相変わらず、物の少ない部屋である。簡素なベッドに、衣装箪笥。窓に面して、大きくない机。どれも設えは悪くない。
ただし、貴族の屋敷のメイド長の部屋と見れば、もう少し立派でもよいのかもしれないとは思う。
調度品は、もう長いこと変わっていない。もっとも、実は収納品も大して変わっていないのだ。
そんな中でも、例外的に増え続けているものがある。
机に備え付けてある袖机の引出しを引くと、中にはノートがきれいに並べられている。
そろそろ手を打たないと溢れてしまう、そう思いつづけて未だ実行に移せていない。
まず、古いものを処分するという選択肢は真っ先に却下される。
とすれば、別に収納箇所を用意するしかないのだが、かといってこの部屋に何かを増やすようなことは極力したくないのだ。
三段になっている引出しの、一番下を開けると、同じようにノートが並べられていた。
上のものと比べると、古さが目立つ、その中の、最も奥にある一冊を開くと、埃っぽいにおいがぷんと広がる。
先頭のページには、日付とともに、遠い日の出来事が綴られていた。
『お嬢様から日記をつけるように言われ、ノートと万年筆をいただく。気まぐれだとは思うが、しばらくはやってみようと思う。万年筆をいただいたのは素直に嬉しい』
飾りっ気がないのは昔からであった。日記を書けと言ったほうも、言われたほうも、たぶんここまで続くとは思っていなかったのだろう。
とばっちりを受けたのは、このときの万年筆である。インクを換えつつ、補修しつつ、結局まだ現役を引退することができないでいるのだ。
今もまだ、ペン立て代わりのマグカップに差し入れられたまま、鈍く光を反射している。
まだまだ使ってやるぞ、と視線を投げかけると、何の因果かころんと首を背けやがった。きっと、持ち主に似たのだろう。
ぱらりぱらりとページをめくり、懐かしい思い出を浮かび上がらせる。
最初のうちは館の仕事についてなど書かれていたが、紅霧異変の後から登場人物が増え始める。
そのころには日記にも一定のスタイルが確立され、ルーティンワークについては触れられることは少なくなっていた。
唯一の例外は魔理沙に振舞われるおやつである。彼女がやってきたことは書かず、彼女に何を出したかについては書かれていた。
これは美味しいといった、あれはどうやら好みではない、あたりでとどまっているうちは微笑ましいのだが、徐々に度が過ぎてくる。
『福寿草でお茶を淹れてみたが、さすがにお嬢様でも刺激が強いらしい。魔理沙には×』
『お嬢様に出す予定だった竹の花のケーキを魔理沙に。好評。お嬢様にはありあわせで作ったのをお出ししたが、こういうのに限って褒められる。再現できそうにない』
完全に優先順位が間違っているではないか。
嘆息して、ふたたび、一枚一枚ページをめくりながら、単語を拾い読みしていく。
何せ、もう何度も読み返しているので、内容のほとんどは頭の中に入っている。
このページはあまり読まなくていい、とか、このページはどうしても手が止まる、とか。
一冊終われば、また次の。別に時間を止めたわけでもないのに、音でさえ耳に届かなくなる。
そして、まるでそうなるのが必然であったかのように、とあるページが開かれるのだ。
『珍しく美鈴に注意された』
見開き右側のページは、そんな書き出しだった。
『彼女の前で「妹様」と言ってはいけないらしい。理由、個人として扱ってほしいから。フランドール様もお嬢様だけど、紛らわしいから、妹様。でもそれは、基準がお嬢様になっていることの証でもある。一理あるので、これからフランドール様とお呼びしたい。メイドたちにも徐々に浸透させていく。いつの日か、フランドール様が普通に出歩くようになるかもしれないし、そうなればお嬢様も喜ばれるだろう』
紅魔館の住人たちは、昔から勝手にいろいろなことをする。
持ってきていたティーポットを傾け、カップに紅茶を注ぐ。ミルクを回し入れると、不格好な渦がにじんだ。
ひと吹きして、少しだけ飲む。いつまでたっても自分のために淹れる紅茶は美味しくならない。
きっと隠し味が足りないのだろう、相手のことを想う気持ちが。
美鈴あたりに淹れてもらえばよかった。そんなことを思いながらも、ページは進む。
『妹様と言いかけたので、フランドール様フランドール様と唱えていたら、お嬢様に聞かれていたらしい。不思議そうな顔をされてしまった』
日記には「フランドール様」についての記述が散見されるようになる。
いや、言い直そう。日記には「お嬢様とフランドール様」についての記述が散見されるようになるはずだから。
『お嬢様とともにフランドール様のための日傘を選ぶ。私に選ばれたばかりに、すぐ壊れるんでしょうね。そういったお嬢様に、私は何と返せばよかったのだろう。寂しげで、そして嬉しそうでもあったお嬢様に』
選ばれたうちの一本は、本当にすぐに壊れてしまった。
そのときの話を美鈴にすると、今でも申し訳なさそうな顔をする。彼女のせいでないことは、みんな知っている。
これから数十冊にわたって、まるでフランドール成長日記とでも言えばいいかのような内容が細々と続く。
魔理沙に出されていたおやつは、量が二人分になり、相変わらず相手を間違えていた。
誰のメイドだったのか、このころには忘れてしまっていたのかもしれない。
『お嬢様に、フランドール様の部屋を用意していいか聞いてみる。まだ早いとのこと。いつごろになれば、と聞く。お前の知ったことではないと言われる』
『お嬢様に、フランドール様の部屋を用意していいか聞いてみる。嫌な顔をされてしまうが、ここで引くつもりもない』
恐ろしいことに、上と下の日付には、八年の開きがあるのだった。
『今日は口を開く前に、まだだぞ、と言われた。では明日でしょうか、と返す。意地の張り合いというわけでもないのだけれど』
『パチュリー様から苦情が入る。お嬢様によれば、どうやら私は反抗期らしい。事情をお話しするとあきれられてしまった』
五百数十歳の吸血鬼からすれば、反抗期程度だったのかもしれない。
『近ごろ夢を見るようになった。私はお嬢様とフランドール様の世話をしていて、お二人にはいつも振り回されっぱなし。悪魔の館と呼ばれたのはいつのことやら、すっかり威厳もなくしてしまった様子で、残ったのは笑顔だけ。それでも私は幸せそうだった。どんなに疲れていても、お二人を優しく抱きしめるだけで何もかもを忘れることができたのだ。私は昔の、少女の姿で、だからこの夢は今の私が手に入れることはできないけれど、こんな日が来ればいいと思う。お嬢様に話してみたら、どんな顔をされるだろうか』
気がつくと、机にはノートが積まれ、紅茶は冷めきっていた。
自分のことだから結果は判っているし、そもそも何度目だろう。それでも、やはり力が入ってしまうのだ。
そして、日記に点々と綴られた物語にも終わりが訪れる。
『とうとうフランドール様の部屋が完成した。いつが潮時か、などと考えていたが、まだまだ先のことになりそう。お嬢様に、引退が伸びたな、メイド長と言われる。美鈴がメしか合ってませんよ、などと言っていたから何かの漫画から引用したのだろうか。パチュリー様には、お疲れと言われたが、これからがスタート。フランドール様の喜ぶ姿に早速癒される。この方も、本来はこれだけの無邪気な笑顔をお持ちなのだ』
ここで終わればハッピーエンド。実際には、この物語のエピローグは、まだまだ続いてゆく。
しかし、懐中時計を開いてみれば、もういい時間になりつつあった。
一区切りついたところでもあり、満足して、過去を辿る旅路から途中下車させてもらうことにする。
毎回、ここか、もう少し先あたりまでしか読み返すことはない。
まぁ、最近の日記など読んでも楽しくないのだ。
積まれたノートを片付けるとともに、一番上の引出しの、一番手前のノートを取り出す。
そっぽを向いた万年筆をくるくると回して、少し早いが今日の日記をつける。
自分がこうしていられることに思いを馳せながら、最後に「ありがとう」と記した。
だれかが何かに悲しめば、それは本当のハッピーエンドではない。
ハッピーエンドというのは、登場人物の誰もが幸せに笑って終わるもののことをいいます。
ハッピーエンドを語るなら、ちゃんとハッピーエンドとはなんたるかを吟味して使いましょう。
咲夜さんが居なくなって、本当にみんな幸せだと思っていましたか?
誰かが居ないはずの話なのに、悲しい感じはなく、暖かい感じがしました。
でも後書きを見る感じだと、レミリアは……。
確かにそんな落ち込み方をすれば二人の愛がいかにも強く、固かったように見えますが、でもそれって本当に愛?
訪れが突然なものでなく、予期し選べるものだったら(老衰とかね)。
それを選択した者の意思を理解し、共に覚悟を決め受け入れてこそ、愛ではないでしょうか。
共に居たいという己の望みだけでは単なるエゴで独り善がりの関係になってしまう。
逝き際にまで『何故』と問うか、それとも『今までありがとう』と頭を撫でるのか。
私自身は、この話がとても好きです。
それから一つ。血に染まるフランドールと言うのは二次創作。なぜなら彼女は紅霧異変まで人間に会った事はないし、たとえ人を殺したとしても、血の一滴すら残さず吹き飛ばしてしまうのですから。
咲夜さんの日記をフランがねぇ……
俺は、紅魔館の中で美鈴だけが「フランドール様」と呼んでるふうにしてるんですけど、これ読んだらやっぱり咲夜にも「フランドール様」で呼ばせたくなっちゃいましたねぇ