Coolier - 新生・東方創想話

機能主義・構造主義の観点からアプローチする秘封倶楽部と「八雲紫効果」について

2026/10/26 22:05:29
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    『機能主義・構造主義の観点からアプローチする秘封倶楽部と「八雲紫効果」について』




 本日最後のコマを終わらせるチャイムが鳴り、講義棟の教室を出た私は速めの足取りで大学構内のカフェテラスに向かうことにした。まあ、これはいつものルーティン。手には防汚・耐水カバーされた古書型バインダー。レザーバウンドを模したそれにはノートブック、入力用のタッチパッド、辞書やテキストの情報が格納された記憶媒体、速記用の筆記具とレポート用紙、ときたま気まぐれで配られるレジュメなどが挟んである。全部まとめて厚手の本一冊分――と言っていいのか、今時ハードコピーの本を持ち歩く人間などいないのだ。昔の大学生はそれらを山のように背負っていたらしい。

 メリーにこの話をしたらどんな反応をするだろう。「まるで二宮金次郎ね」という感想が出てくるに違いない。こういうことに関して彼女の話は予想がつく。そしてあの細腕では過去の重さに耐えられないか。私はどうだろう、などと考えた。今手の中にある重みは二十オンス未満、それだけあればキャンパスライフが事足りる。それが現在の一般的なスタイルだ。

「まるで二宮金次郎ね」

 私がカフェに到着してその話をすると、メリーはまさに思った通りのことを言った。彼女の向かい席に腰を下ろし「金次郎が背負っているのは本じゃなくて薪よ、どうせならシシュポスにすればいいのに」と提案する。が。

「蓮子、私は死を免れようとして永遠の苦役を課されるなんてまっぴらよ。シシュポスも頭脳明晰だったそうだけど、それなら金次郎の方がまだマシだわ」

 そう言われてしまえば、こちらは返す言葉もない。それにしてもメリーはなぜ金次郎のことを知っているのだろう――だというのに、私は心に浮かんだ疑問と全く別のことを聞いていた。

「そういえばシシュポスはアケロンを渡って冥界を垣間見たそうだけれど」

「ぞっとしないわね」

 こっちの話題は早々に切り上げとなった。最近メリーの目はあの世を見ることが多くなっている、多分そのせいかもしれない。




 今日も最後のコマを終わらせるチャイムが鳴り、教授棟の研究室を出た私は早めの足取りで隣の大学図書館へと直行する――が、そこで難儀する羽目に陥った。物理学のゼミで出された課題の下調べをするつもりが、なにやら手続きがうまくいかなかったらしい。いつもなら受付で学生証をかざして資料照会の請求をすれば、後は目当てのプレパラートが貸与される。

 プレパラートというのはホログラフィックメモリのクリスタルのことで、石英の結晶内部に五次元構造で書き込まれたデータを半永久的に保存しておける記憶媒体。形状的に生物・地質学系で使用されるプレパラートを思わせるので、単にそう呼ばれているに過ぎない。これを書見台据え付けの光学読み取り装置で再生したのちに手持ちのノートブックや手ごろな記憶媒体にデータを丸ごと、あるいは必要な分だけダウンロードする。もはやハードコピーという形式は前時代の遺物なのだ。

 ところが、この手続きに思わぬ時間を取られてしまった。該当する書架の担当司書が不在ということで請求がたらいまわしにされた挙句、ようやく出てきた複数のプレパラは「利用者の方で内容を精査してほしい」とこちらに投げっぱなしである。こういうときに餅は餅屋なのだと思い知らされ、読み取り装置にかけること数十秒。内容にざっと目を通して数十分。これ以上手間をかける気になれなかったので一旦ノートに全データを落とすことにした。プレパラを受付に返却し、そのまま大学構内のカフェに向かう。足取りはやや重い。

「およそ五十分の遅刻よ、蓮子」

「新記録ね」

 目的地に到着すると、やはりメリーは先に来ていて、テーブルの上に自分の課題を広げて待っていた。傍らには新型酒の入ったワイングラスまで置いてある。大学の構内で飲酒が解禁されたのはずいぶん昔。アルコール分解酵素の配合された新型酒が世に出回るようになりお酒に酔うということが失われ、こういう倫理はなし崩し的に規制がなくなっていったらしい。それよりも店の売り上げに直結することの方が重要だったのだ。

「遅れた理由だけは聞いてあげるけど」

「図書館でいつもの係が不在だったの」

 私がそう答えるとメリーは下唇に手を当てて考え込むそぶりをする。それは人が頭の中で何かを結び付け推理しているときの仕草で、彼女はやがて口を開いた。

「そういえば最近、学内で行方不明者が出てるって聞いたわ」

「うちで?」

「ええ、うちで」

「いなくなったって、誰が?」

「さあ、噂話で聞いただけだもの」

「最近っていつからだろう」

 私は席に着くのも忘れて思考に没頭し、メリーはワイングラスに口をつける。おそらく彼女はこれ以上の情報を持っていない。第一、学内で人が消えるとなればすでに事件化していておかしくない。すると、そもそも噂話か事件ですらないか、あるいは理由を付けた後に失踪している――まずは情報収集だ。手近なところから始めるとしよう。

「メリーの知り合いで行方不明になったっての、いる?」

「いないわね、たぶん」

「このカフェの客とか」

「そっちこそ、誰それの顔とか覚えてる?とてもじゃないけど自信ないわ」

 そう言ってメリーが再びグラスを傾けると紫色の液体が重力に従って彼女の白い喉の奥に吸い込まれて落ちていき、私は席に着いて呼び鈴を鳴らし店員を呼んだ。メリーが聞いてくる。

「お店の人に聞く気かしら」

「餅は餅屋、ってね。もっとも、探りを入れるつもりはないわ。今のとこは」

 そう言って私はコーヒーを注文した。




 今日はシラバスに入れてあるコマはない。私は大学図書館の広大な机にノートを置いて課題に取り組み、頃合いを見計らって待ち合わせの場所へ速足で向かう。講義棟の入り口にメリーがいた。彼女が腕時計を確認して言う。

「一分二十三秒の遅刻よ、蓮子」

「上々だわ」

 腕組みをしている彼女にそう返す。

「時間の埋め合わせについて?それとも何か首尾でもあった?」

「言うまでもなく後者、件の司書は今日も不在だった」

 そして、課題にかこつけて昨日よりさらに突っ込んだ内容の資料請求をしてみたことについて話す。当然、担当でも専門でもない分野の、しかも多岐にわたって散らばったそれを要求されて受付の中は右往左往の様相を呈していた。それをカウンターを挟んだ位置から一人一人観察する。

「あの様子だと引継ぎはなし、代わりの職員も見つからない。他所から応援を呼んだところで一日二日でうちの蔵書の把握は不可能。急用で離脱した線もあるけど、予定されてた欠員ってわけじゃなさそうね。そっちは?」

 そう聞くとメリーは腕組みを解いてお手上げの意図を示して見せた。

「何人かに聞いてみたけど、みんなそういう話があるらしいって。実際に知人が消えたわけじゃないのね。ただ噂として知っているだけだから主観として観測されたわけじゃないけど、このまま噂が大きくなればいずれ話を聞いた人間の主観にも影響してくるんじゃないかしら」

 なるほど、相対性精神学講座の彼女らしい考察だ。

「つまり現在、私たちの観測によって状態が確定するってわけね」

 そう言って講義棟のエントランスをまたぐとメリーが続く。

「どうするの。学生課に問い合わせるなら反対側でしょう」

「うちの学生がどこ行ったか知りませんか、なんて聞いてまともに答えてもらえるわけないじゃない。まずはパッシブな調査から始めるよ」

 私はそう宣言して講義棟のロビーを見回すと、すぐそばの壁にある掲示板に近寄った。大学側が学生に向けた通知や告知を電子的に貼り付けるためのデジタルパネルディスプレイだ。テクノロジーは変われど、こういうアナクロニズムに満ちた形式はどんな時代になっても変わらないものらしい。ディスプレイ内の疑似的な張り紙に片端から目を走らせ内容を読み取っていく。

「学生が消えたっていうなら無断欠席の警告や呼び出しとして見えるはず、まずはそれを探してみて」

「あとは本人確認するっていう手順ね。うちってどれくらい在籍してるんだっけ」

「きっとそんなに手間取らないし、十人単位で消えてたらそれこそ事件だよ」

 掲示板の検分はものの十分ほどで終わったがそれらしい痕跡は見つからず、最後に「退学者」という名簿の前で私たちは嫌な気分になる。反対側の壁で学生サークルの勧誘チラシや部活動のポスターを見ていたメリーが口を開いた。

「あんまり意味がなかったわねえ。いっそ“人を探してます”って出てれば楽だったのに」

「少なくとも学生が消えたってわけじゃない、それでも学内で人が消えてるんだとしたら」

「教授や講師や……事務方?」

「そういうことになるわ」

 それは学生を探す以上に難儀しそうだった。




 それから数日後、それはその日最初のコマでのことだった。私は講義棟の教室でノートを広げていたが、始業のチャイムが鳴っても一向に教授は来なかった。隣の席にいる顔見知りの学生に聞いてみても「さぁ?」と首をかしげるだけで要領を得ない。結局その日は自習のような形となり、終業のチャイムが鳴ると私は足早に建物を出た。

「珍しいこともあるのね」

 カフェに到着するなりメリーはそんなことを言う。いつも使うテーブルで私が先に来て席に着いていたせいだ。メリーが席に座ろうとする前に言葉が、私の口から堰を切ったように飛び出す。

「遅刻、いや遅刻なんてもんじゃないわ、メリー。私の科目の教授が消えたのよ。コマが一つ自習になって、納得がいかなかった私はノートで学内のデータベースにアクセスしたけど休職届は出ていない。次にスケジュールがどうなってるか確かめに研究室まで見に行った。みんなドアにデジタルメモパッドがついてるでしょ、出張でもなんでも一週間分の予定が書きこんである。どこにも行ってなかった。なのにノックしてみても返事はない。思い切って開けてみたわ。ドアに鍵は掛かってなかった。部屋の窓は半分開いてて外から風が入ってきた。いくらなんでも不用心すぎるでしょ。いるのよ、どこかに。なのに誰も姿を見ていない……きっと学内で消えたんだわ」

 するといつの間にか向かいの席に腰を下ろしていたメリーは呼び鈴を鳴らして言う。

「落ち着いて、蓮子。とりあえずお茶でも注文しましょう?何がいいかしら。そうね、その研究室にお茶があったら湯気が立っていたかもしれないわね」

 改めて彼女にそう言われると我ながら興奮しすぎていた気がする。何はともあれ、浮きかけていた身体を椅子に落ち着ける。

「マリー・セレスト号?」

「ええ、あんまり愉快な響きじゃないけれど。でも人が消えたっていうなら、そこはマリー・セレスト号の船室でいいんじゃないかしら」

 幽霊船の客室か。そういえば幽霊とか妖怪についてメリーと話したことがあったっけ。確か二人で本を作ったときにメリーが見ているのは別の膜、別の宇宙という仮説を立てたことがあって、普段は互いに行き来できない世界が実は身近なところで薄く重なり合っていて、メリーの瞳にはそれが映っているのではないか――と、その時の私は結論付けたはずだ。すると消えた人間は世界の向こう側に行ってしまったと考えられる。幽霊みたいに。

「幽霊みたいに、ねえ」

 メリーは唐草模様のティーカップに入った紅茶をスプーンでかき混ぜながらそう言った。ソーサーには合成レモンの切れ端。もともとテーブルに置いてある合成角砂糖には手を付ける気がないらしい。一方、私の掌の中には黒ビールのグラスが収まっていた。いつ頼んだのか記憶がない。ただ、お酒を飲んで頭が冷静になったのか。幾分、思考が冴えてくる。

「ところで蓮子、紐の研究は順調?」

 ひも、紐――そういえばこのところ課題にかまけてそっちは疎かになっていた。でも先ほどのメリーとのやり取りで何か事件のヒントが掴めたような気がする。紐には閉じたものと開いたものがあって、開いた紐は膜に固定されてしまうが閉じて輪になった紐は膜で遮られた世界を自由にすり抜けて行き来できる。その自由に行き来できるグラビトンの性質が先ほどの幽霊、即ち消えた人たちに該当するというのなら。

「メリーの目を使えば、消えた人たちを見つけ出せるかも」

 もしかしたらの話だ。




 夜空を見上げる。星が見えた。午前四時九分一二秒、裏門前。人気のない早朝の空気が肌と肺に心地いい。課題に取り組む体を装って学生ラウンジに寝泊まりした私たちはまんまと大学構内に潜り込んでいた。

「ばれたら停学処分ね」

 あまり乗り気でないメリーに対し、そっちは停学で済むかもしれないけどこっちはそれどころじゃない、このまま異変が拡大し続けたら私のキャンパスライフは滅茶滅茶、いや今の段階でも司書と教授が消えているのだから確実に単位が足りなくなる、そうなったら進級も卒業もできない、そんなの嫌だ、世界を元に戻したい、どうしても解決しなければ、それにはメリーの境界を見る目がいると懇願――必死に説得し、そして彼女はなんだかんだ不平を述べながら私に付き合ってくれている。

「裏門前っていうけど内と外で境界を分けた場合どっちが前なのかしら」

 メリーがそんなことを言う。私は件の博麗神社を思い出していた。サークル活動の初期に見つけたあの情報によると、神社は東向きに立っている。神社とは結界の内部と外部を隔てるための目印で、広大な聖地を背にするそれは「お前たちの立っている側が外よ」と物言わず示しているに違いない。すると今の私たちが立っている場所は門の後ろということか。裏門の内側、それは後戸という究極の密室にして絶対的に閉じた世界――そこまで考えたとき、ゆうべ食べた合成ラーメンの残り香を口内に感じて反射的に手で覆う。ちなみにメリーが頼んだのは蕎麦だった。私もそっちにすればよかったかもしれない。

 結論から言ってしまえば何の収穫も得られなかった。人の一番少なくなる時間帯を選んで大学構内の様々な場所を調べたものの幽霊、即ち消えた人間の姿はメリーの目をもってしても発見できず、精神的にも肉体的にも疲労困憊した私たちはいつしか月面ツアーの話をした噴水池の近くに腰を下ろして二人で朝の光を浴びていた。あのとき宵の口に差し掛かって闇に飲まれた噴水は地面と水面の境目が消えてなくなって、月の浮かぶ漆黒の宇宙だけが私たちの足元に広がっていたのを思い出す。

「蓮子の研究によると重力子……グラビトンだっけ?が二つの世界を行き来してるんだったわね」

「そう、それが現在の超統一物理学の基礎的な見解。物体を量子化してこれ以上分離できなくなるまで小さくすると素粒子になる。いくつかある素粒子の中でもグラビトンだけは自由に界を移動できる。けど、そのためにグラビトンの形状は振動する閉じた紐でなくてはいけない。そこで私たちの構成物質も振動する紐であることが分かったけど、私たちの肉体が界を移動できないのは私たちの最少単位が開いた紐で、開いた紐の先端がこの宇宙の膜にくっついてるせいよ」

「私の頭じゃ理解が追っつかなくなってきたわ……その紐って閉じたり開いたりする?」

 片手の親指と人差し指の先端をくっつけたり離したりしながら聞いてくるメリーの何気ない質問が私の脳細胞にしみこんでいく。

「理論上は何かの拍子で開いた紐に力が加わって押し出されたり、開いた紐同士がくっついたりした瞬間に紐が閉じて界を移動してしまうことはあるかもしれない。例えば私が両手を広げても何も起きないけど、メリーが同じように手を広げて私と輪を作ったら……」

 そこまで考えたとき何とも言い知れない恐怖を覚えた。それは私たちが行っているサークル活動に他ならない。もし私たちの相互作用が宇宙の膜に干渉する行為で、ふとしたはずみでこの宇宙から弾き出されてしまったらそれは疑似的な神隠しとなる。さっきまで身近に感じていたはずの風の音さえどこか遠くで鳴り響いているように聞こえてきた。

「蓮子、そうすると消えた人たちっていうのは閉じた輪になって向こう側の世界に行ってしまったことになるわね」

「……たった一人で?」

「ええ、一人で。違う?」

 この宇宙から弾き出された人間は紐が閉じて輪となった瞬間、観測不能な存在になってしまう。物理学のあらゆる理論が停滞し哲学の領域に踏み込むようになってから、私のような研究者はそうやってずっと観測できない世界のことを頭の中で扱ってきた。言ってみればそれは机上の空論だったのだが、その想像上の物理学的現象はメリーと共に行動しているうちに実体を伴って私の現実に降りかかり影響を及ぼし始めたらしい。

「……メリーは元々一人で別の膜に行けていた。私はメリーと閉じた輪になれば夢の世界に行けるようになる。でも私だけじゃ膜の移動は不可能で、人が一人で宇宙を移動するなんて普通は無理よ。閉じた紐になる必要がある。メリーはたまたまそれができるけど」

「すると私みたいな人間が増えてきたのね」

「えっ」

 その言葉に私は思わぬ衝撃を受けて絶句していた。確かにメリーの目は特別だ。かといって彼女だけが特別だという保証は何もない。もしメリー以外の人間でも何らかの条件によって閉じた紐になることができるならそれは物理学の理論として証明できる。しかし、それを検証できる場や環境がここにはない。いや、昨今の物理学の世界では検証しようとすらしていない。今、私がメリーと一緒にやっていることさえ非公式な実験の域でしかないのだ。それでは私以外の人間が閉じた紐になどなれるものか――“私以外の誰か”がメリーと閉じた紐になる?

「う……おえっ」

 そんな想像に空っぽの吐き気が込み上げてきた。ゆうべの時よりはっきりとした生理反応。なんだ、そんなことか、と私は肉体でもって嫉妬心を自覚する。要はメリーを誰かに取られたくないだけの話だ。同時に、彼女だけが特別であってほしいという願望も。今まで意識すらしたことなかった己の狭小さに思わずひきつった笑いが浮かぶ。

「ねえ蓮子、大丈夫?」

 それを知ってか知らずか、メリーが私を心配して顔を覗き込んでくる。大丈夫だよ、メリー。とてもじゃないが、こんな本心を明かす気にはなれない。私は喉まで出かかったものを飲み込んだ。

「平気。それより、この現象の名前を思いついたわ。クラウディア・エフェクトよ」

 クラウディア、それは「囲い・閉じる・区切り・隔離する」という意味のクローズの語源ともされている――我ながらよくできた命名ではないか。




 私たちは学生ラウンジを引き払うと、今日はそのまま出席することにした。受験シーズン前の冬、実家にいた頃に級友たちと徹夜で麻雀、もとい勉強会を開いたときほどではないが、常に頭の中に電子やオールトの雲がかかっているような感覚よ、とメリーに話すと「東京にはいまだに私の知らない娯楽があるのねぇ」と半ば感心しつつ呆れていた。自慢ではないが、かつての私は国士無双の蓮子と呼ばれたものだ。

 メリーと中庭で別れ、物理学講座のある講義棟をまっすぐ目指す。教室に入って指定席と化した机に荷物を置くと、いつものように始業のチャイムが鳴ったのでバインダーを開き、取り出したノートの省電力モードが解除され――そしてやはり例の教授は来なかった。何の解決にもなっていない。胃のあたりが締め付けられる。それはそうだ、学籍をかけたゆうべの探索も空振りに終わっているのだから何も変わるはずがない。どうなっているか確かめようとノートで学校のデータベースにアクセスし、その隙に隣の顔見知りに声をかけて情報を仕入れようとした。

「ねえ、この前から自習……」

 だが私の声はそこで止まる。隣の学生、いつも私の横に座っているはずの顔見知りは今日、そこにいなかった。ノートのモニタの片隅では教員スケジュールに接続が完了したとのポップアップが表示されている。胃が締め付けられる。教授が休職届を出した様子は、ない。

 チャイムが鳴る。講義が終わる。自習という名の何も進展しない時間が終了する。私は早々に教室を出て大学構内のカフェに向かう。あれほど軽かったバインダーが今は鉛のように重い。多分、今の私の姿は無様で不格好だ。以前は片手で小脇に抱えていたそれを両手で腹部に押し当てるようにしなければもはやまともに歩けない。カフェに向かう。何とか着いた。果たしてメリーはそこにいた。私が到着しても彼女は無言で座ったままだった。でもその目は確実にこう物語っている。あら蓮子、早かったわね、どうしたの?なにかあったかしら――だから、私はテーブルの端に手を突き彼女に短くこう告げた。

「顔見知りの学生が消えたわ」

 するとメリーも椅子の背に体を預けて言う。

「奇遇ね、このカフェの店員も消えてるわよ」

 次の瞬間、鼻孔の中いっぱいに広がる刺激臭。嫌に酸いものが腹の底からこみ上げてきた私は脇目も振らずにカフェのトイレへ駆け込んでいた。

 トイレの個室で私は今朝食べたものを吐き出しながら泣いていた。鼻の奥が痛い。喉が悲鳴を上げている。恥や情緒などとっくの昔に死んでいた。未消化の合成卵サンドイッチ、合成ハムと野菜のサラダ、合成リンゴジュースの混ざり合った液体、それらがまとめて胃から押し戻され据え付けの黒い穴に流されていく。この便器はまるでブラックホールのようだ。何もかも区別なく吸い込む無慈悲な事象の地平面だ。そして私の肩と背中には後についてきたメリーの手が添えられていた。

「大丈夫……には見えないわね、蓮子」

 終わりの見えない吐き気の波に翻弄されながらメリーの手当てを受ける私にとっては、もうその手だけが自分を世界に繋ぎとめる楔だった。それすらも今日の夕方には消えているかもしれない。そう思うとまたぞろ寒気がして胃が収縮する。これは何の罰なんだろう。なんでこんな目に合うのかわからない。それすらもシシュポスを選んだ報いだというのか。

 このまま世界から人が消えていったら何が残るんだ――そう思っても何も考えることができない。私の日常が崩壊していく。少なくとも野垂れ死ぬ前に身柄はサナトリウムに送り届けられるだろう。メリーの譫妄だってここまでひどくはなかった。トリフネで傷を負ったメリーがウイルス性の感染症に罹ったと診断された時だ。どうしようもなく崩壊していく、私の日常が、足場から。際限なく落ちていく、どこまでも。目の前が真っ暗になる。

 気が付くと医務室のベッドで横にさせられていた。隔離された静謐な部屋全体に漂う消毒液の匂い、身体にかけられた綿の布団、傍らにはメリーが座っている。私の頭と肩と腕だけが身体から切り取られたように布団から出ていて、ガートル台にかけられた点滴バッグから伸びるチューブが針を介して私の静脈に突き刺さり冷たい薬液を身体に送り込んでいた。その腕が不用意に動いて針が抜けないよう、メリーがしっかりと私の手を握っている。それだけで不思議と心が落ち着いた。

「メリー、今何時」

 そう聞くとメリーは左手首を返して腕時計を確認する。

「十五時過ぎよ、何か予定はあったかしら」

「ない」

「そう、よかったわね」

「医務官の人は?」

「まだいたわ」

「明日には消えているかもしれない」

「そうかもね」

 そうメリーに肯定されても、私はもう吐き気もめまいも覚えなかった。世界に――宇宙に自分の呼吸する音だけが響いている。それに合わせてかけられた布団が上下する。実存している。生きている。

「メリーは消えたりしないよね」

 そう聞いてもメリーは首を縦に振らなかった。

「私だっていつまで傍にいられるかわからないわよ。もう気付いているでしょうけど、あなたの周囲にいる人から順に神隠しに遭遇していく。その人たちを消しているのは、きっと蓮子ね」

 そう言われると思い当たる節はいくつもあった。最初は無作為かと思ったものの、司書、教授、学生、店員と、普段の私を知っていそうな人から消えている。消えた人間はどこに行くのか。そんなことを考えていた私の目にメリーの手が被せられる。

「でもこれだけは覚えておいて。私の目のことや夢の話を真剣に、私の見た境界の切れ目の話を疑いもせずに聞いてくれたのは蓮子だけよ。だから約束して、私を一人にしないって。いい?」

 私はメリーの体温を瞼に感じながら何も言わずに頷いた。

「確か蓮子が言ってたわよね。グラビトン、閉じた紐は膜をすり抜けて自由に界を行き来できる、だったかしら?重力が拡散するというのなら、きっとその時に二つの世界の間で何か痕跡が残るはずだわ。それが境界の切れ目として私の目には見えているんじゃないかしら」

「つまり、境界の切れ目を探せば消えた人たちがそこにいる」

「あるいはそこから元の世界に戻れるかもしれないわ、私たちも」

「わかった。おやすみ、メリー」

「ええ。おやすみなさい、蓮子」

 そして私は自ら意識を手放した。




 目を覚ます。自分がどこにいるかを確認する。白い天井、薄暗い常夜灯――おそらく夜になっている。あれは星ではないので時刻は読み取れない。ベッドを取り囲むカーテンレール、やはりここは医務室だ。垂れ下がるメディカルカーテン、まるで折りたたまれたオーロラか宇宙の膜のように見える。周りを見渡すと私のすぐそばにメリーがいた。私の手を握って、ベッドの端に身を寄せて、上体を私に預けながら、揺れるような瞳でこちらを見ている。

「起きたわね、蓮子」

「おはよう、メリー」

 そう言ってメリーは身を起こし、私も彼女の仕草に倣う。点滴の針は抜かれ、代わりにガーゼが張り付けられていた。

「医務官は?」

 ベッドの上でそう聞くとメリーは淡々と答えて言う。

「消えたわ」

「今は、何時?」

 夜の構内は立ち入り禁止だ。少なくとも建物の中に無断で残っていていい理由はない。だから私は時間を聞いたのだけれど、代わりにメリーは身に着けていた腕時計を私の左手首に巻き付けた。

「どうせ時間を確かめようとしても無駄よ。だから蓮子、これはあなたが持っていて」

 そう言うとメリーは右手を私に向ける。その腕が肘まで幽霊のように薄く消えかかっていた。

「メリー」

「見えなくなっているだけで別に平気よ。腕が取れたわけじゃないんだから。でもこの宇宙の膜から私が押し出されかけているのは確か。今はまだ物を掴めるけれど、消えるのは時間の問題ね」

 その言葉で頭が冴えてくる。つまりこの宇宙は夢と現の世界に分かれかけている、あるいは微妙に重なり合った膜の向こう側に私以外の人が移行しかけている最中ということか。だんだん飲み込めてきた気がする。客観によって世界の機能を定義するのではなく、主観によって宇宙の構造を見極めねばならない。これがメリーの見ている世界――なんだ、ならば私の望んだ世界でもあるじゃない。そう思うといつしか恐怖は消えていた。

「メリー、これから私は何をすればいい?」

 貸してくれた腕時計の位置を確かめながら私は聞く。こういうことは餅は餅屋だ。

「いい?蓮子、境界の切れ目を探して。それがこの宇宙にあった物質、消えた人や物が閉じた紐となって別の膜に流れていった痕跡よ。そこを探すことで何か手掛かりが得られるわ。それが夢の世界から抜け出すためのコツでもあるの。私がいつもやっていることよ」

「任せてよ、メリー」

 そういうことなら私たちは最初から慣れている。それが結界暴きの不良オカルトサークル、秘封倶楽部の活動内容だからだ。




 この膜宇宙の時刻はよくわからない。きっと現在地も当てにできないだろう。薄暗い構内は無人の廃墟と化しており、そもそも窓の外が本当に外なのか、本物の空が空にあるのかも不明だった。だから私はメリーのナビゲートを頼ることにした。彼女の導きに従って、最後に医務官を見たというデスクの前に移動する。

「そこよ、蓮子。その位置に境界の切れ目が見える。ちょうどあなたの目の前、約五十センチ前方よ」

 私はその空間に恐る恐る右手を伸ばした。何か存在するようには見えないし、特に異常があるようにも見えない。でもわずかに手ごたえらしき重さは感じられる。そこにメリーが来て私の左側に立ち、彼女の右手がこちらの左手を確かに握った。見えてくる。メリーの視界が頭の中に流れ込んで、私の目の前に同じ像を結び始める。それは椅子に腰かけたような人の形をした光の粒、光子の集合体。これが手ごたえの正体だとすると――これは、まるで。

「五次元の配列、ホログラフィックメモリ、プレパラート……これは閉じた紐となって宇宙を移動する際に通過した重力子の軌道が二つの膜の間で疑似的に固定されてできた痕跡、量子化された存在の残す固有パラメータの残滓なんだ」

「どう?蓮子、読み取れる?」

「やってはみる」

 そうはいっても自信はなかった。こんな形で高次元へと渡った人間の痕跡――つまり幽霊の魂を観察した科学者など自分が世界初だろうから。しかも普通の人間であるはずの私が膜を超えた光子の配列を肉眼で確認できているのは、隣で手を握っているメリーが閉じた紐の性質を持っているからだ。二人一緒でなければ、この観測は成立しない。そして量子化されたデータは断片的すぎて、コードとしては破損しているに等しい状態だ。向こうの宇宙に行くにしても、向こうに跳んだ人間を連れ戻すにしても、もっと正確な座標のデータを集めなければ。

「よし。次に行ってみよう、メリー」

「ええ」

 次の調査対象として私が選んだのはカフェの店員だった。医務室に近かったというのもあるけれど、新しい痕跡の方が残されているデータ量も桁違いだろう。そう考えながらカフェに向かう途中、私の左手はずっとメリーの右手を握っていた。消えかけた方のメリーの手――だがその間にもメリーの身体が希薄化していく。カフェに到着する頃には彼女の左腕が肩の辺りまで消えかけていた。

「行こう、メリー」

「うん」

 三番目、物理学講座の入っている教室。隣の席にいた顔見知りの学生。こんな形で一方的にメリーを紹介する羽目になるとは思わなかった。終わるころにはメリーの右足が消えていた。私たちは無言で講義棟を出た。

 四番目、教授棟。あの時から様子が変わらない。窓も鍵も開けっぱなしの研究室。構内の中庭を通ってここまで来たが、外はもう外ですらなくなっていた。空は見えないし星もない。ただ灰色の雲がかかった世界、そんな世界に風は吹いていなかった。きっとここはもう冥府、死後の世界なんだろう――そう思いながら消えた教授の痕跡を探し出す。それは机の向こう側にあって、見つけたころにはメリーの上半身がなくなっていた。彼女はもう喋れなくなっていた。

「メリー、行くよ」

 五番目、大学図書館。それは教授棟の隣にある。私は泣きながらここに入った。ここに来るまでにメリーの左足も失せていた。残っているのは左手の中のわずかな感触、最初に消え始めたメリーの右手――そこだけが今の私に残された彼女の最後の断片だ。涙を袖で拭いながら受付カウンターを通ろうとしたとき、その最後の断片が消えてなくなった。

「メリー」

 振り返って彼女に呼びかけずにはいられなかった。たとえ返事がないとわかっていても。

「メリー!」

 左手を開いてみても彼女の痕跡はどこにもない。

「メリー……」

 涙で滲んだ視界の中で、左の掌に右の掌を重ね合わせる。メリーの断片はどこにもない。私一人では観測できない。おそらくここの司書が最後の手掛かりだというのに、この広い図書館でどうすればいい?そんなの――干し草の山の中から一本の針を探しだすようなものだ。最後の希望を失った私は膝から床に崩れ落ち、喉から嗚咽が漏れ出てくる。その時、私の右手が触れたのはメリーが貸してくれた腕時計だった。彼女の手で、私に巻かれた、メリーの、輪。水晶で振動する、閉じた、紐。時計に大粒の水滴が落ちては文字盤を洗っていく。

「……メリー?」

 まるで、そこに彼女がいるかのように。私の目には司書の痕跡が映っていた。

「今行くよメリー」

 だから、待っていて。今度こそ私は涙を拭って立ち上がった。




 結局、涙を止めるのには両手の袖を使っても足りなかった。でも、そのおかげで今の私は何事もなく大学図書館の前に立っている。司書の痕跡から読み取ったコードは今までのそれと合わせても復号材料として完璧と言い難い。だが今の私には一つ確実な当てがある。最後のキーとなる完全なコードがある場所。それはもはや私の力だけでも十分たどり着けるはずだった。それでも私は腕時計を頼りに歩を進める。あまり速足にならないよう、一秒ずつ。踏みしめるように、ゆっくりと。間違っても、彼女を追い抜かないように。

 そうして、私は大学構内のカフェにたどり着いた。テラス席の端から数えて――いつものテーブル。メリーの貸してくれた腕時計には水晶そのものが入ってるわけじゃない。それでも水晶は決まった周波数を出すために形を変えて時計の回路に組み込まれ、今でも時を刻んでいる。遥かな昔、時計が発明されてからずっと、変わらず。そうだ、だから私はここまで来ることができた。

「ありがとう、メリー」

 そこにいるはずだと信じて、私は言う。いつもの私たちの指定席。彼女のお気に入りの、構内の中庭を一望できる店側の椅子。その背もたれに正面から両手をかけて、私は最後のコードを読む。その頃には、この神隠しの正体が自分でもわかりかけていた。大学で行方不明になっていたのは消えた人たちなんかじゃない。私一人だったのだ、最初から。

 私が嫉妬から彼女を独占するために閉じた紐を無理やり内包しようとした結果、結界暴きのサークル機能が不調をきたしてしまったのが原因だろう。素粒子物理学で言う“強い力”と“弱い力”か――どちらか一方がバランスを欠けばそれは“弱い力”となって弾け飛び、元のモデルを維持できなくなってしまう。だからお互い同士がちょうどいい“強い力”で結びつきあうために、それぞれが原子核の大きさを揃えるように適宜調整する必要がある。それができてこそ私たちは安定稼働する観測装置として機能し、二人で境界の切れ目を見つめることができるのだ。多分、それが本当の“クラウディア・エフェクト”なんだろう。

 メリーのコードを読み終わる。目を閉じる。今まで集めたそれを合成し、完全な形に復号する。出来上がったそれを私に合うようフォーマットし、エンコード。このタスクを実行すればもう後戻りすることはできない。不可逆の相転移が起こってしまう。それでも私は約束したんだ、もう二度と「メリーを一人にはしない」って!

「私は私だ……宇佐見蓮子だ、マエリベリー・ハーン!」

 紐が、閉じた、その瞬間。私の意識はこの死んだ宇宙を飛び出して次元も結界も跳躍し、どこか山奥の古めかしい人里の上空を過ぎ去って東の端にある神社と鳥居を突き抜けた。




 私が目を開けると目の前にメリーの顔があった。およそ二十センチと離れていない。それでいて、こちらをまっすぐ見つめて微笑んでいる。そして私の両手は彼女の肩越しに椅子の背もたれを掴んでいた。カフェ中の視線が私たちに集まっているのを感じる。奇異と、好奇心と、興味本位が入り混じった――一体、自分は何をしようとしていたんだ?急いで手を放して距離を取った。テーブルの上、メリーの手元に私のバインダーが置いてある。

「やっぱり帰ってきたわね、蓮子」

「あー……」

 こういう場面だ、本来であれば何か気の利いた言葉の一つも言わねばならないだろうに、私の口からは気の抜けた返事しか出てこなかった。風が通り抜ける真昼間のカフェ、学生が行きかう構内の中庭、始業か終業のチャイムが鳴り、いつものように無為な時間が過ぎ去っていく。思わずメリーの向かい側に腰を下ろし、惰性で呼び鈴を鳴らしていた。メリーの、腕時計が巻かれたままの、左手で。

「とりあえず何か食べることにするわ」

「ふふっ」

 そうして、また課題に取り組む毎日が始まるのだ。








    『機能主義・構造主義の観点からアプローチする秘封倶楽部と「八雲紫効果」について』








 結局、紐が開いていようが閉じていようが人は変わらないらしい。つまるところメリーはメリーで私は私だし、世間的にはただの不良オカルトサークルをやっている二人組の大学生だ。何か大それたことができるわけでもないし、驚異的な膜の宇宙や本物の高次元ホログラフィックメモリを見てきたところでそれを証明する手段もない。せいぜい国士無双が得意なだけの人間だ。

「まさに“雨の中の涙のよう”ね」

「要は地道に研究を積むしかないってわけ」

「いったい何年先になるかわかったもんじゃないわ」

「だいたい再現性がゼロの時点でそんなの科学でもなんでもない……」

 大学図書館の受付前でそんな話をメリーとしながら資料の照会を待っていると、思ったより早く担当が帰ってきた。

「宇佐見さん、いらっしゃいますか」

「あ、はい。宇佐見です」

「こちら請求資料のプレパラートとなっております」

 そうやってカウンターの向こうからトレーに載せられたプレパラを差し出してくるのは今まで見たことのない司書だった。やはり担当は変わってしまったらしい。

「あのう、つかぬ事をお聞きしますけど」

「はい、なんでしょう?」

 そう答える新しい司書の雰囲気はなんだかメリーに似ている気がする。例えば、髪をもっと伸ばしてそれをアップにしたような。

「不躾ですが、以前の担当者の連絡先とかご存じありませんか?個人的なお礼を言う暇もなかったので」

「申し訳ございません、お気を悪くなさらないでいただけると嬉しいのですが……」

 そういうと相手は人好きのする、それでいてどことなく胡散臭い笑みを浮かべながら丁寧な物腰で断りを入れてきた。

「わたくし、急なヘルプで呼ばれただけのものでして。前任者については詳しいことを聞かされておりませんの」

「あ、そうですか。これは、どうも」

 そう言われてはこちらも引き下がるほかない。個人情報を盾に取られたらそれまでだ。後ろで見ていたメリーが聞いてくる。

「どうだった?」

「新任だから知らないって。でもうちの蔵書には詳しいみたい」

「あら、ほんとね。特にあの面妖な書架からわけのわからない蓮子の分野を一発で拾ってくるなんて」

 なんにせよ仕事が早いのはありがたい。受け取ったプレパラを書見台の読み取り装置に持っていこうとすると、件の司書が同僚から呼び止められていた。

「あっ、ミス・クラウド……」

「ふふ、呼びにくければクローズで構いませんわ」





    <了>



紐の話です
作者は物理学素人の文系です
AS-17
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