思えば永い道のりを歩んできた。
貴族の娘として、そして人として生を受けたあの日から、私は緩慢ながらもその歩を進め、それは絶対の禁忌たるあの薬に手を出してただの人をやめるまで続いた。
永遠を往く旅人となってからの歩みは、気の向くままにと言えば聞こえはいいものの、実際は羅針盤も持たずに海に出る愚か者と何ら変わるところはなかった。生きる意味を見失った人間の生なんてそんなもんだ。
幻想の集う地で生きる意味を再び見つけ出した私は、少しばかり歩を休めた。生きる意味と殺しあうとはなかなか滑稽にも思えるが、少なくとも仇敵と再会する以前の千年よりかはずっとマシな生に思えた。
そうこうしてたら、いつのまにか顔見知りも増えていった。永遠の館が永遠でなくなったのをきっかけとするように、なぜだか私の時間も動いていったようだ。また少し、歩を進めた。そんな出来の悪い変拍子のような歩みの果てに私は。
「しまっていこー」
選ばれし者だけが立つことを許された神聖なる地、ピッチャーマウンドに立っていた。
遡ること数日前、私は人里の守護者である友人に呼び出されていた。
「妹紅、野球をやらないか?」
友人、上白沢慧音は私に尋ねた。私は答えた。
「は?」
訂正、私は答えなかった。
「ええっと慧音、何をやらないかだって?」
「野球だよ、野球。知らないか? 野球」
もちろん野球くらい知っている。高速で放たれた白色の自機外し弾を手にした鈍器で敵に向かって打ち返すという、まさに命を賭けた決闘。弾幕ごっこにも通ずるものがあってなかなかスリルに満ちた球技だ。もちろん危険な自機狙い弾を放った相手には鈍器を振り回して抗議することも忘れてはいけない。
「伊達に長生きしてないよ」
「そんな剣呑なものだったかな、野球」
「でもセンター返しってだいたいこんな感じでしょ」
「まあな」
「デッドボールなんて言葉もあるくらいだしそれにほら、アウトカウントも一死、二死みたいに言うじゃん」
「それもそうだな」
ツッコミ不在の中、ずずっと二人してお茶を飲む。
「で、なんで野球?」
「いや、穣子様が秋になったんだし健康のためにスポーツの一つでもやったらどうだとおっしゃられてな。それで里の者集めて草野球でもしようかということになったんだ」
「ふーん。これも神のお告げの一種なのかねえ。なんかこれで私たちの信仰もガッポガポだぜイエー、みたいな思惑が見え隠れするけど」
「こら妹紅、神様のことをそんな風に言っちゃダメだ。失礼だぞ」
お小言を漏らしながら、ずずっと慧音がお茶を飲む。確かにあの姉妹神にとって秋は一番の書入れ時、信仰獲得のための営業努力は止むなしだ。でもいくらスポーツの秋とはいえ、草野球をすることが果たして彼女たちの信仰につながるかは疑問の残るところである。まあ私みたいなもんが考えることでもないか。
「それに里の住人間の親睦を深めるためにも、たまにはこういう催しも悪くない。レクリエーションというやつだ」
「レクリエーションねえ。まあうん、事情はわかった。で、そのレクリエーションに何で私?」
「人数が足りないんだ」
切実だった。開催の危機だった。
「うん、そりゃ大変だ」
「だろ? かくいう私もあいにくと別用があって参加できない。だから妹紅」
「断る、と言ったら?」
「ん? 断る気だったのか?」
断られない気だったのか。
多分慧音的にはこの草野球を通して、もっと私に人里と馴染んでもらおうみたいな魂胆があるのだろう。ありがたい心遣いにして大きなお世話だ。
「いいじゃないか。永遠亭のお姫様と殺し合うよりはよっぽど健全だ」
「む」
「それに、どうせ暇なんだろう?」
ん? とだめ押しするようにジト目で見つめてくる慧音。失礼な。どうも慧音は、私が常時暇を持て余してブラブラしていると思いこんでいるフシがある。まったく、私にだって予定の一つや二つくらい──
「まあ、無かったわけだけどね」
ロージンをもてあそびながら、己が人生の無軌道ぶりを省みて首を振る。
迎えた草野球当日。空は青く澄み渡り、ささやかにちぎれ雲が流れている。暖かい日差しが降り注ぎ、そよ風が肌をくすぐる快い秋晴れ。私への嫌がらせかと思うくらいに、絶好の草野球日和である。
「へいへーい! ピッチャービビってるー!」
私がなかなか投げないことに痺れを切らしたのか、打席に立つガキンチョが野次を飛ばす。こいつは慧音の寺子屋に通う子どものなかでも一際ヤンチャで生意気なクソガキだ。
「もこーう! 早くしろよー! 日が暮れちまうぞー!」
「ああうるさい。今投げるってーの」
まあ元気があってよろしい。私はこんな子どもの言うことにいちいち腹を立てたりしない。こちとら千年単位の大先輩なのだ。
「胸が邪魔で投げられないとか言うなよー! 妹紅ペッタンコじゃんかー!」
開幕を告げる注目の第一球。ピッチャー振りかぶってー、投げた、ってか。
「ひぃっ!?」
ん、ちょっと外れたか。まあ久しぶりだしこんなものだろう。私が足下を馴らしていると、本日審判を務める呉服屋の若旦那が私の方に駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
「いやいや、妹紅さん。初っ端から頭狙うのはどうかと思うんだ」
「手が滑ったんだよ」
「困るよ……。一球目から危険球退場告げるだなんて、僕もできればしたくないんですよ」
「手が滑ったんだって。それに軟球使ってるから頭にぶつけたって大したことないよ、多分」
「妹紅さん、その言い方だとわざとだってほぼ認めちゃってるようなもんだ。とにかく気をつけてくれよ。何かあったらみんな慧音様に怒られるんだから」
それは私としても困るのでとりあえず頷いておいた。あいつの説教は長い。
「頼むよホント……。それにほら、その……子どもの言うことですし」
「はて、何のことかしら」
おもいっきり睨みつけてやると、呉服屋はかわいそうなくらいすくみあがってしまった。さすがに少し気の毒になってきたので、わかったわかったと手を振って呉服屋を追い返す。あいつ、あの若さですでに苦労人の片鱗を見せてるな。
「バッ、バッカやろーっ! 危ねーじゃねーか!」
「手が滑ったって言ってるでしょ。男なら細かいことは言いっこなしだ」
大声で喚く悪ガキに、至極冷静な対応を見せる私。大人の貫禄ってやつだ。そう、私は大人なのだ。呉服屋はまるで私がガキの言うこと真に受けてビーンボールを放ったみたいに言うが、そんなことあるわけがない。
「まったくいい年こいてガキなんだから。ふわぁ……」
私の右斜め後方、いわゆるショートのポジションからあくび混じりの暢気な声が聞こえてくる。とりあえずお前には言われたくない。
「プレイ!」
紆余曲折あった末の試合再開。先が思いやられる。誰のせいだって? 全てはことの発端になった秋の神が悪い。
「それっ」
今度はちゃんと投げる。いや、さっきのもちゃんと投げたけど。
スパーンと小気味よい音が響いて、ミットに球が収まる。
「ストライーク!」
私の投げたまっすぐの球速はだいたい百キロに届くかというところだろうか。今日集まったメンバーの中に特別野球が出来るという者はいないが、この球速であれば大人なら特に苦にはしないだろうし、子どもでも頑張れば当てることは可能だろう。本当ならあまりの球速にボールが摩擦熱によって燃え上がる火の玉ストレートを披露してもいいんだけど、それを慧音に話したらすごい目つきで睨まれた。冗談の通じないやつめ。
「ストライーク! バッターアウッ!」
悔しそうにベンチに戻るガキンチョの背中を見送りながら、私はため息を一つ。
「なーにやってんだろ、私」
断ろうと思えばいくらでも出来たはず。他にやることもないから別にいいかと安請け合いしたのは他でもない私だ。
「プレイ!」
次の打者がバッターボックスに入る。しょうがない。引き受けたからには責任もってやり遂げるのが大人ってもんだ。
それに慧音の言うとおり、たまには血が流れない運動も、悪かない。
まったく、今日も良い天気である。
最後の打者も打ち取り、危なげなく三人で初回を終える。まあ相手もまだ体が温まってないだろうし、これからだろう。
一日限りのチームメイトが口々にナイスピッチングとねぎらいの言葉を掛けてくる。私もそれに適当に応えた。どさくさに紛れて尻を触ってきた輩には可能な限り丁寧な応対をしてやったが。
「ああ、これが話に聞く「乱闘」ね」
不届き者へ制裁を加える私を見ながら、底知れぬというより混沌としている野球知識を得意げに見せつける。
本日のゲスト、「楽園の素敵な巫女」にして我がチームの四番ショート、博麗霊夢さんだった。
「まあ普通チームメイト同士でやるようなもんじゃないけどね」
「なんでもいいからその辺にしてやんなさい。ただでさえ人手不足なのに怪我人でも出たら事だわ」
私もそろそろ面倒になってきたので、言うとおり手を放してやる。ホッとしているというよりどこか悦に入ったような表情を浮かべている気がするが、その辺は私の永い人生には一切関わりの無い事柄である。
「で、あんた何やってんの」
「見ての通り、夢の舞台・甲子園のマウンドにエースとして立ってる」
「ふーん」
「ツッコめよ」
「あんたエースじゃなくてピッチャーでしょ」
「そこじゃねえよ」
どうやら巫女様の野球知識はかなり怪しいものらしい。
「つまらん戯言はともかく、慧音に泣きながら懇願されたのよ。人数が足りないって」
私が虚実織り交ぜて説明すると、霊夢はあら、と言いながら、
「私も慧音に頼まれたのよ。「この草野球はある種の神事でもあるから巫女であるお前にはぜひ参加してほしい」って」
「ほう」
「そもそも草野球が神事ってなんのこっちゃ」
「今更だな」
一応主催は秋の神だから間違ってはいないのかもしれない。
というかもしかして慧音のやつ、暇そうな者にはこんな感じで色々理由付けて片っ端から声かけたんじゃあるまいな。
「ははぁ、つまりお前も暇人だったんだな」
自分のことは棚に上げて指さして笑ってやると、霊夢は心外そうに言った。
「は? 私は仕事よ」
「あん? 草野球がか?」
「言ったでしょ、『神事』だって。報酬もちゃんと用意されてるわよ」
「ナニ」
おいおいあの女教師、私にはそんな話一言もなかったじゃないか。いくら私が報酬をせびるような心の卑しい人間ではないとはいえ、この扱いの違いには憤慨を禁じ得ない。
「むむむ、報酬って何よ」
いや、全然羨ましくはないけど一応ね。
「ふふん、聞いて驚きなさい」
「くっ、そのムカつく顔、そんなに良いものが出るのか」
霊夢は人生の勝利者のように胸を張りながら高らかに告げた。
「高級茶葉と菓子折りの豪華セットよ。すごいでしょ」
「案外安いなお前」
草野球の報酬としてはむしろ破格なのかもしれないけども。こうもあっさりモノに釣られる巫女に、幻想郷の住人として一抹の不安を抱いてしまう。
「まあそれだけじゃないんだけどね」
「うん? 何か人里に用でも?」
私が尋ねると、霊夢はなんとも形容しがたい微妙な表情を浮かべる。私の質問に何か不都合な点でもあったのだろうか。
「まあね、色々とあるのよ。色々と」
「はあ。色々、ねえ」
そりゃああるんだろう。この巫女も別に天涯孤独というわけでもあるまいし、人里と何かしら縁があってもおかしくはない。
そこん所を詮索する理由もないし、代わりに私はずっと気になっていたことを問うた。
「でもお前、野球のルールとかわかるの?」
今更な話第二弾。私的には常識レベルだが、いかんせん色々と規格外な所がある巫女様である。
「当ったり前じゃないの、博麗の巫女を舐めんじゃないわよ。ま、実際にやったことはないけど」
「なぜそこで自慢げなんだ。じゃあ念のため聞いとくが、野球ってどんなスポーツよ」
「だから、高速で放たれた白色の自機外し弾を手にした鈍器で」
「わかった、もういい」
何が怖いってこれがボケでもなんでもなく、真顔でこんなことをぬかしているところだ。誰に野球のルールを教わったのかを聞いてみたところ、霊夢は例の胡散臭いスキマ妖怪の名を挙げた。もう色々とお察しだ。
「『日本で最初にフォークボールを投げたのはスギシタかもしれないけど、世界で最初に消える魔球を投げたのは私だ』って自慢してきたんだけど、これってすごいことなの?」
「ああ、すごいな」
よくもまあここまで適当なホラを堂々と吹けるもんだと本気で感心する。あと最初にフォークボールを投げたのはスギシタではなくイワタ……違うか。
「バッターアウッ!」
私たちがバカ話に花を咲かせている間にも、試合はつつがなく進行していく。先頭打者、二番が続けて打ち取られ、打順は三番に回る。
『三番・ピッチャー、藤原』
たまに妖怪寺の門前で掃除しているのを見かける山彦の声が響き渡る。ウグイス嬢付きとは妙な所で豪華な草野球もあったもんだ。
「次、あんたじゃない」
「へいへい。わかってるわよ」
鈍器、もといバットを片手にバッターボックスへと入る。お願いしますという相手ピッチャーの声に、こちらも黙礼で返す。
そして第一球目。
「ストラーイク!」
「……」
続く二球目。
「ストラーイク!」
「……」
そして三球目、
「タイム」
が投げられるところで間を取る。
危ない。つい流れに身をまかせて凡退するところだった。
「おいミスタージャッジ」
「その呼び方も含めてどうしたんだ妹紅さん」
「いや、向こうのピッチャー。あれいいのかよ」
「あれ?」
なんでそっちがキョトンとした顔するんだ。私がおかしいみたいじゃないか。
「ツーストライクとられたのはいい。それまでツッコまなかった私が悪いからな」
「はあ」
「しかしだ。向こうのピッチャー、明らかに二人で投げてる気がするんだが」
目を向けた先には、尼風の妖怪と、頑固親父然とした雲のような妖怪のコンビ(マウンドに立つ者を指してコンビと称する時点で色々とおかしい)。確かあれも妖怪寺の住民だったはずだ。
「投げてるのは雲山さん一人じゃないか」
「それで済ましていいほど野球のルールは大らかじゃないはずよ。たとえ草野球であったとしてもだ」
「しかし妹紅さん。あのお二人が一心同体なのは、人里の者なら誰でも知ってることだし……それに」
私の抗議にしどろもどろになる呉服屋。それを見かねたのか、尼もこちらへ寄ってきた。
「すみません。私の方が野球に明るくないので、相棒に手伝ってもらってるんです」
「我々命蓮寺が参加するにあたって、事前に慧音さんには許可をいただきました」
「あ、そうなの?」
「説明が足りませんでしたね、ごめんなさい」
キャッチャーを務めていた妖怪寺の主も一緒になって、頭を下げる。私の抗議は決して的外れというわけではないと思うが、こうも下手に出られると逆に恐縮してしまう。と、そこで私に向かってヤジが飛ぶ。なぜか味方のベンチから。
「はん、そんな細かいこと気にするなんて小さい小さい」
「えー。細かいかなあ」
「私なんか、この前二人がかりで弾幕張ってくる奴らとやり合ったわよ」
「マジか」
スペルカードルールってそんな何でもありな感じだったっけ。それとも私は弾幕シーンの最先端に乗り遅れているのだろうか。だがよくよく考えたらあの巫女様も初対面のときは二人がかりで襲ってきた口だった。あそこまで地獄を見た夜は私の永い人生でもそうあったもんじゃない。あれに比べたら、私が拘泥していることなんて確かに小さなことかもしれない。私は妖怪寺の二人に言った。
「まあ、そういうことなら」
「よかった。ありがとうございます」
「や、礼を言われることでは。ところでそちらの方は野球には詳しいんで?」
変な空気になりかけたので、話題を変えてみる。野球好きに悪い奴はいないのである。尼が雲の親父の言葉を代弁した。
「『詳しいというほどでもないが、好きであることには間違いない』と申しております」
「ほう」
「『ジッテンイチキュウは今でも忘れられない』と。私には何のことかわかりかねますが」
何で知ってるんだよとは言わない。それはそっくりそのまま私自身へのツッコミにもなるからだ。物語の根幹を揺るがすようなことはしないのが吉である。とにかくこの親父とはいい酒が飲めそうだ。
「プレイ!」
中断していた試合が再開する。そして三球目。
「っと」
「ボール!」
放たれた球はわずかにストライクゾーンを外れた。思わず息を漏らす。
私が一球目、二球目と立て続けにストライクを取られたのは、二人でマウンドに立つという相手投手の珍妙さもさることながら、投げられる球の威力自体も尋常ではないのだ。
雲のような体の一部を変形させた長い右腕から放たれる、渾身のクロスファイヤー。右打者である私にとって、視界の外からホームベースを抉るように入ってくる直球はかなり手強い存在となる。球速の方も150キロくらい出てるんじゃないかこれ。
「惜しいですよ、雲山」
そんな球を平然と受け止める妖怪寺の主もすげえ。投手に球を返す彼女に、思わず言った。
「あんたも野球とか出来る口だったのね。意外だ」
「いいえ? ルールくらいは知ってますが、実際にやるのは今日が初めてです」
すげえ。寺すげえ。
「まったく、草野球で投げる球じゃないだろうに。審判泣かせもいいところだ」
私はピッチャーに苦笑交じりに言った。尼の方もクスリと笑いながら返す。
「貴方には遠慮は無用と、慧音さんに言われてますので」
「あいつめ」
上等。そんなに期待されているとあっては、こちらもそれに応えないわけにはいかない。慧音にウマいこと乗せられているのは癪だけど、たまには汗を流すほどスポーツに取り組むのも悪かないだろう。
「さて、と」
バットを構え直し、投手を見据える。
感覚を研ぎ澄ませ。永遠の箱入り姫を前にしたときのように。
いくら物凄い球でも、三球も見ていれば目も慣れる。じゃなかったら弾幕ごっこなんてやってられない。
次は――捉える!
そして勝負の四球目。サイドスローのフォームから火を噴くようなストレートが、
「――うぇ!?」
こない。
これまでのものよりも明らかに速度の落ちるスローボールに、完全にタイミングが狂う。バランスを崩して引っかける形となり、あえなくサードゴロに打ち取られてしまった。
「うー、くっそー」
悪態を吐きながらベンチに戻ろうとする私に、妖怪寺の主が悪戯っぽく私に笑いかけた。
「うふふ、狙い通りです」
してやったりというVサインに、私は肩をすくめながら苦笑するしかなかった。まさにお釈迦様の掌の上、ってか。
さて、再び私たちの守備である。相手の方も慣れてきたのか、徐々にいい当たりが飛び出すようになってきた。打線が湿りっぱなしというのも味気ない話だし、良い傾向ではある。個人的には息詰まる投手戦も乙ではあるが、こういうレクリエーション要素の強い草野球はパカパカ打って打たれる方が、なんというか「らしい」と思うのだ。
「バック頼むぞー」
両チームとも活気が湧いてきた中、ワンナウト2塁で打者を迎える。長打が出れば一点という場面だ。そろそろ試合が動くと面白いなーと、私が他人事のように考えながら投じた初球。きっちり低めにいった球を、打ち気にはやっていたのかバッターが手を出した。
「ショート!」
ボテボテのゴロだが、勢いが死んでいるためその分逆に処理が難しく、打者との競争を強いられる打球だ。うちのショート、すなわち野球ド素人の巫女様が打者を刺すのは絶望的かと思われたが……。
「ふっ!」
私の掛け声を聞くまでもなく素早く打球に追いつき、軽やかなフィールディングから可能な限りタイムラグを失くした、一塁手への正確な送球。ヘッドスライディングを試みた打者が一塁に到達するのと、流れるような動作で投じられたボールがファーストミットに収まるのは、ほぼ同時に思われた。際どいタイミング。塁審の判定は――。
「アウトッ!」
審判のコールに、会場全体が沸く。刺された打者は悔しそうにベースを叩いた。
一方、ファインプレーを見せた巫女様はそんな周囲の盛り上がりなどどこ吹く風といったご様子だ。
「ふー、危ない危ない。……ん? 何よ、変な顔して」
「……」
なんだコイツ。めちゃくちゃうめえ。
ショートは数あるポジションの中でも特に難しく、とても野球の素人に務まるものではないというのがさっきまで私が持っていた常識だったのだが。無意味とは知りつつも、私は妖怪寺の主にした質問を、霊夢にもぶつけてみる。
「さっきの動き。お前、野球やったことないってあれウソだろ」
「はあ……? 何で私がそんなウソつかないといけないのよ」
予想通りの返答だが、到底納得の出来るものではない。主人公補正だけであんな動きをされては、日々練習を積み重ねる全国の野球少年の立つ瀬がないというものである。
「いやいやいや。お前、割と凄いプレイしたんだけど、自覚ある?」
「?」
「なるほどわかってないんだな」
「だって、あんなの球捕って投げるだけじゃない」
お前は世界中全てのベースボールプレイヤーに謝れ。
「つーあうとー」
霊夢が指でキツネの形を作りながらチームメイトに言う。しきりに繰り返すあたり、よほどやりたかったと見える。意外と形から入るタイプなのかもしれない。
さきほどのプレイが進塁打の形となり、走者は三塁まで進んでいる。次のバッターは、これまた妖怪寺の住民。確か毘沙門天の代理をやっている妖怪だ。容姿が全体的に猛虎軍団を彷彿とさせるが、それはさておき。
「……ふうん」
こちらが初めて向かえる、人外の打者である。妖怪寺の面々は人里の住民を優先するという意図か、皆下位打線に入っているが(ちなみに実際に試合に参加しているのは尼と雲の親父のコンビ、主、そして阪神の三人で、他の住人は大会運営に関わる諸事に勤しんでいる。ご苦労なことだ)、事実上ここからがクリーンナップと言ってもいいだろう。その手強さは推して知るべし、だ。
「――」
サインを出す。内容は『やるがやれるか?』。キャッチャーの返答は『応』。さすが幻想郷に生きる人間、実にたくましい。これで私も、思いっきり投げられる。
「ま、遠慮はいらないって先に言ったのはそっちだかんね」
改めてロージンを手に取り、マウンドも馴らす。腕もグルグル回しちゃう。私の張り切りように、阪神は苦笑しながら「お手柔らかに」と言ってきた。私は「善処するよ」と返した。要するにする気はまったく無い。
そして改めてキャッチャーにサインを出す。一球目、まずは挨拶代わりの真っ直ぐ。二死三塁ならランナーを気にする必要もない。
「――くらえっ」
大きく振りかぶり、上半身と下半身の動きを連動させ、全体重を乗せた球を放つ。
「くっ!?」
ズバンと、耳に心地よい音がキャッチャーミットから響く。ううん、たまらん。
「ス、ストライーック!」
やや遅れてコールがなされるとともに、会場からどよめきの声があがる。
『す、すげえ……。雲山さんと同じくらい球速出てないか……?』
『ああ、さすがは妹紅さんだ……』
『なるほど投球動作を妨げる胸が無いからこそ、あそこまで豪快な投球が可能なんだな』
『胸はどうでもいい。重要なのは尻だ』
私が妖怪に片足突っ込んでることは里の皆も知ってはいるだろうが、やはり私のような小娘があれほどの球を投げることに驚きを隠せないようだ。懲りない連中はあとで燃やすとして、とにかく会場の度肝を抜いてやれたようで、悪い気分ではない。
「ふふん、どーよ」
私は打席に立つ阪神に、笑みを向ける。呆気に取られていた彼女も私の挑戦的な態度を見て、ふっと笑いながらどっしりと構え直す。その表情はどこか嬉しそうですらある。それを見て確信する。こいつ、かなりデキるバッターだ。いいだろう。こっちも投げ甲斐があるってもんだ。
「もういっちょっ!」
続く二球目も、真っ直ぐ。低めのコースを狙った球に阪神はピクリと反応するが、バットは出てこない。
「ストラーック!」
さすがにきっちり見極めてくる。今のコースは手を出してもゴロにしかならない。
さて、これで追い込んだものの、阪神が慌てる様子はまったくない。まあ確かにこちらも慌ててストライクを取りにいく必要はない。遊び球があると見るのも妥当だろう。ならば逆に。
「――」
ここで決め球のサイン。いける? との問いかけに、キャッチャーは頷きで返してきた。その表情から、いざというときは体で止めてやるという気迫が感じ取れる。
誤解の無いよう断っておくが、キャッチャーを務める豆腐屋始め、試合に参加する人里の住民は野球経験ゼロというわけではもちろんないし、私もまったくの初心者に球を受けさせるほど鬼でもない(というかそんなことさせたら間違いなく慧音の頭突きが炸裂するだろう)。初めての野球であれほどのプレーを見せる妖怪寺の主や巫女様などはただの例外にすぎないのだ。
「さて、と」
サインも決まったところで、打者に向き合う。相変わらず真剣な面持ちで構え続ける阪神。背の高さも相まって、迫力満点だ。まあ、それで萎縮するような輩は弾幕少女の中にはいないだろうけどね。
「これは、どうだ!」
三球目。先ほどまでと変わらないモーションで、球を放る。
<ど真ん中>に目がけて。
「む!」
阪神が反応した。すっぽ抜けと、絶好球と判断しろ。そうすれば私の勝ちだ。
――落ちろ!
私が投げた『フォークボール』は、狙い通り打者の手元でストンと落下する。私は快哉を叫ぼうとしたが。
「――え」
と思うと同時に、快音が鳴り響く。思わず振り返った頃には、打球は遥か後方へと消えていた。外野の誰もが打球を追うことなく、ただその行方を見守るしかない。
「……ありゃー」
スタンドのような、正確な目安があるわけではない。
だが誰が見ても文句のつけようがない、見事なホームランだった。
阪神が凱旋するようにホームベースを踏む。チームメイトから手荒な祝福で迎えられた阪神は、苦笑しながらも嬉しそうな表情を浮かべていた。そしてネズミの妖怪にハイタッチを求めながら無邪気にはしゃぐその姿からは、たった今見事なバッティングを見せた打者とはとても思えない。
「はっはー。綺麗に打たれたわね」
マウンドに集まった内野手が私に慰めの言葉を掛ける中、豪快なホームランを見て興奮した様子の霊夢が、私の背中をバンバン叩きながら言う。文字通り、敗者に鞭打つ行為であるが、
「いやはや。あれに対応されちゃあねえ」
決め球が打たれたショックよりも、ただただ相手への賞賛しか出てこない。
変化球と判断した瞬間下半身の踏ん張りを効かせながら、ワンテンポ遅らせて変化の軌道に合わせてバットを出す。言うが易しだが、もちろん誰にでも出来ることではない。恐るべき選球眼と技術である。
「うん? あんまりこたえてないわね、あんた。負けたってのに」
「まああれだ。この年になると、思いっきり負けるっていう経験もなかなかできないからね」
「いや、良いことっぽいセリフ言おうとしても、あんたが負けた事実は変わらないわよ?」
容赦のない巫女様だった。
気を取り直して。
ホームランのショックを引きずることなく、次の打者できっちりこの回を締めた。どうやらあの尼さん自体は彼女自身の言葉通り、野球を得意としているようではないみたいだった。
「はー。何かどっと疲れたわねえ」
「お前はゴロ一つ処理しただけだろ」
ベンチに戻って早速だれているぐうたら巫女。多分この草野球が仕事だってことをもう忘れてるんじゃないかと思う。
「霊夢ちゃん、お饅頭あるけど食べるかい?」
「ん、ありがと」
「ほら、飴もあるよ」
「麩菓子もお食べ」
「ちょっとちょっと、そんなには食べられないわよ」
おばあさんの集団が、しきりに霊夢を甘やかしにくる。苦笑いしているが、霊夢の方もまんざらではなさそうだ。
『しかし霊夢ちゃんもおっきくなったもんだ』
『ああ、こりゃあ親に似てベッピンさんになるにちげえねえ』
『慧音様にはちゃんと挨拶するのよ?』
『霊夢ちゃん、忙しいだろうけどたまには帰ってきてあげてね』
巫女様、大人気である。やはり幻想郷の守護者たる博麗の巫女ともなると、待遇も違ってくるものなんだろうか。にしてはその扱い方は、重要人物を敬うというより、どちらかというと娘や孫を可愛がっているような、どこか親しみを感じさせるものだった。私が霊夢の隣でその微笑ましい光景を見ていると、
『四番・ショート、博麗』
「ほれ、呼ばれてるわよ。さっさと行く」
「うっさいわね。わかってるわよ。みんな、ちょっとゴメン」
群がっていた人たちに一言言ってバットを持つと、思いの外軽い足取りで打席に向かった。打つほうはこれが初めてだから、一応楽しみではあるんだろうか。
「えーっと、ここに立てばいいのよね」
霊夢は左打席に入った。あいつサウスポーだったのか? いや、あいつのことだしウチのベンチが一塁側だから近い方に入ったとかそんな理由だろう。よく見たらグリップの握りも逆だ。ツッコミどころ満載だが、そんなもん知ったこっちゃないとばかりに、意気揚々とした霊夢の声が響く。
「へいへーい! バッチこーい!」
バッチはお前だ。あいつ本当に雰囲気だけで野球やってるな。
ピッチャーも霊夢が(少なくとも打つ方では)素人であると判断したのか、人里の住民用の、打ち頃なスピードのボールを投じてきた。
「うりゃ」
初球から、無造作に打ちにいった霊夢。セカンド方向に打球が転がる。あんな握り方で当てただけでも大したもんだが、それでヒット性の当たりが出るなら苦労はしない。特に難しい打球でもなく、セカンドが落ち着いて処理をしようとする。が、
「うおっ!?」
グラブに収まろうというところで、ボールが突然あらぬ方向へ大きく跳ねた。まさかのイレギュラーバウンドだ。カバーに入ったショートが慌てて送球しようとするが、その頃にはもう霊夢は一塁を駆け抜けていた。
「ふふん、さすがは私ね」
一塁ベース上でふんぞり返る霊夢。あんな平凡なゴロで生きるなんて、もう技術とかそういうレベルを超えている。こいつなら野球の神様を味方につけて、甲子園の魔物すら退治してしまえるような気さえする。
「甲子園の醍醐味を奪うんじゃねえ」
「えっ、打ったのに何で私怒られてんの」
言ってもわからないと思うので無視する。
さて、続く五番。持ち前の腕っぷしと技術で里の大工を束ねる棟梁のお出ましである。この親父のほうがよっぽど四番にふさわしいと思うのだが、「霊夢ちゃん差し置いて四番なんてとんでもねえや!」と、あっさりその座を譲ってしまった。ようわからん。
「どおりゃー!」
威勢のいい掛け声とともにフルスイング。しかしボールの下を叩いてしまったらしく、左の方向へたかーくフライが上がる。
「………………」
この瞬間、嫌な予感が頭をよぎったことを、私は否定するものではない。
言うまでもないことかもしれないが、野手がフライを捕球した場合、走者には帰塁義務が生じる。大雑把に言ってしまえば、野手がボールを取るまで走者は次の塁に進んではいけませんよ、というルールだ。少しでも野球に触れたことがある者なら誰でも知っている基本中の基本である。
「よっしゃー!」
しかし博麗の巫女様は俗世の常識など軽々と踏み越えていく。
案の定というかいっそもう期待通りに、霊夢は唖然とするプレイヤーたちを尻目に、ダイヤモンドを颯爽と駆けていった。無駄に俊足なのがまた哀愁を誘う。
「ほい、これで一点よね……ん? みんなどうしたの? もっと派手に出迎えてもいいのよ?」
こんなベタなボケの顛末をいちいち描写するのは面倒で、何よりもアホらしいので以下省略。
さんざんごねたあげく、しまいには「私がルールブックよ!」などと言い出した巫女様の頭に、私と雲の親父のげんこつが炸裂したことだけ特記しておくことにする。名言を迷言にしてしまった罪は、重い。
「まったく、何で私が……」
猛抗議も実らず(当たり前だ)、あえなくアウトになってベンチに戻った霊夢がまだ文句を垂れる。まだお仕置きが足りないと見える。もう一発頭をはたいてやろうと思ったところへ、
「ほら、いつまでもそんな顔しないの」
妙齢のご婦人が朗らかに笑いかけながら霊夢に声をかける。
「……むう」
……おお。あのじゃじゃ馬が急にしおらしくなった。私と雲の親父の鉄拳制裁にもまるで懲りてなかったのに。何者だこの人。
「はい、妹紅さん。冷たいお茶です」
「や、これはどうも」
ご婦人が手に持ったお盆からお茶を差し出してきた。ありがたく頂戴する。
「霊夢にはこっちね」
「ん」
霊夢がご婦人から湯飲みを受け取る。なぜか湯飲みからは湯気が立っていた。運動の真っ最中に「あたたか~い」とはまた酔狂な。
「お疲れ様。妹紅さん、霊夢をよろしくお願いしますね」
「ちょっと、変なこと言わなくていいってば」
「そうはいかないわよ。お世話になってるんでしょ?」
「なってない!」
二人のどこか微笑ましさを感じる遣り取りに、私が口を挟む余地は無かった。少しばかり居心地の悪さを覚えた私は、とりあえず頭を下げて挨拶に代える。ご婦人も頭を下げ返し、またお盆を手にお茶を配る作業に戻った。
「ふうん」
よく冷えたお茶が乾いた体を潤すのを感じながら、あの婦人を眺める。人里で見たことのある顔だった。私が無理やり引っ張りだされた里の催事の打ち合わせなどにも顔を出していたと思う。まだ若く見えるが、落ち着いた物腰から察するに、見た目以上に年齢を重ねているのかもしれない。纏う空気も、どこか浮世離れした独特のものがあった。
「なあ霊夢。今の人、お前の知り合いか何かか?」
「ん? ああ」
縁側からベンチへ舞台が移っても、変わらず熱いお茶を啜るブレの無い巫女様が、事もなげに答えた。
「あれ、うちの親」
ああ、親か。顔は似てないけど、言われてみれば雰囲気は通じるところがあるかもなー。
「って、親ァ!?」
「何よ、うっさいわね」
私が心底驚くのにも構わず、お茶を嗜む霊夢は幸せそうにほう、と息をつく。
「別にそんな驚くようなことじゃないでしょ。大げさねえ」
確かにその通りだ。その通りなのだが、この巫女に親がいるという事実が、ひどく不思議なことに思えてしまうのは私だけだろうか。
「てことはお前、ここの出だったのか」
「住んでたのはちょっとの間だけだけどね」
「色々用がってのも、里帰りのことだったんだな」
「そういうこと」
なるほど。そうすると人里の住民の、熱烈な霊夢への甘やかしっぷりも納得だ。博麗の巫女ともなるとそう頻繁に帰省できるものではないだろうし、だからこそこういう機会には存分に愛でておこうということだろう。
「愛されてるなあ、お前。いやそれにしても、親、か。はー、お前も人の子だったんだな」
「はあ? 何よそれ」
この何物からも浮いているように思える巫女も、幼いころは同じ年頃のガキンチョたちと普通に遊んで、母ちゃんと普通に飯食って、人里で普通に暮らしてた時代があったのかと思うと、なぜか感慨深いものがある。
「あ、もしかして、慧音の世話にもなったりしてんの?」
「……忘れたわよ。ええい、人のことを根掘り葉掘り聞いてんじゃないわよ。うっとうしい」
うんざりした様子でしっしっと手を振る霊夢。なるほど、やはり色々面白い昔話をお持ちのようだった。まあ無理に聞き出そうとするのは悪趣味ではあるし、何より人の人生に踏み込むのは性分ではない。
「わかったわかった。でも親か。うん、まあなんだ。親は大切にしろよな。『親孝行したいときに親はなし』ってあれマジだからな」
「今度は説教? はん、これだから年寄りは」
後ろを振り返っても影すら見えないような、そんな遠い道の上に確かに存在した者の姿を想って言う。もちろん霊夢は取り合わない。こういう箴言は然るべき者が言ってこそだ。私は先生なんかには向いてないのだ。
「言われるまでもないわよ。そんなこと」
思わず、霊夢の方へ振り向く。相変わらずマイペースにお茶を飲んでいた。その暢気な姿を見て、笑みがこぼれる。
「そうか」
ならいいんだけどね。
試合は進み、中盤の守備。
一人目の打者を低めで攻めて、セオリー通りゴロを打たせたが、
「あっ」
セカンドが処理を誤ってボールを弾いてしまった。霊夢が素早くカバーに入るが(守備のときだけは本当に的確な動きをする巫女様である)、間に合わない。
「ご、ごめんなさい妹紅さん。せっかく打ち取ったのに……」
二塁手が申し訳なさそうに頭を下げる。青年というにはまだあどけなさの残る、丁稚奉公の小僧だ。ただでさえ気の弱そうな顔が、心なしか青くなっている。エラー一つでここまで落ち込むとは。慧音のやつが心配するわけだ。
「気にするな。たかが草野球、気楽にやればいいのよ」
「でも……」
「ほれ。シャキッとしろ。次、ダブってこう」
小僧の尻を思いっきり叩いてやった。「いってー!」と、小僧が彼にしては珍しい大声を出す。出させたのは他でもない私だが。
「気合、入った?」
「は、入りました」
「ん、いけるな」
「はいっ」
グラブでポンと小僧の胸を打つと、小僧はそれを合図とするように自分のポジションへ駆けていった。
「よーし、しまってくぞー」
私の呼びかけに、『応!』と力強い声が返ってくる。その中には小僧の声も含まれていた。「うぇーい」と気の抜けた声もショート方向から聞こえた。返事するだけマシだと前向きに捉えることにする。
そして二人目の打者。低めのボール球に手を出し、先ほどの光景の焼き直しが出来上がる。
「セカン!」
霊夢のようにとはいかないが、今度は小僧も落ち着いてボールを抑え、ショートに送る。そして二塁を踏んだ霊夢が、捕球と同時と見紛うほどの鮮やかな手際で一塁へ横手投げ。目いっぱい体を伸ばした一塁手のファーストミットにボールが収まる。
「アウトッ!」
見事な四-六-三。この試合両チーム通じて初めてのダブルプレイが成立する(霊夢のボケ除く)。
「よーし! よくやったぜ小僧!」
一塁手を務める棟梁が乱暴に頭を撫でまわして、小僧のプレイを褒め称える。痛そうにしているが、小僧の顔は喜色に溢れていた。その小僧と目が合う。私は親指を立てて賞賛の言葉に代えた。もみくちゃにされながらも、その口は「ありがとう」という形に動いていた。
「はいはいつーあうとつーあうとー」
ここぞとばかりに霊夢が声を掛ける。よほどお気に召したらしい。
そしてチームの士気が上がった最高の状態で、私たちは相手チームの主砲を迎える。
『七番・ライト、寅丸』
その名前がコールされると、会場がワッと沸く。あの豪快なホームランのインパクトがまだプレイヤー、そして全ての観衆に焼き付いているのだろう。
「お願いします」
堂々と打席に入る、妖怪寺から駆け付けた最強の助っ人。思わずゴクリと唾を飲み込む。決して気圧されたわけではないが、どうしても意識はしてしまう。
さてどう攻めたものかと私が思案していると、阪神と目が合った。
『本気で来ても、いいのですよ?』
なぜか、奴の目がそう言っているような気がした。一体何を。私は手を抜いてなど――
『いいえ、貴方の力はそんなものではないはずです。だがこれまでぶつける相手がいなかった。そうではないですか?』
そう、なのか? でも確かに本気で弾幕を交わすことはあっても、こうして投手としてマウンドに立つ機会などそうあったものではない。全力の投球ともなるとなおさらだ。
『それは私も同じです。だからこそ、貴方のような力を持った投手と巡り合えたことを、私は御仏に感謝します』
ボールを握りしめる手に、熱が宿る。
『言い方を変えましょう。どうか本気で来てください。私は貴方と、全力で勝負がしたい!』
私は――
「お、おーい、妹紅さん。どうしたんだい、早く投げてくださいよ」
耳に届いてきた審判の声に、ハッとする。今のアイコンタクトは「この間、わずか0.2秒」的に処理されるものではなかったらしい。そして現実に戻ってくると、先ほどまでの遣り取りが全部私のイタイ妄想じゃなかろうかという危惧が湧いてくる。だとしたら恥ずかしすぎるが、チラリと阪神の方を見ると、その眼光は依然鋭さを保っていた。それで、心が決まった。
「審判」
「あ? ああ、何だい」
「そこにいると危ないからちょっと下がってろ。豆腐屋、あんたもだ」
「は、はあ?」
「そこは射線上だ」
阪神も私に一つ笑みを零しながら、「私からもお願いします」と頭を下げた。よかった、妄想じゃなかったようだ。
「いや、しかしねえ……」
いきなりこんなことを言われたら、審判のやつが戸惑うのも無理はない。だが豆腐屋は私と打席に立つ阪神の顔を見比べながら、何かを察したように審判の肩に手を添えた。
「妹紅さんの言うとおりにするぞ」
「ええ……? でも」
「いいから。邪魔しちゃあいけねえよ」
豆腐屋に連れられて、しぶしぶと呉服屋が退場する。あれはあれで責任感の強い男だから、審判がいなくなった試合の行く末を心配しているのだろう。だが問題ない。第三者がジャッジするまでも無く、結果は空振りかホームランかの二択だ。
私と阪神、エースとスラッガー同士がお互い、笑みを交わす。そして阪神が、ゆったりと、しかし大きく構える。気合が乗りながらもいい感じで力の抜けた、理想的な体勢だった。私も次から次へと滲んでくる手汗をなだめるように、ロージンを手にする。自分でもわかるほどに、心臓が高鳴っていた。こんな緊張感、「ヤツ」との決闘以外ではそうそう味わえるものではない。ああ、生きてるって素晴らしい。
「ふぅぅぅぅ……」
呼吸を整える。そして循環を続ける蓬莱の魂を炉心に見立て、熱く滾る命のエネルギーを全身の隅々にまで張り巡らせるイメージ。みるみるうちに体が熱を帯びてくる。
「おおお……」
人の器に収まりきらなくなり、逃げ場を求めて荒れ狂う力。脳裏に不死の象徴・「火の鳥」を思い描きながら、私は一気にその力を解放した。
「おおおおああああああああああッ!」
雄叫びとともに顕れる、炎の翼。パチパチと火の粉をまき散らしながら、陽炎のようにゆらゆらと翼がはためく。
永遠に燃え盛る、命の篝火。これが正真正銘、私の全力全開だ。
『も、妹紅さんが本気を出したぞ!』
『文字通り燃えてやがる!』
『まあ……。キレイだわ……』
『うおおおおおおおお! あっちいいいいいいいい!』
『なんてこった! 炎が邪魔で尻が見えねえ!』
会場が騒然となる。観衆、そして守備についていたプレイヤーまでもが一斉に避難を始めるが、それでも誰一人として完全に逃げようとはせず、遠巻きにでもこれから起こる出来事を見届けようという腹積もりらしい。さすがは幻想郷の住民といったところか。そしてこんな時にまで我を貫く不届き者には、いっそ尻くらい触らせてやろうかという気になる。もちろんウソだが。
「――っ! 見事!」
燃え盛る翼を背負う私を見て、阪神が息を呑む。だがすぐに喜びの笑みを浮かべ、
「感謝します、不死鳥の化身よ」
目を閉じ、何事かを唱える仕種をする阪神。そしてカッと括目すると同時、バットに目がくらむほどの輝きが宿り、自身も眩い後光を背負った。
『おお! 星様も!』
『うおっ、まぶしっ』
『ありがたや、ありがたや』
『ご主人がカッコいい……だと……?』
観客のボルテージがさらにヒートアップする。応援と歓声がそこかしこから飛び出し、手を合わせる者まで出てきて、いよいよ場の盛り上がりは最高潮に達していた。
「寺すげえ……!」
野球の神様が降臨したかと思わせる神々しさを纏い、黄金に輝くバットを構える阪神。大打者の風格とかそういう次元を超越した存在感に、圧倒されそうになる。だが負けない。私は自分に喝を入れるように、翼を大きく羽ばたかせる。
「――いくぞ」
息を大きく吐き、私は月まで届くほどに大きく振りかぶった。そして右足の踏ん張りを地面にうたれた杭のように効かせ、上半身を限界まで捻りあげる。そして捻りあげた体を勢いよく戻すことによって得られる反発力、全体重、さらに霊力すらボールに乗せ、渾身の力で右腕を振りぬいた。
「ッらぁ!」
トルネード投法から放たれる、私の全てを込めた火の玉ストレート。
そのあまりの球速に、摩擦熱で白球から炎があがる。紅色の軌道を残しながら、一直線に疾るボール。
その球を狙って阪神がバットを出す瞬間が、スローモーションのようにはっきりと見て取れる。須臾の時が永遠に思われるほどに加速した思考の中で、理解する。
――負けた。
力は惜しみなく出した。それを無駄なく伝える体の駆動も完璧。リリースの位置もあそこしかないというポイント。
正真正銘百パーセント、私の実力が発揮されたストレートだった。
そこまでの全力を出しきって、なお負けた。
引っ張り気味のタイミングで出された輝くバットは、猛虎軍団史上最強の助っ人を彷彿とさせる恐るべきスイングスピードを以て、燃え上がる白球を捉えようとしていた。あの腰が回り切った瞬間、白球は空を切り裂いて幻想郷の彼方まで飛んでいく。そんな光景を幻視させる、完璧な打撃だった。
「おおおおおお!」
猛虎魂を乗せた咆哮が会場に雄々しく響き渡る中、ついに炎のボールと光のバットが接触する。私のストレートは負けじとバットに食い込んでいく。が、それすらも反発力として利用するように、バットが大きくしなる。
そしてついに阪神のフルスイングは、私の放ったボールを打ち砕いた。
文字通り、バットごと、木端微塵に。
『………………………………………………………………』
まるで夢から覚めるように、会場の熱気が下がっていく。
私の背負った炎の翼は跡形もなく霧散し、阪神の放つ光も消えていった。
あれほど盛り上がった熱闘の記憶はいずこ、後には冷や汗を流す私とフォロースルーの姿勢のまま固まった阪神が取り残され、そして会場を痛々しさに満ちた空気が容赦なく支配していった。
「…………えーっと」
遅きに失したが、冷静に考えてみよう。蓬莱人である私の全力と、おそらく高位の妖怪である阪神の本気。弾幕決闘でもなかなかお目にかかれないであろう両者の激突を、何の変哲もないただの軟球とバットが耐えられるはずがあるだろうか。むしろそこを指摘する者が誰もいなかったのが不思議である。これだからツッコミ不在というのは怖いのだ。
「おい自称ルールブック」
「ん? 私のこと?」
一人避難もすることなく、会場の熱気から浮くように私と阪神の対決を眺めていた巫女様に呼びかける。
「今のプレイだけど、お前ならどう判定する」
いくら私が野球好きと言っても、ボールが木端微塵に砕けた場合の裁定など知るはずもない。
このどうしようもなくいたたまれない空気を打開できるのは、もはや博麗の巫女たる彼女しかいないのだ。
「んー、そうねえ。この際だからぶっちゃけると、野球のルールはよくわからないんだけど」
会場の者全てが、固唾を呑んで博麗の巫女が下す判断に注目する。そして霊夢は頭を掻きながらいかにも適当そうに言った。
「とりあえず草野球的にアウトじゃない?」
誰もが納得せざるを得ない、文句なしのジャッジだった。
草野球の場であんな場違いな戦いを繰り広げてしまった私と阪神に、呉服屋から厳重注意が為された。
「いや、僕も夢中になっちゃってたからあまり強いことは言えないんだけど……」
「そう思うんなら慧音にだけは黙っててくれ。な?」
「すみませんでした……。うう、私としたことが……」
バツの悪そうな呉服屋と、肩を落とした阪神がフィールドに戻っていくのを見送り、私はベンチに戻った。ちなみに先ほどの相手チームの攻撃はうやむやの内に終了してしまった。この辺の適当さも草野球ならではである。
「まったく、揃いも揃ってノリがいいわよねえ」
霊夢が呆れた顔で、それでいてどこか愉快そうに言った。
私は内心穴があったら隠れたいくらいの心地だったが、それでも虚勢を張る。
「まあ幻想郷の連中は基本バカ騒ぎが好きだからな」
「踊る阿呆に見る阿呆、ってね」
ぐうの音も出ない。
「しかし意外だわ」
いつの間にか湯飲みを手にしていた霊夢は言った。
「ん? 何が」
「いや、あんたも誰かを励ましたりすることあるのね」
「ああ……」
さっきの小僧のことか。あんなことがあった後だから忘れてた。
「せっかくのレクリエーションなんだ。どうせなら嫌な思い出よりも楽しい思い出が残る方がいいじゃないか」
「うーん、まあ、そうなんだけどね」
どこか奥歯に物が挟まっているような霊夢の物言いに、首を傾ける。「何だよ」と問うてみると、
「そもそもあんたって、あんな風に他人を気遣うような奴だっけ」
霊夢は真顔でそんなことを言った。
「おいおい、いきなりひどいこと言うなお前。それじゃあ私が人でなしみたいじゃないの」
そう反論しながらも、内心では思っていた。確かにその通りだな、と。
「そもそもあんたがこんな催し物に参加していること自体が不自然だわ。私みたいに報酬が用意されてるわけでも、他の用事も兼ねたりしているわけでもないのに」
「いや、だから言ったでしょ? 慧音に泣きを入れられたって」
「断ればいいじゃない、そんなの」
「鬼か私は」
巫女様の中の私は相当なロクデナシだったようだ。軽くショックなんだが。
だが過去を振り返れば、そんな鬼のようなことをするであろう私がいるのは、決して消せない事実である。
「あとはそう、勝負ごとにあんなにムキになるのも」
「それは割と昔からな気もするが」
「そう? まあでもとにかく、今日であんたのイメージが少し変わったのは本当よ」
そんなことを言って、お茶を啜る霊夢。どうせなら良い方向に変わってて欲しいものだ。
「そういえば、お前とこうやってゆっくり喋る機会もあんまり無かったか」
「そうだっけ?」
「だからお前の中の私のイメージがおかしなことになってるんだよ。うんそうだ、そうに違いない」
そういう意味では、これも草野球の醍醐味なのかもしれなかった。レクリエーションが思わぬ形で功を奏したものである。
「どうだかねえ」
霊夢は目を細めてこちらを見てくる。私の論に納得いっていないご様子である。
「どっちかってーと、あんたの方が変わったんじゃないの?」
意外なようでその実ちっとも意外でもない、心当たりがありすぎる、霊夢の見透かすようなセリフ。
私は観念するようにため息を吐きながら言った。
「まあそりゃあな。生きてれば、嫌でも人は変わるだろ」
フィールドを見る。ちょうど味方チームの打球がセンターの頭上を越えたところだった。
霊夢もその光景をぼんやりと眺めている。
「不老不死のあんたが言ってもねえ」
「不老不死でも変わるわよ。お前も見ての通りだ」
人としては破格ともいえる永い道のりの中には、いくつもの転換期があった。父の仇を討つと誓ったあの日。蓬莱人に成り果てたあの日。再び宿敵を目にしたあの日。友と呼べる者と出会ったあの日。妙な連中と戦ったあの日。あの日。あの日。あの日。一つ一つ挙げればキリが無い。
「お前だって何もずっと変わってこなかったわけじゃあるまい」
「どうかしらね。あんたほど長生きはしてないし」
「関係ないさ。それこそ短い命だ。毎日のように変化があってもおかしかない」
「はん。いかにも年寄りの妖怪が言いそうなことだわ」
「失礼な。私は概ね人間よ」
ツーアウト二、三塁。一打逆転のチャンスで例の丁稚奉公の小僧が打席に立っていた。その表情は緊張の色を帯びながらも、自分で決めるという気迫がここからも見て取れた。
「まあでも、あんたの言うとおりかもね」
霊夢がポツリと言った。
「なんだ、思い当たる節でも?」
「まあね」
「ふうん」
「あれ、根掘り葉掘り聞かないの?」
「だって当たり前のことだしな」
毎日が変化の連続。時にゆったりと、時に激しく、だけど確実に、私たちは変わっていく。そういう日々の中に、例えばこうしてのんびりと草野球に興じるような日もあるわけで。そしてこんな日常の延長線上にあるイベントの中にすら、変化の兆しは潜んでいたりするのだ。
「ああ、まさかあのストレートを披露することになるとは、夢にも思わなかったわ」
「なんか散々良いことっぽいセリフ言ってるけど、あの茶番がただの悪ノリであることには変わりないわよ?」
つくづく容赦のない巫女様だった。
「おっ」
我慢強く粘っていた小僧が、右中間を破る打球を放った。溜まっていたランナーが帰還し、小僧自身も二塁を狙い、懸命に走る。送球が二塁手に渡り、滑り込んできた小僧をタッチする。判定は、
「アウトッ!」
惜しくも刺されてしまった小僧は悔しそうに立ち上がる。それでもチームメイトから賞賛の声が揚がると、照れたように白い歯を見せた。
「ま、今日は来てよかったよ」
「そうね、来てよかったわ」
その言葉を合図に、私たちはグラブを持って立ち上がる。そしてベンチに返ってきた小僧の尻を、二人で叩いてやった。ちなみに霊夢のほうが年下だったはずだが、気にしたら負けだ。
「さて、同点にしてもらったことだし、きっちり守ろうか」
「任せなさい。そろそろ紫の言ってた「ウノキャッチ」とやらを見せてやるわ」
「やめとけ、素人が真似すると死ぬぞ」
まだまだ試合は続く。
まったく、今日も良い天気である。
その後も試合はなかなか白熱した展開を見せた。霊夢が当然のように華麗なグラブトスを披露したり、棟梁から面目躍如の豪快なホームランが飛び出したりした。
相手のチームも負けてない。阪神がその強肩から放たれたレーザービーム(なぜか軌道が若干へにょっていた)で本塁を狙うランナーを刺し、攻撃の方でもクソガキが普段、主に慧音に対して発揮している逃げ足の速さでかき回してくるなど、多彩な方法でこちらを苦しめてきた。多分あの雲の親父の差し金だろう。
そして、
「バッターアウッ! ゲームセット!」
私たちのチームの最後の打者が倒れ、試合の終了が告げられた。
結果は「六対七」で惜しくも私たちのチームは敗れてしまった。しかしスコア的にはやや大味ではあるものの、草野球にしては見所の多い試合にはなっていたのではないだろうか。あのおバカな勝負はさておくことにする。
ちなみに私は本日一安打一打点。大活躍とまではいかないが、まあこんなものだろう。今日打てなかった人は次回頑張ってもらうことにしよう。……あるのかな、次回。
「礼!」
『したーっ!』
今日という一日を締める大きな声、そして観衆と運営スタッフの拍手が秋の空に吸い込まれいく。そろそろ日も暮れようという時間だった。
両チームがお互いの健闘をたたえ合うのを横目にみながら、大きく伸びをする。体は心地よい疲労感に包まれていた。今夜は良く眠れそうだ。
「さーてと、帰るとするか」
「うん? あんたもう帰っちゃうの?」
「ん、もう用は済んだしな。お前はこれから実家に帰るんだっけか。久しぶりの母ちゃんの手料理だな」
「いや、そうじゃなくて……ああ、あんた聞いてないのね」
「ん?」
私が首を傾けていると、呉服屋と棟梁がこちらに駆け寄ってきた。
「よう、妹紅さんに霊夢ちゃん。今日は二人とも大活躍だったな!」
「ふふん、当然ね」
「私はそうでもないけどね」
「何言ってんだ、あのすげえ火の玉ストレートがあったじゃねえか!」
「忘れてくれ。頼むから」
ガッハッハと豪快に笑う棟梁と得意げに胸を張る霊夢にいささか呆れていると、
「妹紅さん、お疲れ様でした」
「ああ、お前もご苦労だったな」
「はは……まあ無事に終わって良かったよ」
柔和な笑みを浮かべてホッとした様子の呉服屋。今日の審判という大役を果たせて肩の荷が下りたのだろう。確かにあの混沌とした試合をちゃんと仕切った辺り、本日のMVPはこいつなのかもしれない。
私が密かに感心していると、
「妹紅さん、この後のことは聞いてるかい」
「うんにゃ。そういや霊夢もなんか言ってたな」
「ああ、やっぱり連絡行ってなかったか。すみません」
「いや、それは別にいいけど。なにかあるのか」
私が尋ねると、呉服屋は杯を傾けるような仕草をしながら言った。
「これから打ち上げを兼ねた宴会を開くんだ。妹紅さんもぜひ参加していってくださいよ」
「ああなるほど。打ち上げ、ね……みんな出るのか」
「ええ。霊夢ちゃんや命蓮寺の方々もね」
「ふうん」
しばし思案する。これからってことは、今日ここにいない慧音は参加しないのだろう。これまであいつがいない酒の席は辞退してきたのだが。
「うん、わかった。ご一緒させてもらうよ」
「本当かい? ああ良かった。今日も断られたらどうしようかと」
「おいおい、本人目の前にして言うことじゃないでしょ」
私が苦笑して返すと、呉服屋は恐縮した様子で頭を下げ、宴会の準備を始めた集団の中へと駆けて行った。
「やれやれ。やっぱり驚かれちゃったか」
それはそうだろう。私自身、今日だけでなされた心境の変化に驚いているのだから。草野球の魔力、恐るべし。
「でもまあ、草野球の後で酒酌み交わさないってのも、それはそれで嘘だよなあ」
空を仰ぎ見る。白球が飛びかった空には、一番星が見え始めていた。もうじきに、夜の帳が降りることだろう。
「さあて、と」
ポッケに手を突っ込みながら、歩き出す。酒の席はどうやって過ごそうか。
雲の親父とはきっと野球談議に花が咲くだろう。
阪神と一緒にバカやったことを反省しながら、密かに再戦の約束でも取り付けてやろうか。
呉服屋の苦労をねぎらって酌をしてやってもいい。きっとあいつはますます恐縮してしまうだろうが。
小僧に絡むのはちょっとかわいそうかな。今日の活躍からいって、多分他の者にももみくちゃにされるだろうし。
霊夢とベンチでの続きをするのも悪くはない。あるいはあいつの親に挨拶とかしたら、霊夢も照れたりするだろうか。うわ、超見てえ。
どれもこれも魅力的に思えて、思わずククッと笑みがこぼれる。
「変化の予感、盛りだくさんだ」
私の歩む永い道のりの上に、ポツンと存在する今日という一日。
「家に帰るまでが草野球です、ってか」
夜はこれから。ゲームセットには、まだまだ早い。
さあ、延長戦も、張り切っていってみよう。
(了)
最初タイトルとタグを見てあ、これは面白いなと予感しました
そして、その通り楽しく読ませて貰いました
ギャグも良い具合に盛り込まれていて良かったです
後、読んでる間私もこの草野球に参加したいなと強く思いましたw
草野球やりたくなるSSですね。
いやー、実にさわやかな作品でございました
一歩間違えば無味乾燥になりそうなジョーク混じりの会話に文章、霊夢の面白さ、存在感とか
妹紅と霊夢が適度にスレてるのがイメージにピッタリだった
あと妹紅よ、星は寅ってだけで阪神関係ねえし猛虎魂も持って無えと思うぞw
寺すげえのコメントは笑った
高校野球ほど暑苦しい訳でもなく、さりとてお遊びだからと手を抜きすぎるわけでもない。この「草野球」らしい爽やかな感じが良かった。