Coolier - 新生・東方創想話

コロンブスを待ちながら

2023/08/15 19:39:22
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 稗田家の継承は頼りない。とんでもない綱渡りのもとに行われている。
 そんなふうに、誰かが気がついたのか気がつかなかったのか。御一新の前後にあった継承は、歴史に残されない(残ったらまずい)混乱の中で行われた。
 二人の新たな御阿礼の子が出現したのだ。

 それから二十年が経った。八代目の御阿礼の子は、未だに両立したままで、一つに定まっていない。かといってそれで諍いが起きたわけでもなく、やがて里の人間もその事に慣れた。
 この反応自体は、問題ない。どうせ百数十年に一度、人生のうちにあるかないかくらいでしかない珍しい出来事だし、土地の名士の家にめでたい事があれば嬉しいし祝いもするが、そうでなければ興味無しというのは、むしろ健全な無関心さともいえた。
「それが世間というものだ」
 女がぼやきながら、夜半、運河沿いの白壁の塀をつつと伝っていた。
「そして不健全なのは稗田だけだ」
 そう呟いて、塀をひょいと越えていく。丸く満ちた月が彼女のみすぼらしい姿を照らすと、頭に伸びる二本の角の先端が、月明りに光った。
 屋敷の屋根の低い勾配は、この家の微妙になりつつある威勢を表しているようだ――少なくとも、別の稗田家の方が、屋根の様子ももっとずっしりと重厚でよく張り出していて、立派だ。
 別の稗田家。
 当たり前だ。あるに決まっている。初代御阿礼の子稗田阿一は父祖に伴って、この辺鄙な山里に下向した……落剝して、と言ってもいいかもしれない――これは彼女の推論にすぎなかったが、まったく故なきものでもない――いずれにせよ、それからおおよそ千年が経っている。この苗裔が枝分かれして郷の中に膨れ上がっているのは、なにもおかしな事ではない。稗田を家名として名乗っている家も、たびたび起こった改めによってすっかり少なくされていたが、それでもまだいくつかあった。
 それらの稗田家同士が争うという事態や、傍流が嫡流を凌いだという時期も、無くはない。この千年の間に、幻想郷の稗田氏には、一つの血統に起こりうるあらゆる先例が起きていた。
 彼女はそれを類推している。ちょっとだけ歴史が得意だったので。
 影のように、屋敷の庭に入り込む。廊下を歩いていても、足裏に綿が詰まっているように、音がしない。そういう歩き方を心得ている。彼女は初めて訪問した建物でも、なんとなく屋内の構造がわかるというたちだった。
 彼女には気がかりがあった。……稗田の歴史への興味、と言ってもいい。もっと包み隠さずいえば、醜聞への好奇心かもしれない。
 この人里の歴史は、それがそのまま御阿礼の子の歴史でもあるといっていい。いびつな歴史の構造だ。
 御阿礼の子の誕生は、おおむね百五十年に一度といったところだ。一代は短命で、寿命はおよそ三十年。そしてその三十年以外の百二十年間は、あってもなくても良い時代だと言わんばかりに切り捨てられる。その間のなにがしかを掬い取ろうにも、記録が残っていない。御阿礼の子の不在の間に家政を補っていたはずの、凡庸な中継ぎ当主たちの名前すら残っていない。
 なので、記録上に残る稗田家の系図は、以下のようになる。
 稗田阿礼…(数代欠落)…稗田阿一…(数代欠落)…稗田阿爾…(数代欠落)…稗田阿未…(数代欠落)…稗田阿余…(数代欠落)…稗田阿悟…(数代欠落)…稗田阿夢…(数代欠落)…稗田阿七…(数代欠落)…
 こうなってくると、ただひたすら胡乱な流れが成立しているというだけだ。曖昧なのは間の時代だけではない。この人里の歴史には、御阿礼の子以外が確として存在していないかのようだ――周囲には家族や、より広範囲の血族、直接の血の繋がりはない家人たちもいるはずなのに、彼らには名前すら与えられておらず、主人にのみ焦点が合わさった銀板写真の、その周囲に立っているぼやけた影法師でしかない。

 書庫の明り窓にはちょうど満月がかかっていて、その月明かりで書を抱く。書物そのものにも歴史の手触りがあった。
 幻想郷縁起そのものは、人里の歴史を綴った史書といったものではない。この郷にひそむ妖怪たちについて書かれたもので、それとて彼らの歴史と言えるほどではない。
 当然、ここにも人間たちの歴史は存在しないが、それでも歴代の御阿礼の子たちというもの、それを取り巻いていた環境や人々を、ぼんやり推しはかる事くらいはできる。結局、人里の歴史とは彼らの歴史だった。こんな隙だらけの、どこか根本に間違いを孕んでいるような構造を、それでも維持しようと躍起になり、少なくとも今まではやり遂げていた人々が、何代にも渡っている。

 たとえ稗田阿一が、高祖御阿礼という偉大な先祖の再発見を果たすまでは、己の才能という呪いに戸惑い続けていたとしても。
 たとえ稗田阿爾が、自分の天才だけをたのみに、縁起の編纂よりもこの土地を巡る抗争の方にもっぱら熱中していたとしても。
 たとえ稗田阿未の実態が、重度の障碍を背負った天才と、それを支え続けた家族たちによる家内制の官僚集団だったとしても。
 たとえ稗田阿余が、自身の複雑な出自を正統化した挙げ句、自らの嫡子嫡孫による絶対的な継承制度を目論んで敗死したとしても。
 たとえ稗田阿悟が、不慮の死によって、当代の幻想郷縁起の編纂を完了することができなかったとしても。
 たとえ稗田阿夢本人が、取り違えによって御阿礼の子になってしまっただけの、いたずら好きな仲良し双子の片割れだったとしても。
 たとえ稗田阿七の代になって、ようやく諸事取りまとめる才覚が出現して、御阿礼神事の形が定まったのだとしても。

 それらの歴史を推しはかって、ふうと一息つこうとしたとき、足元に何かが落ちている事に気がついた。――野花の、押し花の栞だ。彼女はそれがどんな花かも知らず、とにかく花とだけ思い、戸惑った。
(いけない。どこに挟まっていたものだろう……)
「私の幻想郷縁起の、二七一頁に」
 書庫の入り口の方から声がして、身をこわばらせる。
「……ま、そんなものないけどね。少なくとも二七〇頁まである幻想郷縁起は、今のところ存在していないし」
 少女は笑顔を見せながら現れて、やがてぼそぼそと、しかし闖入者である相手に聞こえるように喋り始めた。相手の出自、その累代が負っている業、そして本人がここ数年は病を得て実家の土蔵に引き籠っているという風聞まで、単なる一里人にすぎない彼女のことを、つぶさに言い当てた。
「当たり前でしょ。私は八代目御阿礼の子だもの」
 そう言って、初めてニンマリと笑う。月のような笑顔だった。

「しかしねぇ、このガソジンで炭酸水を作れても、割って飲めるような強い洋酒を、まだ入手できていないんだ」
 応接室にある舶来もののガソジンは、来客の誰彼にと見せびらかされているようで、少女は年相応にはしゃぎながら言った。部屋には他にも、主人の趣味らしい高価な舶来物があった。機械織りの絨毯、メシャムパイプ、ボヘミアグラスの杯などはその代表だった。里の有力者とはいえ、こんな田舎にこれらのものを買い付けるのは大変だろう。
「だから、今はもっぱらこれそのものを来客に飲ませて、面食らわせているだけ」
 などと、嬉しそうに言うのだ。
「……ああ。もう充分面食らった」
 まだ口の中で弾けている炭酸ガスにむせつつ、彼女は恨めしそうに言う。捕まって、書斎まで引っ立てられたとはいえ、まだ跳ねっかえりの気分も少しはあった。
「……いたずらっ子なのはいいけど、覚えとけよ」
「言われなくても覚えていてあげるさ」
 くっくっと笑いながら、目の前の少女は言う。自称八代目御阿礼の子――でも、たぶん、きっと、正しく八代目御阿礼の子。
 当代、この郷には二人の御阿礼の子がいる。
「書庫のものを読みたかったのなら、昼間に来るといい。貸し出しは無理だけど」
「夜に読みたくなるんだ。ちょうどこういう、満月の夜に――」
「うん。私も白沢というものがどういうものか、いくつか聞き取りをしておきたいな」
「……屋敷に忍び込んだ私を咎めるつもりがないのかい」
「歴史を弄びたくなるのは、君にとっては単なる生理だろう。隣で飼われている家畜が腹を空かして、うっかり人んちに入ってきたようなものだ」
 牛のような扱いに相手はむすっとしたが、案外間違ってもいない。数年も実家に引き籠っていると、長いまつ毛の下の眼差しは、穏やかではあるが、どこか現実離れした鈍い光を放つようになっていた。それが確かに牛のような雰囲気だし、髪の毛もぼさぼさ、眉も整えずに散らかり放題、口の周りには濃い産毛が浮いているという有り様で、体のにおいも甘ったるい、独特のものになっている。
 それにしても、と少女はあくびを噛み殺しながら言った。
「あんたの顔はちらりとしか見たことがないけど、よく覚えている。昔はもうちょい利発そうだった。才走りすぎていたとも言うけどね。私は今の顔の方がいいと思うな」

 以来、彼女は、屋根の低い稗田屋敷にしげく通うようになった。朝早く人目を避けるようにやってきて、若い女主人と遊んだ。二人は日中を瞑想と喫煙に費やし、日が暮れてからようやくもぞもぞと動き始めて、阿弥が幻想郷縁起の草稿に慎重に筆を入れていく。筆の進みはたいてい、一日に数行くらい。まったく進まない日もある。
 そのまま執筆の気が向かなくて、夜の里をぶらつく事もあった。たいていは里の中で、酔っぱらいを散々冷やかしなぶった後で家に送り返すだけだが、たまには月明りだけを頼りに郊外を歩くこともあった。
 そういうとき、御阿礼の子は友人に語りかけるわけでもなく、ひとりごとのように、この土地に起きた歴史を喋った。「嘉永年間に起きた日食と月食は、本来この土地では見られないはずのものだったそうだよ」、「安政の大雪も、この桑の木が埋もれそうなほどよく降ったのは、この郷だけだ」、「万延元年の虫合戦のせいで荒らされた耕作地は、ようやく元通りにできる目途がつきそう」……と、そんな調子で。

 少し違った様子の夜もあった。縁起の執筆は早々に切り上げられて、二人は外出した。
「娘に会いに行く」
「娘ぇ?」
 普段は牛のように落ち着いている彼女も、阿弥の言葉を聞くと、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ま、婚外子だけどね」
「婚外子ぃ?」
「どうしてそういう時だけ声が大きいんだい……」
「驚くに決まっているだろう」
「人間なんだから、しかるべき事をやればできる事だってあるよ」
「いやそれにしても。……人間だったんだな、そういうところ」
 そう言われた阿弥は、私をなんだと思っているんだ……と耳の後ろを擦りながらも、さすがに自身の問題は理解しているらしく、ぼそぼそと経緯を説明した。子を産んだのは三年前、相手は屋敷に数カ月ほど宿泊させた巡業の旅芸人、産むか産まないかで家中のひと悶着はあったが、結局産んで、里子に出した。
「私をひどい親だと思うかい」
「古今東西、他人がどういうくちばしを挟む事もできない問題だな」
「……本人に出生の秘密を明かすつもりはない。君の歴史にも残すなよ」
「庶子を隠すのは混乱の元だよ」
「もう、そんなことで争いが起きるような時代ではないはずだ」
 御阿礼の子はそう言ったものの、心底から思っている様子ではなかった。
 子は、郷の外れにある神社の巫女に養育してもらっているという。
「で、たまに私も遊びに行く。一応親の情はあるつもりさ。身勝手な情だけどね」
「しかし夜道とは不用心だな」
「なんせ、心強い護衛が常についてくれているからね」
 別に目の前の友人について皮肉っぽく言っているつもりは無く、鼻を鳴らしながら、ちらりと夜空を仰いだ。何羽もの鴉が頭上を旋回している。
 稗田家の継承は頼りない。とんでもない綱渡りのもとに行われている。
「……皮肉な話だよ。妖怪の対策について代々記録を残している家が、その継承の正統性を妖怪に干渉されるなんてね」
「大丈夫、歴史上よくあることさ」
 友人が慰めるのを聞きながら、阿弥はなにかを思い出そうとして、記憶を手繰り寄せるように目を細めた。

「……死ぬたびに、とりあえず説教部屋送りにされている気がする」
 と死後の稗田阿七がぼやいたのは、百何十年も昔のことだ。
 それにしても落ち着かない、妙に圧迫を感じさせる説教部屋だった。くっきりしすぎているくらいの全体の色彩のせいだろうか、厳格に左右対称な調度の配置のせいだろうか、部屋全体に光が行き渡るような照明設計のせいだろうか……
 そこに閻魔が入ってきたとき、妙にほっとしてしまった。閻魔の表情は感情が曖昧で、髪型も左右非対称、なにより、別に輝くような後光が差しているわけでもなかったから。
「……また、やらかしたようですね」
「先代のやらかしなんか知ったこっちゃない私にとっては、一度目のやらかしだけどねぇ」
 阿七は閻魔に向かって気安く言った。
「ですが私にとっては七度目の説教となります。そう、貴方たちは少し場当たり的すぎる」
「彼らの分までは記憶できないんだから、しょうがないでしょお……」
「言い訳まで同じだと、確実に転生した同じ魂だと実感できますね」
 閻魔の反応は冷ややかだが、同時に心遣いは優しかった。そのまま説教もそこそこに、
「毎度の通り、各所へ挨拶回りをしてもらいます。川に渡しを準備させていますので」
 と言って、御阿礼の子の魂を解放した。

 川の渡しを担当した死神は、新任らしく、同時におしゃべりでもあった。水上で、だらだらと棹を差して、ゆっくりと雑談を楽しみたいようだ。
「あんたはこの土地の超重要人物らしいね」
「初代はそうなるつもりは無かったと思うのよ。……最初の人であるだけに、後々の代以上に、自分の才能に戸惑う事が多い人生でした。ただ、この土地に蔓延る妖怪たちに閉口して、その対策法を伝えられるように黙々と書き遺し、現地の者と婚姻して、血を繋いで、年丗で死んだ」
 阿七はそのまま、一族の歴史を簡素に語り始めた。
「……しかし二代目はもっと巧みに、土地に大きく根を張った有力者になる事でしか家を存続できないと、大きく使命を感じたようです。初代の下向から百年以上も経過していて、自分たちの方が土地にへばりつくだけの、土着の存在と化していた事も大きいのでしょう。……二代目は己の天才と律令の腐敗という時勢だけをたのみに、一介の神賎からわずか一代でのし上がり――そして、この権門からも見捨てられかけた土地を、手早く切り取ってしまった。その後、一族が安定した時期に生まれた三代目は、歴代でもことのほかひ弱で、賢明でした。そのために家族を頼ることができた。特に、信頼できる自らの兄弟姉妹からなる家政構造に執着した……それが当時の状況では最適解だった事はわかるけれど、しかし次世代や次々世代にとって正しいとは限らない。なにより御阿礼の子の継承形態は、その空位期間中は嫡流がないがしろにされやすいかたちでもある……」
 それから百数十年。
「傍流の力が強くなった状態で御阿礼の子に就任した四代目は、そのうえ庶長子で、微妙な立場でした。ために、その人は肉親たちを抑圧する事に熱中した。……そうでなければ家を治めきれなかった」
 この土地で四方八方に分かれた稗田の分家たちは、いつしか宗家と肩を並べる勢力を確立し始めていたからだ。
「四代目は、この族的結合を有するために血族内部の私闘が日常化していた集団を統御するために、なんでもやりました……嫡子を謀殺し、邪魔になる傍流と自分に追従する傍流とを、巧みに選り分けた……どこにも正義は無く、単に旧勢力に擁護された者と、新勢力に保障された者同士の衝突でしかなかった」
「……ふむん」
「四代目はやがて追放したはずの傍流の一党に屋敷を包囲されて敗死してしまい、この時の混乱で稗田の血統は一度有耶無耶になっています……とはいっても、その後に嫡流の遺児らと婚姻を結んだので――実態は犯されたと言っていい――、一応ひとつながりの血筋としては残っているんですよね」
「……ひとつ言っていいかい?」
「どうぞ」
 死神の言葉かけを、阿七は軽く受け入れた。
「もうちょっと、何か上手くゆかなかったのかねぇ」
「ゆかぬようにできているのが浮世というものらしいです。冥府に連なる政庁である、あなた方こそわかっている話でしょう。こんなものに下手に介入した方が大変な事になると」
「できる事はせいぜい休暇中に説教回りする事くらい、か。うちのカイシャったら……」
「それ以上の事をやったら、あんた方だって妖怪たちと何も変わらなくなる。五代目を疲弊させて、結果的に幻想郷縁起の編纂を半ばで終わらせてしまった奴らのようにね」
 なにを感じているのか、死神は無言だった。
「……当時は、妖怪の山の方でも、それぞれの勢力がようやっと定まりつつあった時期のようです。凄惨な抗争が幾度も続いて、山の麓にすら目を向ける余裕が無かった。いつの間にか人間たちの人口がここまで増加していた事に対してもね」
 阿七に言わせれば、後世で妖怪拡張計画と言われている幻想郷成立の第一段階の実態は、多分にその場しのぎ主義的なものであった。たしかに、山の麓の人口増加に対抗するには、妖怪たちはある種の――極端な話だが、理論立てはなんでもいい――結界を張り、増え続ける人間たちと隔絶し、世界を拒絶して閉じ籠るほかにない。……そうした妖怪たちの隠れ里は、この列島のどこにでもあったのだ(そして、そういった者たちのほとんどは、やがて根枯れして、消滅していった)。
 問題は、そうして張られた結界の中に、人間たちの――御阿礼の子らが住まう人里までも含まれていた事だ。
「あの結界が張られるまでの顛末ですが、私には、妖怪たちが一斉に右にならえをした末の行動だとは、とても思えないのです。……今でこそしたり顔で計画的行動だというふうにしているようですが、おそらくは現状の追認。状況を後追いで認可していくうちに、時間をかけて、巧みに行動の主と従を反転させる事に成功した。彼らには時間だけはたっぷりありますからね」
「……ま、よくある話だね」
 死神はどうとでも言える話だとも考えたが、ともかく起きた事実は重要。
「その対応に追われた五代目は道半ばで果ててしまったものの、この人里に手を伸ばそうとする妖怪たちを、巧みに操り互いに食い合わせて、膠着状態に持ち込む事はできました。……後の代への大変な宿題も背負わせてしまいましたが」
「宿題?」
「妖怪の中にも、良い妖怪と悪い妖怪がいる、という考え方を作ってしまった。必要に迫られたとはいえ、まずい思想です。連中がつけ入る隙になります」
「……黒い猫でも黄色い猫でも鼠を捕るのが良い猫だけれども、いずれにせよ猫には変わりないからねぇ」
 死神は考え深げに言った。
「困っちゃうね」
「困りました。六代目御阿礼の子からは、その継承にまで介入されています」
「どんなふうに?」
「双生児の取り違え」
「……困っちゃうね」
「まあ、それによって救われた命もありましたがね。なにせ畜生腹などと言われて、あやうくどちらかが産婆に絞め殺されるところだったんですから。でも、どちらが御阿礼の子なのかわからなくなったおかげで、絞めるに絞められなくなっちゃった」
 双生児の御阿礼の子は、そうして生き延びた。しかも幼い頃から妖怪たちに歯向かいつつ、ときにはからかったりもしながら。
「あの代は結局、普通の子の方が主導して幻想郷縁起を編纂したんじゃないかしら……。普通の出来の頭に普通の能力しか無かったけれど、それでも家族たちや、双子の片割れの御阿礼の子と協力して、やり遂げた」
 死神が興味深げにその話を聞くので、阿七はさっさと舟を進ませろと身振りをやらなければならなかった。
「……乱れた世の中で結局どちらも長命とは言えませんでしたが、それはもはやどうでもいい。ただ普通の人間が幻想郷縁起を編纂したっていい、だめだという法など無かったんです。いつしか、私たちは御阿礼の子というものを必要以上に神格化して、有難がりすぎるようになっていたんですね。それが当時の混乱を生んでいた」
 今にも繋がる混乱ですが、とも続ける。
「さて、彼らの無邪気な抵抗もその代限り。またしても私たちの敗北でした。そして二代に渡る抵抗もむなしく、私自身も妖怪たちに御阿礼の子としての地位を保証されてしまいます」
 どういう事か。
「七代目御阿礼の子が出現する際は、様々な兆しがあったとされています。珍しい白い雉が捕まったり、妊婦が不思議な吉夢を見たり、稗田屋敷に旅人姿の使いが訪れて奇瑞を告げたり……どれも、妖怪たちの仕業でした。それによって稗田家が、自分たちの影響下にあると主張したかったのでしょう」
「せこい事をする奴らだね」
「ですが私たちにとってほんの僅かに幸いが残ったのは、最大の予兆が、妖怪たちにさえ予想も制御もできない壮大な自然現象だった事ですね……。私は宝永の大噴火の年に生まれました」
 阿七はそこで、深く息をついた。
「……初代稗田阿一は千年も前の、なかば伝説上の人でしたが、御阿礼の子が出現する間隔から、その生年を推理する事は可能です。そこから延暦年間に起きた大噴火と同じくして稗田阿一が誕生したと比定し、宝永噴火と対応させることで、富士山の噴火こそが最大の予兆だったのだと言い張るのもね……」
 推理の当否はともかく、稗田阿七の出現の前後にはそのような事態があった。
「あれが無ければ、私の代もまずいところでした。妖怪たちのなせる業で御阿礼の子が定まったとなれば、私たちが代々繋いできた事業はなんだったのでしょう」
「自分の業が嫌にならないのかい」
「嫌でもやるつもりですよ。妖怪という連中が、私たちのそばにいる限り」

 死神は阿七の挨拶回りに付き合って、それから是非曲直庁の庁舎に戻ると、閻魔が執務を取り仕切る机にふらりと立ち寄った。友人のような気安さだったが、例によって上司には無視される。しょうがないので一旦離れて、適当に用事を作ってまた戻ってきた。
「……日報ですか?」
「はい。ここ一ヶ月ツケていたやつ」
「日報のツケとは初めて聞く概念ですね」
 目の前にばさりと出された書類の束を無視しながら、閻魔は言った。しかし会話には付き合ってくれそうだ。
「今日は報告すべき、特筆される件がありましたからねぇ」
「……どうです? ここは面白い土地で、面白い習わしがあるでしょう」
「本人にとっては、たちの悪い冗談みたいな運命でしょうけどね」
「私としても、彼女を助けてやりたい気持ちはある」
 そのためにここで色々と働かせてもいるのです、と閻魔は言う。
「単純に優秀という事もありますがね。ですが、同時になにか……ここでのお仕事が手がかりになってくれないかと」
「それ以上の手助けはしてやれないんですか」
「問題の根が深くなりすぎましたし、彼ら自身が撒いた種すらある。そりゃあ些事に対する決定権はありますが、直接の介入はもう無理筋でしょう」
 上司の切り捨てるような言い分に、部下は唇だけを尖らせた。
「お役所ときたら……」
「なんせ、死んだ後で、あれこれ生前の事を評価して差し上げるお役所なのでね。あまり頼られても困る」
 上司のまじめくさった言いに、死神はひとしきり笑ってから、それで――と話を変えた。
「あの子は、次代のために、どんな手を打ったんですかね」
「御阿礼の子を定める神事を、正しく記録の中にまとめて遺しました。それと、百年に一度あるかないかの神事だけではなく、関連した身近なお祭りを年単位で定期的に行わせて、ゆくゆくある本番の効力をも強めていく、という計画ですね。これらの施策が上手くいけば、百数十年後の転生の際も、混乱は最小限で済むはずだと」
「上手くいくでしょうか」
「決定権は誰の手からも離れているんです。上手くいかなくても、あの子たちを嘲笑う事なんて私にはできません」
 閻魔は、部下の疑わしげな視線から顔を逸らしながら言った。
「私たちだって、正しい事ばかり為せていたわけではないでしょう」

「上手くいきませんでした!」

 神社からの帰りの道端、稗田阿弥がヒステリックに笑った時には、もう朝日もいいように昇っている。郊外の田畑では、小作らが仕事の真っ盛りだろう。
「どうしてそうなるのかしら! 分家の連中が勝手に御阿礼の子を僭称し始めるだなんて。あいつら、そんなに惣領の私たちが信用ならないの!」
「ちょっと」
 さすがに友人もその肩を取って、ぼそりと窘めた。阿弥は昨晩、神社を訪れて、そこで酒を飲んだ――飲みすぎた。大酒飲みの巫女曰く、朝までうんざりするほど付き合わされたという。
「……だけれども、彼らが正しいのです。本家は頼りなく、数百年に渡って妖怪たちに侵されていて、そのうえ結局は神頼みしかできなかった。少なくとも彼らはそう見たんでしょう!」
 足取りはおぼつかないが、歩みには妙に力があった――かと思えば、その膝ががくがくとした動きになる。慌てて支えてやらなければ、そのあたりの農業用水に頭から突っ込んでしまったかもしれない。
「そう。彼らが正しい。だって、彼らは妖怪どもの影響を受けていなくて……財力もあり……なによりきちんとした問題意識を持ち、一族の中で百年以上もその意識を共有し続ける事を達成した。彼らのような連中が出現しただけでも、この郷で稗田の一族が栄えた意味はあるでしょうね! 彼らこそ人里を守る気概に溢れた人々よ」
 よりによって分家風情が……とも言いかけたが、そこに微妙な勢いの惣領のやっかみを自分でも感じたのか、やめる。
「結局、私なんかただ、書物を遺すためだけの道具です。そんなものに妙な権威がついて回ったのがまずかった。なにより今は開明の時代! 真に開けていて明るいかはともかく、そういう気分は確かにあります。私が遺そうとしているものは書いたはしから古くさくなっていく!」
 そんな話を聞いていると、喉が渇く。吐き気がこみあげてきそうになって、阿弥を抱きとめる事でかえって自分が落ち着く事になった。華奢な体の、まだ少女と言っていい体つきだったが、すでに一つの家を背負う身で、すでに一児の母で、ついでに御阿礼の子。
 御阿礼の子なんぞはついでで良い。
「……白沢くん、君はやってくる屋敷を間違えたよ。向こうの稗田家の方が、長者の徳がある。私には無いよ」
「白沢の中でも半端者みたいなんでね」
 いじけたように言って、そのまま二人は道端に座り込んだ。
「……うちがどうして海外の文物を熱心に買い求めているのか、わかっているでしょ?」
 唐突な物言いだったが、半端者の白沢は応接室にあるガソジンや洋酒、パイプ、高価な撮影機材といったたぐいのものを指していると察した。
「……あんたが阿片を喫むからだ」
「そのうえ飲んだくれで、行きずりの男と戯れて野合の子も産む。こんな女当主に徳があると思うか? 答えろ」
「孔子とて野合の子だったよ」
「そりゃ、子にとっちゃ慰めになるだろうね。しかし母親である私はただの――(聞くに堪えない卑語)……母親と名乗る資格すらない」
「孝の精神からいえば、親が主で子が従だ。どんな場合でも親は親だよ」
「本気でそう思って言っているのか?」
「思ってない」
「そら見ろ」
 阿弥は笑った。そのまま空を、ちらりと仰ぎ見る。昨晩から彼女の頭上を旋回し続けていた鴉は、もういない。
「――よし」
 阿弥はしゃっきりと立ち上がって、歩き出した。それでも酔っているのは本当なので少しよろめいたが、さっきまでの、支えてやらなければいけないような危なっかしさは無い。
「私たちの愚かな友人のために、たまにはあれくらいの芝居を見せてやってもいいだろう」

 それから何日か後、阿弥のもとに鴉天狗が訪れた。よりによって満月の夜のことだった。
「……おっと」
 いつものように薄暗い応接室にずけずけと押し入ると、先客がいたので、さすがに慌てた。
「お邪魔だったかい……?」
「いいえ! もうお帰り願うところよ!」
 主人は勢いよく言ったが、客人がそのつもりではなかったのは明らかだった。戸惑いの中で、追い立てられるように部屋から追い出された彼女を、白沢は冷たい目で見送った。
「……何者?」
「さあね。しかし自己紹介はふるっていた。“Ein Teil von jener Kraft, Die stets das Böse will und stets das Gute schafft.”ってさ」
「……なんでギョエテ?」
「知らんよ。だが私のメフィストフェレスを自任しているようだね」
 悪魔の誘惑、持ちかけ話があったという事だ。
「ほら、名刺まで持っていたよ」
 阿弥がひらひらと、紙切れ一枚を友人に渡した。友人は笑って、
「じゃあ悪魔に違いない。名刺を持っているやつなんて総じて悪魔だ」
 と呟きながら、じいっとその紙片を見つめる。三号角丸・美濃和紙・痩金体。
 名前の読みが阿弥と一緒だった。
「連中は手を組む事を提案してきた」
 阿弥はガソジンに近寄って、ウイスキー・ソーダを二人分作りながら言った。
「要するに、勝手に御阿礼の子を名乗っている開明派の稗田分家を、一緒に叩こうという提案だったよ。……私はその正反対の人物、閉鎖的で世情に暗い人間と思われているようだ」
「話にならないな。彼女はもっとこの部屋を観察するべきだった」
 少なくとも洋酒で飲んだくれるくらいの「開明派」である事はわかっただろうに。
「彼らの、見たいものしか見ないという悪癖は、人間よりひどいね……いや、人間だって変わりゃしないが、それ以上に賢しらぶっているだけに、余計にひどい事態を起こしている」
「年を取って頭が凝り固まってしまっているんだろう」
「長生きするって嫌よね。いろんなところがしなびてさ……」
 それはともかくとして、妖怪たちも現状に対して、なにか手を打とうとしているようだった。
「考えられるのは、結界の強化。前回の――数百年前の結界成立の時に、彼らは方法論を手に入れている。今度こそもっと上手くやるだろう」
「食い止められるかな」
「無理だろうね」
 阿弥は断言した。
「既に結界が一枚隔たっている以上、妖怪たちは遅かれ早かれ、もっと強力な結界をこの郷ぐるりに張ってしまうだろう……どうもこの世界は、一般的な世の中の時流と反対側に進んでいるみたいだ」
 かといって、時代に対する抵抗や逆行というわけでもない。
「これが歓迎すべき流れなのかどうか、正直、私には判断がつきかねる。御一新の頃と一緒だよ。正しいか正しくないのかはわからないが、間違いなくそれはこの里にやってくる」
「止められない流れというわけか」
「なにより、新しいのか新しくないのかもわからない。あえていえば、復古・再発見・故きを温ねて新しきを知る、といった現象のようだが、それもまた御一新のときと一緒」
 いずれにせよ、待っている場合ではない、とも阿弥は言った。
「私なんかに持ちかけ話がきたという事は、妖怪たちは相変わらず揉めている。一枚岩の統制なんか取れっこないよ――奴らには永遠に不可能だからね。……だが、私たち人間にだけは、ちょっとは可能だ――私たちは、あいまいで、感情的で、愚かだからな。今のうちに人里を一つにまとめるしかない」
 その発言がどういう意図で出てきたものか、友人は一瞬測りかねていたが、すぐ察した。無言で、酒が入ったグラスを、相手の前に掲げる。阿弥はにんまりと顔を崩しながらそれに応えて、互いの杯が高い音を立てて鳴ったが、酒を飲み下した時には、もう笑っていなかった。
「……私がただ一人の御阿礼の子になる」
 といっても、まさか相手を叩きのめすわけにもいかない。
「あちらも納得する形で、御阿礼の子という名を手放してもらう。難しく考える必要はないさ」
「すでに難しい事を言っているようだが……」
「まあ見てなって」

 それから一月とかからないうちに、稗田阿弥は、この幻想郷でただ一人の八代目御阿礼の子となった。

 友人にとって意外だったのは、このときに阿弥が取った方法が、搦め手を使った策謀などではなく、正面きっての真っ向勝負だった事だ。
「もう二十年も置いた扱いにしていた問題ですが、はっきりさせましょう。御阿礼の子が二人並び立っている状況について」
 と、月例の寄り合い――里内の有力者はほとんど集まっており、稗田の姓を名乗っている家は、すべてそこにいた――で、一同に話しかける時間を貰いたいとことわりを入れて、彼女は語り始めた。一族の長者としての勢いはやや衰えているとはいえ、稗田惣領の影響力はまだ強かった。
「……もちろん、これまでにも、御阿礼の子の転生と継承には、様々な事がありました」
 阿弥は少し間を置いてから、言葉を続けた。
「起こらないわけがありません。――ですが、その間、間違いなく、正しく、ひと繋がりに稗田阿礼の魂を転生し続けたと私は確信しております」
 嘘だ。
 本当のところは、破綻も間違いもたくさんあっただろう。この郷の稗田氏の歴史は、途中でめちゃくちゃに犯され乱される事もあった、どこにでもある人間の一族の歴史にすぎなかった。
 だが阿弥はいけしゃあしゃあと続ける。
「これは人類史上の偉業と言っていいでしょう。千年間、ひとつの流れを連綿と繋げられてきた事じたいが奇跡です。だからこそ、今回も正しく、ただ一人だけの御阿礼の子が継承されるべきと考えます」
 それから、話題をぐるりと展開させた。
「そもそも御阿礼の子とはなにか? なにを根拠に決定されるものだったのか? おそらくそれは、ただ一つの単純な根拠だったでしょう。……要するに求聞持法、求聞持の能力」
 これは、当時の者にとってはある種の発明であり、発見だった。もちろん、御阿礼の子という、百数十年に一度の間隔で稗田家に出現する天才の系譜を、誰もが伝説というかたちで伝え聞いてはいる――しかしながら、天才とは本来、天才という単語だけで事足りる存在であるべきだろう。そこに求聞持という別の名前を与えられるとは、誰も、思ってもみなかったのだ。
 この瞬間までは。
 そしてこれからは違う。
「つたえの一族らしく、典籍を参照しましょう――高祖御阿礼の業績を考えれば、おそらくこの記憶力こそ、御阿礼の子たる根拠だったのです。すなわちふることふみに曰く、“うぢはひえだなはあれよはひこれはたちあまりやつひととなりとくさとくめをわたればくちによみみみにふればこころにしるす”……」
 では、超人的な記憶力こそが御阿礼の子の根拠であるとして、人々はどうするべきなのか。
「探しましょう」
 と阿弥は言った。
「私も物覚えが良いつもりではありますが、この郷には稗田の血を引く者がごまんといます。……ひょっとすると私以上に物覚えが良い者がいるかもしれない。探すのです」

「……要するにさ、自分だけが答えを知っている謎解きじゃあないか」
 稗田阿弥のぶち上げを本人の口から説明されて、友人は呆れていた。
「それに君の言いざまだよ。揉めるだろ、絶対」
「うふん、それがさ、案外すんなりと受け入れられたのよねぇ」
 炭酸水で口をゆすいで金盥に吐き捨てながら、阿弥は言った。
「私とあちらの御阿礼の子って、別に敵対しているわけじゃなかったんだ」
 むしろ憐れまれていたのだろうと、阿弥はぼやく。
「当人とは同い年だったし、小さい頃はなにかと遊んだこともあった。……たぶん個人としての相性は悪くなかったんだと思う。なにより、あの子自身、私さえいなければ御阿礼の子を称しても遜色のない才気は確かにあった」
 そう言って、文机から何かを取り出す。いつぞやの野花の栞だった。
「心根は優しい子なんだ。こんなものを気まぐれにくれた事もあった……でも、本読みに栞を使っているという事は、求聞持でないことは明白だろうね」
 友人は笑った。
「本当、君はいい性格をしているよ――ところで、ひとつ質問をいいか?」
「どおぞ」
「今回の事はともかく、今まではどうしていたんだ? こんなに曖昧な継承を、君の魂は、毎回どうやり遂げてきたんだ?」
 阿弥はその質問を聞いていたが、阿片膏を詰めた煙管を――吸引用の、妙に仰々しい煙管を準備している間は無言だった。やがて長椅子に寝転がりながらその煙をゆったり吸引し、うっとり友人に回しながら言った。
「……そんなもの、毎回その場しのぎだっただろうね」
 二人はニヤリと笑い合い、その笑顔が徐々に弛緩していった果てに、その場にくたりとなった。

 御阿礼の子の根拠となるものが求聞持の能力ならば、行うべきことはきわめて単純だった。記憶力を競えばいい。なので稗田の子弟が一堂に会して、試験が行われる手筈になった。
「しかし試験というものは不正の温床だ」
「私だって相手の清廉さを頼みにはしていないよ」
 友人に酌をしてもらいながら、阿弥は言った。
「不正は絶対に行われる。あちらさんも、私ほどの記憶力は無いにせよ間違いなく天才の類で、そんな不埒を行ってでも押し上げるべき器だと、私は思っている――向こうがそこまで思っていなければ、当然そっちの方がやりやすいけど」
「……君は、あちらの子をいやに評価しているよな」
 友人から見れば、向こうの御阿礼の子など、ただの一族の傀儡だ。出生時に親族の大人たちに設定された立場を諾諾と受け入れて、「御阿礼の子とはそういうもの」というしれっとした顔で日々を送っている。阿弥とは大違い……という、身勝手な印象が多分に偏見まじりなのは、自覚もしている。
 そもそも「御阿礼の子とはそういうもの」というしれっとした顔で日々を送っているのは、阿弥だって一緒だった。
(結局、二人を隔てているものは、御阿礼の子が持つはずの才能に対しての自覚だけだったのだろう。あちらは天賦の才というものに無頓着すぎた。もしくは自覚を持つこともできなかった)
 試験の前夜、阿弥とその友の二人はいつものとおり、夜通しこの郷の歴史について語り合い、翌朝になると友人に身だしなみを整えてもらった。
 阿弥は髪を梳かされながら喋った。
「彼らを――私と対立している分家の人たちを、完膚なきまでに叩きのめすのはだめだ。これは勝負じゃないんだ。心服させる必要がある」
「そうさせる意義はわかるが、算段はあるのかい」
「はなから算段なんて無いよ」
 稗田阿弥という天才は、この人生の乾坤一擲の場面に対しては、なぜだか完全な無策で、身一つで状況に飛び込んでいった。奇妙な女だった。

 試験の問題は、公正を期して、稗田氏と関わりが薄いとされる新興の商家が作成を行っていた。もちろんこの時点で不正は開始されている。既に稗田分家と彼らは気脈を通じていた。
 また、試験会場には数十名の稗田姓の子弟どもが集まっていたが、その席の割り振りも一工夫なされている――分家の方の御阿礼の子が不正をやりやすくするようにと、これまた内通している家の少年や少女たちが、周囲を固めていた。試験官であり不正を咎めるべき大人たちすら、それらの状況は心得ていた。
 そうまでしてなぜ、彼らは稗田阿弥を拒絶したのか。稗田の本家がすっかり妖怪に取り込まれかけているからというだけでは、説明をつけられないだろう。彼らに、本家をないがしろにして、自分たちが新勢力として台頭する野望が、無かったとは言えない。
 しかしその野望にしても、大義はある。ある種の焦りもあった。この、なにもかも改まってしまった生まれたての国家の、その山奥にまで及び始めた、新時代に立ち向かっていこうという気分も間違いなくあった。にもかかわらず、自分たちの一族の惣領は、妖怪という旧弊の象徴のような存在に飲み込まれかけてもいた。分家たる彼らの行動は結局正しいとはいえなかったが、それでも答えのひとつではある。
 不正のためだけに準備されたような試験会場に、ゆるゆると稗田阿弥が現れた。そうして、幾列も机を並べて受験生たちが各々の席に腰を下ろしているのを、
「……思ったより、みんな御阿礼の子になりたいのねえ」
 と呆れたように呟いた。
「あんなもの、ただ幻想郷縁起を執筆する役だけのご身分なのに」

 当然の事ながら、相手側の不正をもってしても、試験の結果は圧倒的だった。
 記述形式で行われた、稗田阿弥の答案は完璧。一字一句違わないのは当たり前のようにやってのけていて、出題に使われた原本の筆跡、字間や行送りさえも、完璧に模倣していた。周囲が出題に対してごたごたと考え込んで――そして不正の手助けをして――いるのを意にも介さず、よどみなく筆を進ませて、回答をこなしていく。
 求聞持の能力とはそういうものらしい。

「……ああ、これはもう、私が御阿礼の子になるしかないようね」
 答案が回収された時点で、阿弥はさっさと離席しながら言った。
「誰がどう見てもそうなるわ。……この郷について記して、それでさっさと死ぬだけだけれども、とても重要な役目よ」
 気軽な言いざまだが、さすがに緊張していたのだろう。彼女は大きく伸びをして、こわばった筋肉を伸ばす。
 もちろん、全てが決まってしまったはずがない。極端な行為が許されるならば、不正はいくらでも可能だ――出題の出典となった文書を、はなから捏造してしまえばいい。
 それに気がついていない阿弥ではなかったが、まだ続けた。
「役目が重大すぎて、他の事は全部放っぽり出さなければならないでしょうね――そう、たとえば」
 稗田氏の家督とかね、と阿弥は言った。
 周囲は、その言葉の意味をはかりかねている。彼女は部屋の中を歩きながら、焦れったそうに言いつのった。
「……私は、御阿礼の子という存在と、この郷における稗田氏の惣領権とを、今この時から分離するつもりです。そうなればあなたが一族を率いて、この郷を代表すればいい……あくまで代表よ。支配はしない方がいいでしょうね……それだけを踏まえておけば、誰も反対しない」
 あなたという言葉は、もう一人の――だが、今や立場の喪失を待つばかりの――御阿礼の子に向けて発されていた。
「私はそれでも構わない。あなたたちは一族の主流となって、実利を得ればいいのです。……たしかに御阿礼の子という立場は、役目の都合上、妖怪との接触も多くなります。これを今の情勢で人里全体の代表とするのは確かに危険です。少なくとも当代は、この里の長者としての稗田と、縁起を遺す稗田とは、別に分けて考えるべきです」
 そう言いながら、阿弥は彼の――もう一人の御阿礼の子を名乗っていた青年の前に立ち止まり、膝を曲げて頭を下げた。
「私はあなたに稗田惣領を譲りましょう。大丈夫、あなたにはこの気難しい一族を治めるだけの能力が、存分にある――なによ、不満そうね。じゃあこうしましょ。私があなたの家に嫁ぎます。それで婚姻によって両統を収束させればいい。私、あなたとの子供が欲しいわ……いや、もう作ってるけど」
 狼狽し始めた相手の反応を、阿弥はあきれたように眺めつつ、自分のふところから、ほてる熱気にふやけた押し花の栞を取り出すと、彼の目の前に差し出した。
「私は全部おぼえているし、待ってたのよ、バカ」

「……それが、どうして行きずりの旅芸人との子だなんて話に?」
「知らん。あいつの自己申告だった」
 稗田屋敷は、婚礼の準備であわただしく人が出入りしている。そのせわしなさの中心にあって、阿弥と友人の白沢だけがのんびり茶をしばいていた。
「こればっかりは本人に聞きたいよ……しかし、あの旅芸人の一座が、妖怪の手の者だった事は確実だった。で、彼はなにかの事故が起こるのを防ぐためか、毎晩、私の寝所に影のように忍んで通った」
 そう言ったあとで、思い出すように苦笑いをした。
「最初の頃は、夜闇の中で枕元に侍してじっと守ってくれるだけだったんだけれど、そのうちに、だんだん図々しくなってきた。お互い若かった。事故を防ぐつもりが、事故を起こしてしまった。そんな自分が恥ずかしかったんじゃないのかな」
「変な一族だよ、君たちは……」
 友人は頭を掻きながら言い、ふと声を潜めた。
「――今さっき、君の春物の晴れ着一式が持ってゆかれた」
「うん」
 阿弥の方でもしっかりと気がついているらしくて、しかも友人以上に詳細な情報を言った。名前、住所、家族構成、なにより経済状況や、普段使っている質屋がどこかまで。
「ついでに言えば妖怪だ」
「……この人里の中で、こっそり潜むように生きているんだな」
「悪ふざけはするが、敵意は無い連中だよ。あまり締めつけすぎてもよくない。……しかし盗みは盗みなんで、あとで家の者をやっておこう」
「彼らの生き方もまた、あんたの言う止められない流れってやつかい」
「それによって引き起こされていることのひとつではあるんだろうな。彼らは力を失いつつある。力を保つために自分たちを保護する結界を求めている。……で、そんな余裕も無くって、人と交わるように生きていくことを選ぶ者もいる」
 阿弥は友人に向かってニヤッと笑った。笑いかけられた方は、居心地が悪そうに首をすくめる。
「……私みたいな半端者は、どう生きればいいんだろう」
「その悩みは君だけのものではないよ」
 相手の答えに友人がなにか言いたげな顔をしていると、屋外でざわめきが起きた。それも一人二人の混乱ではない空気だったので、二人も庭先に出ていく。
 無数の紙面が、ばらまかれてゆらゆらと宙に舞っていた。この日、人里一帯にばら撒かれた天狗の新聞は、阿礼乙女の婚約を祝う号外だ。
「……ま、これが今の連中にできる精いっぱいなのだろうさ」

 稗田阿弥とその夫の結婚生活は、(彼の存在は、この郷の曖昧な歴史の上では、稗田阿弥に寄り添うぼんやりとした影法師のひとつにすぎなかったが)おおむね円満だった――実情を言うと、おそろしく仲睦まじかった。……阿弥の友人の白沢が、ちょっと遠慮をしてしまったくらいに。
 彼女が久々、夫人となった友人に呼び出されて、応接室に通されたのは、婚礼から一年ほども経った後の事だ。
「向こうには惚れた弱みがあるからね。優しくしてくれているよ」
 などと嘯いてはいるが、どうせ惚れた弱みはお互い様だろうと、友人はこっそり看破している。
「……体に良くないものはやっていないようだね」
「うん。ここ最近はまっさらだな。でも、お酒くらいならちょっと付き合えるよ」
「やめておこう」
 相変わらず自堕落な生活を送っている自分のことを思って、友人は遠慮した。この夫人を、そうした道に引き戻してはいけない。
「……それで、どうして私を呼び出しただんだ?」
 少し視線を逸らして、戻した時には、阿弥の指に一枚の新聞記事が挟まれている。
「うちの宿六には首をつっこんで欲しくない事柄だ。つまり、妖怪たちの問題」
「……たしかに変な事件は増えてきているようだな。焼き場の死体が一つから七つに増えたり、昨日に無かったはずの屋敷が今日は有ったり、一家族がごっそり消えたと思ったら同じ場所で別の家族が生活し始めていたり……」
「歴史を知る君には、それが見えているんだな」
 阿弥は笑った。
「おそらく、妖怪たちが張ろうとしている結界の影響だろう。私たちはこれに対抗しなければならない。君の力が必要だ」
「止められない流れじゃなかったのか」
「もちろん止められるものじゃない。だが時間稼ぎをすることはできる……十年だ。十年あれば私たちは未来に幸いを遺すことができる」
 それが八代目御阿礼の子の使命だろうと、彼女は言った。

 郷の外れにある寂れかけた神社を復興させたのも、そうした備えの一つだった。
「あの巫女は、神職としてはともかく優秀な妖怪退治屋だ。妖怪がなりふり構わなくなってきている今、取り立ててやるのは当たり前だろう」
「褒めてんのかな、それって……」
「なにより、おおっぴらに娘のことを公表できるまで、養ってもらっていたからね」
「……もしかして、最初からそういう目論見だったんじゃないか?」
 友人は、ふと言った。
 求聞持の能力と、偶然できてしまった自分の子供とを利用して、分裂しかけていた稗田の一族を合一する――自分の手にある有利な要素を選択し、遂行する精神力さえあれば、そういう企図を数年前から描く事は、できなくもない。
「最大の不確定要素は相手の恋心と甲斐性だが……この場合、相手に対する信頼は大前提だ。婚姻とはそういう事だからな。君自身が誘惑する事だってできる……君は自分の乙女心すらも、この郷を取りまとめる道具に使った」
「さあね?」
 稗田阿弥はあやしく微笑んだ。彼女の行為は、常に情と利が絡み合っていて、よくわからない。
「ま、君の推理通りだとすれば、とんだ綱渡りだったわけだな。ここ数年、向こうにもなんやかやと縁談の持ちかけはあったみたいだからね。……だから手ぶらになっちゃった子らにも、ちょうどいい相手を紹介してやらなくちゃいけなくなった」
「……お節介を焼くのが好きなんだな」
「けっこう楽しいぞ? あちらとこちらの家の子女は相性が良さそうだなって、あれこれ思案するのは……」
「趣味がおばちゃんすぎる……」
 ともあれ、それらの各家の婚姻の世話もまた、人里内の結束を巧みに強める、彼女なりの政になっているようだった。

 一見、信念とは矛盾している勧告を出したこともある。妖怪退治にともなう人里内での乱闘を禁じた事などは、里人に無用の被害が起こるのを避けるためという建前とはいえ、妖怪退治を生業にしている者たちには、不満がつのる判断だっただろう。
 それでも阿弥はあざわらうように言った。
「里内に身を潜めている弱っちい妖怪たちを虐げて、せこせこ実績を稼ぐくらいなら、妖怪の山にでも突っ込んでくればいい」
 だけではなく、実際に自らの腹心といえる巫女を上手くおだてて、妖怪の山の要塞に単身突撃させた。巫女は一晩じゅう妖怪たちと大立ち回りを演じ、血みどろになりながら生還した。
「君はあの巫女さんの名を上げさせつつ、里の中にいる弱い妖怪たちを保護したわけだ」
「妖怪なんかに良いも悪いもないが、それでも弱者は確実に存在している。彼らを守ってやることが、いつか幸いになるやもしれない」
「ふむ、幸いね……」
 もしかすると、獣人である自分を守るつもりで、そういうことを始めたのかもしれないと、白沢はこっそり思っている。
 この友人と阿弥の会話は、巫女の見舞いに神社に向かったあとの、帰りの道でのことだった。昼下がりの移ろいやすい天気を眺めながら、友人が続ける。
「……それはそれとして、思った以上にぴんぴんしていたね、あの巫女は」
「性根がのんきの極みみたいな女だからな」
 それだけで説明は充分だというふうに、阿弥は言った。
 人里にいたる道のなかばで、ついに天気が崩れ、白沢は手にしていた傘を差して、稗田夫人を雨に濡らさないように守った。
「夕立というには穏やかすぎる」
 と阿弥はぽつりと言ったが、たしかに、大雨のようにばらばら傘を叩くような雨粒なのに、勢いは変にまばらだった。きれぎれの雲の下に沈みつつある、西日のまぶしさに目を細める。
「妙な雨だな。さっさと里に戻ったがいい」
 しかし、人里に入ったところの辻で、阿弥はふと足を止めた。彼女の視線の先、西日が雨粒をきらきらと輝かせる中で、雨は降り続けている。
「どうした?」
「よく見なよ。見て、観察して、記憶するんだ……ね、この場だけは、雨の降り方に法則性がある。たしかに複雑な運動、気まぐれな反復のようにも見えるけれど、緻密な織物のようにパターンがある」
 そんなことを呟きながら、阿弥は傘の外に、ふらりと歩み出した。
「……君は待ってろ。ずぶ濡れなんかになりはしないさ」
 彼女がよどみなく、確信を持って左右に雨粒を避けながら進んでいく先――辻の隅、軒下には、なにかがうずくまるように待っていた。
 はたから見ていると、会話は、数言で済んだようだ。やがて相手は、ぼろきれのようにその場に平たくなって消えた。雨が止む。稗田阿弥が一滴も雨に濡れず友人のもとに戻ってきたとき、西日に照らされた世界は黄金色になっていた。
「結界を張るのは、私が死ぬまで待っていてくれるって」
 と阿弥は言った。
「……待つということは、さっきの妖怪は結界に反対しているのか」
「真逆。むしろ推進派の首魁。でも最近、ちょっと難しい立場みたいでさ……難しくなかった事なんて一度として無いだなんて本人は嘯いていたけれど、たぶんそれも真実」
「だとすると、待つことでなにを期待しているのだろうか」
 と友人は首をかしげる。阿弥は答えた。
「彼女は、この里の人間が妖怪を認めることに期待しているらしい。別に、受け入れろだとか、仲良くしろだとかではない。私たちが今ここにいると、その存在を認めてくれと。……そうした認知がなければ、大結界が張られたところで自分たちは確実に破綻するし、破綻すれば反対派はまたたく間に妖怪たちの主流となって、結局中途半端な結界に終始したまま滅びるだろうと。……勝手に滅びろって感じだが、まあ、私たちにも影響のある話だからな」
「そんなに会話をしていたようには見えないが」
「実際には、やりとりはこんな感じだったんだ。
「私は言った……“私が言いたいことは君も察しているだろうね”。
「相手は言った……“おそらく、私の答えもあなたは察しているでしょう”。
「私は尋ねた……“自分の信念に固執するつもりかい?”。
「そして奴は答えた……“ええ、絶対に”。」
 友人は頭を掻いて、ぼやいた。
「……そばで聞いてなくてよかったよ。私がいたらきっと馬鹿をさらしていたところだ」
 先のことを語ってしまうと、稗田阿弥はこの数年後、ちょうど年丗で死ぬ。それまでに行った事は、すべて後の世代のための備えだったと言っていい。
「私は死ぬし、妖怪どもと寿命勝負をするつもりもないよ。そういう、相手の失策を待つような戦略をしていていい身ではない。……たとえ将来的に失敗してもいいから、残るものを作ろうと思う」
「人間の営みそのもののようだな」
「事を引き継いでくれるのが信頼できる者なのは、この上ない幸運だ。先立ってしまうのは心苦しいがね」
 阿弥はそのときに備えて、あろうことか自分が逝った後に残された、稗田の男やもめにあてがう後妻にまで見当をつけていた。
「それはさすがにやりすぎじゃないかい……」
「だが必要になるだろう。ことは貞節の問題じゃないんだよ。彼とその子孫たちには、なんとしてでも稗田家を守り続けてもらわにゃならん。私はまた彼の子孫に転生できるというだけで満足だ」
「……ちょっといい?」
「え、なに。いいけど」
「さすがに重すぎだと思うぞ」
「そうか……?」
 ともあれ、こうした時だけは乙女を秘めた笑みになるのだから、ずるい女だった。

 そして稗田阿弥は先立たれた。彼女よりも長生きしてくれるはずの夫は、政治闘争とか、病とか、誰かしらの悪意とか、そういった不吉な前兆すらなく、ころりと逝ってしまった。
 人間の営みの中では時々あることだ。

 あとは最悪の状況の連なりでしかない。主人の葬儀にかかわることがあらかた終わった阿弥のもとに、友人が訪れてみると、未亡人は完全に阿片に耽溺していた。
「――ああ、来たな」
 彼女はただよう煙の中でだるそうに言った。以前よりも度を過ぎた喫煙であることは、一目でわかる。
「じゃあ始めようか。まずこの記事を読みなよ――郷外れの小さな集落で、八人死んだって話だが」
「いや。その前に、遅くなったけれどお悔やみを……」
 本当に遅い、と友人は内心恥ずかしく思うが、しょうがないことでもあった。一応見送りの末席に顔は出していたが、あわただしい中での事だし、自分はそこまで馴れ馴れしくしていい存在ではない。話しかけることはついぞできなかった。
「このたびはなんというか――」
「いい、思い出させないで」
 阿弥はぴしゃりと言った。
「あの人のことは死ぬまで忘れることにする」
 無理な話だろう、と友人は思った。

 稗田阿弥は年丗で死ぬ。

「……死ぬたびに、とりあえず説教部屋送りにされている気がする」
 と死後の稗田阿弥はぼやいた。
 それにしても、今回の説教部屋はひどい。是非曲直庁の予算不足はついにここまできたかというような簡素さだった。間仕切りで四方を囲まれて、棒と板だけで構成された椅子と机だけ。
 そこに閻魔が入ってきたとき、間仕切りの一枚が不安定にぐらぐらと揺れたので、思わず笑ってしまった。ちょっと工夫すれば、四方に展開するように、ぱたりと倒れてしまうのではないか。
「なにか……?」
「またしても閻魔様に出会えるのが嬉しくて笑顔なのです」
 下手なおべっかを言って、ごまかすつもりもなくごまかしてみたが、相手は笑わなかった。
「……また、やらかしたようですね」
「先代のやらかしなんか知ったこっちゃない私にとっては、一度目のやらかしだけどね」
 阿弥は閻魔に向かって気安く言った。
「ですが私にとっては八度目の説教となります。そう、貴方たちは少し場当たり的すぎる」
「彼らの分までは記憶できないんだから、しょうがないだろ」
「言い訳まで同じだと、確実に転生した同じ魂だと実感できますね」
 しかし、と相手は言った。
「今回は少々説教が長くなります。なぜだかわかりますか?」
「しらなーい」
 閻魔はため息をつく。
「……あなたの判断が間違っているとは思いません。妖怪たちが大結界を張ることは避けられないでしょうし、失敗すれば、おそらく里の人間たちも破滅するでしょうから」
「私たち人間にしても、結界の外に住む人たちとは、なにもかも違ってしまっているだろうからね。完全に変質していて、ただ人間という意識と幻想が強固にあるだけだ。――そして妖怪たちだって、世間一般の妖怪からは、もはや大きく変質してしまっているのだろう」
 閻魔は頷いた。
「私もそう思います。……ですが、こうした事例は非常に珍しい。今、この土地は人妖が対立しつつも共生できる社会のモデルケースとして、よその地獄なんかからも、ちょっと注目されているんですよ」
「……結界の外で、この島国の文明開化が諸外国から注目されているように?」
「まあ、そんなところですかね。しかし今後、上手くいくかまではわからない。追従しようにも珍品すぎる事例ですし、面白くなくて破綻や失敗を望んでいる者たちもいるでしょう」
「あとに残った連中が上手くやるさ」

 実際、阿弥の死後に大結界が張られた後、人里内部の混乱は最小限に抑えられた、とある。直前には八代目御阿礼の子とその夫が死んでいて、彼女たちの娘は聡明ではあるがまだ年少という、優秀な指導者を欠いた状態であったにもかかわらず。
 だが、阿弥と妖怪の賢者がともに図った策が、結界の中にいる者たちを救った――結界は、かなり早い段階から、なぜか博麗大結界と呼び習わされるようになっていた。妖怪たちの大結界は言祝がれたのだ。博麗神社――ひとたびは零落し、祭神すらさだかでない状態になりながら、稗田阿弥によって再発見された、幻想郷の守護者――の名前によって。
「結局、混乱と怨嗟を振りまくよりは、さっさと祝ってやった方が丸くおさまる」
 それが、稗田阿弥が廃人になりかける中で出した、最後の結論だった。

 稗田阿弥の娘は、両親の寿命を吸い取ったように長命で、百寿を越えるまで生きた。そして九代目御阿礼の子の生誕に至るまでの状況を整備しつつ、稗田氏を守り続けた。
 だが彼女は御阿礼の子ではないので、その父親と同じく、後代には名前すらしっかりとは残っていない。

 友人の白沢も同様に、御阿礼の子にのみ焦点が合わさった銀板写真の、その周囲に立っているぼやけた影法師でしかなかった。彼女の名前が登場するのは――ついでに、白沢ではなくワーハクタクという独自の種族名が冠されるのも――、実に百数十年も後のことだ。
 それまで彼女は少女のように生きた。獣人としては規格外の長命といえる。

「……あのぉ、ちょっとよろしいでしょうか」
 閻魔様の説教の途中で、間仕切りをがたがた揺らしながら入ってきた死神は、阿弥をこの部屋まで案内した顔だった。
「やあ、また会ったね」
 阿弥は気軽に言う。
「なにか忘れ物?」
「……この人とちょっとだけ、お話してよろしいでしょうか」
 閻魔は、無言で席を外してくれた。
 死神はその背中を気にしながら、こそこそと阿弥に詰め寄った。
 が、なにかを言いかける前に、阿弥はその鼻先に、小さな帳面を差し出している。
「もう用は済んだから、返すよ」
 相手は気が遠くなりながら帳面を――人里の住人たちの寿命が薄墨で記してある――ひったくり返し、ぱらぱらとめくる。それから、声をひそめて尋ねる。
「……事と次第によっては、あたいは懲戒なんだよ。てめえいったい、どこのどいつの寿命を増やした?」
「あなたの筆跡は綺麗だね。超真似しやすかった」
「あんたねぇ……」
 減らず口を叩いているうちに、閻魔が戻ってきた。そして、どう考えても事情を察している様子で、
「まあいいではないですか。いったい妖怪かも人間かもわからない誰かの寿命が、百年二百年くらい増えたところで、誰かさんの帳尻合わせのための仕事が増えるだけです」
 そう言うと、唖然とする部下に向かって、なぜだか妙に誇らしげな笑顔を向ける。部下の死神は嘆息した。
「……お役所ときたら!」
 彼女が言いながら乱暴に出ていくせいで、説教部屋の間仕切りはぐらぐらと揺れる。
 残された二人は構わず話を続けた。
「……それで、あなたは誰かさんの寿命を延ばしてやって、どんなことを託したのですか」
「単純だよ。百なん十年後に難しい情勢になっていれば、九代目の御阿礼の子を守って欲しいと、それだけだ。……昔ほどには血みどろな事にはならないと思うけれどね」
 そう言ってから、阿弥は不敵に笑う。
「閻魔様はなんでもお見通しなんだろ?……まさか、それが説教の理由?」
「あなたは愛されていたのですね」
 話題のふちをつたうように、閻魔は言った。声にはわずかに疲れが見える。
「夫婦は似るとはよく言ったものです。……彼の魂は、もうここ何年も、あの手この手で自分の裁判を遅延させて、あなたを待っています。それが説教の理由」
 これから二人一緒に説教ですからね、と呆れたように言い添えると、閻魔は人を召喚する鈴を、ちりんちりんと鳴らした。

 稗田阿弥は、数年前に葬られた夫と、同じ墓所に合葬された。
 表向きは、かつて対立した同族の合一を象徴するため、という政治的な理由になっている。
最初は概要欄に「信じないでください。」と書いておこうと思ったのですが、さすがにそりゃ不誠実がすぎるよねと思い直して「すごい。」になりました。
すごい。
かはつるみ
https://twitter.com/kahatsurumi
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2.90竹者削除
よかったです
3.100名前が無い程度の能力削除
すごい。
4.100東ノ目削除
信じないでください、というか世界の正史として信じようがないなかなかにぶっ飛んだ歴史だな、という設定なのですが、少しでも雑に書いてしまえばボロが出て荒唐無稽になるところ、物凄く丁寧に書いていることで一つの歴史として矛盾なく受け入れられるのが毎度ながら見事だと思いました
5.100南条削除
面白かったです
歴代御阿礼の子たちが次代に託したバトンが今ここにあるのを感じました
そして9番目へ
6.100きぬたあげまき削除
皮肉屋たちの(表向きでない、ひねくれた)良心を感じて、彼らが非常にいとおしくなりました。たとえ阿片吸ってたり(見せかけの)野合をしたりしていたとしても。