その日、私が起床したのは枕元に置いてある『霊夢の声でおはよう! クロック』(香霖堂製特注品)によってではなく、広大無辺な紅魔館全域に響き渡る大音声によってだった。
吸血鬼は朝に弱い。十分の一くらいしか開かない眼で、何とか時計の短針を視認する。約四時二十二分。早朝やん。朝日こんにちはやん。今すぐにでも声の犯人を突き止めてカラッカラのミイラになるまで血を抜いてやりたいところだが、残念レミリアちゃんは超低血圧。昼になってからでも問題あるまいと『霊夢柄ふかふか布団』(香霖堂製特注品)を被りなおす。
だごーん。
どんがらがしゃーん。
『まるで本物の抱き心地! 霊夢抱き枕』(香霖堂製特注品)をドアに思いっきり投げ飛ばして私はベッドから飛び降りる。O.K.レミリアちゃんブチ切れモード発令。枕元に常備してある、緊急時用血液パックを引きちぎり、端から五つ全て飲み干す。一分もかからず喉の奥に押しやると、目がギンギンに冴えてきた。満月の夜並みのマカビンビンカリスマモードだ。これより犯人探しを決行する。
全力でもってドアを蹴破り、羽を出来る限りに広げて、まだ誰も見当たらない廊下を低姿勢滑空する。普段ならしない芸当だが、怒り心頭に達する今の私を引き止めるものは一切ない。
先ほどの音は、恐らく咲夜の部屋からのものだろう。朝四時に起床するのはメイド長たる彼女しかいないし、いくら朝とはいえ吸血鬼の私にとって、この紅魔館中のどこで何が起こったかを察知するアンテナを四六時中張っておくことくらい容易い。
咲夜の部屋へ続く最後の曲がり角をドリフトターンする。後追いで駆け抜けた風がどう、と付近の窓を一斉に割っていくが、心配には及ばない。日が照る前に部屋に戻ればいいだけだ。片付けはメイドたちに任せる。
咲夜の部屋は、私の寝室とはだいぶ離れた場所に位置する。主の危険にすぐ馳せ参ずるためには主のすぐそばに居を置くほうが便利だと思うだろうが、彼女の時を止める能力をもってすれば、距離や時間は関係ない。それに、予想だにしない敵をいち早く迎撃するには入り口近くに常にいたほうがいいし、メイド同士で集会を開くのにロビーに近いほうがいい。両方を叶えてくれるのが、咲夜が今住んでいる部屋だ。
咲夜の部屋のドアを遠慮なく蹴破る。少女のか弱い足による一撃は見た目によらぬ破壊力を呈し、ドアは粉々に破壊されるどころか奇妙に捻じ曲がって部屋の奥へ吹き飛んでいく。息も猛々しく、私は部屋の向こうでくたりとのけぞるドアを一瞥して、状況を確認する。
驚くべきことに、部屋はレミリアが荒らすまでもなく凄惨極まりない状態になっていた。タンスの中のあらゆるものは外に追い出され、鏡の全てが割られ、綺麗に閉められているはずのカーテンは何故か地獄の悪魔の顔みたいに破れている。レミリアは大口を開けて磔にされたように固まる。正直何がなんだか分からない。
「れ、レミリアさまァ……」
地底の怨霊の唸りのごとき声が聞こえて、私は大人げなくひっ、と短い悲鳴を上げる。とたんに電球がラップ現象。親の敵のように断続的にバチバチ点滅している。まるで線香花火だ。新手のホラーか。
私の直線状には誰もいない。かといって下も、右も左も後ろにも誰もいない。じゃあ今の声はどこから。たとえ火の中水の中草の中……スカートの中か! とスカートを一気にたくし上げたがやはり誰もいなかった。やだ私ったらはしたないんだから! スカートを戻す。
ぞくり、と殺気を感じた。カリスマ吸血鬼が、寒気を感じるとはよもや思わなかった。気を抜いたらやられる。やられる前に敵を探し出さなければならない。しかしどこだ。もう上下左右は探して――上?
「上かッ――!?」
上には誰もいない。天井に張り付き、私を食わんと覗き見る化け物の姿を予想していたが、そんな姿はどこにもない。
「レミリア、さまァァ」
声につられて下を見る。まさか――
ベッドの下に、二つのあかい目。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
ずるずるとゲル状物質のようにベッドの下から漏れ出す『何か』。あまりの恐怖に私がしりもちをつくと、容赦なくその何かが私のところに這いよる。蛇のような動き、いや、これを形容できる者など誰もいないだろう。にゅるにゅる、そうにゅるにゅると言うのが相応しい。それが私の足を捕食しようと掴み取ったとき、私の股からは既に黄金水が垂れ流されていた。垂れ流しである。
「レミリアさまぁぁあああ。ナイフが、ないふがああぁぁ」
「は?」
顔をぐっちょぐっちょにして泣いてる私の足にすがりついて大泣きしているのは、UMAではなく咲夜だった。
仮眠を取り、昼前になったころに私の部屋に咲夜を呼んだ。事情を説明してもらうためだ。流石に朝はドーピングをしていたとしてもカリスマ度がどうしても低くなってしまうので、少しでもカリスマ度を回復する手段として私は仮眠を選んだ。それと、パンツを交換するためでもある。断じて漏らしたからではない私は漏らしていないし泣いていない。ただちょっと汗かいちゃったから着替えただけだ。
「で、何だって咲夜、ナイフがどうしたって? あと私は漏らしてないぞ」
「いえ、些細なことなのですが……保管してあったはずのナイフが全て消失していたんです」
咲夜曰く、昨日はたまたまナイフを携帯するのを忘れて、ケースにナイフを入れたままにして仕事をしていたらしい。特に昨日は霊夢たちが遊びに来て、その始末に忙殺されていたために、ナイフのこともすっかり忘れていたらしい。で、今日朝目覚めたときに思い出して確認したらナイフが無かったと。
些細なことのものか、と私は呟く。些細なことでないからこそ、それほど取り乱しているんだろう。咲夜にとってメイン武器でありアイデンティティでもあるナイフは、つまり彼女と一心同体。それがごっそり消えてしまったということは、私から霊夢を取り上げるということとほぼ同じだ。
かく言う咲夜は、私に報告をしながらすすり泣いている。わがままを言う子供みたいで、平常の彼女とはかなり様子が違う。それでも強がるのは、メイド長としてのプライドと役目からか。
「もう大丈夫ですので。仕事はしっかりこなします。朝の無礼をお許しください」
「ん……まあそれならいいが……あと断じて私は漏らしていない」
えぐえぐ泣きながらドアの向こうに消える咲夜。正直大丈夫かどうか分からない。まあ、成り行きを見つめるのも主としての勤めだろう。私は彼女が入れた紅茶を口に運ぶ。紅魔館名物、『血液抽出アプリコットティー』である。身体に染み渡るような鉄分の味が、体中に力を巡らせてくれる特製品だ。起き抜けの一杯はやはりこれに限る。
「ぶへェゥ!」
口に入れた瞬間、特大のくしゃみが出て口に含んだ紅茶をぶちまけてしまう。また洋服が汚れた。悪態をつきながら紅茶の匂いを嗅ぐと、鼻を刺す悪臭がする。ていうかなんか液が黄色い。
ああ、これもしかして私の黄金水か。
予想に反せず、今日の咲夜は異常だった。窓の修繕に向かって二時間ほど経ったので様子を見に行ったら被害が二倍になっていた。ヘリコプターが脇を飛んだのかと思うほどに廊下一面の窓が粉々。ついでに妖精メイドが十匹くらい倒れてて死屍累々。夕食にはケチャップの代わりにマヨネーズがぶちまけられていた。風呂場には良く分からないが山積みにされたままのPAD。夜の慣習にしている読み聞かせに持ってきたのは何故かドグラ・マグラだった。翌日の朝もまた、謎の大音声に起こされる。短針確認すれば三時十四分。何で早くなってるんだよ。
「レミリアああああああッ!」
ある日、私が洋間で読書に勤しんでいると、ドアが勢い良く開いてパチュリーがこちらにずかずか歩いてくる。なにやら大量に本を抱えた彼女は鬼の形相だ。ひ弱でか弱い喘息魔女がなんたることか。
「あんたんところのメイドどんな教育してんのよ! 購入依頼した魔道書、やっと届いたと思ったら全部表紙差し替えられてたわよ! 中身やおい本じゃない!」
そう言って差し出す一冊をぱらぱらとめくると、そこにはあられもない姿で絡み合う男子諸君のイラスト。ああそうだ。外界ではそろそろコミケってやつの時期なんだっけ。
もう体力が持たない。早急に原因を解消するべきだ。
「……というわけよ」
咲夜の様子がおかしくなってから一週間。昼の散歩に出かけた拍子に、うっかり咲夜が日傘を忘れて私が砂になりかけたところで、私の中で何かが吹っ切れた。人に弱気を見せることをよしとせず、主としての矜持の元、絶対孤高を信条にこの幻想郷の地を踏んでいた私だったが、この調子では命の危険すらありうる。やむなく私は紅魔の頭脳、パチュリー・ノーレッジを頼ることに決めた。
ご機嫌取りに彼女が発注したはずだった魔道書を改めて発注し、やおい本と取り替えるよう取り計らったが、パチュリーは何故かやおい本の差出を拒否した。この前図書館の隅っこでにへらにへらとそれらを読むパチュリーも見た気がした。いややっぱ見なかったことにしよう。
「そんなこと言われたって、私は咲夜のナイフなんて知らないわよ」
「せめて代わりのナイフを用意できればなぁ、なんて」
「代わりでどうにかなるなら、最初からこんな混乱にはならなかったんじゃ?」
「う」
咲夜の持ち歩いているナイフは十二本。時計盤に見立てた本数だ。何の変哲もない、装飾も特に派手なわけでもない、どこにでもあるようなナイフだった。侵入者撃退の際には、他にも何十本かナイフを装備すると言っていたが、そのナイフで代用は出来ないのだろうか?
そういえば、彼女は戦闘でナイフを用いるたび、いちいち時間を止めてその十二本だけは回収していると霊夢から聞いた。かなり長い間使っているはずだが、その刀身は新品のように綺麗で切れ味も落ちていない。入念な手入れが窺える。それだけ大事だと言うことか。
「じゃあ、探すしかないわね」
「どうやって、誰が」
「……わ、私が、片っ端から人に聞いて」
「咲夜のいない今、あなたは昼間外に出ることも叶わないわ」
「よ、妖精メイドに」
「メイドたちはそこまで頭が良くない。迂闊に外に出したら二度と帰ってこないわよ」
「……中国」
「言うに及ばず」
「パ」
「喘息舐めんな」
「……うー」
悉く私の提案に突っ込みをいれるパチュリー。しばらく前は大量に本抱えて部屋に押しかけてきたくせに、こんなところで病弱を気取られるとは。さすが魔女、血も涙、も、あいてててて頬引っ張らないでパチュリー!
「理不尽につねらないでよ! 痛いじゃない!」
「顔に『何が喘息持ちだよ魔女め』って書いてあるわ」
はっとして顔をぺちぺちとなでさする。「やっぱり思ってるじゃない」と余計に強くつねられる。くそう計ったな魔女め! 吸血鬼を罠にかけるなど!
すっかり腫れて餅のように垂れた頬をえぐえぐすすり泣きながらさする。結構容赦なくやられた。本気で痛い。痛みの誤魔化しに、咲夜に内緒で他の妖精メイドに淹れさせたお茶を口に含む。今の咲夜のように異物が混じっていたり味が酷かったりということはないが、やはり咲夜が淹れてくれる紅茶よりは美味しくない。咲夜の紅茶の味が恋しかった。
一口飲んで、微妙に揺れる水面をじっと見つめる。
「どうしたのよ、そんなしんみりした顔で」
「……さみしいなぁ、って」
完全無欠の吸血鬼を自負していたはずだったが、メイド一人失っただけでこの様だ。私一人では外出することも出来ないし、美味しい紅茶も満足に飲めない、ちっちゃいわがままなお子様でしかない。私が優雅に瀟洒に日々を無為に過ごしていたとき、咲夜は裏方に回って、私の食事から買い物から散歩から何から何まで全て私の満足するように取り計らってくれる。その労力はいかな大きいものか。今までなんでそんな簡単なことを考えなかったのか。どれだけ咲夜にかまけて毎日生活してきたか。情けない話だ。私はこんなにも弱い存在で、咲夜はあんなにも偉大だったのだ。
一体何様だよ、レミリア・スカーレットは。ちっちゃくてかわいいわがままレミリアちゃん。そして咲夜様様じゃないか。
私はカップの紅茶をぐいと飲み干し、立ち上がる。パチュリーはさして表情も変えず、ゆっくりと自分の分の紅茶をすする。
「私、行く」
「どこへ行くの? 今は真夏で、真昼間よ。一人じゃ砂になって消えるだけだわ」
「構うものか。傘を差してくれる人がいないなら、私が自ら傘を差そう。転んだって泣くものか。私は偉大なる吸血鬼の眷属。舐めてもらっちゃ困るんだよ」
「……そう」
踵を返して図書館を出ようと本棚の間を歩く。その足取りが、自信と勇気に満ち溢れているのを自分で感じ取れる。私は一人で、紅魔館の門扉を開けて歩き出す自分を想像する。大丈夫だ、私ならやれる。咲夜に頼らなくたって、一人で太陽の下を歩ける。なんてったって私は、崇高なる吸血鬼なのだから。
「待ちなさい」
パチュリーの声に振り向くと、頭上から光の輪が三つ降りてきて、私を包み込む。くるくると輪が腰の辺りで回転したかと思うと、上から順に、ぱちぱちぱちん、と弾けて消えた。
「日除けの魔法。今日一日だけなら太陽の下でも自由に動けるわ。ただ、その後は覚悟しなさいよ」
「ああ、ありがとうパチュリー」
不適に微笑むパチュリー。冷酷で、達観したような眼差しの彼女とはうってかわって、私を応援してくれるような、優しい表情だった。
さあ、いくぞレミリア・スカーレット。恩返しタイムの始まりだ。
保管していたのに無くなったということは、その日紅魔館に来ていた者か、紅魔館周辺にいた誰かが犯人と言うことになる。湖を住処にする妖精たちは、物を盗ったり壊したりなどのいたずらは日常茶飯事だが、咲夜の怖さを知る以上、まさか咲夜のナイフを弄ることはしないだろう。
妖精メイドに聞き込みをして犯人を洗い出したいが、パチュリーも言うように妖精は知能レベルが低い。多分一週間も前のこととなると、すっかり忘れてしまっているだろう。当日は霊夢、魔理沙、アリスの三人が紅魔館を訪ねていた。そちらから調べていくことにしよう。
……あれ?
私は何か違和感を感じて、紅魔館の大門を振り返る。特に変わりない、冷たく侵入者を拒む鉄柵が聳え立っている。気のせいか? 疑問符を振り払って、私は博麗神社へ飛ぶ。
「レミリア? 今お昼よ? 何で傘も差さずに外を歩いてるの!?」
博麗神社には既に魔理沙がいた。霊夢は日課の庭掃除をしていた。魔理沙のほうは縁側に座ってお茶を飲んでいる。私の姿を認めた霊夢は神社の奥に引っ込むと、私の分のお茶を持って来てくれた。炎天下に嬉しい冷えた麦茶。せっかく霊夢と二人だけでイチャイチャラブラブしようとおもっ……いや今のなし今のなし。魔理沙のところを訪ねる手間が省けたのでよしとする。
簡単に事情を説明したが、二人は首を傾げるばかりだった。
「私は知らないわよ。ていうか、その日はずっとバルコニーであなたとお茶してたじゃない」
そういえばそうだった。私は紅茶、霊夢は神社から持ってきたお茶で、咲夜と並んでお茶会を開いていた。強い夏日が差していてもさわやかな風の吹く涼しい日で、冷たいアプリコットがとても美味しかったのをよく覚えている。その日のことを思い出しながら、私は縁側に魔理沙と並んで茶をすする。咲夜の紅茶の美味しさには負けるが、霊夢の愛情をひしひしと感じる。とても美味しい。でも霊夢の体液はもっと美味しい。霊夢のあの丸出しの腋を思う存分一日中舐めていたい。いつの間にか手に持ったお茶が血液ティーになっていた。あ、私の鼻血か。危ない危ない。
「魔理沙は? 魔理沙はバルコニーにいなかったろう」
「私も見ないな。アリスと一緒に図書館にいたしな。パチュリーに証言も取るといいぜ」
「ま、私たちが咲夜の部屋に入る必要なんて無いしね」
それもそうか。アリスと魔理沙は紅魔館に来るたび図書館に入り浸っている。毎回図書館から聞こえる怒号からすると、アリスとパチュリーが痴話喧嘩してばかりいるようだ。魔理沙も災難である。そのままどっちかに娶られて霊夢を諦めてくれればいいのに。
「それ、代わりのナイフじゃ駄目なの?」
「……大事にしていたらしいから、出来るなら代替品は避けたい」
「……んー。私はそうも思わないけどなぁ」
気難しい顔をしてお茶をすする霊夢。そんな顔も可愛いよ霊夢霊夢。
仕方ない、紅魔館に戻って駄目元でメイドに聞き込みをするか。諦めムードで鼻血茶を喉に押しやっていると、魔理沙があっ、と小さく悲鳴を上げる。顔を上げると、なにか思い出した風。
「そういえば、最近香霖堂でナイフ売ってるの見たぜ。あれアリスが売りつけたらしいんだ。期待できないが、見に行ってみたらどうだ? 咲夜のかもしれん」
「本当!?」
良いことを聞いた。魔理沙に礼を言って、霊夢にひとまず抱きつく。一瞬後に私は地面と熱烈にキスをしていた。ああんもういけずぅ。
「私たちに出来ることがあれば、また手伝うわ」
「人助けならそれを断るわけにはいかないしな」
「助かる。ありがとう」
頑張れよ、と手を振る二人にお辞儀をして、私は一路魔法の森へと向かう。
香霖堂には魔理沙の言うとおり、十二本のナイフが飾ってあった。私は咲夜のナイフをまじまじ見つめたことが無いので、咲夜のナイフかどうか判別できない。秘密裏にサプライズ的にナイフ探しをしているので、咲夜を呼んで確認することも出来ない。運のいいことに、店主の霖之助だけでなくアリスも来店していた。これまた手間が省ける。
アリスは人形の材料を購入するために霖之助と交渉しているようだった。アリスの人形はマジックアイテムの類であるので、人里の店に売っている具材では作れないらしい。熱心に話し込むアリスの肩を叩いて、話を中断させる。水を差されてアリスは不機嫌そうだ。
「ねえ、このナイフどこから仕入れたの?」
「何でそんなこと言わなきゃいけないのよ」
事情を説明すると、アリスは余計に不機嫌になった。自分の持ち物だったナイフを盗品扱いされていると思ったらしい。
「私は魔理沙と図書館にいたのよ。盗るはずないでしょう。これは上海に持たせようと思って集めてたナイフ。れっきとした妖怪の名工から仕入れた品よ」
「む、そうだったか。……疑ってすまない」
素直に頭を下げる。いつもとは違う反応に、アリスは気味悪そうに私を見る。
脇から様子を傍観していた霖之助が口を開く。
「代わりのナイフとして買うなら安くするよ。いつもいろいろ買ってもらってるしね」
「買う? 吸血鬼が何買うのよ」
「何って例えばれい」
「うわー! うわー!」
口を開きかけた霖之助を必死に抑える。この優男守秘義務って言葉知らないのか。一を聞いて大体をつかんだらしいアリスはにやにやと笑っている。く……こいつ広めたりしねぇだろうな!
「悪いが、代替品は奥の手だ。そこらで適当に埋め合わせては、恩返しにならない」
「うん、その心意気、気に入ったよ。頑張ってね」
「ああ、そういえば」
感心してうんうんと首を振る霖之助。感心してくれるのは構わないが、なんだか子ども扱いされてる気がする。私の恩返しはそんなに奇妙なものなのだろうか。自信がなくなってくる。
その横で、アリスが何を思い出したのか手を叩く。
「図書館に一度美鈴が来たわ。咲夜を探してるって言ってたけど」
「それは本当か!?」
「ケースを持っていたわね。もしかしたらあれがナイフの入れ物かも」
「あ、ありがとう! 礼はまたする!」
ナイフは取っとくから、と霖之助の声を後にして、急いで香霖堂を出る。灯台下暗しというやつか。美鈴の可能性を忘れていた。あの日は美鈴も館内にいたのを思い出す。居眠りしてばかりの美鈴は咲夜の怖さを重々承知しているはずだが……
昼下がりに紅魔館を出て、もう三時を回っていた。急がなくてはならない。
紅魔館を出るとき感じた異常にやっと気づいた。
門番が門にいない。閉じられた鉄扉の横で居眠りをしているはずの赤緑の娘がどこかへ消えていた。
「……これはまさか」
犯人の線が高いだろう。本当に美鈴がやったとも思えないが、付近の妖精なら恐らく所在を知っている。
「あれ、レミリアだー。外に出てていいのか?」
門の前で思索に耽る私に声をかけたのは氷精チルノだった。長めの木の枝を持っている。動物の糞でもつついて遊んでいたのだろうか。だとしたら、無邪気で子供っぽい妖精だし、致し方ないことだが不潔だ。もしそうなら咎めてやることにしよう。
「ちょっといろいろあってね。美鈴を知らないか?」
「ちゅーごくならあそこにいるよー。さっき枝でつついて遊んでたのー」
そう言って木陰を指差すチルノ。その先には三匹の妖精。その全てが一様に木陰からはみ出した何かを枝でつついていた。……犬か何かの糞であったほうが、ずっと良かったな。
あれ美鈴の尻だ。
「ううううううううすびまぜんんんんんん」
地に平伏して土下座する美鈴。その衣服も身体もボロボロで薄汚れている。ずっと隠れていたのだろう。そういえば、しばらく美鈴の顔を見ていなかった気がする。咲夜が不調なせいで、外に出ることがなかったから美鈴と顔を合わせる機会も無かったのだ。
美鈴が言うには、開けっ放しの咲夜の部屋をいぶかしんで、侵入者でもいるのかと中の様子を確認したとき、部屋に忘れられたナイフのケースを発見したらしい。これはいけないと咲夜に届けるつもりで紅魔館中を徘徊したが、気づいたらケースをどこかに落としてしまったらしい。探しに探し回って、廃棄物を漁ることまでしたが、妖精メイドに聞いたところ、廃棄品と間違えて回収してもらったと言う。咲夜に見つかったら絶対殺されてしまうと思って、身を隠していたそうだ。
「あなたってやつは」
「えううう、すびばずん……責任とっで門番辞めばずがら……許してくだひゃい……ひぐ」
何度も何度も頭を地面にこすり付けて平謝りされる。本当に反省しているようだ。顔をぐちゃぐちゃにして大号泣する姿が、見ていてかわいそうに思えてくる。行く当ても無いのに、門番を辞めるとまで言うとは。
確かにこの一週間は地獄だった。紅茶も飲めない、外出できない、まともな生活はちっとも送れなかった。その元凶が彼女なのだから、今すぐにでもクビにしたいくらいだ。
「……頭を上げなさい」
「えぐ……え?」
「怒らないわ。あなただって良かれと思ってやったのでしょう?」
だが、彼女は咲夜のためを思ってナイフを手にとって、紅魔館中を駆けていたのだ。居眠りばかりで、咲夜に迷惑をかけていることに後ろめたさを感じていたのかも知れない。少しでも彼女を助けようと必死になっていたんだろう。そんな健気な彼女を、私が頭ごなしに怒ることは出来ない。
それに、むしろ感謝してもいいくらいだ。咲夜の不在で不便を被ることにはなったが、同時に彼女がどれだけ私にとって大切な存在かを再認識させてくれた。こうやって、彼女に恩返しをすることも出来る。この一件が無ければ、こんな機会にも巡り合わなかった。
「ただ、後で咲夜に謝りなさいね。怒らないように、私からも言っておくから」
「あ、ありがとうございます!」
「ああ、だから頭を上げなさいって」
やっぱり泣きながら土下座をする美鈴。私は彼女の肩をとって、彼女を立たせる。近寄った彼女の身体は、泥だけでなくゴミや葉っぱでも汚れていた。逃げていただけではない、多分、紅魔館の外まで走り回ってナイフを探していたんだろう。私はくすりと笑う。何て健気な門番なんだろう。
今日はゆっくり休むといい、と美鈴を紅魔館に送った後、私はこれからどうするかを考えていた。ゴミと一緒に捨てられたならば、もう取り返しようがない。日が暮れかかっていた。やっぱり、代わりのナイフを買うしかないのか。果たして、それで彼女が満足するかも分からない。
「あ、レミリアじゃない。ナイフ見つかった?」
悩んでいる私の隣に、霊夢が降り立つ。わざわざ様子を見に来てくれたそうだ。
「残念ながら、間違えて捨てられたらしい。……代替品で済ませるしかないのかな」
「んー……なんで代替品をそんなに嫌うのか分からないけど」
「だって、咲夜が大事にしていたナイフだぞ? それを、そこらのナイフで代用できるとは……」
「私はそうは思わないわ」
そう言って、ごそごそと袂を探る霊夢。出てきたのは、何の変哲もない湯飲みだった。
「これ、魔理沙からもらった湯飲みなんだけどね。しばらく前に魔理沙が私の大切にしていた湯飲みを割っちゃったのよ。彼女もかなり申し訳なく思ったらしくて、香霖堂でこれを買ってきたの。結構高いらしいのよ、外の有名な陶芸家の湯飲みだとか」
「…………」
「私ね、湯飲みが割れたことは凄い悲しかったけど、それ以上に魔理沙が私のために湯飲みを買ってきてくれたことが嬉しかったの。値段じゃなくてね。むしろ、割ったおかげで魔理沙にこんなことしてもらえたのかなぁって」
滔々と語る霊夢を、私はただ見つめる。微笑んだ彼女の目は、幸せそうに湯飲みを見る。少し魔理沙に嫉妬した。
「……そういうものかな」
「そういうもんよ」
そう言って、ふわりと宙に浮く霊夢。私は何も言えず、立ち尽くしていた。博麗神社のほうへと消えていく霊夢を、私はただ見つめるだけだった。
日も暮れて、紅魔館にも夜の帳が下りてきた。月の光が立ち込める中、霧の湖は、鏡のように光を反射してきらきらと輝いていた。満月でも半月でも三日月でもない、名前も知らない中途半端な形の月だが、私はこの月の形がなんとなく好きだった。
湖の畔で、一人草原に座る咲夜を認めて、私はその隣に座る。突然あらわれた私に、彼女は驚いたようだった。双方何も言わず、沈黙だけが暗闇に平たく伸ばされる。微風に銀髪をそよがせる咲夜は、年相応の少女の様相だった。多忙な毎日ゆえ、大人であり続けなければいけない彼女が、こんな顔を見せるとは思わなかった。
「たまに、心が折れそうになるとここに来るんです。静かな月を見ていると心が落ち着いて」
私が何も言わないうちに、彼女は喋り始めた。墨のように黒く染まった湖は、たまに小さな水の波紋を起こして揺れる。小魚のはためく音が、鳥のさえずりが、耳を澄ませば鼓膜に染み入る。悪くない雰囲気だ。心に、暖かな液体が満たされていくような感覚。
彼女の口調はどこと無く感傷的だった。彼女のナイフは彼女自身の心にも切り傷を残して消えたようだ。流れ出す血液に水をかけ、水をかけ、痛みを誤魔化そうとここに来たのだろう。メイド長としての立場が邪魔をして、咲夜は何でも抱え込みすぎる。気丈で瀟洒にあろうとする『役目』が、彼女の傷口をさらに広げる。
「……すいません、馬鹿なことを言って。もう、大丈夫ですので、本当に。明日からは」
「強がらないで」
強い語気で、咲夜の言葉を遮る。責めるような言葉に、咲夜は驚く。
特に、最近は私事のせいでまともに仕事が出来なかったのだ。完璧を求める彼女にとって、それがいかん苦痛だったか、容易に想像がつく。一週間、私は咲夜に頼ることをなるべく避け、出来る限り妖精メイドに用事を任せるようにしていた。へたれた自分と、疎遠な態度の主。きっと、彼女を苛むのは心の張り裂けるような思い。
ならば、その傷を埋められるのも私以外にあるまい。
「これ、咲夜に」
懐からケースを取り出して、咲夜にぶっきらぼうに渡す。いざとなると恥ずかしいものだ。黒塗りの、小さな鉄のケース。ぞんざいに胸元に押し付けられたそれを咲夜は手に取る。ぱちん、ぱちんと金具を解く音をさせて、咲夜はゆっくりとその中身を覗いた。
「ナイフ、ですか」
「ええ。あなたの持っていたナイフは結局見つからなかったけど。せめて代わりに、ね」
香霖堂で買ったそのナイフは、アリス曰く妖怪の名工の作品らしいが、見た目がシンプルでとてもそうは見えない。黒塗りの柄に対比的な銀の刃が、十二本それぞれ月光に煌く。一本を使って試し切りをしてみたが、切れ味は良かったし、軽くて使いやすかった。本物の職人と言うのは、その実用性において技巧を凝らすものなのだろう。
ナイフを眺めてしばらく咲夜は固まっていた。一本を取り出しては、その様子を見る。表情をあまり変えずに一連の動作をしているので、心中で何を考えているのか分からない。選択が間違っていたのか合っていたのか、その答えだけでもほしかった。どきどきしながら彼女の言葉を待つ。
「……っ」
「……え」
ケースを閉じて胸元に抱えたかと思うと、突然咲夜は泣き始めた。私はしどろもどろになりながら彼女の肩を包むように寄り添う。
「や、やっぱり駄目かな? 気に入らなかった? わ、私、ナイフとか詳しくないから、良く分からなかったから」
「い、いえ……すいません、取り乱、して。嬉しくて、私」
しゃくりあげながら、憚らず大泣きする咲夜。広い空間に、咲夜の泣き声が響く。私としては複雑な気持ちだ。手放しで喜んでいいのだろうか、これは。
……あれ? なんだか目の前がにじんできた。涙でも流してるのか、私は。
「大丈夫、かしら、ありあわせの、とってつけたような品だけど、喜んでくれるかしら?」
「ふ……っく、勿論、です。ありがとうございます、お嬢様」
流涙を何度も指先で拭き取る咲夜。口元をゆがめ、吼えるように泣き続ける彼女を見ながら、私はなんとなく、平衡感覚を、なくし、て。
「……お嬢様?」
落ちるように、暗転する。
ベッドで目覚めたとき、枕元に咲夜がいた。さりさりと見惚れるような手つきで林檎の皮を剥いている。私はどうやら倒れたらしい。昼間のパチュリーの言葉を思い出す。『その後は覚悟しなさいよ』だったか。太陽を避ける魔法をかけてもらったとはいえ、太陽は吸血鬼の天敵。簡単な魔法で完璧に凌げるなら苦労しないのだ。
目はまともに開かないし、カーテンも閉まっているがどうやら朝のようだ。随分寝ていたらしい。咲夜の目元にうっすら隈が出来ている。悪いことをしてしまった。
「ああ、起きられましたか。林檎、剥けてますので」
そう言って皿に小奇麗に盛られた林檎を差し出す。吸血鬼に民間療法が効くのか疑問だが、好意に甘えて林檎をほおばる。……まさか。
「……中に変なもの入ってたりしないだろうな?」
「ふふ、もう大丈夫ですよ。全快です」
一安心して林檎を噛み砕く。蜜を多く含んだ林檎が口の中に芳醇な香りを満たす。甘くて美味しい。しゃりしゃりと実を噛む音を響かせて、私はひたすらに林檎を食べる。まだまだ沢山ありますので、と咲夜は林檎をさらに一つ剥く。久しぶりの味だ。咲夜の剥く林檎の味。涙が出そうだ。紅茶がほしいなあ、と思うと咲夜が何も言わずアプリコットを差し出す。ああ、なんと幸せな気分。これだ、これこそが咲夜の淹れる紅茶の味だ。この紅茶を飲まなければ、一日が始まらない。
「ありがとうございます、昨日は。嬉しかったです」
「でも、悪いな。咲夜のナイフは結局見つからなかった。大事だったんだろう」
「……レミリア様はきっと、お忘れになっているでしょうが」
私の言葉に一拍の間をおいて、咲夜は語り始める。
「私とレミリア様が出会って何ヶ月かしたころです。紅魔館のメイドたちに馴染めず、一人で寂しくいることが多かったときでした。私は、レミリア様からナイフをいただきました。私の能力に見立てた、十二本のナイフ。本当に、心の支えになりました」
「……ん」
「ですから、いいのです。レミリア様は、あの時のように私にナイフをくださいました。私はそれだけで、とても、嬉しいのです」
そして、咲夜は林檎を剥く作業に戻る。表情を伝わせるように、滑らかにナイフが林檎の表面をなぞる。使っているナイフは、昨夜私が彼女にあげたものだった。銀の刃は林檎の果汁を弾いて朝露のように輝く。
いつも一人で仕事をしている彼女に手渡したナイフ。それは彼女が円滑に自分の役割を果たせるように。私の身をいつでも守れるように。自分に仇なす者に、反撃できるように。
「……忘れるわけがないわ」
「え?」
「今日、夢を見たの。昔の夢。私があなたにナイフを贈ったときの夢」
吸血鬼が夢を見るなんて馬鹿馬鹿しい話だ。概念的な存在の吸血鬼は脳味噌を持たない。夢を見るための器官は存在しないのだ。それでも夢を見るとしたら、きっと――それこそ夢みたいな話だが、心で、魂で夢を見るのだろう。心の奥底に仕舞われた、大切な思いを夢見るのだ。
小さく呟いて、気恥ずかしくなった私は目をカーテンに阻まれた窓にそむける。微かに光がカーテン越しに漏れる。さわやかな朝だ、と無意識に思う。太陽を嫌う私が、朝日を見てさわやか、など。一体私はどうしちゃったんだろうな、と可笑しくなる。
「いつもありがとうね、咲夜」
「どうなさったんです? お嬢様がお礼だなんて、珍しい」
「私までどうかしちゃったみたいなの。きっとあなたのせいよ」
「それはいけないですね。付きっ切りで看病しなければ」
「ふふっ」
馬鹿馬鹿しくて、困り果てることばかりだった一週間だったが、たまにはこういうのも悪くは無い。自分で言った感謝の言葉があまりにも似合わなくて、私たちは笑いあう。
私も、咲夜も、主と従者としてではなく、見た目そのままの少女のように。
「ところで咲夜?」
「何でしょうお嬢様」
「あの日の紅茶に私の黄金水が混ざっていたみたいなんだけど」
「え?」
「あれ、どこで仕入れたのか教えてくれるかしら?」
「……な、何のことだがさっぱり」
「しらばっくれんな」
「やーん、もうこんな時間。朝のメイド集会を開かな」
「逃げんな」
吸血鬼は朝に弱い。十分の一くらいしか開かない眼で、何とか時計の短針を視認する。約四時二十二分。早朝やん。朝日こんにちはやん。今すぐにでも声の犯人を突き止めてカラッカラのミイラになるまで血を抜いてやりたいところだが、残念レミリアちゃんは超低血圧。昼になってからでも問題あるまいと『霊夢柄ふかふか布団』(香霖堂製特注品)を被りなおす。
だごーん。
どんがらがしゃーん。
『まるで本物の抱き心地! 霊夢抱き枕』(香霖堂製特注品)をドアに思いっきり投げ飛ばして私はベッドから飛び降りる。O.K.レミリアちゃんブチ切れモード発令。枕元に常備してある、緊急時用血液パックを引きちぎり、端から五つ全て飲み干す。一分もかからず喉の奥に押しやると、目がギンギンに冴えてきた。満月の夜並みのマカビンビンカリスマモードだ。これより犯人探しを決行する。
全力でもってドアを蹴破り、羽を出来る限りに広げて、まだ誰も見当たらない廊下を低姿勢滑空する。普段ならしない芸当だが、怒り心頭に達する今の私を引き止めるものは一切ない。
先ほどの音は、恐らく咲夜の部屋からのものだろう。朝四時に起床するのはメイド長たる彼女しかいないし、いくら朝とはいえ吸血鬼の私にとって、この紅魔館中のどこで何が起こったかを察知するアンテナを四六時中張っておくことくらい容易い。
咲夜の部屋へ続く最後の曲がり角をドリフトターンする。後追いで駆け抜けた風がどう、と付近の窓を一斉に割っていくが、心配には及ばない。日が照る前に部屋に戻ればいいだけだ。片付けはメイドたちに任せる。
咲夜の部屋は、私の寝室とはだいぶ離れた場所に位置する。主の危険にすぐ馳せ参ずるためには主のすぐそばに居を置くほうが便利だと思うだろうが、彼女の時を止める能力をもってすれば、距離や時間は関係ない。それに、予想だにしない敵をいち早く迎撃するには入り口近くに常にいたほうがいいし、メイド同士で集会を開くのにロビーに近いほうがいい。両方を叶えてくれるのが、咲夜が今住んでいる部屋だ。
咲夜の部屋のドアを遠慮なく蹴破る。少女のか弱い足による一撃は見た目によらぬ破壊力を呈し、ドアは粉々に破壊されるどころか奇妙に捻じ曲がって部屋の奥へ吹き飛んでいく。息も猛々しく、私は部屋の向こうでくたりとのけぞるドアを一瞥して、状況を確認する。
驚くべきことに、部屋はレミリアが荒らすまでもなく凄惨極まりない状態になっていた。タンスの中のあらゆるものは外に追い出され、鏡の全てが割られ、綺麗に閉められているはずのカーテンは何故か地獄の悪魔の顔みたいに破れている。レミリアは大口を開けて磔にされたように固まる。正直何がなんだか分からない。
「れ、レミリアさまァ……」
地底の怨霊の唸りのごとき声が聞こえて、私は大人げなくひっ、と短い悲鳴を上げる。とたんに電球がラップ現象。親の敵のように断続的にバチバチ点滅している。まるで線香花火だ。新手のホラーか。
私の直線状には誰もいない。かといって下も、右も左も後ろにも誰もいない。じゃあ今の声はどこから。たとえ火の中水の中草の中……スカートの中か! とスカートを一気にたくし上げたがやはり誰もいなかった。やだ私ったらはしたないんだから! スカートを戻す。
ぞくり、と殺気を感じた。カリスマ吸血鬼が、寒気を感じるとはよもや思わなかった。気を抜いたらやられる。やられる前に敵を探し出さなければならない。しかしどこだ。もう上下左右は探して――上?
「上かッ――!?」
上には誰もいない。天井に張り付き、私を食わんと覗き見る化け物の姿を予想していたが、そんな姿はどこにもない。
「レミリア、さまァァ」
声につられて下を見る。まさか――
ベッドの下に、二つのあかい目。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
ずるずるとゲル状物質のようにベッドの下から漏れ出す『何か』。あまりの恐怖に私がしりもちをつくと、容赦なくその何かが私のところに這いよる。蛇のような動き、いや、これを形容できる者など誰もいないだろう。にゅるにゅる、そうにゅるにゅると言うのが相応しい。それが私の足を捕食しようと掴み取ったとき、私の股からは既に黄金水が垂れ流されていた。垂れ流しである。
「レミリアさまぁぁあああ。ナイフが、ないふがああぁぁ」
「は?」
顔をぐっちょぐっちょにして泣いてる私の足にすがりついて大泣きしているのは、UMAではなく咲夜だった。
仮眠を取り、昼前になったころに私の部屋に咲夜を呼んだ。事情を説明してもらうためだ。流石に朝はドーピングをしていたとしてもカリスマ度がどうしても低くなってしまうので、少しでもカリスマ度を回復する手段として私は仮眠を選んだ。それと、パンツを交換するためでもある。断じて漏らしたからではない私は漏らしていないし泣いていない。ただちょっと汗かいちゃったから着替えただけだ。
「で、何だって咲夜、ナイフがどうしたって? あと私は漏らしてないぞ」
「いえ、些細なことなのですが……保管してあったはずのナイフが全て消失していたんです」
咲夜曰く、昨日はたまたまナイフを携帯するのを忘れて、ケースにナイフを入れたままにして仕事をしていたらしい。特に昨日は霊夢たちが遊びに来て、その始末に忙殺されていたために、ナイフのこともすっかり忘れていたらしい。で、今日朝目覚めたときに思い出して確認したらナイフが無かったと。
些細なことのものか、と私は呟く。些細なことでないからこそ、それほど取り乱しているんだろう。咲夜にとってメイン武器でありアイデンティティでもあるナイフは、つまり彼女と一心同体。それがごっそり消えてしまったということは、私から霊夢を取り上げるということとほぼ同じだ。
かく言う咲夜は、私に報告をしながらすすり泣いている。わがままを言う子供みたいで、平常の彼女とはかなり様子が違う。それでも強がるのは、メイド長としてのプライドと役目からか。
「もう大丈夫ですので。仕事はしっかりこなします。朝の無礼をお許しください」
「ん……まあそれならいいが……あと断じて私は漏らしていない」
えぐえぐ泣きながらドアの向こうに消える咲夜。正直大丈夫かどうか分からない。まあ、成り行きを見つめるのも主としての勤めだろう。私は彼女が入れた紅茶を口に運ぶ。紅魔館名物、『血液抽出アプリコットティー』である。身体に染み渡るような鉄分の味が、体中に力を巡らせてくれる特製品だ。起き抜けの一杯はやはりこれに限る。
「ぶへェゥ!」
口に入れた瞬間、特大のくしゃみが出て口に含んだ紅茶をぶちまけてしまう。また洋服が汚れた。悪態をつきながら紅茶の匂いを嗅ぐと、鼻を刺す悪臭がする。ていうかなんか液が黄色い。
ああ、これもしかして私の黄金水か。
予想に反せず、今日の咲夜は異常だった。窓の修繕に向かって二時間ほど経ったので様子を見に行ったら被害が二倍になっていた。ヘリコプターが脇を飛んだのかと思うほどに廊下一面の窓が粉々。ついでに妖精メイドが十匹くらい倒れてて死屍累々。夕食にはケチャップの代わりにマヨネーズがぶちまけられていた。風呂場には良く分からないが山積みにされたままのPAD。夜の慣習にしている読み聞かせに持ってきたのは何故かドグラ・マグラだった。翌日の朝もまた、謎の大音声に起こされる。短針確認すれば三時十四分。何で早くなってるんだよ。
「レミリアああああああッ!」
ある日、私が洋間で読書に勤しんでいると、ドアが勢い良く開いてパチュリーがこちらにずかずか歩いてくる。なにやら大量に本を抱えた彼女は鬼の形相だ。ひ弱でか弱い喘息魔女がなんたることか。
「あんたんところのメイドどんな教育してんのよ! 購入依頼した魔道書、やっと届いたと思ったら全部表紙差し替えられてたわよ! 中身やおい本じゃない!」
そう言って差し出す一冊をぱらぱらとめくると、そこにはあられもない姿で絡み合う男子諸君のイラスト。ああそうだ。外界ではそろそろコミケってやつの時期なんだっけ。
もう体力が持たない。早急に原因を解消するべきだ。
「……というわけよ」
咲夜の様子がおかしくなってから一週間。昼の散歩に出かけた拍子に、うっかり咲夜が日傘を忘れて私が砂になりかけたところで、私の中で何かが吹っ切れた。人に弱気を見せることをよしとせず、主としての矜持の元、絶対孤高を信条にこの幻想郷の地を踏んでいた私だったが、この調子では命の危険すらありうる。やむなく私は紅魔の頭脳、パチュリー・ノーレッジを頼ることに決めた。
ご機嫌取りに彼女が発注したはずだった魔道書を改めて発注し、やおい本と取り替えるよう取り計らったが、パチュリーは何故かやおい本の差出を拒否した。この前図書館の隅っこでにへらにへらとそれらを読むパチュリーも見た気がした。いややっぱ見なかったことにしよう。
「そんなこと言われたって、私は咲夜のナイフなんて知らないわよ」
「せめて代わりのナイフを用意できればなぁ、なんて」
「代わりでどうにかなるなら、最初からこんな混乱にはならなかったんじゃ?」
「う」
咲夜の持ち歩いているナイフは十二本。時計盤に見立てた本数だ。何の変哲もない、装飾も特に派手なわけでもない、どこにでもあるようなナイフだった。侵入者撃退の際には、他にも何十本かナイフを装備すると言っていたが、そのナイフで代用は出来ないのだろうか?
そういえば、彼女は戦闘でナイフを用いるたび、いちいち時間を止めてその十二本だけは回収していると霊夢から聞いた。かなり長い間使っているはずだが、その刀身は新品のように綺麗で切れ味も落ちていない。入念な手入れが窺える。それだけ大事だと言うことか。
「じゃあ、探すしかないわね」
「どうやって、誰が」
「……わ、私が、片っ端から人に聞いて」
「咲夜のいない今、あなたは昼間外に出ることも叶わないわ」
「よ、妖精メイドに」
「メイドたちはそこまで頭が良くない。迂闊に外に出したら二度と帰ってこないわよ」
「……中国」
「言うに及ばず」
「パ」
「喘息舐めんな」
「……うー」
悉く私の提案に突っ込みをいれるパチュリー。しばらく前は大量に本抱えて部屋に押しかけてきたくせに、こんなところで病弱を気取られるとは。さすが魔女、血も涙、も、あいてててて頬引っ張らないでパチュリー!
「理不尽につねらないでよ! 痛いじゃない!」
「顔に『何が喘息持ちだよ魔女め』って書いてあるわ」
はっとして顔をぺちぺちとなでさする。「やっぱり思ってるじゃない」と余計に強くつねられる。くそう計ったな魔女め! 吸血鬼を罠にかけるなど!
すっかり腫れて餅のように垂れた頬をえぐえぐすすり泣きながらさする。結構容赦なくやられた。本気で痛い。痛みの誤魔化しに、咲夜に内緒で他の妖精メイドに淹れさせたお茶を口に含む。今の咲夜のように異物が混じっていたり味が酷かったりということはないが、やはり咲夜が淹れてくれる紅茶よりは美味しくない。咲夜の紅茶の味が恋しかった。
一口飲んで、微妙に揺れる水面をじっと見つめる。
「どうしたのよ、そんなしんみりした顔で」
「……さみしいなぁ、って」
完全無欠の吸血鬼を自負していたはずだったが、メイド一人失っただけでこの様だ。私一人では外出することも出来ないし、美味しい紅茶も満足に飲めない、ちっちゃいわがままなお子様でしかない。私が優雅に瀟洒に日々を無為に過ごしていたとき、咲夜は裏方に回って、私の食事から買い物から散歩から何から何まで全て私の満足するように取り計らってくれる。その労力はいかな大きいものか。今までなんでそんな簡単なことを考えなかったのか。どれだけ咲夜にかまけて毎日生活してきたか。情けない話だ。私はこんなにも弱い存在で、咲夜はあんなにも偉大だったのだ。
一体何様だよ、レミリア・スカーレットは。ちっちゃくてかわいいわがままレミリアちゃん。そして咲夜様様じゃないか。
私はカップの紅茶をぐいと飲み干し、立ち上がる。パチュリーはさして表情も変えず、ゆっくりと自分の分の紅茶をすする。
「私、行く」
「どこへ行くの? 今は真夏で、真昼間よ。一人じゃ砂になって消えるだけだわ」
「構うものか。傘を差してくれる人がいないなら、私が自ら傘を差そう。転んだって泣くものか。私は偉大なる吸血鬼の眷属。舐めてもらっちゃ困るんだよ」
「……そう」
踵を返して図書館を出ようと本棚の間を歩く。その足取りが、自信と勇気に満ち溢れているのを自分で感じ取れる。私は一人で、紅魔館の門扉を開けて歩き出す自分を想像する。大丈夫だ、私ならやれる。咲夜に頼らなくたって、一人で太陽の下を歩ける。なんてったって私は、崇高なる吸血鬼なのだから。
「待ちなさい」
パチュリーの声に振り向くと、頭上から光の輪が三つ降りてきて、私を包み込む。くるくると輪が腰の辺りで回転したかと思うと、上から順に、ぱちぱちぱちん、と弾けて消えた。
「日除けの魔法。今日一日だけなら太陽の下でも自由に動けるわ。ただ、その後は覚悟しなさいよ」
「ああ、ありがとうパチュリー」
不適に微笑むパチュリー。冷酷で、達観したような眼差しの彼女とはうってかわって、私を応援してくれるような、優しい表情だった。
さあ、いくぞレミリア・スカーレット。恩返しタイムの始まりだ。
保管していたのに無くなったということは、その日紅魔館に来ていた者か、紅魔館周辺にいた誰かが犯人と言うことになる。湖を住処にする妖精たちは、物を盗ったり壊したりなどのいたずらは日常茶飯事だが、咲夜の怖さを知る以上、まさか咲夜のナイフを弄ることはしないだろう。
妖精メイドに聞き込みをして犯人を洗い出したいが、パチュリーも言うように妖精は知能レベルが低い。多分一週間も前のこととなると、すっかり忘れてしまっているだろう。当日は霊夢、魔理沙、アリスの三人が紅魔館を訪ねていた。そちらから調べていくことにしよう。
……あれ?
私は何か違和感を感じて、紅魔館の大門を振り返る。特に変わりない、冷たく侵入者を拒む鉄柵が聳え立っている。気のせいか? 疑問符を振り払って、私は博麗神社へ飛ぶ。
「レミリア? 今お昼よ? 何で傘も差さずに外を歩いてるの!?」
博麗神社には既に魔理沙がいた。霊夢は日課の庭掃除をしていた。魔理沙のほうは縁側に座ってお茶を飲んでいる。私の姿を認めた霊夢は神社の奥に引っ込むと、私の分のお茶を持って来てくれた。炎天下に嬉しい冷えた麦茶。せっかく霊夢と二人だけでイチャイチャラブラブしようとおもっ……いや今のなし今のなし。魔理沙のところを訪ねる手間が省けたのでよしとする。
簡単に事情を説明したが、二人は首を傾げるばかりだった。
「私は知らないわよ。ていうか、その日はずっとバルコニーであなたとお茶してたじゃない」
そういえばそうだった。私は紅茶、霊夢は神社から持ってきたお茶で、咲夜と並んでお茶会を開いていた。強い夏日が差していてもさわやかな風の吹く涼しい日で、冷たいアプリコットがとても美味しかったのをよく覚えている。その日のことを思い出しながら、私は縁側に魔理沙と並んで茶をすする。咲夜の紅茶の美味しさには負けるが、霊夢の愛情をひしひしと感じる。とても美味しい。でも霊夢の体液はもっと美味しい。霊夢のあの丸出しの腋を思う存分一日中舐めていたい。いつの間にか手に持ったお茶が血液ティーになっていた。あ、私の鼻血か。危ない危ない。
「魔理沙は? 魔理沙はバルコニーにいなかったろう」
「私も見ないな。アリスと一緒に図書館にいたしな。パチュリーに証言も取るといいぜ」
「ま、私たちが咲夜の部屋に入る必要なんて無いしね」
それもそうか。アリスと魔理沙は紅魔館に来るたび図書館に入り浸っている。毎回図書館から聞こえる怒号からすると、アリスとパチュリーが痴話喧嘩してばかりいるようだ。魔理沙も災難である。そのままどっちかに娶られて霊夢を諦めてくれればいいのに。
「それ、代わりのナイフじゃ駄目なの?」
「……大事にしていたらしいから、出来るなら代替品は避けたい」
「……んー。私はそうも思わないけどなぁ」
気難しい顔をしてお茶をすする霊夢。そんな顔も可愛いよ霊夢霊夢。
仕方ない、紅魔館に戻って駄目元でメイドに聞き込みをするか。諦めムードで鼻血茶を喉に押しやっていると、魔理沙があっ、と小さく悲鳴を上げる。顔を上げると、なにか思い出した風。
「そういえば、最近香霖堂でナイフ売ってるの見たぜ。あれアリスが売りつけたらしいんだ。期待できないが、見に行ってみたらどうだ? 咲夜のかもしれん」
「本当!?」
良いことを聞いた。魔理沙に礼を言って、霊夢にひとまず抱きつく。一瞬後に私は地面と熱烈にキスをしていた。ああんもういけずぅ。
「私たちに出来ることがあれば、また手伝うわ」
「人助けならそれを断るわけにはいかないしな」
「助かる。ありがとう」
頑張れよ、と手を振る二人にお辞儀をして、私は一路魔法の森へと向かう。
香霖堂には魔理沙の言うとおり、十二本のナイフが飾ってあった。私は咲夜のナイフをまじまじ見つめたことが無いので、咲夜のナイフかどうか判別できない。秘密裏にサプライズ的にナイフ探しをしているので、咲夜を呼んで確認することも出来ない。運のいいことに、店主の霖之助だけでなくアリスも来店していた。これまた手間が省ける。
アリスは人形の材料を購入するために霖之助と交渉しているようだった。アリスの人形はマジックアイテムの類であるので、人里の店に売っている具材では作れないらしい。熱心に話し込むアリスの肩を叩いて、話を中断させる。水を差されてアリスは不機嫌そうだ。
「ねえ、このナイフどこから仕入れたの?」
「何でそんなこと言わなきゃいけないのよ」
事情を説明すると、アリスは余計に不機嫌になった。自分の持ち物だったナイフを盗品扱いされていると思ったらしい。
「私は魔理沙と図書館にいたのよ。盗るはずないでしょう。これは上海に持たせようと思って集めてたナイフ。れっきとした妖怪の名工から仕入れた品よ」
「む、そうだったか。……疑ってすまない」
素直に頭を下げる。いつもとは違う反応に、アリスは気味悪そうに私を見る。
脇から様子を傍観していた霖之助が口を開く。
「代わりのナイフとして買うなら安くするよ。いつもいろいろ買ってもらってるしね」
「買う? 吸血鬼が何買うのよ」
「何って例えばれい」
「うわー! うわー!」
口を開きかけた霖之助を必死に抑える。この優男守秘義務って言葉知らないのか。一を聞いて大体をつかんだらしいアリスはにやにやと笑っている。く……こいつ広めたりしねぇだろうな!
「悪いが、代替品は奥の手だ。そこらで適当に埋め合わせては、恩返しにならない」
「うん、その心意気、気に入ったよ。頑張ってね」
「ああ、そういえば」
感心してうんうんと首を振る霖之助。感心してくれるのは構わないが、なんだか子ども扱いされてる気がする。私の恩返しはそんなに奇妙なものなのだろうか。自信がなくなってくる。
その横で、アリスが何を思い出したのか手を叩く。
「図書館に一度美鈴が来たわ。咲夜を探してるって言ってたけど」
「それは本当か!?」
「ケースを持っていたわね。もしかしたらあれがナイフの入れ物かも」
「あ、ありがとう! 礼はまたする!」
ナイフは取っとくから、と霖之助の声を後にして、急いで香霖堂を出る。灯台下暗しというやつか。美鈴の可能性を忘れていた。あの日は美鈴も館内にいたのを思い出す。居眠りしてばかりの美鈴は咲夜の怖さを重々承知しているはずだが……
昼下がりに紅魔館を出て、もう三時を回っていた。急がなくてはならない。
紅魔館を出るとき感じた異常にやっと気づいた。
門番が門にいない。閉じられた鉄扉の横で居眠りをしているはずの赤緑の娘がどこかへ消えていた。
「……これはまさか」
犯人の線が高いだろう。本当に美鈴がやったとも思えないが、付近の妖精なら恐らく所在を知っている。
「あれ、レミリアだー。外に出てていいのか?」
門の前で思索に耽る私に声をかけたのは氷精チルノだった。長めの木の枝を持っている。動物の糞でもつついて遊んでいたのだろうか。だとしたら、無邪気で子供っぽい妖精だし、致し方ないことだが不潔だ。もしそうなら咎めてやることにしよう。
「ちょっといろいろあってね。美鈴を知らないか?」
「ちゅーごくならあそこにいるよー。さっき枝でつついて遊んでたのー」
そう言って木陰を指差すチルノ。その先には三匹の妖精。その全てが一様に木陰からはみ出した何かを枝でつついていた。……犬か何かの糞であったほうが、ずっと良かったな。
あれ美鈴の尻だ。
「ううううううううすびまぜんんんんんん」
地に平伏して土下座する美鈴。その衣服も身体もボロボロで薄汚れている。ずっと隠れていたのだろう。そういえば、しばらく美鈴の顔を見ていなかった気がする。咲夜が不調なせいで、外に出ることがなかったから美鈴と顔を合わせる機会も無かったのだ。
美鈴が言うには、開けっ放しの咲夜の部屋をいぶかしんで、侵入者でもいるのかと中の様子を確認したとき、部屋に忘れられたナイフのケースを発見したらしい。これはいけないと咲夜に届けるつもりで紅魔館中を徘徊したが、気づいたらケースをどこかに落としてしまったらしい。探しに探し回って、廃棄物を漁ることまでしたが、妖精メイドに聞いたところ、廃棄品と間違えて回収してもらったと言う。咲夜に見つかったら絶対殺されてしまうと思って、身を隠していたそうだ。
「あなたってやつは」
「えううう、すびばずん……責任とっで門番辞めばずがら……許してくだひゃい……ひぐ」
何度も何度も頭を地面にこすり付けて平謝りされる。本当に反省しているようだ。顔をぐちゃぐちゃにして大号泣する姿が、見ていてかわいそうに思えてくる。行く当ても無いのに、門番を辞めるとまで言うとは。
確かにこの一週間は地獄だった。紅茶も飲めない、外出できない、まともな生活はちっとも送れなかった。その元凶が彼女なのだから、今すぐにでもクビにしたいくらいだ。
「……頭を上げなさい」
「えぐ……え?」
「怒らないわ。あなただって良かれと思ってやったのでしょう?」
だが、彼女は咲夜のためを思ってナイフを手にとって、紅魔館中を駆けていたのだ。居眠りばかりで、咲夜に迷惑をかけていることに後ろめたさを感じていたのかも知れない。少しでも彼女を助けようと必死になっていたんだろう。そんな健気な彼女を、私が頭ごなしに怒ることは出来ない。
それに、むしろ感謝してもいいくらいだ。咲夜の不在で不便を被ることにはなったが、同時に彼女がどれだけ私にとって大切な存在かを再認識させてくれた。こうやって、彼女に恩返しをすることも出来る。この一件が無ければ、こんな機会にも巡り合わなかった。
「ただ、後で咲夜に謝りなさいね。怒らないように、私からも言っておくから」
「あ、ありがとうございます!」
「ああ、だから頭を上げなさいって」
やっぱり泣きながら土下座をする美鈴。私は彼女の肩をとって、彼女を立たせる。近寄った彼女の身体は、泥だけでなくゴミや葉っぱでも汚れていた。逃げていただけではない、多分、紅魔館の外まで走り回ってナイフを探していたんだろう。私はくすりと笑う。何て健気な門番なんだろう。
今日はゆっくり休むといい、と美鈴を紅魔館に送った後、私はこれからどうするかを考えていた。ゴミと一緒に捨てられたならば、もう取り返しようがない。日が暮れかかっていた。やっぱり、代わりのナイフを買うしかないのか。果たして、それで彼女が満足するかも分からない。
「あ、レミリアじゃない。ナイフ見つかった?」
悩んでいる私の隣に、霊夢が降り立つ。わざわざ様子を見に来てくれたそうだ。
「残念ながら、間違えて捨てられたらしい。……代替品で済ませるしかないのかな」
「んー……なんで代替品をそんなに嫌うのか分からないけど」
「だって、咲夜が大事にしていたナイフだぞ? それを、そこらのナイフで代用できるとは……」
「私はそうは思わないわ」
そう言って、ごそごそと袂を探る霊夢。出てきたのは、何の変哲もない湯飲みだった。
「これ、魔理沙からもらった湯飲みなんだけどね。しばらく前に魔理沙が私の大切にしていた湯飲みを割っちゃったのよ。彼女もかなり申し訳なく思ったらしくて、香霖堂でこれを買ってきたの。結構高いらしいのよ、外の有名な陶芸家の湯飲みだとか」
「…………」
「私ね、湯飲みが割れたことは凄い悲しかったけど、それ以上に魔理沙が私のために湯飲みを買ってきてくれたことが嬉しかったの。値段じゃなくてね。むしろ、割ったおかげで魔理沙にこんなことしてもらえたのかなぁって」
滔々と語る霊夢を、私はただ見つめる。微笑んだ彼女の目は、幸せそうに湯飲みを見る。少し魔理沙に嫉妬した。
「……そういうものかな」
「そういうもんよ」
そう言って、ふわりと宙に浮く霊夢。私は何も言えず、立ち尽くしていた。博麗神社のほうへと消えていく霊夢を、私はただ見つめるだけだった。
日も暮れて、紅魔館にも夜の帳が下りてきた。月の光が立ち込める中、霧の湖は、鏡のように光を反射してきらきらと輝いていた。満月でも半月でも三日月でもない、名前も知らない中途半端な形の月だが、私はこの月の形がなんとなく好きだった。
湖の畔で、一人草原に座る咲夜を認めて、私はその隣に座る。突然あらわれた私に、彼女は驚いたようだった。双方何も言わず、沈黙だけが暗闇に平たく伸ばされる。微風に銀髪をそよがせる咲夜は、年相応の少女の様相だった。多忙な毎日ゆえ、大人であり続けなければいけない彼女が、こんな顔を見せるとは思わなかった。
「たまに、心が折れそうになるとここに来るんです。静かな月を見ていると心が落ち着いて」
私が何も言わないうちに、彼女は喋り始めた。墨のように黒く染まった湖は、たまに小さな水の波紋を起こして揺れる。小魚のはためく音が、鳥のさえずりが、耳を澄ませば鼓膜に染み入る。悪くない雰囲気だ。心に、暖かな液体が満たされていくような感覚。
彼女の口調はどこと無く感傷的だった。彼女のナイフは彼女自身の心にも切り傷を残して消えたようだ。流れ出す血液に水をかけ、水をかけ、痛みを誤魔化そうとここに来たのだろう。メイド長としての立場が邪魔をして、咲夜は何でも抱え込みすぎる。気丈で瀟洒にあろうとする『役目』が、彼女の傷口をさらに広げる。
「……すいません、馬鹿なことを言って。もう、大丈夫ですので、本当に。明日からは」
「強がらないで」
強い語気で、咲夜の言葉を遮る。責めるような言葉に、咲夜は驚く。
特に、最近は私事のせいでまともに仕事が出来なかったのだ。完璧を求める彼女にとって、それがいかん苦痛だったか、容易に想像がつく。一週間、私は咲夜に頼ることをなるべく避け、出来る限り妖精メイドに用事を任せるようにしていた。へたれた自分と、疎遠な態度の主。きっと、彼女を苛むのは心の張り裂けるような思い。
ならば、その傷を埋められるのも私以外にあるまい。
「これ、咲夜に」
懐からケースを取り出して、咲夜にぶっきらぼうに渡す。いざとなると恥ずかしいものだ。黒塗りの、小さな鉄のケース。ぞんざいに胸元に押し付けられたそれを咲夜は手に取る。ぱちん、ぱちんと金具を解く音をさせて、咲夜はゆっくりとその中身を覗いた。
「ナイフ、ですか」
「ええ。あなたの持っていたナイフは結局見つからなかったけど。せめて代わりに、ね」
香霖堂で買ったそのナイフは、アリス曰く妖怪の名工の作品らしいが、見た目がシンプルでとてもそうは見えない。黒塗りの柄に対比的な銀の刃が、十二本それぞれ月光に煌く。一本を使って試し切りをしてみたが、切れ味は良かったし、軽くて使いやすかった。本物の職人と言うのは、その実用性において技巧を凝らすものなのだろう。
ナイフを眺めてしばらく咲夜は固まっていた。一本を取り出しては、その様子を見る。表情をあまり変えずに一連の動作をしているので、心中で何を考えているのか分からない。選択が間違っていたのか合っていたのか、その答えだけでもほしかった。どきどきしながら彼女の言葉を待つ。
「……っ」
「……え」
ケースを閉じて胸元に抱えたかと思うと、突然咲夜は泣き始めた。私はしどろもどろになりながら彼女の肩を包むように寄り添う。
「や、やっぱり駄目かな? 気に入らなかった? わ、私、ナイフとか詳しくないから、良く分からなかったから」
「い、いえ……すいません、取り乱、して。嬉しくて、私」
しゃくりあげながら、憚らず大泣きする咲夜。広い空間に、咲夜の泣き声が響く。私としては複雑な気持ちだ。手放しで喜んでいいのだろうか、これは。
……あれ? なんだか目の前がにじんできた。涙でも流してるのか、私は。
「大丈夫、かしら、ありあわせの、とってつけたような品だけど、喜んでくれるかしら?」
「ふ……っく、勿論、です。ありがとうございます、お嬢様」
流涙を何度も指先で拭き取る咲夜。口元をゆがめ、吼えるように泣き続ける彼女を見ながら、私はなんとなく、平衡感覚を、なくし、て。
「……お嬢様?」
落ちるように、暗転する。
ベッドで目覚めたとき、枕元に咲夜がいた。さりさりと見惚れるような手つきで林檎の皮を剥いている。私はどうやら倒れたらしい。昼間のパチュリーの言葉を思い出す。『その後は覚悟しなさいよ』だったか。太陽を避ける魔法をかけてもらったとはいえ、太陽は吸血鬼の天敵。簡単な魔法で完璧に凌げるなら苦労しないのだ。
目はまともに開かないし、カーテンも閉まっているがどうやら朝のようだ。随分寝ていたらしい。咲夜の目元にうっすら隈が出来ている。悪いことをしてしまった。
「ああ、起きられましたか。林檎、剥けてますので」
そう言って皿に小奇麗に盛られた林檎を差し出す。吸血鬼に民間療法が効くのか疑問だが、好意に甘えて林檎をほおばる。……まさか。
「……中に変なもの入ってたりしないだろうな?」
「ふふ、もう大丈夫ですよ。全快です」
一安心して林檎を噛み砕く。蜜を多く含んだ林檎が口の中に芳醇な香りを満たす。甘くて美味しい。しゃりしゃりと実を噛む音を響かせて、私はひたすらに林檎を食べる。まだまだ沢山ありますので、と咲夜は林檎をさらに一つ剥く。久しぶりの味だ。咲夜の剥く林檎の味。涙が出そうだ。紅茶がほしいなあ、と思うと咲夜が何も言わずアプリコットを差し出す。ああ、なんと幸せな気分。これだ、これこそが咲夜の淹れる紅茶の味だ。この紅茶を飲まなければ、一日が始まらない。
「ありがとうございます、昨日は。嬉しかったです」
「でも、悪いな。咲夜のナイフは結局見つからなかった。大事だったんだろう」
「……レミリア様はきっと、お忘れになっているでしょうが」
私の言葉に一拍の間をおいて、咲夜は語り始める。
「私とレミリア様が出会って何ヶ月かしたころです。紅魔館のメイドたちに馴染めず、一人で寂しくいることが多かったときでした。私は、レミリア様からナイフをいただきました。私の能力に見立てた、十二本のナイフ。本当に、心の支えになりました」
「……ん」
「ですから、いいのです。レミリア様は、あの時のように私にナイフをくださいました。私はそれだけで、とても、嬉しいのです」
そして、咲夜は林檎を剥く作業に戻る。表情を伝わせるように、滑らかにナイフが林檎の表面をなぞる。使っているナイフは、昨夜私が彼女にあげたものだった。銀の刃は林檎の果汁を弾いて朝露のように輝く。
いつも一人で仕事をしている彼女に手渡したナイフ。それは彼女が円滑に自分の役割を果たせるように。私の身をいつでも守れるように。自分に仇なす者に、反撃できるように。
「……忘れるわけがないわ」
「え?」
「今日、夢を見たの。昔の夢。私があなたにナイフを贈ったときの夢」
吸血鬼が夢を見るなんて馬鹿馬鹿しい話だ。概念的な存在の吸血鬼は脳味噌を持たない。夢を見るための器官は存在しないのだ。それでも夢を見るとしたら、きっと――それこそ夢みたいな話だが、心で、魂で夢を見るのだろう。心の奥底に仕舞われた、大切な思いを夢見るのだ。
小さく呟いて、気恥ずかしくなった私は目をカーテンに阻まれた窓にそむける。微かに光がカーテン越しに漏れる。さわやかな朝だ、と無意識に思う。太陽を嫌う私が、朝日を見てさわやか、など。一体私はどうしちゃったんだろうな、と可笑しくなる。
「いつもありがとうね、咲夜」
「どうなさったんです? お嬢様がお礼だなんて、珍しい」
「私までどうかしちゃったみたいなの。きっとあなたのせいよ」
「それはいけないですね。付きっ切りで看病しなければ」
「ふふっ」
馬鹿馬鹿しくて、困り果てることばかりだった一週間だったが、たまにはこういうのも悪くは無い。自分で言った感謝の言葉があまりにも似合わなくて、私たちは笑いあう。
私も、咲夜も、主と従者としてではなく、見た目そのままの少女のように。
「ところで咲夜?」
「何でしょうお嬢様」
「あの日の紅茶に私の黄金水が混ざっていたみたいなんだけど」
「え?」
「あれ、どこで仕入れたのか教えてくれるかしら?」
「……な、何のことだがさっぱり」
「しらばっくれんな」
「やーん、もうこんな時間。朝のメイド集会を開かな」
「逃げんな」
最初にあった疾走感が最後まで残っていれば。
ゆえに-20のこの点数で。
咲夜のナイフをレミリアが探し出すという割と定番な流れに、変態を練りこんだのはありだと思います。
が、ほのぼのなのかギャグなのか曖昧なまま読了してしまい少し燻った読後感でした。
終盤の霧の湖で話す二人の下りが良かったです。レミ咲一本に絞ったらよかったかもしれません。