六月も半ばにさしかかったある朝。
妖怪の山を流れる清流のほとりで、橙は灰色の雲に覆われた空を見上げていた。
黒い鳥が一羽、飛んでいく。
何という鳥だろう。どこへ行くのだろう。
橙がぼんやりとそう考えた時には、鳥の姿は彼方へと消えていた。
晴れていれば、川沿いの緑はもっと生き生きとしているだろうし、水の流れは光を受けてきらめいているはずだが、梅雨の季節である。
曇っているというのに蒸し暑く、橙の額にはじんわりと汗がにじんでいる。
はやく夏にならないかな、と橙は思った。
「天子、降ってきそうだよ」
長い釣竿を手にして大きな岩に腰掛け、水面をじっと見つめていた少女に、橙は言った。
名を呼ばれた少女は黙ったまま時折釣竿を左右に動かしてみるが、竿からのびる釣り糸からの反応はない。
「ねえ、天子ってば」
再び呼びかける。と同時に、ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。
橙は化け猫であるので、雨が苦手である。雨のみならず川や湖の水全てが彼女の弱点だ。
風呂も嫌いなので本当は入りたくないのだが、猫であると同時に女の子でもある橙は、毎回断腸の思いで恐怖の湯浴みに耐えているのだ。
それはともかく、雨である。橙は慌てた。
「本降りになるよ、にとりのところに戻ろう」
「……やっぱり一朝一夕にはいかないものね。手強いわ」
天子と呼ばれた少女はようやく返事をし、釣り糸を器用に引き上げた。
比那名居天子、天界の住人――天人である。
天子が地上に興味を示して天界からやってきたのは最近のことだ。
彼女によると天界とは非常に退屈な場所らしく、下界は発見と喜びに満ちているらしい。
釣りは天子の趣味の一つで、週に一度は天界の湖に釣り糸を垂らして暇を潰していた。
天界では、人はもちろん獣や虫、植物、妖怪に至るまで、風流を重んじ雅びに暮らしている。
自他共に認める不良天人である天子に言わせれば「嫌味なほどにお上品」であり、湖の魚までもがのたり、ゆったりと泳ぎ、張り合いというものがない。
そこで思いついたのが幻想郷に数多くある川や湖に挑戦することだった。
天子の想像以上に下界の魚たちは生に満ちあふれ賢く、一筋縄ではいかなかった。
しかしそれもまた釣りの醍醐味である。天子は下界を満喫していた。
最初に訪れた霧の湖での釣果に満足した天子が、渓流での釣りをやってみようと妖怪の山を訪れたのは半月ほど前。
近くのマヨヒガを縄張りとする橙や、川沿いの妖怪村に居を構える河童の河城にとりらと知り合うのに時間はいらなかった。
風変わりな天人を、化け猫と河童は歓迎し、色々な遊びに興じた。
水遊びに将棋、カード。中でも橙や天子のお気に入りは、『ゲームウォッチ』という名の遊戯端末だった。
外の世界から流れ着いたらしい年代物を、エンジニアでもあるにとりが修理改良したそれは単純ではあったが物珍しく、
小さな画面の中で動き回る電子の小人に、橙たちは夢中になった。
身内以外に褒められるのはやはり気分が良いらしく、にとりも得意げな笑顔を見せたのだった。
そういった経緯で、ここ数日、橙と天子はにとりの家にご厄介になっている。
そして天子の毎朝の日課は、清流に暮らす魚たちとの頭脳戦というわけであった。
橙と天子は小走りに駆け、にとりが暮らす河童の集落を目指している。
「好きなんだね、釣り」
「天人のたしなみといったところね」
「釣れたら私にも頂戴。この辺のは美味しいんだ」
「釣りより魚か。橙らしいわね」
「猫だもん」
そんな他愛のない会話をしつつ、橙たちは、にとり邸に駆け込む。
「どうだった、今日は」
と、にとりが声をかけた。
可愛らしいフリルのついた薄い青色のパジャマ姿のまま、眠たそうにソファに寝そべり、天狗の新聞を読んでいる。
トレードマークの帽子はもちろんかぶっていないし、髪も結っていない。
「ダメね、川はやっぱり難しいわ」
「そうか。まあのんびりやりなよ」
コーヒー淹れたけど飲むかい、とにとりは立ち上がった。
「いただくわ」
「天子はミルク一個で、橙は……砂糖二つにミルクだっけね」
「うん、ありがとう」
あいよ、とにとりはのろのろと台所へ向かう。どうやらまだ眠気がとれていないらしい。
にとりの後ろ姿を見ながら天子が放った
「髪おろしてると可愛いわね」
という何気ない一言は、にとりの耳にきっちり届いていたらしく、河童の少女は素早く振り返った。
「かか、可愛い? な、何を突然!」
「え? 感想を述べただけだけど」
にとりは顔を真っ赤にして呻いてから、足早に、居間の奥にある台所に引っ込んでしまった。
「変なの。褒めてるのに」
「照れ屋さんなんだよ、にとりって」
「でも可愛いじゃない。ねえ」
「うん。でも、天子も綺麗だと思うよ」
「知ってるわ。そういや橙ってさ、話変わるんだけど。紫の式なんでしょう」
「違うよ。私は、藍様の式」
「藍……っていうと、ああ、あの妖狐ね」
「藍様が、紫様の式なの。だから私は紫様の、式の式。それがどうかした?」
にとりはまだ台所から戻らない。天子と橙の何気ない会話が続く。
降り始めた雨は、徐々に勢いを増しているようで、窓や屋根を叩く雨音が強くなっていく。
「式神っていうのはさ、主人とつながってて、いつでもどこでも会話できるって聞くけど、本当なの?」
「うん。式がついている間はね。呼びかければ、藍様は応えてくれるよ」
「ふうん、じゃあ紫は?」
「私は藍様の式だから、式を通して念話できるのは藍様だけ」
「そうなんだ。いや、こないだ紫のところに行こうとしたんだけど、屋敷が見つからなくてね。東の方の森に住んでるって聞いたんだけど」
「紫様と藍様のお屋敷は結界に囲まれてるから、知らない人はたどり着けないんだ。紫様に御用なの?」
「いや、その、別に、そういうんじゃないのよ。ただちょっと話くらいしに行こうかなって」
「藍様に聞いてみようか? 天子ならいいんじゃないかな」
「あ、うん。いや、大した用事じゃないんだけど。あはは」
作り笑いを浮かべる天子を、不思議そうな顔で見つめた後、橙は、じゃあ藍様とお話ししてみるね、と意識を集中させ始めた。
天子はちらちらと、落ち着きなく橙の様子を伺う。
天子にとって、八雲紫は、とても特別な存在である。
以前、天子自ら起こした異変の際に敵として相対した八雲紫に、どうしても伝えたいことがあった。
それ以来機会が訪れず、紫の屋敷を訪れようと決心するに至るまでに、天子は大きな勇気を振り絞らなくてはならなかった。
そうした折りに、橙と出会えたのは天子にとって幸いだった。
彼女が一緒ならば八雲紫に会える。伝えたいことを伝えられる――天子はそう考えた。
もちろん、橙との付き合いは打算ではない。友人として接していたことがかえって良かったのかもしれない。
そんな風に考え事をしながら、妖気を介在して主人と会話しているであろう橙を見ていた天子だが、期待にほころんでいた表情に翳りが差す。
橙につられてのことだった。妖獣八雲藍の式は、不安と焦りを隠すことができず震えている。
「ど、どうかした?」
「……真っ暗だ」
天子の問いに答えたのではない。橙は虚空を見つめ、呟いたのだ。
にとりが天子と橙のコーヒーを手に戻ってきた。着替えをすませ、髪を結い、いつも通りの彼女の姿である。
にとりもまた、橙の異常に気がついた。
「なに。なにごと? 天子、何をしたんだ」
「いや、私じゃないわよ。橙が主人と話してくれるっていうから、それで」
天子が慌てて説明をする。
にとりが橙の肩に手をかけようとした時、橙は立ち上がった。
「ど、どうしよう! 藍様の身になに、か……」
言い終えることができず、橙は床の上に倒れる。
「お、おいっ。橙! 一体何が――うわっ!?」
風船から空気が抜ける時のような音と共に、橙の身体から灰色の煙がたちのぼる。
煙は少量で、天井に達すると霧散した。
「な、何だ? どうなってるんだ。おい、大丈夫かい、橙」
「式が剥がれたみたいよ、主人の身に何かあったのかも」
「主人って、藍さんにか。そんな馬鹿な」
八雲藍は八雲紫の式として名高いが、それ以前に巨大な力を持つ大妖怪である。
自らの式の制御を失うほどの事態に陥ることなど、藍を知るにとりには想像もできなかった。
とにかくソファに寝かせよう、とにとりは橙を抱えようとしたが、化け猫少女は手を震わせながら起き上がった。
気を失ったわけではなかったようだ。天子たちはほっと溜息をついた。
橙は、八雲藍の式神である。
かつては式として使役されているよりも、勝手気ままな猫又として生きている時間の方が長かったのだが、
ここ数年は、橙の方から主人に頼んで式を貼ってもらい、常にその状態で生活していた。
鬼が地上に姿を現したり、外の世界から二柱の神がやってきたり、魔界に封じられた魔法使いが解き放たれたり――
立て続けに様々な出来事が起こり、幻想郷は以前にも増して賑やかになりつつある。
その中で、少しでも主人、八雲藍の力になりたい。八雲紫の助けとなりたい。
そう考えてのことだった。
しかし今、橙は八雲藍とのつながりを断ち切られていた。ただ一匹の化け猫でしかなくなっていたのだ。
藍との念話ができなかったこと、藍の居場所が分からず妖力も感じられなかったこと、
そして式が剥がれてしまったことがそれを物語っていた。
「紫様のところに行かなくちゃ」
それが橙の出した結論だった。天子とにとりは頷き、憔悴した橙を両側から支える。
「安心なさい、この比那名居天子が着いてってあげるわ」
「私も行くよ、雨も本降りのようだし。濡れないようにしてやんなくちゃね」
妖怪の山から八雲紫の屋敷を目指して幻想郷の空へと舞い上がったのは――
すきま妖怪の式の式、化け猫の橙、河童の少女、河城にとり、そして天人、比那名居天子。
こうして少女たちの小さな物語は始まりを告げた。次第に勢いを増す雨の中、少女たちは空を飛ぶ。
遠くの空で黒い鳥が一翼、羽ばたいているのが見えた。
土砂降りの雨は降り続く。
幻想郷の北東、人里からは遠く離れた山奥にひっそりと存在する八雲紫の屋敷を目指して、少女たちは飛んでいた。
雨は橙たちを避けて地上へ降り注いでいる。にとりが持つ、水を操る能力が働いているのだ。
「やるじゃない、傘要らずだわ」
「私から言わせりゃ、濡れるのを嫌がって傘なんてもんをさすあんたらが不思議さ。あ、橙は別だよ、もちろん」
「河童の言い分よね」
場を和ませようとした天子の言葉に橙が反応することはなかった。
藍の身を案じるばかりに、耳に入っていなかったのだった。
かなりの速度で飛び続け、三人はあっという間に八雲家に到着し、中庭に降り立った。
先導した橙が、屋敷の位置と結界の抜け方を知っていたからこその速さだった。
雨の音しか聞こえてこない。
「藍様!」
縁側から、橙は主人の名を呼ぶ。返事はなかった。
「藍様! 紫様! 橙です。いらっしゃいませんか」
屋敷の屋根を叩き、庭に植えられた木々の葉を弾く雨。
大きな水たまりをいくつもつくっているその音にかき消されないように橙は叫んだ。
同じ事を何度か繰り返したのち、障子が開き、中から八雲紫が姿を見せた。
「何事ですか」
短く、そう言っただけの紫の姿を見て、橙はひるんだ。
余裕を失わず、感情を悟らせず、風に揺れる木の葉のように自由でつかみ所がない賢者。
しもべである橙はもちろん、山の妖怪にとりも、天界に住まう天子ですら、紫に対して尊敬の念を抱いていたし、恐れてもいた。
しかし今、目の前にいる八雲紫は彼女たちの知る紫ではなかった。
力のある、恐ろしい妖怪。
その威圧感に、にとりは震え上がって固まる。天子は気丈に胸を張ろうとする。そして橙はすがりついた。
「ゆ、紫様。お騒がせして申し訳ありません」
「何か用でも?」
冷たく、突き放すような口調。
いつもの紫様ではない、と橙は感じた。それでも聞かなくてはならぬことがある。
「藍様のお姿が見えません。式が途切れてしまいました。紫様は、何かご存じなのではないかと」
「……そう」
紫は溜息をついた。橙の後ろに立っている妖怪と天人には目もくれない。
まるで興味がない、といった風だ。
「藍は封じました」
橙に背を向け、紫がそう言い放った。
「……え」
言葉の意味を理解できず、橙が声をあげる。
封じた? 藍様を、紫様が?
「一度言っただけでは分からぬ愚か者ですか、お前は」
「お、お待ち下さい。なぜ、藍様を!」
橙は食らいついた。後ろで見ていたにとりは、声を挙げることすらできずにいる。天子も同様であった。
振り向いた八雲紫が橙に向けた視線の恐ろしさが原因だった。
「理由を説明しなくてはなりませんか。この私が?」
橙は天子やにとりよりも、八雲紫と近しい関係にある。
彼女の主人である八雲藍のことを、紫がどう思い、どう接しているのか、それを最もよく知っているつもりである。
「何があったのですか。紫様が、そんな、藍様を封じるなど。なさるはずがありません」
紫は答えない。橙の真っ直ぐな視線を、その全てを吸い込むような魔性の目で見つめ返している。
「教えてください、紫様。橙は、紫様と藍様のお役に立ちとうございます」
「お黙りなさい」
静かなる一喝。
天までもが恐れをなしたのだろうか、激しく降り続いていた雨は一瞬にして、勢いを失った。
「私の言葉に従わず、思惑から逸脱する式は要りません。藍は今後千年、光差さぬ牢獄に閉じこめます」
「そんな! 後生です紫様。きっと何かの間違いです、どうか、どうか」
言い終えた紫は再び橙に背を向けて屋敷の中へ姿を消す。
橙は、紫様、お願いです――と何度も呼びかけたが、紫が再びそれに答えることは無かった。
ぽつぽつ、と再び雨が降り始める。橙の泣き声は、大きな雨音にかきけされるばかりであった。
泣き続ける橙を連れて、にとりと天子は八雲の屋敷を離れた。
八雲の屋敷から少し離れた森の中、巨木の下で雨宿りを兼ねて、にとりたちは橙を慰める。
「どうしちまったのかね、紫さんは」
にとりは、しゃくりあげる橙の頭をなでている。そうすることしかできないのだ。
紫を前に、にとりはただ立ち尽くすばかりであった。
「あれほど殺気立ってるなんて、ただごとじゃないわよ」
木の幹にもたれて、天子が言う。
彼女もまた、すきま妖怪の桁外れな妖気と威圧感に怯んでいた。それを悔やんでいる様子である。
「紫さんらしくないよなぁ。橙、もう大丈夫かい」
「ごめんね、にとり……もう平気」
藍を慕い、紫を敬う気持ちならば誰にも負けないという気概が、橙にはあった。
ここで泣き続けていても、何も変わらないのだ。
「何か心当たりはないの?」
と天子。彼女が知る八雲紫は、理由もなく怒り、しもべを虐待するような妖怪ではない。
しばらく考え込んだ後、橙は口を開いた。
「そういえば紫様は、毎年六月になると、一人でお出かけになるの」
「一人でぶらつくのなんて、しょっちゅうじゃないの? どこにでも、急に現れるしさ」
「でも、藍様からもきつく言われてたの。この時期に紫様がお出かけになる時は、決して邪魔をしてはならないって」
「ふうん……何だろねそれは」
にとりが口を挟む。
「何が何だか分からない……私、藍様の式がついていないと、ただのダメな猫だし」
再び目尻に涙をためる橙。声は震えていた。
「あわわ。困ったなあ」
普段は陽気で暢気な河童のにとりだが、こうしたアクシデントはすこぶる苦手であった。
友人が悲しむ姿を見たくない、というのは河童に限ったことではなく天人も同じである。
「橙。あなた、それでいいの?」
にとりに抱きしめられている橙に対して、いつになく真剣な表情で天子が問いかける。
「だって、紫様には逆らえないもの。私なんて……」
「諦めるのは簡単だけどさ。千年でしょ? それだけ我慢すればいい話よね」
「イヤ! 藍様に、千年も会えないなんて!」
橙は若い妖怪だ。
化け猫として生きた時間は百年に満たないし、藍の式となったのもわずか数十年前である。
そんな橙にとって、千年とは気の遠くなるような絶望的な長さであった。
「じゃあ、助けましょう。この比那名居天子が、手を貸すわ」
天子の力強い言葉に勇気づけられた橙は顔をあげる。
「ありがとう……天子」
「へえ、たまには天人っぽいこともするんだね。いや、見直した」
「あなたも手伝うのよ? もちろん」
「いや、そりゃ不憫だと思うけども。あたしゃ単なる河童だし」
「さて、雨も止んだわね。行きましょうか」
「ちょ、ちょっと待った。まさか紫さんのところに戻って戦うなんて言わんでおくれよ」
紫が相手では万に一つも勝ち目はない、とにとりは脅える。
たとえ弾幕ごっこに持ち込めたとしても、負けるイメージしか浮かんでこない。
「それもいいけど、まずは外側から攻めてみましょう。確か紫って、幽々子と友達なんでしょ?」
天子は冥界に住む亡霊、西行寺幽々子の名を出した。橙は頷き、天子の言葉を肯定する。
紫と幽々子は長年の付き合いであり、互いが互いの屋敷を訪れることも多い。
紫のしもべである橙は、そのことをよく知っていた。
「まずはそこから。何か手がかりになるようなことを知ってたら話は早いんだけどね」
「友達見捨てて帰っちまったら、河童の名折れか。是非もないね、付き合うよ」
「にとり……!」
嬉しさを隠さず、橙はにとりの背に腕を巻き付ける。
苦笑しつつも、悪い気はしていないにとりだった。
「よーし、行くわよ、二人とも。天子様についておいでなさい!」
冥界――いわゆる一つの、死後の世界。四季を通してひんやりと薄ら寒い、亡霊の領域である。
いつの頃からか、幻想郷と冥界を隔てる結界がなくなり、
道中に生息する低級な浮遊霊や悪戯好きの妖精たちを気にしないのであれば
いつでも誰でも、生ある者ですら冥界を訪れることができるようになっていた。
今ではちょっとした観光地なのだ。避暑地としても五つ星、とは天狗が発行する新聞のコメントである。
白玉楼。広大な敷地を有する西行寺幽々子の屋敷は、その冥界にある。
とてつもなく広い前庭は冥界の名所であり、一般に開放されている。自然公園、といった風だ。
奥へ進むと、千を超えるのでは、と思われるほどに長い階段があり、それを昇りきれば、そこが白玉楼の正門となる。
門から先は、冥界の管理者西行寺幽々子の暮らすお屋敷で、関係者以外立ち入り禁止である。
無断で侵入する魔法使いや巫女も稀に現れるのだが、特殊な例だ。
「相変わらず抹香臭いわね。天界を思い出しちゃうわ」
と、天子がぼやく。彼女たちが飛んでいるのは冥界の大通り上空だ。
香の匂いは、生の世界と死の世界をつなげる役割を果たす。冥界や天界にその香りが漂っているのは自明であった。
植物の霊に混ざって、生きた植物も植えられている。大半は桜だ。
冥界の春は短く、夏は間近に迫っている。目下の景色は鮮やかな緑に覆われていた。
人影も、ちらほらと見える。空からでは、人間なのか妖怪なのか、それとも霊なのか見分けがつかない。
霊が暮らしている町だけあって、幻想郷の人里と比べれば圧倒的に静かで、穏やかである。
通りには、物見遊山で冥界を訪れる命ある者をターゲットにした冥界の土産物屋や、花屋、仏具屋などが並んでいる。
商店の体裁をとっているものの、亡霊には金銭取引の概念は無意味である。
幻想郷の名物、自由なごっこ遊びなのだ。
中には商売っ気を出して金儲けに走る生臭い亡霊もいないではないが少数である。
「いい匂いじゃないか。あたしゃ好きだけどね」
「にとりって冥界まで来たことあるの?」
「白玉楼はお得意なんでね。電化製品とか、うちらが採ってくる山の幸なんかを買ってもらってるよ」
白玉楼の主、西行寺幽々子もまた人間味溢れる亡霊の一人だ。
山菜、魚に獣の肉など、生ある者と同じように食べる。亡霊であるが、食べる。何でも食べる。
幽々子の従者は半人半霊であり、食事をとらなくては生きていけないのだが、彼女の存在が原因なのかもしれない。
傍で近しい者が食事をとっていれば、自分も食べたくなるのが道理だろう。たとえ、死んでいたとしても。
それはともかく、橙たちは冥界の中心を目指して飛び続けた。
大通りを過ぎ、白玉楼の前庭を越える。
幽々子の屋敷を目指す者の前には前述の階段が立ちはだかるのだが、空を飛べる妖怪や天人には関係のないことであった。
程なくして、橙たちは大きな門の前に降り立った。西行寺家の正門前である。
脇にある勝手口の戸を天子が叩いた。
しばらくして戸は開かれ、内側からおかっぱの少女が姿を見せた。銀色の髪に、黒いリボンが愛らしく揺れる。
魂魄妖夢。半人半霊であり、幽々子の従者である。
妖夢の小さめの頭の横には、彼女自身の半霊がふよふよと浮いている。
「ええと……何の集まり?」
妖夢の第一声。
彼女にとって初対面の者はいなかったが、橙、にとり、天子の組み合わせは妖夢を驚かせるばかりだった。
「天子と愉快な仲間たちよ」
どや、と言わんばかりに天子は胸を張る。
「なんであんたが仕切ってる」
にとりのような突っ込み役が、天子には必須だ。
「いいじゃない。いいよね、橙」
妖夢の顔には疑問符が浮かび上がっている。見かねたにとりは
「しばらくだね、妖夢。幽々子さんはおるかね」
と切り出した。
「幽々子様に御用? じゃあ、わけを聞かなきゃね」
と妖夢は、腰の刀に手をかけた。庭師でありつつ、彼女には剣の心得がある。
主人に仇なすものは何もかもとりあえず切り捨てるのが自分の役目だと思っているらしい。実に物騒な庭師である。
「おっと、剣に手をかけるとはいい度胸ね妖夢。緋想の剣でバラバラに引き裂かれたいのかしら」
「このバカ天人が! 喧嘩しに来たのかおのれは」
にとりは慌てて止めに入る。
「あ、あの! 実は、幽々子様にお願いがあって。紫様のことなの」
「紫様が? どうかしたの」
「実は――」
橙が語り、にとりが補足をし、天子が口出しをする。
何となくではあるのだろうが、妖夢は事の重大さを理解したらしかった。
「そ、そりゃ大変じゃない。分かった、幽々子様はいらっしゃるから、中へ……おっと」
屋敷の方へ駆けだした妖夢は反転し、天子の前に立つ。
「天子……さん」
「別に呼び捨てでいいわよ」
「そう。申し訳ないけど、腰のものは預からせてもらう。じゃなきゃ敷居はまたがせないよ」
「いいわよ。はいどうぞ」
強力な霊力に覆われた鞘に収まった緋想の剣。これを抜くことができるのは天人である天子だけである。
意外すぎるほどにあっさりと緋想の剣を手放した天子に、妖夢は一瞬ぽかんとしつつ、それを受け取った。
「あとでちゃんと返すから。それじゃ、こちらへどうぞ」
広い中庭を抜けて屋敷に入る。廊下をしばらく歩き、橙たちは客間へ通された。
幽々子様を呼んでくるからここで待っていて、と言い残して妖夢は出て行った。
代わりに顔面蒼白の女中が現れて、お茶でございます、と
磨き抜かれた光沢が美しい木製のテーブルに人数分の湯飲みを置いた。
壁にかかった見事な掛け軸や、縁側の向こうに見える優美な和風庭園、高級そうな湯飲みではなく、
天子とにとりの興味をひいたのは女中だった。
幽々子や妖夢と面識はあったものの、白玉楼に招かれたのは初めてのことだ。
「あなた、顔色悪いわよものすごく。大丈夫?」
と天子が恐る恐る聞く。
「はあ。まぁ、幽霊ですから」
「そ、そう」
「妖夢様と幽々子様がもうすぐ参りますのでお待ちを」
「……どうも」
湯飲みの中身は、不気味なほどによく冷えたほうじ茶だった。
お茶を飲みながら待つこと数分。
がらり、とふすまが開いて、まず妖夢が現れた。
橙は思わず姿勢を正す。
「畏まらなくていいよ、橙。楽にして。幽々子様は恐い方じゃないって」
そういって笑う妖夢。
和ませようとしたのだったが、続いて現れた幽々子を見た橙と、ついでににとりは、紫ににらまれた時のように縮こまった。
「非想非非想天の娘が、冥界に何の用かしら。比那名居天子」
静かな口調だが、警戒と威圧を感じさせる。幽々子は天子の向かいに腰を下ろした。
話が違うじゃないか妖夢、というにとりの声なき訴え。
おかしいな、なんで怒ってるんだろう、という妖夢の戸惑いをよそに天子は言う。
「私は橙に付き添ってきただけよ。剣だって預けたじゃない、敵意はないわ」
天子の説明に、幽々子は納得していない様子である。
「何を企んでるの」
「しっつれいね、純然たる善意よ。事情は妖夢から聞いたんでしょう」
「……?」
呼びに言っておいて何も話していないのか、こいつ。と天子は妖夢をじろりと一瞥する。
しまった、という表情で妖夢は幽々子に耳打ちした。
「なんですって。妖夢、なんで先にそれを言わないのよ」
「申し訳ありません、慌てていたもので」
「もう、おばかさんね。まあいいわ、それであなたたちは橙を助けてあげているってわけね」
「そういうことなんですよ。そいで、幽々子さんなら力になってくれんかなあ、と」
とにとり。
「なるほどね。把握しました」
両手で湯飲みをそっと持ち、幽々子は静かに茶をすすった。
橙は幽々子の次の句を待ちきれずに「何かご存じでしょうか」と聞いた。
「そうねえ」と、幽々子は天井を見上げて考え込む。
切羽詰まった橙とは対照的に、幽々子は落ち着き払っていた。
「私はね」
幽々子が語り始める。
「妖夢が大好きなの」
にっこりと微笑む少女の亡霊。橙たち三人は、どういう反応が正しいのか理解できないでいる。
唐突な幽々子の告白に妖夢もまた慌てふためいた。
「幽々子様! ななな、何を突然!」
「ふふふ。この程度で平常心を失ってしまうとは、未熟な従者だこと。そこが可愛いんだけれど」
ころころと笑う幽々子。
笑えばいいのだろうか。笑いどころなのかもしれない、と橙は頑張って笑おうとしたが、
「でもね、紫だって同じなのよ。藍やあなたのことばっかり話すんだもの」
橙を見つめてそう言い、幽々子は続ける。
「そりゃあ最近はね、霊夢や魔理沙みたいな若い子が騒がしいから、彼女たちの話題も多いんだけれど。
でもやっぱり、紫は藍を、目に入れても痛くないってくらいに愛してると思うわよ。これは本当」
橙には、幽々子が何を言わんとしているのかが分からなかった。天子やにとりも同様のようだ。
ただ、橙は幽々子の言葉は真である、と強く思った。
紫様は、藍様を大切に思ってらっしゃる。それは、絶対に間違いない、と。
しかし、それでは、どうして――。
橙の心を見透かすように、幽々子は言う。
「紫を信じてあげて。紫を分かってあげて。これは私からのお願いね」
「はい……」
橙が頷いたのを満足そうに見て、幽々子は立ち上がった。
「ちょっとちょっと、それだけなの? 何かこう、どうしてこうなった! みたいな話は無いわけ?」
腰を上げて天子が言う。
「心当たりならあるわ。紫と藍の間に何があったのか、とかね」
「そうそう。そういうのを教えなさいよ。そのためにわざわざここまで来たんだから」
「いやよ」
「は?」
幽々子の口から出たのは、ごく短い拒絶だった。亡霊は、微笑を保ったまま橙たちに語る。
「私は、紫のお友達なの。ご存じでしょう」
「何それ。紫をかばってるの? あなたが何か喋ったら紫が傷つく、とでも言いたいのかしら」
「有り体に言えばそうなるわね」
「それで私たちが納得すると思う? あなたに橙の悲しみの何がわかるっていうのよ」
そう言いながら天子は立ち上がった。落ち着け、とにとりが天子をなだめる。
剣呑な空気が客間に張り詰め、妖夢も冷や汗を垂らす。
「あら意外。橙ならまだしも、あなたが腹を立てることではないでしょう」
「橙は、この比那名居天子の友人なの。引き下がらないわよ」
覇気を放ちつつ天子は幽々子と視線を交わす。
幽々子の方がやや背が高く、天子にとって見上げるかたちとなっていた。
「ふうん、あなた……いえ、まあいいわ」
「何よ、言いかけてやめないでよ。弾幕ごっこがお望みなら付き合ってもいいのよ」
「あらあら。血気盛んだこと」
西行寺幽々子と戦わなくてはならない――そんな状況に陥ったとして、客間にいる者の中で、幽々子と実力が伯仲しているのは天子だけである。
幽々子が天子を圧倒していることといえば胸囲であるが、それはさておき。
にらみをきかせる天子に対し、幽々子はふう、と溜息をついた。
「分かった、分かったわよ。争うつもりはないから落ち着いて」
幽々子は再び座り直す。天子たちもそれに倣った。
「一つ、はっきりしてることだけ話しましょう。この一件には、紫の式が関係しているわ」
「……」
橙たちは、またもあっけにとられる。
亡霊の思考回路は不可思議極まりない、といった風だ。
「あの、幽々子様。差し出がましいようですが、それは当たり前なのでは」
妖夢が口を挟んだ。
「いやいや。藍とは別の式のことを言っているのよ、私は」
「えっ……」
初耳であった。
八雲紫の式神、といえば、それはすなわち八雲藍を指すものだと、橙は考えていたのだった。
「ずっとずっと昔、とても短い間、紫が使役していた式。その式が……たぶん、紫と、そして藍を苦しめている原因だと思うわ」
「はあ、そりゃ驚きだ。悪霊にでもなっちゃったとか?」
珍しくにとりが発言する。
「いいえ。むしろ逆かしら、紫はね、今もその式を――いえ、ここまでにしましょう」
目を伏せて言葉を区切った後、幽々子は続けた。
「紫を知っている、旧い妖怪たちを訪ねてご覧なさい。何か教えてくれるんじゃないかしら」
そういう連中の口の軽さまでは、責任持てないものね、と幽々子は付け加える。
「私から話せることはこれだけよ。橙、もう一度言うわ。紫を信じてあげてね」
そして幽々子は客間を出て行ってしまった。
紫を知る妖怪たちを訪ねてみろ、という次なる手がかりを得て、橙たちは白玉楼を辞した。
妖夢が玄関まで見送り、天子に緋想の剣を返す。
「ごめんなさい」
そう言ったのは妖夢の方だった。
「謝られるようなことは無いと思うけど」
「あなた変わったわ。もっと慇懃無礼で傍若無人な人だと思ってた」
と、妖夢は照れ笑いを浮かべる。
天子は、そうかもね、と言いながら、受け取った剣を腰に戻した。
「お邪魔したわね。感謝する、と幽々子にも伝えて頂戴。さ、行きましょう!」
橙とにとりも妖夢に礼を言い、手を振りながら冥界の空に舞った。
妖夢は、橙たちが見えなくなるまで中庭で空を見上げていた。
「妖夢」
と、玄関から主人の声がして、妖夢は振り返った。
「少し出かけるから、お供なさいな」
幽々子はいつになく真剣な表情で、そう言った。
「は、はい。紫様のお屋敷ですね」
これまでの話の流れからしてそうに違いない、と妖夢は断じたのだが、幽々子の答えは違っていた。
「いいえ。ちょっと――お彼岸にね」
白玉楼を出た後、橙たちは再び幻想郷を目指して飛び続け、人里付近の山道に降り立った。
考え無しに飛んでいても仕方がない、一旦降りよう――とにとりが提案したのだった。
「顔色悪いよ、にとり。大丈夫?」
橙は、心配そうににとりの顔をのぞき込む。
河城にとりは、八雲紫や西行寺幽々子と比べれば、遥かに若い妖怪である。
とはいえ、橙よりは長生きしており、幻想郷の掟や、逆らってはならぬ強大な妖怪の名が、
そこそこ明晰な頭脳の中に、きちんとインプットされている。
「あ、いかん、キュウリ分が切れてきたかな。帰って補充せんと死ぬかも」
「え?」
「そういうわけなんで、帰ってもいいかね?」
と、にとりは頼んでみたものの、天子はそれをあっさり聞き流した。
「八雲紫っていう名前は昔から知ってはいたけど、実際会ったのって最近なのよ。橙は知らない? 紫と付き合いの長い妖怪」
天子が問う。
にとりの、頼む言わないでくれ、という視線に、橙が気付くことはなかった。
「伊吹萃香様」
「ああ、小鬼でしょ。知ってるわ、天界でもたまに見かけるわよ」
四六時中酔っぱらってる姿しか見ないけど、と天子が付け加えた。にとりは冷や汗をかきはじめている。
「それから、風見幽香様」
「名前は、どこかで聞いた覚えがあるわね。どんなやつ?」
「さ、最強最悪と謳われる大妖だよ……ぶるぶる」
にとりが震える声でそう言った。
「ふうん、大物なのね。他には?」
「あとは、妖怪じゃないけど閻魔様くらいかな。紫様は、たまにお会いになってるみたい」
「閻魔様かぁ、そりゃ私も会いたくないわね、説教は衣玖だけで間に合ってるわ」
ふむ、と天子は呟く。
橙と天子のそばを、そっと離れようとしたにとりだったが、天子は襟首を掴んで引き戻した。
「ウワー、離せ、離してくれ」
「何なのよ、ダメに決まってんでしょ。乗りかかった船でしょうが」
「あ、あんたなんか人間じゃないやい、鬼! ひどすぎる!」
「人間はだいぶ前にやめたわ。鬼でもないけど」
にとりは既に涙目だった。
「どうしたの、にとり。変だよ」
「若い妖怪は鬼の恐ろしさを知らんから困る。それに風見っていったら……おお! ぶるぶる」
「萃香様は楽しいし、幽香様は優しいよ。チルノとかリグルが、よく遊んでもらってるし」
橙の説得は、にとりの恐怖に凝り固まった先入観をぬぐい去ることはできないようだ。
「とりあえず萃香と、その風見幽香ってのをあたってみましょう。どっちみち彼岸までは行けないし」
「キュウリ半年分をお前にやろう。それで見逃してくれ、頼む天子」
「どうする? 手分けしましょうか」
「手分けだと、正気かあほんだら! 死んだらどう責任とる!? 見捨てないでください、お願いします」
「わ、わかったわよ。妖怪に土下座されるのは初めてだわ」
「恥も外聞もあるか! 命だいじに」
「河童っておもしろいわね。皆こんななの?」
話し合い、と言えるかどうかはともかくとして、橙たちはまず萃香を訪ねることにし、またも空へと飛び上がった。
「最近、天界じゃ見かけてないし。やっぱり霊夢の神社かしらね?」
「頼む霊夢、居てくれ。あんたがいりゃ安全だ」
日は既に、西に傾きつつある。目指す先は幻想郷の東端、博麗神社である。
橙たちが飛んでいると、真向かいから風をまとい、凄まじい勢いで近づいてくる者がいた。
目にもとまらぬ速さで橙たちとすれ違い、その後すぐに空中で制止し、戻ってくる。
鴉天狗の射命丸文だった。
「どうも皆さんご機嫌よう……って、こりゃまた面妖な組み合わせですね」
文が橙たち三人に対して抱いた印象は、妖夢のそれと同じだった。
「霊夢さんに御用だったら、残念ながらお留守でしたよ。地底に遊びに行ってるんだとか」
霊夢は留守だと聞いてにとりの顔色は青くなる。
「……なんで行き先知ってんの?」
「鳥居の上に寝転がってた萃香さんに聞きました」
にとりは にげだした。しかし まわりこまれてしまった。
天子は、にとりが背負うバッグを掴んで離さない。
「私たちは萃香に用があるのよ。都合がいいわ」
「今頃いびきかいてらっしゃるかもしれませんよ。いぶきがいびき。あ、これは失礼」
天狗の洒落は、俗世を離れた天人には通じなかった。
「そうだ橙さん、あなた八雲藍さんの式でしたよね」
「はい。あの、藍様が……」
「そうそう藍さんを探しているんですよ、待ち合わせにいらっしゃらなかったもんで。術か何かで呼び出せたりしません?」
思わぬところで手がかりに遭遇したかしら、と天子は文に、説明を求めた。
文は、昨晩遅くに、裏山の奥で藍と会う予定だったのだ、と語り始めた。
文が言う裏山とは博麗神社の裏手に広がる山のことで、妖怪や野生動物の絶好の住みかとなっている。
幻想郷において山、と言えば妖怪の山を指す。
妖怪の山には天狗を中心とした極めて整然とした妖怪社会が存在し、
その枠組みの中で暮らす様々な種類の天狗や、技術者である河童などの妖怪はそれを良しとし受け入れ、規範に則って暮らしている。
知能の低い低級妖怪や束縛を嫌う者たちもいて、そういった者たちが神社の裏山を寝床としている。
社会的でない不良妖怪たちが集まれば問題が起こっても不思議ではないが、博麗神社がすぐそばにあり、
巫女を刺激すればケガをするのは自分たちだと分かっているのだろう。裏山は至って平和なものである。
凄まじい魔力を有した悪霊が山を徘徊し妖怪たちに睨みをきかせているという噂もあるが、それは今回の件と一切関係ない。あたしゃここにいるよ。
その山の中で藍と落ち合う約束があったのだが、現れなかったのだという。
「あ、そういえばこれ秘密にしておいてください。特に紫さんには」
思い出したように付け加える文。藍は、紫には何も話さず文と会おうとしていたらしい。
橙は、藍の身に何かが起こり、今は会える状態ではないと語った。
「ふむむ、へええ、ほおお。穏やかじゃないですね」
「藍さんは何の用事だったのかね? そんなところで」
ついに逃走を諦めたらしいにとりが、そう聞いた。
「実は最近藍さんに、調べ物を頼まれましてね。例の裏山で、定期的にお会いしていたんですよ」
「藍さんが調べ物? 文に? 知らないことなんてあんのかね」
「彼女が紫さんの式になる以前のことについてですし、そりゃ知らんでしょう」
藍が紫の式となったのは何百年も昔のことだが、射命丸文はそれ以前から幻想郷に生きる古参の妖怪であった。
外見は十代の少女に他ならないが、その齢は千を軽く越える。
「それにしても、うーん。そういう状況だと、紫さんに会いに行くわけにもいかないようですね」
「機嫌悪かったよ、めちゃくちゃ」
「ひょっとすると藍さんが昨日現れなかったことと関係が……おお。なんだかワクワクしてきました。ちょっと失敬」
新聞記事の執筆意欲が湧いてきたのだろうか。
文は愛用の手帖を取り出してページをめくり、何事かメモを取り始めた。
「それにしても妙ね。あなたが使いっ走りみたいな真似をしてるなんて」と天子。
「見返りとして貴重なものをいただきましたからね。写真機用のフィルムです」
「ふぃる……何?」
「非常に値がはるのですよ、ネガだけに」
天狗の洒落は、俗世を離れた天人にはやはり通じなかった。
「――と思われる、っと。さて皆さん、私はちょっと人里に用事があるんですけど、あとで一度合流しませんか」
手帖を胸ポケットに仕舞い、文が提案した。
「萃香に会った後、風見幽香ってやつにも会いに行く予定だけど」
と、天子が答える。
「なるほど、古参妖怪の方々を訪ねてまわっている、と」
「悪巧みをしてるんならお断りだけど、天子様ご一行の役に立ちたいと言うんであれば拒みはしないわよ」
「人聞きが悪いですねぇ、これでも清く正しい射命丸で通ってるんです」
「へぇー」
「あっ、今のカチンときました。というかですね、意味わかんない理由で異変起こすあなたにだけは言われたくありませんよ」
「ああ、うん。その節はどうも」
「……のれんに腕押しじゃないですか。とにかく私も一枚噛ませていただきますよ、藍さんのことも心配ですしね」
「記事にできれば一石二鳥、と考えているわけね」
「最低限のモラルは持ち合わせているつもりなのでご心配なく。というわけで」
文が指定した合流場所は、人間の里にある茶屋だった。妖怪の客も多く、夜遅くまで営業しているらしい。
萃香さんによろしく、と文は風をまとって飛び去り、あっというまに見えなくなってしまった。
文と別れ、橙たちは博麗神社の境内に降り立った。
生暖かい風が吹く。鳥居を見上げると、そこに少女が一人、寝そべっていた。
小さな百鬼夜行という二つ名を持つ鬼、伊吹萃香である。
「萃香、起きてもらえない?」
と下から天子が呼びかけた。
橙は天子のそばで萃香を見上げ、にとりは橙の背にしがみついて震えている。
「んあ? なんだあ、天狗の次は天人か。霊夢ならいないよ」
「あんたに聞きたいことがあるの。ちょっと降りてきてよ」
あくびを噛み殺し、萃香は天子たちの前に飛び降りてきた。
「ふわぁああ……ん? 紫のとこの橙じゃないか。そっちは、ええと確か……にとり。だよね?」
「は、ははぁっ! 谷河童の河城にとりでございます、伊吹様!」
「かたっくるしいねえ、萃香でいいって。気楽にいこうよ」
「へえ、恐れ入ります」
「んでどうしたの、あんたら」
立ち話もなんだし、と萃香は橙たちを神社の裏手へ連れて行き、縁側に腰掛けた。
霊夢が居ない間は留守番してやってんだ、と萃香は言った。
妖夢や文に語った、これまでの出来事を、橙が説明する。萃香は、時折相づちを打つくらいで、口を挟まなかった。
「そうか、紫が藍をなぁ」
「萃香様は、紫様を昔からご存じなんですよね?」
「まあ、そうだね。ご存じだよ」
どんよりと曇った空を見つめながら、萃香は答えた。それからにとりと天子に、
「ところであんたらはなんで橙と一緒にいる? 紫に捕まって式神にされちゃったのか」
と聞く。
「だって、橙が可哀想じゃない。わけもわからず主人を封印されちゃって。助けてあげなくちゃ」
「……はぁ?」
何を言っているんだ、という風に、萃香は天子をじっと見つめる。
「なによ。っとにいつも酒臭いわねあなた」
「ふうん。紫や霊夢に懲らしめられたのが効いたのかな? 救いようの無い馬鹿天人だとばかり。すまんね」
「う、うるさいわね! 天人が人助けをしちゃ悪いっての?」
「いんや、全然。悪巧みしてないんなら結構なことだわな。じゃあ知ってることを話そうかね」
瓢箪をぐい、とやって、萃香は話し始めた。
「紫とは長い付き合いだ。千年以上は経ったかな? 今でもよく覚えてるのは、やっぱり月に攻め込んだことかな」
「月、ですかい? そりゃまた……一体どうやって」
「紫の力は知ってるだろ、あのインチキくさい隙間だよ。湖に映った月に向かって飛び込んだらあっという間にご到着さ」
「はぁ……信じられんですね」
にとりは嘆息する。
「そいで、どうなったんです?」
幻想郷は結界に囲まれた箱庭だ。結界の外には日本という島国がある。
大地が、海が広がるこの世界は地球と呼ばれる星に存在していて、月は宇宙に浮かぶ地球の衛星である――その程度の知識は、にとりにもある。
「月には、月人ってのが住んでてさ。そいつらに叩きのめされて来た」
「い!? 紫さんや……す、萃香様が負けたんですか?」
「ああ。もうこてんぱんさ。こっちは古豪を百以上集めて乗り込んだんだがね、たった二人相手に負けちまった」
「うへぇ、随分な話だなあ」
「橙なら、紫から話くらい聞いたことあるんでない?」
「は、はい。紫様が妖怪を率いて戦った、と聞いてます」
「紫がリーダーだったんだ? で負けたんだ? あはは、笑える」
天子が口を挟む。
にとりはひい、と絞り出すような声を出したが、萃香もまた笑っているだけだった。
「そうとも、笑うしかない。かすり傷一つ負わせられなかった。まぁただ、紫は、本当は戦って勝つことが目的じゃなかったんだとさ」
「そりゃ一体……どういうことなんです」
「にとりよ、あんたら河童は科学技術とやらに長けているんだろ」
「はぁ。まあ、ぼちぼちやらせていただいております」
「月の連中もそうらしい。とてつもなく発達してるんだとさ、紫の受け売りだけど」
「ほほう、そいつは興味深い」
「紫は、その技術とやらがどんなもんなのか知りたかったんだ。紫に味方した私らは、紫がそれを確かめる間の時間稼ぎをしたわけ」
「別に倒してしまっても構わんのだろ、ってやつね」
と、再び天子。
「倒せたら痛快だったろうけどねぇ。ああそうだ、私が言ったこと、あまり漏らさんでくれよ」
「はあ、別にいいけどなんで?」
「誇り、かな。技術の調査が真の目的だったことを知ってる妖怪は少ない。他のやつらは真剣に戦って、そして負けたんだ」
「ふうん……」
「紫は、勝ち目が無いってことをすぐに悟った。でもそのことを知ったら、がっかりするヤツもいるだろうからさ」
「鬼らしいご意見ね。分かったわ、ここだけの話にすると誓いましょう」
天子はそう言った。
にとりはもちろん、橙もしっかりと頷いた。次に質問をしたのは橙である。
「でも、紫様はどうしてそこまでして……」
「そこで出てくるのが、紫が使ってた式の話だ。幽々子からもちらっと聞いてるんだろ、藍とは別のやつだ」
萃香は、過ぎ去った時を遠い目で見つめている。
「その式が紫と一緒だったのは、月に行く前のことだ。何度か、紫が連れているのを見たよ」
「どんな式だったんです?」
「鳥だね。よく覚えてないが、鳥の妖怪だったと思う。この子は世界の英雄となるんだ、ってなことを言っていたっけ」
「英雄。どういう意味ですかねぇ」
「さあね、説明してもらったかも知れんが忘れたな。まあ、いつものことさ。あいつの話はよく分からん」
萃香は、くい、と瓢箪の酒をあおり、続ける。
「月を攻めた時には、もうその式はいなかった。紫は珍しく塞いでたな。その、鳥の式を死なせちまったことがこたえたらしい」
何があったんでしょうか、と橙が尋ねる。
「私には分からん。さっき言った月の科学技術ってのを調べる気になったのも、式が死んだことがきっかけだったみたいだったね」
どんな式神だったのだろう。紫様は、その式神に何を命じたのだろう。そして、何故死んだのだろう。
橙は考えてみたが、藍の式神が剥がれてしまった今の状態では、うまい考えが浮かばない。
気分は落ち込むばかりであった。
「そんなところかなあ、思い出せることと言ったら。藍と何があったかとか……その辺はわかんないや」
参考になったかね、と萃香は聞いた。
「ありがとうございました、萃香様」
「いいっていいって。何がどうなってるか知らんけど、丸く収まることを祈っとるよ」
萃香はほろ酔い顔で笑い、ああそうだ、と呟くように言った。
「式を新しく持ったらどうだって、紫に言ったの私なんだよね。思い出したわ」
「それは、藍様のことですか?」
「うん。月から戻っても、元気なくて張り合いなかったし。飲み友達がそんな調子だと白けるだろ?」
紫が落ち込んでいたり、嘆いていたりする姿を、橙は見たことが無い。
藍を通じて紫に仕え、傍にいたつもりではあったが、結局のところ、知らないことの方が多いのだ……と橙は俯く。
「外の世界でやりたい放題暴れまくってた九尾の狐を従わせて、式神にしたわけ。それから落ち着いたな、確かに」
そしたら今度は藍にかまけるようになっちまって、失敗したかねえ。
萃香はそう言って笑ったのだった。
相も変わらず、幻想郷の空は雲に覆われている。
「うーん、分かったような、分からないような。なんだかはっきりしないわね」
博麗神社を後にし、天子たちは飛ぶ。
地上を見下ろすと、人間の里が小さく見える。
風見幽香が暮らすという太陽の畑は、里を西に抜けた先に広がっているのだった。
「とりあえず、風見幽香だっけ。そいつに聞き込みってところね」
「なあ、天子」
後ろを飛ぶにとりが、神妙な面持ちで天子を呼ぶ。
「何? 帰りたい、は無しよ」
「もし襲われたら盾になっておくれ。あんたのこたぁ忘れない」
「にとりは心配しすぎだよ。幽香様は優しい妖怪だって」
橙はフォローするが、にとりはなまんだぶなまんだぶと呆けたように呟くばかりであった。
数十分は飛び続けただろうか、橙たちは太陽の畑にたどり着いた。夏の花が咲き乱れている。
今年は例年よりも暖かく、夏の暑さは長引きそうだ。
あいにくの曇り空ではあるが、辺りの花は生き生きとしている。四季のフラワーマスター、風見幽香が世話をしているのだ。
残酷で凶暴な妖怪である、と誰からも恐れられている幽香には、彼女には花をこよなく愛するという一面もある。
訂正しよう。
花をこよなく愛する可憐な少女幽香さんは、植物をないがしろにする者たちが少なからずいることに心を痛めている。
心を痛めているのだ。
幽香は、空からやってきた訪問者たちに早くから気付いていたようだった。
畑のそばにたつ小さな家。煉瓦造りで、壁一面にツタがはっている西洋風の一軒家が、風見幽香が夏を過ごす住まいである。
幽香は幻想郷のあちこちにこぢんまりとした家を持つ。四季折々の花を追って暮らすのが、何よりの楽しみであった。
異世界に豪勢な館を持つ名家の令嬢であるというまことしやかな噂もあるが、実際のところは不明である。
背の低い柵の内側がどうやら庭らしく、そこにも小さな花壇があって、可愛らしい花が風に揺れている。
ロッキングチェアに腰掛けて優雅にハーブティーを楽しみながら、幽香は橙たちが目の前までやってくるのを待っていた。
出迎えよう、という気は、彼女には全く無い。
「こんにちは、幽香様」
臆することもなく橙が声をかけたことに、にとりは衝撃を受けた。
幽香はにっこり微笑み、「いらっしゃい橙」と答える。
「今日は変わったお友達を連れてるわね。紹介してもらえるかしら」
「はい。こっちは、河城にとりさん」
「は。はは、初めまして、風見様」
「聞いた名だわ。震えているわよ? そろそろ夏も間近だというのにおかしいわね」
「それで、こちらは……」
「ふうん、あなたが風見幽香か。噂には聞いているわよ。私は比那名居天子」
橙の言葉を引き継いで、天子は名乗った。
「てんし? ああ。魔理沙が言ってた、馬鹿な天人てのはあなたのことね」
「無礼千万ね。言っておくけど私は――」
「まあどうでもいいわ、それで何の用?」
一応、天人とは、人間からも妖怪からも尊敬を集める存在であるということになっている。
ただし一般的な常識は、風見幽香には通用しない。
「紫が? ふうん」
橙は説明にも段々慣れてきた様子である。興味がなさそうに、幽香は呟いた。
「何か、知りませんか? 何でもいいんです、藍様と紫様を、助けてあげたいんです」
「はん。なんで私があんなやつのために……わざわざ……」
つい、いつも調子で切り捨てようとした幽香であったが、橙のすがるような潤んだ瞳に耐えきれず視線を逸らす。
ややあって、幽香は答えた。
「……分かったわ。勘違いしてはダメよ橙、あなたのお願いだから答えるのであって、別に紫が心配だとか、そういうわけでは」
「ふふふ、見切ったわ。あなた、『つんでれ』でしょう」
自慢げに、またもや口を出す天子。
今度ばかりは、色々と覚悟したにとり。さりげなく、返り血を浴びなさそうな位置に移動するのだった。
「天人を甘く見たわね。実は、外の世界の新しい言葉も色々知ってるのよ。あなたはっぷぁ!」
幽香は表情を全く変えず、天子の顔面に、テーブルに立てかけていた日傘をたたきつけた。
刹那の後、すぱぁん、と小気味良い音が響き、ひぎぃい、と天子が地面をのたうちまわる。
「何なのかしら、この小娘は」
「えっと。私の友達、なんですけど」
「あなたのためを思って言うけど、お友達は選びなさい、橙」
「はあ……」
「それで――そう、紫のことね。役に立てるかまでは保証しないわよ」
幽香も、幽々子や萃香と同じく、果てしない時の流れをゆっくりと歩み続ける存在である。
カップに口を付け、薄暗くなりつつある空を見上げ、過去を振り返る。
記憶の引き出しを開けるために必要な儀式なのだった。
ちなみに天子は既に立ち直り、涙目で鼻をさすっている。
「萃香から大体のことは聞いているんでしょう。あまりないわよ、教えてあげられることなんて」
「幽香様も、月に行ったんですか?」
「まあね。率直に言って、私は気に入らなかった。月を攻めるという紫の考えが」
「……」
「紫は、口癖のように言うじゃない。幻想郷を愛している、守っていきたい、と」
「はい。紫様はいつも、幻想郷は私たち皆の楽園なのだと仰います」
「矛盾していると思わないかしら。月人たちが、攻め込まれた報復にと幻想郷を襲ったとしたら、為す術はないわ」
風見幽香をして、為す術がないとまで言わせる月人とは、そこまで桁外れの存在なのか。
冷や汗を背中に感じつつ聞いていたにとりは、そう思った。
「森や花畑が荒れるのは嫌だったし、紫に訊いたの。リスクを背負ってまで戦う意味があるのか、月の科学とやらを調べる価値はあるのか、とね」
「紫様は……何と?」
「ある、と言ったわ。はっきりとね。幻想郷だけじゃなく、この地球という星そのものを襲う災厄を防ぐためだ、と」
幽香が語る、八雲紫の言葉は、橙にとって難しいものだった。
紫はどうして月に行くことを決めたのか。月で何を見たのか。
そしてそれは、今起こっている出来事とどんな関係があるというのか。
答えにたどり着くことは出来ず、橙は奈落と落ちていくような感覚に囚われていた。
「あなたはなぜ月へ行ったの?」
と、幽香に問いかけたのは天子だった。
「質問の意図が、よく分からないわね」
「妖怪をまとめていたのは八雲紫なんでしょう、あなたは素直に従うタイプだとは思えないんだけど」
「気に入らなかった、とさっき言わなかったかしら」
「でも行ったんでしょ。そして萃香と同じように、紫のために時間稼ぎをした」
「ふうん。比那名居と言ったかしら、見た目通りの間抜けではないのね」
「当然ね。たまに下界に降りてくるとみんなが私に注目するわ」
天子の自慢げな表情にいらっときたのだろう、幽香は天子にデコピンを喰らわせた。
銃が発射されたような破裂音と共に天子は再び転がる。
「紫に従ったわけではないわ。私は自分のやりたいようにしただけ」
「ちょ、ちょっと。私じゃなかったら死んでるわよ、あなた凶暴すぎるわ」
はやくも復活した天子。今度は涙目でおでこをおさえている。
「月人の技術を、知る必要がある。紫の話を聞いて、私もそう判断したということよ。『どんなことができるのか』をね」
「幽香様は見たんですか? その、月人の――」
「それは紫が知っていればいいことよ。あいつったら自分は一人でも行く、って聞かなくてね。死にに行くようなものだというのに」
「紫様を、助けてくれたんですね」
と橙が言った。幽香の頬が、微かに紅くなる。
「自分のやりたいように、やっただけよ」
ぶっきらぼうに、幽香は再びそう言う。
「獣の像をなくしてから、やつれていたしね。困るのよ、大物の妖怪なら常にそれらしく振る舞ってもらわないと」
雑魚どもに舐められるようなことになったら不愉快だわ、と幽香は取り繕うように言った。
「獣の像、というのは何でしょうか」
橙は、その耳慣れない言葉について尋ねる。幽香は不思議そうな表情で、
「萃香から聞いているんでしょう? 紫が使っていた式よ」
と言った。
「萃香様は、たしか、鳥の妖怪だ、と仰っていました」
「鳥? そうね、言われてみればそう見えたかもしれないわね」
「妖怪ではなかったんでしょうか」
「金属の像だったわよ。それに式を吹き込んでいたのだから付喪神みたいなものね」
「付喪神……」
「そんなところかしらね。何にせよ」
遠い昔のこと。それにその式神は、もうどこにもいない――幽香の話はそうして結ばれた。
萃香と話した時と同じように、橙は丁寧に礼を言い、太陽の畑を後にした。
にとりは逃げるようにして飛び去り、天子は覚えてなさいよ、と捨て台詞を残す。
辺りは薄暗くなり、畑のどこからか、虫の鳴き声が聞こえてくる。
橙たちの姿が見えなくなった後、幽香は椅子から立ち上がり、たたんだままの日傘を手に取り歩き出した。
花畑を縫うような小径に立ち、幽香は振り向いて日傘の石突を空中に向けた。
「出ておいでなさい」
幽香がそう言うと、途端に薄い霧が幽香の目の前に集まり、それはあっという間に少女の姿となる。
にやり、と笑い、幽香の前に立ったのは伊吹萃香だった。
「何か御用?」
「分かってるくせに。あいつら、あんたのところにも来たんだろ」
「……ええ」
「どう、ちょっと付き合わないかい」
「あなたのために使える時間など無いわ。ごめん遊ばせ」
「はは、変わらんね。だけど八雲紫のことなら……風見幽香は腰をあげてくれるだろう?」
「はあー」
人間の里。
その名の通り、幻想郷に暮らす人間が集まる場所であるが、ここには妖怪も多く出入りする。
人が死に、妖怪が消滅せしめられる命がけの闘争は、弾幕ごっことなった。
現在の幻想郷において、人間と妖怪の間には、過去のような絶対的な隔たりはない。
橙たちは、里の大通りから狭い路地へ入った甘味処にいる。射命丸文が指定した店であった。
文が言った通り、妖怪の客は珍しいものではないらしく、割烹着の女給は橙たちを見ても全く驚かずに、席まで案内するのだった。
明かりに照らされた店の中から外を見ると、真っ暗である。日は落ちてしまっていた。
幻想郷中をあちらこちらへ飛び回ったせいで、人間と比べて遥かに強靱な妖怪も疲れを隠せないでいる。
最初に大きな溜息をついたのはにとりだった。
三人がついたテーブルには、既に彼女たちが注文した品が揃っていた。
橙の前には、林檎の果汁と牛乳を混ぜた甘い飲み物が満たされたグラスがある。
物珍しそうに長い間お品書きを見つめていたにとりだったが、注文を取りに来た女給の前でしどろもどろになり、
気付いた時には毒々しい緑色の飲料を指さしていた。メロンソーダだった。
人間を盟友だと言い、好いているわりには人見知りが激しい河城にとりである。
「一番高級なものを持ってきなさい」と言い放った天子の前にあるのは特大サイズのフルーツパフェだった。
季節の果実や、貴重な生クリームやバニラアイスに、チョコレートまでもが添えられた女子御用達のデザートである。
天子が下界を好む理由の一つに、食事が挙げられる。
天界での食事は単調極まり感動がないのだ、と力説しながら、心底嬉しそうにスプーンを口に運ぶ天子だった。
「どうしたのよ、にとり。それ美味しくないの?」
「舌がピリピリするけど美味いよ。そうじゃなくて私は生きてる喜びを噛みしめてんだ」
「大げさね。まぁ確かに、あの幽香ってのは危ない妖怪だったわ」
「あんたは丈夫だよねえ、死んだと思ったよ」
「あの程度じゃ何ともないわね。たかが妖怪に遅れをとるわけがない」
「……叫びながら転がってたろ、涙目で」
何のことかしら、と天子は、パフェの上に乗っていたサクランボを幸せそうに口に含む。
橙は、アップルオレに口をつけようとせず、暗い表情で黙り込んでいた。
「橙、飲みなさいよ。支払いなら心配しなくていいわ」
「うん……ありがとう、天子。でも、藍様が心配で」
藍を救おうと飛び出した橙だが、萃香や幽香から聞いた話を、どのように役立てれば良いのかが分からない。
自分は、主人を助けられない出来損ないの式なのだろうか――。
考えれば考えるほど自分という存在が情けなくなるばかりだった。
「おや、もう来てましたか。すいません、レモンティーひとつお願いします。んー、アイスで」
橙は顔を上げて、入り口近くから聞こえてくる声の方を振り返った。
射命丸文がそこにいた。文はすぐに橙たちを見つけ、同じテーブルにつく。
「待たせちゃいました? うわ、すごいもの食べてますね。美味しそうです」
「あげないわよ」
「そりゃ残念。お、にとりのは何ですそれ。キュウリの絞り汁ですか」
「メロンソーダっていうんだとさ。いけてるよこれ、ハマりそう」
「なるほど。っていうか知っててボケたんですがね。おや橙さん。ジュース減ってませんよ、飲まないんですか」
鴉天狗は、風を使う。幻想郷においてスピードで彼女に敵う者はいない。
それと関係があるのか無いのか、新聞記者でもある彼女の舌は、よくまわる。そしてかなりの早口である。
「どうでした、首尾良く萃香さんたちに会えました?」
「まあね、色々話を聞いてきたよ。風見幽香に、天子が殺されかけたが」
「おお、こわいこわい。ダメですよあの方を刺激しちゃ」
それでどんなお話を? と文は興味津々で尋ねる。
話す元気がなさそうな橙に代わり、にとりがこれまで聞いてまわった話を語った。
天子はいまだにパフェに夢中である。
「――とまぁ、そんなところかね」
にとりが語り終えた時、文は手帖のページをめくり、沈黙していた。
「聞いてたかい、文」
「……」
「おい、文ってば」
「あ、はい。すいません、ちと考え事を」
「なんか知恵はないかね? 昔話は聞けたけど、それで藍さんが助かるわけでもないし」
「いや。そんなことはないと思いますよ」
文はそう言って笑った。
「自信ありげね――ふぅ、おいしかったぁ。しやわせ」
ハンカチで口元を拭きつつ天子が言う。特製パフェは天人のお気に入りになったようだ。
「事の始まりは橙さんの式神が剥がれてしまったことですよね」
「ああ。それで、三人で紫さんのところへ行ったら、藍さんは封じた、と」
「紫さんは、毎年この季節になると、一人でお出かけになるそうです。藍さんから聞きました」
「橙も言ってたよね、それ」
にとりの言葉に橙は頷いた。
「目的をご存じですか? 紫さんがお一人で、何のためにお出かけになるのか」
「いいえ。藍様から、絶対邪魔しちゃいけない、と言われていたけど」
「藍さんも同じ事を言ってました。紫さんから、邪魔するなと言われている、とね。でも藍さんは、紫さんが何をしに出かけているのかご存じだったんですよ」
「で? その目的てのは、何なのさ」
にとりが促す。
「墓参りのようなものらしい、と聞いてます。行き先は、博麗神社の裏にある山の奥だそうで」
「ひょっとして、例の、昔紫さんが使役していたっていう?」
「そう、式神です。私は、その式について調べて欲しいと頼まれてたんです」
なるほどね、と、天子は食後のコーヒーを楽しむ。
「じゃあ、あなたも萃香や幽香から色々聞いていたわけ? だったらさっき会った時に教えてくれれば良かったじゃないのよ」
「あややや、違いますよ。私が調査してたのは、式そのもののことです。どんな姿だったのか、何のために式となったのか、そして――」
何という名前であったのか。
文は、それを調べるために幻想郷を駆け回った。
調査は難航した。八雲紫本人に聞くことができればどんなに楽だろう、と思われたがそれは出来ない。
であるならば紫と同じ程度に長く生きている妖怪を頼るしかない。
萃香や幽香を除いても、幻想郷には千年以上生きている者は大勢いるのだ。
彼らから断片的な情報を少しずつ集めては、藍にそれを報告していた。
さすがは紫の式といったところだろうか、八雲藍は計算や分析、推理を非常に得意としている。
文はいくつもの昔話を聞き、それを藍に伝えていたが、文自身、こんな眉つばな話が果たして役に立つのだろうかと不安を感じていた。
何しろ幻想郷の語り部たちは皆いい加減である。
やれ黒かった青かった、人型だった獣であった、と情報はすこぶる曖昧だった。
それに八雲紫は、人前に姿を現すことを好む妖怪ではない。それは昔からだ。
神出鬼没で、何を考えているか分からない。式神のことを聞いても分からない、知らないという答えが大半を占めていた。
にも関わらず、藍は、文が集めてきた幾つかの情報を元に、何かしらの答えにたどり着いたらしい。
調査を続けてくれ、と言ったものの、藍は何らかの行動を起こしたのだろう。
紫に封印されたのは、それが原因なのではないだろうか。文は、そう考えているのだった。
「封じられたっていうのが引っかかりますけど。何をやらかしたんでしょうね、藍さんは」
「さっき言ってた墓参りだっけ。それを藍が邪魔したんじゃないの?」
ことり、と天子がカップを置いた。
「筋は通りますね。邪魔するなと紫さんは言っていた。それを破った藍さんが罰を受けた、と」
「んなわけないって、千年も封印するって尋常じゃないよ。墓参り邪魔されただけでそこまでするかね」
否。八雲紫ほどの賢者が、自らの式に対して、犯した罪に見合わぬ過剰な罰を与えるとは考えられない。
誰もが、そう思った。
そして少女たちの間に束の間の沈黙が流れる。
「……藍さんのことと、関係あるのか分かんないけど」とにとりが切り出す。
彼女のメロンソーダは残り少なくなっている。名残を惜しむようにちょっとずつ飲んでいるらしい。
「紫さんが月に行ったって話を聞いたじゃない? 技術を調べに行ったって」
「あぁ、聞いたことありますね。私がお山に入ったのは、その後でしたけど」と文。
「幻想郷どころか、この星全体を災厄から救うためだ、とか何とか」
「そりゃまた、何というか、大きな話ですね」
「星がぶっとんじまったら幻想郷もおしまいだもんね。で、そんな物凄い災害……っていうのかね。何だろう、と考えた」
「ふむふむ。それは?」
興味津々、という風に、文が言う。
「……流れ星」
呟くようにそう言ったのは橙だった。
「藍様から教わりました。人間や妖怪が生まれるもっと昔、世界を支配していたのは竜だったと」
にとりはにやりと笑った。彼女が言いたいことを、橙が引き継いでくれることを期待しているようだ。
「にとりが、にやりと――すいません、何でもないです……」
三人にジト目でにらまれ、文は平伏する。
「竜だって妖怪じゃないの? 妖怪の頂点でしょう」
そう言ったのは天子である。
「その竜とはちょっと違って、たくさんいたらしいの。色んな竜が」
「ふうん、面白いわね。それで、それがどうしたの?」
「竜の世界は、流れ星によって滅びたんだって。藍様が言ってたわ」
「流れ星って、たまに空をついーっと横切るあれのことでしょ。うさん臭いわね、凶兆だ吉兆だっていっても所詮迷信じゃない」
「隕石ってやつだ」
にとりが言った。メロンソーダのグラスは、ついに空になっていた。
「大きさが問題なのさ。普段見かける流れ星は小さくて、この地球に落ちる前に燃え尽きて塵になるんだよ」
「あれって、燃えて光ってるんだ。ふうん」
「厳密には違う。光ってるのは流れ星と衝突したガスだね」
「はあ……?」
にとりを除いた三人は、「全く分からない」と無言で訴えている。
曰く、正確には、流星と隕石は別物である。
毎日いくつもの隕石が地球の重力に引かれて落下する。
そのほとんどが途中で燃え尽きるが、たまに形を残して地上まで落ちてくるものもある。
山の中や、外の世界の海に落ちることが多いが、ごく稀に民家の屋根を突き破って床に刺さることもある。
ちょっと大きいものになると、森を焼き払うほどのエネルギーが――とにとりは白熱した講釈を垂れる。
語り続けてテンションをあげたのか、
「女給さん、メロンソーダをもう一つもらえるかね」
と追加注文をし、三人の生徒の前で河城教授の講義は続く。
「幻想郷の結界を抜けたら、外の世界が広がってるってのは知ってるだろ? それが地球。
地球はめちゃくちゃ広いんだよ、幻想郷そのものが何千、何万もすっぽりおさまってしまうくらい。
隕石が宇宙から降ってきたとして、それだけ広い世界を滅ぼすのに、どのくらいの大きさが必要だろうね。文、どう思う」
「え! 私ですか。そりゃちょっと見当もつかないですね……」
「天子は」
「ごめん、全然聞いてなかった」
「橙はどうだい?」
「たぶん、幻想郷より、もっと大きい隕石じゃないかな。想像もできないけど」
「そう思うだろ。途方もなく巨大な石が落ちてこない限り、世界が滅びるなんてことは無いって」
「違うの?」
「それなりの大きさはもちろん必要だ。でも、そうだね。この人里より、少し大きいくらいの隕石で、充分世界は滅びる」
「……またまたぁ。さすがにそりゃ無いでしょう。地球と比べたら豆粒みたいなものじゃないんですか、それって」
文が口を挟んだ。
「本当だよ。さっき橙が言ってたろ、竜の世界はそれで滅びたんだから」
二杯目のメロンソーダを飲みつつ、にとりは続ける。
「どうやって竜が滅びたかとか、その辺は端折ろう。肝心なのは、世界が滅ぶ程度の隕石が降ってきた時、外の世界の人間には対抗する手段が無いってことだ」
「それは……ううむ。あ、でも以前、流星を破壊した方がいますよ。紅魔館の妹さんの方が、爆発させたそうで」
「幻想郷は化け物揃いだからね。しかし隕石が、そう都合良く私らの上に落ちてくれるかい? 地球は広いんだよ」
「むむ、それは確かに」
「結界があるって言ったって、外の世界とは地続きだろ。外がダメになれば私らも無事じゃ済まない」
「そうでしょうねえ。幻想郷は、外の世界から流れ着いてくるもので成り立ってる一面もありますし」
「もしもそんな隕石が落ちてきたとしたら、外の人間にゃ何もできない。科学の力が、そこまで及んでいないからさ」
「科学……あっ!」
「おや、橙は気付いたらしいよ。さすが藍さんの式ってところか」
「月人なら、隕石を壊せる……ってこと?」
「ご名答。壊せるかどうかまでは分からんけど、何かしら策は持ってるんだろう。紫さんは、そのことを確かめたかったんじゃないかね」
なるほど、と橙はしきりに頷いた。
「大体分かったけどさ、紫が使役してたっていう、例の式のことは、どうつながるの?」
黙って聞いていた天子が言う。
「確信はないけど、紫さんはその式を宇宙に飛ばしたんじゃないかね」
「宇宙に? 何で?」
「昔、地球に落ちてきそうだった隕石を見つけて、式を使って壊したとか。想像だけど」
「それはおかしいんじゃないの、月の技術を確かめたわけでしょ。わざわざ式を飛ばす必要無いじゃない」
「月へ行ったのは、式を失った後だ、と言ってたじゃないか」
「あ、あー。そうか、そうだったわね」
「鳥の妖怪だとか、獣の像だとか。正体が分からんけどねえ」
にとりが語り終えた後、よろしいですか、と文が話し始めた。
「さっきまで、稗田のお屋敷にお邪魔してたんです」
「稗田っていうと、幻想郷縁起の?」
「ええ。結構待たされましてねぇ、まあ阿求さんと話せたんで、良かったですけど」
「何の話? 藍さんのことと関係あるのかい」
「関係ないことも含めて、色々お喋りしましたけどね。まあでも」
――新聞の記事にはしない、そう約束してください。
文は稗田家の当主である稗田阿求に、念を押されたのだという。
八雲紫が、彼女自身のことを人間に語るなど、滅多にない。
そしてそれは、稗田家が妖怪の賢者から一定の信頼を得ている、ということだ。
衆目にさらけ出し、裏切るわけにはいかない。阿求はそう言ったそうだ。
その上で、遥か昔の、八雲紫に関する記録の閲覧を許されたのだ。
「驚きました。稗田家と紫さんの間に付き合いがあったことは知ってましたが、例の式について、ばっちり記録が残ってたんです。
どうも稗田家が調べ上げたのではなくて、紫さんが話して聞かせたらしいんですが」
「もったいぶらずに話しなさい、さあ早く」
「分かってますよ。記録によるとですね、緋緋色金で造られた獣の像に妖術で蝋の翼を付与して、それを式神とした――だそうです」
「なるほど。翼があれば、そりゃ鳥にも見えるか」
「幻想郷を、というかやはり、世界そのものを守るために式神を打った、ということになりますか」
にとりの説を採用するならですが、と文は締めくくった。
「やっぱりすごいお方だよね。紫さんは」
「そりゃまあ賢者と言われるくらいですからね」
「私ら長いこと幻想郷にいてさ、勝手気ままに楽しくやってるけど。それが当たり前なのって、紫さんのおかげなんだよね」
「まさしく。博麗の巫女さんも、一役買ってますけど」
「考えたことあったかい? 地球とか宇宙とか、そんなスケールのでかい世界のことをさ」
「時々、漠然と考えるくらいですねえ。星を見ながら、呑むときとか」
「幻想郷は地球の一部だ。破滅の危機ってやつがやってきたら、紫さんは、それを救ってくれる。私の勝手な思い込みかも知れんけど」
にとりは少し笑った。二杯目のメロンソーダも、空になった。
「その、稗田阿求、だっけ? わりと大事なことを聞いたんじゃないの、もしかして」
そう言ったのは天子だった。
「記事にできないのは残念極まりないですが、当たりと言えますね。質としては」
「いの一番に行けば良かったじゃないの、回りくどいことしてないでさ。藍に頼まれてたのって、そういう情報なわけでしょ」
「そうなんですけどね、藍さんはこの件については稗田家と関わりたくなかったみたいで」
「なんでよ?」
「紫さんと繋がりが深いからですかね? ついでに言いますと萃香さんや幽香さんも避けろと言われてました。さながら隠密です」
「知らんぷりすりゃいいじゃない。念を入れて天狗のあなたまで使ってるのに」
「天人さんは知らないかもしれませんけど、稗田家ってのは厄介なんですよ。事を構えるのは、実によくありません。
妖怪お二方も、似たようなものです。敵に回したくはないですね」
「ふぅん……そんなもんなの」
「で、藍さんがいなくなっちゃったんで、まあ個人的に」
好奇心は猫を殺すというが、天狗はその限りではない。
「本当にちゃっかりしてるわよね、文って」
「記者の鑑でしょう? 褒めていいですよ」
「それで、聞いてきたことはもう打ち止めなの?」
そうでした、と文は再度、手帖に目を落とす。
「式神が主のもとへ戻ってくることはありませんでした。が……その死後、紫さんが名付けたようです」
『八雲隼』――それが、死した後、八雲の姓を与えられた式神の名前である。
そろそろ看板ですので、と女給に告げられ、話はそこまでで打ち切られた。
「明日、明るくなってから神社の裏山を調べてみましょう」
店を出た後、文が言った。
紫が毎年、密かに神社の裏山を訪れていること。それは墓参りのようなものだ、という藍の言葉。
正しく墓参りであったとすれば、それは、八雲隼の墓なのだろう。
そこに、何かしらの手がかりがあるはずだ――と、文は風と共に飛び去った。
「総領娘様! や、やっと見つけましたよ!」
一度、にとりの家に戻ろう、と人里を飛び立った橙たちの前に、一人の妖怪が現れた。
疲労困憊といった風で、天子をそう呼んだのは永江衣玖。雲の中を泳ぐ妖怪、龍宮の使いである。
「衣玖じゃない。こんばんは、ご機嫌いかが」
「こんばんはじゃありませんよ、どれほど探したと思ってるんですか。よもやと思って降りてきてみればやはり地上に!」
「探し方が悪かったんじゃないの、別に隠れてたわけじゃないわ」
「とにかく! 一度天界へお戻り下さい、お父上も心配なさってます」
「あらそう。ま、いつも通り適当に――」
そこで天子は口を止めた。衣玖をじっと見つめ、それから橙を見る。
うーん、と呟いた後、天子は言った。
「分かった。私、一度帰るわ」
「ま、またそんな我が侭を。いいですか、私はですね、総領娘様のためを思って……え?」
「帰るって言ったのよ。心配かけたわね、ごめん衣玖」
「……やけに聞き分けがよろしいですね。どういった作戦ですか」
「別にぃ。じゃあね橙、にとり」
「あ、お騒がせしました。失礼します」
また明日、と手を振り、天子は衣玖と共に空を駆け上がり、たちまち暗い空の中に紛れてしまった。
天子を見送った橙とにとりは再び妖怪の山を目指して空を進む。
「総領娘様、だってさ。天子ってばお嬢様なんだね」
「家出してたのかな……?」
「さあねえ」
橙は天子を案じているのか心配そうだったが、にとりは笑って言った。
「天人様は、橙のお手本になってくれるんだってさ」
湿気を含んだ初夏の風が、少女たちの頬を撫でる。
背後に遠ざかる人里のかがり火や、妖怪の山に点々と輝いている電気の明かり。
それらを除けば、星や月の見えない夜は真っ暗だ。
にとりは、夜間の飛行に際して、河童謹製ヘッドランプで行く先を照らすことにしている。
虫や妖精や夜雀がどこから飛んできてもおかしくないのが、幻想郷の夜である。
「一日中飛び回ってたのは久しぶりだよ」
「うん、私も」
「はやくひとっ風呂浴びて、冷えたキュウリをかじりたい気分だね」
「う、お風呂嫌い」
「ダメだよ橙、いくらなんでも乙女が夏場に風呂に入らんってのは」
「ううー」
「藍さんのことは心配だろうけど、休まんとね。遠慮せんでいいから、もう一晩泊まっていきな」
「うん……」
河童の集落、河城にとり邸にたどり着いた頃には、二人とも疲弊しきっていた。
妖怪にとって空を飛ぶのは歩くこととさほど変わらないが、飛び続ければ当然疲れる。
削られていくのは体力であり、妖力である。
橙やにとりのような平凡な妖怪にとっては、食事をし睡眠をとることが、回復には不可欠なのだ。
手早く食事を済ませて、湯をつかう。
広いとは言えない湯船に二人でつかり、にとりは橙に言った。
「きっと、すぐに藍さんに会えるって。心配ないよ」
橙は肩を震わせていた。
猫は水を苦手とする。そして妖狐の式は、それ以上に――主に会えない孤独を、酷く恐れていた。
その夜、橙は夢を見た。
大好きな主人の藍と、誰よりも敬愛する紫の夢だ。
なじみ深い八雲の屋敷の、暖かな昼下がり。
紫と藍が、微笑みながら語り合っているのを、橙はすぐ傍で見つめている。
自分は、なんて幸せなんだろう。しみじみとそう感じる。
紫がおどけて我が侭を言い、藍は苦笑しつつそれをたしなめる。いつか見た光景だ。
藍様のようになりたい。紫様に認められたい。
素敵な二人のそばに、ずっといたい。それが橙の、心からの願い事だった。
『今年もいらっしゃるのですか』
藍の声が聞こえ、突然、空気が重くなるのを感じた。いつの間にか部屋の中は震えるほどに寒い。
夢の中の橙は傍観者に過ぎない。流れていく情景、聞こえてくる言葉を、ただ受け入れるだけだ。
『何のことかしら』
『知ってしまったのです、かつてあなたに仕えた式のことを』
『……』
『紫様は、ずっとご自分を責めている。なぜなのです、私はあなたの心を癒せないのですか』
『藍――やめてちょうだい』
『式は、主に殉ずるもの。無論、私とて同じです。それが本望というもの』
『やめてと言ってるでしょうッ……!』
紫は震える声で叫んだ。
その直後、橙が見ていた夢の世界から光が消える。
闇の中で、橙は独りぼっちになる。とても寒い。
窮屈な箱の中に閉じこめられたように、橙は動けずにいた。
『あれこれと、調べまわっているようね』
囁くような、紫の声が聞こえる。
声が出ず、もがくことすらできず、橙は震える。
『もうお止めなさい――あなたには分からぬこと。分からずとも良いことです』
紫は確かに、橙に語りかけていた。
八雲紫は、ありとあらゆる境界を操る。人や妖怪の見る夢の中に現れることなど、紫にとっては児戯でしかない。
『千年。あなたには長い時間となるでしょう。待ち続けるのが辛ければ、お忘れなさい』
紫様。あなたは、どうして。
『許してくれとは言いません。橙、私を恨みなさい。愚かで臆病な、この八雲紫を』
どうして。どうして泣いていらっしゃるのですか。
『己の無力さゆえに。さあ橙、お別れです。千年経って、もしもあなたが――』
「……嫌です。千年も待ちません」
すんなりと声が出たことに橙は驚いた。
「紫様、あなたを独りにはさせません。だって、独りはこんなにも寂しい」
紫の返事は無い。橙は続ける。
「橙は、藍様と紫様のそばにいたいです。藍様も、紫様のそばにいたいはずです。
愚かな猫とお笑いください。でも私は、紫様と藍様を助けたい。紫様、橙は諦めません!」
橙は拳を握りしめる。不思議なことに、感覚があった。
暗闇をかき消すような勢いで橙は叫び、紫はその気迫に、気圧されたようだった。
彼女自身の足元にも及ばない、一匹の黒猫に。
橙の夢はそこで途切れた。黒く塗りつぶされた世界に、一条の光が差す。
橙は、その光の中に紫と藍の姿を見たような気がした。
「待っていてください、藍様。橙がすぐに参ります。待っていてください、紫様。橙が、必ず――」
夜が明けた。相変わらずの蒸し暑さではあるが、晴れ間が広がっている。
橙は、すでに空の上にいる。隣を飛ぶのは、魂魄妖夢だ。
早朝、にとり邸に現れた妖夢は、橙を見るなり
「閻魔様がお会いになるそうよ。急いで支度して」と告げた。
子細を聞けば、昨日橙たちが白玉楼を出た後に、幽々子は彼岸を訪れたらしい。
妖夢はその行き帰りのお供をした、と言う。
妖夢は中有の道で待たされ続け、幽々子が戻ってきたのは夜も更けた後だった。
心配しました、と主を迎えた妖夢。亡霊姫はふらふらだったという。
「なんでも半日待たされて、三時間お説教されて、それでようやく本題に入れたんだって」
橙に会い、八雲紫が使役していた式について聞かせてやって欲しい、というのが、幽々子が閻魔に願ったことだった。
生ある者が彼岸へ渡ることはできない。冥界の管理を一任されている幽々子だからこそ許された拝謁だ。
幽々子の請願は受け入れられ、閻魔は中有の道において橙と会う、と約束した。
かくして妖夢は、橙を連れて飛んでいるというわけである。
「幽々子様、橙が天子たちと来た時には、ほとんど何も仰らなかったじゃない?」
妖夢の言葉に橙は頷く。
「うちのお嬢様は、紫様には甘いからね。でも紫様が、藍様や橙を可愛がってるのも、ご存じだから」
だから、橙には、紫のことを知ってほしい。
あのお方なら、何事にも揺らがずに、橙に、紫と式について語ってくださる。
優しいだけが友達ではないでしょう――と、幽々子は呟くように言ったのだという。
「私は事情をよく知らないし、幽々子様の仰ることもよく分かってない。でも、私は橙の味方だよ」
お互いまだまだ未熟だけどね、と妖夢は笑った。
しばらく飛び続け、橙と妖夢は中有の道にたどり着き、その起点へ降り立った。
冥界のそれと似た香の匂いが漂う。死の世界が近い証拠である。
中有の道を進み続けると、賽の河原へと至る。
霞がかかって対岸が見えることは無いが、川を越えた先が彼岸――霊の行き着く場所である。
つまり川のこちら側は、中有の道を含めて此岸である。
長い道の両側には延々と屋台が並び、昼夜を問わず、季節を通して賑やかな縁日が繰り広げられている。
ターゲットは、死出の旅を終えようとしている霊たちが中心となる。文字通りの冥土の土産、である。
幻想郷に生きている人間、妖怪たちも時折訪れ、終わらない祭りに浸っていく。
橙と妖夢は、屋台の店主らに何度も呼び止められつつ足早に中有の道を歩き、賽の河原の方へと進む。
道幅は広く、ひたすら真っ直ぐ進めば三途の川にたどり着くのだが、所々に細い脇道がある。
その一本へ入ると、急に喧噪が遠ざかった。
「大きな桜の木が見えるでしょう。閻魔様はあそこで、橙に会ってくれるそうよ」
妖夢が言った。
「私はここまで。神社の裏山だっけ、先に、にとりと行ってるからね」
会ったらまた説教されちゃうしね、頑張って――と妖夢は飛んでいってしまった。
途端に不安になる橙である。
式神が剥がれ、非力な化け猫となった時。藍を封じたと聞かされた時。
橙の頭の中に浮かんだのは、自分はなんと不幸なのだろう、という思いだった。
孤独に耐えられず、小さな胸は張り裂けそうだった。
橙のそばには、妖夢やにとり、天子――彼女を案じてくれる人がいる。
それは、孤独ではない、ということなのかもしれない。
けれども橙は、友達に囲まれていても、より多くを求めてしまう。
自分を可愛がり、叱り、抱いてくれる二人の母。八雲藍と、八雲紫を。
「初めまして」
さあっ、と一陣の風が吹く。橙の前に女性が現れ、そう言った。
吸い込まれるような深く青い瞳や、もえぎ色の美しい髪は、地獄の裁判長という肩書きとはかけ離れていて、橙は意外に感じた。
しかし、その身に満ちている威厳は、紫のそれよりも大きいのではないのか、とすら思わせる。
「私は四季映姫。是非曲直庁にてヤマザナドゥ――閻魔を務めています」
「は、初めまして! あの、私は」
「橙ですね。畏まることはありませんよ、西行寺幽々子から話は伺っています」
行き交う人が一息つくためのものだろうか、細い道には竹でつくられた縁台が並んでいる。
座りましょう、と映姫は微笑んで言った。
「彼女の方から彼岸を訪れるなど何百年ぶりでしたでしょうか。何とぞあなたのことをよろしく、と言っていました」
「幽々子様が……」
「自由のきかぬ身ですから、長い間彼女を待たせました。あのように辛抱強い娘であったか、と驚きましたよ」
そう聞いて、橙は申し訳なさのあまり泣きたくなった。
しかし今は泣いている場合ではない。橙はぐっと堪え、映姫の言葉に耳を傾ける。
「さて、橙。あなたが何故ここへ来たか、そして何故私がここに居るか。分かりますね」
「はい。ずっと昔、紫様に仕えていた式のことを、聞きに参りました」
「よろしい、あらかじめ言っておきます。これから話すのは、八雲紫が犯した罪について。式神の死は、八雲紫に責任がある、とも言えます」
八雲紫に責任がある。八雲紫が犯した罪――橙にとって、それらは受け入れがたいものであった。
「あなたも八雲紫に連なる式神。同じ運命を辿る可能性が無い、とも言い切れません」
「どういう……ことでしょうか」
「例えば、八雲紫の命を狙う何者かが現れたとしましょう。あなたや八雲藍では到底敵わぬ、強い妖怪と戦わなくてはならない、そんな状況です」
「……」
「式であるあなたは八雲藍と共に戦いを命じられます。主人のために死ね、と。さあ、どうしますか」
橙はじっと考え込み、映姫はそれを見守る。
「私は、死ねません。死にたくありません」
「命令に背く、ということですか」
「紫様は、私や藍様に、死ねと命じることはありません」
「――なるほど」
「藍様と紫様が平和に、幸せであること。それが私の望みです」
「二人のためならば、犠牲となりますか」
「いいえ、私は、その……」
「ここは裁きの場ではありません。思っていることを話しなさい」
「私は、我が侭です。藍様と紫様に、頭を撫でて欲しい。抱いて欲しい。名前を呼んで欲しい。だから、死にません」
一気に言ってしまって、橙は後悔した。
閻魔様相手に、何ということを言ってしまったんだろう。
地獄へ落としてくれ、と言っているようなものだ。問いの答えにすらなっていない。
しかし、抱え込んでいた気持ちを言葉にしたことで、どこかすっきりした気分でもあった。
「大変結構。あなたには資格があるようです、認めましょう」
しばらく黙っていた映姫は、そう言い、手を叩いた。呆気にとられる橙を見て、映姫はくすりと笑う。
「私もまた、紫とは長年付き合っています。友人である、と言えば彼女は眉をひそめるでしょうが……
これでも結構、紫のことを大切に思ってるんですよ。顔を合わせると説教してしまうのは、職業病ですかね」
段々と、映姫の口調がくだけていく。
橙は、なんだか紫様に少し似ているな、と思った。
「紫は、妖怪らしからぬ慈愛を持っていますね。それは、先ほどのあなたの答えにも現れている」
少し意地悪な質問をしましたね、と映姫は橙の頭を撫でた。
橙は驚いたが、とても誇らしい気持ちになる。閻魔様に撫でられたと、自慢したい気分だ。
それでは、と映姫は橙の目を見て、語り始めた。
遡ること千年、八雲紫は妖怪を率いて月へと渡った。
幻想郷のみならず、いつか地球そのものを襲うかもしれない災厄、つまり隕石の衝突に対して、
有効な対策があるのかどうかを見極めるための戦いであった。
にとりの考えは、当たっていたのだ。
月人の技術は紫の想像を全く超えていた。地上の人間が、一万年かかっても到達し得ないであろう領域。
八雲紫をして、「手に負えない」と言わしめるほどの力を、月の民は有していた。
それは、何千万年もの昔に竜の世界を滅ぼしたような大災害が迫ったとしても、滅びを回避する道が存在するということである。
危機は訪れるのか。訪れるのならば、それはいつか。その時、月人は力を貸してくれるのか。
そんなことは問題ではなかった。
星々の距離を算出すること、危険の分析、交渉――紫にとってそれらは、難壁にはあたらない。
道はある。
それだけで、紫は充分に満足した。
もう、同じ過ちを繰り返すことはない。それが、ささやかな救いだった。
「紫が犯した過ち。それが、彼女の式神、八雲隼を死なせたのです」
映姫は一呼吸おいて続ける。
『赦しを、乞いたいのです』
月への侵攻より少し前のこと。幻想郷を訪れていた映姫に対して、紫はそう言った。
その陰鬱な面持ちは、およそ映姫の知る八雲紫ではなかった。何があったのかと、映姫は聞く。
紫は、自らの力を過信し、式神を死なせてしまった――と、隼について語った。
「一切を聞いた後、私は紫に、戒めとして記録を残すように、と稗田家との接触を勧めました。そして、そう。こうも言いましたね。
隼は千年の後、必ずあなたのもとへと還ってくる。年に一度の供養を忘れず、待ち続けること。それがあなたに積める善行である、と」
「千年――じゃあ、もしかして」
橙は身を乗り出した。
今年こそが、紫様が待ちに待った、再会の時なのか。
それは、良いことではないのか? 嬉しいことではないのだろうか?
映姫は、ふと目を細めた。橙の疑問に答える代わりに、映姫は話を続ける。
「あなたも知っての通り、死を迎えた魂は、例外なく三途の川を渡り、我々の元へやって来ます。
冥界へ駐留させるか、地獄へ落とすか、それとも天界へ送り成仏させるか。
それはそれぞれの魂が持つ徳によって変わりますが……」
しかし、かつて紫が死なせたという式の魂を、映姫は見ていない。
幻想郷に生まれた魂であるのなら、ヤマザナドゥたる映姫の判決を受けぬ者はいないはずなのに、である。
万が一ということもあるかもしれぬ、と映姫は、他の閻魔に聞いてまわったが結果は同じだった。
式神八雲隼は、彼岸へ来てはいないのだ。
「残る可能性は一つ。隼は、この星の外で死を迎えたのです」
「宇宙……ですか」
「この星の理は、この星だけのものです。月には月の、星々にはそれぞれ別の理がある。ですから、隼の魂は――」
映姫はそこで言葉を切った。立ち上がって振り返る。
何事だろう、と橙も映姫に倣った。
「天狗でしたか。確か射命丸文、でしたね。新聞記者をやっている」
「あやややや、人違いです! 私は橙さんのお友達の、ええと……ひ、姫海棠はたてといいます初めまして」
聞き慣れない名前の射命丸文が、少し離れた木の陰から姿を現した。
「記事を書くためには取材が必要。取材には会話がつきものであるのに、あなたは喋れなくなっても良い、と」
「……ええと、どういうことですかそれは」
「舌。いらないんでしょう」
「ひぃ、すいませんすいません、射命丸です! 清く素早く、橙さんを呼びに参った次第で」
「盗み聞きしていたわけですか? 以前あなたには言ったはずですよ、好奇心が過ぎると」
「断じて違います、タイミングを伺ってただけでして」
「ふう。まあいいでしょう、今は非番ですし――橙」
映姫は橙に向き直り、その肩に手を置いた。
「あなたには成すべきことがあるようです。天狗と共に行きなさい」
「は、はい。でも、四季様……」
聞きたいことはまだある。隼の謎も解けていない。
橙は未だ、暗闇を手探りで進んでいる気持ちであった。
「私に話せるのはここまで。彼女と行けば、そこに答えはあります」
映姫は断じるように言った。不安を隠せずにいる橙の頬を優しく撫で、続ける。
「信じれば叶い、疑えば崩れる。それが道理です。橙、より強く。紫や藍、あなたの周りの者たちを信じなさい」
それがあなたに積める善行である。映姫はそう言い、橙の元を去った。
「はあー、こわいこわい。いつ会っても縮こまりますよ」
「びっくりしました、閻魔様があんなにお優しい方で」
「えぇー、そうですか? 相手によって態度変えるんですかね……ま、そりゃそうか」
「それで、その、どうしてここに?」
呼びに来たと言ったわりには急ぐ様子もなく、文は橙と並んで、此岸の方へと中有の道を歩いている。
「とりあえず説明しとこうかな、と思いまして。行く前に」
文は、昨晩の言葉通り、博麗神社の裏山を調べていた。
ずば抜けた飛行速度を誇る鴉天狗である、当然のことながら一番乗りだった。
文が藍と会い、式神八雲隼に関することを報告していたこの場所は、妖怪の山のように整備された道があるわけでもなく、
ただ木々が生い茂り、獣が走り回る未開の林なのだが、頂上付近には日の差す場所がある。
藍に指定されていたのは、その辺りだという。
「それで、何か怪しいものでもないものかと調べてると……出たんですよ」
化け物でも見たかのような口調。
咄嗟に身を隠した文が見たのは、空から現れた伊吹萃香と風見幽香だった。
これは幸い、と話しかけようとした文だったが、
「消えたんですよね、広場で」
「消えたって……萃香様たちが、ですか」
「ええ。すうっ、ってな感じで。どうやら結界でも張られているようで」
駈け寄ってみた文であったが、何もないこぢんまりとした原っぱでしかなく、萃香らの姿を見つけることはできなかった。
何かしらの術が施されているのだろう。門外の者を入れないために幻を見せる結界なのでは、と文は考えた。
「全然気付きませんでした。何度もその近くで、藍さんと会ってたんですけどねえ……結界を張ったのは、きっと紫さんですよ」
橙もそうだろう、と思った。紫が最も得意とすることだ。
「式神のお墓があるとしたら、そこしかありません。こうなったら、突撃取材ですよ。
隠されてるのは、そこに何かあるってことですからね」
ふふふ、と笑いながら写真機を握りしめる。
一人では分が悪いと考え、一旦引き返した文は、妖怪の山付近を飛ぶにとりと妖夢に出会った。
「それで、妖夢さんから、橙さんはこちらだと聞いたんでお迎えにあがったわけです」
「じゃあ、にとりたちは、裏山の方に?」
「もうすぐ着く頃ですかね。ま、追いつけますよ。そのために来たんですし」
「す、すみません。わざわざ」
「どういたしまして。まあそういうわけなんですけど、他に聞いておきたいこととか、あったりします?」
「聞きたいこととは違うんですけど……」
「ええ。なんでしょう」
「あんまり、新聞で、紫様や藍様をいじめないでください」
「い、いやだなあ。いじめるだなんて、そんな。あははは……は」
じーっ。
橙は、文の目を見つめ続ける。先に目を逸らしたのは文だった。
「そんな汚れのない目で私を見ないでください。胸が張り裂けそうです」
「嘘ですよね」
「ばれましたか。ご心配なく、私は紫さんを怒らせるほど愚かじゃありません」
じゃ行きましょうか、と文が言った時、二人は中有の道の起点まで戻ってきていた。
ふわりと浮く文。橙もそれに倣う。
「しっかり捕まって下さいね、舌を噛まないように。さっ、行きますよ!」
次の一瞬、橙は凄まじい衝撃を感じた。悲鳴をあげる暇もなく、強烈な風圧に耐える。
あっという間に妖怪の山を越え――博麗神社の裏山は目の前に迫っていた。
「どうしたどうした。斬れないものなんて無いんじゃなかったのかい」
「『少ししか無い』んです、ちょっとだけあります! くぅ、相変わらず出鱈目な強さだわ」
「ぎゃあああああああ! ぎゃああああああああ!!」
「うるさい、弱い、つまらない。遊び相手にもならないわねえ」
中有の道を飛び立ったわずか数分後には、文と橙は神社の裏山上空に到着した。
そこで行われていたのは、萃香と妖夢、にとりと幽香による苛烈な弾幕勝負――ではなく、さながらワンサイドゲームである。
スペルカードのルールに則って行われている戦闘ではあるのだろう。
しかし、妖夢は萃香に対して防戦一方で斬り込めず、にとりに至っては鼻水まみれでひたすら幽香から逃げ回っていた。
幽香の放つ弾幕にかすりすぎたのだろうか。にとりが身にまとう水色の可愛らしい服に、焦げ跡が無数に生じている。
「どうなってんですか、一体」
ちょうど近くにいたにとりに声をかける文。にとりは有無を言わせず文に向かって突進し、背後にまわった。
「見たら分かるだろ、よ、妖怪だ! 妖怪が出た!」
「あなたも妖怪でしょうに」
「うっせー! 襲われてんだ! 代わりにやられてくれ!」
幽香は、夏の向日葵のような満面の笑みを浮かべながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「あわわ……!」
「あわわ……!」
橙とにとりは、ひしと文にしがみつき、そして文はふむ――と逡巡した。
何の脈絡もなく突然始まる弾幕ごっこは幻想郷の華だ。
暇を持て余した妖怪たちは、大した理由もなく喧嘩を売ったり買ったりするものだが、今回のケースは、稀に見る「訳有り」である。
疑いようもない。
裏山にある広場の結界を、萃香と幽香が守っているのだ。
両者共に、紫を知る古参の大妖である。進んでそうしているのか、紫に頼まれているのか、そこまでは文にも判別がつかない。
どちらにせよ、萃香と幽香を何とかしない限りは特ダネが手に入らない、ということに間違いはなさそうであった。
ちら、と妖夢の様子を伺う。
妖夢は萃香に圧倒され続けているが、見た限り一度も被弾した様子はない。彼女とて、いっぱしの剣士なのだ。
萃香が本気を出せばひとたまりもないのは必至だが、よもや妖夢を死なせたりはするまい。
彼女の背後に控えているのは西行寺幽々子なのだから。
それならば、問題は風見幽香。
にとりや橙には荷が重すぎる相手である。
「しょうがない、一肌脱ぎましょう。にとり、あなたは橙さんと広場へ。ここは鴉天狗が射命丸文、引き受けました!」
文はそう言い放って幽香の前に立った。
「お、おおお。さすが文、後光が差してるよ。キュウリをおごってやろう」
「ごめんなさい文さん、ありがとう!」
「私に構わず、早く行って下さいッ」
活劇漫画風のわざとらしい台詞を吐いた文を見て、幽香はくすくすと笑う。
花の妖怪を大きく迂回して、橙とにとりは広場を目指して飛んだ。
「追わなくてもよろしいので?」
「追わせないつもりなんでしょう」
「まあそうですが」
「なら、遊びましょう。河童さんには飽いていたの」
「お手柔らかにお願いしますよ。誰も彼も、あなたみたいに頑丈じゃないんですから」
「能ある鷹は、というけれど。謙遜も、度が過ぎれば不快だわ」
「滅相もありません。あ、ところで、一つ質問させてほしいんですが」
「何かしら? プライベートについては黙秘するわよ」
「紫さんに頼まれたんですか。それとも自発的にやってるんですか」
幽香は、くく、と笑い、文の質問に答える代わりに、スペルカードを取り出した。
「知りたければ、私を倒してみることね!」
「あっちは選手交代か。おーおー、派手にやらかしてるなぁ。文が相手なら、まぁ不足はないだろう」
幽香と文が放ち、空中にきらめく弾幕を眺めながら、萃香が楽しそうに笑う。
「どうする、降参かい?」
「冗談じゃ、ありませんよっ。まだ、一発も……喰らって、ませんから!」
「よしよし、そうこなくっちゃな。それはそうとさ、あんた昨日はどうしてたの?」
「き、昨日!?」
「橙は、にとりと一緒だったよ。天人もいたな。なんで妖夢があの子のために戦ってんだい」
「た、弾を撃つか、喋るか、ど……どっちかにして欲しいんですがっ!」
「はっはっは。まあいいや、もうちょっと楽しませておくれよ」
「そ、そんなことより、いいんですか。橙たちは、広場に行きましたよ」
「んん? 何だ、追いかけて欲しいわけ?」
「そうは、言ってませんっ。行かせませんよ、幽々子様の名にかけても!」
「ほっほう、なるほどね。ま、別に構わないのさ。あそこには、奴がいるからね」
「奴って……ま、まさか!」
「どっちに転ぼうが、どうだっていい。奴次第だろうさ。ただ――」
萃香が次なるスペルカードを掲げ、言った。
「私が戦うのはね。私が、奴の……八雲紫の友だからだ!」
橙とにとりは広場に降り立ったものの、結界を展開している符や呪印の類は見つけられないでいた。
紫が張ったものならば、それはつまり完璧であるということと同義である。
何の媒介も必要とせず、紫だけが操ることのできる結界――橙やにとりが破れるものでは、到底ない。
「ただの原っぱだね……不自然なくらい何もない。結界があるのは、間違いないんだろうけど」
「どうしよう。結界の中に入れなくちゃ、何も――」
その時、橙たちの目の前に、隙間が現れた。
視界に入る風景が、まるでハサミで切られた写真のように、縦にずれたのだ。
現れたのは、八雲紫であった。
いつも通り、掴み所の無い微笑を浮かべるでもなく、昨日のような冷徹な怒りに満ちているわけでもない。
紫はただ、悲しげな表情で固く唇を結び、橙たちの前に立ったのだった。
「来てしまったのね」
橙は、紫の瞳に涙を見た。
昨夜の夢に現れた紫もまた、泣いていたことを思い出す。
「橙、私は言ったわね、お別れだと。あなたには分からぬことだと。
それなのに、幽々子や萃香、幽香。あのお方に会ってまで、ついにあなたはここへ来た」
「……」
「忘れるはずもない千年の昔、私の愚かさが招いてしまった過ち。藍とあなたにだけは、知られたくなかったのに」
なぜ――と、紫は言った。
橙は、紫の目を見据え、それに答える。
「紫様。私は、四季様に言われました。信じなさい、と。でも、決して、四季様に言われたからじゃありません。
私が、紫様を、信じたいんです。信じたいから、信じるんです!」
「全てを知ってしまえば、藍もあなたも、私のもとを離れる。だからこそ見せたくなかった。知って欲しくなかったのよ」
「……それで藍さんを、封じたんですか」
にとりが、小声で口を挟んだ。声が震えている。
「お、おかしいでしょう。あなたほどの方が。何を恐れるんです」
「そう、誰もが言うわね。八雲紫は賢者である、知恵の奔流であると。けれども私は全知全能ではない。なぜなら私は、妖怪なのだから」
「そんなの……そんなの関係ない。あんただって分かってるはずだ、何をしたら藍さんや橙が悲しむのか。
式神だからって、ないがしろにするお方じゃないでしょう? ええ、私ゃ橙が好きですよ。妖夢も天子も、皆友達ですよ、盟友です。
でも、あんたら家族でしょうが。橙や藍さんが、あんたのもとを離れるだって? 冗談だって言ってくださいよ!」
小さな河童の少女は、勇気の限りを振り絞って隙間妖怪に対して叫ぶ。
「誤解があるわね。私も藍を、橙を愛している。愛しているからこそ壊したくない。傷つけたくないのよ」
「だから封じるのか。だから閉じこめるのか。それがあんたの言う愛とやらの形か? そんなわけない、紫さん、お願いですよ」
橙のことを分かってやって欲しい。その一心だった。
しかし、にとりの言葉は、今一歩……紫には届かない。
「一度だけ言いましょう。何もかも忘れて、この場を去るのならば良し。受け入れないのであれば――」
痛切に憂いを帯びた表情を湛え、紫は大きな隙間を開いた。
見慣れた風景がぱっくりと割れ、中を覗けば暗黒が広がっている。
「紫様、信じてください。ここで何を見ても、私は紫様から離れません。絶対に!
藍様を助けたいと思って、私は勝手なことをしました。でも、紫様も悲しんでいます。
見なくては、知らなくてはなりません。紫様、あなたを助けるために!」
橙が叫ぶ。紫は唇を噛んだ。迷い――というべきものが紫の心に生じる。
しかし、かつて犯した過ちは今もなお、怯懦(きょうだ)という名の鎖で紫を縛る。
紫が隙間を広げ、橙を包もうとする、まさにその時であった。
紫や橙たちが立っている広場を、影が覆った。
陽の光が遮られる。
思わず紫は上を見上げた。
「はあああああああ!!! 天地開闢プレス!!!」
巨大な岩から、良い意味では勇ましく、解釈によっては馬鹿っぽい声が聞こえてくる。
岩は紫めがけて落下した。
轟音と共に、先がとがった物騒な岩が地面に突き刺さる。
すわ紫は下敷きになってしまったか、と思われたが、瞬間的に隙間を操作したのだろう。
何事も無かったかのように紫は岩を見上げる。
岩の上には、腕を組み威張りくさっている少女が立っていた。
「待たせたわね!」
颯爽と橙たちの傍に降り立ったのはもちろん、比那名居天子だ。
「萃香とかが戦ってるのが見えたんで、私も攻撃してみたんだけど。あってる?」
「……ああ、うん。助かった」
天子とにとりが小声でやりとりし、微にして妙な空気が辺りに漂う。
「不思議ね」
全くうろたえた様子もなく、紫が言う。
「にとりや妖夢はともかくあなたまで。一体どういう風の吹き回しなのかしら」
「何? あなた、自分の子供の友人関係に口出ししちゃうタイプなわけ?」
「……何ですって」
「ふん、何を深刻そうな顔してるんだか――ここは幻想郷でしょうが」
天子は紫の真正面に立つ。
「ここが、文が言ってた場所なの? 何もないじゃない」
「結界が張られてるんだよ、お手上げだ」
天子はふぅん、と事もなげに言い、天人の至宝、緋想の剣を抜く。
「結界だろうが何だろうが、この地面の上にあるものを隠してるわけでしょ。
この辺一帯を、一瞬で砂山にしてあげてもいいんだけど、それじゃあ困るわよね?」
挑発するような天子の言葉に、紫の表情は歪み始める。
天子は大地を操り地震を起こす能力を持つ。彼女の言葉は決してハッタリではない。
「そんなことをしてみなさい……後悔する間もなく消すわ」
「私は、やると言ったら本当にやるわよ。もしもあなたが、橙とにとりを通さないって言うのならね」
それまでの口調とうってかわって天子は厳かに言った。
不思議だわ、と再び紫。
「本気なのね比那名居天子。あなたは、命を捨てても良いと言うのね」
「正直なところ、結界の中に何があるかとか、あなたが過去に何をして、なんで藍を封じたかなんてことは、どうでもいいのよ。
ただ、橙を助けてあげたいだけ」
「……そのために、死ぬと?」
「だってそれが友達ってものでしょう。馬鹿馬鹿しくて、歯が浮くような、どうしようもなく美しいのが、あなたの好きな幻想郷でしょう。
それが楽しいと私に教えたのは紫、あなたよ。それに、私は死なない。妖怪風情がナメた口を利くな!」
一秒、二秒、十秒。沈黙が続く。
紫は天子を見つめ続け、そして……結界を解いた。
広場そのものに変化は無い。しかし、その中心には、小さな木造の建物が姿を現していた。
橙たちが想像していた、墓石や石碑は無い。
――千年。
ただひたすらに長い時間、紫だけのものであったそれは今、橙やにとり、天子の前に、静かに佇んでいる。
「橙、にとり、行ってきなさい。私は、紫に用があるから」
「わ、分かった。橙、行こう!」
にとりが橙の手を引いて走る。橙は、紫を振り返って言った。
「紫様、あの時言ったことは本当です。橙は、紫様を独りにはさせません」
そして広場に残ったのは、紫と天子だけになった。
萃香や幽香は戦いの場を移したのだろうか。風が木々をそよがせる音だけが流れる。
「橙はいい子よね。私あの子が好きよ。あ、もちろん友達としてね」
「……」
「紫に話したいことがあったんだけど、橙の前じゃ格好悪いし。あっさり解いてくれて助かったわ」
「一体何を企んでいるのやら。次第によっては、今度こそ滅ぼします」
天子は咳払いを一つした。すう、と息を大きく吸い、そして、
「ありがとう!」
そう言って頭を下げた。
「……は?」
瞬間、天子から出た言葉の解釈が十通りほど紫の頭に浮かぶ。
どれもしっくり来ず、紫は呆気にとられた。見れば天子は笑っている。
状況が分かっていないのか? いやそうではあるまい、狡猾で腹黒く、地を見下すのがこの天人だ。
ならば狂ったのだろうか――と、紫は深読みし続ける。
「ふうー、すっきりした。前から言おう言おうと思ってたんだけどね」
「何? 何のことよ」
怒気や迫力その他諸々をすっかり削がれた紫は、素に戻ってしまっている。
「橙やにとりに、妖夢に、文に、萃香に、霊夢や魔理沙……私が幻想郷の皆に会えたのは、あなたのおかげだから」
「……」
「だから、ありがとう。比那名居天子は、あなたに感謝しています」
この娘は何を言っているのだろう――紫の頭脳は論理的な答えを導き出そうとしたが、からからと空回りを続けるばかりである。
「違うでしょう。あなたがくだらない異変を起こして、それで」
天子は紫の言葉を遮る。
「止めなかったのよ」
「……は?」
再び、間の抜けた声を出してしまう。意味が分からない。
何ということだ――と紫は愕然とした。
紫はつい先ほどまで悲しんでいた。悩んでいた。怒ってもいた。
それは彼女自身や藍、橙、そしてかつて使役した隼という式神、すなわち八雲に連なる者が原因だったはずだ。
そこへ、なぜか天人が現れた。
話に割り込み、山を砂にするぞと脅し、挙げ句の果てに、ニコニコしながらちょっと頬を染めて「ありがとう」だ。
朝は夜になり、夏は秋になる。それが摂理である。
目の前にいる胸が平らな天人は、万物の道理に逆らっているようだ――と紫は思った。
「胸は関係ないでしょうが!」
「失礼、動揺しました。止めなかった、とは?」
「天界には誰も私を止める者はなかったのよ。私が比那名居の娘だから。不良天人のやることなど取るに足らない、放っておけ、ってね。
誰も叱らなかった。あなたと、あなたたち以外は」
「はあ……」
「叱られるって、嬉しいのね。知らなかった。こてんぱんにされて、普通だったら恨んだり憎んだりがあるはずなのに。
あなたたちったら、懲らしめたからお仕舞い。さあ飲みましょう、なんてあっけらかんとしてて。
それで、それは、えっと。一番真面目に叱ってくれたあなたのおかげなのよ。だから感謝してるの。分かった!?」
「……分かりました。あなたがとんでもない痴れ者で、しかも変態だということが。とてもよく」
「何ですってぇ!?」
なるほど、と紫は腑に落ちた。比那名居天子は変わったのだ。
異変を通じて。八雲紫を、博麗霊夢を、そして幻想郷を通じて。
全てのものは流転する。紫も例外ではない。
待ち受けるのがどんな結果であろうと、変わらなくてはならない――と紫は心中で独りごちる。
橙を信じて待とう。藍が見出した化け猫は、きっと自分に答えを見せてくれる。
それが変わるということだ。恐れてはならない。
「せ、せっかく勇気を出してお礼を言ったっていうのに、痴れ者ですって。変態ですって」
「そうじゃないの。叱られたり痛めつけられたりするのが嬉しいなんて。外の世界ではね、あなたみたいなのをMというの」
「怒りが有頂天まで上り詰めた。しばらくおさまる事を知らないわよ」
「……たまには遊んであげましょうか。かかっておいでなさい」
「ふざけるのも大概にしなさいよ。遊んでやるのは、この比那名居天子よ!」
幻想郷は、全てを受け入れる――。
地上を遠く離れた空の上で、天子と対峙した紫は、今まさにそのことを感じていた。
畳六畳分ほどの狭い空間が、小屋の中にはあった。ひどく静かである。
窓はなく、床は苔むしており、そして埃だらけだった。
調度品らしきものは、板を組み合わせただけの簡素な本棚と、机だけ。
本棚には、本――印刷技術がなかった時代に見られた手作りのものばかり――が立てかけられていた。
橙が、そのうち一冊を手に取り開いてみると、アラビア数字による複雑怪奇な数式がびっしりと墨で書かれていた。
にとりにも見せてみたが、何の式やらさっぱり分からない、と言う。橙は諦め、数式本を棚に戻した。
一方、机の上は、奇妙な機械が占拠している。
直方体の木箱のようなそれには、こぶし大の珠がはまっている。
かつては透き通る水晶だったのかもしれない。今は輝きを失い、埃を被っている。
珠には、金属製の線が接続されているのだが、この線も錆び付いてボロボロになっていた。
金属線は先が折れ曲がり、下を向いている。
その先端は少し浮いていて、上から軽く押しつけることで木箱の底面に接するようなつくりになっていたらしい。
今同じようにすれば、折れてしまうかもしれない。
本棚の本と、不可思議な機械装置。小屋の中にあったのはそれだけであったが、
橙は本棚の中から、彼女たちにも読める文字で書かれたものを見つけたのだった。
『戯れに空を眺めながら式を編んでいた時、破滅の星を見つけた』
という一文で始まるその本は、紫の日誌であった。
橙は、自分が読んでもいいものなのだろうか、としばしためらう。
「結界を解いて中に入れてくれたんだ。いいってことだろう」
にとりが言う。橙は頷き、意を決して頁をめくった。
八雲紫の式神、隼。
なぜ使役されたのか。どこへ旅立ったのか。どんな役目を与えられたのか。
その全てがそこに綴られている。
――戯れに空を眺めながら式を編んでいた時、破滅の星を見つけた。
遠くない未来、それはこの地上へと落下する。
落下した場合の被害を算出してみたところ面白くない結果が出た。
人間は一人残らず死に絶えるだろう。木々や草花は言うに及ばず、獣や魚も同様である。
そうなっては妖怪とて生きてはいけない。回避せねばならない。
結界を応用し、軌道をわずかに傾ければ、それは太陽へと向かっていき、やがて自滅するだろう。
理論上は難しくない解決方法である。
人妖の楽園を守るためにあらゆる方法を模索し、式神を用いるしかない、という結論に達した。
隙間を開き、式神を宇宙に放つ。それ自体は簡単なことだが、並の妖怪は宇宙では生きられない。
自分自身ならば、という案も考えて式を立てたところ成功率は六割九分九厘。これでは意味がない。
万全を期すために必要なものは、式神を張る媒体である。
選択肢は一つしか無い、無機的な像だ。式神を張り擬似的な付喪神として使役すれば良い。
鉄や銅では心許ないので、知己を訪ね緋緋色金製の像を譲り受け、これを使うことにした。
その際、やっと来たか、と言われた。
猛禽の如く鋭いかぎ爪と嘴を有する物言わぬその像は、私の手に渡ることが定められていたのだ、と。
妖気をまとわせ蝋で固めた鳥の翼をつけたのは、かつてギリシアの地で伝え聞いた神話にちなんだ戯れであったが、
翼を得て像は完成に至った、という心持ちであった。画竜点睛。そうすることが当然であったかのように感じた。
ともあれ、太陽が放つ風を防ぐ役割を果たしてくれるだろう。
星に送る式神は、隼と名付けた。
星を捕らえ、結界を展開し、完了後は離脱、ただちに帰還させる。
素早く獲物を捕らえ空へ舞い上がる鳥の名に相応しい役目だ。
隼に張った式は、極力無駄を省き、複雑な思考はさせず、命令に従うように立てた。
妖力を伝達手段とし、単純な符号を用いて通信できるような式を与えて、訓練を施した。
符号を隼が理解できるかたちで送り、隼からの符号を受け取り、自動的に紙に印字する装置を作った。
人間の科学は原始的に過ぎるが、おそらく次の千年で、この程度のものは作り上げるだろう。
さておき隼を旅立たせる日が近づいてきた。
直接破滅の星へと送り込むことも考えたが、超長距離の境界操作には莫大な力を消耗してしまう。
宇宙において発生する様々な未知の結界に端を発することである。
失敗が許される類のものではない。式に修正を加え、月を少し離れた小さな星を起点とすることにした。
隼を飛び立たせるのに、三年をかけた。
愛着が無いと言えば嘘になる。帰還の後には言葉を与えてもよかろう、と思う。
そして実行の日は訪れた。隙間を開き、隼を暗闇の空へと飛ばす。
その後はこの小屋において、あらかじめ準備しておいた装置で隼を誘導することに専念した。
装置に設置した珠は、隼の琥珀色の眼、つまり視覚と繋げておく。
宇宙に数ある結界に阻まれ鮮明さに欠けるが、地上にありて宇宙を旅するのも悪くはない。
さりとて集中しなくてはなるまい。
失敗するようなことがあれば、星もろとも私が描く理想の楽園も、私自身も消え去るのだから――。
そこまで読んで、橙はふぅ、とため息をついた。
にとりは先ほどから机の装置をしきりに気にして、日誌や他の本にも書かれていた数式を引っ張り出し、
「なるほどそういうことか。これはすごい、千年も前にこんなものをつくっちまうとは、さすがの一言に尽きる」
と興奮している。
「それが、紫様が使ってた装置なのかな」
「原理は無線通信と変わらんね、モールス符号送受信機と呼ばれるやつに似ている」
「へぇ……」
「そうだよなあ、電気なんてなかったんだもんなあ。妖力をエネルギー変換する、なるほどなるほど」
「に、にとり?」
「そして宇宙の結界、太陽の風……電磁波だろうか。プラズマ? そうか。結界ってのも元を正せば……」
「にとり、にとりったら」
「うおおおおおおおお!!!」
「きゃあああああ! な、何!?」
「ご、ごめん橙。つい興奮しちゃった。こういうのを見るとつい」
「驚かせないでよ、もうっ」
「面目ない。で、何で読むの止めたの。その先が肝心なんじゃないかね」
「うん、そう……だと思う。でも、隼は、もう死んでしまっているじゃない」
「そうだね。皆そう言ってた」
「だから、何て言うか――」
にとりは、何も言わず橙を背中からきつく抱きしめた。
少し驚いた橙だが、嫌がる様子は見せない。
「きっとさ、紫さんだって頑張ってんだよ。紫さんの苦労は、私なんかにゃ想像もつかんけどね」
「にとり……」
「だからさ、橙も受け止めてあげようよ。信じるって決めたんだろ、助けてやるって。
紫さん、待ってると思うよ。私だったらここにいるよ、橙のそばにいる。ただの河童で、申し訳ないがね」
「ううん。ありがとう……にとり大好きだよ」
「嬉しい事言ってくれるねえ。天子や妖夢にも言ってあげな」
「ふふ。分かった」
にとりに勇気づけられた橙は、再び頁をめくる。
書かれている事柄は、式神隼の、その最期についてである。
――何度か障害があった。
おそらく、前述した結界や、宇宙を漂う微細な石のせいだろう。進路がずれる度に修正符号を送る必要が生じた。
問題はないか、という意味の符号を送る度に戻ってきたのは、良好であるとの解答。
やや遅れが出たが、隼は目的の星に到着したのだった。
慎重を期し、二度試験を行ったのち、結界を展開する符号を送る。
珠には、隼が見ている宇宙の空と、破滅の星の岩肌が映っている。
星、といっても、この地球と比べれば小さなものである。何千分の一にも満たない。
しかし、生命を根絶やしにするには充分すぎる大きさを有しているのも事実である。
結界の展開が完了した、という符号が戻ってきた。
前もって立てていた式に当てはめて、脅威が去ったことを確認する。
隼を通して張った結界によって生じたズレは、角度にしてわずか二度であったが、位置と速さとを考慮に入れても、
もはや衝突の可能性は無くなった。
楽園は守られたのだ。
隼を戻らせ、隙間が届くところまで戻ってきたら迎えてやろう。労いの言葉をかけてやろう。
隼は、人知れず地上を救った真の英雄である。期待に応え、役目を果たした。
八雲の名を与えても良かろう、と思い始めていた。
八雲隼。悪くない。
方向を変えてこちらへ戻るように、という符号を送る。
何事もなければ、行きよりも短い時間で戻ってこられるだろう。やや遠いところに隙間を開き、迎えることもできるかもしれない。
隼が戻ってくるのを待ち遠しいと感じている。人間めいた感情だ。
もしかすると私は、元は人間だったのかもしれない。
そんな戯れ言を巡らせ、隼からの返事を待つ。
符号が返ってこない。
障害が発生したのだろうか、再度符号を送る。やはり無反応。
隼の視界につなぎ、星の海を映し続けていたはずの珠が、いつしか真っ黒に染まっている。
思わず立ち上がってしまった。
全て計算通りに運んだではないか。
多少の障害は想定していたし、乗り越えられたではないか。
隼からの返信に、異常は見られなかったではないか。
慌てて、送られてきた全ての符号を調べ直す。
式が間違っていたのだろうか、いやそんなはずはない、と不安ばかりが募る。
……どうやら、隼には魂と呼ぶべきものが備わっていた。
演算のみをこなす式ではなく、主人の期待に応えよう、という明確な意志をもつ者に、いつしかなっていた。
隼の意志は、耐える、という行為に表れていた。
いくつもの結界の突破や石との衝突は、隼の身に少なからぬ被害をもたらしていた。
星々の距離や軌道、速度、破滅の被害予測など一瞬で求められるというのに、
宇宙を漂う一寸にも満たない無数の石の存在を感知できなかった。未知の結界に阻まれた。
「おそらく」という曖昧な仮定をしたくはないが、私自身が破滅の星を目指したとしても、
隼以上の結果が残せたかどうかははっきりしない。
拳を握りしめる。
隼は全てを救った。しかし私は隼を救えなかったのだ。これは敗北である。
何度も応答を求める符号を送り続けたが、結果は変わらなかった。
繰り返し小屋へと通い、隼の返事が来てはいないだろうかと確かめ、その度失望する。
そんな日々が何日も続き、自責の念にかられ呆然としたのだった。
それから数年。私は隼とやりとりを行った小屋から離れていた。
思い出したくなかった、というのが本当のところであった。
かつて立てた式によって算出した、隼が進路を傾けた破滅の星が太陽に飲まれる日を少し、過ぎていた。
良い機会かも知れない。
私は果てしない時を生きる妖怪であり、思い出はかたちとして在らずとも良い。
処分してしまおう、と考えて懐かしい小屋を訪れた。
……愕然とした。
ついに諦めて小屋を訪れなくなった直後、隼から符号が送られてきていたのだ。
全身が震え、汗が噴き出す。まさか、まさかと考えたが、何度見てもそれは確かに隼からの符号であった。
内容を確認する。
隼とやり取りした符号は、必要と思われる複数の言葉を当てはめただけの粗末なものだった。
その符号を懸命に並べ、隼は意思を伝えようとしていた。
約束を守ることができない。帰ることができない。
そのことを許して欲しい。素晴らしい役目を与えてもらったことを感謝している。
きっと隼は、符号を通してそう言っていた。喜び、という意味の符号が何度も出てくる。
この地上を、守ることができて嬉しい――そう言いたかったのだろうか。
送られてきた符号は、紙に記されている。
ぽたり、ぽたりと紙の上に水滴が落ちる。気付けば涙を流していた。
式神からの最後の手紙を握りしめて、無様に泣いた。
珠に焼き付いた光景に気付いたのはその後であった。
時を経て、消えかかっている。あと数年遅ければ、何も映さぬ曇った球体でしかなくなっていただろう。
そこには隼が最後に見た星、黄金色に輝く太陽が、確かに映っていたのだった。
なぜ、と私は己への怒りに打ち震えた。
何千年もの時を生きるこの自分が、なぜ。
なぜ、わずか一月、わずか一年、式からの連絡が途絶えた程度で、諦めてしまったのだろうか。
式神一体の命や魂など、取るに足りない――心のどこかでそう考えていたかもしれない。
もしもあの時、隼が横たわっているであろう破滅の星に隙間を作り、助けようと試みたのなら、と考える。
成功したかどうかは、定かではない。
しかし……試さなかった。
もはや破滅の星は太陽に飲まれてしまっただろう。
何者も存在することは許されない、真の灼熱。
虚の月に飛び込むことは容易であるが、同じことを太陽に対し試みたとて、どうすることもできない。
境界を操る、という能力は万能ではない。
果てない長寿を誇り、敵に対し常勝を貫こうとも、無敵ではないのだ。
時よ、遡れ!
全知全能唯一にして無二の、万物を司る何者かが存在するのならば。
八雲紫が犯した愚かなる過ちを正す機会を、与えて欲しい。
この美しい星を救った偉大な英雄、八雲隼。
どうか、どうか。
この暗愚な、あなたの主人たる資格もない残酷な妖怪、八雲紫を許して欲しい。
ごめんなさい、隼――。
にとりに抱かれたまま日誌を読み終えた橙は、静かに本を閉じた。
言葉が出てこない。色々な感情が、橙の胸の中を渦巻いている。
「読み終わっちゃったね」
ぽつり、とにとりが言った。
「九分九厘、じゃあ駄目なんだ。だからこの後、紫さんは月へ行ったんだね。
いつまた同じことが起こるか、分からないから……」
にとりの声は少し震えている。
「橙。教えておくれよ、どう思ったか。そして、どうして泣いてるのか」
橙は、涙を流していた。溢れ出して止まらない。
そして、自分が泣いている理由が、はっきりと分からないでいるのだった。
「わ、私。隼が可哀想だと、お、思った」
「……そうだね」
「紫様は、すごく、無念だったと、思う」
「うん」
「で、でもね。紫様を、悲しませた、隼が、許せなかったり。でも、可哀想だし」
「……」
「それで、隼を、見捨てた、紫様が酷い、と思ったり、でも、紫様は可哀想で」
「うん。そうだ、そうだね、橙。泣いたっていいんだ。いや、泣くべきなのさ」
橙は、くしゃくしゃになった顔でにとりを見つめた。
にとりもまた、頬を濡らしている。
「うぁぁぁぁぁぁぁ……!」
にとりは、橙の頭を優しく撫でる。
その胸に顔を埋めて、橙は泣き崩れるのだった――。
ちょうど橙が紫の日誌を読み終えて泣いていた頃、萃香は切り株に腰掛けて呑んでいた。
弾幕勝負に決着がつき、裏山の広場で一息。勝利者は萃香だった。
曰く、修行が足りない。
何度か妖夢の剣が萃香をかすめる一幕があったが、最終的には一太刀も浴びなかった。
妖夢も萃香の打撃、弾幕を避け続け善戦したが、体力が尽きたか、それとも集中力が切れたか、
ぐらついたところに一発を喰らってしまい、あえなく敗退したのであった。
妖夢はなぜか、萃香の前に正座させられていた。
「やっぱり鬼は強いなあ……」
「はっはっは。そうだろうそうだろう。妖怪の中じゃ一番だな」
「人間が勝てるわけありませんよう。私は半分幽霊ですけど」
「何言ってんの? 鬼を倒せるのは人間だけだよ。化け物が鬼退治をする話なんざ聞いたことないね」
わはは、と笑う萃香。そこへ日傘を差した幽香が、気絶しているらしい文の首根っこを掴み、引きずりながら現れた。
「お望みならやってあげてもいいわよ。妖怪による鬼殺しをね」
「……それ生きてる?」
不安そうに萃香が文を指さす。
圧倒的な火力を誇る幽香と、幻想郷最速を誇る文の戦いは熾烈を極めた。
当たれば即死間違いなしの弾幕をかいくぐり、精密な攻撃を加える。
何度も同じ事を繰り返していた文はいつしか思った。もしかして、全然効いてないんじゃないか、と。
文のやや小振りな胸に蒔かれた疑惑の種はあっというまに開花した。
しゅるしゅると触手のごときツタをのばし、文のしなやかな体をがんじがらめにする。
腰に、腕に、背中に、首に、大事なところにもツタが絡まっていく。
比喩表現だったはずのものが、いつのまにやら本物のツタとなって文は動けなくなったのだった。
そして最後に見たのは、日傘をくるくるとまわし、鼻歌を歌いながら、可憐に、緩やかに近づいてくる美少女の眩しい微笑みであった。
「……射命丸文、完」
「生きてたか、お疲れさん。頑張った方じゃないの、あはは」
と萃香が軽い調子でいたわる。
文の独白を聞いて幽香はため息をついた。転んでもただでは起きない記者魂とやらは、ひたすら面倒くさい。
「あっちもけりがついたようよ」
幽香がそう言う。上空から、青い髪の少女が、幽香の頭上へと真っ逆さまに落ちてきた。
ひらり、と身をかわす幽香。天子は地面に叩きつけられ、へぶぁ、と少女らしからぬ悲鳴をあげる。
続いて、ふわふわと、紫が降りてくる。満身創痍の天子をよそに、紫は無傷だった。
「か……勝ったと思うなよ」
「もう勝負はついてますわ。あきらかに」
息も絶え絶えな天子に、紫はそう言った。
「なんだ、だらしないねぇ。挑戦者は皆負けたのか」
「いやいや、私たち戦いに来たわけじゃないですからね。ちょっと紫さんの秘密を探りに来ただけで」
「……」
「あ、あれ。紫さん、何も仰らないので? 記事にしたらどうなるか分かってるでしょうね、みたいな」
「……」
「か、書いちゃおうかなー」
「……」
「心得ております。調子に乗りました、申し訳ありませああああああ!!」
足元に前触れなく現れた隙間に呑み込まれて文は消えた。
次に、空中に現れた隙間から文が飛び出してきた。
飛び上がる気力は既になく、びたーん、と無様に落っこちる。
見ていた萃香は、けらけらと笑う。
「来て良かったじゃないか。ねえ、幽香」
「退屈しのぎにはなったかしらね。そういえば……感謝の言葉を聞いていないわよ、紫」
流し目で紫を見て、幽香はそう言った。
「なぜこの私があなたに……と、言いたいところですが申しましょう。ありがとう」
「おや、素直じゃないか。いいことだよ」
「ここに居る皆に言ったのですわ。妖夢、あなたは橙を助けてくれましたね」
「え! あ、いえ、恐れ入ります。お役に立てず、まことに心苦しく……」
「相変わらず生真面目だこと。幽々子はさぞ気苦労が絶えないでしょうねえ」
「うう、未熟者ですゆえ」
妖夢は顔を紅くして縮こまる。
「そこが可愛らしいところだけれど。これからも橙を頼みますわね」
「は、はいっ。この魂魄妖夢、命にかえましても!」
大げさね、と紫は笑い、文の方を向く。
「あなたも。どうやら藍の頼みを聞いてくれたようじゃない」
「えええ、うそお。ご存じだったんですか」
「何とはなしに、ね。気に病むことはないわ、藍とのことはあなたのせいじゃありません」
「そ、そうですか。いえ、別にそのことを気にしてたわけでは……あくまでその、ネタをですね」
たまには素直になりなさいな、と紫。文は照れくさそうに、そのうちに、と笑った。
「そしてあなた。比那名居天子さん」
「何か用かしら」
「橙のために尽力してくれましたね」
「当たり前のことをしただけよ」
「そうですか、ありがとう。緋想の剣はすごいですわね」
あなたが以前のままであったなら、私は取り返しのつかぬことをしていたかもしれない。
だからあなたには、最も感謝しています――口には出さない紫の思いは、天子に伝わっただろうか。
「それほどでもないわよ」
負けたことが悔しかったのか、仏頂面で立ち上がる。
スカートについた土を払い落としながら、天子は言った。
「さて、と。言いたいことも言ったし、一通り弾幕ごっこもやったし。
それに、そろそろ橙も戻ってくるでしょ。私はこの辺で失礼するわ、霊夢のところにでも行こうかしらね」
橙によろしくね、と言い残し天子が飛び立った。
「紫よ、忘れるな。今のお前には藍や橙がいるんだ」
萃香が飛び立ち、天子を追って神社を目指す。
「いいこと紫。大妖怪ならそれらしく、しゃんとしてなさい。あまり締まらないようなら寝首を掻くわよ」
脅しながらもなぜか顔を赤らめ、幽香は空へ舞い上がった。
妖夢と文も、
「相手が鬼だったと言い訳しても幽々子様は許してくれないんです。ああ、今日は霊夢のところに泊めてもらおうかなぁ」
「紫さんと橙さんの感動のご対面を写真におさめたいんですが……いや、分かってます。すみません、さようなら」
と去っていった。
暖かいそよ風が吹く広場には、紫だけが残った。
それから間もなく、小屋の中から橙とにとりが姿を現した。
二人とも目を赤くしている。にとりに肩を抱かれ、橙は俯いて歩く。
紫の姿をみとめた橙は再び涙を溢れさせ、小走りに駆ける。
「ゆ、ゆかりさま……!」
紫に突進し、おいおいと泣き崩れる橙。
にとりに抱かれて泣き続け、枯れたはずの涙は再び溢れ出す。
優しく橙を抱いた紫に、にとりは頭を下げた。
「橙と一緒に見ちまいました。申し訳ない、紫さん」
「謝ることなどありません。橙と共にいてくれて、感謝します」
礼を言われると思っていなかったにとりはまず目を丸くし、次にほっとして、そして照れ笑いを浮かべた。
「よしてください、河童褒めてもキュウリしか出せません。でも、良かったですよ」
「良かった、とは?」
「言った通りじゃないですか。ね。橙は、紫さんから離れていったりしません。何があっても、いつまでも」
にとりの言葉に、紫は、そうね、と微笑した。
「そいじゃ、私も行きます。八雲さんちの水入らず、邪魔しちゃいけませんからね」
にとりもまた、裏山の空へと舞い上がり、ぶんぶんと手を振りながら博麗神社の方へと飛んでいった。
「紫様……ごめんなさい、ごめんなさい!」
「どうして謝るのかしら」
「助けるって言ったのに。だから知りたいと言ったのに……私、分からなくなって!」
「ええ」
「隼が可哀想で、紫様も同じで、だから、えっぐ……」
「ありがとう橙。私の傍にいて離れず、泣いてくれる。それだけで充分よ」
「ゆがりざま……うぇぇぇぇ……」
「ほらほら、鼻水。もう、手がかかるわねえ。やっぱり、藍がいなくちゃ駄目ね」
「ら、らんさまぁ……! えぇぇぇん」
「さあ行きますよ、橙。着いてらっしゃい」
「ふぁい。ぐすっ……」
紫は隙間をつくりながら、仕様のない子ね、と呟くように言う。
橙に背を向け、しかしその目は、涙に潤んでいるのだった。
ところで、前日夕方から地霊殿において行われた、毎年恒例古明地こいしのお誕生日会に、
噂を聞きつけた巫女と魔法使いが、招待されていないにも関わらず自称現人神と共に押し入り、
質素な幸せに満ちたささやかなパーティは一変して、大宴会と化したそうだ。
明け方まで飲めや歌えの大騒ぎを続け、ついに地霊殿の主さとりに追い出された博麗霊夢は久しぶりの二日酔いで寝込んでいた。
酷い頭痛で悶え苦しんでいるところへやってきたのが、天子、萃香、幽香、文、にとり、妖夢である。
「しばらくね霊夢、って、何いきなり寝てるわけ? あ、お邪魔します!」
「やい霊夢、頼んでたブツは手に入ったんだろうね。飲めば飲むほど妬ましい地獄の銘酒『橋姫の水』! 早く飲ませろっ」
「あら……死んでる。菊は秋まで待ってちょうだい。さよなら、霊夢」
「おやおやぁ、寝てるじゃないですか。だったら撮りますが構いませんね。どれどれっと……!? は、はいてない!」
「大丈夫かい霊夢。キュウリ食べて水分とれ。ほれ口開けろ、突っ込んでやるから」
「霊夢、泊めて下さい。帰ったら幽々子様にお仕置きされます。半霊貸してあげますよ、頭痛に効きますよ」
その後、霊夢の怒りが非想非非想天を突破し、大爆発したことは記すまでもない。
幻想郷の北東。境界の境に、閑静に佇む八雲紫の屋敷。
紫が開いた隙間は屋敷の中庭に通じており、紫と橙はそこへ降り立つ。
屋敷の縁側には、橙の主――八雲藍が立っていた。
橙は藍の姿を見て息を呑んだ。離れていたのは数日間なのに、ひどく懐かしい気がする。
「おかえりなさいませ、紫様」
「ええ、ただいま。お茶を淹れてくれる?」
「すぐに用意しましょう。居間で少々お待ちを――橙、お前もあがりなさい」
何気ない会話。
橙は、ただ頷き屋敷にあがったが、奇妙な違和感をぬぐい去れずにいる。
紫様は藍様を封じたと言っていたし、藍様は紫様の言いつけを破ったんじゃなかったっけ――橙はそわそわしながら畳の上に正座した。
やがて三人分の湯飲みをお盆に載せ、藍が居間へ入ってきた。
大きめのちゃぶ台を、紫、藍、橙が囲む。
茶は、猫舌の橙にも飲める程度に暖かく、薫り高い。
結界に囲まれたこの場所はとても静かだ。
屋敷を囲む林の木々が風に揺られ、さらさらと音を立てる。
遠くから、小鳥のさえずる声が聞こえる。
「あ、あの」
静寂が流れるばかりの居間で、橙は意を決して言った。
「紫様と藍様は、その……仲直り、されたんですか」
橙の言葉を聞いて、紫と藍は顔を見合わせた。
目があい、気まずそうに視線を逸らす二人を、橙は不思議そうに見つめている。
「聞いてちょうだい橙、藍がどれほど危険なことをしたか」
「ちょっとお待ち下さい、私がどれだけ紫様を案じていたと思ってらっしゃるんです。何度も申し上げたでしょうに」
「やっていいことと悪いことがあるわ。その程度の判断もできないような子に育てた覚えはありませんっ」
「言ったじゃないですか、いけると思ったんですよ。理論上は」
「式に溺れる式なんて、笑い話にもならないわ。無謀すぎます」
「だからそれは……ええい、紫様、あなたが悪いんだっ。毎年毎年何百年も、この時期が来る度どんより落ち込むから」
「な、何ですって!」
「何とかして主人の苦悩を取り除いて差し上げたいと思う式心が、分からんのですかっ」
「何よ式心って。勝手に言葉をつくらないでちょうだい」
「大体、ろくに言い訳も言わせてくれなかったじゃないですか。横暴だ、横暴すぎる」
「可愛がってる式が死にかけたのよ、驚いて真っ白になるくらいしょうがないじゃないの!」
「それでも妖怪の賢者ですか? 何歳ですか紫様は」
「あーっ、あーっ、藍。あなた、言ってはいけないことを言ってしまったわね。私をもうろくしたお年寄り扱いしたわね」
「してません、言いがかりだ。いいですか、そもそも――」
このままでは言い争いが泥沼化するのではないかと心配になった橙は
「やめてくださーい!」
と叫んだ。
猫の一声であった。
落ち着きを取り戻した紫と藍が語ったところによれば、藍は先日深夜、見よう見まねで隙間を開こうとしたそうだ。
橙の式が剥がれてしまうより少し前のことである。
結論から言うと、藍の試みは大失敗に終わった。
妖力の大半を失い、力尽きたところを、すんでのところで紫が救出したのだった。
随分昔、まだ藍が紫の式となって日が浅かった頃、藍は紫に尋ねたことがある。
毎年六月になると神社の裏山へお出かけになるが、何をしているのか、と。
紫は、「墓参りのようなものだ」と答えた。
そして、「千年。まだ、半分にも満たない。先は長いわね」と呟くように言ったのだが、
藍の脳裏にはそのあまりにも悲しげな横顔が焼き付いて離れなかった。
そして紫が待ち望んでいたはずの千年、藍にとっては数百年の時が過ぎた。
しかし相変わらず、梅雨の時期になると紫はふさぎ込んでいる。
藍は、今年の初め頃に決意を固めた。かつて紫をひどく傷つけた出来事の原因を探ろう、と。
墓参りというからには誰かが亡くなったに違いない。
紫が一種一体の妖怪であることを藍は知っていたので、式神か知人だろう、と推測した。
鴉天狗の文に協力を頼み込み、紫が冬眠している間に博麗神社の裏山を調べた。
文が集めてきた情報を取捨選択し、仮説を立てては捨て、推測しては却下した。
試行錯誤を繰り返しているうちに、ついに藍は広場をひっそりと包み込む結界に気付いたのだった。
藍ほどの妖怪をこれまで欺いていたのは、それがいかに完成された結界であったかを物語っていた。
結界に気づきさえすれば、それを緩めたり修復したりは、藍の十八番だ。
紫の代理を何百年も務めている藍だからこそ可能なことである。
そしてついに藍は、橙に先立って小屋の中を見てしまった。
式神、八雲隼のことを知ってしまった。
基本的に、藍は紫に忠誠を誓っているし、命令に忠実な式神である。
とはいえ元となっているのは妖怪であるから、しっかりと感情があり暴走することもある。
日誌を読んだ藍は、橙と同様に、涙し、肩を震わせた。
主人に黙って、秘密を覗いた罪悪感。完璧な存在として尊敬している紫の失敗。
そして式神の死――藍の心は千々に乱れたのだった。
紫にとっては冥界や天界、彼岸でさえも遠い場所ではない。
もしも隼の霊や魂がいずれかの場所に還ってきていたとしたら、
紫が今もなお苦しみ続けていることに説明がつかない、と藍は考える。
もはや隼の魂が還ってくることはない、と紫は考えているのかもしれない。
そしてこれから先も、六月が訪れる度に、紫は隼との別れを思い出し後悔を続けるのだろう。
――否、断じてあってはならないことだ。
藍は正気を失ったように、死に物狂いで数式を立て始めた。
彼女の目的は、隼を救出すること。用いようとした手段は、紫が有する能力である境界操作の再現であった。
物語の境界、夢の境界、空間の境界……あらゆる境界を紫は自在に操る。
それならば、と藍は考えた。
過去と現在の境界を操作することや、遠く宇宙の果てにでも隙間を開くことも不可能ではないはずだ、と。
隼は、地球に落下するはずだった破滅の星を抱えて太陽に飲まれた。
それより以前の時間、空間に向けて隙間を開き、隼を取り戻す。
腕が入る程度の小さな隙間で良い。手が届きさえすれば、隼を掴める。
千年、千年だ。
紫様は、千年も待った――藍は血がにじむほどに唇を噛む。
そうとも、千年経った今、自分が境界を開いて隼を救う。そして紫様に還すのだ。
それこそが、紫様が待ち望んだことなのだ……と、藍は信じて疑わなかった。
「それでまあ、実際にやってみたわけだが」
茶をすすりながら藍は、橙に聞かせるように語る。
「開くことに成功したのは、境界のような何か、でしかなかった。どこにも繋がってなどいなくて、何かこう、とにかく真っ暗だった」
「それは無と呼ばれているものよ。もの、ではないけれど」
「はぁ、なるほど……で、その後のことは覚えてないんですよ」
「妖力を根こそぎ使い果たして倒れてたわ。そしてあなたが自分で開いた穴に、吸い込まれそうになっていたのよ」
「危なかったですね」
「なにをのん気なことを言っているの、ちょっとでも遅かったら、消滅していたのよ」
「いけると思ったんですけどねぇ」
「根拠は無いでしょうが!」
「ありますよ、紫様への愛です」
「あ……愛!? 愛で隙間が開けるなら苦労しないわよ」
「愛は隙間を埋めるものですしね。お、これはうまいな」
「と、とにかく。この際だからこっそり教えておくけれどね、境界の操作は万能ではないの。
力には限界があって、それを越えてしまったら制御はできないわ」
「紫様が限界だなどと言うと、なぜか嘘っぽいんですが」
「嘘をついてどうなるの。あなたが試みたようなことができるのなら、私がやっているわよ」
真剣な表情で語る紫の声は、震えていく。
「ねえ、藍。私がどうしてあなたを叱ったのか、分かっているのでしょうね」
「紫様……」
「私は、式を簡単に見捨てた主人だと、あなたや橙に知られることを恐れた。あなたたちが大切だから、離れて欲しくないから。
でもね、私の言葉に背いて、結界を破ってあの小屋に入ったことを咎めているのではないわ」
「やめてください、紫様。私はあの隼という式神同様、命尽きようとも紫様に――」
藍の言葉は、そこで遮られた。紫が、藍の頬を叩いたのだった。
鋭く乾いた音が、一度だけ響く。
頬をおさえ、呆然とする藍は、主人の目に光るものを見た。
「藍様」
はじめに言い争いを止めてから、ずっと黙っていた橙が口を開く。
「紫様は、藍様が死んだら悲しみます。私もいやです」
「それは……もちろん承知しているさ。しかし、式神とは主に殉じるものだ。主の苦痛を肩代わりするのだって、私の役目だ」
「藍様、それは、ただの『主と式神』です。『紫様と藍様』じゃありません」
しもべである橙の言葉は、ことのほか藍の心をとらえた。
藍は黙り込み、俯く。
「あなたはもう少しで死ぬところだった。私の前からいなくなろうとしたのよ。
隼を死なせたことは心苦しいし、後悔しているわ。でも、その苦しみをあなたに押しつけようとは思わない。
橙があなたのために危険なことをして、命を落としてしまったとしたら、あなたはどう感じるかしら。想像してご覧なさい」
「考えたくもありません、そんな悪夢のようなこと」
「そうでしょう。私も同じよ、藍」
藍は紫と向かい合い、姿勢を正した。
「紫様。私は、あなたの助けとなれるのであれば、この身を捨てても良い、と思っていました。
あなたの剣となり盾となり、果てることこそ本懐、と。そのあり方を変えることはできませんが……死なぬと誓いましょう。
八雲紫の式として、いつまでもあなたの傍らに在り続けます」
藍はそう言い、額を畳に擦りつけた。
「どうやら間違ったことをしたようです、面目次第もありません。橙に教えられました」
「……約束してちょうだいね、藍。今言ったことを守り続ける、と」
「御意のままに。紫様が往生を迎える際にも、手を握って差し上げます」
「そう、ありがとう――。……なんですって?」
「え?」
「藍。あなた、また私をお年寄り扱いしたわね」
「は!? してませんよ、なんでそうなるんです!」
「往生を迎えるとか何とか言ったじゃないの。そう簡単に、この八雲紫が死ぬものですか!」
「被害妄想だ。要するに気にしてるんじゃないですか」
「未熟者の分際で主人に口答えするんじゃありません! また封印するわよ」
「い、いやだっ。あんな暗くて狭いところは二度とごめんです! 橙、黙ってないで何とか言ってくれ!」
「うう、良かった。紫様と藍様が、ちゃんと仲直りできて……うっうっ。うれじぐで涙が……」
「ち、橙!? ちぇぇぇん!?」
「そうだわ、これから私のことは、紫お嬢様と呼んでもらいましょう。一度間違える度に、十年封印とします」
屋敷の周囲を囲む林に、式神藍の悲鳴がこだました。
何だかんだと言いつつも睦まじい紫と藍の傍で、橙は涙を拭いながら微笑む。
こうして、八雲紫やその式神たちを巡る小さな物語は、幕を下ろしたのだった。
その晩、幻想郷に雨が降り注いだ。
なにしろ梅雨の季節である。昼間は晴れていたが、日没の前後から曇り始め、夜半からしとしとと、静かに降り始めた。
食事の後、橙は藍と一緒に風呂をつかい、その後式を張り直してもらった。
藍と紫はすぐに口論をするが、それも仲が良い証拠だ。仲直りするのも早い。
全部元通りだ――と、橙は笑みを浮かべた。
橙は、藍と紫に挟まれて床についている。
屋敷に泊まるのは久しぶりだったし、川の字になって寝るのは何年か振りである。
嬉しさのあまり興奮し、なかなか寝付けずにいるのであった。
左右を見ると、紫も藍も、安らかな寝息をたてている。
本当に良かった。橙はしみじみとそう思った。
紫様と藍様の役に立てるように、もっともっと頑張ろう。
頼られる式になろう。悲しませたり、がっかりさせてしまわないように、強くなろう。
そして、いつかは紫様から八雲の名をいただき、八雲橙、と名乗れるようになりたい。
そんな風に橙は、降りしきる雨の音を聞きながら未来への明るい希望を描く。
――ふと、橙の心の奥深くがちくり、と痛んだ。
「あなたたちがそばにいてくれれば、それだけで充分よ」
そう言った紫の顔は、いつものように優しさに満ちていた。
しかし橙には、その影に見える寂しさや悲しみが、気がかりでならない。
きっと紫様は、これから先もずっと、隼のことを思い出して、ご自分を責め続ける。
一年に一度、六月が来る度に――少しだけ。
自分にできることは、もう無いのだろうか。他に何かあるのではないか……考えは堂々巡りを続けるばかりだった。
夜明けが間近に迫った頃、橙は誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました。
体を起こして、両隣を見る。紫も藍も、深い眠りについている。
しばらくぼおっとしたまま雨が屋根を叩く音を聞いていた橙は、
規則的な雨音の中に、微かな異音を聞き取った。橙は猫であるので、音には敏感だ。
雨漏りだろうか。
橙は寝床を抜けて、音が聞こえた方へそろそろと、暗い廊下を進む。
橙は、紫の部屋の前で立ち止まった。入ったことは、数えるほどしかない。
音はこの中から聞こえてくるようであった。
橙は、入って良いものかどうか思案したが、悪戯するわけでもないのだからいいだろうと結論づけ、
紫たちを起こさぬようにそっとドアを開いた。
紫の屋敷は、外から見れば純和風であるが、ところどころに西洋の要素も含まれている。
八畳ほどの部屋の中は西洋風の書斎になっていて、外界の本がぎっしりとつまった本棚が壁に配置されている。
窓際には重厚な書き物机と、座り心地の良さそうな肘掛椅子があり、床には紅色のカーペットが敷かれている。
部屋の中は本の匂いがした。
「あ……」
手探りで明かりをつけた橙は、部屋の端に、二寸四方ほどのシミを見つけた。雨水によるものらしい。
見上げると、天井に小さな穴が空いている。
穴は屋根まで突き抜けており、そこから雨水が落ち、床を濡らしている。
このまま放っておいたら床が水浸しになるかもしれない、と橙は台所から大きめの空き瓶を持ってきて、
ちょうど雨水が滴っている下へ設置した。
とりあえずの応急処置である。夜が明けて、藍様たちが起きたらお知らせしよう、と橙は思った。
部屋を出ようとした時、橙は、部屋の隅に小さな黒いものが落ちていることに気付いた。
ゴミだろうか、とそれを拾い上げる。
「なんだろう、これ」
石のようでもあり、金属のようでもある。全体的に黒く、焦げているようにも見える。
一寸を少し下回るくらいの大きさで、じっと見続けても正体は分からない。
握ってみると、ほのかに暖かさを感じた。
とにかく、どうやらこれが、穴を空けた犯人なのだろう、と橙は思った。
他にそれらしいものは見あたらない。
それにしてもどういうことだろう、まるで空から降ってきて屋根を突き破ったみたいな――。
「……」
橙の胸が高鳴る。
これは、もしかすると、流れ星なのではないだろうか?
にとりが茶屋で話していたことを、橙は思い出す。
隕石は民家の屋根を突き破って落ちてくることもある、と確かに橙は聞いた。
「まさか、これって……!」
橙は、その小さな塊を両手に持って、部屋を飛び出した。
「ゆ、紫様!」
我を忘れて、橙は叫んだ。夜明け前、雨が降りしきる幻想郷。
すやすやと眠っていた紫と藍は、大慌てで寝室に飛び込んできた橙に起こされてしまったのであった。
「……今何時だと思ってるんだ。君らの家には時計は無いのか」
森近霖之助はすこぶる不機嫌そうにそう言った。
ここは魔法の森の外れにある香霖堂という道具屋で、霖之助はその店主である。
橙は紫を揺さぶり起こし、事情を話し、この店に連れてきてもらったのだった。
店内に隙間を開いたので、侵入したという言い方が正しい。
当然霖之助は眠っていて、橙に起こされた彼は驚いて飛び起きた。
そして、前述の発言へとつながるわけである。
「ごめんなさい、急いでいたので」
「急いでいようがいまいが、入り口から入ってもらわないと困る。というか営業時間外だ」
「大事なお願いがあるんです」
「そうだろうね。暗殺しに来たわけではなさそうだし、泥棒にしては家主を起こすのは不自然だ」
「とにかく起きてもらえませんか」
「橙といったね、一つ教えてくれ」
「な、何ですか」
「彼女は、何をあんなに震えているんだ。緊張しているように見える」
霖之助は、橙と共に現れた紫を見て言った。
先ほどから紫は何も言わない。
霖之助と紫は知己であり、霖之助にとっては紫が会話に参加してこないのは不自然に思えて仕方がなかった。
それに、彼が知る八雲紫は、あのような――脅えた表情をする女性ではない。
落ち着きがなく、あれではまるで、想いを寄せる人に出した恋文の返事を待っている少女ではないか、と霖之助は思った。
「それは、聞いてもらいたいお願いと関係してるんです」
「答えになってないな」
「見て欲しいものがあるんです。紫様が、ずっとずっと……千年も待っていたものかもしれないんです!」
「……ふむ」
霖之助は不思議な能力を有している。
物品を見ただけで、その名前と用途が分かる、というものだ。
それを日常的に役立てて、怪しげな店を営んでいるのだが、それはともかく。
「つまりどういうことかな。紫、一応君の口から聞かせて欲しい。
彼女……橙と一緒にここへ来た、ということは、橙が持っている何かしらのものの正体を
僕に明らかにしてほしい、というわけかな。どうも、君は決めかねているようにも見えるんだが」
「ええ……ご推察の通り。こんな明け方に、突然押しかけて申し訳ありませんわね」
「実に君らしくないことではあるが、別に構わないよ。それで、どうするんだい」
「どう、とは」
「僕に見て欲しいか、見て欲しくないか。結果を教えて欲しいか、そうでないのか。決めてもらいたい」
起き上がって椅子に腰掛け、霖之助は紫にそう言った。
長い沈黙の後、紫は口を開く。
「お願いします。ただ、私は先に失礼しますわ」
「すると、僕は鑑定の結果を、橙に教えれば良いというわけだね」
「ええ……結果の如何で、他人様に見せられぬ醜態を晒さぬとも限りませんから」
霖之助は驚いた。八雲紫から出た言葉とは思えなかった。
同時に、橙が持つらしい物品に対する好奇心がむくむくとわき上がってきた。
「分かった。では、見させてもらおう。君たちが望む答えが出れば良いが」
「お手数をおかけしますわね……後日、お詫びは改めて」
「気に病むことはないよ。まあ、お詫びやらお礼は、形のあるものだと嬉しい」
「分かりました。ごめんなさい、霖之助。それでは、また……」
紫は硬い表情のままそう言い残し、隙間の奥へ消えた。
隙間はそのまま開いている。橙が戻れば、閉じるのだろう。
「衝撃的なものを見たのですっかり目が覚めた。心して拝見するとしようか」
「お、お願いします!」
そして橙は、紫の書斎で見つけた、流星らしき小さな塊を、霖之助の前に差し出した。
それを受け取り、霖之助はふむ、と唸った。
「橙、なぜ君はこれを僕のところへ持って来たんだ?」
「え……」
「僕の能力は知っているのだろう、道具の名前と用途を調べることだ。君はこれを、自然のものだとは思っていない。違うかな」
「は、はい。その通りです」
「他の誰がどう見ても、ただの石ころに過ぎないと思うが……面白い。答えを言おう」
橙は息を呑んだ。
黒い塊を見つけた時よりも、さらに緊張する。二叉にわかれた尻尾が震える。
耳がプルプル震え、腋にまで汗をかいていた。
紫様も同じだろうか、と橙は思った。
神様仏様、お願いを聞いてください。
大事な大事な紫様を、喜ばせてあげたいのです――橙は心の底から祈った。
「これは、外の世界の式神だな。その欠片だ」
霖之助が言う。式神、という単語を聞いて橙は飛び上がった。
「ほ、本当ですか!」
「間違いない。まあ分かりやすく言うと式神だというだけで、外ではそう呼ばれていないが」
「そ、外……? 外ですか」
「ああ、知らないことはなかろう。幻想郷と地続きの結界外、日本で作られたものだと思う」
「……」
紫様の式神、隼ではなかったのか。
隼が千年をかけて、還ってきたのではないのか。
金属で作られ、星に結界を張るという目的を与えられていたからこそ、
店主が見て正体が分かったのではないのか――全身から力が抜け、目の前が真っ暗になり、橙はへたり込んだ。
「おいどうしたんだ。大丈夫かい」
「あ、はぃ……ごめんなさい」
「どうやら期待していたものではなかったらしいね。済まない」
「いえ、別に……店主さんが、謝ることでは」
「霖之助で構わないよ、紫もそう呼ぶ」
「はい……」
「重傷だな。他にも伝えられることはあるけど、ここまでにしておくかい」
「……一応、聞きます。お願いします」
そう言うだけで精一杯だった。しばらくは動けそうになかった。
「そうか、じゃあ言おう。式神と言ったが正式には、宇宙探査機、と呼ばれているものらしい」
「……う、宇宙ですか」
関連する語句を聞いて、橙は少し身を乗り出した。
「ああ。詳細までは分からないが……まあ文字通り、宇宙を探査するのだろう。
外の世界の人間は、通称ロケットと呼ばれる、宇宙を往く船を発明したのだが、それに近いかもしれない」
「ろけっと……?」
「ここで言うロケットというのは、ロケットエンジンを省略した語だ。
固体、液体、様々な燃料を推進剤として用いて噴射させることによって反作用を得て進むらしい。
この原理がなぜ宇宙への移動に用いられているかというと、宇宙空間は我々の住む地上とは違い真空で……」
「あ、あの」
橙が、おずおずと口を挟む。
霖之助はいつの間にか立ち上がって勝手に喋っていたが、椅子に戻って橙を見た。
「これは失礼。つい、いつもの悪い癖が出たらしい」
「なんだか、にとりみたい」
と橙は少し笑った。
「にとりなら知っているよ、以前、魔理沙と一緒にここへ来たことがある」
「そうなんですか」
「先日、『ゲームウォッチ』という名の遊戯機械を売った。目を輝かせていたな」
「あ、それ、にとりの家で遊びました!」
「ということは修理に成功したのか、河童の技術は侮れないな。
ここには珍しいものも置いているんだが、壊れているものが多くてね。
彼女と提携できればありがたいから、いつでも来て欲しい、と伝えてもらえないか」
「任せてください。あの、それで、そのさっきのお話ですが……」
そうだった、と霖之助は小さな黒い塊改め、「宇宙探査機の欠片」に目を落とす。
「先ほど述べたのは、この物体の用途だ。日本で作られた、宇宙を調べるための何か、といったところだな」
「どうして日本で作られたって、分かるんですか」
「名前が日本語だからだが……いや待てよ、そうか。異国においても日本語が普及しているなら、そうとも限らないな」
名前。そうか、あの欠片には、名前があるのか――。
橙の胸は、再び早鐘を打つように高鳴る。
「盲点だったな。世界地図を見た限りでは日本は小さな島国だが、歴史を紐解けば、小国が大陸を支配したケースもある」
「……あの」
「例えば『太陽の沈まぬ国』という言葉がある。ある領土では夜だが、別の領土においては太陽が出ている、
そういった大国を指すんだが、その昔遠い異国の島国が――」
「り、霖之助さん!」
橙が、止めどない霖之助の語りに割って入った。
にとりより、もっとひどい。橙はそう思った。
「悪かった。紫や霊夢は、もっと早い段階で僕を止めるんだが」
「私もそうします」
「……用途はさっき言った通りだ。それ以上のことは分からない。作られた場所は日本だろう、と仮定にしておこう」
「それで、名前は……」
聞くのが恐い。橙は耳を塞ぎたくなった。
しかし、主人が答えを待っている。勇気を出さなくては、と顔を上げる。
そして霖之助は答えを言った。
「はやぶさ。それがこの探査機の名前だ」
――ああ。
「名前の由来は何だろうね。無論、猛禽類の隼ではあるんだろうが……橙? ど、どうしたんだ」
自分はこんなにも泣き虫だったんだろうか、と橙は思った。
ことある度に泣いている気がする。これではいけない、と橙は服の袖で目元を拭った。
霖之助が慌てて、何か失言してしまったか、と橙を心配する。
平気です、と橙は答えた。
四季様が仰ったあの言葉は、慰めの方便ではなかった。
紫様を戒めるためのものでもなかった。本当のことだったのだ。
自分が見つけたあの流星は、紫様が使役した式神隼ではなかった。
その魂は宇宙の果てで失われ、彼岸に戻ることはなかった。
でも、きっと奇跡は起こったのだ。
なぜならあの流星は、『はやぶさ』なのだから――橙は、霖之助から黒い欠片を受け取り、立ち上がった。
「僕に分かることは以上だが、これで良かったんだろうか」
「はい。戻って、紫様に、お知らせしなくては」
「落ち込んだり飛び上がったり、君は忙しい子だな。良い結果だった、と考えて良いのか」
「……本当は、私には分かりません。でも、これはきっと、奇跡なんです」
「奇跡、か。実に興味深い単語だ。僕や君のように幻想郷に暮らす者が言うと、さらに意味深い」
「ありがとうございました、霖之助さん」
「どういたしまして。紫によろしくと言っておいてくれ。君の、直近のご主人にもね」
橙はぺこりとお辞儀をして、紫が残した隙間に飛び込んだ。
程なくして、隙間は消失する。
一人残された霖之助はふう、とため息をつき、
「まあ三文程度の価値はあったかもしれないな」と呟いて、布団を押し入れに仕舞うのだった。
「……そろそろ来るだろうなぁ、と思ってたのよ」
白玉楼の亡霊姫、西行寺幽々子はそう言った。
彼女の前には、おなじみの隙間から現れた八雲紫がいる。
「妖夢はまだ寝てるわ。鬼にやられて、鬼みたいな巫女にとどめを刺されたんですって」
まったく、頼りない未熟者よねぇ、まぁそこが好きなんだけれど、といつもの調子で笑う幽々子。
「どうして来るのが分かったのかしら、みたいな顔してるわね。不思議?」
幽々子はニコニコしながら言う。紫は頷いた。
「だって私、紫の、一番のお友達だもの」
答えになっていないわ、と紫は言う。
「どうやら仲直りはできたみたいだけれど、藍と橙には、見せたくなかったんでしょ。
それで、どうしよう、と考えたわけね」
見透かされているな。
「萃香なら真剣に話を聞いてくれるでしょうけど、あなたは彼女に、弱いところを見せたくないと思ってる」
その通りだ。
「幽香は問題外ね。あなたが泣いたりしたら、だらしないわよー、って怒るかも」
そうだろう、と紫は想像した。
「あとは霊夢とか? でも、事情を知らないしね。結局、私しかいないわけ。分かった?」
白玉楼へ来た理由は、言わなくても伝わっていたらしい。
けれども、どうして幽々子は、自分が来ることを察知していたのだろうか。紫は疑問に思った。
「昨日だったかしら。一昨日だったかしら。どっちでもいいんだけど、ちょっと彼岸へ行ってきたの」
紫はやはり、と思った。
四季映姫が理由もなく橙に会うためだけに此岸に現れるはずがない。
「橙によろしく、というのもあったんだけどね。本当はあの方に、文句を言ってやろうと思って出かけたのよ」
何のことだろうか。思い当たらず紫は聞いた。
「昔のことだけど、まだしっかり覚えてるんでしょう? あの方があなたに言った言葉。
私にも言っていたじゃない、それを支えにして、千年待つんだ、って」
確かに、昔幽々子にそう言った。
紫はかつて、映姫の言葉を信じることで、自分の心を壊さずに生きてこられたのだ。
しかし、今は違う。藍や橙がいてくれるし、友人がいる。守るべきもの、幻想郷がある。
「それは素晴らしいことだわ。でも、その考えに至るまでにあなたはとても苦しんだ。
藍も、橙も同じように苦しみ、今回みたいな出来事が起こったわけでしょう。
もしもあなたが、隼のことをすっかり忘れて、面白おかしく生きていたら、何も起こらなかった。
私は、本当は、そうなって欲しかったの。人間も妖怪も同じよ。忘れることで生きていけるんだから」
忘れる――?
自分の過ちを。犯した罪を。愛した式神、隼のことを、忘れることが良い、と言うのだろうか。
「あの時泣いていたあなたの顔だけは、まだはっきり覚えているわ。代われるものなら代わってあげたい、と思った。
あの方の言うことだから、私も信じてた。千年経ったら紫は解放されるんだって。
だから、一緒に待とうと思った。ずっと紫の友達でいて、できるだけ楽しく、千年を過ごせるように、なんてね」
幽々子がそこまで考えていたとは。紫は感激するよりも先に驚いた。
何も考えていないように思えて、実は誰よりも鋭く深く思考を巡らせているに違いない。
「でも結局、千年が過ぎても変わらなかった。紫を戒めるためなのか、それともあの方なりの励ましなのか、
それは私には分からなかったけれど、でも頭にきちゃってね。
あんまりではございませんか、なにゆえ本当のことを八雲紫に仰らなかったのですかーって、言ってやったわけ」
紫は四季映姫が苦手である。それは幽々子も同じだ。
会うだけでも気が重いのに、直接文句を言いに訪れるとは。さすがは幽々子ね、と紫は言った。
「ふふふ、まあね。でね、私がそう言ったら、嘘なんて言ってませんよ、っていうのよ。
どういうことですか、って聞いたら、そのままの意味です、間もなくでしょう、だって」
間もなく――映姫が言ったという言葉を、紫は呟いた。
「そんなんじゃ分かりませんって、しつこく食い下がったら、隼という式神そのものは、もう永遠に戻ることはない、と聞かされたわ」
ああ、やはり。
心のどこかで期待していたが、紫もまたそうだろう、と覚悟はしていた。
太陽に落ちたのだ。それは幻想郷どころか遠い宇宙の彼方である。
「紫は、式神の隼と二度と会えない。だけど、今までのように苦しんだりするだけじゃなくて、
大事な思い出として胸の中に仕舞っておけるようになる、って言われたわけね。まあ、それであなたを待ってたのよ」
紫は小さな黒い石――霖之助によれば宇宙探査機の欠片――を取り出して見つめた。
「それは?」
幽々子が聞く。紫は、橙から聞いた霖之助の鑑定結果を話した。
幽々子の表情から笑みが消え、真剣に話を聞いている。やがて紫の説明は終わって、幽々子はぽつりと言う。
「紫はそれをどう思っているの?」
どきり、とした。
香霖堂につなげた隙間から飛び出してきた橙の顔を、紫は思い出す。
『この欠片は、宇宙へ行った船のものなんです! それに、名前は、はやぶさというんです!』
息を切らせ、目を輝かせ、橙は言った。
『きっと隼の生まれ変わりです! 紫様の元に、還ってきたんですよ!』
あまりにも純真で真っ直ぐな橙の瞳。
良かったですね紫様、本当に良かった、と涙ぐむ藍。
二人を見て、紫は、ええそうね、きっとそうだわ――としか言えず。
「それでここへ来たの。ねえ、幽々子。おかしいのよ」
「なにが?」
「知ってるでしょう、私は外の世界へ自由に行けるし、隙間を開いて何でも取り出せてしまう」
「そうね」
「橙から、この欠片は宇宙探査機の一部だと聞いてね、調べたの。
そうしたら、その探査機は、役目を終えて、ついさっき……何時間か前に、地球へ戻ってきたらしいのよ」
「へえ、面白そうなお話。でも別におかしくないじゃない」
「戻ってきたと言っても、地上に落ちてくる途中に燃え尽きて、跡形もなく消えたのよ。
それに、落ちた場所は遠い外国。私の屋敷に欠片が落ちてくるなんて、ありえないことなのよ」
「ふーん……」
「ふーんって。距離だって離れているし、形を保って地上に落ちてくるはずがないし、
第一、結界を突き抜けてきたのよ。どう考えても――」
「ねえ、紫」
「な、なに」
「それって大事なことなの? どうしても、理屈で説明できないといけないこと?」
「……」
「何となく、こういうことじゃないかしら、っていう想像はつくけれど。
でもそんなこと、どうだっていいじゃない。あなたの元へ、『隼』は還ってきたんだから」
瞬間、紫の目から涙が溢れた。
反射的に顔を覆う。
嗚咽する。
抑えようとするが、無理だった。紫は背を曲げてうずくまり、号泣する。
「紫」
幽々子はそっと紫を抱いた。
子供のように泣きじゃくる紫を、幽々子はそっと包み込む。
「その欠片は、なぜあなたの元に還ってきたのかしらね」
幽々子が言った。
紫は、答えられないでいる。
「千年は、長かったかしら。そうでもなかった? どちらにせよ……今日はきっと、約束の日なのよ」
紫は、幽々子の腕が、少し強く自分の体を抱きしめるのを感じた。
「式神の隼はもういない。その欠片は宇宙……なんだったかしら?
とにかく、隼そのものではないわね。でも、きっとね、あなたにお別れを言いたくて、戻ってきたに違いないのよ。
絶対に、偶然であるはずがないわ。だから紫。あなたも、お別れを言ってあげましょう」
そうすれば隼のことは、苦しみを与え続ける過去の記憶ではなくなる。
紫にとって大事な思い出として、いつまでも輝き続ける――幽々子はそう言った。
別れの言葉。
何を言えばいいだろうか、と紫は泣きながらも考えた。
ごめんなさい、だろうか。何千回も繰り返してきた言葉だ。
ありがとう、だろうか。隼がいなければ、今の世界は存在していない。
さようなら、だろうか。何と悲しい響きか。確かに別れの言葉ではある。
どれも違う、本当に言いたいことではない、と紫は思う。
分からないのだ。
何が賢者だ、と自嘲する。
「幽々子。私、なんていったらいいか……」
「あらあら。こんな姿を見せて良いのは私の前だけよ。紫は可愛いから、取り合いになっちゃうわ」
「あ、あのね。人が、真面目に泣いてるのに、冗談はやめてよ……」
「ふふふ、冗談ではないけど。まあいいわ、簡単なことよ。一番最初に、言ってあげたかったことを言えばいいだけ」
「一番、最初?」
「そう。隼が還ってきたら、言おうと思ってたことを。素直な気持ちでね」
幽々子は、にこり、と笑って言った。
ああそうか、そうだった――紫はやっと思い出すことができた。
蝋の翼で宇宙を飛び、青い星の未来を守った小さな式。
大役を果たし、主のもとへと還ってきた式に対して言うべき言葉は、決まっていた。
――長い、長い旅だった。やっと……やっと言える。
紫は涙を拭い、そして穏やかに微笑み、こう言った。
おかえりなさい――隼。
<了>
キャラの活かし方も。
憾むらくは長すぎて倦厭されてる感が否めません。
今からでも分割したらいかがですか?
自分は長い話を読むのが苦手なんですが、するすると読めました。
読んでいるときのワクワク感がたまりませんでした。
キャラがみんな良くて、とくににとりが良い感じでしたね。
もっともっと書きたいことはありますが、最後に、長編の執筆お疲れ様でした。
次回作も期待しております!
キャラがよく動いて会話が楽しくて、そして橙の愛と天子の友達思いが染みました。
長編だけど、読んでて終わってほしくなかった。良かったです。
それを語る為に150KB超の文章量が必要なのか?
必要に決まってるよ、当たり前じゃん!
アホっ娘だけど友達には誠実な天子、へたれだけど友達の為ならがんばるキュウリ、いやにとり。
そして幽々子、妖夢、文、幽香、萃香、映姫様達の、立場は違えど素晴らしき友情パワー。
橙、藍、当然隼を含めた式神達の、これも素晴らしき愛情パワー。
紫様と幻想郷は愛に包まれているよ……
最高に蛇足だけど、俺の心もこの物語を読ませて貰ったおかげで愛に満ちているよ。
それぞれの人物のキャラが濃厚に出ていて良いです
言いたいことが多すぎて何も言えない
言いたいことを言ったら尽きないので最も言いたいことだけ、ゆかりん愛されてて歓喜です。
だって紫が愛する式にちゃんと「おかえりなさい」を言えたんですから。
とにかく橙と愉快な仲間たち、がんばった! 超がんばった! 特に天子さん、素敵すぎます。
読み応えのある長編を読ませていただき、ありがとうございました。
隼と式神をからめるなんてすごい発想ですねえ。
紫はみんなに愛されてますなあ。
幽香のツンデレぶりもよかったです。
素晴らしい物語をありがとうございました。
途中で何度もブワっと涙があふれました。
橙の健気さに、天子の明るさに、にとりの面倒見の良さに、
それぞれのいいところが現れていたと思います。
式神「隼」は反則級…!
八雲の式は愛でつながっているんですね、とか、橙天子にとりトリオ最高とか、
感想は山ほどありますがうまく言葉になってくれません。
ああ、本当にいい話だった。
いらない所とか無いですよ。この長さを一気に読ませるから良いんです。
ありがとうございました。
八雲隼とのリンクがあるたびに心が震えました。八雲一家は本当に愛情あふれるいい家族ですね。キャラクターも皆
「らしい」動き方をしていたのでお話に入りやすかったです。
読了してから、容量の多さに気づきました。150kb。すらすらと読まされてしまいました。正直悔しい。面白いというより、長さに気づかされず一気に読まされてしまったことが。
妖怪は、妖怪だけの視線で見ることが出来る世界があるといいます。橙は化け猫になってしまったただの猫だったとき、どんな世界を見ていたのでしょうか。絶望に色塗りされた世界を、そこに光が射す場面を、もっと見ていたいという気持ちが起こりました。
素晴らしい作品をありがとうございます。
脱水症状になるといけないのでお茶飲んできます。
良かったぁ。
いい話でした
天子側の後日談的なものもちょっと読みたかったです
7年もかけて帰ってくるなんてすごいですよね、本当に……。
そして「八雲隼」。奇しくも遠い過去に同じ名を持つ宇宙を旅した者が、幻想郷にいたのですね。
彼らに送りたい言葉は一つだけ。「おかえりなさい」
最高のお話でした。
そしてちょろちょろと入っているブロントさんネタがいい味を出してましたよw
とても面白かったです
キャラの組み合わせとしては、かなり珍しかったのですが、違和感はありませんでした。
あと、天子の言動がカッコよかったです。
「そこに縁(ゆかり)があったからよ」って閻魔様が言ってた。
総領娘さんと式の式さんが古参の方々に示した、瑞々しい在り方が実に印象的でした。
水棲技師さんも名脇役というかんじで、こちらもまた素敵です。
「あたしゃここにいるよ」まさかあなたは……魅魔様……!?
ツンデレ幽香様もかわいいです
↓
雨がテーマのこんぺ作品としてもおかしくないくらいだなぁ
↓
はやぶさ……だと……何故、宇宙ネタ、そして隼という名前からそれに気づかない俺……!
そして涙が止まらない。気付いてからは隼の文字が見える旅に涙が溢れてくる。
いい話でした。ありがとうございます。
すごすぎる
言葉が見つからない
とりあえず100点という形でこの気持ちを作者さんに送りたい
オーストラリアの空で燃え尽きた映像を見た時の感動が、また再び蘇ってきました。
素敵な作品を、どうもありがとうございます。
みんなみんな生きているね。とっても幸せなことだ。
そしてこんな空気で言うのもはばかられるけど、ブロン子ちゃん自重wwww
>>鉄や銅では心許ないので、知己を訪ね緋緋色金製の像を譲り受け、これを使うことにした。
>>その際、やっと来たか、と言われた。
>>猛禽の如く鋭いかぎ爪と嘴を有する物言わぬその像は、私の手に渡ることが定められていたのだ、と。
申し訳ないことに、式神「隼」の媒体となったこの像の元ネタだけ分かりませんでした。
紫にこの像を渡したのは誰なのでしょう?
がっかりさせるようで大変心苦しいんですが
これといって元ネタと言えそうなものはありません。
彫刻がうまくて、よく予知夢を見る妖怪、みたいなものを想定していました。
混乱させてしまって申し訳ありませんでした。
おかえりなさい。
そして読後はジブリ映画を見た後と全く同じ感動を味わえました
なんというか、あなたの作品は生きているかのように感じます。何を言っているのか分からないと思いますが私にもよく分かりません。とにかく生きているのです
登場人物やそれらの言動から地の文に至るまで、どれも生命が宿っているかのように錯覚しました
上手く言葉では現せないですけどね…
今まで読んだどれにも、そんな感想を抱いたことはありませんでした
こんなにも素晴らしいものを読ませて頂き、ありがとうございました
次回作も楽しみに待ってます
「はやぶさ」とリンクした場面では思いっきり鳥肌が……
登場人物もそれぞれが魅力的で、非常に幻想郷らしい雰囲気を醸し出していました。
素晴らしい作品をありがとうございました。
気付いたらこんな時間に…!
紫はじめ八雲一家、それを取り巻く人妖の優しさには心打たれるものがありました。
時々入る有頂天系のネタも自然に組み込まれていて素敵です。
そしてまさかはやぶさネタが来るとは…!
この絡め方はお美事!としか言いようがありません。
文句なく満点!もってけ!
そして天子の台詞がクサい!聞いてるこっちの歯が浮くわいwww
だがかっこいい。さすが友を想う天人は格が違った。負けてたけど
これでこの点数とかマジですかと。もっと評価されるべきだろう
こんぺのトップ3に匹敵する作品ですよ
改めてあの宇宙探査機に、そして紫の式にも言いたい。
おかえり、はやぶさ
面白い組み合わせと最初は思ってましたが、場面場面変わる毎にぐいぐい引き込まれ、途中からもう夢中ですよ。
ちょいちょい挟んでくる砕けた文もすんなり溶け込み、はやぶさネタ……
うーん、素晴らしい!
御馳走様でした!
873さんの書く優しい登場人物が好きです。
チルノとか、彼女と遊んだあの子とかも。
>「別に倒してしまっても構わんのだろ、ってやつね」
やめろォ!! そいつはやられる上に見せ場をくわれるフラグだ!
>「そこに縁(ゆかり)があったからよ」って閻魔様が言ってた。
そこに気付くとは…… この43、やはり天才……
心からそう思わせてくれる、素晴らしいお話でした。
途中の式の名が分かったあたりから展開が薄々感づいてきましたが、
それでも読み進める手が止まりませんでした。
最初は面白い組み合わせだなと思って軽い気持ちで読んだら涙腺と鼻をやられました
隼の名を冠した衛星の破片が戻ってきたのはご都合主義かなと後からなら思えるけど、それまでの
ストーリーにどっぷり浸かって一種の催眠状態で考えもしなかったし、そこまで読ませるのは作者様の持つ魅力的な力ですね
素晴らしい物語をありがとう、隼おかえりなさい
それと作中のキャラクターの関係性がすごく好きです
全部にそうだけど例に取るなら、同じ友達や家族でも涙を見せられる人見せられない人ってのは
すごく分かるし、幽々子を初め皆適役でしたね
勿体無い。
こういう登場人物が描けるのってやっぱり作者様の力だろうと思うし
今後の作品から目が離せないだろうなと思った
みんなゆかりん好きすぎるだろう。
最初からぐいぐい世界に引き込まれて、あっという間に読み終わりました。
すごい作品でした。ありがとうございました。
ええ、涙ボロボロですよ。切ない。でも、はやぶさが戻ってこられて、本当に良かった。
本気ですごいお話だと思いました。
ところどころの小ネタがテンポをより良くしているような気がしました。
「宇宙」と「隼」というヒントから「はやぶさ」を結びつけられず、自分の勘の悪さに天を仰いでしまいましたが、いやはや素晴らしかった。
完全に引き込まれました。
愛されゆかりん万歳
キャラクターが皆素敵です。
目頭が熱くなるな・・・
投稿された頃に初めて読ませて頂いたのですが、今年読んでもやはり心を打たれました。
橙に天子やにとりを絡ませるという異色のトリオでありながら、それぞれが物語の中で
とても輝いた立ち回りを見せているという点に並々ならぬ魅力を感じます。
また東方Project原作の設定を注意深く読み込んでいるらしいことが文体からひしひしと
感じられ、さらにその知識を時事ネタに鮮やかに絡める熱意に感銘を受けました。
すばらしい作品をありがとうございました。
150kbを感じさせない文章力と構成力でした