第2章のあらすじ:にとりにぶっかけられた。
【第3章】
本日もカラッと快晴。枝葉の擦れ合うゆらぎの音に、遠くに響く滝の音・・・に混じる、白狼天狗の叱責の怒号。風を切れない天狗たちのサボる場所なんて皆知ってるのだ。
土踏月が始まって数日。『文々。新聞』は溜めていたネタを使って、ペースを落とさず第2号の発刊となった。ちなみに、ペースは次から落ちていく予定。
『では、いってまいりまう! 文おねぇちゃん!』
「・・・ちゃんと食べきってから行きなさい」
弁当に水筒、麦わら帽子、肩掛けカバンには数部の新聞紙。文と同じ格好だ。お手製の葉団扇を振りかざす姿は、文をいともたやすく悶絶させている。
一番の重労働になってしまった配達。今日はそれを二手に分かれ、分担して行う。山道の危険を考慮して、夜が明けきっての配達だ。
「簡単なルートにしてますからね。しばらくはここをまっすぐ行けば、最初の家が見えます。あとは地図に従っていけば大丈夫ですからね」
あれから毎日、子供を連れての散歩を続けている。今日の配達ルートを覚えてもらう理由もあるし、まぁなんというか、子供の溢れ出るエネルギーというのは、屋内で爆発させるわけにはいかないのだ。窓ガラスのなくなった我が家を背に、諦念の笑顔の文。
悪い妖怪に捕まってはいけませんよ、"にとり水運"は使ってはいけませんよ、と釘を刺す。『絶対に使いません!』と目をつり上げた。悪い妖怪より、あの河童である。
「では、参りましょうか!」
『まいりましょうかっ!』
パシャリ。
記念写真も忘れない。
◆
陽が高く昇り切った。動かぬ体に鞭打って、郵便受けに新聞を入れる。明日はまた激しい筋肉痛だろう。
岩に腰掛け、手拭いで顔をふく。今日は化粧をしていないから、思いのままに汗を拭っても大丈夫。天狗少女たちのすっぴんが拝めるのは、土踏月くらいなものだろう。文は肌のケアに力を入れているので外出にためらいもないが、怠っていた者は配達もできない。恐ろしい話だ。・・・はたては大丈夫だろうか。大丈夫、彼女は美容が趣味だった。独自で調合もできる程で、彼女といれば四季折々の香りが楽しめたりる。出不精のレアキャラというのも味方して、男性からも女性からも、ある種の神秘的なイメージを持たれていた。口を開けばアレだけど。ハイ閑話休題。
カバンもずいぶん軽くなった。俵のように膨れていたが、それでも普段の配達量よりは幾分か少ない。山の外の購読者には、土踏月前日に急遽"しばらく休刊"の号外を配っておいたのだ。アルバイトが集まっていれば、こんなことには。
一枚の写真を取り出す。両手で水筒を掴み、水を飲む子どもの姿。いちばん最初に撮った、あの子の写真だ。もうこの溺愛っぷり。
今はどのあたりにいるだろうか。道に迷ってないだろうか。お腹を空かせていないだろうか。悪い河童には捕まってないだろうか。いつもなら羽ばたきひとつで確認に行けるそのすべてが、今は何もわからない。
「白狼天狗の千里眼が憎いですねぇ・・・」
あの子のいる方角に目をやる。視線先には、鬱蒼と生い茂る、薄暗い森。あの子の様子をうかがい知ることはできない。・・・たまらず、膝に突っ伏した。人間は暗闇に対してネガティブを感じると聞いたが、どうやら人間だけではなかったようだ。
早く配達を終わらせて、手伝いに行かなければ。そう思って空を見上げた瞬間。ビュウッという風切音とともに、白狼天狗の影が一つ通り過ぎた。遅れて、ビュウビュウと空を切る白狼天狗たち。
あまりに見慣れた哨戒任務の姿に、今が土踏月であることを思い出すのに数瞬かかった。
"哨戒任務中の飛行は、緊急時のみに制限される"
心臓が強烈に縮んだ。飛んでいく先は、あの子のいる方角。
「何だっていうのよ・・・ッ!!」
恐怖の表情を隠しきれないまま、地面を蹴る。白狼天狗たちに混ざり、翼を広げた。
◆
白狼天狗と鴉天狗。警察と報道の関係にある二者の並行飛行は、別に不思議なことではないのだが、今は土踏月。鴉天狗の飛行は、いかなる理由にあっても制限されている。
それを心配してか、飛行しながら、文の方をいぶかしげに見る白狼天狗たち。
「罰則なら後で聞きます! あちらで何があったんですか!」
烈火のごとく切迫した文の様子に、少し困惑したように顔を合わせる白狼天狗たち。苦笑いも見える。
他人の一大事に軽薄な・・・! だがその理由は、すぐに解明することになる。
「あ、文さん!」
現場に到着。数人の白狼天狗の中から、聞きなれた声がかけられる。
「椛! なにがあったんですか!」
キョロキョロとあたりを見回す文。道や樹木が荒らされている形跡はないが、唇を噛む。あの子の配達ルートに指定した道だ。
「人間がいませんでしたか!? 小さな子が・・・!」
「えっと・・・今ちょうど、文さんを訪ねなきゃね、と話してたんです」
困ったような笑顔で、後ろを見る。椛の背後から顔を出した、小さな影。見紛うことのない、涙目で顔をゆがませた、あの子の姿だった。
「あっ・・・は・・・」
『文おねぇちゃあん!!』
ガシッと文にしがみつく、数時間ぶりの我が子。頭をなでながら、そのあまりのいつも通りっぷりに、安堵のあまり、その場にへたれこむ文。
「"人間が一人うろついている"と情報が入ったんです。でも来てみれば子どもで、カバンには『文々。新聞』が数部。文さんの言ってた"お手伝いさん"かと思いまして、お話を聞いて保護したんです」
「あのですねぇ・・・!」
放心気味で話を聞いていた文がワナワナ震えだしたかと思うと、子どもの首から下げていたものを掴んで激昂した。
「このタグ! ちゃんと上に申請して許可を得た証です! 情報伝わってないんですか! 事情聴取するやつがありますか! それに、あの緊急発進! 誰が見たって大妖怪の襲来でしょう!」
「そ、それなんです。こんなに大挙して押し寄せるものだから、怖がっちゃって・・・。どうしてこんなに?」
近くを通りかかっていた椛ひとりで対処できる程度の、今回の事案。応援要請の合図も出していない。
困ったように周りを見る椛に、困ったように顔を見合わせる白狼天狗たち。どうやら、久しぶりに空を高速飛行して風に当たりたいと、緊急事態を利用して涼をとらんと企んだ者の集まりだったみたいだ。
椛も困っちゃう、周りも困っちゃう、サボりはこまっちゃんの始まり、困ってしまってわんわんわわ~ん、などと言ってる場合ではない。
・・・椛は比較的無実だが、別の理由で困っていた。
「・・・さーあ! 手加減してあげるから、本気でかかってきなさい、あなたたち!」
「もう怒ってませんか、それぇ!?」
とばっちりを受けるから。
◆
結局、文の飛行については『情状酌量の余地あり』として、執行猶予となった。上層部も例外を易々と認めるわけにはいかないのだろう、まったくのお咎めなしとはいかなかった。サボりの白狼天狗たちのことは、知らない。
これには『上層部の伝達ミス』という意味も隠れているし、なんと『面倒だから』という意見も込められていた。上層部の中にも、土踏月を不便だと思っている者はコッソリいるみたいだった。
人間一人だけで遣いに行かせる奴があるか紛らわしい、との声も出ていたが、文の口八丁手八丁に丸め込まれた。
「今度からは『白いモフモフも悪い天狗だ』と教えなければなりませんねぇ」
「そ、それは勘弁してください」
西の空はもうすっかり茜色。沈んだ夕日の名残を受けてぼんやり陰る山道に、夜の虫たちの旋律が響き始める。こんなに静かでゆったりとした帰り道があることを、天狗たちは知らなかった。
残りの新聞配達を終えて、帰路に就く文と椛。文の背には、寝息を立てる子どもの姿。今日も目一杯の大冒険だった。
かわいい寝顔ですね、と子どもの頬をつつきたがる椛。初対面の子どもも椛に寄り添っていたとおり、人妖問わず、なにかと子供に慕われやすいのだった。天使だから。
「もうこの子の噂は広まってると思ってましたけどねぇ」
「多分みんな知らないんじゃないでしょうか。私はあの女子会で知ってましたけど、まさか小さい子ひとりだったなんて・・・」
噂は人づてに伝わるもの。翼を失って、互いに出会わなければ、伝わるものも伝わらなかった。この子がいなければ、土踏月の間は椛にも、にとりにも会うことはなかったかもしれない。
「お世話、大変じゃありませんか? 困ったときはいつでも駆けつけますよ。むしろ、こちらからお伺いしてもよろしいですか?」
「あなたが大変でしょう。時間を合わせるのも難しいでしょうに」
「人間がいるところには、巡回しなきゃですね。悪さをしないように、ご本を読んであげなきゃ」
そう言って、人差し指を口に当てる。なかなかの不良天狗だ。サボり癖のある白狼天狗の中でも、椛はまじめだと思っていたが。
「・・・根を上げたんですね」
「もう歩くの嫌です・・・」
心底疲れた顔だった。
しばしの沈黙が流れる。
"人間がいるところには、巡回しなきゃですね"
冗談言葉ではあろうが。本当に些細な言葉なのだと思うが、やけに耳に残ってしまう。
「・・・やっぱり、椛からしてもおかしいですか?」
「何がですか?」
後ろを目でさし示す。あぁ、と文の言わんとすることを理解した椛。・・・同時に、言わなければいけないことも理解した。
「えぇ、おかしいです」
予想外の即答に、ズキリと胸が痛む文。
「ほら、その表情。いつもの余裕はどこにいったんですか。本当にお疲れなんですね」
「当たり前ですよ。今日もいろいろあったし、余裕なんてありませんよ、えぇ」
「そうだとしても、文さんのそんな表情は見たことありません。不安に今にも押しつぶされそうな顔。文さんともあろう方が、他人の評判が気になるんですか」
「・・・あのねぇ椛。評判を気にするのが天狗記者なの」
「嘘ですね。文さんに限っては違いますよ。誰に何と言われようと、自分のやりたいことに堂々と向き合う。それを普段から身をもって教えてくださっているのは文さんです」
「・・・えぇ、向き合ってきましたよ! 今日だって、あなた達や上層部の連中を言い負かす勢いで噛みついてやりましたよ! ですがね、今日の騒ぎも大元をたどれば"私のせい"に行き着くんです! 私がこの子を一人で配達に出したから! 私が白狼天狗にこの子のことを伝えなかったから! 私が、この子を連れてきたから・・・!」
勢いに任せて、留めていた胸中をぶちまける。悔しさにつりあがる目から、一筋の涙がこぼれた。
自分が面白いと思うことをしたい。しかし、周りが迷惑を被るのでは、それはただの傲慢になってしまう。それだけではない。
「この子が恨まれたら・・・危険が及ぶようになったら、全部私のせい。そうなったら、もう一緒になんていられないよぉ・・・」
たくさんの仲間たちに迷惑をかけたばかりか、強い言葉まで浴びせてしまった。その恨みの矛先が、今後、罪のないこの子に向くかもしれない。大切なものを守るためにいつも以上に我を貫いた結果、取り返しのつかないことになってしまった。
立ち止まって顔を伏せる文。背負う小さな宝物から、大きな重圧がのしかかる。後悔、自責、謝罪、不安、恐怖・・・。様々な呵責に苛まれる中、背中に伝わる温もりだけが文の心を支えていた。
その温もりが、もぞもぞと動く。
『むぇ・・・文おねぇちゃん・・・?』
起こしてしまった。声を自制することもできていなかった。
泣いているのを悟られないため、動けないでいる文。代わりに椛が子どもの頭に手をやりながら、子どもに話しかける。
「文お姉ちゃんが『ごめんなさい』って謝ってますよ。どうしよっか?」
問いかけに、パタパタパタ。握りしめていたお手製葉団扇を振る。椛としていた"文おねぇちゃん護衛哨戒ごっこ"だ。
文おねぇちゃんはボクが守る、そう訴えているようで。小さな人間の子が、大の天狗を守る、何もおかしいことはないんだよ、そう慰めてくれているようで。
むにゃむにゃと寝ぼけ眼の子ども。なでられているうちに、再び寝息を立て始めた。
「よかったですね、文お姉ちゃん。・・・価値観は人それぞれ。何がおかしいことがありましょうか。元気を出してください」
俯いたまま、歩を進めた。
◆
「今日は一緒に寝ましょうか」
家に帰りつき、ご飯を食べて、おふろにも入った。寝るには少し早いが、寝床ももう準備した。『体が疲れているから、考えも暗くなるんです。とりあえず休むことからですよ』とは椛のアドバイス。哲学書のお墨付きだとも。
文からの提案に、目を見開いて驚愕の顔を見せる子ども。いちいち反応が大きい。
『ボクはもう子供じゃないのです! 一緒に寝るのは赤ちゃんのすることです!』
「子供です、あなたは! えいっ!」
『わぷっ!』
バサッ。薄手の毛布で子どもを包み込み、ベッドに連行する。鮮やかな手つきで照明も消し、そのまま一緒に倒れこんだ。室内は星明りだけの暗闇に包まれ、子どもはもう観念するしかなかった。
『なんで今日、添い寝ですか?』
帰り道の一部始終を知らない子ども。知ってても分からないかもしれないが。
「今日は特別に頑張りましたからね。ご褒美に、抱き枕の刑です」
『ひえぇ・・・。じゃあ文おねぇちゃんは、お母さんの刑です』
「なんです、それ?」
『こもりうたを歌ってください』
「あややや、弱りましたねぇ・・・」
子どもを抱きかかえながら、苦笑い。原のカラスはしゃがれ声、お山のカラスは歌上手。とはいうものの、歌に自信がある方でもなかった。笑われはしないだろうか。
頭によぎったのは、鴉天狗に伝わる一般的な子守歌。
それでは・・・、と目を閉じてみる。不思議と、抱く腕に力がこもり、愛おしさに心が満たされた。なんだか本当にお母さんになったような。
――おおきくなれば墨染めの 織(おり)をまとわせ旅させん
どうかそれまで寝んころり そらのお星をかぞうまで――
我が子が大きくなるまでの時間を惜しむ歌。
立派になるまであなたを守る籠となるから、それまで私のそばにいてほしい。そんな歌詞の解釈が、空気を震わせ、文の心に伝わってくるようだった。
「・・・ホントに寝るやつがありますかね」
気づけば、寝息を立てている子ども。
星明りにぼんやり照らされる部屋。窓から入るそよ風。響き渡る優しい歌声を、文の胸の中で聞く。眠れないはずがなかった。
その愛らしい温もりを感じながら、安心しきった小さな寝顔を、優しい気持ちで静かに眺める。眠くならないはずがなかった。
満点の星空の下。
ちょっと騒がしかった妖怪の山は、今日も静かに夜を更かせていく。
【第3章 完】
【第3章】
本日もカラッと快晴。枝葉の擦れ合うゆらぎの音に、遠くに響く滝の音・・・に混じる、白狼天狗の叱責の怒号。風を切れない天狗たちのサボる場所なんて皆知ってるのだ。
土踏月が始まって数日。『文々。新聞』は溜めていたネタを使って、ペースを落とさず第2号の発刊となった。ちなみに、ペースは次から落ちていく予定。
『では、いってまいりまう! 文おねぇちゃん!』
「・・・ちゃんと食べきってから行きなさい」
弁当に水筒、麦わら帽子、肩掛けカバンには数部の新聞紙。文と同じ格好だ。お手製の葉団扇を振りかざす姿は、文をいともたやすく悶絶させている。
一番の重労働になってしまった配達。今日はそれを二手に分かれ、分担して行う。山道の危険を考慮して、夜が明けきっての配達だ。
「簡単なルートにしてますからね。しばらくはここをまっすぐ行けば、最初の家が見えます。あとは地図に従っていけば大丈夫ですからね」
あれから毎日、子供を連れての散歩を続けている。今日の配達ルートを覚えてもらう理由もあるし、まぁなんというか、子供の溢れ出るエネルギーというのは、屋内で爆発させるわけにはいかないのだ。窓ガラスのなくなった我が家を背に、諦念の笑顔の文。
悪い妖怪に捕まってはいけませんよ、"にとり水運"は使ってはいけませんよ、と釘を刺す。『絶対に使いません!』と目をつり上げた。悪い妖怪より、あの河童である。
「では、参りましょうか!」
『まいりましょうかっ!』
パシャリ。
記念写真も忘れない。
◆
陽が高く昇り切った。動かぬ体に鞭打って、郵便受けに新聞を入れる。明日はまた激しい筋肉痛だろう。
岩に腰掛け、手拭いで顔をふく。今日は化粧をしていないから、思いのままに汗を拭っても大丈夫。天狗少女たちのすっぴんが拝めるのは、土踏月くらいなものだろう。文は肌のケアに力を入れているので外出にためらいもないが、怠っていた者は配達もできない。恐ろしい話だ。・・・はたては大丈夫だろうか。大丈夫、彼女は美容が趣味だった。独自で調合もできる程で、彼女といれば四季折々の香りが楽しめたりる。出不精のレアキャラというのも味方して、男性からも女性からも、ある種の神秘的なイメージを持たれていた。口を開けばアレだけど。ハイ閑話休題。
カバンもずいぶん軽くなった。俵のように膨れていたが、それでも普段の配達量よりは幾分か少ない。山の外の購読者には、土踏月前日に急遽"しばらく休刊"の号外を配っておいたのだ。アルバイトが集まっていれば、こんなことには。
一枚の写真を取り出す。両手で水筒を掴み、水を飲む子どもの姿。いちばん最初に撮った、あの子の写真だ。もうこの溺愛っぷり。
今はどのあたりにいるだろうか。道に迷ってないだろうか。お腹を空かせていないだろうか。悪い河童には捕まってないだろうか。いつもなら羽ばたきひとつで確認に行けるそのすべてが、今は何もわからない。
「白狼天狗の千里眼が憎いですねぇ・・・」
あの子のいる方角に目をやる。視線先には、鬱蒼と生い茂る、薄暗い森。あの子の様子をうかがい知ることはできない。・・・たまらず、膝に突っ伏した。人間は暗闇に対してネガティブを感じると聞いたが、どうやら人間だけではなかったようだ。
早く配達を終わらせて、手伝いに行かなければ。そう思って空を見上げた瞬間。ビュウッという風切音とともに、白狼天狗の影が一つ通り過ぎた。遅れて、ビュウビュウと空を切る白狼天狗たち。
あまりに見慣れた哨戒任務の姿に、今が土踏月であることを思い出すのに数瞬かかった。
"哨戒任務中の飛行は、緊急時のみに制限される"
心臓が強烈に縮んだ。飛んでいく先は、あの子のいる方角。
「何だっていうのよ・・・ッ!!」
恐怖の表情を隠しきれないまま、地面を蹴る。白狼天狗たちに混ざり、翼を広げた。
◆
白狼天狗と鴉天狗。警察と報道の関係にある二者の並行飛行は、別に不思議なことではないのだが、今は土踏月。鴉天狗の飛行は、いかなる理由にあっても制限されている。
それを心配してか、飛行しながら、文の方をいぶかしげに見る白狼天狗たち。
「罰則なら後で聞きます! あちらで何があったんですか!」
烈火のごとく切迫した文の様子に、少し困惑したように顔を合わせる白狼天狗たち。苦笑いも見える。
他人の一大事に軽薄な・・・! だがその理由は、すぐに解明することになる。
「あ、文さん!」
現場に到着。数人の白狼天狗の中から、聞きなれた声がかけられる。
「椛! なにがあったんですか!」
キョロキョロとあたりを見回す文。道や樹木が荒らされている形跡はないが、唇を噛む。あの子の配達ルートに指定した道だ。
「人間がいませんでしたか!? 小さな子が・・・!」
「えっと・・・今ちょうど、文さんを訪ねなきゃね、と話してたんです」
困ったような笑顔で、後ろを見る。椛の背後から顔を出した、小さな影。見紛うことのない、涙目で顔をゆがませた、あの子の姿だった。
「あっ・・・は・・・」
『文おねぇちゃあん!!』
ガシッと文にしがみつく、数時間ぶりの我が子。頭をなでながら、そのあまりのいつも通りっぷりに、安堵のあまり、その場にへたれこむ文。
「"人間が一人うろついている"と情報が入ったんです。でも来てみれば子どもで、カバンには『文々。新聞』が数部。文さんの言ってた"お手伝いさん"かと思いまして、お話を聞いて保護したんです」
「あのですねぇ・・・!」
放心気味で話を聞いていた文がワナワナ震えだしたかと思うと、子どもの首から下げていたものを掴んで激昂した。
「このタグ! ちゃんと上に申請して許可を得た証です! 情報伝わってないんですか! 事情聴取するやつがありますか! それに、あの緊急発進! 誰が見たって大妖怪の襲来でしょう!」
「そ、それなんです。こんなに大挙して押し寄せるものだから、怖がっちゃって・・・。どうしてこんなに?」
近くを通りかかっていた椛ひとりで対処できる程度の、今回の事案。応援要請の合図も出していない。
困ったように周りを見る椛に、困ったように顔を見合わせる白狼天狗たち。どうやら、久しぶりに空を高速飛行して風に当たりたいと、緊急事態を利用して涼をとらんと企んだ者の集まりだったみたいだ。
椛も困っちゃう、周りも困っちゃう、サボりはこまっちゃんの始まり、困ってしまってわんわんわわ~ん、などと言ってる場合ではない。
・・・椛は比較的無実だが、別の理由で困っていた。
「・・・さーあ! 手加減してあげるから、本気でかかってきなさい、あなたたち!」
「もう怒ってませんか、それぇ!?」
とばっちりを受けるから。
◆
結局、文の飛行については『情状酌量の余地あり』として、執行猶予となった。上層部も例外を易々と認めるわけにはいかないのだろう、まったくのお咎めなしとはいかなかった。サボりの白狼天狗たちのことは、知らない。
これには『上層部の伝達ミス』という意味も隠れているし、なんと『面倒だから』という意見も込められていた。上層部の中にも、土踏月を不便だと思っている者はコッソリいるみたいだった。
人間一人だけで遣いに行かせる奴があるか紛らわしい、との声も出ていたが、文の口八丁手八丁に丸め込まれた。
「今度からは『白いモフモフも悪い天狗だ』と教えなければなりませんねぇ」
「そ、それは勘弁してください」
西の空はもうすっかり茜色。沈んだ夕日の名残を受けてぼんやり陰る山道に、夜の虫たちの旋律が響き始める。こんなに静かでゆったりとした帰り道があることを、天狗たちは知らなかった。
残りの新聞配達を終えて、帰路に就く文と椛。文の背には、寝息を立てる子どもの姿。今日も目一杯の大冒険だった。
かわいい寝顔ですね、と子どもの頬をつつきたがる椛。初対面の子どもも椛に寄り添っていたとおり、人妖問わず、なにかと子供に慕われやすいのだった。天使だから。
「もうこの子の噂は広まってると思ってましたけどねぇ」
「多分みんな知らないんじゃないでしょうか。私はあの女子会で知ってましたけど、まさか小さい子ひとりだったなんて・・・」
噂は人づてに伝わるもの。翼を失って、互いに出会わなければ、伝わるものも伝わらなかった。この子がいなければ、土踏月の間は椛にも、にとりにも会うことはなかったかもしれない。
「お世話、大変じゃありませんか? 困ったときはいつでも駆けつけますよ。むしろ、こちらからお伺いしてもよろしいですか?」
「あなたが大変でしょう。時間を合わせるのも難しいでしょうに」
「人間がいるところには、巡回しなきゃですね。悪さをしないように、ご本を読んであげなきゃ」
そう言って、人差し指を口に当てる。なかなかの不良天狗だ。サボり癖のある白狼天狗の中でも、椛はまじめだと思っていたが。
「・・・根を上げたんですね」
「もう歩くの嫌です・・・」
心底疲れた顔だった。
しばしの沈黙が流れる。
"人間がいるところには、巡回しなきゃですね"
冗談言葉ではあろうが。本当に些細な言葉なのだと思うが、やけに耳に残ってしまう。
「・・・やっぱり、椛からしてもおかしいですか?」
「何がですか?」
後ろを目でさし示す。あぁ、と文の言わんとすることを理解した椛。・・・同時に、言わなければいけないことも理解した。
「えぇ、おかしいです」
予想外の即答に、ズキリと胸が痛む文。
「ほら、その表情。いつもの余裕はどこにいったんですか。本当にお疲れなんですね」
「当たり前ですよ。今日もいろいろあったし、余裕なんてありませんよ、えぇ」
「そうだとしても、文さんのそんな表情は見たことありません。不安に今にも押しつぶされそうな顔。文さんともあろう方が、他人の評判が気になるんですか」
「・・・あのねぇ椛。評判を気にするのが天狗記者なの」
「嘘ですね。文さんに限っては違いますよ。誰に何と言われようと、自分のやりたいことに堂々と向き合う。それを普段から身をもって教えてくださっているのは文さんです」
「・・・えぇ、向き合ってきましたよ! 今日だって、あなた達や上層部の連中を言い負かす勢いで噛みついてやりましたよ! ですがね、今日の騒ぎも大元をたどれば"私のせい"に行き着くんです! 私がこの子を一人で配達に出したから! 私が白狼天狗にこの子のことを伝えなかったから! 私が、この子を連れてきたから・・・!」
勢いに任せて、留めていた胸中をぶちまける。悔しさにつりあがる目から、一筋の涙がこぼれた。
自分が面白いと思うことをしたい。しかし、周りが迷惑を被るのでは、それはただの傲慢になってしまう。それだけではない。
「この子が恨まれたら・・・危険が及ぶようになったら、全部私のせい。そうなったら、もう一緒になんていられないよぉ・・・」
たくさんの仲間たちに迷惑をかけたばかりか、強い言葉まで浴びせてしまった。その恨みの矛先が、今後、罪のないこの子に向くかもしれない。大切なものを守るためにいつも以上に我を貫いた結果、取り返しのつかないことになってしまった。
立ち止まって顔を伏せる文。背負う小さな宝物から、大きな重圧がのしかかる。後悔、自責、謝罪、不安、恐怖・・・。様々な呵責に苛まれる中、背中に伝わる温もりだけが文の心を支えていた。
その温もりが、もぞもぞと動く。
『むぇ・・・文おねぇちゃん・・・?』
起こしてしまった。声を自制することもできていなかった。
泣いているのを悟られないため、動けないでいる文。代わりに椛が子どもの頭に手をやりながら、子どもに話しかける。
「文お姉ちゃんが『ごめんなさい』って謝ってますよ。どうしよっか?」
問いかけに、パタパタパタ。握りしめていたお手製葉団扇を振る。椛としていた"文おねぇちゃん護衛哨戒ごっこ"だ。
文おねぇちゃんはボクが守る、そう訴えているようで。小さな人間の子が、大の天狗を守る、何もおかしいことはないんだよ、そう慰めてくれているようで。
むにゃむにゃと寝ぼけ眼の子ども。なでられているうちに、再び寝息を立て始めた。
「よかったですね、文お姉ちゃん。・・・価値観は人それぞれ。何がおかしいことがありましょうか。元気を出してください」
俯いたまま、歩を進めた。
◆
「今日は一緒に寝ましょうか」
家に帰りつき、ご飯を食べて、おふろにも入った。寝るには少し早いが、寝床ももう準備した。『体が疲れているから、考えも暗くなるんです。とりあえず休むことからですよ』とは椛のアドバイス。哲学書のお墨付きだとも。
文からの提案に、目を見開いて驚愕の顔を見せる子ども。いちいち反応が大きい。
『ボクはもう子供じゃないのです! 一緒に寝るのは赤ちゃんのすることです!』
「子供です、あなたは! えいっ!」
『わぷっ!』
バサッ。薄手の毛布で子どもを包み込み、ベッドに連行する。鮮やかな手つきで照明も消し、そのまま一緒に倒れこんだ。室内は星明りだけの暗闇に包まれ、子どもはもう観念するしかなかった。
『なんで今日、添い寝ですか?』
帰り道の一部始終を知らない子ども。知ってても分からないかもしれないが。
「今日は特別に頑張りましたからね。ご褒美に、抱き枕の刑です」
『ひえぇ・・・。じゃあ文おねぇちゃんは、お母さんの刑です』
「なんです、それ?」
『こもりうたを歌ってください』
「あややや、弱りましたねぇ・・・」
子どもを抱きかかえながら、苦笑い。原のカラスはしゃがれ声、お山のカラスは歌上手。とはいうものの、歌に自信がある方でもなかった。笑われはしないだろうか。
頭によぎったのは、鴉天狗に伝わる一般的な子守歌。
それでは・・・、と目を閉じてみる。不思議と、抱く腕に力がこもり、愛おしさに心が満たされた。なんだか本当にお母さんになったような。
――おおきくなれば墨染めの 織(おり)をまとわせ旅させん
どうかそれまで寝んころり そらのお星をかぞうまで――
我が子が大きくなるまでの時間を惜しむ歌。
立派になるまであなたを守る籠となるから、それまで私のそばにいてほしい。そんな歌詞の解釈が、空気を震わせ、文の心に伝わってくるようだった。
「・・・ホントに寝るやつがありますかね」
気づけば、寝息を立てている子ども。
星明りにぼんやり照らされる部屋。窓から入るそよ風。響き渡る優しい歌声を、文の胸の中で聞く。眠れないはずがなかった。
その愛らしい温もりを感じながら、安心しきった小さな寝顔を、優しい気持ちで静かに眺める。眠くならないはずがなかった。
満点の星空の下。
ちょっと騒がしかった妖怪の山は、今日も静かに夜を更かせていく。
【第3章 完】
次回も楽しみにしています。
ちゃんと申請すれば人間を雇ってオッケーとか細かい描写が良いですね