闇色の天幕の中で星々が瞬き、その明滅で挨拶を交わすように。
少年は、自然と頭を下げていた。
自分から頭を下げなければ、失礼なんじゃないか。そんな不安に駆られるほど、目の前の金髪の少女が美しく見えたから。
「あら、お客さん? こういうときはなんて言うんだっけ? あ、そうだそうだ。思い出した」
少女が微笑みながら近づいてくるだけで、少年の心音は跳ね上がる。
月明かりに照らされた、白いまるで作り物のような美しい肌。周囲に咲き乱れる吊り下げ型のランプのような花も、純白色で美しくあった。けれどその白さとはまた別の魅力が少女にはある。あどけない表情を見ているだけで、身震いするほどの感動が少年の中を駆け巡るほどなのだから。
少女が身に纏う赤の上着と、黒のスカートも鮮やかなコントラストを生み出し、少女の金色の髪と肌をより一層幻想的に見せていた。ふわふわとした生地は少女が歩くたびに揺れ、腰の大きなリボンはまるで妖精の羽のよう。頭の上で揺れる細い布地は天女の羽衣のようだった。
「ようこそ、私の花畑へ♪」
スカートを両手で掴み、丁寧に挨拶をする。
すると白い花たちも一斉に揺れ、葉を摺り合わせた。それはまるで小さな緑色の手で、拍手しているように。風に揺れながら、二人の出会いを祝福しているように。
ゆるやかな風が花畑を過ぎる中、少年の顔が日焼けをしたときのように真っ赤に染まる。肌に感じる外気が暖かいというわけではない。単純に、異性を前に緊張してしまっただけ。人里の同い年くらいの女の子を見たときはこんな感情なんて芽生えなかったのに――目の前の少女の大人びた仕草が眩し過ぎて、まっすぐ見つめていることすらできない。
淡い月明かりの下。
初めての体験なのに、少年は確信した。
きっとこれが大人たちの言う誰かを好きだという気持ち。
友達に対する好きとも。
親に対する気持ちとも違う。
誰かを愛しいと、純粋に感じる最初の一歩。
恋心を自分が抱いていることを。
「ここは? 君のお花畑?」
本当はもっと聞きたいことがあった。
もっともっと、知りたいことがあった。
君の名前は?
何が好きなの?
どこに住んでいるの?
でも、いざ口にしようとすると喉で言葉が詰まり。そんな無難な質問しか声にできなかった。
「そうよ綺麗でしょ? 今年はみんな張り切っちゃって、満開ってところね」
「凄いね! こんな広い場所を自由に使えるなんて!」
少年は、子供ながら凄いことだと思った。
だって人里にはこんなに広い野原なんてないから。少し離れたところにならあるらしいけれど、そこはもう人里の外だから、大人たちは子供たちをそこへ行かせようとしない。妖怪が出るから行っちゃだめだと、口を揃えて言う。
けれど、少女が自分のものだというこの花畑なら、人里の友人を連れて遊んでも十分すぎる広さがある。少年は白い花を掻き分けながら走り回る自分の姿を思い浮かべて、これだ! と確信した。
ここを遊び場にすれば、この少女とも友達になれるし、おもいっきり広い場所で動き回れる。
最高の手段だと。
少年は、そう思った。
「お父さんと、お母さんが迎えに来てくれたら。里のみんな連れて遊びに来るよ。そしたらみんなで鬼ごっこして遊ぼうよ?」
「おに、ごっこ? なにそれ?」
少年よりも少し幼く見える少女は、唇に指を当てて、うぅ~っと唸り声を上げた。そうやって首を傾げる仕草も、まるでお人形のように可愛くて。ついつい、少年はぼぅっと立ち尽くしてしまう。
けれど、見惚れているだけではいけない。すぐぶんぶんっと頭を左右に振って自分を奮い立たせた。
「し、知らないの? みんなの中から一人が鬼になって、捕まえたら勝ち」
「鬼が捕まえるの?」
「そう、捕まえたら鬼の人が交代して、また誰かを追いかけるんだよ」
「ふ~ん。捕まえてから、食べたりしないの?」
「え? 食べるって何を」
「その『みんな』ってヤツ」
「友達を食べちゃだめだよ」
「ふ~ん。友達は食べたりしないんだ」
「仲良くしないといけないんだよ、お父さんは助け合わないと駄目って言ってたし」
そのあまりに的外れで妙な答えには、違和感という言葉で表現しきれないものがあった。けれど、少年はここに連れてこられたとき、両親からこんなことを言われた。
『今から行く場所は、人里から少し離れた場所なんだ』
『あまり人里の人も行かない秘密基地みたいなものよ』
人があまり、来ない場所。
秘密の場所。
そんな場所にいるから、少女は鬼ごっこをしらない。自分のように人里で遊びまわったことがないんだ。そう解釈した。
きっと家がこの花畑の近くにあって、そこに住んでいるんだろう、と。
そんな不思議な少女は、周りの白い花を見渡しながら、くるり、とその場でスカートを翻す。
「友達は、大事。仲良くしないといけないもの。うん、みんなみんな友達……友達……友達♪」
少女はさっき少年が言った言葉を反芻し、両手を広げくるくる回る。その言葉が気に入ったのか、何度も繰り返すたびに段々と表情を明るくしていった。
「うん、教えてくれてありがとう」
「ど、どういたしまして。あ、そうだ。これ……」
照れ隠しで自分の汚れた着物を触ったとき、少年の手が何か柔らかいものに触れる。今朝両親から貰ったお菓子があったのだ。しかもちょうど二つ。
少年はそれを大事に袖の中から取り出して、可愛らしい少女の前に差し出した。
小さな紙にくるまれた、黒い直方体の物質を。
「何? これ?」
「えっとね、チョコレートって言うんだって。甘くて美味しいんだよ」
「甘い? 美味しい?」
「……もしかして、チョコのことも知らないの?」
「うん、知らない」
少女は少年が差し出すそれを、首をかしげながら受け取る。子供であれば誰もが大好き、頬っぺたが蕩けそうになるほど美味しいお菓子なのに。少女は知らないという。
「じゃあ、試しに食べてみなよ。後でもいいからさ」
「食べ物なの?」
「うん、みんな喜ぶお菓子だよ」
「そうなんだ。よくわからないけど、ありがとう♪ じゃあ私からもお礼をしないと。もう少しだけ、こっちに来てくれないかな」
「え、何々?」
微笑を浮かべながら、小さくて招きする。
少年が目を輝かせて、少女へと近づこうとしたとき。
ざわり……
白い花が、再び波のように揺れる。
何かを少年に教えるように、微かに揺れる。
けれど、少年は花に誘われる虫のように、少女の下へと駆け寄った。
「来たよ。何かくれるの?」
「うん、あげる。その前に、ちょっとだけ質問があるんだけど、あなたって、えーっと何だっけ。親っていうヤツ好き?」
「ん? お父さんとお母さんのこと?」
「そうそう、あなたを作ってくれた人」
やはりこの少女はどこか変わった性格をしていると、少年は思った。
普通ここは作る、じゃなくて産むが正しいというのに。それでも、少女が何かをくれるというので、彼は張り切って力強く首を縦に振る。
「大好きだよ。うちは他の家よりも貧乏で、あんまりお腹一杯食べられないけど、その分いっぱい遊んでくれるから大好き! でも、ちょっとくらいいたずらしたくらいで怒鳴るところは嫌いかなぁ」
「えーっと、大好きと嫌い…… やっぱり大好きが勝つのかな?」
「ん~そうだね。うん、やっぱり大好きかな」
「そうなの、大好きなんだ」
少女は曇りのない両の瞳で少年を見つめ。
確かめるように少年に問い掛ける。
まるで少年に、いや――『人間の子供』という存在に感情があるのかを観察するかのように。
「作ってくれた人を、大好きのままでいたい?」
そして、問いかける。
どこか寂しげな声で。
「うん、そりゃそうだよ。お父さんとお母さんを嫌いになるはずがないし」
「うん、わかった。じゃあ約束どおり、プレゼントをあげるね♪」
話がどこか噛み合わない。
人間の姿をした、別の何かと話をしているような。
けれど恋というのは恐ろしいもの。その無邪気な笑みを見ているだけで惚けて、魂を抜かれたようになってしまう。
だからその少女の手が頬に伸びてきても、なんの抵抗もしなかった。
むしろその肌に増れるひんやりとした感覚が心地よく、瞳を閉じて少女の体温のみを感じようとした。
その肌は外気と同じくらい冷たくて、何か甘い香りがして。
不意に眠気に襲われる。
ぼんやりとした意識の中、少年は見た。
少女がさっきチョコレートを口に含み。
嬉しそうに微笑むのを。
『美味しい?』
そう、問い掛けたかったのに、口が自由に動かない。
抗いようもない、意識の底へ引っ張り込まれるような。
不思議な浮遊感を味わいながら闇の底へと落ちていく。
そんな少年の残された意識が感じ取ったのは――
唇に触れる、何かやわらかい感触。
そしてゆっくりと温もりを持った甘い液体が少年の喉に流し込まれる。
甘い、甘い、舌を蕩けさせるほど、甘い。
溶けたチョコレートが少年の口に流れ込んでくる。
その液体が通り過ぎたあとは、喉が別の生き物のように熱くなり。その熱がじわじわと全身を侵していく。
細胞一つの隙間まで入り込むように。
少年のすべてを作り変えるように。
本来、誰もが苦痛でもがき苦しむはずであるのに、先に吸った甘い香りのせいで痛みなどほとんど感じない。
ただ、母親に抱かれているかのように。程良い温もりに全身を包まれる。
そして――
どんどん冷たく。
体温を失っていく少年を、鈴蘭の花畑の外へと運ぶ。
妖怪が持っていきやすい場所に置いて、また自分の領域へと戻っていく。さっきまで親しげに会話をしていた少年の、その亡骸を振り返ろうともせずに。
「そうそう、スーさん。私たちって友達っていうんだって。人間の言葉だと」
だって、その少女は人間を食べないから。
奪うのは多少の精神力、意識というものだけで。それだけでお腹いっぱいになってしまう。だからあの少年はお裾分け。人間にしか効果のない毒を使ったから、きっと妖怪の誰かが喜んで食事にするだろう。
「コンパロ~コンパロ~♪ 友達~友達~♪」
新しく覚えた言葉を楽しそうに、呪文を唱えるように繰り返しながら。
小さな人形と花畑の中を踊る。
鈴蘭の毒を吸い、満足そうに笑う、忘れさらえれた少女。
小さな甘い毒の使い手――『メディスン・メランコリー』は今日も二人、花畑で踊る。自分を理解してくれる唯一の友と一緒に。
その友達が、踊りながら少女に訴える。
『なんで、毒を使ったの?』
生まれて間もない、その妖怪に訴える。
『あのままでも、あの子は死んでいたよ?』
言葉を使えないから、瞳で、意識だけで少女と会話する。
『妖怪が食べに来たはずだよ?』
大好きな友達から尋ねられ、メディスンは踊りながら答える。
「あの子がね、変なことを言っていたから」
生まれてまだ十年も経っていないけれど、この鈴蘭畑で見て、聞いて、体験したことから、自分なりの答えを導き出す。
「親ってやつが迎えに来るって、そう言ってたから。静かに眠らせてあげようと思って」
言葉で伝えなくても、意思疎通はできるはずなのに。
友達の前で少しだけ。
寂しそうな顔で、笑って、言葉を作った。
「いらないものを捨てた人間が、それを拾いに戻ってくるはずがないから」
踊を止め、メディスンは振り返る。
少年が横たわっていはずの場所を見つめる。
けれど、そこに少年の姿はなく。
「苦しい思いをしないまま、親ってやつをずっと信じていられたら。それはそれで素敵なんじゃないかなって思っただけ」
人間の匂いを嗅ぎ付けた妖怪がその体を持って飛び立っていた。
――変だよね。
うん、スーさんもそう思うよね。
人間はやっぱり、変わってるよ
この前、この畑に迷い込んだ親子なんか。
この子だけは助けてぇ~、とか。
食べるなら私を、だから子供だけはぁ~、とか煩かったのにさ。
なんでだろうね。
なんでなんだろうね。
そんな大切だって思うものを。
どうして捨てられるんだろうね。
勝手に、作っておいてさ。
――だから、人間って嫌い。
大ッ嫌い。
無名の丘。
名をつける前の赤子や、まだ幼い子供。
そんな小さな命たちが、貧しさにより……間引きされていた場所。史実では、幻想郷として世界が生み出されてからは子供を捨てる場所ではなくなったとあるが。その正否は定かではない。
ただ、鈴蘭が咲き誇る季節が訪れる中で。
妖怪となった少女の心の奥底は。
寒い、冬の名残を残していた。
残酷かもしれないけれど救われる
不思議な話ですね
……誰が彼女を責められましょう。
ちょっとだけ判断に困る部分があったのでこの点数で。
人間ってのは本当に勝手な生き物ですよ……
でも、それ故に美しい…