寒風が吹きわたるようになった夜の幻想郷。
月が一番、地上で輝きを見せる中秋の名月が訪れる季節となっていた。
だが今宵は朔の日。
月が完全に姿を消した漆黒の夜空の中、星が燦燦と輝く夜である。
そんな星星が見下ろす地上では、一人の死者が死地を闊歩していた。
一歩、また一歩とその者は死地に生える草花を踏みながら歩みを続けていく。
まるで夢遊病者のような足取りと動きだが、意識ははっきりとしていた。尤も、死者に睡眠は必要としないしため、眠気に駆られたり睡魔に襲われることは無いから当たり前なのだが。
歩き続けて五分たった頃。彼女は目的の場所に辿り着いて歩みを止め、それを見上げた。
そこには一本の枯れ木と化した桜の樹があった。
このような季節なので桜の木は枯れているのは当たり前なのだが、この桜に限っては年中枯れたままなのである。
その理由は今この樹を見上げている白玉楼の当主たる彼女――西行寺幽々子ですら知らない。
彼女は大抵の不思議に関してはわからない、どうでもいいと言って切り捨てる性格である。だがどういうわけかこの桜、西行妖に関してはばっさりと切り捨てることができなかった。
勿論最初は幽々子も気には留めなかった。十一年前、蔵書の中から西行妖に関する記述を発見するまでは。
枯死した妖怪桜の下に何が埋まっているのか。気になった幽々子はその秘密を暴くために従者に命じて幻想郷の春を冥界に集め、春雪異変を起こした。
結果西行妖は幾つか花を咲かせたものの、異変解決に来た人間によって冥界に集まった春度は全て奪い返され、満開に至らないまま全て散ってしまった。
それ以降、彼女は西行妖に興味を失くしたかのように見えた。いや、正確には関心度が低くなったというほうが正しいだろう。
彼女は異変から十年以上経っても時折、西行妖の元に歩んでは眺めていた。その様子は心残りや未練がましいといった表現が似合うものであった。
そして今夜も、幽々子は西行妖を見上げていた。今までと違い、何かを待っているかのよう目で。
事実彼女は待っていた。
新月の日にしか見せない、妖怪桜の摩訶不思議な現象を。
やがて西行妖のあちこちでぼうと白いぼやけた光が現れた。光はゆっくりと出現した地点から動き始め、光は蝶となった。
それは幽々子が弾幕で放つ蝶よりも儚げで、そして美しかった。緩慢とした羽ばたきで輝く燐分を散らしながら、蝶は四方八方に飛んでいく。
そのうちの一匹が、幽々子に向かって飛んできた。幽々子はそれに触れようと手を伸ばす。
だが指に触れる前に、蝶は空気に溶けるように消えていってしまう。
幽々子は特に失望したような様子は見せず、むしろ仕方ないといった表情で腕を下げる。そして顔を上げ、天空へと舞い上がる蝶を眺める。どの蝶も光の蛹から現れ出では、途中で跡形もなく消えてしまう。一匹として消えぬままに飛んでいく蝶は無かった。
それでも西行妖は光を出し続け、蝶を世に放ってはどこかへと消えていく。
まるで人の生き死にみたいだと幽々子は思う。
愛という感情が形を為して人を産み、長き時を経て心身を成長させ、そして寿命を迎える。
幾万もの人間の命を奪った西行妖が、人の一生を体現する現象を見せるだなんてどうかしてる。
そう締めくくると俯いて肩を脱力させ、幽々子は嘆息することで一休みした。
「あらあら、なんとも滑稽な景色だ事」
不意に後ろから妖艶に満ちた美しい声がした。直後地面を踏む音がして、誰かが自分の隣に並ぶのを幽々子は視線を動かさずに気配で感じた。こんな時間にここを訪れる人物は一人しかいないとわかっていたからだ。
「すでに死を迎えているというのに、いまだに魂を欲している。まるで死を回避しようとする、執念深い人間みたいね」
「私も同じことを思ってたわ。でもこの樹は死んではいない。“死”と同じ状態にされただけで、西行妖の魂はまだ眠っているのよ」
その答弁に、彼女の隣にいる人物は幽々子の顔を見て不審そうに眉を顰めた。
幽々子の言うとおり西行妖は封印を施されて生命活動を停止しているだけであって、封印を解けば西行妖は復活し、多くの命を死へと誘う。
しかしその封印は決して解けることは無い。その秘密を知っているのは幽々子の隣にいる人物――八雲紫唯一人であった。
「... ...いつからこんなことに?」
だからこそ紫は幽々子に問う。
秘密を知る者として。彼女を守るために。西行妖の封印が解けるのなら、それを全力で阻止するために。
幽々子はすぐには答えず、西行妖を見つめたまま何も言わなかったが、ぽつりと漏らすように話し始めた。
「いつだったか神霊があちこちに出現した時があったでしょう?それが収まってから夜にこの辺りを散歩してたら、白い光が西行妖から発せられてたのを見たの。でもすぐに消えちゃったから、その時は気の所為だと思った」
「成程」
幽々子は一旦そこで言葉を切ったので紫は西行妖の方を向く。いまだにあちこちに蝶を解き放つその妖木はどこか幽玄な空気を醸し出しているかのようだった。幽々子が言葉を続ける。
「それっきり光を見ることは無かったから、時が経つにつれて光のことは忘れていた。だけど、一年ほど前の新月の日に西行妖の前を通った時に、今のこの現象が起きていたのを見つけた。美しかったわ... ...とても。こうして目を奪われるぐらいに」
「そして貴女は朔の日が来るたびに屋敷を抜け出し、この景色を鑑賞していた。妖夢に悟られないように。違う?」
「ええ。妖夢に夢遊病者だと思われて、心配をかけちゃうからね」
「念のために聞くけどこの樹には」
「近づいていないわ。離れたところでこの景色を堪能したいからね」
紫の物憂げな問いにはっきりとした声で幽々子は答える。
私からしてみれば十分に夢遊病者だと思うけど。と紫は心の中で今の幽々子の状況を皮肉ったが、すぐに思考を切り替えた。
そうか、神霊異変の時から兆しは現れていたということね。でも今に至るまでの現象が起こり始めたのは一年ほど前、その頃は確か... ...
「ねえ紫」
幽々子が問い掛けてきたので紫は思考を中断し、無言で幽々子のほうを見やる。幽々子は目の前の景色に視線が向けながら口を動かす。
「紫は知っているの?この現象が起きる理由を」
「... ... ... ... ... ...」
紫は言葉に詰まった。現時点での説明はあくまで推論でしかない為、憶測で物を言うべきではないと考えていた。
「いいえ」
故に紫は首を横に振って否の答えを返した。
「私には手に負えないわ、この桜は。それに幽々子でもわからないんじゃ私がわかるはずがないわ」
「... ...そう。紫がそう言うのならきっとそうね」
嘘だ。紫は恐らくこの樹について重要な何かを握っているに違いない。
彼女と長い付き合いがある幽々子には紫が嘘を吐いているとわかっていた。紫が嘘を吐くということは相手に対して知られたくない秘密があるからだと。
そしてその秘密を隠し通す理由も、一つしかないということも。幽々子は決意した。
一方の紫は俯き、非常に心苦しい想いをしていた。
嘘を吐くことでしか彼女を守れない虚しさ。自分の力を持ってしても、西行妖には手を出せない無力な自分に対する怒り。彼女の心は千年前のあの時――幽々子が人柱として西行妖を封印した時の思いが去来していた。
あの時の自分は何もできなかった。幽々子が自らの命を差し出して西行妖を封印したというのに、私に出来たことは、あの樹を顕界から切り離すことだけだった。しかもそれができたのは西行妖が封印されたからだ。
私は弱い。人一人を救えないほどに弱い。現に今も、あの桜に手出しできない。私の推論が正しければ、この現象は... ...
「紫」
自分を呼ぶ声がして紫は顔を上げた。
幽々子が始めて木から紫へと顔を向けていた。穏やかな表情で自分を見つめていることに気づいて、紫は身構えた。
「... ...今日で、ここに来るのは止めにするわ」
「え?どうしたの急に」
「紫のことだから、もうここに来るのはやめなさいって言うと思ってね。この樹が何を思ってこういうことをしているのかはわからないけど、私がこのままこの習慣を続けていたら、危ないような気がするの。だから、今日で終止符を打つわ」
「幽々子... ...」
「これ以上、紫や妖夢に心配をかけてはいけないものね」
淡い光を放つ西行妖を背に微笑む幽々子を見て、紫は美しいと思った。少しの間紫は彼女に見惚れ、言葉を失っていた。
「紫?」
返事が無いことを不思議に思った幽々子に呼ばれた紫は意識をはっとさせた。
「そう、ね。幽々子の言う通りよ。あれが何なのかははっきりとはわからないけど、危険な事であることは間違いないと思う。だからもう二度とここには来ない方が得策よ」
「ええ。紫の言うことに間違いは無いから、その通りにするわ」
「そうしてもらえると助かるわ」
「お互いに、ね」
会話が一段落つくと、二人は微笑み合った。そして幽々子は一度西行妖の方を振り向く。
天へ、地上へ。あらゆる所までその蝶を羽ばたかせて命を欲さんとするその妖怪桜は、今の幽々子の目には色鮮やかな蓬莱の玉の木に見えた。心の中で彼女はさよならと呟き、西行妖に背を向けて屋敷へと歩いていく。
紫の隣をすり抜けて数歩歩いたところで幽々子は立ち止り、行かないの?と紫を見ずに問う。
対する紫は確かめたいことがあるから、と返答した。そう、とだけ言って幽々子は歩き去った。
一人になった紫は前へと歩を進め、自らの魂を放出し続ける西行妖の幹に右手の平を当てた。そこから西行妖の中に妖力を感じる。
やっぱり... ...そうだったのね。
「幽々子に釘を刺しといて正解だったわ」
自分の推論が当たっていたことを確信して紫は幹から手を離し、西行妖に向かって告げる。
「あなたは二つの、異なった力を備えている。その所為であなたは一時的に目覚め、それを糧として命あるものの人間の魂を集めようと、もがいている」
紫のその言葉が、西行妖に起きていたこの神秘的な現象の全てを説明していた。始まりは三年前に起こった神霊異変にあった。
聖人豊聡耳神子が復活のリアクションを取ったがために、人のあらゆる欲が神霊として具現化した。その際神子は半ば無意識な状態で神霊を自身に吸収していたのだが、実はこの時、西行妖も無意識の内に神霊を吸収していた。
それはこの妖怪桜が数多くの死者の欲や想い。すなわち未練を抱えていたからだ。この桜によって死した者の魂は地獄に向かったが、未練はそのまま木の中に留まった。その未練が神霊異変が起こった時に一時外に出て顕現し、神子が神霊を吸収し始めた時に、西行妖から放出された未練が木の中に戻った。その時辺りにいた神霊を巻き込み、神霊が西行妖に吸収されてしまった。
これにより西行妖はほんの僅かだが力をつけた。欲とはいえ霊の一種である。霊は西行妖の力の元となるのだ。
幽々子が目撃した光は西行妖がその力を用いて起こしたものだった。
そして一年前の輝針城異変。打ち出の小槌の行使によって、小槌の中に蓄えられていた鬼の魔力が幻想郷中にばらまかれ、いくつかの道具が一時的に付喪神となって暴れた。
小槌の影響は冥界にまで届いたが、白玉楼にある道具を始め、幽々子の扇子や妖夢の剣が付喪神と化すことはなかった。それはなぜか?
理由は一つ。本来道具に宿るはずだった魔力を、西行妖が引き寄せて全て我が物としたからだ。さらに力をつけた西行妖はその力で、光の蛹から蝶へと変化させるまでに至った。そしてその蝶を使い、生贄を呼び込もうとしていた。この妖怪桜が真の力を取り戻すにはやはり、人間の生きた魂が必要不可欠だったのだ。
だが神霊と鬼の魔力を持ってしても、自らの使い魔を長い時間、実体化させることはできなかった。それも太陽と月が出ている間は、それぞれの天体が発する光によって力を押さえ込まれてしまう。
故に西行妖は太陽が沈む夜、さらに月が姿を見せない朔の日に限って、自らの使い魔を放つことができた。
時は限定されていても、それだけの妙技があれば十分に人間を引き寄せられることができただろう。
西行妖に誤算があったとすれば、自らが植えられている土地が死者が集う地であったことだ。
使い魔が餌としての役割を果たした相手は、すでに死を迎えていた亡霊と、強大な力を持つスキマ妖怪だけだった。西行妖は死者を食らうことはできないし、妖怪に至っては毒にしかならない。
つまるところ西行妖の試みは、失敗に終わったのだった。
もう用はないと言わんばかりに紫は妖怪桜に背を向け、言い放つ。
「精々あがくといいわ、その力が持つ限り。でもそれも今夜で終わりか、次の朔の日で全て尽きるでしょう。そしてあなたは再び眠りにつく... ...」
「妖怪として生まれ変わったたことを後悔するといいわ。淡い希望を持って、目覚めたことで」
「さようなら。忌むべき歪んだ和の心根よ」
冷たい惜別の言葉を最後に、紫は物言わぬ桜から遠ざかっていき、忽然と姿を消した。
鑑賞するもののいなくなった樹はそれでも光から使い魔を生み出し続ける。しかし夜が白み始めるにつれて、光はその明度を失いつつあった。太陽が昇ると西行妖は活動を停止し、使い魔は完全に消えてしまう。
しかも蓄えられていた妖力も残り少ないのか、一部の蝶が、羽ばたきを止めて落下して消えるものが現れた。
紫の推測通り、西行妖は恐らく次の朔の日に全て妖力を使い果たす。そして再び、西行妖の魂は眠りに就くだろう。
そうなることをこの妖怪桜が自覚しているのかどうかはわからない。しかしそれでも僅かな力がある限り、西行妖は力を使ってもがくだろう。
一ヶ月後の朔の日の夜。
西行妖は三度目の終わりを迎える。
人が忌むべきものは人の手によって排除され、その度に封印される苦痛を味わう。だが、今回は自然と、封印の苦しみをあわずに鎮まる。
望まずに桜から妖怪桜へと変化したが故に、大自然の流れのままに朽ちることができなかった西行妖。
擬似的ではあるものの、自然に任せた穏やかな眠りを、西行妖は迎えるのであった。
それが運命の筈だった。
だがその終焉は一つの脅威によって捻じ曲げられることとなる。
完全な夜明けまであと三十分という時。
活力を失いつつあった西行妖の元に、黒い外套を身に付けた人影が立っていた。
顔を上げて西行妖を一瞥すると、その者は樹に向かって歩みを進める。
外套の前をボタンで留め、フードを被っているので一切の露出が無い。まるで影のような実体のないものが、形を為して着ているかのようだった。
手を伸ばせば触れられるという距離で影は歩みを止めて、樹の幹に掌を当てた。
その瞬間、西行妖が呻き声を上げた。うおおおお、と強風の唸りのような音が辺り一帯に響いて西行妖の根元が揺れる。それと同じくして西行妖が発していた光と蝶が全て何の前触れもなく消えた。
それらの変化に一切目を向けずに、影は幹に手を添えたまま動かない。
やがて呻き声は段々と収まって行き、地鳴りと共に止んだ。辺りが静寂となったことを確認すると漸く影は幹から手を離し、樹を見上げる。
そこにはまだ太陽が昇っていないにもかかわらず、光も蝶も発さず、物言わぬ樹と化した妖怪桜の姿があった。
影が西行妖から自然消滅するはずだった神霊と小槌の魔力を奪い取り、原動力を失くした西行妖が眠りに就いた証だ。
やるべきことを終えた影は幹に触れた手を見つめ、己の内に入った力を感じながら呟く。
自らの野望を。そしてその実現のための、現段階での最善の行動を。
「まだだわ... ...まだ、力が足りない。もっと強い力を... ...求めなければ」
「この世界に仇為すために」
翌日。
紫はこっそりと西行妖の元を訪れ、霊力と魔力が抜けているのを確認した。
昨日の一夜で全て使い切ったのだろうと思い、幽々子に報告するためにスキマを使って紫は彼女の元へ向かった。
紫は最後まで、西行妖から力を奪った者の存在に気づくことは無かった。
故に影が行動を起こす時まで、この郷に潜む脅威が明るみに出ることもない。
それが幻想郷の破滅の『時』であることを知る者はまだ、誰もいなかった。
了
月が一番、地上で輝きを見せる中秋の名月が訪れる季節となっていた。
だが今宵は朔の日。
月が完全に姿を消した漆黒の夜空の中、星が燦燦と輝く夜である。
そんな星星が見下ろす地上では、一人の死者が死地を闊歩していた。
一歩、また一歩とその者は死地に生える草花を踏みながら歩みを続けていく。
まるで夢遊病者のような足取りと動きだが、意識ははっきりとしていた。尤も、死者に睡眠は必要としないしため、眠気に駆られたり睡魔に襲われることは無いから当たり前なのだが。
歩き続けて五分たった頃。彼女は目的の場所に辿り着いて歩みを止め、それを見上げた。
そこには一本の枯れ木と化した桜の樹があった。
このような季節なので桜の木は枯れているのは当たり前なのだが、この桜に限っては年中枯れたままなのである。
その理由は今この樹を見上げている白玉楼の当主たる彼女――西行寺幽々子ですら知らない。
彼女は大抵の不思議に関してはわからない、どうでもいいと言って切り捨てる性格である。だがどういうわけかこの桜、西行妖に関してはばっさりと切り捨てることができなかった。
勿論最初は幽々子も気には留めなかった。十一年前、蔵書の中から西行妖に関する記述を発見するまでは。
枯死した妖怪桜の下に何が埋まっているのか。気になった幽々子はその秘密を暴くために従者に命じて幻想郷の春を冥界に集め、春雪異変を起こした。
結果西行妖は幾つか花を咲かせたものの、異変解決に来た人間によって冥界に集まった春度は全て奪い返され、満開に至らないまま全て散ってしまった。
それ以降、彼女は西行妖に興味を失くしたかのように見えた。いや、正確には関心度が低くなったというほうが正しいだろう。
彼女は異変から十年以上経っても時折、西行妖の元に歩んでは眺めていた。その様子は心残りや未練がましいといった表現が似合うものであった。
そして今夜も、幽々子は西行妖を見上げていた。今までと違い、何かを待っているかのよう目で。
事実彼女は待っていた。
新月の日にしか見せない、妖怪桜の摩訶不思議な現象を。
やがて西行妖のあちこちでぼうと白いぼやけた光が現れた。光はゆっくりと出現した地点から動き始め、光は蝶となった。
それは幽々子が弾幕で放つ蝶よりも儚げで、そして美しかった。緩慢とした羽ばたきで輝く燐分を散らしながら、蝶は四方八方に飛んでいく。
そのうちの一匹が、幽々子に向かって飛んできた。幽々子はそれに触れようと手を伸ばす。
だが指に触れる前に、蝶は空気に溶けるように消えていってしまう。
幽々子は特に失望したような様子は見せず、むしろ仕方ないといった表情で腕を下げる。そして顔を上げ、天空へと舞い上がる蝶を眺める。どの蝶も光の蛹から現れ出では、途中で跡形もなく消えてしまう。一匹として消えぬままに飛んでいく蝶は無かった。
それでも西行妖は光を出し続け、蝶を世に放ってはどこかへと消えていく。
まるで人の生き死にみたいだと幽々子は思う。
愛という感情が形を為して人を産み、長き時を経て心身を成長させ、そして寿命を迎える。
幾万もの人間の命を奪った西行妖が、人の一生を体現する現象を見せるだなんてどうかしてる。
そう締めくくると俯いて肩を脱力させ、幽々子は嘆息することで一休みした。
「あらあら、なんとも滑稽な景色だ事」
不意に後ろから妖艶に満ちた美しい声がした。直後地面を踏む音がして、誰かが自分の隣に並ぶのを幽々子は視線を動かさずに気配で感じた。こんな時間にここを訪れる人物は一人しかいないとわかっていたからだ。
「すでに死を迎えているというのに、いまだに魂を欲している。まるで死を回避しようとする、執念深い人間みたいね」
「私も同じことを思ってたわ。でもこの樹は死んではいない。“死”と同じ状態にされただけで、西行妖の魂はまだ眠っているのよ」
その答弁に、彼女の隣にいる人物は幽々子の顔を見て不審そうに眉を顰めた。
幽々子の言うとおり西行妖は封印を施されて生命活動を停止しているだけであって、封印を解けば西行妖は復活し、多くの命を死へと誘う。
しかしその封印は決して解けることは無い。その秘密を知っているのは幽々子の隣にいる人物――八雲紫唯一人であった。
「... ...いつからこんなことに?」
だからこそ紫は幽々子に問う。
秘密を知る者として。彼女を守るために。西行妖の封印が解けるのなら、それを全力で阻止するために。
幽々子はすぐには答えず、西行妖を見つめたまま何も言わなかったが、ぽつりと漏らすように話し始めた。
「いつだったか神霊があちこちに出現した時があったでしょう?それが収まってから夜にこの辺りを散歩してたら、白い光が西行妖から発せられてたのを見たの。でもすぐに消えちゃったから、その時は気の所為だと思った」
「成程」
幽々子は一旦そこで言葉を切ったので紫は西行妖の方を向く。いまだにあちこちに蝶を解き放つその妖木はどこか幽玄な空気を醸し出しているかのようだった。幽々子が言葉を続ける。
「それっきり光を見ることは無かったから、時が経つにつれて光のことは忘れていた。だけど、一年ほど前の新月の日に西行妖の前を通った時に、今のこの現象が起きていたのを見つけた。美しかったわ... ...とても。こうして目を奪われるぐらいに」
「そして貴女は朔の日が来るたびに屋敷を抜け出し、この景色を鑑賞していた。妖夢に悟られないように。違う?」
「ええ。妖夢に夢遊病者だと思われて、心配をかけちゃうからね」
「念のために聞くけどこの樹には」
「近づいていないわ。離れたところでこの景色を堪能したいからね」
紫の物憂げな問いにはっきりとした声で幽々子は答える。
私からしてみれば十分に夢遊病者だと思うけど。と紫は心の中で今の幽々子の状況を皮肉ったが、すぐに思考を切り替えた。
そうか、神霊異変の時から兆しは現れていたということね。でも今に至るまでの現象が起こり始めたのは一年ほど前、その頃は確か... ...
「ねえ紫」
幽々子が問い掛けてきたので紫は思考を中断し、無言で幽々子のほうを見やる。幽々子は目の前の景色に視線が向けながら口を動かす。
「紫は知っているの?この現象が起きる理由を」
「... ... ... ... ... ...」
紫は言葉に詰まった。現時点での説明はあくまで推論でしかない為、憶測で物を言うべきではないと考えていた。
「いいえ」
故に紫は首を横に振って否の答えを返した。
「私には手に負えないわ、この桜は。それに幽々子でもわからないんじゃ私がわかるはずがないわ」
「... ...そう。紫がそう言うのならきっとそうね」
嘘だ。紫は恐らくこの樹について重要な何かを握っているに違いない。
彼女と長い付き合いがある幽々子には紫が嘘を吐いているとわかっていた。紫が嘘を吐くということは相手に対して知られたくない秘密があるからだと。
そしてその秘密を隠し通す理由も、一つしかないということも。幽々子は決意した。
一方の紫は俯き、非常に心苦しい想いをしていた。
嘘を吐くことでしか彼女を守れない虚しさ。自分の力を持ってしても、西行妖には手を出せない無力な自分に対する怒り。彼女の心は千年前のあの時――幽々子が人柱として西行妖を封印した時の思いが去来していた。
あの時の自分は何もできなかった。幽々子が自らの命を差し出して西行妖を封印したというのに、私に出来たことは、あの樹を顕界から切り離すことだけだった。しかもそれができたのは西行妖が封印されたからだ。
私は弱い。人一人を救えないほどに弱い。現に今も、あの桜に手出しできない。私の推論が正しければ、この現象は... ...
「紫」
自分を呼ぶ声がして紫は顔を上げた。
幽々子が始めて木から紫へと顔を向けていた。穏やかな表情で自分を見つめていることに気づいて、紫は身構えた。
「... ...今日で、ここに来るのは止めにするわ」
「え?どうしたの急に」
「紫のことだから、もうここに来るのはやめなさいって言うと思ってね。この樹が何を思ってこういうことをしているのかはわからないけど、私がこのままこの習慣を続けていたら、危ないような気がするの。だから、今日で終止符を打つわ」
「幽々子... ...」
「これ以上、紫や妖夢に心配をかけてはいけないものね」
淡い光を放つ西行妖を背に微笑む幽々子を見て、紫は美しいと思った。少しの間紫は彼女に見惚れ、言葉を失っていた。
「紫?」
返事が無いことを不思議に思った幽々子に呼ばれた紫は意識をはっとさせた。
「そう、ね。幽々子の言う通りよ。あれが何なのかははっきりとはわからないけど、危険な事であることは間違いないと思う。だからもう二度とここには来ない方が得策よ」
「ええ。紫の言うことに間違いは無いから、その通りにするわ」
「そうしてもらえると助かるわ」
「お互いに、ね」
会話が一段落つくと、二人は微笑み合った。そして幽々子は一度西行妖の方を振り向く。
天へ、地上へ。あらゆる所までその蝶を羽ばたかせて命を欲さんとするその妖怪桜は、今の幽々子の目には色鮮やかな蓬莱の玉の木に見えた。心の中で彼女はさよならと呟き、西行妖に背を向けて屋敷へと歩いていく。
紫の隣をすり抜けて数歩歩いたところで幽々子は立ち止り、行かないの?と紫を見ずに問う。
対する紫は確かめたいことがあるから、と返答した。そう、とだけ言って幽々子は歩き去った。
一人になった紫は前へと歩を進め、自らの魂を放出し続ける西行妖の幹に右手の平を当てた。そこから西行妖の中に妖力を感じる。
やっぱり... ...そうだったのね。
「幽々子に釘を刺しといて正解だったわ」
自分の推論が当たっていたことを確信して紫は幹から手を離し、西行妖に向かって告げる。
「あなたは二つの、異なった力を備えている。その所為であなたは一時的に目覚め、それを糧として命あるものの人間の魂を集めようと、もがいている」
紫のその言葉が、西行妖に起きていたこの神秘的な現象の全てを説明していた。始まりは三年前に起こった神霊異変にあった。
聖人豊聡耳神子が復活のリアクションを取ったがために、人のあらゆる欲が神霊として具現化した。その際神子は半ば無意識な状態で神霊を自身に吸収していたのだが、実はこの時、西行妖も無意識の内に神霊を吸収していた。
それはこの妖怪桜が数多くの死者の欲や想い。すなわち未練を抱えていたからだ。この桜によって死した者の魂は地獄に向かったが、未練はそのまま木の中に留まった。その未練が神霊異変が起こった時に一時外に出て顕現し、神子が神霊を吸収し始めた時に、西行妖から放出された未練が木の中に戻った。その時辺りにいた神霊を巻き込み、神霊が西行妖に吸収されてしまった。
これにより西行妖はほんの僅かだが力をつけた。欲とはいえ霊の一種である。霊は西行妖の力の元となるのだ。
幽々子が目撃した光は西行妖がその力を用いて起こしたものだった。
そして一年前の輝針城異変。打ち出の小槌の行使によって、小槌の中に蓄えられていた鬼の魔力が幻想郷中にばらまかれ、いくつかの道具が一時的に付喪神となって暴れた。
小槌の影響は冥界にまで届いたが、白玉楼にある道具を始め、幽々子の扇子や妖夢の剣が付喪神と化すことはなかった。それはなぜか?
理由は一つ。本来道具に宿るはずだった魔力を、西行妖が引き寄せて全て我が物としたからだ。さらに力をつけた西行妖はその力で、光の蛹から蝶へと変化させるまでに至った。そしてその蝶を使い、生贄を呼び込もうとしていた。この妖怪桜が真の力を取り戻すにはやはり、人間の生きた魂が必要不可欠だったのだ。
だが神霊と鬼の魔力を持ってしても、自らの使い魔を長い時間、実体化させることはできなかった。それも太陽と月が出ている間は、それぞれの天体が発する光によって力を押さえ込まれてしまう。
故に西行妖は太陽が沈む夜、さらに月が姿を見せない朔の日に限って、自らの使い魔を放つことができた。
時は限定されていても、それだけの妙技があれば十分に人間を引き寄せられることができただろう。
西行妖に誤算があったとすれば、自らが植えられている土地が死者が集う地であったことだ。
使い魔が餌としての役割を果たした相手は、すでに死を迎えていた亡霊と、強大な力を持つスキマ妖怪だけだった。西行妖は死者を食らうことはできないし、妖怪に至っては毒にしかならない。
つまるところ西行妖の試みは、失敗に終わったのだった。
もう用はないと言わんばかりに紫は妖怪桜に背を向け、言い放つ。
「精々あがくといいわ、その力が持つ限り。でもそれも今夜で終わりか、次の朔の日で全て尽きるでしょう。そしてあなたは再び眠りにつく... ...」
「妖怪として生まれ変わったたことを後悔するといいわ。淡い希望を持って、目覚めたことで」
「さようなら。忌むべき歪んだ和の心根よ」
冷たい惜別の言葉を最後に、紫は物言わぬ桜から遠ざかっていき、忽然と姿を消した。
鑑賞するもののいなくなった樹はそれでも光から使い魔を生み出し続ける。しかし夜が白み始めるにつれて、光はその明度を失いつつあった。太陽が昇ると西行妖は活動を停止し、使い魔は完全に消えてしまう。
しかも蓄えられていた妖力も残り少ないのか、一部の蝶が、羽ばたきを止めて落下して消えるものが現れた。
紫の推測通り、西行妖は恐らく次の朔の日に全て妖力を使い果たす。そして再び、西行妖の魂は眠りに就くだろう。
そうなることをこの妖怪桜が自覚しているのかどうかはわからない。しかしそれでも僅かな力がある限り、西行妖は力を使ってもがくだろう。
一ヶ月後の朔の日の夜。
西行妖は三度目の終わりを迎える。
人が忌むべきものは人の手によって排除され、その度に封印される苦痛を味わう。だが、今回は自然と、封印の苦しみをあわずに鎮まる。
望まずに桜から妖怪桜へと変化したが故に、大自然の流れのままに朽ちることができなかった西行妖。
擬似的ではあるものの、自然に任せた穏やかな眠りを、西行妖は迎えるのであった。
それが運命の筈だった。
だがその終焉は一つの脅威によって捻じ曲げられることとなる。
完全な夜明けまであと三十分という時。
活力を失いつつあった西行妖の元に、黒い外套を身に付けた人影が立っていた。
顔を上げて西行妖を一瞥すると、その者は樹に向かって歩みを進める。
外套の前をボタンで留め、フードを被っているので一切の露出が無い。まるで影のような実体のないものが、形を為して着ているかのようだった。
手を伸ばせば触れられるという距離で影は歩みを止めて、樹の幹に掌を当てた。
その瞬間、西行妖が呻き声を上げた。うおおおお、と強風の唸りのような音が辺り一帯に響いて西行妖の根元が揺れる。それと同じくして西行妖が発していた光と蝶が全て何の前触れもなく消えた。
それらの変化に一切目を向けずに、影は幹に手を添えたまま動かない。
やがて呻き声は段々と収まって行き、地鳴りと共に止んだ。辺りが静寂となったことを確認すると漸く影は幹から手を離し、樹を見上げる。
そこにはまだ太陽が昇っていないにもかかわらず、光も蝶も発さず、物言わぬ樹と化した妖怪桜の姿があった。
影が西行妖から自然消滅するはずだった神霊と小槌の魔力を奪い取り、原動力を失くした西行妖が眠りに就いた証だ。
やるべきことを終えた影は幹に触れた手を見つめ、己の内に入った力を感じながら呟く。
自らの野望を。そしてその実現のための、現段階での最善の行動を。
「まだだわ... ...まだ、力が足りない。もっと強い力を... ...求めなければ」
「この世界に仇為すために」
翌日。
紫はこっそりと西行妖の元を訪れ、霊力と魔力が抜けているのを確認した。
昨日の一夜で全て使い切ったのだろうと思い、幽々子に報告するためにスキマを使って紫は彼女の元へ向かった。
紫は最後まで、西行妖から力を奪った者の存在に気づくことは無かった。
故に影が行動を起こす時まで、この郷に潜む脅威が明るみに出ることもない。
それが幻想郷の破滅の『時』であることを知る者はまだ、誰もいなかった。
了
それはそのまま、登場人物たちの心をあらわしているのかもしれません。
しかし続き物とは予想外。
レイ○○……ハッ、そうか! レイセンか! (違
続きはよ
○○か……藍だったりして(無い)