大学の中庭に、鉄の塊で構成された前衛的なオブジェができて一か月程たった。
この大学出身で地元の芸術家であるナントカさんが、若者の飛躍をテーマにうんちゃらかんちゃらで寄贈しました、と脇の金属プレートに説明がある。
しかし、超統一物理学専攻の私 宇佐見蓮子が眺める限りでは、鉄パイプを縦横無尽に立てかけて、それが倒れないようにぴんと張ったワイヤーで縛りつけているようにしか見えない。
でも工事現場の資材という体ではなく、鉄パイプを斜めのまま中空に浮かぶ様に配置したり、ワイヤーを無意味な所に張り巡らせたりしている所に、そこはかとない芸術性を感じた。
でも賑わったのは始めの数日だけ。
翌週からは携帯端末で写真を撮る人は皆無になり、あっという間に中庭の景色と同化した。
最近の学生たちは、実用性が無い無機物には興味も無いのだ。
しかし件のオブジェは目立つし、中庭は文字通り大学の中心位置で、移動する学生の交差点になっている。
そのことが幸いし、オブジェは今や待ち合わせ場所の目印として学生を集わせることに成功していた。
そんな状況が定着した頃に、メリーからこんな噂が流れてきた。
「――知ってる、蓮子。あの中庭のオブジェの噂」
学食でメリーは、パリパリ麺の皿うどんをつつきながらそう切り出す。
「中庭のオブジェって、鉄ワイヤーのこと?」
そう私は学生間で通じるオブジェのあだ名で確認しながら、クラブハウスサンドイッチに齧りつく。
「そう。その鉄ワイヤーって、この大学で待ち合わせのメッカになっているけど、何でも時々待ち合わせられないらしいわ」
「……メリーさんって日本語ペラペラだけど、時々意味が分からないわよね」
「だって、それ以外に言い様がないもの」
私がもぐもぐと咀嚼した後に聞き返すも、メリーもこの返事だ。
メリーはカラリと揚がったうどん玉をひっくり返して、具沢山な薄茶色のあんと混ぜながらさらに詳細を語る。
「曰く、私の知り合いの仮名Aさんが、彼女さんと鉄ワイヤーのそばで待ち合わせの約束をしました。
Aさんは早めにつき、鉄ワイヤーの傍で待っていました。
周囲には三々五々の人群れ。いやー、彼女との仲を見せつけちゃうなと、Aさんはいらぬ心配までしながら待ちました。
数分して、彼女さんが見え、Aさんは満面の笑顔で彼女さんに近づきました。
彼女さんは、猛烈に不機嫌でした。
理由は簡単。『どうして連絡も無しに、1時間も待たせるの!』と彼女の談。
Aさんは戸惑う。そんな、さっきも腕時計を見たけど、数分しか経っていないぞ……
ところが、怒れる彼女さんが取り出した携帯端末の時刻を見たAさんはびっくり仰天」
「本当に1時間経っていたのね」
私がオチを言ってしまうと、メリーは小さくふくれっ面をするが、こんなに予想しやすい結末も無い。
そしてこんな話は、大概しょうもないオチが付くものだ。
「そのAさんの腕時計が壊れていただけじゃないの?」
「宇宙衛星から電波時計の電波を照射する時代に、相当なアンティーク時計をしていたのね、Aさん。
仮にそうだとしても、数分と1時間の区別が体感できないのは変よね」
「Aさんの主観まで知らないわよ。時間は伸び縮みするってアインシュタインも言っていたじゃない」
私はつい物理的な見地を述べてしまう。
実際にはややこしい理論が絡むのだが、要は時間の進み方や感じ方は人それぞれで、Aさんの様に1時間でも数分に感じる人がいる……ということなんだけと、ちょっと飛躍しすぎか。
ところが、次のメリーの台詞が私の論理的思考を迷宮に誘う。
「ちなみにその彼女さん、携帯も通じなくて困りながら待っている間、鉄ワイヤーの傍でずっと待っていたそうよ。
でも、Aさんを最後まで見つけられなかった。
Aさんがぼーっとした人だった、という理由だけではこの現象は説明できないでしょ」
そんな。私はそう呟きかけて、考える。
いくら何でも、あんな見通しのいい鉄ワイヤーの傍で立っている人間を1時間も見落とし続けるなんてありえない。
私が摩訶不思議な現象に頭を悩ませていると、メリーがとんでもないことを言い出した。
「あんな目立って分かりやすい場所で待ち合わせても、中々出会えなくて困った。そんな似たような現象が、現在までに数件起こったらしいわ。
そして蓮子、こんな噂がちらほら出始めたの。
あの鉄ワイヤーに近づくと、一瞬神隠しに遭う」
私はぽかんと口を開ける。あまりに突拍子もない仮説に、脳みそが追いつかなかったのだ。
でもメリーはお構いなしに続ける。
「つまり、あの鉄ワイヤーの周りだけ異次元に繋がっていて、迷い込んだら最後、帰って来るのに数時間かかる……らしい」
「ほぉ……」
私は一笑に付すでもなく、真剣にその仮説を考えてみる。
この科学が発達した世界、ましてや普通の人間ならこんな話は下手な都市伝説としか思わないだろう。
でも私達、秘封倶楽部は違う。
奇矯な目を持つ私とメリーにとって、さっきの仮説も次の言葉さえも現実の一端でしかない。
「それって、あそこに何らかの結界の緩みがあるってこと?」
「さぁ? 私が使う講義棟に行くのに、あそこは通らないから」
私が興味津々に聞いてみても、話を振っておいてこの返答だ。
ずるっと私はテーブルに突っ伏しそうになるが、あんを吸ってふにゃふにゃの麺を、メリーはようやく美味しそうに啜っていた。
マイペースなのは相変わらずだ。
でも、ウラシマ効果な世界に繋がっているかもしれないオブジェか。中々面白そうね。
さて、今日は午後の講義は……ま、いいか。メリーも特に無いって言っていたし。
よし。決めた。
「メリー、次の活動が決まったわよ」
「ふふふ、待ち合わせ場所は?」
わかっているくせに、おどける様な口調でそう聞くメリー。
私は残りのサンドイッチをもぐもぐごくんと飲み込んで、こうプランを述べる。
「鉄ワイヤーに決まっているでしょ。とりあえず現場百遍ってね」
「じゃあ、先に行ってみて。私が後から行って、蓮子が遅刻するかどうか確かめるわ」
「うどん、柔らかいのが好きだからっていつまでも放っているから、食べるタイミングが合わなくてこうなるのよ。
でも実証実験は大事だし、後から合流しましょうか。
噂が本当なら、夕飯を食べてから来ても大丈夫よ。その時私の体感時間ではデザートの時間だから、何か甘いものを買ってきてね」
訳の分からない会話も、真相を知っていれば訳も無い。
申し訳ないと苦笑いしながら手を振るメリーに別れを告げ、私は帽子を被り直す。
今日の秘封倶楽部は鉄ワイヤーの調査。私は新たな不思議に向かって駆け出した。
――◇――
無機質な建物に囲まれた中庭に暖かな太陽の光が差し込み、合成植物の芝生を鮮やかに照らす。鳥も鳴くし、小さな花だって咲いている。
人工物の園みたいな世の中でも、それなりの自然を感じられる憩いの場所だ。
そんな場所の真ん中。不安定な見た目とは裏腹に、雨風にビクともせず鉄ワイヤーは今日も鎮座していた。
これが鉄ワイヤーか、と改めて感動はしない。物理実験棟に行くのに毎回横目で見ているからだ。
今日は待ち合わせもいないし、周囲の人間もまばら。調査にはうってつけのシチュエーションだ。
とりあえず、私は近寄ってみる。
近づくと結構大きいオブジェだ。私の背丈ほどの高さがあり、ものすごく登りづらいジャングルジムを想起させる。
ステンレスと思われるパイプにはサビひとつ無く、太陽の光を眩しいくらい反射させていた。
ちなみに鉄ワイヤーの周りには柵やロープを巻いた囲いの類は施されておらず、自由に触ったり寄りかかったりできる意匠だ。
しかし、特に変わった様子は見られない。
この周りだけオーラが違うとか、強力な磁気が発射されている様な感じも無い。
仕方ない。私はこの傍で待ってみることにした。
いくらメリーがのんびり屋な性格でも、あと十数分もすればここにやってくるだろう。
もしメリーの言った現象に再現性があるならば、私がここで待てばメリーは私を何時間も探すことになる。
私は傍に立ち、腕時計を見る。電波時計の示す時刻は正確で、見たところ遅れる様子も無い。
星空が見えないので正確な時間は不明だが、一応この時計は信用している。
さて、私が鉄ワイヤーの傍で立ったり座ったり、目を閉じたり開いたりして待っていると、遠くからメリーがやってきた。
私は手を振り、そちらの方向に歩み寄る。
「ごめん。待った?」
「平気平気。目を閉じたり開いたりしていたから」
「まばたきしていただけ、ってことね……」
言葉のジャブもそこそこに、私は本題を切り出す。
「それで、今何時? メリーは私を見つけられた?」
こうして対面で話していて不可解極まりない質問だが、メリーは携帯端末を取りだし、時間を提示する。それと同時に、私は腕時計と照らし合わせる。
すると、衝撃の事実が判明する。
「……時間、全然進んでいない」
「ええ。すぐに見つけたわよ。昔の映画みたいに立ちん坊で待ち続ける蓮子の姿を」
時計を見てがっかりするなんて初体験だが、メリーは私の待ちぼうけ姿がよっぽど珍しかったらしく、希少な動物を発見したみたいに少しテンションが高い。
しかし、鉄ワイヤーはそんなに簡単には異界に連れて行ってくれないらしい。
私はうーんと考える。
「ちなみに、結界の緩みとか感じる?」
私が問いかけると、メリーはしばらく鉄ワイヤーをじっと眺めていたが、外国人らしくオーバーに肩を竦めてすげない一言を発する。
「いいえ、全然。ごく普通のオブジェよ」
その言葉に落胆はしたものの、おおむね想定はしていた。
「まぁ、ただ傍に立っているだけで時間が何十倍も引き伸ばされるんだったら、ここはとっくに超有名ミステリースポット扱いよね」
「ええ。そしてTVショウで紹介されて、不思議さも形骸化してしまうのよ」
「何か条件が違うのかしら」
つまり、ただ立っているだけではない。
扉を開くのに鍵が必要なように、異界で遊ぶのには何らかの条件を満たしている必要があるのだ。
「条件って、引き出しを開けるとか。ラベンダーの匂いを嗅ぐとか。雷に打たれるとか?」
「私は強盗に殺された恋人を取り戻そうとするに一票。でももっと偶発的に発生する条件よ。
そうじゃないと、不特定の人間が散発的に噂の種になったりしないもの」
そう私はメリーに告げて、もう一度鉄ワイヤーに近づく。
未練たらしく周りをうろうろしている訳ではない。何か手がかりが無いかと鉄ワイヤーの隅々までチェックする。
こういう時は、予想外の所にヒントがあるものだ。
例えば、この鉄パイプに動いた形跡があるとか、ワイヤーが一本だけゆるいとか。
私は試しに手近な一本をぐいぐい押してみるが、ビクともしない。
もしかして、回すのか。いや、ひねるのかも……
といった具合に私が多角的に思索を巡らせていると、何故かメリーは鉄ワイヤーの根元にしゃがみこんでいた。
「何しているの?」
「んー。用務員さんの腕が悪いのか、それともサボタージュが横行しているのかしら」
そう突然脈絡のない前置きを打って、メリーは視線の先を指差しこう言った。
「綺麗な芝生だけど、ここだけ長さがチグハグしている。
ウチのお庭の芝生をこんな虎刈りに仕上げたら、お父様が庭師にお説教よ」
改めてメリーは良家のお嬢様だったことを確認しつつ、私は足元、メリーの指差す地面を見る。
鉄ワイヤーは芝生の生い茂る中庭にある。緑と銀の調和も魅力の一つなのだが、確かにメリーの指摘した箇所だけ芝生が短かった。
私はそういえば変ね、と短い芝生が生えている地面を俯瞰する。よく見ると、短い芝生は一定の範囲に固まって存在している様だ。
そこだけ色が違うから分かりやすい。なんとなく幾何学的な形に見えるし――
瞬間、私の頭の中で回路がかちりとつながった。
私はメリーの言った短い芝生が群生している範囲の真ん中にしゃがみ、鉄ワイヤーの方を向く。
そして腕を伸ばし、人差し指を立て、鉄ワイヤーを指差す。
うん、なるほど。私は納得して、次に指差した方向、鉄ワイヤーの向こう側に数メートル歩き、ぴょんぴょんとその場で垂直ジャンプ。
鉄ワイヤーを少し高い位置で眺め、ある瞬間、それは見えた。
私はそれを見て、にやりと笑みを浮かべる。
「蓮子って、決まった時間にジャンプすることで自然との対話を目標とする、みたいな教義を信じているの?」
「宇佐美家は代々仏教徒よ。そうじゃなくて、謎が解けたのよ」
私の挙動不審に対するメリーの失礼な予想もなんのその。私は自信満々にメリーに告げる。
「もしかして、鍵が分かったの?」
「ええ。メリーの洞察力には脱帽よ。それからきっちり仕事をこなしている用務員さんもね」
「?」
メリーは怪訝そうに地面を眺める。そう、芝が短いのは用務員さんのせいじゃないのだ。
と、ここで私は踵を返す。メリーは呆けた表情でトテトテと着いてきた。
「ちょっと。謎が解けたのに、もう帰っちゃうの?」
「うん。謎解きを披露するにはちょっとムードが足りないから、もっと暗くなってから出直しましょう。
それと、岡崎教授から探偵7つ道具の1個を借りてこないとね」
ますます頭上に疑問符を浮かべるメリー。
私はその顔を驚きと好奇に満たしてあげようと、この後の集合時間をメリーに告げた。
私の予想が正しければ、鉄ワイヤーは『偶然にして必然』に時間を引き延ばしたのだ。
――◇――
京都の街に夜の帳が下りる。
すっかり日も暮れた頃、私とメリーは再会した。
場所はもちろん中庭の鉄ワイヤー。辺りはオブジェがあるくせに外灯の光がロクに届かない、非常に薄暗く不気味な空間だった。
「う~ん、いい!」
そんな不気味さも逆に心地よいといった感想の私に、メリーは呆れたように話しかける。
「人間は進化の過程で暗闇の恐怖を徐々に克服したけど、蓮子はその最先端を走っているわね」
「スイッチ一個で明りが手に入る現代だから、暗闇は貴重なのよ。
だからスローライフな人々にとって、今やオイルランプやローソクが憧れの的でしょ。
あれは適度な暗さを提供してくれる、オーガニック照明器具だからね」
「京都でそんな物を燃やしたら、一発で環境条例違反。ある意味ぜいたく品よね」
メリーの皮肉ももっともだと苦笑しながら、私は三脚を立て、とある装置をその上に乗せる。
「でも鉄ワイヤーの謎を解くため、今回は文明の利器に頼りましょう」
そう言って私はその装置に電源を繋ぎ、スイッチを押下した。
すると装置の丸いガラス窓から眩い閃光が真っ直ぐ放たれ、足元の芝生に楕円形の光の輪を描く。
「岡崎先生、スポットライトなんて貸してくれるんだ」
「トランプからICBMのミミちゃんまで、台帳に記入さえすればなんでも貸してくれるわよ」
「冗談よね」
「冗談だといいわね」
虚々実々の会話はさておき、私は三脚のハンドルをキコキコと回す。
するとスポットライトが持ち上がり、光輪がだんだん鉄ワイヤーに近づく。
そしてライトが鉄ワイヤーを舞台役者の様に明るく照らし出す。
でも主役は鉄ワイヤーじゃない。
「メリー、ばっちりこの位置よ。さぁ、例の芝生の所を見てみて」
私が促すと、メリーはそっと虎刈りの芝生の場所、ライトで照らされた鉄ワイヤーの影が映る地点に目をやる。
それで、メリーは驚異と感嘆の吐息を漏らした。
一見不規則に絡み合う鉄パイプとワイヤーの塊。
だがそのオブジェのある高さ、ある角度から光源を当てると、素通りする光と物体に遮られた光の影が、ある像を結ぶ。
それは陳腐な言い方で表現するなら、裏の芸術、といったところか。
「すごい! 影が五芒星の形になっている!」
五芒星。互いに交差する長さの等しい五本の線分から構成される図形で、洋の東西を問わず使われてきた。
世界中で魔術の記号とされ守護に用いることもあれば、上下を逆向きにして悪魔の象徴になることもある。陰陽道では魔除けの呪符として伝えられている。
でも一般人に分かりやすい説明は、一筆書きで描く星マーク、がいいだろう。
それが突如、何の因果関係も無い様な立体物から浮かび上がってきたのだ。
メリーの興奮も共感できる。私も気付いた時にはニヤリとしたし、こんなに綺麗に浮かび上がるとは予想外だったしね。
「そして芝生の形を見て。この影の境界に沿って、五芒星の内側だけ芝が短くなっているでしょ」
そう芝生を指差す私。昼間見た短い芝生は、俯瞰するとミステリーサークルの様に星形になっていることを発見したのだ。
そしてこの現象と相まって、導き出される結論は……
「もしかして、この星の中が異世界ってこと?」
「おそらくね。これは自然と人工が生み出した魔法陣なのよ。
短い芝生の謎は単純。ここらの植物は合成植物だから、伸びる速度は全て一定。
つまり一部分だけ短くするには、わざとそこだけ刈り込むか、成長速度を遅くするしかないわよね。
用務員さんがそんな面倒な事するわけないから、真相はひとつ。
この影の内側は、時間の進みが遅いのよ」
そう予想を立てる私。メリーは目を輝かせる。
「時間因果律のジャンルは未解決だから何ともいえないけれど、ともかく植物はきちんと異次元に適応していたのね」
「すごい。これを作った……えーと、何某さんは計算していたのかしら」
おそらく金属プレートが見えなかったので、適当な名前でごまかしたメリーに、私はいやいやと首を振る。
「計算だとしたら、その人は相当な頭の持ち主よ。私の師匠に任命してもいいくらい。
でも現実的には、素晴らしい偶然が重なった結果だと思うわ。
パイプの構成、オブジェの場所、そして太陽の位置」
「太陽?」
メリーは首を傾げる。
「今はこうして照らしているけど、昼間は太陽が影を作るでしょ。
でも太陽は動くから、影がこういう星マークになる時間はせいぜい一時間でしょうね」
そう私は昼間指差して確認した太陽の位置をメリーにも示す。
太陽がちょっと動くだけで星は崩れ、建物の影に飲み込まれてしまう。
さらには、角度が高くても低くても星形にはならない。
つまりこの季節の限られた時間しか現れない、幻の星ってわけだ。
ここで聡いメリーは気づく。
「あっ、じゃあAさんって」
「そう。ルンルン気分で待っている内に、影が動いてAさんが星の中に入っちゃったのよ。
そして中のゆっくりとした時空に捕まり、体感時間の1分が現実では1時間にも引き伸ばされる」
「受信するはずの電波の速度もこの中でのろくなるから、電波時計が遅れ、携帯電話は役立たずとなる。
でも姿が消えるっていうのはどうしてかしら?」
当然の疑問に、私はいよいよオカルト風味の理論を展開する。
「これは私の予想だけど、この世界の時間軸はたった一つ、この場合は普通の速度で進む時間軸で構成されているわ。
そこに異物ともいうべきトロトロ走る時間軸が並行して現れたら、さて現実世界はどう反応するでしょう」
「その時間軸自体を……無かったことにする」
「多分ね。時間が遅れるなんて黒歴史をパラレルワールドの一部に追いやり、最初から無かったことにする。
つまり無い物は存在しないから、Aさんの姿は掻き消えてしまう、と」
うんうん。荒唐無稽だが筋が通っている。人知を超えた前提以外は完璧。
そして理論が構築されたなら、あとは実証あるのみ。
私は腕時計を外す。今日もこの時計は、上空の星たちと同じ時を刻んでいる。
ここでメリーをチラ見すると、私の意図を察知して興味津々に時計を見つめる。
「こんなことなら、もっと安物を買っておくべきだったわ」
「この状況で蓮子なら、スイス製の高級腕時計でも放り込むでしょう」
「まぁね。手元に都合よく原子時計も無いことだし、これで我慢」
私はそうのたまうと同時に、腕時計を星の中に投げ入れた。
そして腕時計が影の内側に入った刹那、腕時計はチャンネルを変えられた様にいきなり消失してしまった。
これより、私の説は実証された。
ふふん、とおそらく得意げな顔になってしまった私にメリーも完全に納得して、こう呟く。
「Aさん、危なかったわね。そんな危ういバランスの世界に一瞬……否、長時間居ただなんて」
「確かに時空の彼方へワープしてもおかしくない環境だけど、太陽が動いちゃえば魔法陣も消えるから、また戻ってこられるのよ。
ところが今回はチート仕様だから、何時間でも楽しめるわ。
どうする? 中に入ってみる?」
些か早急だが、私は核心に迫る。
私達は秘封倶楽部。結界とは多少趣が異なるが、異世界に果敢に挑むことが私たちのモットーである。
メリーは困ったような表情で考える。しかし目は全然笑っていなかった。
「どうしましょう」なんて余裕ぶった回答をするが、明らかにこの五芒星のミステリーサークルに軽く魅入られている。
ふと、メリーは手を伸ばす。ゆっくり、その先は星のゾーン。
別にジジジと青白い火花がスパークしている訳でもない、静かな空間。
私は固唾を飲んで見守る。
しかしメリーは、ふと手を引っ込める。
「……行かないの?」
私の問いかけに、メリーはやれやれといった微笑みを浮かべる。
「太陽の力を借りない、急造した魔法陣じゃ何が起こっても不思議じゃないわ。
腕を突っ込んだ瞬間、腕と胴体があっちとこっちの時間軸に泣き別れ、なんてことが起こっても文句は言えないのよ」
夢の世界で怪我をするほどアクティブなメリーとは思えない慎重な意見だったが、確かに今回は時空という何人たりとも近寄らせない聖域相手だ。
君子危うきと勝てそうにない相手には近づかず。私も素直にうんうんと頷く。
「それに」
「ん?」
なんだ、まだ理由があるのか。接続詞を続けるメリーに、私は次の言葉で宇宙を見た。
「もし中に入れても、たとえ数時間とはいえ私の時間は蓮子とズレてしまうわ。
八百比丘尼の逸話の通り、友人と異なる時間軸を持つということに、私は耐えられそうもないから」
おー、と私は感心する。
普段ぽやぽやと、ケーキや焼き芋みたいな甘くてオーガニックな物を好んで頬張るのどかな口から、哲学が飛び出してきた。
それは実証不可能な意見だったが、どんな学説よりも私に染み入った。
「そうね。これ以上メリーの時間が遅くなったら、スローリーとかに改名しなくちゃいけなくなるもの」
「あ、ひっどーい」
「冗談よ。私も、メリーには私と同じ時空を歩んでもらいたいわ。では、本日の活動はこれにて終了ってことで」
そう私は締めくくり、スポットライトの明りを消す。
すると正しい時間に戻ったのか、腕時計が暗闇の中にポトリと落ちた。
拾い上げて文字盤を確認すると、だいぶ時間が遅れていた。
しかし現実世界に戻って数秒、時計は夢から覚めた様に慌てて時を修正し、正しい時刻を知らせたのだった。
――◇――
翌日、私達は中庭で絶句した。
鉄ワイヤーの周りには足場が組まれ、作業服にヘルメットのおじさんが何人かウロウロしている。
すると作業員の一人が看板を立てる。そこには工事内容がこう記されていた。
『オブジェ解体工事』
「おじさん!」
私の悲痛ともいえる叫びに、看板の作業員が「んあ?」と返事をする。
「これ……何で?」
私の問いかけに、作業員は私の何故壊す!? という感情に同調するような口調でこう気だるげに答えた。
「ああ。このオブジェを作った……ナントカっていう芸術家様の意向だよ。
何でも『若者の飛躍は変化と共にある』っていうテーマに沿うために、適当な時期にオブジェの形状を変えていくんだとさ。
それで設置してひと月で鉄骨の組み直しだ。まったく、高尚なお考えはよく分からん」
そうぶつぶつ呟きながら、作業現場に戻る背中を見送る私達。
いや、正確にはそのさらに先。ワイヤーが切断され、ガラガラと崩壊する元鉄ワイヤーをただ茫然と見つめていた。
「――信じられない! あんな傑作をあっさり壊すなんて」
学内のカフェに河岸を移した私は、憤懣やる方ないといった具合で世の不条理を説く。
そんな私に、メリーはただただ慰める様な苦笑を返して、カフェオレをストローで吸った。
「これでタイムマシンもパー。ヘタしたら量子解析にも応用できたかもしれないのに、全ては夢幻の如くなり、よ」
「まぁ、当の芸術家さんもその価値を知らなかっただろうし、悪気はないわよ……多分」
そう、そんなことは分かっている。だからこそ、こうやって遣る瀬無い感情をコーヒーで流し込んでいるのだ。
「でも、希望はあるわ」
「?」
ヤケコーヒーを味わっていると、ふとメリーが不可解な事を言い出す。
「だって、ただ壊すだけじゃなくて、形を変えてまた復活するんでしょ。
今度の鉄ワイヤーは、時を遅らせるより想像できない摩訶不思議な現象を起こしてくれるかもしれないわよ」
その意見に、私は目からウロコが落ちた。
なるほど、こんなポジティブな発想があったとは。しかも私好みの。
「それじゃ、秘封倶楽部としては今後も推移を見守らないとね」
「ええ、まずは噂の解析と精査。次に考察」
「そして実地検証ね」
そう言って、私は立ち上がる。メリーは笑って問いかける。
「お次はどこに集合かしら、蓮子」
その答えは、決まっている。
「しばらくは同じよ。『遅れる所』で待ち合わせ、ってね」
こうして秘封倶楽部はまた動き出す。
今まさに建築中かもしれない、新たな伝説に向かって。
[終]
この大学出身で地元の芸術家であるナントカさんが、若者の飛躍をテーマにうんちゃらかんちゃらで寄贈しました、と脇の金属プレートに説明がある。
しかし、超統一物理学専攻の私 宇佐見蓮子が眺める限りでは、鉄パイプを縦横無尽に立てかけて、それが倒れないようにぴんと張ったワイヤーで縛りつけているようにしか見えない。
でも工事現場の資材という体ではなく、鉄パイプを斜めのまま中空に浮かぶ様に配置したり、ワイヤーを無意味な所に張り巡らせたりしている所に、そこはかとない芸術性を感じた。
でも賑わったのは始めの数日だけ。
翌週からは携帯端末で写真を撮る人は皆無になり、あっという間に中庭の景色と同化した。
最近の学生たちは、実用性が無い無機物には興味も無いのだ。
しかし件のオブジェは目立つし、中庭は文字通り大学の中心位置で、移動する学生の交差点になっている。
そのことが幸いし、オブジェは今や待ち合わせ場所の目印として学生を集わせることに成功していた。
そんな状況が定着した頃に、メリーからこんな噂が流れてきた。
「――知ってる、蓮子。あの中庭のオブジェの噂」
学食でメリーは、パリパリ麺の皿うどんをつつきながらそう切り出す。
「中庭のオブジェって、鉄ワイヤーのこと?」
そう私は学生間で通じるオブジェのあだ名で確認しながら、クラブハウスサンドイッチに齧りつく。
「そう。その鉄ワイヤーって、この大学で待ち合わせのメッカになっているけど、何でも時々待ち合わせられないらしいわ」
「……メリーさんって日本語ペラペラだけど、時々意味が分からないわよね」
「だって、それ以外に言い様がないもの」
私がもぐもぐと咀嚼した後に聞き返すも、メリーもこの返事だ。
メリーはカラリと揚がったうどん玉をひっくり返して、具沢山な薄茶色のあんと混ぜながらさらに詳細を語る。
「曰く、私の知り合いの仮名Aさんが、彼女さんと鉄ワイヤーのそばで待ち合わせの約束をしました。
Aさんは早めにつき、鉄ワイヤーの傍で待っていました。
周囲には三々五々の人群れ。いやー、彼女との仲を見せつけちゃうなと、Aさんはいらぬ心配までしながら待ちました。
数分して、彼女さんが見え、Aさんは満面の笑顔で彼女さんに近づきました。
彼女さんは、猛烈に不機嫌でした。
理由は簡単。『どうして連絡も無しに、1時間も待たせるの!』と彼女の談。
Aさんは戸惑う。そんな、さっきも腕時計を見たけど、数分しか経っていないぞ……
ところが、怒れる彼女さんが取り出した携帯端末の時刻を見たAさんはびっくり仰天」
「本当に1時間経っていたのね」
私がオチを言ってしまうと、メリーは小さくふくれっ面をするが、こんなに予想しやすい結末も無い。
そしてこんな話は、大概しょうもないオチが付くものだ。
「そのAさんの腕時計が壊れていただけじゃないの?」
「宇宙衛星から電波時計の電波を照射する時代に、相当なアンティーク時計をしていたのね、Aさん。
仮にそうだとしても、数分と1時間の区別が体感できないのは変よね」
「Aさんの主観まで知らないわよ。時間は伸び縮みするってアインシュタインも言っていたじゃない」
私はつい物理的な見地を述べてしまう。
実際にはややこしい理論が絡むのだが、要は時間の進み方や感じ方は人それぞれで、Aさんの様に1時間でも数分に感じる人がいる……ということなんだけと、ちょっと飛躍しすぎか。
ところが、次のメリーの台詞が私の論理的思考を迷宮に誘う。
「ちなみにその彼女さん、携帯も通じなくて困りながら待っている間、鉄ワイヤーの傍でずっと待っていたそうよ。
でも、Aさんを最後まで見つけられなかった。
Aさんがぼーっとした人だった、という理由だけではこの現象は説明できないでしょ」
そんな。私はそう呟きかけて、考える。
いくら何でも、あんな見通しのいい鉄ワイヤーの傍で立っている人間を1時間も見落とし続けるなんてありえない。
私が摩訶不思議な現象に頭を悩ませていると、メリーがとんでもないことを言い出した。
「あんな目立って分かりやすい場所で待ち合わせても、中々出会えなくて困った。そんな似たような現象が、現在までに数件起こったらしいわ。
そして蓮子、こんな噂がちらほら出始めたの。
あの鉄ワイヤーに近づくと、一瞬神隠しに遭う」
私はぽかんと口を開ける。あまりに突拍子もない仮説に、脳みそが追いつかなかったのだ。
でもメリーはお構いなしに続ける。
「つまり、あの鉄ワイヤーの周りだけ異次元に繋がっていて、迷い込んだら最後、帰って来るのに数時間かかる……らしい」
「ほぉ……」
私は一笑に付すでもなく、真剣にその仮説を考えてみる。
この科学が発達した世界、ましてや普通の人間ならこんな話は下手な都市伝説としか思わないだろう。
でも私達、秘封倶楽部は違う。
奇矯な目を持つ私とメリーにとって、さっきの仮説も次の言葉さえも現実の一端でしかない。
「それって、あそこに何らかの結界の緩みがあるってこと?」
「さぁ? 私が使う講義棟に行くのに、あそこは通らないから」
私が興味津々に聞いてみても、話を振っておいてこの返答だ。
ずるっと私はテーブルに突っ伏しそうになるが、あんを吸ってふにゃふにゃの麺を、メリーはようやく美味しそうに啜っていた。
マイペースなのは相変わらずだ。
でも、ウラシマ効果な世界に繋がっているかもしれないオブジェか。中々面白そうね。
さて、今日は午後の講義は……ま、いいか。メリーも特に無いって言っていたし。
よし。決めた。
「メリー、次の活動が決まったわよ」
「ふふふ、待ち合わせ場所は?」
わかっているくせに、おどける様な口調でそう聞くメリー。
私は残りのサンドイッチをもぐもぐごくんと飲み込んで、こうプランを述べる。
「鉄ワイヤーに決まっているでしょ。とりあえず現場百遍ってね」
「じゃあ、先に行ってみて。私が後から行って、蓮子が遅刻するかどうか確かめるわ」
「うどん、柔らかいのが好きだからっていつまでも放っているから、食べるタイミングが合わなくてこうなるのよ。
でも実証実験は大事だし、後から合流しましょうか。
噂が本当なら、夕飯を食べてから来ても大丈夫よ。その時私の体感時間ではデザートの時間だから、何か甘いものを買ってきてね」
訳の分からない会話も、真相を知っていれば訳も無い。
申し訳ないと苦笑いしながら手を振るメリーに別れを告げ、私は帽子を被り直す。
今日の秘封倶楽部は鉄ワイヤーの調査。私は新たな不思議に向かって駆け出した。
――◇――
無機質な建物に囲まれた中庭に暖かな太陽の光が差し込み、合成植物の芝生を鮮やかに照らす。鳥も鳴くし、小さな花だって咲いている。
人工物の園みたいな世の中でも、それなりの自然を感じられる憩いの場所だ。
そんな場所の真ん中。不安定な見た目とは裏腹に、雨風にビクともせず鉄ワイヤーは今日も鎮座していた。
これが鉄ワイヤーか、と改めて感動はしない。物理実験棟に行くのに毎回横目で見ているからだ。
今日は待ち合わせもいないし、周囲の人間もまばら。調査にはうってつけのシチュエーションだ。
とりあえず、私は近寄ってみる。
近づくと結構大きいオブジェだ。私の背丈ほどの高さがあり、ものすごく登りづらいジャングルジムを想起させる。
ステンレスと思われるパイプにはサビひとつ無く、太陽の光を眩しいくらい反射させていた。
ちなみに鉄ワイヤーの周りには柵やロープを巻いた囲いの類は施されておらず、自由に触ったり寄りかかったりできる意匠だ。
しかし、特に変わった様子は見られない。
この周りだけオーラが違うとか、強力な磁気が発射されている様な感じも無い。
仕方ない。私はこの傍で待ってみることにした。
いくらメリーがのんびり屋な性格でも、あと十数分もすればここにやってくるだろう。
もしメリーの言った現象に再現性があるならば、私がここで待てばメリーは私を何時間も探すことになる。
私は傍に立ち、腕時計を見る。電波時計の示す時刻は正確で、見たところ遅れる様子も無い。
星空が見えないので正確な時間は不明だが、一応この時計は信用している。
さて、私が鉄ワイヤーの傍で立ったり座ったり、目を閉じたり開いたりして待っていると、遠くからメリーがやってきた。
私は手を振り、そちらの方向に歩み寄る。
「ごめん。待った?」
「平気平気。目を閉じたり開いたりしていたから」
「まばたきしていただけ、ってことね……」
言葉のジャブもそこそこに、私は本題を切り出す。
「それで、今何時? メリーは私を見つけられた?」
こうして対面で話していて不可解極まりない質問だが、メリーは携帯端末を取りだし、時間を提示する。それと同時に、私は腕時計と照らし合わせる。
すると、衝撃の事実が判明する。
「……時間、全然進んでいない」
「ええ。すぐに見つけたわよ。昔の映画みたいに立ちん坊で待ち続ける蓮子の姿を」
時計を見てがっかりするなんて初体験だが、メリーは私の待ちぼうけ姿がよっぽど珍しかったらしく、希少な動物を発見したみたいに少しテンションが高い。
しかし、鉄ワイヤーはそんなに簡単には異界に連れて行ってくれないらしい。
私はうーんと考える。
「ちなみに、結界の緩みとか感じる?」
私が問いかけると、メリーはしばらく鉄ワイヤーをじっと眺めていたが、外国人らしくオーバーに肩を竦めてすげない一言を発する。
「いいえ、全然。ごく普通のオブジェよ」
その言葉に落胆はしたものの、おおむね想定はしていた。
「まぁ、ただ傍に立っているだけで時間が何十倍も引き伸ばされるんだったら、ここはとっくに超有名ミステリースポット扱いよね」
「ええ。そしてTVショウで紹介されて、不思議さも形骸化してしまうのよ」
「何か条件が違うのかしら」
つまり、ただ立っているだけではない。
扉を開くのに鍵が必要なように、異界で遊ぶのには何らかの条件を満たしている必要があるのだ。
「条件って、引き出しを開けるとか。ラベンダーの匂いを嗅ぐとか。雷に打たれるとか?」
「私は強盗に殺された恋人を取り戻そうとするに一票。でももっと偶発的に発生する条件よ。
そうじゃないと、不特定の人間が散発的に噂の種になったりしないもの」
そう私はメリーに告げて、もう一度鉄ワイヤーに近づく。
未練たらしく周りをうろうろしている訳ではない。何か手がかりが無いかと鉄ワイヤーの隅々までチェックする。
こういう時は、予想外の所にヒントがあるものだ。
例えば、この鉄パイプに動いた形跡があるとか、ワイヤーが一本だけゆるいとか。
私は試しに手近な一本をぐいぐい押してみるが、ビクともしない。
もしかして、回すのか。いや、ひねるのかも……
といった具合に私が多角的に思索を巡らせていると、何故かメリーは鉄ワイヤーの根元にしゃがみこんでいた。
「何しているの?」
「んー。用務員さんの腕が悪いのか、それともサボタージュが横行しているのかしら」
そう突然脈絡のない前置きを打って、メリーは視線の先を指差しこう言った。
「綺麗な芝生だけど、ここだけ長さがチグハグしている。
ウチのお庭の芝生をこんな虎刈りに仕上げたら、お父様が庭師にお説教よ」
改めてメリーは良家のお嬢様だったことを確認しつつ、私は足元、メリーの指差す地面を見る。
鉄ワイヤーは芝生の生い茂る中庭にある。緑と銀の調和も魅力の一つなのだが、確かにメリーの指摘した箇所だけ芝生が短かった。
私はそういえば変ね、と短い芝生が生えている地面を俯瞰する。よく見ると、短い芝生は一定の範囲に固まって存在している様だ。
そこだけ色が違うから分かりやすい。なんとなく幾何学的な形に見えるし――
瞬間、私の頭の中で回路がかちりとつながった。
私はメリーの言った短い芝生が群生している範囲の真ん中にしゃがみ、鉄ワイヤーの方を向く。
そして腕を伸ばし、人差し指を立て、鉄ワイヤーを指差す。
うん、なるほど。私は納得して、次に指差した方向、鉄ワイヤーの向こう側に数メートル歩き、ぴょんぴょんとその場で垂直ジャンプ。
鉄ワイヤーを少し高い位置で眺め、ある瞬間、それは見えた。
私はそれを見て、にやりと笑みを浮かべる。
「蓮子って、決まった時間にジャンプすることで自然との対話を目標とする、みたいな教義を信じているの?」
「宇佐美家は代々仏教徒よ。そうじゃなくて、謎が解けたのよ」
私の挙動不審に対するメリーの失礼な予想もなんのその。私は自信満々にメリーに告げる。
「もしかして、鍵が分かったの?」
「ええ。メリーの洞察力には脱帽よ。それからきっちり仕事をこなしている用務員さんもね」
「?」
メリーは怪訝そうに地面を眺める。そう、芝が短いのは用務員さんのせいじゃないのだ。
と、ここで私は踵を返す。メリーは呆けた表情でトテトテと着いてきた。
「ちょっと。謎が解けたのに、もう帰っちゃうの?」
「うん。謎解きを披露するにはちょっとムードが足りないから、もっと暗くなってから出直しましょう。
それと、岡崎教授から探偵7つ道具の1個を借りてこないとね」
ますます頭上に疑問符を浮かべるメリー。
私はその顔を驚きと好奇に満たしてあげようと、この後の集合時間をメリーに告げた。
私の予想が正しければ、鉄ワイヤーは『偶然にして必然』に時間を引き延ばしたのだ。
――◇――
京都の街に夜の帳が下りる。
すっかり日も暮れた頃、私とメリーは再会した。
場所はもちろん中庭の鉄ワイヤー。辺りはオブジェがあるくせに外灯の光がロクに届かない、非常に薄暗く不気味な空間だった。
「う~ん、いい!」
そんな不気味さも逆に心地よいといった感想の私に、メリーは呆れたように話しかける。
「人間は進化の過程で暗闇の恐怖を徐々に克服したけど、蓮子はその最先端を走っているわね」
「スイッチ一個で明りが手に入る現代だから、暗闇は貴重なのよ。
だからスローライフな人々にとって、今やオイルランプやローソクが憧れの的でしょ。
あれは適度な暗さを提供してくれる、オーガニック照明器具だからね」
「京都でそんな物を燃やしたら、一発で環境条例違反。ある意味ぜいたく品よね」
メリーの皮肉ももっともだと苦笑しながら、私は三脚を立て、とある装置をその上に乗せる。
「でも鉄ワイヤーの謎を解くため、今回は文明の利器に頼りましょう」
そう言って私はその装置に電源を繋ぎ、スイッチを押下した。
すると装置の丸いガラス窓から眩い閃光が真っ直ぐ放たれ、足元の芝生に楕円形の光の輪を描く。
「岡崎先生、スポットライトなんて貸してくれるんだ」
「トランプからICBMのミミちゃんまで、台帳に記入さえすればなんでも貸してくれるわよ」
「冗談よね」
「冗談だといいわね」
虚々実々の会話はさておき、私は三脚のハンドルをキコキコと回す。
するとスポットライトが持ち上がり、光輪がだんだん鉄ワイヤーに近づく。
そしてライトが鉄ワイヤーを舞台役者の様に明るく照らし出す。
でも主役は鉄ワイヤーじゃない。
「メリー、ばっちりこの位置よ。さぁ、例の芝生の所を見てみて」
私が促すと、メリーはそっと虎刈りの芝生の場所、ライトで照らされた鉄ワイヤーの影が映る地点に目をやる。
それで、メリーは驚異と感嘆の吐息を漏らした。
一見不規則に絡み合う鉄パイプとワイヤーの塊。
だがそのオブジェのある高さ、ある角度から光源を当てると、素通りする光と物体に遮られた光の影が、ある像を結ぶ。
それは陳腐な言い方で表現するなら、裏の芸術、といったところか。
「すごい! 影が五芒星の形になっている!」
五芒星。互いに交差する長さの等しい五本の線分から構成される図形で、洋の東西を問わず使われてきた。
世界中で魔術の記号とされ守護に用いることもあれば、上下を逆向きにして悪魔の象徴になることもある。陰陽道では魔除けの呪符として伝えられている。
でも一般人に分かりやすい説明は、一筆書きで描く星マーク、がいいだろう。
それが突如、何の因果関係も無い様な立体物から浮かび上がってきたのだ。
メリーの興奮も共感できる。私も気付いた時にはニヤリとしたし、こんなに綺麗に浮かび上がるとは予想外だったしね。
「そして芝生の形を見て。この影の境界に沿って、五芒星の内側だけ芝が短くなっているでしょ」
そう芝生を指差す私。昼間見た短い芝生は、俯瞰するとミステリーサークルの様に星形になっていることを発見したのだ。
そしてこの現象と相まって、導き出される結論は……
「もしかして、この星の中が異世界ってこと?」
「おそらくね。これは自然と人工が生み出した魔法陣なのよ。
短い芝生の謎は単純。ここらの植物は合成植物だから、伸びる速度は全て一定。
つまり一部分だけ短くするには、わざとそこだけ刈り込むか、成長速度を遅くするしかないわよね。
用務員さんがそんな面倒な事するわけないから、真相はひとつ。
この影の内側は、時間の進みが遅いのよ」
そう予想を立てる私。メリーは目を輝かせる。
「時間因果律のジャンルは未解決だから何ともいえないけれど、ともかく植物はきちんと異次元に適応していたのね」
「すごい。これを作った……えーと、何某さんは計算していたのかしら」
おそらく金属プレートが見えなかったので、適当な名前でごまかしたメリーに、私はいやいやと首を振る。
「計算だとしたら、その人は相当な頭の持ち主よ。私の師匠に任命してもいいくらい。
でも現実的には、素晴らしい偶然が重なった結果だと思うわ。
パイプの構成、オブジェの場所、そして太陽の位置」
「太陽?」
メリーは首を傾げる。
「今はこうして照らしているけど、昼間は太陽が影を作るでしょ。
でも太陽は動くから、影がこういう星マークになる時間はせいぜい一時間でしょうね」
そう私は昼間指差して確認した太陽の位置をメリーにも示す。
太陽がちょっと動くだけで星は崩れ、建物の影に飲み込まれてしまう。
さらには、角度が高くても低くても星形にはならない。
つまりこの季節の限られた時間しか現れない、幻の星ってわけだ。
ここで聡いメリーは気づく。
「あっ、じゃあAさんって」
「そう。ルンルン気分で待っている内に、影が動いてAさんが星の中に入っちゃったのよ。
そして中のゆっくりとした時空に捕まり、体感時間の1分が現実では1時間にも引き伸ばされる」
「受信するはずの電波の速度もこの中でのろくなるから、電波時計が遅れ、携帯電話は役立たずとなる。
でも姿が消えるっていうのはどうしてかしら?」
当然の疑問に、私はいよいよオカルト風味の理論を展開する。
「これは私の予想だけど、この世界の時間軸はたった一つ、この場合は普通の速度で進む時間軸で構成されているわ。
そこに異物ともいうべきトロトロ走る時間軸が並行して現れたら、さて現実世界はどう反応するでしょう」
「その時間軸自体を……無かったことにする」
「多分ね。時間が遅れるなんて黒歴史をパラレルワールドの一部に追いやり、最初から無かったことにする。
つまり無い物は存在しないから、Aさんの姿は掻き消えてしまう、と」
うんうん。荒唐無稽だが筋が通っている。人知を超えた前提以外は完璧。
そして理論が構築されたなら、あとは実証あるのみ。
私は腕時計を外す。今日もこの時計は、上空の星たちと同じ時を刻んでいる。
ここでメリーをチラ見すると、私の意図を察知して興味津々に時計を見つめる。
「こんなことなら、もっと安物を買っておくべきだったわ」
「この状況で蓮子なら、スイス製の高級腕時計でも放り込むでしょう」
「まぁね。手元に都合よく原子時計も無いことだし、これで我慢」
私はそうのたまうと同時に、腕時計を星の中に投げ入れた。
そして腕時計が影の内側に入った刹那、腕時計はチャンネルを変えられた様にいきなり消失してしまった。
これより、私の説は実証された。
ふふん、とおそらく得意げな顔になってしまった私にメリーも完全に納得して、こう呟く。
「Aさん、危なかったわね。そんな危ういバランスの世界に一瞬……否、長時間居ただなんて」
「確かに時空の彼方へワープしてもおかしくない環境だけど、太陽が動いちゃえば魔法陣も消えるから、また戻ってこられるのよ。
ところが今回はチート仕様だから、何時間でも楽しめるわ。
どうする? 中に入ってみる?」
些か早急だが、私は核心に迫る。
私達は秘封倶楽部。結界とは多少趣が異なるが、異世界に果敢に挑むことが私たちのモットーである。
メリーは困ったような表情で考える。しかし目は全然笑っていなかった。
「どうしましょう」なんて余裕ぶった回答をするが、明らかにこの五芒星のミステリーサークルに軽く魅入られている。
ふと、メリーは手を伸ばす。ゆっくり、その先は星のゾーン。
別にジジジと青白い火花がスパークしている訳でもない、静かな空間。
私は固唾を飲んで見守る。
しかしメリーは、ふと手を引っ込める。
「……行かないの?」
私の問いかけに、メリーはやれやれといった微笑みを浮かべる。
「太陽の力を借りない、急造した魔法陣じゃ何が起こっても不思議じゃないわ。
腕を突っ込んだ瞬間、腕と胴体があっちとこっちの時間軸に泣き別れ、なんてことが起こっても文句は言えないのよ」
夢の世界で怪我をするほどアクティブなメリーとは思えない慎重な意見だったが、確かに今回は時空という何人たりとも近寄らせない聖域相手だ。
君子危うきと勝てそうにない相手には近づかず。私も素直にうんうんと頷く。
「それに」
「ん?」
なんだ、まだ理由があるのか。接続詞を続けるメリーに、私は次の言葉で宇宙を見た。
「もし中に入れても、たとえ数時間とはいえ私の時間は蓮子とズレてしまうわ。
八百比丘尼の逸話の通り、友人と異なる時間軸を持つということに、私は耐えられそうもないから」
おー、と私は感心する。
普段ぽやぽやと、ケーキや焼き芋みたいな甘くてオーガニックな物を好んで頬張るのどかな口から、哲学が飛び出してきた。
それは実証不可能な意見だったが、どんな学説よりも私に染み入った。
「そうね。これ以上メリーの時間が遅くなったら、スローリーとかに改名しなくちゃいけなくなるもの」
「あ、ひっどーい」
「冗談よ。私も、メリーには私と同じ時空を歩んでもらいたいわ。では、本日の活動はこれにて終了ってことで」
そう私は締めくくり、スポットライトの明りを消す。
すると正しい時間に戻ったのか、腕時計が暗闇の中にポトリと落ちた。
拾い上げて文字盤を確認すると、だいぶ時間が遅れていた。
しかし現実世界に戻って数秒、時計は夢から覚めた様に慌てて時を修正し、正しい時刻を知らせたのだった。
――◇――
翌日、私達は中庭で絶句した。
鉄ワイヤーの周りには足場が組まれ、作業服にヘルメットのおじさんが何人かウロウロしている。
すると作業員の一人が看板を立てる。そこには工事内容がこう記されていた。
『オブジェ解体工事』
「おじさん!」
私の悲痛ともいえる叫びに、看板の作業員が「んあ?」と返事をする。
「これ……何で?」
私の問いかけに、作業員は私の何故壊す!? という感情に同調するような口調でこう気だるげに答えた。
「ああ。このオブジェを作った……ナントカっていう芸術家様の意向だよ。
何でも『若者の飛躍は変化と共にある』っていうテーマに沿うために、適当な時期にオブジェの形状を変えていくんだとさ。
それで設置してひと月で鉄骨の組み直しだ。まったく、高尚なお考えはよく分からん」
そうぶつぶつ呟きながら、作業現場に戻る背中を見送る私達。
いや、正確にはそのさらに先。ワイヤーが切断され、ガラガラと崩壊する元鉄ワイヤーをただ茫然と見つめていた。
「――信じられない! あんな傑作をあっさり壊すなんて」
学内のカフェに河岸を移した私は、憤懣やる方ないといった具合で世の不条理を説く。
そんな私に、メリーはただただ慰める様な苦笑を返して、カフェオレをストローで吸った。
「これでタイムマシンもパー。ヘタしたら量子解析にも応用できたかもしれないのに、全ては夢幻の如くなり、よ」
「まぁ、当の芸術家さんもその価値を知らなかっただろうし、悪気はないわよ……多分」
そう、そんなことは分かっている。だからこそ、こうやって遣る瀬無い感情をコーヒーで流し込んでいるのだ。
「でも、希望はあるわ」
「?」
ヤケコーヒーを味わっていると、ふとメリーが不可解な事を言い出す。
「だって、ただ壊すだけじゃなくて、形を変えてまた復活するんでしょ。
今度の鉄ワイヤーは、時を遅らせるより想像できない摩訶不思議な現象を起こしてくれるかもしれないわよ」
その意見に、私は目からウロコが落ちた。
なるほど、こんなポジティブな発想があったとは。しかも私好みの。
「それじゃ、秘封倶楽部としては今後も推移を見守らないとね」
「ええ、まずは噂の解析と精査。次に考察」
「そして実地検証ね」
そう言って、私は立ち上がる。メリーは笑って問いかける。
「お次はどこに集合かしら、蓮子」
その答えは、決まっている。
「しばらくは同じよ。『遅れる所』で待ち合わせ、ってね」
こうして秘封倶楽部はまた動き出す。
今まさに建築中かもしれない、新たな伝説に向かって。
[終]
日常ものと冒険ものを同時に読めてるお得感がありましたw
季節によって太陽の位置も違ってくるので
そのままにしておいても六芒星とかに変化してそうですねw
鮮やかな導入部に引き込まれながら、一気に読んでしまいました
身近に潜む怪異が秘封に似合っていて良かったです
ミステリ仕立てで楽しめました。遅れる所、いいですね。
二人の会話も軽妙かつ信頼にあふれていて良かったです
初めての秘封モノでしたが、お気に召されたようでほっとしました。冒険は日常に潜んでいる。そんな二人のイメージです。
奇声を発する程度の能力様
いつもご感想、誠にありがとうございます。
4番様
福田繁雄さんの作品は美術の教科書で始めて拝見しました。驚いて二度見しました。
六芒星になったら、いったいどんな怪奇現象になることやら(笑)
南条様
冒険は日常に潜んでいる。そんな秘封倶楽部のイメージを楽しんでいただけたのであれば幸いです。
8番様
二次創作書きにとってとても嬉しいご感想、ありがとうございます。
9番様
何でもないような所が、実はミステリー。楽しんでいただけてよかったです。
10番様
”鳥も鳴くし、小さな花だって咲いている。”は、秘封倶楽部の世界観を知っている方には面白い文章だな、と思いつつ盛り込みました。
ちなみにタイトルは、乙一さんの小説『暗いところで待ち合わせ』をもじっています。
11番様
二人の会話は何度も書き直して、原作っぽくなるよう試行錯誤しました。お気に召していただけたら幸いです。
12番様
まさにその通りだと思います。そして消えるには惜しい不思議達が、幻想郷でまた現役復帰するのかもしれませんね。
地面に魔法陣って聞くと、キタキタ踊りが頭をよぎるがま口でした。