何処か何時か、暗い暗い地下の密室。
誰も訪れない、何も聞こえないこの部屋に、痛い痛い悲鳴が響き渡る。
助けて、助けてくれと……誰にも聞こえないのに、無意味な叫びを上げる。
―― ……ああ、まただ。また“私”に喰われたんだな。
ぼやける視界。紅く染まる視界。
何度も何度も見てきた、この血染めの世界。
“私”には眼がないというのに、何でこの世界を見る事が出来るのだろう。
どうして、見ていても面白くないこの惨劇を、繰り返さなくちゃいけないんだろう。
―― ……ああ、“私”が“悪魔”だからか……。
“私”は知っている。
“私”の事を、人々が何と呼ぶか。
“私”を紐解こうとし、そして其の者を無残に喰い散らかす。そんな“私”は……。
―― 悪魔の棲む本、と……。
* * * * * *
「それではパチュリー様、明日は休暇を貰いますね」
紅魔館の地下、とてもとても広い大図書館。我が主、パチュリー・ノーレッジ様の書斎。
そろそろ日付も変わる頃、私は図書館での仕事を終えたところで、パチュリー様にそう告げた。
「あら、そんな事言ってたかしら?」
「酷いですよぅ。1週間前からそう言ってるじゃないですか」
ムスッと、頬を膨らます。
もう、パチュリー様ってば意地悪なんですから。
「冗談よ。私としても、あなたがいない方が静かに本を読めるから構わないわ」
「ああ、私はこんなにもパチュリー様を愛しているというのにこの扱い……。
やはりあれですか、パチュリー様はいわゆるツンデぎゃふっ!?」
顔面に高速の鉄砲水が飛んできた。なんというノエキアンデリージュ。
「くだらない事を言わない。
とにかく、休暇を取るというならしっかり休みなさい。ただでさえあなたの仕事量は咲夜と同レベルなんだから」
「ああ、神様……どうかもっとパチュリー様が私に優しくなりますように……」
そう思うならちょっとは仕事を減らしてくださいよぅ。
あーあ、服がびしょびしょです。休暇だというのに風邪ひいちゃったらどうする気ですか。
「ところで小悪魔、あの本は?」
はいっ? あの本?
……ああ、あの本ですか。
「それ、私が休暇を取る度に聞いてません?」
「そう言えばそんな気がするわね。とにかく、あの本は休暇を取る前に探しておいてちょうだい」
はいはい、判りましたよー。
……まあ、私は“あの本”が何処にあるか知ってるから、探さなくてもいいんですけどね。
「それにしても、なんだって休暇の度にあの本を?」
「そ、それは……」
私がそう質問すると、少し頬を赤くして俯くパチュリー様。
うふふふ、知ってます、知ってますとも。パチュリー様が“あの本”に固執する理由は。
まあ、これを言ってはパチュリー様に手痛いお仕置きを受けるので、パチュリー様のその顔を見るだけで満足しておきましょう。
あ、ちなみにその“本”は別にやましいモノではありませんよ?
魔法使いならば、誰もが一度は同じ系統の本を手にする事があると思います。
「と、とにかく、あなたは四の五の言わずに探しておきなさい。私はもう寝るわ」
読んでいた本を閉じて、そそくさと図書館の出口へと向かうパチュリー様。
「お休みなさいませ」
「……ええ、お休み」
最後にそれだけ言葉を交わして、ばたん、と図書館の扉は閉ざされる。
そして薄暗い大図書館を、無音の静寂が支配した。
「……うふふっ」
机の上にぴょんと飛び乗り、私は腰を落ち着かせる。
ああもう、本当にパチュリー様は可愛らしいなぁ。
恥ずかしがりやで、だと言うのに意地っ張りで、典型的ツンデレですね。
……知っていますよ。パチュリー様が一人でいる時の、もう一つの顔。
私は何時だって、あなたの事を見ているんですから。
そう、ずっとずっと昔から。
私があなたに真に仕える前から、ずっと……。
「……それでは、休暇を楽しませてもらうとしますか」
そうして再び、紅魔館の図書館に静寂が訪れる。
とさっ……と、1冊の本が机に落ちる音を最後に……。
* * * * * *
今から大体、70年くらい前の話だろうか。
“私”は、とある図書館に収納されていた。
どんな経緯でこの図書館に収まる事になったのかは知らない。
ただ、此処には“私”と同じような、魔力を持った本が多く存在するという事は知っていた。
あと、この図書館の持ち主が、人間ではなくもっと異質の存在だという事も。
そして、この図書館にやってきてから、何年か経ったある日の事……。
「此処が私の図書館よ。あなたのお目に適うかしら?」
「……これだけの魔道書、よく集めたものね……」
普段は滅多に使われないこの図書館に、久しく人の声が聞こえる。
片方は、数年ぶりに聞くこの図書館の主の声だ。
もう一人は……誰だろうか。
「それで、例の本は……」
「その辺にあるわ。自分で探して」
図書館の主の、何ともえげつない一言。この図書館にどれだけの本があると思っているのだろうか。
流石は“私”と同じく“悪魔”と呼ばれるだけの事はある。
「……まあいいわ。他にも興味深い本は沢山ありそうだしね」
しかし、もう一人の声の主も随分と大らかだった。
これだけの本を目の当たりにしてそんな事が言えるとは、よほど肝が据わった人物なのか、それともただの暇人なのか。
「あなたと私の友好の証よ。この図書館は好きに使いなさい。パチェ」
「そうさせてもらうわ。ありがとう、レミィ」
その会話を最後に、この図書館の主……レミリア・スカーレットの気配が遠ざかっていく。
今の会話から察すると、どうやらこれからはこの図書館を、パチェと呼ばれた誰かが所有する事になるのだろう。
……そうか、これからはまた、私の近くに誰かが……。
……また、私に喰われる者が、現れたという事なのだろうか……。
「……レミィも嘗めてくれたものね」
おやっ?
キィン……と、耳鳴りがしたような感覚を一瞬覚える。
「そこね。それだけ大きな魔力を持った本、探すなんてわけない事だわ」
ああ、なるほど。今の感覚は、声の主が感知魔法を使った影響なのだろう。
そう言えば、先程レミリア・スカーレットとの会話で、何かの本を探しているような事を言っていた気もする。
だけど、声の主から感じる魔力は、レミリア・スカーレットにも引けを取らないほど。そんな人物が、一体何の本を……。
……そう思った時、“私”の本体が、ふわりと宙に浮いて……。
「これが、噂の“悪魔の本”ね」
私の視界に映ったのは、紫のロングヘアで寝巻のようなローブを纏った、見るからに不健康そうな少女。
この少女が、この図書館の新たな主……。
……そう、これが本当に、一番最初の出会いだった。
“私”の全てを変えてくれた魔法使い……パチュリー・ノーレッジとの……。
* * * * * *
「ふぅ……」
朝、ね……。
この部屋には窓がないから、本当に朝かはいまいち判らない。
まあ、私が目を覚ましたんだから朝よね。さて、早く着替えて図書館に行くとしましょうか。
「そう言えば……」
着替えてる最中、ふと昨日の事を思い出す。
今日は小悪魔はいないのよね。休暇を取ると言っていたけど、果たして何をしているのやら。
あの子は1ヶ月に1度くらい、こうして突発的に休みを取る事がある。
いくら仕事が大変とはいえあの子も悪魔なんだから、その程度で疲労が溜まるとは思えないのだけど……。
そして不思議な事に、あの子が休暇を取っている間の行方を誰も知らないのだ。
美鈴に聞いても、紅魔館の外には出ていないという。
咲夜に聞いても、紅魔館の中では見かけないという。
自室に閉じこもっているのかとも思ったけれど、以前訪ねてみたら部屋はもぬけの殻だった。
紅魔館の外に出ていないのに、紅魔館の中にはいない。本当、何処に行っているのかしら。
……とにかく、今日一日あの子はいない。
……嫌なのよね。一人であの図書館にいるのは。
レミィに出会った頃は、一人でいる事に何ら疑問は持っていなかった。
だけど、レミィと出会って……友達と言うものが出来てしまってから……。
……私は一人でいる事に、抵抗のようなものを感じ始めていった……。
レミィはああ見えて、意外と友好関係は大事にする。
最近カリスマがどうのこうの言われているけれど、あくまで本性は誇り高き吸血鬼。
故に、一度友好関係を築いた者を決して裏切る事はない。我儘なのは本当だけど、その辺の誇りはちゃんと持っている。
だからこそ、レミィは私に優しかった。
だから私も、レミィに対して心を許す事が出来た。私の初めての“友達”として、付き合っていく事が出来た。
だけど……それ故に、私は誰かと共に在る事の温かさを知ってしまった。
そして……誰とも一緒にいない時、即ち一人の時に……恐怖に似たものを、感じるようになっていった……・。
勿論、こんな事を誰かに話せるわけもない。
レミィに話せば、まあそれなりには聞いてくれたと思う。だけど、後でどんな事になっていたか判ったもんじゃない。
美鈴には……なんか頼りたくなかったし。当時は今よりは頼りがいがあったけどね……。
とにかく、だから私は人知れずに、小悪魔を使い魔として傍に置いておくようになった。
とてもじゃないけど、思ってもらえないでしょうね。
私がこんなにも、孤独を恐れる魔法使いだなんて事は、紅魔館の誰にも……。
「さて……」
ああこう考えているうちに着替えも終わって、無意識に足が図書館の方へと進んでいた。
一人でいるのが嫌だとは言え、本の傍を離れるのはもっと嫌だ。
知識を求める私にとって、本を読まない時間と言うのは、食事を取れないのと同じくらいに辛い事。
まあ、私は別に食事を取る必要はないのだけれど。寧ろ咲夜が紅魔館に来るまでは、取っていない事の方が多かった。
人間と関わるようになって、なんだか生活リズムが人間みたいになってきて……。
人間って、本当に不思議な生き物ね。咲夜や魔理沙、霊夢に早苗とか……。
そうしている間にも、私は紅魔館図書館に辿り着く。
何度も魔理沙に破壊されてきた扉を開けると、そこには何時もの本の山が広がっていた。
「……本当、今日は静かそうね……」
そんな事を一人呟きながら、何時も本を読んでいるテーブルへと足を運ぶ。
「あら?」
テーブルの上に、一冊の本がぽつんと置いてあるのに気が付く。
昨日、この図書館を出たのは小悪魔が最後のはず。
あの子は本を出しっぱなしにして仕事を終わらせるような事はしないから、つまりその本は……。
「……ちゃんと探しておいてくれたのね」
少しだけ、頬が緩む。
図書館を出る前に頼んでおいた、例の本。それがちゃんと、テーブルの上に置いてあった。
ありがとう、小悪魔。心の中で感謝しつつ、その本を手に取る。
……? なんだかちょっと湿っぽい気が……。
……昨日ノエキアンデリージュを顔面にぶつけた気がするし、濡れた手で触ったせいかしら?
まあいいわ。その程度の湿気で読めなくなるわけはないんだし。
私は無言で椅子に座り、そっと本のページを開いた……。
* * * * * *
……………。
「……………」
なんと言うか、不思議な感覚だった。
新しい図書館の主……名前はパチュリー・ノーレッジと言うらしいけれど、とにかくこの魔法使いは、今までの連中とは全然違った。
“私”を読み始めてから、実に2年近く経っている。毎日毎日、一日の半分以上を“私”を読む事に費やして……。
今までの魔法使いは、せいぜい半年くらいで“私”を理解した……気になっていた。
そして、“私”に仕掛けられた罠に気付かず、その身を喰われていた。
だけど、この魔法使いは違う。もう何度も目を通しているはずなのに、一向に“私”を調べる事を止めない。
ただ黙って、時々レミリア・スカーレットやこの館の門番、妖精メイドが来るのをあしらいつつ、ひたすらに“私”を研究した。
「……ふぅ、こんなところかしらね」
そしてその日、今まで“私”を読んでいる最中は一言も喋らなかった彼女が、漸くその口を動かした。
「あら、終わったの?」
「……何時からいたのよ、レミィ。まあ、そんなところだけど」
何時の間にかこの図書館に来ていたレミリア・スカーレットに、彼女はそう告げた。
「で、その魔道書の謎は解けたの? 所有者の魔法使いが、悉く行方不明になっているっていう本だったわよね?」
「ええ。まあ、判ってみれば当然の事だったけど」
……えっ?
「この魔道書には、簡単なトラップが仕掛けてあるだけよ。
尤も、そもそも解読する事自体が難しい事だから、解読した事に満足して、誰も気付かなかったんでしょうね」
「へぇ、どんな罠?」
「聞けばつまらない事よ?」
「いいから」
「……この魔道書、術式のあちこちに間違いがあるのよ。ただそれだけの事」
「……本当につまらないわね」
……そ、そんな……。
“私”のその罠には、今まで誰一人だって気付かなかった。
この魔法使いの言った通り、“私”に書いてある術式には、非常に細かいところで間違いがいくつもある。
その小さな間違いを少しずつ重ねた上で、“私”に書かれた本来の魔法とは全く別の魔法を発動させる。
そして、その魔法に魔力を、そして身体を貪られる事……それがすなわち“私”に喰われる事だった……。
「まあ、確かにつまらないけれど……トラップとしてはとても有効よ?
これだけ難解な魔道書、解読する度にいちいちそれが正解かなんてチェックしていられないわ。
私は元々この本のトラップについては、ある程度予測を立てていたからいいものを、そうでなければ同じ道を辿っていたでしょうね」
「なるほどねぇ、まあ流石パチェだわ。そんな罠に引っ掛かるようじゃ、私の親友には相応しくないから」
「……全然誉められてる気はしないけど、とりあえずありがとう、と言っておくわ」
「あら、吸血鬼から賛美の言葉を貰えたのよ? もっと喜びなさい」
意地悪く笑うレミリア・スカーレット。対照的に呆れ顔でため息を吐くパチュリー・ノーレッジ。
……随分とアンバランスな親友もあったもんだ。柄にもなく、そう思ってしまった。
……ああ、だけど……。
“私”も此処までか……パチュリー・ノーレッジに秘密を暴かれてしまった以上、“私”はもう“悪魔の本”ではいられないだろう。
これからは、普通の魔道書として……その役割を果たす事になるんだろう。
まあ、でも……あんなつまらない惨劇をまた繰り返すよりは、“私”を真に紐解いてくれたこの魔法使いの力になるのも、悪くはないかな……。
「そう言えば、結局それってなんの魔法の本なの?」
「ん、召喚魔法よ」
「召喚魔法?」
……ああ、ちゃんとパチュリー・ノーレッジはそこまで把握していたんだ。
「ええ、魔界の悪魔を召喚し、使役する、ね」
「……そんなもの、召喚してどうするの? そんな事しなくても、既にこの館には悪魔はいるわよ?」
「こんな我儘な悪魔、使い魔にしたっていい事なさそうね」
「言ってくれるわね、そんな所も大好きよ」
あくまで笑うレミリア・スカーレット。だけど良く見ると、額に青筋を立てていた
「とにかく、これからこの魔法を使う準備をするから、レミィは図書館の外に出てて。邪魔だから」
「本当にストレートに言ってくれるわね……」
たぶん、相当頭に来ているだろうけれど……暴力に訴え出ないところをみると、意外と自制は利くみたいだ。
ぎりぎりと歯を食いしばりつつも、黙って踵を返すレミリア・スカーレット。
暫くした後、バタンッ!! と大きな音を立てて図書館の扉が閉まる音が聞こえた。
「まったくレミィは……」
自分で怒らせておいてその台詞か。凄いなこの魔法使い。
「……だけど、これで……」
……と、今まで調子よく喋っていたパチュリー・ノーレッジの顔に、急に影が落ちる。
その顔は、非常によく見慣れている気がして、だけど意識して見たのは初めてな気がした、とても……。
……とても、悲し気な表情……。
……そう言えば、何時もパチュリー・ノーレッジはこんな顔をしていた。
“私”を読んでいる最中、レミリア・スカーレットなんかが訪ねてくる時以外は、何時も何時も……。
真剣な表情で“私”を研究していたけれど、その瞳の奥は何時だって、悲しみと寂しさに満ち溢れていた。
「これで、やっと……」
その理由に、なんとなく“私”は気付いてしまった。
だからこそ、この魔法使いは此処まで必死に、“私”を紐解いていったのかもしれない。
この魔法使いは……。
「やっと、一人じゃなくなる……」
その時見せた、彼女の希望に満ちた静かな笑顔に……私は心奪われた……。
* * * * * *
1ページ、1ページと、ゆっくりとページをめくる。
もう何十回、いや何百回と読んだかもしれないこの魔道書。
70年ほど前、この紅魔館にやってきた私が、初めて研究した本だ。
この魔道書は、持ち主となった魔法使いが悉く行方が判らなくなると言った曰く付きの本。
だけど、私はこの本の謎……と言うか、この本に仕掛けられたトラップを解読した。
確か、2年くらい掛けたかしら。この本に仕掛けられたトラップにある程度気付いていた私は、とにかく慎重にこの本を研究した。
興味深かったというのもある。なにせ、私と同じ魔法使いが、この本を手にし、そして行方不明になっているのだから。
だけど、一番の理由は……。
……私にとってこの本は、ある種の“希望”でもあったから……。
思えば、私はあの頃から、今の紅魔館に起きている変化を察知していたのかもしれない。
咲夜がこの紅魔館にやってきた事。
妹様が地下を離れ、人と関わるようになった事。
レミィが再び、妹様と心を通わすようになった事。
幻想郷にやってきた事で、この紅魔館に住む者たちが……私を含め、大きく変わる事……。
勿論、具体的にそんな事が判っていたわけじゃない。
だけど、何時かは……レミィの心が妹様に、美鈴の心が咲夜に惹かれて行ってしまう事、それを心の何処かで察知していたのかもしれない。
……別に誰かに、私を一番に思ってほしい、そんな事を望んでいるわけじゃなかった。
それでも私は、そんな事になったら……何処かで私一人、孤立してしまう。そんな気がした。
勝手な妄想だったのかもしれない。心配しなくても、私は誰かと関わり続けられる事は出来たのかもしれない。
……それでも、私はこの本の力を欲した。
私の使い魔になってくれる誰かを、私の隣にいてくれる“誰か”を……。
そして、この本の正しい術式に辿り着いた私は……。
* * * * * *
ずっと前から、気付いていたのかもしれない。
パチュリー・ノーレッジは、孤独だったんだ。と言うより、孤独である事が不安だったんだ。
だから何時も、私を必死になって研究していた。とても寂しそうな眼をしながら、一人私を紐解いていたんだ。
私に記された魔法は、召喚魔術。それを駆使して、誰かにずっと傍にいてもらおうと……。
「……………」
図書館の床に描かれた魔法陣。その外で、パチュリー・ノーレッジは魔法使いにしか理解出来ない言葉で、呪文を詠唱する。
素早く、正確に、私の力を使いこなしていく。この人なら、万が一にもこの術に失敗する事はないだろう。
嬉しくもあった。
長い間、人間や魔法使いを喰らい続けてきた私。そんな私が、こうしてこの魔法使いの役に立てる事。
もう二度と、あんな惨劇を繰り返さなくてもいいという事。
……正直に言うと、私はもう飽き飽きしていた。
確かに私は、本の姿をした悪魔だ。最初は、人間や魔法使いを喰らう事に何の抵抗もなく、ただただそれが楽しかった。
だけど、何十と誰かを喰らい続けてきて……。
血に染まった世界を見続けてきて、私は次第に疲れていった。
ああ、つまらない。どうせ次の所有者も、勝手に失敗して勝手に私の餌になるんだろう。
変わらない世界。くだらない欲望。つまらぬ好奇心。
そんなものをずっと見続けてきて、そしてこれからもそんな世界を見続けると思って、正直飽きない方が異常だと思う。
誰か、私を真に使いこなしてくれる魔法使いは現れないのか……。
ずっと私は、それを望んでいた……。
こうして正しい使い方をされるのは、私の願いが叶ったという事でもあるんだ。喜ぶべき事なんだと思う。
……だけど、私は……。
……今少し、残念でもあった。
正しい術式を組んで私に記された魔法を使えば、魔界の悪魔を召喚し、使役する事が出来る。
きっとパチュリー・ノーレッジは、それで孤独じゃなくなるだろう。
きっとこの人は、寂しそうな瞳を浮かべる事はなくなるだろう。
だけど……。
……だけど、今度から私は、そんな幸せそうなこの人を、見ていなくちゃならないのかな……。
私は、さっきのこの人の笑顔を見てから、ずっとこう思っていた。
『ああ、この人の傍にいたい。この人の笑顔を、傍でずっと眺めていたい』と……。
『私が、人の形をした悪魔だったら』と……。
もし私が人の形をしていて、もしこの人と言葉を交わす事が出来たら……。
私は、この人の使い魔になりたかった。こうして召喚魔法を使わせるまでもなく、彼女の下で永遠に生きていたいと思った。
……それほどまでに、私は彼女に惹かれていた。彼女の笑顔に、心を奪われていた。
初めて私は、誰かを愛する事を知ってしまった。
私は、どうすればいいのだろう。
これから笑って生きていけるであろう“パチュリー様”を、祝福すればいいのだろうか。
それとも、これから召喚される誰かを、嫉めばいいのだろうか。
……どちらにしたって、私自身にはもう何もする事は出来ない。
確かにそんな未来は……いろいろな者を喰らい続けてきた私には、お似合いなのかもしれない。
パチュリー様の孤独を私が引き受けるのだと思えば、少しは苦しさも和らいだというものだった。
……でも、やっぱり……。
「……………」
パチュリー様の呪文も、もうそろそろ終わる。
もう少しで、パチュリー様の傍にいてくれる誰かが、この空間にやってくる。
……やっぱり、嫌だな。
私はこの人に、幸せになってほしい。
だけど、それ以上に……。
私がこの人を、幸せにしてあげたい。
……そして……。
柄にもなく、悪魔だというのに、私は祈ってしまった。
全く神なんてものを信じない、寧ろ神に仇名す存在だと言うのに、神に祈ってしまった。
神様、どうか私を……。
「私を、この人の傍にいさせてください……!!」
「えっ!?」
呪文を唱え終わった直後に、何かに驚いたパチュリー様が、急に私から手を放す。
地面に角から落ちたおかげで、私の身体は、二回三回と地面を跳ねる。痛い痛い!
そうして何回か上手い具合に転がって行った私は、そのうち地面に横たわった。痛たたた……。
あれ、私が落ちたこの場所って、魔法陣の中心部……?
「あっ、ちょ……」
慌ててパチュリー様が、私を拾おうとする。
だけど次の瞬間、呪文を唱え終わっていたがために、待機状態にあった召喚魔法が発動した。
……って!!
私がまだ魔法陣の中にいるんですけど!?
ちょ、ちょ、ちょっと待って!? 魔法陣の中に私という異物があったら、この魔法失敗するんじゃない!?
そうなったら確実に私は巻き添えだよね!?
そんな事を考えている間にも、魔法陣を光が包み込み、次第にパチュリー様の姿も見えなくなる。
あああああぁぁぁぁ!!
これは酷い!! いくら私が悪魔だからってこの仕打ちはないですよ神様!!
やっぱり悪魔が神に祈っちゃいけないんですか!?
やっぱりあなたは私達魔族が嫌いなんですか!?
いいじゃないですかちょっとぐらい!! 私はパチュリー様の傍に!!
パチュリー様の傍にいたいんですからああああぁぁぁぁぁぁ!!!!
* * * * * *
……本当に、この本は不思議ね。
小悪魔がいない時は、私は凄く寂しい思いをしていた。
悪魔といえど、あの子も病気になったりで何回か仕事を休む事もある。怪我をしたりで、図書館に来れない事もあった。
……主に私の実験のせいだというのは、否定しないけれど……。
だけど、小悪魔がいなかったとある日、私は久々にこの本を見かけた。
テーブルの上に置いてあったから、恐らく小悪魔がうっかりしまい忘れたのだろうと、特に気に止めはしなかったけれど……。
まあ、久々に読んでみるのも悪くはないわね。そう思って、私はこの本を手に取り、読み始めた。
なんだかんだで、ある意味では私の始まりとなる本。
私の中でも、それなりに特別な意味をもった本でもあったから。
……そして気付いたら、その日は終わっていた。
ただ今まで読んだ内容を復習していた、その程度の事のはずだったのに、あっという間に時は流れていた。
正直な話、凄く驚いたわね。
そんな長い間本を読んでいたつもりもなかったのに、私の孤独な一日は一瞬で終わった。
……いや、違うわね。
その時の私が何より驚いたのは、その本を読んでいる間の私が、全く孤独を感じなかった事。
何故か、傍に誰かがいてくれているような気がした。
ずっと私の事を、優しく見守ってくれているような気がした。
「……くすっ」
少しだけ、頬が緩む。
今こうしてこの本を読んでいても、私は全然寂しくない。
本に書いてある内容は、確かにもう暗記するくらいに読んだもの。
見ていてもつまらないはずなのに、見ていて凄く安心する。
だから私は、小悪魔が休暇を取る度にこの本を探させていた。
この本と一緒なら、私は孤独を感じないでいられるから……。
本当に、この本には感謝しているわ。私の傍で、一緒にいてくれる事に。
……そして、こうして毎回この本を用意してくれるあの子にも……。
この本以上に何時も傍にいてくれる小悪魔にも、感謝しないとね。
* * * * * *
「ふみゅぅ~……」
ああ、なんだか一瞬意識が飛んでた気がする……。
意識が元に戻った時、私の視界には図書館の天井が映った。
……つまり、私は生きていられたのか。ちゃんとこうして、さっきと変らない景色を見ていられるんだから。
だけど、じゃああの魔法はどうなったんだろう……。
「あら?」
と、いろいろ考え始めた私の耳に、パチュリー様の声が届く。
どうやらパチュリー様にも何も起きなかった様子。本当に、どうなったんだろう。
「あなたが、私の使い魔?」
あれ?
なんだ、魔法はちゃんと成功したんだ。私が魔法陣の中にいても、あまり関係なかったのかな?
さてさて、どんな使い魔が召喚されたんだろう。
……そう思って回りを見てみたのだけれど、私の視界にはパチュリー様以外は映らなかった。
「何処を見ているの? あなたよ、あなた」
うーん、パチュリー様は誰に向かって話しているんだろう。
私の方を向いているから、魔法陣の中にいると思ったのだけれど、私の前にも後ろにも上にも、少なくともパチュリー様の目線の先にはだれもいない。
……って、あれ?
私って、こんなにあちこちに視界を動かす事、今まで出来たっけ?
「……それにしても、思ったより貧弱そうな悪魔ね……」
私の傍まで足を進め、膝を折るパチュリー様。
ああ、まずは私を回収してくださるんですか。そう思ったのだけれど……。
……確かに、パチュリー様は私に触れてくれた。
だけど……。
「ほら、早く立ちなさい」
いつもと違う感触。
視界に移る、誰かの手。
あ、あれ? 私の傍にはだれもいないはずなのに、この手は誰の……?
そう思って、パチュリー様が持つ誰かの手へと、目線を動かして……。
「……あ、あれっ?」
その手が、自分の身体から出ている事に……。
……自分の、身体……?
「えっ……えええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?!?!?」
図書館に響き渡る、私の叫び声。
「煩いわね。何をそんなに驚いているの?」
い、いや、そりゃ驚きますよ!!
私はただの魔道書ですよ!? 数分前まではあなたの手元にあった本ですよ!?
そ、それが何だってこんな姿に!?
髪はワインレッドの長髪、服装は黒いスーツと白いシャツ、黒いスカート。
背中と頭には二対の黒い羽。自分の意思で動かす事も出来る。腰には黒い尻尾も。
あ、あと……胸も大きいなァ……。私、女性だったんだ……。
って、そうじゃなくて!!!!
「あ、あの、パチュリー様……?」
「あら、私の名前はもう知ってるの? 魔界では先に仕える相手を教えてくれるのかしら?」
いやいやいや、そうじゃなくて!!
「そ、そうじゃなくて私は……」
「で、あなたの名前は? これから私のために働くんだから、それくらいは教えなさい」
こちらの反論を許してくれないパチュリー様。
な、名前ですか……。
……ぐちゃぐちゃになった頭を、何とか落ち着かせる。
とにかく、パチュリー様が今は話しかけているのは、私。
今ここにいるこの女性は、私。
さっきの魔法、やっぱり失敗だったんだな……。
私という異物が魔法陣の中に入って、術式が組み替わって……。
……魔道書だった私は、こうして人型の悪魔の姿に……?
いやいやいや、全くわけが判らない。
この世界に召喚される予定だった悪魔と融合しちゃったとか、とりあえず説明が付く理由はいくつか見つかる。
だけど、なんだって急にそんな事になったのかが判らない。
私が人の形になりたいと、パチュリー様の傍にいたいと願って……。
そうしたら、急にパチュリー様が私を落として、偶然魔法陣の真ん中に落ちて……。
それで私がこの姿になった? 都合が良いにもほどがある。
ほどがある、けど……。
……でも私は、こうやって身体を手に入れる事が出来た。
パチュリー様と話す事が、パチュリー様の傍にいる事が、出来るようになったんだ。
そして、パチュリー様は私に『これから私のために~』と言って下さっているんだ。
だったら私は、その期待に……私の願うままに、その言葉に答えていいんだと思う。
私は……私はパチュリー様の傍に仕える使い魔。それでいいんだ!
「名前は……パチュリー様のお好きなように呼んでください」
私は、そう答えた。
元々、私に名前なんてない。強いて言うなら、あの本の名前がそのまま私の名前。
だけど私には、もうそんな名前はいらない。
これからは、パチュリー様のお傍にお仕えする身として、新しい名前を……。
「……じゃあ、小悪魔。そう呼ぶわ」
……えっ?
「ちょ、それ名前じゃないですよね?」
「ええ、そうね。なんだかあなた、まだ弱そうだから」
「酷くないですか?」
「私が認められるくらいに強くなったら、ちゃんと名前を考えてあげるわよ。それまでは小悪魔。いいわね?」
うー。
まあ、何を言われようと私に拒否権はないわけですよ。
ほら、小悪魔って名前、なんか可愛いじゃないですか。小さい悪魔ですよ?
リトルデビル。いい響きですね。うん、可愛いです。
……そう思って、自分を納得させておいた。
「とにかく……早くこの館の主に、あなたの顔を見せに行くわよ」
パチュリー様は、すっと立ち上がる。
パチュリー様に手を握られていた私も、それに釣られて立ち上がる。
……ああ、初めて私は、こうして自分の足で立つ事が出来た。
パチュリー様の顔が、私の目線より少し下に見えた。どうやら、身長は私の方が高いようですね。
ちょっと前までの私では、想像すら出来なかった。自分の身体を手に入れて、自分の足で立って、自分の足で歩く事。
パチュリー様が歩く。私もその後ろに続く。
本当に、夢のようだ。パチュリー様の後ろを、歩く事が出来るなんて……。
誰がこの願いを叶えてくれたのかは、判りません。
本当に神様が叶えてくれたのかもしれないし、ひょっとしたら誰かが運命を操ったのかもしれない。
判らないけど、ありがとうございます。
これで私は……パチュリー様の傍で、本当の意味でパチュリーのお役に立つ事が出来ます。
今まで多くの人間や魔法使いを喰らってきた私が、こんなに幸せになってもいいのか……。
きっと、許されていい事ではないでしょう。
だからせめて、私は目の前のこの人のために、私が愛したパチュリー様のために、全てを懸けて仕えたい。
私がパチュリー様を、孤独から救って差し上げるんだ。
それが私の……私の生きてきた、そしてこれから生きていく意味なんだ。
「これからよろしく、小悪魔」
「はい! よろしくお願いします! パチュリー様!!」
* * * * * *
……あれから70年。
こうして私は、ずっとパチュリー様の傍に仕えている。
不満なんて、何一つありません。強いて言うなら、仕事が多すぎるくらいかな?
パチュリー様は全部私に任せて、自分は本を読んでいるだけですからね。まあ、そんな所も可愛らしいですけど。
私はあの時誓った。どんな時でも、パチュリー様の傍にいると。
そう、こうして……休暇中の時でも。
ちょっと前に、ふと思ったんですよ。
あの時の……魔道書だった頃の私の姿に戻る事って、出来るのかな? と。
そして、ちょっと魔力を駆使してみたら、意外とあっさり元の姿に戻れました。
その時は、新しいイタズラが出来そうだな、くらいにしか思わなかったんですけどね。
パチュリー様が再び私を読んだ時に、今の人型の姿に戻れば……。
そう思って、それを実行したんですが……。
……そんなイタズラよりも、ずっとずっと面白い事を、その時に見つけちゃったんですよね。
本に戻った私を読み始めたパチュリー様は、穏やかな表情で微笑んでいたんです。
一番最初に私を読んでいた時とはうって変わった、安心しきった表情で。
ああ、私の存在は、パチュリー様を変える事が出来たんだ。
パチュリー様はもう、あんな寂しそうな眼をしなくてよくなったんだ。
そしてこんな表情は、普段の私には絶対に向けてくれません。
パチュリー様は、意地っ張りでツンデレですから。
だから私は、時々休暇を取って、こうして元の姿に戻る事にしたんです。
このパチュリー様の笑顔を見せていただくために。
この本と私の魔力が同じである事も、私を使って召喚した悪魔だと思っているせいで、特に違和感は感じていないようですし。
パチュリー様の、他の誰にも見る事は出来ない特別な笑顔。こんなの、他の誰にも渡すもんですか。
えっ? パチュリー様を一人にして大丈夫なのかって?
大丈夫ですよ。だって、こうして私が傍にいるんですから。
それに……私が本の姿に戻っても、パチュリー様はもう寂しい眼をしませんから。
だから、大丈夫。
ほら、今もこうして、パチュリー様は笑っています。
この本が私である事も、そして私に見られている事も知らず、その無防備で可愛らしい笑顔を見せています。
この場所は、私だけの特別な場所。
パチュリー様のこの笑顔は、私だけに向けてくれる特別なもの。
私はこれからも、ずっとこの笑顔の傍にいよう。
ずっとこの笑顔を、守っていこう。
パチュリー様。私はどんな時でも……あなたの傍にお仕え致しますよ。
「ありがとう、一緒にいてくれて……」
パチュリー様の笑顔を、その言葉を貰えるこの場所は……。
私だけの、特等席です!
良い主従関係だなぁ
イイハナシダッタノニナー
互いを思いやる暖かい主従関係でした。書き手によって色んな小悪魔がいますが、この小悪魔もいいね!
>>ひょっとしたら誰かが運命を操ったのかもしれない。
まさか……ね。
もし「まさか」だったら…
さすがのカリスマである。
とりあえず小悪魔可愛い
あとがきww
神を信じた悪魔からそこはかとないバッドエンド臭を感じて、…の多さにびくびくしていました。
内容のほうも素晴らしかったです。あとがきを含めなければ最後まできれいにまとまっていましたしw
小悪魔とパチュリーの話で、今まで読んだ中でも随一に好きでした。
良い解釈だなぁ。
上げて落とす落差に感動できるレベル。
なんという台無し感!
それ含めて完璧だねw
でもやっぱりあとがきの破壊力が秀逸な作品でしたwww
雰囲気が良かった。後書きも含めて、二人とも幸せそうでなによりです。
でも良い話でした。