いらっしゃいませ。何がご入用ですか?
へ? 欲しいのはお酒じゃない、と言われましても、ここは酒屋なんですけど……。
取材……。取材!? え、ウチじゃなくて私に?
あぁ、天狗の新聞を発行されてる方なんですか。
あいにくウチじゃ取ってないですし、読んだことなくて。
あはは。はい。今度見かけたら、その時は是非読ませて頂きますね。
でも、なんで私なんかに取材を?
えぇ。確かに私は弾幕をやりますけど。
でも、珍しくもないですよ。博麗の巫女様とか、人間で弾幕勝負できる人なんて沢山いらっしゃるじゃないですか。
まぁ確かに、私は何の変哲もない酒屋の娘ですし。そういう意味では妖怪退治専門の方々とは違いますけど。
でもそういう方々と比べると、とてもとても。多分私が巫女様と戦っても、勝負させてもらえないんじゃないかなぁ。
こんな私の話でよければ、いくらでもお聞かせしますけど。
分かりました。店先で立ち話も何なので、どうぞ奥へ。
……ところでそれ、写真機なんですか? 随分変わった形してますね。
◆ ◆ ◆
弾幕は、とても美しいと思う。
ルールを作った立場にある私が言うと手前味噌にしか聞えないかもしれないが、これは偽らざる私の本心だ。
スペルカードの展開に従って放たれていく光弾の群は、術者渾身の芸術である。音楽家が旋律に、画家が絵画にその魂を込めるように、弾幕勝負をする者はカードに自らの想いをぎっしりと詰め込む。
永い時を生きている妖怪たちほど、美しく濃密な弾幕を張ることができるのは、きっとそういう訳なのだろう。十何年かそこいらを巫女として生きてきただけの私には知る由もない沢山の思い出を、彼らは高らかに誇らしく宣言し、描き出す。
だが、弾幕勝負を嗜むのはそんな連中ばかりではない。私と同年代の人間たちもいる。彼女らもまた、思わず見惚れてしまうほど美しい軌跡を宙に刻む。
そこに込められているものとは何だろうか。
咲夜とか妖夢あたりは、自らの主への絶対なる忠誠心がその源であるはずだ。早苗だって奉じる二柱への信仰を獲得するために奔走しているのだから、きっと同じようなものだろう。魔理沙は正直な話、よく分からん。あの破天荒っぷりは一体どこから来るんだ。まぁ多分、魔法に対する好奇心とかそんなところからじゃないかなぁ。
さてそれでは、楽園の素敵な巫女を自称するこの私が、スペルカードに込めているものとは一体何だろう。
人里から少し外れた野っ原のど真ん中。私は仰向けのまま春の冷たい風に弄られながら、しばらく思考をそんな次元へと飛ばしていたのだった。
それは何故かといえば。
「そんなに不貞腐れるんじゃないよ、霊夢」
えっちらおっちらと千鳥足で寄ってきた萃香が、私の顔を覗き込む。
「まぁ寺子屋先生に負けて悔しいのは分かるけどさ。昨日の雨がまだ乾いてないんだから服が泥で汚れるよ」
「……別に不貞腐れてるわけじゃないわよ」
一応否定はしておいた。だけどまぁ、服が汚れるというのは尤もなので、上体をえいやっと起こす。
そうすると、嫌でも目に入ってしまう。二十歩ほど離れた場所で、生徒たちに囲まれ喝采を受ける半人半獣の姿が。
周りのジャリどもがピーチクパーチクと、「せんせースゲー」だとか「カッコいー」だとか、そういう感激の念を向けまくっている。さながら餌に群がる鳩の様だ。
「分かった分かった。ほら、今日の授業はもう終わりにするから」
騒つく生徒を慣れた手でまとめる様子は、さすがは教師と言いたくなる手際のよさだ。私だったらきっと火を吹く山の如く爆発しているだろう。
「いやぁ、私みたいなのを人里の寺子屋の授業に混ぜてくれるとは。流石はワーハクタク。豪気だねぃ。ひっく」
「……あんた酔い過ぎよ。人の勝負肴にどれだけ呑んだのよ」
「瓢箪を空にした回数を数えるのは、もう随分前に飽きて止めた。だから知らん」
萃香は瓢箪をひっくり返し、垂れてきた最後の一滴を口で受け止めた。
「しっかし、見事なまでに無様な負けっぷりだったね。あと一発貰ったらおしまいって場面で、自信満々で弾幕に突っ込んでくなんてさ」
そしてニヤニヤとねちっこく、私の失態を思い出させる。
あぁ。もうさっさとはっきりさせておこう。
私は上白沢慧音と先ほど弾幕勝負を行い、敗北したのだ。
孤高にして無敵、天上天下にして唯我独尊な博麗の巫女が、よもや負けるなど信じられない! と誰にとっても驚天動地で青天の霹靂だろうが、まぁ言い訳くらいは聞いてほしい。
今回の勝負は、慧音が寺子屋の授業の一環として私に申し入れてきたものだ。
曰く、「子供たちにもっと弾幕勝負を知って、興味を持ってほしい」とのこと。
つまり、いつもの異変だなんだとは全く関係のない模擬戦なのである。
まず異変ではないというその時点で、クイーン・オブ・妖怪バスターと名高い私もモチベーションがイマイチ上がっていなかったということは、聡明な読者諸君ならばお分かり頂けることと思う。
……いや本当だって。異変だと自動的にテンション上がるのよ。何でか知らないけど。
なので一度は断ろうかとも思ったが、先生の勝利を無邪気に信じている生徒たちの前で慧音を負かしてやったらさぞ面白かろうとも思ったので、結局その申し出を受けることにした。
互いに三枚のカードを用いる短期戦。勝負は順当に進んだ。さっさと二枚のカードを切り、先にラストスペルを発動したのは慧音だった。
弾幕勝負における敗者とは、「相手より先に力尽きた者(あるいは降参した者)」か「両者が全てのスペルの展開を終えた時点で、先にスペルカードを使い尽くしていた者」を指す。
セオリーを踏襲するのであれば、頃合いを見計らってこちらもスペルをカウンターで発動するべきだった。
相手の発動宣言に対して後手にスペルカードを発動すれば、その効果が切れるまでダメージを無効化、あるいは軽減できる。私のスペルは短い間に強力な攻撃をかますものがほとんどなので、カウンターとして使えば周囲の弾幕を綺麗に吹き飛ばすことが可能だ。そうやって空間を掃除した後は、密度のぐっと薄くなった弾を少しの間かわしていれば良い。「先にスペルカードを使い尽くした者」が負けなので、先にスペルを宣言した慧音が敗者となるのだ。
しかし、そう上手く事は運ばなかった。
戦場に子供たちの黄色い声援が乱れ飛んでいたのが悪かった。それに加え、たまたま神社で暇をしていた萃香もついて来ていた。
どうやら私にも、人並みの自己顕示欲はあったようだ。だから、慧音の最後のスペルを華麗にかわし切った後でこちらもラストスペルを叩き込み、ちょっとカッコつけてやろうとか思ってしまった私を、誰がどうして責められよう。
更に言わせてもらうのであれば、あんな大勢のギャラリーの前で戦うというのも初体験である。いつもと違う雰囲気に飲まれていつもの調子が出せなくても、それはほら、仕方がないというものだ。
……あー、何だかだんだん虚しくなってきた。
軽い自己嫌悪に陥った私を尻目に、慧音は生徒たちをこちらに向けて並ばせる。
「さぁ、授業に協力して下さった巫女殿に、みんなでお礼を言いましょう。さん、はい」
「ありがとーございましたー!」
うわ。こそばゆい。真っ直ぐなその視線がこそばゆい。勘弁して。
「あ、あぁどうもこちらこそ」
「きしし、眼を逸らすなよ霊夢」
背後で奇妙な笑い声が上がったが、全力で見逃した。
「よし。それじゃあ今日はこれで終わりです。ここで解散するけど、近いとはいえ里の外ですから、寄り道せずに真っ直ぐ帰るように」
「はーい!」
唱和の後、子供たちは蜘蛛の子を散らしたように駆け出した。
人間にとって里の外は気を抜くことの出来ない危険な場所だが、ここから里の出入り門は十分に見えているし、辺りには妖精一匹の気配も感じられない。
今なら、子供だけでも問題なく帰り着くことができるとは思うけれど。
「……大丈夫なの? 人の子を預かる教師としては不安じゃない?」
「なに、人間だって一生を里に篭りきりで過ごすわけじゃない。気を配りながら里の外を行くことにも、今のうちから少しずつ慣れてもらわないとな」
「それならいいけど。子供が攫われたって、私には泣き付かないでよ」
「猫の手くらいは貸してくれると助かる」
「うちは死体集める化け猫がたまに来るくらいだけど、それで良けりゃね」
立ち上がって、草をぱんぱんと払う。
一方萃香は、子供がいなくなったのを見計らって慧音に話しかけていた。
「やぁ先生、見事な勝負だったよ」
「伊吹殿にそう言って頂けると嬉しいですが、今日のはまぐれ当たりですよ」
「謙遜なさんな。まぁ戦術にゃ定石通りの堅苦しさがあったけど、それもあそこまで徹底すれば立派な戦法だよ。見得張ったどっかのアホ巫女にも見習って欲しいもんだ」
にゃははと笑う鬼に対する、このドス黒い感情はきっと殺意だ。その辺にメザシか炒り豆、転がってないかなぁ。
だがまぁ、流石にあの負け方は格好悪かった。早く忘れたい。今日はもうさっさと帰って寝よう。
「あぁそうだ。霊夢はこの後暇なんだろう?」
「なんでそう決めてかかるのよ。……暇だけどさぁ」
「それなら、ここまで来たついでに、稗田家まで寄ってくれないか。阿求殿が博麗の巫女の新たな武勇伝を御所望なんだ」
「うげっ」
それは面倒にも程がある。
聞けば、稗田阿求は新しい幻想郷縁起を黙々と執筆中らしい。
前回の縁起は読み物としての面白さを追求した冒険作だったそうだが、果たしてフタを開けてみたところ、人妖を問わずに大好評であった。人間からは分かりやすい妖怪の脅威の教科書として正当な評価を受けた。人外たちは自らの名に箔が付いたと快哉を発した。レミリアなど、妖精メイドの頭数だけ発注して全員に読ませたくらいだ。河童の印刷機で増刷を重ねるほどの売れ行きとなり、ただでさえデカかった稗田家の屋敷は更にデカくなった。
この快挙に阿求は色めきたった。作品を広く読んで貰える喜びに目覚めたのか、それとも印税収入に味を占めてしまったのかは分からないが、とにかく猛然と次回作への意欲を燃やしているのである。
おあつらえ向きなことに、あれからまた異変がいくつか発生している。阿求としては、その全てに関わった私の口から、話を直接聞きたいということなのだろう。
「……慧音、私帰りたいんだけど。阿求が一旦取材を始めると天狗のブン屋より性質が悪いし」
「そういうな。実は私もせっつかれているんだよ。お前を呼ぶように」
「やぁやぁ、霊夢も人気者じゃないか」
「別に私じゃなくったっていいじゃない。魔理沙とか早苗とか、あいつらの方が口は回るわよ」
「いや、お前の語りが聞きたいんだそうだ」
「え、そうなの? やっぱり最強の守護者たる私の話は重みが違うとか」
「お前今しがた負けたくせに凄い自信だな」
黙れ鬼。博麗の名の前では勝ち負けなんて些細な問題なのよ。
「いや。阿求殿曰く、『霊夢さんの外道なくらいの物言いが私にインスピレーションをくれるのです』だそうだ」
「も、モヤシっ娘の分際で生意気な……」
「だから頼むよ霊夢。今日の夕飯は私が奢るから」
「……美味しい処じゃなきゃ認めないからね」
「善処しよう」
美食への欲求と煩わしい取材からの解放を天秤にかけてみた。
そしたら辛うじて前者が土俵際でうっちゃって勝利した。
人里で評判の高い店は、どこも本当に美味しい料理を出す。それを超えるものを食べたければ紅魔館のメイド長に頼み込むとかしか方法はないが、そういう店は得てして高いのでおいそれと通うことなどできはしない。値段と質の比例関係は、幻想も常識もない一つの公式である。
「伊吹殿もいかがです? せっかく来て頂いたんですし」
「いや、私はちょっくら寄る所があるんで、ここで失礼するよ」
さて萃香はというと、別れの挨拶もそこそこに瓢箪を腰に下げて歩き出そうとしていた。
付いて来ないつもりだろうか。あいつも美味しいものには弱い。優先順位が酒と喧嘩に次ぐくらいにはご馳走に目がないと思っていたのだが。
「寄るって、どこに」
「うんまぁ、ちょっとね。いや、すぐそこなんだけど」
鬼らしからぬ歯切れの悪い返事だ。いや、嘘をつかないという性癖を考えれば、本当の事を言えずにはぐらかすというのは、それこそ鬼らしいのかもしれないが。
「そうですか。ではまたいずれ」
「じゃ、私より先に神社に戻ったら炬燵点けといて」
「ん、了解」
短い返事を残して、萃香は走っていった。
酔っているにしては確かな足取りで、軽快に走っていく。
「豪勢な夕飯よりも優先するということは……。酒がらみかしらね」
「何だっていいさ。奢る方としては頭数が減って助かる」
「あら残念ね。私が二人分食べるわ。それじゃ行きましょ」
ゲッとうろたえた慧音を急かし、連れ立って里へと向かう。
いつもの自炊では到底味わえないであろう魅惑のディナーを思い浮かべ、私のほっぺたはもう既に落ちそうだった。
結論から言えば、萃香はその日神社に帰らなかった。
この後萃香が起こす事件は、鋭いことに定評のある私の勘でも、全く予感できなかったのである。
伊吹萃香はその夜、ひとりの子供を攫っていった。
◆ ◆ ◆
お待たせしてすいません。
この時期はお客さんが多くて。
今、姉に店番を替わってきてもらったんですよ。
え、ホントですか! ありがとうございます!
ウチのお酒が妖怪の山の皆さんにまで呑んで頂けているとは思わなくって……。
でも、天狗のお客様はいらした覚えが……。
あぁなるほど。守矢の方々が。
確かに東風谷様は、ちょくちょくいらっしゃいますよ。
父にも伝えておきますね。呑んだ方が喜んでいるのなら、父も喜ぶはずです。
……すいません。本題は弾幕勝負の方でしたね。
始めようと思ったきっかけ、ですか。
えっと、色々あったんで、話すと長くなると思いますけど、いいですか?
はい、分かりました。できるだけ細かく思い出します。自信ないですけど。
自分もやりたいと思ったのは、やっぱりこの目で直接見てからでしょうね。
スペルカードって、花火と似ていると思いません?
あんな風に綺麗に闘えるなんて素敵だなって、初めて弾幕勝負を見たときに思ったんですよ。
いえ、違いますよ。里の近くで見れたんです。
昔の話で、私も子供でしたから。異変の只中に人里から抜け出したとか、そういうんじゃありません。
私、臆病な方ですから、とてもじゃないけどそんな勇気ありませんでした。
先生が見せてくれたんです。
寺子屋で子供たちを教えてらっしゃる、慧音先生ですよ。
えぇ。今でも尊敬する、私の恩師です。
◆ ◆ ◆
稗田の屋敷を出る頃には、陽はとぷんと暮れ落ちていた。
新月の夜である。満月の度に変身し、大量の仕事を余儀なくされる私にとっては、最も心安らぐ夜だ。
代わりに、夜の闇は一段と深い。通り沿いの家から漏れる灯りだけでは光が足りず、夜道を行く私と霊夢は簡単な光弾を浮遊させ、足元を照らしていた。
阿求の前でずっとしゃべり通しだった霊夢は、もはや疲れを隠そうともしていない。何度目か分からない巫女のボヤキが、形のいい口から漏れる。
「勘弁してよもう……。向こうの台詞のそんな細かいところまで、覚えてるはずないでしょ……」
「いや、聞いている方としてはなかなか面白かったぞ。今度寺子屋でも話をしてくれないか。生徒にぜひ聞かせたい」
「冗談言わないで」
ふむ、残念だ。結構真剣だったのだが。
「それよか、さっさとご飯食べにいこうよ。もう遅いし、急がないと閉まっちゃうかも」
「あぁ、それなんだが、悪いが財布を忘れた。今向かってるのは私の家だ」
「ちょっと! 事態は一刻を争うわよ! お腹と背中がくっつきそうなのよ!」
「だから急ぎ足で歩いている。それとも飛んだ方がいいか? 里の中で飛んでも、歩くのとそれほど時間は変わらないと思うが」
「……飛ぶと空きっ腹に響くから止めとく」
見る間に落ち込んでしまった霊夢は、それでもとぼとぼと歩き続ける。
「まぁ、何を食べるかを悩める時間が、それだけ増えたと思え」
「それもそうね。最近は和食続けちゃったからな。洋食がいいかもしれない。あ、確か美味しいオムライス出す店があったでしょ。そこなんてどうかしら。ソースはトマトもいいけど、私は断然デミグラス派で」
「おい、ヨダレが光ってるぞ」
落ち込んだと思ったらこれだ。本当に表情豊かなやつだ。傍から見ていてこれほど飽きないものもないかもしれない。人妖問わず皆から好かれる由縁は、きっとこの辺りにあるのだろう。
ちなみに財布を忘れたというのは、別に奢るの惜しさについた方便ではない。私の単純なうっかりである。
私だって、霊夢と夕食を共にすることを楽しみにしているのだ。歴史を扱う者として、博麗の巫女という存在には興味がある。阿求殿ではないが、いろいろと聞いてみたいことは尽きない。
「そういえばさ」
霊夢がふと顔を上げて呟く。
夜の風は、昼間に輪をかけて冷たくなっていた。
「なんでまた、授業で弾幕ごっこを見せたわけ?」
いぶかしむ様な目付きの奥には、疲れとも落胆ともまた違う色の光が垣間見える。
私がそれに気付けたのは、教師という立場上、そんな目を見慣れているからだろう。
その光は、問題を解き終わった生徒が答え合わせを待っているときのそれに似ていた。
「言ったろう。弾幕にもっと興味を持ってほしいんだ」
「それで、競技人口でも増やすつもり? とてもじゃないけど、普通の人間には弾幕は撃てないし、耐えられない」
「分かっているさ。何も子供たちにやらせようってわけじゃない。だが、こういうものがあるってことをきちんと知ってほしい」
私は立ち止まった。つられて歩みを止めた霊夢が、こちらに視線を向ける。
「確かに弾幕勝負は、妖怪とそれに関わる者たちだけの特権かもしれないが、あれはとても、美しいと思う」
え、と漏れてきた声が、二人の間の空気が震わせた。
「妖怪は確かに恐ろしい。人間を何もかも圧倒しているし、人間を喰らうからな。でもそういう圧倒的な存在は、得てして美しさも兼ね備えているものだ」
例えば真夏の入道雲の、その巨大さに見惚れてしまうように。
そして夕立とともに落ちる、稲妻の軌跡に目を奪われてしまうように。
「ここは人も妖も、自由に生きる楽園なんだろう? ならば人間も、妖怪の美しさを露とも知らずに里へ引きこもってしまうのは、あまりに惜しい」
何を愚かなことを、と人間たちに鼻で笑われるとしても。
意味の分からないことを、と妖怪たちにそっぽを向かれたとしても。
人間でも妖怪でもない私の、これは嘘偽りのない願いだ。
「スペルカードの美しさは、畏怖すべきものが見せる別側面の美しさと通じるものがある。お前の言う通り、ただの子供ならば弾ひとつかすっただけでも大怪我をするだろう」
「……危険だと分かっていても、見せる価値のあるものだと?」
「あぁ。私はそう信じているよ」
そう、と霊夢は呟いて、また歩き始めた。
立ち止まったままの私を追い越して、振り返る。
「ねぇ、私のスペルって綺麗?」
「そうだな。真っ直ぐで力強い、書道の筆運びのような美しさだと思う」
「あぁそう。それじゃ、私って怖い?」
「へ? いや、怖いとは思わないが……」
「ふぅん」
どこか得心行かないといった面持ちで、霊夢はまた歩き出した。
「んじゃ、一体何だっていうのかしらね……」
「何がだ?」
「いや、こっちの話。それより、あんたの家ってこっちで合ってたっけ?」
「あぁ。そこの角を左だ」
私の家は、人里の中心部からそれほど離れてはいない。里のどこで事が起っても駆けつけられるように、という理由でそう決めた。寺子屋にも通い易く、重宝している。
だが稗田家は里の中心から外れた閑静な場所にあり、今日はそれが裏目に出ているわけだ。
「あれ、誰かいるわよ?」
先に角を覗き込んだ霊夢が、そう言った。
「なんか子供みたいだけど」
「何だって?」
そんな馬鹿な。
夜の外出を許されている子供などいない。生徒たちは私の家を知っているので、中には宿題を教わりに来る者もいるが、しかしこんな時間に訪れる者は今まで一度もなかった。
何か、あったのかもしれない。
霊夢の見間違いであることを祈りながら、私は急いで角を折れた。
「! 先生っ!」
その期待とは裏腹に目に入ったのは小さな人影だった。思わず、霊夢を置いて駆け寄る。
向こうもこちらの灯りに気づいたようだ。
聞き覚えのある声である。十かそこらの少女特有の淀みないソプラノだ。
「どうしたの、こんな時間に」
「先生、助けて。大変なことになっちゃったかも」
「落ち着いて。取り乱してもどうにもならないから。何かあったの?」
明らかに狼狽している少女は、私の腰に縋って震えている。
馬の尾のようにまとめられた髪が揺れるのが、この闇の中でも分かった。
「妹が……。とにかく、先生一緒に来て!」
「待ちなさい! 何があったのかだけでも……」
静止も空しく少女は駆け出していく。
十歩先も危うい闇の中だが、子供たちにとっては勝手知ったる里の道。赤い花柄の着物が瞬く間に闇に飲み込まれていってしまう。
「一体どうしたんだ……。すまない霊夢、私はあの子を追い掛けてくる」
「え、ちょ、待ってろって言うの!? 玄関の鍵くらい開けて行きなさいよ」
「それじゃあ見失ってしまう! とにかく私は行くぞ」
「だぁーもう! 私も着いてく! 待ってても寒いだけだし」
結局私は霊夢とともに、再び夜道を行くことになった。ただし今度は全速力だ。
ずっと向こうに辛うじて見える小さな背中を、何とか見失わぬように必死で走らなければならない。
「妹がどうこうって言ってたわよね、あの子」
「あぁ。あの子は妹の面倒をよく見る。あの取り乱し様じゃ、よっぽどのことがあったらしい」
「へぇ。何にせよこれで何もなかったら、食べ物の恨みの恐ろしさをこれでもかってくらい刻み込んでやるわ!」
また遠くなった夕食を幻視する霊夢は放っておいて、私はまた目を一段と凝らす。
寺子屋の教師として家庭訪問も行っているので、あの姉妹の家は知っている。父親が里の外れで杜氏を営んでいる家だったはずだ。彼女はその方向に向かっている。
押し潰さんとするような深い闇をものともせずに精一杯走り続けた少女は、やがて道が交わる少し開けたところでその足を止めた。
大きく肩を上下させながら、辺りをきょろきょろと見回す。
「……やっぱり、戻ってきてない。どうしよう!」
「ねえ、一体何があったの。話してくれなきゃ分からないじゃない」
一足先に追いついた私は、しゃがみこんで視線を合わせ問うた。
「……………………妹が」
少女は更なる長い逡巡の後、ようやくその小さな口を開き。
俄かには信じられないことを口にした。
「戻ってこないの。伊吹様が連れてっちゃったの」
◆ ◆ ◆
人間って、模倣する生き物だと思うんです。
便利なものや、綺麗なもの、美味しいものや、気持ちいいものを、どんどん取り込んで自分のものにする。
そうやって高めあっていくことで、山も川も、海も空も越える力を持つことができた。
綺麗な弾幕を自分の目で見て、やってみたくなったのもそれと同じことだと思うんです。
私、寺子屋の中でも、断然物覚えが悪くて。
他の子や姉は教えてもらえばすぐにできることが、私にはいくらやってもできなかった。
周りが九九の暗誦をしているころ、私は足し算すら危うかったんです。先生が授業で仰る偉人の名前とかは、もう答案にひらがなですら書けるかどうかってとこでした。
何をやってもダメだった私が、初めて自分で思ったんです。「やってみたい」って。
自分の中にある、ワクワクも、モヤモヤも、ドキドキも、イライラも、全部一編に爆発させてしまえば、あんな風に綺麗な光が作れるかもしれないって。
それでやってみたら、本当にできたんです。
といっても、最初に出てきたのは線香花火みたいな短命な弾でしたけど。
初めて弾幕を目にした日の帰り道で、綺麗な夕焼けだったのを覚えています。
はい、本当に嬉しかった。
姉も一緒に喜んでくれました。手をいっぱい叩いて、「すごいすごい」って、私の周りを飛び跳ねて。
そして、もうすぐ家に着くっていうところまで来て、ある方がいらしたんです。
人間じゃなくて鬼の方なんですけど。どうもウチに寄った帰りみたいでした。
……あの、どうかしましたか? 顔青いですけど。
鬼の方のお名前、ですか?
あ、そうか。天狗の方々は鬼とお知り合いなんでしたね。
伊吹萃香様です。当時からずっとウチをご贔屓にして頂いてまして。
うぇ? ちょ、大丈夫ですか?
顔が青を通り越して白くなってますよ!?
……はぁ。分かりました。深くは聞かないで欲しいんですね。
とにかく、伊吹様とばったり出くわしたんです。
伊吹様が大変お強いということは、私も姉ももちろん承知していました。
というか、伊吹様の名を知っている者なら誰でも分かっていることですけどね。
だから姉も、私に良かれと思ってやったんでしょう。
伊吹様に頼んだんです。
妹に弾幕を教えてやってくれ、って。
あはは。えぇ、本当に怖いもの知らずですよね、子供って。
伊吹様は別段に気を害された様子もなく、今日はもう遅いから、次に寄ったときにしなさいと笑って仰って下さいました。
言う通りに待っていれば、伊吹様もあれで気さくな方ですから、少しの手解きくらいはして下さったでしょう。
でもそのときの私は、どうかしていたんです。
◆ ◆ ◆
この私、伊吹萃香にとっての春は、まだまだ遠い。
私にとっての春とは、冬の寒さが和らいだとか、何処其処の花が開いたとか、そういった身に感じる季節の移ろいではない。かといって、恋をしたとか努力が実ったとか、そういった象徴的なものでももちろんない。
もうお分かりだとは思うが、もちろん酒絡みの春である。
幻想郷では、本当に様々な酒を堪能できる。それというのも、酒蔵がとても多いからだ。
中でも日本酒を造っているところは一際多い。最近では幻想郷にも麦酒だのワインだの舶来物を扱う酒屋が増えてきたが、豊富な湧き水を活かした地場産業はやはり根強いのだ。
更に言えば、幻想の住人たちの持つ酒への欲求が(まぁ私ほどではないにしろ)押しなべて強いこともあり、幻想郷の酒市場もその人口に照らして考えればとても大きい。郷のあちこちの酒蔵で、杜氏たちがその自慢の腕を振るう。評判のいい杜氏の親方ならば、人妖を問わず幻想郷の誰もが一目置く訳だ。妖怪が人間の親方の下について酒造の修行をしているといった話も、ちらほらと耳にする。
造る方がこれだけ多いと、飲む方にとっちゃある意味で地獄だ。激しい生存競争によって雰囲気を研ぎ澄まされた酒たちは、何れ劣らぬ銘酒ばかりである。目移りせずにはいられない。
さて、そんな訳で星の数ほどある酒たちの中には、幻の名を冠するものも存在する。
何で幻なのかって言えば、まず数が少ない。なぜ少ないかと言えば、一年のうち限られた期間しか出回らない。幻想郷の呑ん兵衛たちが喉から腕を生やして欲しがるその銘酒たちは、博麗神社の賽銭並みの希少価値を誇る。
私のいう「春」も、そんな酒のひとつで。
「それが、お嬢ちゃんのとこで造ってる『大吟醸・白百合』ってわけだよ」
「……………………」
頭の後ろ、二本角に掴まって肩車されている少女に向かって、私は微笑んでみた。
微笑んではみたが、相手からすれば私の顔は全く見えまい。なので「へへっ」と声にも出してみたが、彼女は押し黙ったままだった。
人里から歩き始めて、かれこれ一刻。その間ずっとこの調子である。やりづれぇ。
この少女、件の『白百合』を作っている酒蔵の末娘だ。
あの酒は、春の初めのほんの一時期しか出回らない。今日里へ来たついでに買いに来てみたが、まだ売っていなかった。がっくしと肩を落としながら、帰ろうと踵を返したところで、娘の姉妹とばったり出くわし。
そしてそのまま、攫ってきたのだ。
せっかく二人で歩いているというのに、何の会話もないという空気が私には酔いも吹き飛びそうなほど辛かった。なのでずっとひとりで喋くり続けてきたのだが、これまた彼女がなかなか乗ってきてくれないのである。
最後の手段として、我が魂ともいえる酒の話題を振ってみたがダメだった。まぁ、分かってたけどね。いくら杜氏の娘とはいえ、両手で数えられるほどにしか生きていない子供じゃあ、酒の話題に食い付いてくるはずもなかろーもん。
そろそろ、山の端の橙色も夜の藍色に塗り潰されようとしている。今日は月のない夜だ。闇も深くなるだろう。
んー。何かないか。どんな子供でもたちまちに元気を出すような何かが。
「あっほらあそこ! 蝶々が飛んでる! ……いやあれ蛾かな?」
「……………………」
ひゅるりと風が嘲笑うように吹き抜けた。春の宵の口ではまだまだ寒い。
酔って火照った体には心地良い風だが、ひ弱な子供では風邪のひとつも引いてしまうかもしれない。体調を崩されると、私としても困ってしまう。
攫った子供を病で死なせるなど、鬼の名折れだ。
「風を凌げるところでも探そうか。寒いだろうし」
「……さっきの話」
不意に、少女の声が吐息とともに、私の髪を暖めた。
「もっと、聞きたい」
「さっきのって? え、蛾の話を?」
「お酒の話」
世辞を言っている様子は聞こえない。どうやら本心から聞きたいと思っているようだ。黙っていても聞き流していたわけではないらしい。
子供の考えてることは、よく分からんな。自分とこで売っているものが褒められて嬉しいってのは分かるけど。
「そっか。いやあ、お前さんちで造ってる酒は美味いぞ。この私が言うんだから間違いない。……けどな」
まぁ話してやってもいいんだが。
その前に、やっぱり確認しておきたいことがある。
「お前さん、本当に帰らなくてもいいのかい? このままほんとうに、人間をやめちまうつもりかい?」
誘拐犯にしては、おかしな言葉。鬼たる私からの、嘘偽りない契約を求める最後の言葉。
「……………………」
角を握る小さな手に、少しだけ力が込もった。
「お嬢ちゃんはあんまし喋っちゃくれないけど、私はこの耳でちゃんと聞いた。あんたの『帰りたくない』って言葉をね。だから私は幻想郷の掟を越えて、こうして人攫いの鬼に戻ったんだ」
そう。この子はさっき、確かに言ったのだ。
このまま里にいても、自分は何もできない落ちこぼれだから。
姉も、両親も、先生も、きっと自分のことをどうしようもない出来損ないだと思っているから。
里にいたって、しょうがないのだと。
その乳臭い口で言った。「人間じゃなくなってしまったって、いい」と。
たとえへべれけに酔っ払っていようが、ほんとうの心から零れたほんとうの言葉なら、私は決して忘れない。
だが、それは。
「いくら知ってる顔とはいえ、あんたは人間で、私はそうじゃない。その意味、分かるよな?」
いかにも子供らしい戯言だ。
自分がようやっと見え始めたばかりで、まだ周りに目を配る余裕のない、幼さ故の寂しい暴言だ。
「……………………」
少女は押し黙ったままだ。
負ぶう側と負ぶわれる側では、表情はどう頑張っても見えないが、今の顔は簡単に想像できる。
「私としちゃ、このままおお嬢ちゃんを連れてっても、一向に構わないんだがね。その後の保証はできないけど」
私は立ち止まった。足音が、彼女の声を掻き消してしまわないように。
「さあどうする? 本当に、帰らなくてもいいのかい?」
夜が濃くなるのに呼応して、風は冷たさを増していく。少女はぶるりと震え、私の頭に身を寄せてきた。
いつもならこの時間、彼女は家で暖かい夕餉の席に着いているはずだ。
帰りたいと一言言えば、すぐにでもその温もりの中に帰してやれるのに。
帰りたくないと一言言えば、すぐにでも人ならざる者の輝ける世界へ連れて行けるのに。
それでも彼女は、
「……………………」
答えを沈黙で返すのだった。
「ふむ」
腰に手を当てたちょっとエラそな格好で、私は考えてみる。
行くべきか、行かざるべきか。それが問題だ。これは彼女の一生を大きく左右する二択である。ほんの小さな子供を迷わせ、この選択を改めてさせるのは少々厳しい話だったかもしれない。決断が早そうなわけでもないし。
きっと、自分でもどうしたいのか分かっていないのだろう。
彼女が今求めているものは答えではなく、答えを一緒に探してくれる存在だ。
そんなありふれた当たり前のものまで、この子は見失ってしまっているのだ。
「…………あの、えっと」
「よし分かった。ちょっと待ってな」
私は懐を探った。確か何か書くものがあったはずだ。
思ったとおり、探る手に折り畳んだ紙がすぐに当たる。いつだか食った菓子の箱を包んでいた紙だ。
それと万年筆。こちらはいつも同じ内ポケットに挿してあるので、すぐに取り出せる。
いつだったか天狗がこいつを自慢していたので、いいなーとこれ見よがしに羨みまくっていたら、顔を引き攣らせながらくれた。中々の書き心地を誇る一品である。
パワーハラスメント? 馬鹿言え。その後良い酒をしこたま呑ませてやったんだからチャラだ。
まぁとにかく、私は日頃この万年筆と何枚かの紙を持ち歩くようにしている。
こう見えて、私は筆まめにしてメモ魔だったりするのだ。
「果たし状にしちゃあ、ちょいと体裁が悪いが、まぁいいか」
適当な岩を文机代わりにしゃがみこんで、包み紙の裏にすらすらと筆を滑らせる。
間もなくできあがったそれの最後に、これでもかってくらいにでかでかと名前を入れてやった。
そして、親指の腹を軽く噛み千切り、
「!! え、あ……」
その上からバッチリと捺す。
「へへ。血判状なんて何時振りだろうねぇ。……あっやべ」
折り畳んで、宛名を書こうとしたときに気付いた。この紙、裏紙だった。
折り畳むと書いた面の裏が表になるわけだから、宛名が模様の上に入ることになってしまう。
「読み難いのは、我慢してくれよ、先生」
しょうがないのでそのまま押し通そう。
万年筆でがしがしと、その宛名を何度も書きなぞる。
『上白沢慧音殿』
「え、先生……?」
頭の上から、驚いた声が聞こえてきた。
目方が軽いもんだから、ついついそこにいることを忘れちまいそうになるね。
「そうさ。ここはひとつ、お嬢ちゃんの行く末を勝負で決めてみようかと思ってね。私は子分を増やそうと企む人攫いの鬼。あのワーハクタクは、子供を救う正義の教師ってとこかな」
「……来るわけ、ないよ」
少女の声は、今にも消え入りそうだった。
「だって先生、私にいつもいっぱい宿題出してイジワルするんだもん。『授業でやったことだから、お前にもできるはずだ』って言うけど、ぜんぜん分かんないし。お姉ちゃんと一緒にやってもできなくて、そのまま寺子屋行ったら『じゃあできるまでやるんだ』って居残りさせられるし。きっと私のこと嫌いだから。だから ――!」
ひとつ、すすり上げる音。
「助けてくれるはず、ない」
「それならそれでいいさ。あの半人半獣が、そこまでの器だったってことだ」
私は立ち上がった。
そして右腕を一振りし、我が分身を呼び出す。
「そん時は、私がきっちりとお前を攫ってやる。みっちりと修行つけて、どこへ出しても恥ずかしくない妖に仕立て上げてやるよ」
小さな小さな百鬼夜行。だが、今召喚したのはただ一体。
飛脚代わりに果たし状を届けてもらうだけだから、それで十分。
「でも私の見立てじゃ、きっと来る。あの先生は、生徒のことをきちんと想ってる。」
書を持ってふわりふわりと飛んでいく分身を見送って、そして私はクソガキに言う。
「ま、拳で語りゃ分かるわな。会話以上に、ケンカで嘘は通じないもんだ」
弾幕は叫びだ。
自分が抱える重い荷を理解してほしくて、どうしようもなくなって放たれる激情の奔流だ。
理解されることなんて、絶対にないと知りながら。
少し小手先の弾が扱えても、そいつを心の内に飼っていなければ、強く美しいスペルを持つことはできない。
確かにお嬢ちゃんには、弾幕を生成する力がある。心の叫びも痛いほどに聞こえる。
だがその二つを結び付けるのに、独り善がりなやり方ではダメなのだ。
周りの皆の想いを誤解し、そこから逃げたままではダメなのだ。
「お嬢ちゃん。眼ぇ見開いてよぉく見てな。弾幕はただ綺麗なだけじゃない。その向こうにあるものを見ろ」
少女を負ったまま、私はまた歩き出した。
目指すは、昼間に霊夢と慧音が勝負した、あの草っ原。
「人間だって、妖怪だって、ハートだけは腐らせちゃあいけないぜ」
野外授業の次は、課外授業だ。
こいつが本当の落ちこぼれになってしまう前に叩き込んでやろう。弾を嗜む者の流儀ってヤツを。
◆ ◆ ◆
もう、そんなに前になるんですね。
あの夜のことは、今でも昨日のことのように思い出せます。
でも、今更ですけど、どうしてこんな昔の話を取材されているんですか?
汚名の返上? 失敗って、天狗様みたいな強い妖の方でも、しちゃうものなんですね。
確かに、先生はそういう取材はお嫌いそうだし。伊吹様も得手ではないでしょうし。
取材失敗の返上をお手伝いできるなら、協力しますよ。
……ほとぼりが冷めただろうし、って、本当に一体どんな失敗だったんですか。
すいません、話が逸れましたね。どこまで話したんでしたっけ。
あ、そうです。今から二回目の勝負が始まるってところまででしたね。
慧音先生と伊吹様の決闘も、一回目と同じ場所で行われました。
後から聞いた話なんですが、伊吹様の果たし状を読んだ慧音先生は、烈火の如く怒ったそうです。
「ふざけるな! こんなマネは、幻想郷の理を根本から揺るがしかねん!」
そしてそのまま飛び出して行こうとする先生を、霊夢さんが止めました。
怒りに任せてぶつかるだけじゃ、鬼に勝つことは絶対にできない、と懸命に諭して。
その後あのお二人の間でも一悶着あったそうなのですが、姉から聞いた話なので細かいところは知りません。
先生が「時間がない」というと、霊夢さんは「萃香は意味もなくこんなことはしない」と押しとどめて。
そんなやりとりをずっと家の前でしていたみたいです。
全部私のせい、なんですけどね。
本当にあのときは、色んな人に迷惑をかけちゃって……。
先生を待っている間に、伊吹様は私に弾幕勝負に関する色んなことを教えてくれました。
「まずやっぱり、空飛ばなきゃ話にならないわな。ちょっと飛んでみ」
「…………無理、です」
「だよなぁ。こればっかりはどうにも。赤ん坊に歩き方を教えるようなもんだし。やっぱり霊夢やら魔理沙に聞いた方が早いかなぁ」
当時の私じゃ、弾ひとつを自分の周りでクルクル回すくらいのことしかできなくて。
でもだんだんと、自分の思い通りに操れるようになっていくのが、楽しくて仕方がありませんでした。
もしこのまま、先生が来なければ。
そんなことをちょっとだけ、思ったりもしました。
「―― お、来たね」
でも、やっぱりそんな訳はなくて。
お二人が里の外の原っぱに現れたのは、私と伊吹様が到着してから一刻ほど経ってからでした。
「……………………」
月のない夜なので暗くて、初めは先生の表情が見えませんでした。
霊夢さんが付いてきていることすら、しばらくしてから気付いたくらいです。
「お嬢ちゃん、弾浮かせな。今お前が作れる一番でっかいやつを、できるだけ高くだ」
そう伊吹様に言われて、私は辺りを照らしました。
そこで初めて、先生の顔を見ました。
「言われた通りに来たぞ、伊吹殿。うちの生徒に手を出してはいないだろうな」
「ご覧の通りさ。嘘吐くと思うかい?」
先生の表情は、怒っているというよりは、悲しみに満ちているという感じで。
いっとう最初に怒鳴られると思っていた私は、意外に思ったのを覚えています。
「さて先生、御託は無しだ。さっさと始めよう」
「……血判状とは、また大層な宣戦布告もあったものだ」
「にししし。いいだろ別に。大時代なのが好みなんだよ」
そして先生と伊吹様は、十歩ほどの距離をはさんで向かい合いました。
「言ったとおり、勝った方がその子を連れて行く。カードは何枚だ?」
「三枚だ。鬼退治は、三枚のお札でやるものと決まっている。……霊夢」
「はいよ」
すぐ後ろからいきなり声が聞こえて、私は飛び上がるくらいに驚きました。
「見届け人を、頼んだ」
「あぁ、そうだね。ついでに流れ弾とか当たらないよう、付いててやってくれ」
「了解。全く、あんたらの人使いの荒さには大閉口」
私の両肩に手を置いて、はぁと霊夢さんは溜め息をつきました。
「よっしゃ。これで準備万端だね」
「そうだな。さっさと始めよう。呑んだくれた鬼の酔いが醒めてしまう前にな」
「余裕だねぃ。でも私は酔ってるときの方が強いんだ。いっそのこと、次の満月まで待ったらどうだい?」
二人が戦いの前口上を交わしながら、空へと身を躍らせます。
それをぽかんと見上げていた私に、霊夢さんが言いました。
「ほら、あんた」
「え?」
「私と手を繋ぎなさい」
「でも……」
「いいから、ほら」
言うが早いか霊夢さんに、私は左手を取られました。
すると、私の身体はふわりと宙に浮いたんです。
「わ! わ!」
「大人しくしてなさいよ。その手離したら落ちるからね」
「ひ、分かり、ました」
それが私の初飛行の思い出。
首が痛くなるほど見上げなければ目に入らなかった二人の姿が、ぐんぐんと近づいてきます。
「さて」
霊夢さんは人差し指の先に光を灯して、それを高く高く打ち上げました。
その弾は先生と伊吹様の横顔を照らしながら、ひたすらに上昇を続けました。
そしてかなりの高度に達したところで、閃光のように爆発して ――
「推して参る!」
「はっはぁっ!」
それが勝負開始の合図でした。
先手を取ったのは、慧音先生。
幾何学模様を描く蒼い弾が、瞬く間に伊吹様の周りを取り囲みました。
「おっほう、最初から飛ばしてくるねぇ」
受ける側の伊吹様は、まるで猿回しの猿のようにひょいひょいと、飛び越すようにして避けていきます。
伊吹様は接近戦を得意とされてますから、先生はそれを見越して距離を取った先制攻撃をかけたのでしょう。
もちろん伊吹様は、弾幕をかき分けて先生に近づいていくつもりなんです。
行くべき距離は、およそ十五米。
先生の弾幕は放射状に広がっていますから、伊吹様が近づけば近づくほど、囲む弾は多くなります。
「そのまま来る気か? 突撃はあまり賢い策とは言えないが」
「まさか。早速だけど、使わせてもらうよ!」
弾の密度が限界まで濃くなる空域に到って、伊吹様は一枚目のカードを発現しました。
≪霧符「雲集霧散」≫
符から放たれた光が収束すると、そこには二人を分かつ大きな霧の壁が、青白く聳え立っていました。
「なっ!」
先生からすれば、突然視界を完全に塞がれてしまったことになります。
狼狽によって生まれるほんの一瞬の隙。でも伊吹様にとっては、それで十分でした。
「こっちだ、先生よぅ」
「しまっ……」
霧を飛び越えて、伊吹様は先生の腕を掴み、そのまま錐揉みに一回転。
「どりゃあっ!」
遠心力と腕力に乗っかって、先生は空中を大きく吹き飛ばされました。
当然、展開していた弾幕も散らばっていきます。
弾幕勝負において、肉弾戦が許可されていることを知らなかった私は、反則じゃないかと思いました。
「え、あんなの……」
「アリよ。そこらの妖精だって、代わる代わる体当たりかましてくるんだから」
霊夢さんの言葉は、何だかうんざりしたような響きでした。
何回も異変解決に飛び回っていると、いろいろあったのでしょう。
「く…………」
「まだまだぁっ!」
身体を大の字に広げた伊吹様が、その両手を先生に向かって振ると。
一面の霧が萃まって白く輝く無数の弾へと変わり、まるで風に舞うかのように、先生に一斉に襲い掛かりました。
その弾幕は、あえて制御を放棄した弾道の読みづらいもの。
「意外ね。萃香ならば、接近戦で固めてくると思ってたけど」
言葉とは裏腹の淡白な様子で、霊夢さんが呟きました。
「鬼なりに相手の裏を掻いて、距離とったまま決めようとしているのか。それとも ――」
刹那、響いたのは札から魔力を解き放つ音。
≪未来「高天原」≫
「それとも、手心を加えているつもりか?」
蒼い光の帯と、紅い光の雨。
その中心にいる慧音先生が、霊夢さんの台詞を引ったくって続けました。
「あまり舐めてもらっては困る。これでも人里の守備隊では腕利きで通っているんでな」
「苦し紛れのカウンタースペル出しながら言われても、負け惜しみにしか聞こえないね」
「ほざいていろ」
ふたりの放つスペルが交差して、月のない空を眩さに染めるのを、私は呆けたように見つめていました。
「きれい……。天の川よりもきれい」
「あら、あんたもそう思うの?」
きっと、いつだったか先生が地理の授業で話していた“オーロラ”というのは、あぁいう風に輝くのではないでしょうか。
あの時から今までずっと、私はそう思っています。
「奇遇ね。私もそう思うのよ」
でも、それを見つめる霊夢さんの顔には、どこか曇りが残っていました。
決闘の方は、その瞬間だけなら先生の有利でした。
ほとんどの対戦競技でそうでしょうけど、こと弾幕勝負においては、技を後から出す利点が多いですから。
それでも、生まれ持った特性の差を埋めるのは難しくて。
「どうした、まさかもうバテたのかい、先生」
「……………………」
互いにほぼ同じだけの弾を浴びながら、伊吹様はまだ平然としておられました。
先生のスペルカードは、持続時間が長い代わりに相手の攻撃から身を守る効果は薄いんです。対する伊吹様には、鬼という時点で体力面のアドバンテージがあります。
先にスペルの展開を終えた伊吹様は追い討ちをかけるように、今度は燃え盛る弾を投げつけました。
先ほどの白い細弾とは違う、猛スピードで狙いを付ける弾です。
それに対して慧音先生は、
「…………っ!!」
急加速に歯を食いしばりながら、伊吹様から等距離を取るコースを回り込み、ぎりぎりでかわしました。
でも。
「ふむ、行きは良い良い、帰りは怖い、ってね」
「なに?」
「うん。行った弾だけじゃなくてさぁ ――」
伊吹様がグッと拳を握ると、
「帰りの弾にもご注意を」
「がっ……!」
飛んでいった火炎弾が、そのまま弧を描いて再び先生に向かい、戻ってきたのです。
ダメージの溜まっていた先生には、もはや避ける余裕などありません。
戻ってきた弾は、先生の背中にひとつ残らず直撃し、爆裂しました。
「先生っ!」
先生は一瞬気を失ったのか、その身体はまるでパチンコで撃ち出された石のように、ゆるい放物線をなぞって落下していきました。
私は思わず駆け寄ろうとして、
「こら! あんたは落ちたらタダでは済まないから!」
霊夢さんに手を強く引かれました。
「いいから見てなさい。慧音はあれっくらいでやられるようなタマじゃないわよ」
「あれ、霊夢はやっぱりそっちの味方かい?」
こちらを見つめる伊吹様の目は、突き刺そうとするかのように真っ直ぐでした。
「中立よ。あんたのやったことに呆れてるのは確かだけど、それとこの勝負とは関係ないわ」
「あっはっはぁ、そう来なくっちゃ。それとお嬢ちゃんよぅ」
そしてその目が、今度は私を真っ直ぐ見据えます。
「先生のことが心配なのは分かるけどね。悪いけど私はいつだって――」
伊吹殿が二枚目のカードを発現するのが、まるで私の目の前で行われているかのように、よく見えました。
「喧嘩には、本気だよ」
≪鬼気「濛々迷霧」≫
符の消失と同時に、伊吹様の身体は光に包まれ、そのまま ――
「……え? え?」
粒となって、散ってしまいました。
「……なんという」
慧音先生の低い呟きが聞こえてきて、思わず私がそちらに目をやると、先生はどうやら体勢を立て直したようでした。
その目は、イナゴの群のように迫り来る弾の洪水を見つめています。
伊吹様が散ったそのひとつひとつが弾幕なのだと、私はその時ようやく覚りました。
相手の弾から守るべき自らの身体をそもそも消して、それをもって攻撃するスペル。
正しく最大の防御にして、最強の攻撃です。
「まずいな……。計算が、狂った。これでは……」
しかしそれに対して、先生はカウンタースペルを出そうとはしませんでした。
もう既に、先ほどの直撃の連続で気力は残り少ないはずなのに。
「おいおい、霊夢の二の舞演じるつもりかい?」
その様を、姿無き伊吹様が嘲笑いました。
慧音先生は、光弾の星雲に向かって闇雲な牽制弾を放ちながら、ひとつひとつの弾をかわしているのです。
「え、どうして……?」
「ねぇあんた、弾幕勝負のルールは知ってるわよね?」
無数の弾が殺到する轟音の中、霊夢さんのそれほど大きくはない声が、不思議とはっきり聞こえました。
「弾幕勝負は、『相手より先に力尽きる』か、『先にスペルを使い果たす』かしたら負ける。なら、慧音が萃香に勝つにはどうしたらいいと思う?」
当時の私には難しくて、その言葉はするっと頭を抜けてしまいました。
分かったのはずぅっと後になって、真剣に弾幕の修行を始めてからですよ。
本来なら、圧倒的な体力を誇る鬼という種族に相対するとき、取るべき戦法は「自分より先に相手の最後のスペルを引き出すこと」なんです。相手が最後のスペルを使った時点でこちらが一枚でもカードを残していれば、それを使いながら避けていれば勝てるわけですから。簡単なことではありませんが、鬼の体力を削り切ることに比べればまだマシです。
でも伊吹様相手では、必ずしもそうじゃない。
「ヤバいのは、萃香が最後にとってるスペルが≪鬼神『ミッシングパープルパワー』≫だった場合。簡単に言えば巨大化するスペルで、あいつの十八番。強力なクセに持続時間も長い、半分チートなスペルよ」
最後にそれを使われてしまうと、伊吹様の『ミッシングパープルパワー』が切れるまで生き延びることは、よほどの腕がない限り不可能です。
つまり、鬼相手のセオリーが伊吹様に限って通用しないことになります。
そうなると、伊吹様からダウンを奪う方が場合によっては近道なんですが、そんなことができる実力者はもちろん限られる。
幻想郷最強の一角にあの方が数えられるのは、そんな理由もあるんです。
ただ――
「慧音の能力ならば、萃香を倒し切れる可能性がある。でも」
霊夢さんの目は、ひたすらに避け続ける慧音先生を見つめていました。
「それは二枚のカードを必要とするコンボ攻撃。というかそもそも、こっちの攻撃が当たらないんじゃ意味がないし」
だから先生は、伊吹様のこのスペルをひたすらにかわし続けなければならなかったんです。
逃げても逃げても、その先には自分を墜とそうとする真っ直ぐな意志が待ち構えている。
そんな終わりの見えないぎりぎりの消耗戦を、先生は。
「あんたのために、やってるのよ」
「あ…………」
自分が飛べないということが、凄く悔しくて溜まりませんでした。
もしも私が飛べたなら、すぐに先生の下に飛んでいって、「もうやめて」って言いたかった。
伊吹様に、「ごめんなさい」って言って、先生を許して欲しかった。
でも私は、霊夢さんが手を離せば落ちてしまうくらい、ちっぽけな存在。
できることなんて、何もなかったんです。
「ま、このまま『濛々迷霧』が切れるところまでかわし切れればいいわけだし、それほど分の悪い賭けでもないわ」
「でも……!」
もはや先生は、牽制で反撃することもせずに、回避に集中していました。それでも弾のいくつかをかわせず、被弾の度に弾き飛ばされては踏みこたえている、といった有様で。
もう、いつ撃ち落されてもおかしくないと思いました。
「ふむ、絶望的な状況で頑張るやつは嫌いじゃない。叩き潰しがいがあるからね!」
対する伊吹殿の声は、心から楽しそうでした。全く攻めの手を揺るがさずに、先生を追い詰めます。
私は鬼の本当の恐ろしさを、ようやっと思い知ったんです。
煩いくらいに、自分の心臓の音が聞こえていました。
繋いだ手が湿っていたのは、きっと私のせいでしょう。
伊吹様の一方的な攻撃がどのくらいの間続いていたのか、覚えていません。まるで時間という概念が消し飛んでしまったかのような感覚でしたから。
でも、切れないスペルカードなんて存在しない。
「そろそろ、ね」
霊夢さんの言葉にハッと気付くと、幾分か弾の濃さが増しているように見えました。
スペルの切れ際、蝋燭の燃え尽きる前のような、最後の隆盛。
一筋の希望が見えると同時に、一際の絶望を感じる瞬間でもありました。
「先生……っ!」
私は祈りました。
もうその時の私は、慧音先生が勝つことだけを、ただただ願っていたのです。
自分のためじゃありません。負けてしまえば、先生はとてもとても悲しむだろうから。満身創痍になるまで戦っても生徒を守れなかったという、敗北よりもずっと深い悲しみに
「いやぁ、御見事。まさか本当に身一つで耐え抜くとは思わなかったよ」
そして愉快さを隠そうともしない伊吹様の声とともに、
「もっと楽しみたかったけど、残念ながら一旦幕引きだ」
白い光が収束していき、その中心に朧げな伊吹様の姿が浮かび上がりました。
弾のない空域まで距離を取った先生と再び睨み合います。
「はぁ……はぁ……」
「何やら策があるようだね。ここに来るまでの時間で、何を思いついたのか知らないが」
「あるには、ある。前から考えてはいたものの、机上の空論という段階で、実践も何もあったものではないがな」
「へぇ、面白い。受けて立とうじゃないか」
伊吹様が取り出したのは、最後の札。
それを見た先生も、二枚のカードを左手に持ちました。
「このような不確かな方法、採りたくはなかったが、背に腹は変えられん。行くぞ!」
その内の一枚を右手に抜き取り、ゆっくりと掲げたその時 ――
「あぁ、受けて立つとは言ったけど」
閃光と、爆音。
「そっちが立っていられたら、の話だ」
先生の身体が、真横へと吹っ飛びました。
閃光の正体は、実はまだ完全に終わってはいなかった『濛々迷霧』の残弾。
安堵から気を抜いてしまった先生は、伊吹様が敢えてひとつだけ残した分身の、完璧な直撃を受けてしまったのです。
「あ、ひ、ひどい……」
「大丈夫よ」
先生がやられたというのに、霊夢さんは冷静でした。
「慧音のスペルはもう発動してる。まだ勝負は決まっていない」
霊夢さんが言い終わると同時に。
さっきよりもずっと眩い光が、辺りを包みました
肝心の先生の姿がそこにないまま、伊吹様の前に立ち塞がるように現れたのは、
≪照符「月影幻想」≫
ひとつの巨大な天体。先ほどまでの伊吹様のスペルとは対照的な、唯ひとつの弾から成るスペルカード。
それがまるで入道雲のように、ゆっくりと伊吹様に迫ります。
私も修行を始めてから、大きな弾を用いるスペルはいくつか見てきましたけど、あれほど巨大な弾は未だに見たことがありません。
「な、なんだぁ!? デカさで勝負ってかい」
伊吹様は、度肝を抜かれたような顔を一瞬だけされましたが、
「でもまぁそれなら、私が負けるはずもないやね」
すぐにニッと笑って、躊躇わずに最後のスペルを切りました。
≪鬼神『ミッシングパープルパワー』≫
それは伊吹萃香を伊吹萃香たらしめる、唯一無二の絶対攻撃。
霊夢さんが危惧していた通りのことが、目の前で起こってしまいました。
「うおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
耳を塞がざるを得ないほどの雄叫びとともに、伊吹様の身体は大きくなっていきます。
先生のスペルによって放たれた弾は、直径十米はあろうかというものでした。しかし今や、伊吹様はその弾を両腕で抱え込めるほどに巨大化しているのです。
そして両掌をがっしりと組み合わせると、
「せいっ!!」
まるで鞠のように、先生の弾を高く高く打ち上げました。
「どうした! こいつが奥の手だってなら、笑えない冗談だぞ?」
「相手が勝ち誇ったとき ――」
吠える伊吹様に応えたのは、霊夢さんの物静かな声。
「そいつは既に敗北している。知らない? 有名な諺よ、萃香」
「知ってるが、それって諺じゃないだろ」
「慧音の能力を忘れたの? それと合わせて考えれば分かると思うんだけどね」
霊夢さんが空のある一点、正面のやや上を指差しました。
「今までの形勢が、完全にひっくり返ったって」
指差した先に何があるのか、暗くて私には見えませんでした。
それはさっき、先生が弾き飛ばされた方。
「……伊吹殿、お忘れならば教えて差し上げよう。私が持つのは『歴史を食べる程度の能力』」
「! 先生!」
「あれ? 結構ピンピンしてるみたいだねぇ」
そちらから聞こえてくるのは、確かに慧音先生の声でした。
でもそれは、今まで聞いたことのない、何かを押さえつけているような低い声。
「今のスペルは、月夜の歴史を煮詰めたもの。満月以外をなかったことにして、満月の歴史だけを純度百%にまで昇華したんだ。目的は攻撃じゃない。本物の満月に限りなく近い光を創って ――」
少しずつ、声は近づいてきました。
それとともに、先生の姿が段々と鮮明になります。
「この身に浴びることだ」
そしてその姿をはっきりと目視したとき、私は息を飲みました。
「せ、先生……それ……」
「ちっ、そういえばそうだったね先生」
その頭には、伊吹様と同じような二本の角。
ただそれは、デコボコした伊吹様のそれとは違い、すらりと真珠色の光を放っていました。
着物も替わっていました。
着替えたのか、それとも服自体も変身したのか、それは分かりません。でもその色は、空の青から葉の緑へと移ろっていたのです。
「それが白沢としての姿、か」
「そうだ。弾幕の力で変身するなんてのは初めてなのでな。どんな影響があるかは分からんが」
「力は格段に増したようだねぇ。そいつぁ確かに奥の手だ」
先生は、満月の夜に変身する半人半獣。
里の人間なら、誰もが知っています。その姿を見たことのある者はほとんどいませんけど。
だからといって、誰も馬鹿にしたりなどしません。
先生が人でなくても心から里を愛していることを、みんなよく知っていますから。
とはいっても、いざその姿を目の前にすると、その醸し出す雰囲気が今までとはまるで違っていて。
慧音先生が人間でないことを、改めて思い知らされました。
「だが、それだけじゃ足りない」
唸る伊吹様は、しかし、先生を掌で叩き潰せるくらいの大きさなのです。
「一応は悪役だからねぇ。ヒロインに変身する時間は与えてやった。もう容赦はしないよ! も一度吹き飛びな!」
山のような巨体が、流星のような速さで先生に迫りました。
「やれやれ、伊吹殿。私は最初に言ったはずだ。突撃は下策だとな。そしてやはりお忘れのようなので、もう一度言わせて頂く」
対して迎え撃つ先生は、冷静沈着に言い放ちます。
「白沢となった今の私の力は『歴史を創る程度の能力』。ならば、『歴史の再現』など容易い」
そして炸裂するのは、先生のラストスペル。
「鬼の歴史は長い。だが長い歴史の中には当然――」
≪伝来「渡辺綱の鬼切」≫
「鬼の歴史は、人に退治されてきた歴史でもある」
そう説明してくれたのは霊夢さんです。
「桃太郎やら金太郎やら、歴史よりメジャーな昔話においてさえ鬼は退治されるもの。そして『退治された』という事実は、妖怪にとって致命的な弱点となる」
『鬼切』。簡単に言えばその名の通り、かつてを鬼を斬った剣の名前だそうです。
剣戟の軌跡をそのまま弾にしたような三日月型の光が、拡散して伊吹様の全身に襲い掛かりました。
「がぁっ!」
「一発一発が重いだろう、伊吹殿。他の妖怪にとってはただの弾だが、鬼にしてみれば炒り豆なんて目じゃない威力じゃないか?」
「くそっ! こ、んなはず……ぎゃいんっ!」
「というか、弾幕勝負は回避が命なのに、自分から当たり判定デカくしてどうするのよ」
弾の光に照らされた霊夢さんの顔は、何故か心底嬉しそうで。
「まぁこっちとしちゃ、それを逆手に取らせてもらったわけだけど」
「れ、霊夢! まさか、昼にからかったことを根に持って……! ってかやっぱりそっちの味方じゃないか! あいたっ!」
「黙りなさい! 昼もそうだけど、あんたのせいで夕ご飯おあずけ食らってるのよ!」
先生のスペルの勢いは止まりません。
光跡が伊吹様を斬り裂いていく度に、その身体は縮んでいきます。まるでお湯をかけられた氷のように。
しまいには元の大きさよりも小さくなって、半ベソでした。
「こ、降参だっ!」
空中で地団駄を踏みながら、伊吹様はついに音を上げました。
「ちきしょう! 私の負けだよ!」
「はいそこまで! 立会人としてギブアップを確認したわ。勝者 ――」
先生の身体が、光を発し始めました。
その光はすぐに治まって、現れたのはいつも通りの蒼い慧音先生。
「上白沢慧……ってちょっと!」
そしてそのまま先生は、ふらっと真っ暗な闇の中へ墜ちていきました。
蓄積したダメージに、無理に変身した負荷が重なったのでしょう。
地上までは、建物五階分ほどの高さがありました。先生でも、きっと無事ではすみません。
「な、なんだ?」
「マズいわ! 早く……え?」
勝負の直後で反応が遅れたお二人を尻目に。
私は思わず飛び出しました。
身体がまるで自分のものじゃないみたいに、風のように動きました。
夢中で、先生へと手を伸ばしていました。
風を切る音が、まるで今までの自分を責め立てるかのように響きました。
そして私はようやく先生の腕を捕まえて、
「……っ! 止まらない」
それでも、勢いは殺しきれず。
正直、もう死ぬと思いました。
「せん、せいっ! 目を!」
もう地面に激突すると思った、その瞬間。
先生の腕に力が戻ったんです。その腕は優しく私を抱き寄せ、確かな温もりを与えてくれました。
「そうか。飛べるようになったんだね。偉いよ。私の生徒の中じゃ一番乗り、です」
慧音先生と私はふわりと浮き上がり、そのまますとんと地面に降り立ちました。
そのとき初めて、私は自分が空を飛んでいたことに気付いたんです。
「え、私、飛んで……」
「あぁ。みんなに、自慢していい、こと……」
先生の膝が、がくりと落ちました。
「先生っ!」
「心配ありません。少し疲れただけだから」
「先生、ごめんなさい! ごめんなさい!」
「何を、謝ることなんて……」
「だって私のせいで、先生は ――」
私は、肩をがしりと掴まれ、言葉を切ってしまいました。
「ほら、泣かないで。私は、生徒が泣いているなら、それを泣き止ませなければならないんだから。だから、お願いだから、もう泣かないで」
そんなこと言われても、ねぇ。涙が止まるはず、ないじゃないですか。
……あ、すいません。ちょっと思い出しちゃって。
その後、ですか?
先生と霊夢さんに連れられて、家に帰りました。
そりゃあもう、こってりと絞られましたよ。
姉も飛びついてきて、そこでまた二人で泣いちゃいました。
伊吹様は、おひとりで妖怪の山の方に飛んでいってしまったと覚えていますが……。
でもうちでその年の『白百合』を出す頃には、ちゃっかり買いに来てましたね。
射命丸様と犬走様も一緒でした。お一人様一本限りでの販売って聞いてきたからだと思います。でもその時には最後の一本しか残ってなかったので、どっちみちそれしかお売りできなかったんですけど。
そしてそれから、私は弾幕勝負の修行を始めました。
慧音先生に付きっ切りで、授業が終わった後日が暮れるまでの間、ひたすらに練習でした。
時には他の方もいらして、稽古を付けてくださいました。伊吹様や霊夢さんはもちろん、里に来た高名な妖怪の方に先生が教授を頼んで下さることもありましたよ。
あと、寺子屋の子供たちの間でも弾幕が大ブレイクしました。
友達に弾幕を見せてあげたり教えてあげたりすることが増えて、その代わりに勉強を教えてもらったりして。
本当に少しずつですけど、成績も上げられました。
はぁ、ずいぶん喋っちゃいましたね。喋り疲れちゃいました。
あのときの話は、これでもう終わりです。
ところで思ったんですけど、慧音先生と伊吹様の弾幕勝負の記事なのに、私の写真ばっかりっておかしくないですか?
話の間、私の写真を結構撮っていらしたようですけど。
……はぁ。私の写真じゃなくて、過去の風景の『念写』?
見れば分かるって、その写真機はもう撮った写真が見られるんですか。
いいんですか? じゃあちょっと拝見します。
……………………。
うわぁ、凄い!
あの時の風景ですよ。そのまんまです!
あ、これ変身した時の先生だ! 懐かしい!
本当に凄いですね。思わず思い出しちゃいます。
やっぱり私の原点ですからね。
え? いいんですか、この写真頂いても。
へぇー、いくらでも複製できるんですかこの写真機。
『けえたい』っていうんですか。凄いなぁ……。
分かりました。印刷して送っていただけるのを、楽しみに待ってます。大事にしますね!
あ、そうだ。代わりといってはなんですが、あれを持っていって下さい。
えぇ。今年の分の『白百合』ですよ。
本当は明日から店に出すんですが、特別です。
私も特別なものを貰いましたから。
―― あぁ、ありがと、お姉ちゃん。
はい、これです記者さん。鬼の方に取られないよう、十分に注意して下さいね。
じゃあ、記事の執筆、頑張って下さい!
私もその記事、心待ちにしていますから。
今日はありがとうございました。
またどうぞいらっしゃいませ。
◆ ◆ ◆
「はぁるがき~た~♪ はぁるがき~た~♪ どぉ~こぉ~にぃ~っ、きたぁ~♪ っとくらぁ」
萃香の機嫌は、たぶん青天井を通り越して成層圏あたりを漂っている。
「それはあんたの頭の中よ」
「にっひひひ。やっぱり霊夢のツッコミは鋭いねぇ。先生も見習いなよ」
「……随分と無茶を仰る」
あの勝負から一週間ほど。上弦の月が、沈んだ太陽を追いかけて傾き始めた頃。
我が愛すべき神社でひとり静かに夕食をとろうとしていたところに、萃香が慧音を連れてやってきたのだった。
萃香は一升瓶を小脇に抱えて。
慧音は里で評判のオムライスを持って。
そしてそのまま当然のように縁側で、三人での宴会が始まることになった。
「にしても、そんな大層なお酒なわけ? これが」
「おうおう、霊夢さんよ。この私が持ってきた酒にケチつける気かい?」
「うわ、こいつの絡みメンドくさっ。慧音、パス」
「え、私に振るのか?」
「よっ、先生! ここはひとつドッカンドッカン沸かす一言を頼むよ」
「えぇと……。あ、『付けてるのはケチじゃなくてクチだろうが!』ってのはどうだ。これは我ながらなかなか……」
「………………」
「………………」
「え? あれ? ダメ、ですか?」
「しょうがないなぁ霊夢。酒の産湯を浴びたと言われる私が、こいつの凄さを教えてやるよ」
「三行以内にまとめなさいよ」
「そ、そんな。無視するほどに?」
この酒の名は、純米大吟醸「白百合」。訪れる春をイメージして作られた、幻想郷でも通の中の通のみが知る銘酒、だそうだ。
名前こそ春告精の名前を和訳しただけという単純なものだが、その爽やかな飲み口と暖かな後味は、厳しい春を耐え抜いた先の暖かい春の日には正に相応しい。芸術といっても過言ではない仕上がりであった。
冬の終わりに一樽分しか出回らず、他の時期には匂いすら嗅ぐこと叶わない。この幻の酒に、萃香は並々ならぬ執念を持っていた。
どのくらいの執念かというと、
「博麗神社のお供え物を拝借したのが最初だったんだけどさ。いやもう驚いたね。古今東西のあらゆる酒を飲み尽くしたこの私をもってしても驚いたよ。頭のてっぺんからつま先まで、余すところなく春の風で洗濯したみたいだった。いやホント、ちょいと一口のつもりが、半刻で飲み干しちまったくらいさ。こんな酒を造ったのはどこかと思ってさ、片っ端から妖怪たちに聞いて回ったんだけど、それが一向に分からなかった。もうしょうがないってんで、こいつを神社に奉納したヤツを探し出したんだよ。そしたらどうだい。正に春が来る、ってときにしか売ってないって言うじゃないか。そん時はもう夏になっちまってて、次の春を待つしかなかった。そりゃあ待ったさ。秋の神が踊り狂ってる間も、雪女が樹氷の彫刻を乱立させる間も、ひたすらね。そんで春告精がもうすぐ飛び出すだろうという時節になって、ようやっとこの『白百合』が出たって知らせがあってね。いやもう飛んだ飛んだ。射命丸より速く飛んだ。そうしてやっとのことで辿り着いた一杯の、またその美味さといったら。いい歳して思わずおいおいと泣いちまうくらいに骨まで滲みたよ。まぁそれ以来、私にとっちゃ春はこいつを呑まなきゃやってこないってわけだ」
このくらいである。
途中から目が据わった萃香は、正直ちょっと怖かった。
「……まぁ凄さは分かった。実際美味しいしね」
「確かに、とても飲み易い。私はあまり強い方ではないんだが、これはスイスイいけてしまうな。後が怖い」
「ってオイこら! 人が喋ってる間に二人とも呑み過ぎだ! もっと味わって呑め! 酒に失礼だ!」
「どの口で言うのよ、それを」
「あぁぁぁぁ、もう半分しかない……。私まだ一杯しか飲んでないんだぞ。貸せっ!」
言うが早いか、萃香は一升瓶をひったくった。
「話の長いあんたが悪いんでしょうが」
「うるさいっ! これ買ったのは私なんだぞ!」
「まぁまぁ伊吹殿。手酌もなんだし、ここは私が一献」
「へっへーん。騙くらかして奪おうってハラか。その手には乗らないよーだ。あんたらが呑んじまった分くらいは呑ませてくれないと割に合わん」
さっきまで据わっていた目が今度は濁りきっている。
おぉ、なんて卑しい鬼なんだ。正々堂々という信条はどうした。
私と慧音は、思わず顔を見合わせた。
「ふむ、やはりこれ一本では足りなかったか。私もオムライスだけじゃなくて、焼酎の一本も持って来るべきだったかな」
「いいわよ、私が出してくるわ。いい梅酒があるのよ」
「おぉ、それは楽しみだ。悪いな」
「オムライスって注文聞いてくれたお礼よ……。ん?」
あれ、今ピーンときた。なんかよく分からないけどきた。
何だろ。ちょっと面白いことが起こりそうな気がする。
具体的には、萃香がひどい目に合いそうな予感がする。
「ねぇ萃香。その場所危ないかも。ちょっとこっちおいでよ」
「霊夢もこいつを狙ってるのか? だが残念だねぇ。こちとら人間とのハラの読み合いは慣れっこなんだ。簡単に引っかかってやるような萃香様じゃあないね」
「あぁ慧音。そこのお皿、もうちょっとこっちに寄せて」
「ん? こうか?」
ひとり抱えた酒を注ごうとしている萃香の周りから、大皿が退けられた。
「けっ。肴を奪って篭城作戦ってか。甘い甘い、私がそんなんで諦めるわけが ――」
「萃香、私警告したからね。どうなっても知らないからね」
「……霊夢、それはニヤニヤしながら言う台詞ではないな」
もうすぐ何かが起こることは確かだけど、それが何かまではまだ分からない。
酒を取りに行くのは、それを見届けてからでも遅くはないだろう。
「ん、ほら」
「お」
少しずつ、聞こえてきた。
縁側の真正面の闇の彼方から、これは風を裂く音だ。
腕の中の瓶に気を取られている萃香は、まだ気付かない。
「あの、伊吹殿。本当にそこからどいた方が……」
「なんだい先生。ちょっとしつこいよ」
不意に剣呑な光を宿らせた眼で、萃香は立ち上がった。
「そんなに欲しけりゃ、また弾幕で決めようかい。今度はこの前みたいにゃあいかない。弱点に対する対策だってちゃあんと考えて――」
「ぁぁぁぁああああ危ないそこ退いてええええ!!!!」
びゅおん。
一陣の暴風が、外から内へと吹き抜けた。
「……………………え」
居間に目をやる。
そこには、両足とも前に投げ出してその勢いを殺さんとした、一羽の鴉天狗が転がっていた。
幸いにも、その身体はちゃぶ台を弾き飛ばす寸前で止まっている。
もっとも勢いをモロに受け止めた畳は、焦げて煙を上げていたが。
「…………これはまた、見事なスライディングだ」
慧音が唸った。
スライディング? あのポーズのことだろうか。
「あたたたた……。危なかったぁ」
天狗がその身を起こした。二房にまとめられた髪が揺れる。
「いやー、久しぶりに飛び回ったもんだから、つい加減を忘れちゃったよ」
「最近のブン屋は、アポなしで人の神社に特攻をかけるの?」
「そう言わないでよ霊夢さん。足で取材する楽しさに目覚めたばかりなんだし、多少は大目に見て。ね?」
「その前に畳は直していきなさいよ。あとほら、スカートめくれまくり」
「いやんエッチ」
裏返っていたチェックの短いスカートが、ぱんぱんと払われた。
「えぇっと、どちら様かな?」
「これはこれは人里の守護者殿。いや、貴女がそこな鬼殿と勝負をなされたと聞きまして。これは面白い記事にできそうだと文字通り飛んできた次第。おっと申し遅れちゃった。私こういう者です」
肩から提げたポーチの中から、彼女は名刺を取り出す。
『
花果子念報
クレヴァー編集 兼 ビューティ校正 兼 プリティ営業 兼 ハイスピード販売
そしてパーフェクト記者
姫海棠はたて
』
「ほう。先に言っておくが、新聞なら間に合ってるぞ。妄言新聞よりよっぽど信用のおけるヤツを取っていてな」
「あら、大手メディアしか信用しない方? アタマ堅くなっちゃった大手新聞に先んじて、新進気鋭の弱小新聞が真実をスッパ抜くことなんてザラじゃん。これだから古いひとは困るわー」
やれやれ、と言わんばかりに両掌を上に向け、はたては頭を振った。
「いや、たかが弾幕勝負ひとつに真実とか大げさな」
「でも半人半獣が鬼に勝ったのよ? これは真実を詳らかにするべきよ。主に天狗社会のために」
「別に天狗の間でどんなゴシップ記事が流行ろうと知ったこっちゃないわよ」
「まーまーそう言わずに。ぜひぜひ激戦の様子を聞かせてくださいな。歴史は勝者が創るものというし。」
「いや、流石にそういうことを当事者の前では……。あ」
「真実がどうのとか言ってたのはどうしたのよ……。え」
闖入者に引っ掻き回された場の空気に、どよんと冷たく沈んだ別の次元が滲みてくる。
発生源は、萃香だ。
はたての襲撃を、辛うじてかわすことはできたらしい。
だがその手に持っている一升瓶は、そうはいかなかったようだ。
瓶の底あたりが、真一文字にぱっくりと切り裂かれている。その中身は一滴残らずぶちまけられてしまっていた。傷口から零れる液体を、縁側の床板が飲み込んでいく。
天狗が見る間に、言葉もなく青くなった。ぽたぽたと酒の垂れる音に混じって、さぁーっと麦をぶちまけたような音が聞こえてくる。きっと血の気の引く音だ。
「……………………おい」
「はひっ」
哀れなはたての気勢を、萃香は一瞬で削ぎ取った。
「今……お前……自分が何をしたのか分かってるのか……?」
「えー、ちょっと、ちょっと待ってくださいよ伊吹様。こっちにも悪気は……」
「お前のせいで……『白百合』がなくなっちまった……どうしてくれるんだ?」
「ど、どうするって言われても」
萃香がずいと一歩を詰めると、はたてもまた一歩を後ずさる。
しかし、彼女の逃げ場など一体この世のどこにあるのだろう。
順調にテンパったはたては、ついに言ってはならないことを口にした。
「でででも、お酒くらいまた買えばいいじゃないですか。何なら私が出しますから……」
ぴしりと、場に確かなヒビが入った。
「あーあ。やっちゃったねぇこの天狗」
「冥福くらいは祈っておいてやる」
「え、何言ってるの二人と――」
はたては最後まで台詞を言わせてもらえなかった。
轟、と音が聞こえてきそうなほどの闘気が、真っ直ぐに彼女を襲ったためである。
「いい度胸だ鴉天狗。あんたは今、私に正面切って喧嘩を売ったよ」
「ひ……」
「買えばいい……。確かに名案だ。もう買えないってとこに目を瞑ればなぁっ!」
こうなった萃香を止める術は、いくら私といえども持っていない。
こいつらがどこで暴れようと勝手だが、流石に室内でゴングを鳴らされるのは困る。神社倒壊の憂き目に遭うのはもうごめんだ。
なので。
「ほいっと」
「え、ちょ、霊夢さん。そんな人を邪魔な野良猫みたいに……」
「やるなら外でやりなさい、よっ!」
私は襟を掴んではたてを外に放り投げた。
流石、鳥だけあって軽いわね。鴉天狗も骨が中空になってるのかしら。
「ひ、ひどい。助けてくれたっていいのに」
「メンドいからイヤ」
「すまんが、私も擁護はできないな」
「そんなっ! ……ちきしょー、こうなったら」
僅かな一瞬で踵を返し、はたては翼を広げる。
「逃げる!」
「逃がすか!」
しかし空へ舞い上がったはたてを待っていたのは、広範囲にばら撒かれた弾。
「げ! は、早……」
「速いだけで撒けると思ってるなら大間違いだ。私の目が黒い内は、お前を絶対に許さん! 喰らいな!」
≪鬼火「超高密度燐禍術」≫
鬼はその怒りを、しかしどこか愉しそうに宣言した。
墨を溶かした夜の中で、色鮮やかな光の洪水が、強大な意志の下で眩い光跡を残し、消えていく。
「やっぱりこうなるのか。好きだね、伊吹殿も」
「とと、そうだ。こうしちゃいられないわ。お酒取ってくる!」
この間は、私たちの勝負を肴にされたのだ。ちょうどいいからそのお返しをしてやろう。
私は大急ぎで台所までを往復し、瓶と氷とを持ってきた。
そして私と慧音は、暮れてしまった大空のキャンバスを見上げたまま、杯をチンと合わせた。
「うん。こちらもなかなかいけるよ」
「でしょ」
この梅酒、紫が持ってきたんだったか。
色々怪しい賢者だが、酒のチョイスにだけは信頼を置ける。
「いやしかし、弾幕を眺めながらの一杯もオツなもんねぇ。萃香の気持ちも分かるわ」
「教育者としては、子供の前で呑み過ぎるのは控えて欲しかったんだが、な ――」
慧音はそう言って目を伏せた。瞳に映り込んでいた光の乱舞が消える。
「ふ、『教育者』か。私も随分偉くなったもんだ」
「子供教えてるんだからその通りじゃない」
「形の上ではな。だが、今回のことで思い知ったよ。私はまだまだ未熟だ」
弾の乱れ飛ぶ轟音と、響き渡る悲鳴。
はたてはご自慢のヘンな形の写真機で時折弾を消してはいるが、動揺していることもあり劣勢のようだ。
「ひとりの生徒を、あれほどまでに追い詰めてしまったのは私だ。良かれと思ってやったことが、必ずしも良い結果に繋がるわけではないということくらい、知っていたはずなのにな」
「単なるガキの我侭じゃない。気に病むことないわ」
「……そうかもしれない。だが子供を導く者は、それすらも全部受け止めて、成長を見守らなければなるまい」
息をつく間もなく、萃香のスペルが別のものに切り替わる。
赤い流れ弾がひとつ、真っ直ぐ神社に向かってきた。
それは境内に落下する寸前で、火箸を水に突っ込んだような音を立てて消滅した。
「私の代わりに、伊吹殿がそれをやったんだ」
慧音が杯を呷る。
残った酒を一気に飲み干すと、全てを吐き出すように深い息を吐いた。
「……なぁ、私はこれから、どの面下げてあの子を教えればいいと思う?」
「面なんていつも通りでいいじゃない。ていうか、あんた選べるほど面なんて持ってないでしょ」
私が言えたことじゃないけど。
杯に唇を触れ、少し湿らせてから私は続けた。
「慧音の戦いを見てればバカでも分かるわ。心の底から守りたいと思ってなければ、あんなことできやしないもの」
自分の持てる全てを注ぎ込んで、誰かのために戦うなんて。
きっと私には、一生かけても出来ない芸当だ。
「だからあんたは、今まで通りに教えていればいい。餌を貰い続けた雛がその恩を知るのは、餌をやる親鳥になってからだもの」
「…………」
慧音が空を見上げた。
その視線の先では、いつの間にか破顔している人攫いの鬼が、空に波を幾重にも描き出していた。
もはやはたてに為す術はない。波間の木の葉のごとく、ただもみくちゃにされるがままだ。
「あの子は、幸せになってくれるだろうか」
呟く慧音の声は、夜の風に今にも溶け出してしまいそうだった。
「私を憎んでくれたって構わない。私は生徒が幸せに生きてくれるならそれで ――」
その言葉は、多分半分くらいは、慧音自身に向けた言葉だろう。
でも私はイジワルだから、それに答えてやることにする。
「弾幕勝負やろうってやつなんて、みんなおシアワセな連中ばっかじゃない。不幸なやつなんていないわ」
ほら、と私は、半死半生の鴉天狗を指差す。
「あんな風に笑うやつが、不幸せに見える?」
撃墜されるのもそう遠くない運命だというのに、姫海堂はたては、確かに笑っていたのだ。
「……楽しそうだな」
「そうよ。あんたも楽しんでたじゃない。勝負の最中はずっとサドい笑みを浮かべっぱなしで」
「うぇ!? 本当か?」
「冗談よ。でも――」
そう、闇の中でもよく見えた。
慧音と萃香の勝負が付いたあの時。自分の先生が勝利したその瞬間。
「あの子は、笑ってたわ」
決着の瞬間だけじゃない。
昼間の模擬戦のときからずっと、幼い少女はその瞳を、きらきらと輝かせていたのだ。
萃香の弾幕がまた一段と濃さを増す。おそらく、ラストスパートをかける気なのだろう。
はたても少しだけ、動きが鋭くなったようだ。最後の力を振り絞って避けきる気である。
瞬く間に、神社の上空は光舞う海と化した。
流星の降る日でさえ、夜がこれほど眩く輝くことはないだろう。
まさに楽園の空に相応しい、絢爛な夜空である。
そして ――
「……ん?」
楽園。その言葉を思い出したとき、私に正しく天啓ともいえる答えが下ったのだ。
「そうか、分かった」
「何がだ?」
「スペルよ、スペル。私のスペルカード! それが何なのかやっと分かった!」
縁側に、持っていた杯をだんと叩きつける。
「なんだ、簡単なことじゃない! 私のスペルは私が楽しむためのもの! この世を楽しくするためのもの!」
思わず、私は境内に走り出した。
慧音は首をかしげたままだ。
「楽しくって、それが大事なのか?」
「当たり前よ! 私が楽しければみーんな楽しい! 私が楽しくなかったらあれもこれもつまらない! 誰も笑えやしないのよ! だってここは ――」
だってここは、楽園なのだから。
楽園の素敵な巫女が楽しんでいないのならば、一体他の誰が心を弾ませられるというのだろう。
星の光、月の光、そして弾幕の光。
まるで違う色の光を三つも独り占めにして、私は踊った。
テンポもステップも滅茶苦茶だけど、それは確かに世界一愉快なダンスだった。
「意味はよく分からんが、霊夢が楽しいのならばそれでいいんだろうさ」
慧音が笑う。
他人から見て意味が分からなくても、それならそれで構わない。
ただ、私は信じたい。
私たちのスペルに込められた思いが、何も楽しいことなんてないという誰かの絶望を、少しでも薄められることを。
そして自分を見失い闇に迷う人に、その夜が明けるまでの道を、微かでも指し示すことを。
特に萃香のキャラが気に入った
いいなあこういう雰囲気の幻想郷
しかし幻想郷でいう「飛ぶ」「弾幕を撃つ」は、俺らでいう「チャリに乗る」「スポーツする」程度のことなんでしょうかね。
とにかく、人生楽しめたら良いじゃない。はたてはちょいとやんちゃだけどww