「免許取得おめでとう!」 「いやー、おめでとう!」
「ありがとうございます、皆さん」
とある村の会館で開かれた、猟友会の集まり。
その中心には若い女性が居た。
浅間ユイ──この村で生まれ育った娘だ。
「あのユイちゃんがとうとう猟師かぁ」
「昔っから親父さん達の後をついて野山で遊んでたもんな」
父も、祖父も──浅間の家は代々続く猟師の家系だった。
そしてつい先日、ユイ自身も猟銃所持の許可を得て、晴れて猟師の仲間入りをした。
小さな頃から見てきた娘ということもあってか、会員たちはまるで自分の娘や孫のことのように喜んでいた。
そんな中、ただひとり、祝いの空気にそぐわぬ者が居た。
「ユイが猟師になるなんて! 俺は反対だった!」
声を荒げたのは、ユイの曽祖父──ひい爺ちゃんだ。
かつては彼も腕の良い猟師だったが、寄る年波には抗えず、一線を退いていた。
「ひい爺ちゃん……」
彼はずっと、ユイが猟師になるのを反対していた。
それでも、実際に免許を取ってしまえばなんだかんだで祝福してくれるんじゃないか。
ユイはそう思っていたのだが。
「まあまあ、いいじゃないか浅間の爺さん」
「もう女の子だから駄目、って時代でもないですよ」
会員達が口々に宥めるが、ひい爺ちゃんは意に介す様子も無い。
「ユイ……」
「あの山には……あの山にだけは入るなよ……」
ユイを見つめるその目は、大きく見開かれている。
枯れ木のような身体は、小刻みに震えていた。
この村で「あの山」と言えば、大抵の住民は村を見下ろすように聳えるそれを思い浮かべる。
「まーた浅間の爺さんのあれが始まったよ」
「女人禁制なんて、今時誰も気にしてないのにな」
女人禁制。かつてはあの山にも、そんな伝統があったらしい。
だが今ではみんな、迷信程度にしか捉えていない。
村のおばさん達だって、気にせず山菜などを採りに分け入っている。
「まあまあまあ。鹿撃つだけなら麓の森でも十分出来るんだからさ」
ひい爺ちゃんと付き合いの長い会長さんが、その背を軽く叩く。
「でもまあ、確かにユイちゃんは危ないかもねぇ」
向かいの席のおじさんが、酒を傾けながら言う。
「私が、ですか?」
言葉の意図を掴みきれず、聞き返す。
「なんたって美人さんだもの! 山の女神様に嫉妬されちゃうよ、ハハハ」
おじさんの笑い声に、他の会員達もつられて笑い出した。
「……」
山の醜い女神が、美しい女に嫉妬する。
どこにでも転がっていそうな──ありふれた伝承。
それなのに、どうしてだろうか。
その言葉を聞いた時、理由のつかない苛立ちが、胸の奥に仄かに灯った。
「……そんなことで嫉妬するような神様なら、随分器が小さいですね」
気付けば、ついそんな言葉を口にしていた。
「ははは! 確かに!」「おいおい、神様に喧嘩売るなって!」
「……」
みなが笑う中、ひい爺ちゃんだけが厳めしい顔で、じっとユイを見つめたままだった。
あれから、どうにも胸のつかえが取れず、私は村の資料館へと足を向けていた。
山の言い伝えについて、ただ少しだけ確かめておきたかった。
山に消えたとされるのは、決まって若く美しい娘だったらしい。
そんな彼女たちが姿を消したとき、山の女神の仕業と考えれば──他の、もっと嫌な想像よりは、まだ慰みに思えたのかもしれない。
(だからってなぁ)
──本当に、女神様なんてものが居るのだとしたら、なんだか可哀想だな。
そんな考えが、ふと浮かんでいた。
醜い。嫉妬深い。恐ろしい。
長い時の中で、人々の都合で塗り重ねられてきたであろう『彼女』。
──そのことを思うと、どうにも胸がざわつく。
(私が──)
(私が無事に帰れたら、やっぱり迷信だったねって、ひい爺ちゃんも納得してくれるかな?)
この頃になると私は、無意識の内に山に入る理由を探していたようにも思う。
「なあユイちゃん、ひい爺さんの気持ちも分かってやってくれないか」
「えっ?」
その言葉の意味を掴みきれないまま、私は手を止めた。
何時ものように猟の準備をしていると、猟友会の会長さんが声を掛けて来たのだ。
「あの人が子どもの頃な……お姉さんが、あの山で失踪してるらしいんだよ」
「……」
思わず、動きが止まる。 銃の手入れ具の金属音だけが、やけに大きく響いた。
「とんでもない別嬪さんだったって話でなぁ……もしかしたら、ユイちゃんとそっくりだったかもしれねぇ」
「ひい爺さんもな、きっと内心じゃ迷信なんて馬鹿らしいって思ってても、何かのせいにしないとやってられねぇんだと思うんだよ」
「……そう、だったんですか」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
「ま、昔の話だけどな」
空気を切り替えるみたいに、会長さんは笑ってみせる。
「……ひい爺さんの姉さんが消えたのはなぁ」
会長さんは、少し視線を外しながら言う。
「ちょうど祝言が決まった頃だったらしい」
「隣村の裕福な家でな。そこの息子に見初められたんだが、これがまた男前だったそうで。これ以上ない縁談だって、皆喜んだらしい」
「それが、突然居なくなっちまった」
「どうしてこんな時に、ってな」
「村中で嘆いたって話だ」
「……」
何も、返せなかった。
ひい爺ちゃんの、子どもの頃。
八十年、くらい前のことになるのだろう。
それだけの時間を、あの人はお姉さんのことを気に病みながら生きてきたのだろうか。
その重さを、私はまだうまく想像できない。
ただ、胸の奥に、さっきとは違う形の引っかかりが残っていた。
──本当に山に囚われてるのは、ひい爺ちゃんの方なのかもしれない。
気付けば、私は支度をしていた。
山に入るための装備を揃え、入山届の用紙を取り出す。
浅間ユイ──そう、名前を書く。
猟銃はどうしよう。
今日は狩りのつもりでは無いが──私はそれに手を伸ばす。
──大切な物は、持っていかないと。
山道の入り口のポストに用紙を投函し、私は山へと入っていった。
伝承へのわだかまりや、ひい爺ちゃんへの証明だとか、理由はいくらでも付けられる。
けれど結局のところ、それは後付けに過ぎなかった。
ただ昔から──私は、この山に入ってみたかったのだ。
──子どもの頃からそうだった。
祖父も父も、ひい爺ちゃんの顔色を気にしてか、あの山にだけは、決して私を連れて行かなかった。
幼い頃の私は、そのことに随分と不満を抱いていた記憶がある。
あの頂上から村を見渡せば、どんなにいい景色が見られるだろう。
鹿は沢山居るかな? 草花もとても綺麗なのだろう。
気付けば、胸の奥は幼い日の期待で満たされていた。
普段、登山客など滅多にいない、草の生い茂った山道を進んで行く。
不思議と疲れは感じない。私が進めば、草の方から退いていくような感覚すらあった。
──今日は、調子が良いのかな。
木々の匂いも、鳥の声も、いつもより心地よく感じられた。
高揚した気分のまま、私は山の奥へと歩みを進める。
この様子なら、日が傾く前には山頂へ辿り着けるだろう。
山道の傍らに佇む、苔むした岩の前に差し掛かったその時──
「……ユイマン?」
不意に、茂みの向こうから声がした。
自身の名と、何処か似た響きのそれに、つい振り返ると──
そこに、彼女は居た。
白い着物に、短い黒髪の女。
その顔立ちは端正だが──ただれた火傷のような痕に、半ば覆われていた。
「……ありや?」
気付けば、その名は唇から零れていた。
その瞬間、女がこちらへ駆け寄る。
草木の茂る中を、信じられないほどに軽やかに。
その足は、裸足だった。
──ああ、この人は人間ではないのだな。
そう、なんとなく思った。
女はユイの元へ辿り着くと──その両の肩に手を添える。
見開かれた赤い瞳が、揺れている。
唇が震える。何かを確かめるように、 祈るように。
けれど声にはならない。
その様子を見ていると、なぜか──
胸の奥が、どうしようもなく締め付けられる。
「ああ、ああ……本当に……」
絞り出すように、女は言葉を紡ぐ。
「また……来てくれたのね」
言い終わる時には、ユイは強く抱き締められていた。
彼女が何者なのか、どうして知りもしない名が口から出たのか。
何もかもが分からないまま──気付けば、私もその背に腕を回していた。
──きっともう、麓には帰れないんだろうな。
そんな予感だけが、妙に確かだった。
不思議と、後悔は無かった。
「ありがとうございます、皆さん」
とある村の会館で開かれた、猟友会の集まり。
その中心には若い女性が居た。
浅間ユイ──この村で生まれ育った娘だ。
「あのユイちゃんがとうとう猟師かぁ」
「昔っから親父さん達の後をついて野山で遊んでたもんな」
父も、祖父も──浅間の家は代々続く猟師の家系だった。
そしてつい先日、ユイ自身も猟銃所持の許可を得て、晴れて猟師の仲間入りをした。
小さな頃から見てきた娘ということもあってか、会員たちはまるで自分の娘や孫のことのように喜んでいた。
そんな中、ただひとり、祝いの空気にそぐわぬ者が居た。
「ユイが猟師になるなんて! 俺は反対だった!」
声を荒げたのは、ユイの曽祖父──ひい爺ちゃんだ。
かつては彼も腕の良い猟師だったが、寄る年波には抗えず、一線を退いていた。
「ひい爺ちゃん……」
彼はずっと、ユイが猟師になるのを反対していた。
それでも、実際に免許を取ってしまえばなんだかんだで祝福してくれるんじゃないか。
ユイはそう思っていたのだが。
「まあまあ、いいじゃないか浅間の爺さん」
「もう女の子だから駄目、って時代でもないですよ」
会員達が口々に宥めるが、ひい爺ちゃんは意に介す様子も無い。
「ユイ……」
「あの山には……あの山にだけは入るなよ……」
ユイを見つめるその目は、大きく見開かれている。
枯れ木のような身体は、小刻みに震えていた。
この村で「あの山」と言えば、大抵の住民は村を見下ろすように聳えるそれを思い浮かべる。
「まーた浅間の爺さんのあれが始まったよ」
「女人禁制なんて、今時誰も気にしてないのにな」
女人禁制。かつてはあの山にも、そんな伝統があったらしい。
だが今ではみんな、迷信程度にしか捉えていない。
村のおばさん達だって、気にせず山菜などを採りに分け入っている。
「まあまあまあ。鹿撃つだけなら麓の森でも十分出来るんだからさ」
ひい爺ちゃんと付き合いの長い会長さんが、その背を軽く叩く。
「でもまあ、確かにユイちゃんは危ないかもねぇ」
向かいの席のおじさんが、酒を傾けながら言う。
「私が、ですか?」
言葉の意図を掴みきれず、聞き返す。
「なんたって美人さんだもの! 山の女神様に嫉妬されちゃうよ、ハハハ」
おじさんの笑い声に、他の会員達もつられて笑い出した。
「……」
山の醜い女神が、美しい女に嫉妬する。
どこにでも転がっていそうな──ありふれた伝承。
それなのに、どうしてだろうか。
その言葉を聞いた時、理由のつかない苛立ちが、胸の奥に仄かに灯った。
「……そんなことで嫉妬するような神様なら、随分器が小さいですね」
気付けば、ついそんな言葉を口にしていた。
「ははは! 確かに!」「おいおい、神様に喧嘩売るなって!」
「……」
みなが笑う中、ひい爺ちゃんだけが厳めしい顔で、じっとユイを見つめたままだった。
あれから、どうにも胸のつかえが取れず、私は村の資料館へと足を向けていた。
山の言い伝えについて、ただ少しだけ確かめておきたかった。
山に消えたとされるのは、決まって若く美しい娘だったらしい。
そんな彼女たちが姿を消したとき、山の女神の仕業と考えれば──他の、もっと嫌な想像よりは、まだ慰みに思えたのかもしれない。
(だからってなぁ)
──本当に、女神様なんてものが居るのだとしたら、なんだか可哀想だな。
そんな考えが、ふと浮かんでいた。
醜い。嫉妬深い。恐ろしい。
長い時の中で、人々の都合で塗り重ねられてきたであろう『彼女』。
──そのことを思うと、どうにも胸がざわつく。
(私が──)
(私が無事に帰れたら、やっぱり迷信だったねって、ひい爺ちゃんも納得してくれるかな?)
この頃になると私は、無意識の内に山に入る理由を探していたようにも思う。
「なあユイちゃん、ひい爺さんの気持ちも分かってやってくれないか」
「えっ?」
その言葉の意味を掴みきれないまま、私は手を止めた。
何時ものように猟の準備をしていると、猟友会の会長さんが声を掛けて来たのだ。
「あの人が子どもの頃な……お姉さんが、あの山で失踪してるらしいんだよ」
「……」
思わず、動きが止まる。 銃の手入れ具の金属音だけが、やけに大きく響いた。
「とんでもない別嬪さんだったって話でなぁ……もしかしたら、ユイちゃんとそっくりだったかもしれねぇ」
「ひい爺さんもな、きっと内心じゃ迷信なんて馬鹿らしいって思ってても、何かのせいにしないとやってられねぇんだと思うんだよ」
「……そう、だったんですか」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
「ま、昔の話だけどな」
空気を切り替えるみたいに、会長さんは笑ってみせる。
「……ひい爺さんの姉さんが消えたのはなぁ」
会長さんは、少し視線を外しながら言う。
「ちょうど祝言が決まった頃だったらしい」
「隣村の裕福な家でな。そこの息子に見初められたんだが、これがまた男前だったそうで。これ以上ない縁談だって、皆喜んだらしい」
「それが、突然居なくなっちまった」
「どうしてこんな時に、ってな」
「村中で嘆いたって話だ」
「……」
何も、返せなかった。
ひい爺ちゃんの、子どもの頃。
八十年、くらい前のことになるのだろう。
それだけの時間を、あの人はお姉さんのことを気に病みながら生きてきたのだろうか。
その重さを、私はまだうまく想像できない。
ただ、胸の奥に、さっきとは違う形の引っかかりが残っていた。
──本当に山に囚われてるのは、ひい爺ちゃんの方なのかもしれない。
気付けば、私は支度をしていた。
山に入るための装備を揃え、入山届の用紙を取り出す。
浅間ユイ──そう、名前を書く。
猟銃はどうしよう。
今日は狩りのつもりでは無いが──私はそれに手を伸ばす。
──大切な物は、持っていかないと。
山道の入り口のポストに用紙を投函し、私は山へと入っていった。
伝承へのわだかまりや、ひい爺ちゃんへの証明だとか、理由はいくらでも付けられる。
けれど結局のところ、それは後付けに過ぎなかった。
ただ昔から──私は、この山に入ってみたかったのだ。
──子どもの頃からそうだった。
祖父も父も、ひい爺ちゃんの顔色を気にしてか、あの山にだけは、決して私を連れて行かなかった。
幼い頃の私は、そのことに随分と不満を抱いていた記憶がある。
あの頂上から村を見渡せば、どんなにいい景色が見られるだろう。
鹿は沢山居るかな? 草花もとても綺麗なのだろう。
気付けば、胸の奥は幼い日の期待で満たされていた。
普段、登山客など滅多にいない、草の生い茂った山道を進んで行く。
不思議と疲れは感じない。私が進めば、草の方から退いていくような感覚すらあった。
──今日は、調子が良いのかな。
木々の匂いも、鳥の声も、いつもより心地よく感じられた。
高揚した気分のまま、私は山の奥へと歩みを進める。
この様子なら、日が傾く前には山頂へ辿り着けるだろう。
山道の傍らに佇む、苔むした岩の前に差し掛かったその時──
「……ユイマン?」
不意に、茂みの向こうから声がした。
自身の名と、何処か似た響きのそれに、つい振り返ると──
そこに、彼女は居た。
白い着物に、短い黒髪の女。
その顔立ちは端正だが──ただれた火傷のような痕に、半ば覆われていた。
「……ありや?」
気付けば、その名は唇から零れていた。
その瞬間、女がこちらへ駆け寄る。
草木の茂る中を、信じられないほどに軽やかに。
その足は、裸足だった。
──ああ、この人は人間ではないのだな。
そう、なんとなく思った。
女はユイの元へ辿り着くと──その両の肩に手を添える。
見開かれた赤い瞳が、揺れている。
唇が震える。何かを確かめるように、 祈るように。
けれど声にはならない。
その様子を見ていると、なぜか──
胸の奥が、どうしようもなく締め付けられる。
「ああ、ああ……本当に……」
絞り出すように、女は言葉を紡ぐ。
「また……来てくれたのね」
言い終わる時には、ユイは強く抱き締められていた。
彼女が何者なのか、どうして知りもしない名が口から出たのか。
何もかもが分からないまま──気付けば、私もその背に腕を回していた。
──きっともう、麓には帰れないんだろうな。
そんな予感だけが、妙に確かだった。
不思議と、後悔は無かった。