霍青娥は詐欺師として二流である。
ふらふらと――目的も無く歩いていた筈なのに、辿り着いたのはそうとは言えぬ場所だった。
見慣れた小さな家。この世に蘇ってからまだ一年も過ぎていないのに見慣れてしまった家。
私はそれだけこの家に通い詰めている。
気づいたら、家の中に立っていた。声をかけた記憶がない。我ながら亡状なことだ、いくら慣れてしまっているとはいえここは他人の家だというのに。ああ、これはまた非礼を咎められるな――
脱力に背を壁に預ける寸前、かたりと響く小さな足音に目を向けた。
「青娥」
やはりこれも見慣れてしまった呆れた眼差し。
深い深い、紺碧の眼の持ち主は我が師にして仙人――邪仙である霍青娥。
見慣れることも見飽きることもないその美貌に暫し言葉を忘れてしまう。
呆けた私に言葉を思い出させたのは、情けないことに己ではなく彼女の皮肉げな声だった。
「幾度結界を張り直しても焼け石に水ですか、豊聡耳様」
彼女は邪仙とはいえ仙人。その棲家は当然世から切り離され閉ざされた異界にある。
この家を覆う結界は只人では気づくことさえ出来ずに追い返される代物だった。
ただ、それは只人であればの話だ。
「あなたの癖は知り尽くしていますから。これでもあなたの弟子なもので」
私は只人ではない。この豊聡耳神子、今も昔も聖人として崇められている。
まあ今現在はその信仰も薄らぎ忘れ去られようとしているのだが……
「師のプライベートを侵す弟子などいるものですか」
皮肉げに笑って彼女は踵を返す。
後は好きにしろという合図。幾度も繰り返した行為は言葉を奪う。
それに聊かの寂しさを覚えながら足を動かす。
勝手知ったる他人の家。いつもの場所に行かせていただくとしよう。
外見を裏切らぬ長くはない廊下を進み彼女の書斎へ。
真っ暗な部屋である。この書斎に窓は無く、入口の横に置かれた小棚の上にランプがあるのみ。
シェードを開け仙術で火を灯す。ぼうと広くはない部屋が照らし出される。
来客用、もしくは芳香用なのだろうか? 書斎の中心にぽつんと置かれた革張りの椅子。
サイドテーブルにランプを置き、机にも書棚にも接していないその椅子に腰かける。
ここに座ると普段青娥が使っているだろうライティングテーブルが遠く感じるのは何故だろうか。
一秒二秒と時が過ぎるにつれそんな益体のない考えも消えていく。
外界から隔てられた結界の中でさらに閉ざされた部屋。
照明器具は小さなランプだけで、その薄暗さが心地よさを増している。
自然、手は己の頭に伸びた。様々な「声」を遮る術の掛けられたヘッドホン。
仙人として蘇ったこの私でも制御しきれぬ「力」の為の安全装置。
そのヘッドホンを外す。結界に隔てられたこの地にはいかなる声も届かない。
何も聴こえない――静かで――心が安らぐ。
「無音」
己の声すら薄闇に溶けていく。
起きながらに眠るこの感覚はあまりにも気持ち良くて、まるで甘い毒のようだ。
ここに浸り続ければ腐るとわかっているのに手足は動かず留まり続けてしまう。
己の能力を疎ましいと思ったことは無い。この力は数多の民の声を聴く為に授けられたもの。
それ故の苦しみならば当然と受け入れた筈なのに、こうしていると心が揺らぐ。
揺らいで、崩れて、変質して、零落れて、己が力を疎ましく、憎く――思えてくる。
ああ、私は独りでは生きられぬ。私が豊聡耳神子であり続ける為には誰かが必要なのだ。
この無音の世界に一人でいたら――緩慢に心が死んでいく。
「ん……」
足音。
戸の開く音。
「――失礼」
求めに応じたかのように欲の声が差し込む。
ただ一人分の欲。小さいとさえ言える声。
「出直しましょうか」
その言葉に振り返らぬまま首を傾げた。
部屋に入ってきたその瞬間から彼女の気配は遠慮がちだった。何故か?
暫し考え――答えに至る。
「ああ、大丈夫ですよ。あなた一人なら耐えられます」
ヘッドホンを外した私が苦しまないか気を遣ってくれたのか。
相変わらず……尊大なようで細やかな人だ。このヘッドホンも、彼女が用意してくれたのだった。
「むしろ話し相手になってほしい。その為に来たのだから」
私の言葉から数瞬間を置き、青娥は歩み寄ってくる。
「私などでよろしいのでしたら」
言って彼女はサイドテーブルにコップを置いた。
……どこか、含みのある間だったと感じるのは考え過ぎだろうか。
からん、とコップが高い音を奏でる。
「氷……」
「外はまだお暑いでしょう?」
水面に氷が数個浮いている。
ありがたい、強い日差しに少々参っていたところだ。
「そうですね。もう秋だというのに」
「毎年『去年より暑い』と思ってしまうものですわ」
「ふふ、私の『去年』は千四百年も前なのですがね」
コップを手に取り、身を背もたれに沈める。
「夏は――苦手だ」
一年で最も命の濃い季節。ありとあらゆるものがその生を謳歌する夏。
比例して欲の声も大きくなり、私の負担は増加する。
それは今も千四百年前も変わらない。否、仙人となりさらに磨かれた能力故に……それ以上。
「豊聡耳様にも苦手なものがあったのですね」
彼女は壁際のライディングテーブルの椅子を引き腰かける。
実際に彼女が座ると、やはりここからは遠い。己が目で見ればより強く感じる。ろくに考えもせず流したあの感覚は錯覚ではなかった。ならば、この椅子は他の客の為でも芳香の為でもなく私の為だけに置かれたものだったのかもしれないな。私から距離を取るための、計算された配置。
「私も万能ではない。苦手なものなど数知れずですよ」
相槌を打って不穏な考えを覆い隠す。事を荒立てる必要もない。
渡された飲み物を一口。これは……緑茶というものだったか。爽やかな苦みが喉を潤してくれる。
「今の世は美味しいものに溢れてますね」
話題を逸らしていく。彼女も争うのは本意ではないのか、笑顔で応じた。
「それはもう。食だけでも当分は退屈しませんわ」
言いながら彼女は笑顔を薄める。それよりも、と告げた時には笑みは消えていた。
「ヘッドホンを外されて大丈夫なのですか? あなた様は――」
からんと鳴るコップを掲げ彼女の言葉を遮る。
微かな敵意を覗かせていながら本気で心配している。いや、この距離は敵意というより警戒か。
矛盾している。自然頬が緩む。なんとも愉快で――可愛らしい。
口元を笑みの形に歪めたまま天を仰ぐ。
「ここは静かです」
彼女から視線を外してもまだ感じられる気配が心地良い。
気配は一つのみ。鳥も獣も近くにはいない。青娥だけを感じていられる。
「君の傍には誰もいない。邪精も悪霊も――普段は身に纏わせ人々を脅かせているのに」
青娥の欲しか、青娥の声しか聞こえぬ空間。
無音に浸るのは恐ろしかったが、彼女に浸るのはその逆だ。
五識が染められ六識に至る感覚。極上の酒に酔う気持ちにも似ている。
「いるのは欲など喚かぬ芳香だけだ。あの子は――今は寝ていますか」
「……はい」
彼女の従者――私兵となるのだろうか? 青娥が邪法で操る死体、宮古芳香。
見栄えの良い道具。体面の悪い玩具。何故そんなものを使うのかと首を傾げた。
どのような関係なのかよく知らない。青娥は何も言わぬし、私も訊こうとは思わない。
ただ青娥と語らうには邪魔だと思うだけだ。寝ているというのならそれまでの話。
容姿が優れただけの無能者などに興味は無い。
私が求めるのは――……
「ヘッドホンの調子が悪いのでしょうか」
思考は彼女の声に中断される。
「何故?」
「静寂を求めていらっしゃるようでしたので……ヘッドホンの術が薄れたのかと」
「君の掛けてくれた術は完璧だよ。適度に欲の声を遮ってくれている」
「……一応、調べましょう。どこか壊れていたら大変ですから」
青娥は立ち上がり、サイドテーブルに置かれたヘッドホンを手に取るとまた自分の席へ戻った。
そのまま彼女は手慣れた様子で見慣れない器具を使いヘッドホンを分解していく。……実を言うと、彼女がどのような術をあれに掛けているのか私は理解していない。いや欲の声を遮るという効果は知っているのだがそれがどういう原理でなされているのかわからないのだ。
仙術をある程度習得したとはいえ私もまだまだ仙人としては新米である。熟練、と言うのが正しいのかわからぬが、千年以上の研鑽を積んだ青娥には遠く及ばない。
ちきちきと金属の立てる硬質な音が狭い書斎に響く。
集中しているのか青娥の欲の声が薄れていく――
「好きですよ」
かりん、と鉄が鉄を削る音。
くく、手元が狂ったか。本当に可愛らしい反応をしてくれる。
「意地の悪い冗談をおっしゃいますわね」
向けられた彼女の眼は冷たく細められていた。
故に、反射的に口を開く。
「冗談ではないとしたら?」
嘘だ。少なくとも先ほどの言葉はからかうつもりで口にした。
だけれどそのような目を向けられたら、そのまま続けることなど出来はしない。
青娥に嫌われるなんて、耐え難い。
「それこそ性質の悪い冗談としか」
「青娥」
細められた眼をまっすぐに見つめ返す。
表情を消し、真摯さを強調する。
「青娥、私があなたを求めていると言ったら……笑いますか」
冗談ではないと通じたらしい。
目は細められたままだったが、その表情は困惑へと変わっていた。
「あなた様には――布都も屠自古もいるではありませんか」
告げられた名に、目を逸らしてしまう。
後ろめたいわけじゃない。青娥を求めることが不義だなんて考えているわけじゃない。
それでも――私が青娥を求めるわけは、布都や屠自古に対する、背信なのだろう。
布都、屠自古。
千四百年前から、私が仙人となるよりも以前からの忠臣。
公私に渡り豊聡耳神子を支え、その死すらも捧げてくれた無二の同志。
されど。
「違うんだよ、青娥」
だからこそ私は、彼女たちではなく君を求めるんだ。
「豊聡耳様……?」
「彼女たちは信の置ける同志です。共にいることも苦ではない――ですが、静寂を求める時は違う……私も彼女たちも互いに求めるものがありそこには滅しきれない欲がある……そしてその欲なる声は、同志だからこそ大きく――重い」
それこそ、許されざる背信だ。
「重い。あの声を嫌悪したことは無い、拒絶しようとも思わない。だけど、重いんだよ」
彼女たちの信頼を一時とはいえ裏切っている。
こんなこと、考えることすら罪だろうに。
「耐えられずに、逃げ出したくなる」
この上なく無様な言葉を吐く。
掛け値なしの本音故になお醜い。
「――豊聡耳様らしくないお言葉ですわ」
そうだろうね。
豊聡耳神子は尊大で、誰にも媚び諂うことなくただ強者として全てを見下す。そこに弱さなんて介在する余地は無い。偶像染みた完全なる王の姿。人々が望む支配者に、その幻想を疵付ける弱さは許されない。そう生きてきたし、それを間違ってるとも思わない。
「だけどね青娥、私も人間なんだ。貴き血を受け継ぎ今また仙人へと至ったこの身なれど、全てが鋼で出来ているわけじゃない。時には迷うし、弱音も吐くさ」
曝け出した心底に、彼女は戸惑っているようだった。
これだけの弱音を吐いたことなんて、数えるほどしかない。青娥の前でと限れば初めてだろう。
弱音どころか弱みを見せたことさえ五指に足りる――戸惑って当然だ。
「幻滅しましたか?」
「いえ……驚きは――しました」
ですが、と彼女は続けた。
「何故私なのです。あの方たちですら――重いとおっしゃるのなら、私などは」
「君の欲は、重くない」
再び向けられる戸惑いの視線。
「君の欲は実に心地良い」
そこで、彼女は強引に表情を変えた。
「あらあら、邪仙の強欲が心地良いとは随分と悪趣味ですこと」
「――――」
彼女は振り回されるのを好まない。それが相手の弱音とはいえ、流されるままというのは癪に障るのだろう。しかし、咄嗟だったとはいえあまりに拙い。普段の鋭さに比べるべくもなかった。
故に切り返しも容易い。
「強欲というには君の欲は可愛過ぎるね」
「本当に悪趣味で」
「認めてもらいたい、己の人生を肯定して欲しい、その溢れる色香などではない理由で求められたい」
青娥の顔が見る見る強張っていく。
「な――」
見縊り過ぎだよ青娥。いくら弱音を吐いたからと言ってこの私相手に油断をするべきではない。
私の能力を忘れたのかい? 私は十人の言葉を同時に聞き分け其々が求める真なる欲を見抜き崇められた聖人。さらには君に仙術を授けられた聖徳道士――豊聡耳神子なのだよ?
「君が仙術を見せびらかすのは関心を持ってもらいたいから。私はこんなに頑張った、私はこんなに凄いことが出来るんだ。褒められたい、認められたい、愛して欲しい」
邪悪に振る舞うことで覆い隠した彼女の欲の本質を暴き晒し言葉にする。
その欲は単純で、純粋で、とても好ましいものだった。
「一見名誉欲のように見えるが、そうじゃない。そんなもの枝葉末節だ。あるいはそう見えるように演じているのかな? だが私には隠しきれない。君の願いは」
紺碧の瞳を見つめる。
「愛されたい。そうだろう? 青娥」
微笑みかける。
「――実に可愛らしい欲だ」
未だ距離を感じるライディングテーブルの椅子に座る彼女を見つめる。
余裕を全て失った青娥。肩を震わせ、その手から器具もヘッドホンも落としてしまっていた。
普段が普段だけに、その姿はひどく嗜虐心をそそる……虐めるのが狙いではないので、自重するが。
「……いつから――」
その声も、震えている。
「いつから、気づいていたのです。いえ、愚問ですね……あなた、は」
「君の考えた通り。初めて出会った頃から気づいていたよ」
彼女がその言動通りの悪辣なる人物であったならとうの昔に切り捨てている。
私を誑かした言葉の裏に、消え入りそうなか細い欲の声があったからこそ私は彼女を重用した。
青娥は邪仙である。しかし悪とはその人物の一側面でしかない。聖人である私が純粋なる善ではないように、彼女もまた純粋なる悪ではない。彼女の本質、彼女の欲……妖艶なる青娥の美しさに隠されたそれは、童の如く清らかな願いだった。
「――私と君は……よく似ているね」
「どこがっ、……私は、あなた様のような聖人ではありません」
荒げかけた声を抑え、彼女は私に背を向けた。
弱々しい拒絶。そこにはもう誰もが知る邪仙霍青娥の姿は無い。
彼女の本質と同じ、今にも泣き出してしまいそうな、幼子に等しい弱さだけがあった。
「身分など関係ないよ。私の欲も君の欲も他者がいなければ成立しえない。私は国を平穏に治めたいと願っているし、君は誰かに愛されたいと願っている。一人では、独りではなし得ない願いだ。そこにどれほどの違いがある? どちらも突き詰めれば、誰かと共に在りたいという単純な欲望だよ」
欲は願いだ。そこに大小も上下も存在しない。
誰だって欲の前では対等なのだ。
「そんなの――あなたは、与える側だから、言えることです」
「もう忘れたのかい? 私は君を欲した。私だって……与えられる側だよ」
「信じられません。あなたほどの力があれば、奪うことだって容易いではないですか」
「私の求めるものは奪うことでは得られない。与えられなければ失われてしまう」
「意味がわかりません。禅問答でもしたいのですか」
「仏教とは袂を別ったつもりさ。布都や屠自古ほど意固地になるわけじゃないけどね」
「なら、言葉にしてください。あなたの言うことが――私にはさっぱりわからない」
君が欲しいというだけのことなのだが、彼女が求めているのはもっと細やかな理由か。
説明するのは聊か気恥ずかしいが……それを言い訳には出来ないだろう。
ただ求めるだけなんて不誠実だろうから。
「そうだね……欲――欲の声。私の能力だよ」
「あなた、の?」
未だ背を向けたまま、彼女は疑問を投げかける。
「ええ、欲の声を聞く私の能力。お恥ずかしながら、私はこの力を制御出来てない。君の作ってくれたヘッドホンがなければ生活もままならない。生きる者は誰しも欲を持ち、その声は大きく複雑で仙人となった私でも耐えられるものではない。しかしそれを否定すれば私は私でなくなる……いわゆる、ジレンマだね」
一度息を吐く。
改めて言葉にすると、あまりの情けなさに泣けてくる。
泣けて当然、こんなの泣き言だ。
「つまり、言ってしまえば縋っているんだ。私がこの力を忌避することなく、その上で安堵を得られるように君を求めている。君の欲なる声を求めている。もし力尽くで君を奪えば……きっと君の欲は変わってしまう。私の求めた君ではなくなってしまう。だから私は与えられる側なのさ。君を奪うなんてことは――出来ない」
彼女の背を見る。
返事を待つ。
そうして返された言葉は「わかりません」という否定だった。
「あなたの願いに、私は必要ありません」
「何故? 私はこんなにも君を求めているのに」
「先ほどから、欲の声に押し潰されると申されているではありませんか。それが私の欲を求めるとはどういう意味なのですか? 欲を聞きたくないのであれば、私が用意したこのヘッドホンは外すべきではないし私の元へ通わずにどこか一人になれる場所を探すべきです」
「それは的外れだよ青娥。無音も確かに心地良いだろうけれど、私は君の欲が心地良いと言っているんだ。欲を聞きたくないんじゃない、君の欲を聞きたいんだ」
まだ言葉が足りないのだろうか。
どうすれば彼女の望むように出来るのか。
欲の声は聞こえるのに正しい対処が出来ない。
こと色事においては、私もまだまだ未熟だ。
「君の欲の前だからこそ、私も素直になれる」
単純な言葉にしても、複雑な言葉にしても届かない。
苛立ちを覚えるけれど、それでも奪おうとは思えない。
もう一度、深く――息を吐いた。
椅子の軋む音。
青娥は立ち上がり、凄艶なる笑みを向けていた。
「――なるほど、話が繋がりました。あなた様の好みは理解できませんけれど、弱音を吐く専門の相手としてこの霍青娥が欲しいと仰られるのですね?」
正確に言えばまだ異なっているけれど……大筋では合っている。
「わかってもらえて嬉しいよ」
疲れた笑みをこぼしそうになった瞬間、彼女は畳み掛けてきた。
「それで、私は如何程の報酬をいただけるのでしょうか」
笑いかけたまま、顔が固まる。
「報酬?」
「はい。恐らくはこの幻想郷でただ一人の適任者。それほどの重責となればそれ相応の報酬はあって然るべき。違いますか? まさか聖徳王が無一文で女を要求するなんて無法な真似はしないでしょう」
固まった顔が動き出す。
笑みの形になろうとしていた顔が浮かべたのは、苦笑だった。
「悪ぶれば私が呆れて帰ると思ったのかい、青娥」
まるで無駄な足掻きにそうせざるを得ない。
「体よく追っ払おうとしているね? 似合わないことをするものではないよ」
無駄だとわかっていたのか、一瞬で青娥は邪悪な笑みを消した。
上手い演技だったよ。欲の声を聞ける私でなければ通じていただろう。
きっと、彼女は失敗するのを承知で演じたのだろうけれど。
「それを察しておられるのなら――」
「君は詐欺師に向いてない。嘘が下手だ、というより……騙したくないと思っている」
弱々しい無表情のまま、彼女は私を見ている。
「それも欲の声で聞いたのですか?」
「いや、私は心が読めるわけじゃない。思考まではわからないよ」
「なら何故言い切れるのです?」
「君が邪仙だと公言しているから」
流石に予想外だったのか、彼女は軽く目を見開いた。
この能力以外で見抜かれるとは思わなかったようだ。
「そんな予防線を張られては騙し難くなるだけだ。利を求め嘘を吐くのに必要な行動ではない――それどころか正反対だよ。騙したくないと言っているも同然だ」
「それは――幻想郷の人妖が、あまりにも騙しやすいから、難易度を上げねばつまらぬだけで――」
「君は本当に嘘が下手だ」
騙したくないと思う詐欺師なんて、二流以下だ。
彼女はその本質通り悪じゃない。悪人に徹しきれてない。
善人とさえ言える――善人な邪仙だなんて矛盾しているけれど。
でも、二流の詐欺師だからこそ、彼女はとても好ましい。
「何故そんなに私を拒むんだい?」
「私は――求められたく、ないのです。求めるだけの方が……性に合っていますから」
「愛されたいと欲しながらその逆を口にする。まったく矛盾している。いや、それでこそ人か」
矛盾。
矛盾。
矛盾。
ああなんて素晴らしいんだろう。
彼女は実に単純で、そして複雑怪奇だ。
鋼よりも強固であり、薄氷よりも脆い。
どれだけ知っても見通せない。どれだけ触れても満足できない。
彼女はきっと、ずっと、私を満たして飢えさせてくれるだろう。
「好意に値するよ」
笑いながら立ち上がる。
そのまま歩み寄り、小柄な彼女を見下ろした。
「くく、青娥、きっと君は天に去ることも地に堕ちることもないのだろうね。君はそのままで永き時を生き続けるんだろう。正だけでも邪だけでもない、君はまさしく人間だ」
そっと、柔らかな髪を指で梳く。
「だから私は君を求める。だからこそ君は我が伴侶に相応しいんだよ」
君の欲は私を押し潰さないだろう。
君が私を飽きさせることはないだろう。
君は、私を独りにしない。
「――勝手に決めつけて。酷い人」
されるがままで抵抗らしい動きは何も見せずに彼女は口を開いた。
「あなたのことが好きだから私のことを好きになれと? そんなの、奪うのと変わりません」
「その必要は無い。君が私のことを好きなのは知っている」
「ブラフですか?」
「いいや真実さ」
そうでなくば奪うのと変わらない。
いかに私が傲慢でも、私を嫌う者を手に入れようなんて烏滸がましい。
幽かにでも彼女の好意を感じ取れたからこそ私は深入りし、手放せなくなったのだ。
「だから強要することがあるとすれば、素直になれという一言だけ」
「…………」
「おや、また嘘をつかれるかと身構えていたのに」
「見破られるとわかっていて嘘を吐くほどお人好しではありませんから」
そんなの、泥沼で足掻いて溺れて、あなたを喜ばせるだけです。
諦観に濁った眼で彼女は言う。
「そうだね。一つ一つ説明して証明して、君を追い詰めるつもりだった」
「本当に、酷い人」
だけどね、と彼女の頬を撫でる。
「余計に君を傷つけなくて済んだのは喜ばしい。これも本音だよ」
ほんの僅かに、彼女の頬が熱くなったのを指で感じる。
だけれど表情は微塵も揺らがない。触れていなければ、気づくことはできなかったろう。
ほらね?
君は単純な欲を持っているけれど、単純な人じゃない。
矛盾した君は、君の言う通りお人好しじゃない。
だから好意を素直に示すことなんて無いだろう。
だから私は隠された好意を察するのに時間がかかった。
こうして告白することに、千四百年もかかってしまった。
「一番喜ばしいのは、この恋が実ったことだけどね」
今度こそ、彼女の頬は熱くなり朱に染まる。
「――追い詰めていることに、変わりはありません」
「大目に見てほしいな。私とて浮かれることはあるんだよ」
愛されたいという彼女の欲なる声が大きくなるのを感じた。
それはとても心地良く、様々な声に疲れた私の耳を癒すように染み渡る。
とても小さな、穢れ無き欲。単純で、明快で、どれだけ聞き続けても苦にもならぬ。
彼女が私に求めることはただそれだけ。為政でも策略でもなく、ただ愛して欲しいと。
青娥。彼女の前でなら私は、聖徳王でなく――豊聡耳神子でいられるのだ。
「ようやく君を手に入れられた」
指で髪を、顔を、愛で続ける。
彼女はむずがるように目を逸らす。
「……ひとつ」
呟くような声。
「ひとつ、お聞かせ下さい。何故……私があなたを受け入れると思ったのですか」
ふふ、素直に受け入れるのはまだ恥ずかしいか。
誰にでも取り入るような真似をしても、その実彼女はプライドが高い。
これもまた矛盾した彼女の魅力。ならば否定せずにそのままの君を愛でよう。
「先に言っておくと、それも私の能力とは関係ないことなんだけどね」
口の端が緩む。
おそらくこれが最後の足掻き。
この言葉を口にすれば、全ての障害は取り除かれる。
そうしたら君は私を満たし、さらなる飢えを与えてくれるのだろう。
「君が私を求めている確信があったんだよ」
そっと顔を近づける。
青娥は逃げず、私の眼を見返していた。
「千四百年」
頬を撫でていた指を顎に添え、少しだけ彼女の顔を上へと向けた。
「それだけの時を経てもまた――私の元へ来てくれたのだからね」
軽く、小鳥がついばむようなくちづけ。
それを、青娥は拒まなかった。
「……勝手な人」
「永い間待たせてしまったね、青娥」
ああ、でも、だからこそ――――
「君の傍が一番心安らぐよ」
神子ちゃんのやさぐれというかくたびれ具合が絶妙な塩梅でたいへん素晴らしい
というか太子が強すぎるw
そら同性でも堕ちるわ~
ニヤニヤさせていただきました。
神子さまと言えば完全無欠の聖人で、青娥にゃんと言えば邪仙だったのでこういう組み合わせは衝撃でした。
いや、でも良いですわ…。青娥の上を行く策士で心理駆け引き上手な神子さまと、抵抗しつつもか弱い青娥。すごくニヤニヤドキドキしながら読ませて頂きました。
洒落た雰囲気が素敵でした。
屠自古カプも捨て難いがこちらも良いな。
受け身な青娥が新鮮で可愛かったです
そして聖徳太子無双が格好良過ぎる
良いものを読ませていただきました!
この二人はもっと絡められるべきですね!
邪仙の仮面の裏に純粋な感情が隠れているのは私の青娥観にもよくマッチする――
と思ったけど、思えばそもそもその青娥観自体、猫井さんの作品に植え付けられたものだったぜ。
ごちそうさまでした。