「そんなに強ひるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤は譫言をいふと申すから、それが恐くつてなりません、何卒もう、眠らずにお療治が出来ないやうなら、もうもう快らんでも可い、よして下さい。」
聞くが如くんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現の間に人に呟かむことを恐れて、死を以てこれを守らうとするなり。
泉鏡花『外科室』
1 竹林の夜
「永琳、起きてる?」
今日の研究の進捗具合を記した日記を書き終え、もうそろそろ寝ようかと立ち上がり、背のびをして眠気を発散したちょうどその時に、輝夜の声が後ろから聞こえた。
……先ほどまで研究を手伝っていた妖怪兎が、出て行く時にドアを閉めなかったらしい。だから輝夜がいつからそこで私を見ていたのかはわからない。私は溜息をついて、後ろを振り向き、椅子の背に手を置いて輝夜を睨んだ。
輝夜は薄い闇の中に立っていた。少しくすんだ桃色の、地味だけれども趣味の良い夜着に包まれて。いつものように口元を、祈るように合わせた両の袖で隠し、眼にはなんとも判別しがたい微笑みの色を浮かべている。
「こわぁい顔」
輝夜が目を細めて柔らかく言う。
「先ほどの質問に答えると」私は少し目元を緩めて言う。「残念ながら、私の半分はもう使いものにならないようね。貴女の相手をしている余裕はないわ」
「ふん。じゃあわたしと喋っているのは、永琳のたった半分ってわけね。天才の知性が半分になってしまったら、使い道はあるのかしら」
「いい子はさっさと一人で寝なさい。私の相手をするなんて百年早いわよ」
「いい子じゃないから、寝ない。それに百年なんてあっという間に縮めてみせるわ」
私は少し笑う。まったく子供みたいなことを言う。
輝夜が口を隠していた袖を下ろすと、薄い胸に張り付いていた枕がポスッっと床に落ちた。最初からそのつもりだったらしい。輝夜はゆっくりした所作でそれを拾いあげると、謎めいた流し目をちらりと残し、「待ってるわ」と硬い声で呟いてから、隣の部屋へふわりと消えた。
彼女が戸口の向こうの闇に吸い込まれるのを見てから、私は机の傍にある丸い窓を覗きこんだ。夜ももう遅い。竹林を秋の爽やかな風が吹き抜けて、さわさわと葉の擦れる音がひっきりなしに夜をくすぐっている。それ以外は、まったく静かな宵だった。
年に一度とか、月に一度とか、頻度は数えたことはないけれども、輝夜は時たまこういうことをする。夜中にふらりと私の部屋に現われては、一緒に眠るように催促するのだ。始まりがいつだったかは覚えていない。たぶん最初のうちは私も断っていたのだと思う。ただ一回だけ承諾してから以降、もはやなし崩し的に受け入れざるを得なくなってしまった。なぜ承諾したのかはもう忘れてしまったし、輝夜がなにを考えて添い寝を望むのか、正直なところ私には見当もつかない。でも特にやましいことがあるわけでもないので、やれやれと毎度のことで思いながらも、以前に一緒に眠ったのはいつだったか、その時の彼女の温もりを、その際の会話の内容を、ただぼんやり思い出そうとしている自分に気がつく。
「まったく、しょうがないわね」
窓に向かって呟いた。机の上の灯りがまだついていたので、硝子に写った自分に呟くような格好になる。私は首を振って、机の上を出来る限り悠長に片づけると、自分の寝室へ向かった。
2 わがまま
部屋にはもう布団が敷かれていた。真ん中がお饅頭みたいにぽっこり膨れ上がっていて、そのこちら側の一辺に、息をするために輝夜が毛布を少し持ち上げている箇所があった。私はわざと大きく溜息をついて、裸足で畳に上がると、着換えるために部屋の隅の箪笥へゆっくり歩いて行った。湯浴みはもう済ませてあるけれど、上がってからのもう一仕事をこなすために、普段の服を着用していたのだ。
私が着替えている間、輝夜が起き上がるのが音でわかった。私は気にせずに服を脱ぎ、夜着姿になると、後ろでまとめていた髪をほどき、鏡で自分の顔を確かめてから、初めて輝夜のほうを見た。
「面白かった?」
私は少し笑いながら問いかけた。
輝夜はまるで二人羽織かなにかのように、毛布を頭からすっぽりかぶったままこちらを見ていた。彼女は私の言葉に反応して、わずかに悪戯っぽい笑みを残すと、毛布の重みに自然に押しつぶされるかのように、ふぁさりと布団につっぷして、見えなくなった。はらはらと宙にひるがえる豊かな黒髪の残像が、記憶の片隅に焼きついた。
そうだ。こういう風に私のところを訪ねてくる夜、決まって輝夜は子供っぽく振る舞うのだった。いつもよりも少し甘やかな声で話しかけてくるかと思えば、急にすねたように黙り込んだりする。こういう時は、いつも以上につかみどころがない。まったく迷惑なことこの上ないけれど、それでもなんとなく受け入れてしまう私は、つくづく彼女に甘いのだろう。もしかしたら私のそういうところを知っていて、狙って子供らしく演技しているのかもしれないが。
私は文机の上にある銀色の水差しから少しだけ水を飲んで、一度出口まで行き、廊下に置いてある籠に脱いだ服を詰めておいた。こうすると当番の兎が朝に洗濯してくれる。そして冷え切った空気を深く吸い込み、長く吐き出し、暗い廊下の奥を一瞥してから、ゆっくりと襖を閉めた。
布団には輝夜の横にちょうど一人分だけ入れる空白があった。そこにもぐりこめということらしい。ぺらりと毛布をめくると、中で丸まっていた輝夜が私を見返した。
「寒いわ。早く入りなさい、永琳」
「仕返しよ」
そう言って、するりと毛布の下へ体を滑り込ませる。輝夜の体温で暖められていたせいか、ひどく居心地が良い。
私は輝夜の腕から枕を奪い取って(何故か私のものまで抱え込んでいた)、きちんとあるべき場所に整えると、そこに頭を深くうずめて、仰向けに寝転んだ。思わず息を大きくはく。輝夜は毛布から顔を出す気はないらしく、私の右腕に両の腕を絡ませたまま、暗闇の中から私を見上げているようだった。まるで猫のようだ。息苦しくないのだろうか。
「なにに対しての仕返しなの?」輝夜が囁き声で尋ねた。
「孤独な夜の権利の侵害」私は声を出して答える。
「なによそれ」
「人にはみんな、夜を独りで静かに過ごす権利があるのよ」
「わたしがそんな権利を、貴女に認めるとでも思うのかしら」
凄まじく傲慢なことを、甘えるような声で言うものだから、私は返す言葉を失って、暗闇の中で輝夜にわからないように薄く微笑む。
「永琳、怒った?」
「物凄くね」
私の右足の甲に、輝夜の両の足の裏がくっつけられる。乾いていて暖かい。
「冷たい」輝夜が囁く。
「私の足が? それとも態度が?」
「両方よ」
笹の葉の擦れるような笑いが、毛布の中の闇から聞こえてくる。
「もう寝かせてくれないかしらね」私は溜息混じりに言う。
「疲れてるの?」
「眠たいだけよ」
輝夜が黙る。すねたような沈黙だ。足がどかされるけれど、両の腕はまだ絡まったままだ。
そのまま彼女が寝入ってしまうことをぼんやり祈った。なにせ、際限なく話しかけてきては人の睡眠を邪魔するくせに、眠る時は人より早く、深く深く眠りこむのだから。これまでのケースでは、輝夜が眠りこんだ後で私はなぜか眼が冴えてしまい、結局彼女の寝息をただ聴きながら明け方近くまで眠れないことが多かった。
それにしても、何故こんなわがままを許しておけるのだろうか。少し疑問に思わないこともないけれど、その疑問がわいてくるのとほとんど間を置かず、即座にその答えもわきあがってきてしまうのだからどうしようもない。
すなわち、私にわがままを言っているのが、輝夜だから、ということだ。度合いの差こそあれ、たぶんこの世の誰にとっても、わがままを許せる相手というのはいるもので、たまたま私にとってはその相手が輝夜なのだろう。たとえばこんなことをしてくるのが因幡てゐだったら、どうか。なんて仮定の話すら、あの妖怪兎の場合だったらまったく想像もできないので、それはそれで見てみたい気もして、少し笑えてくる。いつもながら、全然まとまらない思考をしているな、と思った時、案の定輝夜が何事もなかったかのように話しかけてきた。
「ねえ、最近面白い薬は出来たの?」
これは今日もなかなか寝かせてくれないだろう。私は少しだけ覚悟を決めて、返す言葉を考え始めた。
月明かりの夜だ。
3 胡蝶の夢
起きたのはもう昼に近かった。遠くに、目的も節操もなく走りまわる妖怪兎たちの立てる喧噪の音が聞こえる。起き上がろうとすると、まだ輝夜の手が私の袖の端をつかんでいるのに気づいた。私は少し顔をしかめると、起こさないよう静かに手をどかして、立ち上がる。もう少し寝かせておくことにしよう。
輝夜の寝息を若干意識しながら、枕元に置いてあった瓶を文机の引き出しに鍵をかけてしまいこみ、いつもの赤と青の服に着替えてから、寝室を後にした。
腕組みをして、昨夜のことについて思いを巡らせながら中庭に面した廊下を歩いていると、縁側の際に腰かけている因幡てゐに行き合った。両手はお尻の両脇について、なにも履いてない両脚を宙にピンと伸ばして、自分の小さな足のつま先をなにやら真剣に見つめている。ピンクのワンピースと、にんじん型のペンダント、それに櫛をいれたくなるようなくしゃっとした髪はいつも通りだ。
「おはよう」
私が声をかけて傍まで行くと、てゐは白い耳を立たせてぴょこぴょこ振った。それからこっちを見て、悪戯っぽい表情を浮かべる。
「珍しく今日は遅いね。もう昼だよ」
「見ればわかるわ」
「実験を手伝ってた兎、今日はフリーだーっとか言って、どっかに遊びに行っちゃった」
「もう今日はいいわ。それにしてもあの兎、あまり使えないわね。もっといいのを貸してくれないかしら」
「知恵を授けたのは、わたしじゃないから」てゐはまた中庭のほうを向いた。「そんなにいいのが欲しかったら、自分で見つけてきなよ」
「それができたら苦労はしない。あの兎だけじゃ不十分だから、明日からまた貴女にも手伝ってもらうわよ」
「いいですとも、お師匠様」てゐはくすくすと笑って、皮肉っぽく言った。「まあ、そのうちに、空から優秀な助手が降ってくるかもね」
そう言うと、てゐは腕を後ろに反らせ、太陽とは反対の方向を指差した。
「できればそう願いたいものね。そこまで楽天的にはなれないけれど」
「それと、あの兎に訊いたんだけど」
「なに?」
「良い夢を見られる薬ができたんだって?」
私は溜息をついた。
「……教育がなってない。私の研究は基本的に他の兎たちには秘密よ。最初にあの兎にも説明したはず。言われたことも守れないのなら、なんのために知恵を授けたのかわからないわ」
「どんな兎も、わたしにだけは嘘は突きとおせないよ。もちろん秘密も守れない」
てゐは感情のこもらない声でそう言うと、両手両指を頭の後ろで組み合わせそのまま後ろに寝転んだ。両脚は淵からぶらりと垂らしたまま。
私も縁側に腰掛けた。風はそれほど吹いていないけれど、空気は冷たい。空にぼんやり浮かぶ太陽はどこか輝きが薄く、あまり役に立ちそうにない。縁側から垂れたてゐの両脚が気まぐれにぶらぶら揺れている。実年齢に反して、立ち居振る舞いはまるで子供だ。
「いい夢が見られるなんて、あんたにしては効果がわかりやすくて面白い薬を作ったもんだね。珍しい」
「言われてみれば、そうね。珍しいかもしれない」
「もう名前とか決めた?」
「一応、考えてはいるんだけど」
「たとえばどんなの?」
「胡蝶夢丸、なんてどうかしら」
「こちょう……」むがん、とてゐは呟いた。「あれかな? 蝶の夢を見ている人間なのか、人間の夢を見ている蝶なのか、ってやつ?」
「まあ、そうね」
「へえ、なかなか粋だねえ」
「夢が楽しいあまり、現のほうに戻りたくなくなってしまう、なんてこともあるんでしょうしね」
私は少し自嘲するような口調で、言葉を地面にぽつりと落とす。
「どうしたのさ。なんかあったの? 昨日の夜」
てゐは先ほどから、私の様子にいつもと違う感じを抱いていたのか、片腕を杖にして床に寝そべり、こちらを興味深そうに見つめてきた。
私は前を向いて、てゐの質問には答えず、別のこと、気になっていたことを口にした。
「あの蓬莱人、藤原妹紅についてどう思う?」
4 ふたりぼっち
障子を透してじんわりと滲んでくる月の光が、寝室の畳を一面に青く淡く染め上げていて、私はまるで、輝夜と二人きりで布団の上に乗って静かの海を旅しているような気分だった。
「愉しい夢が見られる、ね」
輝夜は毛布から顔を出して、まだ私の腕を抱いたまま、こちらを斜めに見上げているようだった。
私は目を閉じていたが、新薬のことを説明しているうちになんだか目が冴えてきてしまった。やれやれ、結局こうなるのか。と思いつつ、輝夜と話をしているのが、どうしようもなく楽しいと感じてしまう。
「それってもう試したの?」
「ええ。助手の兎に飲ませてね」
「どんな夢だったって?」
「私の期待通りよ」
「ねえ、それ、わたしも飲みたいわ」輝夜が一段と声を優しくする。「愉しい夢って興味あるもの」
もちろん、予想していた展開だ。
「お願い、永琳」輝夜が言う。
私は僅かな抵抗を示して、少しの間黙っていたけれど、また小さく溜息を吐き、起き上がって文机のところまで行った。机上の鍵を使って引き出しを開き、中から黒い丸薬の入った透明な瓶を取り出し、異常がないか確かめると、水差しも持ってまた暖かい布団まで戻った。
この時、なぜ私が黙って輝夜の言うことをきいてあげたのかは、自分でもよくわからない。試験体が欲しかったなどというのではない。ただ、輝夜にとっての楽しい夢というものに、少し興味があったのだろう。あるいは単に私が甘いだけなのか。
「これを飲めばいいの?」輝夜は私の持つ瓶の中の丸薬をしげしげと眺めた。
「そう、一回に三錠くらいね」私は瓶の蓋を取ると、自分の手の上に三粒のそれを出した。ころころと小さな感触。
「美味しいのかしら」輝夜が私の掌から一粒つまんで、片目をつむってじっと見た。
「まさか」私は少し笑う。「噛まないように、飲みこむのよ」
「わからないわよ。もしかしたら」輝夜はこちらに鋭い視線を向けた。「蓬莱の薬よりは、甘美かもしれないわ」
私は少しきつく唇を結ぶと、黙って輝夜の手に残りの丸薬を握らせた。
輝夜は身を起して、三錠の珠の薬を口に含んだ。私は水差しで、その小さな口に、白く細い喉に、少しずつ水を流しこんだ。彼女のあごに添えたもう片方の手に、冷たい液体が僅かにこぼれる。
「ん……」輝夜は目をつむり、音を立てずに嚥下する。そして目を開き、微笑を浮かべて私を見た。「これでいいのかしら」
私は黙ってうなずくと、輝夜の両肩を弱く押して寝かせ、毛布をかけた。頭の下に潰された豊かな黒髪を両手で左右に分けてやり、それから、出来る限りの冷たい声で言う。
「じきに眠くなるわ。いい加減に寝なさい」
輝夜は何も言わず目を閉じた。緩やかに結ばれた唇と、微かな優越感をたたえた笑窪。
私は白い布で彼女の口元をぬぐう。
しばらくすると、輝夜が寝息をたてはじめた。まだ夢を見てはいないはずだ。私はもう目が冴えているので、彼女の隣にじっと横たわり、ますます青みを深めていく月の光の中で、あれこれ考え事をして眠くなるのを待った。
輝夜のこと。
憎らしく、そして愛らしい。
いっそそのまま押さえつけて、窒息させてやりたいくらいに。
でもそんなことはできるわけがない。
輝夜と私の関係は、私が常に彼女に対して一方的であるからこそ、成り立っているものではないだろうか。これまではずっとそうだった。彼女のために蓬莱の薬を作り、彼女のために月の使者を殺し、彼女のために永遠亭を建て、彼女のために出来るありとあらゆることをした。それに対して私が見返りを求めるようなことはしなかった。私が望むことは姫が一緒に生きていくことだけだったし、彼女が私のそばにいるだけで、その願いは十分に叶えられてきたのだ。
私から積極的になにかをしようとしたら、この心地よい関係が破局を迎えてしまうのではないかと思える。根拠は特にない。漠然とした、それは単なる予感にすぎないけれど。もし本当に破綻してしまうとしたら。
それは怖い。とてつもなく怖いことだ。
「ん……」
不意に、輝夜の声が聞こえた気がして、顔をそちらに向ける。
彼女はまた私の右腕に両腕を絡ませていた。
間近に見る彼女の相貌。細く長いまつげ。閉じられた目。今は見えない黒い瞳。左の目尻から一滴、透明な液体が筋となって布団と頬の間の闇へ垂れ落ちている。
泣いている?
結ばれていた唇が、まるで花が朝ゆっくりと蕾を開くように、解かれていく。
最初は何を言っているのかわからなかった。低く、しわがれた声で、潰れて聞き取りにくかったから。でも、そのうちに、一つの意味を成す囁き声が、私の耳にはっきりと届いたのだった。
「妹紅……お願い」
彼女はたしかにこう呟いた。いかにも幸せそうに、あたたかい涙をこめて。
「殺して」
5 Bird Cage
「蓬莱人って……」
てゐは少し驚いたように繰り返した。
「竹林の、あいつのこと?」
私が微かに頷くと、てゐは黙って考えこんでいるようだった。質問にどう答えるかだけではなく、なぜ私がその質問をしたのか、そこまで推し量っているような沈黙だ。
「……そんなの訊かれてもね。わたしはあいつが姫と殺し合ってるってことくらいしか知らないわけで」てゐはゆっくり、慎重に答えた。「あとは、あいつと殺し合いに行く日は、決まって姫が嫌な奴になるってことくらい」
「それだけ知っていれば、彼女を判断するのには充分でしょう。私が訊きたいのは、姫と妹紅が殺し合っていることについてどう思うか、ということ」
「不毛だね」
てゐは即答した。
「……不毛」
わたしは横目でてゐを見据え、そっと繰り返す。
「そう、不毛。なんの意味もない」
「例えば本人たちが、それを一番の楽しみに生きているとしても?」
「わたしがどう思うかを答えただけだよ。わたしにとってあの殺し合いは不毛にしか見えない。本人たちがどう感じてるかは、また別の話」
てゐは片目だけを細めてじっとこちらを見た。
「飲ませたね? 姫に」
「…………」
「寝言でも呟いたのかな。いくらあんただって、夢の内容を直接見るなんてことはできないし、しないだろうから」
「……そうよ」
「それで姫は、あいつと殺し合ってる夢を見たの? 楽しい夢を見せる薬なのに」
「すごく嬉しそうだったわ。涙まで見せていた」
「具体的には、なんて言ったのさ」
「殺して、と」
今度はてゐが黙りこんだ。片手で杖をついたまま、あごに手をあてて考えこんでいる。赤い目は木の床へ鋭く向けられていたけれど、きっとどこも見てはいないだろう。眉のあたりが険しく歪められていて、いつもにやにや笑っている妖怪兎にしては珍しいことだった。
私は立ち上がり、一方的に会話を打ち切ってその場を離れた。庭に射す日差しは相変わらず弱々しい。とびきり薄い雲にすらかき消されてしまうだろう。
去り際に、てゐが後ろから声をかけてきた。
「あんたは、どう思うのさ。あの二人が殺し合ってること」
私はずるいとは思いながらも、何も答えずに寝室へと戻った。
輝夜はもう起きているようで、部屋には誰もいなかった。少し乱れた布団と毛布が部屋の中央にポツンと残っているだけで、あとはいつもどおりガランとしている。布団をしまう押入れ、つやつやした文机、古びた箪笥と長持ち、汚れ一つない鏡、和綴じ本がきちんと整理されている本棚。
私は黙って布団と毛布を片づけ、再び部屋を出て研究室へ向かった。こちらも同じく誰もいない。デスクの前の椅子に腰掛けると、両腕を組み、見上げた先の位置にある円い窓から外を眺め、深く息を吐いた。何の意味もなく天井を仰ぎ、そのままの姿勢で目をつむり、思考にふける体勢を整える。
自分の中の暗闇で渦巻いている幾多の感情に目をこらす。
輝夜を愛おしいと思う気持ち、それに何故かいつも付随している、僅かの憎しみと苦しみ。どろどろと不定形ながらも、一番はっきり自己主張しているのは、藤原妹紅への、これはやはり憎しみだろうか。そんな重たいものではないかもしれない。単なる嫉妬、単なる焦躁感。そしてどうしようもなく体をよじらせたくなる後悔がある。
藤原妹紅がこの竹林にやってきたのは、もう何年も前のことだ。彼女が輝夜と出会い、てゐの言う「不毛な」殺し合いが始まった。私はそれを好ましく思わなかった。この永遠亭に輝夜を閉じ込め、人目につかないようにしてから、私の精神はすっかり現状維持を望む方向へ傾いてしまったらしい。平穏を好み変化を嫌う。このままの緩やかな生活がなんの支障もなく続いていくことを願うようになった。
しかしそれは彼女の、藤原妹紅の介入によって変化してしまった。輝夜は妹紅との殺し合いを楽しみ、待ち望むようにさえなった。私にとってなにより癪で、悲しくもあったのは、その大きな変化によって輝夜がぐんと生き生きしはじめたことだ。輝夜は確実に、何の起伏も変容もない生活に倦んでいた。それに私は気づいていて、されどなにが出来るわけでもなく、焦躁すら感じていたのだ。なのに、彼女がやってくることによって、いとも簡単に輝夜の顔は生気を取り戻し始めたのだった。
それゆえに私は妹紅に嫉妬した。私には出来なかったことを、妹紅には出来てしまったからだ。それも輝夜に関することで。
なんの変哲もない、醜く馬鹿らしい嫉妬だ。
それよりもさらに醜いのは、輝夜を独り占めできないことをもどかしく思う、この得体の知れない感情だ。いったいなんの権利があって、輝夜を私の所有物のように見ているのだろう。輝夜は輝夜であって誰のものでもないことはわかっている。理解しているのに、私の一部分が理性に反発している。
「輝夜はずっと、私が作った鳥かごの中で大人しくしていればいい」
なんて傲慢。何様のつもりだ。わかっているのに、どうしてそう思うことをやめられないのだろう。綺麗じゃない、ちっとも綺麗じゃない。目ざわりでさえある汚れなのに、決して払拭することができない。何年も何年も、ずっと私の心の奥底に根付いている。私は、こんなにも醜かったのだろうか。
誰かを愛した者には、その分だけ愛し返される権利がある?
そんな馬鹿らしいことはない。誰を愛そうが、それは輝夜の自由なのだ。
しかし現状で、私は輝夜を鳥かごに閉じ込めているようなものだ。そんな私が、こんな風に輝夜の自由を認めたところで、欺瞞以上のものにはなりえないだろう。
思考が取りとめもなく続いていく。止めることのできない自己嫌悪。輝夜の愛らしさ。妹紅への嫉妬。これまで何度も考えてきたことだけれど、それらが一気に胡蝶夢丸による輝夜の呟きによって発露した。
「妹紅……お願い、殺して」
輝夜はきっと、歪んだ形で妹紅を愛しているのだ。憎みあいながら、私には出来ないやりかたで、お互いを……
それが、妬ましい。
きっと、輝夜の見る良い夢の登場人物として、私が選ばれなかったことにも、失望している。
私はゆっくりと目を開いた。
薄暗い部屋の中で、自分の呼吸が乱れていることに気づいた。両手は、あまりにも強く握りすぎていたせいで、爪が掌に食い込み、血がにじみ出ていた。
円い窓から外を見上げる。やはり太陽は使い物にはならなかった。
6 彼女の最後の秘密
それからは、特になんの進展もなく、いつもと同じように淡々と時が過ぎた。
輝夜は夢でなにを見たかは覚えていないらしい。しかしそれがとにかく楽しいものであったことだけは、微かに記憶の片隅に残っているようで、私が薬の感想をきくと、彼女は緩やかに笑い、「また飲ませてね」と優しい声で言った。そしていつも通り、気がむくと妹紅のもとを訪れて殺し合い、ぼろぼろになって帰ってきた。それでもその表情に苦痛だけではなく喜びがあるのを見てとるのは、私のうがちすぎなのだろうか。
てゐも、あれ以来輝夜と妹紅の件に関しては触れてこなかった。次の日、何食わぬ顔で私の部屋にやってきて、あまり使えない部下の兎と雑用を適当に片付けたあと、面白くもない冗談を言ってそそくさと部屋を出て行った。
ある時、手伝いの妖怪兎のちょっとしたミスで、妙な物が出来上がった。きいた話によると、材料を一つだけ間違えて調合してしまったらしい。私はなぜか勘がはたらいて、その薬を兎に服用させて試し、効果を確かめたあと、その兎の記憶を消して別の兎に代えてもらった。薬の効果は誰にも言っていない。
その薬は先に出来た胡蝶夢丸と見た目はまったく変わらない。しかし正反対の効果を有するものだった。つまり、飲むと悪い夢を見る。
私はその用途にさしたるものを思いつかず、それは結局文机の引出しの、普通の胡蝶夢丸の隣に瓶づめにされて仕舞われることになった。
そして冬に入り、月の光がいっそう鋭く冴えわたってくる頃に、また輝夜が私の部屋を訪ねてきた。前から二月ほどしか経っていない。こんなに短いスパンでやってくるのはたぶん初めてだろう。一段と冷え込む夜で、私の寝室の扉をノックした輝夜は、顔を少し赤らめ、白い息を吐いていた。
「寒いわ。中に入れて」
私は前と同じように溜息をつくと、黙って扉を開き、彼女を中に招じ入れた。
「永琳、まだ寝ないの?」
「寝ようと思っていたところよ。貴女が邪魔しなければね」
「じゃあ、ちょうどよかった」
布団を敷き、枕を二つそろえて並べ、灯りを消す。寝室は再び静かの海になった。竹林にあふれ返る笹の葉の擦れる音が、懐かしい潮騒のように響き渡っている。
輝夜が私の方に体を寄せた。
「寒いわ」輝夜が少し震えた声で呟く。
「そうね」
「脚、曲げて」
「どうして?」
「届かないもの」
私が膝を曲げると、輝夜の足が私の足の甲に乗せられた。
「暖かい」
「私の足が?」
「今日の永琳は暖かいわ」
「そうかしら」
「わたしね、どうしても思い出せないの」
「なにを?」
「この前、あの薬を飲んだ時の夢」
私はなにも言わず天井を見つめていた。
「思い出したいのに、思い出せない。せっかく良い夢を見たっていうのだけは覚えているのに……それってなにか、もったいない気がするわ」
「夢は、忘れるものよ」
私はゆっくりと言った。
「……そうね。そうよね」
輝夜はすねたように言う。
一瞬、笹の葉の音が止んだような気がした。青い月明かりはすべての罪を優しく浄化するようにあらゆるものの上へ落ちている。しかし私たちに限ってその光は、罪の証でしかなかった。ここには天がなく、地もない。このまま二人だけで漂っていけたらいいのにと、私は思った。
「永琳、またあの薬が飲みたいわ」
沈黙を守る。
「どうしても、思いだしたいの」
沈黙を守る。
「朝起きて、覚えていたら、永琳にも教えてあげるわ。興味あるでしょう?」
沈黙。
「お願い、永琳。もしそうしたら、貴女はもっとわたしを知ることができるわ」
「……わかったわ」
私は無機質な声で言うと、立ち上がり、文机の引出しを開き、中から瓶を取り出して布団へ戻った。水差しはもう枕元に置いてある。
前と同じように、私は彼女に薬を飲ませる。片手で顎を抑えてやり、もう片方の手で水を流し込む。細い喉、白い喉を、丸薬が転がり落ちていく。
暗黒の夢を見る丸薬が。
輝夜は優しく笑って横たわると、目をつむり、ゆっくりと暗闇の中へ落ちていった。
私はしばらくその横に座ったまま、呼吸が不自然に乱れるのを感じた。私まで落ちてしまいそうになる。月の光が私を軽蔑している。高まる心臓の音が私を糾弾している。こんなにもすべてが私をけなしているのに、どうして私は嗜虐心を感じてしまうのか。どうしてこんなにも、心が癒されてしまうのか。たくさんの相容れない感情がせめぎ合い、波立ち、打ち返す。気持ち悪くて、もどしてしまいそうだった。
「…………ひ」
輝夜の小さな悲鳴が聞こえる。
私は片手で強く胸を押さえながら、そちらを見た。
輝夜が目を閉じたまま激しく顔を歪めている。見る見るうちに青ざめ、うわ言を繰り返し始めた。
「やめて」「やめて」「お願い」「やめて」「殺さないで」「殺さないで」「お願い」「助けて」「たすけて」
私は、息をつめて、じっと待っているしかなかった。いつの間にか涙が伝っている。輝夜の頬に、私の頬に。輝夜が夢の中で誰かに襲われている。その相手が誰だか、わかるような気がした。
輝夜がこう呟いたのを最後に、私にはなにもわからなくなってしまった。
「やめて、やめて、お願い……永琳」
(Out Of Cipher)
文章がすっきりと整っている分、蓬莱人たちの歪んだ内面が嫌というほど伝わってきて、やるせなくなりました。
蓬莱人って心が死んだらどうなるんでしょうね・・・
永琳……
死ねない蓬莱人にとっては死の遊戯はとてもとても愉しい。
死なない蓬莱人にとっても死は悪夢のように恐ろしい。
輝夜に永遠の生を与えた永琳と輝夜に刹那の死を与えられる妹紅
輝夜と生きることを望みつつも輝夜を殺したくてたまらない永琳の悪夢、といったところでしょうか。
生きるなら永琳と、死ぬなら妹紅と一緒がいいとかしれっと言いそうな姫が素敵
輝夜にとっての永琳
それぞれ二人の中に存在しているお互いの大きさは実はあんまり変わらないと思う。
ただベクトルが違うだけで……。
胡蝶夢丸をここまで上手く使うとは。
感じ入りました。
てゐもどこか達観したキャラクターが非常に魅力的で、どうやら私の中で各々のキャラが固着されそうです。
胡蝶夢丸リバーシブル(命名)が完成したあたりから、オチまでの間のドキドキ感が堪りませんでした。
絶対飲ませるぞ! 永琳の夢見るぞ! みたいな。考え方によってはグッドにもバッドにもなるオチ。
折角なのでプラスの方向で捉えさせていただくことにします。面白かったです。
ただ、永琳と妹紅のどちらが出てくるのか分からなかった。
悪夢に現れるも妹紅だったらどうしようかと思った。
もしそうなら永琳があまりに報われないから。
永琳が輝夜を殺すのは、狂気・憎しみの発露。
輝夜は永琳の中の狂気を何よりも恐れているんでしょうね。
実際、これまでに永琳は輝夜の為を思って狂気じみたことを何度かしているけれど、
輝夜がそれで幸せになったのかと言うと・・・