一 天狗の里 無明の星見台
「ハイカラな妖怪共は人のうつろいを嘆くが、わたしに言わせればもっと変化がはやいものがある。それは植生だ」
この人の言葉には含蓄がないなぁと菅牧典は思った。
飯綱丸龍は星図が広げられた円卓に寝転がって真ッ暗な夜空を指さす。
"あれは麦星。あれが見えてちょっとすると暑くなってくる。"
「わたしは星をよく読むが、天文を読んだことはない……あー……アステリズムなどというのはだな、自己認識の補助線を投射して、民話あるいは神話と相補し合うことで一定の合意を得たある期間内の真理の近似値に過ぎん。宇宙は果たして空にあるが、天という巨視的な概念と実際の宇宙を比較することは――こと我々天狗のような巨大な数字を扱う者たちにとって――ごまかしだ。しかしながら……宇宙に始まりがあるということは終わりの存在を示唆しない。なぜならそれは証明できないから」
「それで」管牧は咳払いし、いくつか言葉を選んで言った。「飯綱丸さまは何を見て……星を見ることを通して、何を読み取っておいでなのでしょうか?」
「おお、というのも……すべての期間において不変だと合意を得るものが見つからなかったとして、かといって我々のような霊長も――」
管牧はもう一度咳ばらいをした。それに飯綱丸は困ったように笑う。
「それは……はい、大変結構なのですが、飯綱丸さま。次の仕事に取り掛からねば明日のご飯も危ういんですよ。太史令でもないんですから星見ばかりに耽るのはやめてください!」
「……そりゃ、そりゃ……色々考えてるさ。わたしを信じてくれないか?」
飯綱丸は精いっぱいのかっこいい顔をして誤魔化そうとする。管牧といえば、"しゃーっ!"と狐らしからぬ威嚇音で応えた。
「うん、うん……今日のご飯の心配はないんだろ? 夕飯なに?」
「…………麦飯です! 勝手に食ってろ!」
馬蘭の葉で包んだ握り飯を投げつけると菅牧は怒って星見台から飛び出してしまった。
「はぁ……金の切れ目が縁の切れ目か? すぐこれだ」
飯綱丸が菅牧に見捨てられるのはいつものことだ。どうせ明日には戻ってくるだろう。
"ん、これ塩むすびかよ。味気ないな。それに最近じゃ塩も高いって言うのに。"
そのとき、飯綱丸の頭上に電球が浮かんだ。
二 天狗の里上層
大天狗には当然ながら飯綱丸は片手で数え切れない官職を持つ。彼女が若輩ながらその地位にあるのは、こと外部での金策において無類の才能を発揮するからであった。
均輸官は飯綱丸が特に好んで名乗った官名である。彼女は直属の部下や部署を持たず、名目上ほとんど権力を持たない。このことはむしろ飯綱丸の無条件の免責として働いている。
そんな飯綱丸の唯一の部下として東奔西走する菅牧は元来、管狐らしい管狐だった。自らの手を汚すことをよしとせず、甘言と妖言でもって人を貶めることを得意とした。彼女の転機は飯綱丸に拾われ彼女の走狗となったことから始まる。二人の出会いには少しの駆け引きや流血沙汰があったが、その深い信頼関係を結ぶ上では語る及ばない凡庸な話だった。
菅牧は飯綱丸と繰り広げた、刺激的な金策の日々を思い返す。
飯綱丸の功績として真っ先に挙がる"ポルタサンタ打通事件"は魔界と至高天を舞台にして密輸シンジケートを相手取る大騒動だった。探偵まがいに金の流れを嗅ぎまわっていたところ、創造神の一人娘をめぐる陰謀に巻き込まれた挙句やけっぱちで解決に奔走することになったのだ。魔都パンデモニウムを実質統治する十四柱が一翼、熾天使サリエルに勘違いで追い回されて、旅行会社の移動型仮設本社"ビックボックス"から飛行が封じられたままヒモ無しバンジーをしたことは忘れたくとも忘れられない。
地獄の辺境、畜生界で"ゲヘナの火"を違法取引する人間霊どもを恐喝した小遣い稼ぎは鬼傑組の内部抗争にまで発展した。資本拡大を狙う堕天使たちの民間警備会社や勁牙組と剛欲同盟の思惑も重なって、メトロポリスは一時市街戦の様相を呈するほどだった。飯綱丸が四大組織の長と直談判する裏で管牧は是非曲直庁高官相手に虚仮威しの大立ち回り、開きかけた地獄の釜の蓋を閉じて人知れず世界の危機を救ったはいいが、一銭にもならない骨折り損でもあった。
時が淀んだ泰山で買地券を狙って墓荒らしをしたこともあった。中華四千年の武術法術で空を飛ぶ墓守の法者を相手にした命懸けの鬼ごっこに、天竺の坊主たちを巻き込んで魑魅魍魎まで踊り狂うダンスバトル。あれは思い返すのも億劫なほど苛烈な体験だ。結局裏では泰山と天竺の外交を拗らせようと拂菻の亡霊が暗躍していたのだが、碧霞元君の取り計らいがなければ飯綱丸は国際テロリストに仕立て上げられていただろう。
旧地獄での電信利権に首を突っ込んだことは記憶にも新しい。電信を利用した賭博詐欺は大層儲かる事業だった。しかし一枚噛んでいた太夫のやつが芋を引いたことで事が露呈、それからのことを多くは語るまい。これまで巡り合った上級天使や神仙のような連中より、鬼のほうがよほど恐ろしい種族だと今でも思う。方々の思惑が重なって、あの忌々しいさとり妖怪の走狗として地底のギャング掃討を押し付けられたのは苦い思い出だ。飯綱丸と菅牧を純粋な智謀のみでもって打ち負かしたのは、あとにも先にもあのさとり妖怪だけである。
どのシノギも途中まではいい調子だったのだ。飯綱丸の金儲けに対する嗅覚は目を見張るものがあるし、実際その手練手管で大儲けしてきた。けれど――。
(結局いつも騒動に巻き込まれて切った張ったの末に爆発オチなのよ! 最後はぜったい大損するし!)
飯綱丸とのコンビでやることなすことは大概失敗に着地する。加えて飯綱丸は"管狐のお前といるから計画がご破算になるんだ。"とまで言いやがる。菅牧に言わせれば、断固として飯綱丸自身の星のめぐりが悪いのだ。悪運ばかりが強い馬鹿主人が悪いのだと確信している。
(ほんと、命がいくつあっても足りないわー。トラブルは見てるのが楽しいのであって、巻き込まれるのは勘弁なんだけどなぁ)
そんな調子でも、彼女たちは天狗の里に多大な貢献をしてきた。里の官僚たちの天下り先に是非曲直庁のポストを確保できたのは飯綱丸が繋いだコネクションだし、地獄や仙界でのブラック・プロパガンダを主導してきたのは菅牧だ。金策で得た利権だって里に回している(そのおこぼれで私腹を肥やすのだが、なぜか毎度のこと最後に大損する)。ゆえに里の政界は彼女たちを重用するし、多少の政治的無茶に援護射撃をしてくれる。
とはいえ菅牧が欲しいのは政治的な支援より明日のご飯なのだ。なにせ飯綱丸にはお給金がまったくない。均輸官をはじめとして飯綱丸の持つ官職は物資徴発や徴税の権限が最低限付与されているが、それはすなわち現地調達分を懐に入れることでもってお給金に代わるのである。怒りと悲しみが累積する出来高制だった。
天魔禁中に近しい里の中枢、山間懸造りの渡し廊下を摺り足でひた走る。大天狗共の不躾を非難する声を無視し、渡し廊下を三つ四つほど通り抜けて里の高級住宅街へ転がり込んだ。
「姫海棠さま! 金の無心に来ました!」
「帰ってね」
「そこをなんとか!」
"この情勢でインテリジェンス関係との密会とか勘弁してくんね?"と魂の弱みにつけ入る隙もなく、すげなく追い返されてしまった。はて、里でまた何かあったのだろうか。ここしばらくは旧地獄で悪巧みの日々だったから、政治に聡いさしもの管牧も預かり知らない事情があるらしい。
それにつけても金の欲しさよ。貧すれば鈍するというが、しかし飯綱丸にとってみれば貧乏があって初めて労働のインセンティブが働くらしい。評定どもの集会場前の廊下をドタドタと飯綱丸は走りすがってきた。
「菅牧、待ちなさい、典! いい儲け話がある、手伝ってもらうぞ!」
"ああこれ、いつものパターンだ……。"管牧は思った。どうせ今回の事業も、最初は大儲けできてもトラブルが起きて、と思ったら裏では世の中をひっくり返すような陰謀が張り巡らされてて、なんだかんだで平和を守りつつ爆発オチで終わるんだろうな。
それでもこの儲け話に乗らざるを得ない。なぜなら金がないから。管牧は心の片隅で泣いた。
三 名もなき温泉地
天弓千亦は山あいの獣道を小気味よく駆けおりていく。彼女に続いて、天狗の里の下層に住む無産の妖怪たちが幾人か続く。
「……よっ、と。天狗たちは力ある神格を尊重しますから、この山には正しくアジールが多く存在します。一方で力なき神格たちの領分は侵犯され、官僚制のるつぼによって五体はバラバラに引き裂かれるのです。収穫祭の顛末はご存じですよね? 新嘗祭とか霜月祭とか、名前はなんだっていいのですが……秋の神や収穫の神の零落のためにあれらの祭りは政治に還元され、各省庁に分割されました。……本来天狗の共同体における祭祀は修験道の域を超えないものだったんですがね。祭政一致、祭政一致…………ほいっ、と」
数メートルある崖を飛び降りて宙返り。きれいに着地してポーズまで決めた天弓に、伴いの妖怪たちは思わず拍手した。
「数あるポリスと同じく、アテナイのアゴラは集会場と市場の二面性を持っていました。しかし三段櫂船のためにテテスたちが参政権を手に入れたことでアレオパゴスは権威を失し……エクレシアはプニュクスに移ることになります。(無論アゴラが都市の中心であったことは変わりありませんが、と天弓はクスクス笑いながら断って)衆愚政治の遠因であったのは自明ですよね。象徴的だと思うのは私が市場の神だからでしょうか。……おっと、みなさん、つきましたよ」
白い湯気がモクモクと立ち込め、軽い臭気が鼻をつく。河童の手が加えられた温泉だった。
"壺をお願いします。それと、火の用意を。"天弓は泥を手ですくって掲げた。
「……唐の官制は天狗の組織作りにも大きく影響しています。今でこそ里の官僚団は絶えず膨張するスライムのおばけとなり果てていますが、その基礎に三省六部があることは一目でわかるでしょう。そしてその思想潮流は孔子へのカウンターが見られます。この由来を私は詳しく存じませんが……火が焚けましたか。では……とくとご覧あれ!」
ボトボトと泥が壺に落とされる。天弓はそれを湯で沸騰させ、残った泥の表面に指を滑らせた。
「あっちっ、あちち……これだよ、諸君。あー……塩は良いものである。なれど塩気がなくなれば何によって塩の味が取り戻されようか。あなた自身のうちに塩を持ちなさい、そして互いに塩をかけなさい……ん? なんか違うな……まぁいい」
天弓はパンッ、と手を打ち鳴らし、上下を指さした。
「天狗の星は空に登り、我々は地に立っている……位置エネルギーに裏付けられたヒエラルキーが我々に覆い被さっている! 地を這いつくばり、裁かれた盗人のように片腕を切り落とされている! しかし諸君らは地の塩なのである! そしてプニュクスの壟断は今や塩気がない、歯応えのないフィッシュアンドチップスだ! ああ麗しの青空市場! 空は誰のものか! 塩は誰のものか!? 我々の手は盗人の手ではなく、物を交換する手である! しかし今日は交換の手を止め、火を焚いて塩を作ろう! 桑弘羊に花束を送りつけよう! 諸君! 行進を続けよう!」
妖怪たちは諸手で天弓をたたえた。"無主物の神、市場のプレゼンターよ。"
天弓が一息つくと、妖怪のうち一人が汲んだ湯の冷ましたものを差し出す。当然塩辛かった。
岩場に腰を下ろして、製塩に励む妖怪たちを眺めていた。
「……菊の花の香りがするな」
"はっ? まだ初夏ですが……。"と横にいた妖怪が返す。
「いや、わたしは感じるよ。……衝天の香陣は里を通り抜け……満城はこがねいろの花でいっぱいになる。ああ、秋になったらタンポポのお酒を作ろうじゃないか?」
四 天狗の里上層 飯綱丸宅
管牧はなけなしのヘソクリで仕入れた油揚げをモチャモチャ食べながら飯綱丸の計画を聞いていた。
「……塩に手を出す……神域に手を突っ込む気ですか!? 評定も黙ってませんよ!?」
「バカヤロー、製塩に手出すってわけじゃないっつの。……天狗の里は神域外の製塩を規制する形で安堵し、代わりにリベートを受け取っている。こと流通に関しては生産が絞られてなぁなぁで価格調整してるから、里は手を出しちゃいない。そこに付け入る隙がある」
要は塩税を間接的に増税するだけ。飯綱丸にしては穏和な施策ではある。
"だとしても……いやむしろ、里の経済に真っ向から介入する事業は……越権ではないのか?" しかし飯綱丸の表情を見て、思惑があることを察する。
「まぁ、先にこれ見てみろ。どう思う?」
「……ここしばらくの豊国市(里の下層で開かれる最大規模の市)の塩価格?」
管牧は見せられた数字の意味を咀嚼するのに三分ほど時間をかけて、そのあと驚愕した。
「……大幅な値下がりの後に緩やかに値上がりして、ここ一週間で跳ね上がってますね!? なんで噂になってないんだ!? ……製塩所でなんかあったって感じじゃない……誰かが、いや、どこかの組織が市場に介入してる……?」
「私も同じ見方だ。んでもって、この仕手筋は塩ン翁とそれを安堵する天狗の権威、両方を蔑ろにしていやがる。立派な反乱分子だよ。……白狼天狗は地底の一件で出払っちまってる。ここまで言えばもうわかるよな?」
妖怪の山のパワーバランスは官僚たちの日々のサビ残によって保たれる薄氷の城内平和である。神々と官僚たちのシーソーゲームで行政の介入範囲は決定され、領分が線引きされる。評定と上級官僚たちが最も忌み嫌うのはこの均衡を崩すイレギュラーであり、これが里の排他主義を形成する。
つい先日、転運使の首が(物理的に)飛んだばかりである。その内実は天魔による官僚掌握のための粛清の色が濃いものの、転運使の権限拡大を嫌った派閥の意向が反映されていたことも否定できない。
粛清が本格化する中、いまや里の政界は熾烈な生存競争だ。しかしそれはパイの取り分が増えることも意味している。
「いいか、お前は里ン中駆けずり回ってありったけ兵隊掻き集めて動かせるようにしとけ。長期的な事業になるからな。選抜するかは任せる」
「……わかりました。今回は元手もないので自転車操業で行きます。保険はかけてくださいね」
「ふっ……クク……保険? 保険か。保険ってなんだ? 亡命の準備か? 必要ないな。お前の主人はこの飯綱丸、飯綱丸龍だ。龍神の名を頂く大天狗なのだぞ。星空だって私の物だぜ。あっはっはっはっはっ……」
飯綱丸はたいそう嬉しそうに笑っていた。
五 同 飯綱丸宅
普段の言動から菅牧は飯綱丸のストッパーとして見られているが、その実、有事の彼女はどこまでも綱渡りのスリルを楽しむ気質がある。ここぞというとき、ためらわずアクセルを踏み込み崖っぷちの向こう側を望みたがる点で飯綱丸と菅牧は一致を得ているのだ。
であるから、無党派のバランサーである射命丸は顔を出さざるを得なかった。飯綱丸宅に転がり込んで、茶が出る前に話を切り出した。
「塩政に手を突っ込むらしいですね、飯綱丸さま……いや、めぐむッ! 評定たちの発言権を潰す気ですか!? それにカウンターインテリジェンスは白狼共の領分、天魔さまの大権にも関わるぞッ!」
「おいおい射命丸……お前さ、上司を呼び捨てすんなよ。傷付くぞ。それに文句を言うならお前が潰せ。独立愚連隊なら誰も口出ししないだろォさね。そーれ一揆、一揆、文ちゃんの~ちょっといいとこみってみったい~!」
ともすれば、諜報部と無党派の重鎮の密会である。外部からどうみられるかは定かでない。それでも射命丸は譲らない。あれをしろ、これはするな。鴉天狗として飯綱丸の部下に属するとも言える射命丸であるが、年齢に笠を着て談判するのは今日に始まったことではない。飯綱丸としては目の上のたんこぶだった。
「……落しどころを私が作る。お前は少し腹芸を覚えろ……飯綱丸だけじゃない! 典、お前もだぞ! 陰謀屋気取りはいいが、詰めが甘すぎるのは知ってるからな……知ってるからな! まったく……」
ぶつくさと文句を垂れて帰っていく射命丸の後ろ姿に飯綱丸は"あっかんべ。"と舌を出した。追従して管牧も舌を出す。
「……ケッ、老害がよ。説教しに来ただけかよ。ノンポリ気取ってるくせに結局はガチガチの保守じゃんか。明日にも仕掛けるぞ管牧。お優しい文ちゃんがケツ持ちしてくれるようだしな……管牧?」
飯綱丸は管牧の歪んだ表情を見て、一物あるらしいことを察した。"どないした? 言ってみ?"
「……わたし、あの人やっぱり嫌いです。飯綱丸さまと話してほしくない……!」
他人事でここまで感情を出す管牧を珍しがりながら、飯綱丸は頭を撫でてやった。飯綱丸はどうも人の心の機微に疎い。であるから、頭を撫でたり口説いたりで誤魔化すのが常套手段だった。
射命丸が帰って数分、飯綱丸宅の引き戸がぴしゃりと開かれる。"あァ、また射命丸か? 典、適当に追っ払っといてくれんか。"
心底嫌そうに応対に出た菅牧は血相を変えて戻ってきた。
「飯綱丸さま! 変なファスナーヤローが来てます! 変人です!」
「えっ、なになに!? 変なファスナーヤローってなに? マジでなに?」
その後ろには、変なファスナーヤローがいた。
六 同 飯綱丸宅
勝手に押し入ってきた変なファスナーヤローは天弓千亦と名乗り、座敷を断って立ち話を始める。
「アルカンシェルって知ってますか? 至高天の天使たちが魔界から資本を引き揚げたときの置き土産……聖遺物。今では一個人が所有する兵装に成り下がっていますが」
「……なに急に? ……アルカンシェル、五つある"幽玄魔眼"の一翼だな。遠目から見たことがある。虹という概念を抽出して撃ちだす魔導砲だったか? イェツラー界まで多面的に空間を焼き切るそれは攻性異界の域にあると謳われていたが……それで?」
「はい、それです。そのレプリカが――出力の再現は八割ほどですが――あなた個人に狙いを定めています。私が指を鳴らせば発射されます。静止軌道なので逃げられると思わないでください」
「……はっ? ばっ………………よ、要求はなんですか……?」
飯綱丸は一気に及び腰になった。短気は損気、後手に回った交渉で強気に出るメリットは存在しない。菅牧に至っては即座に窓から飛び降りて逃げ出した。
「……一介の資本家として私も蓄財と古物収集が趣味なんですよね。とくに兵器収集に熱を上げてしまいまして……アルカンシェル・レプリカもその一環で手に入れました。手前みそながら私個人が運用できる軍事力の総計は妖怪の山に比するとはいかずとも、一矢報いるに値するものと自負しております」
「……うん、はい」
「ああどうか勘違いなさらないようにお願いします。力の示威によって要求を押し通そうなどと、理性あるホモ・エコノミクスにあるまじき行いはしません。なにより私は神でありますから、軍事力そのものを重視しません。いつの日だって神が欲しがるカレンシーは一つ――信仰。信仰。信仰……そしてそのために市場が欲しい。即ち『塩の密売を扇動したのは私です』。迂遠な手段を取って平和裏に事を進めているのはご理解いただけましたか?」
"いただけねーよ!"と思った。そして、目の前の神が人の話を聞かないことも理解した。神とは往々にしてそのような存在だ。独善的で独りよがり。であるから、人妖に有効な交渉術や弁論術は彼らに通じない。
「公的権力とアジールの関係は背理的で、公と私はしばしば逆転し……無縁なる領域は中央集権と地方軍閥、封建領主と自治都市のような振り子のつりあいの中に生まれ、前者の拡大による消失というサイクルを繰り返してきました。しかし歴史的発展段階の終焉……幻想郷の歴史の終わりは天狗による東方官僚制の拡充でしたが……不可逆的な官僚制に拠るフォーマルの拡大は貧民たちをインフォーマルセクターに追いやり……いまや私的領域というのは資本と官警が目を向けないスラム街に過ぎません」
神は人の信仰無くしてあり得ない。ゆえに神は人の発明品なのだと識者は言った。しかし、真に神なるものを前にした時に人は知ることがある。即ち神ありき。それがたとい零落した神代の残滓であろうとも。
飯綱丸は必死で言葉を探した。この状況を打開できる一言を。まるで話を聞かない神への応対を。
そして緊張で乾き切った口を開いて言った。
「……羊羹あるんですけど、食べていきます……?」
「もちろん! いただきます♪」
(管牧め……はよ帰ってこいよ! なんで私が茶淹れさせられてんだ!)
「勘違いを正しておきますと、アルカンシェルを使うつもりはありませんよ。そして、塩事業を主導しているのも私ではありません。その辺の木端妖怪に二束三文で権利を売りつけたので……私は創作者でなければ生産者でもなく……市場のプレゼンターなのです」
「ははぁン? すでに一抜けってわけね……となると、あんたなんで私の家に来た? そろそろ本題を聞かせてくれない?」
「……はふぅ……このお茶、おいしいですね……交渉の席で飲む茶こそ至福の一杯。わたし、無主物と市場の神様なので」
飯綱丸はカチンときた。神なるものは話を聞かない、が会話が成り立たないわけでもない。この天弓千亦という女は武力の示威に託けて、意図して私をおちょくっている。
「……ふふ、本題ですか。そうですね。塩の密売を主導している妖怪に武器を売り付けました。代金はここひと月での利益丸ごと。渡した商品は……ええと、台帳どこにやったかしら」
天弓は懐から取り出した紙面を読み上げる。
――戦象百匹。戦鯨十匹。戦熊猫二十五匹。以下ミクトランのジャガーやサルマタイのケンタウロス、非ブージャムのスナークなど雑多な生物兵器が合計三十匹。兵馬俑三十機。アタナトイ三十機。ダレイオスの王の目五十機。ゴーレム五十機。バビロン大門レプリカ五門。ヴィナの旧式魔導ジェネレーター二十機。羅生門五門。シラクサの大面鏡五枚。六韜『虎の巻』の模写十巻。ヤコブの梯子一梃。ルイズ製次元ファブリケーター一機。エトセトラエトセトラ……。
読み上げられるにつれて飯綱丸の顔は引き攣った。値段の釣り上がった塩がどれほどの利益になっているかは知らないが、少なくとも読み上げられた商品に釣り合っているとは思えない。法外な武器の貸与、レンドリースだった。
「もちろん輸入規定には引っかからないように運びましたよ? 神なる自由市場の前に妖怪風情が唱える不輸不入の権など……庭渡さんとは懇意でしてね。門戸開放というやつです。……うふふ、コレクターが求めるのはコレクションだけではありません。その意味で今回の市場は大変有意義になりそうですわ♪」
"あの鳥頭めッ!" 天弓は言葉を続ける。
「……所有権とは、大変な発明でした。所有という意味において、人のあるところには逃げ場がない。人は死後ですら、その魂は冥界神の持ち物になってしまう。死すら安息たりえない……それが所有という事実…………そしてわたしは無主の神! 神の見えざる手が導き、需給の均衡がもたらすところすべてが私の領分! 私だけの領分だ! 私のものである限りそれは誰のものでもない! 無主なのだ! 与えよう、拾え! 薄汚い乞食妖怪! 施し(Alms)よ、さらば! だってそれは私のものじゃないから!」
天弓はぜぇぜぇと息を切らしていた。それから茶を啜り羊羹を堪能して、いくらか落ち着いて営業スマイルを取り戻したようだった。
「…………今回飯綱丸龍さまにご用意した商品はこちら……アルカンシェルのレプリカと、クーデターを画策する不埒な輩のアジトの位置情報です♪ 窓の外をご覧下さい。すでに戦鯨とヤコブの梯子による急降下爆撃が開始されている様子。ご購入の決断はおはやめをお勧めしますよ? ああ仰らないで、お値段が心配? ご安心ください、私の商品はいつだってプライスレス♪ お支払い方法もご自由に選択いただけます。お得な金利でのローンがご所望ですか? 末永い友誼と便宜を取り計らっていただく形でも構いませんよ……♪」
七 顛末
結局。塩梟の一揆は日をまたがないうちに鎮圧された。
「元々この里には反乱が起きる土壌はなかった。そりゃ一人一人に政治への不満こそあれど、飢えたりするやつがいたわけじゃなかったし。……にしたってクジラが群れを成して、夕映えのなか降ってくるのはなかなか絶景だったなぁ。鴉天狗からカメラでも借りりゃよかったわー」
菅牧は片肘をついて報告書をまとめている。どこの官僚たちもしばらくは徹夜だろう。被害の総額、責任の所在、処罰処罰処罰……。
「ああそういや爆発オチって予想、やっぱり当たってたな。山奥とはいえアルカンシェルのレプリカをぶっ放すなんて……綺麗な花火だったわね」
乱の指導者が丸ごと蒸発したことで、裏で糸を引く輩の捜索が有耶無耶になったことは幸か不幸か。
飯綱丸は今回の騒動で一銭も儲からなかったが、権限の拡大には成功した。超法規的措置の名のもとに里内の市場への介入、防諜、反乱への武力行使……それらの既成事実化。関係当局はおかんむりだろう。
これは飯綱丸自身が描いていたシナリオの理想形でもある。問題なのは、それをほとんど乗っ取る形であの神に出しゃばられたこと。あれで神としては零落しているというのだから恐ろしい。
「でもルイズ・メイドのファブリケーターを私物化して押収できたのはよかったなぁ。こりゃ次の事業からは物資不足とはおさらばね」
破壊からの復興はすべからく経済成長の土壌である。天弓千亦はそう言い残して市場の雑踏に消えて言った。
「月暈が架かった日にまた会いましょう、ね……頼むからもう来ないでほしいけどなぁ。飯綱丸さまもあれ以来ムカデの姫様にご執心だし」
アルカンシェルの爆心地から古い坑道への入り口が見つかったとか。飯綱丸さまが最近旧友のムカデ妖怪と懇意だとか。
やれ幻想郷は変わりない。人が怯え、魑魅魍魎が跋扈し、神が笑う。
人には人の、妖怪には妖怪の領分がある。であるから、神にも神の領分が存在するのだ。
頼むから、そっちの線からこっちには来ないでほしい。
菅牧は墨の垂れた筆を振り回す。畳に障子に墨が飛ぶ。神がなんだ、目の前の仕事に比べればどうだっていいことだ。
「おーい菅牧ー!」
玄関の戸がぴしゃりと開かれる。飯綱丸の声だった。
「菅牧や、菅牧典や、儲け話だ! 今度の事業は儲かるぞ! 見てくれコレ、この虹色の鉱石は面白くてな――」
「ハイカラな妖怪共は人のうつろいを嘆くが、わたしに言わせればもっと変化がはやいものがある。それは植生だ」
この人の言葉には含蓄がないなぁと菅牧典は思った。
飯綱丸龍は星図が広げられた円卓に寝転がって真ッ暗な夜空を指さす。
"あれは麦星。あれが見えてちょっとすると暑くなってくる。"
「わたしは星をよく読むが、天文を読んだことはない……あー……アステリズムなどというのはだな、自己認識の補助線を投射して、民話あるいは神話と相補し合うことで一定の合意を得たある期間内の真理の近似値に過ぎん。宇宙は果たして空にあるが、天という巨視的な概念と実際の宇宙を比較することは――こと我々天狗のような巨大な数字を扱う者たちにとって――ごまかしだ。しかしながら……宇宙に始まりがあるということは終わりの存在を示唆しない。なぜならそれは証明できないから」
「それで」管牧は咳払いし、いくつか言葉を選んで言った。「飯綱丸さまは何を見て……星を見ることを通して、何を読み取っておいでなのでしょうか?」
「おお、というのも……すべての期間において不変だと合意を得るものが見つからなかったとして、かといって我々のような霊長も――」
管牧はもう一度咳ばらいをした。それに飯綱丸は困ったように笑う。
「それは……はい、大変結構なのですが、飯綱丸さま。次の仕事に取り掛からねば明日のご飯も危ういんですよ。太史令でもないんですから星見ばかりに耽るのはやめてください!」
「……そりゃ、そりゃ……色々考えてるさ。わたしを信じてくれないか?」
飯綱丸は精いっぱいのかっこいい顔をして誤魔化そうとする。管牧といえば、"しゃーっ!"と狐らしからぬ威嚇音で応えた。
「うん、うん……今日のご飯の心配はないんだろ? 夕飯なに?」
「…………麦飯です! 勝手に食ってろ!」
馬蘭の葉で包んだ握り飯を投げつけると菅牧は怒って星見台から飛び出してしまった。
「はぁ……金の切れ目が縁の切れ目か? すぐこれだ」
飯綱丸が菅牧に見捨てられるのはいつものことだ。どうせ明日には戻ってくるだろう。
"ん、これ塩むすびかよ。味気ないな。それに最近じゃ塩も高いって言うのに。"
そのとき、飯綱丸の頭上に電球が浮かんだ。
二 天狗の里上層
大天狗には当然ながら飯綱丸は片手で数え切れない官職を持つ。彼女が若輩ながらその地位にあるのは、こと外部での金策において無類の才能を発揮するからであった。
均輸官は飯綱丸が特に好んで名乗った官名である。彼女は直属の部下や部署を持たず、名目上ほとんど権力を持たない。このことはむしろ飯綱丸の無条件の免責として働いている。
そんな飯綱丸の唯一の部下として東奔西走する菅牧は元来、管狐らしい管狐だった。自らの手を汚すことをよしとせず、甘言と妖言でもって人を貶めることを得意とした。彼女の転機は飯綱丸に拾われ彼女の走狗となったことから始まる。二人の出会いには少しの駆け引きや流血沙汰があったが、その深い信頼関係を結ぶ上では語る及ばない凡庸な話だった。
菅牧は飯綱丸と繰り広げた、刺激的な金策の日々を思い返す。
飯綱丸の功績として真っ先に挙がる"ポルタサンタ打通事件"は魔界と至高天を舞台にして密輸シンジケートを相手取る大騒動だった。探偵まがいに金の流れを嗅ぎまわっていたところ、創造神の一人娘をめぐる陰謀に巻き込まれた挙句やけっぱちで解決に奔走することになったのだ。魔都パンデモニウムを実質統治する十四柱が一翼、熾天使サリエルに勘違いで追い回されて、旅行会社の移動型仮設本社"ビックボックス"から飛行が封じられたままヒモ無しバンジーをしたことは忘れたくとも忘れられない。
地獄の辺境、畜生界で"ゲヘナの火"を違法取引する人間霊どもを恐喝した小遣い稼ぎは鬼傑組の内部抗争にまで発展した。資本拡大を狙う堕天使たちの民間警備会社や勁牙組と剛欲同盟の思惑も重なって、メトロポリスは一時市街戦の様相を呈するほどだった。飯綱丸が四大組織の長と直談判する裏で管牧は是非曲直庁高官相手に虚仮威しの大立ち回り、開きかけた地獄の釜の蓋を閉じて人知れず世界の危機を救ったはいいが、一銭にもならない骨折り損でもあった。
時が淀んだ泰山で買地券を狙って墓荒らしをしたこともあった。中華四千年の武術法術で空を飛ぶ墓守の法者を相手にした命懸けの鬼ごっこに、天竺の坊主たちを巻き込んで魑魅魍魎まで踊り狂うダンスバトル。あれは思い返すのも億劫なほど苛烈な体験だ。結局裏では泰山と天竺の外交を拗らせようと拂菻の亡霊が暗躍していたのだが、碧霞元君の取り計らいがなければ飯綱丸は国際テロリストに仕立て上げられていただろう。
旧地獄での電信利権に首を突っ込んだことは記憶にも新しい。電信を利用した賭博詐欺は大層儲かる事業だった。しかし一枚噛んでいた太夫のやつが芋を引いたことで事が露呈、それからのことを多くは語るまい。これまで巡り合った上級天使や神仙のような連中より、鬼のほうがよほど恐ろしい種族だと今でも思う。方々の思惑が重なって、あの忌々しいさとり妖怪の走狗として地底のギャング掃討を押し付けられたのは苦い思い出だ。飯綱丸と菅牧を純粋な智謀のみでもって打ち負かしたのは、あとにも先にもあのさとり妖怪だけである。
どのシノギも途中まではいい調子だったのだ。飯綱丸の金儲けに対する嗅覚は目を見張るものがあるし、実際その手練手管で大儲けしてきた。けれど――。
(結局いつも騒動に巻き込まれて切った張ったの末に爆発オチなのよ! 最後はぜったい大損するし!)
飯綱丸とのコンビでやることなすことは大概失敗に着地する。加えて飯綱丸は"管狐のお前といるから計画がご破算になるんだ。"とまで言いやがる。菅牧に言わせれば、断固として飯綱丸自身の星のめぐりが悪いのだ。悪運ばかりが強い馬鹿主人が悪いのだと確信している。
(ほんと、命がいくつあっても足りないわー。トラブルは見てるのが楽しいのであって、巻き込まれるのは勘弁なんだけどなぁ)
そんな調子でも、彼女たちは天狗の里に多大な貢献をしてきた。里の官僚たちの天下り先に是非曲直庁のポストを確保できたのは飯綱丸が繋いだコネクションだし、地獄や仙界でのブラック・プロパガンダを主導してきたのは菅牧だ。金策で得た利権だって里に回している(そのおこぼれで私腹を肥やすのだが、なぜか毎度のこと最後に大損する)。ゆえに里の政界は彼女たちを重用するし、多少の政治的無茶に援護射撃をしてくれる。
とはいえ菅牧が欲しいのは政治的な支援より明日のご飯なのだ。なにせ飯綱丸にはお給金がまったくない。均輸官をはじめとして飯綱丸の持つ官職は物資徴発や徴税の権限が最低限付与されているが、それはすなわち現地調達分を懐に入れることでもってお給金に代わるのである。怒りと悲しみが累積する出来高制だった。
天魔禁中に近しい里の中枢、山間懸造りの渡し廊下を摺り足でひた走る。大天狗共の不躾を非難する声を無視し、渡し廊下を三つ四つほど通り抜けて里の高級住宅街へ転がり込んだ。
「姫海棠さま! 金の無心に来ました!」
「帰ってね」
「そこをなんとか!」
"この情勢でインテリジェンス関係との密会とか勘弁してくんね?"と魂の弱みにつけ入る隙もなく、すげなく追い返されてしまった。はて、里でまた何かあったのだろうか。ここしばらくは旧地獄で悪巧みの日々だったから、政治に聡いさしもの管牧も預かり知らない事情があるらしい。
それにつけても金の欲しさよ。貧すれば鈍するというが、しかし飯綱丸にとってみれば貧乏があって初めて労働のインセンティブが働くらしい。評定どもの集会場前の廊下をドタドタと飯綱丸は走りすがってきた。
「菅牧、待ちなさい、典! いい儲け話がある、手伝ってもらうぞ!」
"ああこれ、いつものパターンだ……。"管牧は思った。どうせ今回の事業も、最初は大儲けできてもトラブルが起きて、と思ったら裏では世の中をひっくり返すような陰謀が張り巡らされてて、なんだかんだで平和を守りつつ爆発オチで終わるんだろうな。
それでもこの儲け話に乗らざるを得ない。なぜなら金がないから。管牧は心の片隅で泣いた。
三 名もなき温泉地
天弓千亦は山あいの獣道を小気味よく駆けおりていく。彼女に続いて、天狗の里の下層に住む無産の妖怪たちが幾人か続く。
「……よっ、と。天狗たちは力ある神格を尊重しますから、この山には正しくアジールが多く存在します。一方で力なき神格たちの領分は侵犯され、官僚制のるつぼによって五体はバラバラに引き裂かれるのです。収穫祭の顛末はご存じですよね? 新嘗祭とか霜月祭とか、名前はなんだっていいのですが……秋の神や収穫の神の零落のためにあれらの祭りは政治に還元され、各省庁に分割されました。……本来天狗の共同体における祭祀は修験道の域を超えないものだったんですがね。祭政一致、祭政一致…………ほいっ、と」
数メートルある崖を飛び降りて宙返り。きれいに着地してポーズまで決めた天弓に、伴いの妖怪たちは思わず拍手した。
「数あるポリスと同じく、アテナイのアゴラは集会場と市場の二面性を持っていました。しかし三段櫂船のためにテテスたちが参政権を手に入れたことでアレオパゴスは権威を失し……エクレシアはプニュクスに移ることになります。(無論アゴラが都市の中心であったことは変わりありませんが、と天弓はクスクス笑いながら断って)衆愚政治の遠因であったのは自明ですよね。象徴的だと思うのは私が市場の神だからでしょうか。……おっと、みなさん、つきましたよ」
白い湯気がモクモクと立ち込め、軽い臭気が鼻をつく。河童の手が加えられた温泉だった。
"壺をお願いします。それと、火の用意を。"天弓は泥を手ですくって掲げた。
「……唐の官制は天狗の組織作りにも大きく影響しています。今でこそ里の官僚団は絶えず膨張するスライムのおばけとなり果てていますが、その基礎に三省六部があることは一目でわかるでしょう。そしてその思想潮流は孔子へのカウンターが見られます。この由来を私は詳しく存じませんが……火が焚けましたか。では……とくとご覧あれ!」
ボトボトと泥が壺に落とされる。天弓はそれを湯で沸騰させ、残った泥の表面に指を滑らせた。
「あっちっ、あちち……これだよ、諸君。あー……塩は良いものである。なれど塩気がなくなれば何によって塩の味が取り戻されようか。あなた自身のうちに塩を持ちなさい、そして互いに塩をかけなさい……ん? なんか違うな……まぁいい」
天弓はパンッ、と手を打ち鳴らし、上下を指さした。
「天狗の星は空に登り、我々は地に立っている……位置エネルギーに裏付けられたヒエラルキーが我々に覆い被さっている! 地を這いつくばり、裁かれた盗人のように片腕を切り落とされている! しかし諸君らは地の塩なのである! そしてプニュクスの壟断は今や塩気がない、歯応えのないフィッシュアンドチップスだ! ああ麗しの青空市場! 空は誰のものか! 塩は誰のものか!? 我々の手は盗人の手ではなく、物を交換する手である! しかし今日は交換の手を止め、火を焚いて塩を作ろう! 桑弘羊に花束を送りつけよう! 諸君! 行進を続けよう!」
妖怪たちは諸手で天弓をたたえた。"無主物の神、市場のプレゼンターよ。"
天弓が一息つくと、妖怪のうち一人が汲んだ湯の冷ましたものを差し出す。当然塩辛かった。
岩場に腰を下ろして、製塩に励む妖怪たちを眺めていた。
「……菊の花の香りがするな」
"はっ? まだ初夏ですが……。"と横にいた妖怪が返す。
「いや、わたしは感じるよ。……衝天の香陣は里を通り抜け……満城はこがねいろの花でいっぱいになる。ああ、秋になったらタンポポのお酒を作ろうじゃないか?」
四 天狗の里上層 飯綱丸宅
管牧はなけなしのヘソクリで仕入れた油揚げをモチャモチャ食べながら飯綱丸の計画を聞いていた。
「……塩に手を出す……神域に手を突っ込む気ですか!? 評定も黙ってませんよ!?」
「バカヤロー、製塩に手出すってわけじゃないっつの。……天狗の里は神域外の製塩を規制する形で安堵し、代わりにリベートを受け取っている。こと流通に関しては生産が絞られてなぁなぁで価格調整してるから、里は手を出しちゃいない。そこに付け入る隙がある」
要は塩税を間接的に増税するだけ。飯綱丸にしては穏和な施策ではある。
"だとしても……いやむしろ、里の経済に真っ向から介入する事業は……越権ではないのか?" しかし飯綱丸の表情を見て、思惑があることを察する。
「まぁ、先にこれ見てみろ。どう思う?」
「……ここしばらくの豊国市(里の下層で開かれる最大規模の市)の塩価格?」
管牧は見せられた数字の意味を咀嚼するのに三分ほど時間をかけて、そのあと驚愕した。
「……大幅な値下がりの後に緩やかに値上がりして、ここ一週間で跳ね上がってますね!? なんで噂になってないんだ!? ……製塩所でなんかあったって感じじゃない……誰かが、いや、どこかの組織が市場に介入してる……?」
「私も同じ見方だ。んでもって、この仕手筋は塩ン翁とそれを安堵する天狗の権威、両方を蔑ろにしていやがる。立派な反乱分子だよ。……白狼天狗は地底の一件で出払っちまってる。ここまで言えばもうわかるよな?」
妖怪の山のパワーバランスは官僚たちの日々のサビ残によって保たれる薄氷の城内平和である。神々と官僚たちのシーソーゲームで行政の介入範囲は決定され、領分が線引きされる。評定と上級官僚たちが最も忌み嫌うのはこの均衡を崩すイレギュラーであり、これが里の排他主義を形成する。
つい先日、転運使の首が(物理的に)飛んだばかりである。その内実は天魔による官僚掌握のための粛清の色が濃いものの、転運使の権限拡大を嫌った派閥の意向が反映されていたことも否定できない。
粛清が本格化する中、いまや里の政界は熾烈な生存競争だ。しかしそれはパイの取り分が増えることも意味している。
「いいか、お前は里ン中駆けずり回ってありったけ兵隊掻き集めて動かせるようにしとけ。長期的な事業になるからな。選抜するかは任せる」
「……わかりました。今回は元手もないので自転車操業で行きます。保険はかけてくださいね」
「ふっ……クク……保険? 保険か。保険ってなんだ? 亡命の準備か? 必要ないな。お前の主人はこの飯綱丸、飯綱丸龍だ。龍神の名を頂く大天狗なのだぞ。星空だって私の物だぜ。あっはっはっはっはっ……」
飯綱丸はたいそう嬉しそうに笑っていた。
五 同 飯綱丸宅
普段の言動から菅牧は飯綱丸のストッパーとして見られているが、その実、有事の彼女はどこまでも綱渡りのスリルを楽しむ気質がある。ここぞというとき、ためらわずアクセルを踏み込み崖っぷちの向こう側を望みたがる点で飯綱丸と菅牧は一致を得ているのだ。
であるから、無党派のバランサーである射命丸は顔を出さざるを得なかった。飯綱丸宅に転がり込んで、茶が出る前に話を切り出した。
「塩政に手を突っ込むらしいですね、飯綱丸さま……いや、めぐむッ! 評定たちの発言権を潰す気ですか!? それにカウンターインテリジェンスは白狼共の領分、天魔さまの大権にも関わるぞッ!」
「おいおい射命丸……お前さ、上司を呼び捨てすんなよ。傷付くぞ。それに文句を言うならお前が潰せ。独立愚連隊なら誰も口出ししないだろォさね。そーれ一揆、一揆、文ちゃんの~ちょっといいとこみってみったい~!」
ともすれば、諜報部と無党派の重鎮の密会である。外部からどうみられるかは定かでない。それでも射命丸は譲らない。あれをしろ、これはするな。鴉天狗として飯綱丸の部下に属するとも言える射命丸であるが、年齢に笠を着て談判するのは今日に始まったことではない。飯綱丸としては目の上のたんこぶだった。
「……落しどころを私が作る。お前は少し腹芸を覚えろ……飯綱丸だけじゃない! 典、お前もだぞ! 陰謀屋気取りはいいが、詰めが甘すぎるのは知ってるからな……知ってるからな! まったく……」
ぶつくさと文句を垂れて帰っていく射命丸の後ろ姿に飯綱丸は"あっかんべ。"と舌を出した。追従して管牧も舌を出す。
「……ケッ、老害がよ。説教しに来ただけかよ。ノンポリ気取ってるくせに結局はガチガチの保守じゃんか。明日にも仕掛けるぞ管牧。お優しい文ちゃんがケツ持ちしてくれるようだしな……管牧?」
飯綱丸は管牧の歪んだ表情を見て、一物あるらしいことを察した。"どないした? 言ってみ?"
「……わたし、あの人やっぱり嫌いです。飯綱丸さまと話してほしくない……!」
他人事でここまで感情を出す管牧を珍しがりながら、飯綱丸は頭を撫でてやった。飯綱丸はどうも人の心の機微に疎い。であるから、頭を撫でたり口説いたりで誤魔化すのが常套手段だった。
射命丸が帰って数分、飯綱丸宅の引き戸がぴしゃりと開かれる。"あァ、また射命丸か? 典、適当に追っ払っといてくれんか。"
心底嫌そうに応対に出た菅牧は血相を変えて戻ってきた。
「飯綱丸さま! 変なファスナーヤローが来てます! 変人です!」
「えっ、なになに!? 変なファスナーヤローってなに? マジでなに?」
その後ろには、変なファスナーヤローがいた。
六 同 飯綱丸宅
勝手に押し入ってきた変なファスナーヤローは天弓千亦と名乗り、座敷を断って立ち話を始める。
「アルカンシェルって知ってますか? 至高天の天使たちが魔界から資本を引き揚げたときの置き土産……聖遺物。今では一個人が所有する兵装に成り下がっていますが」
「……なに急に? ……アルカンシェル、五つある"幽玄魔眼"の一翼だな。遠目から見たことがある。虹という概念を抽出して撃ちだす魔導砲だったか? イェツラー界まで多面的に空間を焼き切るそれは攻性異界の域にあると謳われていたが……それで?」
「はい、それです。そのレプリカが――出力の再現は八割ほどですが――あなた個人に狙いを定めています。私が指を鳴らせば発射されます。静止軌道なので逃げられると思わないでください」
「……はっ? ばっ………………よ、要求はなんですか……?」
飯綱丸は一気に及び腰になった。短気は損気、後手に回った交渉で強気に出るメリットは存在しない。菅牧に至っては即座に窓から飛び降りて逃げ出した。
「……一介の資本家として私も蓄財と古物収集が趣味なんですよね。とくに兵器収集に熱を上げてしまいまして……アルカンシェル・レプリカもその一環で手に入れました。手前みそながら私個人が運用できる軍事力の総計は妖怪の山に比するとはいかずとも、一矢報いるに値するものと自負しております」
「……うん、はい」
「ああどうか勘違いなさらないようにお願いします。力の示威によって要求を押し通そうなどと、理性あるホモ・エコノミクスにあるまじき行いはしません。なにより私は神でありますから、軍事力そのものを重視しません。いつの日だって神が欲しがるカレンシーは一つ――信仰。信仰。信仰……そしてそのために市場が欲しい。即ち『塩の密売を扇動したのは私です』。迂遠な手段を取って平和裏に事を進めているのはご理解いただけましたか?」
"いただけねーよ!"と思った。そして、目の前の神が人の話を聞かないことも理解した。神とは往々にしてそのような存在だ。独善的で独りよがり。であるから、人妖に有効な交渉術や弁論術は彼らに通じない。
「公的権力とアジールの関係は背理的で、公と私はしばしば逆転し……無縁なる領域は中央集権と地方軍閥、封建領主と自治都市のような振り子のつりあいの中に生まれ、前者の拡大による消失というサイクルを繰り返してきました。しかし歴史的発展段階の終焉……幻想郷の歴史の終わりは天狗による東方官僚制の拡充でしたが……不可逆的な官僚制に拠るフォーマルの拡大は貧民たちをインフォーマルセクターに追いやり……いまや私的領域というのは資本と官警が目を向けないスラム街に過ぎません」
神は人の信仰無くしてあり得ない。ゆえに神は人の発明品なのだと識者は言った。しかし、真に神なるものを前にした時に人は知ることがある。即ち神ありき。それがたとい零落した神代の残滓であろうとも。
飯綱丸は必死で言葉を探した。この状況を打開できる一言を。まるで話を聞かない神への応対を。
そして緊張で乾き切った口を開いて言った。
「……羊羹あるんですけど、食べていきます……?」
「もちろん! いただきます♪」
(管牧め……はよ帰ってこいよ! なんで私が茶淹れさせられてんだ!)
「勘違いを正しておきますと、アルカンシェルを使うつもりはありませんよ。そして、塩事業を主導しているのも私ではありません。その辺の木端妖怪に二束三文で権利を売りつけたので……私は創作者でなければ生産者でもなく……市場のプレゼンターなのです」
「ははぁン? すでに一抜けってわけね……となると、あんたなんで私の家に来た? そろそろ本題を聞かせてくれない?」
「……はふぅ……このお茶、おいしいですね……交渉の席で飲む茶こそ至福の一杯。わたし、無主物と市場の神様なので」
飯綱丸はカチンときた。神なるものは話を聞かない、が会話が成り立たないわけでもない。この天弓千亦という女は武力の示威に託けて、意図して私をおちょくっている。
「……ふふ、本題ですか。そうですね。塩の密売を主導している妖怪に武器を売り付けました。代金はここひと月での利益丸ごと。渡した商品は……ええと、台帳どこにやったかしら」
天弓は懐から取り出した紙面を読み上げる。
――戦象百匹。戦鯨十匹。戦熊猫二十五匹。以下ミクトランのジャガーやサルマタイのケンタウロス、非ブージャムのスナークなど雑多な生物兵器が合計三十匹。兵馬俑三十機。アタナトイ三十機。ダレイオスの王の目五十機。ゴーレム五十機。バビロン大門レプリカ五門。ヴィナの旧式魔導ジェネレーター二十機。羅生門五門。シラクサの大面鏡五枚。六韜『虎の巻』の模写十巻。ヤコブの梯子一梃。ルイズ製次元ファブリケーター一機。エトセトラエトセトラ……。
読み上げられるにつれて飯綱丸の顔は引き攣った。値段の釣り上がった塩がどれほどの利益になっているかは知らないが、少なくとも読み上げられた商品に釣り合っているとは思えない。法外な武器の貸与、レンドリースだった。
「もちろん輸入規定には引っかからないように運びましたよ? 神なる自由市場の前に妖怪風情が唱える不輸不入の権など……庭渡さんとは懇意でしてね。門戸開放というやつです。……うふふ、コレクターが求めるのはコレクションだけではありません。その意味で今回の市場は大変有意義になりそうですわ♪」
"あの鳥頭めッ!" 天弓は言葉を続ける。
「……所有権とは、大変な発明でした。所有という意味において、人のあるところには逃げ場がない。人は死後ですら、その魂は冥界神の持ち物になってしまう。死すら安息たりえない……それが所有という事実…………そしてわたしは無主の神! 神の見えざる手が導き、需給の均衡がもたらすところすべてが私の領分! 私だけの領分だ! 私のものである限りそれは誰のものでもない! 無主なのだ! 与えよう、拾え! 薄汚い乞食妖怪! 施し(Alms)よ、さらば! だってそれは私のものじゃないから!」
天弓はぜぇぜぇと息を切らしていた。それから茶を啜り羊羹を堪能して、いくらか落ち着いて営業スマイルを取り戻したようだった。
「…………今回飯綱丸龍さまにご用意した商品はこちら……アルカンシェルのレプリカと、クーデターを画策する不埒な輩のアジトの位置情報です♪ 窓の外をご覧下さい。すでに戦鯨とヤコブの梯子による急降下爆撃が開始されている様子。ご購入の決断はおはやめをお勧めしますよ? ああ仰らないで、お値段が心配? ご安心ください、私の商品はいつだってプライスレス♪ お支払い方法もご自由に選択いただけます。お得な金利でのローンがご所望ですか? 末永い友誼と便宜を取り計らっていただく形でも構いませんよ……♪」
七 顛末
結局。塩梟の一揆は日をまたがないうちに鎮圧された。
「元々この里には反乱が起きる土壌はなかった。そりゃ一人一人に政治への不満こそあれど、飢えたりするやつがいたわけじゃなかったし。……にしたってクジラが群れを成して、夕映えのなか降ってくるのはなかなか絶景だったなぁ。鴉天狗からカメラでも借りりゃよかったわー」
菅牧は片肘をついて報告書をまとめている。どこの官僚たちもしばらくは徹夜だろう。被害の総額、責任の所在、処罰処罰処罰……。
「ああそういや爆発オチって予想、やっぱり当たってたな。山奥とはいえアルカンシェルのレプリカをぶっ放すなんて……綺麗な花火だったわね」
乱の指導者が丸ごと蒸発したことで、裏で糸を引く輩の捜索が有耶無耶になったことは幸か不幸か。
飯綱丸は今回の騒動で一銭も儲からなかったが、権限の拡大には成功した。超法規的措置の名のもとに里内の市場への介入、防諜、反乱への武力行使……それらの既成事実化。関係当局はおかんむりだろう。
これは飯綱丸自身が描いていたシナリオの理想形でもある。問題なのは、それをほとんど乗っ取る形であの神に出しゃばられたこと。あれで神としては零落しているというのだから恐ろしい。
「でもルイズ・メイドのファブリケーターを私物化して押収できたのはよかったなぁ。こりゃ次の事業からは物資不足とはおさらばね」
破壊からの復興はすべからく経済成長の土壌である。天弓千亦はそう言い残して市場の雑踏に消えて言った。
「月暈が架かった日にまた会いましょう、ね……頼むからもう来ないでほしいけどなぁ。飯綱丸さまもあれ以来ムカデの姫様にご執心だし」
アルカンシェルの爆心地から古い坑道への入り口が見つかったとか。飯綱丸さまが最近旧友のムカデ妖怪と懇意だとか。
やれ幻想郷は変わりない。人が怯え、魑魅魍魎が跋扈し、神が笑う。
人には人の、妖怪には妖怪の領分がある。であるから、神にも神の領分が存在するのだ。
頼むから、そっちの線からこっちには来ないでほしい。
菅牧は墨の垂れた筆を振り回す。畳に障子に墨が飛ぶ。神がなんだ、目の前の仕事に比べればどうだっていいことだ。
「おーい菅牧ー!」
玄関の戸がぴしゃりと開かれる。飯綱丸の声だった。
「菅牧や、菅牧典や、儲け話だ! 今度の事業は儲かるぞ! 見てくれコレ、この虹色の鉱石は面白くてな――」
儲け話が毎度失敗する飯綱丸好きでした。
終始楽しそうな飯綱丸たちが素晴らしかったです
清々しいぐらいろくでもねー絡まれ方して塩対応するはたても良いですしぜってー裏でキレ散らかしてることが察される文も良い味だしてますね。あと個人的には地底の危険物っぷりが好き。
勢いいっぱい賭け全敗でたいへん楽しませて頂きました。良かったです。
聞き覚えのない難解な単語の羅列に突然俗っぽいというか、コメディアスな単語が出てくると安心感さえ覚えました。『たんぽぽのお酒』はあとで読んでみようと思います。