湖のほとりをトボトボ歩く。さりげなく、散歩しているだけにしか見えないように。
幻想郷は夏真っ盛りだが、何故か湖の周りは涼しい空気が立ち込めている。おかげでロングスカートを履いていてもそれほど暑苦しくはない。
時計回りに湖のほとりを回り、紅い洋館の手前で引き返す。あの屋敷には吸血鬼が住んでいる。近づくのは危険だ。
歩きながら、ちらちらと横目で湖の水面を窺う。水音がしないかと耳を澄ませるが、自分の足が雑草をかき分ける音しか聞こえない。
姫、今日は出てこないのかしら。
竹林に住む私が何故湖に来ているかというと、わかさぎ姫に会うためだった。
以前は毎日ここに来て、わかさぎ姫とお喋りをしていた。二三個の石を湖に投げ入れると、彼女は水中からひょっこり顔を出してくれる。
しかし、最近は自分からわかさぎ姫を呼ぶ回数を減らしていた。偶然出会った体で、自然にお喋りがしたかった。
石を投げて彼女を呼ぶと、なんだかわがままな私に付き合わせているみたいな気がして嫌になったのだ。
おっとりしている彼女はそんなこと気にしないかもしれないけど。でも、私の心が痛む。
わかさぎ姫だって、私とお話がしたくてしているわけじゃないかもしれないし。
彼女が私に会うために竹林まで来てくれるなんてことは、当然今まで一度もなかった。来たら話をするけど自分から出向くほどじゃない、と彼女は思っているのだろう。
普通の妖怪はここまで仲良くはしないのかもしれない。
そういう思いが、私の行動を抑制する。石を投げれば彼女は出てきてくれるし、お話もできるのに。
躊躇してしまう。
だからこうやって、湖のほとりをぐるぐる回っている。
あら影狼――なんて言葉が聞こえてくるのをずっと待っている。
決して短くはない湖の周囲を5往復くらい歩き続けた。それでもわかさぎ姫どころか、妖怪や人間にすら出会わなかった。
日が徐々に西に傾いてきた。あと一時間もすれば空の色が変わってくる。歩き疲れた私は岩場に腰かけ、足を水に付けた。
濡れないようにスカートをまくり、ぽちゃぽちゃと水面を叩く。
もう帰ろうかな。
わかさぎ姫は出てこなかった。趣味の石拾いも今日はお休みだったらしい。
歩くのが疲れた私は目立つのを覚悟で飛んで帰ろうと思った。立ち上がり、スカートの裾を直し、すうっと浮き上がる。
その時、ちょうど足元にあった小石が目に入った。
手を伸ばして取ろうとするが、私は首を振って手を引っ込めた。そして引っ込めた右手を左手で包むようにして胸に当てる。
「また明日」
誰もいない湖に向かって静かに呟いた。最後に水面を一瞥し、私は住処である竹林へと飛び立った。
最近手に入れた手鏡で、毛並の手入れを行う。わかさぎ姫に寝ぐせを指摘されて以来、これが毎朝の日課になっている。
耳のそり立ち具合、前髪、後ろ髪、そして服のしわがないかを、手鏡を睨みながら確認していく。
赤い爪の手入れも欠かせない。この爪はわかさぎ姫に褒めてもらえてからとても気に入っている。長くなりすぎて折れないように、竹林の竹でガリガリと削るのだ。
ピンと尖った両手の爪に満足した私は、薄暗い竹林を出発した。
昨日とは打って変わって今日は朝から曇り空が広がっていた。日差しがない分昨日よりも涼しく感じられる。
これは散歩のしがいがあるぞ、なんて思ってしまって、慌てて首を振る。私は散歩しに行くんじゃないのだ。わかさぎ姫に会いに行くのだ。
いつも通り、紅い洋館からは離れた場所に到着する。今日こそはわかさぎ姫を呼ぶぞと意気込んでいると、どこからか愉快な歌が聞こえてきた。
「迷子の迷子のおおかみさん、あなたのおうちはどこですか~
からすに聞いても分からない~ すずめに聞いても分からない~」
その歌声の主は明らかにわかさぎ姫だった。彼女は一人で歌を歌ったり石を拾ったりしている、なんともおっとりした妖怪なのだ。
「わんわんわわん わんわんわわん
鳴いてばかりいるおおかみさん
……あれ、狼ってわんわんでいいのかな」
「違うよ! わんわんは犬よ。一緒にしないで」
声が聞こえる方向に抗議すると、ばしゃん、と勢いよくわかさぎ姫が水面に現れた。
昨日の苦労が嘘のようだ。こんなに早くわかさぎ姫に会えるなんて。
わかさぎ姫はご機嫌のようで、ニコニコしながらほとりまで泳いできた。
「影狼じゃない。私の歌聞いてたの?」
「うん。狼はわおーんよ。犬とは違うから」
「一緒じゃないの?」
「違うってば」
よいしょ、とわかさぎ姫は陸に上がってくる。彼女は水中にいたはずなのに水が滴るどころか、着物が濡れている様子すらない。
それに、どうして水中で歌が歌えるのか私には分からない。聞いても「だって人魚だし」なんて言葉しか返ってこない。
「久しぶりね」
「う、うん。三日ぶりくらいかしら」
「最近暑かったからね、水中で休んでたのよ。今日はほら、涼しいでしょ。だから久しぶりに上がってこようかなと思ってたの。そしたらちょうど影狼が来て、歌を聞かれたの」
「そっか。偶然ね。私も三日ぶりに姫に会いに来たのよ」
わかさぎ姫は私の嘘を簡単に信じ込んだ。まさか私が湖のほとりを数時間歩き続けただなんて夢にも思わないだろう。
私はほとりに腰を下ろした。するとわかさぎ姫が私の右肩にもたれかかってきた。
彼女は下半身が魚だからか地上に座るときはバランスが悪いらしく、お話をするときはいつもこうして私に寄りかかってくる。
当人は何も意識してないだろうけど、私は彼女の髪の香りや顔の近さにいちいちドキドキしてしまう。そして、「影狼、顔赤いよ」なんてことを真顔で言ってくる。
ずるいよ。
そういうことをさらっと言ってのけるのは、わかさぎ姫が天然でマイペースであるが故だ。私みたいに頭で色々考えてしまう者には真似できない。
だから、彼女と会っているときは、たまにこの理性が恨めしくなる。
満月の夜にも理性を保てるからこそ、私は妖怪になれた。理性は私にとって大事なアイデンティティなのだ。
だけどその理性さえなければ、もっと自然にわかさぎ姫と付き合える気がしてしまう。
「三日間で何か変わったことはあった?」
わかさぎ姫は寄りかかった体勢から上目遣いで私の顔を覗き込んでくる。彼女の水色の髪が肩にこすれて、服越しなのにこそばゆい感じがする。
「何も。ここ三日は晴れててずっと暑かったわ」
「そうなの。私は水中にいるから快適よ。あら、でも影狼も竹林だから涼しいんじゃないの? あの竹林、日光がほとんど入らないでしょ」
「あ、ええと……竹林の外をお散歩してたのよ。あははは」
「ふうん?」
嘘は言っていない。この三日間、私はずっと湖のほとりを散歩していた。わかさぎ姫の反応を見るに、そのことには気づいていないようだった。
「姫は何してたの?」
「一人素潜り競争をしてたわ」
「え?」
「一昨日は新記録が出たのよ。何分だと思う?」
「え、えっと……20分くらい?」
「ざんねーん。29分でしたー。すごいでしょ?」
「た、確かにすごいけど、姫ってエラ呼吸できないんだね。初めて知ったわ」
「む、私はお魚さんじゃなくて人魚よ。一緒にしないで」
「一緒じゃないの?」
「違うってば! 影狼だって犬と一緒にされたら怒るでしょ?」
「うん。怒る」
「それと同じよ」
なるほどと納得すると、むくれていたわかさぎ姫は再びご機嫌になった。
わかさぎ姫は犬のように私の服の袖に鼻先を擦り付けてくる。気に入っているのか、最近同じことをよくやっている。そのせいで私は体臭にも気を遣うようになってしまった。
私と彼女が会うのはいつも昼間だ。夜は私がケモノっぽくなってしまうから自重している。昼間より目や耳がよくなり、何よりケモノっぽい匂いが増してしまう。特に満月の夜は今後も会うことはないだろう。
「満月の夜のね、もふもふの影狼に抱っこされたいなー」なんてわかさぎ姫が以前言っていたが、あり得ない。断じてあり得ない。
そもそも服を着ていたら毛深さは関係ない。もふもふの私、というのはつまり、服を脱いだ私ってことになる。
彼女の言葉は、裸の私に抱かれたいと言っているのと同義なのだ。そんなことをしたら私が恥ずかしさの余り倒れてしまいそうだ。
そもそもわかさぎ姫の前で服を脱ぐなんて、怖くてできない。彼女は満月の夜以外は体毛がないと思っているみたいだが、そんなことはない。今だってちゃんと体毛が生えている。
人間の女性のような身体だが、爪は長く、牙を持ち、獣の耳を立て、そして身体を覆う毛を生やしている。そんな姿は、お世辞にも綺麗とは言えないだろう。
「ふあぁ、久しぶりにお日様に当たってたら、何だか眠くなってきたわ」
「そ、そう」
肩にもたれかかっていたわかさぎ姫の頭が、ストンと落ちた。落ちた先でもまた同じように、今度は顔全体をこすりつけている。
「影狼の服気持ちいい。お日様の香りがする」
「ちょ、ちょっと姫」
正座していた私の膝の上にわかさぎ姫の頭がある。
これはいわゆる膝枕というやつじゃないのか。
私が、わかさぎ姫に、膝枕をしてあげている。
頭の中で状況を把握した途端、顔が焼けるように熱くなった。しっぽが私の意思に反してフリフリと動いてしまう。
わかさぎ姫は膝の上から私の顔を見上げていた。どうやら背後のしっぽには気づいていないようだった。しかし、先ほどよりも顔が見えやすい位置になってしまった。
しっぽは誤魔化せても、頬の紅潮は誤魔化せない。
「影狼、顔赤いわよ?」
「いや、これは、その……日焼けよ! 最近散歩ばっかりしてたから、日に焼けたの!」
「ふうん。ちゃんとケアしなきゃだめよ? 影狼はお肌も髪の毛も綺麗なんだから」
「なっ、あ、そんな、こと……ない、わよ」
「うん?」
膝の上で首を傾げるわかさぎ姫。その言葉は私を赤面させようとして発したものではないと分かっている。この子は天然なのだ。
思ったことを、その通りに口にする。
お世辞は言えないけど、本音は簡単に言える。私とは真逆だった。
私がわかさぎ姫に対して何らかの言動を行おうとするとき、私はいつだって理性に邪魔をされる。
彼女が不快に思う可能性が少しでもあれば、私はためらってしまう。例えそれがとても低い確率だったとしても。
臆病な私と勇気ある私が対立し、いつも後者が負けてしまう。
私はわかさぎ姫の両頬を手で挟み、唇を尖らせる。
「むにゅうー」
「みゅー。どうひたの?」
「何でもないわよ」
羨ましい口。交換してほしい。
いや、この場合口ではなくこの理性的な性格なのだろうか。
しかし私から理性を取れば何になる? ただの妖獣じゃないか。
「影狼、何考えてるの? 難しい顔して」
「何でもないわ」
「嘘。絶対何か考えてたでしょ。なあに? 巫女にいじめられたの?」
「そんなことないよ」
「うーん。じゃあ竹林の妖怪に襲われたの? この前言ってた火の鳥の」
「違うよ。本当に、何でもないの」
「影狼って秘密が多いのねえ。この前も何か言いかけて、何でもないって言ってた」
それは私がわかさぎ姫の手を握ろうとして止めたときのことだ。あの時も私は勇気が出なかった。
私は彼女にもっと近づきたいと思っていた。でも、拒まれたときのことを考えてしまい、足踏みしてしまった。
「ねえ、秘密暴露大会しようよ」
「何それ」
「そのままよ。お互いが秘密にしていることを順番に打ち明けるのよ」
「いやよ。恥ずかしいもん」
「あら、いやってことは何か秘密にしていることがあるのね。なになに? わかさぎお姉さまに教えなさい」
「膝枕してもらってるくせに何がお姉さまよ」
わかさぎ姫は悪戯っぽく笑いながら私の頬を引っ張ってくる。私も負けじと両手で彼女の頬を挟みこむ。
すると彼女は更に引っ張る力を強めてきた。
「みゅー」
「いひゃいっ、いひゃ、はなひて」
わかさぎ姫の力があまりに強かったので私はギブアップを宣告する。すると二人とも同時に手を放した。
引っ張られた左の頬がヒリヒリする。そんな私とは対照的にわかさぎ姫は涼しい顔をしていて、何だか納得がいかない。
「ねえ、お耳触らせて」
「なっ、いやよ。だいたい姫はスキンシップに積極的すぎなのよ」
そう言うとわかさぎ姫は露骨に残念そうな顔をする。この素直すぎる反応は果たして無意識なのだろうか。
わかさぎ姫はやや低くなった声で呟いた。
「影狼はこういうのいや?」
「いや、じゃないけど。ほら……恥ずかしいじゃん」
「いやじゃないんだ」
「うん」
「じゃあ、やりたい?」
「……」
そりゃあ私だってやりたいよ。
でも、耳なんて敏感なパーツを触るのは私にはレベルが高すぎる。手を繋ぐのにもドキドキしてしまうのに。
手に触れるのと耳に触れるのとでは、越えなきゃいけないハードルに差があるだろう。
私はもっと簡単なところから始めたい。そうじゃないと私の心が持たない。
「膝枕もいやならやめるよ」
「ううん! いやじゃないよ。その、だから、姫からするのはいいんだけど、自分からやるのは恥ずかしい、みたいな」
自分でも顔が赤くなっているのが分かる。下から見上げるわかさぎ姫の視線から逃れる術はない。そっぽを向いても、耳まで赤くなっているのがばれるだけだ。
「恥ずかしいけどやりたいんだ」
「うん……」
「何がしたいの? というより、膝枕の時点で結構恥ずかしいと思うのだけれど」
「だから照れてるんじゃない!」
「あ、照れてたの? 日焼けじゃなかったんだ」
含みを持った目で見つめられ、かあっと頭が熱くなる。
ひどいよ姫。わざとやってるんじゃないのか。
この子、天然なふりをして実はとても賢い子なんじゃ……。
「じゃあ、逆に聞くけど、姫は私に触られていやにならない?」
「ならないわよ?」
「ほんとに?」
「ほんとに」
真っ直ぐ私の瞳に向けられた視線で、わかさぎ姫が嘘を言っていないことが分かる。
わかさぎ姫からちゃんと了承は得られた。これで私が懸念していた嫌われるという要素はなくなった。
しかし今度は別の問題が出てくる。正面きっていやじゃないと言われると、今度は恥ずかしさが身体の内側から滲み出てくるのだ。
結局、最後は自分の中の勇気が戦うことになる。
着物の袖からすらりと出されたわかさぎ姫の手は、正座している私のすぐ横に置かれている。手はだらけきっていて、力が入っていない。
私は恐る恐る右手を伸ばし、わかさぎ姫の手の平に触れた。触れた瞬間、ドクンと身体の内側が跳ねた。
初めはちょんちょんと指先で触るだけだったが、数回続けているうちに、やっと手の平を重ねることができた。
彼女の手に触れている間、私はその手だけをじっと見ていた。膝の上の彼女の顔なんて恥ずかしくて見られるはずもなかった。
手の平を通じてわかさぎ姫の体温が伝わってくる。ほんのりと暖かい熱が、手の平から私の中に入り、それが全身を駆け巡っていく。
ずっと触れたいと思っていたわかさぎ姫の手に、私は触れている。その実感がようやく湧いてきた。
手の平に触れるという行為は、自分じゃない誰かに触れるという行為の中で最も一般的であるものだ。
だが、私は竹林で生まれた一匹狼で、仲間というものを持たなかった。故にこういった触れ合いを経験せずに今まで生きてきたのだ。
だから、わかさぎ姫と仲良くなれたときはとても嬉しかった。こうして仲間と身体に触れ合うのは、私の小さな夢でもあった。それも服越しではなく、生身と生身で触れあっている。
生身の触れ合いは、互いの体温をしっかりと感じられる。自分が一人じゃないことを実感させてくれる。
一人は寂しいのだ。
突然、わかさぎ姫がぴょんと膝の上から飛びのいた。そしてまた私の隣に並んでくる。
「影狼は手を繋ぎたかったの?」
「う、うん……」
「そう。はい、どうぞ」
わかさぎ姫は左手を差し出してくる。私はゆっくりと右手を差し出し、その手を掴んだ。
先ほどとは違い、手の平だけでなく指まで彼女の体温を感じる。
「影狼、しっぽが忙しないわよ」
「うわっ、だめっ、見ないでっ!」
「うふふ。可愛い」
横に並ばれたせいで先ほどから動いていたしっぽが丸見えになってしまった。しっぽは私にはコントロールできない。不随意なものなのだ。
「こうすればもっと動くかしら」
わかさぎ姫は一度手を放し、今度はその指を私の指の間に絡めてきた。
手の平はもちろん、指の間一つ一つにわかさぎ姫の指を感じる。私は恥ずかしさと嬉しさで頭の中が真っ白になった。
もうしっぽのことなんて考えてられない。
「影狼って初心なのね」
「言わないでっ」
「こっちも繋いじゃう?」
わかさぎ姫は私の正面に回ってきて、私の左手を掴み、同じように指を絡めようとする。
「わっ、わっ、ちょっ、だめだって」
「あはははは、影狼かわいい」
「それ以上、だめっ、やっ」
私は必死に抵抗するが、芝の上に押し倒され、無理やり指を絡められた。
両手を拘束され、お腹を晒され、おまけにわかさぎ姫に押し倒されている。
そこまで頭で処理したあと、私の視界は暗転した。恥ずかしさのあまり気を失いかけた。
「もう、影狼ったら」
わかさぎ姫の声が遠くぼんやりと聞こえる。ゆっくりと手を放されると、徐々に視界に明るさが戻ってくる。見上げるとわかさぎ姫は呆れ半分、にやけ半分の顔で私を見下ろしていた。
わかさぎ姫にはためらいや限度というものが無いのだろうか。
「ごめんごめん。ちょっとやりすぎたわ」
「ほんと、やりすぎよ」
わかさぎ姫の手を掴んで起き上がる。先ほどの行為で身体全体がぽわぽわと火照ってしまった。私は身体から熱を取り除くように、ふうと大きく息を吐いた。だがまだ呼吸は整わない。
「姫は順番とか、段階とか、躊躇とか、限度とか、そういうの分からないの?」
「うん? 私は面白そうだからやってるだけよ。そんなこといちいち気にしてるのは影狼くらいよ」
私の頭が固いと言いたいのだろうか。私はわかさぎ姫のほうが自由奔放すぎると思うのだけれど。
私は手を繋ぐだけのつもりだったのに、いつの間にか押し倒されていたし。勘弁してほしい。
物事には順序と段階がある。階段を一段ずつ上るように、私は一つずつクリアしていきたいのだ。
一つ一つ確認して、一歩近づいて、また確認して。少しずつ相手の領域に入っていきたい。
「何だか暑くなっちゃった。ちょっと水に入らない?」
「足だけならいいわよ」
「えー。全身入りなよ」
「な、だめよ。服が濡れちゃうじゃない。姫とは違うのよ。服脱ぐわけにもいかないし」
私はスカートの裾を持ち上げ、足首あたりまで水につける。わかさぎ姫は水面を優雅に泳いでいる。
湖の水の心地よい冷たさが足元から全身に広がっていき、火照った身体を冷やしてくれる。夏にしては涼しい風が狼の耳を撫でていく。
気持ちよさに負けた私は完全に横になって空を見上げた。薄雲の向こうにぼんやりと太陽の形が見える。
青空をゆっくりと流れる雲を見つめながら私は考える。こんな平和な日が続けばいいのにと。
わかさぎ姫がいて、私がいて、こうやってお話をしたり、たまにじゃれあったりする日々がずっと続いてほしい。
初めて寿命について考えようと思った。今まで何百年も生きて大妖怪になることを考えることはあったが、死ぬ時のことは考えてなかった。
わかさぎ姫の寿命、そして私の寿命は一体どれくらいなのだろう。人間が八十年くらいだから、五倍から十倍は生きられるだろうか。
ぼんやりとしていく意識の中で考える。私とわかさぎ姫のこと。
あと何百年も生きられるなら、一日や二日なんてほんの一瞬の時間でしかない。
でも、一瞬はすぐに積み重なり、やがて大きな時間になる。時間管理を疎かにしていると、いつの間にか時は過ぎているものだ。
人間は私たち妖怪よりも寿命が短い。相対的に私たちは長生きできる。つまり、人間よりも多くの時間を経験することができる。
だけど、本当に私たちは人間よりも多くの時間を持っているのか、最近私は疑問に思っている。
人間が感じる八十年と、妖怪が感じる八十年は違うのではないだろうか。客観的には同じ時間だったとしても。
つまり、人間は私たち妖怪よりもとても濃い時間を過ごしていて、だから妖怪よりも早く死ぬのではないかということだ。
「ねえ、姫。姫の寿命ってどれくらいか分かる?」
泳いでいたわかさぎ姫がこちらに寄って来て上半身を陸に上げた。
「んー? 寿命ねえ。うーん、分からないわ。影狼は?」
「私も分からない。でも多分、千年は生きられないかなって思う。私って考え事多いから。早死にしそう」
「それは私の頭が空っぽで長生きしそうって言いたいのかしら」
「そうじゃなくて、寿命に差があったらさ、体感時間が違うのかなって思って。私の一日が、姫の一日にはならないかもしれないってこと」
「どういうこと? お日様が出てきて沈んだら一日でしょ。それは影狼も一緒じゃない」
「主観的な話よ」
こんなことは考えたって仕方がないのかもしれない。答えはきっとないのだから。
だからきっと、今はわかさぎ姫との時間を大事にすればいいんだと思う。嫌われたらどうしようなんて二の次だ。
一緒にいられる時間を大切に。
「ねえ、今夜一緒に星を見ようよ」
ふと思いついて言ってみた。朝のうちに張り出していた雲が徐々に薄くなってきているのが見えていたから。
「え? 夜に会うの? それって初めてじゃない?」
「そうね」
「私てっきり夜はだめだと思ってたけど、大丈夫だったのね。変身とか発情とかしない?」
「しないわよっ! ……しない、よ。……多分」
私は自分を制御できるだけの理性を持っている。夜になると本能が大きくなり、多少理性が緩くなってしまうのは自覚しているが。それでもまだ満月は先だから大丈夫のはずだ。
語尾が不自然にしぼんでしまったことで、わかさぎ姫が冷たい目で私を見てくる。私から見ればわかさぎ姫のほうが毎回私に発情しているのだけど。
「いつ死ぬか分からないなら、できるだけ長い時間一緒にいたいって思ったの」
「影狼はいろいろ考えてるのねえ。私なんて思いのまま行動してるから。考えるより動けって感じ」
「それができるなら一番幸せなんじゃない?」
「あーまた馬鹿にしたー」
「してないよ」
わかさぎ姫に手を差し出す。彼女はその手をしっかり握って水から上がった。まだ少し恥ずかしいけど、これから繰り返すうちに慣れていくだろう。
理性は私に働きかけ、行動を統制する。仲間を持ったことがない私がわかさぎ姫に近づくことを慎重にさせる。でも理性は悪いことばかりしているわけじゃない。
理性があるからこそ私はわかさぎ姫を大事にできるし、彼女との時間を大事にできる。
無邪気に本能のまま行動する妖怪は、私のことを馬鹿にするかもしれない。でも私はこの理性と上手に付き合っていきたい。理性は私の大事なアイデンティティなのだから。
「まだ雲が出てるけど、夜は晴れるかしら?」
「晴れなかったら明日の夜、明後日の夜があるわ」
「あら、毎日ここに来てくれるの? やだ影狼ったら積極的になったのね。もうここに棲んじゃう?」
「いや、それはないわね。私は竹林に棲む妖怪だから。これも大事なアイデンティティよ。人魚が水辺に棲むのと同じようにね」
日が西に傾いてきていた。西の空には雲が無く、淡い青色が橙色に変わりつつあった。きっと夕焼けが綺麗に見えるだろう。星空もきっと。
初めて迎えるわかさぎ姫との夜。二人で肩を並べて星空を眺める。手は……繋がないかもしれない。星空に集中できなくなるから。
でも時々、存在を確かめるように触れることはあるかもしれない。あるいは体温を感じるために。
「ついに二人で初めての夜を迎えるわけね」
「姫それ意味分かって言ってるの?」
「意味って? そのままの意味でしょ?」
「そのままだけど、そのままじゃないような……」
思わせぶりな言葉はいつものこと。そしてその言葉に反応してしまって彼女に聞き返されるのも。
多分、これからもずっと続いていくだろう。天然な彼女に振り回される私の姿が、頭の中に浮かんだ。
「うん?」と首を傾げながらわかさぎ姫は微笑んでいる。
私の動揺など知る由もない彼女に、私は苦笑を返した。
幻想郷は夏真っ盛りだが、何故か湖の周りは涼しい空気が立ち込めている。おかげでロングスカートを履いていてもそれほど暑苦しくはない。
時計回りに湖のほとりを回り、紅い洋館の手前で引き返す。あの屋敷には吸血鬼が住んでいる。近づくのは危険だ。
歩きながら、ちらちらと横目で湖の水面を窺う。水音がしないかと耳を澄ませるが、自分の足が雑草をかき分ける音しか聞こえない。
姫、今日は出てこないのかしら。
竹林に住む私が何故湖に来ているかというと、わかさぎ姫に会うためだった。
以前は毎日ここに来て、わかさぎ姫とお喋りをしていた。二三個の石を湖に投げ入れると、彼女は水中からひょっこり顔を出してくれる。
しかし、最近は自分からわかさぎ姫を呼ぶ回数を減らしていた。偶然出会った体で、自然にお喋りがしたかった。
石を投げて彼女を呼ぶと、なんだかわがままな私に付き合わせているみたいな気がして嫌になったのだ。
おっとりしている彼女はそんなこと気にしないかもしれないけど。でも、私の心が痛む。
わかさぎ姫だって、私とお話がしたくてしているわけじゃないかもしれないし。
彼女が私に会うために竹林まで来てくれるなんてことは、当然今まで一度もなかった。来たら話をするけど自分から出向くほどじゃない、と彼女は思っているのだろう。
普通の妖怪はここまで仲良くはしないのかもしれない。
そういう思いが、私の行動を抑制する。石を投げれば彼女は出てきてくれるし、お話もできるのに。
躊躇してしまう。
だからこうやって、湖のほとりをぐるぐる回っている。
あら影狼――なんて言葉が聞こえてくるのをずっと待っている。
決して短くはない湖の周囲を5往復くらい歩き続けた。それでもわかさぎ姫どころか、妖怪や人間にすら出会わなかった。
日が徐々に西に傾いてきた。あと一時間もすれば空の色が変わってくる。歩き疲れた私は岩場に腰かけ、足を水に付けた。
濡れないようにスカートをまくり、ぽちゃぽちゃと水面を叩く。
もう帰ろうかな。
わかさぎ姫は出てこなかった。趣味の石拾いも今日はお休みだったらしい。
歩くのが疲れた私は目立つのを覚悟で飛んで帰ろうと思った。立ち上がり、スカートの裾を直し、すうっと浮き上がる。
その時、ちょうど足元にあった小石が目に入った。
手を伸ばして取ろうとするが、私は首を振って手を引っ込めた。そして引っ込めた右手を左手で包むようにして胸に当てる。
「また明日」
誰もいない湖に向かって静かに呟いた。最後に水面を一瞥し、私は住処である竹林へと飛び立った。
最近手に入れた手鏡で、毛並の手入れを行う。わかさぎ姫に寝ぐせを指摘されて以来、これが毎朝の日課になっている。
耳のそり立ち具合、前髪、後ろ髪、そして服のしわがないかを、手鏡を睨みながら確認していく。
赤い爪の手入れも欠かせない。この爪はわかさぎ姫に褒めてもらえてからとても気に入っている。長くなりすぎて折れないように、竹林の竹でガリガリと削るのだ。
ピンと尖った両手の爪に満足した私は、薄暗い竹林を出発した。
昨日とは打って変わって今日は朝から曇り空が広がっていた。日差しがない分昨日よりも涼しく感じられる。
これは散歩のしがいがあるぞ、なんて思ってしまって、慌てて首を振る。私は散歩しに行くんじゃないのだ。わかさぎ姫に会いに行くのだ。
いつも通り、紅い洋館からは離れた場所に到着する。今日こそはわかさぎ姫を呼ぶぞと意気込んでいると、どこからか愉快な歌が聞こえてきた。
「迷子の迷子のおおかみさん、あなたのおうちはどこですか~
からすに聞いても分からない~ すずめに聞いても分からない~」
その歌声の主は明らかにわかさぎ姫だった。彼女は一人で歌を歌ったり石を拾ったりしている、なんともおっとりした妖怪なのだ。
「わんわんわわん わんわんわわん
鳴いてばかりいるおおかみさん
……あれ、狼ってわんわんでいいのかな」
「違うよ! わんわんは犬よ。一緒にしないで」
声が聞こえる方向に抗議すると、ばしゃん、と勢いよくわかさぎ姫が水面に現れた。
昨日の苦労が嘘のようだ。こんなに早くわかさぎ姫に会えるなんて。
わかさぎ姫はご機嫌のようで、ニコニコしながらほとりまで泳いできた。
「影狼じゃない。私の歌聞いてたの?」
「うん。狼はわおーんよ。犬とは違うから」
「一緒じゃないの?」
「違うってば」
よいしょ、とわかさぎ姫は陸に上がってくる。彼女は水中にいたはずなのに水が滴るどころか、着物が濡れている様子すらない。
それに、どうして水中で歌が歌えるのか私には分からない。聞いても「だって人魚だし」なんて言葉しか返ってこない。
「久しぶりね」
「う、うん。三日ぶりくらいかしら」
「最近暑かったからね、水中で休んでたのよ。今日はほら、涼しいでしょ。だから久しぶりに上がってこようかなと思ってたの。そしたらちょうど影狼が来て、歌を聞かれたの」
「そっか。偶然ね。私も三日ぶりに姫に会いに来たのよ」
わかさぎ姫は私の嘘を簡単に信じ込んだ。まさか私が湖のほとりを数時間歩き続けただなんて夢にも思わないだろう。
私はほとりに腰を下ろした。するとわかさぎ姫が私の右肩にもたれかかってきた。
彼女は下半身が魚だからか地上に座るときはバランスが悪いらしく、お話をするときはいつもこうして私に寄りかかってくる。
当人は何も意識してないだろうけど、私は彼女の髪の香りや顔の近さにいちいちドキドキしてしまう。そして、「影狼、顔赤いよ」なんてことを真顔で言ってくる。
ずるいよ。
そういうことをさらっと言ってのけるのは、わかさぎ姫が天然でマイペースであるが故だ。私みたいに頭で色々考えてしまう者には真似できない。
だから、彼女と会っているときは、たまにこの理性が恨めしくなる。
満月の夜にも理性を保てるからこそ、私は妖怪になれた。理性は私にとって大事なアイデンティティなのだ。
だけどその理性さえなければ、もっと自然にわかさぎ姫と付き合える気がしてしまう。
「三日間で何か変わったことはあった?」
わかさぎ姫は寄りかかった体勢から上目遣いで私の顔を覗き込んでくる。彼女の水色の髪が肩にこすれて、服越しなのにこそばゆい感じがする。
「何も。ここ三日は晴れててずっと暑かったわ」
「そうなの。私は水中にいるから快適よ。あら、でも影狼も竹林だから涼しいんじゃないの? あの竹林、日光がほとんど入らないでしょ」
「あ、ええと……竹林の外をお散歩してたのよ。あははは」
「ふうん?」
嘘は言っていない。この三日間、私はずっと湖のほとりを散歩していた。わかさぎ姫の反応を見るに、そのことには気づいていないようだった。
「姫は何してたの?」
「一人素潜り競争をしてたわ」
「え?」
「一昨日は新記録が出たのよ。何分だと思う?」
「え、えっと……20分くらい?」
「ざんねーん。29分でしたー。すごいでしょ?」
「た、確かにすごいけど、姫ってエラ呼吸できないんだね。初めて知ったわ」
「む、私はお魚さんじゃなくて人魚よ。一緒にしないで」
「一緒じゃないの?」
「違うってば! 影狼だって犬と一緒にされたら怒るでしょ?」
「うん。怒る」
「それと同じよ」
なるほどと納得すると、むくれていたわかさぎ姫は再びご機嫌になった。
わかさぎ姫は犬のように私の服の袖に鼻先を擦り付けてくる。気に入っているのか、最近同じことをよくやっている。そのせいで私は体臭にも気を遣うようになってしまった。
私と彼女が会うのはいつも昼間だ。夜は私がケモノっぽくなってしまうから自重している。昼間より目や耳がよくなり、何よりケモノっぽい匂いが増してしまう。特に満月の夜は今後も会うことはないだろう。
「満月の夜のね、もふもふの影狼に抱っこされたいなー」なんてわかさぎ姫が以前言っていたが、あり得ない。断じてあり得ない。
そもそも服を着ていたら毛深さは関係ない。もふもふの私、というのはつまり、服を脱いだ私ってことになる。
彼女の言葉は、裸の私に抱かれたいと言っているのと同義なのだ。そんなことをしたら私が恥ずかしさの余り倒れてしまいそうだ。
そもそもわかさぎ姫の前で服を脱ぐなんて、怖くてできない。彼女は満月の夜以外は体毛がないと思っているみたいだが、そんなことはない。今だってちゃんと体毛が生えている。
人間の女性のような身体だが、爪は長く、牙を持ち、獣の耳を立て、そして身体を覆う毛を生やしている。そんな姿は、お世辞にも綺麗とは言えないだろう。
「ふあぁ、久しぶりにお日様に当たってたら、何だか眠くなってきたわ」
「そ、そう」
肩にもたれかかっていたわかさぎ姫の頭が、ストンと落ちた。落ちた先でもまた同じように、今度は顔全体をこすりつけている。
「影狼の服気持ちいい。お日様の香りがする」
「ちょ、ちょっと姫」
正座していた私の膝の上にわかさぎ姫の頭がある。
これはいわゆる膝枕というやつじゃないのか。
私が、わかさぎ姫に、膝枕をしてあげている。
頭の中で状況を把握した途端、顔が焼けるように熱くなった。しっぽが私の意思に反してフリフリと動いてしまう。
わかさぎ姫は膝の上から私の顔を見上げていた。どうやら背後のしっぽには気づいていないようだった。しかし、先ほどよりも顔が見えやすい位置になってしまった。
しっぽは誤魔化せても、頬の紅潮は誤魔化せない。
「影狼、顔赤いわよ?」
「いや、これは、その……日焼けよ! 最近散歩ばっかりしてたから、日に焼けたの!」
「ふうん。ちゃんとケアしなきゃだめよ? 影狼はお肌も髪の毛も綺麗なんだから」
「なっ、あ、そんな、こと……ない、わよ」
「うん?」
膝の上で首を傾げるわかさぎ姫。その言葉は私を赤面させようとして発したものではないと分かっている。この子は天然なのだ。
思ったことを、その通りに口にする。
お世辞は言えないけど、本音は簡単に言える。私とは真逆だった。
私がわかさぎ姫に対して何らかの言動を行おうとするとき、私はいつだって理性に邪魔をされる。
彼女が不快に思う可能性が少しでもあれば、私はためらってしまう。例えそれがとても低い確率だったとしても。
臆病な私と勇気ある私が対立し、いつも後者が負けてしまう。
私はわかさぎ姫の両頬を手で挟み、唇を尖らせる。
「むにゅうー」
「みゅー。どうひたの?」
「何でもないわよ」
羨ましい口。交換してほしい。
いや、この場合口ではなくこの理性的な性格なのだろうか。
しかし私から理性を取れば何になる? ただの妖獣じゃないか。
「影狼、何考えてるの? 難しい顔して」
「何でもないわ」
「嘘。絶対何か考えてたでしょ。なあに? 巫女にいじめられたの?」
「そんなことないよ」
「うーん。じゃあ竹林の妖怪に襲われたの? この前言ってた火の鳥の」
「違うよ。本当に、何でもないの」
「影狼って秘密が多いのねえ。この前も何か言いかけて、何でもないって言ってた」
それは私がわかさぎ姫の手を握ろうとして止めたときのことだ。あの時も私は勇気が出なかった。
私は彼女にもっと近づきたいと思っていた。でも、拒まれたときのことを考えてしまい、足踏みしてしまった。
「ねえ、秘密暴露大会しようよ」
「何それ」
「そのままよ。お互いが秘密にしていることを順番に打ち明けるのよ」
「いやよ。恥ずかしいもん」
「あら、いやってことは何か秘密にしていることがあるのね。なになに? わかさぎお姉さまに教えなさい」
「膝枕してもらってるくせに何がお姉さまよ」
わかさぎ姫は悪戯っぽく笑いながら私の頬を引っ張ってくる。私も負けじと両手で彼女の頬を挟みこむ。
すると彼女は更に引っ張る力を強めてきた。
「みゅー」
「いひゃいっ、いひゃ、はなひて」
わかさぎ姫の力があまりに強かったので私はギブアップを宣告する。すると二人とも同時に手を放した。
引っ張られた左の頬がヒリヒリする。そんな私とは対照的にわかさぎ姫は涼しい顔をしていて、何だか納得がいかない。
「ねえ、お耳触らせて」
「なっ、いやよ。だいたい姫はスキンシップに積極的すぎなのよ」
そう言うとわかさぎ姫は露骨に残念そうな顔をする。この素直すぎる反応は果たして無意識なのだろうか。
わかさぎ姫はやや低くなった声で呟いた。
「影狼はこういうのいや?」
「いや、じゃないけど。ほら……恥ずかしいじゃん」
「いやじゃないんだ」
「うん」
「じゃあ、やりたい?」
「……」
そりゃあ私だってやりたいよ。
でも、耳なんて敏感なパーツを触るのは私にはレベルが高すぎる。手を繋ぐのにもドキドキしてしまうのに。
手に触れるのと耳に触れるのとでは、越えなきゃいけないハードルに差があるだろう。
私はもっと簡単なところから始めたい。そうじゃないと私の心が持たない。
「膝枕もいやならやめるよ」
「ううん! いやじゃないよ。その、だから、姫からするのはいいんだけど、自分からやるのは恥ずかしい、みたいな」
自分でも顔が赤くなっているのが分かる。下から見上げるわかさぎ姫の視線から逃れる術はない。そっぽを向いても、耳まで赤くなっているのがばれるだけだ。
「恥ずかしいけどやりたいんだ」
「うん……」
「何がしたいの? というより、膝枕の時点で結構恥ずかしいと思うのだけれど」
「だから照れてるんじゃない!」
「あ、照れてたの? 日焼けじゃなかったんだ」
含みを持った目で見つめられ、かあっと頭が熱くなる。
ひどいよ姫。わざとやってるんじゃないのか。
この子、天然なふりをして実はとても賢い子なんじゃ……。
「じゃあ、逆に聞くけど、姫は私に触られていやにならない?」
「ならないわよ?」
「ほんとに?」
「ほんとに」
真っ直ぐ私の瞳に向けられた視線で、わかさぎ姫が嘘を言っていないことが分かる。
わかさぎ姫からちゃんと了承は得られた。これで私が懸念していた嫌われるという要素はなくなった。
しかし今度は別の問題が出てくる。正面きっていやじゃないと言われると、今度は恥ずかしさが身体の内側から滲み出てくるのだ。
結局、最後は自分の中の勇気が戦うことになる。
着物の袖からすらりと出されたわかさぎ姫の手は、正座している私のすぐ横に置かれている。手はだらけきっていて、力が入っていない。
私は恐る恐る右手を伸ばし、わかさぎ姫の手の平に触れた。触れた瞬間、ドクンと身体の内側が跳ねた。
初めはちょんちょんと指先で触るだけだったが、数回続けているうちに、やっと手の平を重ねることができた。
彼女の手に触れている間、私はその手だけをじっと見ていた。膝の上の彼女の顔なんて恥ずかしくて見られるはずもなかった。
手の平を通じてわかさぎ姫の体温が伝わってくる。ほんのりと暖かい熱が、手の平から私の中に入り、それが全身を駆け巡っていく。
ずっと触れたいと思っていたわかさぎ姫の手に、私は触れている。その実感がようやく湧いてきた。
手の平に触れるという行為は、自分じゃない誰かに触れるという行為の中で最も一般的であるものだ。
だが、私は竹林で生まれた一匹狼で、仲間というものを持たなかった。故にこういった触れ合いを経験せずに今まで生きてきたのだ。
だから、わかさぎ姫と仲良くなれたときはとても嬉しかった。こうして仲間と身体に触れ合うのは、私の小さな夢でもあった。それも服越しではなく、生身と生身で触れあっている。
生身の触れ合いは、互いの体温をしっかりと感じられる。自分が一人じゃないことを実感させてくれる。
一人は寂しいのだ。
突然、わかさぎ姫がぴょんと膝の上から飛びのいた。そしてまた私の隣に並んでくる。
「影狼は手を繋ぎたかったの?」
「う、うん……」
「そう。はい、どうぞ」
わかさぎ姫は左手を差し出してくる。私はゆっくりと右手を差し出し、その手を掴んだ。
先ほどとは違い、手の平だけでなく指まで彼女の体温を感じる。
「影狼、しっぽが忙しないわよ」
「うわっ、だめっ、見ないでっ!」
「うふふ。可愛い」
横に並ばれたせいで先ほどから動いていたしっぽが丸見えになってしまった。しっぽは私にはコントロールできない。不随意なものなのだ。
「こうすればもっと動くかしら」
わかさぎ姫は一度手を放し、今度はその指を私の指の間に絡めてきた。
手の平はもちろん、指の間一つ一つにわかさぎ姫の指を感じる。私は恥ずかしさと嬉しさで頭の中が真っ白になった。
もうしっぽのことなんて考えてられない。
「影狼って初心なのね」
「言わないでっ」
「こっちも繋いじゃう?」
わかさぎ姫は私の正面に回ってきて、私の左手を掴み、同じように指を絡めようとする。
「わっ、わっ、ちょっ、だめだって」
「あはははは、影狼かわいい」
「それ以上、だめっ、やっ」
私は必死に抵抗するが、芝の上に押し倒され、無理やり指を絡められた。
両手を拘束され、お腹を晒され、おまけにわかさぎ姫に押し倒されている。
そこまで頭で処理したあと、私の視界は暗転した。恥ずかしさのあまり気を失いかけた。
「もう、影狼ったら」
わかさぎ姫の声が遠くぼんやりと聞こえる。ゆっくりと手を放されると、徐々に視界に明るさが戻ってくる。見上げるとわかさぎ姫は呆れ半分、にやけ半分の顔で私を見下ろしていた。
わかさぎ姫にはためらいや限度というものが無いのだろうか。
「ごめんごめん。ちょっとやりすぎたわ」
「ほんと、やりすぎよ」
わかさぎ姫の手を掴んで起き上がる。先ほどの行為で身体全体がぽわぽわと火照ってしまった。私は身体から熱を取り除くように、ふうと大きく息を吐いた。だがまだ呼吸は整わない。
「姫は順番とか、段階とか、躊躇とか、限度とか、そういうの分からないの?」
「うん? 私は面白そうだからやってるだけよ。そんなこといちいち気にしてるのは影狼くらいよ」
私の頭が固いと言いたいのだろうか。私はわかさぎ姫のほうが自由奔放すぎると思うのだけれど。
私は手を繋ぐだけのつもりだったのに、いつの間にか押し倒されていたし。勘弁してほしい。
物事には順序と段階がある。階段を一段ずつ上るように、私は一つずつクリアしていきたいのだ。
一つ一つ確認して、一歩近づいて、また確認して。少しずつ相手の領域に入っていきたい。
「何だか暑くなっちゃった。ちょっと水に入らない?」
「足だけならいいわよ」
「えー。全身入りなよ」
「な、だめよ。服が濡れちゃうじゃない。姫とは違うのよ。服脱ぐわけにもいかないし」
私はスカートの裾を持ち上げ、足首あたりまで水につける。わかさぎ姫は水面を優雅に泳いでいる。
湖の水の心地よい冷たさが足元から全身に広がっていき、火照った身体を冷やしてくれる。夏にしては涼しい風が狼の耳を撫でていく。
気持ちよさに負けた私は完全に横になって空を見上げた。薄雲の向こうにぼんやりと太陽の形が見える。
青空をゆっくりと流れる雲を見つめながら私は考える。こんな平和な日が続けばいいのにと。
わかさぎ姫がいて、私がいて、こうやってお話をしたり、たまにじゃれあったりする日々がずっと続いてほしい。
初めて寿命について考えようと思った。今まで何百年も生きて大妖怪になることを考えることはあったが、死ぬ時のことは考えてなかった。
わかさぎ姫の寿命、そして私の寿命は一体どれくらいなのだろう。人間が八十年くらいだから、五倍から十倍は生きられるだろうか。
ぼんやりとしていく意識の中で考える。私とわかさぎ姫のこと。
あと何百年も生きられるなら、一日や二日なんてほんの一瞬の時間でしかない。
でも、一瞬はすぐに積み重なり、やがて大きな時間になる。時間管理を疎かにしていると、いつの間にか時は過ぎているものだ。
人間は私たち妖怪よりも寿命が短い。相対的に私たちは長生きできる。つまり、人間よりも多くの時間を経験することができる。
だけど、本当に私たちは人間よりも多くの時間を持っているのか、最近私は疑問に思っている。
人間が感じる八十年と、妖怪が感じる八十年は違うのではないだろうか。客観的には同じ時間だったとしても。
つまり、人間は私たち妖怪よりもとても濃い時間を過ごしていて、だから妖怪よりも早く死ぬのではないかということだ。
「ねえ、姫。姫の寿命ってどれくらいか分かる?」
泳いでいたわかさぎ姫がこちらに寄って来て上半身を陸に上げた。
「んー? 寿命ねえ。うーん、分からないわ。影狼は?」
「私も分からない。でも多分、千年は生きられないかなって思う。私って考え事多いから。早死にしそう」
「それは私の頭が空っぽで長生きしそうって言いたいのかしら」
「そうじゃなくて、寿命に差があったらさ、体感時間が違うのかなって思って。私の一日が、姫の一日にはならないかもしれないってこと」
「どういうこと? お日様が出てきて沈んだら一日でしょ。それは影狼も一緒じゃない」
「主観的な話よ」
こんなことは考えたって仕方がないのかもしれない。答えはきっとないのだから。
だからきっと、今はわかさぎ姫との時間を大事にすればいいんだと思う。嫌われたらどうしようなんて二の次だ。
一緒にいられる時間を大切に。
「ねえ、今夜一緒に星を見ようよ」
ふと思いついて言ってみた。朝のうちに張り出していた雲が徐々に薄くなってきているのが見えていたから。
「え? 夜に会うの? それって初めてじゃない?」
「そうね」
「私てっきり夜はだめだと思ってたけど、大丈夫だったのね。変身とか発情とかしない?」
「しないわよっ! ……しない、よ。……多分」
私は自分を制御できるだけの理性を持っている。夜になると本能が大きくなり、多少理性が緩くなってしまうのは自覚しているが。それでもまだ満月は先だから大丈夫のはずだ。
語尾が不自然にしぼんでしまったことで、わかさぎ姫が冷たい目で私を見てくる。私から見ればわかさぎ姫のほうが毎回私に発情しているのだけど。
「いつ死ぬか分からないなら、できるだけ長い時間一緒にいたいって思ったの」
「影狼はいろいろ考えてるのねえ。私なんて思いのまま行動してるから。考えるより動けって感じ」
「それができるなら一番幸せなんじゃない?」
「あーまた馬鹿にしたー」
「してないよ」
わかさぎ姫に手を差し出す。彼女はその手をしっかり握って水から上がった。まだ少し恥ずかしいけど、これから繰り返すうちに慣れていくだろう。
理性は私に働きかけ、行動を統制する。仲間を持ったことがない私がわかさぎ姫に近づくことを慎重にさせる。でも理性は悪いことばかりしているわけじゃない。
理性があるからこそ私はわかさぎ姫を大事にできるし、彼女との時間を大事にできる。
無邪気に本能のまま行動する妖怪は、私のことを馬鹿にするかもしれない。でも私はこの理性と上手に付き合っていきたい。理性は私の大事なアイデンティティなのだから。
「まだ雲が出てるけど、夜は晴れるかしら?」
「晴れなかったら明日の夜、明後日の夜があるわ」
「あら、毎日ここに来てくれるの? やだ影狼ったら積極的になったのね。もうここに棲んじゃう?」
「いや、それはないわね。私は竹林に棲む妖怪だから。これも大事なアイデンティティよ。人魚が水辺に棲むのと同じようにね」
日が西に傾いてきていた。西の空には雲が無く、淡い青色が橙色に変わりつつあった。きっと夕焼けが綺麗に見えるだろう。星空もきっと。
初めて迎えるわかさぎ姫との夜。二人で肩を並べて星空を眺める。手は……繋がないかもしれない。星空に集中できなくなるから。
でも時々、存在を確かめるように触れることはあるかもしれない。あるいは体温を感じるために。
「ついに二人で初めての夜を迎えるわけね」
「姫それ意味分かって言ってるの?」
「意味って? そのままの意味でしょ?」
「そのままだけど、そのままじゃないような……」
思わせぶりな言葉はいつものこと。そしてその言葉に反応してしまって彼女に聞き返されるのも。
多分、これからもずっと続いていくだろう。天然な彼女に振り回される私の姿が、頭の中に浮かんだ。
「うん?」と首を傾げながらわかさぎ姫は微笑んでいる。
私の動揺など知る由もない彼女に、私は苦笑を返した。
とても良かったです。
影狼ちゃんはもっと自分に自信を持ってほしいな あおうん
「」だけ読んでも甘すぎる!
ごちそうさまでした!
しかし二人の関係が進むのは100年後ぐらいになりそう
そんな二人の関係がとても素敵でした
影狼さんの理性が無事でも、こっちの理性が飛ぶところでした。
いかにも原作チックで理想的な二人をありがとうございました。