Coolier - 新生・東方創想話

ラストエンペラー

2026/05/10 19:28:14
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私はいつの間にか、見知らぬ宮殿の一室に立っていた。深い緑の軍服、赤い襟、腰に携えた軍刀、そして軍帽。そして満州国軍上将を示す階級章。だがそれに不思議と違和感はない。まるでずっと前から着ていたようだった。それは私が忘れようとしていた記憶の一部か。
「美鈴」
背後から声が聞こえ私は振り向いた。
そこに軍服を着た一人の男が立っていた。
痩せた顔、整えられた顔。眼鏡の奥には疲労感が漂っていた。皇帝と呼ばれた男。かつて玉座を嫌がっていた坊や。いまやその皇帝の座に固執する男。もはや誰にも帰る場所が与えられなかった『天子』
愛新覚羅溥儀。
紫禁城の広すぎた部屋の玉座に座る小さな天子。誰にも本当の意味では愛されなかった皇帝陛下。
「陛下……」
そう彼を呼んでから私は自分の声が震えていることに気づいた。
「まだそんな名前で呼んでいるのだな、美鈴。いまや、私はただの一般人だ」
「退位、なさったのですか」
溥儀は笑った。
「もう昔のように呼んでもらってもいいんだ、もう私は『天子』ではないのだからな」
私は何も答えられなかった。
小さな子供があまりにも大きな衣を着ている。周りの大人は平伏するばかり。誰にも愛されていない、そんな坊や。
その傍らに私はいた。
「陛下はいつも泣いておられました」
「……私は利用されていると分かっていたが、この権威に固執してしまった。この国が滅びようとする時に私はやっと気づいたのだ」
あまりにも皮肉だった。玉座を嫌がり早く帰りたいと泣いていたあの小さな子がいまやその玉座に固執していた。
「陛下、お逃げください」
「美鈴、君は来ないのか」
「私は軍の最高司令官としてこの司令部を守らなければなりません」
もはや守るべきものが残っていることすら分からなかった。それでも私は門に立つものだった。この国と心中ぐらいしてやる。
「そうか」
窓の外で車のエンジン音がした。
満州国は滅びようとしていた。日本は戦争に敗北し傀儡国家であったこの国もまた泥舟に浸かり沈没しようとしていたのである。
「紫禁城から出て、天津へ行き、そして新京に着いた。そして今は通化。またどこかへ行くのだ」
溥儀は扉の向こうへ行こうとした。しかしそこには霧が広がっていた。私は止めようとしたが凍ったように足が動かない。
「陛下!」
溥儀は振り返り笑った。その顔は疲れた男でもなく皇帝でもなく一人の小さな子供の顔だった。ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ、そう見えた。
「君には帰らなければいけない場所がある」
「門だ」
「門番は入る者を見極め、去る者を見送らなければならない。そして滅びる者を無理して引き留めてはならない」
溥儀は静かに霧の向こうへと歩いていった。だんだんと意識が混濁してぐにゃりと曲がりくねっていく。
その瞬間私は目を覚ました。紅魔館の自室のベッドの中で私は泣いていた。
コオロギが籠から飛び立つ様子を見ながら私は思いにふけった。
誰にだって忘れたい記憶はある。しかしいつかはそれと向き合わねばならない。
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