生と死の境界
もう嫌だ。
こんな世界うんざりだ。
消えろ、失せろ、壊れろ。
何度祈ったことか。何度願ったことか。
けれど、ちっとも叶わない。
――だから、自分が消えることにした。
◇ ◇ ◇
樹海というのは言葉通りの場所だ。
三百六十度、どこを見回しても同じような光景ばかり。
昼間でもほとんど光は入らず、方角も分からない。
――けれど、死に場所には最適かもしれない。
誰にも発見されることなく静かに一生を終える。
ここだったら、それが可能なように思える。
樹海に入ってからどれほど経っただろうか。
身元が確認されるようなものは全て廃棄して身一つなため時刻も分からない。
けれど、もう相当奥まで来たはずだ。
そろそろいいかもしれない。
一本の樹を選ぶ。
幹ががっしりしていて、枝も太い。これなら自分の体重にも耐えられるはずだ。
懐から唯一の持ち物のロープを取り出す。
死のうとしているのに何の感慨も沸いてこない自分にちょっとだけ嫌気がさした。
「あら? 貴方も死にに来たのかしら? 最近多いわねぇ」
突如背後からかけられた声に、俺は思わず固まった。
人の全く気配を感じることができなかったからだ。
振り返ると、一人の女性が手に傘を持ち胡散臭く微笑んでいる。
なぜか背筋に嫌な汗が流れた。
「……ああ、そうだ。自殺だ。だから出来れば止めないでくれると助かる」
「止めないわよ。なんで私があなたの自殺を止めなきゃならないの」
彼女は不満そうに口を尖らせた。
そのことにちょっと拍子抜けしてしまう。
けれど、もうここで自殺することは難しい。
溜め息と共にロープをしまうと、俺は再び樹海の奥へと歩き出した。
「……どうして俺についてくるんだ?」
「向かう方向が同じっていうのはどうかしら」
「嫌な理由だな」
自分の歩幅に合わせて、金髪のその女性は俺の後を追ってきていた。
これではわざわざここまで来た意味がない。
少しそのまま歩き、機を見計らって走り出した。
後ろからの声も気にせず走り続ける。
しばらくして蔦に足を引っ掛けて躓き、俺は動きを止めた。
これだけ走ったのだから、流石についてこられないだろう。
それにここは樹海だ。人探しには最も向いてない場所である。
「手から血が出てるわよ?」
だから、隣から聞こえてきた声には心底驚かされた。
汗一つかかず涼しい顔で、先程の彼女は傘を片手にこちらを覗きこんでいた。
差し出されたハンカチを丁重に断り、俺は黙って再び歩き出す。
彼女は二、三歩の距離を置いて再び付いてくる。
それから後。
走って逃げ出した回数が五回。さり気なく隠れた回数が三回。諭し、付いて来ないように頼んだ回数は数知れず。
何回やっても彼女から逃れることは出来なかった。
歩き疲れ、根負けして、俺は太い木の根元に腰を下ろす。
平然と彼女は隣に腰掛けてきた。
「貴方は、何故自殺しようと思ったのかしら」
荒い息を整えていると、唐突に彼女が尋ねてきた。
何故。
何故彼女の問いに答えようと思ったのか。
自然と俺は口を開いていた。
「最初は良かったんだ。平凡な会社に勤めて、それなりに出世して。奥さんもできて、子供も二人いて――男の子と女の子が一人ずつなんだ。華やかってわけじゃないけど、俺は幸せでいい人生を歩んでるって思ってた」
彼女は相槌を打ちながら、話を聞いていた。
一度口を開くと、もう止まらなかった。
「中学時代からの親友に金を貸したら、二度と返ってこなかった。働いても働いても借金が増えるばかり。家には毎日のように借金取りがきた。妻子に泣きながら『別れてくれ』って言われて……。 もう俺には何もない! なにもないんだ……」
途中で自分が泣いていることに気づいた。
そういえば、あの地獄のような毎日で自分は一度も泣いたことはなかった。
泣いたら何かが壊れると必死に自分に言い聞かせていた。
「頼む……頼むから、俺を一人にしてくれ。俺はもう疲れた。一人で死にたいんだ!」
「嫌よ」
「……っ!」
初めて彼女は口を開いた。
それは心からの叫びに対するきっぱりとした拒絶だった。
「何故だ。俺の命は俺だけのものだ。 もう俺に構わないでくれ」
膝の中に顔を埋めた。
涙がどうしても止まらない。情けない。
ふっ、と柔らかな香りが鼻を掠め、気が付くと俺は後ろから彼女に抱きしめられていた。
「命の燃え尽きる様を誰にも見届けられないなんて悲しすぎるわ。この世界では多くのものが忘れ去られ、風化していってしまう。だから私はそれを記憶し続ける。大多数の人にとってはどうでもいいように流れていってしまうことさえも、ね」
一笑に付すような話だ。
けれど彼女の瞳には冗談の意など欠片も浮かんでいなかった。
「だから貴方が死ぬというならば、この私が見届けましょう。けれど、覚えておきなさい」
するりと俺を抱きしめていた手が離れていった。
「貴方が死のうとしている今は、昨日死んでいった人がどんなに生きたいと願っても届かなかった今だということを」
耳元で紡がれた言葉が強く胸に突き刺さる。
その言葉を発した彼女はどこか寂しそうな表情を浮かべていた。
思わずうな垂れ、死に走った己の思考の短絡さを悔いた。
彼女には何かこのような台詞を発する原因となる過去があったのかもしれない。
だとすれば、今の台詞は彼女自身を酷く傷つける。
「……やっぱり、貴方みたいな人が死ぬのはちょっと惜しいわ」
「俺はそんなにいい奴じゃない」
「それは嘘ね。私が貴方の後をつけた時、私に手を上げるという選択肢もあったはずよ。貴方はそれを選ばなかった」
彼女は再び俺の隣に腰をかけた。
「それは……思いつかなかっただけだ」
「じゃあ、貴方が樹海で死にたいと思った理由。『誰も見てないところで死にたい』なんていってたけれど、実は『誰にも迷惑をかけたくない』って気持ちの裏返しなのではなくて?」
「それは――」
俺が沈黙し、静かな時が流れた。
数十分だったかもしれないし、もしかしたら一日くらいそうしていたかもしれない。
それは、人生において久しぶりに流れた静かな時だった。
色々なことを考えた。
両親のこと、家族のこと、友人のこと、同僚のこと。
昔のこと。今のこと。これからのこと。
彼女はその間ずっと俺の傍に佇んでいた。
「あら? どこへ行くのかしら」
しばらくして俺が立ち上がると、彼女が尋ねてきた。
その瞳には興味深そうな色が浮かんでいる。
「……やめた。貴方の見ていないところで死ぬことにしたよ」
「そう。私の住む世界に来るという手もあるわよ。そこなら一からやり直せるわ」
また胡散臭いことを言い出す。
けれど、彼女の瞳は再び真剣さを孕んでいた。
「やめとくよ。この年で一からってのは難しそうだ」
「あら、この世界ではマイナスからのスタートだと思うのだけど」
「そうだとしても、だよ。それにこの世界なら『経験』がある」
そう言うと彼女は酷く悔しそうにした。
「残念ねぇ。是非私の幻想郷に来て欲しかったわ」
「また死にに来た時は是非」
幻想郷。どこかの国のことを言っているのだろうか。
けれど、そんな理想郷のようなところに俺に似合わない。
こっちの世界で無様にもがくほうがお似合いだ。
「そうだ、貴方の名前は?」
「八雲紫と申します」
彼女は妖艶に微笑んだ。
なんとも胡散臭い名前だ。
「紫か……ありがとう」
けれどなかなか素敵な名前じゃないか。
そして、俺は頭を下げると彼女に背を向けて歩き出した。
もう、彼女はついてこなかった。
俺は歩いた。
当ても無く。けれど力強く。
木の根元に躓き転ぶ。足に茨が刺さる。
だが歩みは止めない。
そして、一枚の立て札を見つけた。
年月を経て色あせた、なのにどこか新しい印象を受ける立て札。
そこには矢印が描かれ、右を指し示していた。
数瞬思案し、俺は一度頭を軽く下げると右へと進んだ。
少し行くと、また立て札。そしてまた。
導かれるように歩いた。
歩みは次第に早まり、走りとなった。
暗い暗い樹海の中を、何度も躓きながら走った。
喉から叫びが零れた。
それは生への願望。そして執着。
膝から流れる血液。早鐘を打つ心臓。
俺は確かに『生』を実感していた。
突然視界が開け、現れたのはかつて通った山道。
迎えたのは、山の端から登る朝日。
世界が漆黒から曙色へと塗り替えられていく。
ゆっくりと膝を折り、俺は頭を垂れて静かに涙を零した。
◇ ◇ ◇
広い和室に敷かれた布団の上に、一人の老人が目を瞑り横たわっている。
呼吸はひどく不規則で、その寿命がもうすぐ尽きることを暗に示していた。
老人の周りには多くの縁者が集まり、届かぬ祈りを天へと飛ばす。
張り詰めた空気の中、世界で最も静かな時間が流れていた。
沈黙をやぶったのは掠れた声だった。
まだ十にも満たないような幼子の泣声。
それは、皆が共通して持つ悲哀の代弁であった。
堰を切ったようにあちこちですすり泣きの声が上がり、徐々にそれは大きくなっていった。
そして時が訪れた。
老人は声に促されたかのようにふと目を開けた。
動かぬ首を懸命に回し、辺りを見て微笑み、感謝の意と別れを皆に掠れた声で告げる。
そして一度深く息を吐き、目を瞑った。
目に見えて老人の顔から生気が失せ、力が抜けていく。
「貴方の眼の届かないところで、死ぬことができましたよ」
老人は最後に小さくそう呟き、微笑み、息を引き取った。
医者が慌てて近寄り、脈を取り、力なく首を振る。
一拍おいて先程より、一際大きい泣声が周囲から上がった。
部屋の天井傍に、二つの瞳が浮かんでいる。
誰にも気づかれること無く佇んでいる。
ふいに泣声と呼応するように、右側の瞳から透明な雫が一筋零れた。
「本当、こっちの世界で生かせるのには惜しかったわ」
述懐は誰にも届かない。もう、届かない。
その眼に浮かぶのは、
◇ ◇ ◇
とある高層ビルの屋上で。
一人の男が柵を越え、下の道路を見つめていた。
靴は脱いで丁寧に揃えられ、遺書と記された茶封筒と共に置かれている。
今日何度目の挑戦になろうか。
柵から手を離し、身を躍らせようとした男は、背後からの気配に気づく。
振り返ると柵越しに、金髪の美しい女性が傘を片手に佇んでいた。
目が合うと、彼女はにっこりと微笑むと、男が掴んでいる柵を揺らす。
男は咄嗟に柵にしがみついた。
足が震え、頭に血が上る。
「ひ、人を殺す気か!」
彼の叫びにはこたえず、女はもう一度妖艶に笑った。
「ねぇ、そこの貴方。こんなに天気のいい日に自殺かしら?」
彼女は、今日も、声をかけ続けている。
了.
紫様と男の会話など読み応えがあったと思います。
面白いお話でした。
でもまだ1アウトです…か。
良いこと言うじゃねえか、畜生。
次回作にも非常に期待。
ここが一番ぐっときました。
方向に向かいそう。
紫が声をかけ続けるのは、そういった損得勘定もあるんだろうけどきっと
それだけじゃない……涙の意味を思うと切ないです。
いいお話でした。