・作品集51に投稿した「無重力落下 -Stand By Me-」の続編です。
・読んでなくても特に問題ないよとかそういう親切仕様は全くなく、読んでないとさっぱり話がわからない身勝手仕様です。
・前作のラストが気に入っている方は読まないのも自由です。
この先、一巡後の世界
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「君は『引力』を信じるか? 人と人の間には『引力』があるということを………………」
エンリコ・プッチ神父
ジョジョの奇妙な冒険 第六部・ストーンオーシャンより
見知った客だったので、水煙草に火を点けた。
席についた香霖はパイプを口に含む。落ち着かなさげにレンズ越しの視線があちこちに飛んでいた。
「あいかわらず殺風景だね。ちゃんと食べているのかい?」
「拾い物で食い繋いでいるお前にゃ言われたかないな」
「捨てる神あれば拾う神有りだ。魔理沙はどうだい、景気は?」
「霖之助さんと違って食べてはいられますわ」
自転車操業だがな、とはさすがに言えなかった。世の中には弱みを見せていい相手と悪い相手がいる。
香霖はそうかい、と煙を吐き出した。私も煙を肴にしてちびちび珈琲を飲みながら雑談を進める。
「それで、出不精の香霖が人里(ここ)まで来たのは私の清貧っぷりをあざ笑いながら水パイプをたかるためじゃないんだろ」
「水煙草を僕からたかったのは魔理沙の方だろう」
「私は普及させただけだ。構造を調べて設計図を自ら作ってだな。使用方法をお前と違ってまともな道具屋に設計図ごと売り込んで、うららかな午後を煙で演出するという流行を作ったのはこの私だ。こんな楽しみを独り占めしていたなんて霖之助さんは吝嗇家ですわね」
「確かに河童の造った水パイプは見た目だけでも十分に美しいが……。人の商品の希少価値をだね」
「非売品にしてたじゃないか」
「だから希少性が高かったんだ」
「流行すれば水パイプ用の煙草も種類が増える。楽しみが増えるじゃないか。だから私は独り占めはケチって言ったんだよ」
「屁理屈が最近はある程度筋の通った理屈をこねるようになったから、始末に負えなくなったな……」
そういう香霖は偏屈屋である。結構似たもの同士な私たちの気が合うのは、異性同士だからかもしれない。これが同性だといがみ合ったことうけあいだろう。
まあ香霖に男らしさを感じたことは皆無なのだけれど。
「それで、ひきこもり屋の霖之助さんが私の店までやって来たのは水パイプが燃え尽きるまで雑談するためではないでしょう?」
「ああ。最近魔法の森に見かけない妖怪が訪れるようになってね」
「迷惑でもしているのか?」
「そういうわけじゃないんだが、うるさいし、なんとなく不気味だから様子を見てくれないか」
「あの森は魔法使い以外の妖怪にとっちゃ居心地の悪い場所のはずなんだがな。具体的にどのあたりにその妖怪は出てくるんだ?」
「君が住んでいた家だ」
私は不味そうな顔で煙を呑んでいたに違いない。
数年前、私は長年住んでいた魔法の森の屋敷から引き払い人里に引っ越した。瘴気に当てられ、体調を崩すようになってきたからだ。
人通りのない場所の一人暮らしでは、ちょっとした身体の不調がそのまま命取りになる。当時の私は、少し歩いただけで眩暈息切れを起こす始末だった。香霖にこんこんと説教され、命には替えられれぬと出て行かざるを得なかったのだ。
十代の頃は瘴気など跳ね除けるくらいの元気と勢いがあったのだが。二十代前半にして、私は既に全盛期から下り坂を歩み始めているらしい。
「困りましたわ。あの時、まともに引越しできる体力なんてありませんでしたからほとんどの荷物は置きっぱなし……」
「僕も回収できるもの回収したかったが、爆発物が混じっていると言われちゃあな。命が惜しい」
「一つ二つや三つや四つは妖怪化してもおかしくないアイテムに心当たりが……」
「不発弾回収か地雷回収か微妙なところだね」
「まさかかつての我が家がダンジョンになろうとは……」
「特に蛇も鬼も出なくても、報酬は出そう。何せかつての魔理沙の家だから、大したことの無い事件なのかもしれない」
「聞き捨てならない言葉だが、報酬確実は絶対だな? では、依頼は受けましたわ」
昔は成功払いをしていたが、今はそんな余裕などない。少なくとも必要経費くらいの報酬は貰わないと首が回らなくなってしまう。
それもこれも魔法の森を出たからだ。毎日キノコの様子が見れないから成長状態の予測が曖昧になり、良質のキノコを最適な時期に刈り取ることができなくなる。私の魔法は魔法の森のキノコに頼っているものが多かったため、直接の痛手となった。
また、魔法の森は瘴気に満ちているが高山トレーニングで肺活量が上がる現象と同じように、長く暮らすことで潜在的な魔力が上昇する効果があった。人里の生ぬるい空気に浸かって暮らす今の私は、十八番のマスタースパークですら一日に数発しか撃てなくなってしまった。
今の私は妖怪退治屋としてはなんとかやって行けているが、魔法使いとしてはとても中途半端だ。使う道具さえ満足に仕入れできなくなると、退治屋すら廃業してただの人間としてしかやって行けなくなるだろう。
「それと魔理沙。伝言なんだが」
「また親父か」
私がなんとか自転車操業を守ろうとしている最大の原因を、香霖は申し訳なさそうに言った。
「家出のことは水に流すからって……」
「私の前に顔すら出さないで、よくそんなことが言えるもんだ。私はちゃんと一人でやってけている。親父こそ自分の心配したらどうだって伝えてくれ」
「親父さんはちゃんと自分の心配はしているさ。だからこそ、跡継ぎとして魔理沙に居てほしいんだよ」
「自分の好き勝手やりたいがために独立して、跡継ぎの座から降りたお前が言うなよ」
「僕じゃ看板を傾けたさ。今の商売っぷりを見たらわかるだろう?」
「私だって本格的に商売手伝う前に魔法使いになったんだ。今更堅気の仕事なんて覚えられるもんか」
水パイプを咥え、苦味の混じった煙を私は吐き出した。
夢というのは浅い眠りの時に見るものらしい。
頭は起きているが身体は眠っている状態だ。これが少々食い違うと明晰夢となったりして、金縛りなんていうありもしない怪現象に悩まされることになる。もちろん、実際幽霊に乗っかられて起きるに起きられなかった経験は何度もあるが。
けれど、そういうのとは少々違う感覚を、私はよく夢うつつに感じ取っていた。
私の傍に誰かがいる。ひどくかすかな気配で息遣いさえ感じられないのだが、居るということだけは確信できる。
何かに憑かれているというわけでもないので、私の心に何か引っかかる部分があるのかもしれない。心の影が表層意識に何か呼びかけたいことがある、という考え方だ。
だが、私はどうしてもその気配が心の影だろうが無意識だろうがなんだろうが、結局のところ自分と同じものだとは思えなかった。
私自身より大切な、私自身を形作るうえで欠かせない他の存在。そんなもののような気がしていた。
魔法の森に建てた屋敷の頃とは比べ物にならないくらい、小さな部屋で私は目を覚ました。
夢枕に立っていた気配が具現化しているはずもなく、一人だ。必要の無い日用品は置いていない、整理された部屋だった。
人里の離れに建てた小屋のような我が家は、いつも得体の知れない沈黙を湛えて私の気持ちを沈みこませる。そんな雰囲気を作り出しているのは間違いなく私自身だった。
酔いが回ったアリスに以前、言われたことがある。
奴とは何度か組んで異変を解決したこともあったが、あいつは私の魔法の実力そのものに関しては歯牙にもかけていなかった。おそらくパチュリーもそうだろう。それでも相棒として私を選んだのは人間だったからであり、人間でありながら決して気持ちの上では自分たちに負けていなかったから気持ちよく力を貸し借りできたのだと、奴は言っていた。
全て過去形で話された。それに気づいたのも酔いが冷めて宴会の席を立った翌日の我が家でだった。
私とアリスたちの実力差は、子供の頃からさして変わりはない。奴らは着実に腕を上げているだろうが元のレベルが高い故に、その上達も微々たるものだ。反面子供の私は未熟だったから上達速度は奴らと比べ物にならなかった。このまま腕を上げ続けていけばやがては追いつき、いつかは追い越せるものだと信じていたし、アリスもそう思っていたから内心見下しはしながらも対等に付き合ってくれていたのだ。
魔法の森から追い出された私は研究どころか日々の糧を得るために魔法を使う有様だ。魔法使いとすら言えない。そんなものは、アリスたち本物の魔法使いから言わせれば魔法が使える人間にしか過ぎないのだろう。
いつのまにか、髪を掴り締めていた。手のひらを広げると何本かくすんだ金髪が抜け落ちていた。
魔法の森の瘴気がなぜ克服できなくなったのか、と私は今まで考えていた。逆転の発想が必要なのかもしれなかった。
子供の頃の私は、どうして魔法の森の瘴気に打ち勝てていたのか。そう考えるべきだったのかもしれない。
そこまで考えて、ようやく私は根本的な矛盾に気づいた。
香霖の持ってきた仕事が無ければ、私は森に食われた屋敷とすら面と向かい合うことができなかったのだ。
気が付けば、またも髪を握り締めていた。ぱさつくばかりの毎日である。
魔法の森には今もよく通っている。常人なら妖精の悪戯のせいもあって迷うこと必至の森だが、私にとっては未だに庭のようなものだ。
とはいえキノコ狩り以外の目的で来たのは本当に久しぶりだ。自分の家を訪れるのに至っては引越し荷物の運搬作業が終わって以来、初めてではないだろうか。
ところで、先ほど庭のようなものと表現したが撤回しなければいけないのか。
床下から成長した木が屋根まで貫通し、壁一面を一分の隙間もなく蔓草が覆い、あちらこちらから大小色とりどりのキノコが生えた巨大な塊が、なんなのかわかっていたのに頭が一瞬理解を拒絶した。
……魔法の森は生きている。主のいなくなった家が森に食われるのは当然のことだ。しかしかなり精神的ショックの大きい光景だった。人間で良かったぜ。
それにしても、かつての我が家ながらこんな場所に訪れるような物好きな妖怪とは一体何者か。近所住まいのアリスが私の秘蔵コレクションを漁りにやって来るにはあまりに遅すぎる。光の妖精どもが里帰りして遊びに来ることはありそうだが、奴らは妖怪ほどの力は持っていない。
そもそも魔法の森は、魔法を使う妖怪以外は相性が悪くて近寄りたがらない場所のはずだ。となると、私の知らない内に魔界あたりから幻想郷へと留学しに来た新参魔法使いでも転がり込んできたか。だとすると同業者だから話がつけやすくて助かるが。
色々考えながら私は我が家の周りをうろついて、様子を探ってみた。見た感じ、蔓草を除去して侵入した形跡は無い。中に入らなければ意味がないだろうから、来訪している妖怪とやらは霊体系統だろうか。
そこに気づいたところで、香霖から聞いた妖怪の特徴が稲妻よろしくドンピシャした。香霖が迷惑しているのは、夜中だろうが朝方だろうがもちろん昼間だろうが、この家から騒音が聞こえてくることなのだ。うるさいと霊体の二つが揃えば当たりは付いている。
「プリズムリバーか」
「呼ばれて飛び出て~。どうしたの、こんなへんぴな場所に」
壁からにょっきり首だけ出して現れたのは、赤い帽子を被った騒霊三姉妹の末娘、リリカ・プリズムリバーだ。妖怪たちが集う宴会には大抵出席しては場を盛り上げる連中なので、今でも顔はよく見る。だがこうして面と向かって話をする機会は久しぶりだった。
「へんぴな場所じゃありません。人の家で何やってるんですか」
「ああやっぱり、ここあんたの家だったのね。ところで何その気持ち悪い言葉遣い」
「これでも私はお嬢様育ちでしたもの。というか宴会でも大概こんな喋り方のはずだったと思いますが」
「ほら、メイドとかと喋っている時は『だぜ~』とか言っているじゃん」
「素ですわ。それで、人の家で何をやっているの? 近隣住民が騒音で迷惑してますわ」
「音集めよ~。姉さんたちの目の届かない場所でこっそり練習もしたかったしね。いいじゃん、お友達のよしみで勘弁してよ」
そうは言ってもこの分だとそのうちアリスもキレてウチに火を放ちかねない。さぞかしよく燃えるであろうことが家主として容易に想像が付くので、色々と危険である。
白蓮あたりなら法力だかなんだか怪しげな力で壁の防音能力を高くして、リリカに便利な幽霊音楽室を与えるのだろう。奴は妖怪に甘いからな。
さて、主に退治屋を営む魔理沙さんとしては如何様にして事態を解決するべきか。
「そんなに良い音でもありますの?」
「興味深い音なら色々あるわ。特に、ほらこれ。魔理沙は一人暮らしだったでしょ?」
「まあ私についてこれる奴なんていなかったんですもの」
「それじゃこれ誰?」
全身を壁から引っ張り出してきたリリカはキーボードの鍵盤を押した。
こいつの音は姉二人と違い、精神を揺さぶる作用はない。そのかわりなんでも失われた幻想の音を弾くことができるとかなんとか。うさんくさい話だ。
せせら笑う私の予想を超え、キーボードから聞こえてきたのは人間の声だった。少女の声。
『魔理沙ー。夕飯できたわよー』
高速弾の直撃でも突き刺さったような衝撃が、胸のあたりを襲った。
私はリリカの得意気な顔を盗み見る。こいつの演奏する音は精神への作用は無いはずだ。だが自分のことは自分が一番よくわかる。私は動揺していた。
「誰だこれ」
「おっと会話が通じてない。質問文に対して質問文で返すとテストは0点になるのよ~。知ってた?」
「――まぁ待ちなさい。なるほど、ちょっとはわかりました。この女の子の声が幻想になっている時点で、つまり『誰も覚えているはずがない』ということですわね」
「プリズムリバー楽団一の智恵者にして可愛いキーボーディストは、幻想郷からすら消え失せた、この世から完全に死んだ音の幽霊を奏でることができるのよ。この屋敷は魔理沙の独り言や愚痴もたくさん幽霊として取り込んでいる。けどそれ以上に、出所不明の女の子と普通に暮らしていただけの会話が、大量の幽霊となってここに縛られている。だから興味深いのよ~」
そしてそんな些細なことに目をつけられる私がやっぱり一番偉い、と締めてリリカは無駄に踏ん反り返っていた。私は次女の演奏が一番好きなんだがな。
だが確かにリリカの口上は聞くべき所がある。私の脳髄に、この屋敷で暮らしていた頃に同い年くらいの女の子を泊めていた記憶など微塵も無かった。明らかに何か不自然な力が働いていた。
私は頷く。
「わかりましたわ。この件は私が引き継いで調べます。あなたはこの辺りか神社の裏あたりに妖精が憑いているっぽい大木の近くで練習すればいいわ。そしたら近所迷惑にならずに済みますから」
「ああ、あの音を消すちんけな妖精のこと? あんなの、本当の騒がしさが生み出す無音に比べればへっぽこよ~」
「そう文句ばかり言ってはいけません。お姉さんたちにチクりますよ?」
「ちっ。なら仕方ない。ここはしばらく私の別荘として使うから、燃やしたり姉さんに知らせたりしちゃダメよ? そしたら魔理沙の恥ずかしい音を、ライブで使って幻想郷中に広めてやるんだから~」
うわっ、天狗並みの嫌がらせ思いつくなあいつ。思わず逃げる後姿にレーザーでもぶち込んでやりたくなったが、お互いにとって良いことになるとは思えなかったので抑えた。
それにしても、口から出まかせにしろ調査を引き継ぐ、か。
改めて森に喰われた我が屋敷を眺める。新たな生命の苗床となったその姿は見ようによっては尊いものなのかもしれないが。
「未練たらたらだな」
いっそのこと、今度妖夢にでも斬られた方が良いのかもしれない。だが介錯を求めるには私の血筋は商家である。できるだけ自分の面倒は自分で見るしかないのだろう。
「置かせてくれるだけでいいのです。それだけで売り上げの二割がそちら持ちですよ?」
「信用ならないわ。あなたがどんなインチキを書いたって構やしないけど、ウチに置いたら一緒に師匠のお薬の評判まで落ちちゃうじゃないの」
「そんなことはありません。現にこうして人体実験を経てピンピンしている人間があなたの目の前にいるじゃありませんか」
「なるほど、この本通りに処方した薬を飲むと人格に問題が発生する、と……」
「元から捻くれ者の患者が飲むと捻り切って人格矯正されるかもしれませんわ」
「そういう患者なら私の眼と睨めっこさせれば済む話。ともかく、置けません。どうしてもっていうなら私じゃなくててゐにでも話を通すのね」
背中を向ける妖怪兎の肩を掴もうとしたが、私が捕まえようとした方の兎は幻覚だったらしく手は空を切った。
私はため息を零しつつ、永遠亭の薬局に押し売ろうとしていた商品に目を落とす。素人でも安全、確実に有用な薬効を持つキノコを採取でき、簡単に薬や料理の材料として使える手順を書いた本である。軽く10部ほど刷って適当な所に売りつけようと考えているのだが、これがさっぱり信用がなくて売れやしない。
妖怪退治を始めとした、日々の悩み事、困った事を片付ける退治屋兼なんでも屋を営んで長いが、人里に越してきてからは不景気極まりない。命蓮寺が出来てからは妖怪退治の需要が減ってきたし、連中のおかげで人間に技術や力を還元する妖怪もちらほら出てきたのでなんでも屋としての仕事も減ってきた昨今なのである。
こうしてちまちま本を書いたり薬を作ってみたりして依頼のない日はごまかしているのだが、なんだか働ければ働くほどマイナスに向かっているような気がするのはやはり気のせいか。
落ち込む気持ちを揺さぶるように、問題の命蓮寺の方角から鐘の音が響いてきた。そろそろ約束の時間だ。貧乏暇無しとか言ったのはどこのどいつだ。私は足早に人里の中心に向かって歩みを進めた。
しかし、本物の寺は人里から外れた所にあるというのに、寺小屋は人里の内にある矛盾をどう説明するべきか。
狭っ苦しい寺小屋から飛び出してきた子供たちは退屈な授業からやっと解放されたとばかり、今から何をして遊ぶかと話し合いながら私の傍を駆け抜けて行った。
「お前ら、暗くなるまでには絶対帰ってくるんだぞ! 私がそう何度も迎えに行ってやると思ったら大間違いだからな!」
「はーい!」
慧音の注意もなんのその、能天気に勢いだけは良く返事する子供たちはきっと話など全く聞いちゃいなかっただろう。
そんな寺小屋の日常に私は苦笑いしながら、慧音へと挨拶した。
「こんにちわ」
「ああ、そういやお前が来るんだったな今日は。まあ上がれ」
寺小屋の中はまだ子供たちの、なんとも形容しがたい汗や泥が混じった匂いが満ちていた。こんな若さのエネルギー有り余る空間に居て、よくこの教師は平気な顔をしていられる。
「で、なんの用だ? 私の能力が必要だとか言っていたが」
「ある場所の過去について、少々調べてほしいのです」
慧音が持ってきた茶で口を湿らせながら私はリリカが取り憑いていた、元我が家の事情を説明した。
こいつに何か説明する時はコツがいる。こっちがさっさと話を進めたいのに、どうでもいいことを気にしてあれやこれやと補足を求めるからだ。これでだんだん話がズレこんで『で、結局お前は何が言いたいんだ』とでもほざけば張り倒したくもなるが、不幸中の幸い記憶力だけはいいので最悪の事態だけは免れている。
とはいえ、咲夜相手なら十秒で済む説明が十分以上もの時間を有したことに変わりはない。慧音が入れた熱い茶は既に残り半分になっていた。
「音の幽霊か。そんなもの、あの騒霊姉妹の末っ子だけしか扱えないんだろう? 気にする必要はない。捨て置けばいい。それより問題はそんな危険な屋敷をいくら魔法の森なんていう郊外だとはいえ、今の今まで放置していたお前の態度が問題だ。しかも今更火を放ったら爆発炎上して飛び火が危なくて、とてもできんだと? お前の不始末のせいでどれだけタチの悪い妖怪が生まれることになったかわかっているのか?」
「ですからその不始末の……」
「お前が動くのはただ、その娘の声が気になるからというだけの理由に過ぎないだろう。お前の態度には過ちに対しての反省の色が無いんだ」
「まぁ反省なんか最初からしていませんから」
「そんなこったろうとは思っていたさ。まぁその屋敷跡はなるようにしかならないだろう。あと十年もすれば形もなくなるだろうし、そこからが本番だな。屋敷から自立した妖怪がどの程度厄介か、その時初めてわかる。だからこの際屋敷については問題を明日に丸投げしておこう。だが、そうもいかん問題がある」
良く動く慧音の口を見て、私は頭が痛くなってきた。閻魔ほどではないがこいつも相当説教臭い。人間の感性を強く持ったまま歴史なんていう膨大な時間の流れを取り込んだこいつは、妖怪のように達観することもできず、ただの人間のように時間に流されることもできないからストレスも溜まっているのだろう。
故に閻魔の説教が仕事柄実用的なのと比べ、慧音の説教はやや感情的なところがある。もちろん仕事を依頼しに来ている立場である所の私は、そんなことを思っているとはおくびにも出さず、黙って聞いてやるばかりだが。
「お前、大してやる気も無ければこれ以上やり続ける必要も無いこの仕事を進めて、どうする気なんだ」
「元は自分の家ですから。反省はしていなくても面倒は見ておこうかと」
「現時点じゃさして危険も異変も感じられないのはさっき確認したばかりだろう。それじゃ、ただ単に好奇心を満たすためだけじゃないか。お前今いくつだ?」
「23ですわ」
「それと同い年か、もう少し下の娘でも結婚して、子供産んで、血の繋がってもいやしない母親の面倒見ている奴がいるんだぞ。人間は百年も生きられないんだ。お前、人生五分の一以上も消費しておいてまだ子供のつもりなのか? 遊び半分で仕事なんかやっているんじゃない」
「楽しめない仕事に価値があるとは思えませんわ」
「それは妖怪の理屈だ。力も無くて寿命も短い、群れないと生きていけない人間の理屈じゃない。お前、人間だろう? 魔法で妖怪になれなかったじゃないか。諦めたんだろ」
減らず口ならいくらでも叩けるのが霧雨魔理沙という人格だった。それが、瞬間的に言葉を返せなかった。
慧音はぽかんとする私へと畳み掛けるように言い募る。
「人間なら人間らしく生きろ。蝙蝠みたいに、人間の生き方と妖怪の生き方、どっちつかずに選べないなんて情けない真似なんかするな。それともお前、私以上に人間らしくも妖怪らしくもある生き方ができるつもりか?」
「そうは言いましても、染みついた性分ですから」
「三つ子の魂なんとやら、だ。霧雨の親父さん、お前が帰ってきても良いように準備しているんだぞ。人里にまで帰ってきたんだ。今更なんの違いがあるんだ?」
すっかり硬くなっていた声色を急に和らげて慧音は諭してきた。
慧音ほどはっきりとは言ってこないが、香霖も同じ意見なのだろう。私だって勢い良く家を飛び出して、今更人里に逃げ帰ってきた自分がどれほど情けないかはわかっている。だが世間から見れば幸いなことに、私は実家をまだ持っていた。親父も店の跡継ぎがいないからか、年を取って心が弱くなったのか私を連れ戻そうと考えている。誰だって意地張ってないでさっさと帰れと思うに決まっている。
あと二年もこんな生活を続ければ、さすがに私の心も折れたかもしれない。自他共に認める負けず嫌いの私だが、負けを認めない負け犬が無様なことも重々承知していた。
「家に帰ったら、魔法が使えなくなるのですよ」
「そりゃそうだろうな。多岐にわたる道具を扱う霧雨商店で下手な魔法を使えば、どんな道具とどんな魔法が変に干渉し合うかわかったものじゃない。それを人里のど真ん中でやられたらたまったもんじゃないな」
「魔法を使わなくなったら魔力も衰えます。魔法の森に暮らしていた頃に比べれば、もう既に大分落ちていますが。それでも私は魔法に関する感覚は人間にしては鋭敏に鍛えています。それすら無くなってしまえば、私は本当にただの人間になってしまうのです」
「それが人間に生まれた者の真っ当な一生だ」
「でもそうすると、魔法使いになったからこそ得たもの、繋ぎ止めているものが全て消えてしまうのです。それは私だけの問題じゃないんだ」
咲夜や、早苗。アリスににとり。なんとも言えない友人たちばかりのことだけではない。
私は、夢枕に立つあいつのことを思い出していた。魔法への感覚を忘れた日、たぶん私はあいつを一生認識できなくなる。
慧音は目を細めた。ため息を零す。
「お前の歴史は、どこか不自然なんだ。空洞がある。私でも見切れない」
「やっぱりか」
前々から思っていた。私が魔法の道を志し、親父に反発して家を飛び出した理由。それは生まれ持って強い力や長い寿命を持つ妖怪たちに対する羨望と嫉妬によるものだけではない。そんな気がしていた。
そして、私は昔異変解決に凝っていたのだがその凝っていた理由が思い出せない。好き勝手に異変を起こせる妖怪たちに対する対抗心なんて、そんな気持ちの良い理由ではなかった気がする。もう少し湿っぽい、だからこそ粘っこい対抗心が別方向に向けられていた記憶がうっすらとあるのだ。
「お前は色んな異変に関わってきたから、そんな妙なこともあるんだろう。それはお前の責任だから、それを抱えたまま真っ当に生きるのも業だろうよ」
「前々から思っていたんですが、上白沢さんは教師に向いていないのでは?」
「うるさい」
最後の一押しでうっかり機嫌を損ねさせたのがまずかったのか、慧音は結局私の依頼を承諾しなかった。
奴いわく、私の空白の歴史が読み取れないのだから、屋敷の歴史も空白になるだろうとのことだった。本当か私を諦めさせるための方便かは読みきれないが、結局のところ私は慧音に昼間っからさんざん説教されただけに過ぎなかったわけだ。あいつも暇だな。
用事は済んだが、私はまっすぐ家には帰らなかった。キノコ学の本をどこかに売りつけたかったし、気晴らしもしたかった。雑貨商店なんかの冷やかしに行くのも悪くない。
本の重みが食い込む肩にやや辟易しながら、私は歩いていた。すると路地の向こう側から、人里では無闇に浮くメイド衣装がこちらに近づいてくるのが見えた。
「あら魔理沙。景気の悪そうな顔して、奇遇じゃない」
「あら咲夜さん、ご機嫌麗しゅう。私はいつだってバブル全開だぜ」
「泡ばっかりの麦酒なんて不味いわよ」
咲夜は野菜類のたっぷり入った買い物籠を提げていた。あちらは買い物帰りらしい。
「お前ん所の毒々しい赤色な酒ばっかなのもどうかと思うがな。たまには白も置いてみたらどうだ? いらなくなった赤なら私が預かるぜ」
「酒は皆で騒いで楽しむもの。独り酒は魔理沙にはまだ早い」
「ほう。そこまで言うのなら誘ってくれているんだな」
「ええ、紅い液体ならいくらでもあるからごちそうしてあげますわ」
どうせこの時間帯だ。お茶の時間にでも付き合わせてくれるだけだろう。私も今の精神状態で酒が入ってもロクなことにならないのはわかっていたから、不満なく申し出を受けた。
すると咲夜はくすくすと笑い、呆れたように私の額を小突いた。
「紅魔館の誘いをなんのためらいもなく受けるような無防備な人間は、あなたくらいなものよ」
「私はいつだって強盗できるように武装しているぜ」
「強盗ねぇ。パチュリー様、最近は私を猫呼ばわりしなくなったのだけれど」
「そりゃお前は犬だろうからな。目で見れば猫だろうが科学的に言えば犬だ」
「あなたも大概野良猫だけどねぇ。ネズミと呼ぶには魔理沙は少々人付き合いが悪すぎる」
「茶ぁくらいいくらでもしばき倒してやるぜ」
「私は魔理沙も猫目ね、って言ったのですけれどね」
にこやかに囁いた咲夜の言葉に、私は押し黙った。
人里から離れると、私たちは空を飛んで紅魔館へと文字通りまっすぐ向かった。霧が浮かぶ湖の向こうに赤みがかった影が見えてくる。
その湖面で爪先だけをわずかに着水させて奇妙な構えで立つ妖怪がいた。そいつはやはり珍妙な呼吸法を繰り返しながら、波紋もろくに立たせない謎の足運びで水面を歩き、拳法の修練を行っていた。
「あ、咲夜さん。お帰りなさい」
「ただいま美鈴。精が出るわね」
「いやぁ最近は骨のある奴がかかってこないので退屈ですよ。やっぱりみんな身体を鍛えなきゃいけません。うんうん」
「なぁ咲夜。前々から思っていたんだが、妖怪の身体って筋トレ効くのか? アレっていったん筋肉繊維を痛めてから超回復で増強するもんだろ。妖怪はそりゃ人間より身体の回復力は高いが年取らないってことは新陳代謝に期待は……」
「あの娘は脳筋だから鍛えたらなんかそれだけで強くなった気がするんでしょう」
「なるほどな」
しかし思い込みだけで強くなれるのならここの氷精が最強になってしまうのだが。なんにせよ気楽でいいな。
咲夜にくっついたまま紅魔館に入ると、厨房まで案内された。きびきび働く咲夜の背中を見ていると先ほどの美鈴の様子が思い出され、私は質問を投げかけた。
「ここの吸血鬼どもはあいかわらずなのか?」
「そう、ここは永遠の夜の王が住まう館ですもの。人間が変わる程度の歳月では何も変わらないわ」
「……居心地悪くないのか?」
何をどうやっているのかは知らないが、咲夜はあまり年を取った様子はない。肌の保湿の秘訣とかぜひ聞きたいものだ。生き血を浴びるとかだったら嫌だけどな。
だが咲夜も人間である以上、美肌もやがて限界を迎えるだろう。骨身が軋み、髪もかさつき、肌に皺も寄ってきた時、この屋敷で今のように瀟洒でいられ続けるのだろうか。
「人間と暮らすことで瀟洒に振舞えるかどうかは、私の機嫌次第でしょうね」
ティーポットを沸騰した湯で温めながら咲夜は朗らかに答えた。
咲夜は紅魔館の厨房に馴染みきっていた。紅魔館の背景をパズルにしたのなら咲夜というピースは外せないだろう。
「それじゃあ、行きましょうか」
ごく自然な流れで咲夜が持ちきれない量のティーセットを持たされる。
「お嬢様がお待ちしていますわ。急ぎましょう」
「いや待て客に給仕させるなよ」
「客だなんて。私は魔理沙のことを家族のように思っているわよ?」
「ああそうかい」
咲夜が向かった先は図書館だ。あいかわらず黴臭い密室では、グリモワール執筆に神経を費やしているパチュリーの無反応さも気にせず一方的にレミリアがぐだぐだ話しかけ続けているという、不毛な光景が広がっていた。
「お嬢様。お茶と新しいメイドをお連れしました」
「ああそこに置いといて。後でいただくわ」
「おいおい私はもう旬過ぎているぜ」
さっきから咲夜の様子がおかしいとは思っていたが、案の定ロクなことを考えていなかった。トレイを置いて椅子に腰掛けた私にティーカップを渡しながら咲夜はそんなことないわよ、と返してくる。
「魔理沙は仕込めば使えますわ。整理整頓は全くダメでしょうけど掃除は得意でしょう?」
「咲夜の珍品趣味にも困ったものねぇ」
「人里で居心地悪そうにしていましたもの。魔理沙はやっぱりこっち側にいた方が、生き生きしていると思うのです」
なるほど、そう来たか。確かに紅魔館でならいくら魔法を使ってもパチュリー以外文句は言わないだろうが。
咲夜の好意はありがたい。だが人の好意も素直に受け取らないからこその、私なのである。
「生き死にの境をさまようような職場だからな。主に餌として見られるような職なんて中々無いぜ」
「命が惜しいのね。お求めやすい価格のくせに」
パチュリーがペンを置き、私の方を見もせずカップを取りながら言った。私も肩をすくめて自分のカップを取る。
「ああ、毎日やりくりが大変だぜ。ところで死なない連中には命の値段なんてあるのか?」
「無いよ。骨董品だからね。価値が付く程度の代物じゃないわ」
「がらくたってことか」
「そうね。いつでも捨てられるものよ。でも魔理沙。あんたにとってがらくた同然になった魔法、いつになったら捨てられるの?」
「あらパチェ。魔理沙がいなくなると寂しいの? 全く、咲夜もパチェも人間との付き合いが浅いわねぇ」
私とパチュリーとの会話にレミリアが割り込んできた。そして、険悪な雰囲気になっていたことに今更気づく。まさかレミリアが空気を読んだとは思えないが、なんだか不覚を取った気分だ。面白くない。
そんな私の気持ちを読み取らないからこそのレミリアが、小さな胸を張って偉そうに言ってのけた。
「十年や二十年でころころ変わる生き物よ、人間は。今ある瞬間をしっかり観察して楽しまないと」
「魔理沙の観察日記を置けるほど、この図書館は広くないわ」
「残念。パチェの蔵書も大したことないわね」
パチュリーはあからさまにむっ、とした表情になってペンを取り直した。まさか、私の観察日記を本気で書き出したのではないだろうな。
せいぜい格好良く書いていただきたいものだが、パチュリーの主観だ。およそ私の想像もつかない所を見て、指摘しているに違いない。盗み読みしてみたい好奇心が疼いたところで、ふと引っかかるものがあった。
なんだ? 何か、昔似たようなことを考えたような気がする。いや、書いたのだ。
――思い出した。
「咲夜、十年近く前の話だがこの図書館に私が書いた魔導書を寄贈したことを覚えているか?」
「魔導書、ですか? そんな覚えは……」
「魔導書というか、お前にも読める代物だな。私が幻想郷中のスペルカードを解説した弾幕本だよ」
「ああ、アレね。はいお待たせ」
咲夜の台詞の前半と後半で立ち位置やポーズが微妙に変わっている気がしたが、ともあれ私が脳裏に蘇らせた弾幕解説書は一瞬にして現実の重みをもって渡された。ぱらぱらとめくってみるが、保存状態も思いのほか良好である。
魔法の森の自宅に遺した日記帳やらなんやらが消滅してしまった以上、当時の私が残した当時の資料はこれくらいなものだ。慧音もパチュリーも当てにできないなら、結局最後に頼るのは自分自身というわけだ。良くやった、過去の私。
いや、とさすがに私は思い改まった。一言二言でその存在を思い出し、検索魔法も使えないのにこの蔵書の海千山千からあっさり一冊の本を掘り出してきた奴がいたからこそ、私は過去の手がかりを得られた。だが、その咲夜の微笑みを目の前にすると、何か気恥ずかしいものが浮かんできて紅茶を啜ってしまう。
「あら、どうしたの魔理沙?」
「いや、持つべきものはなんとやらと自分にいたく感心してしまった」
――私はふとした事から天狗の手帳を見た事がある。天狗が世の中の出来事を書き留めた手帳だ。
その手帳には、本当にどうでもいい日常が私とは異なる視点から見て記述されていた。天狗の監察力は鋭く、既に私が理解できる世界を越えて独自の世界を築いている様だった。
どうでもいい日常でもいいから、全て書き留める事で何か見えてくるのだろう。そう考えた私は、今まで見てきたどうでもいい出来事――スペルカードを本に纏める事にした。
序文でそんなことを書いていただけあって、当時の私は今の私からは及びもつかないほどの広い視野をもって世界を見ていた。
家に戻って私は自分の書いた弾幕書を読んでいた。狭い我が家に懐かしいスペルカードの数々が浮かび上がったような気がした。
それらの弾幕一つ一つに対して、当時の私は当時の私なりの考えで接していた。今の私には信じられないほど、色鮮やかな世界を見ていたのだ。
人間の頭というものは結構たくさんものは覚えられるし勝手に記憶の整理整頓もしてくれる高性能な代物なのだが、反面使わなくなった記憶や考え方は埃を被って引き出しの奥にひっそりとしまわれてしまう。
かつて私は自分を高めるために魔法を使うことにした。今の私は生活のために魔法を使っている。生活に必要な魔法は限られているから、使われなくなってしまうものばかりになってしまうのも仕方なかった。
……まずい。読むのがだんだん辛くなってきた。ペンの向くまま気の向くまま晒されている、かつての私の力への執着心があまりに強すぎるのだ。それこそが私を動かす原動力となっていたのだが、枯れた今の私には少しばかり眩しい。
こんなちっぽけな所で満足していてはいけない。もっと努力し、高みを目指さなくては――蘇った焦燥と渇望の気持ちが胸を焼いていた。その気持ちはいやに冷たかったパチュリーの眼差しと相まって、今の私を追い立てる。
耐え切れず、私はいったん読むのを止めることにした。落ち着いてお茶でも飲もう。そう思いながら本を閉じようとした。
親指の腹に一瞬かすれた頁がめくれ上がり、紅と白のコントラストが見えた気がした。
心臓が跳ねる。頭に高速弾をぶつけられた気分だった。紅と白の二色が、先ほど以上の衝撃で私の精神を揺さぶっていた。
本をめくり返した。無い。紅白の弾幕などどこにも無い。思い違いか? 目の錯覚か?
「ならそれでいい」
私は自らしたためた文章を心の中でなぞり返す。
――しかし妖怪達の考え方はこうだ。目に見える物、世の中に起こる出来事、それに対する考えすらも、全て正解である。何故なら、妖怪自身も現象と考え方から生まれた物だからだ。
めまぐるしく頭が回転し始めた。これほど脳に血が通ったのは久しぶりだ。私は大股で厨房まで向かい砂糖壷を引っ掴むや角砂糖を齧りながら考えた。本は手にしない。頭の中だけで自己完結させる。
いや、口に出した方がいい。
「妖怪と人間の見えている世界は違う。文字通りの意味で、奴らの感覚は人間のそれとは違うからだ。でもそれを言えば人間だって個人個人、耳の遠い奴目が近い奴寒さに鈍い奴猫舌な奴だっている。それは肉体だけに及ばず、精神の目にも適用される。例え方が合っているかわからないが、弾幕だってそうだ。視野を狭くすればある一箇所の弾だけは集中して見切れるが、その他の弾は『見えているけど見えていない』。
そう、これだ。私は日常生活を送るうえで必要な行動を取るために、弾幕の回避ルートをたどるように視野を意図的に狭くして他の箇所を見えないようにしている。邪魔だからだ。妖怪たちは無駄を好むから、それが見えている。視野が広いとはこういうことだ。私は既に気づいているんだ。なら妖怪たちにさっきの紅白は見えるか?
見えない……と思う。確かめればわかるが、たぶん、紅白はあの幻想の音に繋がっている。なら誰もが忘れ去ったものだから、視界に入らない。じゃあ一瞬私が見えたのはなぜだ? 私は何を思い違った? どう目を錯覚させていた? 鍵はたぶん、そこだ」
本を閉じる一瞬前、私は当時の気持ちを思い出していた。それから逃げるように本を閉じた。その時に紅白は見えた。
スペルカードは基本的に個人所有物だ。本を閉じようとした時の一瞬、本を書いた当時の私が紅白のスペルカード所持者に対して抱いていた気持ちが蘇ったのではないだろうか。だから既に忘れ去られ、干渉することができないはずの空白の頁を垣間見ることができた。
目を閉じて、紅白に対する気持ちを思い返す。悔しさと諦め、憧れや逃げも混じった感情がすっぱい唾液となって口の中に広がった。本を開く。目も、開いた。
――神霊「夢想封印」
物理法則を無視した光の弾で、有無を言わせず封印させられるスペルカード。
ありとあらゆる妖怪達を無理矢理退治できるという。
その光は妖怪が最も嫌う有り難い光だそうだが、人間でも痛い。
しかし、封印って何だろうな。お櫃に仕舞うことかな。
先代の博麗の巫女は、ぐうたらだったという。
現在の博麗神社がすっかりボロ小屋になってしまったのは彼女がロクに仕事をしなかったせいで人間の参拝客がさっぱり来なくなり、信仰がすっからかんになったためだとか。
ただ、妖怪退治の腕前だけは見事だった。
彼女が巫女を努めていた代は異様なほどに異変が多かったが、そのほとんどは見事に巫女が八方丸く収めた。まぁ、中には私が解決した異変もあるのだが……。
リリカが再生した幽霊の音の正体は先代博麗の巫女だと、私は確信した。紅白の弾幕、妖怪退治のスペルカード。巫女以外が使うはずはない。そんなわけで今代の巫女から、同業者である早苗や仏を奉ずる白蓮などに聞き込みを行ったのだが、案の定誰も覚えていなかった。
そもそも代替わりしてから大きな異変はあまり起きていないのだから、全ては先代巫女の神社運営方針が悪かったのではないのかとすら考えられる。それくらい信用の無い巫女だった。
なので、誰も先代巫女の名前や顔を思い出せなくても仕方ないのかもしれない。
「いやいや、そんなわけはない」
稗田邸を後にした私は首を振った。九代目阿礼乙女は既に来世の準備段階に入っているらしく、謁見は叶わなかったが質問には答えてもらうことができた。私が使用人に伝えた質問は二つ。
『先代の博麗の巫女と出会ったことがあるか?』『出会ったことがあるならば、その者に対する記憶を持っているか?』
一つ目の質問に対してはイエス。二つ目の質問に対してはノー。ありえない答えが返ってきた。
阿求本人もこの事態に対して興味が湧いたらしく、暇を見つけて原因を調べてみると調査の協力を申し出てくれた。無理をして早死にされても世間体的に困るのでやんわりと断りたい気持ちが強かったが、結局私は頷いていた。稗田家の知識を借りられる機会を捨てるのは、少しばかり惜しすぎた。
だが、根本的にこの調査方針は正しいのかと私は頭を抱えた。
今現在の私とて、気を抜けば弾幕書に収められているはずの紅白の弾幕に関して記述した頁が開けない。咲夜も開けなかったし、パチュリーもダメだった。レミリアには聞くだけ無駄だった。人間の常識で言えば私はトチ狂って幻を見ているだけである。
恐らくそれは正しい。先代巫女に関して、阿求までが忘れているとなると忘れていて当然、存在が抹消されていることが自然なのだとすら考えられる。なんらかの力が働いて先代巫女の情報が消されているというより、繋ぎ止める力が無くなったと言った方が正しい気がする。
幽霊の音を聞いて関心を持った私だけが、先代巫女に関する情報を認識することがかろうじて出来ていた。要するに、他人はさっぱり頼りにならないのではないかと私は考えている。
「……弱気になるな」
私はいったん家に帰り、武装することにした。一度、プリズムリバー邸に行ってリリカを捕まえよう。奴からもう少し幽霊の音を引き出させたい。
だが、家の玄関には見知った男がいい年こいて子供のようにしかめっ面を隠しもせずに突っ立っていた。
「あら、油の訪問販売ですか、霖之助さん」
「ああ魔理沙。仕事の方は無事済んだみたいだな」
「そういえばまだ報酬をもらってなかったな。言っても忘れるずぼらな香霖が、珍しい。こりゃ雨が降るな」
「……そういえば報酬をまだ支払ってなかったな」
「仕事を済ませたとわかったうえで私ん家まで来ておきながら報酬を忘れるとは、悪意があるとしか思えんな」
「いや、後で必ず支払う。時間があるなら僕の店に来てもいい。今日は、伝言を頼まれたんだ」
私は顔を強張らせた。無意識に、商店のある方角を睨んでしまっていた。
香霖はうなずく。
「そう、親父さんからだ」
「霖之助さん、改名をおすすめしますわ。九鳥伝太郎とかいかがでしょう?」
「いや、これで僕の伝書鳩仕事もおしまいだ。明日、この時間帯に親父さんが君に会いに来る、と」
香霖の顔を私はまじまじと見つめた。
柄でもない、年上らしい威厳のある顔つきで私を見つめ返す香霖の瞳に映った私が目に入った。いい年こいて、まるで小娘のように動揺した情けない顔立ちだった。
「……最近ちょっとでしゃばりすぎたか。これ以上私の噂が悪くなる前に動くことにしやがったな」
「僕の任せた仕事を済ませて以来、昔みたいにあちこち飛び回っていたからね。……悪いことをしたよ」
「いや、いい依頼だったぜ。たぶん、私は魔法の森を出た時に済ませておかなきゃいかんことを、この年まで引きずってしまったんだ。少々遅れたが、すぐに全部片付ける。たまには香霖も年上らしいことをするもんだな」
「魔理沙がここまで素直に礼を言えるなんてね。こりゃ雪が降るな」
「雨でも嵐でも地震でも雷でも親父でもなんでも来い」
父と顔を会わせるのは人里に帰ってきた時以来になるか。あの時も喧嘩別れで終わってしまったが。
思うに、私と父はきっと似たもの同士なのだ。全く、意地の張り合いもいい加減にしないと親父も年だ。意地が裂けないよう気を配るのも娘の努めなのだろう。
親父との口喧嘩は月が高くなるまで続いた。
最後には、お互い喉から出てくるのはひゅーひゅーという間の抜けた風切り音だけだった。茶を飲んで声帯を潤そうとしても染み入るだけでロクに声は出ず、メモ帳に筆談して喧嘩するという有様であった。
香霖の肩を借りて家を出てゆく親父の背中を見送り、私はテーブルに突っ伏した。筆談で消費した何十枚ものメモ用紙が部屋を舞う。
そんな中の一枚が額にかかった。除けるために腕を動かすことすらわずらわしく、親父との会話を無意味に読み返してみたりする。
結局、私は家に帰る期間を延長させた。期間は一ヶ月。親父はこの場で私を連れ帰り、この家に残してある私物は他の者に適当に片付けさせる予定だったらしいが、そうそう簡単に言うことを聞くようでは親父の娘ではない。
それでも、私はちゃんと家に帰ることを納得したのだ。こんな暮らしがいつまでも続くものではないと自分でもわかっていたのだから。
ただ、今抱えている調査仕事だけはきちんとやり遂げたいと言ったら、こんな時間まで喧嘩するハメになったのだが……。
親父との会話を思い返していると、だんだん目蓋が重くなってきた。風邪を引いてしまうとはわかっていのだが、もう力と名の付くものは大概底を尽いていた。睡魔の誘惑に身を任せ、私は気を失う。
……明け方の肌寒い空気を私は肩に感じていた。
目は閉じていると感覚的にはわかるのに、私はテーブルに突っ伏す自分の姿を客観的に見ていた。おそらく現在の自分の状態を幻視しているだけだろう。せめて上着でも羽織っておくんだったなぁ、という後悔があった。
すると、どこからか現れた人影がベッドから毛布を引きずってきて私の肩にかけた。そのまま人影はしゃがんで私の寝顔を見つめていた。
視点は固定されていたので、人影の顔形はよく見えない。そこまできて、私はこの人影がいつも夢枕に立つ例の奴だと気づいた。
こいつとの付き合いも随分長くなる。最初に出現したのは一体いつからだろうか。思い返せば、それこそ魔法の森に住んでいた時から居たような気もする。試しにもっと昔の記憶を遡ってみたが、さすがに家出前の夢枕に現れたことは無かったはずだ。
名前を、付けてみようか。
そんな発想がどこからともなく湧いて出た。
名前を付けて、イメージを固定化するのだ。するとこいつは意味のあるものとなり、夢枕ではなく現実に私の目の前に立つことができるようになるかもしれない。
どんな名前がいいだろう。そう考える私の目蓋に、現実の光が差し込んできた。朝日だ。
「ぅ……あー……身体が痛いぜ……もう年かな」
目を覚ました私は香霖の店に転がっていたブリキのロボットみたいに肩やら腰やらをぎしぎし言わせて起き上がった。確か早苗がオイルを挿せば良いとか言ってほくほく顔で買っていたか……。
ぜひ、人間にも効くオイルを風神様の神徳で恵んでもらいたいものだ。私は立ち上がる。
ばさりっ、とメモ用紙の海に毛布が落ちた。
リリカを尋ねにプリズムリバー邸へと乗り込んだら、ただ今家出中と追い返されたのは一週間前だった。
反抗期も空気を読んでもらいたいもんだ。私は次に打てる手は何か無いかと頭を悩ませながら家で茶を啜っている。
一ヶ月くらいは働かなくてもなんとか食べて行ける蓄えはあったので、私はこの一週間リリカ探しに明け暮れ、ついに疲れ果てていた。やかましいくせに霊体なので手がかりは残さないとはタチが悪い。
空になった湯呑みを洗っていた時に、ノックが鳴った。
「どなたですか? 新聞勧誘なら間に合っておりますわ」
「しがない幻想郷一のメイドですわ」
「なんだ咲夜か。開いてないけどどうせ入れるだろ、入れよ」
「ではお言葉に甘えて」
玄関のドアは閉じたまま、咲夜は瞬間移動して現れた。片手にはバスケットを提げており、そのまま瀟洒に会釈した。
「どうした。お前から尋ねに来るなんて……まあよくあることだが」
咲夜はたびたび私に仕事や手料理の差し入れを持ってきたりしていた。本人いわく、人里への買出しついでらしいが。
ただ、今は私がそれなりに立て込んでいることを知っているはずだ。そういう時は空気を読んで訪問を控えるのが瀟洒な従者たるゆえんだったはずなのだが。
「いえ、今夜お嬢様が月見のパーティーを開くとおっしゃられたので、せっかくですから魔理沙もご招待しようかと思ったの」
「……月見ねぇ? この夏場に? 他に招待している客どもは?」
「演奏隊にプリズムリバー楽団、月繋がりで永遠亭の皆様、タダ酒が呑めるならと山の神様方、あとお嬢様が丸っこいのと思った方々など。まあ来るもの拒まずのいつものノリですわ」
「プリズムリバーの連中は末娘が欠けているはずなんだがな」
しかし、奴らもプロだ。仕事の時はちゃんとメンバーを揃えて登場するはずだろう。姉二人のデュエットは少々刺激が強すぎるしな。
それにしてもタイミングが良い。私は咲夜の瞳を覗き込む。咲夜はにこにこと疑いの視線を受け流した。
「なぁ咲夜。気を遣ってくれるのは嬉しいしありがたいんだが」
「……何か企んでいるわね?」
「その通りだ。私はどっちかというとパーティーの出席権より、そっちの方の仕事を咲夜に手伝ってもらいたい」
咲夜はおそらく、どこからか私の現状を聞き入れたに違いない。これは咲夜なりの私への好意なのだろう。それはありがたい。ありがたいが、せっかくだから好意を別の方向で役立ててもらいたい。
私はつい先ほど、茶を飲みながら考えあぐねていることがあった。それを実行に移すには、私一人の力ではやや不安があったのだ。だが咲夜のサポートがあれば実現可能かもしれない。
「仕方ないわね。魔理沙の悪戯に付き合うのなんて、何年ぶりかしら」
「童心忘れべからずだ。ナイフの研ぎ石なら流しの下にあるはずだから使っていいぜ」
「凄まじい夕立だったな」
「カミナリ様に叱られているんじゃないかと気が気でなりませんでしたわ」
「時間的に、どっちかというとお前ん所のお嬢様の機嫌の方がヤバいんじゃないか」
「私に時間の問題を問いかけるなんて、魔理沙も耄碌したものね」
「そりゃ失礼」
軽口を叩き合いながら、私たちは雨宿りに使わせてもらった木陰から出てきた。
雨と雷を叩き落すだけ叩き落して気が済んだらしい雨雲は、急速に北の空の向こうへと向かって行く最中だった。この調子ならば月見のパーティーに支障が出ることはないだろう。
私たちは東の方向を目指す。雨露に濡れ、夕日に照らされた博麗神社が見えてきた。境内へと向かう階段を登ろうとした咲夜を私は引き止める。
「いや、巫女に見つかったらまずい。森の中を迂回しよう」
「どっちみち目的地も森の中ですものね」
「そういうことだ」
夕立によって湿気を帯び、腐葉土の匂いを溢れ出させた鎮守の森に私たちは忍び込み、博麗神社本殿を避けてさらに東へと進んだ。
正直なところ、咲夜には申し訳ないが具体的な目的地はここだ、という確信は持てなかった。何せ昔のことで記憶が曖昧である。しかしいざやって来てみれば、一目でここだと自信を持てた。
「この木だ。間違いない」
「立派な巨木ですわねぇ」
私と咲夜が両腕を広げて囲むとしたら、何十体の分身が必要だろうか。周囲の木々と比べても一際大きな古木の威容が夕日に闇を落としていた。
「しかし、この古木、雷で真っ二つに裂けて一ヶ月くらいでこの有様になったんだぜ」
「芽から古木にするのでしたら一ヶ月はたやすいですが、そこまで傷ついた状態では私でも難しいわね」
「お前と話していると時間の感覚が狂うな。それじゃあ、空間操作の方は任せたぜ」
「お安い御用ですわ」
後方支援は咲夜が一任してくれた。後は私の仕事である。
懐からミニ八卦炉を取り出す。ここの所、料理やら香炉やらマッチ棒替わりにやらばかり使ってきた愛用のマジックアイテムだったが、本来の用途は私の魔砲のブースターだ。
両手で構え、照準を古木に向けて日々衰えが見える魔力を練り上げた。
集中力が必要なはずなのに、脳裏には疑念が渦巻いていた。咲夜には冗談混じりに語ったが、この木が一ヶ月で再生したのは事実だ。そして今からやろうとしていることの本来の意図も、確か博麗神社で手に入れた知識のはずである。
しかし、そんな奇妙なことをなぜ私は知っているのだろう。今までこんなことを思い出す必要すらなかったから忘れていたが、いざ記憶を掘り返せば穴だらけだった。それほど、今と昔の私が見えている世界は違うのか。
ならば世界に穴を開けてやるまでである。
魔法道具店の娘に戻ってしまえば、もう二度と撃つことも無いだろう。ならばこれが私の生涯最後の魔砲となるかもしれなかった。
「邪恋『実りやすい……」
右手に八卦炉を構えたまま、左手で魔力の誘導レーザーを古木に向けて発射。突き刺さったことを確認して、右腕を左腕で支えて砲撃体勢に入る。
「マスタースパーク』!」
かくして古木は莫大な光の奔流に呑み込まれた。
照射時間が一秒、二秒と重なるにつれて身体の底から魔力が根こそぎ奪い取られて行く。ほんの数秒で魔力は底を尽き、極大レーザー砲はゆるやかにその直径を縮めていった。
そして、私は巨木の前にそれを上回る巨大なすきまが広がっているのを見た。
「やっぱり夏場は……動きが活発ですわね」
「人をゴキブリみたいに言わない」
「人じゃないじゃない」
咲夜のツッコミを受けて空間のすきまが縮まる。やがて人が通れるほどの大きさになった時、私の頭上にぱっくりともう一つのすきまが開いて中からぞろりとしたドレスを着込む金髪の妖怪が現れた。
「八雲さん、お久しぶりですわ」
「あなたも夏だから動きが活発になったみたいねぇ。最近、ずいぶん大人しくなったものだと思ったのだけれど」
紫は後ろを振り返り、古木が無事だったかを確認した。傷一つ無い。
「結界を揺るがせば慌てて紫色が飛び出てくるという噂は、本当でしたのね」
「全く……あなたはいつまでたっても悪知恵が抜けないわ。そっちのメイドは結界に穴を開けるのを確実にするために呼んだのかしら?」
「空間操作がどこまで通用するかは怪しい限りでしたが」
「どっちみち、私も今夜の月見のパーティーには出席するつもりでしたのよ?」
「そりゃとんだ無駄足でしたわね、お互いに」
魔力の途切れが体力にまで響いていた一瞬は過ぎた。膝をついていた私はなんとか立ち上がり、紫を正面から見据える。
境界を操るために結界に詳しく、幻想郷を囲う博麗大結界にも関わりを持っているらしい大妖怪である。おそらく、リリカより私はこいつと話がしたかった。
私は荷物から例の弾幕書を取り出した。紅白の弾幕が描かれたページを開き、紫に見せる。
「八雲さん、おめでたい色が見えますか?」
「……おめでたいのはあなたの頭じゃないかしら?」
「見えないのですね。ならば良いのです」
弾幕書を閉じた。博麗の巫女について色々と知っているはずの紫にも見えなかった。これだけで収穫の一つではある。
その態度で紫は何か感じ入るところがあったのだろう。扇子を口元に当てて、目だけで気持ち悪い笑みを浮かべる。
「先代巫女について、調べているのですね」
「よくご存知で」
「あの娘については私も常々疑念を抱いていましたから。その疑念も、よく憶えていない、という事実から発したものですが」
「八雲さんが憶えていること、とはどのようなものでしょうか」
「さんざん手を焼かされたことだけはうっすらと。ただ……」
紫は扇子を閉じて、口元にもはっきりと嫌味な笑みをたたえて言った。
「その手の焼く娘が最後まで残した厄介事に挑むあなたも相当物好きですわね」
「照れますわ」
私は息を吐いた。魔力が尽きた疲労のせいだということに、してもらいたい。
咲夜が私の肩を叩いた。
「もうそろそろ良い時間ですわ。パーティーに参りましょうか」
「そうね。今日はタコを持ってきましたの。捌いてくださる?」
紫がすきまから覗かせたツボから、得体の知れない触手が蠢いた。SAN値が下がりそうな光景だ。
それほどショックを覚えたつもりは無かったのだが、リリカと話しても上手く張り合うことが出来ずに情報を引き出させることに失敗し、私は半ばヤケ酒を呷ってしまった。
紅魔館のパーティーは立食式である。そこでへべれけに酔ってしまえば休む所などテラスの手すりくらいだろう。何度か落っこちそうになった私を咲夜が見かねたのか、いつの間にか椅子に寄りかかって私は風に当たっていた。
そういえば楽しい酒の飲み方というのも、忘れてしまった気がする。一人酒は嫌いだが、人里ではあまり顔を出したくないので鰻の屋台などで私は良く呑んでいる。だが、妖怪たちに混じって呑んでいてもどこか寂しさを憶えてしまう。責任はたぶん、私にあるのだろう。
慧音の言う通り、私は蝙蝠のようだった。蝙蝠そのものの傍に仕えているだけあって、咲夜は上手くやっている。きびきび働く奴の後ろ姿を見ながら、いつしか私は目を閉じた。
……また奴が傍に居る。夢現に例の人影の気配を私は感じ取っていた。
騒がしさから考えるにまだ紅魔館のパーティーは続いている。そして夏の夜風は秋の色をかすかに感じさせる冷たさを帯びていた。これは、ひょっとすると目が覚めると風邪を引いているパターンかもしれない。
急速に意識が表層に浮かび上がり、覚醒に向かおうとしていた。そこで私はふと気づく。
そういえば、例の気配に名前を付けようとしていた。何がいいだろうか。
もうすぐ目が覚める。ぐずぐずしていたら名前を付ける機会を失うだろう。シンプルにするしかない。
私は直感に頼った。何かを告げたがるように、夢枕に立つ者。それに名付けるにふさわしい言葉――
「霊夢」
衝撃で目が覚めた。
腹だった。鳩尾である。人体急所の一つだ。拳法の達人が一突きすれば悶絶することも許さず即死させることすらできるという。そこに凄まじい一撃をぶちこまれた。胃腸に詰め込んだ酒とビュッフェスタイルの美味が喉へと逆流する。
私は倒れた。椅子からうつ伏せに転倒した私は咲夜の手料理の残骸と自前の胃液をテラスに吐き散らした。乙女失格の有様である。
顔を上げた。ハンカチで口元の胃液を拭う。真っ暗だった視界に明かりの靄がかかり、像を帯びた。
「……んぁ……」
私と同様にテラスへ投げ出された身体がうめき声を上げた。裸の背中を月光が撫でていた。そいつはゆっくり起き上がり、周囲を寝ぼけ眼に見渡した。
「あれ? ここはー……」
「……お前……」
「ああ、魔理沙じゃない……ん? 成長した?」
「霊夢!」
博麗霊夢は素っ裸で紅魔館のテラスのど真ん中でぺたんこ座りし、我が家のように馴染んでいた。
飛び起きた私の大声に頭が痛いとばかりに顔をしかめ、そこではたと自分が生まれたままの姿であることに気づいたらしく、乙女の恥じらい本能に従い私の肩にかかっていたケープを強奪した。そして凄まじい剣幕で怒鳴りつける。
「ちょっと、どういうことよこれは! あんたまたしょうもない悪戯でも仕掛けてくれたのね!」
「魔理沙、酔いが醒めたの……って、え、何、この修羅場」
咲夜が顔を硬直させた。その後ろには妖精メイドや興味本位でくっついてきた他の客もいた。霊夢が叫び声を上げる。私の頭の中は混乱していた。状況についていけなかった。
だが、不思議と私は口元を綻ばせて笑みを浮かべていた。
なので、裸の霊夢に蹴りを入れられた。
「まさか、先代の巫女が帰ってくるなんて思いもしなかったわ」
私はパーティー会場に座り込んでいた。隣で霊夢は咲夜が持ってきたメイド服を着込み、皿に山盛りした料理に舌鼓を打っていた。紫がすきまに腰をかけ、好奇心を顕にしたレミリアが偉そうに立っていた。
「どういうことですの、八雲さん?」
「霊夢、あなたの特技は?」
「うにゅ? っくん。空を飛ぶ程度のことね」
「つまり無重力よ。で、どうやらその結果、一度森羅万象から全部浮いていたらしいわね、この巫女は」
「そんなつもりは無かったんだけどねぇ。ああ、そういや春先からなんか色んな奴に無視され始めた気がするわ。早苗が宴会に招待してこなかったり……」
「十年近く前の話だぞそれは……」
「え、そんなに経つの?」
「みんなお前を忘れていたぞ。かくいう私も、今ついさっきゲロ吐かされるまで忘れていたが」
全く、思い出してみればどうして忘れられたのか不思議なくらいの存在感である。
そんな霊夢を指差して、私はレミリアや咲夜に「なぁ?」と同意を求めた。
咲夜は愛想笑いを浮かべた。レミリアは不審そうに呟く。
「いや、誰よこれ」
「良い食べっぷりですわ」
「……紫?」
「どうやら霊夢のことを思い出せたのは、今の所私と魔理沙くらいみたいねぇ。これも日頃の行いかしら」
それを聞いた霊夢はしばらくぽかーんとしていたが、まぁいいかの一言で済ませ、再び皿に戻った。どうやら相当腹が減っているらしい。
まぁいいかで済ませられない部分は、私が尋ねるしかあるまい。
「八雲さん、神社の巫女は……」
「今がんばって働いているあの娘の首を切るのも可哀想でしょう。首を切るなら霊夢の方ね」
「こうして無職のタダ飯喰らいが一人生まれたというわけか」
「仕方ないわねぇ。じゃあ魔理沙、しばらく厄介になるわね」
「嫌だよ、狭い」
「狭いのはあんたが散らかしているからでしょう? また片付けてやるわ」
「あぁ片付けられるもんなら片付けてみてくれ。ほとんどもう森に消化されかかっているがな」
魔法の森に放置した我が屋敷を思い出す。そう、神社を追い出された霊夢を一ヶ月ほど匿った記憶がある。あの時、徹底的に私の家はこいつに掃除させられた。あの時ほど魂が抜け出たことはない。
……いや、本当に魂が抜け出ていたのは、霊夢が姿を消してからなのだろう。私も大人だ。当時の自分を一番支える心の柱がなんだったのか、今更認めないわけにはいくまい。
「それにしても魔理沙」
「あん?」
「なんで紫にそんな気持ち悪い言葉遣いで話しかけているの?」
結局、霊夢の身元引き受け先は親父に押し付けた。
本当に我が家が狭いことを自分の目で見て呆れ果てた霊夢は、私の実家で寝泊りを始めた。そして驚くべき結果が待っていた。
親父と霊夢は意気投合した。たちまち看板娘として霧雨商店の売り上げに貢献したという。あの怠け者の霊夢を、どうやって愛想が求められる看板娘に仕立て上げられたのか理解に苦しむ。ぜひ一度この目に拝んでみたいのだが、自分からあの親父の店に顔を出すのは癪なのでまだ行っていない。
この様子では、跡継ぎ問題は解決したと言って良いだろう。親父は長生きするだろうが、後は霊夢が切り盛りしてくれるに違いない。貧乏神社で巫女やるより客商売の方が向いていたのではなかろうか。
問題は私である。
跡継ぎ問題の解決した実家に帰っても、ごく潰しが一人増えただけに過ぎない。今や無職のタダ飯喰らいは私の背中にのしかかって来た問題だ。
「で、引っ越すことにしたと」
外の世界で廃屋となった邸宅を、幻想郷の常識と外の世界との常識の結界を揺るがせることで魔法の森に召喚する儀式に協力し終えた霊夢は、屋敷に転がっていた埃っぽい椅子に腰掛けた。
「ああ。どうせ、荷物なんて大したことないがな。生活に必要なものは大抵この森で調達できる」
「こんな湿っぽい森でねぇ。じゃ、引越し作業は私が手伝う必要なんて無いのね?」
「蕎麦くらいなら奢ってやるぜ」
「天ぷら付けて。あと熱燗二本」
がめつい奴め。賽銭勘定はいい加減だったくせにそろばんを弾くようになってから、すっかり霊夢は小銭にうるさくなった。
霊夢は変わろうとしている。未だに結界弄りや妖怪退治の技は使えるが、無理に使うことも無い。人里でなら飛ぶ必要も無いから全く地に足の付いた手堅い生活を送っているのだ。
なら、私は霊夢に対抗して何をするのか?
「また一から研究のやり直しなんて、魔理沙も気が長いわねぇ」
「ああ、私に残された時間は長いからな。人間の霊夢と違って」
「あんたが妖怪になっても、退治しに来るのは早苗か今の巫女よ?」
「その時はお前の墓前で勝ち誇ってやるよ」
「……何に?」
困惑顔の霊夢。いや、言われてみれば本当に何に対してだろうな。
長寿が偉いと私も思わない。定命のなくなった寿命など、値段の付けられないがらくたのようなものだ。そんなものは香霖の店でけつまずくほど転がっている。
私も霊夢ももう大人だ。これくらいは酒の力を借りずに腹を割って言うべきだろう。
「霊夢に勝つには一生がかりになりそうだからな」
それから後の幻想郷で、十代目阿礼乙女が書き記した幻想郷縁起の魔法使いの項目に、一人の魔女が名を連ねている。
霧雨魔理沙。星と光の魔法を得意とする、魔法使い。弱点は、人里の魔法道具店の名前を出されること。なぜ自分と同じ名前なのに嫌がるのかは、よくわかっていない。
あの何とも言えない読後感も好きでしたが、こうやって決着がつくとなんかすっきりした感じです。
大人になった魔理沙の動き方に好感触。
大人になって成長しても変わらないのが彼女の魅力か。
切ないなんとも言えないENDもそれはそれで大好きだけど、しっかりと取り戻す後日までがあると、いいですね。
欲を言えばもう少しだけその後の話が読みたい気持ちもありますが、そこまでしっかりと描写してしまうと作品的としては蛇足になってしまうんでしょうね。
生きる活力を取り戻した魔法使い魔理沙と、博麗の巫女から離れた霊夢。
二人がどんな人生を歩んでくのかが素直に楽しみに思える作品でした。
ごちそうさまです。
なんか読後感が凄かった、それほどいい作品だったと思います。
何となくその後の話を見てみたい気もしますが…このままでもいい気がしたのでこの辺で。
ありがとうございました。
全くそんなことはありませんね。なんというかその
無重力落下が霧雨魔理沙23才の霊夢を!霧雨魔理沙23才の霊夢が無重力落下を引き立てるッ!
“ハーモニー”っつーんですかあ~、“味の調和”っつーんですか~っ!
例えるならサイモンとガーファンクルのデュエット!
ウッチャンに対するナンチャン!
高森朝雄の原作に対するちばてつやの“あしたのジョー”!
これは是非とも、彼女らの今後の人生がどうなったか知りたいですが…
それこそ「蛇足」になってしまいそうですね。
なにはともあれ、ごちそうさまでした。
素敵なお話有難うございました
正に引力
面白かったです。
そして個人的には23歳のマリサを絵で見てみたかったりwww
前作の読後感も好きだったのでひやひやしながら読みましたが、非常に面白い作品でした。
魔理沙のその後が曖昧にされずに語られてるのが実にイイ。
良かったです
惹かれて良かった…これは素晴らしい作品だ。
霊夢と魔理沙は親公認の仲になったわけですねわかります。
しかし蛇足という印象もったためこの点で
前回の見えない何かに圧倒される感じも良かったですが
これもまた一つの結末。楽しませてもらいました。
咲夜が、いつまで経っても魔理沙の良い友人なのが
ツボに来ましたわ。いいですなぁ
目覚めにいきなりストマックへ一撃入れる霊夢はバイオレンスの申し子
SSを読んで泣きそうになったのは久しぶりの感覚でした。
素晴らしい感動をありがとうございました。
ハッピーエンドの方がより好きなようです。
前作のも好きでしたが、やっぱり幻想郷はハッピーエンドがいいなと思わされました
これはまさかのEND。楽しませてもらいました。
霧雨霊夢吹いたw
しっかし魔理沙はあきらめ悪いなぁ
最後までちゃんとバカな意地を張り続けられる素敵だ
蛇足じゃないかと心配でしたが、これはこれで非常に良いものですね。
魔理沙の未練と執念がこの結果を生み出したのですね。
前作は前作で良いものですが、数ある可能性の一つの物語としてこの点数を。
悲しい物語も好きだが、それでも救いの有る物が一番好きだ。
……のに、なんで俺は泣き笑いながら点を入れてるんだ……?
…と、言われたら信じる。
霊夢の事になると輝きだす魔理沙が素敵です。
やっぱ魔法使いは飛び回ってないとね。
まさしく雪風を読んだときように凄まじい読後感です!
近未来を練りこんで書いている作品が少ないのでそういう意味でも
自分の中で貴重な作品として記憶に残りそうです
雰囲気作りがむちゃくちゃ巧いですね。前半部の倦怠感や、霊夢の手がかりを見つけるたびに魔理沙の何かに火が付く感じというか、
本当に、思い切り感情移入して読むことができました。
そして会話がなんとも粋。饒舌になりすぎず、軽妙に言葉尻をとらえあう会話は、原作の会話を思い出させました。
物語の構成も大好きなんですがただ一点、完っ全に自分の好みなので点数には反映しない、というかそれを差し引いても満点なんですが、
魔理沙にはあくまで霊夢と同じ土俵に立ったまま勝負してほしかったな、と。
個人的に、魔理沙が人間をやめないのは、霊夢に対する意地が多分にあると思ってるんです。
だから、意地を張り続けることで霊夢を引き戻した魔理沙が、あっさりと人間をやめてるのにどうも違和感が……
そんな個人的な話はさておき、本当に楽しく読ませていただきました。ありがとうございました。