはいえ、柄のない石斧で倒すには結構な時間を要した。これにも水子の見物人がついた。ノッポノキとは木偶の坊の意でもあった。何かになるわけでもないものを倒すのにそこまでの労力をかけるのは石を叩くこと以上に奇妙なことに思えた。無論、水子のこのような感想には水子特有の「倒す」という行為への嫌悪感もあった。
 男は一本目の椰子の木から木材を取って、それを椰子の葉から作った繊維で石の頭と繋げて柄のある石斧を作った。完全体の石斧で男は更に数本椰子の木を折った。てこの原理とは偉大なもので、二本目以降の数本を折るのにかかった時間が最初に一本を折るのにかかった時間とほぼ同じ時間くらいだった。まだ見物の水子はいた。やはり倒すという行為への嫌悪感はなくもなかったが、よくよく考えれば倒されているのは自分達の作品ではなく単にノッポノキだし、そうでなくても金棒っぽい武器っぽいものをもった大人に立ち向かおうというほど水子は勇敢ではなかった。
 男は得た木材と葉を使って筏を一艘作った。決して大きくはないが、川で使うのに大きすぎるのも考えものだろう。ここまでの肉体労働に比してあまり腹が減っていないという事実に男は違和感を覚えつつも、食料兼飲料として椰子の実を数個積んだ。余った椰子の実はここの子にと見せびらかすように積んでみたが、これまでの見物に比べて関心をひけているようには見えなかった。ふうむと思案して、何個か石で穴を開けて渡すと受け取ってくれた。結局全部その場で開封して配ってしまったが、子供たちは折角の甘味なのにあまりありがたがっている様子はなかった。結局自分は異邦人かと男は少し悲しい気持ちになり、ただ一言「さよなら」とだけ告げて水子の王国を離れていった。


***


 男は椰子の木のオールを漕いで自分と椰子の実を乗せた椰子の木の筏を下流へと進めていった。
 最初の椰子の実がどこからか流れ着いたものなら、その「どこから」は川の流れを逆に辿っていった方が可能性は高いのかもしれない。しかし、おそらくは温帯、下手すれば亜寒帯気候に位置するあの河原のさらに上流側に椰子の木が自生するイメージを男は抱くことができなかった。だからあの河原は河口近くで、何かの拍子に海からの揺り戻しがあってそのときに椰子の実が運ばれてきたのだという仮説を立てた。
 仮説が間違っていたとして、川なら出口があって海に出ることができる。そうすれば、少なくともあの河原から離れることができる。
 男は河原が見えるくらいには岸近くに位置取りをして下っていたが、河原にはまだ子供がいた。男にはそれがたいそう気まずかった。別離の言葉を告げて船に乗ったのにいつまでたっても別れられないというのもあるし、そうでなくても男はこの子供の王国に一切の居心地の良さを感じていなかった。
 男はうんざりして河原に背を向けて筏の上に寝転んだ。幸い川は凪いでいたし、突然川底が浅くなるとか岩が飛び出てくるとかいう気配もなさそうで、つまりは多少進行方向に注意を向けるのをサボっても沈没はしなさそうだったのだ。
 男は微睡んだ。流石に不用心とも思ったが、仮に筏が海に出たとしたら筏の上で寝るというのはどうせせねばならぬことだ。まだ穏やかな川で寝ておいた方が安全でもある。このくらいに危険なことなら人生の中で何度もしてきた。
 微睡みから覚めても相変わらず川は霞がかった曇りで太陽が見えない。このせいで時間の経過が分からないが、浅くとも寝たという感覚はあるのだからそれなりに時間は経ったものと予想した。しかし潮の香り一つしてこない。起点は河口近くと思っていたがそうではなかったらしい。まあ少なくとも「捨て子の地域」は抜けただろうと思い岸の方を見ると、相変わらず生気のない子供がいて、石積みの儀式だか遊びだかに興じている。男はがっかりした。
 落胆はしたが、男は自分の居場所がないこの子供世界に憎さ余って少しの興味を抱き始めていた。少なくとも男の価値観において子を捨てるというのは一般的なことではない。無論彼とて冒険家だから途上国のスラムは幾度となく見たことはあるが、この子らは日本語を話している。日本でここまで捨て子の風習が広範に残っていたとは新発見だ。この領域はどこまで広がっているのか。
 そう、日本語を話している。自然なことと受け止めていたが、普通に考えて外国にいたはずなのにそこで会った現地人集団が日本語というのは道理が通らない。「熱帯にいたはずが河原にいた」という状況の不連続さも含め何か奇妙なことが起きている。
 現象に対する妥当な説を考えながら下っていると、前方に椰子の群生地が見えた。まだ川なので旅の終わりにはならないだろうが、椰子の実の出自の方で重要な情報にはなるだろう。男は岸に筏を寄せた。
 割れた椰子の実の殻が転がっているのを見た。実は食用になっているらしい。
 接岸するために速度を落としていると、折れた椰子の幹を見つけた。椰子の木向けの土壌ではないだろうからそういう木も出てきてしまうのだろうと思ったが、より近くから観察すると人為的に折られていると分かる。
 男は接岸した。この折れた幹、ただ折れただけではなく加工がされている。折った幹から木材が剥ぎ取られ……。
 男は気が付いた。見覚えがある。この木は、自分が石斧の柄を得るために切った木ではないか。
 つまり元に戻ってきた。川を下流に進んだら、元の場所に「上流から」侵入した。
 男は混乱した。


***


 上陸した男を水子達は観察していた。賽の河原の外側に出ない、出ようともしない水子にとっても「川の下流へと離れて上流から戻って来る」という現象は奇妙で興味をひいたということだったのだが、男には「別れたと思ったのにまた戻ってきたんだ」と言われている気がしてならなかった。
 それと、男が川を下っている間に多少人の入れ替わりがあったらしかった。特に目立っていたのが赤いクラゲの足のような装飾を服の袖や腰につけた子だった。他の子は白装束なのに彼女だけ服に装飾をつけていて別身分、このこども王国の女王なのではないかと男は予想した。
 他の子と違い、女王は男に積極的に話しかけてきて少しだけながら水含めた物資も融通してくれた。しかし文三つにつき一度は「石積みは崩さないでよ」と釘を刺してきて、釘を刺されすぎてハリネズミになった男にとっては会話はできるが微妙に話は通じない奴という印象が拭えなかった。無論彼女やここの子供達に非があるわけではなく、ひとえに大人への不信感が性格に繋がっているのであり、彼の前の大人がいかにバイオレンスをしてきたかというのは理解と同情ができるものではあった。が、それでもなお男はあくまで大人であり、ここでは歓迎されない存在なのだ。
 男は筏に乗り(荷について女王が何か思うことがあったのか彼女の手により積み直され、それが男が感嘆するほど上手く荷が多少増えたのにむしろ使える空間は広がっていた)、離岸した。彼は一言別れの言葉を告げようかとも思ったが、また元の場所に戻ってきてしまうのではないかという嫌な予感が拭えず、今度は無言で椰子と子供の国を去った。


***


 男は今度は上流に進んだ。漕ぎ続けないといけず、その間は寝ることどころか横になって休憩することすらできないが、流れに沿って下った結果が余りにも残念極まるものだったのでやむを得ない。それにこの場合、寝ることができないというのはむしろ好都合である。男は前の冒険では途中微睡んだときに流れが変わって出発地点より上流に流されたのではないかと疑っていた。だいぶ苦しい考えだが、常識の範疇で現象に説明をつけるならこれしかない。起きて行程を観察し続けていれば、椰子の実の出自という本来の目的に繋がるかどうかはともかくとして、なんらかの進展は得られるのではないか。
 しかし、男の勤勉を嘲笑うかのように、出発地点の椰子の木がまた前方に、つまり今度は男から見て上流に現れた。
 男は気力を失って梶を止めて流されるがまま、また下流に下った。しばらく呆然としていると、上流から下流に進行する方向で筏が出発地点に侵入したことは言うまでもない。
 ドーナツ状に川がループしている。曲がりが緩やかなので回っていることは気が付かない。男はそう考えることにした。いわゆるペンローズの階段と同じで三次元上ではあり得ないのだが、男は知らなかった。知るか気が付くかしたとしてもむしろ理性が物理的にあり得ないことが起きているという狂気じみた現実を拒否しただろうが。
 少なくとも流れとしては閉じているという仮定に従うなら突破口は流れに向かって垂直に動くことだと、彼は沖へと向きを変えた。ドーナツ構造と仮定しているのだから本来は外側、つまり上陸して陸路で内陸に進むべきなのだがこれも男は気が付こうとしない。河原のネバーランドからは一刻も早く離れたかったのである。
 霧がかかっていたのもあり、元いた岸は比較的すぐに見えなくなった。しばらくはその事実に気を良くして前進していたのだが、誤算に気が付くのもまた早かった。対岸が見えないのである。霧があるから、とも言えるが、しかし霧があるにしたって対岸の気配くらいあって然るべきというのが川というものだ。
 川でなく湖だったのかもしれない。あるいは海?
 男は椰子の実を一個割ってその殻で水を少し掬って口に含んだ。真水だ。しかし、今この状況で筏が浮かんでいる水の化学的組成は本質的には重要ではない。重要なのは彼が置かれた環境の広漠さに圧倒されているという事実であり、この事実においてここが海と表現することにはなんら誤りがなかった。
 河原に来る前の自分なら、むしろどこでもない場所に放り込まれたこの状況を楽しんでいたのだろうと思った。しかし、今はただただ安住の地へと帰りたいという思いだった。
 彼は筏を百八十度回した。これはこれで賭けである。目印が一切ない大海原で自身の向きを正確に把握するというのは事実上不可能である。時間が悪いから星や月も出ていないし、天気が悪いから太陽も見えない。しかし当てずっぽうであったにも関わらず、ほぼ最短経路を進んだかのように一瞬にして岸に着いた。また奇妙なことがと思ったが、河原に来て始めて男にとって有利な奇妙さだった。


***


 男は三度河原に上陸した。相変わらず子供だらけだったが彼はそれには目もくれず内陸へと歩を進めた。河原なのだから先には陸地が広がっている。当たり前な話だ。今まで思いつかなかったのがどうかしている。
 いや、理由は明白だと男は腕に抱えた椰子の実を見て思った。その広大さに挫折するまで、自分は海を求めていた。だからこれは敗北なのかもしれない。今からでも戻ってこれの旅路を辿るべきなのではないかとも考える。が、心の中で言葉を並べても海に向かうという意見には一切の気持ちがこもっていなかった。もう自分は冒険家ではないのだろう。未知への探究心ではなく既知への郷愁心で動いている。故郷が斥力ではなく引力になっている。これは老いであり敗北なのだと男はまた考えたが、しかしそれはそれであるべき人生の姿であるように思えて悩みで鈍っていた足を速めた。
 ふと、男は自分が踏んでいたのがしばらく前に石から砂利になり、そして今砂利から土になることに気が付いた。子供も姿を消していた。彼は今ひとりぼっちだったが孤独は感じなかった。自分がいるべき場所が背後ではなく前方にあると確信していて、そこには当然人がいるというのが分かっていたからだろう。
 彼は林の中の一本道を歩いていた。最近は椰子の木を見ていてその前は熱帯の山を見ていたから緑に飢えているということは全くなかったが、密になったヒノキや杉が中心で、湯気を吸っているのではない清涼感のある空気に囲まれた温帯の森林というのは独特の安心感がある。
 林を抜けると、突然の空腹感が男を襲った。男は腹を満たすために何のためらいもなく椰子の実を割って中身を口にしたが、椰子の水だけで腹が膨れるわけもない。どうしたものかと途方にくれて周りを見渡すと開けた道の両脇に、祭りの如く屋台が並んでいることに気が付いた。
 男は一番近い屋台に飛び込んだ。焼き鳥屋だ。一串十五文と書いてある。妙な値段設定だが雰囲気付けなのだろうと「一文=十円」と考えて、その計算が秒で頭から抜けるくらいに暴食した。
「美味しかった。お代は」
「六百文ですね。ここまで食べてくれるお客さんは初ですよ。餓鬼ですらここまでは食わないんじゃないかな」
「そうか。ああしまった」
 男は財布を取り出して失敗に気が付いた。未開地に足を踏み入れることが多い冒険家の習慣としてまとまった現金を常に持ち歩いているとはいえ、それの通貨単位は多くの国、特に自国通貨が弱い途上国で両替なしで使えるドルだった。一応紙幣を五十ドル分程手渡してみるも、屋台主の反応は芳しくない。
「妙なお金ですね」
「ああやっぱりドルでは払えないですよね」
「あんたもしかして外来人かい?」
「外来……? いえ、日本人ですよ。訳あって円の持ち合わせが殆どないってだけで」
「困ったね。……。そうだ、硬貨は持ってないかい。硬貨なら多少チャンポンでも価値のすり合わせがしやすい」
 男は半信半疑でセント硬貨を何枚か見せた。五十ドルで駄目ならセント硬貨払いじゃ雀の涙にしかならないのではないかと思ったが、屋台主は銅貨だから十円、銀貨だから百円と一セント硬貨や二十五セント硬貨にかなり不釣り合いな値段を勝手につけた挙げ句、大体三ドルくらいの硬貨支払いでよしということになった。
 ドルの価値どころか日本であれば当然通じるべき常識が通じない妙なところに来てしまったのだと男は気が付いた。しかしどういうわけか、道理が通っていないにも関わらずより抽象的な空気感の部分で男はこの地におさまるべき場所に来たという安心感を覚えたのだった。


 これが、一人の元冒険家が幻想郷に来た経緯である。
世界観オタクとして東方オタクをやっているものとして、ネームドキャラがほとんど出てこないけれど東方の二次創作だと分かる、くらいのバランスの話は一度書いてみたかったのです
東ノ目
https://twitter.com/Shino_eyes
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コメント



0.簡易評価なし
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100福哭傀のクロ削除
椰子の実から水子たちの生活にどんな影響が与えていくのかみたいな話だと思ったら、冒険家の話になた……。個人的には前者が面白そうだったのでちょっと深堀りしたところも見てみたかったですが、作者様の書きたいのはそこじゃなかった気もするので難しいところ。行動に対する理由が明確で内容以上に読み易い文章でした
3.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです
4.100のくた削除
面白かったです。何かの話のプロローグのような雰囲気がありました
5.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。三途の川という現象に組み込まれたように幻想入りする不可思議さが良かったです。
6.100南条削除
とても面白かったです
遭難して速攻で石器を作ってツールを確保するあたり素人ではないことがうかがえました
少なくとも文明のある所には戻れそうで何よりです
巻頭歌もよかったです
7.90めそふ削除
面白かったです
臨死体験から地続きで幻想入りしたのが良かったなと思いました
8.100せんとらた削除
幻想郷の閉鎖性の中に無限の広がりを見ました。とてもよかったです
9.100ケスタ削除
創作としては非常に珍妙な構成……ですが書きたいことが書かれていて、蘊蓄が混じってて味があるというとても良い二次創作ですね。世界観のオタクでないと生み出そうとさえしない不思議な読み味がありました