誰も確認できず、誰にも理解されない。本来の姿が知覚できないことを、正体不明の定義だとするなら孤独は必然である。理解不能な存在に手を伸ばそうとは誰も思わないし、何かいるかもしれないと考えるだけで無意識に恐れが生まれる。その心が妖怪の卵を生み出しても、誰も識ることはできず。謎を生業とする孤独な妖怪の力は望まぬまま強められていった。
「私は……」
人間は夜の闇を本能で恐れ続ける。
何もない草原で草が揺れただけ、池のほとりでカエルが鳴いただけで敵対する何かがいると思い、未知の物体を恐怖の対象とした。そういった陰気はいつの時代も溢れ返り、ほんのちっぽけな妖怪に蓄積されていった。時代が進み、歴史が重ねられ、人間という存在が生きている限り、彼女の力は天井知らずに肥大していく。
そんな中、彼女は考えた。
――自分は、一体どんな存在なんだろうか、と。
それは素朴な疑問だった。
孤独であり、誰とも出会ったことのない彼女にとって、ふと頭の中に浮かんだ言葉はとても魅力的な響きを残した。素敵過ぎて、いてもたってもいられなるくらい。甘美な誘惑に負けた彼女は、行動に出ることにした。自らの力で生み出した正体不明の種を取り外し、闇夜を飛び回ったのだ。
初めて他人に声を聞いてもらおうと彼女は歌う。
初めてその姿を見てもらおうと、大きな建物の屋根の上を飛び回る。
初めていたずらをしてみようと、愛らしい姿を獣に変えて遊ぶ。
初めて……して。
初めて……もやってみて。
毎日毎日、大騒ぎしてくれる人間にもっと喜んでもらおうと思って、同じ家に何度も通う日々。
初めて、『楽しい』に気が付いて、『楽しい』を返してあげようと思った。
「あれ?」
そんな、ある夜更け。
「……何、これ……くるしぃよ……」
気が付けば、歌いながら飛んでいた彼女の腹部に体に矢が突き刺さっていた。
初めて、痛いと思った。
初めて、自由に飛べなくなって、頭から地面にぶつかってしまう。
怖いと、思った。
何をされるか知識にはないのに、本能が何かを怖がっていた。
いつものように騒がない、黒い人間たち。それに囲まれた彼女は、痛い痛いと叫びながら指で地面を掻き、悲しげな痕跡を庭土の上に残す。必死に四肢を動かし這いながら住処へ逃げ帰ろうとした。
多分このとき彼女は、初めて……思ったんだろう。
――『殺される』と。
同時に、言い知れない黒い感情が湧きあがってきた。
孤独だった彼女は、その感情をどうしても理解できない。荒縄で体を縛られ、符を何枚も貼り付けられ、地底の奥深くに封じられた後も、ずっと考えた。頭の中に最後の場面を思い出し、でもその度に心の奥が沸き立ってしまって、考えるより先に叫び声が出てしまう。気が付けば声は枯れ、水滴が頬を伝って雫を跳ねさせ。たったそれだけで日々が終わっていく。
「私の、何が悪かった……? わからない……わからないのに、なんで誰も教えてくれないの……?」
嘆くだけで何も変わらない。
どこかから入り込んだネズミが、洞窟の壁に繋ぎ止められた彼女を不思議そうに見上げるだけで、彼女の声に誰も答えない。
さらに彼女にとって不幸であったのは、彼女はほとんどの生を孤独と共に生活していたこと。どんな暗がりであっても日数や時間の感覚だけには敏感だったのだ。故に、自らが封じられてからの年月を数えることができてしまう。昔の自分のままなら、途方もない時の流れなど苦にすら思わなかった。しかし、眩しい世界を知ってしまった今、暗がりの中で数える時間は否が応にも精神を削り、じわじわと苦痛を与えてくる。
「誰か、応えてよ……」
天井を飛ぶ蝙蝠、地上を這う虫、それが蠢く音に何度も期待し変わらぬ日々に落胆する。地底世界という牢獄で、今日も一人地上への恨み言をつぶやいて。
「ぐちぐちぐちぐち煩いなぁ、ちょっとは静かにしてよね」
「っえ?」
封じられてから初めて聞いた誰かの声。
闇の中に生まれた気配の持ち主は、かなりうざったそうに返してくる。
それでも、そんな不快感しか与えてこない声音にすら。
「え、あ、ちょ、ちょっとっ、ごめんそんなつもりじゃなくて! ああもう、だから悪かったってば!」
彼女は、泣いた。
ただ純粋に嬉しくて、涙を流し続けたのだった。
◇ ◇ ◇
『久しぶり、元気だった?』
そんな挨拶がしたいだけだった。
何してるのかが気になって、立ち寄ってみただけ。
地上に出るのが許されてから、密かに夢見ていた瞬間。
「へぇ~、朝から大変そうだね」
それなのに、口から出たのは心のどこにもない言葉。
汗を流して荷物をお寺へ運び込む。そんな一生懸命な手を止めさせるに値しない、軽薄過ぎる言葉だった。
「これから地上で生活するから、物入りのようで。埃かぶった座布団も再利用ってところかな」
彼女は、自分でも止めないといけないってわかっていた。
胸に大きな箱を抱えた村紗の瞳がどんどん細くなるのが見えた時点で、口を閉ざすべきだった、と。
それでも、久しぶりに出会った興奮の中でその手は止まらない。これから運び込む予定なんだろうか、天日干しされた座布団がゴザの上に重ねられているのを見て思わずぱんぱんっと叩いていた。どんどんと重力と圧力を増す空気を少しでも和ませようと、起こした行動だった。
「せっかくだし手伝ってあげるよ。私の方が力持ちだから」
傲慢な言葉とは裏腹にそっと伸ばしたその指先は、わずかに震えていた。内心の動揺を示すかのように。
けれど、それに答えたのは彼女が望んだどんな言葉でも。
どんな表情でもなく。
ぱんっと。
乾いた音の後にやって来た。
頬の、痛み。
「えっ……」
鋭さが鈍さに変わり、顔の奥に響き始めた頃。彼女は放心状態で頬に触れた。わずかに熱を持った左頬に残る感触は間違いなく、村紗の手から受けたもの。
運んでいた箱をその場に投げ捨て、うつむき加減で右手を振り抜いた。地底で友人と思っていた相手からの平手打ち。
「村紗っ! お客様に対して一体何を!」
談笑しながら荷物を運んでいた、星とナズーリンもその異変に気づき荷物を寺の入り口に置いて足早に駆け寄る。
おそらく星の位置からでは、村紗の影で来訪者の影が見えなかったのだろう。
そのため慌てて二人の間に入って。
「すみません、いきなり無礼を……、っ! どの面を下げてここに来た!」
謝罪の言葉を取り消し、いきなり彼女の胸倉を掴もうとする。
しかし、彼女の防衛本能が素早く反応した。
星の手をすり抜けるように大気の中に姿を溶かし、その数歩先に再び実像を結ぶ。彼女が元にいた位置には、運び込む予定の荷物の山がいつのまにか移動していた。
「立ち去れ、ここはお前が足を踏み入れていい場所ではない」
星に睨み付けられる彼女であったが、その瞳はただ一人。村紗のみに向けられていた。瞳は揺れ動き、言葉を失った唇はただ待ち続ける。今の、行動の真意を。頬の痛みに対する疑問だけを瞳で訴え続けていた。
そして待ち続けた後の答えは……
「……寄るな、裏切り者」
決定的な、否定。
「ぬえなんて……、もう友達でもなんでもない」
最後まで顔を上げようとせず拒絶の声を搾り出す。
同時に、怒りで肩を震わせる姿を見せ付けられた彼女は、
「……帰るね」
たったそれだけを告げて、寺を後にする。
もう来るな、という星の声を背に受けながら。
「あら、ぬえちゃんが来ていたの? 教えてくれればよかったのに」
「教えていたら、何をしていたか聞いてもいいかい?」
次の日、命蓮寺の早めの朝食時だった。ぽつり、と聖が不満を漏らした言葉に彼女は反応した。悪意のまるでない、知人に対する声音でありながら、その危険性を把握していていたのだから。
しかし、当の本人はほんわかとした空気を発したまま危機感も何も感じていないように見えた。
「もちろん、一緒にご飯を食べるのよ。お話も聞いてみたいと思わない?」
朝の団欒の中、不用意な発言が場を凍らせた。談笑しながら箸を動かしていた誰もが時間を止める。穏やかに流れていた朝の空気が、戦場を思わせるほどピンと張りつめてしまった。特に星に至っては、茶碗と机がぶつかる音が大きくなっていることからも、感情の揺れが明白。その他の面々も星ほど表には出していなくとも、概ねその怒りに同意しているのだろう。わずかに目を細めて、ちらりと聖を見た。
「これは重症だね、みんなすっかり根に持っているようだ」
「あら、ナズーリンは?」
唯一様子を変えずに、箸を動かす。冷静沈着なダウザー。
すぐ隣の星やその他の面々が極端な反応をしたせいか、平然とした態度を取り続ける彼女の方が不振に思えてしまう。
「客観的に見て今のぬえを危険視する必要はないと思っているよ。昨日、ご主人に乱暴に扱われそうになっても反撃の気配すら――」
「違うわ、そういうことじゃないの。飛倉に細工をしたことでみんな怒っているのでしょう? 危険とかそういうわけではなくて」
「ああ、なるほど。現状ではなく感情面の問題か」
横目で星を盗み見て、ふぅっと軽く息を吐く。
その表情は怒りとはまったく異なる、疲れ切った呆れ顔。そしてこれがないとやってられないと言うように食卓の上の黄色い三角形に手を伸ばした。
「私がその程度のことで怒るはずがないだろう」
「ナズーリンっ! その程度のこととは聞き捨てなりません! 訂正なさい!」
一度肩を竦めてから、彼女用に準備されたチーズを幸せそうに頬張る。しかしその至福の時間を邪魔するかのように、星が耳に響くくらい大きな音で机をバンッと叩いた。朝からぬえのことで興奮したせいで、過剰に反応しているようだ。
しかし、ナズーリンは主人の勢いなどどこ吹く風で、指に残ったチーズを愛おしそうに舐めとってから、にこり、と星に顔を向ける。
「事実を言ったまでだよ、ご主人。飛倉の破片なら確実に集められると確信していたからね。全部集めずとも効果が生まれることもわかっていたし」
「そういう問題ではありません。もっと繊細な、精神的な問題です!」
益々いきり立つ星を眺めるナズーリンの耳がピンっと小さく跳ね、瞳が冷たく輝いた。笑顔の奥に薄ら寒い感情を隠して。
「そうだね、確かに精神的な問題だ。聖の封印を解くためのもう一つを集める私の気苦労は、飛倉など比較にならなかったよ。ねぇ、ご主人? 毘沙門天様に何度嘘の報告をさせられたか、数えてあげようか? 何度冷や汗を流したか、書簡にまとめてあげようか?」
「う、うぅっ……調子に乗り過ぎました、すみません……」
「わかればよろしい」
机に当たらないように注意しながら背中を丸めて頭を下げる星と、それに対して手を上下にパタパタ振るナズーリン。果たしてどちらが主なのか判断できない光景である。
「正義の代名詞である毘沙門天の弟子が過ちを犯しても、こうやってのうのうと一緒に生活をしているんだ。今更ぬえをどうこうするなんて馬鹿げていると思うがね」
「あの、ナズーリン。宝塔の件はわかりましたから、もうその辺で……」
「あ、ああ、すまない。こちらが少し熱くなってしまったようだ。私もまだ未熟だ」
星の肩が震え始めたのを見て、慌てて一輪が優しく背中を撫で慰める。そこに雲山も加わり、星はなんとか落ち着きを取り戻し始めた。
しかしその中で一人、村紗だけはまだ険しい顔を崩さない。
真一文字に閉じた口をやっと開いたかと思っても。
「でも、やっていいことと悪いことくらい、ぬえだって……」
隔たりをはっきりと感じる言葉を紡ぐだけ。
やれやれ、と。
ナズーリンがお手上げの仕草を見せ、聖は温和な笑みだけを浮かべた。
「村紗、今日と明日はあなたが人里へ行く当番だったかしら?」
「あ、うん、そうかもしれない」
「なら、早く準備をしないと。寺子屋で待っている子供たちが退屈してしまうわ」
聖は言葉の後に食卓を指差す。
すると、そこにはほとんど手がつけられていない朝食があって、村紗は慌ててそれを口に運び始めた。
「ごちそうさまっ! いってきます!」
「あらあら、そんなに急いだら喉に詰まるというのに」
「大丈夫だよ、あれでも幽霊の一種だからね。食料を口にするのが不思議だけれど」
「アレとか失礼なこと言わないでよね! じゃあっ!」
トレードマークのセーラー服を翻し、村紗は一気に空へと舞い上がる。
そんな背中を見送る命蓮寺の残りのメンバーは各々片付けを始めて……
ちょうど入れ違いに、天狗の新聞が命蓮寺に投げ込まれた。
ざわつく人だかり。
降り注ぐ好奇の視線。
それが新参者である命蓮寺の幽霊、村紗に対する人里の反応であった。
しかし特に変わった反応、というわけでもない。何せ、村紗をはじめとした命蓮寺の第一印象は……
空飛ぶ船の異変が解決してから急に寺を構えた怪しげな集団。
そんなものでしかないのだから。
しかも寺の位置が人里に近いため、必要以上に警戒もされていた。しかし聖や星を代表とする献身的な対応により、なんとか人里に受け入れられ始めているのが救いだった。
そして、その受け入れて貰うための活動というのが、無償の慈善事業というわけで。
「おもしろいこと、おもしろいこと……、イカリを振り回したら泣くよね、絶対」
さらにその内容というのが複数あり、村紗が今日行うのは寺子屋にいけない小さな子供のお世話。つまり遊び相手になることだった。
ゆっくりとした会話でしか意思疎通できず、それでいて、好奇心旺盛のため何でも試したがる厄介な存在。そんな強敵に対してどう接しようかと、人里の中央通りを歩き。
ふと、首を傾げる。
違和感があるのだ。
確かに村紗は異分子と言っても過言ではない。しかし、昨日も一昨日も人里で慈善活動に勤しんでいた。だからわかる。
日に日に穏和になっていった周囲の変化が、『また来てね』と、言ってくれたあの柔らかな感覚が少ないのだ。増加傾向にあった歓迎ムードが一気に停滞し、敵意すら感じさせる。
「誰か、手伝いで失敗したかな?」
自分が失敗した覚えなどない村紗は、仲間の顔を思い出し……
「……むむ」
しかし、悲しいかな。
人里で失敗する可能性が彼女より少ない顔ばかり並んでいて、ますます思考は迷宮入り。
仕方なく周囲を気にしながら、集合場所の寺子屋に行ってみると。
「あれ?」
少ない。
片手の指で数えられるくらいの子供しかいない。玄関の前に居たのは村紗の腰程度の身長しかない子供達数人と、それをあやす水色の髪の女性だけ。
確かあれは……
「おはようございます、村紗」
「えっと、おはようございます」
挨拶をしないと不機嫌になることで有名な、寺子屋の慧音先生。しゃがんで子供達の頭を撫でていた手を止めて、丁寧に頭を下げてくる。
失礼なことをすると、その挨拶とは比べものにならない速度で頭が振り下ろされるという噂だが……
「私の髪に何か?」
「そういうわけではなくて、ちょっと子供達が控えめだなって」
なんとか誤魔化そうと、最初に感じた疑問を口にする。
昨日は10人以上の子供と一緒に遊んだ結果、幽霊なのに筋肉痛を覚えるという。不自然かつ大変な思いをしたわけだが。こうも少ないと正直張り合いがない。
残念、と比較的軽い口調で伝えてみたら。
「あぁ、本当に嘆かわしいことだ」
しかし慧音は、思いのほか真剣に受け止めた。さらに何故か歩み寄ってきて、いきなり村紗の手を握りしめる。
「そちら頑張りは、私の目から見ても素晴らしいものだというのに、表面しか見ることができない者が多くてね。それでも誹謗中傷などに負けずこれからも人里のために協力して欲しい。私も里に住む妖として助力させてもらおうじゃないか」
「……はぃ?」
誹謗中傷。まったく想像していなかった四文字熟語がいきなり耳に飛び込んできて、村紗は思わず素っ頓狂な声をあげてしまっていた。
熱い台詞と行動の意味もまるで理解できず、無抵抗に両手を握られるだけ。
その異変に慧音も気がついたようで。
「……む、まさか理解していないのか?」
「はい、これっぽっちも」
そう答えた途端、慧音の頬が一気に赤く染まり、ぱっと手を離す。
そして放置されていた子供達の方へと愛想笑いを向けてから、こほんっと咳払い。加えて深呼吸を繰り返し、高ぶりを抑えた。
「落ち着いて聞いて欲しいんだが、昨日の夕方、村紗が命蓮寺に戻った後、里で事件が発生した……」
「事件、人さらいとか?」
「いや、妖怪が子供を襲った。そんな噂が流れている。現場を見たわけではないので、私は何かの誤解だと信じたいんだが」
「それが命蓮寺の関係者?」
「ああ、新聞記事にもなっていた」
そういえば、今朝は慌しくて天狗の新聞を読まずに飛び出してしまった。普段なら皮肉屋のナズーリンと記事の内容について談笑するのだが、配達がいつもより遅かったせいで見ることができなかった。
「その人物は、黒っぽい服を身につけており、いきなり化け物を生み出したと」
「……あ~、そういうこと」
ピンと来た。
その犯人は『一輪』に違いない。雲山をいきなり人里で出現させて、それで勘違いされたのだろう。現れた雲入道は子供を怖がらせるのに十分過ぎて、その驚く声を聞いた大人たちが大騒ぎしたといったところか。雲山が白一色のため、黒が印象に残りやすかったのだろう。
「意外と抜けてるんだな、うっかりは星の専売特許かと思ってたのに」
しかし愚痴を言っても始まらない。村紗の本日の仕事は決まりきっているのだから。
「よーし、お前たち、今日は船長ごっこやろうか」
退屈そうに二人を見上げていた、小さな子供を楽しませる。それが命蓮寺の受け持った大事な役割。
「船長って何?」
「うーん、そうだなぁ、困難を乗り越え信念を貫く。水の上で一番偉い人かな」
「すげー! 俺船長になる!」
「まあまあ落ち着きたまえよ諸君。私が船長たる者の心意気を教えてあげようじゃないか。まずは足腰を鍛えるためにあそこの家までかけっこだ!」
『おー!』
「違う! 必ず返事にはサーをつけろ!」
「はぁ~い、さ~!」
「……むぅ、何か違うが、まあいい! いくぞ野郎ども!」
「さぁー!」
そして目一杯子供たちと人里を駆け回ること三刻。再び寺子屋まで子供たちを運び、迎えにきた親へと預ける。その際も人間の大人たちからは不信な目で睨まれることになったが、今日ばかりは仕方ない。一輪だって悪気があったわけではないだろうし、仲間のミスを挽回するのはやはり仲間である自分たちしかいないのだから。
無事に仕事を終えた村紗は、命蓮寺へ向け勢い良く飛び上がった。新聞を見た一輪が傷心していないか、少しだけ心配だったから。
「ただいま」
寺の入り口で訪問客の対応をしていたナズーリンを飛び越え、速度を緩めないまま中へと入れば。
「む、村紗! 大変です! 大変なんです!」
「何よいきなり、大袈裟な声出して」
予想通り一輪が慌てて駆け寄ってくるが、白々しく何も知らない振りをする。どうせ新聞に自分の記事が載っていると慌てているのだろう。
「これを、これを読んでください」
「わかったから、そんなに急かさないでよ。どれどれ」
仰々しく折りたたんであった新聞を開き、目の前で大きく広げた。前面を見渡せるよう高く掲げたその新聞には――
『昨日の正午、人里の稗田家付近にて先の異変に関係していた妖怪が現れ、その手から化け物を生み出し、幼子を襲うという凶悪事件が発生。その生み出された妖怪の姿は、角が10本、頭が三つ、尻尾が3本、という観測されたことのない異形であった。(上記写真の目撃者談)。犯人は黒い衣服の妖怪‘ぬえ’と推測される。命蓮寺との関与も疑われており――』
村紗のよく知る妖怪の名が出た後。
それ以上新聞の文字が読まれることはなかった。
「お昼ご飯、いらないって伝えて」
酷く冷たい声を残し一輪に新聞を放り投げた。
静止の声を聞かずに再び外へと駆け出すと、ただ真っ直ぐ忌まわしい故郷へ向かって飛ぶ。
のらりくらり。
お空が引き起こした異変が解決してから、地霊殿では実にゆったりとした時間が流れていた。調整次第では自由に気温を変更できる灼熱地獄の影響により快適な毎日が約束され、さらにその熱を利用した温泉施設まであるのだから必然的に気が緩んでしまうというもの。
しかし、そんな雰囲気とはかけ離れた声が、地霊殿の中に響く。
「ちょ、ちょっと待ってよ。お姉さん! さとり様に会いたいときはまずあたいに話を通して、ああんっ! もう、だから入っちゃ駄目だって! お空~~っ! 助けて、お空~~っ!」
乱暴に玄関を通り抜け、廊下を進もうとする人物を止めようとお燐が後ろから抱きつくものの、ずりずりと引きずられてまったく効果がない。妖獣と妖怪の両面を持ち、身体能力もそこそこ高いはずの彼女自身、こうも簡単に力負けするとは予想外だったのだろう。数メートル簡単に移動させられたところで慌てて親友の名前を呼んだ。
「うゆぅぅ?」
しかし、援軍に現れたはずのお空は、ぼさぼさの髪の毛を直そうともせず服もくしゃくしゃ。留め具を閉め忘れたのか、大きくはだけた服から右肩が露出していた。明らかに昼寝モードである。そしてT字になった廊下の部分で欠伸をし、ぼーっと通り過ぎていくお燐を見つめて顔をスライドさせた。
「……起きて! ほら、この人を捕まえて」
「ん? ……うん? おやすみ……」
「馬鹿ぁぁーーーー! 誰もお休みの挨拶してないってばっ! ほら、早く捕まえて」
「あぃ」
がしっ
「あたいじゃなくてぇぇぇぇぇ! ああ、待って! ちょっとぉ!」
仲間であるお空にあっさりと妨害されたお燐は、じたばたと暴れて拘束から逃げ出そうとする。しかし後ろから抱きつかれ、両腕を器用に固定されてはどうしようもない。そんな相方はというと、上機嫌に鼻歌を響かせつつお燐の頭の上にアゴを置く。さらに立ったまま寝息を立て始めた。ちゃんと起きていれば、馬鹿力で無礼な来訪者を止めていただろうに。吸血鬼すら凌ぎかねない核をベースとした力で。 そんなお空に体を固定されたお燐ができたことは、廊下を進む誰かの背中が広間に入っていくのを眺めることだけだった。
どんどん、と地響きを起こしそうなほど荒々しく歩を進めていたその影はとうとう目的地に辿り着いたのだ。しかし、広々とした空間には目的の人物は誰もおらず、大きな机を囲むソファーに座っていたのはたった一人。穏やかにティータイムを楽しむ館の主が直々に彼女を出迎える。
「ぬ――」
「ぬえさんなら居ませんよ、隠れてもらいましたから。ああ、『何故そんな勝手なことを』ですか? その疑問なら簡単です。今のあなたとぬえさんでは、建設的な話し合いなど不可能だと理解できましたからね。館に入る前から感じ取れるほどの怒りを秘めたあなたが、一言一句彼女の言葉を吟味できるなら話は別ですが?」
「ああもうっ!」
「『そういうところが嫌い』と申されましても、あなただっておわかりのはずですよ? 一度は地底で顔を合わせた身、お空が力を手に入れた後の短い付き合いでしたが、私の特性は十分理解しているはず。それに『汚い、卑怯』という感情は見慣れてしまいましたので、私には効果のないものと思っていただければ。その方がお互い話も進めやすいと思いますし、いかがでしょう?」
紅茶を飲む合間に、村紗が怒気に込めようとしていた言葉を言い当て。独特の不条理さあっさりと突き付ける。
いかりを手に、脅すのもやむなしと入り口で仁王立ちした村紗であったが、激しい脱力感に打ち勝つことができず意気消沈。先手を打たれ、毒気を抜かれてしまった。
「緑茶こそ至高という、あの巫女のような精神をお持ちでなければ、まず紅茶でも。ちょうどクッキーも焼きあがりまして。召し上がってみませんか?」
「ゆっくりするつもりなんてないの、私はあの子の意思を確認したいだけ」
しかしここで素直に受け入れては何のために足を運んだのかわからない。村紗は凛とした態度を取り戻し、一歩を踏み出そうとする。しかしたったそれだけの行動だというのに、急にさとりは焦りを見せ。
「……すぐ扉を閉めることをお勧めします。熱に弱いなら特に」
ぬえが入り口近くにいるから隠そうとしている。
そう一瞬だけ思った村紗は進めていた足を、動きを止めてしまう。そのおかげで、
「くっきー、くっきー♪ さとりさまのくっきーっ!」
「あうちっ!」
轢かれた。
物凄い勢いで八咫烏ダイブしつつ、入り口から突入してくる存在にあっさりと。
食欲という本能に操られたお空が、正確な前方確認をするはずもなく。
「あれ? なんで二人寝てるの? そんなところで寝たら風邪引くよ?」
「あんたは、あんたってヤツはもぅ……」
後ろからの不意打ちで目を回した村紗と。
衝突の衝撃で床に投げ出されたお燐と。
そして、衝撃で意識を覚醒させ不思議そうに首を傾げるお空。
三つの影を見て、はぁ、とさとりはため息を吐く。
「お空、いつも言っているでしょう。ちゃんと前を見て飛びなさいと」
「え、私またやっちゃいました? ごめんなさいっ!」
「そうね、次からは気をつけるべきだけれど」
しかし、ため息の後で何故かくすくすと笑い始め。
「仕切り直しには良いかしら、よくやったわお空」
「……うにゅ?」
怒られたのに、誉められた。
わけもわからず余計に首を斜めにする。
そんな仕草を見て、さとりは外見相応の少女のように楽しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
「まず、誤解がないように最初に伝えておきましょう。ぬえの心には人間への復讐心などまるでありませんでした」
「…………」
意識を取り戻し、お空の謝罪を受けた村紗は何も返さない。感情も表に出そうともせず、ソファーに腰を下ろしていた。出された紅茶にも、クッキーにも手を伸ばそうとしない。
「彼女の中にあったのは、小さな達成感と。友人に誉めてもらえるかもしれないという淡い期待だけ」
「……人里で事件を起こしておいて達成感? ついていけない感性ね」
「その事件についてはこちらも情報を得ていますが、しかし悪戯とは?」
「あの子はね、人が嫌がることを喜んでやるのよ。昔からね、ちょっと相手にしなかっただけで私のイカリに落書きしたり、聖の復活だってそれで妨害されそうになった」
穏やかな昼下がりではなくなってしまった空間の中、お燐はさとりの横に座りながら二人の様子をじっと観察しつつ恐る恐るクッキーに手を伸ばす。さらに横のお空すら何かを気にしているようで、いつもとは大分遅い速度で口を動かしていた。
「あなたはそう判断なさると?」
「それ以外に何があるのよ。それとも、無意識で襲ったっていうの? あんたの妹みたいにさ」
ぴくり、と。さとりの眉が跳ね、初めて不快を表現した。
いままで何を言っても反応らしい反応を示さなかった彼女の、明らかな意思。それを見てどうしても攻撃的な感情が抑えられなくなった村紗は、ふふんっと鼻を鳴らして肩を竦める。
「無意識と正体不明、ってそっくりだもんね。問題児なところもそっくりってことかな。救いようがないのもよく似てる。まったく育てたヤツの顔が見てみたいね」
ガタッと、村紗の言葉を待つことなく。机に誰かの太ももが当たる音がする。
「おやめなさい!」
それを素早く止めたのは、さとりの声。
珍しい、怒鳴り声だった。
「しかし、さとり様! こいつ、こいし様だけじゃなくて! さとり様のことまで馬鹿に」
「……やめるのよ、いい子だから」
ぎりぎり、と。歯を食いしばってさとりと村紗を交互に見つめた後、お燐は上げた腰をソファーに戻す。
「ペットの躾もまともにできないんだから、仕方ないかな」
さとりがやめろと、命令した。
だからお燐はもう動かない。
安い挑発だと自分に言い聞かせ、膝の上でぎゅっと手を握った。
しかし――
「私の声が、聞こえないの? お願いだからもうやめて……」
さとりの声が止まらない。
首筋に冷たい汗を一筋流し、じっと村紗を見据えている。その姿を不思議そうに眺めていたお燐は、やっとその言葉の意味を理解しすばやく飛び上がる。
「はやく、その手を離しなさい。こいしっ!」
さとりがその名を読んだ瞬間、空間が揺れる。
いや、本来の姿を取り戻したというべきか。
世界がそこにあるべきものを思い出し、ゆっくりと実像を結ばせていく。そうして、薄らとした幻から、物質へ。
幻想であった少女が、本来の姿を取り戻し『イド』の衣を脱ぎ捨てたとき。
「ごきげんよぅ、お姉さん?」
「え……」
愛らしい笑顔を見せる少女がいきなり姿を見せた。
しかしその笑顔とは裏腹に細い手はすでに村紗の無防備な首を捉えており――
「なーんてね。こいしちゃんの冗談でした♪ こういうの手品って言うんだっけ?」
お燐が二人を引き離そうと上から襲い掛かるが、それを予期にしていたのだろう。その姿は再び誰も認識できなくなり、目標を失ったお燐は村紗の前を横切り床にゴロゴロと転がった。
「手品はタネがあるから手品なのよ。鳥が自らの翼で空を飛んでも不思議ではないように、あなたは自分の能力を使っただけ」
「じゃあ、そこのお客さんが言ってたみたいに、悪戯でいいのかしら?」
さとりの声はお燐だけではなく、こいしを止めるため発せられたもの。姉の背もたれの後ろではしゃいでいる姿だけを見るなら、明るい少女にしか見えない。お燐に横から文句を言われてもどこ吹く風。始終笑顔を貼り付ける、活発な印象を受ける妖怪である。しかし、今までこいしの本性を味わったことのない村紗は、背筋に氷の柱を打ち込まれたと錯覚した。
こいしの本質に触れ。
恐怖し、驚愕し、戦慄した。
あの笑顔を見せながら、花を摘むように彼女は命を奪うのだと。
言葉どおり『無意識』に。
「あら、お姉さん。どうしたの? 私を引き合いに、ぬえちゃんやお姉ちゃんの悪口を言ってもいいんだよ? ほらほら、遠慮しないで」
「…………」
「そ~れ~と~も、怖くて言えなくなっちゃったかなぁ? 大見得切ってたわりにその程度なんだ」
言い返すことはたぶん可能だった。
しかし、それより先に手が出そうになる。いきなり現れて言いたいことだけをぶつけられ、思わず右手にイカリを出現させていた。
室内の明かりに照らされた重量感のある凶器。立ち上がってそれをさとりとこいしに突き付けようとしたとき。
「帰って……」
お空が両腕を広げて、二人の前に立っていた。
突き出されたイカリに鼻先が触れようとしているのに、瞬き一つせず。
「今日の村紗、地底にいたときと全然違う。なんだか怖いよ。それにそんなんじゃ、ぬえだって怖がるよ」
「当然だよ? あいつに対してむかついてるんだから」
「なんで? 変だよ?」
「あなたが変なのよ、人並みの判断力を持ってから口にすることね」
「違うよ! だって、村紗っ!」
「お空、下がりなさい。それと、これであなたもよくわかったでしょう?」
お燐にお空を部屋の外へ連れて行かせ、さとりは静かに告げる。
「今、何を話したところであなたは感情で揺れ動く。そんな状態でぬえと会わせても悲劇しか生まないでしょう。それは本来あなたが望むものではないはず」
「決めつけないでくれる? 私は冷静よ」
「そうですね、それならこちらが落ち着けるまで時間を取って頂く。ということでいかがでしょう? ぬえにもあなたの様子をしっかり伝えておきますので」
「……いいわ、でも、今度はちゃんとぬえを出して貰うから」
それだけを言い残し、イカリを手の中から消した村紗は一礼すらせずに部屋を出て行く。続いて、こいしがまた空間にとけ。
「うん、出て行ったみたい」
無意識を操り、村紗が地霊殿を出たことを確認する。
その直後、地震でもないのに天井のシャンデリアが大きく揺れ、狙い澄ましたようにさとりの真横へと落下し――
床にぶつかる直前で、黒い少女へと姿を変える。人の形を取った妖怪はふらふらと頭を抱えてつぶやく。
「私、もう、ダメなのかな」
ソファーに座り、俯いて。彼女は弱々しく呟いた。
「村紗、もう許してくれないのかな」
打ち拉がれた想いを胸に抱き、声を震わせる。
「昔みたいに、笑ってくれないのかな。もう友達に戻れないのかな」
「戻れます」
けれど、その声をさとりは迷わず否定した。
弱々しい、彼女の心の迷いを。
「え?」
「私が、いえ、心を読める『悟り妖怪』が大丈夫だと言うのです。それをあなたは疑うおつもりで?」
微笑み、紅茶を傾ける。
まるで今の状況が本当になんでもないと錯覚してしまうほど。いつもどおりの仕草を続ける。
それで、大丈夫と優しく声を掛けてくれるから。
優しく頭を撫でてくれるから。
ぬえは少しだけ、頬を濡らした。
「わ、私は反対ですよ!」
「こらこら、ご主人落ち着いてくれないか!」
村紗が命蓮寺の入り口をくぐったときはもう夕日も沈み、赤い光の名残だけが西の地平線を彩っていた。その風景に目を奪われていたら、いきなり怒鳴り声が響いてきたわけだ。
なんだ、またうるさいトラが騒いでいるのかと、人の気配がする居間へと足を――
「聖が異性を受け入れるなど認められません!」
「ひ、ひじりぃぃぃぃぃっ!」
ばんっと、空気を大きく振動させる勢いで入り口を開けていた。
驚愕に流されるまま、力一杯。
視線が一斉に集中する中、その声にいち早く反応した一人が、正座したまま胸を張る。
「どうやら、村紗も同意見のようですね。これで4対2です。いえ、一輪と雲山が二人で1と数えるなら。3対2」
「え、ちょ、ちょっと待って、賛成の人の方が多いわけ? しかも……」
その構成でいけば、一番高い場所に座っている聖の選択は、当然――
「はい、初めての試みですが、素晴らしいことだと思います」
肯定、である。
しかも、初めてとかおっしゃっている。
ぬえの問題が発生したと思ったら、今度は余計に厄介な議題が話し合われていた。
「うむ、有効利用できるものは使うべきだね。あの子には悪いが、風評被害を受けたのは事実であるし受け入れることで人里との繋がりが強くなる」
「私も賛成です。安心できる場所という噂が広がれば、多数の受け入れ希望があるでしょうし」
「た、多数っ!?」
「どうしました? 村紗」
「い、いやぁ、いきなりそれは激しすぎないかなと……」
「いや、一度目のインパクトは大切だよ」
しかも、常識人であるはずの一輪とナズーリンが積極的に推し進めようとしているのが恐ろしい。ただし人を超えた存在だとは言っても、女性は女性にかわりないわけだから……
「しかし、聖が犠牲になる必要はないでしょう! 私か村紗がやりますよ」
「そうだね、星か私が……えぇっ!?」
「私の意見に賛成したのならそれくらいの意思はあると判断したのですが?」
とりあえず村紗としてはその行為自体が良くないと思っていたわけだが、どうやらこの場はすでに『誰が』という話題になってしまっているらしい。
「ねえ、星? そのぉ、やっぱりやらない方向には?」
「無理ですね」
「んー、で、でもほら。私幽霊だしさ」
食事もとるし、睡眠も取るし、肉体に似た構成をしている。
しかし分類が間違いなく幽霊なのだから仕方ない。
「そうか、幽霊ということで安心できないのでは逆効果……」
「そ、そうそう。いやぁ、残念だなぁ」
「満月の夜、用件があって人里まで戻れなかった人間に部屋を分け与える程度なのですが、幽霊が出る部屋では評判が悪くなりますね。そうなるとナズーリンも外見的に難しい。さすがにもうすぐ冬ですし、板張りのところで寝かせるのも抵抗がありますし。やはり聖は抜いて、星と私の部屋で宿泊させるしか」
「そうそう、やっぱりそういう……は? 宿泊? 受け入れって、え?」
「何を惚けたことを言っているんだ、君は。一ヶ月ほど前に妖怪に襲われる人への救済措置について話し合ったところじゃないか、その続きだよ。それで、一時的に人間を宿泊させる部屋の空きが足りなくなったらどうするかが話題になり、女性はともかく男性はどうしようかと――はは~ん、なるほどね途中から話題に入ってきたらそう思うのも無理はない」
「だ、誰が何を勘違いしたっていうのよ」
頬を赤らめる幽霊の側で、ナズーリンが半眼で微笑む。その他の者たちは村紗の慌てように首を傾げるばかりだ。そんな微妙な空気を打ち払うため、村紗はこほんっと咳払い。
「でもさ、人間がここに要るってわかったら妖怪たちがこっちも襲ってくるんじゃない? 人里はあの慧音っていう寺子屋の先生が姿を消しちゃうから。襲いやすさはこっちの方が上かもしれない」
「そうでもないんだよ。彼女には半分だけ人間の血が混ざっているからね。いや、ハクタクの血が後から覚醒したと言うべきか。ねずみたちが集めてくれた情報だけどね」
「つまり、守護者自体が、自分の体を餌にして守ってるってことか。自己犠牲の精神もそこまでいくと執念と錯覚してしまうね」
「しかし、村紗にも一理あります。私たちは受け入れのことばかり考えていて防衛には目が向いていなかった。あなたがたに危険があるようなら、この案は廃止にしてもいいかと思いますが」
そう聖が提案しても、その場で上がったのはたった一つ。
「専守防衛なら私の力が有効活用できるだろうね。ご主人の法力もあるから問題ない」
「ええ、お腹を空かせるのは可哀想ではありますが、追い払って見せますよ」
ナズーリンと星の言葉に続いて、村紗も一輪も。
正座する聖を励ますように、立ち上がって腕を振り上げる。
「ありがとう、みんな。それじゃあ、明後日の満月までにできる限り準備をしましょう。明日からナズーリンと村紗は周知活動を、星と一輪、それと雲山には人里の手伝いをしながら掃除と防衛手段の考察を、時間がないかもしれませんがよろしくお願いします」
人に受け入れられるには、まず、人を受け入れなければいけない。
その聖の意思を尊重するまま順調に計画は進んでいくのだった。
「おやおや、なんだい。あたいと遊びたいのかい? え、この台車に乗りたいって? うんうん、わかったよ。あんたがそんなに望むなら、お姉さん涙を飲んで君を運んであげるから――」
「不審者発見、さあ、慧音先生!」
「任せろ!」
村紗の横を風の如く通り過ぎる慧音は、しゃがみ込んで子供を撫でていた妖怪へと接近したかと思うと。
その頭を両側からしっかりと掴み。
「あ、いや、ちょっと何っ」
「もんどぅ~、無用!」
無理やりお燐を引き起こした直後、大きく頭を振りかぶって一撃必殺の頭突きをぶち当てる。
「ぎにゃぁぁぁぁあああああ」
「またつまらぬものを頭突いてしまった」
腕を組む慧音の前で、ごろごろと。大通りのど真ん中で額を抑えて転がっていた火車の妖怪は、目に涙を浮かべて不満げな声を漏らす。
「あたいが何したって言うのさぁ」
「人里で堂々と子供をさらおうとした妖怪の言うことか」
「違うよ、誤解だよ。その子が台車に乗せてって言ったから仕方なく許可しただけだよ」
その言葉に嘘はないかと子供に問い掛けてみると、子供は何の躊躇いもなく頷いた。そしてこう言う。『そこのお姉さんに何かして欲しいことはない?』と問い掛けられたと。子供の援護を受けたお燐は鼻を高くし、地面の上で胡座をかいた。
「なるほど、こちらの勘違いか。いきなり暴力に訴えてすまなかった。詫びと言っては何だが、これから団子でもいかがかな? 私たちもこれからそちらの方に向かう予定でね」
「んー、いいよいいよ。地底の妖怪は頑丈な奴が多いからね。あたいだってほら、もう額の腫れが引いているだろう? 痛いものは痛いけどさ」
前髪を掻き上げて額を村紗と慧音に見せた後、すっと立ち上がり台車を手前に持ってくる。そしてそのまま逃げるように去ろうとした。わざとらしく、一人の存在を無視して。
「そっちも知名度上げる活動してるんだ。頑張ってるね」
その無視された一方、村紗が親しげに声を掛けても。ぴくりっと耳が動くだけで振り返ろうとしない。尻尾を立てて反対方向へと進むばかり。
「ちょ、ちょっと一言くらい返しなさいよ」
「んー、と。何だか煩わしい虫の声が聞こえるねぇ、なんだろう?」
さらに言葉を続けても、ちらりっと後ろを振り返るだけ。ふんっと鼻を鳴らすおまけつきで。
「昨日は、ぬえが関係して興奮してただけだよ。今も気持ちを整理できないから心から謝罪はできないけど、でも、後でちゃんと謝りに行くから」
「……さとり様とこいし様の悪口は?」
「もう言わない」
「絶対?」
「んー、たぶん」
「…………」
「わかった! 絶対、絶対!」
「じゃあ、気が乗らないけど、世間話には付き合ってあげるよ」
そうして奇妙な一匹を加えた三人は、満月を一日前に控えた人里の中をゆっくりと歩いていった。
「へえ、人の避難場所として使うのかい。いいことを考えたねぇ。あたいたちも地霊の湯を改装して宿泊もできるようにしようかと考えてるところだったんだよ。いやぁ、先を越されたか」
「それは満月の夜も?」
「ああ、地底では満月の光に狂わされることもないからね。のんびりと過ごしてるだけさ。旧都にはケンカっぱやいのもいるけどね」
その改修の案の一つとして、人間たちが地底で暮らすお燐たちに何をして欲しいかという意見を集めていたのだそうだ。
団子屋につき、一通り味を楽しんでからお燐は特に不自然な仕草を見せることなく淡々と語る。
「土産物も温泉卵と饅頭だけじゃ花がないからね。それで、そっちのお二人さんは何をしていたんだい? あたいの予想が正しければそっちのお姉さんは、宿泊ができることの知らせるために人里を回っているみたいだけど」
「ああ、私はその力添えをしているだけだよ。こちらとしても、逃げ遅れた人に対する救済措置があれば、人里を隠しやすい」
命蓮寺は、素早く情報を広げるために慧音を。
慧音は、人の安全のために命蓮寺を。
お互いに利益があるのだから、協力して損はない。そうやって人間たちを守ることに重きをおいていた。
「なるほど、やっぱり安全を求めるのが大きいねぇ……、やっぱりお姉さんたちも強い誰かに守ってもらうと好きになっちゃうもんかい?」
誰かに守って貰う。
その言葉を聞いた瞬間、村紗の脳裏によぎったのは――船幽霊としてしか生きられなかった自分を、救い、守ろうとしてくれた人の姿だった。
「ま、そんなもんかな。立派な人ならなおよし。先生はどう? お見合いの話とかもあるんじゃないの?」
「ははは、確かに寺子屋をやめて家に入らないかと誘われたことはあるがね」
そんなことを言っていると、団子屋の主人がお茶を持ってきて『先生はうちのせがれがもらう予定だよ』と冗談交じりに言う。軽く冗談を軽く言い合えるくらい、半人半獣の女性はこの人里に受け入れられている。
「でも、もうしばらくは一人身を楽しんでみることにするよ。あまり急いでも、健康に気を使う焼鳥屋が、餅を焼いてしまうからね。では一休みもしたことだし、続きといこうかな」
「はいはーい。じゃあ行こうか先生」
「ん、お姉さんたちもがんばりなよー。っと、そうだそうだ! お姉さんちょっと待っておくれよ、あたいは別に用なんて何もないんだけど。お空から伝言を預かってね」
立ち去ろうとする村紗を引き止め、はぁっと何故か嫌そうにため息を吐く。
「ぬえは、寂しがり屋なだけなんだってさ」
「……さぁ、さっさと行こうか。先生」
「あ、ああ、わかった」
あまりの素っ気無い反応に動揺を見せながらも、慧音はスタスタと先を行く村紗を追いかける。席を立って歩いていく二人を見送ったお燐は、出されたお茶をやっと冷えたことを確認してから喉へと流し込み。
「ごめんね、お燐」
長い服の裾からこっそりとリボンを付けた烏が顔を出し、人の言葉を発した
頭を下げ、詫びながら。
「ま、予想通りの結果だったけど仕方ないね。とりあえず、守ってもらうのが嬉しいってわかったからそれでよしとしようじゃないか」
「うん……」
人の形を取り戻した、自分より背の高いお空。
お燐はその頭をつま先立ちしながら撫で、手を引いて人里の中を歩き始める。
村紗たちとはまったく逆の方向を目指して。
幻想郷では満月の夜の風物詩がある。
日が暮れ、盆のような月が昇り始めて一刻が過ぎる頃。
降り注ぐ月の光に狂わされた妖怪たちが、空腹を満たすためだけに己が最も望む食料を探す。森を、山を、平原を。閉ざされた空間の中を駆け巡った彼らは、決まって最後にとある終着点に辿り着く。
そして彼らは見せ付けられるのだ。
自らの望む食料を抱えた人里という大きな籠盛が、一人の人物によって隠される様を。
ハクタクが、人里を妖怪の歴史から食らう瞬間を。
まさにそれは蜃気楼。
遠目ではそこにあったはずなのに、求めてみればすべてが消える。その怒りと空腹に支配された妖怪たちは一斉にハクタクへと襲い掛かり――
「さあ、野郎共! この調子でガンガンまもってくぞー!」
「おーっ!」
そんないつもの風景とはまるで違う映像が、人里にあった。東西南北の入り口には自警団が配置され、姿を隠してすらいない。それだけでも不自然だというのに、特に攻防が激しい中央通りに繋がる南門では、あまり見たこともない少女が自警団の男たちを鼓舞している。
「先生はもうすぐ戻ってくる。それまで守りきれば我等の勝利だ!」
彼女の言葉どおり、慧音は今ハクタク状態でしかできない歴史の整理、細かい部分の歪みを修正している。いつもならほどほどで切り上げ、人里を守りながら作業の続きを行うそうなのだが。今日に限っては……
『……よし、任せておけ』
と、ふらついた体で言うのだから、どうやって信用すればいいのか。慌てて自警団員が周囲に人を走らせ、防衛を頼めそうな人物を当たったところ。命蓮寺から村紗と一輪が出ることとなり、各々別な場所を守っている。もちろん一輪の側には雲山も控えており、空からやってくる妖怪の迎撃を担当することになった。
とにかく体調不良の慧音が永遠亭で治療を終えるまでのおおよそ一時間、それまで被害を最小に抑える必要があるわけだ。
「こういうときになんだっけ、巫女が言ってた胡散臭い妖怪が動いてくれれば良いんだろうけどね。その部下の九尾でもいいんだけど」
「ないものねだりはよくありませんよ」
「あ、一輪。そっちはどう?」
人里の上空をぐるぐると回っている途中で村紗の言葉を聞いたのか。一輪が雲山と一緒に下りてくる。
「こっちは、一人も。人里の周囲は何か騒がしいですが、向かっては来てはいませんね。そちらは?」
「こっちも全然。来ないならそのまま終わって欲しいところだけど」
「そうですか、では警備を続けますね」
おそらく、一輪が話し掛けてきたのは状況の確認だけではない。
不安だったのだ。普通ならもう、まばらに襲撃があってもいい頃だと自警団の男たちが口にしているのにその影がまったくないのだから。今の状況下では喜ぶべきことだとは思うが、これが何かの策で一斉に全方角から襲い掛かられたらどうなるか。それを想像するだけで、背が冷える。
「それにしても今夜はやけに少ない……全く動きがないとは」
「こらそこ、油断だけはしないように」
右手の槍を杖代わりに寄り掛かったり、欠伸したりする緊張感のない男たち。布や皮でできた軽鎧を身に着けているものの、いざ戦いが始まればこのうちの何人が使い物になるか甚だ疑問である。
「一時間経過、そろそろ慧音先生が戻られるとのこと」
そのため、何も起こらないまま慧音が戻ってくれることだけが唯一の救いだった。
伝令役の男の言葉を聞いたため安堵が広がり、警備のレベルはさらに一段下がる。村紗が冷静な敵であるならばこの瞬間を見逃さないとは思うが、相手は狂わされた妖怪たち。それならば仕方ないかと思い始めた頃。
伝令の男が再び戻ってきて、
「慧音先生の体調は万全とはいかないものの、能力の使用に問題なし。狼煙を上げた直後から人里を消す作業に入るとのこと」
「で、人里が消えてから。私と一輪が命蓮寺に保護してしまえばいいのね。先生を」
「はい、よろしくお願いします」
そして伝令係は内側の方で煙を焚き始めた。
あれが先ほどの話で出てきた狼煙の元なのだろう。そんな風景を眺めていると、夜空でも目立つ四つの煙が目視できた。
準備が整ったのだ。
それと同時に――
「うわっ……」
思わずそう叫んでいた。
人里が文字通り、消え始めていたから。
地面に接している部分から順に、透明に、空気と混ざり合っていく。これが妖怪の歴史から人里を食らうということなのだろう。
この光景こそ、幻想の二文字に相応しいのではないか。
そう、素直に思った。
そのとき。
「え?」
風景が、元に戻る。
消え始めていた人間や、建物が、再び世界に足を下ろす。
しかし、人間たちはそれに気づかない。
おそらく慧音が消した後も、内側から見れば何も変わらないのだろう。変わらないから、もう安全だと誤解し家路を急ごうとする。
「まだ、消えてないよ!」
だから知らせてやる必要があった。
声が届く範囲の全ての人間に。
そして、知る必要があった。
この現象が起きた原因を。
「慧音先生の場所は!」
「東門から、南よりの位置に一人で……警備はいらないとおっしゃって……」
もう安全だと思える、誰もが最も油断する絶妙なタイミング。
そこで狙われた最高の獲物は、偶然体調不良であったワーハクタク――『上白沢 慧音』。
「やられたっ! 一輪はっ、って、まだ上じゃないのよもぅ!」
地面から消え始め、それが途中で止まり元に戻った。
そのため一輪はまだ異変に気づいていない。空から来る敵だけを執拗に探し回っている。
「私しか、いないってことよね! 伝令係の人はまだ消えてないことを全員に! 緊急事態を知らせる狼煙を上げて!」
多少弱っているとはいえ、伝説の獣であるハクタクを妨害できるほどの戦力だ。複数なのか単騎なのかもわからない今、自警団を動かせば犠牲を生むだけ。
しかもこれが最初から慧音を狙ったものであるならば、全力の彼女を追い込めるだけの力が備わっていることとなる。
しかし、ここで留まっていても事態は好転するはずもない。
「私が先生の援護に回る、残りは全員警備を続けて!」
危険があると知りながら、村紗は飛ぶ。
もう手遅れかもしれないと思いながらも、必死で飛ぶ。
人里を囲う高い塀に沿い。
いらぬ戦闘を生まないために低空飛行を続け、草むらを二つ越えた後。
村紗は無言でイカリを振り上げ、折り重なる二つの人影に向けて叫ぶ。
「一撃必殺! 撃墜アンカーっ!」
目標は、慧音を押さえ込もうとしている黒い影。
はっきりとした輪郭はわからないものの、上に乗っているのが彼女でないことが確認できれば、十分だった。
「っく!」
覆い被さっていた誰かは直撃を避けるために空へ逃げ。狙いどおり二人を引き離すことに成功した。
ただし、それだけでは終わらない。
咳込む慧音の姿に安堵しながら、村紗は足を大地に下ろし。
急に逃げたせいで体勢が不十分な妖怪に向けて追い討ちを放つ。再構築したイカリへ慣性と体の捻りを加えて、ぶん投げた。
「!」
全力で放たれたイカリはまっすぐ目標へと飛ぶ。
直撃は避けられたとしても、反撃の余地はない。村紗にとって完璧な一撃だった。しかし彼女はフォロースルーの体勢のまま動かず、何かに目を奪われていた。
攻撃を読まれて回避動作をとられたからではない。
現に今、彼女の攻撃は妖怪の真芯を捉える軌跡を描いている。
ここまでくればもう避けられるはずがないというのに。
それでも、彼女は動揺に瞳を揺らした。
「村紗……?」
いや、正しく言うならば、『彼女たち』か。
攻撃されているというのに、空へ逃げた妖怪は回避運動すら見せず、じっと地上の人影を見ていた。名を呼び、反撃のために振るおうとした手を止め。無防備に空中で停止する。その姿を村紗は知っている。
一度は地底世界で友人となったその姿を忘れるはずがない。
「ぬええええええっ!」
咄嗟に出たその叫びは、『何故』という困惑によるものだったのだろう。
いや、もしかしたら、避けろと訴えていたのかもしれない。
しかし空中のぬえを叫び声に身を震わせるばかりで、無抵抗のまま子供の背丈ほどありそうなイカリをその身に――
「っ!」
受ける――ことはなかった。
「うりゃあああああああああっ!」
場違いな裂帛の気が拡散した直後だった。
ぬえをまっすぐ目指していた暴力的な質量の塊。
それを天から飛来した一つの影が、叩き落したのだ。漆黒の稲妻に打ち落とされたイカリは地面に突き刺さり、轟音と大袈裟な土煙を作り出す。いくら妖怪といえど、あれだけの攻撃力を正面から跳ね返すことのできる者は限られる。
強力な特殊能力を持つ妖怪か。
もしくは、ポテンシャルが馬鹿高い妖怪か。
「大怪我させちゃうケンカは駄目だって、さとり様が言ってた!」
そしてこの漆黒の羽を持つ地獄烏は、間違いなく後者に該当した。
手にする制御棒で叩き落したのだろうか、物々しい右腕を前に突き出しぬえを守るように半身で構える。
月明かりに映るその真剣な眼差しに射抜かれ、村紗は何も行動を起こせずにいた。
「なんで、あなたたちが……」
声が震えていた。
だから、続けるはずだった声が出てこない。
『何故、この満月の夜に人里を襲ったのか』
『何故、あの純粋なお空までも一緒なのか』
わからないことが、ぶつかり合ってどちらを先に口にすれば良いのか。整理がつかなかった。
「なんで、こんな、愚かな真似をしているのっ!」
彼女に残された行動は、ただ叫ぶことだけ。
かつて『友人』だと思っていた馬鹿を怒鳴りつけるだけ。
纏う衣服をボロボロにした、動揺に瞳を揺らすぬえに向かって。
「何、言ってるの? 私は変なこと何もしてないよ。ぬえだってそうだよ、全然間違ってなんかない」
「嘘を吐かないで、よくもぬけぬけと――」
「う、ぅぅっ」
「っ! 先生、しっかり!」
呻き声を聞き、村紗は慌てて彼女の元へと駆け寄り額に手を当てる。
能力使用で酷使したせいか彼女の体は熱を持ち、額は焼いた石のように熱い。ハクタク化でうまれた尻尾で地面を弱々しく撫で、朦朧とした意識のまま自分の体を起こす存在を眺めていた。
「里を、頼む……里を……」
その目は、村紗を映していたかどうか。
それすら確認できないまま慧音は全身を脱力させ、四肢をだらりと下げた。急な体調の変化と能力の酷使に体がついていかなかったのだろうか。意識を手放し荒い呼吸だけを繰り返す慧音を腕に抱きながら、彼女は夜空を睨んだ。
「見損なったよ、ぬえ、ここまで腐ってるやつだとは思わなかった」
「っ! えっ? え? 何で、何でっ!」
「今更何を惚けているの! あなた、これがどんなことかわかっているの! どれだけ酷いか、わかってやってるの!」
「――!?」
仰向けで倒れていたからわからなかったが、慧音は背中に傷を負っていた。
おそらくは、能力を使用する際に襲われてつけられたもの。
深くはないが、今の慧音を無力化させることができるほどの、生々しい切り傷だった。
「ほほう、酷い、ね。よく言えたものだよ、おねぇさん?」
一触即発の空気の中、お空の羽の付け根あたりから赤と黒の毛をした猫が宙へと飛び降り。落下しながら人型を作り出す。猫の特性からか、砂埃一つ立てず地面に着地したのは、その独特な口調でも有名な。
「あんたまでっ、いったい何を!」
怨霊をその身に纏う、火焔猫燐だった。
あの地底の屋敷の中ではさとりの次にましな部類だと思っていたのに、人里でこんなことするなど。今の村紗には到底理解できない。
しかしそんな村紗を嘲り、お燐は口元を歪める。
「酷いって言葉ならそのまま返してあげるよ。そんな状態の仲間に人里を守らせようだなんてね、見損なったよ」
「っ! 今のあなたたちに言われる筋合いなんてない。この状況で妨害なんて正気の沙汰じゃないわ!」
「……やれやれ、何を言ってるのやら。行こう、ぬえ、お空。時間の無駄だよ」
「待って! このままだと、あなたたち!」
傷つけられた慧音と、その場で彼女に圧し掛かっていたぬえ。
それが意味することを冷静に考えようとしても、たった一つの可能性しか生まれない。例えぬえが何か勘違いをして彼女に襲い掛かったとしても、その過ちに意味はない。
様々な過程を経て、しょうがなく一つの結果にたどり着いただけだとしても。
「このままじゃ……」
人里の子供を襲ったことと、満月の夜に慧音を襲ったこと。
その二つで十分なのだ。
人が自分とは異なるものに疑惑を持ち排除するのは、本当に簡単なのだから。
聖が妖怪を助けたという結果だけで判断され、封じられたように――
「また、封じられるかもしれないんだよ、ぬえ……」
もう絶交したはずなのに、友達でもなんでもないというのに。
村紗の中で焦燥感だけが走り抜ける。
すべてを丸く収める方法はないかと必死で探り。
「あ、村紗さん! ここにいましたか! 先ほど、歪な赤と青の羽を持つ妖怪が慧音先生を襲ったという報告がっ! せ、先生!」
村紗の腕の中で気を失っている慧音を見つけ、人間は大慌てで駆け寄る。
その光景を至近距離で眺めながら、彼女はただ立ちすくむ。
嵐の中で翻弄される船のように。
暴風の中で舵を取られた彼女は、ただ波に乗せられていくしかなかった。
何も考えられないまま、散発的にやってくるまばらな数の妖怪を追い払い。
それがやっと10体を数えたころ、望まぬ朝日が人里を照らしていた。
その一夜が終わった後、彼女たちの扱いは一変した。
まだ満月の夜から半日も経過していないのに、供え物という名のお礼の品が次々と運び込まれる。慧音がいないのに人里の人的被害も物的被害もゼロというのが相当嬉しかったのだろう。人里近くで取れた山の幸や反物だけで、玄関に小山をつくるほど。朝日を浴びるソレは、まさに宝の山だった。
「あまりこういうことを喜んではいけないのだが、慧音という寺子屋の先生が一時的な病で倒れてくれたおかげかな」
「ナズーリン、そういうことは思っても口に出すものではありませんよ」
「おや、ではご主人もそう思ってしまったと?」
「あげ足とりは感心しませんね」
「ふふふ、まあ、いいじゃないか。おや、山羊のチーズもあるよ! 素晴らしいじゃないか!」
同時に進行していた人間の受け入れも順調であり、何の問題もなく終了した。それも加味されての量だろう。
その光景を目にした住民のほとんどが、喜びに顔を緩めている中。
「おはよう」
玄関に遅れて現れた村紗だけは、表情を曇らせていた。
その手に、天狗が書いたと思われる新聞を握りながら。
「寝不足ですか? 無理して起きなくてもいいのですよ。村紗が一番がんばったのですから」
優しい聖の言葉に首を振り、無言で新聞を差し出す。
普段の明るい彼女からは想像できないくらい思い詰めた表情、それに尻込みしながら聖ではなくナズーリンが新聞に手を伸ばした。
何か命蓮寺の悪口でも書かれているのか。
少々不安に思いながら記事を覗き込めば。
「えっと『人里の新しい救世主? 命蓮寺大活躍!』なんだ、心配させないでくれ。これ以上ない賛辞じゃないか! おっと、近いうちに密着取材を申し込むかもしれないとあるね」
「それでは掃除でも行いましょうか。少しでも見栄えよく映るように」
「いつもどおりで構いませんよ、一輪。ありのままを見ていただくのが一番なのですから。ほら、雲山も頷いているわ」
ナズーリンだけが読んでいたはずなのに、いつのまにやらその上から村紗以外全員が覗き込む形になっていた。自分たちの活躍が載っているのだから仕方ない。
しかしその途中で、ピタリっとナズーリンの目が止まる。
そして、戸惑いながら村紗を見た。
「……事実、なのかい?」
ナズーリンよりも遅れて読んでいた他の面々も、とうとう辿り着き。沈痛な面持ちで村紗の様子を窺う。
『妖怪の襲撃の際、ぬえという妖怪が慧音に襲い掛かり故意に作業を妨害。人里を危険に晒す事となった。前回のことも踏まえ、ぬえの退治を博麗の巫女に依頼すると自警団は語った。早ければ本日中に身柄を確保し、明日にでも実行される予定』
輝かしい功績の影で、誰も望まない砂時計が静かに砂を落とす。
そのさらさらとした幻想の音を、村紗は確かに聞いた気がした。
「少し、遅かったですね」
その言葉がすべてを物語っていた。
ぬえがこの場所から、地霊殿の中から連れ去られてしまったことを。
「お空を抑えるのは大変でしたよ。あの子、核の力を得てから信じられないくらい地力が増しましたからね。私と勇儀さんの二人がかりでやっと押さえ込むことができました。あ、すみません恨み言を話すつもりはなかったのですが、とりあえず座りませんか? お二方とも」
「すみません、ほら、村紗も」
真実を確認するために命蓮寺の代表として星と村紗が訪れたわけだが、一足遅く。ぬえは人里で囚われの身となっている。そうとわかればすぐ移動したいのが本音であったが、出された茶に背を向けることもできず。ひとまず星は村紗の手を引いてソファーへと腰掛けた。
「急いでいるのは心得ています。私どもも出掛ける準備をしておりまして」
「そうでしたか、どこか外出でも?」
「ええ、人里へ。あの子たちが納得できる答えを探しに」
村紗はその二人がどこにいるかをたずねようとはしなかった。前回の話し合いでさとりが告げた言葉が、自然と頭の中を流れたから。
『冷静に話をできる状態ではない』と。
「そう、ですか。私たちがここまでぬえという妖怪を守ろうとするのか。それがわからない、それを確認してから人里へ向かっても損はない。というところでしょうか」
「え、えぇ、確かに、そう考えていましたが」
その疑問は仕方のないこと。
いくら何度か面識があると言っても、地底の立場を危うくしてまで『答え』を探す必要はない。一般的な妖怪ならまだしも主として収める者が大層甘い思考をしていると、客観的に思えてしまう。
しかしさとりは、なんの迷いもなく言葉を紡いだ。
「一度は地底で共に暮らした仲間だから、それ以下でもそれ以上でもありません」
「たった、それだけなのですか?」
「地底という日の当たらない場所で、細々と生きる。苦楽を共にした仲間たちは家族同然と私は考えます。ならば、大切な仲間を、家族を救うことに理由など必要でしょうか? あなたがたがあの僧侶を救ったときと何が違うのでしょう?」
聞いている者が恥ずかしくなるほどの奇麗事だった。
けれど、この地底という世界でそれを実行し続けた彼女の言葉には重みがあり、星は質問をぶつけることが恥ずべきことでないかとすら感じてしまう。
「こんな話のためにお茶をお出しして引きとめてしまい申し訳ありません。あなたたちも今のぬえを案じているのなら、私たちはいつでも協力しましょう。それと、村紗」
返事はない。
まだ昨日の夜と今朝の記事から立ち直れていない村紗は、頷きだけでさとりに応じる。
「真に信ずるべきは何か。それを見失わないようお願いします」
語り終えたさとりは、人型のペットを呼び出し二人の見送りを命じた。
二人もそれに従って地霊殿を後にし、まっすぐ人里へと向かった。
『明日、正午。
人里を襲いし’ぬえ’なる妖怪の退治を中央広場で行う。
見学を希望するものは自警団の指示に従って行動すべし』
看板にはそうあった。
期限にして、丸一日。
立て看板での退治依頼や捜索依頼がいくつかある中で、その一つだけが異様な空気を放っていた。
妖怪の被害に合い続ける人間たちの怒りをぶつける対象。
わざわざそれにぬえを選んだかのような、黒い意思すら感じる。似顔絵の部分には、普段の彼女とは思えないほど凶悪な表情がわざと描かれており。妖怪への敵対心を煽っているとしか見えない。
そんな悪意を放つ看板の前。
人々が口々に何かを言い合う中、霊夢は腕を組み、目を細めていた。
「これは、異変ね!」
「それが私の真似のつもりなら、結界で動き止めた後、くすぐり地獄」
「い、嫌ですねぇ、ちょっと暗い雰囲気を紛らわせようとした私の優しさだというのに。あ、でも、霊夢さんの手なら受けてあげても」
「その辺のおっさんの手」
「断固拒否します」
霊夢の後ろ、人波を掻き分けて姿を見せた文は手帖に素早く看板の内容を書き留めて、わざとらしく音を立てて咳払いをする。
「それで、霊夢さん。何をお悩みですか?」
「いやね。さっき、人里に行くなって地霊殿のお空とお燐が私にスペルカードバトル挑んできたのよ」
「おや、それは初耳。して結果はどのように?」
「3枚勝負で2枚残し、被弾ゼロ」
「あの二人相手に……鬼ですかあなたは……」
冗談でもなんでもなく、それをやってのけるのだから恐ろしい。そうやって会話をしながらもずっと看板を眺めている。
「何でいきなり挑んでくるのかと思ったけど、看板見てやっとわかったわ。やけに弱かったのはこの焦りもあったんでしょうね」
「ふむ、確かにぬえは地底に封印されておりましたから。何かしらの関係があってもおかしくはない。というところでしょうか。しかし、霊夢さんが襲われた理由は?」
「これ、私関係してるのよね」
「うわー、この巫女悪趣味……さすがに引きますね……」
「仕方ないじゃない、『捕獲した妖怪を退治したい』の一点張りだったんだもの。妖怪の種類すら不明だった」
「何で受けたんですか、そんな怪しい依頼……」
妖怪の立場からして、拒否反応すら出てくるというのに。
文はじとーっと目を細め、ずいっと霊夢に迫る。けれど顔を近づけられても、普段と同じ態度で軽くいなしスタスタと人垣の中を歩いていく。
それに慌てて文が続き。
「なんでって、決まってるでしょう?」
「……いやな予感しかしませんが、お聞きしてもよろしいですか?」
こんなとき、彼女の閉めの言葉は実に新聞記者殺しで。
「なんとなく、悪い感じがしなかったからよ」
「ああ、もう、やっぱり‘感’じゃないですかぁ……」
本人も本当になんとなくしか理解していないのだから、本当に恐ろしい話である。
「それに、今日は人里で泊めてくれるらしいし。美味しい新茶も飲み放題らしいのよ」
「自分の欲望に正直なだけだし!」
「失礼な、私の感はよく当たるのよ?」
「それは知ってますけど、結果が感とかだと記事の面白味が欠落しますし、信憑性もないんですよ! っと、おや? あれは命蓮寺の、布教活動かなにかですかな?」
「へぇ~、結構がんばってるのね」
「そちらはがんばらないので?」
「博麗神社の知名度で今更何を?」
そんな世間話をしていると、二人に気づいた人物が目にもとまらぬ速度で接近してきた。何事かと二人が注目すれば、聖は硬い表情で袖に手を入れ。
スペルカードを霊夢の眼前に差し出す。
「いざ、尋常に勝負!」
「わかった! さあ、いくのよ。文!」
「何で私がっ!」
日が高くなり始めた中、人里の上空に少女たちが作り出す花が咲き。
「相変わらず、お強い……」
「そっちが調子悪いだけじゃない?」
「そう思ったんなら途中で手加減しましょうよ」
とりあえずあっさりと勝者になった霊夢は昼食を要求、ついでに弾幕勝負に立ち会った文もご馳走にありついていた。とは言っても単なる蕎麦であるが。
「ふむふむ、話はわかったけど。私をスペルカードバトルで倒しても何の解決にもならないんじゃないかしら」
ずずっと、満足そうに箸を動かし最後の一口を堪能する。そして疑問を投げかける二人に対し片目を閉じて見せた。
「たぶん、人里の中でも妖怪に恨みがある実力者が絡んでいるんでしょうね。例え私が途中で放り出したとしても間違いなく他の誰かに依頼が行くことになる。それと私の予想が正しければ、第二候補は昨日の騒ぎで名を上げた場所」
箸を置き、ふぅっとため息を吐く。そして神妙な顔をしている対面の聖へと人差し指を向けた。
「命蓮寺に依頼が行くと思うのだけれど。それだとまずいでしょ、あなたたちの立場が」
「感服しました、霊夢さん。まさかあなたがそこまで私たちのことを考えてくださっていたなんて」
目の前から蕎麦の器をどけると、聖は膝の上に手を置き、深々と頭を下げる。
その後、顔を上げた聖の瞳は感動でわずかに潤んでいた。
「昨日の敵は今日の友と言いますが、ああ、なんと慈悲深い」
「慈悲……? 邪魔という理由でスペルカードバトル挑んで妖怪退治をする。そんな巫女に、慈悲?」
「おだまり」
言葉とは裏腹に、自分でも違和感を関しているのだろう。居心地が悪そうに、頭のリボンの位置を直す振りをする。
「とにかく、今、あなたたちはぬえが本当に悪事を働いたのか。その情報を集めているんでしょう? 慧音とかに聞けばいいんじゃないの? 直接の被害者なんだし」
「無茶がたたって、寝込んでおり。まだ意識が戻らないと……」
「なるほど、それを見越したか。じゃあ、私は客寄せに使われた程度かもしれないわね」
「あの、それは一体」
「私の立会いの元で退治したっていう建前を残したいってことよ。慧音が何かを知っているのなら、彼女が目を覚ます前に片を付けたいだろうし。いざとなれば私のような立会人がいなくても、強行するんじゃない? 体調が悪いと事前に連絡が入ったとか、もっともらしい理由を後付けして」
つまり、今の行為を止めようとするならば、霊夢を止めるなど的外れで。
「証拠がなければどうしようもない、ということですね」
「まあ、仲間や家族を傷つけられたり、奪われたりした際の憎しみや怒りは理解できるんですがね。私たちもそういう種族ですし。とと、話がそれましたな、それでその証拠とやらは?」
文が手帖を手に一瞬だけ目を輝かせるが、自分で気づいたのだろう。苦笑しつつ霊夢と顔を合わせた。
「いえ、手分けして聞き込みや調査を続けているのですが」
霊夢にスペルカードバトルを挑む。そんな手段を取ろうとしたのなら、彼女の手元に出せる札のない証拠。手掛かりすら揃っていないのかもしれない。けれど、聖の表情の曇り方はそんな単純なものではなく。
重い感情で体を縛り付けられているように見えた。
「私はスペルカードを使った解決方法ぐらいしか取らないから、偉そうなことはいえないんだけどね」
だからだろうか。
強く束縛されるのを好まない霊夢が、蕎麦湯を飲みながらこんな話をはじめたのは。
「やりたいことがあるなら、やってみればいいじゃない。どうせあなたのことだから、他に迷惑が掛かると思ってるんだろうけど。そうやって何事も真剣に考えてくれるあなただから、どんな苦痛があっても周りがついてきてくれたんじゃないの?」
「はい、私を封印から救ってくれたあの子達は、私にとっても大切な存在です」
「そうよ、妖怪がそれだけ盲信するんだから。自分をもう少し信じてみなさいって。気が楽になるから」
「ふむ、では。その選択が失敗したらどうするおつもりですかな?」
「そのときは、そのときよ。なんとかなるでしょ」
「あやややや、言うと思いましたよ。さすがですね」
「お褒めに預かり光栄だわ」
笑みがこぼれる。
何も考えていないような霊夢の物言いと、天狗のやり取り。それを眺めているだけで、関係のない他の客人ですら脱力し笑っていた。
「そうですね、まだ日も高いですし気を取り直して聞き込みを続けたいと思います」
蕎麦の御代を机に置き外へ出て行く。わずかながら表情を明るくした聖を見送り、霊夢再びお茶に手を――
「手伝わなくていいんですか?」
「異変でもないんだから、必要はないでしょ。後は夜まで時間を潰すだけよ。のんびりとしながらね」
「そうですかな? 人間が妖怪を陥れようとしているなら事件と言う意味では異変に該当するのでは?」
「事件として煽ってるの、そっちの山の関係者じゃない?」
「ははは、耳の痛いお話で。それはこちらにお任せしていただけると嬉しいですね」
ぺちっと、文は舌を出しながら自分の額を手帖で叩く。
いつものことながら、どこまで本気なのか。
「でも、気になるのは確かでしょう? 私も次の新聞のネタこれに決めましたし」
「そりゃあ気になるわよ、正体不明の能力が使えるぬえが、どうやったら人間にあっさり捕まるのか、とかね。その辺は目の前の優秀な天狗さんが調べてくれるんでしょうけど」
「無茶振りにもほどがありますな、ま、取材しているうちに行き着くことでしょうし。おわかり次第お伝えしますよ。どこまで正確な情報を手に入れられるかは不明ですが」
「慧音が傷ついたときの写真を誰か持っていれば、話が早いんだけどね」
「そんなものを持っていれば本当にスクープですね」
「そうね。それがあれば――」
と、不可能な現実に直面し、二人は乾いた笑いを浮かべたが。
「――写真?」
何かを思いついた霊夢の片眉が、ぴくり、と跳ねた。
奇異の眼差しが、羨望の眼差しになったとき人はどう思うだろうか。
満足感に胸を膨らませるか。
喜びで心を弾ませるか。
それとも、まだ不満だとさらなる名声を渇望するか。
「村紗さん! 昨日はありがとうございました!」
道を進むたび、警邏中の自警団に感謝の言葉を投げ掛けられ、握手を求められる。
立った一夜で名声を得た少女は、作り笑いを顔に貼り付けさせて無情感を隠し通した。是非自警団にとの冗談交じりの誘いをやんわりと拒絶する作業を何度も続け。挨拶と同時に同じ質問を繰り返した。
「昨日の夜、ぬえを見なかった?」
何人もの自警団が首を横に振り、そして呪いの言葉を吐き捨てる。
あんな妖怪は人間の敵だと、滅ぼされて当然だと。
それを何度か繰り返し、運良く7人目に新聞に証言したという自警団員を探し出した。彼が言うには『悲鳴が聞こえた後に駆け付けたら、棒状の羽を持つ妖怪が先生を押さえ込んでいた』と。慌てて援軍を呼びに近くの詰め所へ走って、戻ってきてみたら。
「私が、居たってことね」
「はい、あのときは本当に心臓が止まり掛けましたよ」
お恥ずかしい、と続ける男に嘘を付いている様子はない。荒を探そうにもその経過説明に違和感はなく、ぬえが犯人だという地盤を固める結果となってしまった。
ありがとう、と仕事中の自警団を見送った後、帽子のつばを掴み深く被り直した。
「あ、あの、村紗。あなたが胸を痛める必要はありません。悪いのは全部ぬえなのですから」
慰めようとしているのだろう。
地霊殿へ足を運んだ後、一緒に聞き込みを手伝っていた星は彼女を気遣い、肩を叩いた。けれど数日前に一緒にぬえの悪口を言っていた元気は、今の村紗にはなく。
「ごめん、一人にして」
星の手を退けて、一人で先へ進んでいく。
慌ててついていこうとする彼女だったが、伸ばしかけた手を引っ込め。
「夜には戻ってください。暖かい夕飯を作っておきますので」
「うん、ありがとう……」
優しい声音で、村紗の背中を押す。
けれど、当てなどあるはずもない。少し前に足を踏み入れた場所であり、彼女の知識に残っているのは寺子屋とその周辺の地理くらい。その足は自然そちらに進み。
『臨時休業』
感情を打ち消すような四文字を見つける。寺子屋の正面に掛けられていた木製の板に門前払いされてしまった村紗は、肩を落としたまま歩き続けた。物語に出てくるゾンビを思わせる足取りでのたりのたりと。大人を見つけてはぬえのことを尋ね続けても。
命蓮寺は善、ぬえは悪、と。
新聞記事や噂のせいで印象を受けているのだろう。気が重くなる話しか聞くことはできなかった。この日それ以外で印象に残ったことといえば、さとりから告げられた『信じるべきものを見失うな』という言葉と。いたずらをして母親に叱られる、小さな子供の泣き声だけだった。
その夜――
命蓮寺では、聖が全員を自分の部屋に集めていた。
「皆さんにお願いがあります。今、人里でぬえがどのような処分を受けようとしているか。知らぬ者はいないでしょう。確かに噂では、ぬえは人間に二度も危害を加えたとありますが、私はどうしてもそうは思えないのです。ですから皆さん、協力をお願いできますか? その結果、この場所の名声が地に落ちるとしても、私と共に妖を救うことはできますか?」
不当な扱いを受ける妖怪の救済を訴える。
まさしくその行動理念こそ、聖白蓮そのものであり。
一同は呼吸をおかずに首を縦に振る。
そんな中にあって、一人だけ。村紗だけが浮かない顔で瞳を閉じていた。
地霊殿では、ちょうど大きな音が収まった頃。
「二人は、寝ましたか?」
「ああ、怪我が治るや否やいきなり暴れだして大変だった。これは秘蔵の酒の一つや二つ貰わないとやってられないね」
「ええ、ではすぐに準備を――」
「いや、待った。それだけじゃあ、いけないよ。酒には必ず美味い肴が必要なんだ。あんなしけた面の二人を思い出してたら、全部安酒以下に成り下がるからね」
「では、祝杯をあげられるよう。努力することを誓いましょう。地底の家族を席に加えて」
「ああ、約束だ」
何も入っていない二つの盃が音を立ててぶつかり合った。
そして人里では、自警団の屋敷に招かれた霊夢が牢の前で立っていた。
月明かりも届かぬ、漆黒の世界の中。古ぼけたランプで密室を照らす。
「よく我慢したわね、てっきりもういないかと思った」
「うるさい、あっちいけ。酒臭いのよ」
「そうね、久しぶりに結構もてなされたから。涼みにきたのよ。見回りも兼ねてね。逃げてくれてたら気が楽だったんだけど」
「残念だったね。私は間違ったことしてないから、逃げる必要がないの」
「うん、それだけ元気なら大丈夫か。私の話し相手くらいにはなりそう」
「だからあっち行ってよ。他の人間たちが待ってるんでしょう?」
「嫌よ、見え見えのお世辞なんて退屈だし、堅苦しいもの」
「むぅ~~」
よっこいしょ、と。若さの欠片もない声を出して胡座をかいた霊夢と。縄で縛られて横になっているぬえ。二人の控えめな会話だけが、牢の中で響いていた。
夜が更け、虫の声すら止まり。
しんと静まり返った闇の中、各々の思惑が重なり合い混ざり合い世界を大きくかき混ぜる。加わり損ねた妖怪は、渦の外で眺めるばかり。
「徹夜は美容に良くないというのに、まったく天狗使いの荒い……」
妖怪の山のとある施設にいた鴉天狗は、大きく伸びをして新しい太陽を出迎えに外へ出た。
夜の忘れ形見のような、漆黒の翼を見せ付けながら。
鶏が泣くころ、霊夢はすでに中庭にいた。
白い玉砂利の上で大きく伸びをして、爽やかな空気を吸い込み。
「眠い、気持ち悪い、だるい、帰って寝たい」
「二日酔いですか? いやはや、人間とは困った生き物ですね」
「生まれきってのザルには言われたくないわ」
昨晩遅くまで起きていたのが祟ったか、体は絶不調。ちょうどその光景を塀の外から見つけた文は、呆れ顔で肩を竦めた後。音もなく霊夢の隣へ降り立った。
「こちらは徹夜までしたというのに」
「私だって似たようなものよ、気付いたら布団の中だったけど」
「しっかり寝てるじゃないですか」
「寝不足は寝不足なの。おかげさまでぬえの捕獲に疑問が残ったのは確かだけどねー、ん~っと。でも自警団の建物なのによくあんたを通したわね。ま、そういうことなんだろうけど」
「ええ、そういうことですね。いやはや、どちらも腹黒い。腹が黒いと苦味が合って乙なものなのですが」
「あんたが言うと洒落にならないわね。人間的に」
この四角い空間は塀越しに道と面しており、進入は容易と思われがち。しかし普段は正面からしか入れないよう工夫が施されている。
つまり、人間を守る意味で組織された団体、その中枢に近い中庭まで情報を探る天狗が入り込めることがどんな意味を持つか。それが何を指すかは誰でも思い当たるだろう。
「あ、そうそう、忘れていました。このお屋敷の前で動物が鳴いていましたよ」
「さすが新聞記者、細かいところにも目が行くわね。野良猫と犬のケンカとか?」
「烏と黒猫」
文がにこやかな笑顔で指を二本立てるのと対照的に、霊夢は頭痛の激しい頭を抱える。気だるさが全身に襲い掛かってきて、思わず肩を落としてしまった。
「……片方は同属っぽいんだから追い払ってきてよ、興奮したらあたり一面焼け野原になるでしょうし。ぬえがいるところは結界張ったから、多少無茶しても無事でしょうけどね。面倒事はこりごり」
「おや? 確かこの前、人間に関する文献を読んだところ。人に頼み事をするときは対価が必要とか――」
「一日だけ、取材でもなんでも付き合ってあげるから」
「まいど♪ あ、これ、新聞のサービスですよ♪ 私の書いたものではありませんが」
上機嫌に去っていく文をしっしっと、追い払い。受け渡された新聞を覗く。すると、霊夢の予想通り、人間側を遠回りに擁護するようなぬえに関する記事が並んでいて。自警団と鴉天狗の一部が情報を共有していることがなんとなく理解できた。
自警団が情報を提供する代わり、記事の内容をある程度指示できる。そんな体勢をわざわざ作ったのだろう。
「面倒ごとは、本当に避けたいんだけどねぇ」
文へぶつけた言葉をもう一度つぶやき、自分自身へと問い掛けた。
「気が付けば爆心地。片足どころか腰までどっぷりだものね。はぁ、嫌だ、嫌だ」
やっと騒がしくなり始めた屋敷をちたりと盗み見て、眠気覚ましのお茶を貰おうと霊夢は足早に廊下を掛けて行った。
くしゃくしゃに握り締めた新聞を、袖の中にしまい込んで。
気に食わない書類をばらばらに破り捨てたり、くしゃくしゃにしてゴミ箱に捨てた経験はないだろうか。相当な怒りを覚えた場合、紙に火をつけるかもしれない。
だが――
「うわぁ……」
核熱の炎で消し飛ばす光景など誰が想像できようか。怒りに任せた力の解放は空の薄雲すら切り裂き、人里で観測されたことのないとんでもない熱量を持った火柱を作り上げた。熱に熱せられた空気は急速に大気の流れを変え、周辺の空気を空へと巻き上げていく。
それでも竜巻や突風、さらには熱による大規模な被害が出ないのは、文が風を操っているため。もし彼女一人しかいなければ、この一画が瓦礫の山になっていたに違いない。
「さっきの、文が作ったの?」
大人三人が優々と入れそうなほど大きな火柱の中心、熱量の塊の中でお空はじっと回答を待つ。その熱量すら自らの妖力で防いでいるのか、服や髪が焼け焦げる様子はなく。背から生えた大きな翼十と共に上昇気流で舞っていた
「鴉が烏に焼き鳥にされては困りますからね、冗談もなしで言えば私の後輩の新聞ですよ。先輩といっても記事を差し止める権限もありませんし」
「……わかった」
その答えを聞いてやっと左腕を下ろし、胸の間にある宝玉に触れた。それで綺麗さっぱり炎は消え去って、普段と変わらぬ朝の風景が戻ってきた。
「でも、でも、あんた! これはいくらなんでもあんまりだろう! 『人間だけじゃなくて、妖怪もあの子を軽蔑してる』だなんて! あたいがいつそんなこと言った!」
そしてもう一人、新聞を持ってわなわな震えていたお燐は、ついに文に掴み掛かってその肩を激しく揺らす。
「んー、ですから私もそういうのを止める権限はないんですって、天魔様や大天狗様くらいでないと。まあ、私も今回の件は多少度が過ぎているとは思いますがね」
「じゃ、じゃあ、お姉さんも今から一緒にぬえの救出を!」
肩から手を離し、期待を込めた目で文を見つめるお燐は目の前の大きな門を指差す。暴力に頼った強襲の場合、人里にお空を止められる者などいない。可能性としては分があるのは確かなのだが。
「ふむ、それも不可能ではないでしょうな。しかし、大暴れして人里に被害を出そうものなら、例えぬえが無罪であっても事件に関係した妖怪は『悪』と基準が設けられてしまう恐れがありまして、人間と妖怪の大きな抗争にまで発展しかねない」
「そんなの知ったことか! あたいはぬえを、家族を助けるんだよ!」
仲間を思う心は、文も痛いほどわかる。
しかし、力だけに頼ることは危険でしかない。客観的に事件を眺めることができる彼女だからこそ、そう断言できた。
「ふむ、では、ぬえさんが抵抗せず捕まったのは、何のためでしょうか?」
「そ、それは、証拠とかそういうのがなかったから仕方なくで」
「あなたたちに迷惑をかけたくなかったからではありませんかな? 自分のためにあなたたちを傷つけなくなかったからではありませんか?」
「じゃあ、じゃあ、一体どうしろっていうのさ! あの子はね、満月の夜。ずっと必死に戦ってたんだ。里を守れば、人間に好きになってもらえるって信じて、命蓮寺に受け入れられるって思って。あの寺子屋の先生を攻撃したのもあの子じゃないんだ!」
文の胸に頭を預け、どんどんっと手をぶつける。
そんなお燐の足元に、いくつかの水滴がぽたりと落ちた。
「それにね、悪いのは全部あたいなんだっ! あたいが全部教えたんだよ! 守れば、きっと信じて貰えるって! 友達も振り向いてくれるって! あの子はそれを純粋に信じただけなんだよ! だから、だからお願いだよおねぇさん……、捕まえるならあたいにしておくれよぉ……お願いだよぉ……」
文は何も答えず、嗚咽を零すお燐の頭を撫でた。
そのうめき声にまた一つ、子供のような泣き声が加わり。
文は仕方なく、自らの羽を具現化させて、二人を包み込んだ。
「お二人とも、良いですかな? 力に頼ることなら後でもできる。ならば、今は少しでも情報を集め、人間たちに示すのですよ。お前達は間違っていると、鼻で笑ってやるために」
「おねぇ……さん」
「ご心配なく、私も妖怪の一人ですから。それに、私も――少なからずムカついておりまして♪ さあ、お二人はさとりさんの元へ戻ってください」
「うん……」
二人を覆っていた羽を消し、さあさあ、と背中を押してやる。
すると、戸惑いながらも二人は門の前から退き、東の空へと飛んでいく。
「あーあ、説教なんて。私も年を取ったかなぁ~、すぐまた無茶するだろうけどさ」
羽で覆い、風で隔離したため、最後の会話は周囲に聞かれていない。
それを差し引いてもこっ恥ずかしいことには変わりなく、文は頬を指で掻いた。口調も自然と素に戻り、親しみやすい営業スマイルも苦笑へと変化する。
「おや? 手間が省けたかな?」」
そして道行く人影が少し減ったのを見て、今度は満足そうに微笑んだのだった。
心の中でもやもやしていたもの、その一部が大きく弾け跳ぶ。
『ぬえは、慧音を襲っていない』
偶然だった。
皆と手分けして人里の中を駆け回っていたとき、偶然聞いた言葉は悲痛な叫びだった。
『嘘かもしれない。
とっさに思いついた作り話かもしれない』
その可能性は確かにあった、しかし心の奥に響くあの声をどうやったら偽りだと切り捨てられるというのか。
拠点として間借りした人里の宿、その一室で待機していたナズーリンに事の次第を伝え。その配下であるネズミに文を持たせて走り回らせる。
『証拠はないが、ぬえは慧音を襲ってはいない』
その証拠を手に入れるために、村紗は宿を、人里を飛び出し。里を囲む茂みや林を重点的に探索する。
『今日はやけに妖怪の数が少ない』という自警団の言葉。
『周囲がざわついてるだけで、人里に向かってくる影がない』という一輪の言葉。
そして最後に。
『人を守るために戦っていた』というお燐の叫び。
その全てが本当なら、誰も嘘をついていないなら。
騒がしかった場所に、『アレ』が落ちていてもいいはず。
ぬえの力の象徴でもあり、たった一人でも平気で人里を守ることを可能とする。存在を歪ませるほど力を込めた、ぬえの欠片たち。
茂みを、落ち葉の裏を、地面の上を。
四つん這いになり、手で掻き分け、砂漠の落ちた宝石を捜すが如く。無謀であることはわかっている、目に見えるすべて風景の中から何個落ちているかわからないものを探し出さねばいけないのだ。
時間だけが経過し、不安が村紗を押しつぶそうとする。
焦りが視野を狭め、判断力を奪おうとする。
それでも彼女は手を止めない、諦めるわけにはいかない。
あの夜、ぬえを信じきれなかった自らを戒め、彼女は地面に這いつくばった。
と、その視界の中に見覚えのある靴と、細く白い足がいきなり上から降ってくる。
「まったく、君というやつは……」
聞き覚えのある脱力した声。
それが耳に届いてから視線を上へと動かしていけば、飛び込んで来るのは規則的に穴のあいた黒いスカートと、手に握れるほど細く長い灰色の尻尾。
「非論理的で、非合理的で、非効率的……、命蓮寺の一級ダウザーの存在すら頭にないとは」
ダウジングロッドを脇に挟み、呆れ顔で腕を組む。
ただ、その表情には相手を侮辱する感情などなく、やんちゃな子供を見て諦める母親を髣髴とさせた。
「君は、実に馬鹿だな」
「え? なんで、ここに?」
「村紗の向かった方向が不自然だったからね、ネズミに後を付けさせると同時に推測してみたわけさ。ぬえが何か大掛かりな仕掛けを行った場合、現場に何が残るか。それでぴんときたよ。探し物は、これでいいのかな?」
組んでいた腕を解き、村紗の目の前に両手を差し出す。
その中には、淡く輝く光の玉が大事そうに握られていた。
これこそが、村紗の求めていた満月の夜の証明――『正体不明のタネ』だ。
「ありがとう、ナズーリン! やっぱり、やっぱりぬえはっ!」
「ああ、君の想像どおりだと思うよ。昨夜少し話を聞いて不審に思っていたんだがね。私の情報網では人里を襲う妖怪の数は平均して50程度。しかし今回は10程度にしか満たなかった。ぬえが正体不明のタネを使って、何か仕掛けていたとするなら『美味しそうな人間』に見せて同士討ちを諮ったか、他の生き物を利用したか。いずれかの方法を取って人里を守ったことが推測できる。でもね、あくまでもこれは状況証拠だ。厳しい言い方をするなら持ち運びできるコレに無実を証明する効果はあまりない……君が使った1時間は何の意味も……」
「ないわけ――ないじゃない。これは凄く大切なことなのよ。わっかんないかなぁ~、堅物のナズーリンじゃ!」
何の反動もなく体を縦に起こした村紗の瞳には、曇りが消え失せていた。光を取り戻し、迷いを立ち払い、ただ人里だけを瞳に入れる。
信じるべき者が、いる場所を。
「もう、迷わなくていい。あの馬鹿を心から信じてもいいと思えるようになったんだよ。それ以上の何が必要だっていうの?」
「単なる精神論じゃないか」
「そうだよ、そういうの嫌い?」
やっとまっすぐ歩みを進め始める。
そのすれ違いざまの表情に、ナズーリンは魅せられた。本当に、久しぶりに。
「……いや、なかなかどうして、心地よい響きだよ」
村紗の屈託のない笑みを、見た気がして。彼女も釣られて笑ってしまった。正午まではもう二時間を切り、証拠も揃い切っていないというのに。
「じゃあ、ナズーリンみんなに伝えて。村紗水蜜はもう、大丈夫だって」
「おいおい、そんな暑中見舞いのようなことを私にさせるのかい?」
「節目の挨拶は大事だもの」
「じゃあ、君はこれから何をするんだい?」
「そうだね、最後に見落としていた情報を探しに行ってから」
ナズーリンから受け渡された、光の玉。
それを無言で見つめて、こくり、と頷き。
「迷子の『仲間』を迎えにいってくる」
一言だけ残した直後に、風を纏う。
それからワンテンポ送れて、ナズーリンは連れて来ていた部下のネズミたちに新しい伝令を伝えた。
『船が、やっと大きな帆を上げたよ』と。
子供の残酷さは、無知にある。と、誰かが言っていた。
何も知らないから大人たちの常識を簡単に踏み外し、他人の予定を省みず無茶な要求を繰り返す。
『せんちょー、あそぼーー』
『こらぁっ! 今日は駄目なんだってば、お願いだから離して!』
だから村紗も今までは彼らの話を聞こうともしなかった。役に立たない、何の情報も持たない相手だと。しかし、それ自体が大きな間違いだった。
「……黒い服の、妖怪のお姉ちゃん? うん、あそんだ! あの人すっごいんだよ! 道に落ちてた小石がね、犬になったり、猫になったり。しんのすけくんも見たよね?」
「ああ、ああいうのって手品って言うんだぜ。しらねーだろ!」
最初の新聞記事、ぬえが子供たちを襲ったという記事。
あれは、冷静に考えれば違和感しかない。考えても見て欲しい、形振り構わず人里で暴れる妖怪が居たとして、被害がないというのはありえるだろうか。子供を襲ったとは記事に書いてあるものの、結果が書かれていなかったのだ。被害者の人数、破損または倒壊した建物の数。それがまったくない。
大人からの聞き込みでも、ぬえが襲ったという行動だけが話題になって、誰も結果をしらないのだ。
「その妖怪は、みんなを食べようとしたんじゃないの?」
だから村紗は、子供たちに当たってみた。最近、変な羽を持つ黒い服を着た妖怪と遊んだことはないかと、そう尋ねてみた。そしたら、あっというまに3人の子供が集まった。まだ4歳5歳くらいではあるが、下手な大人よりもハキハキとした、活発な子供たちだった。
「全然、触ったりもしなかったし」
その子供たちは村紗の質問を受け、大きく左右に首を振る。その中で唯一整った着物を切る女の子は『頭は撫でて貰ったよ』と嬉しそうに言う。子供たちと視線を合わせるためしゃがみ込んだ村紗は、その言葉を素直に受け止めて、頷いた。
すると子供たちは、表情を輝かせながら話を続ける。
「でもなー、あれ、怖かったよな!」
「えー、あれは、しんちゃんが悪いんじゃない。いきなり変なことお願いするから」
「そうだよ。『かわいいのはいいから、ちょっと怖いもの出して』なんて、いきなり泣いた癖に」
――怖い、もの?
「ね、ねえ、みんなはぬえに、お願いして、いろんなもの見せてもらったんだよね。小石が動物やその他の何かに変わっていくのを」
「そうそう、最初が猫、次が犬で、最後がでっかい、でぇぇぇぇっかいカエル!」
「違うよ! 最後はまっしろいお化けだったよ!」
「ええええええっなにいってんのよ! すっごい長いムカデだったじゃない!」
小石が猫や犬になったところまでは、意見が揃うのに。
何故か最後だけ、『怖いと思うもの』を要求したときだけ、全員の答えが違う。
「あはは、はは、ははははははっ」
「あれ? どうしたの妖怪のねーちゃん?」
それでその前の事件の謎も解けた。
一致するはずがない。するほうがおかしい。
頭の中にある、恐怖のイメージが個人によって異なるのは当然なのだ。
そこで――
そのぬえと子供が遊んでいる姿を、大人たちが見てしまったのが悲劇の始まりだったのだ。
経験談により『怖いもの』を『妖怪』と思う者が多かっただけ。
あの新聞記事でも、『角が10本、頭が三つ、尻尾が3本、という観測されたことのない異形であった』と記されていたことからも証明される。
複数の大人たちが証言した、正体不明の妖怪の像。それをあの記事が足し合わせ、架空の事件を仕立て上げただけだったのだ。それを、以前から妖怪と共存することを拒んでいた一部の人間たちに利用された。
ぬえは、加害者ではなく、被害者でしかない。村紗に絶交だと言われても、もう一度関係を取り戻したいと努力していたというのに。
「ありがとう、みんな。おかげで大事な人を助けることができそうだよ」
「え、そうなのっ! うおー、すげー! 俺たち命のおんじんとかいうやつじゃないか!」
「そうだね、自慢しちゃっていいよ。この村紗船長が許してあげる」
三人の頭を順番に撫で、小さく頭を下げると村紗は時間を確認する。子供たちを捜していた時間と今の会話を合わせれば、1時間ほど。ぬえの救出まで残り1時間しか猶予はない。けれど物的証拠なんて、手元には正体不明のタネのみ。さて、どうするかと、村紗は息を吐いて立ち上がった。自分の中で、すでに結論を導き出しながら。
そして、お別れの言葉を子供たちに言おうとしたとき。
「あーあ、またあの子お母さんに怒られてる~」
「あいつ、イタズラ好きだからな、ちょっと放っといたらすぐ、ちょっかい出してくるんだよ」
子供たちは、路地のところで母親に怒られる少年の姿を見つけ、口々に文句を言い合う。あまり好かれていない印象を受けたが、女の子だけは別な感想を持っているようで。
「お母さんから聞いたんだけどね、あの子、少し前まですっごいいい子だったんだって。でも、あのおばちゃんが忙しくなって家にあんまりいなくなってから、いたずらっこになっちゃったって。親にかまってほしくて、イタズラするんじゃないのって」
村紗にもその姿は記憶にあった、昨日、人里の中で怒声が響き渡っていたから印象に残ったのだろう。
寂しくて、ずっと側に居たい。
でもそれを口にできないから、あの子は悪戯を、
「あっ……」
怒ってもいいから、振り向いて欲しくて、『あの子』は悪戯を繰り返したんだ。
急に忙しくなった『誰か』が、『あの子』をずっと放っておいたから。
大きな『仕事』のために、『あの子』を犠牲にしたから。
「ごめん、私、もう行くね。大事な人が待ってるんだ」
村紗の中の、今までのもやが全て消え失せた。
異変のとき、ぬえに裏切られたという感情すら微塵もなくなり、熱い激情が彼女を走らせた。子供たちに手を振ることも忘れて、角を一つ、二つ。
自分の意志を早く命蓮寺の全員に知らせようと、まっすぐ宿へと駆ける。そして最後の角を折れ曲がったところで。
「ナズーリン!」
待機していた知将が宿の前へちょうど出て来るところだった。
「村紗!」
名前を呼ばれた、ナズーリンかダウジングロッドを手にしたまま、村紗へと駆け寄り。ぎゅっとその服を握り締めた。
「よかった! 本当によかった! 間に合わないかと思ったんだ!」
「お、落ち着いてよ。あなたらしくない、いきなり抱きついてくるなんて。何がどう大変か教えてくれないと」
促されたナズーリンは、息を乱しながら村紗を見上げ。
「ぬえの! ぬえの退治予定時間が一時間早まった!」
「――っ!?」
今にも泣き出しそうな顔で、絶望的な言葉を口にした。
人里の中央広場、そこではいつもと比べ物にならない数の自警団が円状に配置され物々しい警備体制がしかれていた。
「一応、最後の確認よ」
その真ん中で霊夢は膝を付く。しゃがんだ体勢で右手だけを肩まで上げ、縄で縛られた妖怪へと伸ばそうとする。その中には、妖怪の力を束縛するための札が握られていた。
「今なら、私のミスという名目で逃がすことはできる。でも、これを貼り付けてしまったら、あなたは人間と何ら変わらない力しか持たなくなるの。言いたいことはわかるでしょう?」
逃がしてあげる。と、霊夢はぬえに伝えた。
スペルカードバトルでの解決なら望むところでも、今のやり方には納得ができない。例えすべてが彼女の責任であったとしても、人間だって大きな間違いを犯すことがあるのだから。
けれど、彼女の意思は曲がらない。
「私は、悪いことなんてしてない」
「それは聞いた」
「正しいから、逃げなくてもいい」
「それも聞いたわ、でもね」
依頼人から一時間早めろと命令を受けた霊夢は、すべて察していた。察したからこそ『急に言われても準備に時間が必要だ』と告げ、時間を引き延ばしたのだ。
「正しい者が、常に救われるとは限らない。歴史とかあんまり知らないから説得力ないかもしれないけど、これって結構常識なのよ」
「…………」
「ほら、争いってさ。自分が正しいと思ってる人同士がケンカするから起きるでしょ。今だってそうよ。人間の中でこれが正しいことだと思う人がいたら、何の意味もなくなるんじゃない? だからね、そうやって肩肘はらないで良いと思うわけ。残酷なことを言って悪いけど、もうちょっと考え直してみる気はない?」
「でも……」
自分は正しい、それだけを頼りに耐えていたぬえの瞳が暗い色を帯びる。
強気の仮面の下で隠し通していた不安が滲み出て、微かに目じりが潤んでいく。それを霊夢は静かに見つめ、彼女の答えを待った。
「どこに、逃げるの?」
けれど、霊夢の問いに帰ってきたのは、彼女の切実な感情。
「私が逃げたら、人間が探すでしょ? そうしたら、地底の人にも。村紗たちにも迷惑が掛かるのに、逃げられないじゃない」
正体不明の妖怪は、孤独を生業とする。
しかし、一度甘美な暖かさを、仲間を知ってしまった彼女は『絆』という鎖にしばられ、身動きが取れなくなっていた。
自分のためにではなく誰かのために耐えることが、彼女の命すら危険にさらしているというのに。
「それに、お燐とか、村紗たちが何とかしてくれる気がするんだ。お燐なんて絶対助けるって言ってくれたし」
窮地にありながらも、恐怖に晒されながらも。
彼女は自分が正しいと信じ、また、仲間を信じようとしていた。
「……わかった。そこまで腹くくったか」
早められた予定時間を過ぎたせいか、霊夢たちを取り囲む野次馬たちが次第に増え。口々に声を飛ばし始める。
『あんな小さいのに可哀想』『妖怪は退治されて当然』『巫女のお姉ちゃんがんばれ!』
勝手に自分の中で物語を作り上げ、観客として楽しもうとする。この場でもうすぐ、命のやり取りが行われるというのに。自警団に押さえられ、一定距離を保ちながらまるで餅つき大会を待つくらいの呑気さでその場を眺めていた。
「じゃあ、ぬえ、悪いけど」
そして、とうとう霊夢が札を貼ろうとしたとき。
とんっと、何かに肩を叩かれた気がした。
自警団の誰かが、早くしろと指示を仰ぎに来たかと思い振り返るが、後方には誰もおらず。近くの自警団員も一瞬で動けるとは思えない位置にいた。
なんだか腑に落ちない霊夢であったが、気を取り直して再度ぬえへと手を伸ばし。
「うにゃああああああっ!」
瞬間、猫の鳴き声が人ごみの中で響き観客たちが一斉に顔をそちらへと向けた。
お燐の襲撃を予測していた霊夢も同じ位置へと意識を配る。
その直後――
正反対の位置から巨大な黒い翼が舞い上がり、完全に不意を討たれた霊夢の背中目掛けて制御棒を振り上げた。
ドゴンッと、重い衝突音が猫の声の後に続き場を支配する。
立て続けに起きた変化に、人間たちは目を丸くした。それは当然だろう、白昼堂々、妖怪が人間に襲い掛かる映像など人里でありえない。しかも、それが博麗の巫女に対して実行されるなど前代未聞。
音と共に吹き飛ばされた少女の周囲からは人波が消えていき、眼前で起こった現象とその結果により悲鳴すら上げる。その中の一つ、人一倍大きな声が地面の上で倒れる少女に向けられる。
「お空ぅ! おくぅぅぅぅっっ!!」
うつ伏せに倒れ、身動きしなくなったお空にお燐は駆け寄る。途中から足がもつれ倒れても、地面を這うように移動し、背中に覆い被さる。
「返事をしておくれよぉ……目を開けておくれぇ、お空ぅぅ……」
何度肩を揺らしても何の反応も返ってこない。お燐に揺らされるたび翼が力なく動くのが悲壮感を漂わせた。
泣き付く少女と、倒れ付す少女。
その二人の姿を見ていたたまれなくなったのか、野次馬たちは中心でバツが悪そうにしている巫女を見つめた。
「え、えーっと、何で私が悪者扱いされそうになってるのかが理解できないんだけど、攻撃したのあの子だからね? 事前に張っといた対妖怪の結界に真正面からぶつかって弾き飛ばされただけ」
「対妖怪の結界っ!? じゃあ、お空は……お空はどうなっちまうんだい!」
「あーもう、そんな心配しなくて大丈夫だって。頑丈だけど、相手を痺れさせたり気絶させたりする程度の代物だから」
「なるほど、確かに。ショックで眠っているだけのようですね」
人込みの中から新たに姿を見せた人物は、座り込んだまま嗚咽を繰り返しているお燐にハンカチを与える。そして頭を撫でて慰めつつ、『大丈夫よ』と、声を掛けた。
「うわー、あんたも来てるわけ」
「ええ、もちろん。中々大事な局面でしたので。私が来ると迷惑でしたか?」
「いろいろ面倒だからね、あんたの能力は。たまに便利だったりするんだけど」
第三の目を胸の前に置き、じっと二人の姿を見つめる。地上で忌み嫌われる原因となった相手の心を読む能力を曝け出して。
「すみませんが、ぬえを地底へ帰していただけませんか。それが今後のお互いのためになるかと思いますが」
「さーとーりー、あんたねぇ……」
お空が弾かれている間に、ぬえの体には束縛を意味する札が貼り付けられてしまっていた。段取りどおりに進めるならもう、霊夢ができることは結界の維持と、突破された場合の防御要因。その後の退治は、一般団員用の対魔の刀と専用の札で行うこととされている。つまり、彼女の力を封じ込める札を貼り付けてしまった時点で、霊夢はぬえをどうこうできる立場ではなくなっていた。現に霊夢とぬえの間に割り込む形で軽鎧を着込んだ自警団員が二人、前後からぬえを挟んで立っている。心を読めばそれくらいわかりそうなのに、さとりは霊夢をじっと見つめて尋ねる。
「そちらの言い分はわかります。妖怪に襲われる現場を見たという証言の元、このようなことが行われていることも。しかし、それを立証する証拠が証言だけだというなら、私のペットたちはあの満月の夜、ぬえが人里を守ろうとしたと言っている。二つの証言を尊重するなら、こんな茶番に意味はないと思いますが?」
妖怪が里を守ろうとした。急に姿を見せたさとりが、そう言うと広場にざわざわと波紋が広がっていく。その中に自警団の横暴という言葉が混ざり始めたころ、霊夢は頭を抱えた。
「あのねぇ、だから……」
「目撃証言は自警団の者から出たものだ、よって信憑性が極めて高い」
それと同時に、和製の鎧を身に付けた背の竹6尺ほどの大男が霊夢の前に出る。その威厳、口調からもわかるように彼がこの場の責任者と判断できる。
「自警団員であるから、正しく、平等に判断を下すと?」
「そう指導している」
「そうですか。しかし『この妖怪風情が』と先ほどから心の中で叫び続けているあなたの指導、それを受けた人間が平等な判断をするわけですか。なかなかおもしろいことをおっしゃるようで」
「……な、貴様っ!」
さとりとまともに論戦を繰り広げようとするのがそもそもの間違い。いや、さとりの思惑通りと言ったところか。自警団の代表と思しき人物の心を先に読み、挑発に乗りやすいかどうかを確認した上で自分の流れに引き込んだのだから。
「口が過ぎましたか、申し訳ありません。どうやらあなたは感情に流されやすいお人のようで。冷静な対応ができないようですね。それでは憎い妖怪を前にして慎重な捜査など困難でしょう? 苦労なされることと思いますよ」
そしてどんどん顔を赤くする代表者を前に、さとりはどんどんと言葉を投げかけていく。周囲の人間たちに今回の事件が過ちであると印象付けるために。
けれど男は、途中でさとりの言葉を聞くのをやめ、ぬえの方を振り返った。そして霊夢にしか聞こえない程度の声でそっと告げる。
「なるほど、あの妖怪の女性は自分のペットである妖怪があの現場を見たと、つまり君とあの猫の妖怪たちが一緒に居たと話しているようだが? 間違いないかな?」
「それが、どうしたの?」
「そうなると、もう一度調べなおす必要が出てくるな。容疑者は3人に増えてしまった。それとも3人とも同じところにいたのだろうか……」
「――っ!!」
ぬえの顔色が青くなるのを、霊夢は見た。
同時にさとりから温和な空気が消え、凍てついた気配が生まれる。それでもぬえは、平静を装ったままお燐たちから視線を外した。
「……猫の妖怪と烏の妖怪なんて見たこともない。あの妖怪の勘違いじゃないの」
「ぬえっ! あんた、ぬえに何を言ったんだ。あたいたちのネタでぬえを脅したんだろう!」
「おや、どうやら図星を付かれて動揺したようだな。このぬえという妖怪がいうように君たちは嘘をついているようだ。やはり妖怪は信じるに値しないな」
はっ、と。お燐は慌てて口を押さえた。
けれど挑発に乗ってしまった事実は変わらず、お燐はわなわなと手を震わせてさとりに泣き付く。『あたいのせいだ』と声を震わせて。
抱きつかれたさとりは、喚きもせず、気も揺らさず。ただじっと、霊夢を見つめていた。どうするつもりだと瞳で問いただし。
「……ひとまず、お空をお医者さんに診せなさいよ。鈴仙が町の中をうろついていたはずだから、気付薬くらいもらえると思うわよ」
「博麗の巫女は中立な立場を取れると聞きましたが、やはり人間は人間ということですか。いいでしょう、私をここで引かせたことを後悔しないように」
「お大事に、ね。医者の場所はわかる?」
「余計なお世話です」
さとりは、冷徹な態度で言葉を吐き捨てると。お燐にお空を背負うように命じて空へと飛び上がる。お燐も、悔しそうに涙を拭いながらさとりに続く。
「お前たち、何をしている! 予定時刻からもう半刻も過ぎているんだぞ!」
「は、はいっ! 申し訳ありません」
二人が消え去った跡に残った、じとりとした雰囲気。それを払拭しようと男は声を張り上げて命令を出す中で、霊夢は何度目かのため息を吐いた。
「巫女殿、結界の維持の方はよろしく頼みましたぞ!」
「はいはい、妖怪を入れなきゃいいんでしょ? すでに入ってる奴以外は」
「そうだ、それでいい」
ぬえを見て投げ槍に言う。
代表者である男は、それを聞いて満足そうに頷き、退治用の陣形を組みなおした。
「星、相手が一番油断するときはどういったときかしら?」
「……勝利を意識したときです、しかし、聖っ!」
「耐えなさい」
聖と星、そして一輪と雲山はずっと一部始終を眺めていた。
ナズーリンから知らせを受け、現地へ急行し。そこでお空が結界に弾き飛ばされ、きりもみしながら落下するのを見た。
「まだ、その時ではないのよ」
証拠を探していたが、結局明確な物的証拠は得られず。かくなる上はと地霊殿組と同じ行動を取ろうとしていた。しかし、立ち去った彼女たちとは大きく異なる点がある。聖が結界の構造を理解したことだ。
「あと一人、いえ、せめて二人……」
野次馬に紛れて、聖はただ機会を待つ。
まだここに到着していない、後二人の仲間へと想いを馳せて。
まっすぐ、まっすぐだ。
ナズーリンは命令した。
ある一方向だけを指差し、並んで飛びながら。
「何か、言い残すことは?」
「私は何も悪いことなんてしてない。だからあなたが間違ってる」
「いいや、正しいのは私だ。人は妖怪を定期的に退治して生きてきたんだよ。この世界ではね。それが常識だ」
「…………」
その方角では、ちょうど何かが始まろうとしていた。
額に札を貼られ、荒縄で身動きが取れないようにされた少女を円状に取り囲む3名の人間。そのさらに外側には6人の人間がいて、そのうちの一人は見覚えのある巫女だった。
村紗は速度を上げる。
しゃべるのをやめ、ただ速度を上げることだけに集中する。
風と一つになり始めた彼女に、ナズーリンは付いていくことができず。
「……らさっ! ダメだっ! ……っかい! けっ……があるんだ!」
よくわからないことを、叫び続けている。
けれど、村紗は止まらない。
「強情な妖怪よ、その意志の強さだけは認め。直々に引導を渡してやろう」
「…………」
誰かが、ぬえに近づいていく。
右斜め前から、ゆっくりと歩を進め恐怖感を煽るように。それに対してぬえは身じろぎ一つしない。ただ、パクパクと口だけを動かしていた。
叫びではなく、唇の形を変えていくだけの不自然な動き。
『…………』
見えるはずがない。
読み取れるはずがない。
まだ、距離はある。表情すら判断できないのだ。
『……テ……』
しかし、村紗の耳は聞いた。
その霞んでしまうくらい小さな声を聞いた。
胸の中に仕舞い込んだ。あのぬえの欠片。
『正体不明のタネ』を通じて、彼女の本当の声が響いてくる。
『……ケテ、……』
近づくたびに、ぬえの輪郭が、様子が段々と鮮明になる。
平然として微動だにしない彼女は、その結末を受けて入れているようにも映った。覚悟を決めた姿は凛々しく、美しく見えた。
でも違う。
全然違う。
ぬえがそんなに諦めのいい奴のはずがない。
『…スケテ、……』
自分の感情を押さえるんだ。
聖復活の準備とき、私が忙しくて全然相手をしなくなったときでも。遊んで欲しいとか、相手をして欲しいとか口にも表情にも出さなかった。
ただ悪戯をして気づいて欲しいと願っただけ。
だから、馬鹿。平気な顔して、ずっと泣いてる馬鹿なんだ。呆れてしまうくらい素直じゃない馬鹿。
『タスケテ、……』
そんな奴が呼んでいる。
誰かを必要としている。
素直じゃない馬鹿が心で叫んでいる。
何も気づけなかった、どうしようもないくらい鈍感な馬鹿を。
『たすけてっ! 村紗っ!』
村紗水蜜を呼んでいる。
だから、彼女は笑ってこう言うんだ。
目の前の地面にイカリをぶん投げて、人間を蹴散らしながらこう言ってやるんだ。
「ごめん、待った?」
と、清々しいくらいの笑顔で。
そしたら、彼女も。
「ぜんぜん、今来たところ!」
どこぞ馬鹿ップルみたいに、泣きながら笑った。
ばちっと。
何か変な音が空気の中から聞こえた
結界がいきなり飛来した村紗に反応した音だと、その場の全員が気づく。
が――それだけだった。
平然と結界をすり抜けた村紗は、ぬえを取り囲む男たちに不意打ちのイカリ投げを繰り出した。妖怪からの妨害はないと油断しきっていた自警団のうちぬえの前方にいた全員が爆風で弾き飛ばされ、ぬえに最接近していた代表格の男ですらたたらを踏み、無理やり距離を取らされた。
しかし、別格な人物がたった一人、平然とその侵入者を視界に入れる。
「巫女殿! どういうことだ! 結界が反応していないではないか!」
「ええ、当然よ。だって私が命令を受けたのは、『妖怪を通さない結界』だもの。村紗水蜜は舟幽霊だし、例外ってところかしら」
「く、御託はいい! さっさとあいつを止めろ!」
「はいはい、言われなくてもわかってますよ」
払い棒を前に、新たなイカリを生み出した村紗へと構える。
だが、そんな彼女の横から光を放つ蓮が突然現れた。
「別なヤツの妨害が、なければだけどっ! ねえ、聖!」
妖怪以外が入れる結界ならば彼女もまた例外。彼女はその特性を知り自分以外の駒が動くのをじっと、じっと待っていたのだから。
「ええ、あなたの相手は私です。人間は人間同士、仲良く致しましょう」
「もう少し友好的な挨拶ができるようになったら、考えてあげてもいいわよ」
光を放つ花を、超反応で払い。時間差で放たれたレーザーを防御陣で防ぐ。たったそれだけの動作の間に、聖は霊夢と肌を触れ合わせるほどの距離まで接近。超至近距離の攻防を繰り広げつつ無理やり霊夢を押し退ける。
もちろん、それは。
「さあ、いきなさい!」
「合点承知!」
村紗が進むべき道を示すため。
最初の威嚇の意味を込めた一撃で、ぬえの正面には人間の姿がない。直撃ではないにしろ、そのほとんどが目を回して地に伏している。後ろで構えている人間たちも、尻込みして動きが鈍い。しかしそれでも代表格の男だけが再び動きを見せていた。
そんな男から少しでも離れようと、ぬえはぐるぐる巻きにされた状態で地面を這う。
さきほどまで迷惑がかかるから逃げられないと自分に暗示を掛けていたのに、村紗の姿を見た瞬間に弾け飛んだ。だから彼女は無様に地を這う。飾った言葉や建前を脱ぎ捨て、純粋に一人の存在を求めた。
「村紗っ! 村紗っ!」
「ええい、往生際の悪い!」
腰に下げていた刀を抜き、一足で間合いを詰めた男が無防備な肩へと振り下ろそうとする。しかしその刀は地ではなく、天へ向かって大きく弧を描くことになる。
「往生してなくて、ごめんなさいね!」
男とぬえの前に体を無理やり割り込ませた、村紗の新たなイカリに弾き飛ばされて。村紗はそのまま体当たりで男を弾き飛ばすと、ぬえの盾となって自警団員の前で仁王立ちした。
「大丈夫に見えないけど、大丈夫?」
「平気! 村紗が来てくれたから」
「了解、聖、そっちは!」
「こちらも、なんとか」
短い言葉が示すとおり、聖と霊夢は一進一退の攻防を繰り広げていた。身体能力を強化しているのにも関わらず、霊夢は恐るべき直感で避け反撃を繰り返す。先手をとっても、後の先を奪われてはペースを握れない。結果散発的な攻撃を撃ち合うだけで、お互い人間側を援護することもぬえを援護することもできずにいた。
「ぬえの額の札はどうです?」
「触ったらちょっと痺れた。それと全然剥がれる様子はないから、ちょっとやばいかも」
そして時間が経過すれば不利になるのは、どちらか。聖は痛いほど理解している。霊夢を抑えられるのが彼女しかいない以上、ぬえの救出は別の誰かが行わなければならないが。命蓮寺の人員で結界を無視できるのは聖を除けば村紗のみ。その村紗霊夢の札を剥がせないとなると、ぬえの防衛に専念するしかなくなる。
やはり後一人、どちらも援護可能な遊撃要員が足りない。
「うぉぉぉぉっ!」
それを知ってか知らずか。
体勢を立て直した男が部下を引き連れ攻勢に出た。三人の部下には刀を握らせ、自らは攻撃用の札を持って村紗へと突撃してくる。
迫りくる人間たち、縦から振り下ろされた刃をイカリで弾き飛ばし。腹部を蹴ってその後ろの団員へとぶつけた。二つの影が重なったところで、その身を横回転。イカリ地面に突き立て、そのまま軽く身を浮かせ、
「どりゃあっ!」
二人の人間の側頭部を脛で打ち抜いた。
イカリを利用した、変則的な上段回し蹴りが決まり二人が膝から崩れ落ちる。。
しかし攻撃の余韻に浸る時間すらなく、村紗の横をすり抜けてぬえに自警団一人が迫り。それを止めるために躊躇なくイカリを人間の足元へ投擲、土煙と共に結界の外へと弾き飛ばした。
だが――
「村紗っ! 後ろ!」
無手になった瞬間を狙い、代表格の男が札を放つ。ぬえの声で気づき振り返れば、手の届く範囲まで札が接近していた。イカリで防ごうにも再構成が間に合わない。
ならば、と。村紗は妖力を一転に集めて。
向かってくる札に突き出した。
霊力と、妖力。
互いがぶつかり合い、力を削り合う。
それが稲光となって村紗の手の中で暴れ、腕全体を太い串で貫かれたような錯覚すら感じさせた。閃光が幾度となくその場を満たし、少女の絶叫と轟音が混ざり合っていく。その嵐のような一瞬が過ぎ去った後。
「だい、じょうぶ……村紗?」
「すっごい痛いけど、全然痛くない! はは、大丈夫だって……」
札を握る村紗の左手は、だらりと力なく垂れ下がっていた。
ぬえを心配させまいと外見だけは再生したものの、中身はぐしゃぐしゃ。時間をかければ再生は可能ではあるが、少なくとも。今の戦いで扱うことはできそうもない。
「よし、引き続き退治を継続する、弓隊構え!」
命令に従い、人垣の中に潜んでいた10名ほどの団員が一斉に結界内に進入した。
それと同時に野次馬の中に、悲鳴が上がる。
そこまでやらなくてもいいじゃないか、という初めて村紗たちを擁護する声。その声に負けじと星や一輪たちも静止を叫び続ける。しかし、ぬえを守るために動くことのできない村紗に対し、ぎりぎりと弓が引き絞られる。
「あ……」
弓によって受けた傷の記憶がぬえの脳裏を過ぎる。
まだ構えただけ、だというのに小さな呻き声を上げ緊張で体を強張らせた。
そう、緊張しただけだった。
混乱し、錯乱し、狂乱する。狂い暴れてもおかしくないほどの心の傷だというのに、心臓が跳ねるだけでそれ以上の変化はない。
「ぬえ、掠ったりしても泣かないでね?」
イカリと自分の身を人間たちの盾とする。
盾にすることでしか、ぬえを守れないから。
万に一つも可能性がない場所へ身を投じているというのに、村紗の背中がそこにあるだけでぬえの心は強くなれた。
「村紗も、痛いからって泣かないでね」
「冗談でしょ? 船長はね、友達の前じゃ涙は見せないのよ、あんまり!」
皮肉の切れ目に村紗が息を呑んだ。
とうとうそのときが来るのだと理解したぬえは、膝で立ち村紗の服を掴む。
「っ! 退いてください!」
「無理よ、間に合わないわ」
霊夢との戦いで反応が遅れた聖が強引に突破を試みると、その背中に冷静な声が届く、
それでも前に進もうとする聖の動きを止めることなく、道を開けたその横顔から。
「でもね、私たち以外なら間に合う。少し外界に目を向け始めたあの子ならね。そろそろ我慢の限界でしょうし」
落ち着き払い、意味不明な言葉を口走る。
その直後。
「撃てっ!」
聖の眼下で、一斉に弓矢が放たれる。
悲鳴と怒声が交じり合う空間を切り裂き、十の射線が牙を剥いた。
風を切る複数の音。
そして、その場に残る10の残身。
全員が矢の命中を確信し、自分の役割の終了を予期していた。
「ねえねえ、お兄さんたち? これって『どうしようもない場面』なのよね?」
こんな声が、聞こえなければ。
明るい子供の声が、最も不自然な声質で無邪気に語り掛けてこなければ。
「どうしようもなくなったら、手を出していいってお姉ちゃんが言ってたんだけど。ちょっと早かった? それとも遅かった?」
異質だった。
声だけならまだ何かの幻術だと思えばよかったかもしれない。
妖怪の悪あがきだと笑っていられたかもしれない。
自警団と村紗たちとの間の空間で、十本の矢すべてが静止していなければ。
声がその矢の群れの中心から、何の変哲もない透明な世界から聞こえていなければ。
「ひぃっ」
それに耐えられなくなった一人の自警団員が再度矢を放とうと腰に手を伸ばした。しかし、いくらまさぐっても矢がない。いや、矢筒そのものが手に当たらないのだ。慌てた男が腰元に目を落とし、一度動きを止めてから周囲の自警団の姿を見て愕然とする。
「あれ? どうしたのお兄さん? もしかして落し物? 駄目だなぁ」
子供の声は尚消えず、段々と高くなる。その度に楽しそうに声を弾ませていた少女が色を持ち、その場に姿を浮かび上がらせていった。第一印象はどこかのお嬢様のような、愛らしさ。その体に彼女独特の第三の目がなければ、幼さの残る少女としか認識できないかもしれない。
しかし彼女の本質は無意識にあった。
「何故、何故妖怪がここにいるんだ!」
「あれ? 変なことをいうのね。私はずーっと、ずーっとここにいたのに。たぶん昨日くらいからかな? それを知らないで霊夢が結界を張っただけだもの」
姿を完全に現した少女の両手には、男たちが攻撃した矢は握られていなかった。
それを行っていたのは第三の目と体を繋ぐのは細い管、それが十本すべての矢に絡み付いて、その動きを止めさせていた。手で受け止めるまでもないと、笑顔で宣言するかのように。
ならば、両手は空いているのかと言えばそうではなかった。
「それとね、これ、さっきお兄さんたちがなくしたものだよ? どこで落としたのかなぁ?」
竹で作られた、軽い筒。それが腕一杯に抱えられていて。『よいしょ』という掛け声と共にそれを地面の上に置いた。
それが何か、と、問い掛けるものはいない。
すでにその細長い円柱状の物体が、自警団用の矢筒だと理解してしまったから。
「あー、それとも、なくしたんじゃなくて。私が取っちゃったのかな? 私ってついついふらふらしちゃう癖があるんだよね~、お姉ちゃんに良く注意されるの」
野次馬も、自警団も、妖怪たちや霊夢すらその動きを止める。
自警団でも村紗たちでもなく。その場の空気はこいしによって支配されてしまっていた。そうやって注目される中、こいしは第三の目と体を繋ぐ管をくねらせる。すると固定されていた矢が、綺麗な放物線を描きこいしの右手に集まっていく。十本すべてが重なったところで、こいしは手を握り締めて矢の束を作り自警団に見せつける。
「でもね、こうやって矢を掴むより。矢筒をお兄さんたちから奪うよりね」
みし、みし、と。束になった矢が軋みを上げたと思った次の瞬間。
「肩と頭を繋いでるところをこーんな風にしたほうが、すごく簡単だと思うんだ♪」
破砕音と同時に、矢の中央が弾け飛び破片と共に矢羽が折れ曲がっていく。パラパラと木屑と誇りに遮られながらも、笑顔を崩さない少女の姿は。三本の矢は折れないという人間の中の逸話ごと、その場いる大部分の人間の心を折るには十分過ぎる光景だった。
現に弓兵たちはその8割が腰を抜かし、残る二人は呆然と立ち竦むばかり。目で見えているのに、そこにいると頭が理解しない。そんな相手が本気で攻撃の姿勢を見せればどうなるか。嫌と言うほど理解してしまったからだ。
「助けてくれるの? こいし」
「んー、別に? お姉ちゃんが口うるさいから少し言うこと聞いてあげただけ。でも、なんかおもしろそうなことになってたからね。ぬえもそんなところでゴロゴロしてないでぱーっとやっちゃいなよ」
「ダメだよ、封じられてるから」
「誰に?」
「霊夢に」
「ふーん」
何気なく空中へと視線を上げる。
もちろん、目的の人物は聖の横で頬を掻いている紅白の人物。
「ま、こんなものかしらね。というわけで私は下りるわよ部隊長さん」
ぱちんっと。
面倒そうに指を鳴らすと、ぬえの額に貼り付けてあった札がぽふっと煙になって消えた。
「な、約束が違うではないか! それに博麗の巫女は妖怪を退治するモノだろう!」
「ざーんねん、私が受けた依頼は妖怪退治のお手伝い。本当なら村紗や聖が介入してきた段階でやめてもよかったんだけど。同じ人間の義理で付き合ってあげただけよ。それとね、私は肩書きとかそういうのあんまり気にしないし、巫女のあり方とか言われても全然わかんない。でもね、たった一つだけ確かなのは」
霊夢は、とんっと足取り軽く着地すると。
村紗とぬえの近くに歩み寄り、ぽん、ぽんっと頭を軽く叩いていく。
「あんたより、こいつらの方が人間に見える」
「っ!」
代表格の男の顔が、赤から青、そして再び真っ赤に染まる。けれど霊夢は特に感慨もなくお祓い棒を肩に担いだ。もう何もする気はないと、村紗たちに証明するかのように。しかしその言葉が気に障ったのか、男は眼光鋭く村紗たちを睨み付け。
まだ戦闘が可能な部下達に腕の振りのみで命令を下す。最初は戸惑っていた自警団員も、代表の男の強い意志に負け刀を構え始めた。妖怪、人間、幽霊の混成5人に対し、たったの四人で。
「あんた、むかつくけどもうやめときなって」
「私たちは自警団だ、里を守る自警団なんだ……それが妖怪の言葉など信じてやれるモノか!」
「……お互い、はっきりとした証拠はないのでしょう? ならば、何故争わねばいけないのですか。私もあなたも、妖怪たちだって同じ心を持つ存在だというのに」
片腕しか動かない村紗を守るように、聖が前に出る。
けれど男たちの狂気はまだ止まらない。
「人を食い物にする存在と、同じ、だと?」
男は、身一つ。
刀を正眼に構え、ただ一点。
「化け物の分際で、ふざけるなぁぁぁぁぁあああああああっ!」
最も弱った村紗へと一直線に走り出した。しかし、村紗は逃げない。男の瞳を堂々と受け止め身構えようとするが。
急に、その男の動きが止まる。
「そこまでだ……」
結界の中に、また新たな人影が入り込み。
真横から男の腕を掴んだのだ。
邪魔をするなとその手を振り払おうとするが、その人物の姿を見てしまった男は何も言えなくなり刀を取り落としてしまう。
「お前達は、私にも同じことを言うのか? 化け物と、罵るのか?」
すっと顔から血の気が引き、膝から崩れ落ちる。代表格の男が脱力し、戦意を失うと同時に他の自警団員も武装を解き始めた。
それだけ、人里での影響力を持つのが、今の彼女。
長き時を人里で過ごす半人半獣、慧音であった。
「どうやら、医者はしっかり見つかったようね。それと、先生も」
慧音が走り込んできた方向、そこにはこいしとよく似た雰囲気の少女が一人、微笑みを零していた。それは霊夢に対する合図か、それとも感情の起伏を見せ始めた妹へのものか。
「はい、慧音先生はすっかり元気になっておられまして、永遠亭の兎の診断結果も上々。しかし何故か彼女が服用していた傷薬に、故意に睡眠薬が混ざっていたようで。『証拠』はありませんがね? その薬の効果のせいで慧音先生はずっと眠り続けたままだったというわけです。決して怪我のせいではない」
霊夢との別れ際の会話。
あれはすべて、この布石だった。
心を読めることを逆手に取り、霊夢はさとりにこっそりと指示を送ったのだ。ハクタクの血を持つ慧音が二日も寝込むなんておかしい。そう予想して、人里にいる鈴仙を探して慧音のところへいくようにと心で言ってみたら大当たり。
さとりたちに連れられてやってきた慧音は、自警団を牽制するだけでそれ以上何も語らない。
「先生に……睡眠薬?」
「何してるんだこの罰当たりどもが!」
人里の民衆から怒声が巻き起こる。
慧音が自警団を止めに入った時点で、どちらに善悪の天秤が傾いているかを理解したのだろう。罵声の中、動揺する自警団員達は声に追われ、どんどんと中央部へ追いつめられていく。中央の妖怪たちと、外側の人間。それに挟まれてちょうど輪を描く形で。
「ち、違う! 先生は、先生は妖怪たちに騙されて!」
「はい、ストップ。これ以上、何も言わない方が良いわ。たぶんあなたの立場を悪くするだけだから」
「何を根拠に!」
「んー、やっぱり証拠が欲しい? 一応そろそろ準備できるかなと思うんだけど」
「ふん、口からでまかせを! そこまでいうなら、はっきりと示してみるがいい」
「――ふむふむ、それはよかった。なんだか話が上手く進んでいるようでしたので、無駄骨を折ったかと。いやぁ、どなたか存じませんが助かりましたよ」
男の声に答えたのはその場にいる誰でもなく。全員の真上に陣取った新たな影によるもの。太陽の光が地面に作り出す黒い円、その発生源を探っていけば、結界の外で片目を瞑って浮遊を続ける最速の鴉天狗に辿り着く。
屋根より少し高い位置、そこでいつもの営業スマイルを貼り付けながら、瞳の下にクマを作る文へと。
「臨機応変に対応しないのが悪い」
「一時間早めるとか、どれだけ記者泣かせなんですかあなたはもう。写真の現像にどれほど努力したかと言いたい。小一時間ほど説教したい気分です」
「文句は雇い主に言って頂戴、それとほら、出すものはさっさと出す」
「ああ、もう、やはり天狗使いが荒い」
空中で肩を落とす文だったが、なんとか気を取り直して扇を高く掲げる。すると、文のさらに上空から緑色の風呂敷が下りてきた。
「私と言えば、文々。新聞。そして新聞といえば、やっぱりこれでしょう? さぁさぁ皆さんお立会い! 文々。新聞号外中の号外ですよ!」
地上の全員が自分に注目していることに気を良くしたのか。文は声の大きさを一段階上げて、自分の真上に降ってきたその大きな風呂敷の底を、風で凪ぐ。
ビリビリ、と。暴力的な風が一瞬巻き起こり、人の頭くらいの袋はあっさりと引き裂かれ。
「あれ、お母さん何かひらひらしてる!」
最初に騒ぎ出したのは、陰湿な空気に飽き飽きしていた子供たち。
一人、二人。指差す子供の声に誘われて、大人たちはそれを手に取る。風呂敷からはじき出された、太陽を反射して輝く平らな物体。
間違いない、それは天狗たちがよく使う、
「確か写真という物品、でしたでしょうか?」
「そっか、最近まで封印されてたからあんまり馴染みがないわけね。そうよ、これは真実を映す絵みたいなものよ。誰も誤魔化すことができないってやつ」
天狗が印刷したその数千近い写真は、風に乗って広場だけでなく人里全体へと広がっていく。そこに映し出されていたものこそ、彼女たちが。
村紗と、ぬえが求めていた。絶対の真実。
「ぬえ、信じてあげられなくてごめん……」
「いいよ、もういいから」
それはあの夜の、ほんの一瞬の出来事。
消え始めようとしている人里の、そのすぐ側。
満月の明かりの下でハクタク化した慧音を襲う何匹もの妖怪と、それを身を挺して守るぬえやお燐、それにお空の姿。その服は不意打ちを防いだときに何箇所か切り裂かれたのだろう。写真にも彼女の衣服が千切れ飛ぶ姿は鮮明に映し出されている。
「ああ、間違いない……これがあの夜の真実だ。この後私が無理に動こうとするのをぬえは無茶をするなと止めてくれたんだ」
写真を手に取った慧音が深く頷いたことこそ動かぬ証拠。
嘘だと言うことすらできず、代表格の男は悔しそうに唇を噛んだ。だが、男の反応とは対照的に、ぬえは人里を守ってくれたんだと大勢の人が騒ぎ始めた。
「あらあら、現金だこと。じゃあ、もうコレはいらないわよね?」
謝罪と、感謝の声の渦に飲み込まれながら。霊夢はその手を一度天に向けて、一気に地面にぶつける。すると、水面でもないのに光り輝く波紋が地面を疾走し不思議な壁を取り払った。
本当ならこれで万事解決といきたいところなのだが……
「……私は、私は自分の信念を貫いたまで! それでも文句があるのなら私の命を奪っていくがいい!」
事件を大事にした張本人が、納得していないのだから仕方ない。
文句を言う立場にあるのはぬえなのに、まるで被害者面で地面に胡座をかいていた。そのふてぶてしさに村紗がコキコキと指を鳴らし始めたころ。
ぽんっと、その肩を誰かが叩く。
反射的に振り向くと、その目の前にはさきほど空に居たはずの文がいて。また別の写真を村紗に手渡してくる。まるで『それを使ってみろ』と言わんばかりに。
「こんな捻くれたヤツになにしても無駄だと思うけど?」
どうせまた写真を見ても知らぬ存ぜぬで通されるはず。そう思いながらも写真を受け取った村紗の目が、新しい写真の上で止まる。その反応に微笑を濃くした文は、鼻歌を鳴らして霊夢の背中へと回り込み何やら交渉を始めてしまう。
取り残された村紗は、もう一度ゆっくり写真へと瞳を落とし。
「はい、これ」
男の真ん前へと持っていく。
その写真が何を捉えていたかといえば、昼下がりの人里の風景。
一人の背の高い少女の周りで、子供が輝かんばかりの笑顔を見せる写真だった。その写真の中で、まだ幼い子供たちは活き活きと飛び跳ね。その対応に追われる少女を困らせていた。でも、その少女、『ぬえ』もどこか楽しそうに目元を緩めていて……まるで、やんちゃな弟や妹たちの世話をする姉にすら見える。
きっとこれがもう一つ。
人里で、ぬえが子供たちに襲い掛かったというあの日の真実。
「これを見て、まだぬえが犯人だって言うならその目ん玉引き抜いてあげようか?」
写真を見せても中々反応を返さない男、その反応に不自然さを感じながらも半分投げ槍に声をぶつける。しかし、男は何も返さない。じっと写真だけを見ているだけ。まるでその写真の中の世界に精神を囚われてしまったかのように。
「ふ、ふんっ! こんなもの、妖怪の面妖な能力で加工されたに決まっている!」
それでも、しばらくすると調子を取り戻し、睨み返してくる。
しかし、何故だろうか。
その瞳が、先ほどより力を失って見えるのは。何はともあれ、これ以上人間の里でいざこざを継続するのは、命蓮寺の立場としても人成らざるものの立場としてもよくない。一度聖と目配せをしてから、村紗は慧音へと歩み寄る。
「先生……これ、任せていい? 私はもういいよ。こんなヤツどうこうしてもちょっとだけイライラが晴れるだけだし」
「ああ、そうしてくれるとこちらも助かる。今回の事件は人里側に非があるようだし。今度改めて謝罪をさせて欲しい」
「そっか、じゃあどうせ謝るならぬえに……、っあれ?」
振り返って声を掛けようとするが、いない。さっきまでそこにいたはずのぬえの姿がすっかりと消えていた。しばらく視界を彷徨わせていると。
「ぬえー? 何してるの?」
何故かぬえは人間たちの輪の近く。さとりを代表とした地霊殿組の方にいた。そこでさとりから何かを教わっているようだが、聞かされているぬえ本人すら半信半疑。首を傾げて、何度も何度も身振り手振りで質問を続けているようだった。
けれど、あの静かな笑顔に押し切られ、ぬえはくるりと方向を変える。
その頭の手に、淡く輝く『正体不明のタネ』を抱いて。
「ん、ちょっとだけ。あの人間を借りるね」
そう言って、地面を軽く蹴ったぬえは、村紗と慧音の正面から消え去った。
回り込まれたと理解したときには、すでに気配は後ろ。
男の前に静かに立つ、ぬえの姿。
「駄目! やめなさい、ぬえ!」
村紗は、慌ててそれを止めようとする。
ぬえが人間を攻撃すると思ったからだ。
その背中の羽で、人間を貫く。そう思った。
しかし、変化があったのはぬえの腕の中の輝く球体だけ。やさしい光を放つ、彼女の欠片だった。その光に照らされた男は、罵るでもなく、怒るでもなく。
「あ、あぁぁ……」
ただ、怯えた。
輝くぬえの輪郭を手で、なぞりながら。
声を、体を、衣服を、すべてを揺らして涙を零す。
あれだけ頑なに妖怪を拒み、強気な態度を取り続けた男の、無様な姿。涙と鼻水を垂れ流しにして、声にならない悲鳴だけを上げる光景を見せ付けられ、何故か哀れみすら感じる。
そして、その神秘的な光に包まれながら、ついに男は――
「許してくれ……私が……私が悪かったから……」
土下座し、許しを乞う。
心からの謝罪を、ぬえに行った。
そしてその行動を見た慧音が声を高らかに、この事件の終わりを宣言したのだった。
◇ ◇ ◇
「えぇぇぇぇ~~~~っ!!」
「えぇぇぇぇ~~~~っ!!」
「うるさいな、お前ら!」
ごんっごんっ!
「はぅっ!」
「うにゅぅ……」
その日の夜。
晩餐会の準備をしていたお燐とお空は揃って驚愕の声を密室の中で響かせ、宴会部長に釘を刺される。とは言っても、軽い拳骨という軽微な指導であるが。
「いや、だって! おかしいだろう? おかしいよね、お姉さん! あたいたちすっごいがんばったんだよ? あの子の無罪を証明しようとあちこち走り回ってもう、足がパンパンで尻尾がぶんぶんで! お空は迷子になるし、ちょっと目を離すと全力開放しそうになるし、さとり様は事前準備とかで宥め役あたいしかいないしっ!」
「最後の方が、おもいっきり個人的な不満だね」
「とにかく! 今夜はぬえの無罪放免を祝って、地霊の湯で宴席を設けるって、そういう約束だったじゃないのさ! 」
「そりゃあそうさ、祝い事には酒を一献。当然なことだが」
「今はそのときではないということよ、聞き分けなさい」
「ま、そういうことだ」
「むぅ~~~」
地霊殿の中にある広い客間の模様替えをしていたお燐は、不満を顕にし頬を膨らませた。そしてお空の一緒に準備した絨毯の上から動こうとしない。お空も同じように座り込んで、じっと二人を見上げている。せっかく机やソファーを動かしたのにとか、そういう労力の問題ではない。
彼女にとってはもっと別な、大切な。
「わかっています。大事な家族を今日という日に送り出したかった。そんなあなたたちの感情は痛いほどわかります。私だって同じことを考えているのですから。もしかしたら――いえ、なんでもありません。失礼を」
こいしも、と言い掛けてさとりは唇の動きを止める。少しだけ第三の目が柔らかくなったとは言え、そこまでを無理に期待してはいけない。そう思ったからだ。
しかしその一瞬の迷いを好機と判断ったか、お空は羽をぴくりと動かす。
「さとり様もそう思ってるなら、やりましょうよ。命蓮寺のみんなも誘って」
「……そうですか、では、言い方を変えましょう。あなたたちはその目で見なかったのですか?」
「うにゅ?」
「何を、です?」
「村紗と手を繋ぎながら、これから命蓮寺で暮らすと言った。そのときのぬえの顔を思い出して御覧なさい。あんなに幸せそうな、満たされたぬえの顔を私は知りませんでした」
言い返そうと言葉を探す二人であったが、さとりに言われたとおりだった。地霊殿で楽しそうに笑うときもあったが、どこか空虚で、何かが足りていないように思えた。そうやって戸惑う二人と目線を合わせるため、さとりはそっと膝立ちになる。
「今ごろはあちらも宴の準備をしているでしょう。ならばこちらが窺いを立てるのは無粋というもの。今日だけは譲ろうではありませんか」
「……はい」
不満気な二つの返事が重なった。さとりは苦笑しながら立ち上がり、同じく笑っていた勇儀と顔を合わる。近日中に宴席は実行するから部屋はこのままでいいと伝えて。部屋から出て行こうとする愛らしいペットを見送った。
だが、そのとき、何故かお空が足を止めた。
客間の飾りとして暖炉の上に置いてあった球体をじっと見つめて、先に出たお燐を追わず棒立ちしている。。
「あの、さとり様? 気になっていることがあったんですけど。あのとき、ぬえ変なの持ってましたよね?」
「ええ、正体不明のタネ。あの子の欠片と呼ぶべき物体かしら」
「それを使って何かしてましたよね? さとり様が何か伝えて。あれって何してたんですか?」
「そうね、簡単に言うなら」
唇を指先に当て、片目を閉じたさとりは。
外見相応の少女のように、楽しそうに微笑んだ。
「ちょっとした、仕返しかしら♪」
しかしいくら外面が魅力的でも、その内面を知り尽くした勇儀は大袈裟に笑い。
「悟り妖怪の仕返しか。間違いなくちょっとやそこらじゃいんだろうねぇ」
「失礼ですね。精神崩壊していないならちょっとしたことでしょう?」
「あー、嫌な基準だこと。地上追い出されるのもわかる気がするね。常識人だと思ったらこれだ」
「常識でしょう?」
「んー?」
話についていけないお空が首を傾げる中、二人の言い合いは続き。
それを止めたのは。
「さとり様!」
再び部屋の中に戻ってきたお燐の威勢の良い声だった。
その手には、四角い紙が握られていて――
「――今一番見たくない人物と、その人物から言われたくない言葉を――ということらしいですな」
「ちゃんとわかるように言いなさい」
「わかるようにと申されましても、さとりさんが言っていたことをそのまま伝えてみただけなのですが」
「そう、じゃあそれ以外のことは?」
社務所の廊下。
月明かりの下に白い肌を晒すにはいささか厳しい季節に成り始めたが、並んで腰掛ける二人には大した問題ではなかった。お互いの手の届く範囲に、白い湯気を上げる銚子がいくつも並んでいるのだから。程好い寒気はむしろ望むところと言ったところか。
今宵の酒の肴はもちろん、団子でも、饅頭でもなく。欠け始めた月と、今日の面白おかしい出来事だけ。
「それ以外はありふれた話ですよ。一連の事件より少し前、人里の近くで人間の母と子が妖怪の犠牲になった。犯人は不明。被害者の状況、というか食い散らかされた現場から判断して妖怪の誰かが該当するでしょうが。いやぁ、不用心極まりないお話で。あ、その時の写真ありますがご覧になります?」
「胃の中のものを全部あなたにぶつけてもいいなら見てあげるわよ?」
「ふむ、ではやめておいた方がよさそうですな」
「懸命な判断ね」
揺れる草木に合わせて前後に振っていた足先を、文のふくらはぎにコツンっとぶつける。余計な情報はいらないと急かしているようだった。
「まあ、ここまで話せばそれが誰の家族だったかおわかりになると思うのですが。それまでは人と妖怪に対して分け隔てない態度を取る人物だったそうですよ。そんな父親を娘も皆に自慢していたらしいと、私の手帖にはありますね。その娘が居なくなったせいで人が変わったらしいですが」
「そんなものでしょ、人間なんて単純だから」
「ふむ、そういえば霊夢さんのご両親は?」
コツンっ。
「あややややや、これは失礼を。結局間が悪いことに私たちの後輩が大袈裟な新聞を出してしまったことが、すべての引き金になってしまった。そういうわけですよ。その後は噂に尾ヒレ、背ビレ、胸ビレまでくっついて。一人の妖怪にやりきれない想いをぶつけようとした」
「なるほどね、やっとわかった」
「おや、何がですかな?」
湯気の上がる液体を、そっと口に流し込み心地よい温もりが広がっていくのを楽しむ。文の問いかけに答えらしい答えを返さず、霊夢は静かにお猪口を膝の上に置いた。
「なんとなくだけどね」
「また感ですか……」
「じゃあ聞くのやめる?」
「もちろん聞きますが何か問題でも?」
お銚子ごと酒を飲み干し、活き活きと手帖を広げる。そんないつもどおりの文に、思わず霊夢は吹き出してしまった。
「なんとなく、嫌だろうなって思ったのよ。自分のせいで大切な誰かが捻じ曲がってしまうのが」
「娘さんや、その妻の立場からですかな?」
「ま、そんな感じ。でもね、それって逆も言える気がするのよ」
柔らかな月明かりが照らす境内の中へ、裸足のままで歩みだし。一歩、二歩、そして三歩目。前に出していた足を止めて、腰に手を置く。文からは背中しか見えないので、霊夢が何をしようとしているのかははっきりとわからない。
しかしその手が顔を撫でた直後、霊夢はいきなり長い髪を振り乱す。大きく一度波打った髪の残滓に目を奪われていると、その視界を覆い尽くしてしまうほど、霊夢が顔を近づけていた。唇を動かし、何のつもりかを問うつもりだった。けれど文の唇は自由に動こうとせず、ただ霊夢の二つの瞳に吸い寄せられていた。
どんな宝石よりも美しい、彼女の瞳が涙を浮かべている姿に。つい、見惚れてしまっていた。
「大嫌い」
けれど、潤った唇から出た言葉は、正面の文を否定する言葉だった。
何が起こったのか理解すらできない間に、拒絶される。
初めての経験に文の思考は活動することを拒否し、ただその場の流れに従うだけ。糸の切れた操り人形と化した鴉天狗、その額を霊夢は涙を浮かべたまま指で突いた。
「ほら、こういうことよ」
「……えーっと、これはどう理解すれば?」
大嫌いと、あんな至近距離から言ったはずなのに、霊夢はけろっとした顔で再び文の横に座るとまたお猪口を傾け始める。いつも通りの、なんの不自然さも感じない姿であったが、さきほど意味不明な態度を取られた文は無意識に疑いの目を向けてしまう。
「珍しく理解が遅い。だから、娘がその男の前にいたらどうかってことよ」
「えっと、そりゃあ、もう会えないと思っていた家族に会えて喜ぶのではないでしょうか?」
「その大事な家族が、今の彼の姿を見ても?」
「……なるほど。それで『大嫌い』でしたか」
「そうよ。一番会いたい人物でありながら、今、一番会いたくない人物にもなりうる。そして昔の彼しか知らない家族が、偏屈な思考を持つようになった姿を見たら。どう思うか。だからあのとき、彼は謝ったのよ。その場に家族はいないと理解していながら、もう止めてほしいと必死で謝罪したの」
「ふむ、やはり人間というのは理解できませんな」
「理解しないほうが、楽しく付き合えるかもよ?」
「……ほうほう、それは面白い見方ですね。メモしておきましょう。それと霊夢さんのちょっとした演技も見られましたし、記念日ということも付け加えて」
そう言って手帖に書く振りだけをする。すると、少し恥ずかしくなったのか。霊夢がまた文のふくらはぎを蹴り飛ばしてきた。
頬を朱色に染めて。それを指摘しても霊夢は『お酒のせい』と言い張る。
「こほんっ、それはそれとして。文、人里での写真凄かったわね。やっぱりできるんじゃない写真の誤魔化し」
「おやおやわかりやすい照れ隠しだことで、って、だから蹴らないでくださいよ。ちゃんと答えますから。しかしアレを作り物だと思っていたとは」
「当然でしょう? あの満月の事件現場には居なかったっ手、自分で言ってなかった?」
「ええ、いなかったですとも」
「じゃあ、やっぱり偽物よね」
写真があれば、こんな妙な事件を終わらせることができるのではないか。そう思ったのが今回の裏工作の始まりだった。だから霊夢はそのときの写真を無理にでも用意できないかと文に依頼し、見事その要望に文が応えた。時間が早まっていなければ写真だけで決着を付けるつもりだったのだから。
例えそれが、作り物だったとしても。
「それがですね。私たち天狗の中には、写真を取ることにだけ能力を特化させた馬鹿者が何名かおりまして。その一人に念写能力者がいるのですよ」
「ネンシャって?」
「平たく言ってしまえば、その日、その時間に現地にいなくても、未来からその現場の写真を作成できたりする能力です。空間に記憶された風景を撮るそうで」
「何よ、そういうのがいるなら早く紹介しときなさいよね」
「いやいや、扱いが難しいんですよ、これが。それに手掛かりなんてほとんどなしであの夜の一場面を切り取れなんて無茶な命令を出して働かせたら、寝込んじゃいまして。何せゼロコンマ単位の精度が必要でしたし、紹介しようにもできなかったわけですよ」
「それで、今回の記事は全部文が持ってくってことね?」
「ご名答~♪ 明日の朝刊をお楽しみに、何なら10部くらい!」
9部は風呂の薪代わり。
そう心の中でつぶやいて、霊夢は月を見上げる。
「楽しみっていえば、今ごろあいつら騒いでるころかしらね」
「おっと、私を引き離そうとしても無駄ですよ。今夜はしっかり付き合っていただきますからね、約束どおり」
「はいはい、でもね……」
と、文の声に返事をしつつ、霊夢は面倒そうに足元を指差す。
「変なのがいるんだけど」
そこには、チューチュー鳴くネズミが一匹いて。
背中に白い紙を背負っていた。
そんなネズミが鳴くよりも少し前。
命蓮寺にも、うるさく喚くネズミが一人いた。
大広間に並べられた料理の前で、小さく正座する女性を指差し怒気を強めている。
「これを、どうするつもりなのかな? ご主人?」
「……食べれば、いいんじゃないでしょうか。はは、ははははは」
いつものうっかりで、塩と砂糖を間違えたわけではない。味付けはしっかり、舌鼓を撃つほど。
「ほら、幸いぬえも増えたことですし? ね?」
かといって、皿を割ったわけでもない。今回は奇跡的に何もなく、怪我人もゼロだ。
ただ、そんな中で何が問題かと言えば。
「君は、実に馬鹿だなっ! これは一体何人前だ!」
「えっと、ナズーリンのメモのとおり……20人分と……」
「あん?」
「いや、本当ですって! 信じてくださいナズーリン! 私はてっきり誰かお客を招いたものだと思って、あなたの残したメモどおりに食材を購入し料理を作成したまでなのですから」
「私は確か10人前と書いたはずだよ? 残しても良いから豪勢に行こうという意味でね。それなのにご主人は、私のせいだと、いいたいんだね? 私がメモを書き間違えたと」
「あ、え、ぇ~っと、そ、そういうわけではないんです。しかし、たまにはそういうことがあってもおかしくはないのかなと……」
「きしゃぁぁぁぁぁっ!」
「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!」
ネズミとは思えない威圧感で自らの主人を威嚇する。その視線の先には普段の3倍。6人が余裕で座れるくらいの長方形が3つ続き、その上には所狭しと料理が並べられていた。料理ができたと星に言われて集まってきた聖たちが一瞬で身を固めるには十分すぎる光景であった。
「ナズーリン、怒っては駄目。私と人間が仲直りしたみたいに、話し合えばきっとすべて上手くいくから」
「うんうん、ぬえいいこと言った! 星だって悪気があってやったことじゃないんだし。ほら、皆においしい料理を食べてもらおうとした結果じゃない」
「それはそうなんだが、いくらなんでもこれは」
失敗と言えるレベルではない。
そう口走ろうとしても、ぬえが首を左右に振ってそれを否定する。
「星は一生懸命やってくれた、それでいい」
「村紗……それにぬえまで……私は、私はあなたにあんなに酷い事をしたというのに」
「いいのよ、もう、いいの。私を受け入れてくれただけで……」
膝を立てた状態でがっしりと抱き合う二つの姿。
いがみ合っていたその二人が認め合う姿は、聖の涙腺を緩めていく。
「そうね、許すことは大切です。心に余裕を持つことの大切さはあなたも十分理解しているでしょう? それに、あなたのことだから、すでに手は打ったのではありませんか?」
「……まあね。無粋ではあるかもしれないんだが、同朋を地霊殿と神社に走らせた。この山のような料理を消費するには、多少うるさいくらいの人員が必要だろうからね」
「無粋なんてとんでもない。すごく良い考えだと思うよ。やっぱりこういうのはみんなで楽しまないと」
今日だけは命蓮寺だけで宴を開きたいという、聖の考えではあったがこうなっては仕方ない。祝い事にケチをつけることこそ無粋だと自分に言い聞かせ、ナズーリンは深呼吸。興奮していた自分の感情を押さえ込む。
「しかし、私のメモに20人前とは、おかしな話だな。確かに私はご主人に直接手渡したはずなんだが」
「あ、はい。私も、直接受け取りましたよ。その後荷物持ちをかって出てくれたの村紗と一緒に人里へ向かったので。場所は確か玄関だったかと」
すると、何故かナズーリンが呆れたように肩を竦める。
「何を言っているんだご主人、私は廊下で渡しただろう? ちょうど部屋の前だ」
しかし、今度は星がきょとんっと目を丸くする。
やはりナズーリンの言葉を理解できないようだった。
そんな星に抱きついていたぬえが、ゆっくりとその体を離していく。
「いえ、間違いありませんよ。村紗からも『もうすぐナズーリンがメモを持ってくる』と言われましたから。えっと、そのメモは確かここに……ほら、ありました!」
そして星は袖の中から一枚のメモを取り出して手渡す。話の内容がいまいちわからない当事者以外もそのメモを覗き込み。
「……星、ちゃんと10人前って書いてありますが?」
「私にもそう見えます。雲山も10だと」
「ほら、聖も一輪も、雲山だって意見が一致しているようだが?」
「え、いや、そんなはずは! ほらほら! 皆さんよくみてください。ちゃんと20って!」
星は20と言い張り、それ以外は全員が10だと言う。
しかも見間違えというわけではない。全員が同じナズーリンのメモを見ているというのに、見解が異なるなんてことがありえるわけが――
「……ぬえ?」
「な、なにか用?」
「今日の午後、何をしていました?」
「そりゃあ、あれだよ。命蓮寺の中をいろいろと散策して~」
と、星が目を細めながらぬえを見つめ、紙の裏あたりを手でこすってみる。すると指先に小さな、ほんの小さな違和感が触れた。埃と身間違えてしまうほど小さなソレを紙から外すと。
確かのその紙には『10人前』と書かれてあった。
「自分に正体不明のタネを使い、私に成りすましてメモを受け取り。その後ナズーリンに姿を変えて私に嘘の情報を渡した。違いますか?」
証拠を突きつけられたぬえは、救いの手を探すように周囲へと視線を泳がせる。けれど、全員が真剣な瞳で彼女を見ているとことを知り、頭を下げた。
「ごめんなさい。だって、みんな今日は命蓮寺だけでやるって言ってたけど。今ここに私がいられるのは地霊殿のみんなが努力してくれたからだし、やっぱりみんなでぱーっとやったほうが楽しそうでいいんじゃないかとか思って……でも、私新参者だからそんなこと言っちゃ駄目なんだろうなと思って……どうしようもなくて……」
「だから、無理やり大量の料理を作らせて、無理にでも誰かを呼ぶように仕向けたと」
「うん……」
「まったく、あなたという人はどうしてこう!」
「星、おやめなさい。確かに私たちの決定が彼女を苦しめたのは確かなのです。誤るべきは私でしょう。恩人を招かず、小さい範囲だけで宴を開こうとしていた甲斐性のなさがこういった結果を招いたのですから。さあ、みんな、お客様をお出迎えする準備をしましょう」
仕方ないですね、と。一輪は微笑みながら座布団を引き直し。
ナズーリンは送り出した同朋の現在位置を探る。
雲山は足りないお酒の搬入作業を始め、村紗もそれを手伝う。
星も苦笑しながら配置の最終チェックを始めた。
「みんな……」
「遠慮なんてしなくていいんですよ。もう私たちは仲間なのです。不満があればそれをぶつけ合い、改善していけばいい。だから、ぬえもそれに協力してくれればいいのです。正直に言葉をぶつけてくれればいいの」
そっと聖に抱き寄せられ、ぬえはこくりっと頷く。
言葉は発していないが、その感情は十分彼女の心を満たした。孤独が長く続いた彼女の闇を、暖かさで埋める一歩として。
「しかし、あんないたずらで知らせてくれなくてもよかったのに」
それでもまだ不満を零しながら作業をする星に、ぬえは先ほど言われた聖の言葉を実行することにした。
「だって、村紗が。星をいじるのは楽しいから、この作戦で行こうって」
「……ほぅ?」
正直に、言葉をぶつけてみた。
するとどうだろう。
お酒を運び込もうとしていたはずの村紗が部屋の入り口で固まり、それを笑顔の星が見つめる。
「ぬ、ぬぇぇぇぇ! そういうのは友達同士の秘密だって! 裏切ったわね!」
「だって聖が正直に言えって」
そんな叫びを残して、ダッシュで部屋から逃げ去り、それを目だけが据わった星が追いかける。獲物を狙う大型肉食獣の勢いで。
「ぬえ?」
「ん?」
「少しくらい、嘘を混ぜてもいいのよ?」
「ん、わかった」
バタバタと廊下を往復する二つの足跡と、いくつもの笑い声が今日も命蓮寺から響く
新しい声が命蓮寺に加わった日に
「おじゃましまーーす!」
また新しい音が暖かい空間の中で響くのだった。
健気なぬえも個人的にGOOD。
誤字報告を
>「悟り溶解の仕返しか。間違いなくちょっとやそこらじゃいんだろうねぇ」
溶けちゃらめぇ
140kbを感じさせないくらい面白かったです
あと村紗とぬえの相思っぷりが素敵、助けるシーンは映画のヒーローとヒロインみたいでニヤッとした。
お燐のキャラも良かった。
……だけど何だろう、ストーリーやキャラ自体が読んでて凄い違和感というかもやもやしてしまった。
特に、男を変に悪者に書きすぎてて責めている村紗たちの方が酷く見えてしまったのと、
キャラが急にギスギスしてたり心入れ替えた風だったりでキャラの魅力が感じられにくかった。
ストーリーもうーん……まわりくど過ぎるというか、無理に騒がせすぎというか、とにかく終始もやもやしてしまった。
ただ、こういう設定補完モノは好きなのでもっと書いて欲しいなとも思ったり。
※誤字と思われる部分
>わっかんないあかなぁ~→「あ」が余計に?
>変則的な冗談回し蹴り→上段?
ただ登場人物の多さ故か誰のセリフかわからない部分を多く感じました。
もう少し整理するだけでも、より良いものになるような気がします。
ただ上の方が書かれているように、誰がしゃべってるのかわからない部分がちょくちょくありました。
ただ、妖怪に家族を奪われた可哀想な立場の自警団の男が、物凄く悪役扱いされ、虐げられている所が気になりました。
それと文章中で男は男と表記、女は女性と表記している所が多い所がちょっと目に付いてしまいました。
・台詞を言っている人物を明らかにしていない状態での会話。
・場面が転換されたとき、視点が移動したときの区切りがはっきり示されていない場面がある。
・私個人の感覚ですが、読点の位置にひっかかりを覚える部分がある。
・それに加えて、正体を少しづつ明らかにしていくような描写が頻繁に続く。
共通して感じるのは、謎めかした描写のまま、読者を置き去りにし文章を進めてしまった後、
ようやく説明不足を補完するような描写が入ってきているような印象です。
文章を読みながら、頭の中で、絵を想像していく私のような者には、これはかなり辛い。
最後まで、何が起こっているのかわかりにくかったです。
とはいえ、話の筋そのものは良かったです。
人間と妖怪のギスギスした緊張感などが伝わってきました。
私には自警団の男が憎みきれません 彼も被害者なのに扱いが救いちょっと酷くないかなと
読み終わった後の爽快感に彼の不遇な扱いがちらついてしまったので
自警団の云々も、今のお偉いさん方の不祥事・態勢を風刺しているような、不思議な感じで良かった。
名作推理小説を読んでいるような感覚で、長さを感じさせない素晴らしい出来でした、ありがとう!
せっかくの作品だが使い方を間違ってる
またオリキャラも世界観に合っていない
ここまでリアルな醜さを入れる必要はない
点数は低いが良い作品ではある
こういうまともな作品が増えればいいが
→手?
いやー、素晴らしい作品でした!
長かったはずなのにあっという間に読み終わってしまいました。すごいです。
それにしても、こいしはあそこでずっと待っていたのか……