あれは、ほんに一瞬の油断じゃった。
ワシはこれでも数千年は生きてきた老亀。人間なんぞより、よっぽど生き物として位が高い。
だから驚いた。ワシの庭である森の中を散浮(浮いているから、散歩ではおかしいじゃろ)していたら、虫取り網で捕らえられた時には。
「うわ! なんじゃ、なんじゃ?」
「やった! 亀を捕まえたわ、今夜はスッポン鍋よぉ!」
ワシは耳を疑った。虫取り網を持つのは巫女の格好をした幼い人間。それがワシを捕まえて食材にしようなどと口走っておる。
これはいかん、とワシは慌てたもの。なにせ数千年もの長きに渡り、ワシは人間と争った事など一度もないのだ。だから、こんな子供から逃げる事すらままならん。
そういうわけで、とりあえずワシは誤解を解こうと口を開いたのだ。
「おい、お嬢さん。ワシはスッポンではないぞ」
「え? じゃあ、一体何者よ」
「ワシは玄天上帝亀吉。この鎮守の森に昔から住んでおる、謂わば生き神……」
「こ、この亀、しゃべるぞ!?」
驚きの連続じゃった。まさか普通に会話しとった癖に、唐突にワシが人間の言葉をしゃべる事に驚き、あまつさえ網ごとブン投げおるとは。
哀れ、ワシは近くにあった木の幹に背中から激突じゃ。まぁ、この頼光の兜より固い甲羅が、衝突のショックを大幅に吸収してくれたおかげで、ワシは無事じゃった。いや、無事は無事じゃが、甲羅の中身は結構なダメージを負ってしもうた。ワシは目眩を起こしながらも、喰われては敵わんと逃げようとする。
「まぁ、喋っても喋らなくても、亀は亀よね。つまり食材に変わりはないわ」
恐ろしい事を言いながら、巫女は素早い動きでワシの手足を引っつかんだ。いかんせん、ワシは亀じゃ。スピーディな動きには適応しておらん。
ああ、鬼に捕まった人間とは、こういう気持ちなのだな。と、巫女の腕の中でワシは全身の力が抜けた。ひょっとしたら、ちょっとチビっておったかもしれん。
「わー! ワシは喰っても美味くないぞぉ!」
「大丈夫よ、腹の足しになれば。味なんて気にしない、気にしない」
「ひぇー! お助けー!」
「うるさいわねぇ。こんなにうるさかったら調理も出来ないわ」
ワシが普通の亀じゃったら、掴まれている手足を甲羅の中に引っ込めて難を逃れたかもしれぬ。だがワシは数千年も生きた亀。そのような天敵から身を守るだけの機能など、とうの昔に捨て去っていたのじゃ。――まぁ、もし甲羅に閉じこもれたとしても、そのまま茹で上げられて終わりじゃったし。
そんな絶体絶命の状況でも、しかしワシは冷静かつ聡明であった。ワシは長年の経験から学んだ知識をフル活用して、この難を逃れる術を模索したのじゃ。そう、人間とは自分勝手な生き物。自分が悪人にはなりたくない、常にそう思って生きている卑しい生き物なのじゃ。そこを重点的に責めるしかない。ワシはあらん限りの声を出して叫んだ。
「うわぁぁぁぁー! 助けてぇぇぇぇぇー!」
「うるさぁー、大人しくあきらめなさい」
「わわわ、ワシを料理する時、延々と、言ってやるぞ」
「え?」
「包丁で腹を裂かれつつも、延々と言ってやるぞ。助けを求め、恨み節、遺言、ワシの半生について……語り尽すぞ、血反吐を吐きながら……。そうして作った亀料理。さぞ、美味しく召し上がるのだろうなぁぁぁあ。ぁぁぁあああ! 助けてぇぇぇぇぇぇぇぇえええ!」
「……分かったわよ」
巫女は呆れたように言うと、ようやくワシの手足を解放した。くっくっく、所詮は生まれ落ちて数年の餓鬼よ。ちょろい、ちょろい。数千年も生きたこのワシを食べようなどと、おこがましい。
「ただし、人の家の庭に勝手に入った罪は消えないわよ」
「へ?」
その言葉と同時にワシの身体が再び網で覆われた。頭の中はクエスチョンマークで一杯じゃ。
「はぁ? 何を言っておるのじゃ? ここは数百年前からワシの縄張りじゃし……法的には博麗神社の敷地内だから、博麗の巫女が所有権を持っている土地のハズじゃが……」
「あんたこそ何言ってるのよ。だから、その博麗の巫女が権利を主張しているんでしょうが」
お祓い棒で頭を小突かれたワシは、驚いて目を見開いた。この小娘が博麗の巫女?? 何を馬鹿な。
ワシは今までの巫女とも、いくらか……いや、結構関わりがあった。その時の巫女たちは清らかで謙虚、そして亀を大事にする、人間にしては見上げた人格者たちじゃった。そこへきて、このワシをいきなり鍋の具材にしようとした餓鬼が、自分を博麗の巫女じゃとぉ?
そう思って呆然としているワシに対して、こやつは更なる暴挙に出た。
「命は助けてあげるわ。その代わりに、貴方、私の使い魔になりなさい」
「はぁ? なんでワシがお前さんみたいな小娘に仕えなきゃ……それに使い魔って、巫女だったら普通は式神じゃろ……」
「うるさいわねぇ! 要は私の家来になれって事よ!」
べたん! とワシの背中に何かが貼りつけられた。それが魔除けの御札であると気付いたのは、ワシの全身を激しい電気ショックが襲ってからじゃった。
「あばばっばばばっばば!」
「口答えしたら、こうやって痛い目みるわよ! 動物は躾ないと、言う事聞かないみたいだからねぇ」
「あがが……! うおい、小娘!! いい加減にしないか!」
流石の仕打ちに仏のような心を持つワシですら、怒りが頂点に達したのは言うまでもあるまい。ワシは全身から霊力を漲らせると、小娘の腕から逃れようと仙道術を発揮させようとして……二発目の電撃を喰らった。
「あがががばっばばっびび」
「馬鹿ね。あんたが霊力を貯めるよりも、私が御札を貼る方が早いに決まってるじゃん」
「あぎぎ……こ、小娘が……」
「御主人様! そう呼びなさい、玄爺」
「なんじゃ玄爺って!? ワシには玄天上帝亀吉という由緒正しき立派な名が……」
「長い。却下」
「本名を“長い”で却下するな!」
そこで三度目の電撃が全身を襲った。それがトドメとなりワシの意識は、どこかへ飛んでいってしまった。その間際、ワシはこの数千年で味わった事のない屈辱に歯ぎしりする思いであった……。フェードアウトする視界、自分の肉が焦げ付く臭い。……あ、ちょっと美味しそうな臭いじゃ……。
「おい、玄爺」
「ふがっ」
ワシの意識が戻った時、まず視界に映ったのは巫女の手に握られたチリ紙であった。その“こより”はワシの鼻に挿入されており、明らかにくしゃみを誘発させようという意図がみえみえじゃった。
「ふがふが! おい、巫女よ。何をしておるのじゃ?」
「だって気絶したまま起きないからさ。くしゃみしたら拍子で起きるかな、と思って」
「電撃で気絶させといて、起こし方は随分と子供じみておるの」
「あー、うっさいわねぇ。せっかく助けてやったっていうのに。なんなら起きた瞬間に、自分のダシが良く出た風呂にでも浸かってたかった?」
「悪魔……ま、まぁ、よしとするか」
ワシはひっくり返された身体を、そのまま空中に浮かす。そして先っちょが焦げ付いてしまった白ひげを撫で付けつつ、周りを見渡した。そこは見覚えのある部屋で、畳で六畳ほどの居間。部屋の真ん中にちゃぶ台が置いてある以外は、いたって質素だ。そう、そこは博麗の巫女が住んでいる社務所じゃった。
「ほう、おまえさん……」
「“御主人様”……御札、張るわよ」
「……御主人様は、本当に博麗の巫女じゃったのか」
「嘘をついてどうするのよ。ふふん、博麗の巫女の家来になれた事、光栄に思いなさい」
何を馬鹿な事を……。人間に、しかもこんな幼子に捕まって扱き使われることが、どうして自慢になるだろうか。――そう思いつつ、その時のワシは、如何にして巫女から逃げようかという事だけを考えておった。本当にこの時は、巫女の事が悪魔にしか見えなかったのじゃ。マジで。
「それで玄爺。貴方、鍋になるのが嫌ならば、他に何が出来るのか言ってみなさいよ。その内容によっては待遇を考えてやらないでもないわ」
「何が出来るかって、そりゃワシは数千年の修行によって、様々な陰陽術や妖術などを扱えるようになった亀じゃ。なんなら、御主人様に仙道の指南をつけてやってもよいぞ」
「馬鹿ね。私だって、そんなのはお茶の子さいさいよ。もっと、特別な事は出来ないの? 出来ないんなら、やっぱり鍋にするわよ」
「はぁ……。かといって特別な事なんてのう」
その時のワシは心底参った。仙道やら陰陽道やらの他に、セールスポイントなんてワシにはないのじゃ。だって、ワシは亀じゃから。
そのように頭を悩ませていた時、御主人様から意外な言葉が聞かれた。
「……ねぇ、玄爺。そういえば、あんた。空中に浮かんでるわよね、今も」
「? そうじゃの。それがどうしたんじゃ?」
ワシは首をひねる。巫女だって空を飛べるじゃろうに、亀が飛んでいるのがそれほど珍しいのじゃろうかと。いや、確かに、この幻想郷では他に空を飛べる亀は見ないのであるが……。
「それ、どうやって飛んでいるのよ?」
「どうって、巫女と同じじゃよ。飛行仙を使ってじゃな……」
「飛行仙、あんた使えるんだ」
「……? ……! ……おやぁ?」
ワシは髭を歪ませてニヤリと笑った。なんとなく、その様子で感づいた。そしてようやく見つけた、この悪魔のような巫女の“弱点”を。ワシは今までの仕返しとばかりに、嫌味たっぷりな声色で始めた。
「もしや、“御主人様”。博麗の巫女だというのに、空を飛ぶ事ができないのですかぁ?」
「……そうよ。でも、ちょっと修行が遅れているだけよ。今は飛べないだけ」
「ははぁ。ワシが今まで会った巫女たちは皆、御主人様の歳になる頃にゃ、もう自由に空を飛んでいたものですがなぁ」
「む、昔の人は関係ないでしょ。私、妖怪退治に関しては、今までの巫女で一番すごいって言われてるんだから!」
「でも空を飛べないのでは、妖怪にも、あっさり逃げられてしまうでしょうに……。それでは、このような亀にも助力を求めざるを得ませんなぁ。嘆かわし、ややああああああぁぁぁ!?」
「うるさいわね! 茹で上げるわよ!」
ワシは顔面に飛んできた御札によって、またまた強烈な雷撃に襲われる。それが終わって御札がペロリと剥がれると、そこには悔しそうに顔を歪めた御主人様の顔があった。……そこでワシは、巫女と初めて顔を合わせた気がしたのじゃった。
「玄爺。あんた、今日から私の乗り物になりなさい。それで、一緒に妖怪退治するの」
「やれやれ、仕方がありませんなぁ。でも、巫女殿が今よりも大きくなったら、流石に乗せられませんぞ?」
「馬鹿にしないでよ。それまでには自分で空も飛べるようになるわ。それまでの代用品、使い捨てよ、あんたなんて」
「まぁ、早めに使い捨ててくだされよ。御主人様」
「……博麗霊夢」
「は?」
「私の名前よ。博麗霊夢」
巫女の笑顔が、ワシの目の前にあった。そしてワシは思ったのじゃ――ああ、やっぱりこの子は、博麗の巫女じゃ――と。妖怪に対しても笑顔を振りまく、この幻想郷にしか存在し得ない稀有な破邪であると。
ワシは御主人様の目線まで高度を下げると、右前足を差し出した。これが亀なりの握手じゃ。
「うむ、よろしくじゃ、霊夢殿」
「……“御主人様”」
「へ?」
「御主人様って呼べって、言ったでしょうが!」
「あびびびびびびいばばばば!」
あまりにも理不尽なエレキショックによって、ワシはその日で二回目の失神を起こしたのじゃった……。
◇ ◇ ◇
それからワシの生活は一変した。今までは日がな池の周りを散歩したり、たまに酒を呑んで、のんびりと悠々自適。まさに仙人のような(いや、これは本物の仙人に怒られる堕落ぶりだが)生活をしていた。
だが、御主人様に捕らえられてからの日々といえば、この老体を鑑みぬ過酷な労働環境ぶりであった。
御主人様は里へのお出かけに行く度にワシを呼び出しては、その背中に乗って「ちょっと、お菓子が食べたくなって」とのたまう。まぁ妖怪退治の見回りなどに連れだされるのには、ワシも少なからず使命感があったりして、ちょっとはやる気があったものじゃが。それでも人間一人を乗せて空を飛ぶのは、なかなか骨が折れる事じゃった……。
そんなんで一々、池から呼び出しを喰らうので(背中に貼っつけられた御札が雷撃で呼び出しを知らせてくれる)面倒臭くなった(そして痛みに耐えかねて)ワシは、ついに博麗神社の境内に住まいを移した。御主人様は「福利厚生はしっかりしないと」と言って、タライに水を張って軒下に置いてくれたが、御主人様はワシの事を一体なんだと思っていたのじゃろうか。誇り高き玄天上帝亀吉が、タライの中でプカプカ浮かぶのをよしとするとでも思っていたのじゃろうか? ただ、夏の暑い日などには、よくプールとして利用させてもらったのじゃが。
「玄爺。あんた、何か好物はあるかしら?」
「ワシは蟹に目がなくてのう。幻想郷が隔離されてからは、とんと手に入りにくくなって困る。ごちそうしてくれるのですかな、御主人様」
「蟹……。もっと安い餌じゃダメ?」
たまに親切な所を見せるかと思えば、こんな風である。ワシはもちろん、ご飯を餌扱いされた事に激昂しつつも、御主人様の作る魚の煮付けなどをお裾分けしてもらった。これがなかなか、御主人様は料理の才能があるようで、神社で受け継がれている秘伝の醤油もワシの口に合った。流石に、蟹は滅多にくれなかったのじゃが、ワシの誕生日(ただし御主人様が勝手に決めた)に限っては、どこからか仕入れた蟹のようなものをご馳走してくれた。いや、確かに蟹の味はするのであるが、どうも本物とは違うんじゃ……。一体アレは、なんだったのかのう。
まぁ、そんなこんなで、ワシはしばらくの間は御主人様を“利用”して、それなりに優雅に過ごしておった。といっても、労働に対する対価としては足りないくらいではあったがの……。
「玄爺、何かヤバそうな事が起きたわ」
あの御主人様の一言が、第二の転機じゃったのう。今でこそ巫女による異変解決などは日常茶飯事であるが、あれが御主人様にとって初めての異変解決になったのじゃ。当然、足としてワシも同行することになったのじゃが……。その時、ワシは自分も弾幕の中に身を置くことになるとは、全く想像していなかった。
前にも話したが、ワシは人との争いなどしたことがない。だからお化けだの妖怪だのとの戦いも、無論のこと初めてじゃった。――正直、びびっておった。目の前に迫る弾幕に怖気付いた。……だが、背中には御主人様が乗っている。それを思うと、ワシの身体には不思議な力が湧いてくるのじゃ。そりゃ霊力の事じゃない、何か、もっと違う。そう、あれを人間は勇気と呼ぶのじゃろうか?
それに、御主人様は妖怪退治の天才じゃった。どう動けば敵の攻撃を躱せるのか、ワシに口で教えてくれた。その通りに飛べば、大概は御主人様の予想通りにワシらは難を逃れ、代わりに敵が御主人様の御札に沈んでいく。最初の異変は、その程度の拙い連携じゃった。だが次第に、妖怪退治を重ねるごとに、ワシは御主人様が考えている事を感じ取って、先に自分で動けるようになっておった。人と亀で以心伝心が起きるとは、ワシも長いこと生きておったが、考えたこともなかったのう。ましてや、自分が人間と通じ合うなどと……。
「ねぇ、霊夢がいつも乗っている亀。あれって、一体何なの?」
「あれは家来。うちの庭に不法滞在していたのを取っ捕まえたの」
「ふぅん。今はどこにいるのかしらね」
「さぁ? 軒下で餌でも食べてるんじゃないの?」
異変で知り合った霧雨魔理沙、そして悪霊の魅魔。御主人様には少しずつ、お仲間が増えていった。いや、友達といった方が良いのじゃろう。
特に同じ人間であり年も近い魔理沙殿とは懇意になり、よく神社へ遊びに来て二人で遊んでおった。……ワシは所詮、乗り物。しかも亀で爺。御主人様に友達が増える度に、ワシは御主人様と話す事も少なくなっていった。異変解決の際や魔理沙殿と遊びに行く時の乗り物として――揶揄ではなく、本当にただの乗り物として扱われ初めておった。
だが、それは当然の事であろう。御主人様の年頃で、誰が好きこのんで亀でかつ爺とお喋りして楽しいか。だが会話が少なくなるのに呼応するかのように、妖怪退治におけるワシと御主人様の連携は、より洗練されていった。皮肉な事に、魔界へと旅立った時には二人で一つ。いや、一人と一匹で、一つ。妖怪退治屋としては、まさに絶頂の状態じゃった。そしてワシは、こうして余生を過ごすのも悪くはないと思い始めておったのじゃ。
今までは長生きばかりに気を使い、その為に修行を積んで仙道や陰陽道にも走った。だが、それをこうして実際に使うこと。これが何とも楽しいのだ。――いや、御主人様とでなかったら、ここまでの楽しさは味わえなかったのかも知れない。
「御主人様、亀は万年というじゃろ?」
ワシは久しぶりに御主人様に話しかけた。今日は魔理沙殿が風邪で寝こんでいて遊びに来ないし、魅魔殿も何やら忙しいとみえる。その他の友達も遊びに来ないという偶然が重なり、御主人様は珍しく暇そうに縁側でくつろいでおった。
「お、玄爺。どうしたのよ、急に」
煎餅をパリッと齧りつつ、御主人様は返事をする。最近、どうもお菓子を食べ過ぎじゃなかろか、腹回りがふっくらとしてきた嫌いがある。そんな事を言ったら電撃を喰らうハメになるので、ひっそりと胸のうちにしまっておく。そしてワシは、差し出された胡麻煎餅を頂戴しながら再び口を開いた。
「亀は万年。あれは、亀が万年以上生きるほど長寿な生き物、という意味ではないのです」
「へぇ、そうなんだ。確かに玄爺も、まだ数千年しか生きていないとかって言ってたもんね」
「うむ。“亀は万年”とは……亀が一万年ほど生きると、亀ではなくなるという意味なのです」
「ああ、亀は万年まで生きられますよ、ってこと?」
「そう思って頂いて構いませんな。ただ、万年になれば死ぬ、という意味ではありません」
「はぁ。それじゃ、どうなるのよ?」
御主人様がお茶を飲み干し、急須から再びそこへ湯を注ぐ。「玄爺も飲む?」と言われたが、ワシは前足を立てて「いいえ、大丈夫です」と断ってから続けた。
「亀は万年生きれば、神になれるのです」
「なるほど。亀を卒業して、格が上がっちゃうんだ」
「そう。そしてワシは、それを目標にして長生きに努めてきました」
「そっかぁ。ただの健康マニアかと思っていたわ」
「まぁ、やっているうちに、そういう趣向にもなっては来ましたがね」
軽く笑うと、ワシは空中にふわりと浮いた。ここ数年、毎日のように重い物を乗せてあちらこちらを飛び回っていたおかげか、ワシの飛行仙も大分パワフルになっておった。浮き上がった際の風圧で、御主人様の前髪が揺れる。――煎餅を咥えながらこちらを見上げる御主人様に向かってワシは、亀なりの満面の笑みを浮かべつつ、こう言った。
「ただ……今のワシにとって、この寿命とは、神に成る為のものではなかったと思うのです。……これは、御主人様と妖怪退治をする為に蓄えた、その為の寿命だと。今は、そのように思えるのですじゃ」
「……玄爺」
「これからも、よろしくお願い致しますぞ」
流石にワシも、相手と正面からこーいう事を言うのには赤面せざるを得ない。言ったが最後、ワシは慌てて顔を逸らすと、そのまま鎮守の森の方へと飛び去っていった。御主人様の「玄爺……!」という呼び止めの声を無視して。
ワシは本当に感謝しておった。御主人様と会わなければ、このように扱き使われてエライ目に遭うことはなかった。そして、それと同時に、妖怪退治というワシの人生(正確には亀生)における輝きの時間は得られなかった。ワシは正直に、御主人様と会えて良かったと、その素直な気持ちを伝えた。そして、これからもワシを乗り物として使い、二人で妖怪退治をしていこうじゃないかと、その胸のうちをさらけ出したのじゃ。
家来だのペット扱いだのされていたのは、やっぱりちょっと気に食わない所ではあったが、博麗の巫女を乗せて戦う亀というのも、中々箔がついて良いものだ。そうじゃ、お稲荷様だって荼吉尼天を乗せていたから、あれほどの信仰を集める神になれたんじゃ。本当は、ただの化け狐だった癖に、あの野郎。
そんなワシの言葉を聞いて、御主人様がその時、何を思っていたのかは分からぬ。――ただ、今になって思えば、ワシの言葉は御主人様にとって、ただ辛いものだったかもしれない。それが分かるのに、さほど時間は要さなかった。
「玄爺。私、空を飛べるようになったわ」
その言葉を聞いたのは、あれから数日の後。見事に晴れた、雲ひとつない晴天の日じゃった。
ワシは池の中から顔だけを出し、湖面に浮かんだ御主人様の顔を見た。それは、能面のような無表情じゃったのを、良く憶えておる。
「……そう、ですか」
ワシはポツリと言葉を零した。だが、それは何も考えずに、ただ零れた言葉。その時のワシは、何も考える事が出来ずにいた。数千年も生きてきた癖に、初めてじゃった。――頭が真っ白になるという経験は。
「おめでとう御座います。これで、立派な博麗の巫女ですのう」
「うん。今まで、ありがとう」
「はっはっは。いやぁ、これで、ようやく解放されますなぁ」
「そうね。今までの働きのご褒美に、この池と森での永住権をあげるわ」
「それは良かった。これでもう、スッポン鍋にされる恐れもないですの」
「玄爺は食べないわよ。まずそうだもん」
「はっはっは」
気付いた時には、ワシの顔は水の中に引っ込んでおった。全くの無意識、何も考える事が出来ずに、ワシは水の中に沈んでいた。そして、その時限りで御主人様と別れた。以後、ワシから神社へ赴いた事はないし、偶然に森の中で会うという事もなかった。博麗の巫女と亀の、凄腕妖怪退治コンビは、これで終まいになったのじゃった。
数千年も生きてきた中で、そのほんの数年間だけが、本当にキラキラと輝ける時間じゃった。
◇ ◇ ◇
泥土の中に身を沈めて、ワシは目線を泳がせる。目の前にはバラバラに散った小石の群れ。これはワシが、一年に一個ずつ並べておったもの。つまりは、ワシの年齢を忘れないように付けていた印なのじゃが……それが先刻、どっかの阿呆餓鬼か何かが、樹の枝で池の水をかき回していったせいでバラバラになった。これで、ワシは自分が今、何歳なのかが正確には分からなくなってしまったのじゃ。――多分、六千、いや五千……数千歳。
「あー、死にてぇのう」
よもや人間だけが自殺願望を持つ生き物だと思ってはおるまいな? 亀だって死にたい時くらいあるんじゃ。特に、この数年間はやる事もなく、ただ池の底に沈んで自分の歳が重なっていくのを見るだけの日々。唯一の目標が、万年になって神格を得ること。それが、どこぞの餓鬼のせいで道しるべがなくなってしまった。あと数千年という地獄のような年齢マラソンを、自分が今どこにいるのか分からずに走るのは、まさしく苦行じゃ。
人間でも亀でも、目標なく生きるのは辛いものなんじゃ。目標、目的、そういう何かがあってこそ活力が生まれ、生きる希望が湧いてくる。それがなくては自殺も視野に入れたくなるわい。
ワシは気晴らしに池から顔を出し、しばらくぶりに森の中を散浮(浮いてるのだから散歩はおかしい)する事にした。かといっても、こんな静かな森の中を見て回って、何が楽しいのだろうか。ワシに至っては数千年もの間、腐るほど見てきた光景。いかな名作映画でも千回見たら流石に飽きるじゃろ?
「はぁ。無意味な亀生じゃ」
独り言を呟いて、しかしワシは疑問に思った。そういえば以前のワシは、こうした無味乾燥な生活を延々と続けて生きてきたのではなかったか? そして、それに対して大きな絶望など起こさずに、ただ淡々と生きてきたのではなかったか?
そこでワシは少し昔の事を思い出す。何故、ワシは今、こんなにも憂鬱になってしまっているのか。
「御主人様か」
答えはすぐに出た。昔の自分になくて、今の自分が持ってしまっているもの。それは、あの御主人様と一緒に戦ってきた数年間の思い出なのじゃ、と。――昔は知らなかったのだ。妖怪たちを退治するという目的を持ち、(主に乗っていた人が)暴れまわっていた日々。その楽しさ、充実感。だがそれを知ってしまった今では、ただこうして神になるのを無為無策に待つ空虚な時間は、到底、耐えられるものではないのだ。
御主人様の噂は、鳥たちの会話などから少しは聞く。やはり、あの性格のまま、そして博麗の巫女としての才能を活かして、おおいに暴れまわっているらしい。魔理沙殿とも相変わらず仲が良く、競うようにして異変解決に精を出しているのだとか。
「まぁ、今更、ワシには関係のない話じゃがの」
こんなにも独り言を連発してしまうとは、やはり精神的に疲れておるのじゃろうか? とにもかくにも、ワシには最早、御主人様との思い出など関係ないのじゃ。御主人様はワシの事など、とうに忘れておるじゃろうし、空を飛ぶときの道具に過ぎなかったワシは、今は必要とされてはおらん。もし、少しでも必要とされているのならば、否、必要とされていなくとも、少しくらい気にかける気持ちがあるのならば、池に顔を出すくらいはするものじゃろう。だがあれから数年経って、ワシと御主人様は一切の連絡を取っていなかった。顔を合わすこともなければ、声を聞くこともない。噂話に聞くには、年頃の少女らしい外見になっているそうじゃが、実際に見たことすらない。
「……行ってみるかのう」
どうせ暇だし、別にワシが神社にいって悪いという訳でもない。そういう事で、ワシは気紛れから社務所の方へと足を運ぶ事にした。足を運ぶといっても、ここは神社を囲む鎮守の森。ぶっちゃけていうと五秒くらい突き進めば、そこにはもう社殿があった。
「……む、話し声!」
ワシは社殿の裏にある社務所の方から少女のものと思われる声を聞き取ると、地面を這うように低空飛行をして、見つからないようにひっそりと声の方へ向かった。余談じゃが、若い頃のワシは衣紋坂をコレで突っ切って、若いおなごの袴の中をコッソリ覗く技術に長けていた。その隠密性が、こんな所で役に立つとは。
裏手の方から回りこんで社務所に近づくと、先程の声がより鮮明に聞こえてくる。それは、どうやら二人の少女による会話のようじゃった。
「馬鹿ねぇ。そんなの、妖精か何かのイタズラに決まってるじゃん」
「おいおい、いいのか? それじゃあ、私が調査して先に異変を解決しちまうぜ?」
縁側に腰掛けて語る少女二人は、こちらに気付いておらぬようだった。ワシは死角をついて気付かれぬよう、その縁側の下へ潜り込む。そして地面に足をついて、さらに近くへ寄ってみた。そうして、ようやくはっきりとその姿を目にする事が出来た。
「ふぅん。そんなに言うなら、私も行ってみようかな」
「へへ、そうこなくっちゃあ。それじゃあ、早速行こうぜ」
白黒の服を着た魔法使いのお嬢ちゃん。これはまさしく、霧雨魔理沙殿。いやはや、随分と立派に可愛らしく成長したものじゃ。見た目は、あの頃とあまり変わらないものの、その身に纏う魔力は確実に力強さを増している。その事から推測するに、昔からの勤勉さも、変わってはいないようじゃった。
そして、湯のみを啜りながら魔理沙殿の話を聞く巫女。それは、どう見ても、御主人様だ。紅白の衣装は変わらないものの、その意匠はなかなか凝ったものに変わっている。それにあの頃と比べるとほっそりとして、やはり成長した少女といった印象じゃ。見た目には霊力の成長振りなどは分からない。ただ、そのお茶を飲む所作だけでも、やはり魔理沙殿のような普通の人間とは一味違う、隙の無さを感じさせる。
「お、亀だ! 亀がいるぜ!」
「ぐっ!?」
不覚。二人の成長振りに見とれていたワシは、魔理沙殿がこちらを覗き込むのに気づかずに、その姿を見られてしまった。御主人様がその声に続いて、素早くこちらを覗き込み、ワシは彼女と目が合ってしまった。
「亀……」
「…………」
ワシはあえて、喋らなかった。数千年も生きといて大人気ないと思うかも知れないが、これはワシの意地じゃった。こちらが「御主人様」と喋れば、それは何か、負けのような気がしたのじゃ。出来るなら御主人様の方から「玄爺、久しぶりね」とでも声を掛けて欲しかったのじゃ。
「霊夢、亀だぜ亀。……あれ、なんか、亀っていうと記憶にひっかかるな……」
「…………」
「ええ、亀ね。裏の池から迷いこんできたのかしら?」
ワシは、その言葉を聞いた時。愕然とした。
御主人様は、ワシの事を完全に忘れてしまっておるのか。っていうか髭が生えている亀を見て、その薄いリアクションはないじゃろ、魔理沙殿も。――とにかく、ワシはこうなった以上、意地でも言葉を発する事など出来なくなってしまった。押し黙るワシを尻目に、御主人様と魔理沙殿はすっくと立ち上がる。
「うっし、それじゃあ例の場所に行きますかぁ」
「ねぇ魔理沙、この異変。勝負にしましょ? 負けた方が何か奢るの」
「お、いいぜ。じゃあ私が負けたなら、今晩のディナーに招待してやる。ちょうど、シチューを作りすぎたんだ」
「それ、余りモノを処分したいだけじゃないのよ」
二人は楽しそうに喋りながら、歩みを進める。その後姿が、ワシの視界の中で少しずつ小さくなっていく。自然と二人の話し声も、小さく聴こえづらくなっていく。否、物理的な理由だけでなく、ワシの聴覚が何やらおかしな事になっておった。今のワシは視界がクラクラと揺れ、口は固く閉じて、耳は遠くなって、ただの亀に成り下がっている。いや、亀以下である。置物だ。軒下に忘れ去られた置物がお似合いだ、今のワシには。
「文句言うなよ! じゃあ、霊夢は何をご馳走してくれるんだ?」
「私? そうねぇ」
二人の足が、地から離れた。ああ、さようなら御主人様。改めて、貴方とは今日でお別れです。こちらの記憶の方からも、出来ることなら御主人様を消したいものです……。ああ、死にたい。
いっその事、あの時の楽しい妖怪退治の記憶なんか、最初から持たなければ良かった。そうすれば正しく仙人のように、苔が生えるまで池の底でじっと万年が経つのを待つ事すら、苦ではないのに。そうだ、竹林に住む医者に言って、記憶を無くす薬でも作ってもらおうかしらん。それとも、どこぞの仙人に弟子入りして、解脱のコツでも教えてもらおうかな。はあ、死にたい。
「今晩は、スッポン鍋をご馳走してあげるわ」
その声だけが、妙にハッキリとワシの耳に届いた。その途端、ワシの目はしゃんと物を写し、口はぽっかりと開き、耳は明瞭に音を拾うように戻った。慌てて御主人様の後ろ姿に目をやるが、彼女と魔理沙殿は何ごとも変わりなく、これから解決する異変へと向かっていく様子だった。
「なんだよ、それ。もっと良いご馳走にしろよぉ」
「やれやれ、スッポン鍋は十分立派なご馳走じゃない。シチューよりは、よっぽどね」
以降の会話は空のかなたへと静かに消えていった。ワシは軒下から這いでてくると、空を見上げる。今日は寒さに似合わず、晴天であった。雲ひとつない青空、美しい空だ。ワシは髭を左前足で、ちょいと撫でてから、一つ零した。
「気をつけて、いってらっしゃいませ。御主人様」
◇ ◇ ◇
それからというもの、ワシの池に定期的に蟹が放り込まれるようになった。ちゃんと細かく刻まれていたり、時には煮付けて味を仕込まれたものまで、とにかく蟹が放り込まれる。ワシはありがたく、そのご馳走をほうばっている。そして目の前に並ぶ数千の小石を眺めながら、今日も蟹が放り込まれるのを楽しみにしておる。
ワシと御主人様が、再び顔を合わせて喋る事が出来るのは、お互いが、もう少し大人になってからじゃろうな。それも楽しみである。もぐもぐ。
日本昔話みたいでほっこりします。
ちょっとしたきっかけなんだろうなぁ、こういうのは。
子どもな二人が微笑ましく、可笑しかったです。
玄爺も再登場しないかな
良い亀と巫女ですね……。
素知らぬ顔をしてすれ違いに行くだけの関係も良いものですね
そして2人(?)の表に現れない心の交流に泣いた。