ある日、上司から軽い挨拶の後に頼み事をされたとしますよね。
で、その内容が「核弾頭を持ってきてくれないか」と。
自分の耳、もしくは上司の頭の正常を疑いつつ、確認のつもりで「そんなもん何に使うんですか」と聞き返してみると、こともなげに「天井からつるして、その下でパーティーするのさ」と言ってくる。
そうしたら、そりゃ、ねえ。
ダモクレスの剣か、落語の「始末の極意」か、どっちの真似事がしたいにしても、異常なのは上司の頭だったと再認識するしかないじゃないですか。
まあ、長が変なのは今更な話なんですけどね。
だって、ここの長ですよ。ハキダメの代名詞たる「沼」の長。
ここの連中というのは弱い・醜い・ひん曲がった性格と三拍子そろってる。その大勢をまとめるってのを──サリバン先生だって三重苦のヘレン・ケラーが数百人といたら匙を投げてたでしょうに──使命感あっても無理なのを、そんなもの全く抜きでやってるってんですから。お酒の席だから言うわけじゃないですけど、あれはもう酔狂以外の表現はしようがないですよ。
え? 酔狂というならお前も同じだろうって? 紅魔館に単身乗り込んで弾幕勝負を挑んだ上に、目的がコレだったというのは酔狂以外の何物でもない?
いやはや、どうも、その節は失礼いたしました。ご配慮もいただきまして。自分ときたら弱いくせに粋がって、なのに白星まで譲ってもらっちゃってねぇ、トップレベルの実力者から二つも。でもですね、長のネジの外れっぷりときたら、自分などとはレベルが違……おや、メイド長さん、手にナイフのきらめきが見られるんですが、どういうことでしょう。まさかこちらに向けてらっしゃる?
恨まれる覚えはないのだけどなぁ……自分ごときに負けた過去へ屈辱なんか感じるはずないし……だってハンデ戦だったのだし……ああ、でもそのハンデを言い出したのは……っと、違う? じゃあ、何でしょう。
そんな、失礼を働くなんて滅相もない。自分が失礼なのはこの醜い姿で御前にいることだけですよ。見た目はどうしようもないとしても、態度としてはここまで徹底して慇懃無礼に接してきたじゃないですか。あ、それがいけないのか。
はい! ストップ、ストップ! ナイフ投げる前に理由を述べてくださいって! お願いしますよ。ほら、死刑の前にも罪状を述べるのが法治国家の正しいあり方ですから。
ええ、はいはい、お嬢様を爆弾や石扱いしたのがいけないと。あまつさえつるすなどとは何事かと。さようでしたか、なるほど、当主への忠誠を何より重んじるあなたにとって、それは確かに万死に値することでしょうね。
でも、誤解ですってば。さっきのは単純に長に対する愚痴ととらえていただければ幸いです。それ以外のことは俎上に載せてません。載せてたら、自分がまな板の上の鯉だ。
だって、この「沼」の全住人を数十回以上滅ぼせる力なんて、爆弾や石程度にはないでしょう? そんな下手なたとえ方はできませんよ。目の前におわしますは、究極の力を持つ夜の王。自分はレミリア・スカーレット嬢をあるがまま、至高の存在と崇め奉っておりますです、ハイ。
ハハ、なんて、こういうところが慇懃無礼なんですよね。すみません、どうもひん曲がった性格は矯正が難しいようで。
ナイフをお収めいただきありがとうございます。お嬢様もやり取りを楽しんでらっしゃるようで何より。高貴な身でありながらこんな辺鄙な場所に、しかも秋霜烈日、日差しの強い昼下がりにヴァンパイアの身で来ていただいたのですから、自分も楽しいお時間を演出できるよう尽力いたしますよ。
長のこと、気になりますか。興味湧くでしょう。
ええ、間違いなく自分以上に異常です。さっきも言いましたけど、一癖も二癖も、どころか、無くて七癖もあるキャラクターどもが、ずらーっと勢揃いした「沼」。そんなのを組織して、維持して、拡大させてなんてやりませんよ、まともな神経なら。
お聞きしたいならお望みのままに。愚痴も兼ねて知ってることは何でもぶちまけちゃいます。
でも、まずは一杯どうぞ。お酒は百薬の長、毒消しですからね。
そうです、今から少なからず毒を吐くんで。
▲ △ ▲
「2八銀」
パチッ。相手の駒が指される。
「3三角」
パチッ。自分の駒を指す。
「7八銀」
「いや、それ、無理でしょう」
真横に行ける銀って何だよ。
「ん、そうだったかな。では、7七銀でどうだ」
「しっかりしてください。では、自分は6五銀」
「それも無理だろう?」
「でしたっけ」
酷いやり取りだ。狐と狸の化かし合いでもここまで低レベルなのはあるまい。かといって、眉唾して切り上げたくとも、こちとら眉毛がないし、続けるしかない。
パチッと指して、言う。
「このやり方、やめにしませんか。素直に盲将棋でやった方がいいと思いますよ」
「互いに了承して始めたことだ。途中で変更するのはよくないだろう。目は決してヤモリやワニのものにするなよ」
「蛇や蜥蜴の視覚にしたままですよ。やれやれ、蛇の先祖は地中生活をしていたらしいですけど、ここでその気分を味わえるとは思わなかった」
「得難い経験だな。引き続き経験するため、いっそ俺と同棲するか」
「独房のがマシです。もぅマジムリ」
暗闇の中、駒を指先で確認する。ズズッとお茶をすする音が聞こえた。
長のお住まいの中で将棋を一局ということになったのだが、手慰みにしたって安易に引き受けるんじゃなかった。お住まいってのが狭い穴倉だからな。
丘に横穴掘って、それだけ。ゴザの一枚も敷いてない。縄文人のがまだ立派なとこに住んでたろうね。
明り取りも何にもないから、入口からのわずかな光を自分の背中が塞ぐと、もう真っ暗蔵之助。何も見えやしない。それだけならまだ許容範囲なのだが……
「1五歩。それにしても、これだけ闇の帳が下りていると、やろうと思えばセクハラし放題だな」
「4四角。闇討ちにも適していますよね」
まったく、茶室の一期一会を思わせる一対一のやり取りが、ここまでウザくなるとは想定外だ。
尻とか撫でられる前に、こっそりワニの目にしてしまおうか。色盲の代わりに夜目が利く。猫と同じで、網膜の下に反射板があり、一旦通過した光をさらにとらえ直す。でも、だからこそ暗がりの中で瞳が光って見えるんで、バレやすいんだよな。無理か。……って、おい。
「長、目が赤く光りましたよ。そっちこそズルしてるじゃないですか」
「いや、自分の部屋に男を連れ込むのだと考えたら、一睡もできなくてな」
「充血しても光らないでしょう」
「期待に目を輝かせているんだ。言わせるな、恥ずかしい」
「欲情に目を血走らせていると公言する方に、恥じらいがあるとは思えませんけど」
「肉食系女子という路線は惹かれないか?」
「引かれはするでしょうがね。今から所要を思い出したことにして帰っていいですか?」
「では、路線を変えよう。悪食系女子だ」
「悪化してますね。持病の仮病がぶり返したことにして帰っていいですか?」
「ふむ、ならば帰宅の際は送り狼に立候補しよう。1六飛」
「それ、女の役じゃないですよ」
どうだよ、この会話。暗闇の中で続けたらどれだけ精神が滅入るか、誰にでも理解してもらえるはずだ。新手の拷問法としてCIAに売り込もうかね。
「で、どうした。次の手は打たないのか」
「長、さっきの手は1六飛じゃなくて、3六飛でしょう? 駒の位置が違ってます」
音の発信元の違和感を、指先で確認して指摘する。
「おお、そうかそうか、暗いとどうもな。では、打ってしまった後であるし、そのままで行こう」
やれやれ、会話に辟易して上の空でいる暇もない。
長とのやり取りで嫌になるのは、下手な男漁りの言動だけによるものじゃない。こちらを試していると常に感じてもいるからだ。
いろいろ仕掛けて、反応を楽しむ。能力、性格、心理を見る。その悪趣味な人間観察は、相手の奥の奥までを見通すものだ。裸にひん剥かれるよりタチが悪い。
この将棋勝負も、もともと自分が河童との交渉のために覚えた将棋を、長が盲将棋という形で関わってきて時折やってたのが、「たまにはちゃんと盤で打とう」というので了承した結果だ。
さっきは盲将棋と変わりなく無駄な手間が増えるだけだと言ったものの、実際には通常にはない駆け引きが増える。で、こうして、互いに隙あらば不正をしようと目論んでるわけだ。
それでこちらの酔狂さ、如才なさを見てるんだろうな。
序盤も早石田という超速攻で来た。それは石田検校って盲目の棋士が編みだした戦法が基になっていて、暗闇での対戦に掛けた趣向という意味も含んでいるのだろう。
が、主眼はこちらの観察だ。早石田は、相手が手順を間違えればあっという間に投了に至ってしまう、一時期は猛威を振るった手だ。しかし、逆に、今現在は定跡となっている防御方法を取ったなら……そうして盤上の形勢は長の不利となっている。
勝ちに行くならこういうやり方はしなかったはずだ。勝敗は第一の目的ではないということだな。
カンに障るのでさっさと終わりにしてしまおうとしたのだが、この住処のごとく穴熊に囲われてしまった。仕方なく、こちらも矢倉に組んで対応している。
前回の長との対局はどんなだったっけ。確か「自分になぞらえて」とかほざいて、箱入り娘なんて手を使ってきやがったんだったか。台詞が脳裏に甦る。
『手をつけたら後は早いぞ。据え膳だ、ほら』
ふざけた話だ。態度も姿も乙女なんて柄じゃないってのに。
目の前にいる長の姿を改めて見る。といっても、闇夜のカラスと溶け込んでしまっているが。長の全身は真っ黒なのだ。
種族は不明。妖怪なのか妖精なのかもわからない。たとえるなら胴体の無い飛頭蛮。いや、黒い生首というのが単純明快だろう。あとの見た目の特徴と言えば隻眼ということくらいか。機能しない左目は垂れた髪に隠れている。
大きさは子供の頭くらいなので、陰口を叩かれるときは「チビ黒」と呼ばれている。しかし、この呼称、自分もよく使うものではあるが、時代が時代なら差別と糾弾されそうだな、今はともかくとしても……いや、こないだ我らがアイドルの耳に入れてしまったときは、かなり噛みつかれたなぁ。
けれど、トップに位置する割に迫力がないのは否めないだろう。全体的に丸っこいし、権威ある存在というよりむしろ、ゆるキャラとして売り出すことも可能でないかと思わせる。いつかぬいぐるみを大量生産してみようか、ワゴンセールでぎゅうぎゅう詰めになった長を見てみたいし。
能力は「曖昧性に関わる何か」というそれこそ曖昧なもので、長自身も模索中。今のところわかっているものの一つは、自分の意志によって生態を変えられるとかいう無茶苦茶なものであるらしい。自分の能力も同類といえば同類かもしれないが、同列にはなりえない。こないだ暢気に日向ぼっこしてたと思ったら、その実は光合成に挑戦していたということがあった。
「2二馬」
長の駒が打たれる。首だけの長にそれができるのは、髪の毛が触手のように働いているからだ。伸縮も自在。
恐らくは歴史の浅い妖怪で、今は過渡期の段階なんじゃないかと言っていたが、行き着く先がどこなのかを考えるとゾッとしないね。
能力的なものじゃあない。長が弾幕を撃つ姿を見たことがないので、そこは成長しようと大したものにゃならんはずだ。
得体の知れないものを感じるのは、その思考回路だ。
何かを考えている。何かを目指している。その何かとは何だろうか。わからない。曖昧模糊として見えない。闇の中、藪の中、スープの中だ。
「3七歩成」
自分の駒を打つ。
長がこの先どういう棋譜を完成させるのか、本人を問い詰めたところで、答えるのはせいぜい二、三手先に過ぎないだろう。そこからははぐらかされるのがオチだ。それとも、これまでの手順を追っていけば何らかの筋道が見えてくる? だが、今のところさっぱりだ。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」って感じに、実際は浅く、単純なものだったりするかもしれないが……いやいや、こいつにしてありえないことだ。どれだけ裏をかかれて煮え湯を飲まされたと思ってる。
わからないものに恐れを抱くのは当然だ。人が闇を恐れるのは、そこに何があるか、何者がいるかわからないからだ。未知を恐れないのはただの無知。遠からず「想定外」に出くわして、慌てふためいて不幸を引っ被るだろう。
ゆえに道理だな。恐れを感じるなら避ければいい、未知へは近づかなければいい、ってのは。確かになその通りだ。でも、敢えて近づいていくのもまた道理だろう? 未知に対して人が抱くのは恐ればかりじゃない。もう一つの感情がある。
好奇心ってやつだ。
命取りにつながる感情だというのは理解している。「猫をも殺す」は誇大広告ではないし、君子は危うきに近寄らないからな。
けど、恐れと好奇心を天秤に掛けたら、投石機よろしく恐れがほん投げられてしまうのが自分だ。始めこそ恐れに傾くときもあれど、終わりにはいっつもそうなってる。想定外の恐れを想定して、未知の闇へ足を踏み込んでる。
ここまで来るとさすがに道理の外かね。でも、こればっかりはしょうがない。自分の性分だ。
さて、長の性分はどういうものなのかな。未知への手がかりをわずかでも手に入れるため、ちょこまかと探ってみるとしよう。観察されるばかりじゃ能がないし。
「2六飛」
「それで、進捗状況なんですが」
「進捗?」
「酒宴。飲み会の件です」
「ああ、出し物だな。いいぞ、俺の名前を使って好きにやってくれ」
お茶をすすり、息をつく音がする。柿の葉を煎じた匂いが鼻先に触れた。
「──それだけ?」
「それだけ、とは?」
「まさか怪しい儀式風にボードゲームやるのみで、ここに呼んだわけじゃないでしょう」
「別に俺はそれでも構わないのだけどな」
「自分が構いますよ。本当にそうならとっくに帰ってる」
「手、止まっているぞ」
「将棋のことは一時脇に置いときませんか。声を掛けたのはそちらからなんですし、本題に入ってください」
若干語気を強めてみるが、案の定さっぱり効果はないようで、何のアクションもなく返される。
「『沼』では将棋をやらない者が大半であるよな」
「? ええ、まあ。道具もそろってませんし」
「将棋は、俺にとって、無限の変化を描く一種の芸術だ。お前さんも否定はしないだろ? だが一方で、興味のない大多数にとってはつまらなく無価値な遊戯でしかない」
思い返すに、その通りだな。木陰で対局していると通りすがりの者が何人か覗き込んでくるが、そのまま黙って打ち続けていると大抵は興味を失って立ち去ってしまう。
「人生と同様さ」
「はぁ……」
「全ては盤上のことに過ぎない。無限の深さを持ちえるが、自分以外のほとんどにとっては大した意味はない。けれど、他がどうあれ、一番大事なのはプレイヤーが楽しむことさな。で、楽しむか? つまらないものとするか? お前さん次第だ」
「……3五銀」
ため息と共に指す。
こちらの生き方を持ち出してまで対局を促すのなら、断り続けるわけにもいかないな。ちとムカつくが。
「それでいい。目の前の駆け引きを楽しむ気になったか。5六飛」
「6五銀。面白いオチでも用意されてるんでしょうね」
「ん?」
「健忘症でもなければ、自分を『沼』に引き込んだときに言ったこと、覚えてるはずですよ」
「ああ、ご期待には添えているだろ?」
「これまではね。だからここにい続けてるんですが」
「これからも変わらないさ。ここであったらお前さんの望むものは手に入りやすい」
「望まないものもオマケでついてくるんですけどね」
「それを除けられるかはお前さん次第だな。そしてそれもまた望ましいものだろう、お前さんにとっては」
配下のことを襞の奥まで理解している。トップの鑑だな。ったく、また見透かされてる感覚で、ヤんなるね。
パチリ、パチリと駒が進む。
「8六飛。特にここ一年は楽しめたんじゃないか?」
「知っての通り、継続して楽しんでますよ。4六歩」
吸血鬼の居城に乗りこんで酒宴の申し込み。それに一年掛けた。見事成功したものの、今度は吸血鬼直々に「側について楽しませろ」と命令されてしまった。今現在は全力で出し物の準備に掛かっている。
「頼むぞ。失敗したらお前さんだけでなく、沼そのものも壊滅しかねない」
「そんなのをどうしてやらせたんですかね。レミリア嬢が来ると発覚したときに、沼が騒然となったのは当たり前の話ですよ」
「俺が大丈夫だと太鼓判を押したら収まったろう」
「なぜか自分は睨まれましたけどね、長の命令なのに」
「そこら辺は人望の差というやつだ」
うわー、白々しいな。全身真っ黒のくせに。中まで腹黒のくせに。
「それを言うなら、悪い奴ほど良く眠る、でしょ」
長は、クックと笑って、言った。
「感謝こそされても、恨まれる覚えはないな。一人一人に望ましいものを与えているのだし──たとえば、お前さんには『一人では得られない楽しみ』をな」
「はいはい、そうですね。よーくわかってますよ」
「嘘をつけ」
ポンポンと会話を打ち合ってたはずが、断ち切るような突然の否定。
一つの火が灯るように、赤く隻眼が光って、闇に浮かんだ。
「わかっていない。まだまだ全然な。『一人では得られない楽しみ』がどんなものか」
暗視の目で全身を眺められているのを感じる。それどころか、体内の筋肉、内臓、骨すら透視し、心の中まで見通されている感覚。自分は地蔵と化していた。
「まあ、仕方ない部分もある」、と赤い光が細められた。
「お前さんは単独の時間が長かったからな。土台無理な話だ、挟み将棋しか知らない者に普通の将棋を平手でやれと言うのは」
「……」
「確かにお前さん、足踏みはしていない。常に進んではいる。いずれは到達するであろうその日まで、頭しかない身で首を長くして待とうという気にはなれる──だが、できるだけ早くと望む俺の気持ちも理解してもらいたいね。歩兵の歩みを桂馬にするくらいは見せてくれよ。俺と近いところに座ってほしいのさ」
わけわからんし、気持ち悪いことを言うな、と思ったが、心中そのままの形で言葉が出てこない。
「手、止まってますよ」
口に紡がれたのはそんなのだった。
「おお、ではこうだ」
コトッと駒ではないものが盤上に置かれる。触れて確認してみると、長の使っていた竹製の湯呑みだ。
「5五お茶」
「ゴゴのお茶? ゴゴティー?」
「ティーブレイク、とはちと違うが、お開きにしよう。所要を思い出した」
その台詞をお前が言うのかい。
「ここで投了? 茶々を入れて終わりですか。自分がやる出し物の内容も、長の名前を使ってどこまでやっていいかも、前々から全然聞かないですよね?」
「茶化したつもりはないぞ。勝負はあと43手でこちらの負けになる。出し物については好きにやればいいさ。どうせならこちらの想定外のことをやってみせてくれ」
こんにゃろう。
奥歯に力が入る。そして緩む。
一連の会話の流れも想定内ってか? 言いたいことは全部伝えたし、知りたいことは十分知ったってか。孫悟空を手の上で転がすお釈迦様気取りかよ。面白い。
「駒はそこに入れ物があるからしまっておいてくれ。後はそのままでいい」
赤い眼光が消えたかと思うと、顔の横を毛髪が撫でていく。目をワニのものにして振り返れば、長の小さな後頭部。風船が流れるみたく隧道をゆくのが見えた。
「子供でも自分の玩具は片づけるってのに」
「しつける親がいなかったものでな。それに用事もある」
こいつをこのまま行かせてしまうのはしゃくに障る。何かないか──せめて仕込める何かが……
「その用事がどんなのかはともかく、ちょっと聞いてもいいですかね」
「ふむ」
長が顔半分こちらに向ける。
「以前、キノコについては詳しく教えてもらいましたけど、草花にについても同じくらい博識ですか?」
「『沼』周辺に限ればな」
「いずれまたお願いするかもです」
「構わんよ。沼の命運が掛かってるんだ、協力は惜しまないさ。ああ、それから用事に向かうついでにアドバイスがある」
もったいつけて、言った。
「『汝、カミの助けなきときは、自らの手でウンをつかめ』」
「いや、それ……用事ってキジ撃ちですか」
「花摘みだ。乙女に対する表現は適切にな」
下ネタを言い残して、自称乙女は外に出て行った。
▲ △ ▲
どうです、酷いもんでしょう。これがうちの長です。
裏をかいたり、煙に巻いたり、揶揄で楽しんだりと、人をムカつかせる手腕なら天下一品ですよ。手足のないダルマのくせに「手腕」とはこれいかに、なんてね。とにかく曲者には違いない。
いやいや、メイド長さん、さすがに冗談がキツいですよ。「それだってあなたは負けてないでしょう」なんて。そりゃ自分は酔狂かもしれませんよ? でも、紅魔館ではいたって品行方正に振る舞ったじゃないですか。館内に入るなりトイレで大をしに行ったことは、まあ置いといて。
レミリア・スカーレット嬢まで何てことをおっしゃる。勘弁してくださいよ、長も自分も同類だって、またそんな……面白いという意味で?
「ちょっと話をしてみたが、なかなか味のあるヤツだ」ですか。参ったな、もっと毒消しを飲まれた方がいいようですよ。だいぶ毒されてる。
それでも少しは買われている部分がおありでしたら、誰かいい人紹介してやってくれませんかね。さっきも言ったように、無節操にサカってますから。男じゃなくても構いませんよ。ナメクジみたいな雌雄同体にも変化可能らしいのでね。そう、いいオカマでもいたらお願いします。
あ、そうだ。興味を持たれたのでしたら、長を呼んできましょうか。先ほどあの辺りでミミズと一緒に、子供の作った泥団子を試食してたらしいので、少々お時間を取らせますがお待ちいただければひとっ走り行って、って、ダメ?
そんなそんな、この場を離れたいだけの口実ではありませんって。ちょっとでも気を損ねたら命を刈り取られるような状況で、尻を向ける愚など犯すはずがないでしょう、アハハハー。……はぁ。
おっと、どうぞどうぞ。お酒、気に入られたようですね。変わったワインみたいでしょう。種々の果汁を発酵させたもので、ただの猿酒と言えばその通りなんですが、果汁の配合などいろいろ試行錯誤して香りや味を高めてきた品です。
葉に盛られた酒肴と合う? そのチーズ「カース・マルツゥ」はうちのアイドルが作ったんですよ。ピリッとした刺激と滑らかな食感が売りでして。ええ、そうそう手には入りません。お褒めの言葉は伝えておきますね、と言ってもアレか、自分がやっちゃ反発を受けるか。ああいえ、内輪の話で。
良かったらカクテルもいかがですか。そうです、そんなのもありましてね。まあ、不味い酒をどうにかして美味しく飲もうかという工夫が、カクテルの始まりなわけですけど。禁酒法の時代により発展したというのも何か象徴的で面白いですよね。制約が成長を促すみたいな。
ともかく楽しんでいただけてるなら幸いです。さっきも言いましたけど、ヴァンパイアにとっては気持ちの悪い日差しの中、下賤と蔑まれる「沼」にわざわざ足を運んでもらってるのですから、楽しめないなんてことがあってはならないと考えております。何か不足でもおありでしたら、どうぞ遠慮なく。
あ、はい、チーズの追加ですか。別のツマミもありますよ。たとえばギンナンとツリガネニンジンの……じゃなくて? はいはい。
あーなるほど、日本語って難しいですねえ。酒肴じゃなくて趣向でしたか。
出し物なら先ほどのがなかなか面白かったと思いますが。巨大線虫たちの舞い踊りは前衛的だったでしょう、MP吸い取られそうな感じで。あと、犬と鶏の夫婦漫才もテンポが素晴らしかった。
それじゃ物足りないですって? 目が肥えてらっしゃいますねぇ。ならば、いよいよとっておき、お化けラッキョウのストリップダンスをやっちゃいますか。脱いで剥かれて、後には何も残らないっていう。
いえ、冗談です。わかってますってば。自分に出ろとおっしゃってるんでしょう。やっぱり求められるのは「パンとサーカス」って話ですよね。
そこで何をやるかをお聞きになるのは、さすがに意地が悪い。三流芸人がウケを取るには身体を張るしかないですし、「サーカス」というのは剣奴と猛獣の戦闘なんですから。
確かに三番煎じということになるんでしょうかね。でも、出涸らしにはならない。奴隷や獣が命を張る様は、観る者の心を強く惹きつけた。生の根本を震わせた。コロッセウムのサーカスが長らくローマ市民を熱狂させた理由です。お嬢様方にとっては五分未満の魂であっても、何度も惹かれて然るべき道理ですね──懸命に、文字通り命懸けであがく様には。
ご期待にお応えしますよ。門番やメイド長との弾幕勝負と比しても色あせない、そんな出し物を提供します。
「前回は準備に一年掛かったのに、今回は大丈夫なのか」ですか。この日までの期間、短かったですからねぇ。
そこはホラ、制約の中で促された成長というやつで。ええ、何とか段取りまではつきました。形にはなると思いますよ。
いやぁ、自分も頑張りましたけど、一人ではとてもとても。多くの協力あってのことですよ。
「沼」の住人がどれほどの役に立つのか疑問? ああ、そうですね、非力ゆえの底辺ですから、それはまあそう思いますか。
その辺りは説明が必要になってきますかねぇ。自分の出し物までお時間を取らせますし、お耳汚しをお許し願えますか?
ありがとうございます。では、お言葉に甘えまして、まずは沼の愉快な仲間達の紹介から。
▲ △ ▲
長の巣穴から出ると、光に満ちていた。目をワニのものから元に戻す。いつもなら色鮮やかな世界が広がるはずだった。
人間は「光の三原色」という言葉が示す通り、赤・緑・青の三色までしか判別できないが、この目はそこに紫外線を加えた四色を見ることができる。いわゆる四色型色覚だ。
色盲のワニからの変化は、世界を極彩色に塗り替える──しかし、元が水墨画では意味がなかった。
白い空から細かな雨が降り注いでいるのだった。サー……という音が包む中、辺りは白と黒と灰色ばかりで構成されている。群青色の服も黒く湿りつつある。
まあ、それでも水もしたたるいい男の全身が、闇から抜け出し露わになったから良しとするか。
緑の鱗と白くぬめった肌。黄色い瞳に細い瞳孔。尖った口先の上で開閉する鼻孔。野太く長い尻尾。
どうです、このリザードマンの雄姿。スキンヘッドと裸足はワイルドさを演出、季節感のない半袖・ハーフパンツの甚平もシャレオツです。
こいつを人里に持っていったなら、黄色い声が掛けられまくりですよ。正確には金切り声が。んで、ファンでなくアンチによる追っかけが始まるわけですな。捕まれば、もみくちゃというかズタボロにされると。
だから極力人里には顔を出さないのだけど、ここ「沼」であれば委細構わず全身をさらしてられる。
基本、住人はみんな異形だからだ。
薄く天を覆う雨雲からは、白い光が注ぎ、霧のような雨に乱反射している。そのまぶしさと対照的に、まばらに生えた樹木は真っ黒な影をまとっている。明暗の強調はドラクロアかよってくらいだが、それでも周囲を見やれば、あちこちに住人の姿が認められた。
まず正面に、「沼」の呼称の元になっている、広く黒い水面。その一か所から噴水の飛沫が上がる。水生哺乳類の妖怪「ヒトガタ」が噴いた呼気だ。丸みのある白い頭部が沈んだその手前で、葦のように突き出ているのは、水爬虫の妖怪が尻から生やした呼吸管だろう。
ふわふわと半透明の傘が宙を横切っていく。直径1メートルほどのクラゲだ。エチゼンクラゲには2メートルになるものもあるから、大きさ自体は変わったものじゃない。ただし、傘の全体には血管が走っていて、その縁には六つの眼球が均等に配置され、ギョロギョロとうごめいている。間違っても癒やしの存在にはならないな。卑しい存在には見られるだろうが。
クラゲが空へと飛んでいったところから、下に目を移す。木陰で夫婦が仲睦まじく身を寄せ合っていた。
バーコード頭のアブラギッシュなおっさんと、立派なまげを結った古風な美女という、滅多にない凸凹カップルだ。雨に包まれる秋の風景を、愛に潤んだ瞳で眺めつつ、感情を共有している。
「沼」では有名なオシドリ夫婦で──いや、正確には嫁さんだけが鳥なのであるが──つまりは、おっさんの首から下は犬のもので、嫁さんの首から下は鶏のものになっていて…………ええと、まあ、とにかく熱々なお二人だ。たとえるなら、ホットドッグと焼き鳥ができるくらい。
(さてさて、と)
コキッ、コキッ、と首を鳴らす。
(こちらも浮かれた気分で「雨に唄えば」のステップなど披露したいとこだが、期日まで圧してることだし、とっとと特別作業班の進捗状況を確認してくるか)
沼から離れる形で、会場予定地へと足を向ける。
茂みの間に口を開けたところがあり、その中へ入る。緑と土の匂いが濃くなった。
会場までの道は、踏み固められはしていたもののぬかるんでいて、自分が歩くたびに珍獣の足跡が付く。枝や葉もちょくちょくスキンシップを図ってきて、こちとら敏感な美女でもないのにビショ濡れだ。
当日には砂利でも敷き詰めて、枝葉も広めに伐採しておこうかね。沼の住人はともかく来賓を不快にさせたら、雨水じゃなく血に濡れてしまうオチがつく。
やや歩くと空が広くなり、明るさが増した。少し前までは広場の「ひ」の字もなかった所だ。今は開けた場所に整地されている。道と違ってこちらは立派なもんだな。コロッセウムと言えるほどご立派なものじゃないが、上出来だ。
木を切り、切株を抜き、石を除いて──そうして、今日、草も取り終えたようだ。
こんもりと積み上がった雑草の横で、牛ほどの大きさのオオサンショウウオが、十六本の足をだらしなく投げ出してイビキをかいていた。そのさらに横で、一周り小さいサンショウウオが二匹、寝息を立てている。全身に細かな水を浴びて気持ちよさそうだ。
秋雨の白い紗幕の下、木々に囲まれた広場を見渡す限りにおいて、草の取り残しはない。三兄妹が報告を怠ったことは大目に見てやるか。
目に見えている箇所に関しては申し分ない。目に見えてない箇所についてはどうだろうかな。
確認のため、右足でリズムを刻む。トントトン。トトントン。
ほどなく離れた場所の土が盛り上がり、太い触手が頭を出した。レッドスネークカモン、もといピンクワームカモン。ミミズの妖怪「ミョニョコン」だ。
「沼」の住人の中でも有数の長大な身体を持ち、一度測ったときにはなんと45メートルの数値を叩き出した。現存最大の動物シロナガスクジラを楽々超える。
こんなナリでありながら性格は温厚だ。小便をかけられでもしない限りは怒らない。つまりはカエルの次に温厚──というより、自閉症だったんだよな、かつては。
何をされても受動的だったのをいいことに、通りすがりの妖怪に間食として噛み切られたり、村のガキんちょに鎌とかでぶちぶち千切られ遊ばれてた過去がある。
今もって引っ込み思案ではあるけれど、「沼」に来る以前に比べれば見違えるように快活になった。
『順調に・進んでる』
ミョニョコンが身体の先端から光を発し、点滅させて報告してくる。いつもより光の強さと点滅の速さが感じ取れた。
高揚感──生き生きしてるな。自分が何か人の役に立つことをしたってのを、ただただ嬉しく思っているだろう。これで穴を掘る以上のことを、能力を生かす形で頼んだら、どれほど喜ぶだろうね。
足によるモースル信号で「細かい作業は大変だったろう」と伝えると、すぐに光の信号が返ってくる。
『大丈夫・分裂して・手分けした』
さすがはミョニョコン。世界に存在するミミズが持つ特性を、より高度な形で使用できるだけある。
たとえば本人がさっき言ったのはヤマトヒメミミズの特性だ。このミミズは二週間ごとに自切して、だいたい十ほどのコマ切れと化す。そうして、それぞれの断片が一匹一匹のミミズとなって繁殖するのだ。ミョニョコンはこれをいつでも自在に行える。
さらに、複数から再び一匹に融合できるという妖怪ならでは能力があるので、「沼」がミミズではちきれんばかりになるという事態には陥らない。作らずに済んで良かったな、ミミズバーガー。
いつまでに完成するかと聞くと、『明日・朝までに』と光の点滅。労働意欲旺盛だね。
ちなみにミミズが光るのは珍しくもなんともない。ホタルミミズは日本全国に生息している。海岸があるならイソミミズも見つけられるだろう。
距離を置いての振動と光の会話をしばしした後、明朝に点検しにくることを伝えて、会場予定地を後にした。ねぎらいの言葉を添えた時、光の点滅がこの日一番の速さだったのは面白かった。
顔に垂れる雨水を舐める。ここまではOK。他の協力者は上手くやってくれてるだろうか?
▲ △ ▲
人間が差別をするのは、向上心があるからです。向上心と差別は車の両輪。一対のものです。
突飛な考えですかね。でもほら、人間以外に差別する生き物はいないでしょ、月に行こうとする生き物は人間しかいないのと同じで。人間特有の向上心は、人間特有の差別を生むんです。
違う角度から説明してみましょうか。能力を高めるのに一番効果的な方法は競争です。競い合わせることで、追いつけ追い越せと全員が全力を発揮する。
それで、ですよ? ヨーイドンで競争すれば、一位とビリができるのは当然の結果ですよね。そうでない競争なんてない。もちろん二位や三位、それに続く順位もできる。誰もが一位を目指すけれど、なれるのは一人だけです。
二位以下の者は一位をうらやみ、落ち込む。「ああ、自分は一位になれなかった。力がなかった」と。望む結果を手に入れられなければそうなって普通だ。自分の全部をぶつけてそれでも及ばなければそうなって普通だ。
普通ではあるけれど、一位以外の全員が落ち込みっぱなしでは救われないでしょう。それに、競争の意義ってのが本末転倒になってしまう。向上するためには競争が必要だけれど、次の競争に参加する気力を奪ってしまうのではね、意味がない。
そこで、ハイ、二位や三位でも気持ちが明るくなる魔法の手法の登場です。そう、ビリを見下すことですね。
──ビリよりも自分は上だ。ビリと競争すれば自分は勝てる。自分はビリよりも力がある。そう、ビリよりも。
こんな感じで、一位でないという劣等感を、最下位を見下すことで解消させるわけです。
ね、この方法ならビリ以外の全員が救われるでしょう。最小限の犠牲でほぼ全員が上昇に向かえるという、たった一つの冴えたやり方。人間社会では必要不可欠なんですよ、差別は。
そんなに単純でもない?
うーん、確かに、そうかもです。もう少し手の込んだやり方はありますよね。オブラートに包んだ差別みたいな? 平等に接してますよー、って顔で見下すような? あと、ビリ相手じゃなくても、競争に参加しない・できない・させない者を差別するなんてのだってありますね。ま、直接か間接かの違いで、結局やってることは同じなんですよ。
見下せる相手がいることが重要なんで、差別する理由は何でもいいんです。性別なり、職業なり、出自なり、国籍なり、人種なり、何でもね。とにかく最下層の存在を作っておけば、競争社会は維持できる。大多数が競争社会を生きてゆける。
コストパフォーマンスは最高でしょう。少数の被差別者を使い潰し続ける以上の低コストな方法なぞあるわけない。
差別をなくそうとしたって、共産主義のように失敗するのがオチですよ。国単位でやればソ連のように最下層を作ったあげくに崩壊するし、個人単位でやれば小林多喜二のように差別されて国家権力に殺される。ハハ、右に転がっても左に転がってもダルマはダルマ、と。
あっ、お酒お酒。すみません、気づきませんで。
ええと、そういえば何の話をしていたのでしたっけ?
そうそう、「沼」の成り立ちの話でしたか。
弱くて醜くて性格がひん曲がってることで、当然のごとく差別されてきた我々が、なぜ一か所に集まって暮らすようになったのかをお聞きしたのでしたね。
観点が鋭いと敬服します。確かに一番主な理由、一番単純な理由は「生きるため」ですね。
多くは、強くあるいは無意識的にでも望んでいます。最下層で蹴飛ばされ続けて死ぬよりは、協力し合える関係の中で生きたいと。そんな都合のいい関係はビリ連中の前にゃそうそう存在するもんじゃないんですが、チビく……長がそれを作った。それが「沼」です。
でも、それだけじゃ数百の数は集まらない。弱い・醜いだけならまだしも、ひん曲がった性格がありますからね。
お察しの通り、これが一筋縄じゃいかないんですよ。諸人の負を四方八方から投げつけられてきた半生が作り上げたひん曲がりっぷり、並であるはずがない。
ええ、他者に対する不信感ってヤツがどっしり根づいてる。集団生活を営むには大木なみの障害になります。かといって、無理に切り倒すわけにはいかないんですよねぇ。切ったところで切株は残るし、切株を取り除いても堀池が残る……と、これじゃ徒然草の一節か。
たとえば、この場には顔を出していませんが、大ミミズを引っ張ってくるのだってそりゃあ大変でしたよ。無口だったので意志の疎通を図るだけでも一苦労。足しげく挨拶しに通って、ミミズ相手に小野小町の百夜通いです。その末、ようやっと引き出せた意向はこんなのでした。
──土の中でたった一人引きこもって、時折のちょっかいに耐えてさえいれば生きてられる。なのになぜわざわざ誰かと接触するストレスを感じなければならないんだ。
正論ですよね。
自分個人だったら、この反応に「お呼びでない? お呼びでないね。こりゃまた失礼いたしました」と立ち去ってましたよ。けれど上から命令があったんじゃあ放り出すわけにもいかない。そこまで無責任男にはなり切れない。サラリーマンは気楽な稼業とは言えない時代です。
しかし、自分でも商品価値がないと思う物を売り付けるのはどうにも意欲が削られるので、長に聞いたんですよ。「彼の、いや、彼女の、というかミミズは雌雄同体なんでどっちでもいいんですけど、とにかく彼氏彼女の事情からして、群れて生活する意味って何ですか?」とね。
そのとき長が答えた口上をそのまま本人に伝えました。
『おはようと言える相手がいて、おはようと返してくる相手がいる。それがいい気分だからみんなで暮らすのさ』
はい、背中がムズ痒くなったら蜥蜴の手でもお貸ししますよ。まったく、モテないくせして歯の浮く台詞はポンポン飛び出す。絶対口から生まれてきましたね、あれは。
ただ、これが殺し文句になったのもまた事実でして。ええ、ミミズは「沼」の一員となりました。
何度も会いにきてくれたことが嬉しかったんだそうです。気づけば、蜥蜴が訪れるのを楽しみにしていたんだとか。それで挨拶を交わす幸せというのがすんなり心に入ったと。
良かった良かった、なんて簡単に思えれば自分も良かったんですけどね。そのとき思ったのは、「うーん、何だこのキャッチセールス」。
いや、その文言自体を否定するつもりはないのですけど、長に対して「都合のいい口だこと」と思ってしまうのは仕方ないでしょう。
なにしろ自分に対して言った理由と全然違ってるんですよ。ミミズ以外のスカウトをしたときも、その都度別の理由が提示されました。「君子とは何か」の問いに対し門人ごとに違う返答をした孔子気取りかって、そう思うわけです。
そんなこんなの口八丁手八丁で集めたメンバーたちは、みんながみんな手に手を取り合って仲良く──とはいかなかったのは、やっぱりご想像通りでして。
単独で生きてきた者に協調性が備わってるわけがない。他者に合わせる能力はさっぱり欠けてます。まとめるのは至難の業ですよ。メイド長も下の教育には手を焼いているのではないですか? 自分は毎日のいざこざが胸焼けするほどでした。
ああ、すみません。また話がずれちゃいましたか。お聞きしたいことの中心は「なぜ長は時間も手間も掛けてまで『沼』を組織するのか」ですよね。
自分が聞いた範囲では自分と同じだとのこと。つまりは「楽しいから」だそうです。面白くなるから群れを成したのですって。ああ、自分に対する殺し文句は「一人では得られない楽しみが得られるぞ」でした。
そう変な動機でもないでしょう。人生楽しんだもの勝ちってのは一つの真理じゃないですかね。
蓬莱の薬を飲んだのでもなければ、いずれ死ぬのが人生です。生まれ落ちた以上、死ぬ運命を背負ってる。さて、楽しんで死ぬのも人生、楽しまずに死ぬのも人生、選ぶならどっち……って考えるまでもない。
同じ死ぬなら大いに楽しめばいい。楽しんで死ねればそれでいい。でしょう? 古歌にも「遊びをせんとや生れけむ」とありますし。
集団生活を営めたかなんて、もう、冗談キツイですね。自分の調子の良さはご存じでしょ? 他と違ってひん曲がった性格は生まれつきのもので、足蹴にされる人生の中で培われたものじゃない。人間不信なんてさっぱりですよ。恨み? あるわけがない。差別というのはあって当然のものなんだから、太陽が東から昇って西へ沈むことに腹立ててどうするんですか。無駄に疲れるだけでしょう。
ええ、「それで望みのものは得られたか」、ですか。自分については、この場でお酌をしていることが答えになってますね。一人のとき以上に楽しい思いができてなかったら、とっくに立ち去ってますので。
ミミズの所に通い詰めてその後沼まで引っ張ってくるのも、間に強大な妖怪の縄張りがあったのでそりゃあスリリングな体験を味わいましたし、そしてもちろんレミリア・スカーレット嬢、あなたの居城に失礼したのは生涯ベスト級のエンジョイ&エキサイティングでした。
いや、こんなこと自分が一人のときだったらできませんよ。自分がここに来る以前にやれたのは、せいぜい花見酒とか相撲とかそんなので。まあ、それはそれでスリリングでしたけど、とにかく「沼」への勧誘や酒宴への招待などは一人じゃ不可能です。
能力的な要素の話ではありませんよ。
誰かを引っ張ってくるのも所属するところがなければやりようがないわけですし、紅魔館の主を酒宴には誘うことも自分単独では無理でしょう。一人二人じゃ逆に誘われるのが普通の人数になりますから。そういう意味です。
端的に言えば「動機」、これの有り無しですね。
そう、動機。自分の場合は勤務地の所長から言われたというだけのものですが、ちっぽけなものであろうとゼロでなければ懸命に、命を懸けるには十分です。ただただ楽しめればいいので。……すると、長の場合は……?
あ……どうも、失礼しました、来賓を前にして考え事なんて。長の動機が「楽しむため」なのはさっき言った通りですし、間違いはないと思うのですが、ちょっと意味深なこと言ってましたので、どうも。
「一人では得られない楽しみ」というのを自分は浅い所でしか見てないのだそうです。では、長はどこを見ているんでしょうね。同じ井戸の中をのぞき込みながら、自分は水面を、長は底を見ているんでしょうか。
長の発案したこの酒宴、お嬢様方をお招きしたことで、従来とはまったく別種の雰囲気を醸すことになりました。緊張感というだけではないですよ。それしかなかったらみんな置物だか幽霊だかわからないことになってるはずです。
確かに、恐れ多くてこの場にはいられない者も少なくはありません。でも、沼の周りに並んでいる者たちの目には、おどおどした中にも光があるでしょう。普通に生きてきたら一生お目に掛かることのない雲上の存在が、自分たちと酒を嗜んでいる。その現実に輝いているんです。
長はこれを狙っていたのかな? いや、面白いには違いないんです。彼らのかつてのどんよりした目がどんなものだったかというと、死んだ魚の目がダイヤモンドに見えるくらいの酷さでしたから。過去と現在を頭の中で比較すると、自然に笑いがこみ上げてきます。
でも、やはり何か引っかかりますね。長の狙いはここ止まりなんでしょうか。思い通りに蜥蜴を動かせたシテヤッタリ感を加えても、どうも釈然としないのですよねぇ。
出し物の準備において、一切何も聞かず、全部自分に任せたんですよ。長の名前を使って「沼」の住人にどんな命令をしてもいいという許可まで与えた。どういう意図があったんでしょう。
誰を呼び込んでもよく、どんなトラブルが起こってもかまわないのは──まあ、いざとなったら自分をトカゲの尻尾として切り捨てることは可能ですが──ただ、それでも爬虫類一匹の命で帳消しにできない事態は十分考えられるわけで……
危険自体が楽しみ、イコール報酬というので筋は通りますけど、簡単に結論づけて思考終了してよいものかとも思います。あの長のことですから、こんな風に悩ませることでからかってるだけかもしれませんがね。
やめときましょう。休むに似たりの行為を続けても酒が不味くなっちゃいます。
話を元の元に戻しますね。出し物の段取りに多くの協力があったという件について、「沼」の者が役に立つのかというご質問がありました。ええ、まだ終わってなかったんですよ、その説明。実は会場作成の話も途中でしたし。
「沼」の中では彼女が一番の大仕事をしてくれたのかな、やっぱり。大物相手の難題を、何だかんだで引き受けてくれて、何だかんだで成し遂げてくれた。
彼女というのは我らがアイドルです。スーパーチャーミングでラブリーな存在。ホントですよ? 何せファンクラブまで結成されてるくらいで。
現在ファンクラブの会員は二名。会長は長で、副会長は自分です。
ファンクラブの一員としては、アイドルの武勇伝は是非とも語らせていただきたいところ。よろしいでしょうか。いやぁ、話せるとなったらもうババンバンバン、講談師並に熱入っちゃいますよ。
あ、ついでにお酒も熱燗にしときます?
▲ △ ▲
あたしは人間が好きじゃない。
自分勝手で、わがままで、上から目線で、ゴーマンで、自己中心的で、感情的で。なのに──
あァ、くそ。
舌があったら悪態ついて舌打ちしているところだ。あたしはその人間を相手しなけりゃならない。こんなクソな話があるか。
『人間といっても、半分だけだからな』なんて蜥蜴がふざけたこと言っていたが、半人前ってシャレなんだろう。クソつまんねェ。てめーが半分にぶった切れろってんだ。
蜥蜴は嫌いだ。あんな気持ちの悪いヤツはいない。腹ん中で思ってることが全然わかんねえし、ニヤついた顔はお面を貼っつけたみてーに上辺だけだ。
あたしがこんなとこで人間を待ち伏せしてるってのが、あいつの指示だってのも気に食わねェ。普通なら当然シカトくれるとこだが、『蜥蜴の言う通りやってくれ』と長が直々に声を掛けてくれたんだ。聞くしかない。
長は好きだ。好きって言葉じゃ足りないくらい好きだ。あんなにすげェ人はいない。生きる価値すら認められてこなかったあたしらに、生きることを教えてくれた。
弱ェし、醜いし、馬鹿にされてるあたしらは、自分でだって生きる価値なんかねェと思ってた。底辺で蹴飛ばされる人生に意味なんか見出せなかった。けど、長は言ったんだ。
『生きてさえいれば勝ち組さ』
どんだけの衝撃だったか。複眼の一つ一つが脱皮するような気持ち、どころじゃねェ、ガワからハラワタ全部まで総入れ替えしたくれーになった。「生まれ変わる」ってのがマジにあるんだとわかった。
毎日生きてきて見えてなかった。けど、周りを見てみりゃ、鳥も虫も草も真剣に生きてる。そして、死んでる。いつ死んでもおかしくないから、真剣に生きてるんだ。
夕闇ん中、何匹ものコウモリが飛び回り、たくさんの羽虫を食っていたのを、一匹捕まえて口に入れたとき悟ったんだ。
あたしは自分を馬鹿だと思っていたけど、心の底から馬鹿だったんだって。
必死で生きてる命をあたしはたくさん食ってきた。あたしの命はその上で生きてきたものだった。それを価値がねェとか意味がねェとか言うなんざゴーマンにも程がある。
あたしは生きてていい。うつむいて生きるのじゃダメだ。生きてるってのはすげェことなんだ。
それを教えてくれた長は、あたしにとって王様とか神様みてェなもんだ。長が「死ね」と言ったら、あたしはその通りにする。長のためなら死ねる。長だったら馬鹿なあたしの命だって最高に有効に使ってくれるだろうから。
あたしがこうしてバラバラで這いつくばってるのは、蜥蜴の指示で動いてるんじゃない。長の言葉に従ってるんだ。
……けど、やっぱり人間を相手にするってのは、気が乗らねェ話だった。
人間は好きじゃない。特にあいつらの好き嫌いの激しさってのは意味不明にも程がある。好きになれるわけがねーや。
蚊やゴキブリを嫌うのはわかるわ。血を吸われてかゆくなったり、汚物に触った身体で近寄られたりするのは嫌だろうさ。
けど、蝶が好きって何だ。人間にとっちゃキャベツとかミカンとか食う害虫だろうが。食い物奪い合って喜ぶのか。わけわかんねェ。
蜘蛛が嫌いってのも何なんだ。蚊や蝶って害虫を食べる益虫じゃねーのか。おんなじ理由でコウモリやゲジゲジだって好かれていいはずだ。それとも部屋に入り込まれるのが縄張り意識に触れるのか? 別に居座るわけでも汚いわけでもねェってのに、出てくるだけでキャーキャーわめくのは心が狭すぎるだろ。──蜥蜴が言うには、外の世界じゃ蜘蛛やコウモリがヒーローで大人気って話だが、どんな馬鹿も信じねェよ、んな嘘。
ミミズを嫌がるってのが一番わけがわかんねェ。畑や庭で土を肥やすのにどういう不都合があんだよ。たくさんいた方がどう考えたって助かるだろうが。人間にとって何一つマイナスになってねーのに、嫌う意味がわかんねェ。むしろミミズこそヒーローとかヒロインとかの人気者になるべきだろ。
あれか? 人間ってのは天邪鬼みたいなもんなのか? 恩を仇で返すのが常識なのか?
こないだも、山道で転んでベソかいてた人間のガキがいたから、見たら膝とか腕とかかなり擦り剥けてやがる。じゃあってんで、傷口にウジ虫をたっぷりたからせてやったらどうだよ、お礼を言うどころか泣き叫んで逃げていっちまった。さらに、村から大人の集団が駆けつけてあたしを袋叩きにしようとしやがった。わけわかんねェ。
逆に、仇を恩で返してくれるってのなら、あたしが唾なり小便なり引っ掛けてやりゃあ金くれたりしたんかね。ハッ、んな馬鹿な話があるかよ。
あー、気が乗んねェ。人間なんか相手にしたくねェ。
けど、どうあったってその時は来ちまう。ってか、今、その時になっちまった。
まっすぐ立った杉林に挟まれる、広めの石段。そのずっと先、葦のように細くなっているところまで、人影はさっぱり見えない。
が、数百メートル先の「あたし」がそいつの通過を確認している。あのスピードならもうじきここまで上がってくるだろう。
あたしはバラバラのまんま杉林の下の茂みに潜んでいる。流れる雲に日が陰って、薄暗い場所はさらに暗くなっている。風も強めで周囲はざわめいている。
これなら適当にバラけてても、あたしみたいのに目を向けるヤツはエサを探す鳥ぐれーだと思うんだが、身の隠し方も現れるタイミングもこまごまと蜥蜴の指示がある。めんどくせェ。
結局段取りは覚え切れなかったから、それが書かれた紙を見ながらやるしかねェな。何遍リハーサルやらされても頭ん中から抜けちまうのは何なんだかね。やっぱあたしが馬鹿ってこったか。
と、待ち人来たるだ。相手の人間が目で見えるところまでやってきた。向かい風をものともしねェでどんどん走る姿が大きくなってる。茂みから飛び出すタイミングを図んねェとな。ちっとでも気ィ抜いたら、風のように走り去ってしまっておしまいだ。
人間の名前は魂魄妖夢。蜥蜴は名前の通りコンパクトな体型だとかつまらねェこと言ってたが、確かに背は低い。銀髪に黒リボン、緑の服とスカートという人形みてーなナリをしている。
つっても、強さはモノホンだろう。あたしら「沼」の住人はドンケツに弱ェからこそ人の強さにゃ敏感だ。ツワモノだらけの幻想郷の中でもそうはいないほどの強さだって、はっきりわかる。腰に帯びて、背中にも背負った二本の刀は、小柄な身体には不釣り合いに見えて、実際は好き放題にぶん回せるはずだ。
そんな相手にケンカ売ろうってんだからまったく信じらねェな。しかも、蜥蜴の言う通りにやれば、完全無傷で勝てるんだってよ。臭ェぜ。嘘くせェ。
ふン、マジかどうか確かめてやろうじゃねェか。
女ザムライ・妖夢が通り過ぎた瞬間、その目の前に「あたし」の一匹を横切らせる。
走りが緩んだところで、バラバラのあたしは全員茂みから石段へと這い出した。
気配に妖夢が立ち止り、幼さの残る顔で振り返る。目に映ってるのは、何千何万もの白いウジ虫たちがウジャウジャより集まっている光景だ。それは米粒がおはぎになるようにくっついて、一つになって、人の形を取っていく。
腕に手が生え、指に分かれる。顔の凸凹が鼻や口になる。肌に色が生まれ、衣服や髪にもドギツい色が現れてくる。
そうして、一体の塊であるところの基本形のあたしに戻った。
背丈は妖夢より頭一つ分大きい。背中の透明な羽と頭の触角、眼球部分が複眼なのと、ショートカットな頭髪がショッキングピンクだってとこ以外は人間と同じだ。哺乳類でもないのにヘソまである。
服装は髪と同色の靴・ブラ・ホットパンツのみ。これも「あたし」でできていて、身体と違って加工がメンドいから、できるだけ面積の少ないのにしている。
さっき妖夢の前を横切った「あたし」──一匹の蠅がブゥーンと飛んできて、形になったばかりの額に止まる。ウジ虫に変化して、額と一体化した。
「あなたは……」
口を開く妖夢を止めるように言葉を出す。
「見ての通りただの蠅さ。初めまして、ってか会うのは二度目だな、魂魄妖夢」
持って回った口上は、まったく蜥蜴のシナリオだと確信できる。このまま会話の主導権を握ったまま畳みかけろと、紙に書かれた指示だ。未だ茂みに隠れた「あたし」の一匹がそれを読んで、その通りにあたしは台詞を並べていく。
「あー何だ、ええと……弾幕勝負を挑みたい。勝ったらご主人様のとこに案内してくれ。っと、動くな!」
すかさず強めに言えとの指示が書いてあった。練習でもここは特に重要だって言ってたな、そういや。
シクったかと思ってヒヤッとしたが、妖夢の身体が一瞬震えて硬直したので、タイミングを逃すことはなかったみてーだ。ホッしつつ、次の言葉をつなげる。
「動くなよ。そんでずっとこっちを見てろ。間違っても刀に目をやんじゃねェぞ。指でも目ン玉でも、ちっとでも動いたらこっちが動く」
挙げた右手をパッと開いて、閉じる。
「握っていた物が見えたか? どっちのとは言わねェが、ってか、どっちのもかもしんねェが、振りゃあ刀がぶっ壊れるぜ」
「目釘、を」
目と口を歪ませながら妖夢が絞るような声を漏らす。
ああ、目釘。確かそんな名前だったっけ。刀の中で結構重要な部分らしいな。どこに使うんかね。
妖夢の左手がミリ単位で下がる。風にあおられてというわけじゃないだろう。あたしは身体を同じだけ前に傾けて、妖夢を固まらせる。動けない剣士はさらに言葉を吐いた。
「茶屋で、あの時……!」
(? ええと……茶屋……あぁ、ね)
頭が悪いんで今更だったが、妖夢の言葉を聞いて蜥蜴の狙いがわかった。
二度目に会ったと言ったのは嘘じゃねェ。階段上の手前で会ったってんじゃなく、人里の茶屋で会ったってことだ。
別に何もしてねェ。蜥蜴の指示は「飲み食いしている際中に、間合いの外で前を横切れ」だった。何の意味があんのかと思いながら箸でつままれない間でブーンと飛んだけれど、そうか、そういうことか。
妖夢は茶屋で一服してる時、刀に細工されたと思い込んでるわけだ。階段を駆け上ってきたのへ「あたし」が横切って足止めした、その記憶とも併せての錯覚だ。
意識を引きつけておいて、死角から本体がチョコマカするなんて芸当、あたしにできるわけねーじゃんよ。でも、信じてんだろうな。バカ正直に生きてそうな面してっし。
じゃあ、あたしの次の台詞が効くとしたら相当なもんになるね……。
「自分の命より大事なもんをダメにしたくなきゃ、あたしの不戦勝を認めろよ。十秒やる」
「く……うっ!」
効果はテキメンだった。命より大事、なんて文字で見たときゃ大げさだなと思ったが、妖夢の様子を見るに実際その通りなんだろう。
「十、九、」
あたしが秒読みする前で、ブルブルと全身を震わせながら歯を食いしばっている。両手を握りしめてる。寄せた眉間をよじらせて、ああ、涙までにじんでやがら。
あたしの言葉から判断すりゃ細工したのは片方だけって可能性もある。けど、イチかバチかで仕掛けることはできねんだな。剥き出しの感情は、刀が壊れる確率が1%でもやれねェって示してっしよ。
「八、七、」
同時に自分の主に対する気持ちも重いもんなんだろう。だから、さくっと負けを認められねーのな。
あたしの要求は主に会うことだ。妖夢にとっちゃ大して脅威にもならねェような虫けらに過ぎなくても、ほんのわずかでも自分の主に対して不利益になることはそう飲み込めない。
理解できる。あたしが長に持ってる思いだってそうだからだ。長のためなら死んでもいい。逆に、自分のために長が危険な目に遭うなら……想像もしたくねェや。
「六、ご、」
わかるわ。こっちにしかめっ面が感染りそうになるくらいわかるわ。
命より大事な刀と主を天秤に掛けさすって、どんだけの地獄だよ。それをあたしの嘘が起こしてる。煮えた油を飲ませるような嘘だ。
こんなバカ正直に真っ直ぐ生きてそうなヤツを、ちっとの恨みもねェんに口だけで地獄に落とすのか、あたしは。
「よ、ン……ああ、クソ! クソったれ!」
ついに吐き捨てていた。
妖夢の目が丸くなる。
あたしはバリバリと頭をかきむしる。強くかき過ぎて、頭皮があちこち削れて跳んだ。それぞれがウジ虫になって這い寄ってくのに目もやらず、手の中の物を妖夢に放る。
片手で受け取った妖夢はそれを見つめる。安心したか、それとも不審に思ったか、表情からはわからない。ってか、相手の顔を観察する余裕なんざ、今のグチャグチャな頭ン中にあるわけねェ。
「ただの汚れた木片だよ。どうせ蜥蜴の作ったゴミだろ。あたしはお前に何もしてねェのさ。ハッ、こんな三文芝居、もうどうでもいいや」
茂みまで歩いていって、手を突っ込む。紙を引っ張り出して千切った。半分の半分の、さらに半分の半分にして宙に捨てると、強い風に紙吹雪となって石段の向こうへ飛んでいった。
「弾幕勝負も無しだ、無し。あたしが手ぶらで帰って長に叱られりゃいいだけの話だ。その前に蜥蜴はぜってェ一発ぶん殴るけどな」
背を向けて透明な羽を震わせる。乱れ雲、明かりの落ちた空が複眼に映った。風は今も強ェし、乗っていきゃあ早く沼に帰れるだろう。けど、長にどう謝ったらいい? バカなあたしに任せた蜥蜴がバカだったってことにしても……気が重てェ。
「あっ、あの!」
「これからは大事なもんにゃ目を離さねェこった。つっても、実際何かしようとしてたら気づかれてたんだろうけどな。じゃ、あばよ」
言い捨てて飛び立った、はずだったのが、「待ってください!」と片足をつかまれてガクリと景色が落ちる。
「どらんぶるっ?!」
「みょん?!」
あたしは珍妙な叫びを上げて石段に身体の前面を打ちつけていた。あたしの片足を持ったまま、妖夢も無様にこけていた。
「な、何しやがる!」
「すっすみません! でも、何かしらの事情があるんですよねっ?」
「いいからまず足を離せって!」
いくら澄んだ目で見つめられたって、倒れたままじゃマヌケな話しかできねェ。
妖夢はまた謝ってから立ち上がる。あたしも立ち上がった。石段の上下が身長差を埋め、互いの目線が近くなっている。
「何か困っている様子だったので、あの、相談に載れたらと」
「あン? あたしがお前を困らせたんだろ。どういう筋合いでお前に助けられんだよ」
「いえ、その、でも何かできるのだったら、させてもらえませんか?」
「わけわかんねェ」
何だ、こりゃ。やり取りがとんちんかんにも程がある。陥れようとした相手に気遣われて、そんでそれを拒否るって、どうしてこうなった。あたしは理不尽な要求をこいつにしようとしてたんじゃねェの?
「できるもできないもねェだろ。お前ンとこの主に顔を合わせて頼み事するってのを、あたしみたいな『沼』の不審者に許すのかよ」
「それは……」
「だから弾幕勝負を挑んだんだよ。幻想郷のルールじゃ負けたら相手に従う理由になンだろが。それももうどうにもならねェけどな」
「改めて弾幕勝負をするのはどうですか? 私は構いませんから」
「勝負になるわけねェだろ! どんだけ力の差があると思ってんだ! そもそもあたしは弾幕は撃てねェし、あのコスい手がダメになっちまった以上、終わりなんだよ!」
「弾幕を撃てなくても、弾幕勝負はできます。力の差を埋める配慮はやりようが……」
「ねェーっての! あたしの能力はこの世にいる蝿以上のもんにゃならねェんだから! 同族にセフェノミアっつー時速1308㎞でカッ飛ぶ蝿もいっけど、んな音速超えるようなヤツとは違って、しょぼい上に融通が利かねェの! たとえばな、」
あたしはバカだが、蝿のことに限りゃスラスラ説明できる。
「タイコバエみてーな寄生系を使えば、脳髄をすすって好きなように操れる。自殺に至るまで自由自在さ。でも、すすった脳髄を元に戻すのはできないんだぜ?」
最近じゃ猪をゾンビ化させて「沼」へ連れていった。長はボタン鍋が好きだ。
「あと、ニクバエ系なら生きた肉を食らって身体に食い込めるが、大したダメージにはならねェ。そっち方面ならラセンウジバエくらいじゃねェとな。けど、肉の全てを積極的に腐らせて食らい尽くすなんて凶悪なもんに、どうやって手加減しろってんだ? 不可能だ」
だから弾幕勝負なんざ無理なんだよ!と言い立てるあたしだったが、妖夢に全然動じている感じはなかった。実力差からすりゃあ当然だろーけど、その表情がイラつかせる。
平静な上に、薄笑いが浮かんできていたのだ。
バカにしてる笑いなら見慣れたもんだが、そうじゃなくって、何つーか…………穏やかな優しいもんだ。あたしがしゃべればしゃべるほどニコニコとしてくるように見える。くそっ、何だってんだ。
あたしの口が止まってから、妖夢は耳に入った言葉を脳に染みこませるような間を空けて、うなずく。そしてこう言った。顔と同じで穏やかな声だった。
「ありがとうございます」
「はァ?!」
今、お礼を言ったのか? 言われたのか?!
「ですが、ご心配には及びません。やはりやりようはあると思いますよ」
「ちょっと待て! あたしが心配してるって? 蝿ごときがお前を? ンな身の程知らずじゃねーぞ! それとも嫌みな謙遜かよ、コラ!」
妖夢はまたうなずく。そのいかにも「わかっていますよ」っつー笑みがさらにムカつかせる。あんな顔をさせたあたしに、今はこんな顔を向けている。わけわかんねェ。
「第一、お前にどんな得があんだよ! 弾幕勝負なんかしねーで、お家に帰りゃいいじゃねェか!」
「お互い損な性格をしていると見られて仕方ないかもしれませんね。けれど、少なくとも私はあなたを悪く見ることはできません。このまま帰らせてお咎めを受けるようなことはさせたくないんです」
噛み合わねェな、話。それともあたしがバカだから理解できねーのか?
「この場限りの特別ルールを設けましょう。あなたは刀で何度斬っても大丈夫な身体をしていますよね?」
少なくともこいつはあたしより頭はいいってのは事実だ。確かに何にもしねェで「沼」に帰って問題無しとはいかねーだろうし、チャチな能力しかねェあたしでも切り刻まれることに対しては強い。
「ほら、先ほど多数の形でバラけていたじゃないですか」
やっぱ何かおかしかねーか?という気持ちはベッタリした油汚れのようにぬぐいきれないままあったけども、話に載るのに反対する理由はバカな頭じゃ思いつかねェ。載らざるを得ねーってか、くそっ。
「あーそうだよ。あたしの身体はたくさんの『あたし』が集まってできてる。『あたし』はどれも『あたし』で、簡単に増やせンだ。交尾しなくてもウジ虫のまんまで自分の分身が生める──単為生殖・幼生生殖って蝿の能力さ。試しにウジ虫一匹をゴミの山に放ってみろよ。あっという間にウジャウジャ増えっから」
「機会があればやってみます。ないとは思いますが」
そりゃそうだ。何を言ってんだ、あたしは。
「とにかく最後の一匹がやられるまでは生きてっから、問題ねェのはその通りだよ。で、何が言いてェのさ?」
「こうしましょう。お互い弾幕は撃たず、飛び道具も使わない。私があなたを真っ二つに斬ったら、私の勝ち。あなたが突きなり蹴りなり私に一撃を加えたら、あなたの勝ち。それで弾幕勝負をするんです」
「……一回勝負でいいんだな。それ以上は付き合わねェぜ」
「はい。お付き合いいただき感謝します」
「ふン」
雲が割れて陽の光が差してきた。風もいくらか落ち着いてきたみてーだ。枝葉が騒ぐのをやめた分、互いの声がくっきり聞こえる。
「では、やりましょう。──その位置で?」
「ああ、ここでいいや。始めろよ」
自分の態度さえしっくりこない何が何だかな状況になってる。けれど、
「わかりました。行きます」
けれど、妖夢が腰の刀を抜いたら、全部がギュッと引き絞られた。外側も内側も。
真剣勝負だからな。強者相手に底辺のあたしが気を抜くなんてできるはずねェが……いや、ンなのと関係なく、妖夢がその気なのがビンビン伝わってきて、あたしの意識も一つに集中されるんだ。
妖夢が腹の位置で刀を構える。一歩踏み込みゃこっちをぶった斬れる距離。頭の触角がしびれる。
そういや弾幕勝負って死ぬこともありえるんだっけ? するってェと、妖夢が弾幕勝負にこだわったのは、勝負にかこつけてあたしを殺そうとしてるってこともありうるか?
ハッ、ねェな。
自分でも鼻で笑っちまうくらいバカな妄想だ。だまされた恨みであたしを殺すンなら、弾幕勝負なんか仕掛けなくたって一瞬でやれらーな。
それに、こんな殺気も敵意もない面して、腹の中でごちゃごちゃ考えられるはずもねェしよ。蜥蜴じゃあるまいし。と、やべッ。
「やァッ!」
駆け抜けながらの横に一閃。ギリでかわしたが、空気の圧力で脇腹に切れ目が入ったかと思った。
かわしながら後ろに回ったンで、銀髪の後頭部が見える。チャンス、じゃねェ!
「しッ!」
出しかけた手を引っ込める。返す刀が斜め上に走っていた。今度は錯覚じゃなく斬られた。深さ2センチ。全治3秒。
それでもあたしは懲りずに後ろへ後ろへと回ろうとする。石段には段差があるが、すでに飛行してるんで足を取られることはねェ。
妖夢の死角を取ることもできねーがな。つま先でふくらはぎに蹴りを入れるっつーコスい手を使おうとしたら、きっちり避けられてスネに傷を持たされた。この野郎、うなじにも目が付いてんのか?
いつでもどっからでも攻撃が襲ってくる。縦に刀が落とされ、横に刀が振られ、斜めに刀が切り上げられる。わずかな隙にこっちの手足を差し込もうとしても、そのたんびに新しい切り傷を頂戴する。身体のどこかを当てるだけが、恐ろしく遠い。
妖夢の周囲1メートルに透明な膜が張ってあるみてーな幻さえ見えてくる。そこに手とか突っ込むと蜂の尻に触れるくらいの確実さで痛い目を見るんだ。そんなのが、こっちから近づいていかなくても、向こうから突っ込んでくる。どうしろってんだよ。
方向やタイミングは何とか察知できるンだがな……身体が追いつかねェや。
人間のまばたきは一秒の半分、そんでたとえばカスリショウジョウバエなんかの反応速度は一秒の100分の1だ。やべェと思って避けりゃ大抵は大丈夫なのを、こうして身体じゅうを刀傷でチェック入れられてんのは、妖夢の速さがそれ以上って、まァ単純な話だ。こっちがどう動くかって予想するのが的確ってのもある。
あ、ヤベ! ──で、また斬られた。チッ、背中の羽を全力でブンブンうならせても限界は限界だ。スズメやコウモリの羽ばたきする数は一秒間に十五回。あたしら蠅は一秒間に二百回だ。これ以上のことはそうそう望めんわ。蠅は蠅を超えられねェ。
そういやいつの間にか空中戦になってる。空と地面がグルグル入れ替わる。木の幹も背に来たり頭に来たり尻に来たり。あたしと妖夢を中心に景色は回転し続ける。それ以外に状況は変わらねェ。
あたしは頭上から足下へまでを狙い、体勢も横や逆さまになって曲芸かましてんのに、妖夢は地上戦に劣らねェ動きを見せやがる。空中停止からの猛ダッシュ、ふいの後退、急旋回なんていろいろやっても全然釣られねーのな。たりめーか。あたしら弱者のモノサシで考えるなって話だぜ。
そもそもここまでマトモに戦えてるってのが奇跡なんだよな。腹の立つこったが、「付かず離れずの距離を保てば勝負にはなる」って蜥蜴の言葉通りだ。ギリギリもギリギリの崖っぷちで、まだ負けてない。
けど、何だ。何つーか、あれだ。あたしの胸ン中で引っかかってる「これ」。違和感。……目の前の、マジに妖夢の実力か?
余裕シャクシャクってわけじゃあないんだよな。真剣にやってっからこっちも真剣にやれる。そうでなけりゃ付き合ってられん、適当に負けてハイサヨナラだ。こいつの真剣は確かに真剣なんだろうさ。
澄んだ目に嘘はない。刀を振って宙を走るその動きは、ただただ真っすぐ。──それでも、だ。
傷つけられまくりの身で変だってのは承知で、思う。本気の本気じゃないだろう。実力の全部を出して勝ちに来てないだろう。なあ? 違うかよ、妖夢。
こっちが手を出したのを迎撃する以外、妖夢の攻撃は真っ二つに斬るためのものに限られてる。突いてくるものもなければ、フェイントとか牽制とかもない。そうなるとパターンが読めるような単調なもんになってくるよな。
弾幕勝負ってのは相手に勝つ道筋を残してやるのが言わずもがなのルールになってるって聞いたことがある。そういうことなら筋は通ってるって見方もできるかもだけどよ。
「──ッ!」
進行方向真っ正面に刀がカッ飛んできてた。身体を回転させるようにひねって回避、しきれずに前髪と額をカットされる。
ケバいピンクの線が散る向こうで、妖夢の顔を見た。
眉がヒクッと縮まり、唇にキュッと力が入る……ほんのわずか、時間にすりゃコンマ数秒のことだ。「そういう想定」で見なきゃ見過ごすもんだろう。が、「そういう想定」で見ちまったあたしは見て取っちまった。
思わず気遣ったかよ、女の顔を傷つけて。
「ざけンなッ!!」
怒りを吐き捨てると妖夢が身体が硬くなる。その間にあたしは思いっ切り後ろ向きに飛んで距離を開けた。
妖夢が距離を詰めようとするのを、にらみつけて止める。近寄んじゃねェよ、てめーは!
今となっちゃ、凶悪なほど長い刀が背中で納まったままにいるのもムカついてしょうがねェ。
確かにこちとら底辺だ。ナメられるのは慣れっこだよ。けど、そういう情けをかけられんのはヘドが出る。
クソだ、クソ。排泄物に群がる蝿の身からしたってクソだ。ションベン臭えガキ扱いしてんじゃねェぞ!
蜥蜴の言葉を思い出す。こうも言ってたな。『隠れる場所もないのに大きく離れるのは一番の悪手だぞ。幻想郷最速の一撃が来かねない』
いいこと聞いたぜ。「一番」に「最速」か。やってもらおうじゃねーか。
もういいだろうって位置で石段に足を着け、段の下にいる妖夢へ右手を突き出し、風をかきむしるようにして招いた。
「来いッ!」
見上げる妖夢の表情は、変化するようなしないような、けど確かに変化しているというアジサイみてーなことになっていた。
呆けた白に、物思う青、火の灯る赤、意を決する紫。
妖夢の足も石段に着いた。刀は再び腰に納められる。
左手で鞘を、右手で柄をつかんだ、低い姿勢。
それが複眼に映ったとき、あたしの中の「あたし」たち全てがビビビッときた。頭のてっぺんから足の先まで警戒・警戒・警戒。ワーニングの嵐だ。今すぐバラバラに飛び散って逃げようって考えさえ込み上げた。こいつはマジやべェ。今までの比じゃねえ。
絶対斬られる。絶対避けられねェ。石を上に投げたら下に落ちるくらいの当り前さでわかってしまう。何をしようが無駄な抵抗だと知らせる圧力。実際どんなのか目にする前からこれかよ。いや、どうせ目にすることも不可能なんだろうさ。
「蠅は速ぇー」なんてクソくだらねーオヤジギャグがあるが、そこらの蠅の飛行スピードはそんなでもなく時速7キロくらいだ。蜂が20ちょいで、トンボが30ちょいってのを考えりゃ、むしろ「蠅は遅ぇー」のがしっくりくるわな。「蝿の止まる速さ」ってのはやっぱりノロマなわけだ。
それでも高スピードなイメージがあるのは、他にはない反射的な避けと空中でのトリッキーな動きが可能だからだ。さっきまではそれでどうにかなってた。
もう通じやしねェだろう。動く暇もなくやられるから逆立ちしようがどうにもならんし、目にも留まらねェならどんな反応もしようがねェ。ハッ、あんまし差がボーダイ過ぎて、逆に余裕が出てきやがったぜ。
つーか、接近戦のときもろくすっぽ見えちゃいなかったけどな。刀が走る直前までの状態からどうにか判断つけてただけだ。それももうさすがに──……んん?
妖夢の目は見るともなしにあたしの全身を見ているようで、特に腹の辺りに視線を感じる。刀を抜くのも真正直にそのまま横一直線にやって、斬るだろう、腹の辺りを。
いやいや、バカな考え起こすなよ、バカ。どこに攻撃が来るのかわかったって、よけられねーんじゃ文字通りの一刀両断で終わりだろ。
「行きます」
妖夢の宣言。
ああ、来る。妖夢の目の光が、そして身体のあちこちの光が、強く輝き出す。そんな風に感じられる。
あれがギュッと縮まったとき、この距離を稲妻のように駆け抜けて、あたしの貧相な身体を切り裂いていくんだろう。
やれやれ、あんな気持ち悪ィぬるま湯ン中の生殺しよりゃ全然マシにしたって、さんざん骨を折ったあげく切腹エンドかい。
けど、もう何にもできねーんじゃ覚悟決めるしかねェよな。侍みてーな潔さとは無縁のあたしだが、生きられねェなら泥水はすすらない。意味ある何かができるってのなら何だってすっけどよ。
……ん?
おい。
おいおいおい。だから、何を思いついてんだよ、あたし。
バカだろ。ああ、もう、マジにバカだろ。
意味ある何かつったろ。意味ないかもしんないことをやるのかよ。そりゃ逆に言や、意味あることかもしんねーけど。
ふと、ゴチャゴチャ考えてる頭に何かが載った。感触から風で飛んできた杉の葉の一房だとわかる。払い落とす暇もねェし、ま、あたしにお似合いのカチューシャだな。間の抜けたこった。
ハッ、わかったよ、ったくよ。あたしがバカなのは今さらだよ。
バカはバカらしくバカやってやらあッ!
──そして、
妖夢。光。雷。
あたしは、やった。
「 」
妖夢がポカンと口を開けている。
あたしは思いっ切り斬られている。
足の裏からスネ、膝をさらに進んで太ももの根本まで。そこで刀は止まっている。
ここに来るだろうって剣の通り道に、片足を持ち上げておいただけだ。単純にも程がある思いつきのバカな手、いや足だったが、真っ二つになるのは防げた。胴体を斬るつもりの力じゃ、その倍以上の物を斬るには足りなかったわけだ。
開いたままだった妖夢の口が、小さく開閉する。
「真剣白刃取り……」
そういう技なのか、これ?
あたしは片足を振り上げて。
妖夢は片足を斬り裂いて。
そのまま二人でお見合いしていた。
時間にしちゃ短いもんだったろうに、やったら長く感じた。
あたしが刀を受け止めてから先のことを何も考えてなかったとお互い理解した時、妖夢の背中の刀があたしを真っ二つにして、勝負は終わった。
やっぱあたしはバカだった。
はいはい、負け負け。じゃ、あばよ。
っつーふうに、ようやっと沼に帰れると思ったら、
「な、何しやがる!」
「すっすみません!」
あたしは地べたで妖夢を怒鳴りつけていた。こんなこと、前にもなかったか?
妖夢はあたしがさっさと飛び去ろうとしていたところを、足をつかんで止めて、一緒に石段に倒れ込んだのだった。
妖夢は「みょん?!」、あたしは「ぶらんどるっ?!」と叫んだ。
やっぱ前にもあったな、同じこと。何か昔に思える。
「用事が終わったんだから帰らせろよ! 力ずくで引き留めんな!」
「で、でもまだ言いたいことが!」
「言いたいことって何だよ、これ以上何があるって?!」
自分で言うのもなんだが、負けたくせになんで上から目線なんだろうな、あたし。って、これまた似たようなことを何度も考えてんな。
「言いたいことですか、え、えぇと……」
「それを今から考えるのかよ!」
「いえ、その、ちゃんとあるんです。ただ、たくさんあって、まとまってなくて、」
「あやふやなんじゃねーか! ったく、あたしもバカだけど、お前も相当のバカだな!」
「あなたはバカなんかじゃありません!」
「?!」
予想もしない勢いで返された。そういう台詞を言われたのも初めてだ。
「あなたの心意気、判断力、発想は愚者には到底持ちようのないものです! 私はこの短くも濃い時間の中で何度も感銘を受けました!」
「そ、そうかよ」
今度はこっちが圧されている側になった。何だこのカウンター。
「そうだ! 心の面では申し分ないし、体術の面でも間合いを見切ってかわすなど非常に基本ができていますから、よろしければどうでしょうか」
「?」
「剣の道を志すつもりは!」
「いや、ねェよ」
突然何を言い出すんだ、こいつは。接近する顔にのけぞる形になる。鼻息を荒くして迫るなっての。
「あなたほどの芯があれば、かなりの領域にまでいけるように思うんです。ですから──」
言葉を差す。
「あのなぁ、道具を使う蠅なんていねェだろうが。逆にお前は剣を捨てられんのかよ」
妖夢は口を開きかけて、閉じる。間をおいてから、言った。
「すみません、失言でした」
そうだろうさ。今までの生き方を気易く変えられるわけがない。んな当り前のことを考えずに物を言いやがって。
ったく、腹が立つ。まんざらでもねぇ自分にも、だ。
「話はそんだけか? あたしじゃチャンバラごっこにも付き合えねーから、他を当たんなよ。じゃあな」
「あっ、待ってくださ」
このパターン。さすがに学習したあたしはビクリと片足を引いて振り返った。
妖夢もビクリと伸ばした手を引っ込めて見つめてくる。
またもやお見合い。
「くっ」
「あはっ」
「はははははっ!」
「あははははは!」
そして大笑い。
まあ、ここまでネタを重ねられたんじゃ笑うしかねェよな。
サツバツから始まって、キッタハッタが続いて、終いのここで笑える場面になっちまうってのも笑える。こんなひとときになるって誰が想像できるよ?
両端を揺れる木陰で挟んだ日差しの下、笑い声はしばらく石段を渡った。
あたしが腹から手を離す辺りで、妖夢は指先で涙をぬぐいながら言った。
「それではご案内しますね」
「は?」
どこに? 何で?
笑いの余韻も吹っ飛び、あたしの顔は役立たずの口の代わりに疑問を表す。
妖夢はそんなの当然でしょうと言わんばかりに、
「幽々子様のところへです。会見をお望みでしたよね」
石段の上へと歩き、あたしに目を遣りつつそのまま上っていこうとする。こちらは微笑みが浮かんだままだ。
「は? はァ? はあ?!」
おい、コラ、あたしのバカさ加減がボケ老人の「あーうー」レベルにまで進行してきた感じになってんぞ。
何か聞き逃してたか? ンなはずはない。こいつの思考が何かの間を蹴っ飛ばしてんだ。
「あたし、負けたよな?!」
どうにか、台詞を吐き出した。
「はい」
妖夢は歩みを止めず、頷く。
「ですから、」
一度は弱まった風が、また強くなってきた。木のざわめきも大きくなって、距離が離れると妖夢の声が聞こえづらい。あたしは石段を登る。もっと近寄らないと。
「負けた方が相手に従うというルールに則り、私に付いてきてもらうわけです。おかしなところはありませんよね」
「そういやそうだな。……いやいや! そうじゃねェだろ!」
危うく納得しかけた。そんなんだったら、蜥蜴が小細工を仕掛けるこたなかったし、弾幕勝負なんざただの手間だった。
「あたしみてーな不審者を、大切なご主人様の前に連れていっていいのかよ!」
妖夢はもうこっちを向いてなかった。歩みも小走りになっている。あたしが付いてくることをちっとも疑ってねェ。
「不審者って誰のことですか? あなたは自分が本当に純粋で真っ直ぐであることを何度も見せてくれたじゃないですか。信頼に足る存在であることを弾幕勝負で証明したじゃないですか。勝負の結果など関係なく、私は自信を持って、剣士としての自分を懸けて、あなたを客人として出迎えたいと思います」
妖夢の足はさらにスピードを上げた。けど、それ以上は上げない。あたしの付いていけるスピードだ。
風と日差しの中を突っ切って、剣士と蝿は健康的に爽やかに仲良くお家までランニングってかい。
くそッ。
小さくつぶやいて、舌打ちした。
だから人間ってのは好きじゃねーんだ。
自分勝手で、わがままで、上から目線で、ゴーマンで、自己中心的で、感情的で。
なのに嫌いになり切れねェから。
▲ △ ▲
目論見通りいったのですかって?
そうですね、上手くいき過ぎて驚いてるくらいです。
謙遜はしてませんよ。何から何まで計算通りにいくなんて、普通はありえないんですから。台本があって役者がその通りに演じてくれたとしても、どこかでイレギュラーが発生するものです。それが全然なかったというのは、幸運以外の何物でもないでしょう。
ああ、咲夜さんは言っている意味がよくわかりませんか? イレギュラーはないって、そのままの意味ですよ。本当にそのまま。話からするとイレギュラーだらけに思えたかもしれませんがね。
自分が授けた策を蠅ちゃんが破り捨てたという件についてはですね、そりゃ確かに「戦わずして勝つ」のが兵法では上策ではあるんですけど、魂魄妖夢氏への脅しが上手くいっちゃうと却ってまずかったんですよね。
だって、その場はどうにかなっても、その後のお願いが聞き入れられるわけないですから。本人に斬られるか、その主人に死を賜るか。それは蠅ちゃんにとっても自分にとっても勘弁です。
あれは、そもそも蠅ちゃんに投げ出してもらうために作った策だったんですよ。まあ、投げ出してもらうことこそ策の内とも言いますか。
それだけ彼女は相手の弱さを衝くというのが嫌いでしてね。で、彼女の心意気に感じ入った妖夢氏は弾幕勝負を自分から挑むことになるだろうと。
あはは、そんなにスムーズにいくのは解せませんか。
蠅ちゃんには言い含めてありますからね、「要求や揉め事は、本来弾幕勝負でケリをつける」というのと、「命令を投げ出したらお咎めがある」というのとを。
すると彼女の吐き出す言葉にそれとなくそういう内容が入り込む。妖夢氏にとって蠅ちゃんをそのまま帰還させるのは気が引けるでしょう。仁義にもとるとさえ思ったかもしれない。それで弾幕勝負を提案することになるわけです。
妖夢氏の性格は、あなたのところの門番をより初々しく、より固くした感じだと推測しています。伝聞と第一印象によるもので不確実ですけどね。できれば長期間観察していたかったし、直接接触したくもあった。でも、できないことを求めてもしかたないですし、結果として見立て通りだったから上手くいったわけで、まあ良かったですよ。蜥蜴の分析力もそう低くはないみたいです。
さて、弾幕勝負ですが、勝敗は五分五分といったところでしょう。接近戦である限りはね。
あれで結構強いんですよ、蠅ちゃんは。蠅って弱そうに思えますけど意外と能力はすごい。確かに飛行スピードでいえばトンボや蜂には劣ります──ある種の蠅はそれを上回りますが、昆虫最速はヤンマ系に譲りますしね──でも、ブルーインパルスも裸足で逃げ出す曲劇飛行はお手の物なんです。
昆虫に四枚備わってる羽は、蠅には二枚しか見当たらないように見える。でも退化してほとんど飛行の役になってないような短い羽には、ちゃんと役割があるんですよ。
外の世界にはジャイロスコープって装置があります。自己の位置をどのような体勢でいても正確に認識する装置なんですが、そのハイテク機械の役目をくだんのチャチに見える羽が担ってる。どんなに滅茶苦茶な動きをしても、その角度・速度を見失うことはないんです。
動体視力もいいですよ。河童が最近縁日などで公開してる「蛍光灯」って知ってますか。あれの光は一秒に百回点滅しているのですが、人間の目にはずっと光っているように見えます。でも、蠅はそれを点滅していると認識できる。それくらいにはいい。
だから、付かず離れずの距離を保っていれば勝機はあるというので……あー、まあ、もちろん実力差は雲泥ですよ。自分たちは自分たちが弱者であることを知ってます。
勝機があるといったのは、弾幕勝負の作法に則って「勝ちの目を用意してやる」というのが為されていることと、さらに妖夢氏が「特別の計らい」をしてくれるという条件があってのことです。
でも、それらがないような事態って想像できます? ……でしょう? とってもわかりやすい。だから、蠅ちゃんが自分の得意分野で戦い続けていれば、勝つ可能性は十分にあった。まあ、戦い続ける可能性の方が全然なかったんですけど。
だって蠅ちゃんの性格からすると、自分の利点を自ら捨ててしまうことはほぼ間違いないわけでしてね。こっちもこっちでわかりやすい。本当、どうにもこうにもならないくらい弱さを衝くのが大嫌いで、正々堂々が大好きなんです。自分が弱者だって知っているのに、タイマン張るなら真っ正面からやるって気質で。
いやはや、一昔前の熱血ヒーローそのものですね。長も自分もそんな彼女が大好きです。そして、我々と同じだけ妖夢氏も好きになってくれたでしょう。
ええ、ですから負けても要求は受け入れられると思ってました。目論見通りですね。
弾幕勝負に至った時点で、蠅ちゃんはほぼミッションコンプリートしてたんですよ。勝っても負けても、妖夢氏は頼みを聞いてくれる。自分がやってほしいことをやってくれる。
妖夢氏の主たる西行寺幽々子氏の許可は一応得ておきましたが、やることといっても先の異変にしたことをちょこっとするだけで、片手間でできることです。仮に幽々子氏の許可がなくても、妖夢氏ならやってくれたでしょう。愛すべき蠅ちゃんのために。
何を、って、やだなあ。この話は会場作りのものだって言ったじゃないですか。幽々子氏に会うこと、依頼することはステップに過ぎません。白玉楼の起こした異変、その力を借りた会場作りをしたかったんです。となると、どのような会場になるか、おおよその見当はつくのでは?
ともかく、この件についてはほぼ100%上手くいきました。僥倖と言えるでしょう。
望ましくない唯一のことといえば──知っているでしょう?──この酒宴に興味を持っちゃったんですよ、白玉楼の主が。気まぐれで誰も彼も死に誘える亡霊の姫が。で、今現在、沼の珍味に舌鼓を打ってるってわけです。さっき川魚のカマボコが品切れになったというのは、まあ、それが遠因で。
参りましたよ。こちとら吸血鬼とその従者だけでも手一杯だというのに……あ、いえ、何でもないですヨ、さ、もう一杯どうですか、ね、ね。
そうだ、もう一つ望ましくないことがありましたよ。
蝿ちゃんがプンプンに怒って自分に突っかかってきたんです。怒りの度合いは相当なもので、まるでバックグラウンドミュージックに「くまんばちの飛行」が流れてるようでした、蠅なのに。
合間合間に罵声を入れながらの攻撃がしばらく続きましたねぇ。身体中食い荒らされそうになったり、脳を乗っ取られそうになったりと、なかなかスリリングな一時でした。それだけ魂魄妖夢氏に情を感じたということですが、まあ、予想の範疇ではあるんで「望ましくない」というのはやっぱり語弊があるのかな。楽しんでますしね、自分。
──またそんなタチの悪いご冗談を。
自分たちは身の程を知っていると十二分にお伝えしているはずですよ。
「蝿にせよ、お前にせよ、それだけの能力を持っていて、なぜ力がないと自己卑下する?」などとは、普通なら一生耳に入ることはない言葉です。
ほら、メイド長さんも「少なくとも人間よりは上でしょう」などと乗っからないで。あなたこそ蜥蜴を穴だらけにした「人間」その人でしょうに。
ミョニョコンだって、全身から毒液を噴出する能力があったのに、一切反撃の手段として使わなかった。身の程を知ってますからね。
確かにおっしゃるような思い違いをした者を知っていますが、「沼」の住人にはいませんよ。その彼女をスカウトしに行けとの指令が下されたんですけど、残念、間に合いませんでした。
諸事情で精の付く食べ物を山の麓で探していた彼女でしたが、たまたま出会った人里の子供にちょっかい掛けられましてね。石を投げつけられたのだったか、あるいは馬面を揶揄されたのかな、それとも馬を鹿と言われたのだったか……ともかくこれまた諸事情で気の立っていた彼女は、その子供をコブができるくらい殴りつけた。
本気でやれば頭蓋骨骨折くらいはできたでしょうから、それなりの手加減はしたんです。子供は泣いて駆け去った。
さて、どうなったか……なんて、いちいち言うまでもないような当然の結果ですよ。彼女は死にました。死因は出血多量に内臓破裂、全身骨折に脳挫傷。平たく言えば袋だたきに遭ってズタボロにされたわけです。
そりゃあ村総出で山狩りが行われればどうにもならないでしょ。巣の近くでスズメバチ一匹殺して強さを誇るほど馬鹿なことはない。人間というのがそれ以上に数多く恐ろしい存在だってことを、底辺になり切れなかった彼女はわからなかったんでしょうね。いや、底辺云々は関係ないか。
そう、あなたでさえ理解していることを、妖怪の身でわきまえてないなんてのは致命的です。人間こそ恐るべき存在だとの認識は必須。それがなければ、早晩命を失っていますよ、彼女のようにね。だから先ほどのをタチの悪い冗談だと申し上げたんです。一番弱い妖怪の我々より弱い存在はいない。そこを思い違いすると──無知は罪であり、罪の罰は死。くわばらくわばら。
まあ、それでも何とか彼の命だけは救い出せて、今では「沼」の住人として楽しくやっていますよ。ほら、向こうにムクロジの水溶液を葦のストローで吹いてシャボン玉を作ってる……
っと、変な顔しないでください。矛盾はしてませんよ。ちょっと言葉が抜けていて、死んじゃったり生きていたり、彼女だったり彼だったりと混乱させてしまったようですが。
要するに、彼女は妊婦だったんです。そのお腹から子供を取り出して、保護したというわけでしてね。彼は長の計らいで犬と鶏の養子になりました。あはは、どうでもいいことですが、そこに猫が加わったらブレーメンの音楽隊になるんですよねぇ。あと一歩、実に惜しい。第二の養子のツテがあればご紹介願います。猫ですよ、猫。
不幸? その亡き母が? いやぁ、死を悼む意味でお愛想を頂戴するのはありがたいですけど、報いとしては正当なもんでしょう。
殴っただけで殺されるのは割に合わない、ですか。では、今この場で自分がお二人方のどちらかをポカリとやったら、その後の命は保証していただけるんですね。
だから、もう、ねえ、仮の話ですよ。言葉だけでナイフを取り出さないでくださいってば。あんまり殺気を向けられると、思わず尻尾を切り離しちゃいますって。もしくは反射的に擬死行動取っちゃいますよ。嫌でしょ、ビチビチ跳ねる肉の丸太、または死体然とした爬虫類が付近にあるのって。
いくら自分でも意味のない自殺行為はしません。意味のある自殺行為ならいくらでもやってますが、まぁ、とにかく、答えは出てるわけですね。
「目には目を、歯には歯を」のハンムラビ法典でもありますよ。奴隷が一般人を殴ったら、耳を切り取られる。一般人が女奴隷を流産させるか殺すかしたら、罰金を払う。これこそ平等というものです。底辺が殴ったなら、その後リンチされて殺されるってので、天秤の釣り合いは取れる。流産しなかったのは抒情酌量の余地があったからってことで片付けときましょう。
さて、そんなことより会場作成の話も一段落したところで、自分の対戦相手が誰なのか予想をつけてみませんか。
まだ全然ヒントを出してないから当てようもないとは思いますが。
ええ、白玉楼の方々は違いますよ。妖夢氏には会場作成のためにご足労いただいただけで他意はないですし、幽々子氏と共にこの宴会に参加しているのは予想外の事態なんですから。
おっと? 「あいつ」とは? その指の先は……
氷精ちゃんとその友人たちが見えますね。そうですか、自分が以前水切りやあっち向いてホイで熾烈な争いを行ったのを再度ご覧になりたいとおっしゃるわけですか。なんて、冗談ですよ。出し物を子供の遊びで満足させるつもりはありません。指はあそこの中心にいる彼女を指しているんですよね。
なるほど、トップクラスの実力者たる彼女、あそこで鍋奉行やってるのが目に入りましたか。「目に入る」というより「目を引く」の方が適当かな。目立ちますからねぇ、彼女。
浮いているとか悪い意味じゃなくって、人見知りのはずの「沼」の住人が自然と周りに集まって賑やかになっている。天性の人たらしといったところで間違いないですか? 異変の一件で彼女と紅魔館勢はやりあったと聞きましたが、はいはい、へえ、地下室ではともかく図書館ではネズミの如く嫌われてる? ふーむ、だとすると嫌われ者同士、馬が合ったのかな。
で、彼女が対戦相手だとする予想ですけど、確かに人間を脅威としておいて敢えてそれとやり合うというのはいかにも自分っぽいですね。
でも、今回は霧雨魔理沙氏と勝負する予定、ないんですよ。ヒントを出してないと申し上げた通りで、魔理沙氏が対戦相手ならこの場にいるという大きなヒントが用意されていることになってしまう。矛盾になりますよね。
では、何でここに彼女がいるかと言いますとね、白玉楼の主と同じく飛び入りで飲み会に参加した、というわけではなくて、会場作成とは別のことで協力してもらったんです。
あ、これは一応ヒントになるのかな。予想、付いてきました?
▲ △ ▲
私とアリスの一番の違いってわかるか?
どちらも魔法の森に住んでいる魔法使いだ。そしてどちらも金髪の美少女。その点ちょっとだけ私のが上だが、とにかくここまでは一緒だな。じゃあ、違いの方は?
白黒と七色のとこだって? バカ言うな、総天然色の星のスペルを見たことあるだろ。色鮮やかなのは私も同じさ。
パワー派と技巧派? それも違う。あいつはあれで力押しのところが結構あるんだ。自爆する人形を投げつけるなんて、技巧も何もあったもんじゃないだろ。
じゃあ、人間とそうでないのとという点だって? まーったく、わかってないなぁー。んなもんはチッチャイことなんだよ。
教えてやろう。私とアリスで決定的に違うのはな──キノコが好きかどうかだ。
……。
こらっ、笑うなっての! ここは笑いどころじゃないんだ! 真面目に聞けよ、どいつもこいつも……チルノ、お前が一番バカ笑いしてんだよ、その開けた口に煮えたコンニャク放り込むぞ!
ふざけて言ってるわけじゃないんだよ。大真面目に私とアリスの違いはキノコだって言ってるんだ。ってか、チルノ、いい加減笑い止めよ、ったく。
お前らみんな、たかがキノコって思ってるんだろ。アリスも同じで、さっぱり興味を示さないからな。人形を綺麗に着飾って華麗に動かすのには凝っても、薄暗いジメジメしたあちこちに生えてる菌類にゃ一顧だにしないんだ。
もったいない話さ。自分の人生からどけちまったもんに、どれだけ豊かな世界が広がっているか気づきもしないってのは。
ああ、このキノコ鍋、美味いだろ。どんどん食ってくれ。
「確かにこの美味しさを知らないのはもったいない」って? そう言ってくれるのは嬉しいね。けど、花より団子って言いたいわけじゃないんだ。それだとシイタケとかマッシュルームとか食えるキノコにしか目が向かないだろ。アリスと変わらんさ。
ええと、そうだな。ちょっと待てっな、確か鍋のこの辺りに……これかな。
ほれ、今、菜箸につままれている小さいのは何だと思う? お、さすがにこの鮮やかな赤を見知ってるヤツは多そうだな。そう、ベニテングタケだ!
──待て待て! お前ら、騒ぐなよ! 大丈夫だって、大丈夫! 見ろよ、メディスンはともかくチルノなんか落ち着いたもんじゃないか。
何? チルノはベニテングタケが何か知らないのか。結構有名な毒キノコなんだけどな。うん、毒キノコだぜ、これ。──だから青ざめるな! パニくるな! 吐こうとすんな!
大丈夫っつってんだろ、マジで! 毒があるからってそんなに怖がるもんじゃないんだ。ジャガイモの芽だって取り除いて食うし、梅干しも種の中身は食わないように言われたりするだろ。気を付ければ口に入れて問題ないんだよ。ああ、そういや、今飲んでるマムシ酒も毒蛇を漬けたもんだしな。
ベニテングタケの場合は量に気を付ければいいんだ。毒成分はイボテン酸。鍋の中に浸み出しているのは、この大きさからすれば大した量じゃない。というわけで、安心ってわかるだろ。
何のために入れたかだって? さっき言ったろ、イボテン酸を浸み出させるためだよ。出汁を取るんだ。
イボテン酸は毒なのと同時に強いうま味成分でもあるのさ。うま味成分の代表、グルタミン酸と比べると10倍ほどもうま味が強いんだぜ。こんな魅力的なもん、利用しない手はないよな。
まぁ、毒が美味いってのも罪作りかもしれんね。ベニテングタケを裂いてそこらに置いておくと、このうま味に惹かれてきた蠅が舐めてはボロボロ死ぬんだ。東北や信州じゃ「あかはえとり」なんて呼ばれて、蠅の駆除に使われてた。いや、日本の一地方に限らず世界中で使われてたな。英語での名前は「フライ・アガリック」──「蠅のキノコ」さ。
変に心配するなよ、リグル。さっきも言ったけど、量さえ取り過ぎなきゃ問題ないんだぜ。それにお前は蝿じゃなくてゴキ、もとい蛍だろ。気にせず味わえよ。こっちのみーずはうーまいぞ、ってな。
まだビクついてる風があんな。ちょっとでも毒があれば口も付けらんねぇってことになると、マツタケもダメになっちまうぜ。あれもたらふく食ったら吐き気がするんだ。むしろそんくらい食ってみたい気もするけど。
たくさん食わない限り大丈夫なもんは、他にナラタケ、ヌメリイグチ、トンビマイタケなんかがある。特にナラタケは、あの味を知っている人間にとっちゃ食うなって方が精神衛生上の毒になるくらい美味い。何だって適量食って幸せになるのが一番さ。
あー、ただ、その適量ってのが曲者かもな。
食うヤツの個人差ってのがあるんだよ。体質や体調なんかで毒性の影響が変わってくる。食われるキノコの方にも産地や時期によって個体差が出るね。
そんなだから国や地方で扱い方の変わるキノコも出てくる。
たとえば、シャグマアミガサタケは日本じゃ毒キノコで通ってる。毒は揮発性で、茹でたときに出たガスを吸っても危険な代物だ。でもな、学名にゃ「esculenta」ってあるんさ。「食用」って意味だよ。ヨーロッパじゃ、籠いっぱい入ったのが露天で並べられていたり、水煮の缶詰も売られたりして、ロルシェルの名前で親しまれてる。生煮えで食べて死亡した例もあるってのに、未だに美味しいキノコとして重宝されたまんまだ。まあ、私も食ってっけど。
逆に、外国で毒キノコ扱いなもんが、日本じゃ美味い美味いと食われているクリタケみたいなもんもある。実際、天ぷらにすりゃ最高だし、私も当たったことは一度もないぜ。ニワタケやゴヨウイグチも中国じゃ有毒ってなってるが、日本人の私はバクバク食ってる。問題はない。
え? 神社の宴会? ……ああ、あれか。私が持ち込んだキノコで酒のつまみをたくさん作ったんだっけ。でも、少なくとも私と霊夢は平気の平左で食い続けてたぞ。……他のみんなはって? あー、うん、そうだな、アレだ、死屍累々とだけ言っておくか。
いや、しょうがないだろ! 個人差があるって言った通りで、シモコシやキシメジみたく、広く食用にされていても死亡を含む中毒事件を起こしているキノコは珍しくないんだから。そう、何かと深いんだよ、この世界。
スギヒラタケってキノコがある。これは食べるにはもうほとんどアウトなヤツなんだが、それがわかったのはまだ十年ほど前のことなんだ。それまではずっといいキノコとされてきて、缶詰にもなってた。
転機になったのは、感染症に関する法律だったかな? それの改正によって原因究明が厳しくなって、結果浮かび上がってきたのさ、多数の急性脳症の原因にスギヒラタケが存在するってね。
腎臓に問題がある患者ほど重症化していることから、血球を破壊する毒性分が貧血を引き起こして腎臓障害を悪化させるとか、健康ならば正常な代謝で無害に薄められる毒が強いまんま残ってしまったとか、いろいろ言われて検証作業も続けられているが、まあはっきりしているのは同じような毒キノコの出現はこれからも起こり続けるってことだな。
何せ多くのキノコの毒性は、さっきの話からわかる通り、食べたヤツの症状が証明するんだ。食べては満腹の腹を撫で、食べてはトイレを抱え込む。その経験がデータとなって溜まってく先の未来に、新たな毒キノコが私たちを待っているのさ。
そんな未来は嫌だ?
ロマンあると思うけどな。日本には名前の付いてるキノコが三千種、付いてないものを入れれば一万種あると言われてる。そして、発見されてるものすら大方は素姓がはっきりしてない。ワクワクしてくるだろ? 深遠なる未開の領域を自らの手で明らかにしていくのは、宝探しの冒険をしに大海原へ繰り出すのに匹敵するぞ。
初見のキノコを五ミリ片に切り取って咀嚼して胃袋に落とし込むときの、ゾクゾクと這い上ってくるスリルと興奮。無毒か有毒か、己が身をもって確かめる! 鬼が出るか蛇が出るか、ベッドに寝込むかトイレにこもるか! はたまた菌糸に彩られた天国への門か! ああ、もう、たまらないな! ……ん? なんで若干引き気味になってんだよ。アリスと同じ反応すんなって。
そんでもな、こんな私にも食えないキノコというのはあるんだ。意外だろ。カエンタケやコレラタケ、ドクツルタケやタマゴテングタケなんかの猛毒キノコのことじゃないぞ。お前らが食っても特に危なくないキノコだ。
ヒトヨタケ。ホテイシメジ。その辺りが私にとっての鬼門だな。絶対ダメ。普通に美味いけどダメ。山で見つけたら、ちっともったいないが売っ払うかくれてやるかさ。
何故って天ぷらとスイカ以上に悪い食い合わせがあるからだよ。酒とは究極的に相性が最悪なんだ。
酒とドリアンの食い合わせについてはウナギと梅干しのそれと同じで迷信だったが、こいつについては本物だぜ。どんなウワバミをも下戸に変えて、悪酔いを引き起こしちまう。ほろ酔いなんて過程はすっ飛ばされて、即道端に倒れ込む泥酔者さ。飲んだら食うな、食うなら飲むな、だ。
「その日だけ酒を我慢すればいいじゃん」? おいおい、どこぞの鬼じゃあるまいし、私を毎日飲酒しなきゃ耐えられないようなアル中にすんなよ。あそこまで酒好きじゃあない。けど、さすがに一週間の禁酒はできない相談ではあるな。ああ、そういうこと。キノコの効能はそこまで長引くんだ。七日間血中に残った成分がアルコールの分解を阻害する。てなわけで、ヒトヨタケの類が私のお口の関所を通るには、私が酒嫌いになるまで待たないとならないのさ、ははっ。
さて、ここまで話してきて、わかったろう? 毒キノコかどうかだけ取り上げてもこんなに面白い。私とアリスの決定的な違いはやっぱりキノコなんだよ。「有毒かも」ってのみで十把一絡げに全部捨てちまうような性根じゃあ、この世の楽しさは味わえない。七色どころか灰色の世界に生きているようなもんさ。可哀そうなアリスはワンダーランドにやってこれない。
毒キノコは自分にとっては毒じゃないかもだし、毒を抜く方法もあるかもしれない。そもそも毒ってのが思い込みだったりしてな。いや、対処しようのない猛毒を持ってたってそれはそれで悪かない。未知のキノコが有毒かを確かめる過程もまた楽しだ。
私とアリスの違いは、そのまま私がここにいる理由にもなってるな。つまりは私が蜥蜴の提案に載った理由さ。
私が何を面白いと思うか。それを考えりゃ、不思議ないだろ?
おっ……ん、っと、もう時間か。了解、了解。
んじゃ、ちょっと野暮用で失礼するぜ。鍋は適当に食ってていいからな。
▲ △ ▲
「赤の女王仮説」というのを御存知ですかね。
いえ、決してあなたに関係ある話でも、ましてや当てつけでもありませんよ、スカーレット嬢。
ここでの「赤の女王」というのは「鏡の国のアリス」の登場人物です。彼女の言った台詞に「その場にい続けるためには、全力で走り続けねばならない」といったものがありまして、それから名付けられた進化に関する一つの仮説です。
簡単に言えば、この先生き残るためには進化し続けなければならないというものでしてね、たとえばコウモリと蛾の関係でいえば──あー、いえ、本当に当てつけとかじゃないですからね。まさか高名なヴァンパイア相手に──閑話休題、コウモリが超音波の反射、エコーロケーションを利用して暗闇の中をも飛び回れるのは有名ですが、それによって捕えられている蛾もただ食われるだけの存在のままではいなかった。対抗するための進化をするわけです。
コウモリの発する超音波を聞きとる聴覚を獲得したり、身体に細かい毛を生やして超音波を吸収したり、とっさに動きを止めて舞い落ちる木の葉のフリをしたりする。五分の魂もなかなかやるでしょう。すごいのになると妨害音波を発する。絶え間なく蛾から発生する音波は、コウモリの距離感を狂わせて捕食対象を見失わせる効果があるんです。
ところが、さらにそれに対抗するコウモリも現れてきた。発する超音波を小さいものとしたんです。エコーロケーションを弱めるわけですから明かりを松明から蝋燭にするようなデメリットはあるものの、これで本来30メートル以上離れた所から蛾に察知されるのを3メートル近くまで察知されないようにできた。蛾は対抗措置を取る余裕もなく、コウモリの胃袋に入ってしまうことになる。
コウモリ is win! まあ、でもいずれ、さらにそれに対抗する蛾も現れてくるんでしょうね。
え? 「お前がしゃべくり散らかすのも、私から逃れる意図があってのことか」って? 恐ろしいこと言いますね。あからさまにそんな素振りを見せたら、サヨナラするといってもこの世からのサヨナラになっちゃうでしょうに。うかつに「はい」と答えるのを期待されてもお応えできませんよ。
とはいえ、お二人どちらかの知人の声真似をして惑わすのも、蛾の手法の応用としては面白いかも……「対抗策としてここから先はささやき声で話すことにしようか」? あはは、そういうミステリアスにロマンチックなのは日が落ちてからということで。
ともかく、このようにして生存競争を勝ち抜くために全力で進化するというのが「赤の女王仮説」の概要です。
ですが、これ、いかにも人間側の視点で作られた説だと自分は思いますね。
そもそも生存競争という言葉自体が人間視点でしょう。別に生き物は競争しているつもりはないんですから。ただ生きようとして頑張ってるだけで、人間のやってる「競争」とはまったく別物です。
人間のやる競争で、生きるための必要に迫られてやってるものってありますかね。偏差値を上げたり、ホームランを何本も打ったり、月に行ったりすることは、果たしてやらなければ死ぬものですかね。
必要のないゴールを設定して、ヨーイドンさせて、順位を付けて、劣等感を生んで、差別を作って。そんなことをする生き物は他にいないでしょう。多少の競いはあるにせよ、人間レベルで行う生き物はいませんよ。
ああ、勘違いしないでいただきたいのですが、自分は人間の行う競争を否定するつもりはありません。お二方もそうでしょう? でなければ、弾幕勝負を受け入れてはいない道理ですからね。あの競い合いは楽しい。一年の準備期間を置いてでもやりたいと感じる。
でも、他の生き物と同様、この「沼」において競争というものは必要ないはずなんです。あらゆる競争において万年ドベで、日常的に差別されてる者たちが「沼」の住人なわけですからね。そんな「沼」に競争を持ち込むなんてのはバッドな選択でしょう。
長が皆に与えた価値観は「生きていさえすれば勝ち組」という、人間を除いた全ての生き物が有するそれです。生きることにのみ精力を注いでいればよく、人間その他の設定した「競争」は意識の外にやってしまえというものです。
ところがですよ、長は自分がここで弾幕勝負をすることをわかっていながら止めようとしない。というか、そうなるように仕向けていたんじゃないかなと思っています、最初から。
弾幕勝負をここでするということは、「沼」の住人を「競争」に関わらせることになるんですよ。大勢の目に触れさせるというだけでなく、この勝負を設定するのに多くの手を借りている。蜥蜴一匹の範囲じゃ済まなくなっているんです。
一体どういう意味がそこにあるのか。何の意図があってのことか。
意味なんてないかもしれませんし、あったとしても周りの反応を見て面白がるだけの下らないものかもしれません。でも、意図が読み取れないのはどうにも気持ちが悪くて、ええ。
何か見当が付きますか? 下々の考えは図りかねるでしょうが、せめて手掛かりだけでもいただければありがたいです。自分もあれこれと思考を巡らしてみたのですが確定的なものはつかめず……
っと、……あぁ、了解。お疲れ様。
残念、宴たけなわではございますが、タイムリミットです。時報が蠅ちゃんからの虫の知らせで告げられました。謎は謎のまま残っちゃいましたね。
さて、それでは自分の杯にお酒を注いでいただけますか。表面張力が働く限界までお願いします。
あ、どうもどうも、ありがたいことです、ととと……では、こぼれないうちに…………ふぅ。
美味しくいただきました。杯を空ける際の無防備な喉にナイフが刺さらなかったのは、もてなす側からの酒の要求を無礼と判断なさらなかったということですね。お察しの通り、「どうぞなみなみ注がしてくおくれ」という洒落で、手向けの酒をいただいたわけです。
あはは、せいぜい「人生」が「サヨナラ」しないように頑張りますよ。相手が誰かを考えると、なかなか難しいことではありますがね。
自分は底辺の弱者なので、誰であろうと厳しい勝負になるのは決まり切っているのですが、今回は輪を掛けて特別です。もったいつけているようですが、こう述べると期待感湧きません?
といっても、もう予想がついているのではないですか、相手。わかりやすいヒントも出しましたし。
要するにあれです、「花に嵐」
▲ △ ▲
自分が先頭となって紅魔館頭首以下その場の全員をぞろぞろ引き連れていくのは、ハーメルンの笛吹き男になった気分だ。あるいはレミングスの先頭。
いずれにしても付いていったらロクな目に遭いかねないって、みんな知っているんだろうかねぇ。もっとも、張本人が先導してて言えた義理じゃないんだけど。
紅魔館や白玉楼の実力者が鎮座する酒宴に参加するのと同様、「沼」の住人達は怖いもの見たさでいるようだ。でも、蜥蜴の対戦相手がどんなだかワクワクしてる呑気さには、「底辺のくせに猫以上に強いと思ってるのかい?」と言いたくもなる。好奇心に殺されちゃうぞ。
午後の木漏れ日を浴びて、木々の回廊を歩いていく。草は刈り取られているが、道端はシダなどで緑に彩られている。「グリーンマイル」を連想したが、ネタとして使うなら足下の砂利は苔に換えてないといけなかったな。刑場では感電死することもないだろうし。
風はなく、背後のざわめきと足音だけが耳に入る。沈黙の間を埋めようと軽口の内容を選別していると、向こうから声を掛けられた。
「私の予想通りであれば、『よりによって』という相手だな」
斜め後方にいるレミリア嬢の顔は、言葉とは裏腹に面白そうだ。骨を折った甲斐があった。
「よくここに呼べたものだ。色仕掛けでも使ったのか」
「いえ、腕づくで連れて来たんですよ」
くだらない冗談には同レベルの戯言で返す。本当にそれをやったら、骨を折るどころの話じゃない。粉骨砕身、心頭滅却をリアルに体現できてしまう。
くっくと笑って、吸血鬼は言った。
「強い相手を探していたのなら相談に載ってやったのに。我が妹などはお前の話を聞いて、相当に会いたがっていたぞ」
「私はお祭り好きな小鬼に心当たりがありますわ」
「いやー、お気持ちはありがたいのですけれど、片や紅魔館のご家族、片や博麗神社の客人、そうそう手を出すような真似をしたら自分が罵られてしまいますよ、鬼だ悪魔だと」
これはお為ごかしもいいとこで、その二名を候補から外したのは舞台に上げるのに不適当と判断したからだ。
悪魔の妹様は行動がカオス過ぎて、突発的に舞台ごと破壊されかねない。そこまで予想して台本を描く天才演出家もいるかもしれないが、自分には荷が勝ち過ぎる。
鬼の一族の末裔だと、逆に真っ直ぐ過ぎてダメだ。過去に相撲を挑んだのは楽しめた一戦ではあったけれど、ハカリゴトを一切仕掛けてこず、ハカリゴトに一切備えないというのは、もう自分の食指が動かない。その上、イレギュラーも起こり得ないとなると、観客は楽しめないだろう。
楽しませる。これが第一義だ。来賓の吸血鬼を楽しませられなければ自分の命が危うくなるわけで、今回の対戦相手を設定したのはどこまでも自分のため。
もっと言えば、楽しませるのは、相手でなく自分が第一に来る。「人生楽しんだもの勝ち」という主義でこれまで生きてきた。自己も他者も全部その基準で量る。とことん自分本位だと、自分でも思う。まともな死に方はできないだろう。まあ、まともな死に方のできるような生き方はまっぴらご免だがね。
会場に着くと、「ほお」とレミリア嬢が声を上げた。
木々を囲みとする大きな広場。そこは白一色だった。まぶしさに目を細めて、言う。
「雪です。氷を削ったものとかではなくちゃんと降らせたものですが、自然の降雪を待つには時期が合わないので、」
「白玉楼がかつて起こした異変か」
「ええ、その力を貸していただきました」
雪面は午後の陽光を反射している。ベチャベチャに溶けている様子もないのは、ここで局地的に「冬の気」が満ちて、地面そのものも氷点下まで下がったからだ。
並大抵の力の持ち主ではできない芸当だ。氷精ちゃんでも全面霜柱を立てるくらいが限界だった。
この白銀の世界が成立してなかったら、塩や石灰を大量に用意して撒くという、手間の掛かり風情に欠ける方法を取っていたかもしれない。
そんなでなくて本当に良かった。沼の住人たちは広場の周りに散開しながら、ちょっとした雪原に目を輝かしている。ここを見るのはこの時が初めてでもないだろうが、改めて感慨を抱いているみたいだね。いやいや、ほんと、良かった。
でも、ね、この真っ白なキャンバスに描かれるのは、「地獄変」も真っ青の地獄絵図かもよ?
業火に焼かれるのは蜥蜴本人にしたって、火の勢いからするとまきこまれてグリルされちゃう危険性が大だぞ?
蜥蜴のステーキの添え物となる前に退避することを勧めるべきかもしらんが、まあ、敢えてアナウンスする必要もないか。
生物の本能がまともに備わっていれば、この後自主的にロケットダッシュで逃げ去るだろうから。
のどかな青い秋空に黒い影が浮かぶ。普通の魔法使い、霧雨魔理沙だ。
箒にまたがって降りてくるのに合わせ、自分は「では、失礼します」と来賓に頭を下げてから、舞台中央に歩いていく。裸足の底面がちべたい。後ろから声が掛けられた。
「良い剣劇を期待してるぞ」
「安心して死んでくるといいですわ。亡骸はきちんとその場に安置して、厳粛に風葬を取り行いますから」
「メイド長さん、それは野ざらしを丁寧に言い換えただけでは?」
誰も足を踏み入れてない雪面にさくさく足跡をつけて、緑の爬虫類は衆目の中、広場の真ん中に立った。
「連れてきたぜ。これにて業務終了だ」
魔理沙嬢が箒の上から手を出す。被った黒の三角帽子に焼け焦げが認められた。お疲れ様、ですな。
「じゃあ、お約束の品を」
懐に手を突っ込み、小冊子と折りたたんだ地図を取り出して渡す。
黒服の少女はその場でパラパラと小冊子をめくって感嘆符を発した。
「わぉ、すげーな! こんなところでオオシロアリタケが手に入るのかよ! セミタケ、ハチタケ、サナギタケ──冬虫夏草もよりどりみどりだ!」
「おわかりかと思いますが人工的な育成も用いてます。でも、オガクズ栽培よりは天然物に近いですよ。冊子に記載された『沼』の領域のキノコは、どれも事前に言ってくれれば採集も可能なんで、いつでもどうぞ。長の許可は取ってます」
「ありがたいね。期待以上のもんだ」
満面の笑みで手にした物を抱え込むと、宙を横滑りして離れていく。前方に顔を向ける直前に、言葉を投げた。
「この後の勝負も楽しみにしてるぜ。少なくとも私以上のことはやってみせろよ」
そうして観客の居並ぶ木々の縁へ、黒衣の姿を紛れ込ませてしまった。
残された蜥蜴は、ポツン、と一匹。白の平面の染みのようになる。
と、ふいに顔を上向けた。観客の視線もつられて青空へと向く。新たな人影があった。
一同の瞳に映るのは、白い日傘、緑の髪、赤いスカート……
司会として、右手を天に掲げて声を張り上げる。
「不肖蜥蜴の対戦相手! 本日の特別ゲストをご紹介します! 『四季のフラワーマスター』風見幽香さんです!」
瞬間、場が凍る。耳がキーンと痛くなるほどの静寂。それもわずかのことで、
「馬鹿だぁああああッ!」
誰かが叫んだ直後、天地をひっくり返したような阿鼻叫喚が巻き起こった。
大勢が四方八方にほうほうのていで逃げ去っていく。四分五裂、いや、相手は花の妖怪なんだから七花八裂と表現した方が適切かな。
それにしても、馬鹿って酷いな。最悪の災厄を引き込んだ蜥蜴に対しての言葉だとは思うが、いくら何でも、ねぇ?
馬鹿なんてもんはとっくに超越したイカレポンチだよ、自分。今更ながらにそのレベルで語られても困る。
風見幽香。幻想郷の最強にして最凶と言えば彼女を置いて他にない。まともな神経の持ち主なら目の端に入れることさえ全力で避ける妖怪だ。
そんな存在にわざわざ喧嘩を売るって何だって話。しかも相当の手間暇掛けてまで。評するに「ただの馬鹿」じゃあ役不足だろうさ。そいつはもっとまともな人物を評する役に回してくれ。
幽香嬢が目の前にまで降りてくる。薄い笑みを浮かべて、しかし微かに眉根を寄せて、赤い瞳で蜥蜴を貫く。うはっ、威圧感半端ない。提案できるならしたいとこだよ、「2メートルほどの間しか隔ててないのじゃプレッシャーが胃腸にくるんで、観客席から話してもいいですか」って。
ここに来るのは初めてだろうに、未知の場所を訪れる躊躇など微塵も感じられない。この場にいる誰も、いや世界の事物の全てが自分を傷つけることができないと知っていれば当然の態度か。気分を害するものもあっさり排除できるし。何となれば、この場一帯を消滅させることも朝飯前だ。
いかにも圧倒的。いかにも最強。
この恐ろしい力を持つのが花の妖怪だというのは、タチが悪過ぎて笑えてくる事実だね。「綺麗なバラには棘がある」なんて言葉があるが、当てはめようにも枠外だ。棘のレベルが針山地獄だからな。個人的には、意思を持った巨大な食虫植物が重火器で武装してるように見える。
最高位の戦乙女が最低位の蜥蜴男に台詞を落とす。
「初めまして。と言っても会うのは二度目かしら」
「そうでしたっけ?」
内容にデジャヴを覚えつつ答えるが、別にとぼけているわけではない。自分にしてみれば、何度も会っている。彼女にとっては蜥蜴を目にするのは言葉通り二度目なんだろうけど。
「私の花畑でふざけた真似をしてくれたわね」
「そうでしたっけ?」
同じ台詞。ただ、こちらについてはとぼけている。
「ああ、そう言えば以前、向日葵の群生地に迷い出たことがあります。あまりに見事な大輪でしたので創作意欲の刺激されたことを覚えてますが、まさかあなたのテリトリーだったとは。それはそれはお邪魔いたしました」
「お邪魔した? 始めから邪魔しに来たのでしょうに」
「花なだけにハナから? まさかまさか、創作に没頭していたところ突然の轟音に驚いて置き忘れてしまった自分の芸術作品が証拠ですよ。他意なんて全然」
いやー、白々しい。体色は緑なのに白々しい。でも、この言い訳を完全論破できない限りは、言い訳は言い訳として通用する。
果たして風見幽香はそれ以上の追求は止めた。そして別の攻め手を指す。
「蜥蜴の足りない脳でも、一連の行為は当然私が誰だか十分理解した上でのことなのよね?」
応じる言葉を繰り出す際、ふと、徳川家康のエピソードが脳裏に浮かんだ。
彼は家臣一同にあることを質問したのだった。内容は「一番美味い食べ物は何か」
自身の好物や各地の名物などあれこれと答えが出てきた中で、ある側室が言ったのはこんな言葉だった。「それは塩でしょう。塩がなければどんな食べ物も味気ないものです」
大いに感心した家康は次いで問う。では一番不味い食べ物は何か、と。彼女の返答は家康にさらなる感嘆を生じさせた。「それも塩でしょう。入れ過ぎてしまえばどんな食べ物も台無しになります」
さて、この話の教訓は何か。
塩は料理の要として良くも悪くも働く、というのではもちろんない。そんなのは表層しか見てない。骨子はこうだ、「相手の望む返答が最良の返答」
シンプルかつ含蓄に富む、ユーモアとオリジナリティ溢れる返答を家康は望んだのであって、そうであれば別に塩でなくとも水や愛情など挙げるものは何でも良かったのだ。
さて、それでは風見幽香の質問に立ち返るが、彼女が望んでいる返答はどのようなものか、正確に把握する必要がある。
誰もが恐れおののく力に対して蜥蜴も恐れおののいている──それを明らかにする要素は、望む返答には欠かせないだろう。
仮定としてある「舐めた態度」を解消すれば、左右の眉根は通常位置に戻る。逆に「舐めた態度」を確信させれば、死亡率が飛躍的にアップだ。
十分に言葉を選んで、返答する。
「最強の呼び声が高いのは知ってますよ。本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございました」
言外に「負けたからここに来たんでしょ? 最強のくせに」と述べる。うん、述べてしまった。なまら失礼。
そのようなことを述べられた風見幽香の表情は──深まる笑み。
良かった。穏やかな、かつユーモアを解する性格のようだ。って思えたら幸せだろうなぁ。実際は肉食獣が獲物を前にしたときの笑みだよ。怖や怖や。
発言を誤ったわけじゃない。自分にとってはベターな選択だろう。だって、こちとら楽しむために生きているんだ。敢えて無難な路線を行く手はない。エンターテイメントにはスリルとサスペンスが要り用なのさ。観客だってそちらが望ましいだろう。ピエロ兼スタントマンが兼死体役とならないよう足掻く様をとくと堪能してくれ。
そういえば、観客、思ったより減ってないな。ようやく騒ぎが落ち着いてきた中でも、視線の数が相当残っている。
紅魔館や白玉楼の面々、霧雨魔理沙氏のことではもちろんなく、「沼」の住人達のことだ。
全身をさらして真正面から見ている者はさすがにいないが、木の陰から、茂みの中から、遠い空からと、それでも蜥蜴と最強妖怪を視界に入れている。危険領域に入り続けている。
意外だな。長らく平和な生活が続いたんで、危機意識が鈍ったのかね。地へ降りた小鳥ほどに過敏なのが取り柄でしょ、君ら。それすら失ったら、命も失うハメになりかねないぞ。
飛び火が広範囲に渡るほどの煽りは事前から存分にしてあるからな。
ばっちりデコレートした招待状でもって幽香嬢をお招きしたわけじゃないんだ。ヒマワリ咲き乱れる太陽の畑。その幽香氏のテリトリーにおいて、キノコで取引した霧雨魔理沙氏に弾幕勝負を挑ませ、その結果で引っ張ってきたんだ。
風見幽香に勝ったほどの強さなら、霧雨魔理沙を対戦相手に選べば手間なくて良かったって? いやいや、そんな単純なものじゃない。
そもそも弾幕勝負というのは、かけ離れた力の差があっても勝ちの目を残しておくのが暗黙の了解になってる。その上で魔理沙氏は辛勝したんだ。弾幕勝負では百戦錬磨の魔法使いがかろうじての勝利だぞ? 幽香氏の持つ最強の名が揺らぐことはない。
あと、盤外のトラブルに魔理沙氏が助けられたということも考慮に入れておく必要がある。ラストの撃ち合い直前に、幽香氏は目にしてしまったんだな。茎の真ん中から手折られたヒマワリ一本、無造作に手にしている蜥蜴一匹を。それで目測やタイミングを誤り、攻め手を外して受け手を損ねた。
決着の後、蜥蜴の姿はなく、ヒマワリはうち捨ててあってそこにあった。このヒマワリが本物だったら、蜥蜴は愛する花を傷つけた大罪人として草の根分けても探し出され、各種拷問の末に粉微塵となっていたろう。が、実際は緑と黄色の紙で作られた造花だった。こうなると無闇には怒れんわな、たとえ見え透いた言い訳だとしても。
カメレオンの能力で忍び込み、潜んで、打ち合わせ通りの頃合いで姿をさらす。油紙で包んで衣服と共に胃の中へ仕込んでおいた造花も、これ見よがしに掲げている。酷い工作だ、二重の意味で。イラつくのも無理はない。
今目の前にいる最強の花は、下等な爬虫類風情にしてやられた溜飲を下げようと、今か今かと機会をうかがっている。
自分の応対は「棒倒しを旨とすべし」だな。つまりは、死亡フラグを立てつつ、ギリギリのギリギリでアウトにしない。
風見幽香は日傘を差してない方の手を緑の髪にやり、言う。
「こんな場所に呼びつけて、相応の覚悟はできているということね。ああ、髪の毛がここの空気で指通り悪くなったわ。どうしてくれるのかしら」
「いい場所でしょう? 潤いがあって、自然豊かで」
「泥臭いうえに陰気臭い。観光スポットとしては最低の部類ね。こんなところにお越しくださいまして申し訳ありません、の一言くらい土下座で述べてもいいのじゃないかしら」
「『一も二もなく山紫水明、四の五の言うなよ、ロクデナシ』」
「聞いたことのない都々逸ね」
「今作りました」
「そう、蜥蜴さんは喧嘩を売っているのね」
「いえ、ここ『沼』でもかなりの花々が咲いていて是非紹介したいのはありますけど、今のは単なる言葉遊びです。他意はないので、そこは軽く『七面倒臭いことを』とでも返してくれれば良かった」
幽香の笑みがさらに一段深くなる。同程度、こちらに懸かる死の陰が濃くなった。
まったく地雷原でタップダンスを披露する心持ちですな。だけれども、相手は堪忍袋を起爆させないだろう。たとえそれが揶揄であろうと、ユーモアに芸のない暴力で返せば、エレガントさに欠ける脳筋扱いを受けるからな。意に介さないのは知性もプライドもない者だけ。あなたはどちらも持ち合わせているよね、幽香さん?
と、午後の陽光を浴びる傘が閉じられ、その先端がこちらに向けられた。
「じゃあ『八つ当たり』でもしとこうかしらね」
光るものを視認した瞬間、視界が真っ赤になる。激痛でだ。幽香嬢の光線により、左足が太ももの真ん中で切断されて後方へ吹っ飛ぶ。音は体内を反響する振動として知覚された。
どこに攻撃を受けるか予想できていたら神経接続を遮断しておいたのだが、無論そんな暇もなかった。めっさ痛い。
やられたな。ユーモアを交えた暴力で返された。
肉の焦げる香ばしい匂いが鼻腔を虐める。脳内で猫耳のメイドがしなを作った。『お待たせいたしました、蜥蜴のレアステーキです』。……血の滴るような事態が、傷口が焼き潰されたことで防がれたのは不幸中の幸い、でもないな。再生に時間が掛かる。痛みが長く持続する。踏んだり蹴ったりだ。
風見幽香は片足で案山子のように突っ立っている蜥蜴を見て──相変わらずの笑みはこちらの感情を意に介さないからか。いや、意に介しているがゆえかな──言葉を放る。
「反応するまでもない? それとも反応できなかったのかしら」
「余りに美しい弾幕だったので見とれてました。あ、今のは『クジュウを飲まされた』というオチを付けた方が良かったですかね?」
激痛にも歯を食いしばらずに軽口叩けた自分へ拍手したい。
メイド長に全身くまなくナイフで貫かれた経験が、痛みの耐性を鍛えてくれたのかもな。やってて良かった苦悶式。
顔を横に向けると、白い地面に点々と続いた鮮血の軌跡をなぞって、左脚がこちらに戻ってくるのが目の端に見えた。緑の鱗と白い肌のゴンブトな物体が膝を曲げ伸ばしし、さながら歪な尺取虫だ。
「聞いた通り、身体から切り離されても遠隔操作が可能なわけね。それを止めるには頭を撃ち抜けばいいんでしょう?」
「心臓を撃ち抜いても同様です。行動不能になる。ああ、でも、どっちも試さないでくださいね。再生に時間が掛かるので、試合開始時間に支障が出ます。万一、頭と心臓両方やられちゃうと、再生もできずに死にますし」
「お楽しみは次に取っておけということね」
顔の真正面へと向いた傘の先端が、ようやく下りてくれる。
手の届くところに我が左脚が戻ってきたので、断面同士を合わせて再生の作業に移る。焼けて死んだ細胞を切り離すのがちょいと手間だが、その分ゆっくり話ができるということで良しとしよう。死にそうな痛みも、やや慣れも入り緩和されて、死にたくなる痛みぐらいにはなったし。
「じゃあ、代わりに他の能力を見せてくれない? 蜥蜴らしく、血の涙を流し過ぎて出血多量で死ぬとか」
「確かにサバクツノトカゲが目から発射する血液は体内の三分の一の量にもなりますけど、自分の出血大サービスであなたを汚してしまっては申し訳ない。血で血を洗うとは参りませんし、せっかく知りあったのに『赤』の他人にしてしまうのはどうもね」
霧雨魔理沙が風見幽香に蜥蜴の能力解説をするのは、依頼の一つに入っている。ふざけた真似した蜥蜴をどう料理してやろうかと、幽香嬢は情報を頭に刻み込んだだろう。先ほど足を吹っ飛ばしたのは情報の正しさの確認が第一目的だったかもだ。
「爬虫類全般の能力で良ければ、既にお見せしていますよ。爬虫類は変温動物なんで、こういう雪の上などでは動きが鈍るところ、自分はオサガメの能力でこれを防いでます」
「オサガメ?」
「熱帯の亀ですが、北極海周辺まで回遊できます。水深1000メートル以上も潜水でき、その低温にも耐えられる。体内に発熱器官を備えているがゆえのことですね」
「難儀なこと。そこまでして身体を温めなければならないなら、せせこましい雪原なんて用意しない方が良かったのではなくて?」
「それについては後ほどご説明しますよ。あなたと勝負するには必要な舞台なんです」
その言葉に、風見幽香が表層限定の笑みを消した。──実際のところはわからない。そういう印象を受けたというだけだ。笑みは笑みのままではある。
「本気なのね」
「はい?」
「聞けば聞くほど耳を疑ったのよ。弾幕も撃てない、空も飛べない、そんな輩が私とやり合おうなんてね」
「ここに来て確信が得られましたか」
「ええ、正気を疑っていたのが、狂気を確信するようになったわ」
「それはどうも」
当然だな。「最弱が最強に挑んだのですが、どう思いますか?」と聞き取り調査をしたなら、百人中百一人が同じように評価するだろう。プラス一人は本人だ。
けれど、盲目の棋士だってその名のついた戦法を後世に残せるし、質の低い蒸留酒も飲み方次第でムーディーに酔える。やりようはあるのさ。
左太ももから手を離し、パチンと叩く。
「ふう、やっとくっついた。強度を上げとけば良かったかな。千切れ飛ぶまではいかなかったかもしれない」
「身体の強度を硬くも脆くもできるのだったわね。でも、私のを受け切れるなんて思い上がれるほどの能力ではなかったはずだけど」
「言ってみただけですよ。さて、それでは五体満足になったところで、ルール説明に移りましょうか」
「蜥蜴にとって脳の障害は五体には入らないわけね」
「あはは、そこは治さなくてもいいでしょう。『紙一重』と言われているのだから、奇貨として置いておくのが良策です」
こめかみをつつきながら減らず口を叩いて、美女の呆れ顔を獲得する。
周囲の騒ぎもすっかり収まったようだ。観客たちは一様に口を閉じてこちらの会話に耳を傾けている。
幽香嬢と対面した時から自分は発声を大きく、一言一句の滑舌を明瞭にしている。不自然なくらいに。子役の演技くらいに。大げさな身振り手振りを付け加えてもいる。
幽香嬢との会話が周りに伝わりやすいようにとの配慮だ。自分で楽しむことも大切だが、それだけでは舞台に立つ役割を果たしているとは言えない。
ここまでのことは他愛ない会話のように見えて、自分のスペックの提示になっている。まあ、改めて言わなくてもほとんどの者が知っていることではあるから、いくらかの騒がしさがあってもそれほど気には留めてなかったけれど……ここからの前説はしっかり聞いてもらわないと面白さが半減する。
「ご存知の通り、自分は弾幕は撃てず、空をも飛べず、かといって肉弾戦を挑もうにもお話にならない貧弱さです。ですので、特別ルールでの弾幕勝負を提案します」
「聞いてはいるわ。けれど、ちょっとやそっとのハンデでまともな勝負になるとは思えないわね。まさかボードゲームでも持ち出すつもり?」
「将棋盤で良ければ今すぐ用意できますけど」
「面白くない冗談ね。リザード・ジョーク?」
「そちらから言いだしたことでしょうに。ついでだから言いますが、先ほどからこちらのことを蜥蜴、蜥蜴とお呼びになってますけど、自分にはちゃんとした名前があるんですよ」
「『ソレ』とか『アレ』とかかしら」
「もうちょい立派ですね。『セッカーマ・デラカチク・ブンゼ』という名です」
「へえ、そうなの。聞いた瞬間に記憶から消えたわ」
「構いませんよ。『全部口からデマカセ』なのでね」
HAHAHAと笑う。これぞリザード・ジョークだ。……うーん、ちょっと寒かったのか、風見幽香の笑みがさらに冷たくなり、場の空気が一層のこと凍る。冷えるのは足元だけで十分なのにねぇ。HAHAHA。
死亡フラグを氷柱のごとく成長させたところで、そう言えば、気になっていたことがあった。話がずれたついでに聞いてみよう。
「ええと、付かぬことではありますが、地面に降りないんですか?」
雪面に幽香嬢の足裏の影が映っている。話している間じゅう、ずっと宙に浮いていたのだった。
「花の乙女となれば『浮いた』話の一つでもあるかもしれませんが、老婆心ながら地に足を着けて生きた方が良いですよ」
「汚れたくないのよ。既に汚れているあなたと違ってね」
「賢明と言えば賢明ですがね。そこらじゅう穴ぼこだらけなんで」
言うまでもなくミョニョコンに掘らせたものだ。流れによっては落とし穴として使おうと目論んでいたが、その用法は消えたか。
「わざわざ呼びつけた割にはとんだ安普請ね」
「住居として見ればそれなりに快適ですよ、ミミズとか黒ダルマとかには。けれど、試合会場として見ても仕掛けだらけのそれってことで面白いもんじゃないですか?」
「その仕掛けにはあなたが勝手に載りなさいな。私はこのまま羽化登仙といくわ。酒宴の席にはふさわしいでしょ」
「了解いたしました」
慢心なく警戒してきたか。まあ、霧雨魔理沙との協力卑劣プレイで罠に掛けたから、以後素直に正面からお出でくださるなんてありえないんだけどね。
「では、話を戻しまして。この会場で行うあなたとの勝負はですね、もちろん将棋などではなく、」
足元の雪を右手ですくって、左手を被せる。
「雪合戦です」
丸めてできた雪玉を見せた。
「ちょっと」
「ああ、いえ、冗談ではないですよ。これについて、自分は先ほど述べた自分の能力をフル活用します。あなたも全ての能力を用いて構いません」
「へえ」
抗議の声だったものを感心に変えたところで、後ろ手に放った雪玉を前でキャッチしてから、説明を続ける。まったく、わざわざ呼んでおいて子供の遊びを持ちかけるなんて自殺行為、行うわけがないだろうにね。固唾を飲んで見守っている観客の方が、まだわかってる。
「弾幕勝負は弾幕をよけ、当てた方が勝ち。しかし、自分は弾幕を撃つ力はない。そこで、今回は雪玉のみを有効な被弾・着弾と見なして勝負をします。これならこちらとそちらとは五分の条件になるでしょう、花の妖怪に『雪玉を作り出せる程度の能力』でもない限り」
「いくら通常の弾幕を撃ち込んでも勝負はつかないのね。あら、それっていくらでも撃ち込めるってことじゃない?」
空恐ろしいことを言う。
自分は宙で横回転させた雪玉を、右人差し指でつつき、左人差し指に載せた。そうですね、と何でもないふうに応じる。
「ただ、勝負はどちらかが死んだ時点で打ち切りですから。あまり気張りすぎて開始直後に心臓発作でも起こされますと、引き分けということになってしまう。気をつけてくださいね」
これで無闇に殺してくる手は封じた。「最強」が蜥蜴相手に引き分けなどという不名誉な称号を得たいはずもない。たかが遊び? プロ野球選手が子供相手に障害物競争で負けても、屈辱は一切感じない理屈かい? プライド皆無なら話は別だが、相手は気高き花の妖怪だぞ。
「終了の条件は他に四つ。手持ち五つの玉が互いに尽きるか、尽きる前に勝ち負けの差が決するか、反則負けが生じるか、敗北宣言が為されるか」
「すぐに白旗を上げて引き分けにするなんて無しよね?」
嫌なツッコミだ。
「それだと引き分けでなく負けですよ」
「でも、そう喧伝することはできるわ。『風見幽香相手に生還した! 一発ももらわずに!』なんてね」
「白旗の件、ルールに抵触はしませんが、自分はゲームを投げることはしませんよ。大勢の気分を害することになる」
つまりは、花の対戦者に殺された後、赤の観戦者に殺されるという踏んだり蹴ったりな事態になってしまう。死体蹴りは勘弁だ。
今更ながらのことを確認してきた幽香嬢に対して、言わずもがなの意趣返しをしてやる。
「ですから、いきなり『参った』なんて言わないでくださいね」
「口が減らないのね」
「縁起担ぎですよ。『減る』は『HELL』に通じる」
「本当に減らないのね」
蜥蜴の態度にもだいぶ慣れたのか、どちらかと言えばスルーされた形の応対だった。挑発の度合いをもう一段階上げようと誓いつつ、ルール説明を進める。
「雪玉の手持ちは五つと言いましたが、もちろん始めから五つ持っているのではありません。かさばって動きにくいですからね」
多くの雪玉を抱える仕草をし、手の中の雪玉をポロリと地面に落とす。両の掌を上にして、OH!ミステイク!のジェスチャー。
新たに雪をすくって丸めながら言う。
「身軽に無手からスタートして、勝負の中、一つ一つ作ってもらいます。形はいびつでも構いません。握る動作をして形成されたものはみんな雪玉と見なされます」
「そう」
彼女は視線を外して、周囲を見やる。察しがいい。ゆえに理解したろう。これは風見幽香にとって大きなハンデだ。それも偶然ではなく意図的に用意された。
他にもいろんなハンデを負ってもらうことになるが、とはいえそれら全部ひっくるめたって力の差が埋められるもんじゃない。喩えるなら、障害物競争において同じスタートラインに立ち、しかし、相手はスポーツ選手、こちらは子供で、盲目で、両腕が肩から無い。そんなとこだろう。いくら調整しようと世の中は平等にできていない。
「わかったわ」
果たして幽香嬢は条件を飲んだ。それでこそだ。瑣末な足かせにこだわっていたのでは最強の名が泣く。最強の妖怪は王道を歩む。
「握るのは片手でもいいのね」
それでいて慢心なくルールを把握しようとするんだからね、流石だよ。
その通りです、と頷く。
すると今度は、傘の先端が先ほど落とした雪玉を指した。
「再利用は可能?」
いやはやまったく慧眼ですな。
拾い上げ、持っていた雪玉とギュムッと合わせて一つにする。
「可能ですが、改めて握る動作を必要とします。その際は、持ち球の残り数が一つ減りますね。雪玉は自分の手以外のものに触れた時点で、ただの雪以上の意味を持たなくなります」
「自分の身体に当たったらどうなるの」
「持ち球は一つ減ります。ただ、失点にはなりませんね。自殺点は存在しません」
「雪玉が投げた後、割れて分裂した場合は?」
「何かに当たる前に宙で二つに割れたら、持ち球を二つ使ったことになりますね。無数に散らばってしまったら、アウト。言いそびれましたが、持ち球五つの数を超えて六つ目を投げてしまうと反則負けになります」
ルールの理解を表面的なペラいものにしてくれたら、それをヒラヒラ振って、猛牛を翻弄して見せたのになぁ。幽香嬢、胸はともかく習性まで牛というわけではないか。
聞かれてないことまで自分はしゃべっている形だが、口にしなければ間違いなく質問してくる内容だから説明しているんだ。相手は一を聞いて十を知るような知性の持ち主だと、察せないほどこちとら愚鈍じゃない。出し惜しみしてると、不必要に警戒される上、余計な手間が掛かって場が白ける。
ならばむしろしゃべくり倒すほどにしゃべくるさ。煙に巻きつつ、盲点を見極めてやる。
「握る、という行為をしなければ持ち玉と見なされませんから、雪をすくって目潰しとしてぶつけても負けにはなりません。その気になれば雪だるまを作成・投擲も可能ですよ。そこらの枝で目鼻を付けるのも、ルール上は自由です」
「勝負の場はどこを境界とするのかしら。場外に出たときの措置は?」
「ここが中心にはなりますけど、場外というのは設定してなかったですね」
「へえ、いくらでも高く飛んでいいのね」
「禁則事項にはなりませんね。同様にいくらでも深く潜るのだって可です」
数瞬、視線で会話する。
──高みからいたぶれなくて残念だわ。
──それくらいは想定してますよ。別の手をお考えください。
──あなたも逃げられなくなったけどね。
──逃げるつもりもないですし、逃がすつもりもないでしょうに。
つまりは、風見幽香がこちらの手の届かない場所へ飛んでしまうなら、蜥蜴は「ミミズの巣穴」と称する地中のトンネルへ逃げ込むぞと伝え、手を封じたのだった。
あちこちに開いた落とし穴は、地中の避難所の入口でもある。いつでもどっからでもスルリと潜り込めるって寸法だ。メクラヘビやミミズトカゲは地中生活に適応した爬虫類であり、そう変化すれば深く遠くまで広がったトンネルを縦横無尽に動き回れる。
風見幽香が安全圏と引き換えに持久戦を望むはずがない。「最強」が蜥蜴ごときに手こずる格好になる。底辺相手に安全策を取って観客の失笑を買うってのも屈辱に決まってるからな。
では、蜥蜴が真っ先に地中に入る手はどうかというと、紛うことなき悪手だ。「最強」と長く渡り合ったという誉れを獲得できる? その前に辺りが消し飛んで、自分も死ぬ。相手が空に飛んでどうしようもなくなったがゆえの地中避難ではなく、自分から無駄に時間を浪費する手段を選択したとなると、彼女はちゃぶ台をひっくり返す権利を得る。付き合ってられないと、特大の一撃で地中の蜥蜴を会場ごと粉砕するだろう。引き分けの不名誉は付随しない。蜥蜴の方から勝負を投げたのだから。
以上、双方が互いの手の届く範囲で勝負をしなければならないという理由でした。フィールドは自然と限定されるんですな。
幽香嬢の目が、こちらの弄んでいる雪玉に遣られる。
「当てるのは相手が着ているものに対してでもいいのね」
引きずらずに別の要点を押さえる、ね。弾幕勝負でも同様の所作を行うんだろうな。
「頭髪・衣服も身体の一部と見なします。当てれば加点」
「破け落ちてしまった衣服があったとしたら、どうなるのかしら」
「ああ、それ、どうしましょうかね? 用意しておいたルールではそれもアリだということになってますが、千切れた布辺に当てていいとなると──自分の甚平はともかく、そちらのお召し物は見たところヒラヒラとした箇所が多く見受けられるようで──無しということにいたしますか」
「いえ、いいわ」
「ええ? 本当によろしいので?」
改めて尋ねても、区切るように断じられた。
「是非とも、それで、お願いするわ」
ふふ、と笑いを漏らした際、無論幻なのだが、舌舐めずりしたように見えた。ぐわー、恐ろしい。
相手がルール内でやれることを把握し、実際やることにも躊躇しないってのは想定の範囲内。とはいえ、己が身に為されることを想像すると、もう今からでもむず痒く感じてしまう。
こちらが裸にひん剥かれるってことじゃないぞ。そりゃ幽香嬢の服は一片たりとも分離するどころか綻ぶ可能性すら皆無に等しいが、だからといって花の乙女が蜥蜴のヌードに興味津津の性的上級者と見ちゃ、倒錯的な美にも程がある。その意識は服なんかにゃ向いてない。
いくら弾幕を撃ち込んでも無得点であるとは先に説明した通りだが、では弾幕は意味のない行為となるかというと、それは勘違いだ。むしろ戦法の基軸に据えていい行為なんだな。
どういうことか? 単純な話だ。つい殺してしまったりすると打ち切りの憂き目に逢うが、きちんと致命傷一歩手前に調整すればどうだろう。行動不能となった蜥蜴に雪玉を当て放題となるじゃないか。一つ一つ雪玉を作ってチマチマと加点を狙うより、よっぽど「最強」らしい。当然、やってくるでしょうな。
んで、そこに加わるのがさっきの文言だ。「身体の一部と見なされたものは千切れ落ちても当てれば加点となる」──
こちらにとっては、「見なす」も何もない。身体を千切られて雪玉を当てられる災難を覚悟するハメになったわけだ。今度は足だけじゃ済まないかもな。
はっは、これほどエンジョイ&エキサイティングな雪合戦は古今東西存在しなかったろうね。コロッセウムの中心でライオン相手に雪玉を投げる剣闘士というのも間抜けな絵面だが。いや、その間抜けなことをしている蜥蜴が自分なんだが。まったく、手前味噌で恐縮だが、面白過ぎる。
「他に聞く必要のあるルールはあるかしらね」
「他に聞く必要を感じなければ十分ではないかと」
アリマセンヨの言質を取らせず含みを持たせたが、ま、不足しているところはないといってもいいだろうね。明晰な頭脳を前にしてはブラフにもならんか。
「では、いよいよ始めることにいたしましょうか。この雪玉を上に放って、地面に落ちたら開始ということで」
「その前に、」
たおやかな手が、雪玉の投擲を阻む。何です?と首を傾げる。
「私の方から一つ、付け加えることがあるの。ルールというより私が私に課するものよ」
「動物愛護法を遵守するとか?」
「あなたが覗き見ていた魔法使いとの弾幕勝負、あそこでやった以外の能力を私は使わないわ」
「空に散りばめるような弾幕、空間を両断するようなレーザー、とかですね」
「何が来るか予想がつくとやりやすいでしょう」
「大判振る舞いですねえ。ところで、あのラストで霧雨魔理沙氏と互いに放っていた、視界を埋めるような特大の閃光は?」
「マスタースパークよ」
「ええと、使用のほどは?」
「何が来るか予想がつくと覚悟を決めやすいでしょう」
覚悟って、死の覚悟かよ。参ったね。
ここは一言紡いでおく手だな。
「死んで花実は咲きませんよ」
「死に花を咲かせればいいじゃない」
おっと、上手い。一言で収めちゃならん流れだ。
「そもそも自分、蝶よ花よと育てられたわけではないので、花と散るのはできかねますね」
「蜥蜴のように踏まれて死ぬのがお好みと言うことね」
「そう何でもかんでも踏もうとするのには、二の足を踏んでほしいところかなぁ」
「いいじゃない。万一しぶとく生き残れたら、麦のように踏まれた経験が生きるわよ」
「踏んだのが下手すりゃ破傷風菌持った古釘ってこともあるわけでしてね。三尺下がって死の影を踏まず、でしたっけ?」
「あなたごときが私の心配なんて滑稽よ。安心して。踏んだ後に蹴ってもあげるから」
「高嶺の花ならふさわしい振る舞いをしなくては」
「高嶺の花だからこそ下々は喜んで虐め殺されてくれるでしょう?」
「あなたにこそ散華はふさわしいって話です」
挑発が出揃ったところで雪玉を投げた。
ほのかに暖色の照る青空が、一点の白を含んだ。運命の勝負の開始を告げる一個が、重力に従い落ちてくる。
乙女も蜥蜴もそれを見上げる表情は、特に気負ったところもなく穏やかだ。周りの張りつめた空気を意に介してない。
──緊張や怖れがないわけじゃないんだよな。それを抱く自分は心の中にいる。ただ、ガラス張りの部屋ん中で膝を抱えているのを、もう一匹の自分が傍目に見ながら、等身大蜥蜴マリオネットを面白おかしく操っている感覚だ。
つまりは四匹の自分が存在する。観客に見せる物体としての自分、弱者として正常な自分、そしてメインとなる身の程知らずに楽しんでいる奇矯な自分。最後の一匹は、そんな蜥蜴の内外全部を無感情に眺めている自分だ。
こういうとこが蠅ちゃんをして「気持ち悪い」と言わしめるんだろうねぇ。裏表がないどころかバラバラ・パラパラの冊子状態だもの。長の言う蠅ちゃんの魅力は「青い空を見て『ああ、青い空だ』と感じ入ることができるところ」だそうだが、自分だったらまず「ヌけるようなアオイソラ」とAV女優の名を口に出してしまうだろう。実際に綺麗だと思っていながらも下ネタをかます。嫌われて無理ないか。けど、複数人の自分がいた方がいろいろ有益なんだな。
たとえば、一つの事象を複数の視点で見られる。目の前の世界に対し、嘆いて笑っておどけて観察して、を一遍にできる。一粒で二度以上も美味しいんだ。
複数の視点は生存確率を上げもする。楽しんでばかりじゃ恐れの警報は発されないし、他者の目を意識しなけりゃ演者として未熟だ。そうやって自分は生きてきて、楽しんできた。
雪玉を見る。風見幽香を見る。雪玉と風見幽香を見ている自分を見る。
さあ、楽しもう。殺されずに観客を楽しませて生き残ろう。
雪玉が落ちたらどう動くか。いろいろ考えてはいる。多くの局面を想定する中で、開始直後はこちらの有利が生じる数少ない場だ。風見幽香は十中八九、前進か攻撃かのどちらかをしてくると予想がつけられるからね。
前以外に移動する手はだって? どこに移動するんだい。底辺相手に距離を離すなんて臆病と揶揄されるだけだし、距離を保ったまま回り込むように動くのだって弱者の側の行為だろう。
雪玉を作る? それこそありえない。10メートル以上離れているならまだしも、この距離だぞ。しかも正対している。
隙が生じることを恐れてってわけじゃない。サッと片手で雪をすくって、こちらの攻撃に対応する、そのツーアクションを隙なく行う身体能力を幽香嬢は有している。要点はそこではなく、地面の雪をすくうという行為にあるんだ。
幽香嬢がそれをやったら──あくまで見かけ上のことだが──頭を下げるか、ひざまずくか、それらに類する行為をすることになる。蜥蜴を前にしてやるはずがない理屈さ。それでもやってくれるってのなら、ありがたく「風見幽香の恭順」をじーっと見つめて優越感に浸り、末代までの語り草にさせてもらうけどね。
雪玉の説明の際、幽香嬢が周囲に目を遣ったのは、屈まずに雪玉を作れないかと考えてのことだ。降雪させたのなら、木々の上にも雪は載っているだろう、と。
うん、確かに載っていたな。だから、丁寧に払い落して地の雪にならしておいた。ハンデがハンデとして機能するようにね。当然さ。
ま、それでも屈まず雪玉を作る方法は幾つかあったりするんだけど、とにかく開始直後に屈むことはないわけだ。
行われるのは、前進か攻撃。一応「十中八九」と言った通り、少ない確率で「待機」という選択肢もあるにはあるが、こちらの出方を観察するより好戦的な気質が現われてくると予想される。
さて、こちらはどう動こうかね。いろいろ考えてはいるんだ。確実に勝てる手なんて一つもありゃしないが、それでも勝ち方については13通り用意しといた。
──ごちゃごちゃ考えている須臾の間にも、雪玉は加速度的に落ちてきて、自分と幽香嬢の視線を結ぶとこにまで来た。まだごちゃごちゃ考える時間はあるな。始めの一手を何にするか十二分に論理的に戦略性を重視して熟考しよう。ど・れ・に・し・よ・う・か・な、と……おや?
風見幽香のお洒落な傘が上方にあった。先端が青空を衝くように高々と斜めに掲げられている。こちらから見て左上。
フライング、ではないよな。開始前にこちらを攻撃する意図はないはずだ。再三言っているように、最強の妖怪様がセコくルールを破るってのはデメリットのが極大。
じゃあ構えを取ったのか? 開始直後に攻撃しようと準備したか。いや、主目的は示威行為だろうな。「こう行くわよ」とこれ見よがしにして煽ってるんだ。ふむ、さすがに王者の風格でサマになってる、って、しまったッ
勘違いに気づき、地を蹴って左前方へ跳ぶ。幽香嬢の足が踏み込まれ、袈裟がけに斬るように傘が振り下ろされた。
もちろんその狙いは蜥蜴じゃない。落ちてきた雪玉だ。
白球がジャストミートされ、白のグラウンドに叩きつけられる。プレイボール!
振られた傘は切り返されて、先端で蜥蜴を追う。追われる自分はさらに回り込むように動き続ける。追いつかれたと感じても、焦らない、焦らない、焦らない……今ッ!
発光の瞬間に飛び跳ねて側転。光弾が雪と土をえぐって白煙と共に宙へ散らす。さらに両腕で加速した横っ飛び。刹那の前にいた場所で、新たな白と茶の飛沫が爆ぜる。
ったく、何てこった。ルールを破らないようにその「範囲内」を意識して攻めてくると思ってたのが、こんな方法で口火を切るとは。本来のスタート時間を無理くり早めて意表を突くとは。ルールの限界ラインに体当たりをかましてその範囲を広げてくるなんて、積極的に過ぎるだろ。
まったく、ホント、ありがたい。
大人げないなんて思わないさ。ウサギ一匹に全力を尽くす百獣の王の態度。それでこそだよ、風見幽香。長らく目をつけていただけのことはあった。
共演者も観客も大満足な舞台の花だ。こちらもかすみ草以上には咲いとくよう努めにゃならんな。
(現状、菊の花を供えられそうな事態ですがね!)
身を低めて滑り込み、光弾を避ける。背中の鱗がチリッと焼けた感覚を味わう間もなく、次の弾をかいくぐる。
一発でも当たればアウトに等しい。頭や心臓を貫かなくても、衝撃で動きが止まったところに連続で撃ち込まれ、あっと言う間に行動不能となってしまうだろう。
恐ろしや恐ろしや。けど、どうにかギリギリかわしていける。一発一発に集中して対処すればいいからだ。これが散弾だったりすると厳しさ五割増しだが、散弾が来ることはないだろう。
幽香嬢が蜥蜴めに手心を加えてくださっている、という薄ら寒いジョークは置いといて、彼女が弾をバラ撒かないのは自分の不利益を招かないようにだ。
標的こと蜥蜴は開始後ほとんど身を低めて動き回っている。必然的に外れた弾は地を穿つ。決して水平の彼方へ飛んでいくことはない。そう、紳士たる蜥蜴は観客たちに流れ弾の累が及ばない配慮をしていたのだ、という薄ら寒いジョークは置いといて、つまりはこれが幽香嬢の散弾を抑止している因子ってわけだ。
光弾は雪を蒸発させている。ところどころの穴から噴気孔のように湯気を上げている。少数なら大したことないもので温泉地のような風情を醸し出すが、これが無数に生じたとしたらどうだろう。濃い煙幕が視界を覆ってしまうのは、想像に難くないんじゃないかな。
それに乗じて不意の一撃を食らうハメになったら目も当てられない。幽香嬢は自分の作り出した隙によって爬虫類ごときから被弾するという無様な烙印を押されてしまう。
煙幕に覆われようと所構わず撃ち込みまくる手はないのかって? 見えなくなるのは爬虫類も同じだから? それは違うな。爬虫類だからこそ「見える」。
蛇はもともと先祖が地中生活を営んでいた生物だ。だから暗闇でも動き回れる知覚能力を持つ。
特徴的なものの一つはピットと呼ばれる器官だ。これは熱を感じ取れる、いわば天然素材の赤外線暗視装置。いくら風見幽香が冷血漢といっても、体温は哺乳類に準じたものだろう。会場内でははっきり「熱」として浮かび上がる。熱を持った光弾も同様だ。
そしてもう一つは舌。蛇は臭いを舌で感知する。何度となく舌を出し入れする蛇を見たことはないだろうか。あれはアッカンベーと挑発的な態度を取ろうとしているわけではなく、周囲の臭いを把握しようとしているからだ。舌の先端は二股に分かれていて、臭いの方向性をつかむことに役立っている。
以上、これだけでも煙幕が爬虫類にとっての有利となるって寸法だ。聡明な風見幽香が一方的に知覚不能な状況を作り出すはずもない。ゆえに単発の弾に意識を向け続けることができる。
もっとも、この平身低頭な姿勢を崩せば「頭が高い」と斬り捨て御免と相成るでしょうが、そこは生まれて以来の態度が役立つ。地を這いつくばるのはお手の物さ。
撃ち込まれて、撃ち込まれて、撃ち込まれる。かわして、かわして、かわしまくる。腰を落としながら、四つん這いになるかならないかのままで。
チリッ、チリッと身体のあちこちを光弾がグレイズして焼いていく。鱗の一部が炭化して散る。身も細る思いだ。ふむ、これをヒントにダイエット教室と火焼けサロンの複合施設を創出してみようかね。利用客は漏れなく死ぬんで、クレームも付かないし。
さてと、馬鹿なことを考えている間に機を逃してはしょうがない。そろそろ頃合いだろう。
手の中の雪を握る。自分は幽香嬢と違って、地に手を付けまくっているがゆえに雪玉の材料はいつでも調達できるのだ。
こいつを投げて勝ち点を得る。
今この時、ポイントを押さえていれば、必ずできる。
幸運の女神は前にしか髪が生えてないとのことだ。通り過ぎた後は髪をつかんで引き留めることができない。女神様には同じハゲ仲間として仲良くしてもらいたいところだ。爬虫類が相手だとて、微笑まないまでも愛想笑いくらいは望んでいいだろう。
いくぞ。
ポイントとは「目立たない最小の動作で、鋭く投げること」ではない。その逆こそがポイントだ。すなわち「目立つ大げさな動作で、緩やかに投げること」
普通ならあっさりよけられて、隙の生じた身に弾幕をたんまり受けるわけだが、まあ見ていなさいって。
後ろの左足を跳ね上げ、狙ってきた光弾をかわす。体勢は右足のみで立つ、極端な前傾姿勢。顔面は接地寸前だ。その流れに沿った形で右の雪玉をアンダースローで放った。できるだけ大振りに、緩慢に。
自分が空中で一回転して着地するのと、放物線を描く雪玉が幽香氏に左手で受け止められたのは同時だった。
蜥蜴の勝ち点1。
な? 抵抗感なく当てられてくれただろ?
おお……と周囲から声が漏れる。うーん、そこはこちらを助ける意味でも軽く流してほしかったな。場が湧くのは歓迎だが別のところで頼むよ、なんて、流石に望み過ぎか。自分でフォローを入れとこう。
右手で腹を抱えるようにし、左手を後ろに回して、上半身を45度曲げる。芝居掛かった一礼。
「粗品ですが」
「ありがたく頂戴するわ」
幽香氏も雪玉を優雅に持ち上げて見せる。
互いの意図がこれで全体に理解されるだろう。仮にされなくとも彼女が「ここまでやってもわからない脳の働きの鈍いお馬鹿さんの誤解なんて知ったことではないわ」みたいに考えてくれるだろうし、どちらにせよ蜥蜴が八つ当たりされる恐れはなくなった。
風見幽香は相手の一撃を「受けてやった」のだ。屈むことなく持ち球を手に入れるために。
そうしたいと思うのは、蜥蜴の力量がわかってきた今時分だと当たりを付けた。距離を遠ざけることは手間取りそうで、光弾を食らわせることはやれそうだと判断したに違いない今でなら。
ドンピシャリだ。
一つの玉を手に入れるのに一つ被弾するのでは意味がない……なんて考えてやしないだろうね、チミ。玉はいくつにでも分割して使用できるんですぞ。あの大きさなら肉塊に五回ぶつけるには十分だ。おわかりかね。
にしても、幽香嬢が持ち球を確保する手段としては、結構な確率で合図の雪玉を狙うと見ていたんだけどな。地に落ちたそれに傘の先端を刺して拾い上げるって方法だ。それなら失点抜きでやれる……のだが、流石にわかりやすいエサには釣られてくれないか。件の玉は地に叩きつけられ砕けている。シートン動物記でもあったな、毒入りのエサに糞尿をかける狼の話。
「楽しそうね」
「ん?」
風見幽香が話しかけてきた。すぐに再開するのでなく敢えて間を開けたのは、遺言を述べる猶予をくれてんのかね。なんつって。
「恐怖心というものが欠けているのかしら」
「まさかまさか、怖がりまくってますよ。見てください、ほら、鼻で笑っている」
「膝が笑っている、でしょ。まったくふざけた蜥蜴ね。そういうあなたの精神構造がわかってきたわ」
「へえ?」
「自身を客観的、いえそれを超えた視点で見ている。自分の行動や状況を、まるで絵画の内容のように扱えるのね。だから、どんな危機的状況も娯楽にできる。ただの絵なら、それがどれほど恐ろしくたって、絵の前から逃げる観客はいないもの」
「ふーむ」
「要するに思考回路に欠陥があるのね。恐怖は生き物にとって重要な感情よ。生命を脅かすものから距離を置くために必要なの。なのにあなたはそれがない。むしろ楽しみを求めて恐怖の元へと近づいていく。生物として間違っているとしか言いようがないわ」
「的確な分析です。素晴らしい。サイコなセラピストになったらどうです?」
「『な』は余計でしょ」
茶化しはしたが、幽香氏の言を否定はしない。自分でも自分がおかしいと思っちゃいるからな。
でも、まるまる肯定もしない。だって、恐怖心はちゃんとある。それを避けようと万全を期して事に当たったりもする。死にたがっているわけじゃあないんだ。
だが……恐怖の回避と愉悦の獲得を綱渡りする行動パターンは確かに自分の基本姿勢にまでなっている。生物として間違っているか。ジェットコースターや冬山登山など、恐怖や危険さえ快楽と為せる人間特有の思考にして嗜好。それが身についている自分は、通常生物の枠外、キチガイとされて不思議ないか。
奇天烈な自分を再認識する機会を与えてくれてありがたいね。お礼にそちらも分析して差し上げよう。日陰者の蜥蜴男に脚光を浴びせてくださったなら、光を反射させて向日葵畑の主にお返しするってわけさ。
「サイコは言葉の綾ですけど、さて、それだけの分析力があれば、ご自身のエキセントリックさにも気づいていると思いましたが」
「どういうことかしら」
小さいが致死性の毒のある棘を台詞に感じつつ、華麗にスルーして舌を動かし続ける。
「いや、ご存知の通り自分は底辺中の底辺にいる存在でして、」
「よく存じてるわ」
「その底辺にいた者としては敏感に察知できるんですよ。被差別者界のソムリエたる自分の分析によれば、あなたの下々へ向ける目はひと味違っている」
「へえ、どんな風に?」
「喩えとして精子を用いましょう」
「は?」
「一回の射精で一億から四億ほどの精子が放出され、そのうちの一匹だけが卵子と結びついて、この世に産み落とされる」
「話が見えないわ」
「卵子と結びつけなかった数多くの精子のことなんて、生まれてきた者は考えないってことですよ。数億の頂点に立ったら、二位以下のことなんて眼中になくなるのが普通なんです。まして一番卵子から遠い所にいた精子なぞはね」
下の下にいる者に対して、だいたいの者はバカにする。競争における二位以下の者は、自尊心を回復する手段としてそうする。
対して、競争の一位になっている者は、下の下の者をバカにすることはしない。では、どんな目を向けるのか? 答えは先ほども述べた。「ない」だ。目すら向けない。まったく意識の外に置くのだ。自尊心は十分満足している。ゆえに、意識するだけ人生の無駄と考えて当然だろう。
「ところが、あなたは違う。頂点に立ちながら、こちらを見ている。『最強』の名を冠しながら、『弱い者イジメ』が趣味だという。まったく普通ならありえない取り合わせです。まるでスイカの天ぷらのような。それともまさか最強とは名ばかりで、実は大きなコンプレックスを抱えてらっしゃる? いやいや、そんなことはないでしょう。ゆえに奇妙奇天烈摩訶不思議と称するのがふさわしい」
そして、そこに自分はホンワカパッパと惹かれたのだよ。対戦相手として風見幽香の名は真っ先に挙がっていたんだ。
「沼」に来る以前は直接対面してどうする算段もつかなかったので、爬虫類らしく蛇のように這ってスニーキングミッションをやるのがせいぜいだった。生き残りつつ楽しむ方法として、太陽の畑の真ん中で酒を飲むことくらいしか思いつかなかった。彼女を長らく観察して性格やら行動パターンやらつかんでの結果がそれとは誠に遺憾だった。
今は違う。衆人環視の中でShall we danse?と申し込める。
無論ここに呼ぶことすらも一苦労で失敗の可能性もあったが、霧雨魔理沙が負けていたときのことを考えて幾つか予防線を張っておいている。たとえば、幽香嬢と交流のある虫姫様や毒人形ちゃんへ氷精ちゃんラインで声を掛けてあって、酒宴に招待してある。こうして幽香嬢へのラインにもつながったことになる。これを利用し、彼女の足を一歩でも「沼」に踏み入れさせればしめたもの。その場で挑発し、勝負に引きずり込む。……とかね。
ただ、この方法は死亡フラグが数倍ほど増すので自分とその周辺にとってお勧めできない。まあ、今の状態も棺桶に両足突っ込んで指一本でしがみついてる有様なんで、あまり変わりないんだけどな。
「変わり者同士気が合いますね。自分のことを楽しそうとおっしゃいましたが、あなたもまた楽しそうなのはこの蜥蜴めをダンス相手として認めてくださったからでは?」
勝負前、会話の中で彼女は表面的な微笑とは違う、本質的な感情を覗かせた。それは心からの笑みだ。
「最強でありながら弱い者イジメを好むのは、窮鼠が猫を噛むのを期待しているからだと考えます。底辺の自分が挑んでくることを喜ばしく感じているのでしょう。それは鬼が人間を好むのに似ている。圧倒的な力に対して立ち向かってくる者を好むのに。結論として、あなたは実は弱者のことを、」
「私のことをセラピストと言っていたわね」
言葉を差し込まれた。傘の先端が上がる。
「その通りよ。あなたのような腫瘍を切除して、世の中を良くするの」
先端から光弾が地を焼き、唐突に勝負は再開された。
唐突というのは観客視点だけどね。大勢の前であそこまで言えば実際のとこ予定調和だ。あれは自分の立場に置き換えてもこっ恥ずかしいだろうよ。でも、思ったよりだいぶしゃべれたな。ゆうかりんのサービス精神だろうか。
そのサービス精神は弾幕にも現れていて、前よりも速度と発射間隔がハードモード。臨場感あるスリルを提供してくれる。ははっ、巨乳の死神が肩を寄せて三途の川でのボートデートを誘ってくる心持ちだね。死ぬという一点を除けば魅力的だ。
「私のダンス相手を気取るなら、もっと優雅に踊ってみなさいな」
「こちらにっ、合わせてくれてもっ、いいんですよっ!」
まともにしゃべれないくらいキツい。飛び散る雪と土の中に、自分の肉片が混じってないのが不思議なくらいだ。
幽香嬢は平然と言う。
「これ以上レディーを低い所に置こうとするなら紳士失格よ」
紳士以前に人間失格なんだがな。爬虫類なもんで。
だが、言葉の通り、誰の目にも明らかな手加減を彼女はしているんだよな。対魔理沙戦での弾幕を用いる言いながら、ここまでずっと傘からの光弾のみで攻めてきてる。こうなると文句も言いづらいね。
それにスピードアップする理由もちゃんとある。
一つは雪の量だ。自分の足元では土がだいぶ露出している。多く撃ち込まれて結構蒸発してしまっているのだ。となると、弾数を増やしても煙幕は生じにくくなる。
もう一つはマンネリだ。同じパターンのやり取りを繰り返していては、幽香嬢も観客も飽きが来る。新たな展開を導き出すため、主催者を追い詰めているということだ。
バリエーション豊かな弾幕を撃つことができるんだからしてほしいな、とは思わないでもないが、先の言葉で釘を刺されている。「リードするのは紳士の役目」だと。参ったね、どうも。
時間の経過とともに加速度的に切羽詰まった状況になっていく。一手でも間違えたら即投了の流れ。飛び交う光弾の間を、体勢が崩れないように軸や重心を保持しつつ、行動を予測されないように軸や重心を自在に変化させ、どうにかしのいでしのぐ。
奇跡的に致命傷を受けてないのは、一年間ほど紅美鈴の身取り稽古をしていたのが役だっているようだな。風見幽香の周りを中国拳法の身のこなしで巡るのはまるで套路だ。いや、こんなへっぴり腰のを套路と呼ぶのは差し支えあるかもだけどさ。
雪の量が減り、弾のスピードが増してきたことで、しゃがむ姿勢を保ちにくくなっている。そうなると弾はさらに躊躇なくなる悪循環。ガラス張りの部屋の自分は、頭のてっぺんから足のつま先までブルーハワイまみれだ。
白と青の顔色に対して、一張羅の甚平は黒と赤にまみれる。土を被り、焦げもでき、血がにじんでのことだ。ビンテージもののジーンズならまだしも、これじゃ雑巾としてとしての使い道しかなくなる。まあ、持ち主の身体がボロ布のようになる心配の方をすべきだろって話だが。……なるほど、仮に死んだら、この甚平は聖骸布に格上げされるんじゃないか? なんつって。
できるだけ低姿勢になれるようにと膝をかがめた途端に、雪と土が飛び散りさらに汚れる。飛び散り方がより派手になっていくのは、雪が減っただけでなく、威力も上がっているからだろう。
目潰しを狙ってもいるようでもあるが、多分違う。先に述べた通り、見えなくなっても対応は可能だし、雪・土程度なら瞬膜が弾く。
瞬膜とは、上下に開閉するまぶたとは別に、横にスライドする第三のまぶただ。透明、あるいは半透明で、自分は当然透明なものを選択している。コンタクトレンズタイプのゴーグルは視界を妨げずに眼球を保護する。そんなに珍しいものでもない。哺乳類ならラクダやホッキョクグマなどが持ってる。人間にもその痕跡がある。
(土が怖くて地べたを這いずり回れるかってこった……なッ!)
顔面に来た光弾をのけぞってかわす。眼前の地面が爆散し、顔にかかる。次の光弾はピットが感知している。なのに、かわしきれないと確信。なぜなら、のけぞった際に地についた手が、以前に撃ち込まれていた光弾の穴に着地し、体勢が崩れてしまったからだ。
因果応報を信じるかい? 紅美鈴がやられた方法を、今度は自分が食らうことになった。違うのは、あれが意図的にやられたことであるのに対し、これはまったくのミスということだ。否定しようのない完全なるチョンボ。
落とし穴や地の弾痕の位置は全部把握していたのに、とっさの回避動作でやむなく陥穽にはまることとなった。まさかこれって幽香嬢の思惑通りってのはないよな……?
無駄な思考ができるのはそこまでだった。自分は本当の目潰しを食らってしまう。具体的には左顔面に光弾が直撃。顔の造形が「太陽の塔」になる。芸術は爆発だ。
自己を茶化すことでパニックにはならずに済んでいる。激しい痛みと飛び散る血潮で真っ赤な視界の中、冷静に状況を把握。
千切れた視神経を引く眼球、それが宙に舞っているのを、もう一方の眼球で視認した。これを置き去りにすると負ける。吹っ飛ばされた勢いを利用して退避しつつ、カメレオンの舌を伸ばして眼球を捕獲、胃の中へと回収する。気分は夏侯惇。
さて、片側の視覚、さらにピットもやられた。なんとか体勢は立て直せたが、こっからジリ貧の進行速度が増すのは目に見えてる。
なのに、どうにも近づけないのだよな。距離を詰めることがさっぱりできない、許されない。風見幽香を中心にただただ円を描くのみ。不可侵領域はなかなか堅固に構築されとる。
この勝負、遠ざかれば一方的な遠距離攻撃にさらされるのに対し、近づいて混戦にもつれ込めば勝率は上がる。つまりは、向こうは優雅さを保たないとならないのに、こちらはいくらでも泥臭くできるので、相打ち覚悟だと分が相当良くなるってことだ。十六夜咲夜との対戦を想起する。
んで、メイド長と同じく、幽香嬢もそのことはわきまえていて、蜥蜴を接近させないようにしているわけだ。前回は向こうから近づいてきてもらったのだが、今回も同じようにとはいかないだろうな。その類の「仕込み」もしてないし。
かといって、何も変わらないまま手をこまねいていると投了は確実だ。喩えでなく完膚無きってな状態での敗北となる。勝負を賭けるしかないな、命を懸けて。
こちらの手が届くまでには何発かの被弾を覚悟する必要がある。もちろんグレイズでなく、ピチューンの方だ。それでも攻撃の体勢さえ残っていれば勝利に近づく。食らいボムの精神だな。
さあ、ゲームオーバーにならずにクリアーできるかな? ゾクゾクするね。
手っ取り早く楽しみを得るにはギャンブルが最適だろう。いつでもどこでもやれて、スリリングなひと時を味わえる。
賭場と賭け金がない? 賭けるものなら金に限らないだろう。それを言うなら自分には金どころか、名もなく、力もなく、ないない尽くしだ。それでも生きている以上、身体と命くらいはある。そして五分の魂にはビタ一文ほどの値がつく。ほら、賭け金はあるんだ。
世界というカジノを理解し、自分というチップの価値を知れば、ギャンブルを楽しむことができる。時と場を問わないスリルがそこにある。
まあ、万人にお勧めはしないけどね。楽しむために賭け金を失っても構わないなんて思考は、気狂いピエロにしか持ちえない。最期の最後までにこやかに、我に返ることなく笑顔で爆死する狂気がなければ、賭け事なんてしないに限る。
逆にいえば、狂気があるなら、しない手はない。
踏み込むぞ。
──……ふっ
蜥蜴の足が初めてその領域に入ったそのとき、風見幽香から漏れた声は、やはり笑みのものだったか。
確認する間もなく弾幕の圧が倍加した。
光弾をくぐり、脇を上げて次の光弾を擦り抜けさせる。動きを止めてはならない。移動するところ、膝下を狙う光弾。またぎ越す。その着地点をさらに光弾が襲うが、後ろ足に力を入れてジャンプしている。
空中に跳んでしまった。空を飛ぶ能力がないので、どこにもかわせずただの的と化す蜥蜴。ああ、敢えなくこれで詰み、なんて締まらない結末にしてたまるか。
太くて長くてぬめり光る自慢の尻尾が、雪の剥げた地面に突き刺さっている。それを支点にして跳んだ方向とは逆へ無理矢理身体を押し戻した。
鼻先を光弾がかすめ、回避成功。だが、尻尾の根本に熱が走った。
そっちをやられたか。足ほど筋力があるわけじゃなく、滞空時間が長くなってしまったから仕方ない。千切れかけた尻尾を自切。重りでしかない肉塊を分離する。
当然のように尻尾に飛ぶ光弾。しかし、身体が重りを捨てたのと同様、尻尾も束縛から解放されてる。くねる蛇の機動性を見せて、我が分身は連続二発の光弾をかわす。
もう少し尻尾に引きつけておかせたかったが、王手飛車取りの気配。尻尾の動きは早くも読まれ、隙を衝こうとする自分本体も把握されている。尻尾自体に攻撃力はないと見透かされ、本体に傘の先端が向けられる。本命をじっくり狙い、甘さを見て取れば尻尾を肉片に変えるつもりだ。
危険を二倍にするのは得策じゃない。尻尾には舞台から退場してもらおう。
緑と白の大蛇は雪の中に先っちょを突っ込むと、そのまま全部を潜り込ませて、消えた。本体でなければ避難して問題ない。以後はミミズの穴で安静に暮らしてゆくことでしょう。
さて、その一方依然危険な本体ですが、ここでさらに危険な一歩を踏み出さないとなりません。やれやれだが、せっかくの犠牲を無駄にしたくはなし、勝利に近づくためにはやむをえない。古人もこう言っているね、墓穴に入らずんば事故を得ず。……おっと、それじゃ犬死にか。蜥蜴が犬じゃ洒落にもならんな、ははっ。
尻の重りが消えて尻軽男になった自分は、より身軽になって目の前の女性にお近づきになろうとしている。彼女のガードの堅さは相変わらずだが、スピードアップのお陰でどうにか狭まった円周上から離れずに巡り巡っていられた。念願のボディータッチまであと数歩。
光弾を避け、逃れる方向を予想して先回りする傘の先端。
ここだ! 足裏に力を込め、円周上から中心へと決然とダッシュする。
幽香嬢は意表を衝かれた様子もなく、冷静に照準をわずかに横にずらすだけで蜥蜴の中心を捉えた。心臓の位置。
放たれる光弾。これはかわせない。熱。貫かれる胸板。だが、衝撃はない。何の抵抗もなく、光弾は背後に飛んでいった。蜥蜴の走行も止まらない。そのままゼロ距離まで、
あ、ダメだ。
そのままゼロ距離まで詰めようという目論見は、風見幽香が一枚上手だったために砕かれた。間髪入れず蜥蜴の足に向かって光弾が撃たれたのだ。
強引に進もうとしていれば機動力を破壊され、苦もなくとどめを刺されていたろう。踏み出そうとした足を下げて、追い打ちの数撃をかわしながら距離を取っていく。モクロミ失敗、元のモクアミか。
「完全に読まれてましたね」
光弾が止まって、一息ついた──一息つかせてくれるか──慈悲深いのか、残酷なのかはともかく。
右足の小指が半ば焼失している。痛みはそれほどない。タンスの角にぶつけたくらいだ。
もっと痛いところが二カ所あるが、それにしたって胸についてはあらかじめ神経接続を薄くしておいてあったので、オーブンから取り出したばかりのピザ一枚を素肌に直接貼り付けられた程度の熱さで済んでるし、顔面については生まれつき崩壊しているので、痛みはせいぜい剣山を金ダワシ代わりにして粗塩でゴシゴシと念入りにフェイスウォッシュされたレベルの苦痛しかない。
なお、尻の痛覚については皆無だ。痛みを感じるようなら「トカゲのシッポ切り」なんて慣用句は生まれてない。
風見幽香はふふん、と王者の風格で応えた。
「コスいのが取り柄のあなたが、何の意図もなく無謀なことはしないでしょ。何をするかはわからなくても、何かしてくることはわかるわ」
それで即座の牽制か。お見逸れしました、だよ。
「もっと何かあるかと思ったけど、なかったみたいね。拍子抜けだわ」
追い討ち掛けなさんなって。凹むわ。ただでさえ胸に穴が開いたようなのに。
「直撃したのに後ろに飛ばされなかったのは、身体の強度の変化によるものね」
「そうです。トンネル状に脆くしておきました。ついでに中身もできるだけ空洞に」
「心臓は元の位置から移動しておいたのかしら」
「ええ、反対側、かつやや下に。気管支や肺もずらしてあります」
「後はそこを狙わせるようにしたわけね」
「その通りにしてくれて感謝していますよ。ビックリしてくれればなお良かったんですが」
「なら、次はもっとマシな芸を見せなさいな」
次ね。機会を与えてくれるのは慈悲深いと言えるけど、ハードルを上げてくるのは残酷だな。大したものを披露できなければ尻切れトカゲ、もとい尻切れトンボと蔑まれて、有終の美とはほど遠い最期を迎えることとなる。
こうしてしゃべっている時間は、傷の回復の猶予だ。完全に治るまでは、再開の狼煙をいつでも上げられる権利さえある。
風見幽香、強者の余裕バリバリだね。艶やかな緑髪は一筋も乱れてなく、宙を浮く靴は泥の一片も付いてない。
他方、蜥蜴ときたら酷いもんだ。胃液まみれの目玉を眼窩にはめたり、血と泥を拭いたボロ雑巾みたいな服を身にまとったり、それでも隠せず胸から背中の穴に生々しい肉色を覗かせたりしている。
手で互いを示し、言う。
「今のこの場面を、カラスの新聞記者が写真に撮ったら、『格差』ってタイトルを付けられそうですね」
「それはないでしょ」
幽香嬢が否定してくれる。
「ゴシップ専門の三流紙でも、そのまま過ぎるタイトルは避けるもの」
「あ、そういうことで」
緑の禿頭を撫でる。
じゃあ、捻ったところで「月のモノとすっぽん」ってのどうだろう。うむ、日活ロマンポルノだな、それだと。VIPな招待客には不評そうな下ネタに思えるし、台詞にするのは止めとこう。けど、どうでもいいことだが、500歳の幼女ってアレは来てるのかな?
その彼女は、幽香嬢の右耳から少し離れたところに見える。瀟洒なメイドが差す日傘の下で、腕を組みながら立ち見している。満足そうに口角が上がっているようで、興行主としてひとまずは安心だ。
そこで、おや、と思った。そのお嬢様の周辺はやはり距離が開けられているものの、存外近くに「沼」の皆はいる。一様に不安げな顔を浮かべたりはしているが、吸血鬼一行が人垣に紛れるくらいに近接している。夜の王としての威圧感をレミリア嬢がダダ漏れにしてないからなのもあるだろうが、絶対強者に対する畏怖・忌避の感情がだいぶ除かれている理由としてはまだ足りない。
慣れ、かな。宴会で数々の実力者と共に酒を飲み、「最強」の代名詞との勝負を観戦する。それらと比すれば、脇に控えるくらいは何でもないか。しっかし、変われば変わるもんだな。そう言えば、「人垣」と述べたが、開始直後はほとんどあちこちに隠れていたのに、今は見えるところに出てきている。やっぱり慣れか。弱者にとってはいいことでもないんだけどなぁ。
もちろん未だに身を隠している者はいる。紅魔館のお二人からから右上、木の奥の枝に屈んでいる蠅ちゃんもその一人だ。ピンクの髪は目立つが、他の枝に遮られてしかめっ面と足元しか見えない。うーん、その座り方、両手で枝をつかんで安定性がありそうだけど、ヤンキー座りとかウンコ座りとかに近いそれだぞ。立ち振る舞いに無頓着なのも魅力の一つには違いないが、ねえ?
……と、気付く。同じ木、その斜め上の茂みに黒いボールがニヤついている。嫌なものが目に入ったな。相変わらずのポーカーガン黒フェイスは、何を隠しているやら読み取ることができない。
ふと視線がかち合った、と思ったら、長はまぶたを閉じた。何だ?といぶかしんだところで、開かれた。意味を考えて、恐ろしい結論に至る。ウィンクしたんだ。
うっへぇぇ、隻眼でやっても伝わらんだろ、それ。たまたま伝わっちまったけど、伝わってほしくもなかったよ。酷い嫌がらせだ。嘔吐感と精神障害を負ったことに対して損害賠償を求めたいな。
「何を呆けているの?」
呼びかけられて、ゲストを放っておいた間抜けさに気付く。
観客を見回して余裕ぶっこいている暇はなかった。傷が治癒するまで時間を与えてくれるとはいえ、その間まるっきり自由時間というわけじゃあない。ゲストと観客のために言葉を絶やさない配慮をしないとな。
「失礼しました。『カッコウアザミ』でもないのに」
「?」
「花言葉【あなたの返答を待ちます】」
「あら」
幽香嬢がちょと眉を上げる。石畳の隙間にタンポポが咲いているのを見つけたような表情だ。
「意外な知識を持ってるのね」
「自然豊かな『沼』ですので、」
両腕を広げて、
「自然身につきました」
胸元で閉じる。そこの穴は未だ表面的にしか塞がってない。
「下手な態度で『ギンモクセイ』するのは勘弁よ?」
おっ、付け焼刃な知識か確認を取ってきたな。
「花言葉【気を引く】ですか。下手な態度かはともかく、興味関心好奇心は持ってもらえるように努力してますよ。あなたとは『マーガレットコスモス』でありたいですし、まあこれまでのあれやこれやは『クコ』ということで」
「【円満な関係】に【共に忘れましょう】ね。そこまで私に『カランコエ』を期待されてもね」
攻めてくるなー。花の妖怪に花言葉を使ってきたからには、覚悟しなさいってか。
「謙遜なさらずとも【寛大な心】はあると存じ上げてます」
「綺麗な花をただただ綺麗なものとして見ていると『アワダチソウ』よ?」
「【安心・幸せな人生】?」
「【警告・要注意】よ」
「心配してくださるのはありがたいですけど、ドント・ウォーリー、自分は喩えるなら『ハマギク』や『ツワブキ』です。【逆境に立ち向かう】【先を見通す能力】」
「まだ勝負を捨ててないのね、『キンギョソウ』さん」
「ええと、【おしゃべり】【図々しい】【図太い】【騒々しい】?」
「【推測上ではやはりNO】」
「っと、そういう意味もありましたっけ。これは一本取られたなぁ。まだまだ自分の知識には不十分なところがあるようです。ここまで名前の出てきた花は、全部ちょうど今が見頃と『沼』周辺で咲き誇ってますので、機会があったらご教授ください」
このアピール、あからさまだったかな? でもさりげなさ過ぎてスルーされると意味ないしな。結実するかはわからないが、種をまくなら生えるものにしたい。
「かわいい花たちのことが、蜥蜴なんかの頭に収まっているなんてね」
軽く息をついて、出てきた言葉はそんなだった。不審がられてはいないようだ。花言葉のやり取りでは全部秋の花で統一してきた流れに合わせたのだが、そこまで徹底したことに対する感心に、気を取られてくれたのかもしれない。
「『源氏物語』みたいなフレーズですね。下賤な家に咲いているあの花の運命は可哀想だ、とかそんな感じの」
「綺麗な花をただただ綺麗なものとして見るのは浅見と言ったけれど、綺麗な花を綺麗なものとして見ないのも間違ってるわ。価値あるものについても同様よ。まともに見ることのできない奴がこの世には多すぎる。私が思っているのはね、蜥蜴なんかで生まれてきてよく生きていられるわねってことよ。私なら耐えられないわ」
婉曲的にではあるが、自分の感性を認めてくれるような言葉が出たことにオドロキ。蜥蜴にしとくのが惜しいとはね。
「そこら辺はまあ、様々なハッピーの形がありまして。たとえば、長はですね、底辺には大きな利点があるとおっしゃってます。『水は低きに流れる』というフレーズはご存知でしょう?」
「それが?」
「『底辺にいれば様々なものが無数の河川と流れ込んでくる──清濁併せ飲む懐の深さがあれば、大海のようになれる可能性があるのさ』、だそうです」
「『沼の中の蜥蜴、大海を気取る』ね」
「自分ですか? そんなふざけた考えを持つわけがありませんよ。詭弁としては面白く聞かせてもらいましたけどね」
視界の隅で長を盗み見ると、衆目の前でディスったにも関わらずニヤけた顔は不変だった。苦笑くらいはしろよ。
「自分は別のところで底辺ゆえの恩恵を享受させてもらってます。風見幽香さん、あなたは感じたりしないんですか、『最強』ゆえの退屈を」
「ん……」
「愚問でしたね。感じるはずがない。自分がこの世に生まれたのは世界の意志で、自分が思うがままに動けるのも世界の意志だと、それくらいには考えているでしょうから」
この台詞は看板の文句をなぞっているようなものなので、先の台詞と違って地雷にはならない、と思う。下を向いた傘の先端が動かないのを見て、続ける。
「だから、想像すら無理なのは当然ですよ、まさか底辺が底辺ゆえに日々を謳歌してるとはね。すなわち、常に何かに挑戦できる楽しさ。これに満ちてるんです。いつでもどっちを向いても自分より強い者ばかり。世界には攻略すべき対象がよりどりみどりの勢揃い。ほら、『最強』には決して味わえないでしょう」
「……ヤケドする程度の火遊びで止めておくべきだったわね。イモリの黒焼きにでもなりたかったの?」
それはそちらが愚問だな、と心の中で答える。賭けたチップの価値は知ってるさ。ついでに、イモリは両生類で、爬虫類はヤモリの方だ。
「やめなくて正解でしょう。火に油どころか、噴火口にナパーム弾ぶち込む自分であったからこそ、こうしてWINWINの関係が築けているのですから」
「言葉の意味を勘違いしてる? 私はこんな所に呼び出されて迷惑だと言ったわよ」
「貧民が革命を起こすことを大富豪は期待している、と自分も言いました」
「期待するだけ失望が深くなるのはご免よ。あなたは今、勝てる確率はどれくらいで見ているのかしら」
黙って傷口を押さえていた手を離し、その血まみれの五指を広げて見せる。
「お手上げ? それとも5%ってことかしら」
五分と五分、なんて返答を予想してるんだろうが、どっこい、
「ハンド・レッド」
「あら」
100%ってことだ。
ヒューと口笛を吹いたのは霧雨魔理沙だろう。他には嘆息とか身じろぎとかの音が周囲から湧く。
会話パートが長いとはいえ、この大詰めの場面にして、「沼」の観客は逃げないどころか緊張を和らげ、高揚さえしているようだ。
レミリア嬢は笑みを浮かべて十六夜咲夜に何やら耳打ちしている。『この期に及んでの挑発とは期待を裏切らないな』『元からあんな性格なので、予想も裏切ってませんが』『そこは今後に期待だな』ってな会話だろうか。
OK。口八丁手八丁はこちらの十八番だ。口内で舌を回す。乾き切っているということはまるでなかった。 Let's go.
「ずいぶんと強気なのね」
「そもそも勝敗は0か100でしょう」
「0に大きく傾いた100ね。天秤に掛けたらひっくり返ってるわ」
「さて、どっちに転がりますか。ビクトリーロードを歩むため、せいぜい次の手を打たせてもらいますよ」
「私相手にそう上手くいくかしら。『次』に『くさかんむり』を載せたら『イバラ』よ」
実際、次が最後のチャンスとなる。これを逃すと勝つ手はもうない。にも関わらず、ギリギリもギリギリな超無理難題だ。ははっ、燃える。
「たとえ『茨の道』であっても、その先にスリーピングビューティーがいるなら、挑戦のしがいがあります」
錘が刺さったくらいじゃ錘の方が壊れそうだが。
「あら、寝ぼけたことを言っているのはあなたの方じゃない?」
「ビューティーは否定しませんか。さすがです」
「花は例外なく美しいものと決まってるのよ」
「そう、花の妖怪でしたね。確かに挙措の一つ一つがそのものだ。立てば癇癪玉、座れば起爆ボタン、歩く姿はシューティングガン」
「火薬から花火を連想させるにしても、苦しいわね」
「花火のような弾幕を咲かせると聞いてますよ」
「ええ、蜥蜴風情に見せるのはもったいないものよ」
「比喩でなく本当の花を咲かせることもできるとか」
「そうよ。それもまた蜥蜴風情には、ね」
「残念です、風情を演出できたのに。ふむ、そうなると自分でやるしかないかな。一応、あなたほどではないけれど、花を咲かせることができるんですよ、この蜥蜴めは」
「自分用に手向けの花を用意できるなんて手間無くていいわね。死ぬ間際に桜の木の下へ埋まるのかしら」
いや~、洒落がキツイですねぇ、と口をパカッと開けて天を仰ぐ。あれだけ放言かましてカウンターが痛いと嘆くのが間違ってるんで、もちろんこれは前振りだ。
「まァでも、実際のとこ可能なんですよ。そりゃあ、枯れ木に花を咲かせるのは無理ですけど、ほら、」
ヒョイと横を向く。
「『ここ掘れワンワン』」
クイッと鼻先を上にやると同時に、離れた地面から花々が噴出した。赤・黄・オレンジ・紫・ピンク・白などが散る。
色とりどりの造花を穴の中に詰めておいたのだ。それらをミミズのように地中を巡ってきた我が尻尾が宙に跳ね上げる。ナイスな演出だろう。結婚式の際はいつでもご要望承ります。
全員の視線を集中させたところで、言うまでもなく自分の足は地を蹴っている。右手にはつかみ取った雪。新たな持ち玉。
小細工に風見幽香は余裕をもって対処──意表を衝いてくることを想定しているから、距離や体勢は万全──のはずが、目は見開かれることになる。
蜥蜴のスピードが倍近く上がっていた。想定以上に距離が狭まっていた。
──どうだ、意外性の重ね掛けは! 想定の範囲外だろ!
目や胸の傷は完全には癒えてない。代わりに別の身体変化に時間と労力を注いでいた。
ビルマニシキヘビは、「遺伝子の発現」「タンパク質の適応」「ゲノム構造の変化」、この三つの複雑な相互作用により、心臓・小腸・肝臓・腎臓を通常の約1.3倍から2倍のサイズにすることができる。
本来は高温多湿の状況下、丸呑みした獲物を腐敗する前に急速消化するための能力だけれど、自分は運動機能アップに利用させてもらった。
初めから使え? 考え無しの発言は控えてほしいね。心臓の当たり判定を倍にするのは賢いやり方じゃないよ。今のような最後の手段にしか使えないのさ。
照準を合わせようとした傘の先端に左手が届く。力負けしていようと、そこを支えにこっちの身体をこそ移動させりゃあ光弾は当たらない。脇腹を熱がかすめる間に、右手は必殺の雪片を投擲、
できなかった。手首下に裏拳が叩きこまれ、痺れて持ち玉を取り落としてしまう。雪を握ったままなのに重い一撃だ。
こちらが攻撃を阻止できるなら、相手もこちらを阻止できるってのは道理だな。骨にヒビが入ったろうが、千切れなかっただけマシだ。
傘と手、手と手を交差させ、井桁のできそこないのような形を作って、蜥蜴と花妖は向かい合う。
「惜しい」
緩い苦笑いからため息と共に言葉を押し出す。
「惜しい? 辞書の分厚さを紙一重と表現できるならね」
幽香氏は平静を保っているが、蜥蜴の絵に描いたような苦笑を前にしているからってのもあるんじゃないだろうか。他者の感情を前にすると、自己の感情は治まるパターン。
「いえ、そっちの方じゃなくて、」
二人の視線の間を小物が通過。ポトッと音を立てる。
「こっちの方」
井桁の中央に落ちたのは雪片だった。片手で握っただけの、だが紛れもなく持ち玉の雪。
「いやー、ほんと、惜しい惜しい!」
苦笑から一転、朗らかな笑顔で声を上げた。
「勝負開始直前に見せたボールハンドリングがあったでしょ。あの内の一つ、後ろ手に放るというのをやったんです。ダッシュを掛けたその時に、左の方で地をえぐり上空に投げた。気付かなかったのはやっぱりあれですかね、右手の雪玉がこれ見よがしにも程があったからですかね?」
目をカマボコ型にしつつ歯列を奥まで見せて、平静さの揺らぎでもないかと幽香嬢の顔を観察する悪趣味な愉悦に浸ろう……と思ったのに、
「おぉおおおおおおッ!」
唐突に誰かが叫んで、場が断ち切られる。奇特な発声は単発で終わらず呼び水となって、また誰かが吠え、さらにまた誰かがと、そうして辺りを囲む大勢の雄たけびが会場に満ちることになった。
中には拍手や笑い声なども混じっていたが、誰のものかと判別している余裕はなかった。
そんなに騒ぐことじゃないだろうに。幸運の女神の前髪はつかめず、微笑んでもくれなかった。花の女神の御手には触れることができたけどもな。
底辺の蜥蜴が最強の花妖相手に見事出し抜いて見せた。自分たちと同じ底に立つあの蜥蜴が! ってな気持ちを皆で共有してるのかもしらんが、やめてほしいね。ほら、挑発の量が供給過多になった結果が眼前に生じてるんですけど。
「…………」
風見幽香の表情がにこやかなものになっている。かなり、非常に、とてつもなく、にこやかなものになっている。
とっても楽しいし、とってもムカついているんだろう。完全スマートな得点獲得寸前まで行った蜥蜴を前にして。
こうして自分の評価は高くなり、要求されることも高くなり、致死率も高くなった。
うへぇ、哺乳類だったら全身の毛が逆立っているところだ。周囲も最強の妖怪から発せられる異様な気を察したのか、日の沈むように静かになった。いまさら遅い。
風見幽香が小首を傾げて言う。
「それで、あなたは、ここからどんな手を見せてくれるのかしら」
口調は穏やかだが内容は恐ろしい。シケた手を見せた途端に命を奪われる、その危険性がビンビンに伝わってくる。であるのに、前述の通り、勝ちの手はもうすっからかんの状態なのだ。
あの雪玉が当たっていれば、意識の間隙に乗じて策を重ねることもできたけれど、こうして手に手を取り合ってってな体勢じゃあやれることなんて……
「よろしければ、このまま社交ダンスとかどうです?」
「一人で踊ってなさい。赤い靴を履いてね。裸足を血で染めるのは手伝ってあげるわ」
「あいにくとレッドソックスよりヤンキースのが好きでして。あ、野球チームはお詳しくない?」
「玉遊びは観戦だけにしとくべきだったと後悔しても遅いわよ」
おしっこ漏らしそうになってるのは事実だが、後悔というのは後の祭りという意味でしか自分は使わない。祭りは参加するものだ。同じアホなら踊らにゃ損々と古人も言ってる。祭りに参加している自分が後悔などするはずがない。
さて、言葉のドッジボールもじき終わりを迎える。続く勝負の最終局面にも何かしらの結末が訪れる。それがどうなるかってーと、考えられるのは、そうだな、
①栄光の勝利をつかむ。
②無様に負けて這いつくばる。現実は非情である。
③二人は幸せなキスをして終了。
ってとこか。
んで、望ましい未来、王道の展開は③への期待を抱きつつ①を目指すってのだが、理想通りにいかないのが世の常でありまして、事ここに至ってはどうしても②しかありえないのですな。
掛け値なしに本当のことだ。言葉や頭をどうひねくっても変えようのない事実だ。口では負ける負ける言ってて、ちゃっかり形だけでも勝利を得るなんてことは今まで何度もあったけれど、今回は本当に無理。風見幽香、最強の名は伊達じゃなかった。
ここまで用意してきた13通りの勝ち筋をことごとく潰されてきた。さっきの落下した雪玉が当たらなかったのも偶然ではない。
幽香嬢が後ろに下がることはないとわかっていたから、スピードを出して距離を詰めれば位置を固定できると踏んで、そしてその通りになった。それでも事前に何十何百と練習した通りに放れなかったのは、幽香氏の視線移動が想定外に早かったからだ。噴出する花々からダッシュした蜥蜴へと意識は瞬時に移っていた。あれで力の加減と方向に狂いが生じてしまった。かといって、練習通りに投げていたら、玉は察知されてたろう。
それ以前の策についても同様。どれもこれも潰された。このように手練手管を尽くしてダメだったものを、この土壇場で起死回生の手を編み出せってのは、さすがに……
「チェックメイトね」
幽香嬢が心を読んだように言う。
「勝負の行方は最後になるまでわからないものですよ」
心中と裏腹、抜け抜けと台詞を紡ぐ口。
「チェックメイトの意味を知らないほど無知とはね」
うん、ここで「格子模様の友達でしょ?」とつまらないボケをかますつもりはないさ。理解し切ってるんだよね。できることはほとんどないってこと。
そう、「ほとんど」だ──「まったく」でなく。できることは、できる。ご期待に添えてやろう。「どんな手を見せてくれるか」? そうだな、勝てはしないが、少なくとも三度はビックリさせてやるよ。
幽香嬢の傘と手に触れている箇所。そこにちょっとでも力を込めれば、勝負は再スタートし、後は詰みまで一直線なのは明らかだった。
「さぁてね、詰め将棋は誰しもが最善手を打てるものじゃありませんから。お手並み拝見と行きましょう」
棄て台詞を吐いて、自分は力を込めた。間髪をいれず風見幽香の膂力が圧し、爆ぜる。
負けは確定している。それこそハンドレッドだ。
剛力に弾かれて距離を開けられたところに不可避の光弾が直撃し、機動力の破壊か心頭滅却の致命傷をもたらして、ジ・エンド。最終最後の攻撃だ、威力は容赦ないものに違いない。
それはお互い読めてる。でも、お嬢さん、これらは読めやしねーでしょ。ビックリの三重奏を食らいやがれ。
一つ目。
幽香嬢の視界に吹っ飛ばされた蜥蜴の全身が入り、その変異は彼女の表情に戸惑いを生じさせる。スリムになっていた。肩から両腕の付け根がポロリと外れていた分だけ。
二つ目。
彼女は両頬に冷たさを感じてさらに戸惑う。数ミリの雪の破片だ。宙に取り残されたようになっている両腕──今は彼女の真横にある──その指先から飛ばされたものだ。
雪はどこにあった? 爪の間にだ。
なぜ融けなかった? オサガメの特性を使わなければ、変温動物ゆえに体温は周囲に依る。
狙い通りだった? イエス、オフコース!
しかし、失点をダブルでもらいながらも、傘の先端は正確に蜥蜴の頭部へと向く。それをそらすための腕はなく、かわすための体勢も取れない。
三つ目。
とどめが発射される直前、自分は叫んでいた。台詞の内容に幽香氏の目が丸くなる。
以上、おしまい。
白光が網膜を焼いたと認識した瞬間、大きく開けた口内に極大の破壊力を受けた。どうにか脳は、と蛇の特性で顎の関節や骨を分割して限界まで口を開いたが、悪あがきもいいとこだ。
11号か13号かはともかく、自分の上あごから上はアポロのように空高く打ち上げられた。強めのG。そして頂点へ。
飛ぶ能力のない自分には、高所から「沼」を眺めるのは新鮮だった。まったく天にも昇る気持ちだよ。昇天しちゃいそうだね。
ミロのビーナスからサモトラケのニケに格上げされた蜥蜴の身体、その前に立つ風見幽香が見上げている。そして、周囲を巡る多くの面々──吸血鬼、メイド、チビ黒、蠅、剣士、幽霊、魔女、氷精、住人たち……みんなみんなが見上げていた。観客はさらに増えていたんだな。最後の場面だけでも目にした者は結構いたろう。
どうだったかな、花と蜥蜴の本番まな板ショーは。まな板の上の蜥蜴を花板がさばく様、楽しんでくれたなら幸いだね。他方、気に障ったことでもあったら……そこはまあ「お障り厳禁」ってことで自己処理しといてくれ。
さて、馬鹿なことを考えられるのもこれまでのようだ。やれやれ、生来の軟弱者にゃハードボイルドは似合わないんだがなぁ。
頭への直撃は免れたものの圧倒的熱量が口内から血肉を通じて伝導され、結局脳みそは「固茹で」された。意識は白濁のうちに消失。
▲ △ ▲
「お疲れ様だな。ティーブレイクと行こう」
黒い生首に隻眼を細めて、長が言う。そのまま浮遊して横に流れる。
「ティーブレイク──お茶を壊すとは、『無茶』なお前さんにはふさわしいだろうしな」
なら紅茶とは言わないまでも、出花の番茶の一杯でも出したらどうだよ。そう心で愚痴りつつ、白く光る霧に包まれた場所で、立っているのか座っているのかも定かでない状態のまま、言葉を紡ぐ。
「ちるひとつ 咲のも一つ 帰り花」
「うん? 花を愛で、花のように美しく花摘みに行く俺へのラブコールかな?」
「お茶関連ってことで、小林一茶ですよ。そして長でなく、自分を評する一句です」
「自分のようなアダ花はそうあるべきだ、ということかな。省かれ者の中のさらに異端な自分は」
「ええ、認識は一致しているでしょう? だから全部自分に一任して、長の名前を使うことまで許可した。全責任を負わせていつでも切り捨てられるから、『おいた』することも予測している」
長は宙を浮いて周りを巡る。自分はそれを目だけで追う。
「そうであろうとお前さんはかまわないか。蜥蜴の尻尾と扱われても不満はないと」
「ないですね。他人がどう思おうと、どう扱おうと、自分が楽しければそれでいいので」
「それゆえの無茶」
「ええ、体を張る。命を懸ける。そういうのを観念でなしに現実として行うのは、恐ろしくて楽しいですよ。全身の細胞を、めいいっぱいの精神力を、フル稼働させられる」
「『生きる』、その実感を得られる」
「世界を肯定する一瞬を獲得できる」
「充実した生で心を満たせる」
「素晴らしき哉、人生!」
ふっ、と耳元で鼻息をつかれる。
「滑稽にも程があるな」
「でしょうね」
自分も鼻で笑っていた。
冷めた目で見りゃこんな馬鹿げたことはない。まともな生物なら絶対しないだろう。
当り前の話だ。生きるために死の危険に近づくのは矛盾している。
生きるために外敵と闘ったり、反撃能力を備えた獲物を狙ったりするのとは、まるで違う。そういう意味のある行為とは違い、自分の場合は成功しても何も得られない。ただただ自分個人が楽しむという目的しかない。
チンピラがチキンレースするのと何が違う? 事故死したって社会的には何にも称えられない馬鹿馬鹿しい生き方。まったく滑稽だ。
「だが、滑稽であっても無意味ではないぞ。お前さんが楽しむ以上のものは生まれている。大きな意味を有するものが」
「え?」
今の、口に出してたかな。
「だから、切り捨てるつもりはないさ。そんなもったいないことはしない。イソップ童話に学ぶ程度の分別はあるんだ。爬虫類は卵生だろう? 今後も金の卵を生み続けてくれ」
自分は雄ですよ、と返そうとして返せなかったのはなぜだろう。
どういうことかと考えてしまったからか、白い霧が輝きを増して長も自分も周囲も包み込んでしまったからか。
その思考も白く消える。
▲ △ ▲
(…………夢オチか)
雪の冷たさと夕陽のまぶしさに意識を覚醒させ、仰向けに横たわっている自分を認識する。その身体は治療の真っ最中だった。
首や口、腕の断面に無数のウジ虫がうごめいている。おびただしい白の幼虫がクチクチと肉に吸いついている。横に置かれた尻尾にも根元にびっしりたかっていた。
恐らくは脳ミソについても頭蓋骨の内側に潜り込んで食事兼治療をしたのだろう。全体的には未だ重傷でも、行動不能からは立ち直った。
戦時中、負傷兵にウジ虫がわくことは珍しくなかったが、なぜかウジ虫がわかない場合に比べて生存率が高いようであると、経験的に言われていた。
根拠はある。
ウジ虫はニクバエ系などの例外を除き、基本的には死んだ細胞しか食べない。これによって生きた細胞のみが残ることになり、回復が早まるのだ。さらに、ウジ虫が分泌する物質は抗菌作用や細胞分裂促進効果があるため、一層回復は早まる。
これらが科学的に解明された現在、医療現場にもマゴットセラピー、すなわちウジ虫治療の名で取り入れられている。それが今まさに自分の身体に施されているわけだが、うむ、最先端医療の恩恵に預かれるとはありがたいね。
しかもエンジェル的ナースの手ずからだ。
眼球を傍らに立つ蠅ちゃんへと動かすと、こんなにもすぐ意識が戻るとは思ってなかったのか、目が合った途端にそっぽを向かれた。
「長の命令だから仕方なくだよ。お前なんかで腹いっぱいになりたかねェのに」
はい、ツンデレ満タン入りましたー。
丁寧な仕事をしてくれてるのは丸わかりだってのに、可愛いね。脳の機能が戻ってからは身体の損傷は修復しやすい。口の回復を重点的に行って、早くからかいの言葉を掛けてやりたくなる。
が、その前にこちらが他所から声を掛けられた。
「楽しませてもらったぞ」
雪の踏まれる音と共に述べたのは、尊大なる幼女。メイド長の差す日傘の下で、酒杯を片手にご満悦の表情だ。
酒杯……視界をギョロリと巡らすと、大の字に寝そべっている自分を中心に大勢が取り囲んでいて、それぞれが酒やツマミを味わっているのが映る。
日の傾き具合からするとそれなりに時間が経過していたらしいが、その間に宴会の場をここに移したんだろう。まな板ショーはともかく、蜥蜴の刺身を酒の肴にするとは、そろいもそろってゲテモノ食いかよ。
「策を弄することをここまで重ねた弾幕勝負は、新鮮な面白みがあったな」
そりゃどうも。
まあ、レミリア嬢の前に立って弾幕勝負ができるような実力者は、正々堂々真正面から力をぶつけてくるタイプしかいないだろうからな。実力のじの字もない蜥蜴の戦い方は、もの珍しかったろう。
「わたくしも楽しませてもらいましたわ」
メイド長も言った。
「爬虫類の様々な部位が中身を覗かせるたびに、胸のすく思いでしたわ」
ソリャドーモ。
まあ、この短時間に目立つところだけでも足・目・尻尾・胸・腕・口が千切れたりえぐられたりしてるからな。このペースで切り刻まれたら明日にはグラムあたりいくらかで肉屋の店頭に並ぶんじゃなかろうかと危惧するほどだったので、ミス切り裂きジャックにとって垂涎の解体シーンには違いなかったろう。
とにかく一番の目標である、紅魔館の主従の満足はどちらも達成できたわけだ。
めでたしめでたし。
「回復したようね、名無しの蜥蜴さん」
そうは問屋が卸さないと、もう一方の攻撃的ゲストが声を掛けてきた。こちらも片手に酒杯。
(…………)
助けてくださいよ、と紅い悪魔&悪魔の犬にアイコンタクトを試みるも、ニヤニヤ笑いのまま脇に退かれた。いい見世物扱いは継続中か。
「最後の台詞、どういうこと?」
やっぱり尋ねてきた。さっさと帰りもせず、蜥蜴にとどめを刺しもせずにいたのは、それを聞きたいがためだろう。生かしてくれたのは嬉しいが、負け犬の遠吠えと割り切ってどうかご帰宅願いたいところなんだがなぁ。
未だ下顎と分離したままの、ウジ虫まみれな顔で笑みの形を取ろうとする。そのような努力をしている風を見せる。
──答えたくても答える口がないんですよ。
そうアピールしたのだが、傘の先端で頭頂部を圧され、下顎と密着させられる。
「三分あげるわ。これ以上レディーを待たせるほど無作法でもないわよね」
御無体な。瞬間接着剤を使った工作じゃないんだから。
けど、やってやれないこともなかった。焼けた舌は回復していたし、まがりなりにも顎がくっつけばしゃべることはできる。治癒能力を全て一点に注力すれば……
「さ、答えてもらいましょう」
え、ちょっと、そりゃ早くないですか? フライングした審判に抗議したかったが、私がルールよと言わんばかりの強権的存在には従うしかない。機嫌の上下は死の遠近と同値だ。
「ふぁれふぁ、たとeヴぁしょウぎの」
「何を言ってるのかしら」
やっぱり無理があった。あちこちから空気が漏れて言葉にならない。うわー、気分を害してしまったかな。これをネタにギャグをかませないかと思考を巡らせていると、
「『それは、たとえば将棋の』だな」
聞き覚えのある声。見るとさくさくと足音を立て氷精ちゃんが近づいてくる。声の主は抱きかかえられた長だった。面白そうに霧雨魔理沙もついてくる。
「ふぁにふゃってるンでひゅか」
「『何やってるんですか』か。舌っ足らずで可愛さアピールを敢行してる蜥蜴をサポートしにきたのだがな」
「ひょけいな、」
「『余計なお世話』はないだろう。熱い抱擁とキスの礼くらいしてもバチは当たらんよ」
「おい、クソ蜥蜴、長に対して失礼なこと言ってんじゃねェぞ。治療やめちまうからな」
沼のアイドルがドスを利かせる。彼女の中の評価の格差が辛い。まあ、と長が髪の一房をもたげ軽く振る。
「回復するまでしばし掛かる。それまでは通訳としてここにいる意義はあると思うがな」
そう言ってから、幽香嬢に目礼する。花妖が口を開こうとすると、
「ねえ、何であたいのスペルカード使わなかったのっ、最強なのに!」
氷精ちゃんがしゃがみ込んで詰問してきた。抱えられた長も必然的に下へと持っていかれ、幽香氏と長との会話は始まりすらしないまま終わった。
氷精ちゃんからは、紅魔館訪問の際に作ってもらったスペルカードと同等のを、今回は数枚いただいてたんだった。特にお願いしたつもりもなかったのだけど、前のが役に立ったとお礼を言ったら張りきっちゃったんだな。
効果「相手は死ぬ」に匹敵するものばかりの新スペルを開発してくれた。感謝した。でも、実際の効果である「暴発」を使う機会は今回はなかったのだよね。
とりあえず苦笑でメンゴメンゴと伝えるのだけど、納得してくれない様子で「あれやってれば勝ってた」とか「カードどこにあるの。見せて」とか質問攻めをやめない。
参ったなーと愛想笑いを引きつらせていると、わめく彼女の顔がすっぽり黒い帽子に包まれた。
「あなゅき?!」
「ほれ、そんくらいで許してやれよ、チルノ。相手はまともにしゃべれないんだからさ」
帽子を脱いだ霧雨魔理沙の頭頂部にキノコがあった。金髪の上のそれをつまむと、こちらの喉奥に押し込んでくる。咀嚼できずに胃の中に落ちた。
「やるよ。万能の妙薬として有名なニセモリノカサだ。マジなところの効能は知らんけど」
「ぇつれい」
ゴホン、と咳払いして言い直す。用は済んだとばかりに、口内から十数匹の蝿が飛んでいった。
「別名アガリクスですね。副作用の懸念もあるので、そっちの呼び名の方がいい。『上がリスク』、なんてね」
「おお、効果てきめんじゃないか」
「しゃべれるようになったの!」
帽子を外した氷精ちゃんが、仰向けの自分に再び顔を近づけようとする。だが、その手の中から浮き上がった長が言った。
「会話可能になったならば通訳のお役御免だな。舞台は主役に任せて脇役は去ろう」
「えー、あたい言いたいことある」
「後にしようぜ。怖いお姉さんににらまれるぞ」
風見幽香の方へ目をやって、霧雨魔理沙は帽子を被り直した。
氷精ちゃんも最強の花妖に目をやるが、あまり意に介した風もなく、「うー、でもなぁ」と頬を膨らませて渋った。
そこに長が言う。
「こちらはこちらで楽しめばいいさ。そうだ、酒のアテにニオウシメジとセイヨウショウロのソテーを出そう。とっておきだ」
「へえ!」
魔法使いが感嘆の声を上げた。
「すげぇな! 黒か?」
「白が良ければそれもある」
「なんてこった! 是非とも両方食ってみたいぜ!」
「え、え、何? それって美味しいの?」
食いつく妖精にキノコマニアが答える。
「そりゃそうだ、セイヨウショウロっていやトリュフだぜ。世界三大珍味の一つ、高級食材だ。それも白トリュフなんて希少も希少なレアキノコだぞ。それをニオウシメジの旨味に併せるたぁな! 憎すぎる!」
「すごい! あたい、それ食べたい!」
どんな風味かは一切言及してないのに、無邪気な彼女の頭はもうトリュフでいっぱいのようだ。早くもよだれが口からあふれている。まるでトリュフ探しに使われる雌豚……って表現はちとアレかな。豚を卑下するつもりはないけれどね。
ともかく三者は離れていった。より密度を増した人垣と混ざり合う。
舞台は再び、最強と底辺の二名。衆人環視の中、感想戦ないし最終弁論の再開と相成る。
「……もういいかしら」
「ええ、大丈夫です」
だいぶ棘が削がれた幽香氏に応じる。あの他愛のないやり取りには気勢もどっかに飛んでしまうよな、わかるわかる。こちらは回復の時間が稼げて助かったけども。──あれ?
(もしかして、助けられたのか?)
タイミング良過ぎな感じだったし、長が代わりに絡まれそうだったのも偶然なのか回避されている。意図的と疑う余地はあった。
「それで、どうしてあんなことを叫んだのかしら」
声に思考は引き戻される。可能性を考えるなら、生きるか死ぬかのこっちのが重要だ。
「『参った』だなんて」
そう、自分の言葉はそれだった。そりゃ驚くだろう。勝負開始前に言ってはならないと互いに確認した台詞だ。敵前逃亡は死に値する。なのにヌケヌケと言ったのだ。
さらに点数は引き分けではなかった。
人垣の中から長の声。
「はっはっ、勝ち逃げだ、勝ち逃げ」
援護射撃はやめてくれ。跳弾でこっちが致命傷を負う。
「さあ、意図を話してもらいましょうか」
自分から勝負を投げたというのは、下手をすれば殺されて仕方ない。
「それは、ですね、」
ゆっくりと立ち上がる。右腕はかろうじてつながっていたが、左腕は接合が緩いので、右手で肩を押さえる。尻尾はほっとく。胸はまだズキズキ痛む。
周囲の緊張は、張りつめたシルクのようになって、今にもビリッと破けそうだ。その時は絹を裂いたような叫びが上がるんだろう。
そう、殺されて仕方ない、下手をすれば──幽香氏の思慮が浅ければ──そして、彼女の思慮は浅くない。
ゆえに、自分は落ち着いていた。
「言葉通り『参った』ですよ。それ以上でもそれ以下でもありません」
「あなたの上司も言っている『勝ち逃げ』ではないの」
「勝ってもいないし、逃げてもいないでしょう。あそこから逆転できましたか? あなたが自分に向けて発射した時点で、勝負は決していたんです。顔面セーフというルールはなく、脳幹やられたのはノーカンとはいかない。だから、潔く負けを認めました。王手詰みが確定したら、何十手前であっても『参りました』と宣言するのはむしろ礼儀でしょう」
勝負を投げた。投げたは投げたが、「投了」の投げただ。
レミリア嬢はわかっていた。だから、満足の言葉を述べた。幽香嬢もわかっていた。だから、即座に殺さなかった。これは単なる確認だ。
「だったら、私の顔に何も飛ばす必要はなかったじゃない。ただの嫌がらせ?」
「あれで動揺して隙でもできれば儲けものだったのですが、さすがに最強の名は伊達ではないですね、心まで鉄壁のあなたはその後の手順を誤ることはなかった。見事です。スペルカードの一枚も使わずに、圧倒的な差を見せつけての見事な勝利です」
そうは言うものの、納得はいかないだろう。自分も長にさっさと負けを宣言されたときには、勝ちの充足感など得られなかったし。手の平の上という気がしてならないのだよね、予想を超えてそんなことされると。
悪いことしたかな。でも、あの状況では他にベストと呼べるものはなかった。
障害物競争。相手はスポーツ選手、こちらは子供で、盲目で、両腕が肩から無い。この場合、単純な徒競争でないところを利して勝ちの手をいくつも考えるのは当然として、では、どうしても勝ち目がなくなったらどうする?
コースを外れて棄権するのでは敵前逃亡のペナルティーが課せられる。自分がやったのはそんな悪手ではない。全速力で障害物にぶつかりにいき、派手に自爆してリタイア。これなら勝負を投げたのでなく不可抗力だったという言い訳ができる。
負けはしているさ。でも、観客は沸かせられるだろう。障害物に躊躇しないだけ、一瞬でもスポーツ選手を抜くことだってできたりしてな。自分は勝ち方を13通り考えてきたが、負け方は42通り考えてきた。
幽香嬢はため息をついた。
「あなたの『吹っ飛んだ思考』と『手癖の悪さ』には恐れ入ったわ」
「お褒めいただき恐悦至極。『手放し』じゃ喜べないですがね」
パンパンパンと音が立つ。拍手──レミリア嬢のものだ。拍手は同調者を生み、さざ波のように広がっていく。これが本来の援護射撃だ、参考にしとけ、チビ黒。
この拍手が互いの健闘を称えるものか、あるいは風見幽香の勝利を祝うものかは定かでない。曖昧だからこそ全てをうやむやに、まっさらに、ノーサイドにしてしまおうという流れを作り出す。
風見幽香の勝利により、この勝負は円満に終わりを迎える。それでいい。それが自分にとっても望ましい結末だ。拍手なだけに、手打ちといこう、ってね。
幽香嬢が周りに目を巡らしている。かすかに険がある。
うん、蜥蜴に対する遺恨がなくなったのはありがたいが、ちょっと拍手が大げさだね。鳴りやむ気配もないし。
自分も周囲を見回し、そして、ちょいと奥歯に力が入ってしまった。
「沼」の住人たちの瞳がすごいことになってる。満天の星々のようにこぞって輝いていた。拍手に熱もこもるはずだ。恒星だものな。
いや、困ったね。これは明らかに蜥蜴に向けられた眼差しと拍手だ。称賛、そして憧れが込められている。どこかで懸念していたことが現実になってしまった。
これは「沼」にとっちゃまずいだろう。長は予測してたのか?
ピエロを笑うんじゃなく、剣奴に興奮するんでもなく、演者に憧れるっていうのは──自分も舞台に上がりたいってことだぞ。
底辺が最強相手に勝負を挑み、生きて帰るだけじゃなく出し抜いてみせる。それを自分らもやってみたいと思ってるんだぞ。
群れの全体にそんな願望が行きわたったら、蜥蜴一匹のやんちゃで話が済まなくなる。
底辺同士で固まって、黙ってひたすら見下されていたから、「沼」は平穏にやっていけたんだ。看過されてきたんだ。それが変わってしまったら他から怒りを買っても不思議ないんだけどな。
そりゃ怒るだろう、這いつくばっていた奴らが生き生きとした目でちょっかいを掛けてくるなんて、優越感の美酒を傾けていたのをはたき落されるようなもんなんだから。
身の程知らずを徹底的に叩きつぶしにくるかもよ? トップレベルか、あるいは大集団が。「沼」存亡の危機につながってるじゃないか。
いや、「沼」周辺で収まるか? それどころの話じゃなくなるぞ。ビリを作ることで安定していた上下社会が崩れるとなると、土台の不具合が屋根にまで達するような連鎖反応で、最悪幻想郷全体に問題が波及する可能性も──……
(…………)
「…………」
嘘だろ。
まさか。おい、まさか。
そうなのか? マジで? あいつは、あのチビ黒は、
──「それ」こそが目的で!
信じがたい。だが、確かに言葉通りだ。否定しようもなく、これは、「一人ではできない楽しみ」だ。
紅魔館や風見幽香を相手にしたとき以上のものが、起こる。自分単独では起こせるはずもないことが、起こる。ことによっちゃ異変レベルの、だ。
治り切ってない胸から、痛み以外の感覚が立ち上ってきた。大いなる渦中にあるという想い。イメージだけでわくわくしてきた。ああ、ったく、認めるしかないな。あの野郎、酔狂のランクが桁違いだ!
いやいや、待て待て。勝手に盛り上がるな。個々人の話じゃないだろう。長や自分はともかく、潰しに来る圧倒的パワーに対峙するなんぞ、拍手してる彼らが望むはずは…………それこそ違うか。
蜥蜴が身体をバラバラにされて、死のピンチをお歳暮並のセットでお届けされたのを彼らは目の当たりにした。にも関わらずの望みなんだ。艱難辛苦は承知の上だろう。今更なことだ。
周囲から、「沼」の住人たちから、変なオーラが立ち上っているのを感じる。高揚感が揺らめいて渦を巻き、空にまであがっている。ゴッホの絵画かいな。
……いやいや、やっぱりダメだ。みんな一時の高揚感に酔ってるだけで、広く物事を見ていない。自分一人が命を棄てる覚悟を持っていれば足りる話じゃないんだ。
この勝負、わずかにでも観戦することを避けた者は少なくない。今までの安定をこれからも望み、いざこざには巻き込まれたくないとするはずだ。彼らを巻き込むことまで考えているか? そりゃ自分が言えた義理じゃないのは重々承知だけどさ。
外部からの脅威だけじゃなく、内部からのことも考えないといけない。
強者に挑戦する、高みを目指す。それは「沼」にとっちゃ禁忌だろう。そういったものを避けて「沼」に集まったというのに、自ら競争しちゃうのか? それは必然的な差別を生む。被差別者たちの中にも差別はあるって事例を、「沼」にも生じさせることになるぞ。
外から内からのトラブルに翻弄されるまさしく外憂内患に陥り、「沼」は崩壊する。そんな危機まで想定してないよな、みんな。
長が外部の圧力をそらし、内部のいさかいをなだめるとか、あれこれ手を回せばどうにかなるんだろうか。どうにでもできそうな気はする。しかし、どれほどの手間なんだ。「沼」全体、幻想郷全体を把握し、調整するなんて面倒臭いにもほどがあるだろう。紅魔館や今回の一件だけでも大変だったのに──って、おい。とんでもないことに気づいた。
そういや、あいつ、何にもしてねぇ。
人に任せっきりだ。強者との勝負も、その準備も後処理も、ほとんど全て。
そりゃ自分は好きでやったことだから、当事者としていろいろ背負うのはかまわないよ。けど、お前だって好き者の当事者には違いないじゃないか。高みの見物を決め込んでいい立場じゃないだろ。
まさか、そのまま後の大騒動まで人任せにするつもりか? さすがに不可能だろ。もう直接関わりまくるしか道はない。長自ら動く以外は無理だ。外部の強者と渡り合い、内部の面々と交流して調整して使役するなんてこと、やれるとしたらチビ黒の、み、
「 」
絶句する。ハッと視線を感じた方を見れば、隻眼と目が合った。細めた眼差しは心を読み取り、心を伝えてきた。
──ふざけるなよ!
叫べたら叫んでいたろう。
この野郎、幾人もの強者と渡り合い、かつ「沼」の多くの面々と交渉して協力した蜥蜴に、全てを背負わせる算段だ。それができる能力を本件で証明した、いや、能力を養わせた? だから、今後も高みの見物を決め込めるってか。
冗談じゃない。そんなものおっ被らせられてたまるか。やる義務はないんだ、さっさと「沼」からおさらばするのに抵抗はナッシング。単独で気ままに生きてきた、元の毎日に戻らせてもらうさ。グッバイ、アディオス、いざさらば!
断ち切るように長から目をそらす。
(はぁ~、情けない)
とっくに詰まれているのに、脅し文句も捨て台詞もないよな。心の中のことだろうと、負け惜しみは惨めさの上塗りだ。
去れない。自分は「沼」に居続ける。
こんな魅力的な場所を見限るのは無理だ。ここ以外にどこで得られる? 「一人ではできない楽しみ」を。文字通り一人では得られず、その渦中は「沼」。離れるなんてもったいないお化けが百鬼夜行だ。
そしてもう一つ。
こんなことを考える自分も意外なのだが、
(いや、本当に意外なんだが、)
今回の件は自分が考え、他者を動かし、大勢に影響を与えたわけで……「ちょっと自分探しの旅に行ってきます」とかでサヨナラとするには、どうも気が引ける。自分が引き金を引いた災厄で「沼」の全滅てなことになっても寝覚めが悪い。
今まで行動も責任も価値観も自分個人の範囲で収まっていたのになぁ。自分は自分、他人は他人が今や過去形とはね。蠅ちゃん、ミョニョコン、犬と鶏のオシドリ夫婦……多くの連中と多くの時間関わり過ぎたか。
(関わらせられ過ぎた、とも言えるか)
長は自分のこの変化も計算の内かね。まあ、ありえる、どころか、確実だろう。
いい管理職になるんだろうな、自分は。あるいは抑止力と推進力か。
突き進み、競争する危うさを知っているから、連中の行き過ぎを止める。しかし、スリルを求める気持ちが根本にあるから、一方では焚き付ける。
火遊びも競争もなくならず、諸問題は取り返しがつかなくなる前に対処される。そうやって上手いこと調整し続けていけば、挑戦や競争、成長はデメリットなく行われることになり、そうして──
群れ全体が向上する。
異変にも対峙できるほどの力を持つわけだ。
……恐ろしいな。考えれば考えるほど、どこまで読んでいたのか見当もつかなくなる。
チビ黒に一泡吹かせると考えていた自分が身の程知らずだったってことか? 違うね。どこまでも底辺な自分の身の程は、存分に知っている。その上で天に唾する真似は幾らでもしてきた。どの高みにいようが、ギャフンと言わせてやるさ。いつでもその機会を狙う。
「それで、尋ねたいことがあるのだけど、いい?」
「あ、ええ」
拍手が収まってきた辺りで、風見幽香が話しかけてくる。長に何かする前に、こっちの対処を済ませないとか。
「あなたが勝っていた場合、どんなことを要求するつもりだったのかしら」
前振りだな。そうか、そう来るか。期待が膨らむ。
「そんな、要求だなんて。ご足労掛けた上、胸を貸していただけただけで十分ですよ」
「弾幕勝負は何かを賭けるものでしょう。それが何かは事前に取り決めておくべきだったけど、後から言っても私は了承してたわよ」
身命を賭けて享楽を得た。自分はそれで十分だったが、こう答えておく。
「そうですね、それはちょっと『ミズヒキソウ』ですね」
「【思案】ね」
「うーん、敢えて言うなら『宴会に参加してもらうこと』でしょうか。にぎやかになるし、あなたにも楽しんでもらいたい」
「あなたが勝った場合はそうだったのね。じゃあ、実際に勝った私の要求を聞いてもらえるかしら」
本題が来たな。
拍手が長く大きいものであり過ぎた。幽香氏にとっちゃ自分がダシに使われた感も出てくるよな。蜥蜴にチクリとした意趣返しをしたくもなるか。
さて、期待通りであることを祈る。
「あなた、『沼』は自然豊かだって言ってたわよね。咲いてる花にも詳しそうだし。だから、『沼』の花々を私に案内しなさいな」
思わずガッツポーズを取っていた。もちろん心中で。
素晴らしい。さすがは最強の花の妖怪。まかぬ種は生えぬというが、まいた種が生えるとは限らない。それを一気に開花にまで持っていってくれるなんてな。さあ、後は結実までの手順を踏むだけだ。
「了解しました。しかしながら、花々や『沼』の植生については聞きかじりなんですよ。案内は適任者にやってもらいましょう」
「適任者?」
「そうです。それは何を隠そう、うちの長です!」
完全癒着した腕をチビ黒に向けて伸ばす。
紅魔館での後処理はレミリア嬢への接待という形で、こちらに押し付けられた。今度は幽香嬢への接待という形で、そちらに押し付けてやる。
風見幽香は蜥蜴をストレス責めしようと意図していたのだろうけど、申し訳ないが利用させてもらおう。
「『沼』周辺の草花について博識とは本人の弁です。ご満足いただけるツアーを提供してくれることでしょう!」
言質は取ってある。『沼』の命運が掛かってるなら協力は惜しまないとも言ってたよな。
「私はあなたに案内してもらいたいのだけど」
「ええ、その際は自分も随伴いたします。けれど、やはり満足いく解説は長でないとできません」
随伴といっても始めのうちだけね。沼巡りツアーは、進むにつれて解説役がメインとなっていき、同時に自分は端役になっていくだろう。遅かれ早かれ、こっそりフェードアウトするつもりだ。
人垣から長がスイーっと飛んできた。今更何を言い繕うかね。投了宣言でもしてくれれば愉快なんだが。
「これは、長。以降はよろしくお願いします。いやー、自分が案内できれば良かったのですが、何ぶん無い袖は振れず、無い頭は振っても空っぽでして」
ニヤける自分に向かって、長は「ほい」と白い物を投げてよこした。髪から手へと渡ったそれは、手帳ほどの大きさの小冊子。
「何です、これ?」
嫌な予感がした。長の口角が上がっている。
「カミの助けだ。中に地図も挟んである」
パラパラとめくると各ページには花の解説がずらりと並んでいた。番号・花の名前・花言葉・雑学的なエピソード。色つきのイラストまで描かれている。
(ガイドブックだと?!)
挟まれた地図を広げると、「沼」の周辺全体。ここそこに書き込まれている番号は、ガイドブックのそれと対応しているのだろう。完璧だった。愕然とするほど完璧だった。
「自信作さ。これを用いればお前さんにも花々の解説ができる。俺の手を借りるまでもないわけだな」
「……いつ?」
思わず聞いていた。悔しいが完敗だ。ガイドブックはその場で用意できるものじゃない。早い段階でこちらの意図を読み取り、作り始めてないと……しかし、それはいつからだ。いつ読み切った。
長に対しての仕掛けを思いつき、言質を取る形で最初の仕込みをしたのだったが、その時に「カミの助け」という言葉が放られた。まさかそこからか? 初手を打ち込んだ直後に、的確な受け手を指し返したのか?
内面の疑問に対するように長は、うむ、と頷いて、言った。
「こうなるという確信はついさっきまでもなかったさ。ただ、こうしてくるかもしれないという可能性は考えていた。お前さんがキノコについて尋ねてきた段階でな。それで、使われないかもしれない備えをとりあえずしておいたってわけさ」
そっからかよ……。想定以上に早いし、最善手だ。こっちの手は運とチャンスと偶然とタイミングに頼った曖昧なもんだったが、だからこそ相手には読まれないものと思い込んでいた。可能性に備えるか。自分も幽香氏との対戦に際して勝ち負け合計55通り考えていた。自分がやっていたことを、自分がやられるのは想定外にしていたなんて、間抜けにも程がある。
ああ、くそ。まさにクソだ。「自らの手でウンをつかめ」──見事に糞(ババ)をつかまされた。酷いオチを付けやがって。
と、デジャヴ。レミリア・スカーレットが笑みを向けているのが視界に入る。いつか目の当たりにした、モズのハヤニエを見るような悪魔的素敵スマイル。
そして、今回はその従者も隣で同じ笑みを浮かべていた。うん、今日一番の笑顔ですね、十六夜咲夜さん。何かいいことあったんでしょうか。
気づけば、同じ笑顔が幾つもあった。長や蠅ちゃんは当然として、霧雨魔理沙や西行寺幽々子、控えめながらも魂魄妖夢でさえ嗜虐さ溢れる喜色を浮かべている。
というか、全体的に視線という視線が生暖かいんだが? さっきまでの拍手喝采はどこ行ったよ? それとも弱みのある英雄は魅力的か?
はいはい、好きに味わってくれればいいさ。連戦連敗、完膚無きまでにやられた爬虫類は酒のツマミにゃオツなもんだろう。
けれど、覚悟しておくことだな。観戦者の立場は安定したものじゃない。みんな等しく盤上の存在なんだ。望まなくとも駒や指し手として引っ張り出されるかもしれないぞ。
ああ、いつか全員引っ張り出してやる。世界がひっくり返るような一手を打ちこんでやる。覚えてろよ、いつか来るその時まで────その時まで…………あー、うん、
「じゃあ、当初の要望通り、あなたにやってもらうわね」
「ええと、風見幽香さん、血の雨も降ったし、雨天順延といきませんか?」
「あなたにとってはハレの舞台でしょ。それとも私の顔を曇らせる気? 改めて雨を降らせたいならそれでもいいけど、や っ て く れ る わ よ ね ?」
「……ヨロコンデー」
「楽しみだわ。私に一杯食わせた蜥蜴さんがどんなツアーを企画してくれるのか。心傷を癒してくれるものに決まっているけど、塩を擦り込むようなのだったら、相応の痛みは返さないとね。本当にどんなものか楽しみだわ」
いつか来るその時まで、針のむしろの中、死なずにいなきゃならないようだ。地獄でさえもここよか天国だろう。はは、楽しいね。
OK。考えましょう。命を懸けて編み出しましょう。
次に打つべき至高の一手を。
で、その内容が「核弾頭を持ってきてくれないか」と。
自分の耳、もしくは上司の頭の正常を疑いつつ、確認のつもりで「そんなもん何に使うんですか」と聞き返してみると、こともなげに「天井からつるして、その下でパーティーするのさ」と言ってくる。
そうしたら、そりゃ、ねえ。
ダモクレスの剣か、落語の「始末の極意」か、どっちの真似事がしたいにしても、異常なのは上司の頭だったと再認識するしかないじゃないですか。
まあ、長が変なのは今更な話なんですけどね。
だって、ここの長ですよ。ハキダメの代名詞たる「沼」の長。
ここの連中というのは弱い・醜い・ひん曲がった性格と三拍子そろってる。その大勢をまとめるってのを──サリバン先生だって三重苦のヘレン・ケラーが数百人といたら匙を投げてたでしょうに──使命感あっても無理なのを、そんなもの全く抜きでやってるってんですから。お酒の席だから言うわけじゃないですけど、あれはもう酔狂以外の表現はしようがないですよ。
え? 酔狂というならお前も同じだろうって? 紅魔館に単身乗り込んで弾幕勝負を挑んだ上に、目的がコレだったというのは酔狂以外の何物でもない?
いやはや、どうも、その節は失礼いたしました。ご配慮もいただきまして。自分ときたら弱いくせに粋がって、なのに白星まで譲ってもらっちゃってねぇ、トップレベルの実力者から二つも。でもですね、長のネジの外れっぷりときたら、自分などとはレベルが違……おや、メイド長さん、手にナイフのきらめきが見られるんですが、どういうことでしょう。まさかこちらに向けてらっしゃる?
恨まれる覚えはないのだけどなぁ……自分ごときに負けた過去へ屈辱なんか感じるはずないし……だってハンデ戦だったのだし……ああ、でもそのハンデを言い出したのは……っと、違う? じゃあ、何でしょう。
そんな、失礼を働くなんて滅相もない。自分が失礼なのはこの醜い姿で御前にいることだけですよ。見た目はどうしようもないとしても、態度としてはここまで徹底して慇懃無礼に接してきたじゃないですか。あ、それがいけないのか。
はい! ストップ、ストップ! ナイフ投げる前に理由を述べてくださいって! お願いしますよ。ほら、死刑の前にも罪状を述べるのが法治国家の正しいあり方ですから。
ええ、はいはい、お嬢様を爆弾や石扱いしたのがいけないと。あまつさえつるすなどとは何事かと。さようでしたか、なるほど、当主への忠誠を何より重んじるあなたにとって、それは確かに万死に値することでしょうね。
でも、誤解ですってば。さっきのは単純に長に対する愚痴ととらえていただければ幸いです。それ以外のことは俎上に載せてません。載せてたら、自分がまな板の上の鯉だ。
だって、この「沼」の全住人を数十回以上滅ぼせる力なんて、爆弾や石程度にはないでしょう? そんな下手なたとえ方はできませんよ。目の前におわしますは、究極の力を持つ夜の王。自分はレミリア・スカーレット嬢をあるがまま、至高の存在と崇め奉っておりますです、ハイ。
ハハ、なんて、こういうところが慇懃無礼なんですよね。すみません、どうもひん曲がった性格は矯正が難しいようで。
ナイフをお収めいただきありがとうございます。お嬢様もやり取りを楽しんでらっしゃるようで何より。高貴な身でありながらこんな辺鄙な場所に、しかも秋霜烈日、日差しの強い昼下がりにヴァンパイアの身で来ていただいたのですから、自分も楽しいお時間を演出できるよう尽力いたしますよ。
長のこと、気になりますか。興味湧くでしょう。
ええ、間違いなく自分以上に異常です。さっきも言いましたけど、一癖も二癖も、どころか、無くて七癖もあるキャラクターどもが、ずらーっと勢揃いした「沼」。そんなのを組織して、維持して、拡大させてなんてやりませんよ、まともな神経なら。
お聞きしたいならお望みのままに。愚痴も兼ねて知ってることは何でもぶちまけちゃいます。
でも、まずは一杯どうぞ。お酒は百薬の長、毒消しですからね。
そうです、今から少なからず毒を吐くんで。
▲ △ ▲
「2八銀」
パチッ。相手の駒が指される。
「3三角」
パチッ。自分の駒を指す。
「7八銀」
「いや、それ、無理でしょう」
真横に行ける銀って何だよ。
「ん、そうだったかな。では、7七銀でどうだ」
「しっかりしてください。では、自分は6五銀」
「それも無理だろう?」
「でしたっけ」
酷いやり取りだ。狐と狸の化かし合いでもここまで低レベルなのはあるまい。かといって、眉唾して切り上げたくとも、こちとら眉毛がないし、続けるしかない。
パチッと指して、言う。
「このやり方、やめにしませんか。素直に盲将棋でやった方がいいと思いますよ」
「互いに了承して始めたことだ。途中で変更するのはよくないだろう。目は決してヤモリやワニのものにするなよ」
「蛇や蜥蜴の視覚にしたままですよ。やれやれ、蛇の先祖は地中生活をしていたらしいですけど、ここでその気分を味わえるとは思わなかった」
「得難い経験だな。引き続き経験するため、いっそ俺と同棲するか」
「独房のがマシです。もぅマジムリ」
暗闇の中、駒を指先で確認する。ズズッとお茶をすする音が聞こえた。
長のお住まいの中で将棋を一局ということになったのだが、手慰みにしたって安易に引き受けるんじゃなかった。お住まいってのが狭い穴倉だからな。
丘に横穴掘って、それだけ。ゴザの一枚も敷いてない。縄文人のがまだ立派なとこに住んでたろうね。
明り取りも何にもないから、入口からのわずかな光を自分の背中が塞ぐと、もう真っ暗蔵之助。何も見えやしない。それだけならまだ許容範囲なのだが……
「1五歩。それにしても、これだけ闇の帳が下りていると、やろうと思えばセクハラし放題だな」
「4四角。闇討ちにも適していますよね」
まったく、茶室の一期一会を思わせる一対一のやり取りが、ここまでウザくなるとは想定外だ。
尻とか撫でられる前に、こっそりワニの目にしてしまおうか。色盲の代わりに夜目が利く。猫と同じで、網膜の下に反射板があり、一旦通過した光をさらにとらえ直す。でも、だからこそ暗がりの中で瞳が光って見えるんで、バレやすいんだよな。無理か。……って、おい。
「長、目が赤く光りましたよ。そっちこそズルしてるじゃないですか」
「いや、自分の部屋に男を連れ込むのだと考えたら、一睡もできなくてな」
「充血しても光らないでしょう」
「期待に目を輝かせているんだ。言わせるな、恥ずかしい」
「欲情に目を血走らせていると公言する方に、恥じらいがあるとは思えませんけど」
「肉食系女子という路線は惹かれないか?」
「引かれはするでしょうがね。今から所要を思い出したことにして帰っていいですか?」
「では、路線を変えよう。悪食系女子だ」
「悪化してますね。持病の仮病がぶり返したことにして帰っていいですか?」
「ふむ、ならば帰宅の際は送り狼に立候補しよう。1六飛」
「それ、女の役じゃないですよ」
どうだよ、この会話。暗闇の中で続けたらどれだけ精神が滅入るか、誰にでも理解してもらえるはずだ。新手の拷問法としてCIAに売り込もうかね。
「で、どうした。次の手は打たないのか」
「長、さっきの手は1六飛じゃなくて、3六飛でしょう? 駒の位置が違ってます」
音の発信元の違和感を、指先で確認して指摘する。
「おお、そうかそうか、暗いとどうもな。では、打ってしまった後であるし、そのままで行こう」
やれやれ、会話に辟易して上の空でいる暇もない。
長とのやり取りで嫌になるのは、下手な男漁りの言動だけによるものじゃない。こちらを試していると常に感じてもいるからだ。
いろいろ仕掛けて、反応を楽しむ。能力、性格、心理を見る。その悪趣味な人間観察は、相手の奥の奥までを見通すものだ。裸にひん剥かれるよりタチが悪い。
この将棋勝負も、もともと自分が河童との交渉のために覚えた将棋を、長が盲将棋という形で関わってきて時折やってたのが、「たまにはちゃんと盤で打とう」というので了承した結果だ。
さっきは盲将棋と変わりなく無駄な手間が増えるだけだと言ったものの、実際には通常にはない駆け引きが増える。で、こうして、互いに隙あらば不正をしようと目論んでるわけだ。
それでこちらの酔狂さ、如才なさを見てるんだろうな。
序盤も早石田という超速攻で来た。それは石田検校って盲目の棋士が編みだした戦法が基になっていて、暗闇での対戦に掛けた趣向という意味も含んでいるのだろう。
が、主眼はこちらの観察だ。早石田は、相手が手順を間違えればあっという間に投了に至ってしまう、一時期は猛威を振るった手だ。しかし、逆に、今現在は定跡となっている防御方法を取ったなら……そうして盤上の形勢は長の不利となっている。
勝ちに行くならこういうやり方はしなかったはずだ。勝敗は第一の目的ではないということだな。
カンに障るのでさっさと終わりにしてしまおうとしたのだが、この住処のごとく穴熊に囲われてしまった。仕方なく、こちらも矢倉に組んで対応している。
前回の長との対局はどんなだったっけ。確か「自分になぞらえて」とかほざいて、箱入り娘なんて手を使ってきやがったんだったか。台詞が脳裏に甦る。
『手をつけたら後は早いぞ。据え膳だ、ほら』
ふざけた話だ。態度も姿も乙女なんて柄じゃないってのに。
目の前にいる長の姿を改めて見る。といっても、闇夜のカラスと溶け込んでしまっているが。長の全身は真っ黒なのだ。
種族は不明。妖怪なのか妖精なのかもわからない。たとえるなら胴体の無い飛頭蛮。いや、黒い生首というのが単純明快だろう。あとの見た目の特徴と言えば隻眼ということくらいか。機能しない左目は垂れた髪に隠れている。
大きさは子供の頭くらいなので、陰口を叩かれるときは「チビ黒」と呼ばれている。しかし、この呼称、自分もよく使うものではあるが、時代が時代なら差別と糾弾されそうだな、今はともかくとしても……いや、こないだ我らがアイドルの耳に入れてしまったときは、かなり噛みつかれたなぁ。
けれど、トップに位置する割に迫力がないのは否めないだろう。全体的に丸っこいし、権威ある存在というよりむしろ、ゆるキャラとして売り出すことも可能でないかと思わせる。いつかぬいぐるみを大量生産してみようか、ワゴンセールでぎゅうぎゅう詰めになった長を見てみたいし。
能力は「曖昧性に関わる何か」というそれこそ曖昧なもので、長自身も模索中。今のところわかっているものの一つは、自分の意志によって生態を変えられるとかいう無茶苦茶なものであるらしい。自分の能力も同類といえば同類かもしれないが、同列にはなりえない。こないだ暢気に日向ぼっこしてたと思ったら、その実は光合成に挑戦していたということがあった。
「2二馬」
長の駒が打たれる。首だけの長にそれができるのは、髪の毛が触手のように働いているからだ。伸縮も自在。
恐らくは歴史の浅い妖怪で、今は過渡期の段階なんじゃないかと言っていたが、行き着く先がどこなのかを考えるとゾッとしないね。
能力的なものじゃあない。長が弾幕を撃つ姿を見たことがないので、そこは成長しようと大したものにゃならんはずだ。
得体の知れないものを感じるのは、その思考回路だ。
何かを考えている。何かを目指している。その何かとは何だろうか。わからない。曖昧模糊として見えない。闇の中、藪の中、スープの中だ。
「3七歩成」
自分の駒を打つ。
長がこの先どういう棋譜を完成させるのか、本人を問い詰めたところで、答えるのはせいぜい二、三手先に過ぎないだろう。そこからははぐらかされるのがオチだ。それとも、これまでの手順を追っていけば何らかの筋道が見えてくる? だが、今のところさっぱりだ。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」って感じに、実際は浅く、単純なものだったりするかもしれないが……いやいや、こいつにしてありえないことだ。どれだけ裏をかかれて煮え湯を飲まされたと思ってる。
わからないものに恐れを抱くのは当然だ。人が闇を恐れるのは、そこに何があるか、何者がいるかわからないからだ。未知を恐れないのはただの無知。遠からず「想定外」に出くわして、慌てふためいて不幸を引っ被るだろう。
ゆえに道理だな。恐れを感じるなら避ければいい、未知へは近づかなければいい、ってのは。確かになその通りだ。でも、敢えて近づいていくのもまた道理だろう? 未知に対して人が抱くのは恐ればかりじゃない。もう一つの感情がある。
好奇心ってやつだ。
命取りにつながる感情だというのは理解している。「猫をも殺す」は誇大広告ではないし、君子は危うきに近寄らないからな。
けど、恐れと好奇心を天秤に掛けたら、投石機よろしく恐れがほん投げられてしまうのが自分だ。始めこそ恐れに傾くときもあれど、終わりにはいっつもそうなってる。想定外の恐れを想定して、未知の闇へ足を踏み込んでる。
ここまで来るとさすがに道理の外かね。でも、こればっかりはしょうがない。自分の性分だ。
さて、長の性分はどういうものなのかな。未知への手がかりをわずかでも手に入れるため、ちょこまかと探ってみるとしよう。観察されるばかりじゃ能がないし。
「2六飛」
「それで、進捗状況なんですが」
「進捗?」
「酒宴。飲み会の件です」
「ああ、出し物だな。いいぞ、俺の名前を使って好きにやってくれ」
お茶をすすり、息をつく音がする。柿の葉を煎じた匂いが鼻先に触れた。
「──それだけ?」
「それだけ、とは?」
「まさか怪しい儀式風にボードゲームやるのみで、ここに呼んだわけじゃないでしょう」
「別に俺はそれでも構わないのだけどな」
「自分が構いますよ。本当にそうならとっくに帰ってる」
「手、止まっているぞ」
「将棋のことは一時脇に置いときませんか。声を掛けたのはそちらからなんですし、本題に入ってください」
若干語気を強めてみるが、案の定さっぱり効果はないようで、何のアクションもなく返される。
「『沼』では将棋をやらない者が大半であるよな」
「? ええ、まあ。道具もそろってませんし」
「将棋は、俺にとって、無限の変化を描く一種の芸術だ。お前さんも否定はしないだろ? だが一方で、興味のない大多数にとってはつまらなく無価値な遊戯でしかない」
思い返すに、その通りだな。木陰で対局していると通りすがりの者が何人か覗き込んでくるが、そのまま黙って打ち続けていると大抵は興味を失って立ち去ってしまう。
「人生と同様さ」
「はぁ……」
「全ては盤上のことに過ぎない。無限の深さを持ちえるが、自分以外のほとんどにとっては大した意味はない。けれど、他がどうあれ、一番大事なのはプレイヤーが楽しむことさな。で、楽しむか? つまらないものとするか? お前さん次第だ」
「……3五銀」
ため息と共に指す。
こちらの生き方を持ち出してまで対局を促すのなら、断り続けるわけにもいかないな。ちとムカつくが。
「それでいい。目の前の駆け引きを楽しむ気になったか。5六飛」
「6五銀。面白いオチでも用意されてるんでしょうね」
「ん?」
「健忘症でもなければ、自分を『沼』に引き込んだときに言ったこと、覚えてるはずですよ」
「ああ、ご期待には添えているだろ?」
「これまではね。だからここにい続けてるんですが」
「これからも変わらないさ。ここであったらお前さんの望むものは手に入りやすい」
「望まないものもオマケでついてくるんですけどね」
「それを除けられるかはお前さん次第だな。そしてそれもまた望ましいものだろう、お前さんにとっては」
配下のことを襞の奥まで理解している。トップの鑑だな。ったく、また見透かされてる感覚で、ヤんなるね。
パチリ、パチリと駒が進む。
「8六飛。特にここ一年は楽しめたんじゃないか?」
「知っての通り、継続して楽しんでますよ。4六歩」
吸血鬼の居城に乗りこんで酒宴の申し込み。それに一年掛けた。見事成功したものの、今度は吸血鬼直々に「側について楽しませろ」と命令されてしまった。今現在は全力で出し物の準備に掛かっている。
「頼むぞ。失敗したらお前さんだけでなく、沼そのものも壊滅しかねない」
「そんなのをどうしてやらせたんですかね。レミリア嬢が来ると発覚したときに、沼が騒然となったのは当たり前の話ですよ」
「俺が大丈夫だと太鼓判を押したら収まったろう」
「なぜか自分は睨まれましたけどね、長の命令なのに」
「そこら辺は人望の差というやつだ」
うわー、白々しいな。全身真っ黒のくせに。中まで腹黒のくせに。
「それを言うなら、悪い奴ほど良く眠る、でしょ」
長は、クックと笑って、言った。
「感謝こそされても、恨まれる覚えはないな。一人一人に望ましいものを与えているのだし──たとえば、お前さんには『一人では得られない楽しみ』をな」
「はいはい、そうですね。よーくわかってますよ」
「嘘をつけ」
ポンポンと会話を打ち合ってたはずが、断ち切るような突然の否定。
一つの火が灯るように、赤く隻眼が光って、闇に浮かんだ。
「わかっていない。まだまだ全然な。『一人では得られない楽しみ』がどんなものか」
暗視の目で全身を眺められているのを感じる。それどころか、体内の筋肉、内臓、骨すら透視し、心の中まで見通されている感覚。自分は地蔵と化していた。
「まあ、仕方ない部分もある」、と赤い光が細められた。
「お前さんは単独の時間が長かったからな。土台無理な話だ、挟み将棋しか知らない者に普通の将棋を平手でやれと言うのは」
「……」
「確かにお前さん、足踏みはしていない。常に進んではいる。いずれは到達するであろうその日まで、頭しかない身で首を長くして待とうという気にはなれる──だが、できるだけ早くと望む俺の気持ちも理解してもらいたいね。歩兵の歩みを桂馬にするくらいは見せてくれよ。俺と近いところに座ってほしいのさ」
わけわからんし、気持ち悪いことを言うな、と思ったが、心中そのままの形で言葉が出てこない。
「手、止まってますよ」
口に紡がれたのはそんなのだった。
「おお、ではこうだ」
コトッと駒ではないものが盤上に置かれる。触れて確認してみると、長の使っていた竹製の湯呑みだ。
「5五お茶」
「ゴゴのお茶? ゴゴティー?」
「ティーブレイク、とはちと違うが、お開きにしよう。所要を思い出した」
その台詞をお前が言うのかい。
「ここで投了? 茶々を入れて終わりですか。自分がやる出し物の内容も、長の名前を使ってどこまでやっていいかも、前々から全然聞かないですよね?」
「茶化したつもりはないぞ。勝負はあと43手でこちらの負けになる。出し物については好きにやればいいさ。どうせならこちらの想定外のことをやってみせてくれ」
こんにゃろう。
奥歯に力が入る。そして緩む。
一連の会話の流れも想定内ってか? 言いたいことは全部伝えたし、知りたいことは十分知ったってか。孫悟空を手の上で転がすお釈迦様気取りかよ。面白い。
「駒はそこに入れ物があるからしまっておいてくれ。後はそのままでいい」
赤い眼光が消えたかと思うと、顔の横を毛髪が撫でていく。目をワニのものにして振り返れば、長の小さな後頭部。風船が流れるみたく隧道をゆくのが見えた。
「子供でも自分の玩具は片づけるってのに」
「しつける親がいなかったものでな。それに用事もある」
こいつをこのまま行かせてしまうのはしゃくに障る。何かないか──せめて仕込める何かが……
「その用事がどんなのかはともかく、ちょっと聞いてもいいですかね」
「ふむ」
長が顔半分こちらに向ける。
「以前、キノコについては詳しく教えてもらいましたけど、草花にについても同じくらい博識ですか?」
「『沼』周辺に限ればな」
「いずれまたお願いするかもです」
「構わんよ。沼の命運が掛かってるんだ、協力は惜しまないさ。ああ、それから用事に向かうついでにアドバイスがある」
もったいつけて、言った。
「『汝、カミの助けなきときは、自らの手でウンをつかめ』」
「いや、それ……用事ってキジ撃ちですか」
「花摘みだ。乙女に対する表現は適切にな」
下ネタを言い残して、自称乙女は外に出て行った。
▲ △ ▲
どうです、酷いもんでしょう。これがうちの長です。
裏をかいたり、煙に巻いたり、揶揄で楽しんだりと、人をムカつかせる手腕なら天下一品ですよ。手足のないダルマのくせに「手腕」とはこれいかに、なんてね。とにかく曲者には違いない。
いやいや、メイド長さん、さすがに冗談がキツいですよ。「それだってあなたは負けてないでしょう」なんて。そりゃ自分は酔狂かもしれませんよ? でも、紅魔館ではいたって品行方正に振る舞ったじゃないですか。館内に入るなりトイレで大をしに行ったことは、まあ置いといて。
レミリア・スカーレット嬢まで何てことをおっしゃる。勘弁してくださいよ、長も自分も同類だって、またそんな……面白いという意味で?
「ちょっと話をしてみたが、なかなか味のあるヤツだ」ですか。参ったな、もっと毒消しを飲まれた方がいいようですよ。だいぶ毒されてる。
それでも少しは買われている部分がおありでしたら、誰かいい人紹介してやってくれませんかね。さっきも言ったように、無節操にサカってますから。男じゃなくても構いませんよ。ナメクジみたいな雌雄同体にも変化可能らしいのでね。そう、いいオカマでもいたらお願いします。
あ、そうだ。興味を持たれたのでしたら、長を呼んできましょうか。先ほどあの辺りでミミズと一緒に、子供の作った泥団子を試食してたらしいので、少々お時間を取らせますがお待ちいただければひとっ走り行って、って、ダメ?
そんなそんな、この場を離れたいだけの口実ではありませんって。ちょっとでも気を損ねたら命を刈り取られるような状況で、尻を向ける愚など犯すはずがないでしょう、アハハハー。……はぁ。
おっと、どうぞどうぞ。お酒、気に入られたようですね。変わったワインみたいでしょう。種々の果汁を発酵させたもので、ただの猿酒と言えばその通りなんですが、果汁の配合などいろいろ試行錯誤して香りや味を高めてきた品です。
葉に盛られた酒肴と合う? そのチーズ「カース・マルツゥ」はうちのアイドルが作ったんですよ。ピリッとした刺激と滑らかな食感が売りでして。ええ、そうそう手には入りません。お褒めの言葉は伝えておきますね、と言ってもアレか、自分がやっちゃ反発を受けるか。ああいえ、内輪の話で。
良かったらカクテルもいかがですか。そうです、そんなのもありましてね。まあ、不味い酒をどうにかして美味しく飲もうかという工夫が、カクテルの始まりなわけですけど。禁酒法の時代により発展したというのも何か象徴的で面白いですよね。制約が成長を促すみたいな。
ともかく楽しんでいただけてるなら幸いです。さっきも言いましたけど、ヴァンパイアにとっては気持ちの悪い日差しの中、下賤と蔑まれる「沼」にわざわざ足を運んでもらってるのですから、楽しめないなんてことがあってはならないと考えております。何か不足でもおありでしたら、どうぞ遠慮なく。
あ、はい、チーズの追加ですか。別のツマミもありますよ。たとえばギンナンとツリガネニンジンの……じゃなくて? はいはい。
あーなるほど、日本語って難しいですねえ。酒肴じゃなくて趣向でしたか。
出し物なら先ほどのがなかなか面白かったと思いますが。巨大線虫たちの舞い踊りは前衛的だったでしょう、MP吸い取られそうな感じで。あと、犬と鶏の夫婦漫才もテンポが素晴らしかった。
それじゃ物足りないですって? 目が肥えてらっしゃいますねぇ。ならば、いよいよとっておき、お化けラッキョウのストリップダンスをやっちゃいますか。脱いで剥かれて、後には何も残らないっていう。
いえ、冗談です。わかってますってば。自分に出ろとおっしゃってるんでしょう。やっぱり求められるのは「パンとサーカス」って話ですよね。
そこで何をやるかをお聞きになるのは、さすがに意地が悪い。三流芸人がウケを取るには身体を張るしかないですし、「サーカス」というのは剣奴と猛獣の戦闘なんですから。
確かに三番煎じということになるんでしょうかね。でも、出涸らしにはならない。奴隷や獣が命を張る様は、観る者の心を強く惹きつけた。生の根本を震わせた。コロッセウムのサーカスが長らくローマ市民を熱狂させた理由です。お嬢様方にとっては五分未満の魂であっても、何度も惹かれて然るべき道理ですね──懸命に、文字通り命懸けであがく様には。
ご期待にお応えしますよ。門番やメイド長との弾幕勝負と比しても色あせない、そんな出し物を提供します。
「前回は準備に一年掛かったのに、今回は大丈夫なのか」ですか。この日までの期間、短かったですからねぇ。
そこはホラ、制約の中で促された成長というやつで。ええ、何とか段取りまではつきました。形にはなると思いますよ。
いやぁ、自分も頑張りましたけど、一人ではとてもとても。多くの協力あってのことですよ。
「沼」の住人がどれほどの役に立つのか疑問? ああ、そうですね、非力ゆえの底辺ですから、それはまあそう思いますか。
その辺りは説明が必要になってきますかねぇ。自分の出し物までお時間を取らせますし、お耳汚しをお許し願えますか?
ありがとうございます。では、お言葉に甘えまして、まずは沼の愉快な仲間達の紹介から。
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長の巣穴から出ると、光に満ちていた。目をワニのものから元に戻す。いつもなら色鮮やかな世界が広がるはずだった。
人間は「光の三原色」という言葉が示す通り、赤・緑・青の三色までしか判別できないが、この目はそこに紫外線を加えた四色を見ることができる。いわゆる四色型色覚だ。
色盲のワニからの変化は、世界を極彩色に塗り替える──しかし、元が水墨画では意味がなかった。
白い空から細かな雨が降り注いでいるのだった。サー……という音が包む中、辺りは白と黒と灰色ばかりで構成されている。群青色の服も黒く湿りつつある。
まあ、それでも水もしたたるいい男の全身が、闇から抜け出し露わになったから良しとするか。
緑の鱗と白くぬめった肌。黄色い瞳に細い瞳孔。尖った口先の上で開閉する鼻孔。野太く長い尻尾。
どうです、このリザードマンの雄姿。スキンヘッドと裸足はワイルドさを演出、季節感のない半袖・ハーフパンツの甚平もシャレオツです。
こいつを人里に持っていったなら、黄色い声が掛けられまくりですよ。正確には金切り声が。んで、ファンでなくアンチによる追っかけが始まるわけですな。捕まれば、もみくちゃというかズタボロにされると。
だから極力人里には顔を出さないのだけど、ここ「沼」であれば委細構わず全身をさらしてられる。
基本、住人はみんな異形だからだ。
薄く天を覆う雨雲からは、白い光が注ぎ、霧のような雨に乱反射している。そのまぶしさと対照的に、まばらに生えた樹木は真っ黒な影をまとっている。明暗の強調はドラクロアかよってくらいだが、それでも周囲を見やれば、あちこちに住人の姿が認められた。
まず正面に、「沼」の呼称の元になっている、広く黒い水面。その一か所から噴水の飛沫が上がる。水生哺乳類の妖怪「ヒトガタ」が噴いた呼気だ。丸みのある白い頭部が沈んだその手前で、葦のように突き出ているのは、水爬虫の妖怪が尻から生やした呼吸管だろう。
ふわふわと半透明の傘が宙を横切っていく。直径1メートルほどのクラゲだ。エチゼンクラゲには2メートルになるものもあるから、大きさ自体は変わったものじゃない。ただし、傘の全体には血管が走っていて、その縁には六つの眼球が均等に配置され、ギョロギョロとうごめいている。間違っても癒やしの存在にはならないな。卑しい存在には見られるだろうが。
クラゲが空へと飛んでいったところから、下に目を移す。木陰で夫婦が仲睦まじく身を寄せ合っていた。
バーコード頭のアブラギッシュなおっさんと、立派なまげを結った古風な美女という、滅多にない凸凹カップルだ。雨に包まれる秋の風景を、愛に潤んだ瞳で眺めつつ、感情を共有している。
「沼」では有名なオシドリ夫婦で──いや、正確には嫁さんだけが鳥なのであるが──つまりは、おっさんの首から下は犬のもので、嫁さんの首から下は鶏のものになっていて…………ええと、まあ、とにかく熱々なお二人だ。たとえるなら、ホットドッグと焼き鳥ができるくらい。
(さてさて、と)
コキッ、コキッ、と首を鳴らす。
(こちらも浮かれた気分で「雨に唄えば」のステップなど披露したいとこだが、期日まで圧してることだし、とっとと特別作業班の進捗状況を確認してくるか)
沼から離れる形で、会場予定地へと足を向ける。
茂みの間に口を開けたところがあり、その中へ入る。緑と土の匂いが濃くなった。
会場までの道は、踏み固められはしていたもののぬかるんでいて、自分が歩くたびに珍獣の足跡が付く。枝や葉もちょくちょくスキンシップを図ってきて、こちとら敏感な美女でもないのにビショ濡れだ。
当日には砂利でも敷き詰めて、枝葉も広めに伐採しておこうかね。沼の住人はともかく来賓を不快にさせたら、雨水じゃなく血に濡れてしまうオチがつく。
やや歩くと空が広くなり、明るさが増した。少し前までは広場の「ひ」の字もなかった所だ。今は開けた場所に整地されている。道と違ってこちらは立派なもんだな。コロッセウムと言えるほどご立派なものじゃないが、上出来だ。
木を切り、切株を抜き、石を除いて──そうして、今日、草も取り終えたようだ。
こんもりと積み上がった雑草の横で、牛ほどの大きさのオオサンショウウオが、十六本の足をだらしなく投げ出してイビキをかいていた。そのさらに横で、一周り小さいサンショウウオが二匹、寝息を立てている。全身に細かな水を浴びて気持ちよさそうだ。
秋雨の白い紗幕の下、木々に囲まれた広場を見渡す限りにおいて、草の取り残しはない。三兄妹が報告を怠ったことは大目に見てやるか。
目に見えている箇所に関しては申し分ない。目に見えてない箇所についてはどうだろうかな。
確認のため、右足でリズムを刻む。トントトン。トトントン。
ほどなく離れた場所の土が盛り上がり、太い触手が頭を出した。レッドスネークカモン、もといピンクワームカモン。ミミズの妖怪「ミョニョコン」だ。
「沼」の住人の中でも有数の長大な身体を持ち、一度測ったときにはなんと45メートルの数値を叩き出した。現存最大の動物シロナガスクジラを楽々超える。
こんなナリでありながら性格は温厚だ。小便をかけられでもしない限りは怒らない。つまりはカエルの次に温厚──というより、自閉症だったんだよな、かつては。
何をされても受動的だったのをいいことに、通りすがりの妖怪に間食として噛み切られたり、村のガキんちょに鎌とかでぶちぶち千切られ遊ばれてた過去がある。
今もって引っ込み思案ではあるけれど、「沼」に来る以前に比べれば見違えるように快活になった。
『順調に・進んでる』
ミョニョコンが身体の先端から光を発し、点滅させて報告してくる。いつもより光の強さと点滅の速さが感じ取れた。
高揚感──生き生きしてるな。自分が何か人の役に立つことをしたってのを、ただただ嬉しく思っているだろう。これで穴を掘る以上のことを、能力を生かす形で頼んだら、どれほど喜ぶだろうね。
足によるモースル信号で「細かい作業は大変だったろう」と伝えると、すぐに光の信号が返ってくる。
『大丈夫・分裂して・手分けした』
さすがはミョニョコン。世界に存在するミミズが持つ特性を、より高度な形で使用できるだけある。
たとえば本人がさっき言ったのはヤマトヒメミミズの特性だ。このミミズは二週間ごとに自切して、だいたい十ほどのコマ切れと化す。そうして、それぞれの断片が一匹一匹のミミズとなって繁殖するのだ。ミョニョコンはこれをいつでも自在に行える。
さらに、複数から再び一匹に融合できるという妖怪ならでは能力があるので、「沼」がミミズではちきれんばかりになるという事態には陥らない。作らずに済んで良かったな、ミミズバーガー。
いつまでに完成するかと聞くと、『明日・朝までに』と光の点滅。労働意欲旺盛だね。
ちなみにミミズが光るのは珍しくもなんともない。ホタルミミズは日本全国に生息している。海岸があるならイソミミズも見つけられるだろう。
距離を置いての振動と光の会話をしばしした後、明朝に点検しにくることを伝えて、会場予定地を後にした。ねぎらいの言葉を添えた時、光の点滅がこの日一番の速さだったのは面白かった。
顔に垂れる雨水を舐める。ここまではOK。他の協力者は上手くやってくれてるだろうか?
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人間が差別をするのは、向上心があるからです。向上心と差別は車の両輪。一対のものです。
突飛な考えですかね。でもほら、人間以外に差別する生き物はいないでしょ、月に行こうとする生き物は人間しかいないのと同じで。人間特有の向上心は、人間特有の差別を生むんです。
違う角度から説明してみましょうか。能力を高めるのに一番効果的な方法は競争です。競い合わせることで、追いつけ追い越せと全員が全力を発揮する。
それで、ですよ? ヨーイドンで競争すれば、一位とビリができるのは当然の結果ですよね。そうでない競争なんてない。もちろん二位や三位、それに続く順位もできる。誰もが一位を目指すけれど、なれるのは一人だけです。
二位以下の者は一位をうらやみ、落ち込む。「ああ、自分は一位になれなかった。力がなかった」と。望む結果を手に入れられなければそうなって普通だ。自分の全部をぶつけてそれでも及ばなければそうなって普通だ。
普通ではあるけれど、一位以外の全員が落ち込みっぱなしでは救われないでしょう。それに、競争の意義ってのが本末転倒になってしまう。向上するためには競争が必要だけれど、次の競争に参加する気力を奪ってしまうのではね、意味がない。
そこで、ハイ、二位や三位でも気持ちが明るくなる魔法の手法の登場です。そう、ビリを見下すことですね。
──ビリよりも自分は上だ。ビリと競争すれば自分は勝てる。自分はビリよりも力がある。そう、ビリよりも。
こんな感じで、一位でないという劣等感を、最下位を見下すことで解消させるわけです。
ね、この方法ならビリ以外の全員が救われるでしょう。最小限の犠牲でほぼ全員が上昇に向かえるという、たった一つの冴えたやり方。人間社会では必要不可欠なんですよ、差別は。
そんなに単純でもない?
うーん、確かに、そうかもです。もう少し手の込んだやり方はありますよね。オブラートに包んだ差別みたいな? 平等に接してますよー、って顔で見下すような? あと、ビリ相手じゃなくても、競争に参加しない・できない・させない者を差別するなんてのだってありますね。ま、直接か間接かの違いで、結局やってることは同じなんですよ。
見下せる相手がいることが重要なんで、差別する理由は何でもいいんです。性別なり、職業なり、出自なり、国籍なり、人種なり、何でもね。とにかく最下層の存在を作っておけば、競争社会は維持できる。大多数が競争社会を生きてゆける。
コストパフォーマンスは最高でしょう。少数の被差別者を使い潰し続ける以上の低コストな方法なぞあるわけない。
差別をなくそうとしたって、共産主義のように失敗するのがオチですよ。国単位でやればソ連のように最下層を作ったあげくに崩壊するし、個人単位でやれば小林多喜二のように差別されて国家権力に殺される。ハハ、右に転がっても左に転がってもダルマはダルマ、と。
あっ、お酒お酒。すみません、気づきませんで。
ええと、そういえば何の話をしていたのでしたっけ?
そうそう、「沼」の成り立ちの話でしたか。
弱くて醜くて性格がひん曲がってることで、当然のごとく差別されてきた我々が、なぜ一か所に集まって暮らすようになったのかをお聞きしたのでしたね。
観点が鋭いと敬服します。確かに一番主な理由、一番単純な理由は「生きるため」ですね。
多くは、強くあるいは無意識的にでも望んでいます。最下層で蹴飛ばされ続けて死ぬよりは、協力し合える関係の中で生きたいと。そんな都合のいい関係はビリ連中の前にゃそうそう存在するもんじゃないんですが、チビく……長がそれを作った。それが「沼」です。
でも、それだけじゃ数百の数は集まらない。弱い・醜いだけならまだしも、ひん曲がった性格がありますからね。
お察しの通り、これが一筋縄じゃいかないんですよ。諸人の負を四方八方から投げつけられてきた半生が作り上げたひん曲がりっぷり、並であるはずがない。
ええ、他者に対する不信感ってヤツがどっしり根づいてる。集団生活を営むには大木なみの障害になります。かといって、無理に切り倒すわけにはいかないんですよねぇ。切ったところで切株は残るし、切株を取り除いても堀池が残る……と、これじゃ徒然草の一節か。
たとえば、この場には顔を出していませんが、大ミミズを引っ張ってくるのだってそりゃあ大変でしたよ。無口だったので意志の疎通を図るだけでも一苦労。足しげく挨拶しに通って、ミミズ相手に小野小町の百夜通いです。その末、ようやっと引き出せた意向はこんなのでした。
──土の中でたった一人引きこもって、時折のちょっかいに耐えてさえいれば生きてられる。なのになぜわざわざ誰かと接触するストレスを感じなければならないんだ。
正論ですよね。
自分個人だったら、この反応に「お呼びでない? お呼びでないね。こりゃまた失礼いたしました」と立ち去ってましたよ。けれど上から命令があったんじゃあ放り出すわけにもいかない。そこまで無責任男にはなり切れない。サラリーマンは気楽な稼業とは言えない時代です。
しかし、自分でも商品価値がないと思う物を売り付けるのはどうにも意欲が削られるので、長に聞いたんですよ。「彼の、いや、彼女の、というかミミズは雌雄同体なんでどっちでもいいんですけど、とにかく彼氏彼女の事情からして、群れて生活する意味って何ですか?」とね。
そのとき長が答えた口上をそのまま本人に伝えました。
『おはようと言える相手がいて、おはようと返してくる相手がいる。それがいい気分だからみんなで暮らすのさ』
はい、背中がムズ痒くなったら蜥蜴の手でもお貸ししますよ。まったく、モテないくせして歯の浮く台詞はポンポン飛び出す。絶対口から生まれてきましたね、あれは。
ただ、これが殺し文句になったのもまた事実でして。ええ、ミミズは「沼」の一員となりました。
何度も会いにきてくれたことが嬉しかったんだそうです。気づけば、蜥蜴が訪れるのを楽しみにしていたんだとか。それで挨拶を交わす幸せというのがすんなり心に入ったと。
良かった良かった、なんて簡単に思えれば自分も良かったんですけどね。そのとき思ったのは、「うーん、何だこのキャッチセールス」。
いや、その文言自体を否定するつもりはないのですけど、長に対して「都合のいい口だこと」と思ってしまうのは仕方ないでしょう。
なにしろ自分に対して言った理由と全然違ってるんですよ。ミミズ以外のスカウトをしたときも、その都度別の理由が提示されました。「君子とは何か」の問いに対し門人ごとに違う返答をした孔子気取りかって、そう思うわけです。
そんなこんなの口八丁手八丁で集めたメンバーたちは、みんながみんな手に手を取り合って仲良く──とはいかなかったのは、やっぱりご想像通りでして。
単独で生きてきた者に協調性が備わってるわけがない。他者に合わせる能力はさっぱり欠けてます。まとめるのは至難の業ですよ。メイド長も下の教育には手を焼いているのではないですか? 自分は毎日のいざこざが胸焼けするほどでした。
ああ、すみません。また話がずれちゃいましたか。お聞きしたいことの中心は「なぜ長は時間も手間も掛けてまで『沼』を組織するのか」ですよね。
自分が聞いた範囲では自分と同じだとのこと。つまりは「楽しいから」だそうです。面白くなるから群れを成したのですって。ああ、自分に対する殺し文句は「一人では得られない楽しみが得られるぞ」でした。
そう変な動機でもないでしょう。人生楽しんだもの勝ちってのは一つの真理じゃないですかね。
蓬莱の薬を飲んだのでもなければ、いずれ死ぬのが人生です。生まれ落ちた以上、死ぬ運命を背負ってる。さて、楽しんで死ぬのも人生、楽しまずに死ぬのも人生、選ぶならどっち……って考えるまでもない。
同じ死ぬなら大いに楽しめばいい。楽しんで死ねればそれでいい。でしょう? 古歌にも「遊びをせんとや生れけむ」とありますし。
集団生活を営めたかなんて、もう、冗談キツイですね。自分の調子の良さはご存じでしょ? 他と違ってひん曲がった性格は生まれつきのもので、足蹴にされる人生の中で培われたものじゃない。人間不信なんてさっぱりですよ。恨み? あるわけがない。差別というのはあって当然のものなんだから、太陽が東から昇って西へ沈むことに腹立ててどうするんですか。無駄に疲れるだけでしょう。
ええ、「それで望みのものは得られたか」、ですか。自分については、この場でお酌をしていることが答えになってますね。一人のとき以上に楽しい思いができてなかったら、とっくに立ち去ってますので。
ミミズの所に通い詰めてその後沼まで引っ張ってくるのも、間に強大な妖怪の縄張りがあったのでそりゃあスリリングな体験を味わいましたし、そしてもちろんレミリア・スカーレット嬢、あなたの居城に失礼したのは生涯ベスト級のエンジョイ&エキサイティングでした。
いや、こんなこと自分が一人のときだったらできませんよ。自分がここに来る以前にやれたのは、せいぜい花見酒とか相撲とかそんなので。まあ、それはそれでスリリングでしたけど、とにかく「沼」への勧誘や酒宴への招待などは一人じゃ不可能です。
能力的な要素の話ではありませんよ。
誰かを引っ張ってくるのも所属するところがなければやりようがないわけですし、紅魔館の主を酒宴には誘うことも自分単独では無理でしょう。一人二人じゃ逆に誘われるのが普通の人数になりますから。そういう意味です。
端的に言えば「動機」、これの有り無しですね。
そう、動機。自分の場合は勤務地の所長から言われたというだけのものですが、ちっぽけなものであろうとゼロでなければ懸命に、命を懸けるには十分です。ただただ楽しめればいいので。……すると、長の場合は……?
あ……どうも、失礼しました、来賓を前にして考え事なんて。長の動機が「楽しむため」なのはさっき言った通りですし、間違いはないと思うのですが、ちょっと意味深なこと言ってましたので、どうも。
「一人では得られない楽しみ」というのを自分は浅い所でしか見てないのだそうです。では、長はどこを見ているんでしょうね。同じ井戸の中をのぞき込みながら、自分は水面を、長は底を見ているんでしょうか。
長の発案したこの酒宴、お嬢様方をお招きしたことで、従来とはまったく別種の雰囲気を醸すことになりました。緊張感というだけではないですよ。それしかなかったらみんな置物だか幽霊だかわからないことになってるはずです。
確かに、恐れ多くてこの場にはいられない者も少なくはありません。でも、沼の周りに並んでいる者たちの目には、おどおどした中にも光があるでしょう。普通に生きてきたら一生お目に掛かることのない雲上の存在が、自分たちと酒を嗜んでいる。その現実に輝いているんです。
長はこれを狙っていたのかな? いや、面白いには違いないんです。彼らのかつてのどんよりした目がどんなものだったかというと、死んだ魚の目がダイヤモンドに見えるくらいの酷さでしたから。過去と現在を頭の中で比較すると、自然に笑いがこみ上げてきます。
でも、やはり何か引っかかりますね。長の狙いはここ止まりなんでしょうか。思い通りに蜥蜴を動かせたシテヤッタリ感を加えても、どうも釈然としないのですよねぇ。
出し物の準備において、一切何も聞かず、全部自分に任せたんですよ。長の名前を使って「沼」の住人にどんな命令をしてもいいという許可まで与えた。どういう意図があったんでしょう。
誰を呼び込んでもよく、どんなトラブルが起こってもかまわないのは──まあ、いざとなったら自分をトカゲの尻尾として切り捨てることは可能ですが──ただ、それでも爬虫類一匹の命で帳消しにできない事態は十分考えられるわけで……
危険自体が楽しみ、イコール報酬というので筋は通りますけど、簡単に結論づけて思考終了してよいものかとも思います。あの長のことですから、こんな風に悩ませることでからかってるだけかもしれませんがね。
やめときましょう。休むに似たりの行為を続けても酒が不味くなっちゃいます。
話を元の元に戻しますね。出し物の段取りに多くの協力があったという件について、「沼」の者が役に立つのかというご質問がありました。ええ、まだ終わってなかったんですよ、その説明。実は会場作成の話も途中でしたし。
「沼」の中では彼女が一番の大仕事をしてくれたのかな、やっぱり。大物相手の難題を、何だかんだで引き受けてくれて、何だかんだで成し遂げてくれた。
彼女というのは我らがアイドルです。スーパーチャーミングでラブリーな存在。ホントですよ? 何せファンクラブまで結成されてるくらいで。
現在ファンクラブの会員は二名。会長は長で、副会長は自分です。
ファンクラブの一員としては、アイドルの武勇伝は是非とも語らせていただきたいところ。よろしいでしょうか。いやぁ、話せるとなったらもうババンバンバン、講談師並に熱入っちゃいますよ。
あ、ついでにお酒も熱燗にしときます?
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あたしは人間が好きじゃない。
自分勝手で、わがままで、上から目線で、ゴーマンで、自己中心的で、感情的で。なのに──
あァ、くそ。
舌があったら悪態ついて舌打ちしているところだ。あたしはその人間を相手しなけりゃならない。こんなクソな話があるか。
『人間といっても、半分だけだからな』なんて蜥蜴がふざけたこと言っていたが、半人前ってシャレなんだろう。クソつまんねェ。てめーが半分にぶった切れろってんだ。
蜥蜴は嫌いだ。あんな気持ちの悪いヤツはいない。腹ん中で思ってることが全然わかんねえし、ニヤついた顔はお面を貼っつけたみてーに上辺だけだ。
あたしがこんなとこで人間を待ち伏せしてるってのが、あいつの指示だってのも気に食わねェ。普通なら当然シカトくれるとこだが、『蜥蜴の言う通りやってくれ』と長が直々に声を掛けてくれたんだ。聞くしかない。
長は好きだ。好きって言葉じゃ足りないくらい好きだ。あんなにすげェ人はいない。生きる価値すら認められてこなかったあたしらに、生きることを教えてくれた。
弱ェし、醜いし、馬鹿にされてるあたしらは、自分でだって生きる価値なんかねェと思ってた。底辺で蹴飛ばされる人生に意味なんか見出せなかった。けど、長は言ったんだ。
『生きてさえいれば勝ち組さ』
どんだけの衝撃だったか。複眼の一つ一つが脱皮するような気持ち、どころじゃねェ、ガワからハラワタ全部まで総入れ替えしたくれーになった。「生まれ変わる」ってのがマジにあるんだとわかった。
毎日生きてきて見えてなかった。けど、周りを見てみりゃ、鳥も虫も草も真剣に生きてる。そして、死んでる。いつ死んでもおかしくないから、真剣に生きてるんだ。
夕闇ん中、何匹ものコウモリが飛び回り、たくさんの羽虫を食っていたのを、一匹捕まえて口に入れたとき悟ったんだ。
あたしは自分を馬鹿だと思っていたけど、心の底から馬鹿だったんだって。
必死で生きてる命をあたしはたくさん食ってきた。あたしの命はその上で生きてきたものだった。それを価値がねェとか意味がねェとか言うなんざゴーマンにも程がある。
あたしは生きてていい。うつむいて生きるのじゃダメだ。生きてるってのはすげェことなんだ。
それを教えてくれた長は、あたしにとって王様とか神様みてェなもんだ。長が「死ね」と言ったら、あたしはその通りにする。長のためなら死ねる。長だったら馬鹿なあたしの命だって最高に有効に使ってくれるだろうから。
あたしがこうしてバラバラで這いつくばってるのは、蜥蜴の指示で動いてるんじゃない。長の言葉に従ってるんだ。
……けど、やっぱり人間を相手にするってのは、気が乗らねェ話だった。
人間は好きじゃない。特にあいつらの好き嫌いの激しさってのは意味不明にも程がある。好きになれるわけがねーや。
蚊やゴキブリを嫌うのはわかるわ。血を吸われてかゆくなったり、汚物に触った身体で近寄られたりするのは嫌だろうさ。
けど、蝶が好きって何だ。人間にとっちゃキャベツとかミカンとか食う害虫だろうが。食い物奪い合って喜ぶのか。わけわかんねェ。
蜘蛛が嫌いってのも何なんだ。蚊や蝶って害虫を食べる益虫じゃねーのか。おんなじ理由でコウモリやゲジゲジだって好かれていいはずだ。それとも部屋に入り込まれるのが縄張り意識に触れるのか? 別に居座るわけでも汚いわけでもねェってのに、出てくるだけでキャーキャーわめくのは心が狭すぎるだろ。──蜥蜴が言うには、外の世界じゃ蜘蛛やコウモリがヒーローで大人気って話だが、どんな馬鹿も信じねェよ、んな嘘。
ミミズを嫌がるってのが一番わけがわかんねェ。畑や庭で土を肥やすのにどういう不都合があんだよ。たくさんいた方がどう考えたって助かるだろうが。人間にとって何一つマイナスになってねーのに、嫌う意味がわかんねェ。むしろミミズこそヒーローとかヒロインとかの人気者になるべきだろ。
あれか? 人間ってのは天邪鬼みたいなもんなのか? 恩を仇で返すのが常識なのか?
こないだも、山道で転んでベソかいてた人間のガキがいたから、見たら膝とか腕とかかなり擦り剥けてやがる。じゃあってんで、傷口にウジ虫をたっぷりたからせてやったらどうだよ、お礼を言うどころか泣き叫んで逃げていっちまった。さらに、村から大人の集団が駆けつけてあたしを袋叩きにしようとしやがった。わけわかんねェ。
逆に、仇を恩で返してくれるってのなら、あたしが唾なり小便なり引っ掛けてやりゃあ金くれたりしたんかね。ハッ、んな馬鹿な話があるかよ。
あー、気が乗んねェ。人間なんか相手にしたくねェ。
けど、どうあったってその時は来ちまう。ってか、今、その時になっちまった。
まっすぐ立った杉林に挟まれる、広めの石段。そのずっと先、葦のように細くなっているところまで、人影はさっぱり見えない。
が、数百メートル先の「あたし」がそいつの通過を確認している。あのスピードならもうじきここまで上がってくるだろう。
あたしはバラバラのまんま杉林の下の茂みに潜んでいる。流れる雲に日が陰って、薄暗い場所はさらに暗くなっている。風も強めで周囲はざわめいている。
これなら適当にバラけてても、あたしみたいのに目を向けるヤツはエサを探す鳥ぐれーだと思うんだが、身の隠し方も現れるタイミングもこまごまと蜥蜴の指示がある。めんどくせェ。
結局段取りは覚え切れなかったから、それが書かれた紙を見ながらやるしかねェな。何遍リハーサルやらされても頭ん中から抜けちまうのは何なんだかね。やっぱあたしが馬鹿ってこったか。
と、待ち人来たるだ。相手の人間が目で見えるところまでやってきた。向かい風をものともしねェでどんどん走る姿が大きくなってる。茂みから飛び出すタイミングを図んねェとな。ちっとでも気ィ抜いたら、風のように走り去ってしまっておしまいだ。
人間の名前は魂魄妖夢。蜥蜴は名前の通りコンパクトな体型だとかつまらねェこと言ってたが、確かに背は低い。銀髪に黒リボン、緑の服とスカートという人形みてーなナリをしている。
つっても、強さはモノホンだろう。あたしら「沼」の住人はドンケツに弱ェからこそ人の強さにゃ敏感だ。ツワモノだらけの幻想郷の中でもそうはいないほどの強さだって、はっきりわかる。腰に帯びて、背中にも背負った二本の刀は、小柄な身体には不釣り合いに見えて、実際は好き放題にぶん回せるはずだ。
そんな相手にケンカ売ろうってんだからまったく信じらねェな。しかも、蜥蜴の言う通りにやれば、完全無傷で勝てるんだってよ。臭ェぜ。嘘くせェ。
ふン、マジかどうか確かめてやろうじゃねェか。
女ザムライ・妖夢が通り過ぎた瞬間、その目の前に「あたし」の一匹を横切らせる。
走りが緩んだところで、バラバラのあたしは全員茂みから石段へと這い出した。
気配に妖夢が立ち止り、幼さの残る顔で振り返る。目に映ってるのは、何千何万もの白いウジ虫たちがウジャウジャより集まっている光景だ。それは米粒がおはぎになるようにくっついて、一つになって、人の形を取っていく。
腕に手が生え、指に分かれる。顔の凸凹が鼻や口になる。肌に色が生まれ、衣服や髪にもドギツい色が現れてくる。
そうして、一体の塊であるところの基本形のあたしに戻った。
背丈は妖夢より頭一つ分大きい。背中の透明な羽と頭の触角、眼球部分が複眼なのと、ショートカットな頭髪がショッキングピンクだってとこ以外は人間と同じだ。哺乳類でもないのにヘソまである。
服装は髪と同色の靴・ブラ・ホットパンツのみ。これも「あたし」でできていて、身体と違って加工がメンドいから、できるだけ面積の少ないのにしている。
さっき妖夢の前を横切った「あたし」──一匹の蠅がブゥーンと飛んできて、形になったばかりの額に止まる。ウジ虫に変化して、額と一体化した。
「あなたは……」
口を開く妖夢を止めるように言葉を出す。
「見ての通りただの蠅さ。初めまして、ってか会うのは二度目だな、魂魄妖夢」
持って回った口上は、まったく蜥蜴のシナリオだと確信できる。このまま会話の主導権を握ったまま畳みかけろと、紙に書かれた指示だ。未だ茂みに隠れた「あたし」の一匹がそれを読んで、その通りにあたしは台詞を並べていく。
「あー何だ、ええと……弾幕勝負を挑みたい。勝ったらご主人様のとこに案内してくれ。っと、動くな!」
すかさず強めに言えとの指示が書いてあった。練習でもここは特に重要だって言ってたな、そういや。
シクったかと思ってヒヤッとしたが、妖夢の身体が一瞬震えて硬直したので、タイミングを逃すことはなかったみてーだ。ホッしつつ、次の言葉をつなげる。
「動くなよ。そんでずっとこっちを見てろ。間違っても刀に目をやんじゃねェぞ。指でも目ン玉でも、ちっとでも動いたらこっちが動く」
挙げた右手をパッと開いて、閉じる。
「握っていた物が見えたか? どっちのとは言わねェが、ってか、どっちのもかもしんねェが、振りゃあ刀がぶっ壊れるぜ」
「目釘、を」
目と口を歪ませながら妖夢が絞るような声を漏らす。
ああ、目釘。確かそんな名前だったっけ。刀の中で結構重要な部分らしいな。どこに使うんかね。
妖夢の左手がミリ単位で下がる。風にあおられてというわけじゃないだろう。あたしは身体を同じだけ前に傾けて、妖夢を固まらせる。動けない剣士はさらに言葉を吐いた。
「茶屋で、あの時……!」
(? ええと……茶屋……あぁ、ね)
頭が悪いんで今更だったが、妖夢の言葉を聞いて蜥蜴の狙いがわかった。
二度目に会ったと言ったのは嘘じゃねェ。階段上の手前で会ったってんじゃなく、人里の茶屋で会ったってことだ。
別に何もしてねェ。蜥蜴の指示は「飲み食いしている際中に、間合いの外で前を横切れ」だった。何の意味があんのかと思いながら箸でつままれない間でブーンと飛んだけれど、そうか、そういうことか。
妖夢は茶屋で一服してる時、刀に細工されたと思い込んでるわけだ。階段を駆け上ってきたのへ「あたし」が横切って足止めした、その記憶とも併せての錯覚だ。
意識を引きつけておいて、死角から本体がチョコマカするなんて芸当、あたしにできるわけねーじゃんよ。でも、信じてんだろうな。バカ正直に生きてそうな面してっし。
じゃあ、あたしの次の台詞が効くとしたら相当なもんになるね……。
「自分の命より大事なもんをダメにしたくなきゃ、あたしの不戦勝を認めろよ。十秒やる」
「く……うっ!」
効果はテキメンだった。命より大事、なんて文字で見たときゃ大げさだなと思ったが、妖夢の様子を見るに実際その通りなんだろう。
「十、九、」
あたしが秒読みする前で、ブルブルと全身を震わせながら歯を食いしばっている。両手を握りしめてる。寄せた眉間をよじらせて、ああ、涙までにじんでやがら。
あたしの言葉から判断すりゃ細工したのは片方だけって可能性もある。けど、イチかバチかで仕掛けることはできねんだな。剥き出しの感情は、刀が壊れる確率が1%でもやれねェって示してっしよ。
「八、七、」
同時に自分の主に対する気持ちも重いもんなんだろう。だから、さくっと負けを認められねーのな。
あたしの要求は主に会うことだ。妖夢にとっちゃ大して脅威にもならねェような虫けらに過ぎなくても、ほんのわずかでも自分の主に対して不利益になることはそう飲み込めない。
理解できる。あたしが長に持ってる思いだってそうだからだ。長のためなら死んでもいい。逆に、自分のために長が危険な目に遭うなら……想像もしたくねェや。
「六、ご、」
わかるわ。こっちにしかめっ面が感染りそうになるくらいわかるわ。
命より大事な刀と主を天秤に掛けさすって、どんだけの地獄だよ。それをあたしの嘘が起こしてる。煮えた油を飲ませるような嘘だ。
こんなバカ正直に真っ直ぐ生きてそうなヤツを、ちっとの恨みもねェんに口だけで地獄に落とすのか、あたしは。
「よ、ン……ああ、クソ! クソったれ!」
ついに吐き捨てていた。
妖夢の目が丸くなる。
あたしはバリバリと頭をかきむしる。強くかき過ぎて、頭皮があちこち削れて跳んだ。それぞれがウジ虫になって這い寄ってくのに目もやらず、手の中の物を妖夢に放る。
片手で受け取った妖夢はそれを見つめる。安心したか、それとも不審に思ったか、表情からはわからない。ってか、相手の顔を観察する余裕なんざ、今のグチャグチャな頭ン中にあるわけねェ。
「ただの汚れた木片だよ。どうせ蜥蜴の作ったゴミだろ。あたしはお前に何もしてねェのさ。ハッ、こんな三文芝居、もうどうでもいいや」
茂みまで歩いていって、手を突っ込む。紙を引っ張り出して千切った。半分の半分の、さらに半分の半分にして宙に捨てると、強い風に紙吹雪となって石段の向こうへ飛んでいった。
「弾幕勝負も無しだ、無し。あたしが手ぶらで帰って長に叱られりゃいいだけの話だ。その前に蜥蜴はぜってェ一発ぶん殴るけどな」
背を向けて透明な羽を震わせる。乱れ雲、明かりの落ちた空が複眼に映った。風は今も強ェし、乗っていきゃあ早く沼に帰れるだろう。けど、長にどう謝ったらいい? バカなあたしに任せた蜥蜴がバカだったってことにしても……気が重てェ。
「あっ、あの!」
「これからは大事なもんにゃ目を離さねェこった。つっても、実際何かしようとしてたら気づかれてたんだろうけどな。じゃ、あばよ」
言い捨てて飛び立った、はずだったのが、「待ってください!」と片足をつかまれてガクリと景色が落ちる。
「どらんぶるっ?!」
「みょん?!」
あたしは珍妙な叫びを上げて石段に身体の前面を打ちつけていた。あたしの片足を持ったまま、妖夢も無様にこけていた。
「な、何しやがる!」
「すっすみません! でも、何かしらの事情があるんですよねっ?」
「いいからまず足を離せって!」
いくら澄んだ目で見つめられたって、倒れたままじゃマヌケな話しかできねェ。
妖夢はまた謝ってから立ち上がる。あたしも立ち上がった。石段の上下が身長差を埋め、互いの目線が近くなっている。
「何か困っている様子だったので、あの、相談に載れたらと」
「あン? あたしがお前を困らせたんだろ。どういう筋合いでお前に助けられんだよ」
「いえ、その、でも何かできるのだったら、させてもらえませんか?」
「わけわかんねェ」
何だ、こりゃ。やり取りがとんちんかんにも程がある。陥れようとした相手に気遣われて、そんでそれを拒否るって、どうしてこうなった。あたしは理不尽な要求をこいつにしようとしてたんじゃねェの?
「できるもできないもねェだろ。お前ンとこの主に顔を合わせて頼み事するってのを、あたしみたいな『沼』の不審者に許すのかよ」
「それは……」
「だから弾幕勝負を挑んだんだよ。幻想郷のルールじゃ負けたら相手に従う理由になンだろが。それももうどうにもならねェけどな」
「改めて弾幕勝負をするのはどうですか? 私は構いませんから」
「勝負になるわけねェだろ! どんだけ力の差があると思ってんだ! そもそもあたしは弾幕は撃てねェし、あのコスい手がダメになっちまった以上、終わりなんだよ!」
「弾幕を撃てなくても、弾幕勝負はできます。力の差を埋める配慮はやりようが……」
「ねェーっての! あたしの能力はこの世にいる蝿以上のもんにゃならねェんだから! 同族にセフェノミアっつー時速1308㎞でカッ飛ぶ蝿もいっけど、んな音速超えるようなヤツとは違って、しょぼい上に融通が利かねェの! たとえばな、」
あたしはバカだが、蝿のことに限りゃスラスラ説明できる。
「タイコバエみてーな寄生系を使えば、脳髄をすすって好きなように操れる。自殺に至るまで自由自在さ。でも、すすった脳髄を元に戻すのはできないんだぜ?」
最近じゃ猪をゾンビ化させて「沼」へ連れていった。長はボタン鍋が好きだ。
「あと、ニクバエ系なら生きた肉を食らって身体に食い込めるが、大したダメージにはならねェ。そっち方面ならラセンウジバエくらいじゃねェとな。けど、肉の全てを積極的に腐らせて食らい尽くすなんて凶悪なもんに、どうやって手加減しろってんだ? 不可能だ」
だから弾幕勝負なんざ無理なんだよ!と言い立てるあたしだったが、妖夢に全然動じている感じはなかった。実力差からすりゃあ当然だろーけど、その表情がイラつかせる。
平静な上に、薄笑いが浮かんできていたのだ。
バカにしてる笑いなら見慣れたもんだが、そうじゃなくって、何つーか…………穏やかな優しいもんだ。あたしがしゃべればしゃべるほどニコニコとしてくるように見える。くそっ、何だってんだ。
あたしの口が止まってから、妖夢は耳に入った言葉を脳に染みこませるような間を空けて、うなずく。そしてこう言った。顔と同じで穏やかな声だった。
「ありがとうございます」
「はァ?!」
今、お礼を言ったのか? 言われたのか?!
「ですが、ご心配には及びません。やはりやりようはあると思いますよ」
「ちょっと待て! あたしが心配してるって? 蝿ごときがお前を? ンな身の程知らずじゃねーぞ! それとも嫌みな謙遜かよ、コラ!」
妖夢はまたうなずく。そのいかにも「わかっていますよ」っつー笑みがさらにムカつかせる。あんな顔をさせたあたしに、今はこんな顔を向けている。わけわかんねェ。
「第一、お前にどんな得があんだよ! 弾幕勝負なんかしねーで、お家に帰りゃいいじゃねェか!」
「お互い損な性格をしていると見られて仕方ないかもしれませんね。けれど、少なくとも私はあなたを悪く見ることはできません。このまま帰らせてお咎めを受けるようなことはさせたくないんです」
噛み合わねェな、話。それともあたしがバカだから理解できねーのか?
「この場限りの特別ルールを設けましょう。あなたは刀で何度斬っても大丈夫な身体をしていますよね?」
少なくともこいつはあたしより頭はいいってのは事実だ。確かに何にもしねェで「沼」に帰って問題無しとはいかねーだろうし、チャチな能力しかねェあたしでも切り刻まれることに対しては強い。
「ほら、先ほど多数の形でバラけていたじゃないですか」
やっぱ何かおかしかねーか?という気持ちはベッタリした油汚れのようにぬぐいきれないままあったけども、話に載るのに反対する理由はバカな頭じゃ思いつかねェ。載らざるを得ねーってか、くそっ。
「あーそうだよ。あたしの身体はたくさんの『あたし』が集まってできてる。『あたし』はどれも『あたし』で、簡単に増やせンだ。交尾しなくてもウジ虫のまんまで自分の分身が生める──単為生殖・幼生生殖って蝿の能力さ。試しにウジ虫一匹をゴミの山に放ってみろよ。あっという間にウジャウジャ増えっから」
「機会があればやってみます。ないとは思いますが」
そりゃそうだ。何を言ってんだ、あたしは。
「とにかく最後の一匹がやられるまでは生きてっから、問題ねェのはその通りだよ。で、何が言いてェのさ?」
「こうしましょう。お互い弾幕は撃たず、飛び道具も使わない。私があなたを真っ二つに斬ったら、私の勝ち。あなたが突きなり蹴りなり私に一撃を加えたら、あなたの勝ち。それで弾幕勝負をするんです」
「……一回勝負でいいんだな。それ以上は付き合わねェぜ」
「はい。お付き合いいただき感謝します」
「ふン」
雲が割れて陽の光が差してきた。風もいくらか落ち着いてきたみてーだ。枝葉が騒ぐのをやめた分、互いの声がくっきり聞こえる。
「では、やりましょう。──その位置で?」
「ああ、ここでいいや。始めろよ」
自分の態度さえしっくりこない何が何だかな状況になってる。けれど、
「わかりました。行きます」
けれど、妖夢が腰の刀を抜いたら、全部がギュッと引き絞られた。外側も内側も。
真剣勝負だからな。強者相手に底辺のあたしが気を抜くなんてできるはずねェが……いや、ンなのと関係なく、妖夢がその気なのがビンビン伝わってきて、あたしの意識も一つに集中されるんだ。
妖夢が腹の位置で刀を構える。一歩踏み込みゃこっちをぶった斬れる距離。頭の触角がしびれる。
そういや弾幕勝負って死ぬこともありえるんだっけ? するってェと、妖夢が弾幕勝負にこだわったのは、勝負にかこつけてあたしを殺そうとしてるってこともありうるか?
ハッ、ねェな。
自分でも鼻で笑っちまうくらいバカな妄想だ。だまされた恨みであたしを殺すンなら、弾幕勝負なんか仕掛けなくたって一瞬でやれらーな。
それに、こんな殺気も敵意もない面して、腹の中でごちゃごちゃ考えられるはずもねェしよ。蜥蜴じゃあるまいし。と、やべッ。
「やァッ!」
駆け抜けながらの横に一閃。ギリでかわしたが、空気の圧力で脇腹に切れ目が入ったかと思った。
かわしながら後ろに回ったンで、銀髪の後頭部が見える。チャンス、じゃねェ!
「しッ!」
出しかけた手を引っ込める。返す刀が斜め上に走っていた。今度は錯覚じゃなく斬られた。深さ2センチ。全治3秒。
それでもあたしは懲りずに後ろへ後ろへと回ろうとする。石段には段差があるが、すでに飛行してるんで足を取られることはねェ。
妖夢の死角を取ることもできねーがな。つま先でふくらはぎに蹴りを入れるっつーコスい手を使おうとしたら、きっちり避けられてスネに傷を持たされた。この野郎、うなじにも目が付いてんのか?
いつでもどっからでも攻撃が襲ってくる。縦に刀が落とされ、横に刀が振られ、斜めに刀が切り上げられる。わずかな隙にこっちの手足を差し込もうとしても、そのたんびに新しい切り傷を頂戴する。身体のどこかを当てるだけが、恐ろしく遠い。
妖夢の周囲1メートルに透明な膜が張ってあるみてーな幻さえ見えてくる。そこに手とか突っ込むと蜂の尻に触れるくらいの確実さで痛い目を見るんだ。そんなのが、こっちから近づいていかなくても、向こうから突っ込んでくる。どうしろってんだよ。
方向やタイミングは何とか察知できるンだがな……身体が追いつかねェや。
人間のまばたきは一秒の半分、そんでたとえばカスリショウジョウバエなんかの反応速度は一秒の100分の1だ。やべェと思って避けりゃ大抵は大丈夫なのを、こうして身体じゅうを刀傷でチェック入れられてんのは、妖夢の速さがそれ以上って、まァ単純な話だ。こっちがどう動くかって予想するのが的確ってのもある。
あ、ヤベ! ──で、また斬られた。チッ、背中の羽を全力でブンブンうならせても限界は限界だ。スズメやコウモリの羽ばたきする数は一秒間に十五回。あたしら蠅は一秒間に二百回だ。これ以上のことはそうそう望めんわ。蠅は蠅を超えられねェ。
そういやいつの間にか空中戦になってる。空と地面がグルグル入れ替わる。木の幹も背に来たり頭に来たり尻に来たり。あたしと妖夢を中心に景色は回転し続ける。それ以外に状況は変わらねェ。
あたしは頭上から足下へまでを狙い、体勢も横や逆さまになって曲芸かましてんのに、妖夢は地上戦に劣らねェ動きを見せやがる。空中停止からの猛ダッシュ、ふいの後退、急旋回なんていろいろやっても全然釣られねーのな。たりめーか。あたしら弱者のモノサシで考えるなって話だぜ。
そもそもここまでマトモに戦えてるってのが奇跡なんだよな。腹の立つこったが、「付かず離れずの距離を保てば勝負にはなる」って蜥蜴の言葉通りだ。ギリギリもギリギリの崖っぷちで、まだ負けてない。
けど、何だ。何つーか、あれだ。あたしの胸ン中で引っかかってる「これ」。違和感。……目の前の、マジに妖夢の実力か?
余裕シャクシャクってわけじゃあないんだよな。真剣にやってっからこっちも真剣にやれる。そうでなけりゃ付き合ってられん、適当に負けてハイサヨナラだ。こいつの真剣は確かに真剣なんだろうさ。
澄んだ目に嘘はない。刀を振って宙を走るその動きは、ただただ真っすぐ。──それでも、だ。
傷つけられまくりの身で変だってのは承知で、思う。本気の本気じゃないだろう。実力の全部を出して勝ちに来てないだろう。なあ? 違うかよ、妖夢。
こっちが手を出したのを迎撃する以外、妖夢の攻撃は真っ二つに斬るためのものに限られてる。突いてくるものもなければ、フェイントとか牽制とかもない。そうなるとパターンが読めるような単調なもんになってくるよな。
弾幕勝負ってのは相手に勝つ道筋を残してやるのが言わずもがなのルールになってるって聞いたことがある。そういうことなら筋は通ってるって見方もできるかもだけどよ。
「──ッ!」
進行方向真っ正面に刀がカッ飛んできてた。身体を回転させるようにひねって回避、しきれずに前髪と額をカットされる。
ケバいピンクの線が散る向こうで、妖夢の顔を見た。
眉がヒクッと縮まり、唇にキュッと力が入る……ほんのわずか、時間にすりゃコンマ数秒のことだ。「そういう想定」で見なきゃ見過ごすもんだろう。が、「そういう想定」で見ちまったあたしは見て取っちまった。
思わず気遣ったかよ、女の顔を傷つけて。
「ざけンなッ!!」
怒りを吐き捨てると妖夢が身体が硬くなる。その間にあたしは思いっ切り後ろ向きに飛んで距離を開けた。
妖夢が距離を詰めようとするのを、にらみつけて止める。近寄んじゃねェよ、てめーは!
今となっちゃ、凶悪なほど長い刀が背中で納まったままにいるのもムカついてしょうがねェ。
確かにこちとら底辺だ。ナメられるのは慣れっこだよ。けど、そういう情けをかけられんのはヘドが出る。
クソだ、クソ。排泄物に群がる蝿の身からしたってクソだ。ションベン臭えガキ扱いしてんじゃねェぞ!
蜥蜴の言葉を思い出す。こうも言ってたな。『隠れる場所もないのに大きく離れるのは一番の悪手だぞ。幻想郷最速の一撃が来かねない』
いいこと聞いたぜ。「一番」に「最速」か。やってもらおうじゃねーか。
もういいだろうって位置で石段に足を着け、段の下にいる妖夢へ右手を突き出し、風をかきむしるようにして招いた。
「来いッ!」
見上げる妖夢の表情は、変化するようなしないような、けど確かに変化しているというアジサイみてーなことになっていた。
呆けた白に、物思う青、火の灯る赤、意を決する紫。
妖夢の足も石段に着いた。刀は再び腰に納められる。
左手で鞘を、右手で柄をつかんだ、低い姿勢。
それが複眼に映ったとき、あたしの中の「あたし」たち全てがビビビッときた。頭のてっぺんから足の先まで警戒・警戒・警戒。ワーニングの嵐だ。今すぐバラバラに飛び散って逃げようって考えさえ込み上げた。こいつはマジやべェ。今までの比じゃねえ。
絶対斬られる。絶対避けられねェ。石を上に投げたら下に落ちるくらいの当り前さでわかってしまう。何をしようが無駄な抵抗だと知らせる圧力。実際どんなのか目にする前からこれかよ。いや、どうせ目にすることも不可能なんだろうさ。
「蠅は速ぇー」なんてクソくだらねーオヤジギャグがあるが、そこらの蠅の飛行スピードはそんなでもなく時速7キロくらいだ。蜂が20ちょいで、トンボが30ちょいってのを考えりゃ、むしろ「蠅は遅ぇー」のがしっくりくるわな。「蝿の止まる速さ」ってのはやっぱりノロマなわけだ。
それでも高スピードなイメージがあるのは、他にはない反射的な避けと空中でのトリッキーな動きが可能だからだ。さっきまではそれでどうにかなってた。
もう通じやしねェだろう。動く暇もなくやられるから逆立ちしようがどうにもならんし、目にも留まらねェならどんな反応もしようがねェ。ハッ、あんまし差がボーダイ過ぎて、逆に余裕が出てきやがったぜ。
つーか、接近戦のときもろくすっぽ見えちゃいなかったけどな。刀が走る直前までの状態からどうにか判断つけてただけだ。それももうさすがに──……んん?
妖夢の目は見るともなしにあたしの全身を見ているようで、特に腹の辺りに視線を感じる。刀を抜くのも真正直にそのまま横一直線にやって、斬るだろう、腹の辺りを。
いやいや、バカな考え起こすなよ、バカ。どこに攻撃が来るのかわかったって、よけられねーんじゃ文字通りの一刀両断で終わりだろ。
「行きます」
妖夢の宣言。
ああ、来る。妖夢の目の光が、そして身体のあちこちの光が、強く輝き出す。そんな風に感じられる。
あれがギュッと縮まったとき、この距離を稲妻のように駆け抜けて、あたしの貧相な身体を切り裂いていくんだろう。
やれやれ、あんな気持ち悪ィぬるま湯ン中の生殺しよりゃ全然マシにしたって、さんざん骨を折ったあげく切腹エンドかい。
けど、もう何にもできねーんじゃ覚悟決めるしかねェよな。侍みてーな潔さとは無縁のあたしだが、生きられねェなら泥水はすすらない。意味ある何かができるってのなら何だってすっけどよ。
……ん?
おい。
おいおいおい。だから、何を思いついてんだよ、あたし。
バカだろ。ああ、もう、マジにバカだろ。
意味ある何かつったろ。意味ないかもしんないことをやるのかよ。そりゃ逆に言や、意味あることかもしんねーけど。
ふと、ゴチャゴチャ考えてる頭に何かが載った。感触から風で飛んできた杉の葉の一房だとわかる。払い落とす暇もねェし、ま、あたしにお似合いのカチューシャだな。間の抜けたこった。
ハッ、わかったよ、ったくよ。あたしがバカなのは今さらだよ。
バカはバカらしくバカやってやらあッ!
──そして、
妖夢。光。雷。
あたしは、やった。
「 」
妖夢がポカンと口を開けている。
あたしは思いっ切り斬られている。
足の裏からスネ、膝をさらに進んで太ももの根本まで。そこで刀は止まっている。
ここに来るだろうって剣の通り道に、片足を持ち上げておいただけだ。単純にも程がある思いつきのバカな手、いや足だったが、真っ二つになるのは防げた。胴体を斬るつもりの力じゃ、その倍以上の物を斬るには足りなかったわけだ。
開いたままだった妖夢の口が、小さく開閉する。
「真剣白刃取り……」
そういう技なのか、これ?
あたしは片足を振り上げて。
妖夢は片足を斬り裂いて。
そのまま二人でお見合いしていた。
時間にしちゃ短いもんだったろうに、やったら長く感じた。
あたしが刀を受け止めてから先のことを何も考えてなかったとお互い理解した時、妖夢の背中の刀があたしを真っ二つにして、勝負は終わった。
やっぱあたしはバカだった。
はいはい、負け負け。じゃ、あばよ。
っつーふうに、ようやっと沼に帰れると思ったら、
「な、何しやがる!」
「すっすみません!」
あたしは地べたで妖夢を怒鳴りつけていた。こんなこと、前にもなかったか?
妖夢はあたしがさっさと飛び去ろうとしていたところを、足をつかんで止めて、一緒に石段に倒れ込んだのだった。
妖夢は「みょん?!」、あたしは「ぶらんどるっ?!」と叫んだ。
やっぱ前にもあったな、同じこと。何か昔に思える。
「用事が終わったんだから帰らせろよ! 力ずくで引き留めんな!」
「で、でもまだ言いたいことが!」
「言いたいことって何だよ、これ以上何があるって?!」
自分で言うのもなんだが、負けたくせになんで上から目線なんだろうな、あたし。って、これまた似たようなことを何度も考えてんな。
「言いたいことですか、え、えぇと……」
「それを今から考えるのかよ!」
「いえ、その、ちゃんとあるんです。ただ、たくさんあって、まとまってなくて、」
「あやふやなんじゃねーか! ったく、あたしもバカだけど、お前も相当のバカだな!」
「あなたはバカなんかじゃありません!」
「?!」
予想もしない勢いで返された。そういう台詞を言われたのも初めてだ。
「あなたの心意気、判断力、発想は愚者には到底持ちようのないものです! 私はこの短くも濃い時間の中で何度も感銘を受けました!」
「そ、そうかよ」
今度はこっちが圧されている側になった。何だこのカウンター。
「そうだ! 心の面では申し分ないし、体術の面でも間合いを見切ってかわすなど非常に基本ができていますから、よろしければどうでしょうか」
「?」
「剣の道を志すつもりは!」
「いや、ねェよ」
突然何を言い出すんだ、こいつは。接近する顔にのけぞる形になる。鼻息を荒くして迫るなっての。
「あなたほどの芯があれば、かなりの領域にまでいけるように思うんです。ですから──」
言葉を差す。
「あのなぁ、道具を使う蠅なんていねェだろうが。逆にお前は剣を捨てられんのかよ」
妖夢は口を開きかけて、閉じる。間をおいてから、言った。
「すみません、失言でした」
そうだろうさ。今までの生き方を気易く変えられるわけがない。んな当り前のことを考えずに物を言いやがって。
ったく、腹が立つ。まんざらでもねぇ自分にも、だ。
「話はそんだけか? あたしじゃチャンバラごっこにも付き合えねーから、他を当たんなよ。じゃあな」
「あっ、待ってくださ」
このパターン。さすがに学習したあたしはビクリと片足を引いて振り返った。
妖夢もビクリと伸ばした手を引っ込めて見つめてくる。
またもやお見合い。
「くっ」
「あはっ」
「はははははっ!」
「あははははは!」
そして大笑い。
まあ、ここまでネタを重ねられたんじゃ笑うしかねェよな。
サツバツから始まって、キッタハッタが続いて、終いのここで笑える場面になっちまうってのも笑える。こんなひとときになるって誰が想像できるよ?
両端を揺れる木陰で挟んだ日差しの下、笑い声はしばらく石段を渡った。
あたしが腹から手を離す辺りで、妖夢は指先で涙をぬぐいながら言った。
「それではご案内しますね」
「は?」
どこに? 何で?
笑いの余韻も吹っ飛び、あたしの顔は役立たずの口の代わりに疑問を表す。
妖夢はそんなの当然でしょうと言わんばかりに、
「幽々子様のところへです。会見をお望みでしたよね」
石段の上へと歩き、あたしに目を遣りつつそのまま上っていこうとする。こちらは微笑みが浮かんだままだ。
「は? はァ? はあ?!」
おい、コラ、あたしのバカさ加減がボケ老人の「あーうー」レベルにまで進行してきた感じになってんぞ。
何か聞き逃してたか? ンなはずはない。こいつの思考が何かの間を蹴っ飛ばしてんだ。
「あたし、負けたよな?!」
どうにか、台詞を吐き出した。
「はい」
妖夢は歩みを止めず、頷く。
「ですから、」
一度は弱まった風が、また強くなってきた。木のざわめきも大きくなって、距離が離れると妖夢の声が聞こえづらい。あたしは石段を登る。もっと近寄らないと。
「負けた方が相手に従うというルールに則り、私に付いてきてもらうわけです。おかしなところはありませんよね」
「そういやそうだな。……いやいや! そうじゃねェだろ!」
危うく納得しかけた。そんなんだったら、蜥蜴が小細工を仕掛けるこたなかったし、弾幕勝負なんざただの手間だった。
「あたしみてーな不審者を、大切なご主人様の前に連れていっていいのかよ!」
妖夢はもうこっちを向いてなかった。歩みも小走りになっている。あたしが付いてくることをちっとも疑ってねェ。
「不審者って誰のことですか? あなたは自分が本当に純粋で真っ直ぐであることを何度も見せてくれたじゃないですか。信頼に足る存在であることを弾幕勝負で証明したじゃないですか。勝負の結果など関係なく、私は自信を持って、剣士としての自分を懸けて、あなたを客人として出迎えたいと思います」
妖夢の足はさらにスピードを上げた。けど、それ以上は上げない。あたしの付いていけるスピードだ。
風と日差しの中を突っ切って、剣士と蝿は健康的に爽やかに仲良くお家までランニングってかい。
くそッ。
小さくつぶやいて、舌打ちした。
だから人間ってのは好きじゃねーんだ。
自分勝手で、わがままで、上から目線で、ゴーマンで、自己中心的で、感情的で。
なのに嫌いになり切れねェから。
▲ △ ▲
目論見通りいったのですかって?
そうですね、上手くいき過ぎて驚いてるくらいです。
謙遜はしてませんよ。何から何まで計算通りにいくなんて、普通はありえないんですから。台本があって役者がその通りに演じてくれたとしても、どこかでイレギュラーが発生するものです。それが全然なかったというのは、幸運以外の何物でもないでしょう。
ああ、咲夜さんは言っている意味がよくわかりませんか? イレギュラーはないって、そのままの意味ですよ。本当にそのまま。話からするとイレギュラーだらけに思えたかもしれませんがね。
自分が授けた策を蠅ちゃんが破り捨てたという件についてはですね、そりゃ確かに「戦わずして勝つ」のが兵法では上策ではあるんですけど、魂魄妖夢氏への脅しが上手くいっちゃうと却ってまずかったんですよね。
だって、その場はどうにかなっても、その後のお願いが聞き入れられるわけないですから。本人に斬られるか、その主人に死を賜るか。それは蠅ちゃんにとっても自分にとっても勘弁です。
あれは、そもそも蠅ちゃんに投げ出してもらうために作った策だったんですよ。まあ、投げ出してもらうことこそ策の内とも言いますか。
それだけ彼女は相手の弱さを衝くというのが嫌いでしてね。で、彼女の心意気に感じ入った妖夢氏は弾幕勝負を自分から挑むことになるだろうと。
あはは、そんなにスムーズにいくのは解せませんか。
蠅ちゃんには言い含めてありますからね、「要求や揉め事は、本来弾幕勝負でケリをつける」というのと、「命令を投げ出したらお咎めがある」というのとを。
すると彼女の吐き出す言葉にそれとなくそういう内容が入り込む。妖夢氏にとって蠅ちゃんをそのまま帰還させるのは気が引けるでしょう。仁義にもとるとさえ思ったかもしれない。それで弾幕勝負を提案することになるわけです。
妖夢氏の性格は、あなたのところの門番をより初々しく、より固くした感じだと推測しています。伝聞と第一印象によるもので不確実ですけどね。できれば長期間観察していたかったし、直接接触したくもあった。でも、できないことを求めてもしかたないですし、結果として見立て通りだったから上手くいったわけで、まあ良かったですよ。蜥蜴の分析力もそう低くはないみたいです。
さて、弾幕勝負ですが、勝敗は五分五分といったところでしょう。接近戦である限りはね。
あれで結構強いんですよ、蠅ちゃんは。蠅って弱そうに思えますけど意外と能力はすごい。確かに飛行スピードでいえばトンボや蜂には劣ります──ある種の蠅はそれを上回りますが、昆虫最速はヤンマ系に譲りますしね──でも、ブルーインパルスも裸足で逃げ出す曲劇飛行はお手の物なんです。
昆虫に四枚備わってる羽は、蠅には二枚しか見当たらないように見える。でも退化してほとんど飛行の役になってないような短い羽には、ちゃんと役割があるんですよ。
外の世界にはジャイロスコープって装置があります。自己の位置をどのような体勢でいても正確に認識する装置なんですが、そのハイテク機械の役目をくだんのチャチに見える羽が担ってる。どんなに滅茶苦茶な動きをしても、その角度・速度を見失うことはないんです。
動体視力もいいですよ。河童が最近縁日などで公開してる「蛍光灯」って知ってますか。あれの光は一秒に百回点滅しているのですが、人間の目にはずっと光っているように見えます。でも、蠅はそれを点滅していると認識できる。それくらいにはいい。
だから、付かず離れずの距離を保っていれば勝機はあるというので……あー、まあ、もちろん実力差は雲泥ですよ。自分たちは自分たちが弱者であることを知ってます。
勝機があるといったのは、弾幕勝負の作法に則って「勝ちの目を用意してやる」というのが為されていることと、さらに妖夢氏が「特別の計らい」をしてくれるという条件があってのことです。
でも、それらがないような事態って想像できます? ……でしょう? とってもわかりやすい。だから、蠅ちゃんが自分の得意分野で戦い続けていれば、勝つ可能性は十分にあった。まあ、戦い続ける可能性の方が全然なかったんですけど。
だって蠅ちゃんの性格からすると、自分の利点を自ら捨ててしまうことはほぼ間違いないわけでしてね。こっちもこっちでわかりやすい。本当、どうにもこうにもならないくらい弱さを衝くのが大嫌いで、正々堂々が大好きなんです。自分が弱者だって知っているのに、タイマン張るなら真っ正面からやるって気質で。
いやはや、一昔前の熱血ヒーローそのものですね。長も自分もそんな彼女が大好きです。そして、我々と同じだけ妖夢氏も好きになってくれたでしょう。
ええ、ですから負けても要求は受け入れられると思ってました。目論見通りですね。
弾幕勝負に至った時点で、蠅ちゃんはほぼミッションコンプリートしてたんですよ。勝っても負けても、妖夢氏は頼みを聞いてくれる。自分がやってほしいことをやってくれる。
妖夢氏の主たる西行寺幽々子氏の許可は一応得ておきましたが、やることといっても先の異変にしたことをちょこっとするだけで、片手間でできることです。仮に幽々子氏の許可がなくても、妖夢氏ならやってくれたでしょう。愛すべき蠅ちゃんのために。
何を、って、やだなあ。この話は会場作りのものだって言ったじゃないですか。幽々子氏に会うこと、依頼することはステップに過ぎません。白玉楼の起こした異変、その力を借りた会場作りをしたかったんです。となると、どのような会場になるか、おおよその見当はつくのでは?
ともかく、この件についてはほぼ100%上手くいきました。僥倖と言えるでしょう。
望ましくない唯一のことといえば──知っているでしょう?──この酒宴に興味を持っちゃったんですよ、白玉楼の主が。気まぐれで誰も彼も死に誘える亡霊の姫が。で、今現在、沼の珍味に舌鼓を打ってるってわけです。さっき川魚のカマボコが品切れになったというのは、まあ、それが遠因で。
参りましたよ。こちとら吸血鬼とその従者だけでも手一杯だというのに……あ、いえ、何でもないですヨ、さ、もう一杯どうですか、ね、ね。
そうだ、もう一つ望ましくないことがありましたよ。
蝿ちゃんがプンプンに怒って自分に突っかかってきたんです。怒りの度合いは相当なもので、まるでバックグラウンドミュージックに「くまんばちの飛行」が流れてるようでした、蠅なのに。
合間合間に罵声を入れながらの攻撃がしばらく続きましたねぇ。身体中食い荒らされそうになったり、脳を乗っ取られそうになったりと、なかなかスリリングな一時でした。それだけ魂魄妖夢氏に情を感じたということですが、まあ、予想の範疇ではあるんで「望ましくない」というのはやっぱり語弊があるのかな。楽しんでますしね、自分。
──またそんなタチの悪いご冗談を。
自分たちは身の程を知っていると十二分にお伝えしているはずですよ。
「蝿にせよ、お前にせよ、それだけの能力を持っていて、なぜ力がないと自己卑下する?」などとは、普通なら一生耳に入ることはない言葉です。
ほら、メイド長さんも「少なくとも人間よりは上でしょう」などと乗っからないで。あなたこそ蜥蜴を穴だらけにした「人間」その人でしょうに。
ミョニョコンだって、全身から毒液を噴出する能力があったのに、一切反撃の手段として使わなかった。身の程を知ってますからね。
確かにおっしゃるような思い違いをした者を知っていますが、「沼」の住人にはいませんよ。その彼女をスカウトしに行けとの指令が下されたんですけど、残念、間に合いませんでした。
諸事情で精の付く食べ物を山の麓で探していた彼女でしたが、たまたま出会った人里の子供にちょっかい掛けられましてね。石を投げつけられたのだったか、あるいは馬面を揶揄されたのかな、それとも馬を鹿と言われたのだったか……ともかくこれまた諸事情で気の立っていた彼女は、その子供をコブができるくらい殴りつけた。
本気でやれば頭蓋骨骨折くらいはできたでしょうから、それなりの手加減はしたんです。子供は泣いて駆け去った。
さて、どうなったか……なんて、いちいち言うまでもないような当然の結果ですよ。彼女は死にました。死因は出血多量に内臓破裂、全身骨折に脳挫傷。平たく言えば袋だたきに遭ってズタボロにされたわけです。
そりゃあ村総出で山狩りが行われればどうにもならないでしょ。巣の近くでスズメバチ一匹殺して強さを誇るほど馬鹿なことはない。人間というのがそれ以上に数多く恐ろしい存在だってことを、底辺になり切れなかった彼女はわからなかったんでしょうね。いや、底辺云々は関係ないか。
そう、あなたでさえ理解していることを、妖怪の身でわきまえてないなんてのは致命的です。人間こそ恐るべき存在だとの認識は必須。それがなければ、早晩命を失っていますよ、彼女のようにね。だから先ほどのをタチの悪い冗談だと申し上げたんです。一番弱い妖怪の我々より弱い存在はいない。そこを思い違いすると──無知は罪であり、罪の罰は死。くわばらくわばら。
まあ、それでも何とか彼の命だけは救い出せて、今では「沼」の住人として楽しくやっていますよ。ほら、向こうにムクロジの水溶液を葦のストローで吹いてシャボン玉を作ってる……
っと、変な顔しないでください。矛盾はしてませんよ。ちょっと言葉が抜けていて、死んじゃったり生きていたり、彼女だったり彼だったりと混乱させてしまったようですが。
要するに、彼女は妊婦だったんです。そのお腹から子供を取り出して、保護したというわけでしてね。彼は長の計らいで犬と鶏の養子になりました。あはは、どうでもいいことですが、そこに猫が加わったらブレーメンの音楽隊になるんですよねぇ。あと一歩、実に惜しい。第二の養子のツテがあればご紹介願います。猫ですよ、猫。
不幸? その亡き母が? いやぁ、死を悼む意味でお愛想を頂戴するのはありがたいですけど、報いとしては正当なもんでしょう。
殴っただけで殺されるのは割に合わない、ですか。では、今この場で自分がお二人方のどちらかをポカリとやったら、その後の命は保証していただけるんですね。
だから、もう、ねえ、仮の話ですよ。言葉だけでナイフを取り出さないでくださいってば。あんまり殺気を向けられると、思わず尻尾を切り離しちゃいますって。もしくは反射的に擬死行動取っちゃいますよ。嫌でしょ、ビチビチ跳ねる肉の丸太、または死体然とした爬虫類が付近にあるのって。
いくら自分でも意味のない自殺行為はしません。意味のある自殺行為ならいくらでもやってますが、まぁ、とにかく、答えは出てるわけですね。
「目には目を、歯には歯を」のハンムラビ法典でもありますよ。奴隷が一般人を殴ったら、耳を切り取られる。一般人が女奴隷を流産させるか殺すかしたら、罰金を払う。これこそ平等というものです。底辺が殴ったなら、その後リンチされて殺されるってので、天秤の釣り合いは取れる。流産しなかったのは抒情酌量の余地があったからってことで片付けときましょう。
さて、そんなことより会場作成の話も一段落したところで、自分の対戦相手が誰なのか予想をつけてみませんか。
まだ全然ヒントを出してないから当てようもないとは思いますが。
ええ、白玉楼の方々は違いますよ。妖夢氏には会場作成のためにご足労いただいただけで他意はないですし、幽々子氏と共にこの宴会に参加しているのは予想外の事態なんですから。
おっと? 「あいつ」とは? その指の先は……
氷精ちゃんとその友人たちが見えますね。そうですか、自分が以前水切りやあっち向いてホイで熾烈な争いを行ったのを再度ご覧になりたいとおっしゃるわけですか。なんて、冗談ですよ。出し物を子供の遊びで満足させるつもりはありません。指はあそこの中心にいる彼女を指しているんですよね。
なるほど、トップクラスの実力者たる彼女、あそこで鍋奉行やってるのが目に入りましたか。「目に入る」というより「目を引く」の方が適当かな。目立ちますからねぇ、彼女。
浮いているとか悪い意味じゃなくって、人見知りのはずの「沼」の住人が自然と周りに集まって賑やかになっている。天性の人たらしといったところで間違いないですか? 異変の一件で彼女と紅魔館勢はやりあったと聞きましたが、はいはい、へえ、地下室ではともかく図書館ではネズミの如く嫌われてる? ふーむ、だとすると嫌われ者同士、馬が合ったのかな。
で、彼女が対戦相手だとする予想ですけど、確かに人間を脅威としておいて敢えてそれとやり合うというのはいかにも自分っぽいですね。
でも、今回は霧雨魔理沙氏と勝負する予定、ないんですよ。ヒントを出してないと申し上げた通りで、魔理沙氏が対戦相手ならこの場にいるという大きなヒントが用意されていることになってしまう。矛盾になりますよね。
では、何でここに彼女がいるかと言いますとね、白玉楼の主と同じく飛び入りで飲み会に参加した、というわけではなくて、会場作成とは別のことで協力してもらったんです。
あ、これは一応ヒントになるのかな。予想、付いてきました?
▲ △ ▲
私とアリスの一番の違いってわかるか?
どちらも魔法の森に住んでいる魔法使いだ。そしてどちらも金髪の美少女。その点ちょっとだけ私のが上だが、とにかくここまでは一緒だな。じゃあ、違いの方は?
白黒と七色のとこだって? バカ言うな、総天然色の星のスペルを見たことあるだろ。色鮮やかなのは私も同じさ。
パワー派と技巧派? それも違う。あいつはあれで力押しのところが結構あるんだ。自爆する人形を投げつけるなんて、技巧も何もあったもんじゃないだろ。
じゃあ、人間とそうでないのとという点だって? まーったく、わかってないなぁー。んなもんはチッチャイことなんだよ。
教えてやろう。私とアリスで決定的に違うのはな──キノコが好きかどうかだ。
……。
こらっ、笑うなっての! ここは笑いどころじゃないんだ! 真面目に聞けよ、どいつもこいつも……チルノ、お前が一番バカ笑いしてんだよ、その開けた口に煮えたコンニャク放り込むぞ!
ふざけて言ってるわけじゃないんだよ。大真面目に私とアリスの違いはキノコだって言ってるんだ。ってか、チルノ、いい加減笑い止めよ、ったく。
お前らみんな、たかがキノコって思ってるんだろ。アリスも同じで、さっぱり興味を示さないからな。人形を綺麗に着飾って華麗に動かすのには凝っても、薄暗いジメジメしたあちこちに生えてる菌類にゃ一顧だにしないんだ。
もったいない話さ。自分の人生からどけちまったもんに、どれだけ豊かな世界が広がっているか気づきもしないってのは。
ああ、このキノコ鍋、美味いだろ。どんどん食ってくれ。
「確かにこの美味しさを知らないのはもったいない」って? そう言ってくれるのは嬉しいね。けど、花より団子って言いたいわけじゃないんだ。それだとシイタケとかマッシュルームとか食えるキノコにしか目が向かないだろ。アリスと変わらんさ。
ええと、そうだな。ちょっと待てっな、確か鍋のこの辺りに……これかな。
ほれ、今、菜箸につままれている小さいのは何だと思う? お、さすがにこの鮮やかな赤を見知ってるヤツは多そうだな。そう、ベニテングタケだ!
──待て待て! お前ら、騒ぐなよ! 大丈夫だって、大丈夫! 見ろよ、メディスンはともかくチルノなんか落ち着いたもんじゃないか。
何? チルノはベニテングタケが何か知らないのか。結構有名な毒キノコなんだけどな。うん、毒キノコだぜ、これ。──だから青ざめるな! パニくるな! 吐こうとすんな!
大丈夫っつってんだろ、マジで! 毒があるからってそんなに怖がるもんじゃないんだ。ジャガイモの芽だって取り除いて食うし、梅干しも種の中身は食わないように言われたりするだろ。気を付ければ口に入れて問題ないんだよ。ああ、そういや、今飲んでるマムシ酒も毒蛇を漬けたもんだしな。
ベニテングタケの場合は量に気を付ければいいんだ。毒成分はイボテン酸。鍋の中に浸み出しているのは、この大きさからすれば大した量じゃない。というわけで、安心ってわかるだろ。
何のために入れたかだって? さっき言ったろ、イボテン酸を浸み出させるためだよ。出汁を取るんだ。
イボテン酸は毒なのと同時に強いうま味成分でもあるのさ。うま味成分の代表、グルタミン酸と比べると10倍ほどもうま味が強いんだぜ。こんな魅力的なもん、利用しない手はないよな。
まぁ、毒が美味いってのも罪作りかもしれんね。ベニテングタケを裂いてそこらに置いておくと、このうま味に惹かれてきた蠅が舐めてはボロボロ死ぬんだ。東北や信州じゃ「あかはえとり」なんて呼ばれて、蠅の駆除に使われてた。いや、日本の一地方に限らず世界中で使われてたな。英語での名前は「フライ・アガリック」──「蠅のキノコ」さ。
変に心配するなよ、リグル。さっきも言ったけど、量さえ取り過ぎなきゃ問題ないんだぜ。それにお前は蝿じゃなくてゴキ、もとい蛍だろ。気にせず味わえよ。こっちのみーずはうーまいぞ、ってな。
まだビクついてる風があんな。ちょっとでも毒があれば口も付けらんねぇってことになると、マツタケもダメになっちまうぜ。あれもたらふく食ったら吐き気がするんだ。むしろそんくらい食ってみたい気もするけど。
たくさん食わない限り大丈夫なもんは、他にナラタケ、ヌメリイグチ、トンビマイタケなんかがある。特にナラタケは、あの味を知っている人間にとっちゃ食うなって方が精神衛生上の毒になるくらい美味い。何だって適量食って幸せになるのが一番さ。
あー、ただ、その適量ってのが曲者かもな。
食うヤツの個人差ってのがあるんだよ。体質や体調なんかで毒性の影響が変わってくる。食われるキノコの方にも産地や時期によって個体差が出るね。
そんなだから国や地方で扱い方の変わるキノコも出てくる。
たとえば、シャグマアミガサタケは日本じゃ毒キノコで通ってる。毒は揮発性で、茹でたときに出たガスを吸っても危険な代物だ。でもな、学名にゃ「esculenta」ってあるんさ。「食用」って意味だよ。ヨーロッパじゃ、籠いっぱい入ったのが露天で並べられていたり、水煮の缶詰も売られたりして、ロルシェルの名前で親しまれてる。生煮えで食べて死亡した例もあるってのに、未だに美味しいキノコとして重宝されたまんまだ。まあ、私も食ってっけど。
逆に、外国で毒キノコ扱いなもんが、日本じゃ美味い美味いと食われているクリタケみたいなもんもある。実際、天ぷらにすりゃ最高だし、私も当たったことは一度もないぜ。ニワタケやゴヨウイグチも中国じゃ有毒ってなってるが、日本人の私はバクバク食ってる。問題はない。
え? 神社の宴会? ……ああ、あれか。私が持ち込んだキノコで酒のつまみをたくさん作ったんだっけ。でも、少なくとも私と霊夢は平気の平左で食い続けてたぞ。……他のみんなはって? あー、うん、そうだな、アレだ、死屍累々とだけ言っておくか。
いや、しょうがないだろ! 個人差があるって言った通りで、シモコシやキシメジみたく、広く食用にされていても死亡を含む中毒事件を起こしているキノコは珍しくないんだから。そう、何かと深いんだよ、この世界。
スギヒラタケってキノコがある。これは食べるにはもうほとんどアウトなヤツなんだが、それがわかったのはまだ十年ほど前のことなんだ。それまではずっといいキノコとされてきて、缶詰にもなってた。
転機になったのは、感染症に関する法律だったかな? それの改正によって原因究明が厳しくなって、結果浮かび上がってきたのさ、多数の急性脳症の原因にスギヒラタケが存在するってね。
腎臓に問題がある患者ほど重症化していることから、血球を破壊する毒性分が貧血を引き起こして腎臓障害を悪化させるとか、健康ならば正常な代謝で無害に薄められる毒が強いまんま残ってしまったとか、いろいろ言われて検証作業も続けられているが、まあはっきりしているのは同じような毒キノコの出現はこれからも起こり続けるってことだな。
何せ多くのキノコの毒性は、さっきの話からわかる通り、食べたヤツの症状が証明するんだ。食べては満腹の腹を撫で、食べてはトイレを抱え込む。その経験がデータとなって溜まってく先の未来に、新たな毒キノコが私たちを待っているのさ。
そんな未来は嫌だ?
ロマンあると思うけどな。日本には名前の付いてるキノコが三千種、付いてないものを入れれば一万種あると言われてる。そして、発見されてるものすら大方は素姓がはっきりしてない。ワクワクしてくるだろ? 深遠なる未開の領域を自らの手で明らかにしていくのは、宝探しの冒険をしに大海原へ繰り出すのに匹敵するぞ。
初見のキノコを五ミリ片に切り取って咀嚼して胃袋に落とし込むときの、ゾクゾクと這い上ってくるスリルと興奮。無毒か有毒か、己が身をもって確かめる! 鬼が出るか蛇が出るか、ベッドに寝込むかトイレにこもるか! はたまた菌糸に彩られた天国への門か! ああ、もう、たまらないな! ……ん? なんで若干引き気味になってんだよ。アリスと同じ反応すんなって。
そんでもな、こんな私にも食えないキノコというのはあるんだ。意外だろ。カエンタケやコレラタケ、ドクツルタケやタマゴテングタケなんかの猛毒キノコのことじゃないぞ。お前らが食っても特に危なくないキノコだ。
ヒトヨタケ。ホテイシメジ。その辺りが私にとっての鬼門だな。絶対ダメ。普通に美味いけどダメ。山で見つけたら、ちっともったいないが売っ払うかくれてやるかさ。
何故って天ぷらとスイカ以上に悪い食い合わせがあるからだよ。酒とは究極的に相性が最悪なんだ。
酒とドリアンの食い合わせについてはウナギと梅干しのそれと同じで迷信だったが、こいつについては本物だぜ。どんなウワバミをも下戸に変えて、悪酔いを引き起こしちまう。ほろ酔いなんて過程はすっ飛ばされて、即道端に倒れ込む泥酔者さ。飲んだら食うな、食うなら飲むな、だ。
「その日だけ酒を我慢すればいいじゃん」? おいおい、どこぞの鬼じゃあるまいし、私を毎日飲酒しなきゃ耐えられないようなアル中にすんなよ。あそこまで酒好きじゃあない。けど、さすがに一週間の禁酒はできない相談ではあるな。ああ、そういうこと。キノコの効能はそこまで長引くんだ。七日間血中に残った成分がアルコールの分解を阻害する。てなわけで、ヒトヨタケの類が私のお口の関所を通るには、私が酒嫌いになるまで待たないとならないのさ、ははっ。
さて、ここまで話してきて、わかったろう? 毒キノコかどうかだけ取り上げてもこんなに面白い。私とアリスの決定的な違いはやっぱりキノコなんだよ。「有毒かも」ってのみで十把一絡げに全部捨てちまうような性根じゃあ、この世の楽しさは味わえない。七色どころか灰色の世界に生きているようなもんさ。可哀そうなアリスはワンダーランドにやってこれない。
毒キノコは自分にとっては毒じゃないかもだし、毒を抜く方法もあるかもしれない。そもそも毒ってのが思い込みだったりしてな。いや、対処しようのない猛毒を持ってたってそれはそれで悪かない。未知のキノコが有毒かを確かめる過程もまた楽しだ。
私とアリスの違いは、そのまま私がここにいる理由にもなってるな。つまりは私が蜥蜴の提案に載った理由さ。
私が何を面白いと思うか。それを考えりゃ、不思議ないだろ?
おっ……ん、っと、もう時間か。了解、了解。
んじゃ、ちょっと野暮用で失礼するぜ。鍋は適当に食ってていいからな。
▲ △ ▲
「赤の女王仮説」というのを御存知ですかね。
いえ、決してあなたに関係ある話でも、ましてや当てつけでもありませんよ、スカーレット嬢。
ここでの「赤の女王」というのは「鏡の国のアリス」の登場人物です。彼女の言った台詞に「その場にい続けるためには、全力で走り続けねばならない」といったものがありまして、それから名付けられた進化に関する一つの仮説です。
簡単に言えば、この先生き残るためには進化し続けなければならないというものでしてね、たとえばコウモリと蛾の関係でいえば──あー、いえ、本当に当てつけとかじゃないですからね。まさか高名なヴァンパイア相手に──閑話休題、コウモリが超音波の反射、エコーロケーションを利用して暗闇の中をも飛び回れるのは有名ですが、それによって捕えられている蛾もただ食われるだけの存在のままではいなかった。対抗するための進化をするわけです。
コウモリの発する超音波を聞きとる聴覚を獲得したり、身体に細かい毛を生やして超音波を吸収したり、とっさに動きを止めて舞い落ちる木の葉のフリをしたりする。五分の魂もなかなかやるでしょう。すごいのになると妨害音波を発する。絶え間なく蛾から発生する音波は、コウモリの距離感を狂わせて捕食対象を見失わせる効果があるんです。
ところが、さらにそれに対抗するコウモリも現れてきた。発する超音波を小さいものとしたんです。エコーロケーションを弱めるわけですから明かりを松明から蝋燭にするようなデメリットはあるものの、これで本来30メートル以上離れた所から蛾に察知されるのを3メートル近くまで察知されないようにできた。蛾は対抗措置を取る余裕もなく、コウモリの胃袋に入ってしまうことになる。
コウモリ is win! まあ、でもいずれ、さらにそれに対抗する蛾も現れてくるんでしょうね。
え? 「お前がしゃべくり散らかすのも、私から逃れる意図があってのことか」って? 恐ろしいこと言いますね。あからさまにそんな素振りを見せたら、サヨナラするといってもこの世からのサヨナラになっちゃうでしょうに。うかつに「はい」と答えるのを期待されてもお応えできませんよ。
とはいえ、お二人どちらかの知人の声真似をして惑わすのも、蛾の手法の応用としては面白いかも……「対抗策としてここから先はささやき声で話すことにしようか」? あはは、そういうミステリアスにロマンチックなのは日が落ちてからということで。
ともかく、このようにして生存競争を勝ち抜くために全力で進化するというのが「赤の女王仮説」の概要です。
ですが、これ、いかにも人間側の視点で作られた説だと自分は思いますね。
そもそも生存競争という言葉自体が人間視点でしょう。別に生き物は競争しているつもりはないんですから。ただ生きようとして頑張ってるだけで、人間のやってる「競争」とはまったく別物です。
人間のやる競争で、生きるための必要に迫られてやってるものってありますかね。偏差値を上げたり、ホームランを何本も打ったり、月に行ったりすることは、果たしてやらなければ死ぬものですかね。
必要のないゴールを設定して、ヨーイドンさせて、順位を付けて、劣等感を生んで、差別を作って。そんなことをする生き物は他にいないでしょう。多少の競いはあるにせよ、人間レベルで行う生き物はいませんよ。
ああ、勘違いしないでいただきたいのですが、自分は人間の行う競争を否定するつもりはありません。お二方もそうでしょう? でなければ、弾幕勝負を受け入れてはいない道理ですからね。あの競い合いは楽しい。一年の準備期間を置いてでもやりたいと感じる。
でも、他の生き物と同様、この「沼」において競争というものは必要ないはずなんです。あらゆる競争において万年ドベで、日常的に差別されてる者たちが「沼」の住人なわけですからね。そんな「沼」に競争を持ち込むなんてのはバッドな選択でしょう。
長が皆に与えた価値観は「生きていさえすれば勝ち組」という、人間を除いた全ての生き物が有するそれです。生きることにのみ精力を注いでいればよく、人間その他の設定した「競争」は意識の外にやってしまえというものです。
ところがですよ、長は自分がここで弾幕勝負をすることをわかっていながら止めようとしない。というか、そうなるように仕向けていたんじゃないかなと思っています、最初から。
弾幕勝負をここでするということは、「沼」の住人を「競争」に関わらせることになるんですよ。大勢の目に触れさせるというだけでなく、この勝負を設定するのに多くの手を借りている。蜥蜴一匹の範囲じゃ済まなくなっているんです。
一体どういう意味がそこにあるのか。何の意図があってのことか。
意味なんてないかもしれませんし、あったとしても周りの反応を見て面白がるだけの下らないものかもしれません。でも、意図が読み取れないのはどうにも気持ちが悪くて、ええ。
何か見当が付きますか? 下々の考えは図りかねるでしょうが、せめて手掛かりだけでもいただければありがたいです。自分もあれこれと思考を巡らしてみたのですが確定的なものはつかめず……
っと、……あぁ、了解。お疲れ様。
残念、宴たけなわではございますが、タイムリミットです。時報が蠅ちゃんからの虫の知らせで告げられました。謎は謎のまま残っちゃいましたね。
さて、それでは自分の杯にお酒を注いでいただけますか。表面張力が働く限界までお願いします。
あ、どうもどうも、ありがたいことです、ととと……では、こぼれないうちに…………ふぅ。
美味しくいただきました。杯を空ける際の無防備な喉にナイフが刺さらなかったのは、もてなす側からの酒の要求を無礼と判断なさらなかったということですね。お察しの通り、「どうぞなみなみ注がしてくおくれ」という洒落で、手向けの酒をいただいたわけです。
あはは、せいぜい「人生」が「サヨナラ」しないように頑張りますよ。相手が誰かを考えると、なかなか難しいことではありますがね。
自分は底辺の弱者なので、誰であろうと厳しい勝負になるのは決まり切っているのですが、今回は輪を掛けて特別です。もったいつけているようですが、こう述べると期待感湧きません?
といっても、もう予想がついているのではないですか、相手。わかりやすいヒントも出しましたし。
要するにあれです、「花に嵐」
▲ △ ▲
自分が先頭となって紅魔館頭首以下その場の全員をぞろぞろ引き連れていくのは、ハーメルンの笛吹き男になった気分だ。あるいはレミングスの先頭。
いずれにしても付いていったらロクな目に遭いかねないって、みんな知っているんだろうかねぇ。もっとも、張本人が先導してて言えた義理じゃないんだけど。
紅魔館や白玉楼の実力者が鎮座する酒宴に参加するのと同様、「沼」の住人達は怖いもの見たさでいるようだ。でも、蜥蜴の対戦相手がどんなだかワクワクしてる呑気さには、「底辺のくせに猫以上に強いと思ってるのかい?」と言いたくもなる。好奇心に殺されちゃうぞ。
午後の木漏れ日を浴びて、木々の回廊を歩いていく。草は刈り取られているが、道端はシダなどで緑に彩られている。「グリーンマイル」を連想したが、ネタとして使うなら足下の砂利は苔に換えてないといけなかったな。刑場では感電死することもないだろうし。
風はなく、背後のざわめきと足音だけが耳に入る。沈黙の間を埋めようと軽口の内容を選別していると、向こうから声を掛けられた。
「私の予想通りであれば、『よりによって』という相手だな」
斜め後方にいるレミリア嬢の顔は、言葉とは裏腹に面白そうだ。骨を折った甲斐があった。
「よくここに呼べたものだ。色仕掛けでも使ったのか」
「いえ、腕づくで連れて来たんですよ」
くだらない冗談には同レベルの戯言で返す。本当にそれをやったら、骨を折るどころの話じゃない。粉骨砕身、心頭滅却をリアルに体現できてしまう。
くっくと笑って、吸血鬼は言った。
「強い相手を探していたのなら相談に載ってやったのに。我が妹などはお前の話を聞いて、相当に会いたがっていたぞ」
「私はお祭り好きな小鬼に心当たりがありますわ」
「いやー、お気持ちはありがたいのですけれど、片や紅魔館のご家族、片や博麗神社の客人、そうそう手を出すような真似をしたら自分が罵られてしまいますよ、鬼だ悪魔だと」
これはお為ごかしもいいとこで、その二名を候補から外したのは舞台に上げるのに不適当と判断したからだ。
悪魔の妹様は行動がカオス過ぎて、突発的に舞台ごと破壊されかねない。そこまで予想して台本を描く天才演出家もいるかもしれないが、自分には荷が勝ち過ぎる。
鬼の一族の末裔だと、逆に真っ直ぐ過ぎてダメだ。過去に相撲を挑んだのは楽しめた一戦ではあったけれど、ハカリゴトを一切仕掛けてこず、ハカリゴトに一切備えないというのは、もう自分の食指が動かない。その上、イレギュラーも起こり得ないとなると、観客は楽しめないだろう。
楽しませる。これが第一義だ。来賓の吸血鬼を楽しませられなければ自分の命が危うくなるわけで、今回の対戦相手を設定したのはどこまでも自分のため。
もっと言えば、楽しませるのは、相手でなく自分が第一に来る。「人生楽しんだもの勝ち」という主義でこれまで生きてきた。自己も他者も全部その基準で量る。とことん自分本位だと、自分でも思う。まともな死に方はできないだろう。まあ、まともな死に方のできるような生き方はまっぴらご免だがね。
会場に着くと、「ほお」とレミリア嬢が声を上げた。
木々を囲みとする大きな広場。そこは白一色だった。まぶしさに目を細めて、言う。
「雪です。氷を削ったものとかではなくちゃんと降らせたものですが、自然の降雪を待つには時期が合わないので、」
「白玉楼がかつて起こした異変か」
「ええ、その力を貸していただきました」
雪面は午後の陽光を反射している。ベチャベチャに溶けている様子もないのは、ここで局地的に「冬の気」が満ちて、地面そのものも氷点下まで下がったからだ。
並大抵の力の持ち主ではできない芸当だ。氷精ちゃんでも全面霜柱を立てるくらいが限界だった。
この白銀の世界が成立してなかったら、塩や石灰を大量に用意して撒くという、手間の掛かり風情に欠ける方法を取っていたかもしれない。
そんなでなくて本当に良かった。沼の住人たちは広場の周りに散開しながら、ちょっとした雪原に目を輝かしている。ここを見るのはこの時が初めてでもないだろうが、改めて感慨を抱いているみたいだね。いやいや、ほんと、良かった。
でも、ね、この真っ白なキャンバスに描かれるのは、「地獄変」も真っ青の地獄絵図かもよ?
業火に焼かれるのは蜥蜴本人にしたって、火の勢いからするとまきこまれてグリルされちゃう危険性が大だぞ?
蜥蜴のステーキの添え物となる前に退避することを勧めるべきかもしらんが、まあ、敢えてアナウンスする必要もないか。
生物の本能がまともに備わっていれば、この後自主的にロケットダッシュで逃げ去るだろうから。
のどかな青い秋空に黒い影が浮かぶ。普通の魔法使い、霧雨魔理沙だ。
箒にまたがって降りてくるのに合わせ、自分は「では、失礼します」と来賓に頭を下げてから、舞台中央に歩いていく。裸足の底面がちべたい。後ろから声が掛けられた。
「良い剣劇を期待してるぞ」
「安心して死んでくるといいですわ。亡骸はきちんとその場に安置して、厳粛に風葬を取り行いますから」
「メイド長さん、それは野ざらしを丁寧に言い換えただけでは?」
誰も足を踏み入れてない雪面にさくさく足跡をつけて、緑の爬虫類は衆目の中、広場の真ん中に立った。
「連れてきたぜ。これにて業務終了だ」
魔理沙嬢が箒の上から手を出す。被った黒の三角帽子に焼け焦げが認められた。お疲れ様、ですな。
「じゃあ、お約束の品を」
懐に手を突っ込み、小冊子と折りたたんだ地図を取り出して渡す。
黒服の少女はその場でパラパラと小冊子をめくって感嘆符を発した。
「わぉ、すげーな! こんなところでオオシロアリタケが手に入るのかよ! セミタケ、ハチタケ、サナギタケ──冬虫夏草もよりどりみどりだ!」
「おわかりかと思いますが人工的な育成も用いてます。でも、オガクズ栽培よりは天然物に近いですよ。冊子に記載された『沼』の領域のキノコは、どれも事前に言ってくれれば採集も可能なんで、いつでもどうぞ。長の許可は取ってます」
「ありがたいね。期待以上のもんだ」
満面の笑みで手にした物を抱え込むと、宙を横滑りして離れていく。前方に顔を向ける直前に、言葉を投げた。
「この後の勝負も楽しみにしてるぜ。少なくとも私以上のことはやってみせろよ」
そうして観客の居並ぶ木々の縁へ、黒衣の姿を紛れ込ませてしまった。
残された蜥蜴は、ポツン、と一匹。白の平面の染みのようになる。
と、ふいに顔を上向けた。観客の視線もつられて青空へと向く。新たな人影があった。
一同の瞳に映るのは、白い日傘、緑の髪、赤いスカート……
司会として、右手を天に掲げて声を張り上げる。
「不肖蜥蜴の対戦相手! 本日の特別ゲストをご紹介します! 『四季のフラワーマスター』風見幽香さんです!」
瞬間、場が凍る。耳がキーンと痛くなるほどの静寂。それもわずかのことで、
「馬鹿だぁああああッ!」
誰かが叫んだ直後、天地をひっくり返したような阿鼻叫喚が巻き起こった。
大勢が四方八方にほうほうのていで逃げ去っていく。四分五裂、いや、相手は花の妖怪なんだから七花八裂と表現した方が適切かな。
それにしても、馬鹿って酷いな。最悪の災厄を引き込んだ蜥蜴に対しての言葉だとは思うが、いくら何でも、ねぇ?
馬鹿なんてもんはとっくに超越したイカレポンチだよ、自分。今更ながらにそのレベルで語られても困る。
風見幽香。幻想郷の最強にして最凶と言えば彼女を置いて他にない。まともな神経の持ち主なら目の端に入れることさえ全力で避ける妖怪だ。
そんな存在にわざわざ喧嘩を売るって何だって話。しかも相当の手間暇掛けてまで。評するに「ただの馬鹿」じゃあ役不足だろうさ。そいつはもっとまともな人物を評する役に回してくれ。
幽香嬢が目の前にまで降りてくる。薄い笑みを浮かべて、しかし微かに眉根を寄せて、赤い瞳で蜥蜴を貫く。うはっ、威圧感半端ない。提案できるならしたいとこだよ、「2メートルほどの間しか隔ててないのじゃプレッシャーが胃腸にくるんで、観客席から話してもいいですか」って。
ここに来るのは初めてだろうに、未知の場所を訪れる躊躇など微塵も感じられない。この場にいる誰も、いや世界の事物の全てが自分を傷つけることができないと知っていれば当然の態度か。気分を害するものもあっさり排除できるし。何となれば、この場一帯を消滅させることも朝飯前だ。
いかにも圧倒的。いかにも最強。
この恐ろしい力を持つのが花の妖怪だというのは、タチが悪過ぎて笑えてくる事実だね。「綺麗なバラには棘がある」なんて言葉があるが、当てはめようにも枠外だ。棘のレベルが針山地獄だからな。個人的には、意思を持った巨大な食虫植物が重火器で武装してるように見える。
最高位の戦乙女が最低位の蜥蜴男に台詞を落とす。
「初めまして。と言っても会うのは二度目かしら」
「そうでしたっけ?」
内容にデジャヴを覚えつつ答えるが、別にとぼけているわけではない。自分にしてみれば、何度も会っている。彼女にとっては蜥蜴を目にするのは言葉通り二度目なんだろうけど。
「私の花畑でふざけた真似をしてくれたわね」
「そうでしたっけ?」
同じ台詞。ただ、こちらについてはとぼけている。
「ああ、そう言えば以前、向日葵の群生地に迷い出たことがあります。あまりに見事な大輪でしたので創作意欲の刺激されたことを覚えてますが、まさかあなたのテリトリーだったとは。それはそれはお邪魔いたしました」
「お邪魔した? 始めから邪魔しに来たのでしょうに」
「花なだけにハナから? まさかまさか、創作に没頭していたところ突然の轟音に驚いて置き忘れてしまった自分の芸術作品が証拠ですよ。他意なんて全然」
いやー、白々しい。体色は緑なのに白々しい。でも、この言い訳を完全論破できない限りは、言い訳は言い訳として通用する。
果たして風見幽香はそれ以上の追求は止めた。そして別の攻め手を指す。
「蜥蜴の足りない脳でも、一連の行為は当然私が誰だか十分理解した上でのことなのよね?」
応じる言葉を繰り出す際、ふと、徳川家康のエピソードが脳裏に浮かんだ。
彼は家臣一同にあることを質問したのだった。内容は「一番美味い食べ物は何か」
自身の好物や各地の名物などあれこれと答えが出てきた中で、ある側室が言ったのはこんな言葉だった。「それは塩でしょう。塩がなければどんな食べ物も味気ないものです」
大いに感心した家康は次いで問う。では一番不味い食べ物は何か、と。彼女の返答は家康にさらなる感嘆を生じさせた。「それも塩でしょう。入れ過ぎてしまえばどんな食べ物も台無しになります」
さて、この話の教訓は何か。
塩は料理の要として良くも悪くも働く、というのではもちろんない。そんなのは表層しか見てない。骨子はこうだ、「相手の望む返答が最良の返答」
シンプルかつ含蓄に富む、ユーモアとオリジナリティ溢れる返答を家康は望んだのであって、そうであれば別に塩でなくとも水や愛情など挙げるものは何でも良かったのだ。
さて、それでは風見幽香の質問に立ち返るが、彼女が望んでいる返答はどのようなものか、正確に把握する必要がある。
誰もが恐れおののく力に対して蜥蜴も恐れおののいている──それを明らかにする要素は、望む返答には欠かせないだろう。
仮定としてある「舐めた態度」を解消すれば、左右の眉根は通常位置に戻る。逆に「舐めた態度」を確信させれば、死亡率が飛躍的にアップだ。
十分に言葉を選んで、返答する。
「最強の呼び声が高いのは知ってますよ。本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございました」
言外に「負けたからここに来たんでしょ? 最強のくせに」と述べる。うん、述べてしまった。なまら失礼。
そのようなことを述べられた風見幽香の表情は──深まる笑み。
良かった。穏やかな、かつユーモアを解する性格のようだ。って思えたら幸せだろうなぁ。実際は肉食獣が獲物を前にしたときの笑みだよ。怖や怖や。
発言を誤ったわけじゃない。自分にとってはベターな選択だろう。だって、こちとら楽しむために生きているんだ。敢えて無難な路線を行く手はない。エンターテイメントにはスリルとサスペンスが要り用なのさ。観客だってそちらが望ましいだろう。ピエロ兼スタントマンが兼死体役とならないよう足掻く様をとくと堪能してくれ。
そういえば、観客、思ったより減ってないな。ようやく騒ぎが落ち着いてきた中でも、視線の数が相当残っている。
紅魔館や白玉楼の面々、霧雨魔理沙氏のことではもちろんなく、「沼」の住人達のことだ。
全身をさらして真正面から見ている者はさすがにいないが、木の陰から、茂みの中から、遠い空からと、それでも蜥蜴と最強妖怪を視界に入れている。危険領域に入り続けている。
意外だな。長らく平和な生活が続いたんで、危機意識が鈍ったのかね。地へ降りた小鳥ほどに過敏なのが取り柄でしょ、君ら。それすら失ったら、命も失うハメになりかねないぞ。
飛び火が広範囲に渡るほどの煽りは事前から存分にしてあるからな。
ばっちりデコレートした招待状でもって幽香嬢をお招きしたわけじゃないんだ。ヒマワリ咲き乱れる太陽の畑。その幽香氏のテリトリーにおいて、キノコで取引した霧雨魔理沙氏に弾幕勝負を挑ませ、その結果で引っ張ってきたんだ。
風見幽香に勝ったほどの強さなら、霧雨魔理沙を対戦相手に選べば手間なくて良かったって? いやいや、そんな単純なものじゃない。
そもそも弾幕勝負というのは、かけ離れた力の差があっても勝ちの目を残しておくのが暗黙の了解になってる。その上で魔理沙氏は辛勝したんだ。弾幕勝負では百戦錬磨の魔法使いがかろうじての勝利だぞ? 幽香氏の持つ最強の名が揺らぐことはない。
あと、盤外のトラブルに魔理沙氏が助けられたということも考慮に入れておく必要がある。ラストの撃ち合い直前に、幽香氏は目にしてしまったんだな。茎の真ん中から手折られたヒマワリ一本、無造作に手にしている蜥蜴一匹を。それで目測やタイミングを誤り、攻め手を外して受け手を損ねた。
決着の後、蜥蜴の姿はなく、ヒマワリはうち捨ててあってそこにあった。このヒマワリが本物だったら、蜥蜴は愛する花を傷つけた大罪人として草の根分けても探し出され、各種拷問の末に粉微塵となっていたろう。が、実際は緑と黄色の紙で作られた造花だった。こうなると無闇には怒れんわな、たとえ見え透いた言い訳だとしても。
カメレオンの能力で忍び込み、潜んで、打ち合わせ通りの頃合いで姿をさらす。油紙で包んで衣服と共に胃の中へ仕込んでおいた造花も、これ見よがしに掲げている。酷い工作だ、二重の意味で。イラつくのも無理はない。
今目の前にいる最強の花は、下等な爬虫類風情にしてやられた溜飲を下げようと、今か今かと機会をうかがっている。
自分の応対は「棒倒しを旨とすべし」だな。つまりは、死亡フラグを立てつつ、ギリギリのギリギリでアウトにしない。
風見幽香は日傘を差してない方の手を緑の髪にやり、言う。
「こんな場所に呼びつけて、相応の覚悟はできているということね。ああ、髪の毛がここの空気で指通り悪くなったわ。どうしてくれるのかしら」
「いい場所でしょう? 潤いがあって、自然豊かで」
「泥臭いうえに陰気臭い。観光スポットとしては最低の部類ね。こんなところにお越しくださいまして申し訳ありません、の一言くらい土下座で述べてもいいのじゃないかしら」
「『一も二もなく山紫水明、四の五の言うなよ、ロクデナシ』」
「聞いたことのない都々逸ね」
「今作りました」
「そう、蜥蜴さんは喧嘩を売っているのね」
「いえ、ここ『沼』でもかなりの花々が咲いていて是非紹介したいのはありますけど、今のは単なる言葉遊びです。他意はないので、そこは軽く『七面倒臭いことを』とでも返してくれれば良かった」
幽香の笑みがさらに一段深くなる。同程度、こちらに懸かる死の陰が濃くなった。
まったく地雷原でタップダンスを披露する心持ちですな。だけれども、相手は堪忍袋を起爆させないだろう。たとえそれが揶揄であろうと、ユーモアに芸のない暴力で返せば、エレガントさに欠ける脳筋扱いを受けるからな。意に介さないのは知性もプライドもない者だけ。あなたはどちらも持ち合わせているよね、幽香さん?
と、午後の陽光を浴びる傘が閉じられ、その先端がこちらに向けられた。
「じゃあ『八つ当たり』でもしとこうかしらね」
光るものを視認した瞬間、視界が真っ赤になる。激痛でだ。幽香嬢の光線により、左足が太ももの真ん中で切断されて後方へ吹っ飛ぶ。音は体内を反響する振動として知覚された。
どこに攻撃を受けるか予想できていたら神経接続を遮断しておいたのだが、無論そんな暇もなかった。めっさ痛い。
やられたな。ユーモアを交えた暴力で返された。
肉の焦げる香ばしい匂いが鼻腔を虐める。脳内で猫耳のメイドがしなを作った。『お待たせいたしました、蜥蜴のレアステーキです』。……血の滴るような事態が、傷口が焼き潰されたことで防がれたのは不幸中の幸い、でもないな。再生に時間が掛かる。痛みが長く持続する。踏んだり蹴ったりだ。
風見幽香は片足で案山子のように突っ立っている蜥蜴を見て──相変わらずの笑みはこちらの感情を意に介さないからか。いや、意に介しているがゆえかな──言葉を放る。
「反応するまでもない? それとも反応できなかったのかしら」
「余りに美しい弾幕だったので見とれてました。あ、今のは『クジュウを飲まされた』というオチを付けた方が良かったですかね?」
激痛にも歯を食いしばらずに軽口叩けた自分へ拍手したい。
メイド長に全身くまなくナイフで貫かれた経験が、痛みの耐性を鍛えてくれたのかもな。やってて良かった苦悶式。
顔を横に向けると、白い地面に点々と続いた鮮血の軌跡をなぞって、左脚がこちらに戻ってくるのが目の端に見えた。緑の鱗と白い肌のゴンブトな物体が膝を曲げ伸ばしし、さながら歪な尺取虫だ。
「聞いた通り、身体から切り離されても遠隔操作が可能なわけね。それを止めるには頭を撃ち抜けばいいんでしょう?」
「心臓を撃ち抜いても同様です。行動不能になる。ああ、でも、どっちも試さないでくださいね。再生に時間が掛かるので、試合開始時間に支障が出ます。万一、頭と心臓両方やられちゃうと、再生もできずに死にますし」
「お楽しみは次に取っておけということね」
顔の真正面へと向いた傘の先端が、ようやく下りてくれる。
手の届くところに我が左脚が戻ってきたので、断面同士を合わせて再生の作業に移る。焼けて死んだ細胞を切り離すのがちょいと手間だが、その分ゆっくり話ができるということで良しとしよう。死にそうな痛みも、やや慣れも入り緩和されて、死にたくなる痛みぐらいにはなったし。
「じゃあ、代わりに他の能力を見せてくれない? 蜥蜴らしく、血の涙を流し過ぎて出血多量で死ぬとか」
「確かにサバクツノトカゲが目から発射する血液は体内の三分の一の量にもなりますけど、自分の出血大サービスであなたを汚してしまっては申し訳ない。血で血を洗うとは参りませんし、せっかく知りあったのに『赤』の他人にしてしまうのはどうもね」
霧雨魔理沙が風見幽香に蜥蜴の能力解説をするのは、依頼の一つに入っている。ふざけた真似した蜥蜴をどう料理してやろうかと、幽香嬢は情報を頭に刻み込んだだろう。先ほど足を吹っ飛ばしたのは情報の正しさの確認が第一目的だったかもだ。
「爬虫類全般の能力で良ければ、既にお見せしていますよ。爬虫類は変温動物なんで、こういう雪の上などでは動きが鈍るところ、自分はオサガメの能力でこれを防いでます」
「オサガメ?」
「熱帯の亀ですが、北極海周辺まで回遊できます。水深1000メートル以上も潜水でき、その低温にも耐えられる。体内に発熱器官を備えているがゆえのことですね」
「難儀なこと。そこまでして身体を温めなければならないなら、せせこましい雪原なんて用意しない方が良かったのではなくて?」
「それについては後ほどご説明しますよ。あなたと勝負するには必要な舞台なんです」
その言葉に、風見幽香が表層限定の笑みを消した。──実際のところはわからない。そういう印象を受けたというだけだ。笑みは笑みのままではある。
「本気なのね」
「はい?」
「聞けば聞くほど耳を疑ったのよ。弾幕も撃てない、空も飛べない、そんな輩が私とやり合おうなんてね」
「ここに来て確信が得られましたか」
「ええ、正気を疑っていたのが、狂気を確信するようになったわ」
「それはどうも」
当然だな。「最弱が最強に挑んだのですが、どう思いますか?」と聞き取り調査をしたなら、百人中百一人が同じように評価するだろう。プラス一人は本人だ。
けれど、盲目の棋士だってその名のついた戦法を後世に残せるし、質の低い蒸留酒も飲み方次第でムーディーに酔える。やりようはあるのさ。
左太ももから手を離し、パチンと叩く。
「ふう、やっとくっついた。強度を上げとけば良かったかな。千切れ飛ぶまではいかなかったかもしれない」
「身体の強度を硬くも脆くもできるのだったわね。でも、私のを受け切れるなんて思い上がれるほどの能力ではなかったはずだけど」
「言ってみただけですよ。さて、それでは五体満足になったところで、ルール説明に移りましょうか」
「蜥蜴にとって脳の障害は五体には入らないわけね」
「あはは、そこは治さなくてもいいでしょう。『紙一重』と言われているのだから、奇貨として置いておくのが良策です」
こめかみをつつきながら減らず口を叩いて、美女の呆れ顔を獲得する。
周囲の騒ぎもすっかり収まったようだ。観客たちは一様に口を閉じてこちらの会話に耳を傾けている。
幽香嬢と対面した時から自分は発声を大きく、一言一句の滑舌を明瞭にしている。不自然なくらいに。子役の演技くらいに。大げさな身振り手振りを付け加えてもいる。
幽香嬢との会話が周りに伝わりやすいようにとの配慮だ。自分で楽しむことも大切だが、それだけでは舞台に立つ役割を果たしているとは言えない。
ここまでのことは他愛ない会話のように見えて、自分のスペックの提示になっている。まあ、改めて言わなくてもほとんどの者が知っていることではあるから、いくらかの騒がしさがあってもそれほど気には留めてなかったけれど……ここからの前説はしっかり聞いてもらわないと面白さが半減する。
「ご存知の通り、自分は弾幕は撃てず、空をも飛べず、かといって肉弾戦を挑もうにもお話にならない貧弱さです。ですので、特別ルールでの弾幕勝負を提案します」
「聞いてはいるわ。けれど、ちょっとやそっとのハンデでまともな勝負になるとは思えないわね。まさかボードゲームでも持ち出すつもり?」
「将棋盤で良ければ今すぐ用意できますけど」
「面白くない冗談ね。リザード・ジョーク?」
「そちらから言いだしたことでしょうに。ついでだから言いますが、先ほどからこちらのことを蜥蜴、蜥蜴とお呼びになってますけど、自分にはちゃんとした名前があるんですよ」
「『ソレ』とか『アレ』とかかしら」
「もうちょい立派ですね。『セッカーマ・デラカチク・ブンゼ』という名です」
「へえ、そうなの。聞いた瞬間に記憶から消えたわ」
「構いませんよ。『全部口からデマカセ』なのでね」
HAHAHAと笑う。これぞリザード・ジョークだ。……うーん、ちょっと寒かったのか、風見幽香の笑みがさらに冷たくなり、場の空気が一層のこと凍る。冷えるのは足元だけで十分なのにねぇ。HAHAHA。
死亡フラグを氷柱のごとく成長させたところで、そう言えば、気になっていたことがあった。話がずれたついでに聞いてみよう。
「ええと、付かぬことではありますが、地面に降りないんですか?」
雪面に幽香嬢の足裏の影が映っている。話している間じゅう、ずっと宙に浮いていたのだった。
「花の乙女となれば『浮いた』話の一つでもあるかもしれませんが、老婆心ながら地に足を着けて生きた方が良いですよ」
「汚れたくないのよ。既に汚れているあなたと違ってね」
「賢明と言えば賢明ですがね。そこらじゅう穴ぼこだらけなんで」
言うまでもなくミョニョコンに掘らせたものだ。流れによっては落とし穴として使おうと目論んでいたが、その用法は消えたか。
「わざわざ呼びつけた割にはとんだ安普請ね」
「住居として見ればそれなりに快適ですよ、ミミズとか黒ダルマとかには。けれど、試合会場として見ても仕掛けだらけのそれってことで面白いもんじゃないですか?」
「その仕掛けにはあなたが勝手に載りなさいな。私はこのまま羽化登仙といくわ。酒宴の席にはふさわしいでしょ」
「了解いたしました」
慢心なく警戒してきたか。まあ、霧雨魔理沙との協力卑劣プレイで罠に掛けたから、以後素直に正面からお出でくださるなんてありえないんだけどね。
「では、話を戻しまして。この会場で行うあなたとの勝負はですね、もちろん将棋などではなく、」
足元の雪を右手ですくって、左手を被せる。
「雪合戦です」
丸めてできた雪玉を見せた。
「ちょっと」
「ああ、いえ、冗談ではないですよ。これについて、自分は先ほど述べた自分の能力をフル活用します。あなたも全ての能力を用いて構いません」
「へえ」
抗議の声だったものを感心に変えたところで、後ろ手に放った雪玉を前でキャッチしてから、説明を続ける。まったく、わざわざ呼んでおいて子供の遊びを持ちかけるなんて自殺行為、行うわけがないだろうにね。固唾を飲んで見守っている観客の方が、まだわかってる。
「弾幕勝負は弾幕をよけ、当てた方が勝ち。しかし、自分は弾幕を撃つ力はない。そこで、今回は雪玉のみを有効な被弾・着弾と見なして勝負をします。これならこちらとそちらとは五分の条件になるでしょう、花の妖怪に『雪玉を作り出せる程度の能力』でもない限り」
「いくら通常の弾幕を撃ち込んでも勝負はつかないのね。あら、それっていくらでも撃ち込めるってことじゃない?」
空恐ろしいことを言う。
自分は宙で横回転させた雪玉を、右人差し指でつつき、左人差し指に載せた。そうですね、と何でもないふうに応じる。
「ただ、勝負はどちらかが死んだ時点で打ち切りですから。あまり気張りすぎて開始直後に心臓発作でも起こされますと、引き分けということになってしまう。気をつけてくださいね」
これで無闇に殺してくる手は封じた。「最強」が蜥蜴相手に引き分けなどという不名誉な称号を得たいはずもない。たかが遊び? プロ野球選手が子供相手に障害物競争で負けても、屈辱は一切感じない理屈かい? プライド皆無なら話は別だが、相手は気高き花の妖怪だぞ。
「終了の条件は他に四つ。手持ち五つの玉が互いに尽きるか、尽きる前に勝ち負けの差が決するか、反則負けが生じるか、敗北宣言が為されるか」
「すぐに白旗を上げて引き分けにするなんて無しよね?」
嫌なツッコミだ。
「それだと引き分けでなく負けですよ」
「でも、そう喧伝することはできるわ。『風見幽香相手に生還した! 一発ももらわずに!』なんてね」
「白旗の件、ルールに抵触はしませんが、自分はゲームを投げることはしませんよ。大勢の気分を害することになる」
つまりは、花の対戦者に殺された後、赤の観戦者に殺されるという踏んだり蹴ったりな事態になってしまう。死体蹴りは勘弁だ。
今更ながらのことを確認してきた幽香嬢に対して、言わずもがなの意趣返しをしてやる。
「ですから、いきなり『参った』なんて言わないでくださいね」
「口が減らないのね」
「縁起担ぎですよ。『減る』は『HELL』に通じる」
「本当に減らないのね」
蜥蜴の態度にもだいぶ慣れたのか、どちらかと言えばスルーされた形の応対だった。挑発の度合いをもう一段階上げようと誓いつつ、ルール説明を進める。
「雪玉の手持ちは五つと言いましたが、もちろん始めから五つ持っているのではありません。かさばって動きにくいですからね」
多くの雪玉を抱える仕草をし、手の中の雪玉をポロリと地面に落とす。両の掌を上にして、OH!ミステイク!のジェスチャー。
新たに雪をすくって丸めながら言う。
「身軽に無手からスタートして、勝負の中、一つ一つ作ってもらいます。形はいびつでも構いません。握る動作をして形成されたものはみんな雪玉と見なされます」
「そう」
彼女は視線を外して、周囲を見やる。察しがいい。ゆえに理解したろう。これは風見幽香にとって大きなハンデだ。それも偶然ではなく意図的に用意された。
他にもいろんなハンデを負ってもらうことになるが、とはいえそれら全部ひっくるめたって力の差が埋められるもんじゃない。喩えるなら、障害物競争において同じスタートラインに立ち、しかし、相手はスポーツ選手、こちらは子供で、盲目で、両腕が肩から無い。そんなとこだろう。いくら調整しようと世の中は平等にできていない。
「わかったわ」
果たして幽香嬢は条件を飲んだ。それでこそだ。瑣末な足かせにこだわっていたのでは最強の名が泣く。最強の妖怪は王道を歩む。
「握るのは片手でもいいのね」
それでいて慢心なくルールを把握しようとするんだからね、流石だよ。
その通りです、と頷く。
すると今度は、傘の先端が先ほど落とした雪玉を指した。
「再利用は可能?」
いやはやまったく慧眼ですな。
拾い上げ、持っていた雪玉とギュムッと合わせて一つにする。
「可能ですが、改めて握る動作を必要とします。その際は、持ち球の残り数が一つ減りますね。雪玉は自分の手以外のものに触れた時点で、ただの雪以上の意味を持たなくなります」
「自分の身体に当たったらどうなるの」
「持ち球は一つ減ります。ただ、失点にはなりませんね。自殺点は存在しません」
「雪玉が投げた後、割れて分裂した場合は?」
「何かに当たる前に宙で二つに割れたら、持ち球を二つ使ったことになりますね。無数に散らばってしまったら、アウト。言いそびれましたが、持ち球五つの数を超えて六つ目を投げてしまうと反則負けになります」
ルールの理解を表面的なペラいものにしてくれたら、それをヒラヒラ振って、猛牛を翻弄して見せたのになぁ。幽香嬢、胸はともかく習性まで牛というわけではないか。
聞かれてないことまで自分はしゃべっている形だが、口にしなければ間違いなく質問してくる内容だから説明しているんだ。相手は一を聞いて十を知るような知性の持ち主だと、察せないほどこちとら愚鈍じゃない。出し惜しみしてると、不必要に警戒される上、余計な手間が掛かって場が白ける。
ならばむしろしゃべくり倒すほどにしゃべくるさ。煙に巻きつつ、盲点を見極めてやる。
「握る、という行為をしなければ持ち玉と見なされませんから、雪をすくって目潰しとしてぶつけても負けにはなりません。その気になれば雪だるまを作成・投擲も可能ですよ。そこらの枝で目鼻を付けるのも、ルール上は自由です」
「勝負の場はどこを境界とするのかしら。場外に出たときの措置は?」
「ここが中心にはなりますけど、場外というのは設定してなかったですね」
「へえ、いくらでも高く飛んでいいのね」
「禁則事項にはなりませんね。同様にいくらでも深く潜るのだって可です」
数瞬、視線で会話する。
──高みからいたぶれなくて残念だわ。
──それくらいは想定してますよ。別の手をお考えください。
──あなたも逃げられなくなったけどね。
──逃げるつもりもないですし、逃がすつもりもないでしょうに。
つまりは、風見幽香がこちらの手の届かない場所へ飛んでしまうなら、蜥蜴は「ミミズの巣穴」と称する地中のトンネルへ逃げ込むぞと伝え、手を封じたのだった。
あちこちに開いた落とし穴は、地中の避難所の入口でもある。いつでもどっからでもスルリと潜り込めるって寸法だ。メクラヘビやミミズトカゲは地中生活に適応した爬虫類であり、そう変化すれば深く遠くまで広がったトンネルを縦横無尽に動き回れる。
風見幽香が安全圏と引き換えに持久戦を望むはずがない。「最強」が蜥蜴ごときに手こずる格好になる。底辺相手に安全策を取って観客の失笑を買うってのも屈辱に決まってるからな。
では、蜥蜴が真っ先に地中に入る手はどうかというと、紛うことなき悪手だ。「最強」と長く渡り合ったという誉れを獲得できる? その前に辺りが消し飛んで、自分も死ぬ。相手が空に飛んでどうしようもなくなったがゆえの地中避難ではなく、自分から無駄に時間を浪費する手段を選択したとなると、彼女はちゃぶ台をひっくり返す権利を得る。付き合ってられないと、特大の一撃で地中の蜥蜴を会場ごと粉砕するだろう。引き分けの不名誉は付随しない。蜥蜴の方から勝負を投げたのだから。
以上、双方が互いの手の届く範囲で勝負をしなければならないという理由でした。フィールドは自然と限定されるんですな。
幽香嬢の目が、こちらの弄んでいる雪玉に遣られる。
「当てるのは相手が着ているものに対してでもいいのね」
引きずらずに別の要点を押さえる、ね。弾幕勝負でも同様の所作を行うんだろうな。
「頭髪・衣服も身体の一部と見なします。当てれば加点」
「破け落ちてしまった衣服があったとしたら、どうなるのかしら」
「ああ、それ、どうしましょうかね? 用意しておいたルールではそれもアリだということになってますが、千切れた布辺に当てていいとなると──自分の甚平はともかく、そちらのお召し物は見たところヒラヒラとした箇所が多く見受けられるようで──無しということにいたしますか」
「いえ、いいわ」
「ええ? 本当によろしいので?」
改めて尋ねても、区切るように断じられた。
「是非とも、それで、お願いするわ」
ふふ、と笑いを漏らした際、無論幻なのだが、舌舐めずりしたように見えた。ぐわー、恐ろしい。
相手がルール内でやれることを把握し、実際やることにも躊躇しないってのは想定の範囲内。とはいえ、己が身に為されることを想像すると、もう今からでもむず痒く感じてしまう。
こちらが裸にひん剥かれるってことじゃないぞ。そりゃ幽香嬢の服は一片たりとも分離するどころか綻ぶ可能性すら皆無に等しいが、だからといって花の乙女が蜥蜴のヌードに興味津津の性的上級者と見ちゃ、倒錯的な美にも程がある。その意識は服なんかにゃ向いてない。
いくら弾幕を撃ち込んでも無得点であるとは先に説明した通りだが、では弾幕は意味のない行為となるかというと、それは勘違いだ。むしろ戦法の基軸に据えていい行為なんだな。
どういうことか? 単純な話だ。つい殺してしまったりすると打ち切りの憂き目に逢うが、きちんと致命傷一歩手前に調整すればどうだろう。行動不能となった蜥蜴に雪玉を当て放題となるじゃないか。一つ一つ雪玉を作ってチマチマと加点を狙うより、よっぽど「最強」らしい。当然、やってくるでしょうな。
んで、そこに加わるのがさっきの文言だ。「身体の一部と見なされたものは千切れ落ちても当てれば加点となる」──
こちらにとっては、「見なす」も何もない。身体を千切られて雪玉を当てられる災難を覚悟するハメになったわけだ。今度は足だけじゃ済まないかもな。
はっは、これほどエンジョイ&エキサイティングな雪合戦は古今東西存在しなかったろうね。コロッセウムの中心でライオン相手に雪玉を投げる剣闘士というのも間抜けな絵面だが。いや、その間抜けなことをしている蜥蜴が自分なんだが。まったく、手前味噌で恐縮だが、面白過ぎる。
「他に聞く必要のあるルールはあるかしらね」
「他に聞く必要を感じなければ十分ではないかと」
アリマセンヨの言質を取らせず含みを持たせたが、ま、不足しているところはないといってもいいだろうね。明晰な頭脳を前にしてはブラフにもならんか。
「では、いよいよ始めることにいたしましょうか。この雪玉を上に放って、地面に落ちたら開始ということで」
「その前に、」
たおやかな手が、雪玉の投擲を阻む。何です?と首を傾げる。
「私の方から一つ、付け加えることがあるの。ルールというより私が私に課するものよ」
「動物愛護法を遵守するとか?」
「あなたが覗き見ていた魔法使いとの弾幕勝負、あそこでやった以外の能力を私は使わないわ」
「空に散りばめるような弾幕、空間を両断するようなレーザー、とかですね」
「何が来るか予想がつくとやりやすいでしょう」
「大判振る舞いですねえ。ところで、あのラストで霧雨魔理沙氏と互いに放っていた、視界を埋めるような特大の閃光は?」
「マスタースパークよ」
「ええと、使用のほどは?」
「何が来るか予想がつくと覚悟を決めやすいでしょう」
覚悟って、死の覚悟かよ。参ったね。
ここは一言紡いでおく手だな。
「死んで花実は咲きませんよ」
「死に花を咲かせればいいじゃない」
おっと、上手い。一言で収めちゃならん流れだ。
「そもそも自分、蝶よ花よと育てられたわけではないので、花と散るのはできかねますね」
「蜥蜴のように踏まれて死ぬのがお好みと言うことね」
「そう何でもかんでも踏もうとするのには、二の足を踏んでほしいところかなぁ」
「いいじゃない。万一しぶとく生き残れたら、麦のように踏まれた経験が生きるわよ」
「踏んだのが下手すりゃ破傷風菌持った古釘ってこともあるわけでしてね。三尺下がって死の影を踏まず、でしたっけ?」
「あなたごときが私の心配なんて滑稽よ。安心して。踏んだ後に蹴ってもあげるから」
「高嶺の花ならふさわしい振る舞いをしなくては」
「高嶺の花だからこそ下々は喜んで虐め殺されてくれるでしょう?」
「あなたにこそ散華はふさわしいって話です」
挑発が出揃ったところで雪玉を投げた。
ほのかに暖色の照る青空が、一点の白を含んだ。運命の勝負の開始を告げる一個が、重力に従い落ちてくる。
乙女も蜥蜴もそれを見上げる表情は、特に気負ったところもなく穏やかだ。周りの張りつめた空気を意に介してない。
──緊張や怖れがないわけじゃないんだよな。それを抱く自分は心の中にいる。ただ、ガラス張りの部屋ん中で膝を抱えているのを、もう一匹の自分が傍目に見ながら、等身大蜥蜴マリオネットを面白おかしく操っている感覚だ。
つまりは四匹の自分が存在する。観客に見せる物体としての自分、弱者として正常な自分、そしてメインとなる身の程知らずに楽しんでいる奇矯な自分。最後の一匹は、そんな蜥蜴の内外全部を無感情に眺めている自分だ。
こういうとこが蠅ちゃんをして「気持ち悪い」と言わしめるんだろうねぇ。裏表がないどころかバラバラ・パラパラの冊子状態だもの。長の言う蠅ちゃんの魅力は「青い空を見て『ああ、青い空だ』と感じ入ることができるところ」だそうだが、自分だったらまず「ヌけるようなアオイソラ」とAV女優の名を口に出してしまうだろう。実際に綺麗だと思っていながらも下ネタをかます。嫌われて無理ないか。けど、複数人の自分がいた方がいろいろ有益なんだな。
たとえば、一つの事象を複数の視点で見られる。目の前の世界に対し、嘆いて笑っておどけて観察して、を一遍にできる。一粒で二度以上も美味しいんだ。
複数の視点は生存確率を上げもする。楽しんでばかりじゃ恐れの警報は発されないし、他者の目を意識しなけりゃ演者として未熟だ。そうやって自分は生きてきて、楽しんできた。
雪玉を見る。風見幽香を見る。雪玉と風見幽香を見ている自分を見る。
さあ、楽しもう。殺されずに観客を楽しませて生き残ろう。
雪玉が落ちたらどう動くか。いろいろ考えてはいる。多くの局面を想定する中で、開始直後はこちらの有利が生じる数少ない場だ。風見幽香は十中八九、前進か攻撃かのどちらかをしてくると予想がつけられるからね。
前以外に移動する手はだって? どこに移動するんだい。底辺相手に距離を離すなんて臆病と揶揄されるだけだし、距離を保ったまま回り込むように動くのだって弱者の側の行為だろう。
雪玉を作る? それこそありえない。10メートル以上離れているならまだしも、この距離だぞ。しかも正対している。
隙が生じることを恐れてってわけじゃない。サッと片手で雪をすくって、こちらの攻撃に対応する、そのツーアクションを隙なく行う身体能力を幽香嬢は有している。要点はそこではなく、地面の雪をすくうという行為にあるんだ。
幽香嬢がそれをやったら──あくまで見かけ上のことだが──頭を下げるか、ひざまずくか、それらに類する行為をすることになる。蜥蜴を前にしてやるはずがない理屈さ。それでもやってくれるってのなら、ありがたく「風見幽香の恭順」をじーっと見つめて優越感に浸り、末代までの語り草にさせてもらうけどね。
雪玉の説明の際、幽香嬢が周囲に目を遣ったのは、屈まずに雪玉を作れないかと考えてのことだ。降雪させたのなら、木々の上にも雪は載っているだろう、と。
うん、確かに載っていたな。だから、丁寧に払い落して地の雪にならしておいた。ハンデがハンデとして機能するようにね。当然さ。
ま、それでも屈まず雪玉を作る方法は幾つかあったりするんだけど、とにかく開始直後に屈むことはないわけだ。
行われるのは、前進か攻撃。一応「十中八九」と言った通り、少ない確率で「待機」という選択肢もあるにはあるが、こちらの出方を観察するより好戦的な気質が現われてくると予想される。
さて、こちらはどう動こうかね。いろいろ考えてはいるんだ。確実に勝てる手なんて一つもありゃしないが、それでも勝ち方については13通り用意しといた。
──ごちゃごちゃ考えている須臾の間にも、雪玉は加速度的に落ちてきて、自分と幽香嬢の視線を結ぶとこにまで来た。まだごちゃごちゃ考える時間はあるな。始めの一手を何にするか十二分に論理的に戦略性を重視して熟考しよう。ど・れ・に・し・よ・う・か・な、と……おや?
風見幽香のお洒落な傘が上方にあった。先端が青空を衝くように高々と斜めに掲げられている。こちらから見て左上。
フライング、ではないよな。開始前にこちらを攻撃する意図はないはずだ。再三言っているように、最強の妖怪様がセコくルールを破るってのはデメリットのが極大。
じゃあ構えを取ったのか? 開始直後に攻撃しようと準備したか。いや、主目的は示威行為だろうな。「こう行くわよ」とこれ見よがしにして煽ってるんだ。ふむ、さすがに王者の風格でサマになってる、って、しまったッ
勘違いに気づき、地を蹴って左前方へ跳ぶ。幽香嬢の足が踏み込まれ、袈裟がけに斬るように傘が振り下ろされた。
もちろんその狙いは蜥蜴じゃない。落ちてきた雪玉だ。
白球がジャストミートされ、白のグラウンドに叩きつけられる。プレイボール!
振られた傘は切り返されて、先端で蜥蜴を追う。追われる自分はさらに回り込むように動き続ける。追いつかれたと感じても、焦らない、焦らない、焦らない……今ッ!
発光の瞬間に飛び跳ねて側転。光弾が雪と土をえぐって白煙と共に宙へ散らす。さらに両腕で加速した横っ飛び。刹那の前にいた場所で、新たな白と茶の飛沫が爆ぜる。
ったく、何てこった。ルールを破らないようにその「範囲内」を意識して攻めてくると思ってたのが、こんな方法で口火を切るとは。本来のスタート時間を無理くり早めて意表を突くとは。ルールの限界ラインに体当たりをかましてその範囲を広げてくるなんて、積極的に過ぎるだろ。
まったく、ホント、ありがたい。
大人げないなんて思わないさ。ウサギ一匹に全力を尽くす百獣の王の態度。それでこそだよ、風見幽香。長らく目をつけていただけのことはあった。
共演者も観客も大満足な舞台の花だ。こちらもかすみ草以上には咲いとくよう努めにゃならんな。
(現状、菊の花を供えられそうな事態ですがね!)
身を低めて滑り込み、光弾を避ける。背中の鱗がチリッと焼けた感覚を味わう間もなく、次の弾をかいくぐる。
一発でも当たればアウトに等しい。頭や心臓を貫かなくても、衝撃で動きが止まったところに連続で撃ち込まれ、あっと言う間に行動不能となってしまうだろう。
恐ろしや恐ろしや。けど、どうにかギリギリかわしていける。一発一発に集中して対処すればいいからだ。これが散弾だったりすると厳しさ五割増しだが、散弾が来ることはないだろう。
幽香嬢が蜥蜴めに手心を加えてくださっている、という薄ら寒いジョークは置いといて、彼女が弾をバラ撒かないのは自分の不利益を招かないようにだ。
標的こと蜥蜴は開始後ほとんど身を低めて動き回っている。必然的に外れた弾は地を穿つ。決して水平の彼方へ飛んでいくことはない。そう、紳士たる蜥蜴は観客たちに流れ弾の累が及ばない配慮をしていたのだ、という薄ら寒いジョークは置いといて、つまりはこれが幽香嬢の散弾を抑止している因子ってわけだ。
光弾は雪を蒸発させている。ところどころの穴から噴気孔のように湯気を上げている。少数なら大したことないもので温泉地のような風情を醸し出すが、これが無数に生じたとしたらどうだろう。濃い煙幕が視界を覆ってしまうのは、想像に難くないんじゃないかな。
それに乗じて不意の一撃を食らうハメになったら目も当てられない。幽香嬢は自分の作り出した隙によって爬虫類ごときから被弾するという無様な烙印を押されてしまう。
煙幕に覆われようと所構わず撃ち込みまくる手はないのかって? 見えなくなるのは爬虫類も同じだから? それは違うな。爬虫類だからこそ「見える」。
蛇はもともと先祖が地中生活を営んでいた生物だ。だから暗闇でも動き回れる知覚能力を持つ。
特徴的なものの一つはピットと呼ばれる器官だ。これは熱を感じ取れる、いわば天然素材の赤外線暗視装置。いくら風見幽香が冷血漢といっても、体温は哺乳類に準じたものだろう。会場内でははっきり「熱」として浮かび上がる。熱を持った光弾も同様だ。
そしてもう一つは舌。蛇は臭いを舌で感知する。何度となく舌を出し入れする蛇を見たことはないだろうか。あれはアッカンベーと挑発的な態度を取ろうとしているわけではなく、周囲の臭いを把握しようとしているからだ。舌の先端は二股に分かれていて、臭いの方向性をつかむことに役立っている。
以上、これだけでも煙幕が爬虫類にとっての有利となるって寸法だ。聡明な風見幽香が一方的に知覚不能な状況を作り出すはずもない。ゆえに単発の弾に意識を向け続けることができる。
もっとも、この平身低頭な姿勢を崩せば「頭が高い」と斬り捨て御免と相成るでしょうが、そこは生まれて以来の態度が役立つ。地を這いつくばるのはお手の物さ。
撃ち込まれて、撃ち込まれて、撃ち込まれる。かわして、かわして、かわしまくる。腰を落としながら、四つん這いになるかならないかのままで。
チリッ、チリッと身体のあちこちを光弾がグレイズして焼いていく。鱗の一部が炭化して散る。身も細る思いだ。ふむ、これをヒントにダイエット教室と火焼けサロンの複合施設を創出してみようかね。利用客は漏れなく死ぬんで、クレームも付かないし。
さてと、馬鹿なことを考えている間に機を逃してはしょうがない。そろそろ頃合いだろう。
手の中の雪を握る。自分は幽香嬢と違って、地に手を付けまくっているがゆえに雪玉の材料はいつでも調達できるのだ。
こいつを投げて勝ち点を得る。
今この時、ポイントを押さえていれば、必ずできる。
幸運の女神は前にしか髪が生えてないとのことだ。通り過ぎた後は髪をつかんで引き留めることができない。女神様には同じハゲ仲間として仲良くしてもらいたいところだ。爬虫類が相手だとて、微笑まないまでも愛想笑いくらいは望んでいいだろう。
いくぞ。
ポイントとは「目立たない最小の動作で、鋭く投げること」ではない。その逆こそがポイントだ。すなわち「目立つ大げさな動作で、緩やかに投げること」
普通ならあっさりよけられて、隙の生じた身に弾幕をたんまり受けるわけだが、まあ見ていなさいって。
後ろの左足を跳ね上げ、狙ってきた光弾をかわす。体勢は右足のみで立つ、極端な前傾姿勢。顔面は接地寸前だ。その流れに沿った形で右の雪玉をアンダースローで放った。できるだけ大振りに、緩慢に。
自分が空中で一回転して着地するのと、放物線を描く雪玉が幽香氏に左手で受け止められたのは同時だった。
蜥蜴の勝ち点1。
な? 抵抗感なく当てられてくれただろ?
おお……と周囲から声が漏れる。うーん、そこはこちらを助ける意味でも軽く流してほしかったな。場が湧くのは歓迎だが別のところで頼むよ、なんて、流石に望み過ぎか。自分でフォローを入れとこう。
右手で腹を抱えるようにし、左手を後ろに回して、上半身を45度曲げる。芝居掛かった一礼。
「粗品ですが」
「ありがたく頂戴するわ」
幽香氏も雪玉を優雅に持ち上げて見せる。
互いの意図がこれで全体に理解されるだろう。仮にされなくとも彼女が「ここまでやってもわからない脳の働きの鈍いお馬鹿さんの誤解なんて知ったことではないわ」みたいに考えてくれるだろうし、どちらにせよ蜥蜴が八つ当たりされる恐れはなくなった。
風見幽香は相手の一撃を「受けてやった」のだ。屈むことなく持ち球を手に入れるために。
そうしたいと思うのは、蜥蜴の力量がわかってきた今時分だと当たりを付けた。距離を遠ざけることは手間取りそうで、光弾を食らわせることはやれそうだと判断したに違いない今でなら。
ドンピシャリだ。
一つの玉を手に入れるのに一つ被弾するのでは意味がない……なんて考えてやしないだろうね、チミ。玉はいくつにでも分割して使用できるんですぞ。あの大きさなら肉塊に五回ぶつけるには十分だ。おわかりかね。
にしても、幽香嬢が持ち球を確保する手段としては、結構な確率で合図の雪玉を狙うと見ていたんだけどな。地に落ちたそれに傘の先端を刺して拾い上げるって方法だ。それなら失点抜きでやれる……のだが、流石にわかりやすいエサには釣られてくれないか。件の玉は地に叩きつけられ砕けている。シートン動物記でもあったな、毒入りのエサに糞尿をかける狼の話。
「楽しそうね」
「ん?」
風見幽香が話しかけてきた。すぐに再開するのでなく敢えて間を開けたのは、遺言を述べる猶予をくれてんのかね。なんつって。
「恐怖心というものが欠けているのかしら」
「まさかまさか、怖がりまくってますよ。見てください、ほら、鼻で笑っている」
「膝が笑っている、でしょ。まったくふざけた蜥蜴ね。そういうあなたの精神構造がわかってきたわ」
「へえ?」
「自身を客観的、いえそれを超えた視点で見ている。自分の行動や状況を、まるで絵画の内容のように扱えるのね。だから、どんな危機的状況も娯楽にできる。ただの絵なら、それがどれほど恐ろしくたって、絵の前から逃げる観客はいないもの」
「ふーむ」
「要するに思考回路に欠陥があるのね。恐怖は生き物にとって重要な感情よ。生命を脅かすものから距離を置くために必要なの。なのにあなたはそれがない。むしろ楽しみを求めて恐怖の元へと近づいていく。生物として間違っているとしか言いようがないわ」
「的確な分析です。素晴らしい。サイコなセラピストになったらどうです?」
「『な』は余計でしょ」
茶化しはしたが、幽香氏の言を否定はしない。自分でも自分がおかしいと思っちゃいるからな。
でも、まるまる肯定もしない。だって、恐怖心はちゃんとある。それを避けようと万全を期して事に当たったりもする。死にたがっているわけじゃあないんだ。
だが……恐怖の回避と愉悦の獲得を綱渡りする行動パターンは確かに自分の基本姿勢にまでなっている。生物として間違っているか。ジェットコースターや冬山登山など、恐怖や危険さえ快楽と為せる人間特有の思考にして嗜好。それが身についている自分は、通常生物の枠外、キチガイとされて不思議ないか。
奇天烈な自分を再認識する機会を与えてくれてありがたいね。お礼にそちらも分析して差し上げよう。日陰者の蜥蜴男に脚光を浴びせてくださったなら、光を反射させて向日葵畑の主にお返しするってわけさ。
「サイコは言葉の綾ですけど、さて、それだけの分析力があれば、ご自身のエキセントリックさにも気づいていると思いましたが」
「どういうことかしら」
小さいが致死性の毒のある棘を台詞に感じつつ、華麗にスルーして舌を動かし続ける。
「いや、ご存知の通り自分は底辺中の底辺にいる存在でして、」
「よく存じてるわ」
「その底辺にいた者としては敏感に察知できるんですよ。被差別者界のソムリエたる自分の分析によれば、あなたの下々へ向ける目はひと味違っている」
「へえ、どんな風に?」
「喩えとして精子を用いましょう」
「は?」
「一回の射精で一億から四億ほどの精子が放出され、そのうちの一匹だけが卵子と結びついて、この世に産み落とされる」
「話が見えないわ」
「卵子と結びつけなかった数多くの精子のことなんて、生まれてきた者は考えないってことですよ。数億の頂点に立ったら、二位以下のことなんて眼中になくなるのが普通なんです。まして一番卵子から遠い所にいた精子なぞはね」
下の下にいる者に対して、だいたいの者はバカにする。競争における二位以下の者は、自尊心を回復する手段としてそうする。
対して、競争の一位になっている者は、下の下の者をバカにすることはしない。では、どんな目を向けるのか? 答えは先ほども述べた。「ない」だ。目すら向けない。まったく意識の外に置くのだ。自尊心は十分満足している。ゆえに、意識するだけ人生の無駄と考えて当然だろう。
「ところが、あなたは違う。頂点に立ちながら、こちらを見ている。『最強』の名を冠しながら、『弱い者イジメ』が趣味だという。まったく普通ならありえない取り合わせです。まるでスイカの天ぷらのような。それともまさか最強とは名ばかりで、実は大きなコンプレックスを抱えてらっしゃる? いやいや、そんなことはないでしょう。ゆえに奇妙奇天烈摩訶不思議と称するのがふさわしい」
そして、そこに自分はホンワカパッパと惹かれたのだよ。対戦相手として風見幽香の名は真っ先に挙がっていたんだ。
「沼」に来る以前は直接対面してどうする算段もつかなかったので、爬虫類らしく蛇のように這ってスニーキングミッションをやるのがせいぜいだった。生き残りつつ楽しむ方法として、太陽の畑の真ん中で酒を飲むことくらいしか思いつかなかった。彼女を長らく観察して性格やら行動パターンやらつかんでの結果がそれとは誠に遺憾だった。
今は違う。衆人環視の中でShall we danse?と申し込める。
無論ここに呼ぶことすらも一苦労で失敗の可能性もあったが、霧雨魔理沙が負けていたときのことを考えて幾つか予防線を張っておいている。たとえば、幽香嬢と交流のある虫姫様や毒人形ちゃんへ氷精ちゃんラインで声を掛けてあって、酒宴に招待してある。こうして幽香嬢へのラインにもつながったことになる。これを利用し、彼女の足を一歩でも「沼」に踏み入れさせればしめたもの。その場で挑発し、勝負に引きずり込む。……とかね。
ただ、この方法は死亡フラグが数倍ほど増すので自分とその周辺にとってお勧めできない。まあ、今の状態も棺桶に両足突っ込んで指一本でしがみついてる有様なんで、あまり変わりないんだけどな。
「変わり者同士気が合いますね。自分のことを楽しそうとおっしゃいましたが、あなたもまた楽しそうなのはこの蜥蜴めをダンス相手として認めてくださったからでは?」
勝負前、会話の中で彼女は表面的な微笑とは違う、本質的な感情を覗かせた。それは心からの笑みだ。
「最強でありながら弱い者イジメを好むのは、窮鼠が猫を噛むのを期待しているからだと考えます。底辺の自分が挑んでくることを喜ばしく感じているのでしょう。それは鬼が人間を好むのに似ている。圧倒的な力に対して立ち向かってくる者を好むのに。結論として、あなたは実は弱者のことを、」
「私のことをセラピストと言っていたわね」
言葉を差し込まれた。傘の先端が上がる。
「その通りよ。あなたのような腫瘍を切除して、世の中を良くするの」
先端から光弾が地を焼き、唐突に勝負は再開された。
唐突というのは観客視点だけどね。大勢の前であそこまで言えば実際のとこ予定調和だ。あれは自分の立場に置き換えてもこっ恥ずかしいだろうよ。でも、思ったよりだいぶしゃべれたな。ゆうかりんのサービス精神だろうか。
そのサービス精神は弾幕にも現れていて、前よりも速度と発射間隔がハードモード。臨場感あるスリルを提供してくれる。ははっ、巨乳の死神が肩を寄せて三途の川でのボートデートを誘ってくる心持ちだね。死ぬという一点を除けば魅力的だ。
「私のダンス相手を気取るなら、もっと優雅に踊ってみなさいな」
「こちらにっ、合わせてくれてもっ、いいんですよっ!」
まともにしゃべれないくらいキツい。飛び散る雪と土の中に、自分の肉片が混じってないのが不思議なくらいだ。
幽香嬢は平然と言う。
「これ以上レディーを低い所に置こうとするなら紳士失格よ」
紳士以前に人間失格なんだがな。爬虫類なもんで。
だが、言葉の通り、誰の目にも明らかな手加減を彼女はしているんだよな。対魔理沙戦での弾幕を用いる言いながら、ここまでずっと傘からの光弾のみで攻めてきてる。こうなると文句も言いづらいね。
それにスピードアップする理由もちゃんとある。
一つは雪の量だ。自分の足元では土がだいぶ露出している。多く撃ち込まれて結構蒸発してしまっているのだ。となると、弾数を増やしても煙幕は生じにくくなる。
もう一つはマンネリだ。同じパターンのやり取りを繰り返していては、幽香嬢も観客も飽きが来る。新たな展開を導き出すため、主催者を追い詰めているということだ。
バリエーション豊かな弾幕を撃つことができるんだからしてほしいな、とは思わないでもないが、先の言葉で釘を刺されている。「リードするのは紳士の役目」だと。参ったね、どうも。
時間の経過とともに加速度的に切羽詰まった状況になっていく。一手でも間違えたら即投了の流れ。飛び交う光弾の間を、体勢が崩れないように軸や重心を保持しつつ、行動を予測されないように軸や重心を自在に変化させ、どうにかしのいでしのぐ。
奇跡的に致命傷を受けてないのは、一年間ほど紅美鈴の身取り稽古をしていたのが役だっているようだな。風見幽香の周りを中国拳法の身のこなしで巡るのはまるで套路だ。いや、こんなへっぴり腰のを套路と呼ぶのは差し支えあるかもだけどさ。
雪の量が減り、弾のスピードが増してきたことで、しゃがむ姿勢を保ちにくくなっている。そうなると弾はさらに躊躇なくなる悪循環。ガラス張りの部屋の自分は、頭のてっぺんから足のつま先までブルーハワイまみれだ。
白と青の顔色に対して、一張羅の甚平は黒と赤にまみれる。土を被り、焦げもでき、血がにじんでのことだ。ビンテージもののジーンズならまだしも、これじゃ雑巾としてとしての使い道しかなくなる。まあ、持ち主の身体がボロ布のようになる心配の方をすべきだろって話だが。……なるほど、仮に死んだら、この甚平は聖骸布に格上げされるんじゃないか? なんつって。
できるだけ低姿勢になれるようにと膝をかがめた途端に、雪と土が飛び散りさらに汚れる。飛び散り方がより派手になっていくのは、雪が減っただけでなく、威力も上がっているからだろう。
目潰しを狙ってもいるようでもあるが、多分違う。先に述べた通り、見えなくなっても対応は可能だし、雪・土程度なら瞬膜が弾く。
瞬膜とは、上下に開閉するまぶたとは別に、横にスライドする第三のまぶただ。透明、あるいは半透明で、自分は当然透明なものを選択している。コンタクトレンズタイプのゴーグルは視界を妨げずに眼球を保護する。そんなに珍しいものでもない。哺乳類ならラクダやホッキョクグマなどが持ってる。人間にもその痕跡がある。
(土が怖くて地べたを這いずり回れるかってこった……なッ!)
顔面に来た光弾をのけぞってかわす。眼前の地面が爆散し、顔にかかる。次の光弾はピットが感知している。なのに、かわしきれないと確信。なぜなら、のけぞった際に地についた手が、以前に撃ち込まれていた光弾の穴に着地し、体勢が崩れてしまったからだ。
因果応報を信じるかい? 紅美鈴がやられた方法を、今度は自分が食らうことになった。違うのは、あれが意図的にやられたことであるのに対し、これはまったくのミスということだ。否定しようのない完全なるチョンボ。
落とし穴や地の弾痕の位置は全部把握していたのに、とっさの回避動作でやむなく陥穽にはまることとなった。まさかこれって幽香嬢の思惑通りってのはないよな……?
無駄な思考ができるのはそこまでだった。自分は本当の目潰しを食らってしまう。具体的には左顔面に光弾が直撃。顔の造形が「太陽の塔」になる。芸術は爆発だ。
自己を茶化すことでパニックにはならずに済んでいる。激しい痛みと飛び散る血潮で真っ赤な視界の中、冷静に状況を把握。
千切れた視神経を引く眼球、それが宙に舞っているのを、もう一方の眼球で視認した。これを置き去りにすると負ける。吹っ飛ばされた勢いを利用して退避しつつ、カメレオンの舌を伸ばして眼球を捕獲、胃の中へと回収する。気分は夏侯惇。
さて、片側の視覚、さらにピットもやられた。なんとか体勢は立て直せたが、こっからジリ貧の進行速度が増すのは目に見えてる。
なのに、どうにも近づけないのだよな。距離を詰めることがさっぱりできない、許されない。風見幽香を中心にただただ円を描くのみ。不可侵領域はなかなか堅固に構築されとる。
この勝負、遠ざかれば一方的な遠距離攻撃にさらされるのに対し、近づいて混戦にもつれ込めば勝率は上がる。つまりは、向こうは優雅さを保たないとならないのに、こちらはいくらでも泥臭くできるので、相打ち覚悟だと分が相当良くなるってことだ。十六夜咲夜との対戦を想起する。
んで、メイド長と同じく、幽香嬢もそのことはわきまえていて、蜥蜴を接近させないようにしているわけだ。前回は向こうから近づいてきてもらったのだが、今回も同じようにとはいかないだろうな。その類の「仕込み」もしてないし。
かといって、何も変わらないまま手をこまねいていると投了は確実だ。喩えでなく完膚無きってな状態での敗北となる。勝負を賭けるしかないな、命を懸けて。
こちらの手が届くまでには何発かの被弾を覚悟する必要がある。もちろんグレイズでなく、ピチューンの方だ。それでも攻撃の体勢さえ残っていれば勝利に近づく。食らいボムの精神だな。
さあ、ゲームオーバーにならずにクリアーできるかな? ゾクゾクするね。
手っ取り早く楽しみを得るにはギャンブルが最適だろう。いつでもどこでもやれて、スリリングなひと時を味わえる。
賭場と賭け金がない? 賭けるものなら金に限らないだろう。それを言うなら自分には金どころか、名もなく、力もなく、ないない尽くしだ。それでも生きている以上、身体と命くらいはある。そして五分の魂にはビタ一文ほどの値がつく。ほら、賭け金はあるんだ。
世界というカジノを理解し、自分というチップの価値を知れば、ギャンブルを楽しむことができる。時と場を問わないスリルがそこにある。
まあ、万人にお勧めはしないけどね。楽しむために賭け金を失っても構わないなんて思考は、気狂いピエロにしか持ちえない。最期の最後までにこやかに、我に返ることなく笑顔で爆死する狂気がなければ、賭け事なんてしないに限る。
逆にいえば、狂気があるなら、しない手はない。
踏み込むぞ。
──……ふっ
蜥蜴の足が初めてその領域に入ったそのとき、風見幽香から漏れた声は、やはり笑みのものだったか。
確認する間もなく弾幕の圧が倍加した。
光弾をくぐり、脇を上げて次の光弾を擦り抜けさせる。動きを止めてはならない。移動するところ、膝下を狙う光弾。またぎ越す。その着地点をさらに光弾が襲うが、後ろ足に力を入れてジャンプしている。
空中に跳んでしまった。空を飛ぶ能力がないので、どこにもかわせずただの的と化す蜥蜴。ああ、敢えなくこれで詰み、なんて締まらない結末にしてたまるか。
太くて長くてぬめり光る自慢の尻尾が、雪の剥げた地面に突き刺さっている。それを支点にして跳んだ方向とは逆へ無理矢理身体を押し戻した。
鼻先を光弾がかすめ、回避成功。だが、尻尾の根本に熱が走った。
そっちをやられたか。足ほど筋力があるわけじゃなく、滞空時間が長くなってしまったから仕方ない。千切れかけた尻尾を自切。重りでしかない肉塊を分離する。
当然のように尻尾に飛ぶ光弾。しかし、身体が重りを捨てたのと同様、尻尾も束縛から解放されてる。くねる蛇の機動性を見せて、我が分身は連続二発の光弾をかわす。
もう少し尻尾に引きつけておかせたかったが、王手飛車取りの気配。尻尾の動きは早くも読まれ、隙を衝こうとする自分本体も把握されている。尻尾自体に攻撃力はないと見透かされ、本体に傘の先端が向けられる。本命をじっくり狙い、甘さを見て取れば尻尾を肉片に変えるつもりだ。
危険を二倍にするのは得策じゃない。尻尾には舞台から退場してもらおう。
緑と白の大蛇は雪の中に先っちょを突っ込むと、そのまま全部を潜り込ませて、消えた。本体でなければ避難して問題ない。以後はミミズの穴で安静に暮らしてゆくことでしょう。
さて、その一方依然危険な本体ですが、ここでさらに危険な一歩を踏み出さないとなりません。やれやれだが、せっかくの犠牲を無駄にしたくはなし、勝利に近づくためにはやむをえない。古人もこう言っているね、墓穴に入らずんば事故を得ず。……おっと、それじゃ犬死にか。蜥蜴が犬じゃ洒落にもならんな、ははっ。
尻の重りが消えて尻軽男になった自分は、より身軽になって目の前の女性にお近づきになろうとしている。彼女のガードの堅さは相変わらずだが、スピードアップのお陰でどうにか狭まった円周上から離れずに巡り巡っていられた。念願のボディータッチまであと数歩。
光弾を避け、逃れる方向を予想して先回りする傘の先端。
ここだ! 足裏に力を込め、円周上から中心へと決然とダッシュする。
幽香嬢は意表を衝かれた様子もなく、冷静に照準をわずかに横にずらすだけで蜥蜴の中心を捉えた。心臓の位置。
放たれる光弾。これはかわせない。熱。貫かれる胸板。だが、衝撃はない。何の抵抗もなく、光弾は背後に飛んでいった。蜥蜴の走行も止まらない。そのままゼロ距離まで、
あ、ダメだ。
そのままゼロ距離まで詰めようという目論見は、風見幽香が一枚上手だったために砕かれた。間髪入れず蜥蜴の足に向かって光弾が撃たれたのだ。
強引に進もうとしていれば機動力を破壊され、苦もなくとどめを刺されていたろう。踏み出そうとした足を下げて、追い打ちの数撃をかわしながら距離を取っていく。モクロミ失敗、元のモクアミか。
「完全に読まれてましたね」
光弾が止まって、一息ついた──一息つかせてくれるか──慈悲深いのか、残酷なのかはともかく。
右足の小指が半ば焼失している。痛みはそれほどない。タンスの角にぶつけたくらいだ。
もっと痛いところが二カ所あるが、それにしたって胸についてはあらかじめ神経接続を薄くしておいてあったので、オーブンから取り出したばかりのピザ一枚を素肌に直接貼り付けられた程度の熱さで済んでるし、顔面については生まれつき崩壊しているので、痛みはせいぜい剣山を金ダワシ代わりにして粗塩でゴシゴシと念入りにフェイスウォッシュされたレベルの苦痛しかない。
なお、尻の痛覚については皆無だ。痛みを感じるようなら「トカゲのシッポ切り」なんて慣用句は生まれてない。
風見幽香はふふん、と王者の風格で応えた。
「コスいのが取り柄のあなたが、何の意図もなく無謀なことはしないでしょ。何をするかはわからなくても、何かしてくることはわかるわ」
それで即座の牽制か。お見逸れしました、だよ。
「もっと何かあるかと思ったけど、なかったみたいね。拍子抜けだわ」
追い討ち掛けなさんなって。凹むわ。ただでさえ胸に穴が開いたようなのに。
「直撃したのに後ろに飛ばされなかったのは、身体の強度の変化によるものね」
「そうです。トンネル状に脆くしておきました。ついでに中身もできるだけ空洞に」
「心臓は元の位置から移動しておいたのかしら」
「ええ、反対側、かつやや下に。気管支や肺もずらしてあります」
「後はそこを狙わせるようにしたわけね」
「その通りにしてくれて感謝していますよ。ビックリしてくれればなお良かったんですが」
「なら、次はもっとマシな芸を見せなさいな」
次ね。機会を与えてくれるのは慈悲深いと言えるけど、ハードルを上げてくるのは残酷だな。大したものを披露できなければ尻切れトカゲ、もとい尻切れトンボと蔑まれて、有終の美とはほど遠い最期を迎えることとなる。
こうしてしゃべっている時間は、傷の回復の猶予だ。完全に治るまでは、再開の狼煙をいつでも上げられる権利さえある。
風見幽香、強者の余裕バリバリだね。艶やかな緑髪は一筋も乱れてなく、宙を浮く靴は泥の一片も付いてない。
他方、蜥蜴ときたら酷いもんだ。胃液まみれの目玉を眼窩にはめたり、血と泥を拭いたボロ雑巾みたいな服を身にまとったり、それでも隠せず胸から背中の穴に生々しい肉色を覗かせたりしている。
手で互いを示し、言う。
「今のこの場面を、カラスの新聞記者が写真に撮ったら、『格差』ってタイトルを付けられそうですね」
「それはないでしょ」
幽香嬢が否定してくれる。
「ゴシップ専門の三流紙でも、そのまま過ぎるタイトルは避けるもの」
「あ、そういうことで」
緑の禿頭を撫でる。
じゃあ、捻ったところで「月のモノとすっぽん」ってのどうだろう。うむ、日活ロマンポルノだな、それだと。VIPな招待客には不評そうな下ネタに思えるし、台詞にするのは止めとこう。けど、どうでもいいことだが、500歳の幼女ってアレは来てるのかな?
その彼女は、幽香嬢の右耳から少し離れたところに見える。瀟洒なメイドが差す日傘の下で、腕を組みながら立ち見している。満足そうに口角が上がっているようで、興行主としてひとまずは安心だ。
そこで、おや、と思った。そのお嬢様の周辺はやはり距離が開けられているものの、存外近くに「沼」の皆はいる。一様に不安げな顔を浮かべたりはしているが、吸血鬼一行が人垣に紛れるくらいに近接している。夜の王としての威圧感をレミリア嬢がダダ漏れにしてないからなのもあるだろうが、絶対強者に対する畏怖・忌避の感情がだいぶ除かれている理由としてはまだ足りない。
慣れ、かな。宴会で数々の実力者と共に酒を飲み、「最強」の代名詞との勝負を観戦する。それらと比すれば、脇に控えるくらいは何でもないか。しっかし、変われば変わるもんだな。そう言えば、「人垣」と述べたが、開始直後はほとんどあちこちに隠れていたのに、今は見えるところに出てきている。やっぱり慣れか。弱者にとってはいいことでもないんだけどなぁ。
もちろん未だに身を隠している者はいる。紅魔館のお二人からから右上、木の奥の枝に屈んでいる蠅ちゃんもその一人だ。ピンクの髪は目立つが、他の枝に遮られてしかめっ面と足元しか見えない。うーん、その座り方、両手で枝をつかんで安定性がありそうだけど、ヤンキー座りとかウンコ座りとかに近いそれだぞ。立ち振る舞いに無頓着なのも魅力の一つには違いないが、ねえ?
……と、気付く。同じ木、その斜め上の茂みに黒いボールがニヤついている。嫌なものが目に入ったな。相変わらずのポーカーガン黒フェイスは、何を隠しているやら読み取ることができない。
ふと視線がかち合った、と思ったら、長はまぶたを閉じた。何だ?といぶかしんだところで、開かれた。意味を考えて、恐ろしい結論に至る。ウィンクしたんだ。
うっへぇぇ、隻眼でやっても伝わらんだろ、それ。たまたま伝わっちまったけど、伝わってほしくもなかったよ。酷い嫌がらせだ。嘔吐感と精神障害を負ったことに対して損害賠償を求めたいな。
「何を呆けているの?」
呼びかけられて、ゲストを放っておいた間抜けさに気付く。
観客を見回して余裕ぶっこいている暇はなかった。傷が治癒するまで時間を与えてくれるとはいえ、その間まるっきり自由時間というわけじゃあない。ゲストと観客のために言葉を絶やさない配慮をしないとな。
「失礼しました。『カッコウアザミ』でもないのに」
「?」
「花言葉【あなたの返答を待ちます】」
「あら」
幽香嬢がちょと眉を上げる。石畳の隙間にタンポポが咲いているのを見つけたような表情だ。
「意外な知識を持ってるのね」
「自然豊かな『沼』ですので、」
両腕を広げて、
「自然身につきました」
胸元で閉じる。そこの穴は未だ表面的にしか塞がってない。
「下手な態度で『ギンモクセイ』するのは勘弁よ?」
おっ、付け焼刃な知識か確認を取ってきたな。
「花言葉【気を引く】ですか。下手な態度かはともかく、興味関心好奇心は持ってもらえるように努力してますよ。あなたとは『マーガレットコスモス』でありたいですし、まあこれまでのあれやこれやは『クコ』ということで」
「【円満な関係】に【共に忘れましょう】ね。そこまで私に『カランコエ』を期待されてもね」
攻めてくるなー。花の妖怪に花言葉を使ってきたからには、覚悟しなさいってか。
「謙遜なさらずとも【寛大な心】はあると存じ上げてます」
「綺麗な花をただただ綺麗なものとして見ていると『アワダチソウ』よ?」
「【安心・幸せな人生】?」
「【警告・要注意】よ」
「心配してくださるのはありがたいですけど、ドント・ウォーリー、自分は喩えるなら『ハマギク』や『ツワブキ』です。【逆境に立ち向かう】【先を見通す能力】」
「まだ勝負を捨ててないのね、『キンギョソウ』さん」
「ええと、【おしゃべり】【図々しい】【図太い】【騒々しい】?」
「【推測上ではやはりNO】」
「っと、そういう意味もありましたっけ。これは一本取られたなぁ。まだまだ自分の知識には不十分なところがあるようです。ここまで名前の出てきた花は、全部ちょうど今が見頃と『沼』周辺で咲き誇ってますので、機会があったらご教授ください」
このアピール、あからさまだったかな? でもさりげなさ過ぎてスルーされると意味ないしな。結実するかはわからないが、種をまくなら生えるものにしたい。
「かわいい花たちのことが、蜥蜴なんかの頭に収まっているなんてね」
軽く息をついて、出てきた言葉はそんなだった。不審がられてはいないようだ。花言葉のやり取りでは全部秋の花で統一してきた流れに合わせたのだが、そこまで徹底したことに対する感心に、気を取られてくれたのかもしれない。
「『源氏物語』みたいなフレーズですね。下賤な家に咲いているあの花の運命は可哀想だ、とかそんな感じの」
「綺麗な花をただただ綺麗なものとして見るのは浅見と言ったけれど、綺麗な花を綺麗なものとして見ないのも間違ってるわ。価値あるものについても同様よ。まともに見ることのできない奴がこの世には多すぎる。私が思っているのはね、蜥蜴なんかで生まれてきてよく生きていられるわねってことよ。私なら耐えられないわ」
婉曲的にではあるが、自分の感性を認めてくれるような言葉が出たことにオドロキ。蜥蜴にしとくのが惜しいとはね。
「そこら辺はまあ、様々なハッピーの形がありまして。たとえば、長はですね、底辺には大きな利点があるとおっしゃってます。『水は低きに流れる』というフレーズはご存知でしょう?」
「それが?」
「『底辺にいれば様々なものが無数の河川と流れ込んでくる──清濁併せ飲む懐の深さがあれば、大海のようになれる可能性があるのさ』、だそうです」
「『沼の中の蜥蜴、大海を気取る』ね」
「自分ですか? そんなふざけた考えを持つわけがありませんよ。詭弁としては面白く聞かせてもらいましたけどね」
視界の隅で長を盗み見ると、衆目の前でディスったにも関わらずニヤけた顔は不変だった。苦笑くらいはしろよ。
「自分は別のところで底辺ゆえの恩恵を享受させてもらってます。風見幽香さん、あなたは感じたりしないんですか、『最強』ゆえの退屈を」
「ん……」
「愚問でしたね。感じるはずがない。自分がこの世に生まれたのは世界の意志で、自分が思うがままに動けるのも世界の意志だと、それくらいには考えているでしょうから」
この台詞は看板の文句をなぞっているようなものなので、先の台詞と違って地雷にはならない、と思う。下を向いた傘の先端が動かないのを見て、続ける。
「だから、想像すら無理なのは当然ですよ、まさか底辺が底辺ゆえに日々を謳歌してるとはね。すなわち、常に何かに挑戦できる楽しさ。これに満ちてるんです。いつでもどっちを向いても自分より強い者ばかり。世界には攻略すべき対象がよりどりみどりの勢揃い。ほら、『最強』には決して味わえないでしょう」
「……ヤケドする程度の火遊びで止めておくべきだったわね。イモリの黒焼きにでもなりたかったの?」
それはそちらが愚問だな、と心の中で答える。賭けたチップの価値は知ってるさ。ついでに、イモリは両生類で、爬虫類はヤモリの方だ。
「やめなくて正解でしょう。火に油どころか、噴火口にナパーム弾ぶち込む自分であったからこそ、こうしてWINWINの関係が築けているのですから」
「言葉の意味を勘違いしてる? 私はこんな所に呼び出されて迷惑だと言ったわよ」
「貧民が革命を起こすことを大富豪は期待している、と自分も言いました」
「期待するだけ失望が深くなるのはご免よ。あなたは今、勝てる確率はどれくらいで見ているのかしら」
黙って傷口を押さえていた手を離し、その血まみれの五指を広げて見せる。
「お手上げ? それとも5%ってことかしら」
五分と五分、なんて返答を予想してるんだろうが、どっこい、
「ハンド・レッド」
「あら」
100%ってことだ。
ヒューと口笛を吹いたのは霧雨魔理沙だろう。他には嘆息とか身じろぎとかの音が周囲から湧く。
会話パートが長いとはいえ、この大詰めの場面にして、「沼」の観客は逃げないどころか緊張を和らげ、高揚さえしているようだ。
レミリア嬢は笑みを浮かべて十六夜咲夜に何やら耳打ちしている。『この期に及んでの挑発とは期待を裏切らないな』『元からあんな性格なので、予想も裏切ってませんが』『そこは今後に期待だな』ってな会話だろうか。
OK。口八丁手八丁はこちらの十八番だ。口内で舌を回す。乾き切っているということはまるでなかった。 Let's go.
「ずいぶんと強気なのね」
「そもそも勝敗は0か100でしょう」
「0に大きく傾いた100ね。天秤に掛けたらひっくり返ってるわ」
「さて、どっちに転がりますか。ビクトリーロードを歩むため、せいぜい次の手を打たせてもらいますよ」
「私相手にそう上手くいくかしら。『次』に『くさかんむり』を載せたら『イバラ』よ」
実際、次が最後のチャンスとなる。これを逃すと勝つ手はもうない。にも関わらず、ギリギリもギリギリな超無理難題だ。ははっ、燃える。
「たとえ『茨の道』であっても、その先にスリーピングビューティーがいるなら、挑戦のしがいがあります」
錘が刺さったくらいじゃ錘の方が壊れそうだが。
「あら、寝ぼけたことを言っているのはあなたの方じゃない?」
「ビューティーは否定しませんか。さすがです」
「花は例外なく美しいものと決まってるのよ」
「そう、花の妖怪でしたね。確かに挙措の一つ一つがそのものだ。立てば癇癪玉、座れば起爆ボタン、歩く姿はシューティングガン」
「火薬から花火を連想させるにしても、苦しいわね」
「花火のような弾幕を咲かせると聞いてますよ」
「ええ、蜥蜴風情に見せるのはもったいないものよ」
「比喩でなく本当の花を咲かせることもできるとか」
「そうよ。それもまた蜥蜴風情には、ね」
「残念です、風情を演出できたのに。ふむ、そうなると自分でやるしかないかな。一応、あなたほどではないけれど、花を咲かせることができるんですよ、この蜥蜴めは」
「自分用に手向けの花を用意できるなんて手間無くていいわね。死ぬ間際に桜の木の下へ埋まるのかしら」
いや~、洒落がキツイですねぇ、と口をパカッと開けて天を仰ぐ。あれだけ放言かましてカウンターが痛いと嘆くのが間違ってるんで、もちろんこれは前振りだ。
「まァでも、実際のとこ可能なんですよ。そりゃあ、枯れ木に花を咲かせるのは無理ですけど、ほら、」
ヒョイと横を向く。
「『ここ掘れワンワン』」
クイッと鼻先を上にやると同時に、離れた地面から花々が噴出した。赤・黄・オレンジ・紫・ピンク・白などが散る。
色とりどりの造花を穴の中に詰めておいたのだ。それらをミミズのように地中を巡ってきた我が尻尾が宙に跳ね上げる。ナイスな演出だろう。結婚式の際はいつでもご要望承ります。
全員の視線を集中させたところで、言うまでもなく自分の足は地を蹴っている。右手にはつかみ取った雪。新たな持ち玉。
小細工に風見幽香は余裕をもって対処──意表を衝いてくることを想定しているから、距離や体勢は万全──のはずが、目は見開かれることになる。
蜥蜴のスピードが倍近く上がっていた。想定以上に距離が狭まっていた。
──どうだ、意外性の重ね掛けは! 想定の範囲外だろ!
目や胸の傷は完全には癒えてない。代わりに別の身体変化に時間と労力を注いでいた。
ビルマニシキヘビは、「遺伝子の発現」「タンパク質の適応」「ゲノム構造の変化」、この三つの複雑な相互作用により、心臓・小腸・肝臓・腎臓を通常の約1.3倍から2倍のサイズにすることができる。
本来は高温多湿の状況下、丸呑みした獲物を腐敗する前に急速消化するための能力だけれど、自分は運動機能アップに利用させてもらった。
初めから使え? 考え無しの発言は控えてほしいね。心臓の当たり判定を倍にするのは賢いやり方じゃないよ。今のような最後の手段にしか使えないのさ。
照準を合わせようとした傘の先端に左手が届く。力負けしていようと、そこを支えにこっちの身体をこそ移動させりゃあ光弾は当たらない。脇腹を熱がかすめる間に、右手は必殺の雪片を投擲、
できなかった。手首下に裏拳が叩きこまれ、痺れて持ち玉を取り落としてしまう。雪を握ったままなのに重い一撃だ。
こちらが攻撃を阻止できるなら、相手もこちらを阻止できるってのは道理だな。骨にヒビが入ったろうが、千切れなかっただけマシだ。
傘と手、手と手を交差させ、井桁のできそこないのような形を作って、蜥蜴と花妖は向かい合う。
「惜しい」
緩い苦笑いからため息と共に言葉を押し出す。
「惜しい? 辞書の分厚さを紙一重と表現できるならね」
幽香氏は平静を保っているが、蜥蜴の絵に描いたような苦笑を前にしているからってのもあるんじゃないだろうか。他者の感情を前にすると、自己の感情は治まるパターン。
「いえ、そっちの方じゃなくて、」
二人の視線の間を小物が通過。ポトッと音を立てる。
「こっちの方」
井桁の中央に落ちたのは雪片だった。片手で握っただけの、だが紛れもなく持ち玉の雪。
「いやー、ほんと、惜しい惜しい!」
苦笑から一転、朗らかな笑顔で声を上げた。
「勝負開始直前に見せたボールハンドリングがあったでしょ。あの内の一つ、後ろ手に放るというのをやったんです。ダッシュを掛けたその時に、左の方で地をえぐり上空に投げた。気付かなかったのはやっぱりあれですかね、右手の雪玉がこれ見よがしにも程があったからですかね?」
目をカマボコ型にしつつ歯列を奥まで見せて、平静さの揺らぎでもないかと幽香嬢の顔を観察する悪趣味な愉悦に浸ろう……と思ったのに、
「おぉおおおおおおッ!」
唐突に誰かが叫んで、場が断ち切られる。奇特な発声は単発で終わらず呼び水となって、また誰かが吠え、さらにまた誰かがと、そうして辺りを囲む大勢の雄たけびが会場に満ちることになった。
中には拍手や笑い声なども混じっていたが、誰のものかと判別している余裕はなかった。
そんなに騒ぐことじゃないだろうに。幸運の女神の前髪はつかめず、微笑んでもくれなかった。花の女神の御手には触れることができたけどもな。
底辺の蜥蜴が最強の花妖相手に見事出し抜いて見せた。自分たちと同じ底に立つあの蜥蜴が! ってな気持ちを皆で共有してるのかもしらんが、やめてほしいね。ほら、挑発の量が供給過多になった結果が眼前に生じてるんですけど。
「…………」
風見幽香の表情がにこやかなものになっている。かなり、非常に、とてつもなく、にこやかなものになっている。
とっても楽しいし、とってもムカついているんだろう。完全スマートな得点獲得寸前まで行った蜥蜴を前にして。
こうして自分の評価は高くなり、要求されることも高くなり、致死率も高くなった。
うへぇ、哺乳類だったら全身の毛が逆立っているところだ。周囲も最強の妖怪から発せられる異様な気を察したのか、日の沈むように静かになった。いまさら遅い。
風見幽香が小首を傾げて言う。
「それで、あなたは、ここからどんな手を見せてくれるのかしら」
口調は穏やかだが内容は恐ろしい。シケた手を見せた途端に命を奪われる、その危険性がビンビンに伝わってくる。であるのに、前述の通り、勝ちの手はもうすっからかんの状態なのだ。
あの雪玉が当たっていれば、意識の間隙に乗じて策を重ねることもできたけれど、こうして手に手を取り合ってってな体勢じゃあやれることなんて……
「よろしければ、このまま社交ダンスとかどうです?」
「一人で踊ってなさい。赤い靴を履いてね。裸足を血で染めるのは手伝ってあげるわ」
「あいにくとレッドソックスよりヤンキースのが好きでして。あ、野球チームはお詳しくない?」
「玉遊びは観戦だけにしとくべきだったと後悔しても遅いわよ」
おしっこ漏らしそうになってるのは事実だが、後悔というのは後の祭りという意味でしか自分は使わない。祭りは参加するものだ。同じアホなら踊らにゃ損々と古人も言ってる。祭りに参加している自分が後悔などするはずがない。
さて、言葉のドッジボールもじき終わりを迎える。続く勝負の最終局面にも何かしらの結末が訪れる。それがどうなるかってーと、考えられるのは、そうだな、
①栄光の勝利をつかむ。
②無様に負けて這いつくばる。現実は非情である。
③二人は幸せなキスをして終了。
ってとこか。
んで、望ましい未来、王道の展開は③への期待を抱きつつ①を目指すってのだが、理想通りにいかないのが世の常でありまして、事ここに至ってはどうしても②しかありえないのですな。
掛け値なしに本当のことだ。言葉や頭をどうひねくっても変えようのない事実だ。口では負ける負ける言ってて、ちゃっかり形だけでも勝利を得るなんてことは今まで何度もあったけれど、今回は本当に無理。風見幽香、最強の名は伊達じゃなかった。
ここまで用意してきた13通りの勝ち筋をことごとく潰されてきた。さっきの落下した雪玉が当たらなかったのも偶然ではない。
幽香嬢が後ろに下がることはないとわかっていたから、スピードを出して距離を詰めれば位置を固定できると踏んで、そしてその通りになった。それでも事前に何十何百と練習した通りに放れなかったのは、幽香氏の視線移動が想定外に早かったからだ。噴出する花々からダッシュした蜥蜴へと意識は瞬時に移っていた。あれで力の加減と方向に狂いが生じてしまった。かといって、練習通りに投げていたら、玉は察知されてたろう。
それ以前の策についても同様。どれもこれも潰された。このように手練手管を尽くしてダメだったものを、この土壇場で起死回生の手を編み出せってのは、さすがに……
「チェックメイトね」
幽香嬢が心を読んだように言う。
「勝負の行方は最後になるまでわからないものですよ」
心中と裏腹、抜け抜けと台詞を紡ぐ口。
「チェックメイトの意味を知らないほど無知とはね」
うん、ここで「格子模様の友達でしょ?」とつまらないボケをかますつもりはないさ。理解し切ってるんだよね。できることはほとんどないってこと。
そう、「ほとんど」だ──「まったく」でなく。できることは、できる。ご期待に添えてやろう。「どんな手を見せてくれるか」? そうだな、勝てはしないが、少なくとも三度はビックリさせてやるよ。
幽香嬢の傘と手に触れている箇所。そこにちょっとでも力を込めれば、勝負は再スタートし、後は詰みまで一直線なのは明らかだった。
「さぁてね、詰め将棋は誰しもが最善手を打てるものじゃありませんから。お手並み拝見と行きましょう」
棄て台詞を吐いて、自分は力を込めた。間髪をいれず風見幽香の膂力が圧し、爆ぜる。
負けは確定している。それこそハンドレッドだ。
剛力に弾かれて距離を開けられたところに不可避の光弾が直撃し、機動力の破壊か心頭滅却の致命傷をもたらして、ジ・エンド。最終最後の攻撃だ、威力は容赦ないものに違いない。
それはお互い読めてる。でも、お嬢さん、これらは読めやしねーでしょ。ビックリの三重奏を食らいやがれ。
一つ目。
幽香嬢の視界に吹っ飛ばされた蜥蜴の全身が入り、その変異は彼女の表情に戸惑いを生じさせる。スリムになっていた。肩から両腕の付け根がポロリと外れていた分だけ。
二つ目。
彼女は両頬に冷たさを感じてさらに戸惑う。数ミリの雪の破片だ。宙に取り残されたようになっている両腕──今は彼女の真横にある──その指先から飛ばされたものだ。
雪はどこにあった? 爪の間にだ。
なぜ融けなかった? オサガメの特性を使わなければ、変温動物ゆえに体温は周囲に依る。
狙い通りだった? イエス、オフコース!
しかし、失点をダブルでもらいながらも、傘の先端は正確に蜥蜴の頭部へと向く。それをそらすための腕はなく、かわすための体勢も取れない。
三つ目。
とどめが発射される直前、自分は叫んでいた。台詞の内容に幽香氏の目が丸くなる。
以上、おしまい。
白光が網膜を焼いたと認識した瞬間、大きく開けた口内に極大の破壊力を受けた。どうにか脳は、と蛇の特性で顎の関節や骨を分割して限界まで口を開いたが、悪あがきもいいとこだ。
11号か13号かはともかく、自分の上あごから上はアポロのように空高く打ち上げられた。強めのG。そして頂点へ。
飛ぶ能力のない自分には、高所から「沼」を眺めるのは新鮮だった。まったく天にも昇る気持ちだよ。昇天しちゃいそうだね。
ミロのビーナスからサモトラケのニケに格上げされた蜥蜴の身体、その前に立つ風見幽香が見上げている。そして、周囲を巡る多くの面々──吸血鬼、メイド、チビ黒、蠅、剣士、幽霊、魔女、氷精、住人たち……みんなみんなが見上げていた。観客はさらに増えていたんだな。最後の場面だけでも目にした者は結構いたろう。
どうだったかな、花と蜥蜴の本番まな板ショーは。まな板の上の蜥蜴を花板がさばく様、楽しんでくれたなら幸いだね。他方、気に障ったことでもあったら……そこはまあ「お障り厳禁」ってことで自己処理しといてくれ。
さて、馬鹿なことを考えられるのもこれまでのようだ。やれやれ、生来の軟弱者にゃハードボイルドは似合わないんだがなぁ。
頭への直撃は免れたものの圧倒的熱量が口内から血肉を通じて伝導され、結局脳みそは「固茹で」された。意識は白濁のうちに消失。
▲ △ ▲
「お疲れ様だな。ティーブレイクと行こう」
黒い生首に隻眼を細めて、長が言う。そのまま浮遊して横に流れる。
「ティーブレイク──お茶を壊すとは、『無茶』なお前さんにはふさわしいだろうしな」
なら紅茶とは言わないまでも、出花の番茶の一杯でも出したらどうだよ。そう心で愚痴りつつ、白く光る霧に包まれた場所で、立っているのか座っているのかも定かでない状態のまま、言葉を紡ぐ。
「ちるひとつ 咲のも一つ 帰り花」
「うん? 花を愛で、花のように美しく花摘みに行く俺へのラブコールかな?」
「お茶関連ってことで、小林一茶ですよ。そして長でなく、自分を評する一句です」
「自分のようなアダ花はそうあるべきだ、ということかな。省かれ者の中のさらに異端な自分は」
「ええ、認識は一致しているでしょう? だから全部自分に一任して、長の名前を使うことまで許可した。全責任を負わせていつでも切り捨てられるから、『おいた』することも予測している」
長は宙を浮いて周りを巡る。自分はそれを目だけで追う。
「そうであろうとお前さんはかまわないか。蜥蜴の尻尾と扱われても不満はないと」
「ないですね。他人がどう思おうと、どう扱おうと、自分が楽しければそれでいいので」
「それゆえの無茶」
「ええ、体を張る。命を懸ける。そういうのを観念でなしに現実として行うのは、恐ろしくて楽しいですよ。全身の細胞を、めいいっぱいの精神力を、フル稼働させられる」
「『生きる』、その実感を得られる」
「世界を肯定する一瞬を獲得できる」
「充実した生で心を満たせる」
「素晴らしき哉、人生!」
ふっ、と耳元で鼻息をつかれる。
「滑稽にも程があるな」
「でしょうね」
自分も鼻で笑っていた。
冷めた目で見りゃこんな馬鹿げたことはない。まともな生物なら絶対しないだろう。
当り前の話だ。生きるために死の危険に近づくのは矛盾している。
生きるために外敵と闘ったり、反撃能力を備えた獲物を狙ったりするのとは、まるで違う。そういう意味のある行為とは違い、自分の場合は成功しても何も得られない。ただただ自分個人が楽しむという目的しかない。
チンピラがチキンレースするのと何が違う? 事故死したって社会的には何にも称えられない馬鹿馬鹿しい生き方。まったく滑稽だ。
「だが、滑稽であっても無意味ではないぞ。お前さんが楽しむ以上のものは生まれている。大きな意味を有するものが」
「え?」
今の、口に出してたかな。
「だから、切り捨てるつもりはないさ。そんなもったいないことはしない。イソップ童話に学ぶ程度の分別はあるんだ。爬虫類は卵生だろう? 今後も金の卵を生み続けてくれ」
自分は雄ですよ、と返そうとして返せなかったのはなぜだろう。
どういうことかと考えてしまったからか、白い霧が輝きを増して長も自分も周囲も包み込んでしまったからか。
その思考も白く消える。
▲ △ ▲
(…………夢オチか)
雪の冷たさと夕陽のまぶしさに意識を覚醒させ、仰向けに横たわっている自分を認識する。その身体は治療の真っ最中だった。
首や口、腕の断面に無数のウジ虫がうごめいている。おびただしい白の幼虫がクチクチと肉に吸いついている。横に置かれた尻尾にも根元にびっしりたかっていた。
恐らくは脳ミソについても頭蓋骨の内側に潜り込んで食事兼治療をしたのだろう。全体的には未だ重傷でも、行動不能からは立ち直った。
戦時中、負傷兵にウジ虫がわくことは珍しくなかったが、なぜかウジ虫がわかない場合に比べて生存率が高いようであると、経験的に言われていた。
根拠はある。
ウジ虫はニクバエ系などの例外を除き、基本的には死んだ細胞しか食べない。これによって生きた細胞のみが残ることになり、回復が早まるのだ。さらに、ウジ虫が分泌する物質は抗菌作用や細胞分裂促進効果があるため、一層回復は早まる。
これらが科学的に解明された現在、医療現場にもマゴットセラピー、すなわちウジ虫治療の名で取り入れられている。それが今まさに自分の身体に施されているわけだが、うむ、最先端医療の恩恵に預かれるとはありがたいね。
しかもエンジェル的ナースの手ずからだ。
眼球を傍らに立つ蠅ちゃんへと動かすと、こんなにもすぐ意識が戻るとは思ってなかったのか、目が合った途端にそっぽを向かれた。
「長の命令だから仕方なくだよ。お前なんかで腹いっぱいになりたかねェのに」
はい、ツンデレ満タン入りましたー。
丁寧な仕事をしてくれてるのは丸わかりだってのに、可愛いね。脳の機能が戻ってからは身体の損傷は修復しやすい。口の回復を重点的に行って、早くからかいの言葉を掛けてやりたくなる。
が、その前にこちらが他所から声を掛けられた。
「楽しませてもらったぞ」
雪の踏まれる音と共に述べたのは、尊大なる幼女。メイド長の差す日傘の下で、酒杯を片手にご満悦の表情だ。
酒杯……視界をギョロリと巡らすと、大の字に寝そべっている自分を中心に大勢が取り囲んでいて、それぞれが酒やツマミを味わっているのが映る。
日の傾き具合からするとそれなりに時間が経過していたらしいが、その間に宴会の場をここに移したんだろう。まな板ショーはともかく、蜥蜴の刺身を酒の肴にするとは、そろいもそろってゲテモノ食いかよ。
「策を弄することをここまで重ねた弾幕勝負は、新鮮な面白みがあったな」
そりゃどうも。
まあ、レミリア嬢の前に立って弾幕勝負ができるような実力者は、正々堂々真正面から力をぶつけてくるタイプしかいないだろうからな。実力のじの字もない蜥蜴の戦い方は、もの珍しかったろう。
「わたくしも楽しませてもらいましたわ」
メイド長も言った。
「爬虫類の様々な部位が中身を覗かせるたびに、胸のすく思いでしたわ」
ソリャドーモ。
まあ、この短時間に目立つところだけでも足・目・尻尾・胸・腕・口が千切れたりえぐられたりしてるからな。このペースで切り刻まれたら明日にはグラムあたりいくらかで肉屋の店頭に並ぶんじゃなかろうかと危惧するほどだったので、ミス切り裂きジャックにとって垂涎の解体シーンには違いなかったろう。
とにかく一番の目標である、紅魔館の主従の満足はどちらも達成できたわけだ。
めでたしめでたし。
「回復したようね、名無しの蜥蜴さん」
そうは問屋が卸さないと、もう一方の攻撃的ゲストが声を掛けてきた。こちらも片手に酒杯。
(…………)
助けてくださいよ、と紅い悪魔&悪魔の犬にアイコンタクトを試みるも、ニヤニヤ笑いのまま脇に退かれた。いい見世物扱いは継続中か。
「最後の台詞、どういうこと?」
やっぱり尋ねてきた。さっさと帰りもせず、蜥蜴にとどめを刺しもせずにいたのは、それを聞きたいがためだろう。生かしてくれたのは嬉しいが、負け犬の遠吠えと割り切ってどうかご帰宅願いたいところなんだがなぁ。
未だ下顎と分離したままの、ウジ虫まみれな顔で笑みの形を取ろうとする。そのような努力をしている風を見せる。
──答えたくても答える口がないんですよ。
そうアピールしたのだが、傘の先端で頭頂部を圧され、下顎と密着させられる。
「三分あげるわ。これ以上レディーを待たせるほど無作法でもないわよね」
御無体な。瞬間接着剤を使った工作じゃないんだから。
けど、やってやれないこともなかった。焼けた舌は回復していたし、まがりなりにも顎がくっつけばしゃべることはできる。治癒能力を全て一点に注力すれば……
「さ、答えてもらいましょう」
え、ちょっと、そりゃ早くないですか? フライングした審判に抗議したかったが、私がルールよと言わんばかりの強権的存在には従うしかない。機嫌の上下は死の遠近と同値だ。
「ふぁれふぁ、たとeヴぁしょウぎの」
「何を言ってるのかしら」
やっぱり無理があった。あちこちから空気が漏れて言葉にならない。うわー、気分を害してしまったかな。これをネタにギャグをかませないかと思考を巡らせていると、
「『それは、たとえば将棋の』だな」
聞き覚えのある声。見るとさくさくと足音を立て氷精ちゃんが近づいてくる。声の主は抱きかかえられた長だった。面白そうに霧雨魔理沙もついてくる。
「ふぁにふゃってるンでひゅか」
「『何やってるんですか』か。舌っ足らずで可愛さアピールを敢行してる蜥蜴をサポートしにきたのだがな」
「ひょけいな、」
「『余計なお世話』はないだろう。熱い抱擁とキスの礼くらいしてもバチは当たらんよ」
「おい、クソ蜥蜴、長に対して失礼なこと言ってんじゃねェぞ。治療やめちまうからな」
沼のアイドルがドスを利かせる。彼女の中の評価の格差が辛い。まあ、と長が髪の一房をもたげ軽く振る。
「回復するまでしばし掛かる。それまでは通訳としてここにいる意義はあると思うがな」
そう言ってから、幽香嬢に目礼する。花妖が口を開こうとすると、
「ねえ、何であたいのスペルカード使わなかったのっ、最強なのに!」
氷精ちゃんがしゃがみ込んで詰問してきた。抱えられた長も必然的に下へと持っていかれ、幽香氏と長との会話は始まりすらしないまま終わった。
氷精ちゃんからは、紅魔館訪問の際に作ってもらったスペルカードと同等のを、今回は数枚いただいてたんだった。特にお願いしたつもりもなかったのだけど、前のが役に立ったとお礼を言ったら張りきっちゃったんだな。
効果「相手は死ぬ」に匹敵するものばかりの新スペルを開発してくれた。感謝した。でも、実際の効果である「暴発」を使う機会は今回はなかったのだよね。
とりあえず苦笑でメンゴメンゴと伝えるのだけど、納得してくれない様子で「あれやってれば勝ってた」とか「カードどこにあるの。見せて」とか質問攻めをやめない。
参ったなーと愛想笑いを引きつらせていると、わめく彼女の顔がすっぽり黒い帽子に包まれた。
「あなゅき?!」
「ほれ、そんくらいで許してやれよ、チルノ。相手はまともにしゃべれないんだからさ」
帽子を脱いだ霧雨魔理沙の頭頂部にキノコがあった。金髪の上のそれをつまむと、こちらの喉奥に押し込んでくる。咀嚼できずに胃の中に落ちた。
「やるよ。万能の妙薬として有名なニセモリノカサだ。マジなところの効能は知らんけど」
「ぇつれい」
ゴホン、と咳払いして言い直す。用は済んだとばかりに、口内から十数匹の蝿が飛んでいった。
「別名アガリクスですね。副作用の懸念もあるので、そっちの呼び名の方がいい。『上がリスク』、なんてね」
「おお、効果てきめんじゃないか」
「しゃべれるようになったの!」
帽子を外した氷精ちゃんが、仰向けの自分に再び顔を近づけようとする。だが、その手の中から浮き上がった長が言った。
「会話可能になったならば通訳のお役御免だな。舞台は主役に任せて脇役は去ろう」
「えー、あたい言いたいことある」
「後にしようぜ。怖いお姉さんににらまれるぞ」
風見幽香の方へ目をやって、霧雨魔理沙は帽子を被り直した。
氷精ちゃんも最強の花妖に目をやるが、あまり意に介した風もなく、「うー、でもなぁ」と頬を膨らませて渋った。
そこに長が言う。
「こちらはこちらで楽しめばいいさ。そうだ、酒のアテにニオウシメジとセイヨウショウロのソテーを出そう。とっておきだ」
「へえ!」
魔法使いが感嘆の声を上げた。
「すげぇな! 黒か?」
「白が良ければそれもある」
「なんてこった! 是非とも両方食ってみたいぜ!」
「え、え、何? それって美味しいの?」
食いつく妖精にキノコマニアが答える。
「そりゃそうだ、セイヨウショウロっていやトリュフだぜ。世界三大珍味の一つ、高級食材だ。それも白トリュフなんて希少も希少なレアキノコだぞ。それをニオウシメジの旨味に併せるたぁな! 憎すぎる!」
「すごい! あたい、それ食べたい!」
どんな風味かは一切言及してないのに、無邪気な彼女の頭はもうトリュフでいっぱいのようだ。早くもよだれが口からあふれている。まるでトリュフ探しに使われる雌豚……って表現はちとアレかな。豚を卑下するつもりはないけれどね。
ともかく三者は離れていった。より密度を増した人垣と混ざり合う。
舞台は再び、最強と底辺の二名。衆人環視の中、感想戦ないし最終弁論の再開と相成る。
「……もういいかしら」
「ええ、大丈夫です」
だいぶ棘が削がれた幽香氏に応じる。あの他愛のないやり取りには気勢もどっかに飛んでしまうよな、わかるわかる。こちらは回復の時間が稼げて助かったけども。──あれ?
(もしかして、助けられたのか?)
タイミング良過ぎな感じだったし、長が代わりに絡まれそうだったのも偶然なのか回避されている。意図的と疑う余地はあった。
「それで、どうしてあんなことを叫んだのかしら」
声に思考は引き戻される。可能性を考えるなら、生きるか死ぬかのこっちのが重要だ。
「『参った』だなんて」
そう、自分の言葉はそれだった。そりゃ驚くだろう。勝負開始前に言ってはならないと互いに確認した台詞だ。敵前逃亡は死に値する。なのにヌケヌケと言ったのだ。
さらに点数は引き分けではなかった。
人垣の中から長の声。
「はっはっ、勝ち逃げだ、勝ち逃げ」
援護射撃はやめてくれ。跳弾でこっちが致命傷を負う。
「さあ、意図を話してもらいましょうか」
自分から勝負を投げたというのは、下手をすれば殺されて仕方ない。
「それは、ですね、」
ゆっくりと立ち上がる。右腕はかろうじてつながっていたが、左腕は接合が緩いので、右手で肩を押さえる。尻尾はほっとく。胸はまだズキズキ痛む。
周囲の緊張は、張りつめたシルクのようになって、今にもビリッと破けそうだ。その時は絹を裂いたような叫びが上がるんだろう。
そう、殺されて仕方ない、下手をすれば──幽香氏の思慮が浅ければ──そして、彼女の思慮は浅くない。
ゆえに、自分は落ち着いていた。
「言葉通り『参った』ですよ。それ以上でもそれ以下でもありません」
「あなたの上司も言っている『勝ち逃げ』ではないの」
「勝ってもいないし、逃げてもいないでしょう。あそこから逆転できましたか? あなたが自分に向けて発射した時点で、勝負は決していたんです。顔面セーフというルールはなく、脳幹やられたのはノーカンとはいかない。だから、潔く負けを認めました。王手詰みが確定したら、何十手前であっても『参りました』と宣言するのはむしろ礼儀でしょう」
勝負を投げた。投げたは投げたが、「投了」の投げただ。
レミリア嬢はわかっていた。だから、満足の言葉を述べた。幽香嬢もわかっていた。だから、即座に殺さなかった。これは単なる確認だ。
「だったら、私の顔に何も飛ばす必要はなかったじゃない。ただの嫌がらせ?」
「あれで動揺して隙でもできれば儲けものだったのですが、さすがに最強の名は伊達ではないですね、心まで鉄壁のあなたはその後の手順を誤ることはなかった。見事です。スペルカードの一枚も使わずに、圧倒的な差を見せつけての見事な勝利です」
そうは言うものの、納得はいかないだろう。自分も長にさっさと負けを宣言されたときには、勝ちの充足感など得られなかったし。手の平の上という気がしてならないのだよね、予想を超えてそんなことされると。
悪いことしたかな。でも、あの状況では他にベストと呼べるものはなかった。
障害物競争。相手はスポーツ選手、こちらは子供で、盲目で、両腕が肩から無い。この場合、単純な徒競争でないところを利して勝ちの手をいくつも考えるのは当然として、では、どうしても勝ち目がなくなったらどうする?
コースを外れて棄権するのでは敵前逃亡のペナルティーが課せられる。自分がやったのはそんな悪手ではない。全速力で障害物にぶつかりにいき、派手に自爆してリタイア。これなら勝負を投げたのでなく不可抗力だったという言い訳ができる。
負けはしているさ。でも、観客は沸かせられるだろう。障害物に躊躇しないだけ、一瞬でもスポーツ選手を抜くことだってできたりしてな。自分は勝ち方を13通り考えてきたが、負け方は42通り考えてきた。
幽香嬢はため息をついた。
「あなたの『吹っ飛んだ思考』と『手癖の悪さ』には恐れ入ったわ」
「お褒めいただき恐悦至極。『手放し』じゃ喜べないですがね」
パンパンパンと音が立つ。拍手──レミリア嬢のものだ。拍手は同調者を生み、さざ波のように広がっていく。これが本来の援護射撃だ、参考にしとけ、チビ黒。
この拍手が互いの健闘を称えるものか、あるいは風見幽香の勝利を祝うものかは定かでない。曖昧だからこそ全てをうやむやに、まっさらに、ノーサイドにしてしまおうという流れを作り出す。
風見幽香の勝利により、この勝負は円満に終わりを迎える。それでいい。それが自分にとっても望ましい結末だ。拍手なだけに、手打ちといこう、ってね。
幽香嬢が周りに目を巡らしている。かすかに険がある。
うん、蜥蜴に対する遺恨がなくなったのはありがたいが、ちょっと拍手が大げさだね。鳴りやむ気配もないし。
自分も周囲を見回し、そして、ちょいと奥歯に力が入ってしまった。
「沼」の住人たちの瞳がすごいことになってる。満天の星々のようにこぞって輝いていた。拍手に熱もこもるはずだ。恒星だものな。
いや、困ったね。これは明らかに蜥蜴に向けられた眼差しと拍手だ。称賛、そして憧れが込められている。どこかで懸念していたことが現実になってしまった。
これは「沼」にとっちゃまずいだろう。長は予測してたのか?
ピエロを笑うんじゃなく、剣奴に興奮するんでもなく、演者に憧れるっていうのは──自分も舞台に上がりたいってことだぞ。
底辺が最強相手に勝負を挑み、生きて帰るだけじゃなく出し抜いてみせる。それを自分らもやってみたいと思ってるんだぞ。
群れの全体にそんな願望が行きわたったら、蜥蜴一匹のやんちゃで話が済まなくなる。
底辺同士で固まって、黙ってひたすら見下されていたから、「沼」は平穏にやっていけたんだ。看過されてきたんだ。それが変わってしまったら他から怒りを買っても不思議ないんだけどな。
そりゃ怒るだろう、這いつくばっていた奴らが生き生きとした目でちょっかいを掛けてくるなんて、優越感の美酒を傾けていたのをはたき落されるようなもんなんだから。
身の程知らずを徹底的に叩きつぶしにくるかもよ? トップレベルか、あるいは大集団が。「沼」存亡の危機につながってるじゃないか。
いや、「沼」周辺で収まるか? それどころの話じゃなくなるぞ。ビリを作ることで安定していた上下社会が崩れるとなると、土台の不具合が屋根にまで達するような連鎖反応で、最悪幻想郷全体に問題が波及する可能性も──……
(…………)
「…………」
嘘だろ。
まさか。おい、まさか。
そうなのか? マジで? あいつは、あのチビ黒は、
──「それ」こそが目的で!
信じがたい。だが、確かに言葉通りだ。否定しようもなく、これは、「一人ではできない楽しみ」だ。
紅魔館や風見幽香を相手にしたとき以上のものが、起こる。自分単独では起こせるはずもないことが、起こる。ことによっちゃ異変レベルの、だ。
治り切ってない胸から、痛み以外の感覚が立ち上ってきた。大いなる渦中にあるという想い。イメージだけでわくわくしてきた。ああ、ったく、認めるしかないな。あの野郎、酔狂のランクが桁違いだ!
いやいや、待て待て。勝手に盛り上がるな。個々人の話じゃないだろう。長や自分はともかく、潰しに来る圧倒的パワーに対峙するなんぞ、拍手してる彼らが望むはずは…………それこそ違うか。
蜥蜴が身体をバラバラにされて、死のピンチをお歳暮並のセットでお届けされたのを彼らは目の当たりにした。にも関わらずの望みなんだ。艱難辛苦は承知の上だろう。今更なことだ。
周囲から、「沼」の住人たちから、変なオーラが立ち上っているのを感じる。高揚感が揺らめいて渦を巻き、空にまであがっている。ゴッホの絵画かいな。
……いやいや、やっぱりダメだ。みんな一時の高揚感に酔ってるだけで、広く物事を見ていない。自分一人が命を棄てる覚悟を持っていれば足りる話じゃないんだ。
この勝負、わずかにでも観戦することを避けた者は少なくない。今までの安定をこれからも望み、いざこざには巻き込まれたくないとするはずだ。彼らを巻き込むことまで考えているか? そりゃ自分が言えた義理じゃないのは重々承知だけどさ。
外部からの脅威だけじゃなく、内部からのことも考えないといけない。
強者に挑戦する、高みを目指す。それは「沼」にとっちゃ禁忌だろう。そういったものを避けて「沼」に集まったというのに、自ら競争しちゃうのか? それは必然的な差別を生む。被差別者たちの中にも差別はあるって事例を、「沼」にも生じさせることになるぞ。
外から内からのトラブルに翻弄されるまさしく外憂内患に陥り、「沼」は崩壊する。そんな危機まで想定してないよな、みんな。
長が外部の圧力をそらし、内部のいさかいをなだめるとか、あれこれ手を回せばどうにかなるんだろうか。どうにでもできそうな気はする。しかし、どれほどの手間なんだ。「沼」全体、幻想郷全体を把握し、調整するなんて面倒臭いにもほどがあるだろう。紅魔館や今回の一件だけでも大変だったのに──って、おい。とんでもないことに気づいた。
そういや、あいつ、何にもしてねぇ。
人に任せっきりだ。強者との勝負も、その準備も後処理も、ほとんど全て。
そりゃ自分は好きでやったことだから、当事者としていろいろ背負うのはかまわないよ。けど、お前だって好き者の当事者には違いないじゃないか。高みの見物を決め込んでいい立場じゃないだろ。
まさか、そのまま後の大騒動まで人任せにするつもりか? さすがに不可能だろ。もう直接関わりまくるしか道はない。長自ら動く以外は無理だ。外部の強者と渡り合い、内部の面々と交流して調整して使役するなんてこと、やれるとしたらチビ黒の、み、
「 」
絶句する。ハッと視線を感じた方を見れば、隻眼と目が合った。細めた眼差しは心を読み取り、心を伝えてきた。
──ふざけるなよ!
叫べたら叫んでいたろう。
この野郎、幾人もの強者と渡り合い、かつ「沼」の多くの面々と交渉して協力した蜥蜴に、全てを背負わせる算段だ。それができる能力を本件で証明した、いや、能力を養わせた? だから、今後も高みの見物を決め込めるってか。
冗談じゃない。そんなものおっ被らせられてたまるか。やる義務はないんだ、さっさと「沼」からおさらばするのに抵抗はナッシング。単独で気ままに生きてきた、元の毎日に戻らせてもらうさ。グッバイ、アディオス、いざさらば!
断ち切るように長から目をそらす。
(はぁ~、情けない)
とっくに詰まれているのに、脅し文句も捨て台詞もないよな。心の中のことだろうと、負け惜しみは惨めさの上塗りだ。
去れない。自分は「沼」に居続ける。
こんな魅力的な場所を見限るのは無理だ。ここ以外にどこで得られる? 「一人ではできない楽しみ」を。文字通り一人では得られず、その渦中は「沼」。離れるなんてもったいないお化けが百鬼夜行だ。
そしてもう一つ。
こんなことを考える自分も意外なのだが、
(いや、本当に意外なんだが、)
今回の件は自分が考え、他者を動かし、大勢に影響を与えたわけで……「ちょっと自分探しの旅に行ってきます」とかでサヨナラとするには、どうも気が引ける。自分が引き金を引いた災厄で「沼」の全滅てなことになっても寝覚めが悪い。
今まで行動も責任も価値観も自分個人の範囲で収まっていたのになぁ。自分は自分、他人は他人が今や過去形とはね。蠅ちゃん、ミョニョコン、犬と鶏のオシドリ夫婦……多くの連中と多くの時間関わり過ぎたか。
(関わらせられ過ぎた、とも言えるか)
長は自分のこの変化も計算の内かね。まあ、ありえる、どころか、確実だろう。
いい管理職になるんだろうな、自分は。あるいは抑止力と推進力か。
突き進み、競争する危うさを知っているから、連中の行き過ぎを止める。しかし、スリルを求める気持ちが根本にあるから、一方では焚き付ける。
火遊びも競争もなくならず、諸問題は取り返しがつかなくなる前に対処される。そうやって上手いこと調整し続けていけば、挑戦や競争、成長はデメリットなく行われることになり、そうして──
群れ全体が向上する。
異変にも対峙できるほどの力を持つわけだ。
……恐ろしいな。考えれば考えるほど、どこまで読んでいたのか見当もつかなくなる。
チビ黒に一泡吹かせると考えていた自分が身の程知らずだったってことか? 違うね。どこまでも底辺な自分の身の程は、存分に知っている。その上で天に唾する真似は幾らでもしてきた。どの高みにいようが、ギャフンと言わせてやるさ。いつでもその機会を狙う。
「それで、尋ねたいことがあるのだけど、いい?」
「あ、ええ」
拍手が収まってきた辺りで、風見幽香が話しかけてくる。長に何かする前に、こっちの対処を済ませないとか。
「あなたが勝っていた場合、どんなことを要求するつもりだったのかしら」
前振りだな。そうか、そう来るか。期待が膨らむ。
「そんな、要求だなんて。ご足労掛けた上、胸を貸していただけただけで十分ですよ」
「弾幕勝負は何かを賭けるものでしょう。それが何かは事前に取り決めておくべきだったけど、後から言っても私は了承してたわよ」
身命を賭けて享楽を得た。自分はそれで十分だったが、こう答えておく。
「そうですね、それはちょっと『ミズヒキソウ』ですね」
「【思案】ね」
「うーん、敢えて言うなら『宴会に参加してもらうこと』でしょうか。にぎやかになるし、あなたにも楽しんでもらいたい」
「あなたが勝った場合はそうだったのね。じゃあ、実際に勝った私の要求を聞いてもらえるかしら」
本題が来たな。
拍手が長く大きいものであり過ぎた。幽香氏にとっちゃ自分がダシに使われた感も出てくるよな。蜥蜴にチクリとした意趣返しをしたくもなるか。
さて、期待通りであることを祈る。
「あなた、『沼』は自然豊かだって言ってたわよね。咲いてる花にも詳しそうだし。だから、『沼』の花々を私に案内しなさいな」
思わずガッツポーズを取っていた。もちろん心中で。
素晴らしい。さすがは最強の花の妖怪。まかぬ種は生えぬというが、まいた種が生えるとは限らない。それを一気に開花にまで持っていってくれるなんてな。さあ、後は結実までの手順を踏むだけだ。
「了解しました。しかしながら、花々や『沼』の植生については聞きかじりなんですよ。案内は適任者にやってもらいましょう」
「適任者?」
「そうです。それは何を隠そう、うちの長です!」
完全癒着した腕をチビ黒に向けて伸ばす。
紅魔館での後処理はレミリア嬢への接待という形で、こちらに押し付けられた。今度は幽香嬢への接待という形で、そちらに押し付けてやる。
風見幽香は蜥蜴をストレス責めしようと意図していたのだろうけど、申し訳ないが利用させてもらおう。
「『沼』周辺の草花について博識とは本人の弁です。ご満足いただけるツアーを提供してくれることでしょう!」
言質は取ってある。『沼』の命運が掛かってるなら協力は惜しまないとも言ってたよな。
「私はあなたに案内してもらいたいのだけど」
「ええ、その際は自分も随伴いたします。けれど、やはり満足いく解説は長でないとできません」
随伴といっても始めのうちだけね。沼巡りツアーは、進むにつれて解説役がメインとなっていき、同時に自分は端役になっていくだろう。遅かれ早かれ、こっそりフェードアウトするつもりだ。
人垣から長がスイーっと飛んできた。今更何を言い繕うかね。投了宣言でもしてくれれば愉快なんだが。
「これは、長。以降はよろしくお願いします。いやー、自分が案内できれば良かったのですが、何ぶん無い袖は振れず、無い頭は振っても空っぽでして」
ニヤける自分に向かって、長は「ほい」と白い物を投げてよこした。髪から手へと渡ったそれは、手帳ほどの大きさの小冊子。
「何です、これ?」
嫌な予感がした。長の口角が上がっている。
「カミの助けだ。中に地図も挟んである」
パラパラとめくると各ページには花の解説がずらりと並んでいた。番号・花の名前・花言葉・雑学的なエピソード。色つきのイラストまで描かれている。
(ガイドブックだと?!)
挟まれた地図を広げると、「沼」の周辺全体。ここそこに書き込まれている番号は、ガイドブックのそれと対応しているのだろう。完璧だった。愕然とするほど完璧だった。
「自信作さ。これを用いればお前さんにも花々の解説ができる。俺の手を借りるまでもないわけだな」
「……いつ?」
思わず聞いていた。悔しいが完敗だ。ガイドブックはその場で用意できるものじゃない。早い段階でこちらの意図を読み取り、作り始めてないと……しかし、それはいつからだ。いつ読み切った。
長に対しての仕掛けを思いつき、言質を取る形で最初の仕込みをしたのだったが、その時に「カミの助け」という言葉が放られた。まさかそこからか? 初手を打ち込んだ直後に、的確な受け手を指し返したのか?
内面の疑問に対するように長は、うむ、と頷いて、言った。
「こうなるという確信はついさっきまでもなかったさ。ただ、こうしてくるかもしれないという可能性は考えていた。お前さんがキノコについて尋ねてきた段階でな。それで、使われないかもしれない備えをとりあえずしておいたってわけさ」
そっからかよ……。想定以上に早いし、最善手だ。こっちの手は運とチャンスと偶然とタイミングに頼った曖昧なもんだったが、だからこそ相手には読まれないものと思い込んでいた。可能性に備えるか。自分も幽香氏との対戦に際して勝ち負け合計55通り考えていた。自分がやっていたことを、自分がやられるのは想定外にしていたなんて、間抜けにも程がある。
ああ、くそ。まさにクソだ。「自らの手でウンをつかめ」──見事に糞(ババ)をつかまされた。酷いオチを付けやがって。
と、デジャヴ。レミリア・スカーレットが笑みを向けているのが視界に入る。いつか目の当たりにした、モズのハヤニエを見るような悪魔的素敵スマイル。
そして、今回はその従者も隣で同じ笑みを浮かべていた。うん、今日一番の笑顔ですね、十六夜咲夜さん。何かいいことあったんでしょうか。
気づけば、同じ笑顔が幾つもあった。長や蠅ちゃんは当然として、霧雨魔理沙や西行寺幽々子、控えめながらも魂魄妖夢でさえ嗜虐さ溢れる喜色を浮かべている。
というか、全体的に視線という視線が生暖かいんだが? さっきまでの拍手喝采はどこ行ったよ? それとも弱みのある英雄は魅力的か?
はいはい、好きに味わってくれればいいさ。連戦連敗、完膚無きまでにやられた爬虫類は酒のツマミにゃオツなもんだろう。
けれど、覚悟しておくことだな。観戦者の立場は安定したものじゃない。みんな等しく盤上の存在なんだ。望まなくとも駒や指し手として引っ張り出されるかもしれないぞ。
ああ、いつか全員引っ張り出してやる。世界がひっくり返るような一手を打ちこんでやる。覚えてろよ、いつか来るその時まで────その時まで…………あー、うん、
「じゃあ、当初の要望通り、あなたにやってもらうわね」
「ええと、風見幽香さん、血の雨も降ったし、雨天順延といきませんか?」
「あなたにとってはハレの舞台でしょ。それとも私の顔を曇らせる気? 改めて雨を降らせたいならそれでもいいけど、や っ て く れ る わ よ ね ?」
「……ヨロコンデー」
「楽しみだわ。私に一杯食わせた蜥蜴さんがどんなツアーを企画してくれるのか。心傷を癒してくれるものに決まっているけど、塩を擦り込むようなのだったら、相応の痛みは返さないとね。本当にどんなものか楽しみだわ」
いつか来るその時まで、針のむしろの中、死なずにいなきゃならないようだ。地獄でさえもここよか天国だろう。はは、楽しいね。
OK。考えましょう。命を懸けて編み出しましょう。
次に打つべき至高の一手を。
バトルは。