長い永い地球の午後も、いよいよその夜の深みに達しようとしていた。あるいは窮極の夜明け前に立ち尽くしつつあった。
太陽表面上におけるスーパーフレア発生、それに関する天文学者たちの予測は、遅くとも数百年以内の「確実な」地球滅亡についての可能性を揃って示唆していた。
具体的な事象の予測には振れ幅があったものの……甚大な熱波が地球を恒久的な焼け野原とする丙予測、フレアが完全に地球を飲み込んで灰燼に帰す乙予測、または太陽そのものが完全に崩壊し、その貯めこまれたエネルギーによって恒星系もろとも消滅する甲予測……。
いずれにせよ確かであることは、地球という青の惑星は滅亡の瀬戸際に置かれているという事実だった。
「本当に一緒に来れないの? パチェ……」
かくて、一千年の友人に涙ながら最後の訴えをされつつもパチュリー・ノーレッジは、ゆっくりと首を横に振った。
「きっと目的の星にたどり着けるよう、祈ってる」
「祈りだなんて! 私が後援しているのよ。運命の女神も蹴散らしてきっと彼岸を達成してみせるわ」
「そうでなくちゃね」
恒星系間移民船。そんなものも、この時代の「流行り」の一つとなっていた。
大結界の外においても汎アジア・ユーラシア連合、アメリカ合衆帝国、大オセアニア、イースタシア諸国政治共同体など、各政治勢力が血で血を洗う素材調達戦争を繰り広げながらも、なんとか次世代(と一部の富裕層)の命を繋ぐための揺籠を宇宙へと送り出していた。
当然幻想郷は幻想郷で打ち上げの必要があった。
そこにおいてパチュリーの保有する膨大な魔術的知識、実際に宇宙ロケットを開発した知見、それにレミリアの持つ財力と指導力……誰もがパチュリー・ノーレッジこそ移民船建造に不可欠な大役を果たした一人だと認めていたし、もちろん誰もが、パチュリー自身その船に乗る事を当然と考えていた。
だが。
「私は宇宙(そら)には行かない」
恒星系間移民船の完成も間近に迫った頃、彼女は突然にその意思を表明した。
「私には私のやるべき事があるから」
それが理由だった。厳密にはそれが理由だという事しか周囲にはわからなかった。彼女は一切の説明を拒否していた。おまけにそれは厳格な機密保持の必要性というよりは、ある種の気恥ずかしさ……少女が自分の秘密をオモチャの宝箱に隠すような……そういう気配を感じ取ったからこそ、盟友レミリア・スカーレットでさえ彼女の説得をついには諦めたのである。
「ありがとう、レミィ。この星で、あなたに出会えてよかった」
「泣かせるなよバカ! じゃあ、行ってくるから!」
「うん」
「すぐ帰ってくるよ!」
もちろん彼女たちが帰ってくる事はない。船とは名ばかりで、その実パチュリー達の作り上げたそれは原点座標を固定されない動的な結界そのものであった。幻想郷の機能をそのままコピーし、別の星に向けて打ち出していると言っても良い。それを人工的な外郭で覆って船の体裁としているだけだ。
もちろん幻想郷という入れ物じたいは地上に残る。だがそれは燭台を動かされた後に残る僅かな熱の残滓のようなものだった。炎が消える瞬間の火花のようなものだった。
もっともどうせ地球がスーパーフレアに飲まれる未来を考えれば、幻想郷の根本的な結界機能が徐々に失われてゆく事などは、比して瑣末に違いなかったが……。
さて。
その恒星系間移民船も今や無事に重力から自由となって久しかった。かつて幻想郷にひしめいていたたくさんの不埒なる者たちと共に。
他方、残された地上はすっきりしたものだった。
紅魔館もまた数千年ぶりの穏やかな静けさに包まれていた。
当主は既に永遠の旅路へと向かった。残されたパチュリーが実質的に当主と言えなくもないが、それを気にする者も今や残ってはいなかった。
「やっと行ったか」
静謐で黴臭い空気の垂れこめる図書館の椅子に深く身を沈ませながら、彼女はゆっくりと息を吐き出して人心地つく。何もかもが終わった。否、彼女にとってはようやく始められる時が来ていた。折しもそこにノックの音が重なった。
背もたれに細い体重を預けきったまま、魔女が指先を振るう。と、大図書館の大扉が音を立てて開かれる。
「お疲れ様でした、ノーレッジさん。打ち上げにいらっしゃらないから探しましたよ」
「打ち上げの打ち上げなんてバカバカしいもんに参加する気はない。どうせ、昔に酒を飲み交わした連中はみな死ぬか宇宙にあがってしまったわ」
「そうです、あなたがそれを成し遂げたのでしょう」
「どうだか。頭の良い連中は他にも大勢参加していたでしょ。こっちは日に日に自信が無くなってく思いだったわ」
「謙遜ですね」
「今やどちらでもいいわ……その連中だって殆どはもう、二度と会うこともないのだから」
「彼女たちは今後の航海に必要ですからね。本当はあなただって必要だったんじゃないですか。随分と引き止められたんじゃないですか」
「だから私はそう大した存在じゃあない。必要なものは全て積み込んだ。それよりあんたこそ……本当に良かったの? こんな魔女の余暇に、余生に付き合う選択をして。幻想郷の記録を残し続けることがあんたの使命だと思っていたけれど。ねえ、稗田阿百(アモ)……」
ええ、と。
図書館への来訪者はにこり微笑み、パチュリーの対面に腰掛けた。
「幻想郷はここです。であれば、私の仕事場も相変わらずにここなのです。稗田の出る幕ではもはやありません。あなたに引き止められるまでもなく私は最初からあの舟には乗らないつもりでしたから」
阿百は、その名の通りに稗田家の当代当主であり、幻想郷の記録を担い続けた御阿礼の子の末裔でもある。もっともパチュリーの記憶する限り、実際に阿礼から百代目ではなかったはずだ。
阿百はスーパーフレアによる地球滅亡予言が託宣されてから転生した娘。
一区切り、ということなのだろう。誰が名付けたのかは知らないが。ひょっとすると阿百自身かもしれないが。
パチュリーは少しだけ身を起こして頷いた。その視界の中で、阿百が悪戯っぽく白い歯を見せる。
「それに恒星系間の移動はまた数千年、ともすると数万年もかかるのでしょ。嫌ですよ、そんなにながなが記録を残し続けるなんて」
「もっともだわね」
「だいたい幻想郷縁起だって、まさかご先祖様方、こんなにも長続きするなんて思ってなかったんじゃないかしら。ほんの数代の、限りのあるお勤めだと思ってたかもしれないし。私たちは別に永遠の咎を受けるような罪は犯してないんですからね」
「消えぬ記録を残したい……と思う。それはもしかしたら罪のようなものかもしれないけど」
「不老不死のあなた方にとってはそうでしょうが、人間が記録を残すのは概ね実利的な動機ですよ。つまり半分は利他的な行動のつもりです」
「種としてはね。もう半分、個人としてはその限りじゃない」
「まあね」
パチュリーがまた指先で虚空をなぞると、どこからかお茶とお茶菓子がふわふわと飛んできては阿百の前に整列した。
そのカップを手に取った阿百の目が見開かれる。
「いい香り……」
「この頃は嗜好品の調達には困らなくなった。賢者達が結界の自動集積機能を残していってくれて良かったわ」
「外の世界はどうなっているのでしょう」
「だいたいは予想通りの事が起きているでしょうね」
「滅亡を目前にしてなお、相争う?」
「或いはもう既成の文化水準を維持できないレベルにまで文明が後退してしまったか」
「あまり興味がなさそうな口ぶりですね」
「そうかな。かもしれないわね。元々は私だってあっちに暮らしていたはずなのに、あっちで過ごした年月よりこっちで過ごした分がはるかに多くなってしまった。そうね、つまり歳は取りたくないってことかな」
その口ぶりがあまりに気兼ねなかったがため、阿百は苦笑せざるを得なかった。
実際、御阿礼の子らは幻想郷の記録という仕事のために転生したり労働したりしてなんとかかんとか今日まで系譜を繋いできたのである。それは別に……人の身でなければ叶わぬ仕事というわけでもなかった。パチュリーのような知識と長寿を保つ人外の存在に委託する道だってあったのだろう。
けれども、そうはならなかった。人のための記録は人が残すと決めたのだ。
それを決めたのは阿百のご先祖様達だ。彼女の前世であり、時折彼ら彼女らの記憶がデジャヴュめいて蘇る事もあるが、それでも阿百は阿百でしかない。過去の決定に対し何かしら選択できたわけではないし、翻って責任もない。つまるところ今を生きる人間として彼女にはただ過去を受け入れ、未来を見据える以外の事はできない。
もっとも、仮にその選択ができる立場にあったとして阿百は、先人達と同じ道を選んだだろうと確信していたが。
「ところでノーレッジさん」
「その呼び方やめてってば。パチュリーでいいのよ」
「……パチュリーさん、そろそろ教えてくださいませんか? 私に声をかけてくれた理由。あなたが地球に残った理由ともちろん関係あるんでしょう?」
「そうだね。うるさいのもようやく追い払ったしね。まったく、間に合って良かった」
パチュリーはどこか満足げに瞳を細め、カップをソーサーへと戻す。それから稗田阿百に向け、ゆっくりと、震える声音を抑えるような調子でもって、彼女の秘してきた「野望」を語り始めた。
◯
「よお、稗田の嬢ちゃんじゃないか」
もしも幻想郷・人間の郷に一千年前からタイムスリップして来た者があったとして、おそらくその者は、自分がそんなに長い時を超えてきたとは到底思わないだろう。
この郷は時の止まった世界。変化はあるが、進歩は遂に最後まで許容されなかった。
ただ随分と人気が減った事には気がつくかもしれないが。
「あ、妹紅さん……そういえば残ったんでしたっけ、あなたも」
「どうせ死なないからねえ。世界の終わりってやつを眺めてくのも悪くないさ」
それはそうだがしかし、地球が滅んだ後に太陽系からどうやって離脱するつもりなのだろう? それとも永遠に宇宙の闇の中を彷徨い続けるつもりなのか?
阿百には恐ろしくてとても聞く気にはなれなかった。代わりに自分の仕事について話す事で何となく間を埋めようと思った。
「良ければ手伝ってくれませんか。人手も残っていませんから、困ってたんですよ」
人間の郷の住人達は皆、移民船に乗って宇宙に上がってしまった。拒否権は無かった。当然、幻想郷というシステムに彼らは必要不可欠なのだから。
もっとも人々は自分らが故郷から離脱した事にも気が付かなかっただろう。移民船は方舟であると同時に幻想郷のコピーのようなものでもある。運用思想は何一つ変わっていないのだ。彼らは何も知らないまま今も、宇宙を征く閉ざされた結界の中、変わらぬ日常を営んでいる事だろう。
「引っ越しでもしてんのかい」
「引っ越しをしなかったんですよ。でも、生きてる限り何かはしていないと」
「そりゃそうだ」
「本を運ぶんです。紅魔館に。まあ引っ越しみたいなものですね。この屋敷ももう私一人では維持できないし。館で面倒を見てくれるってパチュリーさんとは事前に話してたんですけど、どうせこんな空っぽの郷に残っていても仕方ないわ」
「紅魔館? へえ。あそこも無人になったと思ってたけどな」
「今はパチュリーさんが家主です」
「それじゃ紫魔館だね」
何とも反応しがたい洒落に応える代わり、やっぱり阿百は抱えていた本の束を差し出して間を埋める事にした。
が、妹紅は差し出された分を受け取らず、つかつかと奥の山に歩み寄ると、自分の身長くらいの本の山をひょいと担ぎ上げては、にこり微笑んで尋ね返す。
「で? あすこの図書館に持ってけばいいのかい?」
何だかもう疲れてしまった阿百は首肯いて自分の抱えていた分を押し付けると、
「残りも全部お願いしちゃっていいですか?」
正直に頼み込んでみた。実際、妹紅は二つ返事でそれを了承した。
こうして無名無形の奇妙なプロジェクトに参加者がまた一人増える事となった。
「構わないわ」
パチュリーもそれを了承した。別に彼女が拒絶するとも思ってなかったが、それでも阿百はひとまず胸を撫で下ろした。
「実際、労働力は必要だったし。あなたが選んでくれなかったら、こっちから誰か見繕うつもりだった」
図書の運搬を妹紅に任せて阿百は一足先に紅魔館(または紫魔館)へと戻ってきていたのである(もっともその間に妹紅は五往復はしていたので、事の次第はとっくにパチュリーに伝わっていた)。
そして阿百の前には、この間とは違う紅茶とお茶菓子が既に並んでいる。美しい磁器のカップから白い湯気の立ちあがるのを彼女は、ぼんやりと眺めていた。
その美しき時もまた永遠の一部であった。フラクタルに円を描き揺らめいていく湯気のシルエットは、同時に一つとして同じ姿を見せる事はない。
「どうしたの? 阿百……あの蓬莱人の事はよく知っているから問題ないわよ、本当に」
「ああいえ、ただ……途方もないなあと」
「途方もない?」
「あなたの野望の事です。協力しておいて何ですが」
「野望ねえ。私としては計画(プロジェクト)のつもりなのだけど」
「同じですよ」
「まあね。野望があり、そこに計画が芽生える」
「けれども浪漫は理解できてるつもりです」
浪漫。実際それは浪漫以外のものでは無かった。つまり、実利とは極北の所にあるプロジェクトであった。
ちょうどそこに幾度目かの往復を終えて妹紅が降り立った。「これで全部だよ」と告げる妹紅へ向け、パチュリーが座るよう促した。
「全部ではない。まだまだやる事はある」
「もしかしてこれ以上は正式な雇用契約を結んだ方がいいかな?」
「今さら契約書を作るつもりはないけど、あなたにも説明をしておいた方がいいでしょうね。それに賛同できないのなら抜けてもらって構わない」
「散々こき使ってからよく言うよ」
ぶつくさ言いながらも妹紅が席に着くと、やはり紅茶と茶菓子がふわふわと運ばれてきた。「緑茶の方が良かったな」という彼女の要望は無視され、パチュリーが厳かに口を開く。
「まあね、一言で言うなら、これは文化の終活よ」
「全くわからん」
「一言で表したからとてそれで全て理解しろとは言わないわ。ちゃんと仔細は説明するから」
「それくらいはわかる」
「ああそう……」
「ただ私にゃ終活って概念がまず縁遠くはあるね」
「そうね……個人的に蓬莱人という存在には大いに興味があったのだけど。あなた達は不滅であっても不死では無いのではなくて? その認識があるからあなたも不死鳥のモティーフを取っているのでしょう? 死と再生の円環を飛び続ける……」
「パチュリーさん、脱線してますよ、脱線」
「……けほっ。とにかく我々は滅び去る運命の中にある。それくらいは理解してるでしょう」
「それから逃れるためにあの大層なものを飛ばしたんじゃないのかい」
「そう。確かにね。幻想郷からも、おそらくは結界の外の人間達も、その種と自分らの生命を保全する為に取れるもの何でも詰め込んで、急ぎ宇宙へ船を上げた。どこかの地球型惑星を目指して、あるいは無限の漂流そのものを目的として」
「ご苦労なこった」
「でもそれは、究極的には二点間の移動に過ぎない。どこまで行けるのか、いつまで保つのかもわからない。わかる?」
「不安定だ、と言いたいわけかな」
「そうよ」
「生きているとも死んでいるとも言い難い。生きられるとも死んでしまうとも言い難い。つまりはそう言いたいわけだな。そういう不安定さ。煮え切らなさ。中途半端さがあると」
「正直あなた、最初からわかってたんでしょう……」
「何のことやら」
けほっ、とまたパチュリーが「咳」払いを一つして、彼女は背後を指で示した。つまり、大図書館の蔵書達を。
「私は彼らを愛している」
「ふむ」
「物語を、神話を、技術書を、百科事典を、法典を、歴史書を、日記を、楽譜を、風説本を、エッセイを、それ以外のありとあらゆる書物たちを愛している。そして彼らは……滅びの危機に瀕してもいる」
「人類もだろ?」
「人間は嫌いだね。でも、本は好きだわ」
「そりゃあ結構な話だ」
妹紅は剽軽げに肩をすくめながらも、何のかんのと言いながらすっかり茶菓子を平らげて紅茶を喉奥に流し込み終えた。「おかわりは?」という問いかけにはしかし、ゆっくりと首を横に振った。
「それで?」
「滅びから書物を救わなくては」
「どうやって?」
「それを、これから考えるのよ」
それが結論、というか、話の幹のようだった。妹紅は口を閉ざしたまま阿百の方を見やった。その阿百が真顔で首肯いたので、妹紅はため息を吐き出すより仕方がなかったらしい。
「まーーね、どうせ私は力仕事担当だよな。そういう難しいことは頭の良さそうなお二人が考えたらいいんじゃないかな」
それもまた一つの結論であった。
ともあれここに三名の同志が集っていた。もっとも計画の具体的なヴィジョンは未だパチュリー・ノーレッジの頭の中にしか存在していない。それでも稗田阿百はすでに、自分が御阿礼の子の末代として生まれた意味をこの奇妙な計画に重ね始めていた。藤原妹紅は特に何も考えていなかった。ただ、この喘息の魔女と脆弱な娘子の前では煙草が吸えないなと、ぼんやり思った。
◯
問題は滅亡の強度だった。
阿百は紅魔館の柔らかなベッドに寝転がりながら赤い天井を見つめていた。
「ベッドメイクは魔法で自動化してるけど、やっぱり昔ほど綺麗にならないわね」
部屋に案内された折はパチュリーからそう聞いていたが、稗田邸の洋風寝室に勝るとも劣らない快適な空間だ。あるいはもっと別の心があったのか?
パチュリー・ノーレッジという魔女について、阿百はもちろん知っている。彼女の名は間をおきつつも縁起に繰り返し登場する。特に歴代でも「黄金期」と称される九代目阿礼乙女の記した縁起の中では……そういえば九代目の記した縁起にはこの館に勤める凄腕のハウスキーピストの存在が記録されていた。先のパチュリーの影のある口ぶりと何か関係があるのだろうか?
いや、と阿百は余計な考えを追い出す。
残された時間は多く無い。太陽のスーパーフレアがいつ生じるのか、その予測には数百年規模の振れ幅がある。だが天文学的単位における数百年などほとんど「今すぐに起きても何ら不思議ではない。故にこれ以上予測の幅を縮めることは出来ない」という意味だった。
そう、故にこそ問題は滅亡の強度なのだ。
最小の予測ではスーパーフレアの規模は一般的なそれの数万倍から数千万倍とされる。であるならば、熱と放射線が地球上の生命を灼きつくす「程度」で済むだろう。
しかし最悪の予測を参考にすれば、フレアの異常活動を引き金にして太陽そのものが崩壊……すなわち太陽系そのものが滅び去る未来が待っていると。
(書物を救う……書物を救う、ねぇ……)
阿百はここ数日の彼女との議論(というよりパチュリーからの一方的な説明)を順繰りに思い返していく。幸い御阿礼の末裔である彼女にとって、いちいち講義ノートを見返す必要は無かったから。
「最も単純な手はね、大量の複製を銀河中にばら撒くことよ」
「じゃそれでいいじゃん」
茶々を入れるのは妹紅だった。
講義ノートとの違いとして、阿百の記憶は都合の良い部分だけ切り取って思い返すというのが難しい。御阿礼の子らにとって記憶とは束の間の現実を魂に写し取ることだった。仕方なく同席者の妹紅の存在を許容して、記憶のフィルムを先へ進める。
「単純な分、問題も多い。そもそも膨大な書物の全てを複製する時点でコストがかかりすぎる。それらを宇宙空間に向けて打ち出すエネルギーも確保しないと。そもそも打ち出したところで無事にどこか別の環境に辿り着くのか。辿り着いたとして、皮や紙の素材が過酷な星の環境に耐え切れるとも思えない」
「ようするに気に食わないってことか」
「まあそうね」
「だったら最初から省略してくれたらいいのに」
「人を集めて仕事をするメリットの一つは、自分だけじゃ思いもよらぬアイデアや視点が得られるから。阿百、気になることがあれば気兼ねなく言って欲しい」
「わかってます」
「おい私には?」
「そもそもの問題として、膨大な書物の物理的な複製を取るのは限界がある。私はこの世の全ての本を集めたわけじゃ無いけれど、この一千年と少し、価値があると思えるものは手を尽くしてここにしまい込んだつもりだから。つまるところこの図書館そのものを複製するに等しい」
「私も物理的なコピーは非現実的に思えますね。外の世界の技術には膨大な書物を電子データに変換して一枚のチップに格納する、というものがあるそうですがそれなら?」
「電子書籍ね。もちろんアイディアの一つではある」
「何か問題があるって口ぶりですね」
「ええ……まず単純に記憶媒体に格納しても、それを再生するハードウェアが無いわ」
「んじゃそれも一緒に飛ばせばいいじゃん」
「電子機器は外部からのエネルギー補給が不可欠。ハードウェアが電池切れになったら記憶媒体に意味なんてない」
「魔法で代替できないのでしょうか」
「わからない。正直に言えばね。魔法は万能の物理学的現象じゃない。目に見えない力の流れ、名付けられざるこの世の神秘、例えば五行、竜脈、マナ、エテル、そういうものから望む結果を引き出す暗黙の知恵に過ぎないから。それが別の惑星、もしかしたら別の文明、そういう場所で正しく機能する保証はない。私が直接メンテできるならともかく」
「ていうかさぁ、仮に電子書籍ってのが無事に送り出されたとしても、仮に魔法の電池がうまく機能したとしても、それって何の意味があるんだい?」
「……痛いところを突くじゃない」
「根本的な問題ですね」
パチュリーらの目指しているもの。それは「書物の救済」。だがここに根本的な問題がある。
救う相手が人間であれば、当座の生存と人口の維持が期待できる環境、それと幾ばくかの希望、そんなところだ。少なくとも彼らはそれを望む。
だが書物らは何をもって救済され得るのだろう。
もちろん彼らは言葉を持たない。いや、言葉そのものなのだ。それを救済するという発想そのものがエゴである。そんなことは阿百だってわかっている。当然パチュリーもわかっている。わからないのはそのエゴをどうやって満たすことができるのか、だ。その意味で阿百は持てる知識の多寡に関わらずパチュリーと純粋に対等でもあった。だからこそ阿百は、残る時間をこの魔女の夢と同席させることを選んだのだった。
「私は、この星に生じた書物という偉大なる文化がただ失われていくのを見過ごせないだけなのよ」
「本は何を持って本と言えるのか、でしょう」
「そう。本はただの記録媒体ではない。誰かがそれを、そこに秘められた神秘を解き明かすことができて初めて本と呼べるのでしょう」
「私にゃどっちでもいいね」
「さっきはあなた、ただの記録媒体を飛ばすことに意味がないって言ったじゃない」
「無意味とは言ってないじゃん。ただどんな意味があるか聞いただけさ。深読みしてああだこうだ考えてんのはそっち」
「ああそう……」
それにしても妹紅という人間は不思議だった。阿百はもちろん藤原妹紅が何者なのかよく知っている。竹林に棲む不老不死の蓬莱人。だが縁起にはその妖怪のパーソナルな性格まではあまり残されていない(例外がやはり九代目だった。彼女ほど幻想郷の人妖たち個人と関わりを持った御阿礼の子は無かった)。
なんだか陽炎のような人だな、と阿百は思った。もし彼女が幻想郷縁起を記す機会があったならそのように附記したかもしれない。だが阿百はおそらく縁起を書き残さない最初で最後の阿礼の子である。もはやそれを読む者さえ残らないそんなものを書くのは、あまりに虚しかったから。
「……ふぅ。今日はここで中断しましょう。創造的な仕事には適度な息抜きも必要だわ」
その後も長い話し合いを経たがついに(あるいは当然の如く)結論は出なかった。そんなことを毎日ずっと繰り返していた。
阿百は追憶から目覚め、現実の天井に視線を結び直しながら、またぼんやりと考える。
なによりまず問題なのは滅亡の強度だ。それによって取り得る選択肢は大いに変わる。地球が残るのか残らないのか、太陽系が残るのか残らないのか……。
だがそんな考えも実のところは更なる本質から目を逸らすための逃避だと、阿百は薄々気がつきつつあった。
確かに「取り得る」選択肢の幅を明確にする作業には少なくとも意義がある。とは言えだ。例え一万通りの方法を百通りに絞れたとして、あるいはそれを十通りにできたとしても……。
「果てしないなぁ……」
仮に二択に剪定できても尚やはり、そこで道が切れている。結局はエゴの名のもとに独善的な決断を「えいや」で下す以外に無い、と……そういう可能性もある。むしろその可能性の方がずっと高い。
そうなのかもしれない。そうではないのかもしれない。
ただ一つ間違いのないことは、あのパチュリー・ノーレッジという魔女が、こんな初歩的な問題を予測してないはずがないということである。
それを承知でこの惑星に残ったのか。この滅びゆく方舟に。それは遠回しな心中だったのではないか。
本との、自分の蒐集してきたものたちとの。
それは真実のような気もしたし、まったくの的外れな感じもした。少なくともこの図書館の蔵書は有限であり、それをなんとか方舟に積み込むことも不可能ではなかったはずだ。というよりあの方舟に積み込まれた雌雄一対にも満たない唯我なる種たちの手を借りれば(そもそもパチュリー自身がそれである)いくらでも手はあったろうに。
いやそもそも抜け目ないこの魔女のこと、そうした策は打っているのかもしれない。なにせパチュリーは方舟の建設に根幹から関わっていたのだ。蔵書のコピーを詰め込むくらいの権利は当然に持っていたはずだ。それでも尚足りない、そういう判断があったからこそ、彼女は。
(確かに、へその緒から離れた胎児がもはや誰でもない新たな命となるように、この惑星から脱した方舟はもはや人類とも我ら歴史とも切り離された種族なのかもしれない。そうだとしたら、その船倉に魂を預けることは、全くの異界の者たちに宝を引き渡す事になるのではないかしら……そうだとしたら……でもそうだとしたら)
自らの選択に常に万感の納得をもって当たれる者は幸いだ。多くの人は「なんとなく」「とりあえず」の当座的判断を積み重ねてそれをするより他にない。
全知全能の神でもなければ。
気がつけば阿百は眠りに落ちていた。
体はさして疲れてもいないが、脳みそはくたびれきっていた。夢すら見ない泥のような眠りであった。
◯
「また少し乗せていってくれませんか」
パチュリー・ノーレッジがかなる奇妙な終活倶楽部を発足してから、気がつけば一月以上が過ぎていた。それが滅亡という具体的な期限日に対して「随分と近づいた」のか、あるいは相変わらずであるのからわからない。
それでも確かなことが二つ。
一つ目は、このままでは世界が滅びるまで結論など出そうに無いということ。
二つ目は、この藤原妹紅という人を阿百は結構好きになってきたということだ。
「私は遊覧飛行船じゃ無いんだけどね」
「この館にいると考えが凝り固まるんです」
「それはわかる」
妹紅は最初に自分でそう宣言した通り、パチュリーと阿百の具体的な討論には一切関与してはこなかった。ではしかし完全に参加を放棄しているかというと、またそうでもない。
阿百らが喧々諤々やってる横でソファに寝そべったまま漫画を読んだり絵本を読んだり歴史書や学術書を読んだり、あるいはわけのわからぬイラスト大図鑑を読んだりこそしているが、少なくとも阿百の気がついた限りでは妹紅は、うたた寝に興じたり議論を離れて図書館から出ていくといった素振りは一度も見せていない。
この人はぜんぶ聞いているのだ。
阿百は妹紅が議論に参加してくれればいいのにと思っていた。が、それを要求しても大方のらりくらり躱されるのがオチだろうともわかっている。
それで、と言うほどでもないが、妹紅を散歩(または遊覧飛行)に誘うのは阿百の日々に新しい瑞々しさを与えていた。
「それでお嬢さん、今日はどちらまで?」
「別にどこでも……」
ひょいと妹紅に背負われて、ふわりと空へ舞い上がる。みるみる地面が離れていく。けれどもいくら重力から自由になろうとも、星の運命から逃れることはできない。
「こんな風に稗田の当主が……いくらあなたが人間だとしても……神隠しのように舞い上がっているのを誰かに見られたら、一昔前なら、大変なことになってたわ」
「そうかな。昔から稗田の家の周りには人外の影が絶えなかった。みんな薄々勘付いてたんじゃないかね。でもそれが……まあいいや。どうせ人郷の人間たちもほとんど消えちまったんだろう」
「ええ。彼らの中に一人でも己の運命に気がついた者がいるのかな。自分たちこそ人類史上最大規模の神隠しにあったんだと」
「賢者たちは人に拒否権を与えなかったんだな」
「前と同じですよ。幻想郷が結界の内側に引きこもった時と同じ」
「そぉだね」
眼下に幻想郷の緑が鮮やかにかすむ。上空の冷たい風が頬にあたる。妹紅の妖気がキャノピめいてその被害のほとんどを食い止めてくれてはいるが、もしそれがなければ、生身の阿百はたちまち凍りついてしまう過酷な環境。
人類は地球の滅亡など待たずとも呆気なく死ぬものだ。今、妹紅の背から飛び降りてみたらそれだけで阿百は死ぬ。もっとも妹紅であれば即座に追い抜いては抱きかかえてくれるかもしれない。が、その意を汲んで落ちるがままにしておくかもしれない。
「変だと思いますか。そんな中で私が、本物の郷に残ったこと」
「どうやって拒否権を通したかは気になるね」
「別に……そもそも我々は、稗田の家は、幻想郷の維持において特に必須な存在ではないですから。縁起は良くも悪くも妖怪という未知を明らかにするものだし。むしろ先代の中には人外から恨まれて、殺されそうになった人も多いんじゃないかしら」
「そんなのもいたよ。私も多くを見たわけじゃないが」
「ですよねえ」
「それでも何だかんだ皆、生きることを受け入れてるみたいだったが。そういう意味で言えば確かにおまえさんは、一番枯れてるように見えるね」
「……それはそうでしょうよ。私は滅びの託宣が降ってから産まれた世代なんです。私と博麗の巫女を別にすれば郷の子らはその真実を知らされていないけれど、たぶん外の世界の子どもたちは、多かれ少なかれきっと同じような思考パターンをしているでしょう」
「厭世的で自嘲的?」
「そう、加えてきっと……何かを残したくてたまらない」
「阿百が舟に乗らなかったのは、残すのに嫌気がさしたからじゃないのかい」
その通りだ。パチュリーにも、博麗の巫女や妖怪の賢者たちにも同じようなことを伝えてはいた。
しかしそれは……もちろん熟慮の末の決断ではあった……が、熟慮したからどうだと言うのか? 阿百は百とは言わずとも十数代の御先祖様方の遺志を受けて産まれたった。他のどんな生命とてそうだ。生命の連続は、遺伝子を乗せた果てしのないレースは、ただ一度も途絶えることなく今に至った者だけが走り続けることを許される。
そのバトンを途中で放棄すること。そんな決断をする資格がある者などいるのか? そもそもそんな資格などありようはずもないではないか?
……妹紅の言葉はいつも阿百とパチュリーとに、こうして無言の思考を迫ってくる。けれど嫌味や悪意もまた無かった。だから問い詰められていながらも阿百にはそれが心地よかった。
「やっぱり妹紅さんも議論に参加してくださいよ。あなたは必要な人材だわ!」
「いやだなあ」
「どうして!」
「おまえさんらは書物を残そうと努力してる」
「ええ、まあ」
「でも」
「でも……?」
「私より長く残るものなんてないんだもん」
それはその通りだった。どうしようもなくその通りだった。
パチュリーは書物……おそらくそういうもの……を残そうとしている。阿百がそこにシンパシーを感じたのはやはり稗田の血のためなのかもしれない。結局のところ阿百たちは幻想郷縁起という書物を残すという至上目的を抱いたまま連綿その系譜を連ねてきたのだから。ある意味で御阿礼の子らのやってきたことはそのままパチュリーのやろうとしている事の一つのモデルケースでさえあった。
もちろん滅びの前に一人で舟を降りた阿百が暇を持て余していたから、と言う事情もあった。
それに阿百自身、本は好きだ。稗田の邸宅には本が山のようにある。幻想郷内のもの、外のもの含め。そしてそこにはまだ滅びのにおいが染み付いてはいない……。
「私たちのしていること、無駄な努力だと思いますか」
「無駄じゃないものなんてあんまりないもんさ」
「そりゃあそうですけど」
「それでもやりたいと思うんならやった方がいいだろうね。確かに私は死なないよ。でもそれはこの世界の全部の可能性を享受できるってこととは全然違うんだから。その意味じゃ、おんなじじゃないか?」
「だったら手伝ってくださいよ」
「それはいやだって」
「でも」
「それより終点ですよ、お客さん」
「……館に戻ってきただけじゃないですか」
「どこでもいいって言ったろ」
実際、その通りではあった。
◯
なんとはなしに阿百は自分が夢を見てると気がついた。何せ先ほどから上も下もなく、右も左もない。その割には浮遊感や酩酊感も無い。
そうこうしているうち、ぼんやりと視界に色が滲み始める。まるで水の中に絵の具を落としたみたいに徐々に、無秩序に、けれど急速に。
(これは)
それはどこかの風景だった。何かの建物だった。語らい合う誰かの後ろ姿だった。豪勢な料理だった。死んだ娘の骸だった。盃に映り込む満月だった。働く女中の横顔だった。覆い被さる男の険しい形相だった。流れてゆく小川だった。薄暗がりの天井だった。満開の桜だった。どこまでも続くあぜ道だった。空を飛ぶ鴉の影だった。緑の揺れる田畑だった。開いた書物の一頁だった。傾いた地蔵だった。靴箱の中だった。こちらを見つめる鹿だった。病床に伏す誰かだった。刃の切先のきらめきだった。深い霧の中だった。土に半ば埋まったかすがいだった。本を抱えた丸眼鏡の少女の笑うさまだった。流星の降る夜だった。描きかけの絵画だった。湯気の立つ湯呑みだった。鏡に映った少年の姿だった。己の吐瀉物だった。宝箱に押し込められた色のついた石ころたちだった。噛みつき合う闘犬だった。川の字に敷かれた布団だった。しめ縄を巻かれた巨木だった。湖だった。氷菓だった。何だかよくわからぬものだった。腐った果実だった。日蝕だった。誰かの右腕が切り飛ばされる血飛沫の赤だった。波たつ船縁の先だった。放置された釣竿だった。一匹の芋虫だった。ただの無間の黒だった。そこに一条の火花が走って消えた。
(記憶か)
阿百の記憶ではない。誰かの一生涯を映した活動写真の一コマ一コマをバラバラにし、ぐしゃぐしゃに並べ直してから再びスクリーンに投影したかのよう。
けれども阿百は識っていた。実際にはそれら記憶のフラグメンツが誰か一人のものではないと。
自らの魂に刻まれた歴代御阿礼の子らの記憶。フラッシュバック。
だが阿百はただ代わる代わる現れては消えていく束の間の光景達を眺めることしかできず、中には音だけの記憶、においだけの記憶、触感だけの記憶、痛みだけの記憶なんかも混じっていたから、それぞれの記憶が持つ意味なんて分かりようもなかった。
それもご先祖様の誰かにとっては重要な記憶だったのかもしれない。あるいはなんて事のない日常の記憶だったのかもしれない。
それでも阿百には、なぜだか彼女には、つんと胸をついて来る衝動があった。きっとそれは沢山の誰かの記憶の奔流のために生じてくるものだ。
(意味なんてない。もはや永遠に失われてしまった誰かの記憶の物語だ)
それらは不可逆に圧縮されてしまった人生というひとつづりの書物の破片達だった。が、たとえその圧縮方式が可逆でなかったとしても、そこに押し込められて純化された情報の……感情の煌めきは、確かに阿百という一つの統合された観測者によって読み取られ、読み解かれ、そこから「欠落できなかった」ものたちの余韻を伝えようとする。
それが何かはわからない。阿百はどちらかといえば言葉に達者な方であるという自負はあったが、それでもこれだけの量の誰かの経験情報を素早くラベリングして言語化することなど事実上不可能である。
それでも胸を打つものはある。
(意味なんてない……でも、意味なんて何の意味があるの?)
無論それは秩序だった連続性からは超越した刹那の幻のような火花である。だがその火花から読み取れることもある。少なくとも阿百は何かを読み取っていた。それが全てであった。
読み手は書き手の事情など汲まぬものだから。
◯
(……んあ)
藤原妹紅がある朝に目を覚ますと、世界が滅んでしまっていた。
だからつまり寝て起きたのではなく、寝てる最中に世界が滅びて、妹紅はようやく再生を終えたようだった。
(あーあ)
もっとも朝という表現も正しくはなかった。まずもって妹紅は闇の中で目を覚ました。それも仕方のないことである。青空は大気の生み出す幻の色だ。そして暗黒の中に白く輝くものがある。
太陽である。
他には何も見当たらない。
それもまた当然だった。一般的な太陽フレアは一千万度を超える。そしてこの度地球を焼き払ったのはその数億倍規模の異常なフレア活動である(注・あくまで爆発規模の比較倍率であり、温度が数億倍であったわけではない)。要するに地球まるごとが巨大な水素爆弾の直撃を受けたようなものだった。大陸や海などはもちろん、その下に存在するマントル層や岩石核までもが一瞬のうちにプラズマ化し、ついで襲いかかった太陽風によって宇宙の彼方まで吹き飛ばされたにちがいなかった。
妹紅が同じ運命を辿らなかったのはフレアに飲まれた際に物理的な存在としては完全にゼロになっていたからであろう。故に太陽風に飲まれることもなかった。そして蓬莱の薬の呪いは妹紅が最後に「在った」座標上に彼女を再構築したようである。
(惜しかったなあ)
もちろん地球が失われてしまったことも惜しい。美しい日の出、黄昏、風に揺れる竹林のざわめき、川のせせらぐ音、おいしいご飯、酒、煙草、人肌のあたたかさとやわらかさ……そういうものの何もかもがもう二度と手に入らなくなってしまった。
今や妹紅を取り巻く無限の宇宙は広大で寂しい。それに比せば地球の何とにぎやかだったことよ!
とは言え彼女はそうくよくよもしなかった。いずれは消えゆく運命の世界だ。まあそういう事もあるんだろう。残念だが、仕方ない。
それより惜しむらくは、あの魔女と少女の「野望」である。いや、それは実際的な「計画」とか「事業」と呼べるくらいにまで輪郭を確かにしつつあった。
妹紅は最後まで口は挟まなかったが、ずっとそのやりとりを聞いていた。最後までずっと。
「大事なのは不可逆的な変換を恐れないことです」
鏑矢を放ったのは、確か阿百の方だった。彼女はある時から取り憑かれたようにある一つのアイディアを訴えるようになった。
「御伽話計画」。強いて名付ければそんな所だろう。パチュリーは初めは懐疑的だった。それは妹紅から見ても無理ない話であった。
「読み手は書物に書かれたものを受け取るのではないですよね。結局はそこから何かを読み取る他にない。それは決して書き手の想像したこと、伝えたかったこと、記録したかったこととイコールではない。つまり元より不可逆的な圧縮過程を経たものなのです」
「そんなことはわかってるのよ。それでも尚、できうる限り情報の劣化を防がなければ意味はない。そういう事ではなくて?」
「私、思ったんです。確かに情報の伝達効率という意味では不可逆変換をかけ続けることは劣化です。でも、書物を取り読む者は、ううん、ある人が別の誰かから情報を受け取る時にならいつでも、その人の中で火花が散るものなんです」
「……意味がわからないわ。でも、続けて」
「書物を伝導体のように考えるから出口が見えないんです。書物はそれ自体が一つの秩序であり、法則です。我々人間は自然界の秩序や法則を解き明かして科学と呼べるものを掴んできました。それは魔法もきっと同じですよね?」
「ええ」
「書物もそのようにすればいいんです。それならば惑星も生態も異なる者たちに私たちの書物を届けることにだって、意味を見出せる」
妹紅を取り巻く新しい(けれどもずっと初めからそこにあった)世界には地球もなければ月もない。あの傲慢で腹立たしい月の民はどうしたのだろう? 妹紅は縦回転運動をゆっくりと取りながら想像してみた。が、連中のことだからきっとどこか安全で停滞した世界に逃げ出したに違いないと、あっという間に結論が出てしまった。本当につまらない連中だった。
「具体的な方法について考えは……」
「あります」
「……それは?」
「物語のフォーマットを使う、というのはどうでしょうか」
「物語……」
「より射程を定めて言うなら、御伽話です。これはある種の経験則なんです。人類の経験則という話ですが。情報の圧縮効率という意味で御伽話のフォーマットは繰り返し繰り返し用いられてきた伝統と実績のあるオプションです。森にはお化けがいるよ、と……母親が子供にそう伝え聞かせる時、実にたくさんの圧縮された情報を解き明かすことができる。真実にお化けの存在を伝えながら同時に、夜間の森の危険性、そのにおい、ざわめき、自分たちを取り巻く世界の様子、もっともっとたくさんの……パチュリーさん、重要なのはその時に読み出された情報はけして語り部の意図なんかとは一致しないってことなんです」
「それでは意味がないじゃない」
「意味なんてないじゃないですか!」
それにしても、いったい阿百に何があったのだろう? 妹紅は全てを見ていたが、誰かが別の誰かを見ていてわかることなどほんの一握りだ。それもまた不可逆な情報伝達の一つである。しかしその不可逆性は(つまり人と人とはけして分かり合えないものだと言う公理は)ずっとずっと昔から所与のものとして受け入れられてきた。
であれば確かに書物だけは特別だと強請ること、それは強情というものだ。
「しかし、だとしてもあなたは、私の集めた膨大な書物のその全てを、一つの物語に委ねろというの? 御伽話にしてはあまりに長すぎるお話になる」
「それは……問題はそこなんです。すべてを残す事はできないから、おそらくはフラクタルなパターンに織り込んでいかなくてはいけない。理論上は可能だと思うんですが、現実的な時間の中でそのパターンを織り上げられるかどうかです。そこは、私にはどうにもできないから、パチュリーさんに任せるしかないけれど……やっぱり無理でしょうか?」
「わからない。でもあなたの言っていることはまるで……魔術みたい」
しかし無駄になってしまった。
二人が遅すぎたのか、滅びが早すぎたのかはわからない。わからないが、とにかく間に合わなかったということだ。それが妹紅には惜しかった。惜しかったが、どうしようもあるまい。
パチュリーや阿百に限らず野望や遺志を半ばのまま抱えて滅んだものたちは地球上に大勢居たはずだ。その者たちもすべて母星と運命を共にした。誰にも特例は認められない。妹紅を別にすればだが。
(さて……どこへ行くかな)
真空の黒い闇の中に真紅の翼が輝いた。滅びが来る前から妹紅は心に決めていた。もしも住む星がなくなってしまったら、ただどこまでも飛んでいこうと。無限に、無限の彼方に、どこまでもどこまでも加速して加速して加速して加速していこうと。
そして空を打ち付け……ようとした。
その間際。
(おん?)
虚空の向こうに淡く仄かに輝く火花が見えた。たちまちにそこへ飛び移る(真空での慣れぬ制動に苦労して二度ばかり行きすぎたが)。手を伸ばす。恐怖や恐れが本質的に生存欲求に連なる感情である以上、不滅の蓬莱人に恐怖は無い。
指先が火花に触れた。
「あ」
瞬間、記憶が流れ込んできた。妹紅は咄嗟に、けれどもやさしく火花を握り込んでその奔流を押し留めた。それはあまり良いものではないと蓬莱人の直感が働いていた。
善や悪の問題ではない。
それは互いの領分を冒し合うものだと経験が直感となって働いたに過ぎない。そして領分を侵犯するのはいつでも妹紅の側だ。蓬莱人の水かさはいつでも莫大すぎたから。それがため妹紅が恐れたのは自分が害される事よりも、実のところ「それ」を害してしまう事だった。
「それ」が何かは言われずとも(口を聞く者などもう誰もいないが)わかった。初めは直感で、けれども徐々に理屈も追いついた。
(そういえば、お嬢ちゃんも歪に輪廻を外れてたんだっけね)
故に妹紅と同じような顛末で「彼女」の魂はここに留まってしまったのだろう。本来なら地獄に向かうべき所、その地獄も消えてしまった(無論、地球の地獄は地球という星に紐付いたものであるが故に。地獄にはついぞグローバリズムは根付かなかった)。そうして永遠の転生という咎を解かれることもないままに、この魂は暗黒の中で取り残されてしまったのだろう。
(夢を見ているのかい)
初め指先で触れた時、妹紅の魂に見えたイメージはたくさんの瞬間をコラージュして繋げたような、複数人の走馬灯を無理やり一つにまとめたような、そんな光景だった。
きっとその一つ一つに意味はないのだろう。もとより夢とはそのようなものだ。
それでも。
(消えてしまった星の夢を)
妹紅の胸に去来するものは虚しさよりも慈しみであった。この頼りない火花のような魂だけが、もはやこの広い宇宙でかつての地球を偲ばせるものだった。
もちろん事前に地球から脱出した者たちは今もそのような記録を残しているのだろう。だが彼らはやがて変質していく、というのがパチュリーと阿百の考えだった。当然、妹紅も変質していくのだろう。地球人ではない、別の何かになっていく。
その中でなおかつての青さを覚えているものが一つくらいあってもいい、と。
妹紅とて人間だ。きっと故郷が恋しくなることもある。そんな時はこの小さな灯りが手かがりになってくれるだろうから。
(あんたは本になったんだな、阿百)
表紙もなければ頁も無いが、開けばそこに記されたものから読み解けるものがある。
悪魔の図書館から貸し出された一冊の本を懐にしまうと、藤原妹紅は今度こそ永遠に向け飛翔を開始したのだった。
(多分)パチュリーも阿百も最後の書物を残すことには本気でもその読み手が誰もいないことは最初から気にしていなくて、
唯一の読み手となった妹紅の存在は本来イレギュラーだったぽいのですが彼女がいたからこそ最後の書物が完成した、という話の構成が良かったです。
面白かったです