。
かれここに天の鳥船の神を遣はして八重事代主の神を徴し來て問ひたまふ時に
その父の大神に語りて「恐し。この國は天つ神の御子に獻りたまへ」といひて
その船を蹈み傾けて天の逆手を青柴垣にうち成して隱りたまひき――
『古事記』国譲り
| 一/六 | 月の海にて ~ Artificial Sky
裏の月、賢者の海、その上空。現在、ここにいるのは私だけだ。私はスキマを利用して月面にやってきていた。足元では思考して止まない海が沸き立っている。大気の在り方に左右されることなく自らの意思の力による作用で姿を変え続ける“賢者の海”。そしてたった今、私の背後で潜り抜けてきたスキマが口を閉じた。地上で水面に映る十五夜の月を断ち割るように開いたスキマ。それは一月に一度だけ、良く晴れた満月の晩に僅かな間しか開けられない裏の月への直通通路。それが、閉じた。
月人が何も知らない地上の妖怪を陥れるために仕掛けた罠。奴ら月の民はそのためだけに月の公転周期すら動かしてみせた。退路はない。覚悟の上だが、馬鹿なことをしているという自覚はある。なのに、どうしてこんなことをしようと思ってしまったのか。もしかしたらあの仙霊、純化した怒りと憎しみによって成り立つ名もなき存在の発した復讐の気に当てられたのかもしれない。普段の私らしからぬ軽はずみな行動に、思わず自嘲の薄笑いが浮かぶ。
さながら今の私は明かりを求め、自ら炎に飛び込む夏の羽虫のようなものだ。地上に戻るには一月待つか、強制的に送り返されるか、さもなくば自力で飛行して帰るだけ。故郷は月の海の遥か向こう、表側に出れば頭上に青いビー玉となって浮かんでいる。地上の海の外では“ザ・ブルー・マーブル”と呼ぶらしい。綺麗な名だが、ここからはもっとも近くて三十六万キロメートル離れた場所。下手をすれば二度と土を踏めない大地。忘れがたき、よすがの緑。月に住む者はあれを穢れた罪の星だという。
私は考える。あんなにも美しいものが月人の目には一体どのように映っているのだろうか、と。天の頂に牢獄を見上げる月の民の気持ちとは――いや、月人はあれを天だなどとは思っていまい。その反対、月の地殻と物理的な空間によって遮られ、遠く隔離された終わりなき誕生と死穢で満ち溢れる生命の地獄。誰かは“重力井戸の底”と言っていたが、月面に来ればその言葉の意味がよく分かる。月の裏側からすれば地球は常に足の下にあるのだが、物の見方を変えるとはそういうことだ。
そう言えば、地獄の底部は衆生の住む閻浮提、つまり人々の足元から測って四万由旬ほど下にあるという。一由旬は古代インドの長さの単位で大体七キロメートルだから、四万はおよそ二十八万キロメートルといったところか。確か、以前にそんな話をしたことがある。私は「地球を通り越して月の方が近いくらいね」と相手に言い返されたのだが、月にとっての地獄が地上なら、それもあながち間違いではないのかもしれない。
何せ数百万から数千万年もの昔、月は地上のもっと近くにあったのだから。ロシュ限界などは問題外、はっきり言って無視していいレベルの誤差だから考えるにすら値しない。今だって、月は地球の近地点と遠地点の間を四万キロメートルも行ったり来たりしている。それに比べれば八万キロメートルなどものとするほどの距離ではないのだ。それも観測の結果が誰にもいたずらされていなければの話だが、太古の昔において地上の存在はそれだけ月の影響を受けていた。
私は高度を落とすと、つま先が水面に触れるか触れないかの所まで舞い降りる。月の海に生き物は一切存在しない。生命の弱肉強食による生存競争こそが穢れを生み出す原因だからだ。地上の海の暗く沈んだ群青色と、あの血液を飛び切り濃くしたような匂いは無数の生き物が生息している証。最初の生命体は原始の海・有機物のスープから生まれ、そして寿命を迎えたものから海に溶けて還って行った。つまり“生き物”とは“死ぬもの”と同義であり、地上の海の匂いは連綿と受け継がれてきた生と死の匂いというわけだ。
月人はそれを嫌って地上を離れ、あまつさえ移住した星を地上からさらに引き離した。生命のない月の海は明るい薄青色をして、薄荷のような澄み切った香りを放っている。その清浄すぎる空気を胸いっぱいに吸い込み、しゃがみこんで手に水を掬ってみると地上の海水よりも比重が低い。水というより、まるで軽い砂のように私の手のひらから零れ落ちていく。これでは生物が浮くことすらできないだろう。物体の粘度と比重は、そこで繰り返されてきた命の数と密接に関係しているのだ。
その時、視界の端に動くものを捉えた私はその正体を確かめるために立ち上がる。とはいえ私にとってそれが何か、あるいは誰であるかは半ば予想がついていた。恐らく月の使者のリーダー、綿月豊姫・依姫姉妹だろう。月の賢者である八意永琳の弟子にして都の防衛を司る綿月の姫。私の前に現れるならこの二人以外にありえはしない。なんといってもスキマを潜る前、私は彼女らに向けてメッセージを託した式を飛ばしておいたのだから。
“「今来む」と言わんばかりぞホトトギス、有明の月の雲や紫――”
私が送りつけたメッセージというのは順徳院の詠んだ歌を作り替えたものだ。順徳院といえば出雲の古風な調べを好み、『八雲抄』という歌論を著した人物でもある。ホトトギスはまたの名を魂迎え鳥とも呼ぶが、これは言い換えれば玉迎え、即ち「豊玉・玉依の二人を迎え撃つ用意がある」という意思の表明に他ならない。有明の月は暫くここに留まることを伝えるもので、雲や紫は言わずもがな。
“「今行きます」と口では言わないタマムカヘですが、私はあなた方を待ち続けます。八雲紫――”
仮にも永琳の薫陶を受けたのなら、あの姉妹もきっとメッセージに気が付くはずだと私は固く信じていた。二つの影が空中でその動きを止める。片方は白い帽子を被り、菫色の服を着て、盾のような望月の紋章をあしらったバックルを身につけた、白金のような長い髪の持ち主である綿月豊姫。もう片方は茜色の服に剣のような眉月の紋章をあしらったバックルをつけ、藤色の髪を黄色い布で結んだ綿月依姫。やはり私が想像した通りの者たちだった。
「お待ちしておりましたわ、綿月の姫君。ようこそ賢者の海へ」
私は眼前に到着した月の使者を見上げ、腕を広げて声を張り上げる。立場違いもいいところだ。元々ここは綿月の領域。私こそ侵入者に他ならないのだから、彼女らにしてみればさぞかし滑稽にみえるだろう。しかし、だからこそいいのだと私は思う。何も互いに死力を尽くすような果し合いを望みに来たわけではない。一目で見て滑稽だと分かるから、これは単なる遊びだと言わずしても相手に真意が伝わるのだ。訪れたのは豊姫と依姫の二人だけ、ならば何を物怖じすることがあるだろうか。
「御二方を歓迎いたしますわ」
私は片脚を斜め後ろに引き、両手でスカートを広げるように摘まんで膝を曲げ、ただし視線は外さずに最大限芝居がかった仕草で頭を下げてみせる。姿勢を戻しても姉妹はこちらを見下ろしたまま佇んでおり、特に妹の依姫は開いた口がふさがらない様子らしかった。まずは思った通りの反応を見ることができたので良しとしよう。ただし、私の内心はこれから始まる闘いの予感からエピネフリンでも投与されたかのように昂ぶっている。もしこの体に心臓があれば脈拍は秒間二・五回を超えて血を巡らせ、来たる激動に備えているだろう。
ところで先ほど「果し合いがしたいわけではない」と言ったものの、私は元から闘うつもりでここに来たことを思い出した。要は「闘いの結果に命のやりとりまでは含めない」ということなのだが、それがこちらの一方的な都合に過ぎないことは重々承知している。ただ、姉妹は穢れを嫌う月人であるために自ら殺生を忌避しているし、私も最初から相手に勝てるとは思っていなかった。
姉妹には侵入者を退け都を防衛するという使命があるし、そして私が地上へ帰る手立てを持っていない以上互いが闘うことは避けられず、それはむしろ私の本懐でもある。その上で無事地上に帰りたければ姉妹に負ける必要があるのだが、何も形ばかりの敗北を喫するためにここへ来たわけではない。たとえ負けると分かっていても、やるからにはそれなりにいい勝負をしてみせるのが相手に対する礼儀というものだろう。
「さあ始めましょうか、美しき幻想の闘いを。誰にも語り継がれぬ第三次月面戦争を」
私は姉妹に向けて宣戦布告する。これも千年以上前、第一次月面戦争の前後に端を発している復讐。故に闘うことこそが究極の目的なのだから。
| 二/六 | 発端 ~ Quake
事の発端は八坂神奈子とお酒を酌み交わしたことだったと思う。さらに遡れば何者かが幻想郷を浄化しようとしていたあの出来事、元凶を突き止めるために出掛けた博麗の巫女が月から帰ってきた後、“異変払い”と称して守矢神社に乗り込み共に解決に出かけた山の上の風祝を巻き込んで突発的に宴会を開いたことなのだが。
あれからしばらく経つというのに酒宴は四、五日毎に開かれ続け、やがて物好きな人妖は山に漂う宴会の気配を嗅ぎ取って集まりだし、今日も主催である二人は境内に敷かれた毛氈の上でへべれけとなって酔いつぶれている。とても人様に見せられた恰好ではないのだが、彼女らがやり遂げたことを思えば何をしていても咎められるものではない。私は藍を呼んで巫女と風祝の介抱を命じると、一人で神社の拝殿へとお邪魔することにした。
「よう、八雲の」
拝殿に入るなり、私は大振りの盃を持った神奈子から声をかけられる。八足台の前に胡坐をかき、笑みを浮かべる彼女は自分の隣にある円座を勧めながら私に聞いてきた。
「うちの早苗はどうなってる」
私も勧められるまま、神奈子の隣に腰を下ろしながら彼女の問いに答える。
「今、風に当てさせてますわ。霊夢と一緒に」
「うん、そっかそっか」
神奈子は満足気に頷くと、一息に盃の中身を飲み干した。その表情は自分に仕える巫女を誇らしく思っているのか、何しろ今回の異変は幻想郷から表の月・裏の月にまで及ぶ大遠征だ。人の身では往くだけでも容易ではないというのに、彼女らは出くわす黒幕という黒幕を片っ端から倒して帰ってきた。手元にスキマを開いて境界越しに境内を覗けばそこはどんちゃん騒ぎの真っ最中だったが、主役の二人はまばゆい月明かりに照らされつつ軽い寝息を立てている。
奇しくもあれから一月後の十五夜、今夜は月見をしながら過去の出来事を振り返るのにはちょうどいい晩だろう。と、そこで私は神奈子から素焼きの土器を手渡され、それを受け取ると間をおかずに瓶子からお神酒を注がれた。次いで神奈子は自分の盃にも酒を注ぐとそれを片手で掲げたので、私も倣うようにして土器を両手で顔の高さまで持ち上げ口をつける。一献。
「しかし早苗も月に行くとはねぇ。これでもう以前と同じ気持ちじゃ月見はできないかも」
大小二つの酒器を同時に傾けたというのに、降ろすときも二人一緒だった神奈子がそう呟いた。それに対して私も自分が思ったことを言う。
「私たちがそうであるように?確かに普通の人間は月に都があって、誰かが住んで、兎が薬を搗いているとは夢にも思わないでしょう。あの子も霊夢たちから話は聞いていたかもしれないけれど、今回の異変で遂に真実の月を自ら目の当たりにしたわ。でも、あなたはそのほうが嬉しいのでしょう?彼女が誰かと同じものを見て、触れて、感じて、考えて、それでもいつか自分と同じ場所に立ってくれるのを願うことが」
「……ふむん」
感慨深げに息を着いた神奈子は再度こちらに瓶子を差し向け、私は黙って酌を受ける。
「かもね。でもね、神の言うことじゃないかもしれないが、そうあってほしいと想えば願いなんてのはいつだって叶うのよ。それでも、またこうしてお前と月見ができるとは思わなかったさ。何れの処か酒を忘れ難き、じゃないか?コトシロ」
「ふふ、何を以ってか平生を叙せん――そんな古い名前は忘れちゃったわ、ヤサカミカナ」
神奈子の言うように、かつて私は“コトシロ”という名で呼ばれていた。今よりもずっと昔、それよりもっともっと古い時代のことだ。私がそう呼ばれていたことを覚えている者は、もう片手で数えるほども残っていないだろう。もちろん、本当の名ではない。それはそれで別にあるのだが、私の名というのはどうもこの国の人々にとって非常に発音しにくいものらしく、確かに私の相方でさえフルネームで呼んでくれた記憶はあまりなかった。
まあ、そこは掘り下げなくてもいい。今大切なのは昔々、神代の往古についてのことだ。この大きな島々、数えきれないほどたくさんあるという意味の“八州”と称される地に日本という名前どころか現在の国の形すら出来ていなかった頃。か弱い人間の娘に過ぎなかった私にとって“国”といえば“出雲”がすべてだった。
私が出雲を訪れた切っ掛けというのは、それほど大した理由ではないと思う。いつものように境界を飛び越えようとしたら、ふとしたはずみで思いもよらぬ“うねり”に飲み込まれ、そこに落ち込んだだけに過ぎない。そのとき私は一緒にいた相方の手を離してしまい、彼女ともそれきりはぐれてしまった。「東北人並みにのんびりしている」と言われた私があれほど取り乱したのは多分生まれて初めてだろう。初めてだと思う。もしかしたら、前にも一度くらいはあったかもしれないが。
悔恨と絶望で目の前が真っ暗になった私が意識を取り戻すと我が身はいつしか見知らぬ浜辺に打ち上げられており、再び境界を飛び越えることは出来なくなっていた。いや、境界なら以前にも増して見えている。驚くべきことに、私が今まで見たことないくらいの境界が。しかし、そのどれもが自分の知る場所につながっているとは到底思うことができなかった。どうやら私は相方の行方と共に、自分の帰るべき場所まで見失ってしまったらしい。最初は茫然としていた私だが「これは夢でないのだ」と時間が経つにつれ冴えていく頭が現実を受け入れるたびに、両の目からとめどなく涙が溢れ出た。
そんな私を拾って介抱してくれたのが、この地で暮らしていた人々だった。麻を編んで作ったような袈裟衣や貫頭衣といった粗末で原始的な服飾に身を包み、手や腰に狩猟や採集の道具を携えた彼らは一人浜辺で泣きぬれている私を見つけると、見慣れない衣服と風貌を指して異邦人や外来人であることを示す“えびす”と口々に呼んでいたのを覚えている。蛭子や寄り神といった概念を内包する戎とは言ってみれば海からやってきた客人、マレビトという意味だ。
次いで彼らは私がどうやってここに来たかを気にしていたようだが、不思議なことに私はそんな彼らの言葉を何となく解することができた。私の言葉は彼らに通じないが、彼らの言葉は私に通じる。境界を見る能力は完全になくなってしまったわけではないのか、飛び越えることこそできないものの、いまだ私の中で生き続け力を貸してくれているようだった。それどころか以前は相手に触れる必要があった能力を無意識的にワイヤレスで行使したという事実は、それが強まっていることすら示唆している。それも多くの境界が手つかずで残るこの地の賜物だろうか。当時の私にそれを確かめる余裕はない。
とにかく私は彼らの集落で手当てを受けることになり、私もそれに同意して大人しく従った。現在の私には他に頼れる手だてがないからだ。何よりここがどこなのか見当すらつかない。少なくとも現代ではなさそうだし、今の時間帯は雰囲気からして朝なのだが、残念なことに私の能力は行先の場所や時間を指定できるほど器用ではない。もし私の隣に相方がいたら彼女は空を見て時刻も現在地も言い当ててくれただろうけれど――そこで彼女が能力を発揮できるのは夜に限られていたことに気が付き、とんだ宝の持ち腐れねと思う私の頬をまた涙が伝って落ちて行く。
そんな目しか持たない彼女は、境界を見る目を持つ私がいなければどこへ行くこともできないのだ。携帯端末も通じず、先立つものもなく、身を護るための武器さえない。科学の世紀で生きてきた私たち現代人にとって、それがどれほど心細いことか。もしかしたら彼女だけ元の時代、元の世界に戻っているかもしれない。そんな万に一つの可能性では何の気休めにもならず、今度は嗚咽が私の口から漏れ出てきた。
またも砂浜に崩れ落ちた私を心配するように、一際良い身なりをした年配の女性が傍らに寄り添ってくる。そして彼女に励まされながら再び歩き出した私たちはようやく集落へたどり着いた。それは海岸を離れてからやや内陸に入った高台の上にあって、竪穴式住居が立ち並ぶ居住スペースの周囲をいくつもの堀と柵で囲ったような、いわゆる高地性の環濠集落というものだ。彼らは恐らくこの付近一帯を治める権力者の一族なのだろう。つまり、豪族。
私たちはお堀に渡された橋を越えて集落に入ると、その奥に向かってひたすら進む。やがて私が目にしたのは正面に木組みの門を構えた高床式の立派な住居だった。茅葺の切妻屋根、その両端から飛び出し天に向かう千木、入口に上がるための階段。今まで見てきたような竪穴式住居とは一線を画した建造物。私はこれとよく似たものを知っている。そう、神社だ。木組みの門は鳥居であり、社に住まう者は神なのだ。その発見に私は思わず言葉を失っていた。
館で手当てを受ける頃は、私にもここがどこだか分かり始めていた。いや、“どこか”というより“いつか”というべきかもしれない。神の住まう国、それはここが“日本”であることを示している。それもまだ神代の、文明も何もかもが発達していない太古の昔、幻想とされるものが決して迷信などではなく、科学によって人々の記憶の片隅に追いやられる前の、明確に実体を保っていた頃の日本の姿だ。
この光景を相方に見せたら彼女はどれほど舞い上がるだろうか。何せこの国の創生に関わる秘密を解き明かすためのカギ、“伊弉諾物質”に関する手がかりが得られるかもしれないのだから。だが彼女は今ここにいない、私が手を離してしまったから――浜辺から付き添ってくれていた身なりのいい女性が悲痛な面持ちで「痛むのかい」と私に聞いてくる。私は頭を何度も横に振った。その時だ、館の主である長が私のところへやってきたのは。
「人が生きたまま漂着するというのは珍しい。が、全くないというわけでもない」
長はそう前置きすると、私に聞いてきた。
「名はなんという」
なにせ彼らにとって、私はどこからともなく流れ着いた外来人なのだ。元からこうして尋問するために連れてこられたのだろうということは分かるのだが、私の目前で部屋の上座に坐する長は初老に差し掛かりながら隆々とした体躯を誇り、腕に刻まれた幾多の傷跡は数々の難場を潜り抜けてきたことを思わせ、なおも堂々とした立居振る舞いが周囲の空間に力強さを漲らせている。そんな長の迫力に気圧された私は馬鹿正直に答えてしまった。
「■■■■■■・■■■」
「……タテ、お前はどう思う?」
私の側にいる身なりのいい女性、恐らく長の妃だろうタテと呼ばれた品のいい人物は何とも要領を得ないという顔をして見せる。やはり、この国の人にとって私の名前は発音がしにくいようだ。これでは相方からなかなか本名で呼んでもらえないのも道理かもしれない。
「どうやら言葉は分かるようだな」
長の問いに私は頷く。
「では聞くが、これは?」
長はそう言うと、自らの手首に巻いてある腕輪を指で差す。色とりどりの玉や石で飾られた、身分の高い者が身に着ける物と分かる宝飾品だ。私は答える。
「うでわ」
次に長は自分の腰に吊るしていた武器を手に持って見せる。
「これは?」
「つるぎ」
「ならば、あれは」
最後に長が指差したのは館の外、空に浮かんで眩しい光を放っている天体だった。
「たいよう」
「なるほど、分からぬ」
そう結論付けた長だが気落ちしたような様子はない。実にあっけらかんとした口調で私の隣にいる女性に指示を出す。
「その様子ではどこから来たかを聞いても仕方あるまい。しばらくここにいるがよかろう。タテ、悪いが面倒を見てやってくれんか」
「はいはい、この人は一度言い出したら聞かないんだから」
長の言葉に、女性はまるで手のかかる子のわがままを聞く母のような顔をしている。多分、こんな長の性質には付き合い慣れているのだろう。私の素性についても、これ以上追及するつもりはないようだ。恐らく漂流者だと思われているのかもしれないが、それはある意味において事実であったし、この時代にたった一人の漂流者を誰かが迎えに来ることなど、そうそうあるものではないこともすぐに分かった。
しかし、万が一ということもある。もし私が彼らに災いをもたらす者、この集落を陥れるために送り込まれたスパイだと疑われたら身の潔白など証明のしようがなく、そうなったらどんな仕打ちを受けるかを想像する事すら恐ろしい。だが彼らも私の処遇を決めかねていた。恐らく彼ら、あるいは彼らに敵対的な関係の者たちと比べても異質すぎる私の風貌が原因だろうか。
そんな私をどうするべきか彼らは迷い、長は私の身柄を手元に置いておくことを選んだようだった。第一、私は帰るべき場所、そこにたどり着くための境界を見失っているのだ。自分の半身ともいうべき、私の相方の行方と共に。彼女がいなければ私はどこへも帰れない。そんな私の心情を知ってか知らずか、長は既に次の段取りについて考えている。
「しかし肝心の名が呼びにくくてはな。不便も多かろう」
後に聞いた話だが、長は近隣の集落から身寄りを失くした子供を引き取っては自分の一族として育てていた。その数は実子と養子を合わせて八十人というから私は随分と驚いたが、それも長に人望が集まる理由の一つのようだ。やがて考えがまとまったのか、彼は自分の膝を手で打ちながら私に言う。
「よし、話せずとも言葉を解することから“言葉を知る”という意味の“コトシロ”というのはどうか」
「いいんじゃありませんか?ねえ、ここにいる間だけでもそう名乗りなさいな」
女性も私にそう勧めてくる。
「今日から仮の名として“コトシロ”と称するがいい。オオクニヌシのナムチから与えられた名だと言えば、多少の融通は利くだろう」
それが太古の昔、出雲と呼ばれる地にて国造りの長である“大国主”と対面した瞬間。いずれ私が八雲紫を名乗るきっかけとなる始まりの物語だ。
| 三/六 | 出雲 ~ Ancient Power
出雲の地は、それより広い範囲を指してまたの名を“豊葦原中国”というのだそうだ。むしろこちらのほうが原義に近いのかもしれない。その名の通り、広大な湿地を水源に一面の葦原が広がっていたことが由来だろう。どこまでも無限に続くかのような湖沼に広がる葦の原野は春夏に青々とした葉を茂らせ、秋冬は荒涼とした寂しさを漂わせながらも夕日を浴びると燃え上がる炎と錯覚するほどの朱や黄金に染まり、風で音を立て波打つように揺れる光景はそのどちらもが見る者を心を動かさずにいられない。その葦の穂が首を垂れる姿を目に捉えた人々は、この地を“豊葦原瑞穂国”とも呼んだ。
また、出雲の権力は製鉄によって成り立っている。その原動力となったのも葦だった。多量の鉄分を含む水辺に葦が生えると、その根から鉄の塊が取れるようになる。故にこの地はいつしか出鉄と呼ばれるようになり、それが変じて出雲となった――長の側近、クエビコと呼ばれる老人が私にそう教えてくれた。葦から取れる鉄の正体は褐鉄鉱だ。またの名を高師小僧というらしい。もっとも、これは現代での呼び方なのだが。出雲では専ら“貴重な金属”という意味の“みすず”と呼んでいた。出雲に来る前、信州を観光していた時の記憶の中の私が相方に向かって言う。
「聞いたことあるわ。出雲から亡命してきたタケミナカタを介してつながりを持つ諏訪地方では“みすず刈る”が当地の枕詞になっているんですって」
「信州の風土ってやつね。ただし、その言い伝えは後世の読み違いによる作話らしいけれど」
そういえば以前に彼女の研究室を訪ねた時、私も褐鉄鉱のサンプルを見せてもらったことがある。小僧というにしても不格好な形をした物体は大学の近くで採取したとのことだが「天然記念物に指定されている場合もあるから、見つけたとしてもうっかり手を出すと捕まるよ?」と言われ、驚いた私はそれを放り出してしまった。なぜそんなものを、と彼女に聞けば「伊弉諾物質の手掛かりになると思って」と言う。そのために泥濘地を這いまわったのかと思うと呆れるしかない。
褐鉄鉱はその名の通り見た目は赤茶けた色の金属塊で、構造は中空になっており、振ると空洞に取り残された粘土か何かがカラカラと音を立てるのだが、相方によるとこれが神社で見かける鈴の原型なのだとか何だとか。その葦鉄も私が出雲に来た頃は既に砂鉄にとって代わられ、今は鞴を使う踏鞴吹きが主流となっている。その製鉄所から立ち上る煙が“出鉄”の名称を“出雲”にしたのだと私には思えるのだ。
ところで私は砂鉄を取るための行程を何度か見学しに行ったことがある。出雲に来てからの話だ。人から聞くところによると普段は恵みの水を与えてくれる川の上流、水源の近くで暮らすクモと呼ばれる一族が砂鉄の採取に従事しているという。そんな彼らの慰労と激励のため、実際はお互いの協定を再確認するための会合に出かける長に共として随行した私はそこで変わったものを見る機会を得た。
道中、護衛頭のタニグクという若者からクモについての説明を聞かせてもらう。と言っても私には相槌を打つ事しかできないのだが、どうやら出雲の民とクモの民は支配と服従の関係というより、むしろ対等な共存の地位にあるのだそうだ。なんといっても彼らは水利を押さえているし、出雲の生活は彼らの産出する鉄によって支えられている。だから彼らに砂鉄を取る仕事を任せ、その他のことは出雲の他の族が便宜を図ることになっている、と。
一行がクモの里に案内されて、私が最初に感じたのは好奇の視線だと思っていた。確かに私の異質な風貌が人目を引くのは知っている。だが逆に言えば私自身でさえ、そんな単純な理由が原因だと信じていたということだ。違和感に気が付いたのは砂鉄を取るための作業場である水辺を案内された時、物珍しさというより一種の恐れのような感情をクモの人々から向けられていると感じるようになっていた私は護衛の兵たちの間からそれを見た。
掘り出した土塊から砂鉄を選り分ける工程で土砂を水路に流す多くの人々に混じった一人の少女。その後頭部で一つの団子のように纏められた髪が放つ山吹色の輝きに私の注意は一瞬で惹きつけられる。出雲に来てからというもの、自分以外に目にすることのなかった金色の髪。彼女もどこか別の場所からやってきた異邦人なのだろうか、そんな考えに囚われた私はその場に立ち尽くす。
やがて少女がふと顔を上げ私と目があったものの、彼女は何の感慨も湧かなかったかのように視線を戻して再度作業に没頭するが、その頃には私も自分に向けられている感情の正体が分かり始めていた。クモの人々の視線はいずれ私や彼女のような異類の者が増え、自分たちにとって代わるのではないかという畏怖の顕れだったのだ。もしあの時に彼女と話し合いの場を持っていたらもう少し違う未来もあっただろうか、それは今の私でも分からない。
神奈子と知り合ったのも、ちょうどそんな頃のことだ。彼女との出会いは最悪だった。何せ神奈子は腰に軍刀である十握剣を帯びたまま、武装した部下を引き連れ土足で私の居室に踏み込んできたのだから。長の館でそんな暴挙がまかり通ったのは、彼女もまた長の養子であったからに他ならない。未だ直接顔を合わせたことはないものの長には八十人の子たちがおり、彼らや彼女らが義理の兄や姉に当たることは私も既に承知していたが、中々挨拶に来ようとしない私に対して兄姉一同を勝手に代表し最初にやってきたのが今まで末の娘である神奈子ということらしかった。
神奈子。当時の彼女はヤサカミカナと名乗っており、あるいは人から畏敬の念と共にタケミカナコとも称されていた。彼女の名前の“カナ”は神霊の依り付く地である“神奈”を意味し、養父に似て男勝りで武勇に秀でるとも聞かされている。ゆえに猛るミカナ、武御神奈子。だから私の前に現れた彼女を見た時、普通なら男につけられて然るべき「子」の名で呼ばれることにも思わず納得がいったものだ。そういう私の内心を知ってか知らずか、神奈子は抜き放った剣を板間の床に突き立てると腰に手を当て私を見下ろすように話しかけてきた。
「お前が私らの新しい妹になるっていうコトシロかい」
部屋の入り口で彼女を出迎えたものの、未だ満足に言葉を操ることのできない私は黙って首を縦に振る。そんな私に向かって神奈子は「ふん」と鼻を鳴らすと吐き捨てるように言った。
「気に入らないわね。賢しげなのは顔を見れば分かるけれど」
気おされた私は思わず後ずさるが、こちらが退くたびに神奈子も前へと踏み出て私を追ってくる。
「大体、言葉も碌に話せないくせに“言知る”なんていうのがおかしいのよ」
彼女の一方的な詰問は続き、私に伸ばされた神奈子の腕が胸ぐらを掴んだ。今私が着ている服は私の後見人となった女性、長の妃であるタテヒメから送られた服。このノースリーブの上着と分離した袖がセットになっている奇妙な服は、どうやら神の託宣を受ける巫女が身に着けるものらしい。私が浜辺で拾われた時と印象が変わらないようにと、菫色に染め上げられた着物だった。この時代、紫の染料が貴重品であることくらい現代人である私だって知っている。要はふらりと現れたよそ者が厚遇されていることに神奈子は反発しているのだ。人並みの洞察力しか持たない私でも、それくらいのことは難なく分かった。
「それに私より年上のくせに、あんたみたいなのが妹になるっていうのが面白くない」
加えて彼女は新参者が序列を蔑にしていることにも怒っている。仕方ないとはいえ私も自分に非があると認めざるを得ないから、臍を噛み黙って耐えることしかできなかった。神奈子に勢いよく体を押される。私の足がついに部屋の中央に置かれていた机に当たって上に置いてあった物が幾つか転げ落ちるものの、正面に立ち塞がられてはどこへも行くことができない。その時だ、床に落ちた物の一つに彼女の目が釘づけになったのは。
神奈子が掴んでいた私の服を放し、屈んで床に落ちたものを拾い上げる。それは私がこちらに来てから木の皮を剥いで作った原始的なルーズリーフだった。短冊状にして蔦を編んだ紐で纏めたり、そのまま丸めてある物に削った木炭で様々な出来事を記録した、私の日記。この時代の者には読めるはずもないのだが、彼女は無言のまま興味津々といった様子でページを捲り始める。やがて読み終わったらしい神奈子が顔を上げると、私に向かってノートを突きつけ聞いてきた。
「なんだい、これは」
「日記」
私は覚えかけの言葉を使ってたどたどしく答える。
「にっき?この意味が分からない羅列のことを“にっき”というのか?」
「それは、文字。文字で作られているのが、文章よ」
「もじ?」
そう言うと神奈子はもう一度ノートに目を移したが、その仕草からは先ほどまでの敵意が消え失せ、新しいものに対する関心が見て取れた。直後、彼女は私にノートを放り投げて寄越すと履物を脱いで踵を返し、それを部下に預けると床に刺さっている剣を抜き取って鞘に納めながら言葉を発する。
「お前たち。私はこれより我が妹、コトシロとすべき話がある。土足で踏み入ったことを家人に詫び、床を掃き清めた後に外で待っているがよい」
神奈子の命を受けた部下たちが頭を下げ慌ただしく部屋から出ていくと彼女は私の目の前で床に直接腰を下ろす。なので私も神奈子の前に正座した。
「まずは先ほどまでの非礼を侘びるとしよう。申し訳なかった」
私も彼女の言葉に対して頭を下げることで謝意を伝え、この件は手打ちとなったのか神奈子はどこか肩の荷が下りたような顔をしている。しかし、それで私のことを信用してもらって終わりにするわけにはなかったらしい。彼女は落ち着き払った声で話を続けた。
「とはいえ養父があなたを手元に置いておきたがる理由は分かったわ。あなたが私たちの知らない文字を使って出来事を残せると分かった以上、出雲から出すわけにはいかないもの」
それについてはこちらも承知していると、私は神奈子の目を見つめたまま頷いて見せる。私としても出来ないことは別にして、出来ることをわざわざ隠しておく謂れはない。技能を見せて自らの価値を証明しない限り、この世界で私の居場所などどこにもないのだから。それにしても恐るべきは彼女の聡明さだ。神奈子は私のノートを見ただけで文字の持つ機能を一目で見抜いてしまった。そして長と同様、彼女も私の頭の中にある知識に目を付けたようだ。
「なんにしても、喋れないっていうのは不便で仕方がないでしょう。多分それを解決するのが私の役目、きっと父もそれを望んでいるに違いないわ」
そうしているうちに先ほど出て行った神奈子の部下が床を掃き清めるため、葉のついた枝を持って私の居室に戻ってくる。恐らく、私はこれから対面の彼女に自分の様々なことを話さなければならないだろう。これが私と神奈子が最初に出会った時の顛末。こちらに来てから対等な立場で物を言い合える知己を得た出来事だ。
| 四/六 | 青柴垣 ~ Broken Memory
あれ以来、私と神奈子は親交を持ってカナコ・コトシロと呼び合う仲になった。互いに和解してからというもの私たちは共に過ごす時間を経て、彼女と話をするうちに私の言葉づかいは意思の疎通に不自由しない程度にまでなったのだが、何よりこちらで伝手を持たなかった私が後ろ盾を得たことこそ大きいと言うべきだろう。やがて神奈子に連れられ七十九人の兄姉と顔を合わせることになっても彼女が隣にいてくれたことは心強かった。それと同時に、あの神奈子に認められたという事実が私と兄姉たちとの関係を柔和にしていたのだと思う。
代わりに神奈子は私から様々なことを知ろうとした。それらは彼女を通していずれ出雲の知識・財産となるのだろうが、思えば神奈子はこの頃から技術革新というものに対して人一倍貪欲だった印象がある。彼女は試せるものは何でも試そうとするし、一つの物事を取り入れるのにも改良の手間も惜しまない。自分たちの文字を作ろうと言い出したのも彼女だ。神奈子が想いを伝え、それを私が形にする。誰もが覚えやすいよう単純な図形に点や線を加え、普段使っている言葉の音に一つ一つ字を当てはめていく。後に神代文字と呼ばれる文字――そんな物の起源に携わることになるとは考えもしなかった。
そう言えば二人でお酒を造ろうとしたこともある。お酒が嗜好品として世に出回り、人々の楽しみとなるのはもう少し時代が下ってからのことだ。当時お酒は貴重品で、雨乞いの儀式や豊作の祈願といった特別な機会でもなければ口にすることすら叶わない代物。しかも酒造りはそれを考案したスクナと呼ばれる一族にのみ伝わる秘伝。醸造も彼らだけに許されたものだったので、私たちは相当な悪事を働いたことになる。試行錯誤の末に出来たお酒はそこそこのものだったが、結局私たちの密造は露見し二人して長に叱られることとなった。
私と神奈子はそんな風に悪ふざけもすることもあれば、真面目な計画について延々と議論を重ねたりもする。だが喧嘩はあまりしたことがない。少なくとも出雲で彼女に敵う腕力や剣の腕の持ち主はいなかったし、神奈子はああ見えて思慮深い性格をしていた。そういう間柄は幾分か私の心の支えとなり、彼女を手伝うことは多分に私の気を紛らわせるための必要な儀式だったのだろう。
何かあれば神奈子は私に計画を持ちかけ、私の思案を元に彼女が計画を実行に移す。そうして神奈子と私は兄姉たちの中にあって頭角を現し、着々と足場を固めていったのだ。結果、気が付いた時に私たちは長を中心に「出雲の三本柱」と呼ばれるようになっていた。今日まで伝わる“大黒”柱という言葉は、出雲の主柱が“大国”主であったことに由来している。
そのようなことになっても私たちが兄姉の間であまり反感を買うことがなかったのは、ここが出雲という風土であったからに他ならない。もちろん私も神奈子も長に拾われた身である以上、義理に反することはできないと固く考えている。しかし、それ以上にここが出雲であるということが重要だった。長は私と神奈子の関係を評して「まるで自分とスクナのようだ」と過去を懐かしむように言う。スクナは私と同様の“えびす”であったそうだ。
出雲には昔から様々なものが流れ込み、それらがまとまって一つの共同体を形作ってきた。長の義父からがしてそうなのだ。この地に住む人々は様々なものを受け入れ、自分たちのものにして、共により良いものを手に入れようと力を合わせて生きてきた。身寄りのない者同士が一つ所に寄り集まり、皆でここで生きてゆこうと――そこで私は以前見かけたクモの少女のことを思い出す。彼女は一体どこからやってきたのか、と。
出雲を訪れてから随分時が経った頃の明け方近くに、長の館の渡り廊下で立ち止まってそんなことを考えていた私は朝の参詣に訪れた神奈子から「よう」と声を掛けられた。彼女はニヤニヤとした笑みを浮かべながら庭に敷かれた玉砂利を軽快な音で踏み鳴らしつつ私を見上げ、わざと改まった態度で茶化してくる。
「ヤエコトシロ殿は朝も早くから企みごとですかな」
ヤエコトシロ。それは私が手に入れた新しい呼び名のことだ。出雲の一柱と称されるようになったのだから、もっと大層な名前があったほうがいいんじゃないと、そんなことを言い出した神奈子が私の元の名をコトシロという名の頭につけたのが始まりで、今ではこちらのほうが公に通るようになっている。ただ私の名前が発音しにくいのは変わらないらしく、どうしても“ヤエ”という風に音が変化してしまっていた。
「別に企みごとなどしていませんわ、タケミカナコ様」
「あは。悪かった、悪かったわ。で、やっぱり今日も浜に行くの?」
口をとがらせ言い返す私に対し、神奈子は侘びながら渡り廊下に腰掛け足を投げ出しそんなことを聞いてきた。なので彼女に目線を合わせるため私もその場に座り込む。浜とはミホの浜のことで、私が最初に流れ着いた地のことだ。私は暇を見つけると浜を訪れ、境界の裂け目を探しては中を覗きこむということを繰り返している。全ては相方を見つけるため――だが、それも深い落胆につながることのほうが増えていた。
唯一の慰めは裂け目を覗くことで知り得た物事を長やタテヒメ、神奈子に伝えることだ。彼らも私が語る裂け目の向こう側の話に興味深く耳を傾けてくれる。だが周囲の人々はそれを一種の託宣として受け取ったようで、“言葉を知る”という意味だったコトシロも次第に“物事を伝える依り代”、即ち“言葉”そのものを指すようになり、あるいは“代わって物事を伝える者”と同一視された結果、巫女としての性格も付与されるようになっていった。
それとは別にイビシツベという役職も私は戴いている。現代風に言えば「えびすの部」といったところか。要は私と同じ異邦人や外来人の処遇を扱う管轄で、それらとの交渉や相談を司っているというわけだ。いつしか私はそれほどまでに出雲の中枢へと入り込んでおり、それが三本柱の末席に数えられるようになった理由でもある。
「ええ、行くわ。明日の日暮れまでには帰ってくると思うけれど。あなたは?」
「用事があるから出かけてくる。それを伝えるためにここに来たのよ」
私が聞き返すと神奈子は破顔してそれに答えた。彼女はこういうところで年相応の素顔を覗かせる。そのため形式の上では神奈子が私の姉に当たっていても、どちらが本当にそうなのかたまに分からなくなることが多い。ただ、そういうことを気にしない関係のほうが私たちの性に合っているのだ。
「じゃあ、行きましょうか」
そう言って私は立ち上がる。
「うむ、行こう」
神奈子も腰を上げ、私たちは朝の挨拶をしに館の広間へと向かうことにした。
その日の午後、浜で境界の裂け目を探す私は葦を束ねて作った小舟に乗り沖へと漕ぎ出していた。そこに何かがある気がしたからだが、結局のところ私の試みは徒労に終わっている。沖合に開いていたのは何の変哲もないスキマであり、相方の手掛かりに関するものですらない。期待していた成果が何一つ得られなかったことで疲れが一気に押し寄せてきた私はその場で葦舟の底に座り込む。浜辺では私の共や漁をする者が和気藹々として、波は穏やかで何事もない。極めて平穏な舟遊びだった。
「漁や 鳥の遊びも 空晴れて 波風立たぬ 今日の楽しさ、か――」
船べりに寄りかかって身を乗り出し、片手を海に浸しながら備中神楽に伝わる歌、事代主が詠んだという歌を思い出す。事代主。そのコトシロとは私のことだ。自然と口からため息が漏れる。
「――そんなわけ、ないじゃない」
そう呟いてみても水面は陽光を眩しく反射するばかりで何かをしてくれるわけではなかった。生じる波は陸地に押し寄せるように見えて、実際は水分子がその場で上下に反復運動をしているに過ぎない。そんな波に今の私の心境を照らし合わせるなら「退屈」の一言に尽きるだろう。どこに行くこともなく無聊に苛まれた心は決して癒されず、浮力を失った思考はひたすらに深みへ沈み込んでいく。そして、そこにはいつも絶望と後悔だけが暗く静かに横たわっていた。
(帰りたい)
情報と、刺激と、喧騒に満ちた現代が、建物同士で絡み合い人工の密林と化した高層都市群が、うらぶれた路地裏にひっそりと居を構える旧型酒のバーが、この静謐な地で暮らす人々には想像もつかず、今の私にとっては幾数世紀も遥かな未来がとても懐かしく感じられる。月と地球の間、その真空の宇宙にある人口天体内部で見たような、天然の自然に溢れるこちらの世界は私を意外なほど暖かく迎え入れ、長やタテヒメや神奈子といった知己までも与えてくれた。
それでも異邦人である私のいるべき場所はあの世界なのだろう。地方は荒廃し、およそ人の営みは寿命と共に管理され、衛星軌道上にカフェがあり、人類は民間ツアー旅行で月を目指す。そんな昔の夢物語がもはや夢ではないことを確かめるために語り合える親友と一緒にいた世界、ただし寄る辺となる幻想をどこかに置き忘れてきた無機質な世界だ。
その私はかつて自分たちが覗き見ようと憧れた不思議の向こう側へと足を踏み入れ、それどころか当事者にまでなってしまっているというのに、結局私自身が求めているものは無味乾燥な科学の時代から心が躍るような非日常の出来事を観察することへの興味関心であって、こうして穏やかで素朴な日常を過ごすことではなかったのだと改めて気付かされた。事ここに至っても平穏より刺激を求める私の思考は随分と相方の影響を受けてしまったらしい。
だからこそ私は惹きつけられるように、自分とは対照的な行動力を持った彼女の傍にいたのだろう。今の私がイビシツベという立場を引き受けているのも、それで彼女の手掛かりがつかめればと――仮にこちらに来ているのなら私と同じ異邦人だろうから耳に入りやすくなるはず、という打算的な思いがあるからだ。なのにあれほど親身になって支えてくれるこの時代の人々に対し、あまりに薄情な自分自身にすら嫌悪を覚える。それもこれも私がこの世界に迷い込んだ外来人だから。こちら側の何者でもないからだ。
ならば未来の科学世紀と古代の出雲、この二つを秤にかけたとき私が本来あるべき時代は決まっているが、それでは私が選び取るべき世界はどちらなのだろう。私はいったいどこにいればいいのか、どの側が私を必要としているのか、はたまた誰の傍にいたいのか。私は過去で、あるいは未来で何をすべきなのか。そこにいるために何をしたらいいのか。再び思考のループに嵌りはじめた私はそれを無理やり振り払う。仮に元居た世界が戻って来いというなら自ずと帰りの裂け目が見つかるはずだ。そのためには相方の身柄を確保せねばならない。
その時、視界の端に不穏なものが映るのを見て取った私は舟の上で身を起こした。水平線に現れたのは明らかに自然の物ではない。こちらの世界に来てからも初めて目にする異様な物体。とはいえ私は直感でその正体に気付く。あれは船だ。それも葦舟や丸木舟といった単純な代物ではない、複数の部材を組み合わせて作られた極めて高度な技術の産物。大きな、軍船。波をかき分け真っ直ぐ浜に突き進んでくるその船上には重武装の兵士たちが大勢いる。彼らの掲げる武器の穂先が不気味な光を反射し、船上から放たれた矢が飛んでくるのが見えた。
何が起きたのか、詳しいことは私にもわからない。ただありえないことに飛んでくる矢が見えた私は思わず身を縮め、咄嗟に頭を庇おうとした手と手の甲が額の前でぶつかった瞬間、もう少しで当たりそうな位置にあった矢がその場で向きを変えると相手に返って行ったのだ。どうやらその矢は私を狙った射手に当たったのか相手はもんどりうって船べりに寄り掛かるとそのまま動かなくなる。だらりとぶら下がったその腕にはもはや力も籠められないように見え、立て続けに起こった恐ろしい出来事に私はその場ですくむことしかできなかった。舳先に立つ指揮官らしい人物が私に向かって誰何する。
「何者か」
「我は出雲の長たるオオクニヌシのナムチの末子にしてイビシツベの主、ヤエコトシロ」
それに対し、心の内に湧いてくる不思議な気力に突き動かされた私は立ち上がって胸を張ると指揮官に向かって声を張り上げた。先ほどまで怯え、ひるんでいた自分の言葉とは思えない。同時に出かけていった神奈子のことが気になり始める。彼女は出雲の国境で目撃されたという不穏な集団の正体を見極めに行ったからだ。
「三本柱のヤエコトシロか。大人しく従うならよし、さもなくばその命貰い受ける」
「すべてお断りいたしますわ」
こんな状況だというのに笑みさえ浮かぶ。まるで一瞬にして自分が自分で無くなったかのような感覚。指揮官が剣を抜いて振り上げると船上の兵士らは各々の弓に矢をつがえる。だが私はどうすればこの場を切り抜けられるのか、何をすればいいのか既に分かっていた。私の境界を見る目はいつしか人との境界を越えて見たものを共有する力へと変貌していた。ならば反対に自身に近しい存在との境界を操って同調すれば、その者のように振舞うこともできるはず。今の私に流れ込んでいる情報は伝説にある事代主、身を任せればその力を使えるに違いない。
私は両手を胸の前で交差させるようにして矢が放たれるのを待つ。やがて指揮官が剣を振り下ろすと一斉に放たれた矢がこちらへ向かって飛んでくるが、私はそれに怖気づくことなく相対した。大きく息を吸い、そして吐く。今度は頭を伏せることなく矢を見据え、片手の甲にもう片方の手の甲を打ち合わせると、目の前に生じた障壁が飛来した矢をことごとく弾き返した。結界、天の逆手。順手の柏手が互いに受容の意思を表明するものなら、逆手の柏手は拒絶の姿勢を伝えるものだと――そこで私の思考は中断される。
突如身体に衝撃を感じた私は自分に何が起きたのかを確かめてみると、左胸に大人の指の太さほどもある矢が深々と突き刺さっていた。軍船を睨みつけた私は天の逆手の結界でも防ぎきれなかったこの矢を私が最初に返した呪いの矢だと知る。指揮官の隣にいる、恐らく副官であろう者が私の返した矢を引き抜いて己の弓につげ代え、こちらに向けて射直したのだ。薄れゆく意識の中で一連の出来事と顛末を悟った私の足元がぐらりと揺れて視界が傾き、乗っていた小舟がひっくり返った。
海に投げ出されたはずの私は不思議な空間を揺蕩っていた。身体は浮きもしなければ沈みもしない。指先ひとつ動かすこともできないが意識はある、と言っていいのか。今際の際に見ている夢かもしれない体験の中、波間を通してゆらゆらと揺れるカーテンのような、一見明るいようで実は暗い色をした光が頭上の水面から差し込んできており、そこで初めて私は自分が呼吸をしていないことに気が付いた。
もしかしたら私はもうすでに死んでいるのだろうか。息を吸うことも吐くこともできず、かといって別に苦しいわけでもない。鼻や口から気泡が漏れていく様子もなく、水の音も心音も、耳鳴りさえも聞こえない。ついでに、匂いも味もしなかった。瞼を閉じれば真っ逆さまになって暗闇の中をどこまでも落ちていくかのような。確かこの辺りはそんなに深くないはずなのに、と天候が良ければ海底の砂地まで見渡せたことを思い出す。
目を開けて改めて自分の左胸を見ると、未だに矢は刺さっているが血は出ていない。呼吸ができないのは肺が水で満たされているからかしら?などと朧げな意識で冷静に分析してみるものの、何の解決にもなりはしなかった。冷たくもなければ暖かくもないこの場所は、たとえ五感が失われていても海の中だと思えないのだ。もしも私がとっくに死んでいて、今まさに死後の世界にいるのなら――そう考えた時、相方が誰にともなく言った言葉が思い浮かぶ。
(不老不死は死が無くなるんじゃなくて、生と死の境界が無くなって生きても死んでも居ない状態になるだけよ)
こんなことになっても彼女の存在は私を奮い立たせ導いてくれる。それを信じるなら、これはまさに“顕界でも冥界でもある世界”の実現というわけだ。僅かに生まれた気力を振り絞って身体を捻る。ゆっくりと、まるで無重力の空間を遊泳する宇宙飛行士のように。感覚はとっくに麻痺しており、もはやない息が詰まりそうになる。一体どれくらいの時間が掛かったのかすら分からない。それでもこの身体を動かそうとしているのは、出来ることならもう一度彼女に会いたいという想いだけだろう。
身体を反転してみると私の身体は境界の裂け目に引っかかっていることが分かった。海に落ちた瞬間、私の身体はスキマに飲み込まれたに違いない。浜辺の人々や軍船の兵士たちにはこちらの姿が一瞬で消え失せたように映っただろう。そのうち、この身体を動かすためのコツが少しずつ飲み込めてくる。もし私の境界を見る能力が操る能力に変化しかけていて、今の私が生きても死んでもいない状態にあるのなら、境界を操るように自分の身体も動かせるはずだ。まずは手始めに腕を持ち上げると胸に刺さった矢を掴み、力を込めて一息に抜き去った。やはり、傷口から血が噴き出すようなことはしなかった。
私自身が物事の境界にある存在となってしまえばスキマを操るということは案外、息をするよりも楽なものだ。何もない空間を指でなぞれば、そこに容易く出入り口を開くことができる。とはいえ初めてというものは中々上手くいかないものらしい。長の館を目指したつもりが、実際に繋がった場所はクモの民の里だった。
スキマを潜り抜けた先で私が見たのは人同士が争った痕跡。里のあちこちで燻る残り火、家々からは煙が上がり、ほとんどの者が武器となる道具を持ったまま倒れ、その全てが息絶えていた。恐ろしい光景を目にした私は震えの止まらない身体を両手で掻き抱きながら道を進むと、やがて道端に見覚えのある山吹色の輝きが目に入る。あの日、一度だけ視線を合わせたクモの少女の亡骸だった。
少女に近寄り、恐る恐るその身体を抱き起こせば、私の手に赤くべったりとしたものが付着する。クモの民は出雲製鉄の根幹を為す存在、だからこそ根絶やしにされたのだろう。この里の惨状を見ればその程度のことを想像するのは容易だった。私は少女を膝に乗せたまま、手元に小さな境界の裂け目を開いてスキマ越しに遠くの出来事を眺めてみる。
神奈子が負傷した腕を押さえながら鬼のような形相で歯を食いしばり、それでも戦いに赴こうとして部下に押しとどめられていた。ふと彼女と目が合った気がした瞬間、神奈子の口が「コトシロ」と形を作っていた。一方、長の館は集落ごと不気味に静まり返り、門や入口は板で固く閉ざされた上、太い縄で封印されている。人が住んでいるのか、中の者は生きているのかどうかを窺うことすら出来ない。後にあの縄はフェムトファイバーと呼ばれるアイテムであることを私は知った。
一体いつまでそうしていたのか。膝の上でゴソリという感覚して私は我に返ると同時に背筋が凍りつく。私が抱いていた少女は既に息絶えていたはずだ。しかし彼女の身体は今、再び動き出そうとしている。抑え込もうという気すら起きない。ただ後ずさって少女の亡骸が出鱈目に手足を動かし始めるのを何もできずに見ていると、一瞬こちらを凝視した彼女はすぐに別の方角を向いてぎこちない様子で這いずりだす。
クモの少女が向かう先には砂鉄を掘るための洞穴が暗い口を開けていて、彼女の姿はその中へと消えていった。今にして思えば、あれこそが黄泉の国、黄泉比良坂へと通じる道だったに違いない。魂の抜けた身体に鬼が入り込んだのか、あるいは私と同じように現世に対する執着が彼女の身体を動かしたのか。いずれにせよ、私に出来るのは去り行くものの背を見送ることだけだった。
| 五/六 | 古今月面戦争 ~ Silent Line
正眼の構えから繰り出される依姫の斬撃、私の鼻先三寸を緩やかな曲線を持つ刃の切っ先がすり抜ける。相手はそのまま平突きの態勢、私は波を蹴立てて距離を取った。踏み込みと共に突き出される長い刀身を片手の傘でいなしつつ、もう片方の手に持った扇子の先から光弾を射出して依姫を狙う。散弾、五発。しかしその攻撃は全て刃で弾かれた。依姫が叫ぶ。
「小癪な!」
彼女はそう言いながら俊敏な動作で刀を逆手に持ち直し水面に突き立てようとする。恐らく刃の扱いに長けた彼女が最も得意とする技の一つ、その身に素戔嗚尊を降ろして使役する“祇園の剣”。しかし、そのために依姫の足は動きが止まった。これは私にとっても好都合だ。まずは相手がこちらの動きを封じる作戦に出たことにほくそ笑む。だが。
「躱しなさい、依姫」
私たちの戦いを一歩引いた場所から眺めていた豊姫が指示を出し、それを聞いた依姫は動作を中断するとその場から跳躍して逃れた。直後、依姫のいた場所に光の雨が降り注ぐ。射出の起点を相手に気取られぬよう地球・月系の第二ラグランジュ点に展開していたスキマから放たれた超長距離攻撃。そのわずかな照準用の予告線を後方に位置する豊姫に読み取られたか、二度とこの手は使えまい。
(気づかれたわね)
目論見を看破されたことに思わず顔が歪むものの、私は構わずスキマから大型の式弾を連射。依姫の上下左右を挟み込むように飛翔するそれは目晦ましの子弾を無数にばら撒きながら一定間隔でリレーセルを設置しつつ直進。弾体が標的となる依姫を十分通過した頃合いを見て扇子を持つ手を握ってひねると弾幕用回路に妖力が流れ込み、直後に各々のリレーセルが一斉起動してランダムな光条を迸らせた。賢者の海の一角を光線が焼き、辺りに撒き散らされた子弾が炸裂する。爆轟、それによる衝撃波。のみならず海水が熱されたことで副次的に水蒸気爆発が連鎖し、巨大な水柱が生起。白い霧で視界が遮られる。
「攻撃半径五十フィート、レーザーで拘束してからの全方位無差別爆撃。光と闇の生み出す網目に逃げ場はないはずなのだけれど――」
ホワイトアウトした空間でそう呟いた刹那、立ち込める水煙の中から雲を引いて飛び出してくる依姫。身に着けていたはずの靴もベルトもリボンもかなぐり捨て、濡れた衣服を肌に張り付かせながら水の滴る刀を脇に構え疾走し、あっという間に距離を詰め懐に潜り込んできた彼女と視線が交差。後悔したときには舌打ちをする余裕もない。
「八雲紫、覚悟!」
「しまっ……」
「遅い!」
子弾の炸裂による水しぶきが仇となった。水面は依姫の激烈な踏み込みと共に衝撃で波打ち、全身の筋肉を発条に刃が下段から高速で振り上げられる。彼女の身体能力は神降ろしによって限界まで引き上げられているのだろう。噂に聞けばミニ八卦炉の火力で放たれた灼熱の閃光すら叩き斬ったという斬撃。わき腹から入った刀身は苦も無く胸骨を断ち割り、鎖骨を切断して肩口へと抜け致命傷となる、はずだった。
(掛かった!)
のけぞりながらも裂けるほど釣り上がる私の口角と、驚きで見開かれる依姫の両眼。まさか彼女が必殺を意図していたとは予想外だが、それだけに穢れを負う覚悟で放たれた一撃の手ごたえのなさは少なからぬ動揺を与えたようだ。依姫は振り抜いた刃を返そうとするが、もはや手遅れ。足場は踏み込むほどの余裕もなければ退くほどの隙もなく、刀を持つ手も全力を出した反動で小刻みに震えている。
対する私は最小限度の労力で防御を行い、その時点で攻撃まで終了しているのだ。彼女が斬ったのは私が剣筋に沿って出現させたスキマでしかない。その気になればスキマを繋げて自傷させることもできたとはいえ――空間の亀裂から無数の蝶が放たれる。屍肉を貪りその身に穢れを蓄えた黒死蝶は穢れを嫌う月人への切り札にして取って置き。余力を振り絞って群がる蝶を払いながら後ずさる依姫が吐き捨てるように言う。
「いつぞやの巫女のような真似を!」
「その節は霊夢がお世話になったようね」
「恩を仇で返すのが地上の妖怪のやり方か!」
「恩?」
その言葉で私は彼女との戦意が急速に萎えていくのを実感した。扇子を持っていた手を降ろすと、私に操られていた蝶も勝手気ままに飛び始める。
「あなた個人への恩義がどうとか怨みとか、別にそういうものではないのだけれど」
「なん……ですって?」
依姫も互いの意志疎通の齟齬に気づいたらしく、肩で息をしつつも刀を持つ手から力を抜いたのが分かった。彼女は恐らく近視眼的な見方でしかこの戦いを捉えていなかったに違いない。地上の妖怪が攻めてきたから月の都を護るために立ちはだかる、そういう純粋な目標を動機にしてこの場に臨んでいたのだろう。それなら最初から“弾幕ごっこ”のような遊びではなく必殺の攻撃を仕掛けてきたことにも納得がいく。そして、依姫をそのように誘導した者が誰であるかも私には予想がついていた。
「下がりなさい、依姫。あなたは穢れた蝶の処理を優先すること。あとは私が。八雲紫も用があるのは私でしょうから」
「しかし、お姉さま……」
「あなたは先ほどまでの戦いで消耗しすぎています。姉としても、これ以上戦い続けるのを黙って見てはいられません」
「ですが……」
なおも食い下がろうとする依姫に対し、豊姫は彼女を一瞥すると「これ以上の問答は無用」とばかりに手に持っていた扇子をもう片方の手に打ち付け、涼しげな口調で諭すように言う。
「気が付いていないようだから教えてあげます。八雲紫、彼女は妖怪ですが大昔は神を名乗っていたこともありました」
「な……妖怪風情が!」
激昂し声を荒げて私を睨みつける依姫。だが。
「そう無碍に扱うのはよくありませんよ。何せ彼女はあなたの相親。落ちぶれたとはいえ格だけなら恐らく同一でしょう」
そんな彼女も今度は姉に思いもよらぬ関係を告げられ言葉を失ったようだ。そんな妹を横目に豊姫は何食わぬ顔で話を続ける。
「八雲紫が捨てた神性は事代主。出雲の巫女でもあり託宣を司った彼女が相手とあっては、いくらあなたでも分が悪い」
「……わかり、ました」
言葉に詰まった依姫は呻くように言葉を絞り出し引き下がる。と同時に豊姫が代わって前に出た。さらに彼女はもう片方の袖から扇子を手元に落とし、器用にそれを片手で開いて見せる。
「これでようやく真打のお出ましってわけかしら?こちらもいい加減待ちくたびれましたわ、豊姫様」
スキマに腰掛けていた私はそのまま挑発してみせるが、豊姫も両手一対の扇子の片割れをこちらに突きつけ宣言した。
「私にはあなたが何をしたいのか手に取るように分かる。それも二千年前から続く私とあなたの因縁があればこそ。それだけもの間、憎しみを糧に雪辱を晴らす機会を窺うとは。褒めてあげましょう、浅ましくも天晴であると!しかし、そんなあなたの前に立ちはだかるのは月の使者にして大綿津見の娘と最新兵器。その威力にあなたは一度敗れ地に塗れている。さあ、それでも再び立ち向かってくるというのなら、三度這いつくばるがいい!地上の妖怪!」
二千年。言葉にしてしまえば聊か陳腐に聞こえなくもない年月も、多少の記憶力を持ってすら細部に至るまで思い出すことはできない。だが思い出がいくら不確かになろうと、その中において忘れられない事件というものは誰もが必ず持っている。“いつ起きたか”ではなく“何が起きたか”――日々の出来事ではなく、事実として記憶に積み上げられた“歴史”がそうだ。歴史が人の歩む道を作り、その先々にある選択を左右する。人も、神も、妖怪も、歴史から逃れることは不可能である。
私の歴史において二千年前というのは大きな転換点を迎えた時期でもある。あの頃の私は神・人・霊・鬼・妖・怪・魔のどれでもあるような、そのどれでもないような駆け出しの存在に過ぎず、帰るべき時代どころか当座の拠り所さえも失くして流浪する身だった。そんな私を確固たる名で呼ぶ者はもういない。あるのはスキマに潜む異類の噂だけだ。
時たま私の姿を垣間見た者が「あれはコトシロの無念が形をとって現れたものだ」という風聞を流す。そのせいか、いつしかミホの浜辺には社が立てられ事代主と呼ばれる神が祀られ慰められていた。あの日、出雲に身を寄せた者らの使いが浜を訪れると漁に出ていた大国主の御子は「父よ、恐れながら申し上げます。この国は大和の民、天津神の方々に差し出すのがよろしいでしょう」と語ったという伝承と共に。
その話を聞いた時、私はもはや怒りや悲しみの情すら湧いてこなかった。代わりに覚えたのは今までやってきたことが全くの徒労に終わり、誰の記憶にも残らなかったという深い失望と虚無の念。あれから数十年の月日が流れて既に人の世は移り変わり、出雲に攻め入った兵士たちもとっくにこの地から去っている。私が神社という神を封じるための容れ物に縛られなかったのは、この時代に遍く知られた事代主という存在が実際の私とはひどくかけ離れていたためだろう。人づてに聞いた限りでは敵軍に降伏し大和に恭順を誓った神奈子は諏訪への遠征に付き従い、その地で消息を絶ったそうだ。
大和。次第にその名を聞くことが多くなってきた私はついにそれが出現したことにめまいを覚える。八州の覇者となって今日の日本の大本となる国の形を作った王権。日本を訪れたことがある者なら誰もが聞き知った名前だ。興味本位で本拠地を探りに行ったこともあったが、核心部に近づこうとするほどなぜか私の感覚は狂うのかついぞたどり着くことはできなかった。それでも幾つか知り得たこともある。大和に出雲を攻めるよう唆したのは王権の中枢に天下ってきた“月の民”の一派だ、と。
(月――)
その言葉を耳にしたとき、私は思わず空を見上げていた。かつて相方と共に宇宙旅行の話をして、一緒に行こうと誓い合った場所。往復するのに一体どれくらいの予算が必要になるか、知りもしなかった頃の他愛ない約束。だが今ならそこに手が届きそうな気がする。月面にも境界は存在するに違いない。遠隔地への移動は過去の出来事で実証済みだ。トリフネでキメラの怪物につけられた傷が疼く。
「行ってみたい」が「行こう」になるまでそれほど時間はかからなかった。科学の時代の未来世紀にいた頃から、都があって、誰かが住んで、兎が薬を衝いている月の景色が私の目には映っていた。それを確かめるのに理由はいらない。私の能力が境界を見ることから操ることへと変化し続けてきたのも、化学反応を用いた宇宙旅行以外の手段を模索し続けたことが原因だろう。もしあの日、大学で相方となる彼女と出合って話をしなかったら今の私はいなかった。
(行こう、月へ)
気持ちも新たに月を目指すための計画を立て始める。こちらの世界に未練はない。生き続ければいつかはあの時代、はぐれる前の相方がいる世界にも戻れるだろうが、今の私はもはや人間などではなく、しかも彼女の隣には人間だった頃の私がいる。ならば未来の私を消して入れ替わる?それともあの夜、二人が境界のうねりに飲み込まれる前に未来を変える?様々な思案が頭を巡り、そのどれもが無価値に思えた。未来を変えてしまうなど、私と彼女が重ねた過去の全てを否定するに等しいことだ。叶うなら未来の私にもあの刺激に満ちた日々を体験をしてほしかった。大切な思い出を自らの手で壊すような、そんなことだけはしたくない。
ただ、この時から事態は予想もしない方向へ転がり出す。私が月を目指していることが辺りに知れ、それなら我も我もと名乗りを上げるものが現れ始めたのだ。多くは月、というより大和に恨みを持つものがほとんどだった。私にとっての出雲のように、大和に滅ぼされたものは数知れない。それなら大本の月に攻め返そうという意図があっても不思議ではないが、中には大和に高度な技術を授けた文明があるならそれを奪うか盗み出して復讐を果たそうと思っているものまでいた。怪異としても新参の私が高位の妖物や土着神、荒まじい怨霊と化したそれらに詰め寄られれば、留める力も断るほどの度胸もなかったのだ。
結果は惨憺たるものだった。月の指導者・月夜見に率いられた月の兵士は末端に至るまで強力な兵器と規律で武装し、葦原中国平定に力と策を貸したという八意何某の術中に嵌った地上の軍勢は散々に打ちのめされたのだから。あの一件で力を失い姿を消したものさえいる。私はと言えば、かつて相方と二人で憧れた月を戦場にしてしまった自責の念からだろうか、ただ闇雲に戦場を駆けずり回っていた。出雲を滅ぼされ、いの一番に月に復讐する権利があると総大将に担ぎ上げられた身を今更嘆いても仕方がない。
だがそれも月夜見の本隊が強襲を仕掛けてくるまで。横合いから突出して攻撃を仕掛けてきたそれが陽動のための別隊ではなく少数精鋭の禁軍だと気付いた時にはすべてが遅かった。私の集団は防御する間もなく一気呵成に突き崩され、気が付いた時には黒い外套を目深にかぶった禁軍の指揮官が持つ短穂剣でかつて矢が刺さった個所を刺し貫かれていた。今際の際だというのに「これで殺されるのは二度目かしら」などと私の思考が益体もないことを浮かべかけた瞬間。
「逃げろ、メリー」
耳元で囁かれた声に私の魂は現実に引き戻され、体は無意識に身を貫く剣に手を伸ばす。すると、また。
「迂闊に触ると指が消し飛ぶよ」
「あな……たは……」
相手にそう聞きかけた時、地上の軍勢が次々と打ち取られる戦乱の中で禁軍の副官らしい者が私の目の前の人物に向けて声を張り上げ、指揮官も負けじと叫び返す。
「月夜見様!八意様から間もなく潮時との言伝てが!」
「分かった!隊ごと退け、蓬莱山!私もすぐに戻る!」
剣を引き抜かれ突き放される直前、私は確かに彼女の腕の中で声を聞いた。外套を脱いで素顔を晒し、微笑を浮かべながらこちらに背を向け去っていく彼女。私はその姿に見覚えがある。
「またね」
どこか人を惹きつける自負の光を宿した不思議な瞳。うねりの中で手を放してしまい、はぐれた私が永遠に見失ったと思っていた存在。大学で二人が付き合い始めてから、この国の不思議と結界を暴くためのオカルトサークルを結成して以来の私の相方――宇佐見蓮子がそこにいた。
| 六/六 | 綿月 ~ Strange Promise
「さて。気分はどうかしら、地上の妖怪さん?」
「最悪ね」
後ろ手に縛られ連れてこられた果樹の生い茂る屋敷の庭で、私はそんな悪態をついた。声をかけてきたのは菫色の服を着た女性。彼女の被る大きなリボン飾りのついた帽子からは白金のように輝く長い髪が零れ、その毛先が樹に実った桃の芳しい香りを乗せる微風に吹かれて煌めきながら揺れている。道中、この場所が綿月の屋敷と呼ばれているのを私は耳にした。
あの戦いの後、かつての相方の忠告に従い逃げ出した私が目にしたのは閉じて行くスキマだった。私の眼前で姿を消していく、地上と月を結ぶ唯一の連絡通路。おかしい、早すぎる、こんなはずではない、そんな無意味な思考を繰り返すほどに焦りながら、同時にそんな計算違いを犯した私を背後から冷静に俯瞰している自分がいたこともまた事実だ。
地上の軍勢はあらかた掃討されるか先に逃げ帰ってしまったのだろう。スキマが開いていた場所の周囲にはもはや何の気配もなく、手負いの私がようやくたどり着いた時にはスキマも完全に閉じていた。今晩が十五夜である限り通路は閉じない、そんな予測を無残なまでに打ち砕かれた私は周りを武装した玉兎に取り囲まれその場で崩れ落ちる。
その包囲にも私の身体は微動だにしなかった。せっかく「逃げろ」と囁いてくれた彼女の想いを無駄にしてしまったという無力感。いっそ玉兎らに一矢報いてやろうかという気すら湧いてこない。そんなことをして何になるのだろう、と私が運命を受け入れた刹那。深夜に行った墓暴き、季節外れの狂い咲きを見せた冥界の夜桜、新幹線の車内で興じた他愛もない会話、待ち合わせのカフェテラスで私に向かって「夢の世界を現実に変えるのよ」と言い放つ彼女――懐かしい思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、感傷に浸る私は深く静かに目を閉じた。
(元気でね、蓮子。最後にあなたと再会できてよかった)
私がここで倒れたと知ったら彼女は一体どんな顔をするだろうか。それでも不思議と恨みや憎しみは感じない。ただ私に運がなかっただけのこと。心残りがあるとすれば約束を果たせなかったことくらいのものだが、いつまで待ってもその時は訪れなかった。武器を構えた玉兎らは私を取り囲んではいるものの、適度な距離を保ち遠巻きに眺めてくるのみで一向に何もしてこない。やがて訝しんだ私が瞼と顔を上げた時、玉兎の群れの一角に海が割れるように道ができた。そして現れたのが菫色の服を着た人物。私を拘束して連れてきた、現在目の前にいる女性というわけだ。
「……それで、あなた自身の処遇についてなのだけれども」
こちらのことなど意に介する風もなく話しだす彼女に、私は抗議の意も込めて身じろぎして見せる。だが彼女の横柄な態度、実力と知恵と、生まれ持った格に裏打ちされているだろう驕慢な笑みが変わるようなことはまったくない。
「その縄はフェムトファイバー製の組み紐、妖怪風情がいくら逃れようとしても無駄な足掻きにしかならない」
「フェムト?」
畳んだ扇子でこちらを指し、見下ろしながら冷たい声で告げる彼女に私は思わず聞き返していた。フェムトとは確か極小を示す単位のはずだ。ファイバーというからにはその単位を組み合わせて作られたものなのだろうが――そこで私はふと気が付く。いつか垣間見た光景、封印された長の館を囲む縄。断つことも千切ることも不可能な、就中私のような存在は触れることさえ拒むような素材でできた、大和の人間が“しめくり縄”と呼ぶ繊維。あれこそ大和の人間が土着神を神社に縛りつけ封印するために使うツール、即ちフェムトファイバーなのだと思い至る。
「何か申し開きしたい?」
「これっぽちもないわね」
精一杯の意思表示もどうやら相手には通じなかったらしく私の対応は投げやりがちなものとなり、そこで初めて彼女は顔を曇らせ手元でしばらく扇子を弄び、やがて「はぁ」とため息を吐きつつ心情を披瀝し始めた。
「反省してもらわないと困るのよ。でないとまた同じことをしでかすだろうし、かといって迂闊に処断すれば地上の存在や服わぬものたちに反乱の口実を与えてしまうようなものだし……それに」
「それに?」
「月夜見様から地上の軍勢の総大将には手を下すな、と言われてしまってはどうしようもないでしょう。あの方はできればすぐにでもあなたを解放してしまいたい様子だったから」
菫色の服の女性は私の相槌に愚痴をこぼすと呆れたような表情でお手上げの姿勢を示し、私は心の中で蓮子がかけてくれた温情に感謝した。同時に彼女たちの抱える気苦労を思うと、不思議な同情やらを感じて自然と笑みが漏れ出てくる。私とはぐれた末に念願の不老不死を手中に収め、月の都を運営する立場に収まっても思案に悩まされ続けるとはね、と。それでも蓮子はその方が性に合っているのかもしれない。地上どころか世界の裏側、宇宙全ての物理と不思議を解明してやろうとする彼女には。それを見咎めた相手が言う。
「何が可笑しいのですか、地上の妖怪」
「ふふ。いいえ、別に。ただ、あなたは私をどうしたいのかと思って」
「ふむ」
逆に私に問いかけられた彼女は手に持っていた扇子を頤にあてて考え込む素振りをするが、答えは元から出していたのだろう。特に言いよどむこともなく意見を口にする。
「現在のあなたは私に預かられている身、暫くは手元で様子を見ることにしましょう。仮に反省するならよし、そうでなければ傍に置き続けて監視でもさせてもらおうかしら。それでも、あなたの行状が甚だしく改善の見込みはないと判断されれば幽閉や追放といった処分もあり得ます。そのつもりで」
「承知いたしました。ついでにこの縄を解いていただけると嬉しいのだけれど、ええと……」
そこで私は相手の名を知らないことにようやく気が回る。彼女は私の背後に回ると腕を拘束している縄に手を掛けながら自己紹介を始めた。
「大綿津見の娘、綿月豊姫。月の使者のリーダー・八意XX様の下で未だ物事を学ぶ若輩の身である故、呼び方はあなたに任せます。もっとも――」
それでどのような心象を持たれるかは私の態度次第だと言いたいのだろう。ここは大人しく譲歩する。
「わかりましたわ……豊姫様」
「では私はあなたをどのように呼べばいいのかしら、境目に潜む妖怪さん?」
これには私も困り果てた。出雲が滅んでからはコトシロと呼ばれることもなくなり近頃は名前らしい名前を持った記憶すらない。かといって今更本当の名を名乗る気にもなれなかった。それは月夜見、即ち蓮子さえ知っていればいいものだ。私は自由になった手で縄の痕をさすりつつ、精一杯もったいぶった調子で言う。
「さあ、私もとっくに忘れてしまいましたもの。ただ、覚えているのは八雲所縁のものということだけ」
八雲、それは出雲に掛かる枕詞。日本で最初に作られた和歌にも詠まれる代名詞。敢えてそう名乗ったのはこの場で出雲を直截に戴くことが憚られたからか。もっとも。
「なるほど、“八雲に所縁を持つものである”と」
豊姫はそれで私の出自をどことなく理解したようだった。
「まあ難しい話を抜きにしても色々と聞きたいことはありますからね、“八雲ゆかり”」
豊姫はそう言うと踵を返して歩きだし、こちらに向かって「ついてくるように」という仕草。どうやら屋敷を案内するつもりらしく、私は立ち上がると黙って彼女の後を追う。その日から、私の月での生活が始まった。
綿月の屋敷で暮らす間、大した事件もなければ日常は概ね平和であり、外出できないという点を除けば生活に不自由することはあまりなかったと言っていい。ただ、どこかしら監視の目があることや手に入れられる情報が偏ってしまうのは致し方ないだろう。脱走、などという大それたことは初日の時点で諦めた。屋敷を案内された際、試しにと放り投げた木の枝が壁を越えた瞬間に消し炭となるのを見れば誰もがそういう結論に至ると思う。「月の都にも泥棒が?」と聞けばこれは私のための特別仕様だそうだ。そもそも次の満月になるまで息を潜められる場所の当てなど私にはないのだが、「なるほどね」と頷くほかなかった。
それでも屋敷の中は自由に歩き回ることができたので退屈自体はしなかった。書庫には何十年あるいは何百年と時間をつぶせそうな量の蔵書があったし、その内容は現代つまり私の元いた時代からしても先進的な内容が記されていたのだから。さすがは蓮子の研究の集大成といったところかしら――ページを捲りながらそんなことに思いを馳せていると、つい気が遠くなってしまう。地上に弱肉強食が蔓延る以前とはどのくらい昔に飛ばされたのだろうか。私が彼女の無事を確認できたことで安堵の心地と同時に覚えるのは、決まって底知れない恐怖と一抹の寂しさだった。
そこで、ふと気になって開いていた大判の古書型ターミナルを更新し検索を開始する。月、月の都、概要、歴史、沿革。およそ二千五百万年前に月夜見が開祖となり八意XXと共同で作り上げた月人の揺籃、と出てきた。二千五百万年。私は思わず天を仰ぐ。それはイザナギプレートが地殻を押し上げ日本列島を形成したとされる時期と一致する。すると、蓮子は本当に伊弉諾物質を探しに行ってしまったというわけか。自分の渡したあの物体が彼女をうねりに巻き込んだ原因かと思うと寒気がした。同時に、私が出雲に飛ばされた理由もなんとなくわかってきた気がする。あの高師小僧、蓮子の掘り出した褐鉄鉱のせいに違いない。
壮大な問いかけのあまりに些細な答え合わせに私は書見台で突っ伏していた。大学にいた頃はサークル活動での遊びなら何をするにも二人で一緒の不良学生だったというのに、それが今では片や月の都のトップ、比べて私は地上で人より長生きしただけの歪で不遜な存在に過ぎない。二人の間に永遠に埋まらない溝ができてしまったような気がした私はそのまま瞼を下ろして目を閉じた。そういえば月夜見には八意という協力者がいたのを思い出す。私にとってそいつは出雲の仇も同然だが、蓮子がその永い生の間で決して孤独ではなかったのは彼女のおかげだと思えば複雑な想いが私の内で渦を巻くのだ。
気が付くと屋敷の外は暗く静まり返っており、肩には薄い毛布が掛けられていた。豊姫だろうか。気候が安定し気温も常に一定に保たれる月では毛布など必要ないはずだが、こういった物はそこにあるだけで気持ちを落ち着ける効果があるらしい。加えて無防備な寝姿を晒したことが急に恥ずかしくなってきて、誰も見ていないというのに私は頭まで毛布にくるまって顔を隠すと、机に突っ伏したままの状態で考える。
月面での戦争、地上の存在にとってはまさに大戦争だったあの戦いも、月で暮らす者たちにとっては小競り合い程度の認識でしかないようだ。私への罰がこの程度で済んでいるのも、そのおかげなのだとか。新しいことを知るたびに今までやってきたことが馬鹿らしくなっていくのを感じた私は、何時しかこのまま月で暮らすのも悪くないと思うようになり始めていた。
暫くして、毛布を肩にかけたまま自室として与えられた部屋を目指し回廊を歩いている途中、時計が鳴らす鐘の音が聞こえたので中庭に目を向けると露天の長椅子に座る豊姫の姿が見え、こんな夜更けに外で何をしているのだろうと気になった私は庭へと足を踏み入れる。草を踏む音で近づいてくる者の気配を感じ取ったのか、彼女は優雅な仕草でゆっくりと振り向くとこちらに声をかけてきた。
「起きてたのね、八雲ゆかり」
そう長くない間とはいえ、ここで暮らすうちに私の呼び名は“八雲ゆかり”で定着している。それは私のほうも同じだった。まるで昔から二人はそう呼び合って来たかのように。
「豊姫様はなぜこちらに」
「何となく、寝付けなくて」
そう零す彼女の傍らにはお酒の入った瓶と盃が置いてある。どうやら誰かと話をしたかったらしい。私は促されるまま隣に腰を下ろすと彼女は口を開き始めた。
「……私には妹が一人いるの。依姫といってね」
綿月の屋敷に来てから大分経つが、私は依姫の姿を見たことがない。聞けば暫く家を出ているのだという。私が入り浸っている書庫も彼女のものであるらしい。豊姫は盃を口に運びながら話を続ける。見たところかなり呑んでいるようだ。ここで暮らすようになってからというもの豊姫の健啖については知っていたつもりだが、今夜は何か特別に思うところがあるのだろうと予想はつく。加えて彼女は私に何か隠しているような気さえした。もし私の推測が正しければ豊姫が黙して語ろうとしない事の核心、大綿津見の娘・依姫が綿月の家を出ている理由とその居場所は、おそらく。
「私にとってはかけがえのない肉親よ。それでも最近は姉である私にも、どこか余所余所しい態度を取ることが多かったわ」
彼女はそう言いながら私に盃を勧めてきたので、一杯付き合うことにする。受け取った酒器を傾け、夜空に輝く淡い月のような黄金色の液体を口に含んだ瞬間、雑味のない洗練された味が舌の上に広がった。それと共に訪れるのは鼻へと抜ける芳醇な香りと得も言われぬ滋味、そして単なる酔いというより身体そのものが宙に浮くかのような感覚。悔しいが、私と神奈子が作ったお酒は野趣に溢れ過ぎていると認めざるを得ない。生命の希薄な月では熟成に時間がかかるため、お酒を造ろうとすると必然的に古酒になってしまうのだそうだ。この味は長い年月をかけて積み重ねた時間が醸し出せるもの、新型酒では決して味わえない玄妙さがそこにある。
「それは何も私と妹だけの問題ではない、月という社会全体が抱える病理のようなものよ。穢れを棄て去ることで限りなく永遠に近い寿命を手にした者たちの住む月の都の構造は、極めて安定していると同時に一度定まってしまえば二度と役割が変化することはなくなってしまった。固定化された関係を壊すのはとっても勇気がいる行為です。だから、こうして腹を割って話せるあなたという存在は私にとって貴重な相手なのかもね――」
そんな取り留めもないことを話しているうちに再び時計の鐘が鳴った。随分と長く話をしていた計算だ。用意してあったお酒もほぼ底を尽き、豊姫は心ここにあらずといった様子で目を閉じかけている。
「豊姫様。起きてますか、豊姫様」
「んー?」
舟を漕ぐ彼女の両腕を掴んで揺さぶりつつ声をかけてはみるものの、その返事は何とも要領を得ない。心配になった私は豊姫を立たせると、彼女の寝室へと向かうことにした。
「大丈夫ですか?歩けます?」
「んー」
足元の覚束ない豊姫に肩を貸して彼女を中庭から連れ出そうとするが、肝心の寝室は少し離れたところにある。お酒に酔った豊姫はまるで泥のように頼りなく、スキマを使うことも出来ない私は身体に圧し掛かる重さを感じながら綿月の屋敷の広さを恨んだ。
「しっかりしてください、豊姫様」
「ん」
時々声をかけながら屋敷の回廊を二人で進む中、ふと「酔っ払いの介抱とはこういうものだったな」と思い出す。たまに旧型酒で酔いつぶれた蓮子を連れて帰るのが私の役目だったからだ。同時に浮かんでくるのは「なぜ人はお酒を飲んで酔おうとするのか?」という疑問。だが、私はその答えを知っていた。人がお酒を飲む理由、それは酔ってその身に神を降ろすことにあるのだ。
古くはお酒のことを「クシ」と呼び、その由来は「奇し」に通じているという。“奇し”とは“奇妙”あるいは“奇跡”を意味する言葉で、かつてはお酒に酔うという所作が極めて神秘的な体験であったことを示している。禁を破った私と神奈子が怒られたのも当然だろう。本来、お酒を造る・飲むといった行為はみだりに侵すべからざる神々しい出来事だったのだ。
やがて寝室に到着した私は豊姫を寝台の上に横たえる。だが彼女の傍を離れるより前に私の服の裾が掴まれた。今着ている薄手の白いブラウスも菫色のワンピースも、月で暮らすようになった日に私が豊姫から与えられた物だ。彼女のお下がりを着せられるという行為。まるでペットを可愛がるかのような扱いも私は甘んじて受け入れた。その証である服の裾を豊姫の伸ばした手が掴んでいる。
「豊姫様?」
「行かないで」
言葉が終わるか終らないかのうちに私の身体は寝台の上へと引き倒され、豊姫がしなだれかかって来た。先ほどまで酔って茫然としていた者の動作とは思えない。沈み込むような布団の海、全身に感じる柔らかな綿の感触、普段は意識したことのない豊姫の匂い。慣れない月のお酒に身体の自由が利かない私は為す術もなく押し倒される。
「……ッ、豊姫様!」
「ずっとここにいて欲しいの」
背中に腕を回され抗議の声を上げる私を他所に、彼女は率直な要求を伝えてきた。「ここ」とは寝室のことだろうか、でも「ずっと」とは一体――その答えはすぐに明かされた。
「このまま月で一緒に暮らしましょ?」
「なっ……」
豊姫から唐突に告げられた提案、それに少なからぬ衝撃を受けた私は思わず絶句する。確かに浄土と言うべき月の都で安寧のうちに暮らすのも悪くはない。古来から人々が追い求め続けた不老不死、それに限りなく近い永遠の生がここにはあるのだ。太平の時の中で好きなだけ物思いに耽り、研究に没頭し、遊行に興じることのできる毎日。何より、いつでも会える場所に蓮子がいる。しかし。
「私はあなたのことを気に入っている、わ……」
消え入るような声でつぶやいた後、彼女は私に抱き着いたまま寝息を立てはじめた。突然の告白に戸惑うばかりの私はどうすることもできない。仕方なく肩にかけていた毛布を外し、何とか二人で包まって夜が明けるのを待つことにする。幸い、悪酔いするようなお酒ではなさそうなので明日に響くことはないだろう。やがて時計の鐘の音が三度聞こえた頃、密かに心を決めた私の意識も深い闇の底へと落ちて行った。
あれから数日後。綿月の屋敷を訪れてから二十八日目。私は地上に帰りたい旨の意思を豊姫に伝え、それを聞いた彼女は「そう」と返事をし目を閉じる。そして再び目を開けると窓の外を見つめながら「お別れ会を開かなければね」とだけ呟いた。あの夜の出来事は今思い出しても夢の中で起きたことのような気がするが、あれで月社会における相互関係のように私と豊姫の間柄も定まってしまったのだろうか。それは私が地上の妖怪である限り分からない。翌日は誰もが宴会の準備に明け暮れ、三十日目が訪れた。地上における満月の夜、私が月面を離れる日だ。
その日の宴会は屋敷の門番から飼われている玉兎まで、誰もが参加して誰もが浮かれた。宴が最高潮を迎えた頃、私と豊姫はひっそりと会場を後にする。彼女は山と海を繋ぐ姫、月の裏側にある都の外れの屋敷から正反対の側に位置する静かの海までたどり着くことすら僅か一瞬の出来事だった。どこまでも続く白い砂浜と薄青色の海。頭上を見上げれば空に青いビー玉のような星が浮かんでいる。ここからもっとも近くて三十六万キロメートル離れた星。穢れた生命の溢れる監獄。私の故郷。罪の大地。地球。
私と豊姫は二人とも無言で波打ち際に立ち、地上に満月が訪れる瞬間を待つ。やがて私の指先にちりちりとした感触が生まれだし、それは無視できないほどに大きくなっていった。最後に礼を言っておこうと思い、振り返ろうとする私の背中に豊姫が声をかけてくる。
「もう一度だけ確かめさせて。このまま月に残るつもりはない?」
私は首を大きく横に振る。
「残る気はないわ。私は地上でするべきことを見つけた。これは私が自分の手でしなければいけないことなのよ」
あの夜から数日間、私が考えて出した結論。それはやがて地上で生まれるはずの私自身と相方のために、彼女たちが出会うその時まで日本中、いや世界中の不思議を集めることだ。蓮子が未来の私のために月に都を作ったように、私が消えゆく幻想を目一杯萃め、いつか未来の私たちが見つける――だけではなく、人々がその大切さに気が付かず、そのようなことがあったという事実さえ忘れ、残ったものが断片となり、意味すら理解できなくなる時まで隠し伝え続ける、それが私の役割、あるいは歴史の大きなうねりに飲み込まれたとき定められた宿命なのだと。そのための知識と方法は、月の都の文献や豊姫の仕事を手伝った経験から大いに学ばせてもらった。特に私が力を入れて漁ったのは結界を制御する技術について。境界を操作する能力との相性はそれが一番いい。
「本当に帰るつもりなのね。穢れた監獄である、あの地上に」
「……お世話になりましたわ、豊姫様」
私は腕を伸ばし地上へのスキマを開く。と同時に背後の豊姫が扇子を持った手を上げ、私の開いた通路の行先を上書きした。再度私が通路を変更し、豊姫がそれを書き換える。ここから先は演算能力の勝負だ。私は複数の経路を同時に走らせると豊姫はそれを一つずつ、あるいはまとめて潰しにかかる。ならばとさらにタスクを増やし、そこに本命となるラインを織り交ぜ、なおかつ月の都に帰還するダミーを用意し、その実本命に見せかけたそれこそがデコイであり都に繋げようとしていたスキマを迂回させて地上に接続しようとする。どちらが先に限界を迎えるか、このままではこちらのほうが圧倒的に分が悪い。最後の抜け道を潰され八方ふさがりとなった私は思わず大きな声で叫んでいた。
「見てないで手を貸しなさい、蓮子!」
瞬間、彼女によって刺し貫かれた部分が熱を持ったように疼きだす。JST**:**:**、月面。今の私の眼には日本標準時が映り現在地の座標が見えていた。一瞬、僅かの間だけ私たちの演算が豊姫の能力を上回り、一か八か目の前のスキマへと身を躍らせる。飛び込み、跳躍。間一髪、地上。およそひと月ぶりの地球の重力、身体が重い。だが座標を妨害されたのか、飛び出した先は海の上。海中に、落下。溺れる。と同時に海の底で踊る巨大な影。身をくねらせながら接近してくるそれは八尋の鰐のように見え、巨大な口から覗く鋭い歯で私の足に噛みついてきた。
「――――――――――――ッ!!!」
水中で声にならない叫び声を上げ、無我夢中になって腕を振るう。なりふり構わず空間に断裂を形成しては、やたら滅多に投げつけると巨大な影は足を離して退散するが、今度はどちらが上でどちらが下か分からない。余力を振り絞ってスキマを開き、なんとか地上に戻ることができた私は飲み込んだ海水を吐き出すと力尽きてその場に倒れた。
私が意識を取り戻すと、どうやらそこはどこかの館であるらしかった。天井板はなく、太い木の梁の上に茅で葺かれた屋根裏の薄暗がりが目に入る。このような建物を月で見た覚えはない。なので地上であることに間違いはないようだ。ひとまず安堵し、身体の上に掛けられた毛皮の布団を払い除けて体を起こした。怪物に噛まれたはずの足に傷は残っておらず、身体のどこにも痛みはない。あのような溺れ方をすれば肺の組織が潰れて死んでいてもおかしくなかったが、もはや人外の身には関係ないということなのだろう。
それにしても、ここが一体どこかが分からない。部屋は四方の柱を廻るように細い縄が張り巡らされ、壁でないところには葦簀によって外と遮られている。隅には何かを燻して薄く煙を立てている炉が置かれ、私は部屋の中央で干し草を詰めた筵の上に寝かされていた。とりあえず床に座したままスキマを使って部屋を囲む縄にちょっかいを出し、弄ぶ。しめくり縄と呼ばれるこれは不浄なものを封じ込める用途の道具だが、この程度なら私でも楽に破れる代物でしかない。この場合はむしろ外から侵入しようとする者を踏み込ませないための措置だろう。
そんな風に自分が置かれている状況を観察していると、部屋の外から何者かの気配が近づいてきた。足音の軽さから女性だろうか。やがて簾の向こうに影が映り、合図と思しき柏手が響く。
「誰?」
内から声を掛けられるとは予想もしていなかったのか、相手はびくりとその身を震わせた。だが影は僅かに逡巡した後、意を決した様子で「失礼いたします」と断りを告げ簾を上げる。そこにいたのは一人の少女。格好からして恐らく巫女か何かだろう。あのノースリーブの上着と袖姿を見れば大体の予想はつく。そういえば私の着ている物は白い薄手のブラウスと菫色のワンピース、月に滞在していた時そのままの格好だ。この地の人々には私の姿ほうが奇異なものとして映ったに違いない。少女は深々と頭を下げてから部屋に上がり、簾を降ろす。私はそんな彼女に問いかけた。
「あなたは」
「タマクシ、と申します。半年ほど前、あなたをヨドの川の畔で見つけた者です」
「そう……」
まずは礼を言うべきなのだろうが、私は思わず言葉を失ってしまう。半年も眠り続けていたという事実は俄かに受け入れ難く、加えて彼女はヨドの川、淀川とも言った。ここは畿内の辺りなのだろうか、だとすれば思いのほか出雲から隔たった場所にスキマを繋げてしまったようだ。起き抜けに考えることが多すぎて思考の停滞する私に件の少女、タマクシが話しかけてくる。
「あの、もしや……あなたはコトシロ様なのでは?」
「なぜそう思うの?」
コトシロ。懐かしい名前に思わず興味を惹かれた私は問い質し、少女が答えた。
「今はここより東のミシマに住む年老いた長、ミゾクヒがそう申しておりました。菫色をした異国の服と、波打つ穂のような黄金色の長い髪。ミホの浜で天の鳥船に立ち向かい青柴垣の中へお隠れになられたヤエコトシロ様に間違いない、と」
ミホの浜。またしても久しく聞かなかった名前が出たことで再度、記憶が甦る。青柴垣というのはきっとスキマのことだろう、人の目にはそう写ったに違いない。それにしても、あの時、あの浜辺で私の行いを見ていた者がこんな地にまで流れて来ているとは思いもよらなかった。その子孫とこうして対面しようとは――私は感慨深く少女を眺めるが、ふと彼女の身体の異変に目が留まる。
「そのお腹は?」
「これですか?」
注意深く観察すれば服の上からでも確認できる程の膨らみ。それをタマクシは自らの手で撫でさすりながら言う。
「実はコトシロ様をお見つけした時、その足には鰐の歯が刺さっていました。それを抜こうとしていたら指を傷つけてしまいまして……その頃から体調が崩れがちになったのですが、気が付いたらこのようなことに」
タマクシの話を聞いた私は思わず目を伏せ、手で口を覆っていた。鰐の歯とは恐らく豊姫の呪いが込められたものか。私を月に縛りつけるための呪詛だとしても、豊姫のあまりの手段に戦慄を覚えると同時に無関係のタマクシを巻き込んだ挙句、累をなすりつけてしまったという罪悪感が湧いてくる。
「ごめんなさい、私のせいだわ。私があなたの……」
「いいえ」
タマクシは謝罪を述べようとする私の言葉を遮って、言う。
「謝らないでください、コトシロ様。この子は神の子です。鰐の歯から生まれた子ですから、間違いありません。一度は海へと去り、再び陸に上がられたコトシロ様から授かった子。よってこの子は神の子なんです」
静かに微笑みながら“神の子”とタマクシは言う。確かに神の子には違いない。だがあの鰐の歯は豊姫の呪力が込められたものだ。つまり彼女のお腹にいる子は厳密に言えば私の子ではなく、豊姫の子ということになる。出雲を滅ぼした大和の神に連なる子、いかなる強国といえども一度敗れればこうして薄れていく血筋――それがあまりにも不憫に感じられて、私は思わずタマクシ親子に抱きついていた。出雲を滅ぼされた時でさえ流れなかった涙があふれだす。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……私のせいで……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
タマクシのお腹に縋りついたまま私は泣いた。とめどなく、人目もはばからず声をあげ、子供のように泣きじゃくった。それは私が初めて出雲のために流した涙だった。何もかも全てがなくなり、消え去っていくことが無性に悲しかった。そんな私をタマクシはずっと抱きしめたままでいた。
やがて日が傾きだした頃。タマクシに抱き着いたままだった私の涙もようやく底をつき枯れ始めていた。泣き疲れ目を閉じる私をあやすようにタマクシが話しかけてくる。
「コトシロ様に罪はありません、もちろん生まれてくる子にも。コトシロ様は精一杯頑張られました。出雲のために、私たちのために。その上で仕方のないことだったんです。誰もコトシロ様のことをお恨み申してなどおりませんよ。だからお顔を上げて、この子に名前を付けてあげてくださいな。コトシロ様」
その言葉に私は心を救われる思いを感じて涙を拭う。ようやく立ち直れるような気持ちがした。
「……ええ、そうね。それじゃあせめて、うんと出雲らしい名前を付けてあげなくっちゃあね」
出雲――またの名を“出鉄”。かつて大国主を名乗ったナムチと彼の下に集った人々の数多の手により栄華を極めた古の王国。その繁栄は鉄の力を抜きにして語ることは出来ない。そのため出雲には多くの鞴を備える踏鞴製鉄所があった。また葦の根元になる金属、高師小僧こと褐鉄鉱。乾いた音を鳴らすそれは鈴の原型ともいわれ、豊富に産出された鉄塊の房を五十鈴、その様を指して鈴生りと呼ぶ。だから私がタマクシの子につけた名を“タタライソスズ”という。
「……の……おい、八……八雲の!生きてるか?死んでないよな?」
神奈子の呼びかけに私は意識を引き戻される。目を開けると星が散りばめられた秋の夜空に、欠けゆく十五夜の月が浮かんでいた。視界の端に映る現在地は妖怪の山の守矢神社、時刻は月を訪れてから一時間と経っていない。どうやら外の世界から越してきた湖の畔で、私はずぶ濡れになって陸に引き上げられたようだ。結局のところ、私は三度豊姫に負けた。覚えているのは扇子から噴き出る浄化の粒子の煌きと、さながら月の光を羽に受けて鱗粉を輝かせる蝶のような豊姫の姿。私が放った黒死蝶など一瞬にして素粒子レベルまで分解されていた。遊びでなければ私も今頃、同じ運命を辿っていたことだろう。
扇子の起こす風を操る豊姫に、私は近寄ることさえできなかった。迂闊にスキマを使えばどこに出口を繋がれるか分からず、攻撃の回避すらままならない。切り札である天の逆手・青柴垣の結界も、豊姫の視界内にある限り、手と手の甲を打ち合わせようとする動作をすり抜けるように操作されてしまう。あらゆる打つ手を封じられてはどうしようもなかった。最後は風に翻弄され、私は勢いよく海面へ叩きつけられる。フラッシュバックする過去の記憶、あの時は鰐に変じた豊姫の追撃を受けて身を危うくするところだった。次は何をどうされるのか予想もつかない。
賢者の海に落とされ夢中でもがく私の方に、人の姿をしたままの豊姫が近づいてくる。さすがは大綿津見の娘といったところか、水の中でも彼女は自由自在に振る舞って見せるが、翻って穢れを払われかけた私はもはや身体に力を入れることもできない。後事は藍に託してきた。書置きの類を残してきたわけではないものの、もし私が帰らなければ今一つ頼りないが根は優秀な式のことだ。彼女は全てを悟り、自らの取るべき行動を選ぶだろう。豊姫はもう私の目の前だ。と、不意に手を取られ互いに触れ重なった箇所から彼女の思考が流れ込んでくる。
(ずるいわ、八雲紫)
(ずるい?なにを?)
(月夜見様が見ているのはあなたばかり。どころか八意様まで連れて行ってしまった。これをずるいと言わずになんと言う?)
(だったら、あなたも幻想郷に来ればいい)
(……それは出来ない相談ね。私にも立場というものがあるから)
(出雲の血筋を絶やそうとしたのも、あなたの立場かしら)
(紫……あなたは本気でそう思っているの?)
(結果的には私を利用する形となった。月の連中が私に手を下さないのも、私が大和の権勢拡大に役立ったから。そうでしょ)
(……)
(……まあ、今更恨んでも仕方がないのはわかってる。でも私はこうして復讐を――)
(こんなのは復讐ですらない、ただの八つ当たり。あなたは怒っているけれど、どこに拳を振り下ろしていいのか分からない)
(……でしょうね。だから私は月に来たのかも。ここでなら誰かに甘えられると思ったから)
動けない私に代わって豊姫が私の身体を引き寄せ、私は彼女のいいように抱きすくめられる。比重の低い月の海では普通の浮力が働かない。水圧を感じることもなく、私たちは水の底へと沈み続けた。周囲が暗くなっていく。
(ねぇ紫。あのときの話はまだ終わってないから、もう一度聞きます。今からでも私たちのところに――)
(あなたたちのところに?)
(そう。このまま力づくで竜宮城へ連れていくことも、私は出来る)
(でも、しない。豊姫様がその気なら第二次月面戦争の折に連れていくことも出来たはず、なのにそうしなかったでしょう?)
私を抱きしめる豊姫の腕により一層力が入りかけるものの、すぐに抜けた。そのまま二人の寄せ合っていた耳朶と耳朶、肩と頤が離れていく。あと繋がっているのは手と手だけだ。
(ごめんなさい、豊姫様。今はまだその時ではないの。でもいずれ――)
(私は待っていますよ、八雲紫。今度はもう少し別の形で会いましょう)
豊姫が私の手を放し、互いに絡み合っていた指が解け、豊姫は不思議な浮力でその場に留まり続けた。二人の繋がりが途切れ、私は沈むに任せるまま海の底へと向かっていく。やがて意識を失いかける寸前に私は地上に落とされた。私が湖に落水した音を聞いて駆けつけてきたのが神奈子と藍の他にもう一人、それが山吹色の輝きを放つ髪を後頭部で一つの団子のように纏めた土蜘蛛の少女だった。
そのうちこの大騒ぎを聞きつけたのか、方々から人妖が集まりだしてくる。その野次馬の中に霊夢や竹林の薬師・八意永琳も混じっていた。永琳は永遠亭の姫や弟子の兎たちを連れていつの間にか宴会場に来ていたようだ。私を看た彼女が訝しげに言う。
「並みの妖怪なら全身の穢れを払われた時点で即死していたわよ。一体何をしてたの?」
「……さあ?酔って湖に落ちるまでの記憶がさっぱりありませんわ」
それを聞いた薬師はため息をつくと額に手を当て頭を大きく振り、横で見ていた霊夢が口を尖らせた。
「何よ。紫が死にかけてるって言うから慌てて飛んできてみたら、心配して損したわ。向こうに戻って呑み直しましょ」
そう言って踵を返す博麗の巫女に一瞬だけタマクシの面影が重なって見えた私は思わず自分の目を疑う。あの後、タマクシは一人の女の子を産んだ。その名はタタライソスズだが、間もなく私はその地を離れることにした。理由は一つ所に留まるつもりになれなかったからとはいえ、無責任の誹誹りは免れないだろう。代わりにコトシロの名を残し、持っていたなけなしの神性も置いてきた。冬が訪れる前のことだ。
皆が寝静まる夜半。ミゾクヒの館を離れるとき、私はタマクシに別れを告げるため眠る彼女の顔を覗き込んでそっと頬に手をあてがった。この地に住む出雲の人々にとって妖怪・八雲ゆかりの名はおろか、マエリベリー・ハーンとしての私など知る由もない。私は境界を操作するとコトシロをタマクシらの記憶に封じ込めた。そうすることで彼らの中には出雲の一柱であるヤエコトシロだけが残され、私はそれを身代わりにミゾクヒの館から解放される。
そうやって私はこの島を訪れた渡り鳥が換羽を行うたびに姿を変えるように、それまでまとっていた名前と衣を古い羽のように脱ぎ捨て、痕跡のみを積み残して去りながら生きていくのだろう。だが渡り鳥とは常世と現世、リアルとバーチャルを飛び越えるようにして彼我の境界線上にある存在。相方となる番を求める旅路の中で、羽を休める一時をその地その時代に求めるもの。和歌で渡り鳥を表現した「水鴨なす」とは「誰かや何かを恋い慕う」という意味だそうだ。なるほど、私にふさわしいではないか。故に置いてきた神性は後にこう呼ばれるようになる。鴨積羽八重事代主、と。今度の目的地は東だ。次はミシマにいるというミゾクヒに会いに行こうと決めていた。
こうして妖怪・八雲ゆかりが本格的に活動を始め幾有余年、私は風の頼りにタタライソスズが夫を得たという噂を聞く。相手は玉依姫の子、ワカミケヌ。即ち大綿津見の娘・綿月依姫の子であり、長じて後に“イワレビコ”とも呼ばれることになる人物。その系譜も時代を経るうちに行方は茫洋として知れなくなっている。まさか霊夢がその血を引いているなどということは――私は飛躍しすぎた空想を頭から追い出し、お酒を飲んで全部忘れることにした。きっと霊夢の着ている巫女装束か、この短い間に色々なことを思い出しすぎたせいに違いない。と、いつの間にか後についてきていた土蜘蛛の妖怪・黒谷ヤマメが口を開く。
「あーあ。せっかく大妖怪サマの死にざまなんて珍しい見世物が出るかと期待したのに、残念、残念……ところで、あんたとはどこかで会ったことがあったっけ?」
それを横で聞いていた藍が凄まじい殺気を飛ばすものの、ヤマメはまるで気にかける様子がない。ついでなので、私もとぼけることにした。
「……生憎ながら存じないわ」
「あ、そう。ま、気のせいなら別にいいんだ。でもいつだったかな、どこかで見たような気がするんだよね……」
首をかしげながら宴会場へと向かうヤマメの背を、やはり私はその場で立ち止まって見送った。何も覚えていないというのなら、そのほうが彼女のためにもいいのだろう。皆が境内の表にある宴会場に向かい始める中で、隣にいた神奈子が腕を回し肩を組んでくる。せっかくなので私も彼女の肩を借りることにした。共に父・大国主の下で暮らした家族、出雲の同輩、少し年が下の姉。自然と往時を思い出して「ふふ」と笑みが漏れた。それは神奈子も同じようで、彼女からは「はは」という笑い声が上がる。
何が可笑しかったのか、ひとしきり姉妹で笑いあった後。二人連れだって宴会場へ向かう時、私は少しだけ首を動かすと目だけで月を振り返った。あそこには今も私の相方が住んでいる。今頃は彼女もお酒を酌んでいるだろうか。私は誰にも聞こえないような声で呟く。
「またね」
| 結 | 再会 ~ Beyond the Bounds
誰もいない夜に、寂れた神社の境内を訪れる二つの影があった。やがて彼女たちは奇妙な空間の裂け目に飲み込まれて姿を消し、物陰からそれを確かめていた私は背後から声をかけられる。
「行った?」
「ええ、行ったわ」
私は今まで隠れていた参道脇の茂みを出て、声のした方に向き直り、言う。
「珍しく時間ぴったりね」
「そんなことないわ。今回に限ってはメリーの遅刻。およそ二千四百九十九万七千五百年とちょっと、ってとこね」
相方の文句に聊かむっとした私は少しだけ意地悪をしてみたくなる。
「いい加減に出てきなさい。それに五百年の誤差を“ちょっと”なんて言い方する奴に遅刻なんて言われたくないもの。あと月夜見様はストーキングが趣味なのかしら」
「よしてよ。月の都じゃあるまいし、そんな呼び方は堅苦しいわ」
そう言うと彼女は肩についた落ち葉を払いながらようやく参道に姿を現す。トレードマークのソフト帽にマントのようなショールを羽織った、いつも通りの格好。
「まあ話したいことは色々あるけど、とりあえず」
「そうね、まず先に言うべきことがあったわね」
互いに相手と向き合って、私たちは二人同時に声をかける。
「ただいま、メリー」
「おかえり、蓮子」
未来、科学世紀。深夜の博麗神社の境内にて、秘封倶楽部が世界から姿を消した日の出来事だった。
『Flowing Destiny』 <了>
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