冷たい石の階段を下りていく。
館の中なのに空気は徐々に冷えてゆき雪降る外よりも寒いと感じる錯覚。
風も吹かぬこの石段をそう感じるのは私の心象世界が訴える故だろう。ここの寒さは肌よりも心に響く。
やがて辿り着くのは大きな扉。監獄じみた重い鉄扉。寒いと――冷たいと、感じる。
ノックをし扉を開ける。がちゃりと仰々しい音が響く。
「フランドール様、失礼します」
「美鈴?」
部屋の中は外から一転して暖かな印象。
柔らかそうなベッド――事実柔らかい――に暖色で纏められた家具。
無数には及ばないまでも多くのぬいぐるみや人形たち。
部屋の主が退屈しないようにと置かれたのだろうこれまた多くの本。
この部屋を用意した者の気持ちが透けて見える暖かさだった。
そんな部屋の中央で不機嫌そうに本のページを捲っている少女に笑みを向ける。
「遊びに来ちゃいました」
私の本来の役職はこの少女と関わることを許していない。むしろ仕事を放り出していると言える。
少女の姉君である私の主からはそのことで叱られたりはしないのだが。
そのあたりに我が主の不器用な愛情を感じないでもない。
「パチュリー様から本を頂いたのでお見せしようかとー」
ほんの僅かに苦笑しながら手土産を掲げる。
フランドール様の注意は一瞬でそれに向けられた。
「なになに?」
身を起こす少女に本を渡す。
「動物図鑑だそうですよ」
中身は私も見ていない。紅魔館の中にある図書館の主から頂いてそのままここに来たのだ。
タイトルを読んだだけで、紅魔館から出られないこの少女にこそ相応しい本だと思ったのだから。
渡された本を開きフランドール様は楽しそうに絵を見続ける。
先程とは違いページを捲る横顔に不機嫌さは微塵も無い。
気に入っていただけたようだ。さっきの本は――読み飽きたものだったのかしら?
「わぁおっきい。これ人間よね?」
感嘆の声に目を向ける。
「人間って霊夢くらいだから……こいつ、大きいわね」
ベッドに腰掛け覗き込む。
開かれたページには魚に似た絵が描かれており、その横には対比なのか人間らしき影が描かれていた。
「んー。ああ、クジラですね」
絵に添えられた名を読みあげる。長いこと生きてきたのだが私も実物は見たことがない。
確か、世界で一番大きな動物だとか――大海の魔物だとか。
「クジラ……ああ! 知ってるわ! 前に読んだ本に書いてあったの」
「あらら、本がダブっちゃいましたかね」
「いいえ、このクジラじゃないクジラよ。大きな大きな海の魔物」
「うん? こっちのクジラも魔物ですけどねえ?」
名前も同じで大きな、というのも同じだし。何処に違いがあるのだろう?
兎角、彼女との意思の疎通は難しい。彼女の見る世界と私の見る世界は大きく違う。
魚と鳥程に、違う。
どちらが鳥でどちらが魚なのかは――私にもわからないのだが。
「こんなの魔物じゃないわ。あっちは牙が生えてる凶悪な怪物だもの。船を沈めたりするのよ」
「それは怖い」
「どこにやったかな。壊しちゃったのかしら」
件の魔物が載っている本を探しているようだが見つかりはしないだろう。
地下図書館には遠く及ばないがこの部屋の蔵書量も並ではない。
乱雑にばら撒かれたそれらの中から一冊を見つけ出すのは不可能と言い切れる。
開いたままの本に目を落とす。これに牙が生えたもの――ではないだろう。
推測だが、彼女が魔物と言うのだからもっと禍々しい怪物なのだ。
「そうだ、美鈴知ってる? クジラは空を泳ぐのよ」
突拍子の無い言葉。しかしそれには慣れっこだ。
「空を――泳ぐ。ですか?」
会話を続ける。素直に疑問に思ったことだけを口にする。
泳ぐ。空を泳ぐというのは……飛ぶとは別なのかしら。
鳥と魚の例えではないが、私にはその違いがわからない。
「そう、空を雄大に泳いでいくの。真赤な満月の空を音もなくゆっくりと泳いでいくのよ。
その背中に乗ったらとても気持ちがよかったわ! どこまでも行けそうなんですもの!」
――ああ、これは夢の話か。
フランドール様が外に出たことはない。少なくとも、自らの意思で外に出たことは一度もない。
空を泳ぐと云う表現も夢の話なら頷ける。空想世界ならどのようなこともあり得るのだから。
「それは楽しそうですねぇ」
相槌が僅かに濁る。安易な同情など彼女は望まぬだろうに。
こと彼女が閉じ込められている原因には、私は関われない。
仕事を放り出すのとは訳が違う。我が主も絶対に許しはしないだろう。
そも――同情などと云う屈辱、彼女自身が許しはすまい。
フランドール様は複雑で、難しいお方。些細なきっかけで全てが壊れる。
ああ、私はここで死ぬのかもしれないな。
「ええ、とても楽しかったわ!」
身構えた私に向けられたのは満面の笑み。
気付かれなかったのか、見逃してもらったのか。彼女は私を殺そうとは思っていないらしい。
心配は杞憂で終わったか――――よかった。この少女を傷つけずに済んで。
「クジラはどれくらい大きかったんですか?」
「山よりも大きかったわ!」
「私も一緒に乗れますねぇ」
「あらダメよ美鈴。一緒はダメ」
「え。ひどいなぁ、私も乗りたいですよ~」
「私が美鈴に乗って、美鈴がクジラに乗ればいいのよ」
ちょっと意味がわからない。
首をかしげていると彼女はベッドに腰掛ける私の膝の上に乗ってきた。
「こうしてればクジラの背中でもあったかいわ。クジラって冷たかったのよ」
夢の話なので真偽は定かではないが……それは、少し嬉しかった。
「そうですね。こうしていれば寒くありません」
素直に甘えてくれるのは喜ばしい。
「それでね、クジラって本当にすごかったのよ。空を悠々と泳いで行って、山も見えなくなって……
まだまだ泳ぐの。どこまでもどこまでも。そう、世界の果てまで泳いでいけそうだったの」
そこで言葉を切り、フランドール様は私の膝に座ったまま私を見上げる。
私からはさかしまに見える幼い顔は、疑問符を浮かべていた。
「空を泳げたら私も世界の果てを見られるのかしら?」
それが言葉通りの意味なのか裏に意味が込められているのか。判別はつかない。
ただ。何度も繰り返される空を泳ぐという表現からは……自由への憧れのようなものが見えた。
空を泳ぐ。
それは確かに空を飛ぶのとは違う、ゆったりとした印象を受ける言葉だった。
しかし空とは自由の象徴だ。空を飛べると云うことは縛るものなど何もない自由と同義。
だが――翼を持ちながら、決して自由ではないフランドール様。
彼女の世界に空を飛ぶことが自由の象徴であるという概念は存在しないのだろう。
「世界の果てですか」
ならば。
「ふふ、ここが世界の果てなのかもしれませんよフランドール様」
自由ではないなりに、彼女は欲する物に届いていると教えよう。
「ここって、幻想郷が?」
「はい」
目を閉じる。ずっと昔に聞いた潮騒を思い出す。
「ここは東の果て。ここより先はどこまでも海があるばかり。その遥か先には大陸があるそうですが……
そこまで行っちゃうと世界一周しちゃいますからねぇ」
視界を埋める大海原。水平線の先など見通せずこの世には海しかないのではないかと錯覚した。
月夜の元で見た海。魂さえ吸い込まれそうな漆黒に浮かぶ黄金の月。
私はあれに……どのような感情を抱いたのだったか。
「海。海ねぇ」
呟きに目を向ければフランドール様はなにやら考え込んでいた。
顔に浮かぶのは拗ねた表情。
「見たことないからよくわからないわ。何度か海を越えたらしいけれど、私はずっと棺の中で憶えてない」
おやおや。
「お姉様はずるいわ」
可愛らしい嫉妬だ。
思わず苦笑してしまう。
「レミリアお嬢様も起きていらしたわけではありませんでしたよ?」
「え?」
目を丸くされる。ほんの少し得意げに語る。
「海を渡る時は大きな船での移動だったんですけど、その時は私と咲夜さん、あとは使用人が何人か。
レミリアお嬢様とフランドールお嬢様の眠っておられる棺を守りつつの移動でした」
「……なんで? お姉様だったら絶対見たがるのに」
「私もよくわからないんですけど吸血鬼だからとか。吸血鬼は海を渡る時故郷の土の入った棺桶が必要とか?
ええと、それで眠りながら移動しなきゃならないとかなんとか……」
「曖昧ね」
「えへへ」
笑って誤魔化す。咲夜さんならそういうことも詳しく知っているのだろうけれど私は知らない。
何かのついでに聞いた程度の知識だ。
「東の果て、かぁ」
実感が湧かぬと声にまで表れる不満の声。
うーん。ここは小話でも挿んで理解してもらおうか。
「かの征服王アレキサンダーは私の国を東の果てと思っていたらしいですよ」
「美鈴の国?」
「ここから西へずっとずっと、海も越えたところにある国です」
正確にはそこに国があると知っていたかはわからないんですけどね、と付け加える。
「ああ、あの野蛮人の王様ね。海の向こうにまだ国があるって知らなかったんだ」
「2000年以上昔の話ですからねえ。世界はその時代と国で変わるのです」
世界が変わる? とまたも目を丸くされる。
小さく頷き問いに答える。
「遥か世界の果て、最果ての海オーケアノス。かの大王はそれを目指し東方遠征に出発しました。
大王の時代には、それが真実最果ての海だったのです」
古い地図を思い出す。三つの国とそれを囲む最果ての海しか描かれていない古い世界。
初めて見た時は随分憤ったものだ。私の国は海の中かと叫んでしまった。
後に色々と学び、お互い様だと知った時は苦笑するしかなかった。
私の国だって、海の向こうには蓬莱国なんてものがあると信じていた時代があったのだから。
海の向こうにあったのは――こんな小さな楽園だけだったのに。
「遠い遠い昔、世界は幾つもありました」
「幾つも?」
「はい。山を越えられない、海を渡れない……そこに世界の果てを見出したのです」
国を出て、レミリアお嬢様に拾われて――私の世界は随分と広がった。
数多の人妖と出会い色々なことを知って世界の果てなど言葉遊びに過ぎないと理解した。
「だから世界は国々ごとにたくさんあったんですよ」
「ふぅん……」
フランドール様にはまだ早かったかな。私だってすぐに理解出来た話じゃないし。
小話にしては脱線が過ぎた気もする。
うーん。パチュリー様と違って私が知識を披露できる機会なんてそうはないから調子に乗ってしまったかな。
精々咲夜さんに中華料理のアドバイスをするくらいしか機会がないもんなぁ……
「今は世界が狭くなってしまったのね」
少女の声に驚く。
世界が狭くなった? まるで、逆だ。
世界を知り、垣根を越えて――世界が一つになって、狭くなるなんて発想。
いや――子供らしい自由な発想だ。
そう、数多の世界は駆逐されて違う世界なんてほんの僅かにしか残らなかった。
画一的な世界だけが残り異端は排斥された。それは確かに……世界が狭くなったと言える。
「フランドール様は頭がいいですねぇ」
「え? そうかしら」
「ええ。私はそれに気付きませんでしたよ」
思わず安堵の息が漏れる。
ああ、彼女の心までは……縛られていない。
空を泳ぐ。世界は狭くなった。
彼女の心は自由に様々なことを生み出す。
この狭い地下室に閉じ込められても彼女の心だけは……自由なのだ。
私の愛する、私が守りたいと願う少女の心はまだ、壊れ切ってはいない。
「ん……」
私の膝の上に乗ったまま少女は目を擦る。
もうおやすみの時間か。長話が過ぎたかな。
抱き上げベッドに寝かせる。
「おやすみなさいませフランドール様」
「んー……」
髪を掴まれる。あらら、困った。これじゃ動けないわ。
「めーりん……」
「はい?」
「めーりんも……いっしょ……」
……困ったなぁ。流石にそろそろ仕事に戻らないといけないし……
添い寝は嫌ではないが後のお小言が、
「いっしょに……くじら――」
私の髪を掴んでいた手から力が抜ける。
「――フランドール様」
目を閉じた少女の顔を撫ぜる。
「ありがとうございます」
私も連れていってくれようとなさったのですね。
とても……嬉しいですよお嬢様。
きっと彼女は今日もクジラの夢を見る。
雄大に空を泳ぐクジラの背に乗ってどこまでも行くことだろう。
その傍らに私が居たとすれば、それはとても喜ばしい。
そっとシーツを掛け部屋を辞す。
「おやすみなさいませフランドール様――よい夢を」
冷たい石の階段を上る。
――かの大王は最果ての海にどんな想いを馳せたのだろう。
最果ての地に辿り着いてしまった私は――
そう、私はもう最果ての海を越え最果ての地にある。
オーケアノスの中に浮かぶ島。大王の夢の終焉の地。
――あの少女はクジラの背に乗ってどこを目指すのだろう。
私の知る世界の果てはこの地。かつて誰かが夢見た蓬莱国。理想郷とされた夢の国。
ここから先はオーケアノスの海しかない。
ならば彼女が目指すのはここなのだろうか?
世界をぐるりと回ってここに戻って来てくれるのだろうか?
いいや、そんなことはないだろう。
自由な翼を持つ彼女は奔放にさらなる最果てを見つけるのかもしれない。
「……いつか、あなたもどこかに飛んで」
呟き。
「――――泳いで行ってしまうんですかねぇ」
それは寂しさを含んでいた。
階段を上り切り地上へ。窓から外を眺める。
雪が降っていた。紅魔館を白く染める楽園に降る雪。
フランドール様。彼女はこの狭い幻想郷に収まらないかもしれない。
でも、いつか――気付いて欲しいと願う。
この最果ての地は楽園だ。
お嬢様が居て、咲夜さんが居て、パチュリー様が居て、様々な人妖が居て――
フランドール様が居てくれる。
私が望む最上の楽園。
彼女にも……この地を愛して欲しいと願う。
マントを羽織る。
さぁ門番の仕事だ。
私の愛する少女たちの眠る館を守るとしよう。
「私はこの狭い世界が気に入っていますよ、フランドール様」
そう呟いて、私は紅魔館の扉を閉めた。
館の中なのに空気は徐々に冷えてゆき雪降る外よりも寒いと感じる錯覚。
風も吹かぬこの石段をそう感じるのは私の心象世界が訴える故だろう。ここの寒さは肌よりも心に響く。
やがて辿り着くのは大きな扉。監獄じみた重い鉄扉。寒いと――冷たいと、感じる。
ノックをし扉を開ける。がちゃりと仰々しい音が響く。
「フランドール様、失礼します」
「美鈴?」
部屋の中は外から一転して暖かな印象。
柔らかそうなベッド――事実柔らかい――に暖色で纏められた家具。
無数には及ばないまでも多くのぬいぐるみや人形たち。
部屋の主が退屈しないようにと置かれたのだろうこれまた多くの本。
この部屋を用意した者の気持ちが透けて見える暖かさだった。
そんな部屋の中央で不機嫌そうに本のページを捲っている少女に笑みを向ける。
「遊びに来ちゃいました」
私の本来の役職はこの少女と関わることを許していない。むしろ仕事を放り出していると言える。
少女の姉君である私の主からはそのことで叱られたりはしないのだが。
そのあたりに我が主の不器用な愛情を感じないでもない。
「パチュリー様から本を頂いたのでお見せしようかとー」
ほんの僅かに苦笑しながら手土産を掲げる。
フランドール様の注意は一瞬でそれに向けられた。
「なになに?」
身を起こす少女に本を渡す。
「動物図鑑だそうですよ」
中身は私も見ていない。紅魔館の中にある図書館の主から頂いてそのままここに来たのだ。
タイトルを読んだだけで、紅魔館から出られないこの少女にこそ相応しい本だと思ったのだから。
渡された本を開きフランドール様は楽しそうに絵を見続ける。
先程とは違いページを捲る横顔に不機嫌さは微塵も無い。
気に入っていただけたようだ。さっきの本は――読み飽きたものだったのかしら?
「わぁおっきい。これ人間よね?」
感嘆の声に目を向ける。
「人間って霊夢くらいだから……こいつ、大きいわね」
ベッドに腰掛け覗き込む。
開かれたページには魚に似た絵が描かれており、その横には対比なのか人間らしき影が描かれていた。
「んー。ああ、クジラですね」
絵に添えられた名を読みあげる。長いこと生きてきたのだが私も実物は見たことがない。
確か、世界で一番大きな動物だとか――大海の魔物だとか。
「クジラ……ああ! 知ってるわ! 前に読んだ本に書いてあったの」
「あらら、本がダブっちゃいましたかね」
「いいえ、このクジラじゃないクジラよ。大きな大きな海の魔物」
「うん? こっちのクジラも魔物ですけどねえ?」
名前も同じで大きな、というのも同じだし。何処に違いがあるのだろう?
兎角、彼女との意思の疎通は難しい。彼女の見る世界と私の見る世界は大きく違う。
魚と鳥程に、違う。
どちらが鳥でどちらが魚なのかは――私にもわからないのだが。
「こんなの魔物じゃないわ。あっちは牙が生えてる凶悪な怪物だもの。船を沈めたりするのよ」
「それは怖い」
「どこにやったかな。壊しちゃったのかしら」
件の魔物が載っている本を探しているようだが見つかりはしないだろう。
地下図書館には遠く及ばないがこの部屋の蔵書量も並ではない。
乱雑にばら撒かれたそれらの中から一冊を見つけ出すのは不可能と言い切れる。
開いたままの本に目を落とす。これに牙が生えたもの――ではないだろう。
推測だが、彼女が魔物と言うのだからもっと禍々しい怪物なのだ。
「そうだ、美鈴知ってる? クジラは空を泳ぐのよ」
突拍子の無い言葉。しかしそれには慣れっこだ。
「空を――泳ぐ。ですか?」
会話を続ける。素直に疑問に思ったことだけを口にする。
泳ぐ。空を泳ぐというのは……飛ぶとは別なのかしら。
鳥と魚の例えではないが、私にはその違いがわからない。
「そう、空を雄大に泳いでいくの。真赤な満月の空を音もなくゆっくりと泳いでいくのよ。
その背中に乗ったらとても気持ちがよかったわ! どこまでも行けそうなんですもの!」
――ああ、これは夢の話か。
フランドール様が外に出たことはない。少なくとも、自らの意思で外に出たことは一度もない。
空を泳ぐと云う表現も夢の話なら頷ける。空想世界ならどのようなこともあり得るのだから。
「それは楽しそうですねぇ」
相槌が僅かに濁る。安易な同情など彼女は望まぬだろうに。
こと彼女が閉じ込められている原因には、私は関われない。
仕事を放り出すのとは訳が違う。我が主も絶対に許しはしないだろう。
そも――同情などと云う屈辱、彼女自身が許しはすまい。
フランドール様は複雑で、難しいお方。些細なきっかけで全てが壊れる。
ああ、私はここで死ぬのかもしれないな。
「ええ、とても楽しかったわ!」
身構えた私に向けられたのは満面の笑み。
気付かれなかったのか、見逃してもらったのか。彼女は私を殺そうとは思っていないらしい。
心配は杞憂で終わったか――――よかった。この少女を傷つけずに済んで。
「クジラはどれくらい大きかったんですか?」
「山よりも大きかったわ!」
「私も一緒に乗れますねぇ」
「あらダメよ美鈴。一緒はダメ」
「え。ひどいなぁ、私も乗りたいですよ~」
「私が美鈴に乗って、美鈴がクジラに乗ればいいのよ」
ちょっと意味がわからない。
首をかしげていると彼女はベッドに腰掛ける私の膝の上に乗ってきた。
「こうしてればクジラの背中でもあったかいわ。クジラって冷たかったのよ」
夢の話なので真偽は定かではないが……それは、少し嬉しかった。
「そうですね。こうしていれば寒くありません」
素直に甘えてくれるのは喜ばしい。
「それでね、クジラって本当にすごかったのよ。空を悠々と泳いで行って、山も見えなくなって……
まだまだ泳ぐの。どこまでもどこまでも。そう、世界の果てまで泳いでいけそうだったの」
そこで言葉を切り、フランドール様は私の膝に座ったまま私を見上げる。
私からはさかしまに見える幼い顔は、疑問符を浮かべていた。
「空を泳げたら私も世界の果てを見られるのかしら?」
それが言葉通りの意味なのか裏に意味が込められているのか。判別はつかない。
ただ。何度も繰り返される空を泳ぐという表現からは……自由への憧れのようなものが見えた。
空を泳ぐ。
それは確かに空を飛ぶのとは違う、ゆったりとした印象を受ける言葉だった。
しかし空とは自由の象徴だ。空を飛べると云うことは縛るものなど何もない自由と同義。
だが――翼を持ちながら、決して自由ではないフランドール様。
彼女の世界に空を飛ぶことが自由の象徴であるという概念は存在しないのだろう。
「世界の果てですか」
ならば。
「ふふ、ここが世界の果てなのかもしれませんよフランドール様」
自由ではないなりに、彼女は欲する物に届いていると教えよう。
「ここって、幻想郷が?」
「はい」
目を閉じる。ずっと昔に聞いた潮騒を思い出す。
「ここは東の果て。ここより先はどこまでも海があるばかり。その遥か先には大陸があるそうですが……
そこまで行っちゃうと世界一周しちゃいますからねぇ」
視界を埋める大海原。水平線の先など見通せずこの世には海しかないのではないかと錯覚した。
月夜の元で見た海。魂さえ吸い込まれそうな漆黒に浮かぶ黄金の月。
私はあれに……どのような感情を抱いたのだったか。
「海。海ねぇ」
呟きに目を向ければフランドール様はなにやら考え込んでいた。
顔に浮かぶのは拗ねた表情。
「見たことないからよくわからないわ。何度か海を越えたらしいけれど、私はずっと棺の中で憶えてない」
おやおや。
「お姉様はずるいわ」
可愛らしい嫉妬だ。
思わず苦笑してしまう。
「レミリアお嬢様も起きていらしたわけではありませんでしたよ?」
「え?」
目を丸くされる。ほんの少し得意げに語る。
「海を渡る時は大きな船での移動だったんですけど、その時は私と咲夜さん、あとは使用人が何人か。
レミリアお嬢様とフランドールお嬢様の眠っておられる棺を守りつつの移動でした」
「……なんで? お姉様だったら絶対見たがるのに」
「私もよくわからないんですけど吸血鬼だからとか。吸血鬼は海を渡る時故郷の土の入った棺桶が必要とか?
ええと、それで眠りながら移動しなきゃならないとかなんとか……」
「曖昧ね」
「えへへ」
笑って誤魔化す。咲夜さんならそういうことも詳しく知っているのだろうけれど私は知らない。
何かのついでに聞いた程度の知識だ。
「東の果て、かぁ」
実感が湧かぬと声にまで表れる不満の声。
うーん。ここは小話でも挿んで理解してもらおうか。
「かの征服王アレキサンダーは私の国を東の果てと思っていたらしいですよ」
「美鈴の国?」
「ここから西へずっとずっと、海も越えたところにある国です」
正確にはそこに国があると知っていたかはわからないんですけどね、と付け加える。
「ああ、あの野蛮人の王様ね。海の向こうにまだ国があるって知らなかったんだ」
「2000年以上昔の話ですからねえ。世界はその時代と国で変わるのです」
世界が変わる? とまたも目を丸くされる。
小さく頷き問いに答える。
「遥か世界の果て、最果ての海オーケアノス。かの大王はそれを目指し東方遠征に出発しました。
大王の時代には、それが真実最果ての海だったのです」
古い地図を思い出す。三つの国とそれを囲む最果ての海しか描かれていない古い世界。
初めて見た時は随分憤ったものだ。私の国は海の中かと叫んでしまった。
後に色々と学び、お互い様だと知った時は苦笑するしかなかった。
私の国だって、海の向こうには蓬莱国なんてものがあると信じていた時代があったのだから。
海の向こうにあったのは――こんな小さな楽園だけだったのに。
「遠い遠い昔、世界は幾つもありました」
「幾つも?」
「はい。山を越えられない、海を渡れない……そこに世界の果てを見出したのです」
国を出て、レミリアお嬢様に拾われて――私の世界は随分と広がった。
数多の人妖と出会い色々なことを知って世界の果てなど言葉遊びに過ぎないと理解した。
「だから世界は国々ごとにたくさんあったんですよ」
「ふぅん……」
フランドール様にはまだ早かったかな。私だってすぐに理解出来た話じゃないし。
小話にしては脱線が過ぎた気もする。
うーん。パチュリー様と違って私が知識を披露できる機会なんてそうはないから調子に乗ってしまったかな。
精々咲夜さんに中華料理のアドバイスをするくらいしか機会がないもんなぁ……
「今は世界が狭くなってしまったのね」
少女の声に驚く。
世界が狭くなった? まるで、逆だ。
世界を知り、垣根を越えて――世界が一つになって、狭くなるなんて発想。
いや――子供らしい自由な発想だ。
そう、数多の世界は駆逐されて違う世界なんてほんの僅かにしか残らなかった。
画一的な世界だけが残り異端は排斥された。それは確かに……世界が狭くなったと言える。
「フランドール様は頭がいいですねぇ」
「え? そうかしら」
「ええ。私はそれに気付きませんでしたよ」
思わず安堵の息が漏れる。
ああ、彼女の心までは……縛られていない。
空を泳ぐ。世界は狭くなった。
彼女の心は自由に様々なことを生み出す。
この狭い地下室に閉じ込められても彼女の心だけは……自由なのだ。
私の愛する、私が守りたいと願う少女の心はまだ、壊れ切ってはいない。
「ん……」
私の膝の上に乗ったまま少女は目を擦る。
もうおやすみの時間か。長話が過ぎたかな。
抱き上げベッドに寝かせる。
「おやすみなさいませフランドール様」
「んー……」
髪を掴まれる。あらら、困った。これじゃ動けないわ。
「めーりん……」
「はい?」
「めーりんも……いっしょ……」
……困ったなぁ。流石にそろそろ仕事に戻らないといけないし……
添い寝は嫌ではないが後のお小言が、
「いっしょに……くじら――」
私の髪を掴んでいた手から力が抜ける。
「――フランドール様」
目を閉じた少女の顔を撫ぜる。
「ありがとうございます」
私も連れていってくれようとなさったのですね。
とても……嬉しいですよお嬢様。
きっと彼女は今日もクジラの夢を見る。
雄大に空を泳ぐクジラの背に乗ってどこまでも行くことだろう。
その傍らに私が居たとすれば、それはとても喜ばしい。
そっとシーツを掛け部屋を辞す。
「おやすみなさいませフランドール様――よい夢を」
冷たい石の階段を上る。
――かの大王は最果ての海にどんな想いを馳せたのだろう。
最果ての地に辿り着いてしまった私は――
そう、私はもう最果ての海を越え最果ての地にある。
オーケアノスの中に浮かぶ島。大王の夢の終焉の地。
――あの少女はクジラの背に乗ってどこを目指すのだろう。
私の知る世界の果てはこの地。かつて誰かが夢見た蓬莱国。理想郷とされた夢の国。
ここから先はオーケアノスの海しかない。
ならば彼女が目指すのはここなのだろうか?
世界をぐるりと回ってここに戻って来てくれるのだろうか?
いいや、そんなことはないだろう。
自由な翼を持つ彼女は奔放にさらなる最果てを見つけるのかもしれない。
「……いつか、あなたもどこかに飛んで」
呟き。
「――――泳いで行ってしまうんですかねぇ」
それは寂しさを含んでいた。
階段を上り切り地上へ。窓から外を眺める。
雪が降っていた。紅魔館を白く染める楽園に降る雪。
フランドール様。彼女はこの狭い幻想郷に収まらないかもしれない。
でも、いつか――気付いて欲しいと願う。
この最果ての地は楽園だ。
お嬢様が居て、咲夜さんが居て、パチュリー様が居て、様々な人妖が居て――
フランドール様が居てくれる。
私が望む最上の楽園。
彼女にも……この地を愛して欲しいと願う。
マントを羽織る。
さぁ門番の仕事だ。
私の愛する少女たちの眠る館を守るとしよう。
「私はこの狭い世界が気に入っていますよ、フランドール様」
そう呟いて、私は紅魔館の扉を閉めた。
しっとりとした雰囲気を楽しませて頂きましたよ。
しかしこのフランは、おとぎ話というか絵本に出てきても何らおかしくはないですね。