「こんにちは、鈴仙さん。
えっと、よろしくお願いします」
「はいはーい。
よしよし、よくきたねー。迷わないでこられるなんてえらいねー。そんな偉い子には、お姉さんからあめちゃんをあげちゃおう」
「……人のこと子ども扱いするのやめてくださいマジで」
森閑たる空気漂う竹林の奥に佇む、ここは永遠亭。
その和風建築丸出しの建物の一角に、とある病院がある。
「……はあ。相変わらず、大流行ですね」
「軍人と医者と葬儀屋は閑古鳥が一番なんだけどね。なかなか」
ひょいと肩をすくめるのは、ここ、永遠亭の病院で働く鈴仙・優曇華院・イナバという少女。
その隣で、鈴仙からもらった飴玉口の中で転がしてるのは魂魄妖夢という少女である。
「にしても、幽々子さんは何を考えているんだろう?」
「たまには一人でのんびりしたいとか……。
まぁ、何かよろしくないこと考えているのかもしれませんけれど」
この妖夢、こことは遠く離れた白玉楼なるところで、とある幽霊のお嬢様に仕えている。
その主が『話はしておいたから、しばらく、永遠亭でお手伝いしてきなさい』と妖夢を送り出したのが、少し前のことだ。
「病院のお金を払えてないってわけじゃないんだけどね」
「そうなんですけどね……。
まぁ、私は、幽々子さまの命令なので、逆らえないのが」
「まぁ、そうだね。仕方ない。
じゃあ、妖夢ちゃんのお部屋に案内しよう。
てゐー、ちょっとお願いねー」
「そういうことを人に頼む癖は、鈴仙さまの悪い癖ですね」
「何言ってんの。そういう、お客様案内係のチーフは誰でしたっけ?」
「わたくしめでございます」
受付のカウンターに座って、肘を突いて二人のやり取りを眺めていた因幡てゐがひょいとやってくる。
妖夢に鈴仙は「じゃあ、てゐについていってね」と言って、その場から去っていった。
その後ろ姿を見て、『今日は忙しいのだろう』と妖夢は思う。
「そんじゃ、こっち。ついてきて」
「あ、はい」
てゐが歩き出す。
頭の後ろで手を組んで歩いていく彼女と一緒に、入り口を少し前方に進み、現れる通路を右手側に。
「あの……」
「うちは病院だから。
医療の知識がない人には、基本、雑用以外はやらせないから。
それは安心していていいよ」
「あ、はい」
「素人が勝手に手を出して、患者を殺されたりしたらたまったもんじゃない」
医療に死人はつき物だが、いざ、それが出ると、色々とめんどくさいのだ、とてゐは言う。
「うちのお師匠様は、確かに天才であらせられるお方さ。
だがね、そいつにだって出来ることと出来ないことがある。
最初から手遅れの患者を運んできて死なれたからって、『お前のせいだ』はないと思うんだ。
ま、一縷の望みを託してくれるのはわかるんだけど、不条理に、こっちだって黙ってばかりってこともない」
『そういうめんどくさいことはやらせない』とてゐ。
彼女は彼女なりに、もしかしたら、妖夢を気遣っているのかもしれない。
通路を左に曲がり、その先のふすまを開く。畳八畳ほどの部屋が、そこに広がっている。
「あんたの部屋はここ。
何日、うちにいるのかは知らないけど、自由に使ってちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
「あとね、うちで働くのに、その服はないから。
タンスの中に白衣が入っているから、それ使って。
あと、あんたは風邪とかよく引いてるでしょ。移ったり移されたりすると困るから、テーブルの上にマスク、用意しておいたから。
使うように」
「えっと……すみません。何か迷惑かけてるみたいで」
「その分、ちゃんと働いてもらわないと、人の好意を無にされると困るんだよね」
そんじゃね、とてゐは歩いていく。
会話の流れから察するに、マスクはてゐが用意したのだろう。
ありがたいと思いながら、妖夢は背負っていた荷物を畳の上に置いて、さて、とタンスを開く。
「うーむ……。私に似合うかな……」
似合う似合わないはともかくとして、着用しなければならない白衣に、彼女はちょっぴり顔を引きつらせるのだった。
「それじゃ、あんたの仕事は、ここでの受付ね。
あたしがやってる仕事を真似すりゃいいから」
「は、はい」
「楽なもんだよ。座って金受け取るだけだから」
入り口に置かれている受付に座って、てゐは言う。
その隣には妖夢用の椅子が置かれ、てゐは『そこにいればいいから』と言うだけだ。
何だかお荷物扱いされているようで居住まいが悪いのか、きょろきょろ、妖夢は辺りを見回す。
「いらっしゃいませ。どうされましたか?」
そうしていると、『お客さん』がやってくる。
子供をつれた若い母親であり、彼女はてゐに「実は先日から、息子が熱を出していまして。近くのお医者さんに薬をもらっても治らないんです」と訴えている。
てゐはふんふんとうなずきながらさらさらとメモを取り、カウンターの裏から番号のついた札を取り出して、「あちらでお待ちください」と告げる。
「ま、こんだけ」
振り向くてゐ。
すると、彼女はすぐさま、また前を向く。
やってくるのは年を重ねた男性。ただし、やってきたのは外からではなく、建物の中からだ。
「お疲れ様でした。
代金はこちらに」
「いつもありがとうございます」
「いえいえ」
「毎度、金ではなく物でしかお支払いできなくて申し訳ない」
「うちはそういうところですから」
「助かりました。それでは」
彼から渡されたのは、なかなか見事なサイズのじゃがいもである。それが10個は入っているだろう袋をてゐは受け取り、「お大事に」と告げる。
「物々交換でも支払いを受け付けてるから、こういうのがたまってね。
ちょっとー」
「はーい」
「これ、倉庫に持って行って」
「はい」
「あの、それ、私が……」
「あんた、倉庫の場所、知ってるの?」
「……いえ」
「あとで教えてやる」
そんな感じに、てゐは『客』をさばいていく。
なかなか見事な手際であり、やってくる者達が受付で列を成すことはない。
「はあ……」
「何。どしたの」
「あ、いえ。
鈴仙さんのお話を聞いていると、失礼ですけど、てゐさんって、あんまりこういうのが得意じゃないと思っていたんですが……」
「得意じゃないよー。めんどくさいよー。
だけど、やらなきゃ詰まるんだし。
あたし以外にこういうの、スムーズにこなせるのがいなくてさ。
仕事を教えて、なかなか見込みのある子もいるんだけど、これがまぁ、ね。
あたしもそろそろ引退して、うちの姫様みたいに盆栽でも愛でながら暮らしたいわ」
「ははは……」
そんな冗談を言いながら、視線はすぐに前に戻す。
妖夢も、彼女の仕草に気づいて視線をそちらに向けると、また新たな『お客さん』の姿がある。
「……えーっと。私は何をすれば」
「これ。番号と照らし合わせてチェックを入れていって。
誰が終わって誰が終わってないか、管理してるから。
あんまり待たせているようなら順番繰り上げないといけないし」
「……一杯ありますね」
「うちに、一日、どんだけ患者が来ると思ってんの」
ここ、永遠亭の病院――八意永琳医療相談所――には、それこそ幻想郷中から人妖の区別なく患者がやってくる。
なぜかというと、ここの主治医であり、病院の冠でもある八意永琳というのが比類なき名医なのだ。
彼女の手にかかれば治らない病はない、というのが幻想郷住民の一般的な認識である。
先のてゐの話にもあった、『他で見捨てられた患者』も一縷の望みを託してやってくる、そんな施設なのだ。
「ちゃーんと営業やって、あちこちの病院にもきちんと付き合いで顔出しておかないと恨まれるよ。全く」
「ははは……」
「あ、ペンは赤使ってね。黒じゃ区別がつかないから」
「は、はい。すみません」
てゐから渡される『番号札』と、治療の終わった『患者』の名前を照らし合わせ、チェックを入れていく。
そうしている間にも次々と患者がやってきて、てゐが『こちらの番号札を持ってお待ちください』と、妖夢がチェックを入れている番号札を渡してしまうものだから、さあ大変。
「えーっと、どこまでチェック……」
「遅い。ちょっと貸して」
「す、すみません」
「ったくもー……。
あんた、体を動かすことばっかりしてるから、頭を動かす仕事についてけないの。両方やっとけ。文武両道」
「うぐ……」
そう言われると、全く反論は出来なかった。
何せ、妖夢の普段の仕事は、仕える主人の身の回りの世話と住んでいるところの掃除だの調整だの、およそ体力がなければ務まらない仕事ばかりなのだ。
このような事務仕事など、文字通り、初めてと言っていい。
「おっ。そんな体力馬鹿にも出来そうな仕事が出来た」
「え?」
「てゐ、ちょっと手を貸して」
聞き覚えのある声がする。
視線を向けると、そこには、見慣れた人間が一人、背中に年老いた男性を背負って立っている。
「あ、妹紅さん」
「妖夢? 何であんたがそこにいるのさ」
「えっと……まぁ、色々あって」
「よろしく」
「あ、は、はい」
「まぁ、あんたでもいいや。
ちょっと手伝って。
おじいちゃん、もう少しだからね。頑張ってね」
老人は、何やら『う~……う~……』と苦悶の表情を浮かべてうなっている。
てゐが壁に立てかけてある担架を取り出し、それを床の上に置いて、妹紅が彼をその上に。
そして、妖夢が前を、妹紅が担架の後ろを持つ形で立ち上がり、てゐが「急患、急患!」と声を上げながら走っていく。
「ほら、あっち。急いで」
「は、はい!」
担架が揺れて、老人に負担を与えないように、しかしなるべく素早く、彼を妹紅と一緒に運んでいく。
廊下を行った先に、てゐが待っていた。
彼女はふすまを開き、『こっち、こっち』と誘っている。
「急患! 鈴仙さま、よろしく!」
「鈴仙なの? 大丈夫?」
「だいじょぶだって」
彼が連れて来られたのは永琳の元ではなく、彼女の補佐として、そして最近では単独で、患者を診ている鈴仙の元である。
妹紅が一瞬、疑いの表情を浮かべるが、てゐは笑いながら軽く手を振った。
妹紅と一緒に、妖夢は、彼を乗せた担架を畳の上に。
鈴仙がすぐに立ち上がり、彼の体に手を置いて、
「またぎっくり腰ですね、ダツさん」
「わはは……先生、すまねぇなぁ……。あいたたた……! う~……!」
「……何だ、ぎっくり腰か。
私はおばあちゃんに『妹紅ちゃん、おじいさんが!』って声をかけられて、慌てて運んできたってのに……」
「妹紅ちゃん、ありがとうよ……。いや、情けねぇなぁ……。
俺も、若い頃は、こんな情けないことにゃならんかったもんだが……」
「てゐ、棚から9番の薬。注射器に入れて」
「はいはい」
「妖夢ちゃん、君は向こうからガーゼとアルコール。あと、テープと湿布を持ってきて」
「は、はい。えっと……」
「左の棚、上から三段目」
「あ、ありがとうございます」
てゐが用意したのは、痛み止めの即効性のある薬。妖夢が用意したのは、定番の医療用グッズである。
「ぎっくり腰は、安静にしてるしかないですから。
帰り道は、うちのうさぎ達が連れて行きます」
「ああ、いいよ。私がまた背負っていくから」
「背負うっていうのも、あまり腰にはよくないんですよ」
「あれ、そうなの?
おじいちゃん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。痛いけどな……わはは……あいたたた……!」
てきぱきと治療を終えて、鈴仙はカルテにさらさらと何やら書き込むと、てゐに『はい』とそれを渡した。
「あんた、先に薬局に行って、ここに書いてあるもの用意して」
「は、はい。
えっと、湿布に痛み止めの薬に……」
「この紙を、そこにいる連中に渡したら、あいつらが用意するから。
あんたはそれを袋に入れて、受付のところに置いておいてくれればいいよ」
要するに、『専門家のやることに素人が口出すな』ということである。
余計なことはしないで、うちらのサポートだけやってればいい、ということでもある。
『まぁ、そういう扱いは当然だよね』と妖夢は内心で苦笑しつつ、妹紅と一緒にその場を後にする。
「何で妖夢がそんな格好して働いているの」
妹紅――藤原妹紅は、隣を歩く妖夢に尋ねる。
妖夢は、『これこれこういうわけで』と妹紅に返して、「何だそりゃ」という苦笑をもらった。
「あんたも大変ね」
「まぁ……ははは……」
「だけど、大事にならなくてよかったわ。
何か他の病気とかだったら大変だった」
「そうですね。
鈴仙さんもそうですけど、てゐさんも、一発で見抜くとかすごいです」
「二人とも、曲がりなりにも、ここの中核で働いてるんだから。
うちらとはここの出来が違うんでしょ」
とんとん、と妹紅は自分の頭を指で叩く。
妖夢は笑い、「そういう知識、私もさっぱりです」と返した。
「あら、妹紅」
「何、輝夜」
入り口に向かって歩いていると、たまたま、この屋敷におわすお姫様に遭遇する。
お姫様――蓬莱山輝夜は、なぜか手に、立派な盆栽を抱えている。
「どう? 見て、これ。私が育てたのよ。
枝の広がりとか、緑の色が素晴らしいでしょう」
「……あんまりよくわからないんだけど」
「これだから庶民は。
盆栽というのは、ものすごく、奥深いものなのよ!」
あなたにそれが理解できるはずもないわねふふん、な雰囲気漂わせて、びしっと妹紅に指を突きつける輝夜。
妹紅はいつものように『何だとこの』とは返さずに、『いや、そう言われても……』と微妙な反応をするだけだ。
「これ、入り口に飾っておこうかな、って。
今、別の盆栽も育てているのよ。そっちは今度の品評会に出すつもりなの。
また金賞を獲得しないとね」
「あんた、本当に多趣味ね」
「長生きしてるもの。
……と。えっと、あなたは……」
「あ、えっと、すいません、お世話になっています、魂魄妖夢です」
「ああ、そうそう。イナバがやたら気に入っている。
ねぇ、あなた、どう? 盆栽」
「えっと……私もあんまり。ただ、祖父がそういうの好きで、結構、私に自慢とかしてて……」
「へぇ、そうなの。あなたのおじいさまとなら、いいお話が出来そうだわ」
噂には聞いていたが、この輝夜、やはり凝り性なところがある人物である。
妹紅がいうには、『時間を持て余しすぎたが故の暇人なんだ』という意味が、何となくわかって、妖夢も少し顔を引きつらせる。
輝夜は、『この枝をこっちの方に、この形で伸ばすのはとても大変なのよ』と目を輝かせて己の盆栽の素晴らしさを語り、散々、自慢した後、『さて、それじゃ、入り口に置いてきましょう』とすたすた歩いていってしまった。
「……何なのやら」
「あはは……」
その後を、妹紅と妖夢は、なるべく距離を空けて歩いていく。
そうして、入り口――待合室の中に輝夜は消える。
妹紅は『私はおじいちゃんを待って、一緒に帰るよ』と言って、その近くの椅子に腰を下ろし、妖夢は入り口に面した薬局に足を向かわせようとして――。
「おおー!」
「こいつは見事な盆栽だ!」
「輝夜ちゃん、あなた、本当に盆栽を育てるのがお上手ねぇ!」
「こんな枝のつけ方、今までに見たことがない!」
と、待合室から、特にお年寄りからの賞賛の声が上がるのを聞いて、何ともいえない笑みを浮かべる。
それに対して、輝夜が嬉しそうに解説する声も聞こえてきて、
「……病院の中はお静かに、って言ってるのに」
「あはは……」
薬局を仕切る、一羽のうさぎが微妙な笑みを浮かべながら、苦笑する妖夢を見た。
彼女へと、妖夢は、てゐから渡されたメモを手渡す。
すると彼女はすぐさま、後ろの棚に並ぶ、何十、何百の薬やら何やらが入った箱の中から必要なものを取り出してくる。
「……湿布にも、色々、種類があるんですね」
「そうね。
冷やすもの、暖めるもの、強烈なもの、そうでもないもの。色々あるの。
私も、永琳さまからそれを習うまでは、そんなこと知らなかったわ」
「ここのスタッフの方々は、皆さん、永琳さんに師事されてる方なんですね」
「そういうのに興味のある子達がね。
私もそうだけど」
何せ、『医療』というのは難しい。
専門的過ぎるというのもあるが、ちょっと間違えば人を殺してしまうこともあるのだ。
そういうのに興味を持ったとはいえ、おいそれと手を出せるものでもない。
それでも『学ぶ』ことを目指した者たちが、今、ここで働いているのだと彼女は言う。
「すごいですね」
「そうでもないわ」
はい、どうぞ、と。
彼女は笑顔を妖夢に向けて、ついでに『えらいえらい』と、なぜか妖夢の頭をなでながら、薬一式が入った手提げ袋を渡してくれる。
確かに、相手のほうが背が高く、ついでにスタイルも比較するのもおこがましいレベルであったが、妖夢は思う。
「……また子ども扱いされる」
――と。
「はい、今日の仕事終わり」
午後17時を告げる時計の音が鳴り響く。
てゐがぱんぱんと手を叩き、妖夢の肩をぽんと叩いた。
「え? だけど、まだ……」
「あとはあたしらがやるから。あんたは終わっていいよ」
「は、はあ……」
「新規の患者は受け付けないし、今いる客がいなくなったら、あたしらの仕事も終わり。
だけど、あんたは、手伝いだから。
そういう奴に、余計な仕事はさせないよ」
「そうですか……」
「そんじゃ、お疲れさん」
ぽいっと受付から放り出される形で、妖夢は今日の仕事から解放される。
部屋に戻って服を着替え、さてどうしよう、と畳の上で腕組みする。
「……あんまり役に立ってない」
結局、てゐから渡された書類仕事もほとんどこなせず、患者の相手もほぼ出来ず、今日は一日、見てるだけに近かった。
これでは、幽々子から言われた『永遠亭のお手伝いをしてきなさい』をこなしているとは言いがたい。
しばし考えた後、よし、と彼女は膝を叩いて立ち上がる。
「えーっと、確か……」
うろ覚えの記憶を頼りに永遠亭の中を歩いていく。
やがてたどり着くのは厨房。
夕食を前に、大勢のうさぎ達が、忙しそうに料理を作っている。
「あの」
「はい?」
「お手伝いします」
「え? だけど、あなた、お客様……」
「いいえ。ここの手伝いをしろと厳命されてきたので」
その中の一人に断りを入れて、彼女は『よし』と厨房に立った。
永遠亭のメインの食事は和食である。
そして、和食ならば、妖夢の得意とするところであった。
「せっかくだし」
今日一日、働いて疲れている人たちのために、料理を振舞おう。
彼女は包丁を握ると、それの刃を翻しながら、『これは一つの恩返し』と考えていた。
「妖夢ちゃん、お疲れ様ー」
「むぎゅ。」
「あ~、やっぱり君は抱き心地ばっちりでかわいいね~」
鈴仙が真正面から妖夢を抱きしめ、ぐりぐりすりすりする。
ちょうど、妖夢の顔の位置は鈴仙の胸元。かてて加えて、鈴仙は、なかなか乳がでかい。
妖夢がぱんぱんと鈴仙の肩をタップした。
それを受けて、『ん? どしたの?』と鈴仙が妖夢から身を離す。
「……窒息するかと」
悪気なきスリーパーホールドとはこのことである。
とりあえず、鈴仙は妖夢のほっぺたぷにぷにしながら、
「今日のお仕事はどうだった?」
と尋ねる。
「何の役にも立てなかったので。
皆さんの夕食を作るお手伝いをさせていただきました」
「あ、そうなんだ。
道理で、食事に行ってた子達が『今日のご飯、いつもより美味しかった』って言っていたわけだ」
「そう言ってもらえるとありがたいですね」
永遠亭に住まううさぎ達の数を正確に把握しているのはてゐだけである。
それほど多くのうさぎ達が住まうここ、食事をする部屋もあちこちにあり、そのあちこちで、妖夢の手がけた料理の評判は上々だった。
「入院している患者さん達の料理も手がけたのは君?」
「あ、いえ。それは。
というか、それは別の厨房とかでやっていたんじゃ?」
「ああ、そうかもしれない。
私はそこまで知らないから。
師匠も多分知らないだろうし、てゐなら知ってるか」
「……何気に、てゐさんって、重要人物ですよね」
「ああ見えて、ここにいる妖怪の中じゃ最年長だしね。
私も、あの子から見れば、まだまだ子供だし」
「……なるほど」
「てゐが色々、裏で仕切ってくれているから、うちらの仕事は少なくすむ」
鈴仙はそう言って、『よし、それじゃ、妖夢ちゃんのお手製晩御飯を食べよう』と手を打った。
妖夢は苦笑し、鈴仙を連れて、うさぎ達の『食堂』の一つとして使われている部屋へと移動する。
そこでは、時間をずらして食べに来ているうさぎ達の姿。
彼女たちに混じって、二人は料理にありついた。
「そういえば、永琳さんは?」
「まだ患者さんを診てる。
ちょっと面倒な患者がきたみたい」
「そうなんですか」
「多分、入院だろうね。部屋の都合もしていたし」
「大変ですね」
「そうだね。
まぁ、私のところには回されないと思う」
鈴仙がいうには、自分のところに来る患者は、皆、治療が簡単な患者ばかりなのだという。
要するに、彼女もまた、妖夢のように『研修中』の身の上なのだ。
本格的な治療を行うのは主治医の永琳であり、鈴仙はあくまでバッファ、もしくはサポートの扱いに過ぎないのだ。
「鈴仙さんって、医療の知識も技術も豊富だし。
私の病気も何度も治してくれたし。
厳しいんですね」
「まあ、ちょっとミスれば、簡単に人が死ぬのがこの仕事だしね。
仕方ないよ」
「頑張ってください」
「ありがと。
君はいい子だ。ほれ、お肉あげよう」
「じゃあ、にんじんあげます」
「それはダメ。
野菜もきちんと食べなさい」
めっ、でしょ、という具合に言ってくる鈴仙に、妖夢は苦笑しながら『そういう意味じゃないんだけどなぁ』と思いつつも、「わかりました」と返事をする。
「ご飯食べたら一緒にお風呂に入ろうか。で、今日は一緒に寝る?」
「鈴仙さん、私も子供じゃないんだから……」
「いやいや。
いいの~? それで」
「どういうことですか?」
「ここ、永遠亭にはね、夜な夜な、廊下を徘徊するお化けが……」
「……じ、冗談はやめてくださいよ」
「冗談かな~? 冗談じゃないかもしれないよ~」
『おばけだぞ~』と鈴仙がやるものだから、怖いものが苦手な妖夢は、ちょっぴり背筋をすくませ、声を引きつらせながら「だ、大丈夫ですよ」と笑う。
その笑顔が引きつっているものだから、鈴仙がさらに調子に乗って、「そんな妖夢ちゃんのお部屋に、おばけが……」と言ったところで、
「こら、うどんげ。お客様を怖がらせちゃダメでしょう」
そこに、妖夢にとっては救いの神、永遠亭の表の主こと八意永琳の登場であった。
鈴仙は笑いながら「そうですね」とあっさり引き下がる。
永琳は部屋へ一歩、足を進めて、
「お化けが出るような病院なんて、患者さんが遠ざかるでしょう」
と腰に手を当てて、鈴仙を叱った後、用意されている卓につく。
「あの、永琳さん。
すみません。お邪魔してます」
「ええ。いいんです。幽々子さんからはお話を伺っていますから」
「……ちなみに、幽々子さま、なんといってましたか?」
「『うちの妖夢を少し貸し出しますので、のんびりご使用ください』って」
「……私はどういう扱いなんだろう」
まるで道具扱いのようなそれに、妖夢は内心、微妙な気持ちになってつぶやく。
鈴仙は妖夢の頭をぽんぽんと軽く叩き、『気にしない、気にしない』と笑った。
「あら、この煮物、美味しい」
「あ、それ、私が作ったんです。どうですか?」
「あらあら。そうなの?
いいわね、とても味がやわらかくて」
「ありがとうございます」
「妖夢ちゃんは料理も出来るし、気遣いもいいし、おまけにかわいいし。
どう? 私のお嫁さんにならない?」
「えーっと……それは……」
「あ、何それ。私じゃ不満? 傷つくな~」
ほっぺたぷにぷにされながらの鈴仙の攻撃に、妖夢は何ともいえない顔で答えを返す。
永琳に救いを求めて視線をやるのだが、永琳はご飯を食べるのに集中していてこちらを見てくれない。
孤立無援とはまさにこのことである。
「うどんげ。今日は夜勤、お願いね」
「はい、師匠。
いつもどおりでいいですよね?」
「ええ。多分」
何気なく、永琳が口を開く。
鈴仙は妖夢をいじるのをやめて、『やれやれ』と肩をすくめた。
「夜勤……って、昼間も働いたのにですか?」
「そうだよ」
「……大変ですね」
「仕方ない。うちは主治医と補佐が一人ずつしかいないから」
真夜中に、誰かが大変なことになってしまったらどうするの、ということだった。
ここは病院。ここにいる者たちだけが、この空間で生活しているわけではない。
何かの病気を抱えて入院しているものたちもいる。
その中には、何らかの理由で容態が急変するものだっている。
「そういう時にも対応できないとね。
町医者じゃ出来ないことだよ」
だから永遠亭は大変なのだ、というのが鈴仙の言葉だった。
妖夢は深くうなずき、「それじゃ、私もお手伝いしましょうか?」と声をかける。
「いいよ。
子供は夜はきちんと寝ないと、大きくなれないぞ」
「……ははは」
「うどんげだけで夜勤を行うわけではないから、あなたは気にしなくていいわ。
ゆっくりお休みなさい」
永琳は妖夢ににこっと笑いかけ、食事を終えて、席を立った。
ふすまが閉じた後、鈴仙が「まだ患者さんがいるみたいだな」とつぶやく。
ちょっと休憩という意味で、ここにやってきただけだろう、と。
「……みんな大変なんですね」
「流行っているからね」
小さく、鈴仙は「だから、医者と葬儀屋と軍人は閑古鳥がいいのさ」とつぶやいた。
その日は疲れたためか、じっくりたっぷりとっぷりと熟睡した妖夢は、翌朝、朝日を受けて目を覚ます。
時計を見ると、まだ、朝の5時である。
しかし、障子から透けて入ってくる朝の光は見事なものであり、『二度寝は無理だな』と彼女は肩をすくめた。
立ち上がって服を着替え、布団をたたんで、洗面所で顔を洗ってから、『さて』と腕組みする。
「みんなが起きてくるのはまだ先だろうし」
部屋に戻ってきた彼女は正座しながらそれを考えて、『よし』と立ち上がる。
片手に愛用の剣を持って、彼女は永遠亭の中庭へと降り立つ。
見事な日本庭園が広がるそこで、彼女は剣を構えると、素振りを始めた。
ここは病院。患者の中には寝てるものがいるのだから、大きな、威勢のいい掛け声はなしで。
「声を上げないと気合が入らないけど」
まぁ、仕方ないか、とそれを受け入れて、体さばきも交えながら剣を振るう。
こうした普段の鍛錬こそ、己を高めるのに必要なこと――とは、彼女の剣の師の言葉である。
それでなくとも、彼女の場合、しっかりと毎日訓練しなければ気がすまない性格だ。
「おっはよー」
どれくらいの間、剣を振るっていたか。
まだ涼しい気候の中、汗が浮かび、体が火照り、息も切れてきた頃に声がかかる。
「あ、鈴仙さん。おは……!?」
振り向いて、妖夢は声を失い、顔を赤くして立ち尽くす。
「ずいぶん、朝早くから気合が入っているね」
起きたばかりなのだろう、ぼさぼさの頭に乱れた衣装。
妖夢が口をぱくぱくしているのは、鈴仙のその格好が原因だ。
「あ、これ? あははー、私、裸で寝るの癖なんだよねー」
曰く、『昔は服をしっかり着込んで武器まで枕元に置いて寝ていたけれど、全くリラックス出来なかったから』というのが、その格好の原因であるらしい。
この平和な幻想郷でのんびり暮らして、その空気に感化されてしまったのだろう。
――と、理由付けは出来るのだが、
「ちゃんと服と下着着てください!」
と、思わず絶叫する妖夢であった。
「……恥ずかしくないんだろうか。全く」
今日の妖夢の仕事は薬局での受け付けである。
と言っても、必要な薬を選んだり取り出してくるのは別のうさぎの仕事であり、彼女の仕事は、差し出される書類を受け取り、それを担当に渡すだけだ。
実に簡単な仕事であるが、それ故、退屈でもある。
「あの、私って、役に立ってますか?」
「とっても」
後ろの調剤室で、何やら薬を作っている薬剤師のうさぎが答える。
曰く、「この作業をしている時に手を止めて、書類を受け取ったりすると時間のロスが大きい」とのことだ。
それがどれくらいの手間の短縮に役立っているのかはわからなかったが、とりあえず、『役に立っている』と言われて、妖夢はほっとしたようである。
「毎日、ずっと、こういう仕事をしているんですね」
「慣れたら楽しいものですよ」
「……そうなんですか?」
「こういう仕事が出来るの、私の他には永琳さまと鈴仙さま、あと数名くらいしかいませんから」
自分がこの病院で、重要な立場にいることが自覚できて、何だか誇らしい、と彼女は笑った。
完成した薬を持って戻ってきた彼女は、まるで計ったかのようなタイミングでやってくる、別のうさぎにそれを手渡し、「患者さんに渡してあげてね」と笑う。
「大変ですね……」
「調合を少し間違えたら大変なことになるからね。
気も使うけど、楽しいわよ」
お手伝いありがとう、と彼女は妖夢の頭をなでてくれる。
悔しいが、相手の方が身長はずっと上な上、雰囲気も遥かに大人と子供の違いがある。
されるがままに苦笑する妖夢は、はぁ、と小さくため息をついた。
「ちょっと手伝って」
「あ、はい」
そんな感じで薬局の受付をしていた妖夢がてゐに呼び出されたのは、それから一時間ほど後である。
てゐは入り口の受付を出て、屋敷の外へと歩いていく。
「どうしたんですか?」
「急患」
そういう連絡があったのだろう、屋敷の前で待つてゐは、腕組みしながら答える。
「私でいいんですか?」
「他が埋まってんだよねー。
何か、入院してる人の中で容態が悪くなった人がいるから、そっちに人がとられてさ。
鈴仙さまもそっちにいってる」
「はあ」
「今来る急患は永琳さまのところに運ぶ」
そうしていると、竹林の向こうから、うさぎ達が走ってくる。
「ちょっと、あんた達! 患者揺らしたらアウトだよ! 気をつけて!」
やってきたうさぎ達は、急ぎながらも苦しむ患者に負担をかけないように気を使っているらしく、担架をぴくりとも動かしていない。
その上に載せられているのは、何があったのか、全身血まみれの男性である。
足と腕が変な方向に曲がっており、骨も露出しているという有様だ。
「すぐに永琳さまのところに運んで!」
てゐがその中の一人と代わって担架を取り、屋敷の中へ走っていく。
「え? あの、私は……」
「あんた受付!」
てゐたちが屋敷の中に消えて、少しすると、妹紅に連れられた女性が走ってくる。
ひどく錯乱しているらしく、『あの人はどこですか!?』と叫び、妖夢の肩を掴んで彼女を揺さぶった。
「落ち着いて。病院の中に入っていったから」
妹紅が後ろから彼女を引き剥がし、妖夢に視線を向ける。
唖然としていた妖夢は、慌てて屋敷の中に戻ると、受付の用紙に『怪我をした人一名 番号:78番』と記載する。
「えっと、えー……」
「大丈夫、大丈夫だから。
ここのお医者は、そりゃすごいもんだ。大丈夫、きっと助かるから」
妹紅が女性を慰めながら、永遠亭の中に入っていく。
伸ばされた右手に、妖夢は、手にした番号札を乗せた。
彼女を見送り、その場に所在なげに佇んでいた妖夢は、やがて屋敷の中へと戻り、無人の受付に立つ。
「……何かすごいの見たかも」
さっきの嵐はまさに一瞬。
動揺が確かに広がっていたと思われる永遠亭の受付は、もう平穏を取り戻し、治療を終えた患者が番号札を返すために受付へとやってくる。
彼ら彼女らの手続きをしていると、その忙しさから、先ほどのことはもう心のどこかにフェードアウトしていく。
「は~、やれやれ。大変、大変」
「ああ、お帰りなさい。てゐさん」
「お、ちゃんと受付できてんじゃ~ん。優秀だね」
そうこうしていると、てゐが帰ってくる。
彼女は『よいせ』と、妖夢が座っている椅子へと腰掛ける。もちろん、妖夢はその隣に立ち上がった。
「どうだったんですか?」
「解放骨折が数箇所と、打撲と裂傷、あと擦傷。内臓が一部破裂に出血多量。ありゃよく生きてたもんだわ」
「……それって……」
「まぁ、普通なら、ほぼ致命傷だね。
もうあと2~30分、救命が遅れていたら死んでた。
話を聞くと、夫婦で山菜取りに来ていて、崖に足を滑らせて落ちたらしい。
で、たまたま、その近くをあの不死鳥娘が歩いていて、奥さんの悲鳴を聞いて駆けつけたんだとさ」
運がよかったんだ、とてゐは言った。
しかし、あの怪我をした人――要は、あの女性の旦那さん――は、現在もほぼ虫の息であり、24時間の監視が欠かせないのだという。
「壊れたところは治したし、輸血がんがんやって一命は取り留めたけど、まぁ、もうまともな生活は無理かな。
退院はできない。させられない。死なれたら困る」
ちなみに、男性は現在、薬が効いているのもあってこん睡状態なのだとか。
目が覚めた時、その事実を告げられて、彼がどう思うかはわかないのだとてゐは言う。
「うちはほら、半分、慈善事業みたいなもんでしょ?
なんぼ入院されても金は取らないし、いくらでも面倒は見るけどさ。
それを相手がどう思うかは、また別問題だよね」
すでに、あの女性との間で何かあったのか、てゐはそんなことを言う。飄々とした雰囲気ではあるが、何か思うところがあるような、そんな口ぶりだった。
「ま、あんたは気にしなくていいよ。
あーいう患者もうちには来る。ぎっくり腰の爺さんの面倒見るだけが、うちの仕事じゃないってだけでさ」
そうして、『手が止まっているぞ』と妖夢に注意をして、手元の書類に、何か文字をさらさらと書き込んでいく。
妖夢は慌てて、『あ、す、すいません』と手を動かし、「それが終わったら、薬局、戻っていいよ」と言われた。
手に持っていた書類を終わらせ、てゐへと渡してから、ぺこりと頭を下げてそこを後にする。
薬局に戻ってきた彼女に、薬剤師のうさぎが『お帰りなさい』と笑顔を向けてくる。
「お仕事って大変なのよね」
妖夢を見て、彼女を慮ってか、そんなことを一言、言ってくれた。
「……で、何で鈴仙さんがここに」
「いいじゃな~い。
怖がり妖夢ちゃんのために、今日はお姉さんが一緒に寝てあげよう!」
「結構です!」
「怖がりなのを否定する?」
「それは……う~……」
一日の仕事が終わり、食事とお風呂の間中、鈴仙にいじられ続けていた妖夢としては、何となく不満顔である。
『それじゃ明かり消すよー』と鈴仙。
近年、月の科学技術と山の上の神様による『幻想郷インフラ革命』のおかげで、蝋燭やランプではなく電気の明かりが点る永遠亭。ふっと明かりが消えると、途端に、周囲は暗闇に包まれる。
「……あの、小さい明かりだけでもつけません?」
「あれ? 知らないの? 妖夢ちゃん。
あの小さい明かりにはね、おばけが寄って来るんだよ~」
「……そ、そんな冗談……」
「霊夢さんが言ってた」
その一言で、途端に信憑性を持ったその話のせいで、妖夢は慌てて掛け布団を頭からかぶって布団の中に退避する。
そして、ちょっとだけ頭を覗かせて、
「……風邪引きますよ」
「慣れって恐ろしいんだ」
今じゃ逆にこうしないと寝られない、と裸で布団にもぐりこむ鈴仙。
そんな彼女に抗議の意思をこめて、『だけど、今はまだ春先だし……』と妖夢は食い下がるのだが、
「それもそうか」
そう、鈴仙が言ってほっと安堵した、その矢先である。
「っ!?」
「妖夢ちゃんは、やっぱり子供だね~。体温高くてあったか~」
「な、何を……!」
「お姉さんの湯たんぽになりなさい。これは命令」
いきなり鈴仙に抱きしめられて、顔を真っ赤にして背中を向ける。
相変わらず容赦なく遠慮なく、むぎゅ~っと妖夢を抱きしめてくる鈴仙。完全に、ぬいぐるみか抱き枕の扱いである。
何ともいえない微妙な感覚と空気のせいで、寝付けぬ妖夢とは対照的に、そんな鈴仙はさっさと妖夢の後ろで寝息を立てる。
なんと便利で厄介な性格な人なんだ、と抗議しつつ、妖夢も目を閉じて――。
「……?」
何かが動く気配がしたのは、それからどれくらい過ぎた頃だったか。
もしかしたら、それほど時間はたっていないのかもしれない。
眠った時間もわからず、今の時刻も、周囲は暗闇に沈んでいるせいで判然としない。
「……あれ、鈴仙さん?」
いつの間にか、鈴仙が起き上がっていた。
彼女は肌襦袢を纏うこともしないまま、裸のままで、部屋の入り口となるふすまにくっついている。
「……あの?」
「しっ」
夜も遅いのだから静かにしていろ、という意味ではない。
鈴仙は小さく、『……誰だ?』とつぶやいた。
「……え? あの、誰かいるんですか?」
「いる。足音が聞こえる。小さい。遠いな」
心なしか、妖夢の声はちょっぴり引きつっていた。
病院。夜中。――とくれば、初日に鈴仙によってからかわれた通り、そこから導き出されるフレーズは『おばけ』である。
だが、足音がするということで、少しほっとする。幽霊には足がないのだ。足音がするはずが……、
「……いや、それは……」
というところで、己の主人の幽霊少女を思い出す。
あれ、思いっきり、足が生えている。
足音がしない=幽霊、という構図は、この幻想郷では成り立たない。
鈴仙が少しだけふすまを開けて外を見る。
「……見えるんですか?」
「獣が夜目が利かなくてどうするの」
言われてみればその通りである。
部屋の中は、障子の向こうから入ってくる月と星の明かりのせいで、薄青く照らし出されているものの、それ以外の空間は真っ暗闇。にも拘わらず、鈴仙は鋭いまなざしで闇を見据え、頭の耳をぴんと立てて、それでしきりに周囲の音を探っている。
その様は、獣は獣でも肉食獣のそれだった。
「……あ、えっと、とりあえず服を……」
「ありがと」
渡される肌襦袢に袖を通し、帯を締め、足下が邪魔にならないように裾をまくって帯に差し込む鈴仙。ある意味、裸よりエロティックなその格好で、彼女は足音一つ立てず、廊下へと歩いていく。
妖夢はその場で一瞬、どうするか考えて、鈴仙についていくことを選択した。
一人で部屋に残ってるのが怖かったのだ。
鈴仙が手と視線で『こっち』と示す。
それについていく形で廊下を右に曲がって、しばらく歩いたところで、
「こんな時間にこんなところで何をしているの?」
鈴仙が、その相手に声をかけた。
妖夢が恐る恐る、鈴仙の陰から顔を出してそちらを見る。
そこにいたのは、年のころなら10歳にも満たない、小さな女の子。
彼女は鈴仙を見て、妖夢を見て、目をぱちくりとさせている。
「夜は寝ていないとダメでしょう。
病気の人は体力が落ちているんだから、夜更かししていたら風邪を引くよ」
妖夢には見知らぬ相手だが、鈴仙には見知った相手であるらしい。
鈴仙は先ほどまでの気配を解き、腰に手を当てて『めっ、でしょ』と言う雰囲気で彼女を叱っている。
「……ごめんなさい」
少女は素直に、鈴仙に対して頭を下げた。
話を聞くと、この時間帯に目が覚めてしまって、寝付くことが出来ないので星空を見に来たのだ、と答えてくれる。
「今日はいい天気だからね」
永遠亭の中庭からは、竹林に覆われていない空が見える。
見事な月と星の饗宴は、なるほど見ごたえのある景色だ。
「だけどダメ。ほら、部屋に戻ろう?」
彼女は鈴仙が差し出した手をとって、小さくうなずいた。
鈴仙は『妖夢ちゃんは、悪いけど、一人で部屋に戻ってね』と彼女を連れて、今来た道を歩いていく。
妖夢は慌てて、それについて歩いていき、途中で鈴仙と別れた後は迅速に部屋へと戻って布団をかぶる。
「……おばけじゃなくてよかった」
心底ほっとするとはまさにこのことか。
自分の、この怖がり体質を何とかしないと思いつつも、しかし人間、どうしようもないものはあるのだと、自己正当化する妖夢であった。
さて、それから二日後のことだ。
てゐから『患者の使う布団や衣服の洗濯も仕事』と言われて、今日の妖夢はさらに雑用を命じられていた。
もっとも、彼女からしてみれば、そちらの方がある意味本業である。
慣れない受付や事務の仕事と比べれば、こちらの方が『楽』な作業だった。
「あ……」
その仕事をしていると、先日、鈴仙と共に出会ったあの少女の姿を見かけた。
彼女は一人、縁側に座って足をふらふらと動かしている。
妖夢は洗濯物の入ったかごを片手に、『こんにちは』と、その背中に声をかけた。
「こんにちは」
振り返った彼女は笑みを見せず、無機質な声で返事をしてくる。
「あれから、どう? ちゃんと眠れてる?」
うん、と少女はうなずいた。
彼女はすぐに妖夢から興味をなくしたのか、視線を外して、中庭を眺める。
「入院してるんだ」
「うん」
「大変だね」
「うん」
「お菓子いる?」
彼女は首を左右に振った。
妖夢はポケットの中から取り出そうとしていた飴玉――鈴仙がよくくれるものである――を、ポケットの中に戻す。
「すぐに退院できるよ。だから、頑張ってね」
「うん。うさぎのお医者さんも同じこと言うよ」
「ああ、鈴仙さん?
それなら大丈夫だね」
「『次の手術が終わったらおうちに帰れるからね』って」
言われて、妖夢は、彼女が着ている服の袷や足下から覗く素肌をちらりと見た。
そこに、まだ白い包帯が巻かれている。
どこも悪くなさそうに見えるのにな、と妖夢は思った。
少女はよいしょと立ち上がると、『お部屋に戻る』と言って歩いていった。
去り際に、その背中を見る妖夢。彼女は左足を引きずるようにして歩いている。
「何してんの」
「あ、えっと」
彼女の姿が廊下の曲がり角に消えるまで見送ってしまっていた妖夢は、後ろからかかった声に慌てて振り返る。
てゐが、そこに『サボってると、あとでうるさい人が来るよ』という顔で立っている。
「小さな女の子が」
「ああ、この前、入院した子? 明日か明後日、手術だったかな」
「知ってるんですか?」
「受付に来る人間、みんな知らなくてどうすんのさ」
言われてみればその通りである。
妖夢は彼女と一緒に廊下を歩きながら、『ちょっと話をしてたんです』と言った。
てゐは『ふーん』とうなずき、
「あんた、何か余計なこととか言った?」
「余計、って……。
ただ、『もうすぐ退院できるよ』とか……」
「あー」
てゐは軽く肩をすくめる。
そうして、『ま、仕方ないか』とつぶやくと、
「あの子はねー、退院できないんだわ」
「え?」
「ああ、いや。その表現はおかしいかな。
正確には、退院しても、帰る家がない。
しばらくはうちで預かることになるんじゃないかな」
「……みなしご、とか?」
「というより、捨てられた子、かな」
患者のプライバシーは守らないといけないんだけど、とてゐは前置きを置いてから、
「あの子はね、ちょっと変な病気にかかっていてさ。
まぁ、それについては、うちのお師匠様だ。あっさり治してしまえそう。
だけど、ちょいと金がかかってね。
うちはほら、慈善事業みたいな形でやっているから、基本、とんでもない報酬とかはとらないんだけど、今回みたいなことになると、それでもどうしても『無料』でお仕事とはいかないんだ。
他の人との兼ね合いもあるからさ。
で、『これくらいなら払えるだろう』って提示した額が、あの子の家庭にゃ、ちょっと重たかったんだろうね。
入院した日には、心配そうな顔で寄り添っていた両親が、翌朝、治療にかかる金額を知った途端にどろん。家ももぬけの殻」
妖夢は言葉を失い、目を見開く。
「お師匠様は『悪いことした』なんて言っていたけど、目は全然、笑ってなかったね。
あたしもそれは同じさ。他人の善意に寄り添って生きてる、汚い奴らだと思ったよ。死ねばいい」
人に幸せを運ぶ、因幡の素兎は呪いの言葉を吐いた後、「だけど、それはあの子にゃ関係ない」と声のトーンを元に戻す。
「とりあえず、人里の偉い先生さまに話も通して、別の、新しい親になってくれそうな人は探してもらってる。
それをあの子が受け入れられるかどうかは別だけど、それまで、あの子の身柄はうちで預かることになってる。
一日か、一週間か、それとも一ヶ月か、一年か。
しばらく、あの子は退院出来ないんだ」
やれやれとてゐは肩をすくめた。
その間にかかる金と人員のリソースを考えたら頭が痛くなる、と呻いて。
『だから、あんたにゃ、しっかり働いて貰わないとね』と、彼女は言葉を締めくくった。
少しだけためらった後、妖夢は、部屋のふすまを開く。
「あの……」
声をかけて中に入ろうとして、『え?』と目を疑う光景に、思わず声を上げる。
「あら、あなた」
中には輝夜がいた。
その対面に、あの少女が座って、輝夜と一緒にお手玉をして遊んでいる。
輝夜が八つのお手玉を操る技を見せ、それを真似しようと、三つのお手玉に挑戦しているところだ。
「何しにきたの?」
「あ、えっと……。てゐさんから、おやつを持って行ってあげて、って」
「ああ、そういえば、うちは子供にはおやつを出してるんだったわね」
私にもちょうだい、と輝夜。
差し出される掌に、妖夢は、手に持っていたお盆の上から饅頭を一つ、取り上げて手渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
輝夜の前で見せていた真剣な表情はさっと消して、やはり無感情な顔を、少女は妖夢に向けてくる。
「輝夜さん、どうしてここに?」
「ああ。
この子、見込みがあるのよ」
「見込み?」
「そう。将棋が強いの」
と、輝夜はどこからともなく、立派な将棋盤と駒を取り出した。
それを手に『一局いかが?』と視線を向けてくる。
「いいですよ。幽々子さまに仕込まれてますから、簡単には負けません」
――と、それを受けた妖夢であるが。
「はい。王手」
「……………………え?」
「イナバよりは強いわね」
それから30分も経たないうちに勝負は決していた。
何度、盤面を見比べても、負けは負け。妖夢の王は輝夜の飛車と桂馬に囲まれて身動きできない状態であった。
「なっさけない。
この子の方が遥かに強いわよ。
ねー?」
輝夜に話を振られて、少女はにんまり笑って、首を縦に振った。
そ、それなら、とむきになって、自分よりも小さな子供に挑んだ妖夢は、今度は1時間後、撃沈される。
「よしよし、よくやったわ。
特に、あの角の置き方はよかったわね」
「うん。教えてくれた通りにやったの」
どうやら、輝夜はこの子に懐かれ、また、この少女は輝夜に懐いているらしい。
二人そろって掌を向けてハイタッチ。
盤面の前で硬直している妖夢は完全に蚊帳の外である。
「次は別の攻め手を教えてあげるわ。
今度は、そうね、5分くらい早く勝てるようになる」
「やった! 教えて教えて!」
完全にだしにされた妖夢は、しかし、『何くそ』とさらにもう二局、彼女と指して、結果は見事に惨敗。
回を増すごとに撃沈されるまでの時間は短くなるという、疑いようのない完敗であった。
「さて、そろそろ夕食の時間ね。
あなたもそろそろ、おいとましなさい」
「お姉ちゃん、またね」
「また明日ね。今度は別の遊びを教えてあげる」
「ありがとう」
打ちひしがれた妖夢は輝夜に手を引かれてふらふら立ち上がり、はぁ、とため息をつく。
「お姉ちゃんも、またね」
その妖夢の背中に、小さな声ではあるが、少女から声がかけられた。
二人は彼女の部屋を後にして廊下を歩いていく。
「どうせ、あの黒兎から何か聞いてきたのでしょ」
「え?」
「あなたはイナバと一緒ね。すぐに物事が顔に出る」
歩きながら、輝夜はそんなことを言った。
彼女は振り返らず、肩越しに妖夢に対して、「まだまだね」と一言。
「永琳から聞いているけれど、あなた、うちの手伝いをしにきたのでしょ?
だったら深入りする必要はないわ。
あなたのやることだけやって、のんびりしてればいい。
後のことはこっちでやるもの」
輝夜は廊下を左に曲がり、「私の部屋はこっちだから」と歩いていく。
そして去り際に、「私は子供に好かれるのよ」とだけ、妖夢に言った。
「……何かすごいな」
つと、妖夢はつぶやく。
今の今まで、輝夜のことは『何かよくわからない人』程度の認識に過ぎなかった彼女だが、改めて、今、思う。
なるほど。永遠亭の『主』と言われているのには、やはり理由があったのだな、と。
翌日、永遠亭では、少女の執刀日を迎えていた。
朝から鈴仙やてゐ、うさぎ達が忙しく働いている。
妖夢の『お手伝い』も今日はなく、それを横目で見ているだけだ。
朝の9時を回って、少女がストレッチャーに乗せられ、手術室へと運ばれていく。
その様を見ていた妖夢は、彼女の後についていった。
手術室の前では輝夜が座して、ぼーっと天井を眺めている。
少女を連れた医療スタッフがやってくるのを見て、彼女はそれが当然とばかりに手術室の中へ入っていく。
「今日で終わりだからね。頑張りなさいよ」
「うん。
お姉ちゃん、頑張る。終わったら、またお手玉教えてね」
「将棋もね。あと、今度はオセロも教えてあげるわ。
徹底的に仕込んであげる。お友達には絶対に負けないくらいにね。
だから、頑張りなさい。わかった?」
少女と約束の指切りをした後、輝夜は手術室の外へと出てくる。
そこで立ち尽くしている妖夢に、「あの子、うちで雇えないかしら」と言った。
「え?」
「なかなか筋がいいのよねー。もっと色々仕込めば、間違いなく、幻想郷における私の後釜になれるのに」
「は、はあ……」
「あなたは無理ね。ああいう知的遊戯は向いてないわ。
というか、あなたは将棋を指す時の手つきがよくないのよね。あんな行儀の悪い駒の掴み方はないでしょう」
――と、なぜか怒られる。
妖夢が何も言えずに、ただ黙ってお説教を聴いていると、ぽっと『手術中』のランプが点った。
「……大丈夫ですよね?」
「大丈夫でしょ。難しいところは、全部、永琳がやったらしいし。
最後の仕上げはイナバにやらせるらしいわ」
「そうなんですか」
「何か、骨が溶ける病気なんですって。
原因になっていたところは取り除いたから、あとは、溶けた骨をきちんとしたものに取り替えるだけだ、って」
輝夜はとことこ歩き出す。
それについて歩き、妖夢は『どこへ?』とたずねた。
「神社。人がいない。あるでしょ」
「ああ、博麗神社?」
「そう。願掛けに行くの。
あんなところでも、ご利益の一つや二つ、あるはずだわ」
「それ、霊夢さんが聞いたら怒りますよ。
というか、ご利益を期待するなら守矢神社とか」
「私、そっち行ったことないし。
それに、私は足が遅いから、行って帰ってくるのに時間がかかるのやだし。めんどくさいし」
「あはは……」
「あなた、付き合いなさい。どうせ暇なんでしょ。
帰り道でお菓子を買いましょう。
あなた、物持ちね。よろしく」
勝手に何でもかんでもさっさと決めて、輝夜は近くを通りがかったうさぎに「ちょっと出かけてくるから」と言って歩いていった。
慌てて、勝手に付き人任命された妖夢はそれを追いかけ、彼女と一緒に空へと舞い上がる。
「心配なんですか?」
そろそろ尋ねる妖夢に、輝夜は答える。
「私の大事な跡継ぎだもの。勝手に死なれちゃたまらない」
――と。
「そんじゃ、ごくろーさん。
これ、あんたがうちで働いた分のお給金の書類」
「こら、てゐ」
それから三日ほど。
朝になって唐突に、妖夢の主人、西行寺幽々子が妖夢を迎えに来た。
そこで『レンタル』の終わった妖夢は家に帰ることになり、病院の仕事が始まる前に帰る用意を調えているところである。
「ああ、いえ。そんな。私はお手伝いで……」
「だから、あんたが働いてくれた分、しばらくの間、あんたの治療は無料ってことになってるから。
それならいいでしょ? 鈴仙さま」
「……まぁ、ね。恩に着せるつもりはないけれど」
ふぅ、と鈴仙は肩をすくめると、
「妖夢ちゃん、またね」
と笑ってくれる。
幽々子が後ろで「妖夢ぅ、帰るわよぉ」と言っている。
見送りに出てきてくれた二人に、妖夢は頭を下げて『また今度』と挨拶をした。
二人、空へと舞い上がる。
去り際に妖夢は幽々子に、『ちょっと中庭を見に行ってもいいですか?』と尋ねる。
幽々子がそれを断る理由もなく、二人は少しだけ、道を変更して、永遠亭の入り口から中庭の上空に向かう。
そこには、手術も無事成功し、元気になった少女が輝夜に向かい合って将棋を指している姿があった。
彼女の顔は真剣そのもの。対する輝夜は余裕の片手団扇である。
「こりゃ油断出来ないな」
妖夢はそれを上空から見て苦笑して、服のポケットから飴玉を取り出した。
それをぽいと放る。
飴玉はこつんと輝夜の頭に当たり、輝夜は辺りをきょろきょろ見回した後、妖夢たちに気づいたのか、左手をひらひらとこちらに向けて振った。
妖夢はそれに手を振り返す。輝夜は視線を妖夢から外して、手にした飴玉を少女に手渡した。
「楽しかったぁ?」
「大変でした」
「そう。それはぁ、何よりだわぁ」
幽々子はふぅわりふわふわ飛んでいく。
妖夢はその後について飛び、「帰ったら掃除と洗濯と料理をしないといけなさそうですね」といやみを言う。
すると幽々子は『それは全部、紫にやってもらったからいい』と答えた。
「……藍さん、申し訳ありません」
間違いなく、それでこき使われたであろう顔見知りの顔を思い出して、妖夢はため息と共に頭痛をこらえる仕草をする。
その妖夢をちらりと見て、幽々子はにやりと笑う。
「……だけど、どうして、今回、こんなことを?」
その幽々子の視線に気づいたのか、妖夢は、かねてからの疑問を口にした。
すると幽々子はさらりと答える。
「だってぇ、あなたぁ、この前ぇ、無意識だったでしょうけどねぇ。
『鈴仙さんに会いたいなぁ』ってぇ、言っていたのよぉ」
扇子で口元を覆い、笑いながら言う幽々子に、妖夢の顔がかーっと真っ赤に染まる。
「え? え? え!? そ、そんな、私が!?」
「そうよぉ。
あなたぁ、何だかんだでぇ、彼女にぃ、とぉってもぉ、懐いているものねぇ」
だから、『かわいがっている従者の願いをかなえてやったのだ』と幽々子は言った。
まさかそんなオチが待っていたとは思わず、妖夢は赤面したまま、顔をうつむかせてしまう。
「だけどぉ、あなたもぉ、あそこではぁ、色々ぉ、あったみたいだしぃ。
よかったわねぇ」
これは予想していなかった、嬉しい誤算だ、とばかりに幽々子はそれをダメ押しすると、『帰り道に美味しいご飯を食べていこう』と提案してきた。
もちろん、それに逆らうはずもなく、妖夢は無言でうなずくばかり。
二人の足は、帰り道から少し外れて人里へと向く。
「あまり深入りする暇もなかったみたいだし。ある意味、いい息抜きになったでしょう?」
幽々子のその一言は、妖夢には、どうやら聞こえていないようであったという。
えっと、よろしくお願いします」
「はいはーい。
よしよし、よくきたねー。迷わないでこられるなんてえらいねー。そんな偉い子には、お姉さんからあめちゃんをあげちゃおう」
「……人のこと子ども扱いするのやめてくださいマジで」
森閑たる空気漂う竹林の奥に佇む、ここは永遠亭。
その和風建築丸出しの建物の一角に、とある病院がある。
「……はあ。相変わらず、大流行ですね」
「軍人と医者と葬儀屋は閑古鳥が一番なんだけどね。なかなか」
ひょいと肩をすくめるのは、ここ、永遠亭の病院で働く鈴仙・優曇華院・イナバという少女。
その隣で、鈴仙からもらった飴玉口の中で転がしてるのは魂魄妖夢という少女である。
「にしても、幽々子さんは何を考えているんだろう?」
「たまには一人でのんびりしたいとか……。
まぁ、何かよろしくないこと考えているのかもしれませんけれど」
この妖夢、こことは遠く離れた白玉楼なるところで、とある幽霊のお嬢様に仕えている。
その主が『話はしておいたから、しばらく、永遠亭でお手伝いしてきなさい』と妖夢を送り出したのが、少し前のことだ。
「病院のお金を払えてないってわけじゃないんだけどね」
「そうなんですけどね……。
まぁ、私は、幽々子さまの命令なので、逆らえないのが」
「まぁ、そうだね。仕方ない。
じゃあ、妖夢ちゃんのお部屋に案内しよう。
てゐー、ちょっとお願いねー」
「そういうことを人に頼む癖は、鈴仙さまの悪い癖ですね」
「何言ってんの。そういう、お客様案内係のチーフは誰でしたっけ?」
「わたくしめでございます」
受付のカウンターに座って、肘を突いて二人のやり取りを眺めていた因幡てゐがひょいとやってくる。
妖夢に鈴仙は「じゃあ、てゐについていってね」と言って、その場から去っていった。
その後ろ姿を見て、『今日は忙しいのだろう』と妖夢は思う。
「そんじゃ、こっち。ついてきて」
「あ、はい」
てゐが歩き出す。
頭の後ろで手を組んで歩いていく彼女と一緒に、入り口を少し前方に進み、現れる通路を右手側に。
「あの……」
「うちは病院だから。
医療の知識がない人には、基本、雑用以外はやらせないから。
それは安心していていいよ」
「あ、はい」
「素人が勝手に手を出して、患者を殺されたりしたらたまったもんじゃない」
医療に死人はつき物だが、いざ、それが出ると、色々とめんどくさいのだ、とてゐは言う。
「うちのお師匠様は、確かに天才であらせられるお方さ。
だがね、そいつにだって出来ることと出来ないことがある。
最初から手遅れの患者を運んできて死なれたからって、『お前のせいだ』はないと思うんだ。
ま、一縷の望みを託してくれるのはわかるんだけど、不条理に、こっちだって黙ってばかりってこともない」
『そういうめんどくさいことはやらせない』とてゐ。
彼女は彼女なりに、もしかしたら、妖夢を気遣っているのかもしれない。
通路を左に曲がり、その先のふすまを開く。畳八畳ほどの部屋が、そこに広がっている。
「あんたの部屋はここ。
何日、うちにいるのかは知らないけど、自由に使ってちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
「あとね、うちで働くのに、その服はないから。
タンスの中に白衣が入っているから、それ使って。
あと、あんたは風邪とかよく引いてるでしょ。移ったり移されたりすると困るから、テーブルの上にマスク、用意しておいたから。
使うように」
「えっと……すみません。何か迷惑かけてるみたいで」
「その分、ちゃんと働いてもらわないと、人の好意を無にされると困るんだよね」
そんじゃね、とてゐは歩いていく。
会話の流れから察するに、マスクはてゐが用意したのだろう。
ありがたいと思いながら、妖夢は背負っていた荷物を畳の上に置いて、さて、とタンスを開く。
「うーむ……。私に似合うかな……」
似合う似合わないはともかくとして、着用しなければならない白衣に、彼女はちょっぴり顔を引きつらせるのだった。
「それじゃ、あんたの仕事は、ここでの受付ね。
あたしがやってる仕事を真似すりゃいいから」
「は、はい」
「楽なもんだよ。座って金受け取るだけだから」
入り口に置かれている受付に座って、てゐは言う。
その隣には妖夢用の椅子が置かれ、てゐは『そこにいればいいから』と言うだけだ。
何だかお荷物扱いされているようで居住まいが悪いのか、きょろきょろ、妖夢は辺りを見回す。
「いらっしゃいませ。どうされましたか?」
そうしていると、『お客さん』がやってくる。
子供をつれた若い母親であり、彼女はてゐに「実は先日から、息子が熱を出していまして。近くのお医者さんに薬をもらっても治らないんです」と訴えている。
てゐはふんふんとうなずきながらさらさらとメモを取り、カウンターの裏から番号のついた札を取り出して、「あちらでお待ちください」と告げる。
「ま、こんだけ」
振り向くてゐ。
すると、彼女はすぐさま、また前を向く。
やってくるのは年を重ねた男性。ただし、やってきたのは外からではなく、建物の中からだ。
「お疲れ様でした。
代金はこちらに」
「いつもありがとうございます」
「いえいえ」
「毎度、金ではなく物でしかお支払いできなくて申し訳ない」
「うちはそういうところですから」
「助かりました。それでは」
彼から渡されたのは、なかなか見事なサイズのじゃがいもである。それが10個は入っているだろう袋をてゐは受け取り、「お大事に」と告げる。
「物々交換でも支払いを受け付けてるから、こういうのがたまってね。
ちょっとー」
「はーい」
「これ、倉庫に持って行って」
「はい」
「あの、それ、私が……」
「あんた、倉庫の場所、知ってるの?」
「……いえ」
「あとで教えてやる」
そんな感じに、てゐは『客』をさばいていく。
なかなか見事な手際であり、やってくる者達が受付で列を成すことはない。
「はあ……」
「何。どしたの」
「あ、いえ。
鈴仙さんのお話を聞いていると、失礼ですけど、てゐさんって、あんまりこういうのが得意じゃないと思っていたんですが……」
「得意じゃないよー。めんどくさいよー。
だけど、やらなきゃ詰まるんだし。
あたし以外にこういうの、スムーズにこなせるのがいなくてさ。
仕事を教えて、なかなか見込みのある子もいるんだけど、これがまぁ、ね。
あたしもそろそろ引退して、うちの姫様みたいに盆栽でも愛でながら暮らしたいわ」
「ははは……」
そんな冗談を言いながら、視線はすぐに前に戻す。
妖夢も、彼女の仕草に気づいて視線をそちらに向けると、また新たな『お客さん』の姿がある。
「……えーっと。私は何をすれば」
「これ。番号と照らし合わせてチェックを入れていって。
誰が終わって誰が終わってないか、管理してるから。
あんまり待たせているようなら順番繰り上げないといけないし」
「……一杯ありますね」
「うちに、一日、どんだけ患者が来ると思ってんの」
ここ、永遠亭の病院――八意永琳医療相談所――には、それこそ幻想郷中から人妖の区別なく患者がやってくる。
なぜかというと、ここの主治医であり、病院の冠でもある八意永琳というのが比類なき名医なのだ。
彼女の手にかかれば治らない病はない、というのが幻想郷住民の一般的な認識である。
先のてゐの話にもあった、『他で見捨てられた患者』も一縷の望みを託してやってくる、そんな施設なのだ。
「ちゃーんと営業やって、あちこちの病院にもきちんと付き合いで顔出しておかないと恨まれるよ。全く」
「ははは……」
「あ、ペンは赤使ってね。黒じゃ区別がつかないから」
「は、はい。すみません」
てゐから渡される『番号札』と、治療の終わった『患者』の名前を照らし合わせ、チェックを入れていく。
そうしている間にも次々と患者がやってきて、てゐが『こちらの番号札を持ってお待ちください』と、妖夢がチェックを入れている番号札を渡してしまうものだから、さあ大変。
「えーっと、どこまでチェック……」
「遅い。ちょっと貸して」
「す、すみません」
「ったくもー……。
あんた、体を動かすことばっかりしてるから、頭を動かす仕事についてけないの。両方やっとけ。文武両道」
「うぐ……」
そう言われると、全く反論は出来なかった。
何せ、妖夢の普段の仕事は、仕える主人の身の回りの世話と住んでいるところの掃除だの調整だの、およそ体力がなければ務まらない仕事ばかりなのだ。
このような事務仕事など、文字通り、初めてと言っていい。
「おっ。そんな体力馬鹿にも出来そうな仕事が出来た」
「え?」
「てゐ、ちょっと手を貸して」
聞き覚えのある声がする。
視線を向けると、そこには、見慣れた人間が一人、背中に年老いた男性を背負って立っている。
「あ、妹紅さん」
「妖夢? 何であんたがそこにいるのさ」
「えっと……まぁ、色々あって」
「よろしく」
「あ、は、はい」
「まぁ、あんたでもいいや。
ちょっと手伝って。
おじいちゃん、もう少しだからね。頑張ってね」
老人は、何やら『う~……う~……』と苦悶の表情を浮かべてうなっている。
てゐが壁に立てかけてある担架を取り出し、それを床の上に置いて、妹紅が彼をその上に。
そして、妖夢が前を、妹紅が担架の後ろを持つ形で立ち上がり、てゐが「急患、急患!」と声を上げながら走っていく。
「ほら、あっち。急いで」
「は、はい!」
担架が揺れて、老人に負担を与えないように、しかしなるべく素早く、彼を妹紅と一緒に運んでいく。
廊下を行った先に、てゐが待っていた。
彼女はふすまを開き、『こっち、こっち』と誘っている。
「急患! 鈴仙さま、よろしく!」
「鈴仙なの? 大丈夫?」
「だいじょぶだって」
彼が連れて来られたのは永琳の元ではなく、彼女の補佐として、そして最近では単独で、患者を診ている鈴仙の元である。
妹紅が一瞬、疑いの表情を浮かべるが、てゐは笑いながら軽く手を振った。
妹紅と一緒に、妖夢は、彼を乗せた担架を畳の上に。
鈴仙がすぐに立ち上がり、彼の体に手を置いて、
「またぎっくり腰ですね、ダツさん」
「わはは……先生、すまねぇなぁ……。あいたたた……! う~……!」
「……何だ、ぎっくり腰か。
私はおばあちゃんに『妹紅ちゃん、おじいさんが!』って声をかけられて、慌てて運んできたってのに……」
「妹紅ちゃん、ありがとうよ……。いや、情けねぇなぁ……。
俺も、若い頃は、こんな情けないことにゃならんかったもんだが……」
「てゐ、棚から9番の薬。注射器に入れて」
「はいはい」
「妖夢ちゃん、君は向こうからガーゼとアルコール。あと、テープと湿布を持ってきて」
「は、はい。えっと……」
「左の棚、上から三段目」
「あ、ありがとうございます」
てゐが用意したのは、痛み止めの即効性のある薬。妖夢が用意したのは、定番の医療用グッズである。
「ぎっくり腰は、安静にしてるしかないですから。
帰り道は、うちのうさぎ達が連れて行きます」
「ああ、いいよ。私がまた背負っていくから」
「背負うっていうのも、あまり腰にはよくないんですよ」
「あれ、そうなの?
おじいちゃん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。痛いけどな……わはは……あいたたた……!」
てきぱきと治療を終えて、鈴仙はカルテにさらさらと何やら書き込むと、てゐに『はい』とそれを渡した。
「あんた、先に薬局に行って、ここに書いてあるもの用意して」
「は、はい。
えっと、湿布に痛み止めの薬に……」
「この紙を、そこにいる連中に渡したら、あいつらが用意するから。
あんたはそれを袋に入れて、受付のところに置いておいてくれればいいよ」
要するに、『専門家のやることに素人が口出すな』ということである。
余計なことはしないで、うちらのサポートだけやってればいい、ということでもある。
『まぁ、そういう扱いは当然だよね』と妖夢は内心で苦笑しつつ、妹紅と一緒にその場を後にする。
「何で妖夢がそんな格好して働いているの」
妹紅――藤原妹紅は、隣を歩く妖夢に尋ねる。
妖夢は、『これこれこういうわけで』と妹紅に返して、「何だそりゃ」という苦笑をもらった。
「あんたも大変ね」
「まぁ……ははは……」
「だけど、大事にならなくてよかったわ。
何か他の病気とかだったら大変だった」
「そうですね。
鈴仙さんもそうですけど、てゐさんも、一発で見抜くとかすごいです」
「二人とも、曲がりなりにも、ここの中核で働いてるんだから。
うちらとはここの出来が違うんでしょ」
とんとん、と妹紅は自分の頭を指で叩く。
妖夢は笑い、「そういう知識、私もさっぱりです」と返した。
「あら、妹紅」
「何、輝夜」
入り口に向かって歩いていると、たまたま、この屋敷におわすお姫様に遭遇する。
お姫様――蓬莱山輝夜は、なぜか手に、立派な盆栽を抱えている。
「どう? 見て、これ。私が育てたのよ。
枝の広がりとか、緑の色が素晴らしいでしょう」
「……あんまりよくわからないんだけど」
「これだから庶民は。
盆栽というのは、ものすごく、奥深いものなのよ!」
あなたにそれが理解できるはずもないわねふふん、な雰囲気漂わせて、びしっと妹紅に指を突きつける輝夜。
妹紅はいつものように『何だとこの』とは返さずに、『いや、そう言われても……』と微妙な反応をするだけだ。
「これ、入り口に飾っておこうかな、って。
今、別の盆栽も育てているのよ。そっちは今度の品評会に出すつもりなの。
また金賞を獲得しないとね」
「あんた、本当に多趣味ね」
「長生きしてるもの。
……と。えっと、あなたは……」
「あ、えっと、すいません、お世話になっています、魂魄妖夢です」
「ああ、そうそう。イナバがやたら気に入っている。
ねぇ、あなた、どう? 盆栽」
「えっと……私もあんまり。ただ、祖父がそういうの好きで、結構、私に自慢とかしてて……」
「へぇ、そうなの。あなたのおじいさまとなら、いいお話が出来そうだわ」
噂には聞いていたが、この輝夜、やはり凝り性なところがある人物である。
妹紅がいうには、『時間を持て余しすぎたが故の暇人なんだ』という意味が、何となくわかって、妖夢も少し顔を引きつらせる。
輝夜は、『この枝をこっちの方に、この形で伸ばすのはとても大変なのよ』と目を輝かせて己の盆栽の素晴らしさを語り、散々、自慢した後、『さて、それじゃ、入り口に置いてきましょう』とすたすた歩いていってしまった。
「……何なのやら」
「あはは……」
その後を、妹紅と妖夢は、なるべく距離を空けて歩いていく。
そうして、入り口――待合室の中に輝夜は消える。
妹紅は『私はおじいちゃんを待って、一緒に帰るよ』と言って、その近くの椅子に腰を下ろし、妖夢は入り口に面した薬局に足を向かわせようとして――。
「おおー!」
「こいつは見事な盆栽だ!」
「輝夜ちゃん、あなた、本当に盆栽を育てるのがお上手ねぇ!」
「こんな枝のつけ方、今までに見たことがない!」
と、待合室から、特にお年寄りからの賞賛の声が上がるのを聞いて、何ともいえない笑みを浮かべる。
それに対して、輝夜が嬉しそうに解説する声も聞こえてきて、
「……病院の中はお静かに、って言ってるのに」
「あはは……」
薬局を仕切る、一羽のうさぎが微妙な笑みを浮かべながら、苦笑する妖夢を見た。
彼女へと、妖夢は、てゐから渡されたメモを手渡す。
すると彼女はすぐさま、後ろの棚に並ぶ、何十、何百の薬やら何やらが入った箱の中から必要なものを取り出してくる。
「……湿布にも、色々、種類があるんですね」
「そうね。
冷やすもの、暖めるもの、強烈なもの、そうでもないもの。色々あるの。
私も、永琳さまからそれを習うまでは、そんなこと知らなかったわ」
「ここのスタッフの方々は、皆さん、永琳さんに師事されてる方なんですね」
「そういうのに興味のある子達がね。
私もそうだけど」
何せ、『医療』というのは難しい。
専門的過ぎるというのもあるが、ちょっと間違えば人を殺してしまうこともあるのだ。
そういうのに興味を持ったとはいえ、おいそれと手を出せるものでもない。
それでも『学ぶ』ことを目指した者たちが、今、ここで働いているのだと彼女は言う。
「すごいですね」
「そうでもないわ」
はい、どうぞ、と。
彼女は笑顔を妖夢に向けて、ついでに『えらいえらい』と、なぜか妖夢の頭をなでながら、薬一式が入った手提げ袋を渡してくれる。
確かに、相手のほうが背が高く、ついでにスタイルも比較するのもおこがましいレベルであったが、妖夢は思う。
「……また子ども扱いされる」
――と。
「はい、今日の仕事終わり」
午後17時を告げる時計の音が鳴り響く。
てゐがぱんぱんと手を叩き、妖夢の肩をぽんと叩いた。
「え? だけど、まだ……」
「あとはあたしらがやるから。あんたは終わっていいよ」
「は、はあ……」
「新規の患者は受け付けないし、今いる客がいなくなったら、あたしらの仕事も終わり。
だけど、あんたは、手伝いだから。
そういう奴に、余計な仕事はさせないよ」
「そうですか……」
「そんじゃ、お疲れさん」
ぽいっと受付から放り出される形で、妖夢は今日の仕事から解放される。
部屋に戻って服を着替え、さてどうしよう、と畳の上で腕組みする。
「……あんまり役に立ってない」
結局、てゐから渡された書類仕事もほとんどこなせず、患者の相手もほぼ出来ず、今日は一日、見てるだけに近かった。
これでは、幽々子から言われた『永遠亭のお手伝いをしてきなさい』をこなしているとは言いがたい。
しばし考えた後、よし、と彼女は膝を叩いて立ち上がる。
「えーっと、確か……」
うろ覚えの記憶を頼りに永遠亭の中を歩いていく。
やがてたどり着くのは厨房。
夕食を前に、大勢のうさぎ達が、忙しそうに料理を作っている。
「あの」
「はい?」
「お手伝いします」
「え? だけど、あなた、お客様……」
「いいえ。ここの手伝いをしろと厳命されてきたので」
その中の一人に断りを入れて、彼女は『よし』と厨房に立った。
永遠亭のメインの食事は和食である。
そして、和食ならば、妖夢の得意とするところであった。
「せっかくだし」
今日一日、働いて疲れている人たちのために、料理を振舞おう。
彼女は包丁を握ると、それの刃を翻しながら、『これは一つの恩返し』と考えていた。
「妖夢ちゃん、お疲れ様ー」
「むぎゅ。」
「あ~、やっぱり君は抱き心地ばっちりでかわいいね~」
鈴仙が真正面から妖夢を抱きしめ、ぐりぐりすりすりする。
ちょうど、妖夢の顔の位置は鈴仙の胸元。かてて加えて、鈴仙は、なかなか乳がでかい。
妖夢がぱんぱんと鈴仙の肩をタップした。
それを受けて、『ん? どしたの?』と鈴仙が妖夢から身を離す。
「……窒息するかと」
悪気なきスリーパーホールドとはこのことである。
とりあえず、鈴仙は妖夢のほっぺたぷにぷにしながら、
「今日のお仕事はどうだった?」
と尋ねる。
「何の役にも立てなかったので。
皆さんの夕食を作るお手伝いをさせていただきました」
「あ、そうなんだ。
道理で、食事に行ってた子達が『今日のご飯、いつもより美味しかった』って言っていたわけだ」
「そう言ってもらえるとありがたいですね」
永遠亭に住まううさぎ達の数を正確に把握しているのはてゐだけである。
それほど多くのうさぎ達が住まうここ、食事をする部屋もあちこちにあり、そのあちこちで、妖夢の手がけた料理の評判は上々だった。
「入院している患者さん達の料理も手がけたのは君?」
「あ、いえ。それは。
というか、それは別の厨房とかでやっていたんじゃ?」
「ああ、そうかもしれない。
私はそこまで知らないから。
師匠も多分知らないだろうし、てゐなら知ってるか」
「……何気に、てゐさんって、重要人物ですよね」
「ああ見えて、ここにいる妖怪の中じゃ最年長だしね。
私も、あの子から見れば、まだまだ子供だし」
「……なるほど」
「てゐが色々、裏で仕切ってくれているから、うちらの仕事は少なくすむ」
鈴仙はそう言って、『よし、それじゃ、妖夢ちゃんのお手製晩御飯を食べよう』と手を打った。
妖夢は苦笑し、鈴仙を連れて、うさぎ達の『食堂』の一つとして使われている部屋へと移動する。
そこでは、時間をずらして食べに来ているうさぎ達の姿。
彼女たちに混じって、二人は料理にありついた。
「そういえば、永琳さんは?」
「まだ患者さんを診てる。
ちょっと面倒な患者がきたみたい」
「そうなんですか」
「多分、入院だろうね。部屋の都合もしていたし」
「大変ですね」
「そうだね。
まぁ、私のところには回されないと思う」
鈴仙がいうには、自分のところに来る患者は、皆、治療が簡単な患者ばかりなのだという。
要するに、彼女もまた、妖夢のように『研修中』の身の上なのだ。
本格的な治療を行うのは主治医の永琳であり、鈴仙はあくまでバッファ、もしくはサポートの扱いに過ぎないのだ。
「鈴仙さんって、医療の知識も技術も豊富だし。
私の病気も何度も治してくれたし。
厳しいんですね」
「まあ、ちょっとミスれば、簡単に人が死ぬのがこの仕事だしね。
仕方ないよ」
「頑張ってください」
「ありがと。
君はいい子だ。ほれ、お肉あげよう」
「じゃあ、にんじんあげます」
「それはダメ。
野菜もきちんと食べなさい」
めっ、でしょ、という具合に言ってくる鈴仙に、妖夢は苦笑しながら『そういう意味じゃないんだけどなぁ』と思いつつも、「わかりました」と返事をする。
「ご飯食べたら一緒にお風呂に入ろうか。で、今日は一緒に寝る?」
「鈴仙さん、私も子供じゃないんだから……」
「いやいや。
いいの~? それで」
「どういうことですか?」
「ここ、永遠亭にはね、夜な夜な、廊下を徘徊するお化けが……」
「……じ、冗談はやめてくださいよ」
「冗談かな~? 冗談じゃないかもしれないよ~」
『おばけだぞ~』と鈴仙がやるものだから、怖いものが苦手な妖夢は、ちょっぴり背筋をすくませ、声を引きつらせながら「だ、大丈夫ですよ」と笑う。
その笑顔が引きつっているものだから、鈴仙がさらに調子に乗って、「そんな妖夢ちゃんのお部屋に、おばけが……」と言ったところで、
「こら、うどんげ。お客様を怖がらせちゃダメでしょう」
そこに、妖夢にとっては救いの神、永遠亭の表の主こと八意永琳の登場であった。
鈴仙は笑いながら「そうですね」とあっさり引き下がる。
永琳は部屋へ一歩、足を進めて、
「お化けが出るような病院なんて、患者さんが遠ざかるでしょう」
と腰に手を当てて、鈴仙を叱った後、用意されている卓につく。
「あの、永琳さん。
すみません。お邪魔してます」
「ええ。いいんです。幽々子さんからはお話を伺っていますから」
「……ちなみに、幽々子さま、なんといってましたか?」
「『うちの妖夢を少し貸し出しますので、のんびりご使用ください』って」
「……私はどういう扱いなんだろう」
まるで道具扱いのようなそれに、妖夢は内心、微妙な気持ちになってつぶやく。
鈴仙は妖夢の頭をぽんぽんと軽く叩き、『気にしない、気にしない』と笑った。
「あら、この煮物、美味しい」
「あ、それ、私が作ったんです。どうですか?」
「あらあら。そうなの?
いいわね、とても味がやわらかくて」
「ありがとうございます」
「妖夢ちゃんは料理も出来るし、気遣いもいいし、おまけにかわいいし。
どう? 私のお嫁さんにならない?」
「えーっと……それは……」
「あ、何それ。私じゃ不満? 傷つくな~」
ほっぺたぷにぷにされながらの鈴仙の攻撃に、妖夢は何ともいえない顔で答えを返す。
永琳に救いを求めて視線をやるのだが、永琳はご飯を食べるのに集中していてこちらを見てくれない。
孤立無援とはまさにこのことである。
「うどんげ。今日は夜勤、お願いね」
「はい、師匠。
いつもどおりでいいですよね?」
「ええ。多分」
何気なく、永琳が口を開く。
鈴仙は妖夢をいじるのをやめて、『やれやれ』と肩をすくめた。
「夜勤……って、昼間も働いたのにですか?」
「そうだよ」
「……大変ですね」
「仕方ない。うちは主治医と補佐が一人ずつしかいないから」
真夜中に、誰かが大変なことになってしまったらどうするの、ということだった。
ここは病院。ここにいる者たちだけが、この空間で生活しているわけではない。
何かの病気を抱えて入院しているものたちもいる。
その中には、何らかの理由で容態が急変するものだっている。
「そういう時にも対応できないとね。
町医者じゃ出来ないことだよ」
だから永遠亭は大変なのだ、というのが鈴仙の言葉だった。
妖夢は深くうなずき、「それじゃ、私もお手伝いしましょうか?」と声をかける。
「いいよ。
子供は夜はきちんと寝ないと、大きくなれないぞ」
「……ははは」
「うどんげだけで夜勤を行うわけではないから、あなたは気にしなくていいわ。
ゆっくりお休みなさい」
永琳は妖夢ににこっと笑いかけ、食事を終えて、席を立った。
ふすまが閉じた後、鈴仙が「まだ患者さんがいるみたいだな」とつぶやく。
ちょっと休憩という意味で、ここにやってきただけだろう、と。
「……みんな大変なんですね」
「流行っているからね」
小さく、鈴仙は「だから、医者と葬儀屋と軍人は閑古鳥がいいのさ」とつぶやいた。
その日は疲れたためか、じっくりたっぷりとっぷりと熟睡した妖夢は、翌朝、朝日を受けて目を覚ます。
時計を見ると、まだ、朝の5時である。
しかし、障子から透けて入ってくる朝の光は見事なものであり、『二度寝は無理だな』と彼女は肩をすくめた。
立ち上がって服を着替え、布団をたたんで、洗面所で顔を洗ってから、『さて』と腕組みする。
「みんなが起きてくるのはまだ先だろうし」
部屋に戻ってきた彼女は正座しながらそれを考えて、『よし』と立ち上がる。
片手に愛用の剣を持って、彼女は永遠亭の中庭へと降り立つ。
見事な日本庭園が広がるそこで、彼女は剣を構えると、素振りを始めた。
ここは病院。患者の中には寝てるものがいるのだから、大きな、威勢のいい掛け声はなしで。
「声を上げないと気合が入らないけど」
まぁ、仕方ないか、とそれを受け入れて、体さばきも交えながら剣を振るう。
こうした普段の鍛錬こそ、己を高めるのに必要なこと――とは、彼女の剣の師の言葉である。
それでなくとも、彼女の場合、しっかりと毎日訓練しなければ気がすまない性格だ。
「おっはよー」
どれくらいの間、剣を振るっていたか。
まだ涼しい気候の中、汗が浮かび、体が火照り、息も切れてきた頃に声がかかる。
「あ、鈴仙さん。おは……!?」
振り向いて、妖夢は声を失い、顔を赤くして立ち尽くす。
「ずいぶん、朝早くから気合が入っているね」
起きたばかりなのだろう、ぼさぼさの頭に乱れた衣装。
妖夢が口をぱくぱくしているのは、鈴仙のその格好が原因だ。
「あ、これ? あははー、私、裸で寝るの癖なんだよねー」
曰く、『昔は服をしっかり着込んで武器まで枕元に置いて寝ていたけれど、全くリラックス出来なかったから』というのが、その格好の原因であるらしい。
この平和な幻想郷でのんびり暮らして、その空気に感化されてしまったのだろう。
――と、理由付けは出来るのだが、
「ちゃんと服と下着着てください!」
と、思わず絶叫する妖夢であった。
「……恥ずかしくないんだろうか。全く」
今日の妖夢の仕事は薬局での受け付けである。
と言っても、必要な薬を選んだり取り出してくるのは別のうさぎの仕事であり、彼女の仕事は、差し出される書類を受け取り、それを担当に渡すだけだ。
実に簡単な仕事であるが、それ故、退屈でもある。
「あの、私って、役に立ってますか?」
「とっても」
後ろの調剤室で、何やら薬を作っている薬剤師のうさぎが答える。
曰く、「この作業をしている時に手を止めて、書類を受け取ったりすると時間のロスが大きい」とのことだ。
それがどれくらいの手間の短縮に役立っているのかはわからなかったが、とりあえず、『役に立っている』と言われて、妖夢はほっとしたようである。
「毎日、ずっと、こういう仕事をしているんですね」
「慣れたら楽しいものですよ」
「……そうなんですか?」
「こういう仕事が出来るの、私の他には永琳さまと鈴仙さま、あと数名くらいしかいませんから」
自分がこの病院で、重要な立場にいることが自覚できて、何だか誇らしい、と彼女は笑った。
完成した薬を持って戻ってきた彼女は、まるで計ったかのようなタイミングでやってくる、別のうさぎにそれを手渡し、「患者さんに渡してあげてね」と笑う。
「大変ですね……」
「調合を少し間違えたら大変なことになるからね。
気も使うけど、楽しいわよ」
お手伝いありがとう、と彼女は妖夢の頭をなでてくれる。
悔しいが、相手の方が身長はずっと上な上、雰囲気も遥かに大人と子供の違いがある。
されるがままに苦笑する妖夢は、はぁ、と小さくため息をついた。
「ちょっと手伝って」
「あ、はい」
そんな感じで薬局の受付をしていた妖夢がてゐに呼び出されたのは、それから一時間ほど後である。
てゐは入り口の受付を出て、屋敷の外へと歩いていく。
「どうしたんですか?」
「急患」
そういう連絡があったのだろう、屋敷の前で待つてゐは、腕組みしながら答える。
「私でいいんですか?」
「他が埋まってんだよねー。
何か、入院してる人の中で容態が悪くなった人がいるから、そっちに人がとられてさ。
鈴仙さまもそっちにいってる」
「はあ」
「今来る急患は永琳さまのところに運ぶ」
そうしていると、竹林の向こうから、うさぎ達が走ってくる。
「ちょっと、あんた達! 患者揺らしたらアウトだよ! 気をつけて!」
やってきたうさぎ達は、急ぎながらも苦しむ患者に負担をかけないように気を使っているらしく、担架をぴくりとも動かしていない。
その上に載せられているのは、何があったのか、全身血まみれの男性である。
足と腕が変な方向に曲がっており、骨も露出しているという有様だ。
「すぐに永琳さまのところに運んで!」
てゐがその中の一人と代わって担架を取り、屋敷の中へ走っていく。
「え? あの、私は……」
「あんた受付!」
てゐたちが屋敷の中に消えて、少しすると、妹紅に連れられた女性が走ってくる。
ひどく錯乱しているらしく、『あの人はどこですか!?』と叫び、妖夢の肩を掴んで彼女を揺さぶった。
「落ち着いて。病院の中に入っていったから」
妹紅が後ろから彼女を引き剥がし、妖夢に視線を向ける。
唖然としていた妖夢は、慌てて屋敷の中に戻ると、受付の用紙に『怪我をした人一名 番号:78番』と記載する。
「えっと、えー……」
「大丈夫、大丈夫だから。
ここのお医者は、そりゃすごいもんだ。大丈夫、きっと助かるから」
妹紅が女性を慰めながら、永遠亭の中に入っていく。
伸ばされた右手に、妖夢は、手にした番号札を乗せた。
彼女を見送り、その場に所在なげに佇んでいた妖夢は、やがて屋敷の中へと戻り、無人の受付に立つ。
「……何かすごいの見たかも」
さっきの嵐はまさに一瞬。
動揺が確かに広がっていたと思われる永遠亭の受付は、もう平穏を取り戻し、治療を終えた患者が番号札を返すために受付へとやってくる。
彼ら彼女らの手続きをしていると、その忙しさから、先ほどのことはもう心のどこかにフェードアウトしていく。
「は~、やれやれ。大変、大変」
「ああ、お帰りなさい。てゐさん」
「お、ちゃんと受付できてんじゃ~ん。優秀だね」
そうこうしていると、てゐが帰ってくる。
彼女は『よいせ』と、妖夢が座っている椅子へと腰掛ける。もちろん、妖夢はその隣に立ち上がった。
「どうだったんですか?」
「解放骨折が数箇所と、打撲と裂傷、あと擦傷。内臓が一部破裂に出血多量。ありゃよく生きてたもんだわ」
「……それって……」
「まぁ、普通なら、ほぼ致命傷だね。
もうあと2~30分、救命が遅れていたら死んでた。
話を聞くと、夫婦で山菜取りに来ていて、崖に足を滑らせて落ちたらしい。
で、たまたま、その近くをあの不死鳥娘が歩いていて、奥さんの悲鳴を聞いて駆けつけたんだとさ」
運がよかったんだ、とてゐは言った。
しかし、あの怪我をした人――要は、あの女性の旦那さん――は、現在もほぼ虫の息であり、24時間の監視が欠かせないのだという。
「壊れたところは治したし、輸血がんがんやって一命は取り留めたけど、まぁ、もうまともな生活は無理かな。
退院はできない。させられない。死なれたら困る」
ちなみに、男性は現在、薬が効いているのもあってこん睡状態なのだとか。
目が覚めた時、その事実を告げられて、彼がどう思うかはわかないのだとてゐは言う。
「うちはほら、半分、慈善事業みたいなもんでしょ?
なんぼ入院されても金は取らないし、いくらでも面倒は見るけどさ。
それを相手がどう思うかは、また別問題だよね」
すでに、あの女性との間で何かあったのか、てゐはそんなことを言う。飄々とした雰囲気ではあるが、何か思うところがあるような、そんな口ぶりだった。
「ま、あんたは気にしなくていいよ。
あーいう患者もうちには来る。ぎっくり腰の爺さんの面倒見るだけが、うちの仕事じゃないってだけでさ」
そうして、『手が止まっているぞ』と妖夢に注意をして、手元の書類に、何か文字をさらさらと書き込んでいく。
妖夢は慌てて、『あ、す、すいません』と手を動かし、「それが終わったら、薬局、戻っていいよ」と言われた。
手に持っていた書類を終わらせ、てゐへと渡してから、ぺこりと頭を下げてそこを後にする。
薬局に戻ってきた彼女に、薬剤師のうさぎが『お帰りなさい』と笑顔を向けてくる。
「お仕事って大変なのよね」
妖夢を見て、彼女を慮ってか、そんなことを一言、言ってくれた。
「……で、何で鈴仙さんがここに」
「いいじゃな~い。
怖がり妖夢ちゃんのために、今日はお姉さんが一緒に寝てあげよう!」
「結構です!」
「怖がりなのを否定する?」
「それは……う~……」
一日の仕事が終わり、食事とお風呂の間中、鈴仙にいじられ続けていた妖夢としては、何となく不満顔である。
『それじゃ明かり消すよー』と鈴仙。
近年、月の科学技術と山の上の神様による『幻想郷インフラ革命』のおかげで、蝋燭やランプではなく電気の明かりが点る永遠亭。ふっと明かりが消えると、途端に、周囲は暗闇に包まれる。
「……あの、小さい明かりだけでもつけません?」
「あれ? 知らないの? 妖夢ちゃん。
あの小さい明かりにはね、おばけが寄って来るんだよ~」
「……そ、そんな冗談……」
「霊夢さんが言ってた」
その一言で、途端に信憑性を持ったその話のせいで、妖夢は慌てて掛け布団を頭からかぶって布団の中に退避する。
そして、ちょっとだけ頭を覗かせて、
「……風邪引きますよ」
「慣れって恐ろしいんだ」
今じゃ逆にこうしないと寝られない、と裸で布団にもぐりこむ鈴仙。
そんな彼女に抗議の意思をこめて、『だけど、今はまだ春先だし……』と妖夢は食い下がるのだが、
「それもそうか」
そう、鈴仙が言ってほっと安堵した、その矢先である。
「っ!?」
「妖夢ちゃんは、やっぱり子供だね~。体温高くてあったか~」
「な、何を……!」
「お姉さんの湯たんぽになりなさい。これは命令」
いきなり鈴仙に抱きしめられて、顔を真っ赤にして背中を向ける。
相変わらず容赦なく遠慮なく、むぎゅ~っと妖夢を抱きしめてくる鈴仙。完全に、ぬいぐるみか抱き枕の扱いである。
何ともいえない微妙な感覚と空気のせいで、寝付けぬ妖夢とは対照的に、そんな鈴仙はさっさと妖夢の後ろで寝息を立てる。
なんと便利で厄介な性格な人なんだ、と抗議しつつ、妖夢も目を閉じて――。
「……?」
何かが動く気配がしたのは、それからどれくらい過ぎた頃だったか。
もしかしたら、それほど時間はたっていないのかもしれない。
眠った時間もわからず、今の時刻も、周囲は暗闇に沈んでいるせいで判然としない。
「……あれ、鈴仙さん?」
いつの間にか、鈴仙が起き上がっていた。
彼女は肌襦袢を纏うこともしないまま、裸のままで、部屋の入り口となるふすまにくっついている。
「……あの?」
「しっ」
夜も遅いのだから静かにしていろ、という意味ではない。
鈴仙は小さく、『……誰だ?』とつぶやいた。
「……え? あの、誰かいるんですか?」
「いる。足音が聞こえる。小さい。遠いな」
心なしか、妖夢の声はちょっぴり引きつっていた。
病院。夜中。――とくれば、初日に鈴仙によってからかわれた通り、そこから導き出されるフレーズは『おばけ』である。
だが、足音がするということで、少しほっとする。幽霊には足がないのだ。足音がするはずが……、
「……いや、それは……」
というところで、己の主人の幽霊少女を思い出す。
あれ、思いっきり、足が生えている。
足音がしない=幽霊、という構図は、この幻想郷では成り立たない。
鈴仙が少しだけふすまを開けて外を見る。
「……見えるんですか?」
「獣が夜目が利かなくてどうするの」
言われてみればその通りである。
部屋の中は、障子の向こうから入ってくる月と星の明かりのせいで、薄青く照らし出されているものの、それ以外の空間は真っ暗闇。にも拘わらず、鈴仙は鋭いまなざしで闇を見据え、頭の耳をぴんと立てて、それでしきりに周囲の音を探っている。
その様は、獣は獣でも肉食獣のそれだった。
「……あ、えっと、とりあえず服を……」
「ありがと」
渡される肌襦袢に袖を通し、帯を締め、足下が邪魔にならないように裾をまくって帯に差し込む鈴仙。ある意味、裸よりエロティックなその格好で、彼女は足音一つ立てず、廊下へと歩いていく。
妖夢はその場で一瞬、どうするか考えて、鈴仙についていくことを選択した。
一人で部屋に残ってるのが怖かったのだ。
鈴仙が手と視線で『こっち』と示す。
それについていく形で廊下を右に曲がって、しばらく歩いたところで、
「こんな時間にこんなところで何をしているの?」
鈴仙が、その相手に声をかけた。
妖夢が恐る恐る、鈴仙の陰から顔を出してそちらを見る。
そこにいたのは、年のころなら10歳にも満たない、小さな女の子。
彼女は鈴仙を見て、妖夢を見て、目をぱちくりとさせている。
「夜は寝ていないとダメでしょう。
病気の人は体力が落ちているんだから、夜更かししていたら風邪を引くよ」
妖夢には見知らぬ相手だが、鈴仙には見知った相手であるらしい。
鈴仙は先ほどまでの気配を解き、腰に手を当てて『めっ、でしょ』と言う雰囲気で彼女を叱っている。
「……ごめんなさい」
少女は素直に、鈴仙に対して頭を下げた。
話を聞くと、この時間帯に目が覚めてしまって、寝付くことが出来ないので星空を見に来たのだ、と答えてくれる。
「今日はいい天気だからね」
永遠亭の中庭からは、竹林に覆われていない空が見える。
見事な月と星の饗宴は、なるほど見ごたえのある景色だ。
「だけどダメ。ほら、部屋に戻ろう?」
彼女は鈴仙が差し出した手をとって、小さくうなずいた。
鈴仙は『妖夢ちゃんは、悪いけど、一人で部屋に戻ってね』と彼女を連れて、今来た道を歩いていく。
妖夢は慌てて、それについて歩いていき、途中で鈴仙と別れた後は迅速に部屋へと戻って布団をかぶる。
「……おばけじゃなくてよかった」
心底ほっとするとはまさにこのことか。
自分の、この怖がり体質を何とかしないと思いつつも、しかし人間、どうしようもないものはあるのだと、自己正当化する妖夢であった。
さて、それから二日後のことだ。
てゐから『患者の使う布団や衣服の洗濯も仕事』と言われて、今日の妖夢はさらに雑用を命じられていた。
もっとも、彼女からしてみれば、そちらの方がある意味本業である。
慣れない受付や事務の仕事と比べれば、こちらの方が『楽』な作業だった。
「あ……」
その仕事をしていると、先日、鈴仙と共に出会ったあの少女の姿を見かけた。
彼女は一人、縁側に座って足をふらふらと動かしている。
妖夢は洗濯物の入ったかごを片手に、『こんにちは』と、その背中に声をかけた。
「こんにちは」
振り返った彼女は笑みを見せず、無機質な声で返事をしてくる。
「あれから、どう? ちゃんと眠れてる?」
うん、と少女はうなずいた。
彼女はすぐに妖夢から興味をなくしたのか、視線を外して、中庭を眺める。
「入院してるんだ」
「うん」
「大変だね」
「うん」
「お菓子いる?」
彼女は首を左右に振った。
妖夢はポケットの中から取り出そうとしていた飴玉――鈴仙がよくくれるものである――を、ポケットの中に戻す。
「すぐに退院できるよ。だから、頑張ってね」
「うん。うさぎのお医者さんも同じこと言うよ」
「ああ、鈴仙さん?
それなら大丈夫だね」
「『次の手術が終わったらおうちに帰れるからね』って」
言われて、妖夢は、彼女が着ている服の袷や足下から覗く素肌をちらりと見た。
そこに、まだ白い包帯が巻かれている。
どこも悪くなさそうに見えるのにな、と妖夢は思った。
少女はよいしょと立ち上がると、『お部屋に戻る』と言って歩いていった。
去り際に、その背中を見る妖夢。彼女は左足を引きずるようにして歩いている。
「何してんの」
「あ、えっと」
彼女の姿が廊下の曲がり角に消えるまで見送ってしまっていた妖夢は、後ろからかかった声に慌てて振り返る。
てゐが、そこに『サボってると、あとでうるさい人が来るよ』という顔で立っている。
「小さな女の子が」
「ああ、この前、入院した子? 明日か明後日、手術だったかな」
「知ってるんですか?」
「受付に来る人間、みんな知らなくてどうすんのさ」
言われてみればその通りである。
妖夢は彼女と一緒に廊下を歩きながら、『ちょっと話をしてたんです』と言った。
てゐは『ふーん』とうなずき、
「あんた、何か余計なこととか言った?」
「余計、って……。
ただ、『もうすぐ退院できるよ』とか……」
「あー」
てゐは軽く肩をすくめる。
そうして、『ま、仕方ないか』とつぶやくと、
「あの子はねー、退院できないんだわ」
「え?」
「ああ、いや。その表現はおかしいかな。
正確には、退院しても、帰る家がない。
しばらくはうちで預かることになるんじゃないかな」
「……みなしご、とか?」
「というより、捨てられた子、かな」
患者のプライバシーは守らないといけないんだけど、とてゐは前置きを置いてから、
「あの子はね、ちょっと変な病気にかかっていてさ。
まぁ、それについては、うちのお師匠様だ。あっさり治してしまえそう。
だけど、ちょいと金がかかってね。
うちはほら、慈善事業みたいな形でやっているから、基本、とんでもない報酬とかはとらないんだけど、今回みたいなことになると、それでもどうしても『無料』でお仕事とはいかないんだ。
他の人との兼ね合いもあるからさ。
で、『これくらいなら払えるだろう』って提示した額が、あの子の家庭にゃ、ちょっと重たかったんだろうね。
入院した日には、心配そうな顔で寄り添っていた両親が、翌朝、治療にかかる金額を知った途端にどろん。家ももぬけの殻」
妖夢は言葉を失い、目を見開く。
「お師匠様は『悪いことした』なんて言っていたけど、目は全然、笑ってなかったね。
あたしもそれは同じさ。他人の善意に寄り添って生きてる、汚い奴らだと思ったよ。死ねばいい」
人に幸せを運ぶ、因幡の素兎は呪いの言葉を吐いた後、「だけど、それはあの子にゃ関係ない」と声のトーンを元に戻す。
「とりあえず、人里の偉い先生さまに話も通して、別の、新しい親になってくれそうな人は探してもらってる。
それをあの子が受け入れられるかどうかは別だけど、それまで、あの子の身柄はうちで預かることになってる。
一日か、一週間か、それとも一ヶ月か、一年か。
しばらく、あの子は退院出来ないんだ」
やれやれとてゐは肩をすくめた。
その間にかかる金と人員のリソースを考えたら頭が痛くなる、と呻いて。
『だから、あんたにゃ、しっかり働いて貰わないとね』と、彼女は言葉を締めくくった。
少しだけためらった後、妖夢は、部屋のふすまを開く。
「あの……」
声をかけて中に入ろうとして、『え?』と目を疑う光景に、思わず声を上げる。
「あら、あなた」
中には輝夜がいた。
その対面に、あの少女が座って、輝夜と一緒にお手玉をして遊んでいる。
輝夜が八つのお手玉を操る技を見せ、それを真似しようと、三つのお手玉に挑戦しているところだ。
「何しにきたの?」
「あ、えっと……。てゐさんから、おやつを持って行ってあげて、って」
「ああ、そういえば、うちは子供にはおやつを出してるんだったわね」
私にもちょうだい、と輝夜。
差し出される掌に、妖夢は、手に持っていたお盆の上から饅頭を一つ、取り上げて手渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
輝夜の前で見せていた真剣な表情はさっと消して、やはり無感情な顔を、少女は妖夢に向けてくる。
「輝夜さん、どうしてここに?」
「ああ。
この子、見込みがあるのよ」
「見込み?」
「そう。将棋が強いの」
と、輝夜はどこからともなく、立派な将棋盤と駒を取り出した。
それを手に『一局いかが?』と視線を向けてくる。
「いいですよ。幽々子さまに仕込まれてますから、簡単には負けません」
――と、それを受けた妖夢であるが。
「はい。王手」
「……………………え?」
「イナバよりは強いわね」
それから30分も経たないうちに勝負は決していた。
何度、盤面を見比べても、負けは負け。妖夢の王は輝夜の飛車と桂馬に囲まれて身動きできない状態であった。
「なっさけない。
この子の方が遥かに強いわよ。
ねー?」
輝夜に話を振られて、少女はにんまり笑って、首を縦に振った。
そ、それなら、とむきになって、自分よりも小さな子供に挑んだ妖夢は、今度は1時間後、撃沈される。
「よしよし、よくやったわ。
特に、あの角の置き方はよかったわね」
「うん。教えてくれた通りにやったの」
どうやら、輝夜はこの子に懐かれ、また、この少女は輝夜に懐いているらしい。
二人そろって掌を向けてハイタッチ。
盤面の前で硬直している妖夢は完全に蚊帳の外である。
「次は別の攻め手を教えてあげるわ。
今度は、そうね、5分くらい早く勝てるようになる」
「やった! 教えて教えて!」
完全にだしにされた妖夢は、しかし、『何くそ』とさらにもう二局、彼女と指して、結果は見事に惨敗。
回を増すごとに撃沈されるまでの時間は短くなるという、疑いようのない完敗であった。
「さて、そろそろ夕食の時間ね。
あなたもそろそろ、おいとましなさい」
「お姉ちゃん、またね」
「また明日ね。今度は別の遊びを教えてあげる」
「ありがとう」
打ちひしがれた妖夢は輝夜に手を引かれてふらふら立ち上がり、はぁ、とため息をつく。
「お姉ちゃんも、またね」
その妖夢の背中に、小さな声ではあるが、少女から声がかけられた。
二人は彼女の部屋を後にして廊下を歩いていく。
「どうせ、あの黒兎から何か聞いてきたのでしょ」
「え?」
「あなたはイナバと一緒ね。すぐに物事が顔に出る」
歩きながら、輝夜はそんなことを言った。
彼女は振り返らず、肩越しに妖夢に対して、「まだまだね」と一言。
「永琳から聞いているけれど、あなた、うちの手伝いをしにきたのでしょ?
だったら深入りする必要はないわ。
あなたのやることだけやって、のんびりしてればいい。
後のことはこっちでやるもの」
輝夜は廊下を左に曲がり、「私の部屋はこっちだから」と歩いていく。
そして去り際に、「私は子供に好かれるのよ」とだけ、妖夢に言った。
「……何かすごいな」
つと、妖夢はつぶやく。
今の今まで、輝夜のことは『何かよくわからない人』程度の認識に過ぎなかった彼女だが、改めて、今、思う。
なるほど。永遠亭の『主』と言われているのには、やはり理由があったのだな、と。
翌日、永遠亭では、少女の執刀日を迎えていた。
朝から鈴仙やてゐ、うさぎ達が忙しく働いている。
妖夢の『お手伝い』も今日はなく、それを横目で見ているだけだ。
朝の9時を回って、少女がストレッチャーに乗せられ、手術室へと運ばれていく。
その様を見ていた妖夢は、彼女の後についていった。
手術室の前では輝夜が座して、ぼーっと天井を眺めている。
少女を連れた医療スタッフがやってくるのを見て、彼女はそれが当然とばかりに手術室の中へ入っていく。
「今日で終わりだからね。頑張りなさいよ」
「うん。
お姉ちゃん、頑張る。終わったら、またお手玉教えてね」
「将棋もね。あと、今度はオセロも教えてあげるわ。
徹底的に仕込んであげる。お友達には絶対に負けないくらいにね。
だから、頑張りなさい。わかった?」
少女と約束の指切りをした後、輝夜は手術室の外へと出てくる。
そこで立ち尽くしている妖夢に、「あの子、うちで雇えないかしら」と言った。
「え?」
「なかなか筋がいいのよねー。もっと色々仕込めば、間違いなく、幻想郷における私の後釜になれるのに」
「は、はあ……」
「あなたは無理ね。ああいう知的遊戯は向いてないわ。
というか、あなたは将棋を指す時の手つきがよくないのよね。あんな行儀の悪い駒の掴み方はないでしょう」
――と、なぜか怒られる。
妖夢が何も言えずに、ただ黙ってお説教を聴いていると、ぽっと『手術中』のランプが点った。
「……大丈夫ですよね?」
「大丈夫でしょ。難しいところは、全部、永琳がやったらしいし。
最後の仕上げはイナバにやらせるらしいわ」
「そうなんですか」
「何か、骨が溶ける病気なんですって。
原因になっていたところは取り除いたから、あとは、溶けた骨をきちんとしたものに取り替えるだけだ、って」
輝夜はとことこ歩き出す。
それについて歩き、妖夢は『どこへ?』とたずねた。
「神社。人がいない。あるでしょ」
「ああ、博麗神社?」
「そう。願掛けに行くの。
あんなところでも、ご利益の一つや二つ、あるはずだわ」
「それ、霊夢さんが聞いたら怒りますよ。
というか、ご利益を期待するなら守矢神社とか」
「私、そっち行ったことないし。
それに、私は足が遅いから、行って帰ってくるのに時間がかかるのやだし。めんどくさいし」
「あはは……」
「あなた、付き合いなさい。どうせ暇なんでしょ。
帰り道でお菓子を買いましょう。
あなた、物持ちね。よろしく」
勝手に何でもかんでもさっさと決めて、輝夜は近くを通りがかったうさぎに「ちょっと出かけてくるから」と言って歩いていった。
慌てて、勝手に付き人任命された妖夢はそれを追いかけ、彼女と一緒に空へと舞い上がる。
「心配なんですか?」
そろそろ尋ねる妖夢に、輝夜は答える。
「私の大事な跡継ぎだもの。勝手に死なれちゃたまらない」
――と。
「そんじゃ、ごくろーさん。
これ、あんたがうちで働いた分のお給金の書類」
「こら、てゐ」
それから三日ほど。
朝になって唐突に、妖夢の主人、西行寺幽々子が妖夢を迎えに来た。
そこで『レンタル』の終わった妖夢は家に帰ることになり、病院の仕事が始まる前に帰る用意を調えているところである。
「ああ、いえ。そんな。私はお手伝いで……」
「だから、あんたが働いてくれた分、しばらくの間、あんたの治療は無料ってことになってるから。
それならいいでしょ? 鈴仙さま」
「……まぁ、ね。恩に着せるつもりはないけれど」
ふぅ、と鈴仙は肩をすくめると、
「妖夢ちゃん、またね」
と笑ってくれる。
幽々子が後ろで「妖夢ぅ、帰るわよぉ」と言っている。
見送りに出てきてくれた二人に、妖夢は頭を下げて『また今度』と挨拶をした。
二人、空へと舞い上がる。
去り際に妖夢は幽々子に、『ちょっと中庭を見に行ってもいいですか?』と尋ねる。
幽々子がそれを断る理由もなく、二人は少しだけ、道を変更して、永遠亭の入り口から中庭の上空に向かう。
そこには、手術も無事成功し、元気になった少女が輝夜に向かい合って将棋を指している姿があった。
彼女の顔は真剣そのもの。対する輝夜は余裕の片手団扇である。
「こりゃ油断出来ないな」
妖夢はそれを上空から見て苦笑して、服のポケットから飴玉を取り出した。
それをぽいと放る。
飴玉はこつんと輝夜の頭に当たり、輝夜は辺りをきょろきょろ見回した後、妖夢たちに気づいたのか、左手をひらひらとこちらに向けて振った。
妖夢はそれに手を振り返す。輝夜は視線を妖夢から外して、手にした飴玉を少女に手渡した。
「楽しかったぁ?」
「大変でした」
「そう。それはぁ、何よりだわぁ」
幽々子はふぅわりふわふわ飛んでいく。
妖夢はその後について飛び、「帰ったら掃除と洗濯と料理をしないといけなさそうですね」といやみを言う。
すると幽々子は『それは全部、紫にやってもらったからいい』と答えた。
「……藍さん、申し訳ありません」
間違いなく、それでこき使われたであろう顔見知りの顔を思い出して、妖夢はため息と共に頭痛をこらえる仕草をする。
その妖夢をちらりと見て、幽々子はにやりと笑う。
「……だけど、どうして、今回、こんなことを?」
その幽々子の視線に気づいたのか、妖夢は、かねてからの疑問を口にした。
すると幽々子はさらりと答える。
「だってぇ、あなたぁ、この前ぇ、無意識だったでしょうけどねぇ。
『鈴仙さんに会いたいなぁ』ってぇ、言っていたのよぉ」
扇子で口元を覆い、笑いながら言う幽々子に、妖夢の顔がかーっと真っ赤に染まる。
「え? え? え!? そ、そんな、私が!?」
「そうよぉ。
あなたぁ、何だかんだでぇ、彼女にぃ、とぉってもぉ、懐いているものねぇ」
だから、『かわいがっている従者の願いをかなえてやったのだ』と幽々子は言った。
まさかそんなオチが待っていたとは思わず、妖夢は赤面したまま、顔をうつむかせてしまう。
「だけどぉ、あなたもぉ、あそこではぁ、色々ぉ、あったみたいだしぃ。
よかったわねぇ」
これは予想していなかった、嬉しい誤算だ、とばかりに幽々子はそれをダメ押しすると、『帰り道に美味しいご飯を食べていこう』と提案してきた。
もちろん、それに逆らうはずもなく、妖夢は無言でうなずくばかり。
二人の足は、帰り道から少し外れて人里へと向く。
「あまり深入りする暇もなかったみたいだし。ある意味、いい息抜きになったでしょう?」
幽々子のその一言は、妖夢には、どうやら聞こえていないようであったという。
今回は永遠亭の医療機関としての面が描写されて、シビアなお話もちょっとあって良いアクセントに。
↓
開放骨折