花が……嫌い。
タンポポもアサガオも、サルビアもバラも、ツバキもサクラも全部嫌い。
赤いのも青いのも黄色いのも白いのも……。
私が生まれた家には大きな庭園があった。
母が花好きだったから庭は半分花畑のようだった。
名のある庭師がいつでも庭を整えていて、生きた花々が文字通り庭を華やかに彩っている。
春は桜にカスミ草。桃色の花が天と地を占領する。夏は向日葵、ダリア。輝く生命力に庭は埋め尽くされる。秋はパンジーそしてシクラメン。紅葉の嵐の中、人の心をさらに沈める。冬は梅とユキノシタ。忌々しい赤色が白い雪の上に映える。
いつでも土の湿った匂いと花の甘ったるい香りが満ち満ちている庭。
母に連れられて、人ではなく植物が支配する庭を歩くたび私は吐き気を催していた。
最大の衝撃は私が4歳の頃、親戚の叔母さんに言われた一言だ。
「ユウカちゃんはほんと、お花みたいに可愛いねぇ」
背筋を貫く戦慄と、全身に立つ鳥肌を感じた。
貪欲な花達は庭を手に入れただけでは飽き足らず、私の外見にまで魔手を伸ばしたのだ。
叔母さんが去ってから私は部屋の姿見を覗き込んだ。
目を見開いて、どんな小さな芽でさえも見逃さないように。
爪先から顔まで。
私の体が花に覆いつくされて、物言わぬ花壇に成り果てるのがたまらなく恐ろしかった。
幸いなことに、幼い体の表面には子葉一枚見つからなかった。
しかし鏡に映らない皮膚の下、骨の表面、内臓の内側はどうだろうか。
目に見えない部分はすでに花畑になってしまっているのではないか。
私の体を養分として大輪のバラが花を咲かせているのではないか。
思考は進行する。
皮膚の下を根が侵食していく不快な感触が沸き起こった。
薄皮一枚下で体が乗っ取られる恐怖。
発狂しそうな恐怖に突き動かされて私は鏡を叩き割った。
私の顔が砕け散り、きらきらと床に散らばる。
床に散らばる鋭利な破片。私は暫く呆然とそれを眺めていたが、ある考えが浮かんだ。
私は躊躇うことなくその上に寝転がった。
皮膚を破り肉を耕し、背中に根付いた花が痛みと共に絶えていくのを感じて、私の意識は途切れた。
6歳の時、日傘を買ってもらった。
成長するにつれて、自分の体に花が巣食っているという感覚は強くなっていった。
背中を切ったあの事件以来、私は花にある種の敗北感を抱くようになったのだ。
花の侵攻を止めるためにとった行動で結果的に私は意識を失った。
血濡れの私が母に発見されるまでの間に、いったいどれだけ侵食されてしまったのだろう。
これは明らかな敗北である。
それから度々私は、自分の内部に蔓延る花を駆除するため体を傷つけた。
そのせいで精神病院に収容された事もある。
白い壁の部屋で、手足を拘束された私は体中を這いずり回る根の感触に泣き叫んだ。
そして私は花と戦うにはもっと別の方法が必要だと悟った。
日傘は妥協案だった。
花を全て取り除くことは不可能だと結論を下した幼い私は、日光を遮る事によって少しでも花の成長を抑えようとしたのだ。
部屋のカーテンは閉め切り、外へ出歩く事も極力避けて、どうしても外出の必要があるときは必ず日傘を差すようにした。
真っ白い日傘は何よりも頼もしく花の侵略から私を守ってくれた。
無論、母に日傘を欲しがる理由は言わなかった。
私にとって母は、花を生み出し、花を愛でる、言わば花の虜でしかなかったからだ。
10歳の頃、飼っていた猫が死んだ。
部屋から出ない私を慰めるために母が買ってきた猫だ。
黒い体に金色の目。暗い部屋で私の足に擦り寄りにゃぁと鳴く。
「クロ」と名付けられたその猫は、花に怯えて引きこもる私の唯一の親友だった。
私がクロにしか心を許さなかったせいか、クロも私にしか心を許さなかった。
「似たもの同士ね」
根本的な解決はまだしていないというのに母は笑っていた。
しかし実際、私はクロと遊ぶ事によって徐々に花に対する恐怖を忘れつつあった。
外界の花は依然として油断ならない存在ではあったが、クロが私に甘える事が、私の体内に何もおぞましい物が潜んでいない事の証明であるような気がした。
そのクロが死んだのは夏のある日だ。
シャワーのように蝉の鳴き声が降りかかる真夏。
私は朝御飯の時間になっても姿を見せないクロを探して家を彷徨った。
名前を呼びながら廊下を歩いている途中、庭の一角に面した窓から、穴を掘る母の姿を捕らえた。
庭師は居るのだが、母が自ら庭の手入れをする事も珍しくはない。
しゃがみこみ、スコップで穴を掘る母から少し離れた場所に木の箱があった。
そしてその箱からはみ出る黒い尻尾を見つけた。
寿命であることは理解できたし、私を気遣いこっそりと埋葬をする母の心遣いにも感謝した。
朝食の席でクロの事を話題に出すのはやめ、後でひっそりとお参りに行こうと思った。
朝食をとった後、クロの墓へ行った。
相変わらず蝉はうるさかったが、こんもりと盛られた土を見た時、全てが音を失った。
日傘がばさりと落ち、太陽がじりじりと私の白い肌を焦がす。
クロの埋まるそこには、一輪のタンポポが揺れていた。
真夏の日を浴びて、クロの死体から養分を吸い上げ、はちきれんばかりの生命力を誇示しながら、揺れていた。
15歳の時、私は人間を辞めた。
その日も私は一度も外へは出なかった。
クロが死んでから私は殆ど部屋の外へ出ず、花の恐怖に震えていた。
始めのうちは様々な人が訪れた。
父母はもちろん、親戚や医者や、挙句の果てには祈祷師までもが私を部屋から出そうとやってきた。
それら一切に無視を貫くと、今度は母がまたしても動物を連れてきた。
犬や猫。小鳥もいた。
しかしどれも私に懐かなかった。
どうやらクロを失い、私の心はさらに奥深いところまで病んでしまったようだ。
それを敏感に察知した動物達は私から距離を置き、決して手の届くところへ近付こうとしない。
万策尽きた両親は私に干渉する事をやめて静観を決め込んだ。
日に三度、女中達が運んでくる食事。トイレ以外で部屋から出ることはない。
日光の届かない暗い部屋。花を枯らすために、水も食事も最低限しかとらない生活。
私が唯一安らぎを感じるのは真夜中だけだった。
丑三つ時には全てが眠る。もちろん花もだ。
花の攻撃から解放されるのは深夜のこの一時だけなのだ。
明かりも点けず、ベッドの上で日傘を差して、膝を抱えてうずくまる。
月光も遮る分厚いカーテンによって部屋は昼間と同じで真っ暗だ。
しん、と響く静寂。
引力を持った暗闇。
生き物の気配は何一つ無い。世界が死んでしまったようだ。
人も、草木も、花も眠る丑三つ時。こんな時間に起きている私は何なのだろうか。人でも、植物でも、花でもない何か……。
「貴女の正体を知りたくない?」
静寂に穴を開けて、唐突に声が響いた。
反射的に体を強張らせて部屋を見回す。
黒く塗りつぶされた室内に人の姿は無い。
声もそれっきり聞こえない、しかし幻聴ではなかった。
美しい女の声。
空間の歪みから漏れたような不自然な声。
いかにも楽しそうなその声ははっきりと耳の奥に残っている。
日傘の柄をぎゅっと握る。
じっとりと手が汗ばみ、体が小刻みに震え出す。
自分の呼吸音。
自分の心音。
時計の針の音。
「教えてあげましょう」
女の声。
背後の闇から伸びる二本の腕。
肘まである白い手袋を着けた両手が私の口を塞ぎ、そのまま後ろへ引き倒す。
背中から倒れたが、柔らかいベッドの感触を感じることは無かった。
まるで穴に落ちるかのように私の体は謎の空間へ転落した。
膝と脛に砂利の感触。
逆さまに落ちたはずの私はいつの間にか地面に座り込んでいた。
暗くて何も見えないがどうやら屋外のようだ。
湿った夜の冷たい空気。
久し振りの外気を胸いっぱい吸い込んでから気がつく。
鼻腔をくすぐる甘ったるい香り。
邪悪な、悪意を含んだ香り。
風が吹き、月を覆い隠していた黒雲が流れて行く。
見たくない。
知りたくない。
分かりたくない。
願いは虚しく、私の目の前に極彩の地獄が広がった。
見渡す限りの花、花、花。
ざわざわと蠢く原色の海。
月の青白い光に照らされても色褪せることなく、毒々しく咲き誇る花々。
私はそこだけ花が刈り取られて、土がむき出しになった花畑の中心に居た。
ひゅうっと息を吸い込んだきり、呼吸が止まる。
頭の奥が痺れる。
目の前が白くなる。
白くなった視界に咲き乱れる四季の花。
「何故貴女が花を恐れるのかと言うとね……貴女にとって『花』とは恐怖なのよ」
白目を剥いて涎を垂らす私の耳元で囁く声。
その声がぐるぐると私の中を掻き回す。
『花』とは恐怖。
恐怖とは『花』。
『花』は恐怖。
恐怖は『花』。
『花』が恐怖。
恐怖が――『花』。
思考の渦の中で一本の紐が見つかった。
ああ、死ぬのが『花』。
暗闇が『花』。
あの犬は吠えるから『花』。
怒った母が『花』。
花が、『花』。
生まれた時からすでに手遅れだったのだ。
私はもう花に侵されていたのだ。
花は私の中の恐怖という感情を肥料に、恐怖を食い尽くして、代わりに『花』という感情を残していたのだ。
『花への恐怖』ではなく、『花』に支配された私の生活。
それに気がついた時、私が私の中の『花』を受け入れた時、心のどこかで真っ赤な大輪のバラが花開いた。
いつの間にか部屋に戻っていた私は、これまでにない満ち足りた気分だった。
ベッドから飛び降りてクローゼットへ向かう。
パジャマを脱ぎ捨ててお気に入りのブラウスに着替える。
襟首に黄色いリボンを結んで、窓に映る自分を見る。
赤いチェックの上着を着て、おそろいのチェックのスカート。
おめかしが済んだらまたベッドの上に立ち、日傘を振る。
暗がりを綺麗な綺麗な花びらが舞う。
「あはははははは」
何年か振りに大声で笑った。
日傘を振る。
マットレスを突き破り、つくしが生える。
日傘を振る。
部屋の隅で月下美人がゆっくりと開花する。
日傘を振る。
壁が一面アサガオに覆われる。
花はなんて可愛いのだろう。
今までこれを嫌っていた自分が信じられない。
もう一度日傘を振ろうとした時、部屋のドアが叩かれた。
騒ぎを聞きつけて誰かが来たらしい。
スキップをするように軽やかにドアまで行き、閉じた日傘の先でドアをそっと押す。
蝶番が外れ、ノックしていた使用人が弾き飛ばされる。
砕けたドアの破片が倒れた使用人の上へと降り注いだ。
気絶した使用人の胸を日傘で突き、彼岸花を咲かせる。
廊下の向こう側で驚愕の表情を浮かべる母と目が合った。
日傘の先を向けて少しだけ微笑んだ。
これから私は家を出る。
ここまで私を「人間として」育ててくれた母へのせめてもの恩返し。
顔を押さえてのたうつ母の指の間からは、たくさんのカーネーションがはみ出ている。
玄関で女が待っていた。紫のドレス。ふんわりとした帽子に赤いリボン。私の持つ物とは違う奇妙な形の傘。
「行きましょう」
女がにやりと笑い差し出した右手を私は握った。
空間が裂けて無数の目が覗く穴ができる。
私は女と一緒に躊躇うことなくその中に飛び込んだ。
恐怖を忘れたこの体。
飛び込んだ先は私を満足させるのに十分な世界だった。
カーネーションは喜んで貰えたのでしょうか。
しかも花嫌いだったというのは珍しいかもしれない。
「恐怖」における「花」への転化の描写が良かったです。
狂気が良い具合に出ていてとっても良かったです。
『花』は彼女
良い世界に行けてよかった
短いのにどんどん惹き込まれた。面白い解釈でした。
幽香はとても妖怪っぽいけどそうじゃない気がしたりするからこういう解釈もおもしろいですね。
花に乗っ取られたようにも思えました。
彼岸花とカーネーションが…
えらく皮肉な話だなー。
誤字?報告
>10歳の頃、猫を飼っていた猫が死んだ。
猫を、がいらないと思われます。
狂気というのが、上手く表れていたと思う。