暗闇の竹林。巻き上がる枯れ葉。がさがさと、音を立てて走る影。同じところを、行ったり来たり。何度も、何度も。
また、おばかさんが居たものね。
……満月の夜にお散歩なんて。
「きゃぁっ!」
どさり、と。竹林の外れの草原に、少女の身体が投げ出された。焦げかけのお札、細くて長い棒、発光する小さな板……それに大きなタケノコ。抱えていたものを散らかして、顔を伏せたまま固まって。着ている服を見て少女だなんて思ってたけど……中身は案外大人かもしれない。
……それにしても。
「おめでとう」
ここを抜け出せるなんて、相当ついている。
「……へ?」
被った帽子を手で押さえながら、少女は顔を上げた。その容貌が露になる。陶器のように艶やかな肌。作り物のように整ったブロンドの髪。そして月明かりを映して輝く青い瞳……。
私と目を合わせた途端、彼女は膝を縮めて怯み始めた。
「あ、あなたも……妖怪?」
「……そうかもね」
がさり。立ち上がってすぐさま駆け出そうとする彼女。私はその腕を掴んだ。
「ひぃ!」
振り返った彼女の顔は恐怖で引きつっている。
「な、……なに、私を……食べる気?!」
まぁ、怯えるのは無理も無い。ついさっきまで、別の妖怪に追いかけられてたみたいだし。
言葉の代わりに、私は手を差し出した。もう片方の手、片面が光る板を持って。
「……落とし物」
きょとん、と。目を丸くして驚く少女は、どこか現実離れしていて、まるで舞台の上の人形のようだ。
「あ……ありがとう」
向き直った彼女が、それを受け取ろうとする。……直前、私はその手を引っ込めた。
「一緒にお月見、どうかしら?」
ちょっとしたナンパだ。私はそう思った。
けれどその裏には、決して穏やかではない直感があった。見たことも無い顔、見たことも無い道具。そして……何故か馴染みがあるその瞳。
……彼女のことを、少し調べる必要がありそうだ。
「ひどいことしたり、しないよね?」
警戒心が有るのか無いのか。どこか抜けたようなその言葉を受け流し、私は芝生に腰を降ろした。黙って固まっていた彼女も、しばらくして、敵意が無いことを察したのだろう。他の落とし物を拾い集めると、私の隣に座った。大きなタケノコを、抱えるように。
「ねぇ、これってそんなに大事なものなの?」
私は光る板を手に取った。少女の目線は、先程からこれに向けられていたのだった。
「それが何か知らないのね」
やけにあっさりとした返事。
「さぁ……文鎮かしら」
当てる気のない答えに、彼女は少し笑った。
「それは私よ」
「……これが?」
「私を拡張した、もう一つの自分。私の代わりに何かを覚えてくれていたり、調べてくれたり、計算したりしてくれる。ついでに遠いところにいる人と連絡ができる」
このつまらない見た目で、そんなことができるのだろうか。半信半疑で板を観察してみたが、特に面白ことはなく、私はそれを彼女に返した。
「それって……要は式神じゃない」
「式神……? 面白い喩え!」
喩え……?
「あっでも、妖怪が居る世界なら、真っ当な表現なのかな」
「……貴方にとって、式神は真っ当じゃないのね」
「そりゃあ……。……って! あなた、持ってるの? ……式神」
「……使い魔とも言う」
「素敵! あなたがどんな妖怪なのか、気になってきちゃうかも……」
「……呑気なものね」
つい先程まで怯えていたというのに。
「……でもね、私のこれは……そんな大層なものじゃないの。今の時代、人は誰でも持ってるものなのよ」
やはり、とは思ったが――
「あいにく、使っている人間を貴方しか見たことが無いわ」
「えっ……?」
――常識がかみ合わない。
きっと、すごく、ずれている。……それも根本的な何かが。
「貴方……どこから来たの?」
少なくとも、ここの人間ではない。それは彼女の立ち振る舞いから明らかだった。里の人間なら、こんな真夜中に竹林に入ったりしない。だが……。
「えっと……それはどこから話せばいいのかな……。いちおう……現実世界の、日本の、京都……って言ったらわかるかしら?」
「日本の京都は分かるわ。でも現実世界って?」
「だって、これは夢でしょう?」
「……は」
予想外に話が飛び、思考が一瞬止まる。この世界が夢だって?
「悪いけど、貴方……」
私を遮って、彼女は口を開いた。
「夢と現の区別がついてない、でしょう? よく言われるの」
きっと、何度も同じようなやり取りをしてきたのだろう。その声は諦めのような、或いは呆れのような色を含んでいた。
「でもね、夢だからって、偽物なんかじゃない。これは現実だもの。夢の私にとっての現実」
大人には見えないものが、自分には見えた。そんなことを訴える子供のような声で。
「夢には夢の私、現には現の私が居る。それだけよ。……きっとあなたにも居る。背中合わせの〝もう一人〟が」
「……そういうものかしらね」
これもまた、彼女に特有の常識がもたらす、独特な世界の捉え方なのだろうか。確かに、ここを夢だと考えているのなら、警戒心も遠慮も無い彼女の奔放な振る舞いにも説明がつく。だが、夢と現の区別がついていないというのなら、現でも同じ様に振る舞うのということではないか? 言うなれば、これが彼女の〝自然体〟だ。とすると……可能性はまた別にある。
……そもそも彼女が、他人に警戒する必要のない世界から来た、としたら?
「質問を変えるわ」
私は声を改めた。
「貴方は……いつから来たの?」
夜風が吹く。竹林を抜け、葉音を鳴らす。少女のブロンドが月明かりに靡き、私の頬を掠めた。
「面白いこと聞くのね」
乱れた髪を耳にかけ直し、彼女が振り向く。
「私が……未来人にでも見えるの?」
……もし、あり得るのなら。それで説明がつく。そのおかしな文鎮も、全て。……そう口に出すほど、私は愚かにはなれなかったけれど。
「確かに……私も感じていたわ。街並みの古さも、夜空の美しさも、やっぱり私の住む時代とは思えなかった。時間旅行しちゃったかもしれないと思うと、ワクワクしちゃって、起きても忘れないようにって、紙に書き残したりして……」
あれ? どっかに落としてきちゃったかな、と。小さく呟いて、彼女は身の回りを見渡していた。けれど見つからないと分かると、「まあいっか」と呟き、案外あっさり話を戻した。
「でもね……お姉さん。私だけが異物で、私以外が正常だって、どうして言い切れるのかしら」
悪戯っぽく笑う少女に、妖怪を畏れる心はもう無いのだろう。
「時間旅行したのは……〝世界〟そのものかもしれない。私はただ置いて行かれただけで、世界の方が他のみんなを乗せて未来へ旅立っちゃった。そうは考えられないかしら。小さい変化が起きたように見えたって、本当に変わったのは……残り全ての方かもしれない……」
少女の発想に天井は無いようだ。それが彼女の時代の常識なのか、それとも本当に彼女が特殊なのかは、未だ判別がつかないが。
「まぁ……そうね。どちらが正しいか、比べるだけは決められない」
「その通り! あぁ、何という相対性。これが物理の限界なのよ……ふふっ」
此処には居ない、誰かへのちょっとした仕返しを喜ぶように、彼女は笑った。
「私ね……物理の世界は不完全だと思うの。だって、物理は時間旅行を許さない……いえ、許されたとしても、人はそれに気づけない。物理だけの世界では、記憶も物理に書き込まれるからね。時間旅行みたいな物理の書き換えが起きたら、一緒に記憶も書き換わっちゃうのよ?」
彼女は月に向かって手を伸ばした。まるで、あの月を手に取れないのは、物理学者のせいだとでも言うように。
「だからね。世界には……物語が必要なの」
「……物語?」
「そう。宇宙の全てを記述する、物語。物理が相対的にしか事を述べられないとすれば、物語は絶対的な記述を与える。その記述を起点に、過去と未来が定まる。物理を抜け出した時間旅行者でも、物語にならその居場所を持つことができる。……今の私みたいに」
「貴方、それで……ここを〝夢物語〟にすぎないと?」
「あら。物理と比べて、完全なのは物語の方なのよ? 物語がある世界は、それを誇らなくっちゃ。物語が無かったら……物理を超えた存在を、現象を、時間を……そして、過去を。知ってあげることも、覚えていてあげることもできないんだから」
見上げる夜空、彼女の瞳に映る月が、少し歪んだ気がした。
「あなたの世界には……無いの? その、〝物語〟」
「無い。……いいえ。無かったことにされた。科学世紀に不思議は存在しない。物理を超えた概念に誰も思いを馳せたりはしない。なぜなら、人類は全てを解き明かしたのだから。そこに……私たちのための居場所は存在しない」
彼女は今、〝私たち〟と言った。時間を超えてきた少女は、確かに彼女の世界――どうやら〝カガクセイキ〟というらしい――にとって〝無いもの〟なのかもしれない。しかし彼女の他に、その言葉は誰を指したのだろう。そこに私は含まれたのだろうか。私のような妖怪は、未来では存在が許されないと? あるいは、彼女の世界にも本当は〝許されない〟者が存在し、彼ら彼女らに思いを馳せたのだろうか。
「もしかしたら、誰かが、あるいは大きな組織が、人々の探究心を独り占めしてるのかもしれない。世界中の不思議を集めて、みんなから隠して。まるで科学が解き明かせるものが世界の全てみたいに見せかけて……」
「……素敵な陰謀論ね」
「これは、とある私の同類からの受け売り。でもね、私はその方がまだ救われる気がするの。人類の皆が皆、本当に探究心を失くしてしまったら、私が視るこの夢を、時間を超えた探究を、誰が幻でないと証明してくれるの?」
探究心の喪失。彼女にとっては、それが全ての喪失なのかもしれない。
「私の元居る世界では、未だ時間旅行は実現していない。きっと未来永劫叶わないわ。もう、大半の人々は探究心を失ってしまったから。けれど……貴方の世界は違う。私は時間旅行を実現し、その記憶を失うことなく自覚できている。だから……」
言葉を区切り、彼女は膝に顔をうずめた。抱えられたタケノコが、息苦しそうにもがく。
「……私、やっぱりあると思うの。記憶だけのための媒体が。物理っていう、記憶が不完全な世界の層があるとしたら、そ上には本物の、完全な記憶が宿る層がある。それが、〝記憶の層〟。……私が物語と呼ぶもの。そして人が……アカシック・レコードと呼ぶもの」
「アカシック・レコード……」
その新鮮な響きに、私は思わず呟いてしまった。聞いた少女は、きっと私の為に説明を始めるだろう。だが、その語感からでも、ある程度推測できるものがある。
アカシック。アカシィ。アーカーシィ。……そう、おそらく天竺の思想〝アーカーシャ〟の記憶のことだ。……それは虚空であり、かつ全ての情報を蓄えているという……。
「『物理に刻まれる情報は、媒体それ自体が物理としての情報であるために、それ以上の情報を含むことができない。ゆえにアーカーシャは物理的には虚空でなければならない。しかし同時に、アーカーシャは全ての記録を内包している。故にアーカーシャは物理の外なるものであり、だからこそ、物理の全てを記録できる』……お嬢さん、私を試そうとしたかしら?」
少女は目を輝かせて言った。
「まぁ、素敵! それも……もしかして〝式神〟の力なの?」
そういう彼女は、先程から頻繁に〝式神〟を確認しながら話をしていた。よく見ると、そこにはぎっしりと文字が浮かび上がっている。彼女が指を滑らせるのに合わせて、文章は上へ上へと流れていった。
「私がこうやって、あの手この手で夢を書き記そうとするのも、物語に覚えてもらうためなの。……まぁ、殆ど失敗しちゃうんだけどね。それでも偶に、夢の中から物を持って帰れたりするのよ?」
夢から現に物を持ち出す。もし本当なら、彼女は人間の域を超えている。超えてはならぬ境界の侵犯、それは摂理そのものに対する越権行為だ。
もっとも、彼女の夢と現の認識の甘さでは、その言葉をそのまま信じることはできないが。
「よっぽど〝物語〟を信頼してるのね。貴方」
「うん。物語として記録されたこと、すなわち記憶だけが神様なの。物理が書き換わったら、物理の中からはそれに気づけないけれど、物語はそれを覚えている。こうやって物語があるから、不完全な物理の層は存在できている」
伝えたいことが伝わり安心したのだろう。「きっとそうだわ」と言いながら、彼女は芝生にとさりと横たわった。
夜風が私たちのスカートを揺らしていく。雲が運ばれ、月は翳っていった。竹林がカタカタと鳴き、迷い人を手招きしている。まるで、逃した獲物を再び捕えんとする様に。けれど少女は、竹林から抜け出せた幸運も忘れて、タケノコを枕にしようと苦戦していた。向きを変えたり、回してみたり。横を向いたり、仰向けになったり。結局、硬すぎることを理解したのだろう。諦めて、再び芝生に頭を下ろす。
そして口を開いた。
「……ねぇ、お姉さん」
「何かしら」
「時間旅行の可能性の話。したじゃない? 私が動いたのか、世界が動いたのか、って」
「えぇ」
「今の話。私の世界に物語が無くて、こっちにはあるとしたら……もっと別の可能性が考えられない?」
その時からだっただろうか。彼女と遭遇した時に感じた、あの穏やかならぬ直感の正体に私は気づき始めた。
「……私は独りぼっちじゃなかった」
それは、彼女の存在それ自体が、それをはるかに超える大きな事象の示唆になっているという直感だ。
「私は、世界といっしょに時間旅行をした」
そう気づいた今、少女の言葉が。
「いえ、それはもはや、宇宙の書き換えね」
平易な口調で述べられる夢想のようなその内容が。
「宇宙にとっての〝今〟そのものが書き換えられた」
無視できない程、真に迫っているように聞こえる。
「もちろん、物理に生きる人々はそれに気が付けない。けれど私は偶然、そのときあなたの世界に居て、だから気づけた」
芝生に背をつけ、気さくに妄想を語っているつもりの彼女は、しかし。
「なぜなら、ここには記憶の層があるから。そして記憶の層には書き換わる前の世界が記述されていて、それに基づいてこの世界は働く。だから貴方のこの世界は時間旅行をしない。つまり……」
明確な刃として、その存在と示唆を私につきつけてきた。
「私も含めて、私の世界が丸ごと〝過去〟に滑ってきて。貴方の世界の〝今〟に出会ってしまった。……そうは考えられないかしら」
悪寒。明らかな悪寒だった。敵に狙われる、敵に襲われる。未知の存在に追いつめられる。そんなちゃちなものじゃない。もっと根源的で、ともすると宇宙的な危機感が、そこにはあった。
個人の裁量、技量、能力をはるかに上回る、超越的な観念……摂理。
〝構造〟そのものを揺るがす、無形にして無言の〝根本的〟現象。
直感がそれを捉えたとき。本能は決して抗えず。
そうして私は――
――〝外〟を見た。
四角く区切られた夜空。月まで届きそうな塔の数々。雲を照らしだすほどに明るい灯りと、煩いほどに明滅する文字の洪水。星は見えず、夜は眠らず。街は喧騒と臭気に塗れ、人々は大地を埋め尽くす。路の上を四本足の怪物が走り回り、目を光らせた鉄の蛇が軌道の上を駆け抜けていく。人はそれぞれの〝式神〟を持ち、地に生えた木々は光を放ち。街のあらゆる場所が照らされている。知恵は巡り、情報は巡り、意思が交わされ、声が交わされ。その全てが高速で飛び回る。そこに〝不足〟は無く。未知も不思議も在りはしない。全てが制御され、人類の手の下に置かれた世界。ここは……
「……まさか」
彼女の言葉通りの〝未来〟――。
――光だ。光に満ち溢れていた。それは文明の光。遍く照らす叡智の炎。そこに影は見当たらず、然して怪異は現れない。新たに生まれることもなく、また生き永らえることもない。私は直ちに理解した。文明という圧倒的な光の下で、霊も妖も神も、消し炭となり塵と消える。この世界に、この時代に、〝私たち〟の居場所は……無い。
――少女の言う〝私たち〟は、あの両方を指していたのだ――
気づき、我に返って。私は……不可避に彼女へ目を向ける。
そうして彼女と目が合う、ごく寸前。
――その瞬間を、見逃さなかった。
「……これが〝視〟えるの?」
そう、そのとき少女は、私の顔ではなく……その先に開いた〝裂け目〟に焦点を合わせていたのだ。
「どう? ……私の時代を眺めた感想は」
たった今。私は確実に……深淵に覗かれた。
「……本当に………………居たとはね」
考えたことはある。だがあくまで可能性の話だ。この目と同じものを見られる者が、私の他に存在するかどうか。しかし、いざ目の前にしてみると、それは思いの外気味の悪いことだった。果たして彼女は、この力のどこまでを理解しているのだろう。扇子で口元を抑え逡巡する間にも、素知らぬ顔の彼女のおしゃべりは止まらなかった。
「ヒトと世界が違って見えるって、そんなに特別なことなのかしら」
自分は特別じゃない、と。そう彼女が思いたがっているとすれば、それはきっと、あの環境の所為だ。
「視覚って、経験が全てじゃない? 見てきたものが違ければ、当然世界も違って見えるはずなのよ。自分は人と同じものを見てるって認識は、言葉が見せた錯覚だわ」
そう話す彼女の瞳は、まるで私には見えない何かを捉えるように、何もない虚空を凝視していた。
「ヒトは皆、世界を違うように見ている。ただそれに気づいていないだけ。気づく方法が、原理上存在しないの……よっ」
上体を起こし、彼女が私と肩を並べる。どうやら、未来人は人との距離感が違うようだ。こっそり距離を取りつつ、私は扇子を閉じた。
「……いつの時代も、同じことを考える人は居るものね」
視界というものを有する限り、思い当たらざるを得ない疑問である。
「貴方の見る〝青〟が、私にとっての〝赤〟であっても。二人で晴れた真昼の空を指差せば、お互いそれを〝青〟と表現する」
「そう。視覚の情報と言葉の情報は本来異なるもの。言葉は共有されても、視覚の情報が共有されることは決して無い」
「なぜなら……言葉と視覚の橋渡しは、全て個人の裁量に委ねられている。そしてその橋渡しを他者が直接確認することは叶わない」
ふふん、と。頬を緩めた彼女。きっと、私と議論の前提が共有されるのを待っていたのだろう。指を振りつつ、彼女は顔をぐいと近づけてきた。
「じゃあ、ここからが本題。原理上無理だと私は言ったけれど、それでもどうしても、二人の人間の世界の見方が違うことを証明したいとしたら……お姉さんなら、どうする?」
「一人から両目をぶち抜いて、もう一人の眼孔に埋め込んでやればいいんじゃない?」
「まぁ。猟奇的。流石妖怪ね! ……半分不正解」
「面白い言い回し」
取ってもいいのよ? と呟きつつ。彼女は顔を引いた。
「正解はね。〝片目だけ〟移植する。ただし物理的な眼球だけじゃなく、その眼が見てきた記憶も一緒にね。もちろん、物理的には眼球に記憶など宿っていない。けれどこの世界……記憶の層の下でならどうかしら?」
おもちゃの模型であると分かっていても。彼女の思考実験には、容易に現出しうる生々しさがあった。
「仮定が正しいなら、移植された人間の右目と左目は別々のものを映し出す。それを総合して〝見〟たとき、その人の視界には、必ずズレが現れるはず。そのとき映るのが、まさにね……〝境界〟なのよ」
ぴくり、と。無意識に眉が動いたのを感じた。
――少女は……〝答え〟に近付きつつある。
「例えば、昼と夜の境界。藍色と紫色の境界。夏と秋の境界。もしかしたら……自分と自分でないものの境界。その線引きは人によってまちまちで。だから、右目と左目で違う記憶を持たされた人間は、視界に〝裂け目〟を見る。それは境界の綻び。認識のほつれ。世界が言葉によって分節されたとき、どうしても生まれてしまう空白。すなわち……スキマ」
息を、飲んだ。
未来……というのは、ただそれだけで、強力な能力である。私は実感せざるを得なかった。私には見えていないものが、彼女には見えている。私にとっての難題が、彼女にとっては常識となっている。夢の中の少女のうわ言だとして流すには、彼女の言葉は神妙すぎた。
そう、他でもない〝スキマ〟が視えている彼女が。こうして瞳の〝起源〟を語っているのなら。
「その瞳は……」
「えぇ。私ね……
……右目と左目、違うの」
瞬間。少女は片手の指を二本立てると、躊躇いもなく目の下に突き刺した。下瞼をずり降ろし、私に見せつけてくる。零れ落ちてしまいそうなほど眼球が露になり、本来見えるはずのない〝内側〟が顔を出す。そうして初めて……私は気づいた。彼女の右の瞳は青く、左の瞳は……蒼かった。それだけではない。二つの眼は、そもそも大きさが異なっていたのだ。
「これだけ話しておきながら、自己紹介もできていなかったわね。……夢の中で呆けていたわ」
何事も無かったかのように、彼女は二本の指を引き抜いた。
「私はマエリベリー・ハーン。マエリベリーは左目の、そしてハーンは右目の名前なの」
目に名前がある。その珍妙さに呑気に面食らっていられたのは、ほんの一瞬だけだ。
「〝マエリベリー〟はね、生まれたときから私の名前。それでね、〝ハーン〟は……
……前の所有者の名前」
そう。瞳に名が付けられたのではない。その名は……かつて一人の人間に付けられていたものだ。
「ねぇ、マエリベリーさん」
であるならば。これを尋ねる必要がある。
「……その〝ハーンさん〟って、ご存命かしら」
「えへぇ?」
妙な反応で声を漏らし、少女は数瞬固まった。顔に浮かんだ表情は、私に対する驚き……というよりも、からかいに近い。
「当然じゃない。……もう死んでるわよ」
少女の声は冷たく。そこに死者へ手向ける温かみはなかった。
「有名な人だから、知ってると思ったんだけど……」
と言いかけて、突然吹き出す。
「ってこれは未来の話じゃない! ごめんなさいね、うっかりしちゃって……。そのね、彼のフルネームはパトリック・ラフカディオ・ハーンっていうの。日本の民俗学の第一人者よ? 幼い頃に隻眼になってるから……きっと、彼にも見えたんでしょうね、〝スキマ〟が。だから妖怪たちの姿を捉えられて……」
否。私が聞きたかったのはそこではない。
――何故、今。君がその目を持っている? どのように手に入れた。そも、どうやってその目で〝視〟ているのか。
前の所有者に……何をした?
おしゃべりに見える彼女は、しかし、重要な前提をところどころで取りこぼしていた。それらは彼女にとっての常識で、喋るまでもないことなのだろう。
未来では、人の眼球を移し合うのはありふれたことなのだろうか。そうも考えたが、これはおそらく違う。彼女は片目の移植の話を、あくまで仮説として語っていた。故に考えられるのはもう一つ。彼女の感性は未来人から見ても常軌を逸しており、そのことに彼女が無自覚であるという可能性だ。想像はいくらでも浮かぶ。殺して奪ったのかもしれない。墓荒らしの真似事をして、死体から〝盗んだ〟のかもしれない。しかしその目を、生きたまま己の一部として機能させているとは、一体どういうことだ。
いずれにせよ、彼女は常人ではない。いや、そもそも……
……彼女は本当に〝ヒト〟なのか?
もし、人ですら無いとしたら。私は知っている。それら全てを実現する方法を。それは……ある意味で、妖怪の本分そのものなのだから――
「――それでね、ハーンさんの和名は、小泉八雲って言うんだけど……」
その名を聞いて、私の意識は引き戻された。
偶然にしては……なんという因果だろう。夜露に磨かれ、洞察が目を覚ます。思索は加速し、可能性の欠片が滝のように流れていく。
――これは必然なのだと、夜空の黒が告げている。
雲が切れた。翳りが晴れ、月が再び顔を出す。細く降ろされた月光は、眼前、語る少女の額に落ちた。言葉を切り、見上げる彼女。
「月が……綺麗ね」
瞬いた左目に、真円の月が映る。青よりも蒼いその瞳が、月明かりを受け、琥珀色に輝いた――
――一瞬だった。
気づけば私は……少女を芝生に押し倒していた。
「……分かった。貴方の正体が分かった!」
らしくもない、子供のような歓声を上げ、少女に詰め寄る。少女の本体、その……左の瞳に。初めて見たそのときから、感じていたこの馴染み深さ。しかし既視感と呼ぶには妙な新鮮さ。その矛盾の正体が、今なら分かる。
私がこの瞳を覚えているのではない。
この瞳が私を覚えているのだ。
この郷では、瞳にも記憶が宿る。そしてこの瞳は、未来ばかりを映してきている。
ではなぜ私を覚えているのか?
――予定調和の刻は今だ。
「ねぇ、お嬢さん。認識の異なる瞳が、視界に綻びを映すなら。時の異なる瞳は……何を映してくれるのでしょうね?」
抗うことなく、組み伏せられた少女は。
「……私も分かっちゃった」
どこか遠く、私の背中の向こう側を見通していた。
「何故……あなたの周りには、たくさん目玉が見えるのか」
少女の視線の先には、ぎっしりと瞳をたたえた裂け目が開いていた。私が顔を寄せる程、その裂け目は大きく開いていく。少女を瞼で、飲み込むように。
「貴方に境界が見えるのなら。それも、私のものより、あんなに大きく、こんなにたくさん見えるなら。それだけ貴方は、大量の認識の誤差を抱えているということ」
――嗚呼、彼女の言葉が、こんなにも、近い――
「そんなことは……二つの瞳だけでは叶わない!」
最も残酷なのは、いつも真実だ。
そして彼女は、辿り着いてしまったから。
……その代償は、きっちりと支払ってもらおう。
「ねぇ……教えて」
「それだけの境界を映すのに、どれだけの目を奪ったの?」
ふり絞った声は、夜の暗闇に吸い込まれて。後に残るのは、僅かに上ずる呼吸だけで。
「覚えていないわ。……私は妖怪だから」
少女の口は、開いたままで動かなかった。
「ヒトは攫う。攫えば食う。目の玉の一つや二つ、そんなものはただの〝おまけ〟」
抑えつけていた腕。それが再び震え出す。出会ったばかりの、警戒心を取り戻すように。頬に添えた手が、彼女の涙袋を撫でた。
「私の目も、認識も……貴方は奪ってしまうの?」
怯え、震え、強張るほどに。少女の瞳は輝いた。
「……安心しなさい。貴方を食べたりはしないわ」
左目と、左目が見つめ合う。
頬を合わせるように、互い違いに、瞳の距離が縮まっていく。
視線が反射を繰り返し、視界は互いに溶けていく。
貴方の瞳が映すものは私に。
私の瞳が映すものは貴方に。
琥珀色と蒼色の境界。
少女の世界と私の世界の境界。
内と外、過去と未来の境界。
両者の輪郭が重なり合うとき――そこに境界は現れる。
そうして、少女と私は――
――〝ひとみづけ〟を交わした。
「この瞳は……噛み潰すにしては美しすぎるから」
眼孔は、涙と共に。
眼球は、記憶と共に。
美しさは、残酷さと共に。
「初めの貴方の疑問に、答えてあげる」
体を起こす。私の上体は、既に裂け目の中。月明かりが最後に照らした、彼女の瞳は琥珀色。無数の瞳をたたえた巨大な瞼は、やがて二人をその内に包み込んだ。
「私は……境界を操る妖怪よ」
巡る。巡る。記憶が流れ込んでくる。この力を使い始めて幾千年、これほどの量は久方ぶりだ。何せ未来の記憶なのだから。……循環の矛盾に囚われた、底なしの源を得たのだから。
「何を……したの?」
新鮮な、赤い視界を手に入れて。私の瞳は蒼く輝く。
「たった今、私と貴方、二人の目の境界を入れ替えた」
「っ――」
左の瞼に、そっと指を添えて。自身に何が起きたのか、彼女は理解したのだろう。徐々に馴染み始めた左目に、右の瞳の色を馴染ませながら……彼女は真直ぐ私を見た。
「あなたは……」
「八雲紫。……夜の帳に眠る者」
「あなたも八雲、なのね。……偶然にしては、なんて因果――」
手に顔を埋め、彼女は涙を流し始めた。異物を身体に埋め込んだ、その拒絶反応だ。
そっと抱き寄せるように、その身体を引き起こす。胸に収まってしまえば、やはり彼女は小さな少女だった。
「もう、心配しなくていい」
四六時中、文明に照らされて生きていくには……彼女の背中は小さすぎる。
「貴方の夢が、幻ではないと。その瞳はきっと、証明してくれる」
時が経ち、人が探究心を失おうとも。決して消えない夢として。
「……夢に生きることを誇りなさい」
肩に手を添え、身体を離し。顔を上げた少女は、笑っていた。
「ありがとう……紫さん」
だから私も、きっと笑っていた。
「再び宇宙が書き換わろうとも。この土地は、決して貴方を忘れない」
「時が改まり、空が裂け。私自身が、あなたを忘れてしまったとしても。この瞳は、貴方を覚えているから――」
そうして、二人の間は分かたれた。
……〝夢と現の境界〟によって。
裂け目の瞼が晴れたとき、そこにはもう、少女の姿は無かった。
彼女は再び、元の世界に戻るだろう。あの大きなタケノコと共に。
「ふふっ」
少女を真似るように、私は笑った。……おかしくって、仕方が無かったんだもの。
きっと、未来人は相当歯が丈夫なのね。
あれだけ成長したら、もう硬くて食べられはしない。
また、おばかさんが居たものね。
……満月の夜にお散歩なんて。
「きゃぁっ!」
どさり、と。竹林の外れの草原に、少女の身体が投げ出された。焦げかけのお札、細くて長い棒、発光する小さな板……それに大きなタケノコ。抱えていたものを散らかして、顔を伏せたまま固まって。着ている服を見て少女だなんて思ってたけど……中身は案外大人かもしれない。
……それにしても。
「おめでとう」
ここを抜け出せるなんて、相当ついている。
「……へ?」
被った帽子を手で押さえながら、少女は顔を上げた。その容貌が露になる。陶器のように艶やかな肌。作り物のように整ったブロンドの髪。そして月明かりを映して輝く青い瞳……。
私と目を合わせた途端、彼女は膝を縮めて怯み始めた。
「あ、あなたも……妖怪?」
「……そうかもね」
がさり。立ち上がってすぐさま駆け出そうとする彼女。私はその腕を掴んだ。
「ひぃ!」
振り返った彼女の顔は恐怖で引きつっている。
「な、……なに、私を……食べる気?!」
まぁ、怯えるのは無理も無い。ついさっきまで、別の妖怪に追いかけられてたみたいだし。
言葉の代わりに、私は手を差し出した。もう片方の手、片面が光る板を持って。
「……落とし物」
きょとん、と。目を丸くして驚く少女は、どこか現実離れしていて、まるで舞台の上の人形のようだ。
「あ……ありがとう」
向き直った彼女が、それを受け取ろうとする。……直前、私はその手を引っ込めた。
「一緒にお月見、どうかしら?」
ちょっとしたナンパだ。私はそう思った。
けれどその裏には、決して穏やかではない直感があった。見たことも無い顔、見たことも無い道具。そして……何故か馴染みがあるその瞳。
……彼女のことを、少し調べる必要がありそうだ。
「ひどいことしたり、しないよね?」
警戒心が有るのか無いのか。どこか抜けたようなその言葉を受け流し、私は芝生に腰を降ろした。黙って固まっていた彼女も、しばらくして、敵意が無いことを察したのだろう。他の落とし物を拾い集めると、私の隣に座った。大きなタケノコを、抱えるように。
「ねぇ、これってそんなに大事なものなの?」
私は光る板を手に取った。少女の目線は、先程からこれに向けられていたのだった。
「それが何か知らないのね」
やけにあっさりとした返事。
「さぁ……文鎮かしら」
当てる気のない答えに、彼女は少し笑った。
「それは私よ」
「……これが?」
「私を拡張した、もう一つの自分。私の代わりに何かを覚えてくれていたり、調べてくれたり、計算したりしてくれる。ついでに遠いところにいる人と連絡ができる」
このつまらない見た目で、そんなことができるのだろうか。半信半疑で板を観察してみたが、特に面白ことはなく、私はそれを彼女に返した。
「それって……要は式神じゃない」
「式神……? 面白い喩え!」
喩え……?
「あっでも、妖怪が居る世界なら、真っ当な表現なのかな」
「……貴方にとって、式神は真っ当じゃないのね」
「そりゃあ……。……って! あなた、持ってるの? ……式神」
「……使い魔とも言う」
「素敵! あなたがどんな妖怪なのか、気になってきちゃうかも……」
「……呑気なものね」
つい先程まで怯えていたというのに。
「……でもね、私のこれは……そんな大層なものじゃないの。今の時代、人は誰でも持ってるものなのよ」
やはり、とは思ったが――
「あいにく、使っている人間を貴方しか見たことが無いわ」
「えっ……?」
――常識がかみ合わない。
きっと、すごく、ずれている。……それも根本的な何かが。
「貴方……どこから来たの?」
少なくとも、ここの人間ではない。それは彼女の立ち振る舞いから明らかだった。里の人間なら、こんな真夜中に竹林に入ったりしない。だが……。
「えっと……それはどこから話せばいいのかな……。いちおう……現実世界の、日本の、京都……って言ったらわかるかしら?」
「日本の京都は分かるわ。でも現実世界って?」
「だって、これは夢でしょう?」
「……は」
予想外に話が飛び、思考が一瞬止まる。この世界が夢だって?
「悪いけど、貴方……」
私を遮って、彼女は口を開いた。
「夢と現の区別がついてない、でしょう? よく言われるの」
きっと、何度も同じようなやり取りをしてきたのだろう。その声は諦めのような、或いは呆れのような色を含んでいた。
「でもね、夢だからって、偽物なんかじゃない。これは現実だもの。夢の私にとっての現実」
大人には見えないものが、自分には見えた。そんなことを訴える子供のような声で。
「夢には夢の私、現には現の私が居る。それだけよ。……きっとあなたにも居る。背中合わせの〝もう一人〟が」
「……そういうものかしらね」
これもまた、彼女に特有の常識がもたらす、独特な世界の捉え方なのだろうか。確かに、ここを夢だと考えているのなら、警戒心も遠慮も無い彼女の奔放な振る舞いにも説明がつく。だが、夢と現の区別がついていないというのなら、現でも同じ様に振る舞うのということではないか? 言うなれば、これが彼女の〝自然体〟だ。とすると……可能性はまた別にある。
……そもそも彼女が、他人に警戒する必要のない世界から来た、としたら?
「質問を変えるわ」
私は声を改めた。
「貴方は……いつから来たの?」
夜風が吹く。竹林を抜け、葉音を鳴らす。少女のブロンドが月明かりに靡き、私の頬を掠めた。
「面白いこと聞くのね」
乱れた髪を耳にかけ直し、彼女が振り向く。
「私が……未来人にでも見えるの?」
……もし、あり得るのなら。それで説明がつく。そのおかしな文鎮も、全て。……そう口に出すほど、私は愚かにはなれなかったけれど。
「確かに……私も感じていたわ。街並みの古さも、夜空の美しさも、やっぱり私の住む時代とは思えなかった。時間旅行しちゃったかもしれないと思うと、ワクワクしちゃって、起きても忘れないようにって、紙に書き残したりして……」
あれ? どっかに落としてきちゃったかな、と。小さく呟いて、彼女は身の回りを見渡していた。けれど見つからないと分かると、「まあいっか」と呟き、案外あっさり話を戻した。
「でもね……お姉さん。私だけが異物で、私以外が正常だって、どうして言い切れるのかしら」
悪戯っぽく笑う少女に、妖怪を畏れる心はもう無いのだろう。
「時間旅行したのは……〝世界〟そのものかもしれない。私はただ置いて行かれただけで、世界の方が他のみんなを乗せて未来へ旅立っちゃった。そうは考えられないかしら。小さい変化が起きたように見えたって、本当に変わったのは……残り全ての方かもしれない……」
少女の発想に天井は無いようだ。それが彼女の時代の常識なのか、それとも本当に彼女が特殊なのかは、未だ判別がつかないが。
「まぁ……そうね。どちらが正しいか、比べるだけは決められない」
「その通り! あぁ、何という相対性。これが物理の限界なのよ……ふふっ」
此処には居ない、誰かへのちょっとした仕返しを喜ぶように、彼女は笑った。
「私ね……物理の世界は不完全だと思うの。だって、物理は時間旅行を許さない……いえ、許されたとしても、人はそれに気づけない。物理だけの世界では、記憶も物理に書き込まれるからね。時間旅行みたいな物理の書き換えが起きたら、一緒に記憶も書き換わっちゃうのよ?」
彼女は月に向かって手を伸ばした。まるで、あの月を手に取れないのは、物理学者のせいだとでも言うように。
「だからね。世界には……物語が必要なの」
「……物語?」
「そう。宇宙の全てを記述する、物語。物理が相対的にしか事を述べられないとすれば、物語は絶対的な記述を与える。その記述を起点に、過去と未来が定まる。物理を抜け出した時間旅行者でも、物語にならその居場所を持つことができる。……今の私みたいに」
「貴方、それで……ここを〝夢物語〟にすぎないと?」
「あら。物理と比べて、完全なのは物語の方なのよ? 物語がある世界は、それを誇らなくっちゃ。物語が無かったら……物理を超えた存在を、現象を、時間を……そして、過去を。知ってあげることも、覚えていてあげることもできないんだから」
見上げる夜空、彼女の瞳に映る月が、少し歪んだ気がした。
「あなたの世界には……無いの? その、〝物語〟」
「無い。……いいえ。無かったことにされた。科学世紀に不思議は存在しない。物理を超えた概念に誰も思いを馳せたりはしない。なぜなら、人類は全てを解き明かしたのだから。そこに……私たちのための居場所は存在しない」
彼女は今、〝私たち〟と言った。時間を超えてきた少女は、確かに彼女の世界――どうやら〝カガクセイキ〟というらしい――にとって〝無いもの〟なのかもしれない。しかし彼女の他に、その言葉は誰を指したのだろう。そこに私は含まれたのだろうか。私のような妖怪は、未来では存在が許されないと? あるいは、彼女の世界にも本当は〝許されない〟者が存在し、彼ら彼女らに思いを馳せたのだろうか。
「もしかしたら、誰かが、あるいは大きな組織が、人々の探究心を独り占めしてるのかもしれない。世界中の不思議を集めて、みんなから隠して。まるで科学が解き明かせるものが世界の全てみたいに見せかけて……」
「……素敵な陰謀論ね」
「これは、とある私の同類からの受け売り。でもね、私はその方がまだ救われる気がするの。人類の皆が皆、本当に探究心を失くしてしまったら、私が視るこの夢を、時間を超えた探究を、誰が幻でないと証明してくれるの?」
探究心の喪失。彼女にとっては、それが全ての喪失なのかもしれない。
「私の元居る世界では、未だ時間旅行は実現していない。きっと未来永劫叶わないわ。もう、大半の人々は探究心を失ってしまったから。けれど……貴方の世界は違う。私は時間旅行を実現し、その記憶を失うことなく自覚できている。だから……」
言葉を区切り、彼女は膝に顔をうずめた。抱えられたタケノコが、息苦しそうにもがく。
「……私、やっぱりあると思うの。記憶だけのための媒体が。物理っていう、記憶が不完全な世界の層があるとしたら、そ上には本物の、完全な記憶が宿る層がある。それが、〝記憶の層〟。……私が物語と呼ぶもの。そして人が……アカシック・レコードと呼ぶもの」
「アカシック・レコード……」
その新鮮な響きに、私は思わず呟いてしまった。聞いた少女は、きっと私の為に説明を始めるだろう。だが、その語感からでも、ある程度推測できるものがある。
アカシック。アカシィ。アーカーシィ。……そう、おそらく天竺の思想〝アーカーシャ〟の記憶のことだ。……それは虚空であり、かつ全ての情報を蓄えているという……。
「『物理に刻まれる情報は、媒体それ自体が物理としての情報であるために、それ以上の情報を含むことができない。ゆえにアーカーシャは物理的には虚空でなければならない。しかし同時に、アーカーシャは全ての記録を内包している。故にアーカーシャは物理の外なるものであり、だからこそ、物理の全てを記録できる』……お嬢さん、私を試そうとしたかしら?」
少女は目を輝かせて言った。
「まぁ、素敵! それも……もしかして〝式神〟の力なの?」
そういう彼女は、先程から頻繁に〝式神〟を確認しながら話をしていた。よく見ると、そこにはぎっしりと文字が浮かび上がっている。彼女が指を滑らせるのに合わせて、文章は上へ上へと流れていった。
「私がこうやって、あの手この手で夢を書き記そうとするのも、物語に覚えてもらうためなの。……まぁ、殆ど失敗しちゃうんだけどね。それでも偶に、夢の中から物を持って帰れたりするのよ?」
夢から現に物を持ち出す。もし本当なら、彼女は人間の域を超えている。超えてはならぬ境界の侵犯、それは摂理そのものに対する越権行為だ。
もっとも、彼女の夢と現の認識の甘さでは、その言葉をそのまま信じることはできないが。
「よっぽど〝物語〟を信頼してるのね。貴方」
「うん。物語として記録されたこと、すなわち記憶だけが神様なの。物理が書き換わったら、物理の中からはそれに気づけないけれど、物語はそれを覚えている。こうやって物語があるから、不完全な物理の層は存在できている」
伝えたいことが伝わり安心したのだろう。「きっとそうだわ」と言いながら、彼女は芝生にとさりと横たわった。
夜風が私たちのスカートを揺らしていく。雲が運ばれ、月は翳っていった。竹林がカタカタと鳴き、迷い人を手招きしている。まるで、逃した獲物を再び捕えんとする様に。けれど少女は、竹林から抜け出せた幸運も忘れて、タケノコを枕にしようと苦戦していた。向きを変えたり、回してみたり。横を向いたり、仰向けになったり。結局、硬すぎることを理解したのだろう。諦めて、再び芝生に頭を下ろす。
そして口を開いた。
「……ねぇ、お姉さん」
「何かしら」
「時間旅行の可能性の話。したじゃない? 私が動いたのか、世界が動いたのか、って」
「えぇ」
「今の話。私の世界に物語が無くて、こっちにはあるとしたら……もっと別の可能性が考えられない?」
その時からだっただろうか。彼女と遭遇した時に感じた、あの穏やかならぬ直感の正体に私は気づき始めた。
「……私は独りぼっちじゃなかった」
それは、彼女の存在それ自体が、それをはるかに超える大きな事象の示唆になっているという直感だ。
「私は、世界といっしょに時間旅行をした」
そう気づいた今、少女の言葉が。
「いえ、それはもはや、宇宙の書き換えね」
平易な口調で述べられる夢想のようなその内容が。
「宇宙にとっての〝今〟そのものが書き換えられた」
無視できない程、真に迫っているように聞こえる。
「もちろん、物理に生きる人々はそれに気が付けない。けれど私は偶然、そのときあなたの世界に居て、だから気づけた」
芝生に背をつけ、気さくに妄想を語っているつもりの彼女は、しかし。
「なぜなら、ここには記憶の層があるから。そして記憶の層には書き換わる前の世界が記述されていて、それに基づいてこの世界は働く。だから貴方のこの世界は時間旅行をしない。つまり……」
明確な刃として、その存在と示唆を私につきつけてきた。
「私も含めて、私の世界が丸ごと〝過去〟に滑ってきて。貴方の世界の〝今〟に出会ってしまった。……そうは考えられないかしら」
悪寒。明らかな悪寒だった。敵に狙われる、敵に襲われる。未知の存在に追いつめられる。そんなちゃちなものじゃない。もっと根源的で、ともすると宇宙的な危機感が、そこにはあった。
個人の裁量、技量、能力をはるかに上回る、超越的な観念……摂理。
〝構造〟そのものを揺るがす、無形にして無言の〝根本的〟現象。
直感がそれを捉えたとき。本能は決して抗えず。
そうして私は――
――〝外〟を見た。
四角く区切られた夜空。月まで届きそうな塔の数々。雲を照らしだすほどに明るい灯りと、煩いほどに明滅する文字の洪水。星は見えず、夜は眠らず。街は喧騒と臭気に塗れ、人々は大地を埋め尽くす。路の上を四本足の怪物が走り回り、目を光らせた鉄の蛇が軌道の上を駆け抜けていく。人はそれぞれの〝式神〟を持ち、地に生えた木々は光を放ち。街のあらゆる場所が照らされている。知恵は巡り、情報は巡り、意思が交わされ、声が交わされ。その全てが高速で飛び回る。そこに〝不足〟は無く。未知も不思議も在りはしない。全てが制御され、人類の手の下に置かれた世界。ここは……
「……まさか」
彼女の言葉通りの〝未来〟――。
――光だ。光に満ち溢れていた。それは文明の光。遍く照らす叡智の炎。そこに影は見当たらず、然して怪異は現れない。新たに生まれることもなく、また生き永らえることもない。私は直ちに理解した。文明という圧倒的な光の下で、霊も妖も神も、消し炭となり塵と消える。この世界に、この時代に、〝私たち〟の居場所は……無い。
――少女の言う〝私たち〟は、あの両方を指していたのだ――
気づき、我に返って。私は……不可避に彼女へ目を向ける。
そうして彼女と目が合う、ごく寸前。
――その瞬間を、見逃さなかった。
「……これが〝視〟えるの?」
そう、そのとき少女は、私の顔ではなく……その先に開いた〝裂け目〟に焦点を合わせていたのだ。
「どう? ……私の時代を眺めた感想は」
たった今。私は確実に……深淵に覗かれた。
「……本当に………………居たとはね」
考えたことはある。だがあくまで可能性の話だ。この目と同じものを見られる者が、私の他に存在するかどうか。しかし、いざ目の前にしてみると、それは思いの外気味の悪いことだった。果たして彼女は、この力のどこまでを理解しているのだろう。扇子で口元を抑え逡巡する間にも、素知らぬ顔の彼女のおしゃべりは止まらなかった。
「ヒトと世界が違って見えるって、そんなに特別なことなのかしら」
自分は特別じゃない、と。そう彼女が思いたがっているとすれば、それはきっと、あの環境の所為だ。
「視覚って、経験が全てじゃない? 見てきたものが違ければ、当然世界も違って見えるはずなのよ。自分は人と同じものを見てるって認識は、言葉が見せた錯覚だわ」
そう話す彼女の瞳は、まるで私には見えない何かを捉えるように、何もない虚空を凝視していた。
「ヒトは皆、世界を違うように見ている。ただそれに気づいていないだけ。気づく方法が、原理上存在しないの……よっ」
上体を起こし、彼女が私と肩を並べる。どうやら、未来人は人との距離感が違うようだ。こっそり距離を取りつつ、私は扇子を閉じた。
「……いつの時代も、同じことを考える人は居るものね」
視界というものを有する限り、思い当たらざるを得ない疑問である。
「貴方の見る〝青〟が、私にとっての〝赤〟であっても。二人で晴れた真昼の空を指差せば、お互いそれを〝青〟と表現する」
「そう。視覚の情報と言葉の情報は本来異なるもの。言葉は共有されても、視覚の情報が共有されることは決して無い」
「なぜなら……言葉と視覚の橋渡しは、全て個人の裁量に委ねられている。そしてその橋渡しを他者が直接確認することは叶わない」
ふふん、と。頬を緩めた彼女。きっと、私と議論の前提が共有されるのを待っていたのだろう。指を振りつつ、彼女は顔をぐいと近づけてきた。
「じゃあ、ここからが本題。原理上無理だと私は言ったけれど、それでもどうしても、二人の人間の世界の見方が違うことを証明したいとしたら……お姉さんなら、どうする?」
「一人から両目をぶち抜いて、もう一人の眼孔に埋め込んでやればいいんじゃない?」
「まぁ。猟奇的。流石妖怪ね! ……半分不正解」
「面白い言い回し」
取ってもいいのよ? と呟きつつ。彼女は顔を引いた。
「正解はね。〝片目だけ〟移植する。ただし物理的な眼球だけじゃなく、その眼が見てきた記憶も一緒にね。もちろん、物理的には眼球に記憶など宿っていない。けれどこの世界……記憶の層の下でならどうかしら?」
おもちゃの模型であると分かっていても。彼女の思考実験には、容易に現出しうる生々しさがあった。
「仮定が正しいなら、移植された人間の右目と左目は別々のものを映し出す。それを総合して〝見〟たとき、その人の視界には、必ずズレが現れるはず。そのとき映るのが、まさにね……〝境界〟なのよ」
ぴくり、と。無意識に眉が動いたのを感じた。
――少女は……〝答え〟に近付きつつある。
「例えば、昼と夜の境界。藍色と紫色の境界。夏と秋の境界。もしかしたら……自分と自分でないものの境界。その線引きは人によってまちまちで。だから、右目と左目で違う記憶を持たされた人間は、視界に〝裂け目〟を見る。それは境界の綻び。認識のほつれ。世界が言葉によって分節されたとき、どうしても生まれてしまう空白。すなわち……スキマ」
息を、飲んだ。
未来……というのは、ただそれだけで、強力な能力である。私は実感せざるを得なかった。私には見えていないものが、彼女には見えている。私にとっての難題が、彼女にとっては常識となっている。夢の中の少女のうわ言だとして流すには、彼女の言葉は神妙すぎた。
そう、他でもない〝スキマ〟が視えている彼女が。こうして瞳の〝起源〟を語っているのなら。
「その瞳は……」
「えぇ。私ね……
……右目と左目、違うの」
瞬間。少女は片手の指を二本立てると、躊躇いもなく目の下に突き刺した。下瞼をずり降ろし、私に見せつけてくる。零れ落ちてしまいそうなほど眼球が露になり、本来見えるはずのない〝内側〟が顔を出す。そうして初めて……私は気づいた。彼女の右の瞳は青く、左の瞳は……蒼かった。それだけではない。二つの眼は、そもそも大きさが異なっていたのだ。
「これだけ話しておきながら、自己紹介もできていなかったわね。……夢の中で呆けていたわ」
何事も無かったかのように、彼女は二本の指を引き抜いた。
「私はマエリベリー・ハーン。マエリベリーは左目の、そしてハーンは右目の名前なの」
目に名前がある。その珍妙さに呑気に面食らっていられたのは、ほんの一瞬だけだ。
「〝マエリベリー〟はね、生まれたときから私の名前。それでね、〝ハーン〟は……
……前の所有者の名前」
そう。瞳に名が付けられたのではない。その名は……かつて一人の人間に付けられていたものだ。
「ねぇ、マエリベリーさん」
であるならば。これを尋ねる必要がある。
「……その〝ハーンさん〟って、ご存命かしら」
「えへぇ?」
妙な反応で声を漏らし、少女は数瞬固まった。顔に浮かんだ表情は、私に対する驚き……というよりも、からかいに近い。
「当然じゃない。……もう死んでるわよ」
少女の声は冷たく。そこに死者へ手向ける温かみはなかった。
「有名な人だから、知ってると思ったんだけど……」
と言いかけて、突然吹き出す。
「ってこれは未来の話じゃない! ごめんなさいね、うっかりしちゃって……。そのね、彼のフルネームはパトリック・ラフカディオ・ハーンっていうの。日本の民俗学の第一人者よ? 幼い頃に隻眼になってるから……きっと、彼にも見えたんでしょうね、〝スキマ〟が。だから妖怪たちの姿を捉えられて……」
否。私が聞きたかったのはそこではない。
――何故、今。君がその目を持っている? どのように手に入れた。そも、どうやってその目で〝視〟ているのか。
前の所有者に……何をした?
おしゃべりに見える彼女は、しかし、重要な前提をところどころで取りこぼしていた。それらは彼女にとっての常識で、喋るまでもないことなのだろう。
未来では、人の眼球を移し合うのはありふれたことなのだろうか。そうも考えたが、これはおそらく違う。彼女は片目の移植の話を、あくまで仮説として語っていた。故に考えられるのはもう一つ。彼女の感性は未来人から見ても常軌を逸しており、そのことに彼女が無自覚であるという可能性だ。想像はいくらでも浮かぶ。殺して奪ったのかもしれない。墓荒らしの真似事をして、死体から〝盗んだ〟のかもしれない。しかしその目を、生きたまま己の一部として機能させているとは、一体どういうことだ。
いずれにせよ、彼女は常人ではない。いや、そもそも……
……彼女は本当に〝ヒト〟なのか?
もし、人ですら無いとしたら。私は知っている。それら全てを実現する方法を。それは……ある意味で、妖怪の本分そのものなのだから――
「――それでね、ハーンさんの和名は、小泉八雲って言うんだけど……」
その名を聞いて、私の意識は引き戻された。
偶然にしては……なんという因果だろう。夜露に磨かれ、洞察が目を覚ます。思索は加速し、可能性の欠片が滝のように流れていく。
――これは必然なのだと、夜空の黒が告げている。
雲が切れた。翳りが晴れ、月が再び顔を出す。細く降ろされた月光は、眼前、語る少女の額に落ちた。言葉を切り、見上げる彼女。
「月が……綺麗ね」
瞬いた左目に、真円の月が映る。青よりも蒼いその瞳が、月明かりを受け、琥珀色に輝いた――
――一瞬だった。
気づけば私は……少女を芝生に押し倒していた。
「……分かった。貴方の正体が分かった!」
らしくもない、子供のような歓声を上げ、少女に詰め寄る。少女の本体、その……左の瞳に。初めて見たそのときから、感じていたこの馴染み深さ。しかし既視感と呼ぶには妙な新鮮さ。その矛盾の正体が、今なら分かる。
私がこの瞳を覚えているのではない。
この瞳が私を覚えているのだ。
この郷では、瞳にも記憶が宿る。そしてこの瞳は、未来ばかりを映してきている。
ではなぜ私を覚えているのか?
――予定調和の刻は今だ。
「ねぇ、お嬢さん。認識の異なる瞳が、視界に綻びを映すなら。時の異なる瞳は……何を映してくれるのでしょうね?」
抗うことなく、組み伏せられた少女は。
「……私も分かっちゃった」
どこか遠く、私の背中の向こう側を見通していた。
「何故……あなたの周りには、たくさん目玉が見えるのか」
少女の視線の先には、ぎっしりと瞳をたたえた裂け目が開いていた。私が顔を寄せる程、その裂け目は大きく開いていく。少女を瞼で、飲み込むように。
「貴方に境界が見えるのなら。それも、私のものより、あんなに大きく、こんなにたくさん見えるなら。それだけ貴方は、大量の認識の誤差を抱えているということ」
――嗚呼、彼女の言葉が、こんなにも、近い――
「そんなことは……二つの瞳だけでは叶わない!」
最も残酷なのは、いつも真実だ。
そして彼女は、辿り着いてしまったから。
……その代償は、きっちりと支払ってもらおう。
「ねぇ……教えて」
「それだけの境界を映すのに、どれだけの目を奪ったの?」
ふり絞った声は、夜の暗闇に吸い込まれて。後に残るのは、僅かに上ずる呼吸だけで。
「覚えていないわ。……私は妖怪だから」
少女の口は、開いたままで動かなかった。
「ヒトは攫う。攫えば食う。目の玉の一つや二つ、そんなものはただの〝おまけ〟」
抑えつけていた腕。それが再び震え出す。出会ったばかりの、警戒心を取り戻すように。頬に添えた手が、彼女の涙袋を撫でた。
「私の目も、認識も……貴方は奪ってしまうの?」
怯え、震え、強張るほどに。少女の瞳は輝いた。
「……安心しなさい。貴方を食べたりはしないわ」
左目と、左目が見つめ合う。
頬を合わせるように、互い違いに、瞳の距離が縮まっていく。
視線が反射を繰り返し、視界は互いに溶けていく。
貴方の瞳が映すものは私に。
私の瞳が映すものは貴方に。
琥珀色と蒼色の境界。
少女の世界と私の世界の境界。
内と外、過去と未来の境界。
両者の輪郭が重なり合うとき――そこに境界は現れる。
そうして、少女と私は――
――〝ひとみづけ〟を交わした。
「この瞳は……噛み潰すにしては美しすぎるから」
眼孔は、涙と共に。
眼球は、記憶と共に。
美しさは、残酷さと共に。
「初めの貴方の疑問に、答えてあげる」
体を起こす。私の上体は、既に裂け目の中。月明かりが最後に照らした、彼女の瞳は琥珀色。無数の瞳をたたえた巨大な瞼は、やがて二人をその内に包み込んだ。
「私は……境界を操る妖怪よ」
巡る。巡る。記憶が流れ込んでくる。この力を使い始めて幾千年、これほどの量は久方ぶりだ。何せ未来の記憶なのだから。……循環の矛盾に囚われた、底なしの源を得たのだから。
「何を……したの?」
新鮮な、赤い視界を手に入れて。私の瞳は蒼く輝く。
「たった今、私と貴方、二人の目の境界を入れ替えた」
「っ――」
左の瞼に、そっと指を添えて。自身に何が起きたのか、彼女は理解したのだろう。徐々に馴染み始めた左目に、右の瞳の色を馴染ませながら……彼女は真直ぐ私を見た。
「あなたは……」
「八雲紫。……夜の帳に眠る者」
「あなたも八雲、なのね。……偶然にしては、なんて因果――」
手に顔を埋め、彼女は涙を流し始めた。異物を身体に埋め込んだ、その拒絶反応だ。
そっと抱き寄せるように、その身体を引き起こす。胸に収まってしまえば、やはり彼女は小さな少女だった。
「もう、心配しなくていい」
四六時中、文明に照らされて生きていくには……彼女の背中は小さすぎる。
「貴方の夢が、幻ではないと。その瞳はきっと、証明してくれる」
時が経ち、人が探究心を失おうとも。決して消えない夢として。
「……夢に生きることを誇りなさい」
肩に手を添え、身体を離し。顔を上げた少女は、笑っていた。
「ありがとう……紫さん」
だから私も、きっと笑っていた。
「再び宇宙が書き換わろうとも。この土地は、決して貴方を忘れない」
「時が改まり、空が裂け。私自身が、あなたを忘れてしまったとしても。この瞳は、貴方を覚えているから――」
そうして、二人の間は分かたれた。
……〝夢と現の境界〟によって。
裂け目の瞼が晴れたとき、そこにはもう、少女の姿は無かった。
彼女は再び、元の世界に戻るだろう。あの大きなタケノコと共に。
「ふふっ」
少女を真似るように、私は笑った。……おかしくって、仕方が無かったんだもの。
きっと、未来人は相当歯が丈夫なのね。
あれだけ成長したら、もう硬くて食べられはしない。
そういう話ではないのかもしれませんが……
そして謎も思考もシリアスもツチノコが全部持っていくのは面白すぎる。オチがとても好きです
それをこれだけの物語にしているのがすごい。
片眼の記憶というタイトルがいいですね。
メリーが現実世界に戻っても、瞳の記憶が物語を記述してくれる。
解釈あってる自信がないですが、とても素敵に思います。