1 ちょっとむかしばなし
それはそれは、ほんの十と少し前の夏。
まだ守矢神社が幻想入りせず、諏訪の地で慎ましく信仰を集めていた頃の話。
時代を感じさせる、くすんだ色合いの神社の屋根にて、不敬にも横になっている女性がいました。
今が朝で、例え周囲の鎮守の森が遮っていようとも、夏の盛りの日差しは強く、空気もじっとりと湿っています。
それなのに彼女は、白の長袖の上に高貴な赤に染められた絹の服を着て、下はなんと黒の袴。重そうなしめ縄まで背負った姿でした。
日光浴でも楽しむかのように、肩肘をついて目を閉じ、時折欠伸をしています。
何を隠そう、彼女は人間ではなく、この神社に祀られる一柱、八坂神奈子という立派な神様なのです。神様だって、いつも尊大に下界を見下ろしているものばかりではありません。古き良き日本の神様は、こうしてお気に入りの場所で、午睡を楽しむものも多いのです。
ふと、神社の中から「行ってきまーす」と幼い声がして、八坂様は目を開けました。
境内に出てきたのは人間の子、まだ五、六歳の女の子です。
彼女は背中に小さな鞄をかついで、何やら急いでいましたが、境内の石畳の真ん中で立ち止まると、きょろきょろと周囲を見渡します。
屋根の上にいた八坂様は、微笑んで手を振ってあげました。
ただし、お声をかけたりはしません。神を見つけるという行為は、例えまだ見習い以下の存在の巫女にとっても、大事なことだからです。
女の子は程なく、屋根の上におわす存在に気がつき、ぴょんぴょんと跳ねました。
「やさかさま、みぃつけた!」
「おみごとなり、こちやさなえ」
屋根からふわりと飛んだ八坂様は、少女、東風谷早苗と同じ所まで下りて行ってあげました。
「今日は何だか、いつもと様子が違うわね。幼稚園じゃないの?」
「およぎにいくの! だからこれ、あたらしくおばあちゃんにかってもらったんです!」
はしゃいで見せる背中に乗った透明の鞄の中には、新しい水着とタオルが入っているようです。
八坂様はちょっと思うところがありました。
「早苗って泳げたっけ?」
「えーと、プールにいったことがいっかいあって、おふろでもおよいでたよ?」
「ほう、それはすごいねぇ」
「ねー、やさかさまもいっしょにいこ? たのしいよきっと!」
「いや、私はやめとくよ。……ふふ、気が向いたら後で様子を見に行ってあげるから」
「ぜったいね!」
早苗が親指を立てると、八坂様も親指を立てかえします。
この神様は早苗が覚えた口癖やポーズを、いつも真似してくれるのでした。
「じゃあ、やさかさま、いってきまーす! ミィちゃんのごはんもよろしくねー!」
「はいよ。行ってらっしゃい早苗。遊ぶだけじゃなくて、水には気をつけなよ」
少女の溌剌とした後ろ姿が、蝉時雨の降る林道の中に、段々と小さくなっていきました。
見送る八坂様は、少し心配げな顔でしたが、
「……ま、あまり過保護なのもよくないわね」
と、屋根上の日向ぼっこに戻ることにしたようでした。
~もりやくも~
「んー……ん?」
八坂神奈子は、守矢神社の屋根上で目を醒ました。
しかし目に映る光景は、今までいたはずの諏訪の地ではない。
山々が広く囲んだ、彩度の異なる緑の地に、小さな集落が一つと、白く霧がかった湖が一つ。黄色く色づいた花畑も遠くに見える。
天を突く妖怪の山の中腹から見下ろした、幻想郷の姿である。
薄目のまま、顔をおもむろに横に向けると、すぐ側に、とっくりとお猪口が置かれている。
そこで思い出した。昨晩、天の川を仰ぎながらここで酒を飲んでいるうちに、そのまま眠ってしまったのだ。
久しぶりにこの屋根で寝ていたせいか、外界にいた頃の夢まで見ていた。
起きあがった神奈子は、うん、と背伸びをして、
「たかが十年と少し前の話なのに、なぜか懐かしいわね。あの頃まだちっちゃかった早苗も、今はもう現人神か」
と、感慨深く、独り言を述べた。
信仰ではなく、水と空気と命を糧に生きる人間は、あっという間に成長し、花を咲かせてしまうものだ。
しかし、その時間の濃さは神や妖怪の比ではない。石仏と変わらぬ身であっても、共に分かち合うだけで、生きる実感がこみ上げてくる。
思い起こせば、八坂神奈子の新しい一生は、あの時期、あの少女との出会いから始まったのだった。
諏訪の地の懐かしさに、何だか夢の続きが見たくなってきた神奈子は、
「もう一眠りしようかな……」
と、再び横になり……。
――! ――!
屋根越しに怒鳴り声が聞こえてきて、反射的に身をすくませることになった。
たまにこうしてここで寝ていると、成長した風祝に毎度小言を言われるのである。しかし、腰の下の神社で怒鳴っているのは、彼女だけではないようだった。
もう一つ、こちらは風祝以上に長く知っている声が、負けないくらい大きく喚きたてられている。
「なんだ。朝から喧嘩かね。元気だねあの二人は」
神奈子はよっこいしょ、と腰を上げて、様子を見に行くことにした。
「嫌です!」
東――奇跡を起こす守矢神社の風祝、東風谷早苗。
「嫌じゃない! やりなさい!」
西――諏訪の土着神の頂点、洩矢諏訪子。
「絶対嫌です!」
「いいからやりなさい!」
「絶対絶対嫌です!」
「いいからいいからやりなさい!」
「絶対絶対絶対…………!」
「ああもうまどろこっしい! 今すぐ連れてってやるわ!」
「行きません! 放してください! ここは動きませんからね!」
部屋の中央で睨み合っていた両者は、やがて互いの腕を乱暴に引っ張り合う。
そこで折良く襖が開き、しめ縄を背負った八坂神奈子が現れた。
「騒がしいわよあんた達。一体何の喧嘩よ」
「ちょっと神奈子! あんたも早苗を説得してよ!」
「神奈子様! 諏訪子様を説得してください!」
両者の顔が勢いよく、同時に神奈子の方を向き、同じようなことを頼んでくる。
問われた方は何のことだかわからず、瞬きを一つして、
「説得って? あ、待ったストップ。一人ずつでいい。まずは諏訪子」
「早苗のカナヅチを特訓で克服させるのよ! あんたも手伝って!」
大きな帽子の下で、諏訪子が目をつり上げて怒鳴る。
「カナヅチを克服する特訓?」と、神奈子が詳しく話を聞く前に、早苗がたまりかねたように、
「なんでですか! 泳げなくたって、人間生きていけます!」
「あんたはもう神様に片足浸かってるでしょうが!」
「泳げない神様だっていていいはずです!」
「よくない!」
そんな感じで、またもや険悪な調子で睨み合う二人に、神奈子は頭をぽりぽりと掻いて、
「じゃあ早苗。あんたが諏訪子を説得してっていうのは、その特訓とやらを止めさせてくれ、ってこと?」
「お願いします神奈子様。私他のことなら何だって頑張りますから、泳ぐのだけは」
「こらぁ早苗! 神奈子に叱られた時は私に泣き付くくせに、都合のいいときだけそっち行くの!?」
「だってだって、諏訪子様のはちゃんとした筋が通ってません! 私にだって絶対譲れない嫌なことくらいあります!」
「ああみっともない。泳げないから助けてくださーい、なんて泣き付いちゃって。やーいやーい、お前の母ちゃん神ー奈子」
「いいですもーん。諏訪子様より神奈子様の方が、お母さんっぽいですしー」
「なんだとぉ!」
「きゃあ!」
「落ち着きなさいって二人とも」
突進してきたカエル帽を、神奈子は片手で押さえ、自分の背中に慌てて避難する風祝に聞いた。
「そもそも、なんで今になって、泳ぐか泳がないかって話になったのさ。もう夏の盛りは過ぎてるし、それに去年だってチャンスはあったわけでしょ」
早苗は黙ったまま、神奈子の後ろから、諏訪子に恨めしげな視線を送っている。
神奈子が諏訪子に視線を戻すと、彼女はふくれっ面で、畳みに落ちていた新聞を拾い上げた。
知り合いの天狗が定期的に届けにくる、『文々。新聞』だ。日付は今日のもので、神奈子はまだ目を通していない。
はて、と思いつつ、神奈子はそれを受け取って、一面の見出しを読み上げる。
「『カッパピアーウー』ついに開園? 大型屋内外プール施設……」
「そうよ神奈子。私がプロデュースして、河童に造らせてたの。非想天則の次なる計画で、予定より工事が遅れたけど、あと三日で開園する」
「ああ……もしかして、これが前諏訪子が言ってたプレゼントってやつ? 何か内緒で造ってるみたいだから気になってたんだけど」
「そうそう! 神奈子も気に入ってくれるでしょ!?」
「ふぅん、なかなか良いアイディアじゃない。残暑はまだ続くだろうし。守矢のプロデュースってことになれば信仰もまた増えるだろうし、うまくやれば核融合エネルギーで温水プールにして、冬まで開けるし。ベリーグーよ」
「さっすが神奈子! 話がわかる! それなのに……」
ぎろっ、と諏訪子の帽子の目玉が、もう一人の方を向く。
「だからって、私が行く必要ないじゃないですか。プールなんて……泳ぐのなんてまっぴらです!」
と、守矢神社の現人神は、半泣きで拒絶した。
○○○
話は約一時間前。緑に染まる髪を伸ばした、青と白の巫女服の美少女(本人談)が、外の掃き掃除をしていた所から始まる。
その日、守矢神社で一番に起きた東風谷早苗は、朝ご飯の支度の前に、境内の石畳に散った葉を、箒で払っていた。
幻想郷に来たばかりの時は、慣れないことや戸惑うことも多かった。
だが今では、ここから望める大自然も、ジェット機のかわりに妖怪が飛んでいる空も、目に馴染んだ光景となっている。
時々、紺碧の間を素早く動く黒い点は、夏を名残惜しむ蝉ではなく、新聞の朝刊を配り飛ぶ鴉天狗である。
その点の一つが、風切り音とともに近づいてきて、早苗は掃き掃除の手を止めた。
赤い靴、黒のミニスカート、白のフォーマルシャツが、残像となって眼前を過ぎ、
「お早うございます。清く正しい射命丸です」
「お早うございます。清く正しい東風谷早苗です……なんちゃって」
軽やかに石畳に下りたった鴉天狗から新聞を受け取り、早苗は会釈した。
「いつもご苦労様です。朝のうちに幻想郷のあちこちを回るのは大変でしょう」
「いえいえ、天狗にとっては一っ飛びですよ。それにこの神社はいいお客様でして、私以外の天狗にも人気なんです」
「あら、どうしてかしら?」
「いつも違う方が出迎えてくださるので、退屈しません。一度に三人にお会いできた日は、ラッキーデーとなってます」
「まぁ」
早苗はくすりと微笑して、今日の新聞の一面に目を通した。
ほんの少しだけ、表情が変わる。
「『カッパピアーウー』……? 」
「ええそうです。私も昨日、先行公開日に泳いできました。山に住む者の特権ですよ。なかなか楽しくて、羽目を外してらっしゃる上司も結構いました」
「なんですこれ?」
「え、まさか知らないんですか?」
びっくり仰天する文に、早苗が小さく首を振るのと、神社の奥から慌ただしそうに跳ねてくる音がしたのは、ほぼ同じタイミングだった。
「あ、やっぱり! ついに宣伝が来た!?」
一度見たら忘れられない、コミカルな目玉が二つついた大きな帽子。
それを頭に被る本体は、本紫と白に蛙の柄をあしらえた、袖の大きな壺装束。
肩まで切り揃えた金髪の、幼い女の子の姿をした存在である。
守矢神社に住む神の一柱、洩矢諏訪子だった。
彼女は新聞を手に取って、四つの目を皿のようにして記事を眺め、
「うんうん、上出来上出来。ここの写真がピンボケしてるのは、意図的?」
「あやややや、ご明察です。何しろ目玉アトラクションですし、天狗の間で情報規制が敷かれましてね。フライングした者は今後一切遊べなくなるということで、今のところ違反者は出ておりません」
「あ、天狗も結構気に入ってくれたんだ。最後まで反対してた、あのごっつい大天狗はどうだった?」
「大型ジェットスライダーで『ぬはははは!!』と野太い声で楽しんでらっしゃいました」
「ならOKね。ご苦労様。残りも回ってらっしゃい」
「ではお言葉に甘えて、失礼いたします。今後とも『文々。新聞』をよろしく!」
鴉天狗の記者は風となって、東の空にあっという間に飛んでいった。
残った二人、緑巫女の方は、ぽかんと空を見上げていたが、やがて隣の存在に聞く。
「あの……諏訪子様?」
「……ふっふっふ」
諏訪子は早苗に向かって、「じゃーん!」と新聞を広げた。
「驚いた!? 早苗と神奈子には内緒にしてたの! こんな凄いプール、外界でも見たことないでしょ!」
新聞紙の端から、一点の曇りもない笑顔を見せる神様に、早苗は頬の端を引きつらせた。
諏訪子は神社の母屋へと歩き出しながら、記事を読み進める。
「大人から子供まで、妖怪から神様まで、誰もが満足できるレジャースポット! この看板に偽りは無いわ」
「………………」
「流れるプールも波のプールもスライダーも、全部河童の技術と私のアイディアが詰まってるの。動力は核融合エネルギーを応用していて、運営資金も守矢神社に一切負担は無いから安心して」
語調も歩調も弾ませて、諏訪子のプールの解説は続く。
最後に早苗の方を向き、大きくぴょんと近づきながら、
「じゃあそういうことで、三日後の一般開園式には、早苗もちゃんと参加すること。その前日は三人で一日中泳いで……」
「諏訪子様……」
「あはっ、御礼なんていいってー。早苗もこっちきてちゃんと頑張ってるし、神奈子にだって迷惑もかけてるし、ほんの気持ちみたいなものよ」
「諏訪子様」
早苗はもう一度、はっきりと声に出した。
これから紐無しバンジーに臨む生け贄のような、あるいはその存在を後ろから突き落とす役になったような、非常に心苦しい心境で、
「もしかして……言ってませんでした?」
「なにを?」
「…………中でお話しします」
負のオーラを背中に乗せた状態で、早苗はよろよろと歩く。
諏訪子は不思議そうに首を傾げ、後に続いた。
約五分後。
居間で早苗がその事実を告げた途端、蛙の神は荒ぶる神へと変貌した。
○○○
「『泳げない』ってどういうことよ!! あんたそれでもうちの神社の巫女なの!?」
「関係ないじゃないですか! 私は風祝であって、水祝じゃありません!」
「関係あるわよ! 私は蛙の神で神奈子は蛇の神。その間のあんたが泳げないなんて知られたら、恥ずかしくて尻から火が出そうだわ!」
「げ、下品な隠し芸披露しないでください! それを言うなら、顔から火が出そうでしょう!」
「ちょ、ちょっと言い間違えただけでしょ! ええい、神の揚げ足を取るとはなんたる傲慢! 裏の湖で根性叩き直してやるわ!」
「きゃあ! 神奈子様、助けて!」
「あー、待った待った」
神奈子は嘆息し、争いに割って入った。
自分を中心にぐるぐると回り始める、二人の家族衛星に向かって。
「とにかく、事情はわかったわ。両者の言い分についても聞いた。早苗、ちょっと話があるから来なさい。諏訪子、あんたは外で頭でも冷やしてきなさい」
「このうだるような暑さの中、どこで頭を冷やせと!」
「一泳ぎしてくればいいじゃない。朝飯の前に、軽く運動してきたら?」
「……じゃあ神奈子! 頼んだわよ! 早苗を早いとこ説得してね!」
諏訪子は肩をいからせ、帽子の上から湯気を立てて、部屋から出て行く。
その姿を見送った神奈子は、居間から一歩出て、むくれている早苗を、ちょいちょいと手招きした。
母屋の廊下を歩き、奥にある襖を開けると、特に変わり映えのない自室へと繋がる。
素直に後をついてきた気配に、神奈子は適当な座布団を放り、
「ここなら諏訪子に声は通じない。何を話したって構わないよ」
「ありがとうございます、助かりました、神奈子様」
受け取った座布団の上にきちんと正座して、早苗は頭を垂れた。
あぐらをかいて対座する神奈子は、その様子を見て、鼻でため息をつき、
「それにしても、やっぱりまだカナヅチだったんだねぇ」
「…………すみません」
「謝らなくたっていいよ。さっきあんたが言ってた通り、泳げなくたって人間失格なんてことはあり得ない。けど諏訪子は泳ぐのが本当に好きだからね。まぁあの様子を見れば分かるか」
「私はまだ……怖いです」
「……やっぱり、小さいときのこと引きずってるのね」
神の面持ちに、同情の念が混じる。
実は、この幻想郷で、早苗が泳げない事情を知る唯一の存在が、神奈子なのである。
まだ早苗が外の世界の幼稚園に通っていた頃のことだった。彼女は近くの川で行われた水泳で、見事に溺れてしまったのである。
帰りの遅い彼女が、夜中に病院から運ばれてきたのを見て、神奈子は自分がついて行かなかったことを、心底悔やんだものだ。
その事件がトラウマになって以来、早苗は水泳というものに、大の苦手意識を持ってしまったのだった。
外の世界では長く眠りについていて、幻想郷に来てから早苗と出会った諏訪子は、そのことを知らない。
供え物の駄菓子の味とかはしっかり覚えている割に、自分の神社の巫女には、意外と疎いのである。
「ふむ」
神奈子はうなずいて、二呼吸ほど黙考した後、一つ提案してみた。
「どう、早苗? この機会に、もう一度泳ぎに挑戦してみない?」
「ええっ!?」
カナヅチの風祝は、世界の終わりが来たようなうろたえぶりを見せた。
「かっ、神奈子様までそんなこと仰るんですか? ひどいっ! 信じてたのに! 青い空を返して!」
「まぁまぁ、話は最後まで聞きなさい。裏の湖なら私も諏訪子も力が十分に働くから、ほぼ間違いなく邪魔されることはないし、見つかることもない。諏訪子の言うとおり、あのプールは信仰を集めるにもよい機会だし、今回のことは、泳ぎを覚えるには絶好のタイミングよ」
「でも……」
「それにさ」
神奈子は内緒話をするように、小声でニヤニヤと早苗に告げる。
「あいつはあんな風に怒って見せてるけど、本当は早苗とプールで遊びたくて仕方ないだけなのよ」
「諏訪子様が、ですか?」
「そ。それができなくなりそうで焦ってるから、あんな風にムキになってるわけ。ふくれると活火山みたいになるからねあいつは。でも早苗に幻滅してるわけじゃないし、がっかりしてるだけじゃないってことも分かってやってちょうだい」
「…………」
「もちろん特訓には私も協力する。あいつが暴走して何か起こりそうだったらフォローしよう。それでも嫌?」
体を引いて、答えを待つ神様に、風祝の方はしばらく唇を噛んで考えていた。
が、ついに折れたようで、肩を落とし、
「わかりました。でもちゃんとフォローはしてくださいね」
「オーケー牧場。じゃ、諏訪子を呼んでくるわ。ああその前に、水着を準備しなきゃね。えーと、私のはどこにしまったかな」
鼻歌まじりで立ち上がって、神奈子は部屋の和箪笥を開けたり閉めたりし始めた。
それを見つめる早苗は、首をかしげる。
ひょっとしたら、目の前の神様も、自分と泳ぎたかったりしたんだろうか。
そんなことを思ったりして……。
2 特訓の時は来た
守矢神社の裏には、外界から引っ越してきた時に一緒に引き連れてきた、諏訪湖の一部が存在する。
妖怪の山は、幻想郷の空を大きな頭で支えられるほど高く、生活に場所を取る天狗も河童も多数生活できるほど広い山なので、湖一つを許容することは難しくなかった。ここに来てから、湖水の色もだいぶ綺麗になり、生き物も元気に暮らし、何より三方を山林に囲まれていて、東から下界を見下ろせるので眺めも良し。守矢神社の中でも、特に大事な財産となっていた。
そしてここが最も気に入っているのは、この湖の化身ともいえる神様。
「あはっ、こりゃまた絶好の水泳日和ね!」
と腰に手を当てて湖を前に仁王立ちするのは、神聖カエル王国の女神の異名を持つ、洩矢諏訪子である。
おなじみの帽子の下の表情は、ほくほくの笑顔で、今朝の不機嫌な態度などどこ吹く風、な感じだった。
ただし彼女の服装は、いつもの紫と白の和装ではなくなっていた。水着は水着……なのだが、
「……何でスクール水着なの、あんた」
と呆れた口調でツッコミを入れるのは、彼女に続いて岸を歩いてきた八坂神奈子。
いつもは豪快に伸ばし広げている青髪を、後ろで縛ってまとめ、深緋色の上下の水着を、違和感なく着こなしていた。
「しかもその水着、昔の早苗のでしょ」
「いいじゃん。これ本当にサイズぴったりなんだもん。全然いたんでないし」
諏訪子は「3-2東風谷」と書かれた水着を、ちょいとつまんで見せた。
「ま、この湖で泳ぐんなら裸でも構わないんだけど、早苗が止めてくださいって言うから」
「当然です」
三番目の声がして、二柱は振り向いた。
今回の特訓の主役である、守矢の巫女が神社から歩いてくる。
「水着なんて着たの、久しぶりです。あの、変じゃないですか?」
そう聞いてくる早苗は、ふちをブルーで染めた、ホワイトの水着を着ていた。
上下に分かれたビキニスタイルではあるが、どことなく巫女らしいというか、露出が低俗にならない程度に抑えられている。
が、若さに許された肌の瑞々しい生命力までは隠せていない。着ている当人は少し気恥ずかしそうである。
彼女に水着を用意した諏訪子は、じろじろと早苗の姿を眺めてから、
「……早苗、ちょっと太った?」
「えっ、嘘!」
「嘘。ちょっと言ってみただけ。サイズも合ってるし、似合ってるわよ」
「も、もー! 諏訪子様ったら、脅かさないでください!」
早苗が笑って追いかけ、諏訪子も嬉しそうにケロケロと逃げ出す。
二人の様子を見て、神奈子は一安心した。諏訪子の機嫌は直ったし、早苗も水を前にして、今朝のようにふさぎ込んだりはしていない。
上手くいくかはわからないけど、とりあえず幸先は良い感じだ……と考えていたところで、
「……おや」
神奈子は微笑を消し、湖の反対の岸、はるか遠くを睨んだ。
守矢神社から湖までを覆う結界に、自分たち以外の気配が入り込んでいる。
「あれ、何しに来たんだろうね」
諏訪子も気付いたらしく、走り回るのを止めて、同じ方角を向いている。
早苗だけが何のことか分からず、不思議そうに二人の様子を眺めていた。
神奈子の結界に、侵入者からのコンタクトがあった。向こうは直接話し合いたいらしい。
こちらからもそれを許可すると、間をおかずに耳障りな音を立てて、空間が大きく、斜めに裂けた。
リボンを境に切り裂かれた湖の奥、幾多の目が覗く混沌とした世界が、晴れた陽気の中に割って入る。
その開いた空間の中に、三つの影が浮かび上がった。
溢れ出る妖気の濃さは、その存在の格を如実に現している。
神奈子や諏訪子、二柱の神に一人の現人神といえども、油断は許されぬレベルの存在であった。
……が、
「……ん?」
神奈子は片眉を上げた。
現れた三人の先頭、その女性は妖怪だった。波打ち輝く金髪を腰まで伸ばし、奥深い美貌は妖艶な笑みを浮かべている。
幻想入りした際に、神奈子はその妖怪から挨拶を受けた過去があった。幻想郷の賢者と呼ばれる、スキマ妖怪、八雲紫。
しかし彼女の服装は、なぜか水着であった。
紫の布地を黒のレースとリボンで結んだビキニで、色気の塊のような肉体を少女チックに包んでいる。リボンを無くして、肩に乗せたパラソルと合わさると、まるで外界のレースクィーンようであった。
彼女の後ろに続くのは、金のショートカットの狐の妖獣、正確には式神だ。
背後から覗く九つの尾を別にすれば、前を行くスキマ妖怪と同じような体型の女性の姿をしており、こちらもライトブルーにホワイトラインが入った、スポーツタイプのタンキニ。すなわち泳ぐ気満々の格好である。
すらりと伸びた手足に均整の取れたグラマラスな肉体。
そんな彼女達と対照的な、背の低く、まだ幼い外見の少女が手を引かれて歩いてきた。
茶色い髪の毛の間から黒の猫耳を生やした、化け猫の式神である。
薄くフリルのついたオレンジのワンピース水着で、背後から細く黒い尻尾が二つ見えていた。
彼女だけは、どことなく不安げな表情を浮かべている。
「こんにちは、本日はお日柄もよく」
先頭に立つ妖怪は、日傘をさしたまま、胡散臭い声で挨拶してきた。
「いらっしゃい。こんな格好で失礼……といってもお互い様か」
挨拶を返す神奈子は、守矢の結界に分け入ってきた存在にも慌てたところはなく、隣の諏訪子の肝も、据わったままである。
唯一、早苗だけが、呆然として口を開く。
「貴方は確か……八雲紫さん?」
「ええ。この前の宴会以来かしら、東風谷早苗さん。うちの式達を紹介するわ」
「八雲藍です。以後お見知りおきを」
「はじめまして、藍様の式の橙です」
「あ、東風谷早苗です。守矢神社の風祝をしています」
腰を曲げてうやうやしくお辞儀する二人に、早苗も丁寧な返礼をする。
神奈子は式の式、水着を着た化け猫の少女に目をやって、
「スキマ妖怪に、九尾の狐……そっちの小さい子も、前にここに来たことがあったね」
「実は今日この橙に、泳ぎを教えるつもりですの」
「へぇ……奇遇ね。うちの早苗もこれから泳ぐ練習をするのよ」
「それはそれは奇遇なことですわ」
「ふぅん」
神奈子の口元に、自然と太い笑みが浮かんだ。
果たして本当に偶然だろうか。幻想郷の賢者という二つ名は聞くが、決してこの妖怪は、気を許していい存在ではない。
いや、ある意味この地で、もっとも注意を払わなくてはいけない危険な存在が、スキマの大妖怪だと、神奈子は常日頃から思っていた。
諏訪子は外交役を友に任せたつもりらしく、妖怪三者の姿を、少し値踏みするように眺めている。
早苗の方は……脳天気というか、猫の少女に興味が大ありなようで、話しかけたり質問したりするタイミングを窺っている様子だった。
神奈子は彼女がそうする前に、
「察する限り、あんた達がここに現れたのは、この湖を泳ぎの練習に使わせてくれってことかしら」
「そういうことですわ。よければ、向こう岸の一角を貸していただけません?」
「気のせいか、何か企んでいるようにも見えるし、何も考えていないようにも見える」
何しろ、あの八雲一家が、白昼堂々守矢のプライベートな空間に現れたのである。はっきり直感に従うならば、怪しいことこのうえない。
しかし、水着で慇懃に水泳の場を借りに頼んでくるというこの状況を、真面目に考えても馬鹿馬鹿しい気もした。
無論、それすらも狙いだという可能性も捨てられないが。
神奈子はもう一人の神に、目線で聞いてみた。
受ける諏訪子は、肩をすくめて、落ち着いた口ぶりで、
「別に追い返す理由もないわね。我が心は諏訪湖よりもずーっと広い」
ほんとかね、と神奈子は内心で思ったものの、彼女の言にうなずき、八雲一家が湖を使うのを、ひとまず許すことにした。
「ご協力感謝いたします。それではお邪魔にならぬよう、この場は失礼しますわ。後ほど少しばかりのお礼を差し上げることも考えています」
「期待してるよ。それじゃ、何かあったらまた声でもかけとくれ」
開いたスキマの向こうへと、八雲一家は一礼して去っていった。
彼女達の姿が消えても、神奈子は油断無くその場を動かずにいると、それまで黙っていた早苗が聞いてきた。
「神奈子様、あの猫ちゃんと知り合いなんですか?」
「ん、まぁ前にちょっとね。仲良くなりたいなら、また後で話しかけてみたら?」
「向こうで飼っていたミィちゃんも、今ごろはあれくらいになってるんじゃないかなって思って……」
「……冗談よね?」
「冗談ですよ。そんな顔しないでください」
くすくすと笑う早苗に、神奈子はこほんと咳を一つして、
「早苗。あの猫の子はただの化け猫ではない、式神だ。式神というのは普通水で効力を失うものだし、先天的に妖猫というのは水と相性が悪いと聞く」
「そうなんですか? じゃあ、どうやって泳ぐ練習をするんでしょう」
「さぁ。あの一家の目的が本当にそれなら、何か策はあるんでしょうけど……あ」
神奈子は、八雲一家が隠れて泳ぎの練習をする理由に思い当たった。
「もしかしたら、向こうも私達と事情は同じなのかもしれないね。諏訪子のプールの影響は、色んな所にあるらしい」
大人から子供まで、妖怪から神様まで、誰もが満足できると宣伝するレジャースポット、『カッパピアーウー』。
それは、水を弱点中の弱点とする式の子にも、特訓に向かわせるだけの魅力があったのではなかろうか。
神奈子はニヤリとして、自分の家のカナヅチに言った。
「あんな小さな子に負けてちゃいられないよ、早苗」
「わかってます。私もなんだかやる気がでてきました」
早苗は拳をぐっ、と前で握って、特訓に臨む意気込みを見せる。
「もう一つ目標ができたね、早苗……」
出し抜けに発言したのは、もう一方の神様だった。
腕を組んで対岸を睨み据える諏訪子。何やら大まじめな顔つきである。
「どうしたんですか、諏訪子様」
「いい? よく聞きなさい。あの胡散臭いスキマ妖怪のプロポーションは、大体こっちの熟女キャラと一致するわ」
「おい待て。誰が熟女キャラだ。オンバシラで縦に殴んぞ」
「そして私の体型は、あっちの式の猫ちゃんの方と同じくらい」
目を吊り上げる神奈子を無視して、諏訪子はしたり顔で続ける。
「戦闘力のバランスはここまで互角。しかし、一つだけ私達一家が、遅れをとっているポジションがある」
「はぁ」
「早苗、あんたのこと言ってるのよ。だからあんたは、あの狐の妖怪並の戦闘力を目指しなさい」
「…………………………」
「…………………………」
「………………はいっ!?」
諏訪子の言っている意味を理解した早苗は、裏返った声で聞き返した。
「目指すって、まさか、あの体をですか!?」
「そう、あの体よ。あんたもまだ成長してるんだから、道は閉ざされてないわ」
「険しすぎます! だってあの狐さん漫画みたいな体型だったじゃないですか! 胸はツインメロンだし、お尻はビッグピーチだし! 尻尾なんてアイテムまで!」
「そこよ。あの多すぎる獣の尻尾はアピール的に諸刃の剣でもあるわ。夏の解放的な爽やかな空気の中で、あの毛深さは暑苦しさを想像させうる。だからあんたが同等まで体型を引き上げれば、決して勝てぬ相手では……」
「真面目な顔して、どっかのエロオヤジみたいなこと言わないでください!」
顔を真っ赤にして、早苗は洩矢神の帽子を思いっきり引き下げた。
「もう! 諏訪子様はそうやってふざけてばかりで!」
「あはは、ごめんごめん。まぁ、あんまり大きくても、泳ぐのに邪魔だしね。でも早苗が成長したら、ちゃんとサイズの合う水着買ってあげるわよ」
「これからずっとそういうこと言うなら、もう水泳の特訓なんてしませんからね」
「それは勘弁。じゃあまずは、準備体操から始めようか。こっちが浅いから、来て来て」
「あ、待ってください」
岸辺を跳ねていく諏訪子に、早苗も駆け足でついていった。
ちなみに神奈子は離れた位置で、「熟女……少女……せめてその間くらいは……」とブツブツ呟いていた。
3 守矢一家の水泳特訓
お客さんだったり何だったりで、多少の足踏みはあったものの、ついに守矢一家の水泳特訓が始まろうとしていた。
三人は湖の浅瀬の前に集まって、準備体操を行う。
「いっちに、さんしっと。早苗! 今日の目標は、平泳ぎよ!」
ストレッチで腕を伸ばしながら、諏訪子ははきはきした声で言った。
「やっぱり平泳ぎか。何にせよ、カナヅチの人間には、ちょっとハードルが高いんじゃないかしら……」
とこれは、膝の屈伸をする神奈子。
けれども、同じく膝を伸ばす早苗の意見は、違うようである。
「あの、せめて泳ぎを一つだけでも覚えられたらいいな、と思います。そうすれば、後々恥ずかしい思いはしないですみそうだし……」
「よしよし、いい心がけね」
「あ、でも平泳ぎはちょっと嫌です。なんか見た目がダサい気がするし」
「こら! カナヅチのくせに偉そうな注文つけんじゃないの!」
ビシッと神の説教。これには全く反論できず、早苗はうっと怯んだ。
諏訪子は突きつけていた人差し指を引っ込めて、得意げに小さく振りながら、
「それに、早苗は勘違いしてるわよ。平泳ぎはカッコ悪くないわ。きちんと泳げる者の姿は、可憐にして優美。息継ぎも比較的簡単だし、水にこれほど親しめる泳法もないんだからね」
「そうなんですか?」
「そう。体も引き締まってプロポーションがよくなるのよ」
「プロポーション、うーん……」
「論より証拠。私のカッコいい泳ぎをとくとご覧あれ」
諏訪子がスクール水着の「東風谷」の上を、どんと拳で叩く。
彼女の宣伝文句と自信満々な態度に、早苗も少し興味が湧いてきた。横の神奈子の方をちらりと見てみると、
「ま、諏訪子の方が私より泳ぎが上手いのは間違いないわ」
と、さほどこだわりのない口調で、同じ神様の実力を認める。
これを聞いて早苗は、改めて本日の特別コーチに頼むことにした。
「では、お願いします諏訪子様。私にカッコいい平泳ぎを教えて……あ、その前に実際に見せてください」
「もっちろん! それじゃ、行くわよ!」
諏訪子は湖の端まで、とと、と走り寄り、突然パッと頭の帽子を脱いで、遠くに投げた。
「どりゃあ!」
気合いの声とともに、紺のスクール水着が、青い湖面の下に飛び込む。
跳ねた水しぶきが、陸にいる早苗達の元まで飛んできた。
ごう、と水の『うなり声』がした。
激流が起こり、その中心部で黄色い影がびゅん、と移動し、白い泡で出来た大波が後方へと巻き上がった。
ぎゅん、ぎゅん、ぎゅん、と秒刻みで約十メートルずつ移動する影は、UFOが空をワープするかのように、色づいた湖の中を縦横無尽に出没する。
最後の一蹴りで、諏訪子の体は水面へと飛び出し、破砕音の中で風に揺れていた帽子を、見事頭でキャッチして、勢いのまま空から岸に戻ってきた。
体についた水滴を拭おうともせず、実に爽やかすっきりな顔で、
「あー! チョー気持ちいい!! どう早苗!? カッコいいでしょ平泳ぎ!」
「無理ですっ!!!」
早苗は険しい顔で絶叫した。
「それは平泳ぎじゃないです! 私が地上を走るよりも圧倒的に速いじゃないですか! 最後の動きなんて、対空魚雷みたいでしたよ!」
「平気平気。神のパワーとちょっとしたコツがあるだけよ。早苗ならできるようになるって」
「百万歩譲ってできるようになったとしても、自慢にならないし知り合いに絶対引かれます!」
「河童にはモテるよ? いや本当に」
「別にモテたいと思いません!」
早苗がぶんぶん首を振ると、諏訪子はついに、ぷく~と膨れてしまった。
その後ろから神奈子が、両腰に手を当てて歩いてくる。
「まぁいきなりあれじゃ怖じ気づくのも無理はないよ。平泳ぎを目指すのもいいけど、まずは早苗の意思を尊重しなきゃね。どれ、私がいくつか型を見せてやろう」
「あー! 神奈子ずるい! コーチの役目を横から奪う気ね!」
「神奈子様、お願いできますか?」
「早苗までー!?」
ムンクの叫びのポーズで嘆く諏訪子に、早苗はすかさず弁解する。
「あの! 諏訪子様の泳ぎは本当に凄いと思いましたし、正直ちょっと見直しました。けどあれはレベルが高すぎます。まさしく神の平泳ぎです」
「…………」
「本当に格好良かったし、いつか身につけられたらいいな、と思ってますよ。だからその時はよろしくお願いします!」
「……ふむ、そういうことならよろしい」
と、早苗の必死の説得に、あっさりと相好を崩す洩矢神。
「じゃ次は私の出番ね。まずはクロール。早苗、見てなさい」
神奈子は低く、鋭く湖に飛び込み、リズミカルに水をかき泳ぎ始めた。
むやみやたらに音を立てず、抵抗など感じていないかのように、水面を滑るように進んで行く。
素人目にも美しいフォームであることがわかるし、なにより速い。
「わぁ……すごい。神奈子様も泳ぎが上手なんですね」
「………………」
「あ、もちろん諏訪子様の方が凄いと思いますけど」
「気を遣わなくたっていいって」
諏訪子は苦笑して、早苗の足をちょいとつつきつつ、
「ああ見えて、神奈子ってスポーツ万能だからね。クロールだけじゃなくて、平泳ぎも上手いのよ意外と」
「そうなんだ。えーとあと何でしたっけ。バタフライ? もできるんでしょうか」
「もちろん。見たいんならリクエストしてみたら?」
「じゃあせっかくだし……神奈子様ー! バタフライも見せてくださーい!」
呼びかけに応じて、神奈子の泳ぎが変化した。水面を両側から撫でるように、腕を大きく同時に動かし、体を波打たせて進む。
さっきよりもさらに迫力ある泳ぎっぷりである。
「すごい! じゃあえーと、背泳ぎでしたっけ。背泳ぎお願いします!」
神奈子はすぐに仰向けになり、腕を後ろ回しに変えて泳ぎ始めた。今度はバタフライよりも大分しなやかな動きである。
さらに途中でターンまで決めて、神奈子は泳ぎ続ける。
早苗が歓声を上げる横で、今度は諏訪子が口でメガホンを作って、
「神奈子ー! 片抜手ー!」
「片抜手? なんですそれ」
「そういう泳ぎ方もあるの」
神奈子は、体を横向けにし、片手クロールと平泳ぎの足を組み合わせた、不思議な泳ぎ方を始めた。
クロールほど速くないが、しかし見ていて楽しい泳ぎ方である。
「すごーい! じゃあ神奈子様! 白鳥できますか!?」
早苗の珍妙なリクエストに、神奈子は泳ぎを中断して、体を起こした。
一見、水の中で立ったままでいるように見えるが、よく観察すれば、水面下において立ち膝で、足を素早く動かしているのが分かる。
上半身は優雅に、すいーっ、と水面を移動していた。
まさに白鳥。諏訪子がぶっと吹き出した。
「あはは! リクエストする早苗も凄いけど、やる神奈子も凄いわ!」
「諏訪子様! 諏訪子様も何か希望は無いですか!?」
「じゃあ神奈子! 飛行中のウルトラマン!」
神奈子はシュワッチとY字体系になって、バタ足を始めた。
きゃあきゃあ、と喜ぶ二人の注文は、さらにエスカレートしていく。
「神奈子様! 犬神家できます!?」
逆さまになって、両膝から下だけ水面から突き出す神奈子。
「神奈子! スピニングバードキック!」
水面から出た神奈子の両脚が、ぐるぐると回転。
「次はぼのぼの君やってください! あ、シマリス君でもいいです! いぢめる? のポーズ!」
「神奈子! リヴァイアサンやって! フィーリングで! ……おお!? 確かにそれっぽい!」
「じゃあジョジョ立ちでお願いします! すごい、水面に立ってるし!? 山吹色の波紋がっ!?」
「ならそのまま厄神泳法よ! もっと速く速く! トルネード泳法の方がネーミングいいかな!?」
「神奈子様! ガンキャノン泳法でよろしくお願いします!」
「よーし神奈子! お次はオンバシラ泳法行ってみようか!」
「いい加減にしなあんたら!!!」
ついに泳ぐ神様はキレたらしく、本物の御柱が、陸の二人目がけて飛んできた。
○○○
「さて、本題からちょっとずれたけど! あらためて洩矢諏訪子の水泳道場の始まり始まりー!」
と、スクール水着の神様は、拳を「おー!」と突き上げて、特訓開始の音頭を取った。
もっとも、そこまでテンションが高いのは彼女だけであり、残る二人はどちらもポーズに付き合あわずに、ぎこちない拍手をしただけであった。
それが不満だったらしく、諏訪子はもう一度拳を上げて、
「早苗! おー!」
「お、おー……」
仕方なさそうに、恥じらいつつも、早苗は小さく拳を上げる。
「神奈子! ダァーッ!!」
「なんで私には猪木なのよ!」
反射的に放たれた神奈子の闘魂ビンタを、諏訪子はひょいと身軽にかわしつつ、
「じゃ、ま、そういうことで。えーと何から教えてあげようかな。息継ぎとか浮き方とか手足の動かし方とか……」
「そもそも早苗のカナヅチレベルがどれくらいかを計らないと、教えようが無いでしょ」
「あ、そうね。早苗、あんた全く泳げないの?」
「全く泳げません」
早苗は自信たっぷりにのたまった。
「威張ってどうすんのさ。じゃあ、足がつかない場所で浮ける?」
「浮きません。だからカナヅチというんです。たぶんあっという間に沈みます」
地球は回る、世界はそういうふうに出来ている、とでも言いたげである。
あまりと言えばあまりな答えに、諏訪子はがっくりと頭を垂れた。
帽子をいじりながら、あー、やら、うー、やら唸ってから、
「……お風呂には入れるよね」
「入れます。というか、そこまでレベル下げられるとさすがに悲しいです」
「だってあっちの式の子は水アレルギーみたいなもんでしょ。次はえーと、そうだ。頭全部水に浸かって、目を開けられる?」
「ちょっと自信がないかも……」
早苗の表情から自信が抜け、困ったようにあごに指を当てる。
つまり彼女のレベルは、典型的に泳ぐのがダメな人、であると、神様達は判断した。
「よし。じゃあ早苗。あんたの第一歩は、まず水に慣れることよ。さ、来て来て」
諏訪子は早苗の手を引いて、湖に入っていく。
「わ、結構冷たいですね」
「涼しくて気持ちいいでしょ。今日は気温が高くなりそうだし、泳いでるうちに気にならなくなってくるわよ。でもカナヅチの早苗は、それができるようになる前に……」
身長的に首まで浸かった神様は、大きな声で宣言した。
「第一ステージ、水中にらめっこ!」
「水中……にらめっこ?」
単語の組み合わせに嫌な予感がした早苗は、まだ競技が始まってもいないのに複雑な表情になる。
「そうよ! 水の中でにらめっこするの。息を止める練習と目を開く練習。カナヅチさんは、まず水に慣れなきゃね」
「はぁ」
「笑ったら負け。息が続かなくなっても負け。笑うのを我慢したら、嫌でも酸素を消費するし。ちょうどいい特訓でしょ?」
「参考までに聞きたいんですけど、諏訪子様は何秒くらい潜ってられるんですか」
「うーん、覚醒状態なら、半年くらいかな」
「単位が違う! 私は十秒すら怪しいんですってば!」
たまらず抗議する風祝に、神様の方はケロっとした顔で、
「まぁまぁ、私を笑わせたらすぐに負けになるんだからいいじゃない。さ、やろやろ」
「しょうがないですね……あ、息止めのコツとか教えていただければ」
「おお、そっちが先だったわね。水に入る前に大きく口から吸って止めて、水の中では鼻からほんの少しずつ息を吐くの。そうしないと鼻に水が入ってくるから要注意」
「口から吸って、鼻から出す……」
「そうそう、慣れれば無意識に出来るようになるわ。あとは水を怖がらないことね。とにかく大事なのは体をリラックスさせて、十分に気合いを入れること! 以上!」
「わかりました。じゃあちょっと待ってください。変顔選びますから」
「……そっちに気合い入れるんだ」
背中を向けた早苗に、今度は諏訪子の方が困った笑みになる。
さて、そんなほのぼのとした練習風景を、神奈子は陸で休憩がてら、麦茶を飲みながら眺めていた。
「諏訪子ー、あんまり無理させんじゃないわよ」
「わかってるってー」
諏訪子は元気に手を振って答えてくる。
だが、あくまで神奈子は、早苗の一挙一動を、油断の無い瞳で注視していた。
カナヅチが直るなら、それに越したことはない。しかし当人の心の傷をえぐるとなれば話は別だ。
何か危険な兆候があれば、神奈子はすぐにでも止めに入るつもりであった。
やがて、早苗は準備を完了させたようで、諏訪子とのにらめっこ対決へ向かおうとしていた。
「じゃあ行くよ。せーのっ」
「にーらめっこしーましょ!」
「あっぷっぷ!」
緑と黄色の頭が、水中に消える。
神奈子は軽く腕を組んで、じっと待った。
すぐに、水面にぶくぶくと泡が立ち、ばしゃりと水が飛び散った。
「ぶはぁ! ぜー、はー!」
「早苗! 大丈夫かい!?」
神奈子はハッとなって駆け寄ったが、近づくにつれて速度が遅くなる。
「諏訪子?」
「ぜー、はー、ぜー、はー」
なんと、先に頭を出したのは、諏訪子の方だった。
次に早苗が「ぷはぁ!」と頭を出す。
「はーはー、私の勝ちですね諏訪子様」
「ぜー、はー……おのれー! もう一回だ早苗!」
「望むところです!」
何が何やらさっぱり分からない神奈子の前で、二人はまた水中へと沈む。
五秒もたたないうちに、一人がギブアップして水から頭を出す。
またも童顔の神の方である。
「ぜーはー、ぜーはー!」
「諏訪子、あんた何やってんの?」
「ぜーはー! にらめっこに決まってんでしょ!」
「そうじゃなくて、何ですぐに上がっちゃうのよ。手加減してあげてるとか?」
「違うわよ! 本気でやって負けてるんだから仕方ないじゃん!」
と、頭の帽子と共に涙目でこっちを見ながら、諏訪子はまくし立てる。
そこで早苗がまた浮上してきた。
「ぷはぁー! やりましたね! 二連勝です!」
「早苗……」
「神奈子様もご覧になりましたか!? 私の勇姿!」
「いや、全然見えなかったけど……」
「もう一回だ早苗! 次こそ絶対に笑わないでやる!」
「ふふふ、かかってきなさい諏訪子様!」
三度、水中に入っていく二人。
陸の上の神奈子も好奇心に突き動かされて、二人と一緒に潜ってみることにした。
髪の毛まで水に沈ませ、うすく緑がかった水の世界に視界が移り変わる。
別に神だけに許された能力ではないが、神奈子の視力は地上だろうと闇夜だろうと水中だろうと変わらない。
特にこの湖は透明度が高いため、遠くまで複雑な湖底の地形や、自由気ままに泳ぐ小魚たちの姿も、はっきりと見渡すことができる。
そんな湖の中、ごく近い距離、神奈子の目の前で、諏訪子がとても変な顔をしていた。
目尻を人差し指で、びーん、と釣り上げて、口を思いっきり横に広げている。元々顔の筋肉が柔らかくて表情豊かなので、普段の倍の広さの顔になっていた。
ぷっ、と神奈子の口から、泡一つ分の息が漏れる。
さて、早苗は。と横を向くと。
――…………ゴボハァッ!!?
神奈子の口から、大量の泡が漏れた。
そこにあったのは、もはや自分の知る東風谷早苗の顔ではなかった。
むしろ神奈子にトラウマを植え付けるレベルの、恐るべき変顔であった(注:詳しい描写については、彼女の名誉のため、控えさせていただきます)。
――ゴボハッ、ボハッ。
酸素が急激に消費され、あっという間にレッドゾーンに達したために、神奈子はやむなく浮上した。
ついで、諏訪子も耐えられなくなったらしく、息を求めて水から上がってくる。
ぜーはー、と乱れた呼吸を取り戻す二人に遅れて、早苗が上がってきた。
先程の顔が幻だったかのような、いつもの愛らしい表情で、
「どうでした、神奈子様!?」
「お、驚いたわ……私がこれまで見た中で一番凄い変顔だった。あれじゃスサノオもうっかり逃げ出しかねない」
「そうでしょう! 元の世界でも負け無しでした! こっちでも無敗記録を続けられますかね!?」
「でも早苗。今後にらめっこはお嫁に行くまでは止めておきなさいね。神の忠告よ」
あどけない顔できょとんとする風祝に、神奈子は真剣に訴えた。
そこに、悔しさと不満を詰めた、幼い声が割って入る。
「ちょっと早苗早苗、私の顔だって結構凄かったでしょ!? それともレベル低かった!? 神奈子!?」
「いや、諏訪子の顔もなかなかだったよ。私は慣れてるからいいけど、普通はあれだって吹き出す」
「でしょ!? でも早苗、全然笑わなかったじゃない! どうしてさ!?」
「えっ、だって、水の中って、なんかピントが合わなくてもやもやしてますし」
「………………」
諏訪子が頭を抱えこみ、神奈子も成る程と納得した。
早苗の方からは、相手の顔がよく分からない。しかし神の視力を持つ諏訪子は、早苗の変顔をマックスの状態で視界に入れてしまうのである。
これでは勝負は一方的になってしまうのは当然な話であった。
「こうなったら神奈子。水中眼鏡だ。家から探して持ってきて。早苗に私達の変顔を見せつけてやるわよ」
「…………私はごめんだね。どうしてもっていうなら自分で持ってきなよ」
自分の変顔を見てもらうために水中眼鏡とは、何というか目的がずれている気がすると思ったのだが、こっちの神様はそう思ってないようで、凄い勢いで神社に走っていった。
残った神奈子は、改めてもう一人に問う。
「早苗、にらめっこはともかく、顔に水をつけても大丈夫だった?」
「あ、はい。付けるだけなら」
「そう。いや、ならいいんだ。最初の関門はクリアしたってことね」
「そうですね。自信が出てきました!」
弾けるような明るい声を添えて、早苗は笑った。
昔から知る表情に、神奈子も思わず笑みを返す。だが心の内では、彼女の表情の裏で何か起こってないか、探り続けていた。
○○○
その後、ダッシュで戻ってきた諏訪子と、至高の変顔を隠し持っていた早苗による、水中にらめっこ対決がしばらく続いた。
結果から言うなら、諏訪子は自らの風祝に対して全く歯が立たず、十連敗、オール黒星に終わった。例え水中眼鏡を装備させようと、早苗の普段の顔とのギャップはあまりにも凄まじく、最後には思い出し笑いで、始まる前に勝負がつく有様であった。
やがて、早苗が水中で息を止めるのに慣れたわけだし、これ以上やっても無駄に時間を過ごすだけだということで、レッスンは次の段階に移ることになり、
「今度は実際に泳ぐ感触を覚えてもらおう。今の訓練で覚えた息を止めるのと合わせて、最終的には自力で泳げるようになるのが今日の目標ね」
と陸の上で説明するのは、スクール水着の神様ではなく、深紅の布ビキニの神様、神奈子である。
早苗の希望もあって、諏訪子と代わり番こに、指導することになったのであった。
「たっぷり息を吸い込めば、人の体は水に浮きやすいように出来ている。後は素人にありがちな無駄にもがく癖を無くして、水を効率よく移動するコツを覚えれば、どんな泳法もスムーズに上達する。だから、その感覚をまず覚えてもらいたいね。けどカナヅチのあんたが、いきなり支え無しで泳ぐのも辛いだろうから、これを用意したわ」
と神奈子が手に抱えているものを見て、生徒役の早苗はたじろいだ。
「あの……できれば普通のビート板にしてくれませんか」
「そんなもんこっちにあるわけないでしょう。大丈夫、これもちゃんと浮くようにまじないかけたから」
「でもそれ、奉納用の絵馬に使う板ですよね……」
人の胴ほどの幅がある四角い板は、元々神木から作った儀礼のためのものである。
これをビート板代わりにするとは罰当たり極まりないが、何しろ罰を与えるはずの神様が真顔で勧めてきているので、巫女としては微妙な心境であった。
「じゃあ浮き輪の方がいいなら、こういうのもあるけど」
「いえ、ビート板の方がいいです」
にこやかに勧めてくる神奈子に、早苗は、はっきりと、ビート板を強調した。
少々残念そうに、神様は手にした浮き輪――しめ縄とも言う――を片づけ、
「じゃ、水に入ろうか。30分泳いだら、また休憩しよう」
「はい。よろしくお願いします神奈子様」
道具はいただけないものの、神奈子の指導は懇切丁寧で、何よりわかりやすいものだった。
早苗としても、小さい頃、風祝としての稽古の時から慣れているので、彼女を信頼しきっている。
だが……、
「むぅ。やっぱりなんか面白くないね」
と離れた場所にて、水中から顔半分上を出し、その様子を眺めていた諏訪子は、口の中で呟いた。
ちなみに彼女はさっきまで変顔の研究をしていたのだが、早苗が次のステップに行くということで、遠くから見守ることにしたのである。
が、仲むつまじく泳ぎの練習をする二人は、何だか自分の時よりも親しげに見えてしまい、諏訪子としては穏やかではない。
頭の帽子を脱いで、湖に浮かばせ、
「あの二人をどう思うケロ君?」
と諏訪子が尋ねると、
『全くもってけしからんね。ケロちゃんのことを忘れているらしい』
とヘリウムガスを飲んだような声で、答えが返ってくる。
「そうよね。ちょっと十年ばかし先輩だからって、早苗のことは自分が一番わかってると思ってるよね、あれ」
『まさしく。大体ろくにケロちゃんに相談せずに、勝手にこの地に早苗や神社を連れてくるとは、誘拐行為に等しいぞ』
「早苗の方も神奈子を信頼しすぎじゃないかしら。酒飲んでだらしなくなった姿を見れば、幻滅するかと思えば、そうでもないし」
『うむ。最近は早苗自身も嗜むようになってきて、神奈子を遙かに凌ぐ酒乱っぷりを見せているしな』
もちろん、帽子との会話は、全て諏訪子の腹話術なのだが、それにツッコむべきはずの二人は、向こうで仲良く泳ぎの練習である。
「ちょっと脅かしてあげようか」
『それは面白い考えだ。でもケロちゃん。あまりひどいことをすると、あのオバ魔神が黙ってないんじゃないかな』
「何の。ほんのすこーし脅かすだけよ。それとケロ君。オバ魔神はいくらなんでも可哀想だ。せめてマダム神奈子と呼んであげなさい」
と、本人が聞いたら憤慨しそうな一人芝居を終えて、諏訪子は湖の底に沈んだ。
「力任せじゃなくて水に馴染むように。そうそう、上手いじゃないの。ビート板が無きゃカナヅチには見えないよ」
「えへっ、そうですか? まぁこれ絵馬の板ですけどね」
「それは言いっこ無し」
神奈子は笑って、早苗の泳ぎを指導していたが、
――やっぱり血は薄まって無いのかねぇ
と、心中で秘かに舌を巻いていた。
実際、褒めるコメントはお世辞ではなく、早苗はカナヅチどころか、かなり水慣れしているようにしか思えなかった。
おたまじゃくしが、カエルの母から教わらなくても泳ぎを覚えているように、無意識に足をひれのように滑らかに動かしている。
その姿は、神奈子がよく知る神の動きに、だぶって見えた。
もっとも、守矢の系譜の原点が現人神時代の諏訪子であり、早苗にもその血が受け継がれているという真実を、本人はまだ知らない。
そこら辺の事情を詳しく語ることになれば、諏訪の国に戦を挑んだ自分の事についても語ることになる可能性があるし、早苗が本物の神の境地へと入り込むまでは、神奈子はその事実を内緒にしておくことにしていた。
この選択を許してくれた諏訪子にも、本心から感謝している。
――まぁ、しばらくは、こういう時間もいいでしょ。
と神奈子はコーチ役となりながら、心を許した家族と過ごす、掛け替えのない時間を味わっていた。
「あれ、神奈子様。何だか水の様子がおかしいような」
「そうね」
今日は風もそんなに吹いていないのだが、なぜか湖面にさざ波が立っていた。
すぐにその原因に神奈子は気付いたが、
「まぁ、あんたは気にせず泳ぎなさい」
「でも……」
早苗は泳ぎを中断して、湖の中で立ち、ビート板を抱えるようにして持つ。
つい今まで、水に慣れた姿勢を見せていたばかりなのに、今は不安を隠そうともせず、縮こまって視線をさまよわせている。
神奈子がその様子を怪訝に思っていると、周囲の波の数が増え始めた。
水位が至る所で上下し、砕けた波浪が白い泡を生むようになって、水音のボリュームも大きく、広がっていく。
そしてついに、二人がいる環境は、静かな湖畔どころか、満潮の海のごとき状態に変わってしまっていた。
この事態に早苗はパニックになる。
「かっ、神奈子様! 助けて!」
「落ち着きなよ早苗。ここはまだ足は着くんだから」
異常に慌てる早苗に、神奈子は面食らいつつ、遠くの一点で目を止めた。
――まーたろくでもないこと考えてやがるわね、あのカエルは。
神奈子の推察の通り、波を起こしている正体は、遠くから二人を見ていた諏訪子であった。
湖に念力を少しずつ流し、水面を揺らしていたのだ。諏訪湖を含めた諏訪の地の自然神としての顔を持つ諏訪子にとっては、この程度の芸当は、お腹を膨らませたり凹ませたりするくらい簡単なことだった。
大した意図はない。当人としては、二人の反応が楽しみなだけだったのだが。
「ん?」
と諏訪子の顔から、悪戯を楽しむ童女の笑みが消えた。
早苗はこの程度の波でも恐いのか、ひどく狼狽しているのがここからでもわかる。
そんな彼女を、神奈子は多少呆れた様子でなだめていた。
ところが早苗はそれでも落ち着かずに、神奈子にしがみつくようにして怯え……、
「……………………」
また諏訪子はムカムカしてきた。
何だか、自分の狙いとは正反対の効果が生まれている。
――くっそー。これじゃ神奈子の株が上がるばっかりじゃん。
と舌打ちしていると、当の神と目が合った。
波を起こしているこちらには、とっくに気付いているようで、「ふふん」と勝ち誇ったかのように笑い、早苗の頭を撫でている。
諏訪子はいよいよ頭が沸騰した。
――ぐぐー……あのオバ魔神! わざと私に見せつけてるな!
諏訪子は嫉妬に任せて、拳を握り固め、気合いと共に湖の下の大地へと振り下ろした。
○○○
「あわわ……、あれ、おさまってきましたね」
揺れうねっていた湖面が、天気が変わるように少しずつ、起伏を消していった。
やがて周囲から波が消え、湖の様子が元通りになって、早苗は息をつく。
「よかった。あ、神奈子様ごめんなさい。私ったら子供みたいにしがみついちゃって」
「すぐにまたしがみつきたくなるかもよ」
神奈子はぼそりと言った。
細めた目が凝視する先、遠くの湖面がわずかに持ち上がった。
徐々に水面は盛りあがっていき、臓腑を震わせる轟音まで響いてくる。
次の瞬間、二人に向かって迫ってきたのは、風が起こしたさざ波ではなく、まっしぐらに岸に向かってくる、津波であった。
地震のエネルギーを飲み込んだ水は、小規模のものであっても、並の生物であれば、ひとたまりもない脅威である。
「きゃー! わー! 死んじゃうー!!」
パニックに陥った早苗は、涙を浮かべて絶叫し、再び神奈子にしがみついた。
彼女が見上げる前で、津波は自らの自らのエネルギーを誇示するかのように、大きく背伸びをしながら、分厚い水の壁を築きあげる。
「……ったく」
面倒くさく神奈子は呟いて、尾に火がついた猫のように暴れる風祝を脇にどかし、水面を蹴って飛んだ。
一蹴りで、迫り来る波と同じ高さまで到達して、
「ふんっ!」
無言の気合いとともに、片手を突き出す。
波を揺り動かす暴風が巻き起こった。
だがそれは、八坂神奈子の体から放たれたエネルギーの余波に過ぎない。
暴れる波のエネルギーは、我に返ったように自らのいた場所、湖へと崩れ落ちていく。
水壁によって遮られていた、守矢神社の裏林。その前の岸に、一柱の神が腕組みして立っていた。
神奈子は彼女の元へと下りていきながら、
「ちょっと、何してんのよあんたは」
「ふーんだ。誰かさんのニヘラニヘラした顔がいやらしかったから、さっぱり洗い流してあげようと思っただけよ」
つん、とすました顔で、諏訪子は言い張る。
「いくら早苗が丈夫だからって、あんなの下手したら大怪我してたわよ」
「早苗には当たらないようになってたもんねー」
もちろん、神奈子も分かっていた。ミジャグジを御する諏訪子の祟り神としてのエネルギーは、底力だけなら神奈子をも凌ぐのだが、かといってコントロールが不得手というわけでも無いのだ。例えそれが、人智を超えた自然エネルギーであっても、である。
とはいえ、本人にコントロールする気が全く無いことが多いという、性格的な欠陥も持っていたが。
「何するんですかぁああああ!!」
「ぬおぉっ!?」
横から不意打ちのショルダータックルを喰らって、諏訪子はよろめき、大の字にひっくり返った。
「諏訪子様の仕業でしょ今の! 本当に怖かったんですからね! 二度とやらないでください! 殺す気ですか!? あんな波起こして!」
「あーうー!」
馬乗りになって、ビート板(絵馬)で神を叩く風祝は、不遜だとか罰当たりだとかそんな感情は頭に無い様子であった。
それにしても、いつも常識外な人妖と付き合っている早苗にしては、意外な程のうろたえっぷりである。
彼女の様子が、神奈子の頭に引っかかるところがあったが……
「お取り込み中のところを失礼」
と背中に声をかけられ、神奈子は「おや」と振り向いた。
別れて反対の岸にいたはずの八雲一家。その一員である、水着姿の八雲藍だった。
肌が水に濡れていることから、ついさっきまで泳いでいたことがわかる。
となると、彼女が憮然としている理由にも、自然と見当がついた。
「先程、津波がこちらまで押し寄せてきたので、少々気になりまして……」
初めの社交辞令の際に見せた柔らかい物腰では無い。声色にも、はっきりと非難の色が見えた。
「危うくうちの式が怪我をするところでした。そうする必要が無いのであれば、今後は控えていただきたい」
「すまなかった。ちょっとうちのもんが悪ふざけしてね」
「ちょい待ち、神奈子」
と横から口を挟んだのは、騒ぎを引き起こした張本人である諏訪子だった。
早苗のマウントポジションから脱けだしたらしく、体についた土を軽く払いながら、何やら難しい顔で、
「狐さん。これは私の推測だけど、あんた達、私が妖怪の山に造ったプールで泳ぐために、練習しにきたんじゃないの?」
「左様ですが」
「だったら、あの程度の波、顔色一つ変えずに切り抜けることができなきゃダメだと思うな」
意味深な台詞に、眉をひそめたのは藍だけではなく、神奈子もである。
残る早苗も含めて、三人が訝しく思う前で、諏訪子はとくとくと語る。
「『カッパピアーウー』はね、単なるプールじゃないの。波のプールは本物の波、流れるプールは本物の川をイメージして作られている。津波や鉄砲水、大渦巻だって発生するわ。ちょっと泳げるだけの妖怪なら、溺れたって不思議じゃない程度のアミューズメントなのよ」
「待ちな。それは流石に問題があるでしょうが」
「大丈夫よ神奈子。そのために河童の監視員を増やしたんだもん。でも顔を水につけたり、ビート板でバタ足できるくらいじゃ、安全に過ごせる遊び場じゃないのは事実。何から何まで制御された完全なアトラクションなんてぬるすぎるわ。この幻想郷に似合うのは、危険と表裏一体のスリル。弾幕ごっこと同じよ」
確かに、外界によくあるプール程度の刺激では、日々空を飛び回って弾幕をかいくぐる妖怪達を満足させるのは難しいだろう。
なんとなく議論をすり替えようとしていやしないか、と神奈子は思わないでも無かったが。
「というわけで、もしそっちの猫ちゃんがあの波を自力で何とかできなかったのなら、諦めた方が無難かもね」
「…………お言葉ですが」
藍の切れ長の視線が、早苗の方を向いた。
「そちらの風祝殿も、あの津波に大層な慌てっぷりだったようですが」
「わ、私はそんな……!」
「目を腫らしていますし、頬に残っているのは涙の痕。加えてここに来た時の諏訪子様とのやり取り、さらには津波の際にそちらの岸から聞こえてきた悲鳴の声も一致します」
「………………」
淡々とした口ぶりで藍に指摘され、早苗は結局何も言えずに俯いてしまった。
諏訪子は半眼になって言う。
「早苗があの波で大慌てしたことが、貴方に何か関係あるわけ?」
「いえ、別に。ただ……」
藍は小さく鼻で笑って、口の端を持ち上げ、
「蛇の神に蛙の神。その二柱に仕える風祝がカナヅチとは、いささか滑稽だな、と思いまして」
――あ、まずい。
神奈子は心の内で、そう呟いた。
盟友の後ろ頭から、かっちーん、と金属の鳴るような音が聞こえたのである。
案の定、彼女は低い声で、
「早苗の方は、今日まで泳ぐ機会が無かっただけよ。才能はあるもんね。今日の上達ぶりは、未来の金メダル候補を見るようだったもん。そっちの猫ちゃんは、顔を水につけるのだけでも、ギブアップするんじゃないかな」
諏訪子の反論に、藍は柳眉をしかめ、頬をひくつかせて、
「私の式はもう足のつかない所でも一人立ちできます」
「早苗だってできるわ」
「はったりですね。ビート板を持つ彼女が何よりの証拠」
「そっちこそ、猫ちゃんが顔を水につけられないのを否定しなかった」
「なんの。試していないだけですよ。顔を洗う程度の造作の無さです」
「あらあら、その顔を洗うだけで、日が暮れないことを祈るわ」
「なら私も、素潜りの達人と浮上の素人が同居した奇特な金メダリストが誕生しないことを祈りますよ」
神奈子は呆れ果てて何も言えず、早苗の方は状況におろおろしている。
そんなギャラリーと対照的に、狐と蛙は返答の度に半歩踏み出し、至近距離で睨み合っていた。
余裕と憤怒が入り交じった、強烈な笑みを互いに浮かべ、
「早苗は特訓すれば、あっという間に泳げるようになるし、あんな波だって一人で何とかできるわ!」
「私の式だって、あっという間に泳げるようになるし、あれくらい一人で切り抜けることができます!」
「へー! 顔も水につけらんないのに!?」
「そっちも水に浮かないのにですか!?」
「なら、どっちが早く泳げるようになるか競争しようじゃない! うちの風祝の泳ぎっぷりを、そのほっそい目の裏に焼き付けてやるわ!」
「望むところです! そちらこそ、うちの式を甘くみたこと、後悔しますよ! 今夜はその帽子まで、悔し涙を流して眠れぬことでしょうね! では失礼!」
藍は踵を返して、湖の岸辺をわざわざ歩いて去っていった。
九尾の逆立つ背中には、赤い炎のオーラが、めらめらと燃えている。
「神奈子っ! バトンタッチ!」
残った怒れる神の方に、無理矢理バチーンと片手を叩かれて、神奈子は思わず顔をしかめた。
「いったいわね! 何すんだ!」
「次は私が早苗を教える番! こら逃げるな!!」
慌てて神社に走ろうとした早苗の背中に、諏訪子はカエルジャンプで飛びつき、押し倒した。
「んっふっふ。さぁ早苗、お稽古の時間よ。二人であの生意気な狐に、一泡吹かせてやろうじゃない」
「あ、あの諏訪子様。できればその、優しくぬるい練習を希望したいです」
「……早苗、カナヅチ克服に一番必要なもの、それって何か知ってる?」
神様は、とても素敵な笑みを浮かべて聞く。
冷や汗を一筋流していた早苗は、指を立てて、朗らかな声で、
「せ、潜水服ですね! ファイナルアンサー!」
「はい残念ー! 答えは根性だ! さっさと行けぇ!」
「嫌ー!! 神奈子様、今こそですよ! フォローフォロー!!」
「あ、麦茶無くなったんで、家から持ってくるわ」
「裏切り者ー!?」
じたばたと動いてもがく早苗を、小さな神様は担いで湖に運んでいく。
それを見送って、神奈子は神社へと一端戻ることにした。
耳に馴染んだ絶叫に、後ろ髪を引かれつつ。
○○○
神社の母屋に入った神奈子は、玄関に用意しておいたタオルで体を拭き、それから麦茶のある台所ではなく、廊下の奥へと向かった。
自室の扉を開けて入り、押し入れの下段にしまっておいた段ボールを引っ張り出す。蓋を開くと、中には細穴に紐を通してまとめられた紙束が詰まっていた。
外界にいた頃の、神奈子の日記である。神が日記というのも酔狂に思われるかもしれないが、神奈子とて大昔からそんなことをしていたわけではない。
ここ十年と少しという短い年月。すなわち守矢神社当代の風祝、東風谷早苗と出会ってから始めた日課だった。
神奈子は箱の中をあさって、奥の紙束を一つ取り出し、日付を確かめる。
「これね…………」
和紙に小筆で書かれた文は、早苗が地元の幼稚園に通っていた頃、川に泳ぎに行って、溺れて帰ってきた日に記したものだ。
すなわち、彼女がカナヅチとなり、それを境に泳ぐのが嫌いになった事情が、ここに残されている。
十年前の事件を、もう一度記憶から掘り起こすため、神奈子は文面を読み進め始めた。
○月○日
悪い予感が当たった。
帰りの遅い早苗が、紅白の四角い車で運ばれてきた。めでたい外装だが、神社に集まった大人達に、ハレの気配は一切無し。
担架に乗って運ばれる幼子は、朝出て行った姿とは似ても似つかず、ひとつまみの霊力をかろうじて宿し、青い顔をして眠っていた。
彼女の祖母、当代の風祝の話を、私は人に交じって、注意深く聞いた。
夜は私も、枕元について看病してやった。私がここにいる限り、邪気や物の怪は彼女に近づけない。
早苗はうなされており、時折何か言葉を囁いている。が、神の聴力にもよく聞き取れず、断片的には譫言に過ぎなかった。
見立てではもう命に別状はなかったものの、今朝にあれほど泳ぎに行くことを楽しみにしていたのだから、今日の出来事が後の早苗にどれほどの影を残すことになるか、それだけが気がかりだ。
もう一つ。
又聞きではあるが、現場にいた人間達の証言も気がかりだった。
幼稚園側の監督に問題はなかったのか、危険な場所だったのではないか、などと、早苗の親戚は彼女の祖母に問いつめた。
しかし、早苗が泳いでいた河川は浅くて流れも緩く、見通しもよいので、子供が遊ぶ場としてはもっとも適当だったらしい。
それなのに、事件は起こった。
突然早苗のいた場所の水があばれだし、彼女を中心に波や渦を起こして、溺れさせようとしたのだという。
目撃者は幼稚園関係者だけではなかったので、この突拍子もない話も一応は受け入れられたらしい。年寄りの中には、河童の仕業だとか、百年前にはたまにそういうことがあったと聞いている、と言う者もいたが、そちらは殆どの人間が聞き入れなかった。
しかし、私はむしろ確信している。
原因は人に非ず。異常現象、そしてこの子の体から抜け落ちている霊力がその証拠。
早苗は何を見たのか。起きたらそれとなく聞いてみなくては。
当時の自分も相当動揺していたらしく、今読み返してみると、文も筆跡もたどたどしい。
神にとって巫女が、それも先祖返りを果たした異能の人間が、どれほど貴重なものか。この身を持つものにしか分かるまい。
なおかつ、彼女が溺れた要因が、『人の手の届かぬ領域』の問題であったことが、神奈子を義憤に燃やした。
あの時は、例え犯人がそこらの小妖怪であろうと、早苗を危険な目に遭わせた存在に、神罰を下す気でいたのだ。
だが、楽しみにしていた水泳が、小規模の水害で台無しになったことは、やはり早苗自身にとって大変なショックだったようで、後日彼女は、そのことについて記憶をぽっかりと無くしてしまっていた。
そしてそれから、早苗は二度と、泳ぎたいなどと口にすることは無かった。
わざわざ傷に触れることもないので、神奈子も早苗と語る際には、水遊びに関する話題を避け続けてきた。
結局、直接的な原因のわからぬまま、こっちに来てしまうことになったのだが……。
神奈子はもう一度日記を読み直しつつ、黙考した。
今日一つ、新たに分かったことがある。
早苗が今もカナヅチだといっても、極端に水を苦手とする、あるいは泳ぐのが致命的に下手、というわけでないことだ。
顔を水につけることだってあっさりクリアしていたし、神奈子が足の使い方を褒めた時だって、まんざらではなさそうだった。
では彼女が泳げなかったというのは、ただの食わず嫌いみたいなものだったのか。過去の記憶を読み返しても、ヒントは見つからない。
いや……確かあの時……、早苗が明らかに動揺した瞬間があった。
「突然……水があばれだして……」
まさかと思ったが、神奈子は日記を閉じ、すぐに湖に戻ることにした。
○○○
嫌な予感に引っ張られるように神奈子が岸に戻ると、そこには諏訪子が一人で立っていた。
なぜか、いつもの帽子をかぶっておらず、素足で土を踏んで、何かを手に持ち、湖の方をじっと眺めている。
彼女が教えていたはずの早苗の姿は、側になかった。
「諏訪子!」
「あ、神奈子。遅かったわね」
「早苗はどこ? まさか一人で泳がせてるの?」
「ほら、あれ見て」
と、諏訪子は湖を指さした。
その先の遠くに、大人が一人立てるくらいの足場ができている。
白の水着を着た少女は、そこに座っていた。
だが、頭に乗せているものが違う。この位置からでも目立つ大きな帽子は、いつも諏訪子がかぶっているケロ帽である。
何だか予想していたのとは違う光景を、神奈子は尖った目付きで検分し、
「なんだいあの格好は……あんたの帽子よねあれ」
「あれはクイズ帽よ」
「クイズ? 泳ぎの練習は止めたの?」
「ちゃんとやってるってば。……では続きまして、第五問!!」
諏訪子は右手に乗せている、蛙の形をした小物に向かって、大きな声で言った。
「『宝永四年の赤蛙』! ケロちゃん三倍祭りというお得スペルだけど、この宝永四年に噴火した山は浅間山である! ○か×かー!」
早苗のいる足場とはそれぞれ異なる位置に、小島が二つ浮かび上がった。
片方には○の看板が。もう片方には×の看板が刺さっている。
突然、早苗が立っていた足場が沈みだし、彼女は大急ぎで水に入って、×の方向へと泳ぎ始めた。
答えが富士山なので×だということは、神奈子にも分かったが……分からないことが別にある。
無事に足場にたどりつき、肩で息をしている早苗を確認して、諏訪子は再び手元の蛙オプションに向かって呼びかける。
「はい正解ー! では次の問題は一分後に始めます!」
「…………何してんのあんた達」
「クイズ方式の練習よ。無事に正解の方にたどり着けばいいけど、不正解の足場は、たどり着いてもすぐに沈むようになってるの」
「…………へぇ」
「実はこれも、『カッパピアーウー』のアトラクションに入ってるのよ。十問正解で合格、豪華賞品をプレゼント。神奈子もやってみない?」
明るさ抜群の諏訪子に対し、神奈子は脱力しきっていた。
無茶な特訓をしていやしないかと、心配して急いで戻ってきたのに、二人はずいぶんほのぼのとやっていたらしい。
それにしても……、
「ちゃんと泳いでるわね早苗……ずいぶん早い上達じゃないかしら」
「そりゃあ、やっぱり私の子孫だもん。はっきり言ってまだヘタクソなんだけど、水が苦手なんてありえないありえない。ちゃんと教えれば、一日でこんなもんよ」
「なんか術使ってるんじゃないの?」
「あ、バレた? 実は浮力を大きくしてるの」
「浮力……そうかなるほど」
泳ぎの初心者にとって、一番厄介なのが息継ぎ。そしてそこからくる焦りである。
すなわち、常に体が沈んで溺れやしないかという恐怖がつきまとっているために、地上よりも余裕を持って動くことができないのだ。
しかし、浮力が高ければそれだけ水に呑まれる恐怖は軽減され、息継ぎのタイミング等も覚えやすくなる。
後は徐々に普通の水に戻していくだけで、自然と水泳のコツを覚えることができるとすれば。
まさしく、湖の水を操ることのできる、洩矢諏訪子ならではの特訓法だった。
「いくら私だって根性だけで何とかさせようとしないって。どう? 見直したかしら」
「感心したわ。あんたって意外に、水泳のコーチに向いてるのかもね」
「ふふ……でしょ? まだ試してないけど、今なら早苗だって、短い距離を自力で泳げると思うわ。あの狐の悔しがる顔が楽しみだ」
と、陸から巫女の様子を眺める諏訪子は、神奈子の褒め言葉に、上機嫌なようだった。
早苗がカナヅチになった経緯というものを、彼女は全く知らない。
神奈子自身、確信が持てていないこともあったし、もしこれで普通に泳げるようになるのであれば、それでいいと思っているゆえ、教えていなかった。
今もそう思っている。しかし、一度はっきりさせておかなければいけないことがある。
前の早苗の態度と、日記のヒントから見つかった、ある疑惑。
「諏訪子、一つ頼みがある」
「なに?」
「波を起こしてくれない? 早苗が泳いでる最中に。軽いやつでいい」
「およ」
と、諏訪子は湖から顔を戻す。意外そうに神奈子を下から覗き込み、
「神奈子の方から、そんなこと頼むなんて変ね」
「気になってることがあるんだ。今、確かめてみたい。お願いするわ」
「よくわかんないけど、実際あのプールで遊ぶ前には、波にだって慣れなきゃいけないしね」
「そうね……」
「早苗ー! 次の問題行くよー!」
諏訪子が通信用の蛙に向かって呼びかけると、遠くの小島で両膝をついていた少女は、こちらに見えるよう手を振った。
「では第六問!! ケロちゃんこと洩矢諏訪子が外界で味わったお供えには、お菓子もいっぱいありましたが、ポテトチップスの味で一番好きなのは『のりしお』である! ○か×か!!」
再び別の場所に浮上した足場に、早苗は迷うことなく、○の方へと向かって泳ぎだした。
「正解正解。……じゃ、いっちょやってみますか」
諏訪子は神奈子の提案を勘ぐったりせず、大いに乗り気で、湖面に手を入れた。
ふわっと、肩にかかる金の髪が、根元から持ち上がり、神気が波動となって、指先から流れ出す。
彼女の呼びかけに反応して、水達が様相を変えた。静かにまどろんでいたのが、新たに命を吹き込まれたかのように、意志を持って活動を始める。
さざ波から高波へと、やがて荒波へと、猛々しい波浪を作りながら、轟々とうねり出す水の群れ。
それらの勢いは、やがて遠くの湖面まで届き、
「きゃー!!」
向こうで泳いでいた早苗の体が、悲鳴つきで波の上に持ち上げられた。
暴れ馬に乗ったハムスターのごとく、揺れ動く青緑の谷間の中で、あられもなく叫びながら翻弄されている。
神奈子は額に手をやりながら、
「おいおい、ケロすけ。軽い奴って言ったでしょうが」
「これくらい軽い軽い。本番の方はもっと強いし」
「……明日、ちょっと施設の見学に行くわ」
大家主として当然の判断だったのだが、企画立案者の方は口を尖らせて、
「あ、ダメよ。まだ内緒なんだから。明後日まで待ってよ」
「いいや待たない。きちんと安全その他について確かめてみなけりゃ、守矢神社の名前は使わせないよ」
「元は私の神社でしょうが! それに来たって無駄よ。みさえ封じの結界が張ってあるもんね」
「誰がみさえだ! 適当なこと抜かすなシンノスケが!」
「いでで! あれ、じゃあ早苗はひろしになるのかな……早苗?」
ぐりぐり攻撃を喰らいながら、諏訪子は湖の方を見て――硬直した。
神奈子もすぐに、異変に気付き、顔色を変えた。
早苗の悲鳴が途絶えている。
湖面の起伏の中、白い姿が出たり消えたりしてる。
しかし決して自力で泳いではいない。力を失って、為されるがままになっているのだ。
そしてただ溺れているのでもない。普段の霊力が感じられない。いつの間にか、電気が切れたかのように、完全に意識を失っている。
非力な体が波の中でもまれるようにして、ついに跳ね上げられ、うねる青の中に飲み込まれた。
「諏訪子!」
神奈子が注意する前に、諏訪子の体は波に飛び込んでいた。
暴れる水の影響を全く受けずに、湖を高速で移動し、消えた風祝の元へと。
○○○
凪いだ湖の裾が、ちゃぷん、と寂しく音を立てる。
溺れた早苗は気を失ったまま、岸辺に横になっている。諏訪子は両膝を抱えたまま、じっと瞬きもせずに、心配そうに彼女を見ていた。
神奈子もその側に腰を下ろし、二人のいる光景を目に映している。
目を覚まさぬ少女と、それを見守る神の姿。それは、生気を失っていた幼い早苗と、一晩中看病してやった自分の姿を、容易に連想させた。
「……ごめん」
全てを話し終えてから、神奈子は諏訪子に謝った。
早苗が泳げなかった原因が、過去に受けた心の傷によるものだということ。諏訪子にそのことを黙っていたこと。最後にその根本を確かめるために、諏訪子に波を起こさせたこと。
ありのままに話している間、彼女は黙って聞き、最後に小さく唱えるように言った。
「……ただのカナヅチじゃなかったんだ……そっか……」
納得したような、達観したようなそんな口ぶりだった。
こんなことになるのであれば、彼女だって、無理に早苗を泳ぎに連れ出すことはしなかっただろう。
かつての自分と同じ苦しみを、親友に与えてしまったことが、神奈子にとって辛かった。
「ねぇ……神奈子」
「ん……」
「自分が神様なんだな、って思う時って、どんな時?」
「えっ?」
と神奈子は一瞬、言葉に詰まる。
予想外だったこともあるし、質問の意図が計れなかったこともある。
「そりゃあ……一々挙げられないくらい、いっぱいあるわよ」
「うん、私もいっぱいあるんだけど……」
諏訪子は微苦笑する。
横になる風祝の額のあたりに、深い眼差しを注いだまま、
「私はさ。早苗はまだ、本物の神様の感覚を知らないんじゃないかな、って思ってたの」
「………………」
「この子がその道を歩みたいんなら、これから苦しくて嫌なことをたくさん味わう前に、ちゃんとその感動を教えてあげたかった」
「………………」
親友の思い詰めた横顔に、神奈子は言葉を失った。
もっと詳しく、そのことについて聞く前に、かすかな呻き声がする。
ハッとして、二人は早苗の表情を確かめ、
「諏訪子様……」
「早苗!? あ、だめ。まだ起きなくていいわ」
身じろぎする風祝を、諏訪子は慌てて抑える。
「気分はどう? 具合が悪いところとか無い?」
「……気分は最悪です。具合もよくありません。波は嫌だって言ったじゃないですか」
「ごめん早苗。私が諏訪子に頼んだんだ」
相棒の神が傷つく前に、神奈子はかばった。
早苗にとって、その答えはやはり意外だったらしく、
「神奈子様が? どうして……」
「あんたのトラウマが残っていないかどうかについて、はっきりさせておきたかった。下手に泳げるようになったと勘違いしちゃ、後で取り返しのつかないことになりかねない。おかげで明らかにすることができたけど、二人に辛い思いをさせたのは間違いないわ」
神奈子は心から謝罪した。
横になる少女は、自分の身に起こった異変について、ようやく悟ったらしく、
「トラウマ……そっか。私、トラウマにかかってたんですね」
「何か……小さい頃のこと、思い出したかい?」
「いいえ……でも……」
早苗は仰向けになったまま、ぼんやりと宙を見上げ、
「すごく怖かったです。懐かしいっていうのもあったけど、怖かった。……最初は、楽しかったんです。思ったより泳げるし、水の中は気持ちいいし、きっとこのままいけば、大丈夫なんだって、思えたんです。けど……水が動き始めると、何だか、いきなり体が金縛りにあったみたいに、動かなくなりました……怖いだけじゃなくて、何も考えられなくなって……」
「………………」
「本当に目の前が真っ暗になっちゃいました。でも……諏訪子様の声が最後に聞こえて、ホッとしました」
「早苗……」
わずかに震える声で、諏訪子はそう呼ぶ。
早苗は困ったように眉を下げ、優しく微笑んだ。
「そんな顔なさらないでください、諏訪子様。波は無理かもしれませんけど、泳ぐのはなんとかなりそうですし……」
横になる風祝は、神の小さな手を握り、
「水が気持ちいいのは、嘘じゃないです。本当ですよ。諏訪子様が教えてくれたおかげです。だから、私もプールに連れてってくださいね」
「……うん。私も、もう無理は言わないよ」
諏訪子は鼻をすすり、早苗の手を胸に抱いて、頷いた。
早苗は安心したように、また目を閉じる。
「くすん、いい話だなー」
とそこに、えらく場違いな声が紛れ込んできた。
神奈子と諏訪子は、同時に振り向く。
いつの間にか岸に立っていたのは、長い金髪をまとめ上げ、紫と黒リボンのビキニ姿をした妖怪。ハンカチを目に当てている、八雲紫だった。
神奈子は立ち上がって、そちらまで歩いて行き、ため息混じりに苦言を呈す。
「あのさ。もう少し空気を読んでくれないかね、八雲の」
「あら失礼しましたわ。泣ける話に弱いんです私」
と、嘘泣きとしか思えぬ綺麗な顔を見せて、紫はハンカチを下に開いたスキマに落としていた。
相変わらずつかみ所のないふざけた態度だ。
機嫌を損ねた神を相手にしても、まるでペースを乱さぬ妖怪など、滅多に存在するものではない。
「で、何の用かしら」
「先程、うちの式がそちらに失礼をしたようで、主が尻ぬぐい役として来ましたの」
「ああ、別にわざわざ謝るこっちゃないよ。なんならうちのカエルもそっちに向かわせようか」
「ええ無論」
きっぱりと即答されて、神奈子は多少面食らった。
気のせいだろうか。スキマ妖怪の様子が変だ。謎めいた微笑が、先程挨拶された時よりも、こちらを威圧しているような。
諏訪子が後ろから跳ねてきて、
「そっちの猫ちゃんは、泳げるようになった?」
「ぼちぼちと言ったところですわね。そこでのびてるナメクジさんといい勝負かと」
「…………ナメクジ?」
「あら、マムシとガマの神様、とくれば、その間にいるのはナメクジでしょう? ずいぶん大きくて動かないナメクジですけど」
「……………………」
「泳ぎが苦手なのも無理はないですわね。いっそ海の水なら、溶けて無くなっちゃったかしら。それなら神様もとうに諦めがついたでしょうに」
紫は胡散臭い笑みのまま、棘が見え隠れした言葉を連ねた。
さすがの諏訪子も唖然として、即座に言い返せずに、困った様子で隣の相方を見る。
だが神奈子はむしろ、面白い、と頬の端を持ち上げた。
「……どうやら、狐と猫を従える古狸さんは、ずいぶんとお怒りなようね」
「ええ。うちの式達を危険な目に遭わせて、腹の虫がおさまらないわ。加えて先程の式からの言伝は、こちらへの挑戦状と受け取った。やらぬ道理は無い」
紫の目が細く、鋭くなった。
どうやら、先程の諏訪子の津波は、九尾の式の怒りだけではなく、寝ていた怪異の化け物を起こしてしまったらしい。
眼前の妖怪からは、はっきりと、敵意を含んだ濃厚な妖気が噴出していた。
人の身を超えた三者の間で、空気が張り詰め、力場が歪んでいく。
土や木がざわめく程緊迫した世界の中、紫はスキマに腰掛けながら、どこまでも妖艶な笑みを浮かべて言った。
「ただ、こののどかな湖の側で弾幕ごっこというのも、風情も新味も感じられないわ」
「お望みなら場所を変えるかい?」
「どうせなら、水泳で勝負をつけるのはいかが?」
「水泳?」
意外な提案に、眉根を寄せて聞き返したのは、諏訪子である。
「場所はもちろんこの湖。お互いの力量に合わせて、25m、100m、200mに分けたリレー対決。コースはそちらが決めて構いません。これならお互い無駄に傷つけ合わずにすみますし、暑苦しくもならないでしょうから」
「ふぅん……」
紫の説明を聞くうちに、神奈子にある推測が生まれた。
怒る姿勢は小道具、これまでの口上も全て中身のない挑発なのではないか。
つまり彼女は、この勝負を仕掛けるために、わざと因縁をつけているとすれば……。
次に当然疑問に思うべき事は、紫がこちらと勝負を願う、その理由である。
「いい加減腹を割ろうじゃないか、八雲紫。あんたが今日ここに来た……うちの湖をわざわざ選んだ本当の目的はなんだい」
あえて真っ直ぐ、神奈子は問うてみた。
意外に効果はあったらしく、紫は水着に似合わぬ扇を開いて、口元を隠しながら、
「ではお言葉に甘えて、種を明かしましょう。守矢神社――正確にはその内の一柱がプロデュースした大型屋内外プール施設、『カッパピアーウー』のことです」
「ああ。確かに私は関わっちゃいないが、もしかしてそれがそっちの都合で危険だから、ここで潰しておこうって腹かい?」
「それはまた別な話。しかしあのテーマパークは、施設の収容能力と宣伝効果による推定動員数を計算した結果、秋が来るまでの短い残りの夏、相当な混雑が予想されますわ」
「………………」
「つまり、今夏にあのプールでのんびりと泳ぐことができるのは、関係者に対して配られるプラチナチケットを使った、先行公開日のみ。特に最高責任者と一部の技術職人には、優先的に五枚が配られたという情報を手に入れましたの」
神奈子は、はたと思いついて、諏訪子の方を見た。
スキマ妖怪の方も、視線はもう一柱の神に向いている。
「洩矢諏訪子。貴方は自分の分、そして自らの家族の分を除いて、後二枚チケットを所有しているはず。それを我々八雲に、譲っていただきたいのです」
「ま、正確には私はフリーパス持ちだから、三枚余ってるんだけどね。けど私の心がいくら海より広いからって、いきなり人の庭に現れて図々しく泳がせてもらって、露骨な挑発してくるような奴に、大事なチケットを分けてあげるのは気が進まないなぁ」
「そのための勝負ですわ。それも不正の起こりにくい、穏便な種目」
言葉とは裏腹に、スキマ妖怪は不穏な気配を漂わせていた。
諏訪子はそれに対し、悠然とした笑みを浮かべ、頭に乗せた帽子を、くいっ、と直し、
「そっちは何を賭けるんだい? 受けるかどうかはそれ次第だね」
「まずはこれ」
紫が唐突に指を鳴らすと、空間がまた裂けた。
二柱は即座に注意を払う。しかし、スキマからもったいぶった手つきで取り出されたのは、奇怪な物ではなく、幻想郷では珍しいプラスチックの袋だった。
大妖怪はそれを、かさかさと振って見せる。
その音に、岸で伸びていた現人神が、がばっ、と体を起こして復活した。
「まさか!」
今まで気絶していたとは思えない俊敏な動作で、早苗は紫へと猛ダッシュする。
「や、やっぱり! ポテトチップス! しかもコンソメパンチ!!」
「なにぃー!?」
守矢一家に激震が走った。
「ちょ、待った! うすしおある!?」
「のりしおも!!」
今までの威厳はどこに行ったのか、神奈子も諏訪子も血相を変えて、ご馳走を見つけたハイエナのごとく駆け寄る。
二柱の興奮は、紫が別の色の袋を二つ取り出してみせたことで、さらに高まった。
「それだけじゃありませんわ。これはジャワカレー、ボンカレー、バーモントカレー」
「そ、そんな!!」
「ポッキー、コアラのマーチ、かっぱえびせん、うまい棒全種」
「う、嘘でしょ!」
「ガリガリ君にピノにハーゲンダッツ」
「ああなんてことなの!」
「後はこの有象無象の漫画類。ジャンルは問わず、少年漫画から少女漫画まで」
「ぎゃー!!」
シリアスだった展開はCMに入り、三者は隕石が庭に落っこちてきたみたいな大騒ぎになった。
さらにスキマから外界の貴重品が取り出される度に、守矢一家は右往左往する。
そんな反応をにこやかに見ていた紫は、やがてスキマを閉じ、
「では改めて問いましょう。この度の八雲一家の挑戦、受けてくれるかしら!?」
「イェア!!」
三人の神の声は、ぴたりと合わさり、あっさりと勝負することに決まった。
○○○
「コンソメパンチー!!」
カナヅチから一歩脱けだしたばかりの風祝が、迷うことなく湖へと飛び込んだ。
「ボンカレー! ハーゲンダッツ!」
謎の呪文を唱えつつ、四肢を動かして、ただただ必死に泳ぎまくる。それもクロールなのか平泳ぎなのかよくわからない、常識を越えた泳法である。
はっきり言ってフォーム的にはマイナスなのだが、それを補って余りあるパワーと情熱が、彼女を沈むことなく進ませていた。
「うーん。ご褒美があるとここまで違うものなのか」
神奈子は腕を組んで、早苗が本番に備えて練習する様を、感心して見つめていた。
苦手ジャンルを欲望で克服するというのは、神職的にいかがな物かと思うが、向こうが出してきた報酬のことを思うと、神奈子も止めるつもりにはならない。
むしろ、一番やる気になっているのは、隣のケロちゃんなのかもしれないが。
「コアラのマーチ……コアラのマーチ……」
と血走った目をして呟きながら、ヒンズースクワットをして体を温める姿は、神様というよりも可哀想な子であった。
信者一同これを行えば、さぞかし珍奇な邪教集団が出来上がるだろう。
「しかし厄介な弱点をつかれたもんだね。もうとっくに外に未練は無くしたと思ったんだが……ああ、のだ●って完結してたのね。ひょっとしたらNAN●も」
と、顔を覆って嘆く八坂神も、普段の威厳が宇宙の彼方まで飛んでいることに気付いていない。
「コアラのマーチ…………よし神奈子! 200mは私が出るわ! ぶっちぎるから!」
「OK諏訪子。グッドラック。じゃあ私が100mで、早苗が25m。ま、順当な配役ね。あんたの相手はスキマか、それとも九尾か」
「誰が相手だろうと、わたしは一向に、かまわんッッ!!」
諏訪子は、ふーん、と鼻息を荒くして、対岸の強敵に炎の視線を注いでいた。
平泳ぎマスターのコンディションもモチベーションも、全く心配はいらないようである。となると、
「問題は早苗か。今は何とか根性でやっているけど、何かあったらいきなりプッツンってことも考えられる」
普通、全くのカナヅチだった者が一日で25mを泳げるようになるというのは、常識的に考えて無謀かつ無茶苦茶な話だ。
しかし早苗は奇跡的なパッション(主にジャンクフードの魔力)によって、それを克服しかけていた。
それでも火事場の馬鹿力というのは、長続きしない神秘の力。そしてそれが失われた時のダメージは計り知れない。ましてや足の着かない水場となると。
「体力を考えて、そろそろ上がらせた方がいいかもしれないわね」
「そうね。あれだとすぐバテちゃうよきっと」
二人は思わず、顔を見合わせた。
「珍しく意見が一致したわね」
「こういう時の私達二人は……」
「……どんな相手にだって負けたことが無い。今回は二人じゃなくて三人だけど」
「そうね」
泳ぎ続ける早苗を見て、神奈子は深い感慨を抱いた。
信仰を集めるため、すなわち消えゆく運命にあった自分たちを神として生かすため、元の生活を捨ててまで懸命に生きる、現人神。
しかし彼女の力は今でも、ちょっと奇跡を起こすくらいの、一人の少女に過ぎないのだ。けれども、まだ走り始めたばかりの後輩は、二人の神にはとても眩しく、頼もしく映っていた。
「三人で協力する、って、こっちに来てから初めてじゃないかしら」
「何言ってんの。毎日が協力生活だったでしょ」
「……そういうことを臆面もなく言えるのが、あんたの性格よね」
「にへへ」
諏訪子が茶目っ気のある笑みを見せ、神奈子も微笑する。
神代の昔から続くコンビは、互いの片手を打ち合わせた。
「さて、私達も水に慣れてくるか」
「神奈子、競争しない?」
「本番前にかい? けど臨むところさね」
守矢神社の二柱は、巫女に切り開かれる未来に沿って、並んで歩き始めた。
4 水泳対決 vs八雲一家
ついに、対決の時間があと五分に迫った。
守矢一家と八雲一家。幻想郷に幾多ある勢力の中でも、少数精鋭という言葉が最も似合うであろうこの一派。
片や天地を創造することさえ可能な神が二柱、片や万物の理に手を加えることのできる大妖怪と九尾の式。
お互いの野望のため、弾幕ごっこならぬ水泳ごっこに舞台を変えて、妖怪の山にある守矢神社裏の湖にて、火花を散らすこととなった。
種目は100m自由形、200m自由形、25m自由形、という変則フリーリレー。
湖の中にいくつも立てられた巨大な御柱が、競泳のコースを示していた。
第一スタート地点の岸にて、八雲紫は改めてルールの説明をしてくる。
「スタートはこの時限式クラッカーを使います。音が鳴ると同時に競技はスタート。第一泳者から第三泳者まで、それぞれタッチで交代し、ゴールを目指す。ここまではよろしくて?」
「ん」
「この岸から100mの直線コース、200mで湖の外周を回り、最後の25mで中央の小島を目指す。ゴール地点にあるスイッチに先にたどりつき、それぞれのチームのフラッグが先に上がった方を勝者とする。コース取りはそちらが決めた通り。念のための確認はお済み?」
「ああ。問題ないよ」
軽いストレッチで体を温めつつ、神奈子は答えた。
すでに気持ちはレースに入っており、水着姿の全身から、神々しい覇気がにじみ出ている。
対して、隣のスキマ妖怪は、相変わらずとらえどころのない笑みを浮かべており、まだ日傘をさしているその姿も、選手というより審判を務めるかのような落ち着きっぷりであった。底知れない、という意味では、これほどぴったりの存在はいないだろう。
「まさかスキマ妖怪と、泳ぎで競い合えるとは思わなかった。一介のスイマーとして、勝負を楽しみにしてるよ」
「こちらとしても光栄な話ですわ。正々堂々、よろしくお願いいたします」
紫は日傘を閉じて、リボンでまとめ上げていた髪の毛を解き、またのんびりとまとめ直し始めた。
一見、怪しいところはない。クラッカーも特に変わった様子はなく、コースを御柱で指定したのはこちらである。
――だが向こうは何をしてくるか得体の知れない相手。油断すんじゃないわよ、諏訪子。
遠くに見える親友に向けて、神奈子は念じた。
○○○
紫達のいる第一スタート地点と、湖を挟んだ反対の岸付近。湖面に作られた即席の足場で待つのは、第二泳者の二人である。
「私の相手はあんたか。狐さん……いや八雲藍だったわよね」
「ええ。先程は失礼いたしました。洩矢諏訪子様がお相手とは、至極恐縮です」
馬鹿丁寧な口調で、妖狐の式は謝罪も含めた挨拶をしてくる。
主人の方とは対照的な、噂通りの真面目な性格。だが、彼女も自分と同じく、物事に熱くなる素質を持っているということは、先の一件でよくわかった。
特に、八雲一家としてのプライド、および式に対する愛情は、彼女の根っこにあるらしい。
実力もそれに見合ったものがあるだろう。だが、水に弱いという式神の性質は、どんなに隠そうとしても、負担に繋がる。
諏訪子は帽子の上にコアラのマーチを思い浮かべながら、
「私達にあんなご馳走見せちゃったのはまずかったわね。手強いのは私だけじゃないよ。神奈子はもちろん、早苗だってそう」
「承知していますよ。どうぞ、お手柔らかに」
その藍の答えは、諏訪子にとって少々意外だった。
自分を前にして多少緊張していると思ったが、その裏にある確かな自信の臭いを感じ取ったのだ。
思えば、水に弱い式を二人も抱えながら、この勝負を提案してきたのは、向こうのスキマ妖怪の方である。
となれば、こちらも驚くほどの仕掛けを、この式も隠し持っている可能性があった。諏訪子の実力をもってすれば、そんなものに足元をすくわれるとは思わないが。
――あとは早苗か。あの小さい猫ちゃんは、今日一日でどれくらい成長したのかしら。
諏訪子は遠目に、斜め向かいの足場で待つ、風祝達を見た。
○○○
湖に浮かぶ六畳の小島をゴール地点とし、そこから正確に25m離れた場所に足場を造り、第三地点とする。
四方を湖に囲まれるこの場所には、アンカーとして両一家の期待を背負い、同時にもっとも水泳能力に乏しい二人が配置されていた。
そのうちの一人である早苗は、ここに来るまでレースに勝つことで頭がいっぱいだったのだが、今は別の対象に気を取られていた。
「………………」
準備体操をするふりをして、横目でもう一人の泳ぎ手を見る。
そこでしゃがみこんでいるのは、オレンジのワンピース水着に身を包んだ、化け猫の少女である。
幻想郷には様々な妖怪が住んでいるが、その中でも多い種族の一つに、妖獣というものがある。
人並に、時には人よりも大きい、中には人間によく似た姿を持つ、早い話が擬人化された動物のような外見をした物も少なくない種族。
この前の異変で会ったネズミは、正直受け入れがたいと感じたものの、猫となれば話は別だ。
小さい頃から、野良猫に餌をやったり連れて帰ったりした経験を持つ早苗にとって、猫とお話ができるなんて、まさに幻想郷に住む者ならではの役得だと思っていた。
確か、彼女の名前はちぇん。橙と書くらしい。一番上は胡散臭くて不気味、真ん中は真面目で怖そうだった。
だから八雲一家の中で、一番自分と近くなれる存在が、彼女なのではないかと思う。
しかし橙は、早苗のことなど意識の外にあるらしく、ここに来てからずっとしゃがんだままだ。
片腕を抱き、湖面をじっと見つめ、尻尾の先を小さく震わせている。
どうやらこれからの勝負に、凄く緊張しているらしい。小さい頃、別の野良猫が縄張りをうろついていた時のミィちゃんを思い出す。
深呼吸している彼女に、早苗は思いきって声をかけてみた。
「怖いですか?」
まるで石を投げつけられたように、びくっ、と橙はこちらを向いて、大きな目をさらにまん丸にした。
「実は私もちょっと緊張してるんです。今日泳げるようになったばっかりだから」
と早苗は少々恥ずかしく思いつつも、正直に話す。
「橙ちゃんでしたよね。貴方のことを少し、神奈子様から聞きました。式神って水に弱いし、化け猫もそうなんですって? それなのに、泳げるようになるなんて凄いです」
できるだけ、優しい声で、人見知りする年下の子と話すように、早苗は続けた。
式神の子は、大きな両耳だけをぴくぴく動かして、こちらの顔をじっと見据えている。
「なんか変なことになっちゃいましたけど、今日はお互い頑張りましょう。あ、そうだ。橙ちゃんも諏訪子様がお造りになったプールに、遊びに行くの?」
「……うん」
ようやく頷いてくれる。そして、こちらの質問に、確かに返事もしてくれた。
もう一歩早苗は、会話に踏み込んだ。
「じゃあ、向こうでも会えるかもしれませんね。その時は、一緒に遊んでくれますか」
橙はまた、こくりと頷いて、緊張が溶けてなくなったような、はにかんだ笑みになった。
正面からそれを受けた早苗は、首筋まで熱くなって、思わず顔をそらす。
――か、可愛い! やだ、どうしよう! うちにもほしい!
これから勝負に臨むというのに、今から賞品を変えてもらえないか相談しようかなどと、不届きなことまで考える。
もし彼女が手に入ったら、一緒にご飯を食べて、お風呂にも入って、寝るときも一緒で、異変解決の時は召喚獣となって……。
獣人の相棒なんて、まさに物語の主人公ではないか、と妄想は、一瞬でその域まで加速する。
だがだが、あっちの賞品も捨てがたい。お菓子や漫画といった嗜好品は、こちらに来くる際に諦めなくてはならなかったものばかり。
持ち込んだ物が無くなってから、こちらの世界で工夫してみたり、里の洋菓子屋でアルバイトしてみたりしたが、そんな苦労が今日報われるかもしれないのである。
向こうの世界の品々を手に入れることで。
「…………あ」
早苗は葛藤を中断して、空を見上げた。
――向こうの世界……か。
懐かしさと寂しさの混じった不思議な風が、心の内を通り抜けた。
だが、もうそんな感情に、涙を流すことも少なくなった。
向こうの世界。いつからだろう。そんな風に、自分が元いた世界を言うようになったのは。
生活が一段落して、幻想郷の色に染まってからかもしれない。それでもたまに思うのだ。この空も、外の世界と繋がっているんだろうか、と。
人から神へ、そして幻想の世界へ。小さい頃から遊んでいた神奈子、そして諏訪の地で弱っていた諏訪子を失わないため。それがここに来た、何よりの理由であった。外の世界で親しんだものを諦める度に、女子高生だった東風谷早苗は軽くなって、それがこの幻想郷で暮らしていく、自信に繋がっていた。
そのはずだったのに、今また、外界の品々に翻弄されている自分がいる。
二柱の神様だって、同じようなものだけれど。
本当にそれでいいんだろうか。これから先、自分はそんな気持ちで、この地でやっていけるんだろうか。
そもそも、神様になるって、どういうことなんだろう。
いつの間にか早苗は、勝負に集中できなくなっていた。
○○○
「14時29分ジャスト。時間ですわね」
紫が独り言のように呟いたのを耳にし、神奈子は岸の上に引かれた、白線の位置に立った。
思考は澄み渡り、100m先の目標まで、ぴたりと照準が当てられる。
いつの時代においても、戦に臨む前は、今のように冷徹な感情を全身に浸透させることができる。
戦神としての横顔も持つ、八坂神奈子の力の一端だった。
対して、相手になるスキマ妖怪は、相変わらず危機感が感じられず、鼻歌まで歌う余裕があるようだった。
パラソルを携えたまま、彼女は設置型クラッカーのスイッチを押して、元の位置に戻す。
「では、三十秒後にスタートの合図があります」
紫は日傘をしまって、神奈子と同じく白線の位置に立ち、水着のラインを少し直していた。
その光景を最後に、神奈子は目を閉じて雑念を消し、スタート前の集中に入った。
意識が全方位に広がり、湖よりも山よりも大きく、世界の中心から下界を俯瞰する感覚。
その精神はただ一つ、始まりの合図を待っていた。
ホーーーホケキョ。
――――うぐいす?
神奈子が不思議に思って、薄目を開けると、すでにスキマ妖怪が先に湖へと飛び込んでいるところだった。
「なっ!?」
咄嗟にクラッカーの方を見るが、もう蓋が開いて煙が出ている。
「神奈子、始まってるっつーの!!」と、諏訪子の念話が届いた。
「なんで、クラッカーがうぐいすの声で鳴くのよ!!」
神奈子は罵声を上げ、紫に遅れて湖へと飛び込む。
先手を取られたが、水を一掻きするだけで、わずかな動揺はあっという間に静まり、猛スピードで体は進み始めた。
泳法はクロール。最も速度に自信がある得意型である。相手が諏訪子級の泳ぎ手では無い限り、負ける要素は全くない。
前を行く紫には大きくリードされたが、スタート後の彼女のスピードは、驚くほどでもなかった。第二地点にまでは追いつけるはず。そう神奈子は思った。
だが……。
――これは!?
戦慄した。
水の抵抗が、普段よりもだいぶ強いのだ。まるで斜面を流れる川を上るように、強烈な負荷が体にまとわりつく。
それは前方をマンボウの如く、のんべんだらりと推進し続ける、妖怪から伝わるものだった。
――何かの妖術!? いや違う。これは本物の水流……けどどうして!
「ふふふ、これぞ八雲紫のスキマ泳法よ」
困惑する神奈子の頭上から、スキマ妖怪の高笑いが降ってきた。
○○○
一方、第二地点で待つ二人は、対照的なポーズを取っていた。
腕を組んで仁王立ちする神様と、頭を抱え込む九尾の式である。
「……すみませんね。あんな主で」
力の無い藍の呟きが、諏訪子の耳に入った。
しかし別に相手が小細工してくることなど、諏訪子も十分に予想の内に入れている。それを考慮に入れての余裕であり、自らのチームに対する自信だったのだ。
ただ一つ、解せないのは、自分に匹敵する実力を持つ神奈子が、前を泳ぐ紫に置いてけぼりを喰らっていることである。
「……見たこともない泳ぎ方ね。どういう仕組みなのかしら」
「主の得意技であるスキマ泳法です」
藍はご親切にも解説してくれた。
スキマ泳法とは、八雲紫だけに許された、奇天烈な泳法のことらしい。
自らの周囲にスキマをいくつも配置して開閉し、都合の良い水流を自ら生み出すことによって、推進力を得るそうな。
本体はうつ伏せの状態で息継ぎをしつつ、足を細かく動かすだけでよいという、傍目には寝ながら足をばたつかせているようにしか見えない省エネ泳法。
さらに、この泳法の後ろで泳ぐ者は、相手に密着しない限りもろに逆流を受けることになり、強烈な負荷がかかるのだという。
それが狙いだったからこそ、あのクラッカーでフェイクをしかけることで、紫は神奈子にスタートで前に出ようとしたのだろう。
合図は合図。確かにケチのつけにくい反則ギリギリの作戦だった。
主はともかく、九尾の式の方は、この手のやり方が好きではないようで、ため息をつきつつも、
「……しかし、これもまた勝負。私とてプラチナチケットを手に入れたい気持ちに、偽りはありません。我が主の策に乗り、勝たせていただきます。お許しを」
「いいわよ。気にしてないわそんなの」
諏訪子は相変わらず余裕の態度で、藍の挑戦状を鼻で笑った。
「むしろ感謝しなきゃいけない。だって、久々に神奈子の本気が見られるんだからね」
勝ちにきているのは、八雲一家だけではない。
諏訪子達、守矢一家も。ただしこちらは正統な実力で、真っ向から相手をたたきつぶすのみ。
慄然とする藍に対し、蛙の女神は宣告した。
「守矢の誇る泳法は、我が神の平泳ぎだけにあらず。しかと見よ。我が盟友八坂神奈子は、神のクロールを操る」
○○○
一方、現在進行形で泳ぎを競っている二人だが。
「らくちんらくちん~♪」
と、先頭を行く八雲紫は、得意のスキマ泳法で、水流に流され続けていた。
傍目には水着姿の土左衛門のようで、全くレースを行っているように見えない。時々思いついたように足を動かして、また止めたりしている。
しかし、スピードは決して遅くはなく、音の無いエンジンを積んでいるかのように、彼女の体は一定の速度で進んでいた。
当然のことながら、見た目通り本人も形勢を楽観しているようで、顔を入れたスキマの中で、鼻歌まで歌っている有様である。
そんな余裕のスキマ妖怪の元に、音が近づいてきた。
山から下りてくる鉄砲水のような、激しい水音だ。しかしここは山間とはいえ、晴れた日の湖の中なので、土石流というのは考えにくい。
不思議に思った紫は、鼻歌を止めて、スキマをもう一度空中に開き、音の正体を確かめた。
神さびた古戦場
泡立つ湖水を、白い背びれのようにして切り分け、猛烈な勢いでスキマ妖怪へと接近する、赤い水着の女性がいた。
長い両腕が高速で水を掻き、頭部は全く水面から上がらない、息継ぎ無しの捨て身の構え。
だが、彼女は一切スピードを緩めることなく、全身で吠え猛っていた。
――待てやこらぁああああああ!!
神奈子だった。
しかし、いつもの冷静沈着な神奈子では無かった。
息継ぎする時間さえ惜しんで、ひたすらクロールで力強く掻き泳ぐその姿は、むしろ新鮮な祟り神の様相だった。
「ひぃっ!?」
紫が青ざめて姿勢を戻し、スキマ泳法のスピードを上げる。
しかし増強された逆流をものともせず、怒気を溢れさせながら、神奈子は真っ直ぐ泳ぎ進む。
その姿には、もはやスマートさの欠片も残っていない。すでに彼女にとって、急ぎ泳ぐ八雲紫も、逃げる子羊と大差ない。
コースを示す御柱まで、彼女の覇気に揺れ動き、断続的な雷鳴のような音を轟かせていた。
うつ伏せになって必死に遠ざかる妖怪と、うつ伏せになって凶暴に追い詰める神。
遠くから見る者には笑いを誘う光景かもしれないが、割と近くで観戦していた妖精や鳥達は、二人が進む先で、気絶して落ちていく。
お互いの泳法を駆使した水上の壮絶なレースだけではなく、異常なまでの妖気と神気の格闘戦が、空中でも広げられているからである。
まさに、湖をフィールドにした、守矢と八雲の代表の死闘であった。
しかし士気が大きく上回っていたのは、神奈子だった。
水の怪物と化した神は、コース終盤にさしかかって、大きく開いていた差を縮め、ついに競泳者と並走する。
向こうは慌てて退避しようとするが、神奈子は逃さずに体を近づける。
このまま抜き去ることは造作もない。しかしそれでは腹の内はおさまらない。
神奈子は、わざわざ、連鎖する水雷のごときクロールの勢いを、横の存在にぶつけた。
「きゃああああ!!」
水圧に跳ね飛ばされ、スキマ妖怪はあっけなくコースアウトしていった。
○○○
順位が逆転し、神奈子はさらにペースを上げる。
先を遮るものがいなくなった今、クロールの加速力が余すところ無く発揮される。
200mの第二スタート地点、飛び込みの姿勢で待っていた諏訪子は、手を後ろに伸ばして、
「神奈子、カモン!」
「任せた諏訪子!」
短く言葉を交換し、タッチを交わすと、神奈子が力尽きた気配があった。
彼女の意志を受け継ぎ、守矢神社最強のスイマーは、すかさず水に飛び込んだ。
湖の中に視界が移る。
一瞬縮めた体が、背骨の反動、両足のキック、両腕のプル。三つ揃った完璧な動作を見せた。
早苗に見せたような本気の泳ぎではなく、水に馴染んで負担をかけない、流麗な平泳ぎである。
けれども、諏訪子が水を泳ぐ、ただそれだけで周囲の生き物たちは、大小様々な畏敬の念を発していた。
諏訪子はそれらを受け取る。水に耳を澄ませ、肌で感じることで、ありとあらゆる存在の『声』を諏訪子は聞くことができた。
泳ぐ小魚の群れだけではなく、流れに揺れる水草も。多くの生き物だけではなく、川底の石や土に眠る魂も。そして、水というシンプルな存在自体も。
それはまさしく、神の世界だった。万物の脈動と慈愛を、体の奥底から感じられる、世界で一番優しくてもの悲しい視座だった。
この感覚を、早苗に知ってもらいたい。まだ遙かな境地であるかもしれないが、彼女なりに水を楽しみ、味わってもらいたい。
諏訪子の願いは、神としての喜びを、早苗にいつか知ってもらうことであり、そのための第一歩が今日の場だったのである。
そしてそれは、部分的に成功し、殆どを不意にしてしまった。
だが、あるいはこのレースがきっかけとなって、早苗が泳ぎを好きになるチャンスが、再び生まれるかも知れない。
諏訪子が水と溶け合いながら、そんな風に思いを馳せていた時だった。
ざわり、と湖水とはまるで違う感触が、全身を浸した。
プレッシャー。それも水の中を突き進む、強烈な気配の波動である。
――神奈子?
自らの泳ぎに匹敵する気配といえば、神奈子以外にいない。諏訪子はそう思って、振り向いた。
しかし違った。
冷たすぎるプレッシャーは、自分よりも遅れてスタートした第二泳者のものだった。
そして彼女が迫ってくるスピードに、諏訪子は度肝を抜かれた。
――は、速い!?
今の諏訪子の泳ぎは、例え本気じゃなくても決して遅くはない。むしろ魚よりも速い平泳ぎだというのに、徐々に差を縮められている。
迫り来るのは、残像ができるほど両腕を高速で回す、バタフライの魔神と化した、八雲藍の姿であった。
いや、それだけではない。彼女の推進力は、両手の回転運動だけでは説明がつかない。
バタ足か? だが洩矢諏訪子のカエルキックに勝る脚力を、九尾とはいえ、一介の妖怪が体得しているというのか。
両者の距離は、すでにのんびりと考え事をしていられる差では無くなっていた。
諏訪子は慌てて、本気の平泳ぎに戻る。
だが、トップスピードに乗る頃には、前の神奈子が作ってくれたレースの差は消えていた。
ついに並走するようになり、スピードがほぼ一致した段階になって、諏訪子は八雲の式の秘密に気がつき、驚愕した。
――尻尾……だと……!?
なんと、八雲藍は己の尻尾をスクリュー状に使うことで、膨大な推進力を生むことに成功していたのである。
両腕の運動、両足の運動、そして九つの強大な筋肉に支えられた尻尾の運動が一つにまとまった時、それは諏訪子の神の平泳ぎに迫る速度となっていたのである。
まさか、水に弱い式神がこれほどの実力者とは。
諏訪子の焦燥が、次第に強敵を見つけた高揚へと変わっていく。全身から神通力がほとばしり、神の平泳ぎは再び力を取り戻す。
――ついてこれるか!? 八雲藍!!
――無論!! 私は私の式のため、神を超える!!
――笑止!!
デッドヒートが繰り広げられた。
諏訪子の方が、頭一つ抜けだし、速度もほんのわずかに上回っている。
だがしかし、第三泳者の実力が互いに未知数な以上、この差はあってないようなもの。
「早苗! 任せたわ!」
「橙! 後は任せた!」
二人がタッチを受け渡したのは、ほぼ同時であった。
○○○
打ち鳴らされた手は、痛くはなかった。
諏訪子の気持ち、期待と優しさの合わさった、絶妙な力加減のタッチだった。
受けた早苗は、無言でプールに飛び込む。
頭がまだ整理できておらず、勝負に迷ったまま、ただ必死に手足を水中で動かした。
気持ちの乗らない雑なフォームは、水に嫌われたかのように、思うように前に進めない。
前で全力で猫かきをしている橙に、スピードで大きく遅れを取っていた。
「せめて、ついて行かなきゃ」というずるい自分が現れ、早苗はそれを振り切るように、がむしゃらに四肢をばたつかせた。
今になってこんな風に悩んでいる自分が、情けなく、歯がゆかった。
――あれ?
レースに集中できない。だからこそ、早苗は異変に気付いた。
最初は錯覚かと思ったが、違う。
湖の様子が何だか変だ。
『波』ができている。『流れ』が起こっている。風もないのに、なぜか途方もない力が上空から水を動かしている。
前を行く橙は、気付いてない。必死に泳いでいるだけだ。しかし、早苗は後を追えなかった。波が自分の体を揺り動かす度、呼吸が苦しくなった。
――怖い。
ずきん、と胸の奥で響いた『激痛』に、悩みも何もかもが全て、ぐちゃぐちゃにかき回された。咄嗟に背中を丸め、何とか気持ちを落ち着けようとする。
視界が薄暗くなる。このままでは溺れてしまう、と思った。
幼い記憶が蘇る。あの時もそうだった。何もさせてくれない。決して許してもくれない。止めていた息が、肺の中で減殺され、意識が遠のいていく嫌な感覚。
それは次に、苦しさや悲しさが平坦になって、世界に溶けていくような、優しすぎる絶望の感触に変わるのだ。
ああ、人じゃなくなるって、こんな感じなのかな。
なんとなく、そんな馬鹿なことを、最後に考えて、
また早苗の世界は真っ暗になった。
○○○
その日は、しとしとと降る雨の中、縁側に座って、二人で雨音を聞いていた。
「神様ってなんでしょう」
口に出してみると、ずいぶんシンプルな質問に思えた。幼稚といってもいい。
でも隣に座る存在は、決してその問いを、あしらったり、馬鹿にしたり、こねくり回したりせずに、答えを出してくれた。
右と左。二つの人差し指を頬に当て、にぱっ、と笑ってくれたのだ。
けど早苗は言った。
「違いますよ」
「違うの!?」
ポーズを取っていた神様は、大変なショックを受けたようだった。
頭の上にある帽子の目玉も、びよよんと飛び出ている。
「いえ、そういう意味の違いますではありません」
「聞こう」
「神になるにはどうしたらいいのか、ということです」
「いやもうあんた、現人神でしょうが」
「諏訪子様や神奈子様の域に達せたとは思えません」
「達しました、って自信満々で言われなくて安心したわ」
「でも、達せるとも思えないんです」
ふうん、と縁側に並んで座る諏訪子は、目を閉じて、かすかに頷く。
こちらの話について考えているだけでなく、奥に隠していた不安を、耳で聞き当てているようだった。
やがて、早苗にとって一番身近な神様は答えた。
「神は信仰によって神となる」
「はい、知っています」
「本当に?」
「う、本当かどうかわかりません」
「早苗は私を信仰してくれている?」
「ええ、もちろん。神奈子様と同じくらい」
「そこは神奈子よりも、って答えて欲しかったな」
にはは、と笑う諏訪子は、もう前みたいに苛めてこなくなった。
どちらか一つを選ぶまで、絶対に諦めてくれない。そんな時は、諏訪子様よりも神奈子様の方がいいかも、と思ってしまうこともあった。
でもそれを言うと、諏訪子は早すぎる冬眠に向かってしまうので、早苗は最後まで頑張った。もっとも、神奈子の方がしつこい時も、ごくたまにあるので、お相子のようなものである。
「早苗は信仰してくれている。それを私は知っている。でも信仰とは何ぞや」
「信じること」
「私の何を信じているの?」
ご加護、霊験、いくつもの単語が、目の前の神様を見ていると、頼りなく思えてしまう。
たぶん、困り顔になっていたのだろう。助け船がやってくる。
「何も考えず、一番しっくりくる答えを出してみて」
早苗は言われた通りに、答えを出した。
「諏訪子様すごいなぁ」
「それはきっと大正解」
諏訪子は縁側の木の床の上にしゃがみ、膝を手で支えて、こちらを見つめた。
「でも私は誰かに、すごいなぁ、って思わせるために何かをするわけではないわ。小さいすごいなぁ、がどんどん集まって、大きなすごいなぁになったのよ」
「つまり私が諏訪子様の域に達するには、あと何百年か何千年かかるわけですか」
「それはわからないけど、今の早苗にだってできることはあるわよ。人からどんな時にすごいなぁって思われるのか、考えてごらんなさい」
しゃがんだ神様の下には、山が見えた。
そんな神様が、自分のためにちゃんと答えてくれるというのは、とても嬉しかった。
こんなに大きい神様になっても、自分と同じ目線でいられるのは、すごいなぁ、と早苗は思う。
それは答えになってないけど、なんとなく目指したくなる世界でもあった。
「ありがとうございます諏訪子様。おかげで少し、迷いが晴れました」
――私も、諏訪子様や、神奈子様に近づけたらいいな。
そんな風に思って。
――早苗さん! しっかり、しっかりして!
子供の声が、暗闇を払った。
○○○
水は素直である。見えざる人の心に対してすら、水は素直である。
コップに注いで、言葉をかければ、正の感情に秩序を取り戻し、負の感情に乱れ散る。
自然は時にさらに雄大に、水に怒りを託し、時に水で喜びを表現する。
水とは表現の道具であり、悠久の時を、神や妖怪や人間や動物達の、媒質として過ごしてきたのだ。
幻想郷の大妖怪が二体、信仰を取り戻した神が二柱。
互いに水泳に全力で臨み、力を吐きつくしていた。
その力には、いずれも共通の意志が込められていた。互いに定めた、ゴールへと向かう意志が。
だがそれは、類い希な神水を保有する諏訪湖に余すところ無く伝わり、誰もが予想せぬ、致命的な事態を引き起こそうとしていた。
湖の四方の水面が、歪な形で隆起した。
水の群れは互いに終局へ向かおうと、同時に滑り動き始めた。
はじめに気付いたのは、息を切らしていた諏訪子だった。だが気付いたときには、波の狭間に阻まれ、手の届かぬ所まで流されて移動していた。
次に気付いたのは、紫だった。だが彼女は、スキマをすぐに展開できるほど、力が残っていなかった。
同時に気付いたのは、神奈子だった。だが彼女も結界に費やしていた力はすでに無く、波を即座に止める術を持っていなかった。
そして、最後に気付いた藍は、式が水で剥がれそうになるほど、一時的に憔悴し、荒波に翻弄されていた。
だが、彼女は見た。ゴール地点を囲むように動く波、その向こうで浮かんでいた、
「そんな……!」
式の式と風祝、第三泳者の二人の姿に。
○○○
重たい瞼を、億劫になりつつも開ける。
音が耳に戻ってきた。やけに回りが騒々しい。途方もなく大きい洗濯機の中のようだ。
いきなり時を跳び越えてきたのかもしれない。冷たい水に浸かっている今も、どこか現実感が薄い。
けど右腕だけが温かく、柔らかい。誰かに支えられている。
徐々に霧が晴れるように、早苗は意識を取り戻した。
天国というわけではないらしい。レースもまだ終わっていなかったようだ。
でも、確かに意識が無くなる前、沈もうとしていたはずだったのに、なぜか今も溺れずに生きている。
頭の働きが追いつかない。海に飛ばされたんじゃないかと錯覚するほど、波が周囲で暴れ狂っている。
自分の腕に掴まっていた存在が、くたりと力を失い、寄りかかってきた。
水に濡れた茶色い髪の毛の間から、黒く尖った獣の耳が飛び出ている。共に競争していたはずの、妖怪の子だった。
そこで早苗はようやく、自分を助け出したのは、彼女だという事実までたどりついた。
――どうして……?
彼女にとっても大事な、勝たなければいけない勝負のはずだったのに。
妖怪の子は――橙は腕の中で力を無くしている。水の中に引きずり込まれるように、重くなっていく。
轟音が止まない。
あらためて、早苗は自分たちの置かれた状況を確かめた。
冗談じみた光景が、周囲に広がっていた。
あり得ない程高い波が、四方から伸び上がっている。
空を覆い隠し、腹の奥まで響く曲を奏でながら、お互いを牽制し合い、力の置き所を探している。
足が地につくほど水が吸い上げられ、それらは全て、早苗達を押しつぶす壁の加勢となっていた。
諏訪子と神奈子の姿は見えない。沈もうとしている式の子の保護者達の姿も、波に隠れている。
今、自分たちは致命的な危機にさらされている。
早苗の心に、過去の傷が鳴り響いた。
暴れ狂った川の中で、息も絶え絶えになりながら、ひたすら神に祈ることしかできなかった、あの恐怖が蘇った。
だが、水の中から、早苗は橙を助け起こす。
奥歯を噛みしめ、震える脚に活を入れ、気合いを込めなおす。
もう自分は、あの頃何もできなかった人間の女の子ではない。もっと大きな……。
波が待ちきれないように、上から倒れ込んでくる。
早苗は右手を頭上に掲げ、叫んだ。
「奇跡よ!」
全身から霊力がほとばしり、伸ばした手の先に、天蓋が出来た。
雪崩れ込んできた波達が、その勢いに跳ね返される。早苗の全身にも、巨岩を背負わされたような重さが加わった。
――か……神様の第一条件は、ど根性です!
教わった言葉を勇気に変えて、早苗は続けざまにくる衝撃を、こらえ続けた。
今日まで貯めた信仰力が、水桶に穴が開けられたかのように、抜け落ちていく。
急激な要請に、あっという間に力が失われていく。だが、耐えて神の応援を待つ早苗に、予期せぬ祝福が届いた。
間近で感じた、つきたてほやほやの信仰心が。
「凄い……!」
橙の声だった。
彼女の信仰を土台にして、早苗はもっともっと、放出する力を増やした。
右手の先から光の粒がこぼれ、足元までを黄色く輝かせる。迫り来る四種の力に対し、早苗は大きく五芒星を描いて抵抗した。
奇跡が運命をねじ曲げる。
猛々しく暴れ回っていた力は、早苗達の方向を逸れ、同士討ちを始めた。
水のアーチを作って、お互いの体を削り合い、波は下の存在を傷つけることなく、段々と崩れ落ちていく。
やがて、湖を覆っていた轟音も引いていき、世界が塗り替えられていく。
早苗は右手を下ろした。
全てが終わった後、諏訪湖は再び、元の静けさを取り戻していた。
「……橙ちゃん!」
我に返った早苗は、腰にしがみついていた橙に呼びかける。
「怪我は無かった!? 平気!?」
「早苗さん……」
彼女はきつく抱きしめてきて、早苗の顔を見上げながら言った。
「まるで神様みたい!」
憧れと賞賛のこもった歓声が、早苗の心の内で弾けた。
探していた答えの欠片を、今確かに、手に入れた。そんな思いにとらわれる。
早苗は思わず、顔をほころばせ、鼻を高くして、茶目っ気たっぷりに言う。
「あら、言ってませんでした? 私、これでも神様なんです」
ばしゃん、と頭に水がかかってきて、橙は悲鳴を上げ、逃げてしまった。
削り切れてなかった波の一部が、落っこちてきたらしい。
完全に濡れネズミとなった早苗は、笑みを消し、
「……まぁまだ見習いなんで、こんなものですけどね」
と、偶然の天罰に、ふてくされた声でぼやいた。
「橙ーー!!」
二人は呼び声が聞こえた方を向く。
それぞれ岸へと流されていた四人が、一斉にこちらに飛んでくる。
特に先頭にいた九尾の狐は凄いスピードで、飛鳥のごとく式の元に舞い降り、
「橙! 大丈夫だった!?」
「はい藍様! 早苗さんが助けてくれました」
橙も彼女の主に飛び付いていく。
早苗にとって、なんとなく意外な光景だった。
見た目は違う動物だし、式神って聞いてたけど、なんだか親子みたい。
と、思っていると、狐の母の潤んだ瞳が、こちらを向いた。
「東風谷早苗殿。貴方に感謝しなくては。我が式の命を救ってくれたのは、まぎれもなく貴方の力だ。主として深い借りができた」
「そ、そんな。深い借りだなんて」
「そうそう。先に助けられたのはこっちだもんね」
ぽん、と背中を叩かれる。軽みのあるその声は諏訪子だった。
彼女は水の上を歩いて、早苗の横を過ぎ、藍に抱きついていた橙の元まで近寄って、
「……まさかレースを捨てて、溺れるうちの早苗を助けてくれるとは思わなかった。それも苦手な水の中を必死に泳いでさ。猫ちゃんの実力を本気で見くびっていたよ」
「猫ちゃんじゃなくて、橙です!」
「橙か。ありがとう。橙は泳ぐのが好き? それともまた、水が怖くなった?」
「いいえ! 泳ぐのは好きです! 今日ここで好きになりました!」
二人はさっきまで勝負していた雰囲気を、とうに無くしていた。
藍も気安くこちらに話を振ってくる。
「早苗さんは? 泳ぎはどう?」
「あ、はい。泳ぐのは好きです。波は怖かったけど、もう大丈夫です。橙ちゃんのおかげです」
「橙のおかげ?」
「はい!」
「そう。それは嬉しい言葉ね。また橙と遊んでくれると、私としてはなお嬉しい」
もちろんです、と早苗は、藍に手を差し出した。
握り返してくる温かさは、人の温もりに劣らぬ、わだかまりなど解いてしまう優しさがあった。
そんな四者の和気藹々とした光景を、残る神様と八雲の主は、離れた場所から眺めていた。
「守矢神社の秘蔵っ子。その才能をとくと拝見させていただきましたわ」
「なんの。まだまだ修行不足よ」
紫の賞賛に、神奈子は肩をすくめながらも、やはり誇らしさを覚えていた。
才能があるのは、子供の頃から知っていた。でも、やはりこの少女には、こちらに来ても驚かされてばかりな気がする。
神奈子や諏訪子から見れば、まだまだつかまり立ちが出来たくらいなのだが、しかしそう遠くない未来に、自分たちを越える信仰を手に入れられるかもしれない。そんな風に思わせるだけの何かを、当代の風祝は持っていた。
それに、
「私はそちらの式二人にも驚かせてもらったね。水に弱いなんて嘘なんじゃない? それともこの子達が特別なのかい?」
「ええ、どちらも自慢の式ですもの」
そう囁いたのは、権謀術数を用いる百戦錬磨のスキマ妖怪。
けど神奈子には、そんな彼女の本音がついこぼれたようにしか聞こえなかった。
諏訪子は橙と早苗の肩を叩いて、元気よく言う。
「よし! 二人共! だいぶ遅くなっちゃったけど、一端休憩してお昼ご飯にしよう! その後ここで、皆でまた泳ぐわよ!」
「えー、またですか諏訪子様?」
「当然よ! あんな大きな波を克服できたんだから、早苗も自信持ちなさい! 後はあの変な泳ぎを矯正すれば、特訓はおしまいにしてあげる!」
「へ、変な泳ぎって、失礼な! 私だって必死で泳いだんですよ!」
「橙だって、まだ泳ぎたいよね?」
「はい諏訪子様! もっと泳いでみたいです!」
「あ、橙ちゃんが泳ぐなら……私も……」
「こら早苗! 下心で泳ぐんじゃなくて、もっと素直に水泳というものを……!」
「まぁまぁ、そう熱くならずに」
説教を始める諏訪子を、九尾の式が困った笑顔でなだめる。
式の式はその様子を見て吹き出し、その笑いが早苗にもうつる。
荒れ狂っていた面影はすでに無く、湖は再び、平和な笑い声を取り戻していた。
5 エピローグ
夕刻の守矢神社。
居間にあるちゃぶ台を囲んで、二柱の神様が座っている。
スプーンをグーで握って、嬉しそうに膝を揺らしている諏訪子。
その向かいに胡座をかく神奈子も、台所の方から目を離さず、口元に隠しきれぬ笑みが浮かんでいた。
やがて、ぷ~ん、とまったりした香ばしい匂いが部屋まで漂ってきて、神様達は思わず身を乗り出した。
間をおかず、「できました!」の声とともに、既に部屋着に着替えた早苗が、お皿を二つ運んでくる。
「お待たせしました! 約一年ぶりのボンカレーでございます!」
「いよっ、待ってました!」
と諏訪子は拍手して、ほかほかと湯気の立つ一皿を、うやうやしく卓に迎えた。
「あれ!? 早苗、こっち辛口でしょ!」
「あ、ごめんなさい! 諏訪子様は甘口でしたね」
「そうそう、忘れちゃダメよ。こんな辛いの、神様にあげたら罰が当たるわ」
「悪かったね。わたしゃこんな甘ったるいの食える方が信じられん」
神奈子は口をひん曲げて、諏訪子と自分の皿を取り替えた。
諏訪子はべー、と舌を出して受け取り、二柱は巫女が中辛カレーを取りに戻るまで待つ。
「ふふふ、カレーカレー」と愛おしそうに小鼻を動かす盟友に、神奈子も文句を言わず、似たようなことをしていた。
すぐに軽やかな早苗の足音が近づいてきて、テーブルに三人分の皿が揃った。
守矢一家の三名は、二拝二拍一拝を終えて、
「それでは、いただきまーす!」
と食前の合い言葉が終わらぬうちに、熱々のカレーにスプーンを差し込む。
それからしばらく、夢中でカレーを頬張る時間が続いた。
「あーうー! この味! カレーはやっぱり最高ね!」
「もぐ……そうね。久しぶりだし、運動の後だから、余計に美味いわ」
「そして勝った後だから、なおさら美味なり!」
「あれ、私達って勝ったんですかね」
「両方の勝利!!」
カレー味のスプーンをトロフィーのように掲げて、諏訪子は上機嫌で言った。
結局、水泳対決の勝負はうやむやになってしまったが、再度決着をつける程の敵愾心は、お互いの一家に残っていなかった。
となると、賞品はどうなるのか、という話になるのだが、結局諏訪子が「カッパピアーウー」のチケットを八雲一家に譲ることにしたため、八雲紫からも外界の品々の多くをもらえることになったのである。
というわけでさっそく、食卓から失われて久しいカレーをいただこうということで、意見が一致したのであった。
「あ、おかわりもありますよ諏訪子様」
「おかわり!」
「いいのかい早苗? 前に食べた時は、カレーの一滴は血の一滴とか言ってたじゃない」
「いいんです神奈子様。まだジャワカレーやバーモントカレーも残ってます。けどそれだけじゃなくて、もう私にこのレトルトに未練はありません。それよりも、新しい目標ができました」
早苗は匙を置いて、拳をぐっと握り、力強く宣言した。
「東風谷早苗はカレーを自分で作ります!」
どーん。
と、宣言したはいいが、二柱の神様は、狐につままれたように瞬きした。
「えーと、つまりそれは、ルーというかカレー粉を含めて、全て自分で作るってこと?」
「その通りです!」
「スパイスは?」
「栽培します!」
「種は?」
「もらいました!」
「気候とかその他諸々の条件は?」
「奇跡とお二人の神徳で、何とかします!」
常識的な懸念は、非常識な暴論によって片付けられた。
これにはノリの良い諏訪子も、腕を組んで首をひねり、
「できるかなぁ……」
「いや、いい考えだと思うよ私は。もしそれができるなら、守矢のオリジナルカレーをプールのメニューにすればいいじゃない」
「あ、そうか! それじゃあポテトチップスも作らなきゃね!」
「ええもちろん! なんだか楽しくなってきましたね!」
「じゃあ私は少女漫画でも書くか」
「……………………」
「……………………」
「…………冗談よ?」
神奈子は、蒼白になる二人に、汗を一粒たらして言った。
微妙になった場の空気を、諏訪子が咳払いして戻し、
「さぁ! 『カッパピアーウー』の開園式は、二人とも参加して挨拶してもらうわよ! その前の最後の一日、つまり明後日は絶対に遊びに行こうね二人とも!」
「はい! 今から本当に楽しみです。橙ちゃん達もその日に来るって言ってましたし、それに、泳ぐのってあんなに楽しいんですね、知りませんでした」
「全く。ちょーっと教えてあげれば、すぐに泳げるようになるんだから。私の才能は途絶えていなかったってことね」
「諏訪子様の才能?」
「ゲコッ、なんでもない」
早苗の疑問に、神様は慌てて誤魔化すように、おかわりしたカレーを口に運んだ。
神奈子は食べる手を一端止め、改めて真面目な声音で聞く。
「早苗、本当に大丈夫なのかい?」
「はい、神奈子様。もう水は平気です。溺れた時のこと、思い出したけど、大丈夫です」
「そうか……いや、あんたが大丈夫ならいいよ」
神奈子は微笑した。
長年胸につっかえてきた物が、ようやく取れた心地だった。
カレーだけではなく、早苗がトラウマを克服するのに一役買ったという点についても、八雲一家には感謝するべきなのかもしれない。
今日のことをきっかけにして、これから先もひょっとしたら、あの愉快な一家と何かの付き合いがあるような気がしてきた。
そんなことを思いつつ、お皿を綺麗に空にしてから、神奈子はぽつりと言った。
「そういえば、早苗を小さい頃溺れさせたのは、結局妖怪だったのかしらねぇ」
「わかりませんけど、たぶんそうだと思います。凄く強い力をあの時感じました」
「よければ詳しく話してちょうだい」
「私も興味あるな」
神奈子と諏訪子は、早苗に話をせがんだ。
彼女は物憂げな表情で、取り戻した当時の記憶を、静かに語り始める。
「あの日……私は幼稚園でおよぎのじかんがあったから、朝早くにみんなでバスに乗って、近くの川に行ったんです。川といっても、小さい子を遊ばせる場所なので、大人じゃ泳ぎにくいくらいの浅い所ですし、まず溺れることは無かったと思います」
「ふむふむ」
「それで、私はひまわり組の中で一番泳ぎが上手だったんです。本当ですよ? もっと深いところまで行ってみようって、ちょっと離れた場所までいって…………それからずっと、そこからの記憶が無かったんです」
「今日の出来事がきっかけで、思い出したんだね」
「なんかミステリーな感じ」
神様達は、卓の上に少し乗り出す。二柱の反応に、早苗は苦笑いしつつ、語り始めた。
「実はその時、『何か』を見つけたんです。『誰か』かもしれないし、今でもよくわかりません。でもその時は、まるで怖くなくて、それどころかとても温かい存在に感じました。私はその『何か』と一緒に、泳いで遊んでいた覚えがあります」
「………………」
「そして、そのうち『何か』は、私が泳いでる回りで、波とか渦とかを起こし始めました。私も最初は楽しんでいたんですけど、そのうち水の流れが速くなって、恐ろしくなっちゃって……」
神奈子は、ぴくり、と眉を動かした。
早苗の語る内容に、十年前には思い浮かばなかった、ある推理が生まれたのだ。
気のせいか、横に座る存在も、様子がおかしい。
「泣き叫んでも、全然『何か』は許してくれませんでした。それどころか、さらに激しく波を起こして、大笑いしてました。あれ以来、私は泳ぐのが怖くて、波が嫌いになったんです」
早苗は暗く沈んだ声で締めくくった。
話を聞き終えた諏訪子は、目をまん丸に開いて、両唇を噛み、だらだらと額から汗をたらしていた。
その様子に、神奈子は確信した。
十年前の早苗のトラウマ事件の真相と、今回の騒動の全ての引き金となった、真犯人に。
「なるほど。そういうことだったか……」
「ご、ごちそうさま早苗! もうお代わりはいいわ。私ちょっと用事思い出したから!」
「私もちょっと用事思い出したわ」
卓から立ち上がるなり、ぴょんと跳ねて出て行こうとした神の襟元を、神奈子はがっちりと掴んだ。
聞くものを震え上がらせる、凄みのある声で、
「諏訪子……じーっくり話を聞かせてもらおうか」
「か、かなちゃんったら何その顔、すげぇ恐いんだけど。私怒ることしたっけ?」
「そうね。なぜか知りたければ、自分の胸に聞いてみなさいよ」
「えー、私のおっぱいちっちゃいし。って何言わせんのさ神奈子ったらスケベー」
「……おうこら、いい度胸じゃないか! オンバシラでケツバット食らわせたくなるくらい、すごーくいい度胸だ!」
「えへへ、ありがとありがと…………さいなら!!」
「逃げるなぁ!!」
一瞬の隙をついて脱出した蛙を、大蛇は怒濤の勢いで追いかけた。
居間に残った巫女の少女は、神奈子が何で怒っていたのか、諏訪子がどうして逃げ出したのか、まるで分からず、きょとんとしていた。
まぁ、きっと朝には二柱とも、帰ってきて説明してくれるだろうと思って、洗い物を済ませることにする。
お皿を三人分運びながら、ふと思い出すのは、昔の記憶。
「『何か』ちゃん……名前が確かあったはずだったんだけど、何だったかしら」
セピア色をした現人神の記憶には、懐かしい外の風景と、諏訪の地の豊かな自然。
そして、確かに存在していた、威風堂々とした蛇の神様と、天真爛漫な『何か』ちゃんの影が映っていた。
(おしまい)
それはそれは、ほんの十と少し前の夏。
まだ守矢神社が幻想入りせず、諏訪の地で慎ましく信仰を集めていた頃の話。
時代を感じさせる、くすんだ色合いの神社の屋根にて、不敬にも横になっている女性がいました。
今が朝で、例え周囲の鎮守の森が遮っていようとも、夏の盛りの日差しは強く、空気もじっとりと湿っています。
それなのに彼女は、白の長袖の上に高貴な赤に染められた絹の服を着て、下はなんと黒の袴。重そうなしめ縄まで背負った姿でした。
日光浴でも楽しむかのように、肩肘をついて目を閉じ、時折欠伸をしています。
何を隠そう、彼女は人間ではなく、この神社に祀られる一柱、八坂神奈子という立派な神様なのです。神様だって、いつも尊大に下界を見下ろしているものばかりではありません。古き良き日本の神様は、こうしてお気に入りの場所で、午睡を楽しむものも多いのです。
ふと、神社の中から「行ってきまーす」と幼い声がして、八坂様は目を開けました。
境内に出てきたのは人間の子、まだ五、六歳の女の子です。
彼女は背中に小さな鞄をかついで、何やら急いでいましたが、境内の石畳の真ん中で立ち止まると、きょろきょろと周囲を見渡します。
屋根の上にいた八坂様は、微笑んで手を振ってあげました。
ただし、お声をかけたりはしません。神を見つけるという行為は、例えまだ見習い以下の存在の巫女にとっても、大事なことだからです。
女の子は程なく、屋根の上におわす存在に気がつき、ぴょんぴょんと跳ねました。
「やさかさま、みぃつけた!」
「おみごとなり、こちやさなえ」
屋根からふわりと飛んだ八坂様は、少女、東風谷早苗と同じ所まで下りて行ってあげました。
「今日は何だか、いつもと様子が違うわね。幼稚園じゃないの?」
「およぎにいくの! だからこれ、あたらしくおばあちゃんにかってもらったんです!」
はしゃいで見せる背中に乗った透明の鞄の中には、新しい水着とタオルが入っているようです。
八坂様はちょっと思うところがありました。
「早苗って泳げたっけ?」
「えーと、プールにいったことがいっかいあって、おふろでもおよいでたよ?」
「ほう、それはすごいねぇ」
「ねー、やさかさまもいっしょにいこ? たのしいよきっと!」
「いや、私はやめとくよ。……ふふ、気が向いたら後で様子を見に行ってあげるから」
「ぜったいね!」
早苗が親指を立てると、八坂様も親指を立てかえします。
この神様は早苗が覚えた口癖やポーズを、いつも真似してくれるのでした。
「じゃあ、やさかさま、いってきまーす! ミィちゃんのごはんもよろしくねー!」
「はいよ。行ってらっしゃい早苗。遊ぶだけじゃなくて、水には気をつけなよ」
少女の溌剌とした後ろ姿が、蝉時雨の降る林道の中に、段々と小さくなっていきました。
見送る八坂様は、少し心配げな顔でしたが、
「……ま、あまり過保護なのもよくないわね」
と、屋根上の日向ぼっこに戻ることにしたようでした。
~もりやくも~
「んー……ん?」
八坂神奈子は、守矢神社の屋根上で目を醒ました。
しかし目に映る光景は、今までいたはずの諏訪の地ではない。
山々が広く囲んだ、彩度の異なる緑の地に、小さな集落が一つと、白く霧がかった湖が一つ。黄色く色づいた花畑も遠くに見える。
天を突く妖怪の山の中腹から見下ろした、幻想郷の姿である。
薄目のまま、顔をおもむろに横に向けると、すぐ側に、とっくりとお猪口が置かれている。
そこで思い出した。昨晩、天の川を仰ぎながらここで酒を飲んでいるうちに、そのまま眠ってしまったのだ。
久しぶりにこの屋根で寝ていたせいか、外界にいた頃の夢まで見ていた。
起きあがった神奈子は、うん、と背伸びをして、
「たかが十年と少し前の話なのに、なぜか懐かしいわね。あの頃まだちっちゃかった早苗も、今はもう現人神か」
と、感慨深く、独り言を述べた。
信仰ではなく、水と空気と命を糧に生きる人間は、あっという間に成長し、花を咲かせてしまうものだ。
しかし、その時間の濃さは神や妖怪の比ではない。石仏と変わらぬ身であっても、共に分かち合うだけで、生きる実感がこみ上げてくる。
思い起こせば、八坂神奈子の新しい一生は、あの時期、あの少女との出会いから始まったのだった。
諏訪の地の懐かしさに、何だか夢の続きが見たくなってきた神奈子は、
「もう一眠りしようかな……」
と、再び横になり……。
――! ――!
屋根越しに怒鳴り声が聞こえてきて、反射的に身をすくませることになった。
たまにこうしてここで寝ていると、成長した風祝に毎度小言を言われるのである。しかし、腰の下の神社で怒鳴っているのは、彼女だけではないようだった。
もう一つ、こちらは風祝以上に長く知っている声が、負けないくらい大きく喚きたてられている。
「なんだ。朝から喧嘩かね。元気だねあの二人は」
神奈子はよっこいしょ、と腰を上げて、様子を見に行くことにした。
「嫌です!」
東――奇跡を起こす守矢神社の風祝、東風谷早苗。
「嫌じゃない! やりなさい!」
西――諏訪の土着神の頂点、洩矢諏訪子。
「絶対嫌です!」
「いいからやりなさい!」
「絶対絶対嫌です!」
「いいからいいからやりなさい!」
「絶対絶対絶対…………!」
「ああもうまどろこっしい! 今すぐ連れてってやるわ!」
「行きません! 放してください! ここは動きませんからね!」
部屋の中央で睨み合っていた両者は、やがて互いの腕を乱暴に引っ張り合う。
そこで折良く襖が開き、しめ縄を背負った八坂神奈子が現れた。
「騒がしいわよあんた達。一体何の喧嘩よ」
「ちょっと神奈子! あんたも早苗を説得してよ!」
「神奈子様! 諏訪子様を説得してください!」
両者の顔が勢いよく、同時に神奈子の方を向き、同じようなことを頼んでくる。
問われた方は何のことだかわからず、瞬きを一つして、
「説得って? あ、待ったストップ。一人ずつでいい。まずは諏訪子」
「早苗のカナヅチを特訓で克服させるのよ! あんたも手伝って!」
大きな帽子の下で、諏訪子が目をつり上げて怒鳴る。
「カナヅチを克服する特訓?」と、神奈子が詳しく話を聞く前に、早苗がたまりかねたように、
「なんでですか! 泳げなくたって、人間生きていけます!」
「あんたはもう神様に片足浸かってるでしょうが!」
「泳げない神様だっていていいはずです!」
「よくない!」
そんな感じで、またもや険悪な調子で睨み合う二人に、神奈子は頭をぽりぽりと掻いて、
「じゃあ早苗。あんたが諏訪子を説得してっていうのは、その特訓とやらを止めさせてくれ、ってこと?」
「お願いします神奈子様。私他のことなら何だって頑張りますから、泳ぐのだけは」
「こらぁ早苗! 神奈子に叱られた時は私に泣き付くくせに、都合のいいときだけそっち行くの!?」
「だってだって、諏訪子様のはちゃんとした筋が通ってません! 私にだって絶対譲れない嫌なことくらいあります!」
「ああみっともない。泳げないから助けてくださーい、なんて泣き付いちゃって。やーいやーい、お前の母ちゃん神ー奈子」
「いいですもーん。諏訪子様より神奈子様の方が、お母さんっぽいですしー」
「なんだとぉ!」
「きゃあ!」
「落ち着きなさいって二人とも」
突進してきたカエル帽を、神奈子は片手で押さえ、自分の背中に慌てて避難する風祝に聞いた。
「そもそも、なんで今になって、泳ぐか泳がないかって話になったのさ。もう夏の盛りは過ぎてるし、それに去年だってチャンスはあったわけでしょ」
早苗は黙ったまま、神奈子の後ろから、諏訪子に恨めしげな視線を送っている。
神奈子が諏訪子に視線を戻すと、彼女はふくれっ面で、畳みに落ちていた新聞を拾い上げた。
知り合いの天狗が定期的に届けにくる、『文々。新聞』だ。日付は今日のもので、神奈子はまだ目を通していない。
はて、と思いつつ、神奈子はそれを受け取って、一面の見出しを読み上げる。
「『カッパピアーウー』ついに開園? 大型屋内外プール施設……」
「そうよ神奈子。私がプロデュースして、河童に造らせてたの。非想天則の次なる計画で、予定より工事が遅れたけど、あと三日で開園する」
「ああ……もしかして、これが前諏訪子が言ってたプレゼントってやつ? 何か内緒で造ってるみたいだから気になってたんだけど」
「そうそう! 神奈子も気に入ってくれるでしょ!?」
「ふぅん、なかなか良いアイディアじゃない。残暑はまだ続くだろうし。守矢のプロデュースってことになれば信仰もまた増えるだろうし、うまくやれば核融合エネルギーで温水プールにして、冬まで開けるし。ベリーグーよ」
「さっすが神奈子! 話がわかる! それなのに……」
ぎろっ、と諏訪子の帽子の目玉が、もう一人の方を向く。
「だからって、私が行く必要ないじゃないですか。プールなんて……泳ぐのなんてまっぴらです!」
と、守矢神社の現人神は、半泣きで拒絶した。
○○○
話は約一時間前。緑に染まる髪を伸ばした、青と白の巫女服の美少女(本人談)が、外の掃き掃除をしていた所から始まる。
その日、守矢神社で一番に起きた東風谷早苗は、朝ご飯の支度の前に、境内の石畳に散った葉を、箒で払っていた。
幻想郷に来たばかりの時は、慣れないことや戸惑うことも多かった。
だが今では、ここから望める大自然も、ジェット機のかわりに妖怪が飛んでいる空も、目に馴染んだ光景となっている。
時々、紺碧の間を素早く動く黒い点は、夏を名残惜しむ蝉ではなく、新聞の朝刊を配り飛ぶ鴉天狗である。
その点の一つが、風切り音とともに近づいてきて、早苗は掃き掃除の手を止めた。
赤い靴、黒のミニスカート、白のフォーマルシャツが、残像となって眼前を過ぎ、
「お早うございます。清く正しい射命丸です」
「お早うございます。清く正しい東風谷早苗です……なんちゃって」
軽やかに石畳に下りたった鴉天狗から新聞を受け取り、早苗は会釈した。
「いつもご苦労様です。朝のうちに幻想郷のあちこちを回るのは大変でしょう」
「いえいえ、天狗にとっては一っ飛びですよ。それにこの神社はいいお客様でして、私以外の天狗にも人気なんです」
「あら、どうしてかしら?」
「いつも違う方が出迎えてくださるので、退屈しません。一度に三人にお会いできた日は、ラッキーデーとなってます」
「まぁ」
早苗はくすりと微笑して、今日の新聞の一面に目を通した。
ほんの少しだけ、表情が変わる。
「『カッパピアーウー』……? 」
「ええそうです。私も昨日、先行公開日に泳いできました。山に住む者の特権ですよ。なかなか楽しくて、羽目を外してらっしゃる上司も結構いました」
「なんですこれ?」
「え、まさか知らないんですか?」
びっくり仰天する文に、早苗が小さく首を振るのと、神社の奥から慌ただしそうに跳ねてくる音がしたのは、ほぼ同じタイミングだった。
「あ、やっぱり! ついに宣伝が来た!?」
一度見たら忘れられない、コミカルな目玉が二つついた大きな帽子。
それを頭に被る本体は、本紫と白に蛙の柄をあしらえた、袖の大きな壺装束。
肩まで切り揃えた金髪の、幼い女の子の姿をした存在である。
守矢神社に住む神の一柱、洩矢諏訪子だった。
彼女は新聞を手に取って、四つの目を皿のようにして記事を眺め、
「うんうん、上出来上出来。ここの写真がピンボケしてるのは、意図的?」
「あやややや、ご明察です。何しろ目玉アトラクションですし、天狗の間で情報規制が敷かれましてね。フライングした者は今後一切遊べなくなるということで、今のところ違反者は出ておりません」
「あ、天狗も結構気に入ってくれたんだ。最後まで反対してた、あのごっつい大天狗はどうだった?」
「大型ジェットスライダーで『ぬはははは!!』と野太い声で楽しんでらっしゃいました」
「ならOKね。ご苦労様。残りも回ってらっしゃい」
「ではお言葉に甘えて、失礼いたします。今後とも『文々。新聞』をよろしく!」
鴉天狗の記者は風となって、東の空にあっという間に飛んでいった。
残った二人、緑巫女の方は、ぽかんと空を見上げていたが、やがて隣の存在に聞く。
「あの……諏訪子様?」
「……ふっふっふ」
諏訪子は早苗に向かって、「じゃーん!」と新聞を広げた。
「驚いた!? 早苗と神奈子には内緒にしてたの! こんな凄いプール、外界でも見たことないでしょ!」
新聞紙の端から、一点の曇りもない笑顔を見せる神様に、早苗は頬の端を引きつらせた。
諏訪子は神社の母屋へと歩き出しながら、記事を読み進める。
「大人から子供まで、妖怪から神様まで、誰もが満足できるレジャースポット! この看板に偽りは無いわ」
「………………」
「流れるプールも波のプールもスライダーも、全部河童の技術と私のアイディアが詰まってるの。動力は核融合エネルギーを応用していて、運営資金も守矢神社に一切負担は無いから安心して」
語調も歩調も弾ませて、諏訪子のプールの解説は続く。
最後に早苗の方を向き、大きくぴょんと近づきながら、
「じゃあそういうことで、三日後の一般開園式には、早苗もちゃんと参加すること。その前日は三人で一日中泳いで……」
「諏訪子様……」
「あはっ、御礼なんていいってー。早苗もこっちきてちゃんと頑張ってるし、神奈子にだって迷惑もかけてるし、ほんの気持ちみたいなものよ」
「諏訪子様」
早苗はもう一度、はっきりと声に出した。
これから紐無しバンジーに臨む生け贄のような、あるいはその存在を後ろから突き落とす役になったような、非常に心苦しい心境で、
「もしかして……言ってませんでした?」
「なにを?」
「…………中でお話しします」
負のオーラを背中に乗せた状態で、早苗はよろよろと歩く。
諏訪子は不思議そうに首を傾げ、後に続いた。
約五分後。
居間で早苗がその事実を告げた途端、蛙の神は荒ぶる神へと変貌した。
○○○
「『泳げない』ってどういうことよ!! あんたそれでもうちの神社の巫女なの!?」
「関係ないじゃないですか! 私は風祝であって、水祝じゃありません!」
「関係あるわよ! 私は蛙の神で神奈子は蛇の神。その間のあんたが泳げないなんて知られたら、恥ずかしくて尻から火が出そうだわ!」
「げ、下品な隠し芸披露しないでください! それを言うなら、顔から火が出そうでしょう!」
「ちょ、ちょっと言い間違えただけでしょ! ええい、神の揚げ足を取るとはなんたる傲慢! 裏の湖で根性叩き直してやるわ!」
「きゃあ! 神奈子様、助けて!」
「あー、待った待った」
神奈子は嘆息し、争いに割って入った。
自分を中心にぐるぐると回り始める、二人の家族衛星に向かって。
「とにかく、事情はわかったわ。両者の言い分についても聞いた。早苗、ちょっと話があるから来なさい。諏訪子、あんたは外で頭でも冷やしてきなさい」
「このうだるような暑さの中、どこで頭を冷やせと!」
「一泳ぎしてくればいいじゃない。朝飯の前に、軽く運動してきたら?」
「……じゃあ神奈子! 頼んだわよ! 早苗を早いとこ説得してね!」
諏訪子は肩をいからせ、帽子の上から湯気を立てて、部屋から出て行く。
その姿を見送った神奈子は、居間から一歩出て、むくれている早苗を、ちょいちょいと手招きした。
母屋の廊下を歩き、奥にある襖を開けると、特に変わり映えのない自室へと繋がる。
素直に後をついてきた気配に、神奈子は適当な座布団を放り、
「ここなら諏訪子に声は通じない。何を話したって構わないよ」
「ありがとうございます、助かりました、神奈子様」
受け取った座布団の上にきちんと正座して、早苗は頭を垂れた。
あぐらをかいて対座する神奈子は、その様子を見て、鼻でため息をつき、
「それにしても、やっぱりまだカナヅチだったんだねぇ」
「…………すみません」
「謝らなくたっていいよ。さっきあんたが言ってた通り、泳げなくたって人間失格なんてことはあり得ない。けど諏訪子は泳ぐのが本当に好きだからね。まぁあの様子を見れば分かるか」
「私はまだ……怖いです」
「……やっぱり、小さいときのこと引きずってるのね」
神の面持ちに、同情の念が混じる。
実は、この幻想郷で、早苗が泳げない事情を知る唯一の存在が、神奈子なのである。
まだ早苗が外の世界の幼稚園に通っていた頃のことだった。彼女は近くの川で行われた水泳で、見事に溺れてしまったのである。
帰りの遅い彼女が、夜中に病院から運ばれてきたのを見て、神奈子は自分がついて行かなかったことを、心底悔やんだものだ。
その事件がトラウマになって以来、早苗は水泳というものに、大の苦手意識を持ってしまったのだった。
外の世界では長く眠りについていて、幻想郷に来てから早苗と出会った諏訪子は、そのことを知らない。
供え物の駄菓子の味とかはしっかり覚えている割に、自分の神社の巫女には、意外と疎いのである。
「ふむ」
神奈子はうなずいて、二呼吸ほど黙考した後、一つ提案してみた。
「どう、早苗? この機会に、もう一度泳ぎに挑戦してみない?」
「ええっ!?」
カナヅチの風祝は、世界の終わりが来たようなうろたえぶりを見せた。
「かっ、神奈子様までそんなこと仰るんですか? ひどいっ! 信じてたのに! 青い空を返して!」
「まぁまぁ、話は最後まで聞きなさい。裏の湖なら私も諏訪子も力が十分に働くから、ほぼ間違いなく邪魔されることはないし、見つかることもない。諏訪子の言うとおり、あのプールは信仰を集めるにもよい機会だし、今回のことは、泳ぎを覚えるには絶好のタイミングよ」
「でも……」
「それにさ」
神奈子は内緒話をするように、小声でニヤニヤと早苗に告げる。
「あいつはあんな風に怒って見せてるけど、本当は早苗とプールで遊びたくて仕方ないだけなのよ」
「諏訪子様が、ですか?」
「そ。それができなくなりそうで焦ってるから、あんな風にムキになってるわけ。ふくれると活火山みたいになるからねあいつは。でも早苗に幻滅してるわけじゃないし、がっかりしてるだけじゃないってことも分かってやってちょうだい」
「…………」
「もちろん特訓には私も協力する。あいつが暴走して何か起こりそうだったらフォローしよう。それでも嫌?」
体を引いて、答えを待つ神様に、風祝の方はしばらく唇を噛んで考えていた。
が、ついに折れたようで、肩を落とし、
「わかりました。でもちゃんとフォローはしてくださいね」
「オーケー牧場。じゃ、諏訪子を呼んでくるわ。ああその前に、水着を準備しなきゃね。えーと、私のはどこにしまったかな」
鼻歌まじりで立ち上がって、神奈子は部屋の和箪笥を開けたり閉めたりし始めた。
それを見つめる早苗は、首をかしげる。
ひょっとしたら、目の前の神様も、自分と泳ぎたかったりしたんだろうか。
そんなことを思ったりして……。
2 特訓の時は来た
守矢神社の裏には、外界から引っ越してきた時に一緒に引き連れてきた、諏訪湖の一部が存在する。
妖怪の山は、幻想郷の空を大きな頭で支えられるほど高く、生活に場所を取る天狗も河童も多数生活できるほど広い山なので、湖一つを許容することは難しくなかった。ここに来てから、湖水の色もだいぶ綺麗になり、生き物も元気に暮らし、何より三方を山林に囲まれていて、東から下界を見下ろせるので眺めも良し。守矢神社の中でも、特に大事な財産となっていた。
そしてここが最も気に入っているのは、この湖の化身ともいえる神様。
「あはっ、こりゃまた絶好の水泳日和ね!」
と腰に手を当てて湖を前に仁王立ちするのは、神聖カエル王国の女神の異名を持つ、洩矢諏訪子である。
おなじみの帽子の下の表情は、ほくほくの笑顔で、今朝の不機嫌な態度などどこ吹く風、な感じだった。
ただし彼女の服装は、いつもの紫と白の和装ではなくなっていた。水着は水着……なのだが、
「……何でスクール水着なの、あんた」
と呆れた口調でツッコミを入れるのは、彼女に続いて岸を歩いてきた八坂神奈子。
いつもは豪快に伸ばし広げている青髪を、後ろで縛ってまとめ、深緋色の上下の水着を、違和感なく着こなしていた。
「しかもその水着、昔の早苗のでしょ」
「いいじゃん。これ本当にサイズぴったりなんだもん。全然いたんでないし」
諏訪子は「3-2東風谷」と書かれた水着を、ちょいとつまんで見せた。
「ま、この湖で泳ぐんなら裸でも構わないんだけど、早苗が止めてくださいって言うから」
「当然です」
三番目の声がして、二柱は振り向いた。
今回の特訓の主役である、守矢の巫女が神社から歩いてくる。
「水着なんて着たの、久しぶりです。あの、変じゃないですか?」
そう聞いてくる早苗は、ふちをブルーで染めた、ホワイトの水着を着ていた。
上下に分かれたビキニスタイルではあるが、どことなく巫女らしいというか、露出が低俗にならない程度に抑えられている。
が、若さに許された肌の瑞々しい生命力までは隠せていない。着ている当人は少し気恥ずかしそうである。
彼女に水着を用意した諏訪子は、じろじろと早苗の姿を眺めてから、
「……早苗、ちょっと太った?」
「えっ、嘘!」
「嘘。ちょっと言ってみただけ。サイズも合ってるし、似合ってるわよ」
「も、もー! 諏訪子様ったら、脅かさないでください!」
早苗が笑って追いかけ、諏訪子も嬉しそうにケロケロと逃げ出す。
二人の様子を見て、神奈子は一安心した。諏訪子の機嫌は直ったし、早苗も水を前にして、今朝のようにふさぎ込んだりはしていない。
上手くいくかはわからないけど、とりあえず幸先は良い感じだ……と考えていたところで、
「……おや」
神奈子は微笑を消し、湖の反対の岸、はるか遠くを睨んだ。
守矢神社から湖までを覆う結界に、自分たち以外の気配が入り込んでいる。
「あれ、何しに来たんだろうね」
諏訪子も気付いたらしく、走り回るのを止めて、同じ方角を向いている。
早苗だけが何のことか分からず、不思議そうに二人の様子を眺めていた。
神奈子の結界に、侵入者からのコンタクトがあった。向こうは直接話し合いたいらしい。
こちらからもそれを許可すると、間をおかずに耳障りな音を立てて、空間が大きく、斜めに裂けた。
リボンを境に切り裂かれた湖の奥、幾多の目が覗く混沌とした世界が、晴れた陽気の中に割って入る。
その開いた空間の中に、三つの影が浮かび上がった。
溢れ出る妖気の濃さは、その存在の格を如実に現している。
神奈子や諏訪子、二柱の神に一人の現人神といえども、油断は許されぬレベルの存在であった。
……が、
「……ん?」
神奈子は片眉を上げた。
現れた三人の先頭、その女性は妖怪だった。波打ち輝く金髪を腰まで伸ばし、奥深い美貌は妖艶な笑みを浮かべている。
幻想入りした際に、神奈子はその妖怪から挨拶を受けた過去があった。幻想郷の賢者と呼ばれる、スキマ妖怪、八雲紫。
しかし彼女の服装は、なぜか水着であった。
紫の布地を黒のレースとリボンで結んだビキニで、色気の塊のような肉体を少女チックに包んでいる。リボンを無くして、肩に乗せたパラソルと合わさると、まるで外界のレースクィーンようであった。
彼女の後ろに続くのは、金のショートカットの狐の妖獣、正確には式神だ。
背後から覗く九つの尾を別にすれば、前を行くスキマ妖怪と同じような体型の女性の姿をしており、こちらもライトブルーにホワイトラインが入った、スポーツタイプのタンキニ。すなわち泳ぐ気満々の格好である。
すらりと伸びた手足に均整の取れたグラマラスな肉体。
そんな彼女達と対照的な、背の低く、まだ幼い外見の少女が手を引かれて歩いてきた。
茶色い髪の毛の間から黒の猫耳を生やした、化け猫の式神である。
薄くフリルのついたオレンジのワンピース水着で、背後から細く黒い尻尾が二つ見えていた。
彼女だけは、どことなく不安げな表情を浮かべている。
「こんにちは、本日はお日柄もよく」
先頭に立つ妖怪は、日傘をさしたまま、胡散臭い声で挨拶してきた。
「いらっしゃい。こんな格好で失礼……といってもお互い様か」
挨拶を返す神奈子は、守矢の結界に分け入ってきた存在にも慌てたところはなく、隣の諏訪子の肝も、据わったままである。
唯一、早苗だけが、呆然として口を開く。
「貴方は確か……八雲紫さん?」
「ええ。この前の宴会以来かしら、東風谷早苗さん。うちの式達を紹介するわ」
「八雲藍です。以後お見知りおきを」
「はじめまして、藍様の式の橙です」
「あ、東風谷早苗です。守矢神社の風祝をしています」
腰を曲げてうやうやしくお辞儀する二人に、早苗も丁寧な返礼をする。
神奈子は式の式、水着を着た化け猫の少女に目をやって、
「スキマ妖怪に、九尾の狐……そっちの小さい子も、前にここに来たことがあったね」
「実は今日この橙に、泳ぎを教えるつもりですの」
「へぇ……奇遇ね。うちの早苗もこれから泳ぐ練習をするのよ」
「それはそれは奇遇なことですわ」
「ふぅん」
神奈子の口元に、自然と太い笑みが浮かんだ。
果たして本当に偶然だろうか。幻想郷の賢者という二つ名は聞くが、決してこの妖怪は、気を許していい存在ではない。
いや、ある意味この地で、もっとも注意を払わなくてはいけない危険な存在が、スキマの大妖怪だと、神奈子は常日頃から思っていた。
諏訪子は外交役を友に任せたつもりらしく、妖怪三者の姿を、少し値踏みするように眺めている。
早苗の方は……脳天気というか、猫の少女に興味が大ありなようで、話しかけたり質問したりするタイミングを窺っている様子だった。
神奈子は彼女がそうする前に、
「察する限り、あんた達がここに現れたのは、この湖を泳ぎの練習に使わせてくれってことかしら」
「そういうことですわ。よければ、向こう岸の一角を貸していただけません?」
「気のせいか、何か企んでいるようにも見えるし、何も考えていないようにも見える」
何しろ、あの八雲一家が、白昼堂々守矢のプライベートな空間に現れたのである。はっきり直感に従うならば、怪しいことこのうえない。
しかし、水着で慇懃に水泳の場を借りに頼んでくるというこの状況を、真面目に考えても馬鹿馬鹿しい気もした。
無論、それすらも狙いだという可能性も捨てられないが。
神奈子はもう一人の神に、目線で聞いてみた。
受ける諏訪子は、肩をすくめて、落ち着いた口ぶりで、
「別に追い返す理由もないわね。我が心は諏訪湖よりもずーっと広い」
ほんとかね、と神奈子は内心で思ったものの、彼女の言にうなずき、八雲一家が湖を使うのを、ひとまず許すことにした。
「ご協力感謝いたします。それではお邪魔にならぬよう、この場は失礼しますわ。後ほど少しばかりのお礼を差し上げることも考えています」
「期待してるよ。それじゃ、何かあったらまた声でもかけとくれ」
開いたスキマの向こうへと、八雲一家は一礼して去っていった。
彼女達の姿が消えても、神奈子は油断無くその場を動かずにいると、それまで黙っていた早苗が聞いてきた。
「神奈子様、あの猫ちゃんと知り合いなんですか?」
「ん、まぁ前にちょっとね。仲良くなりたいなら、また後で話しかけてみたら?」
「向こうで飼っていたミィちゃんも、今ごろはあれくらいになってるんじゃないかなって思って……」
「……冗談よね?」
「冗談ですよ。そんな顔しないでください」
くすくすと笑う早苗に、神奈子はこほんと咳を一つして、
「早苗。あの猫の子はただの化け猫ではない、式神だ。式神というのは普通水で効力を失うものだし、先天的に妖猫というのは水と相性が悪いと聞く」
「そうなんですか? じゃあ、どうやって泳ぐ練習をするんでしょう」
「さぁ。あの一家の目的が本当にそれなら、何か策はあるんでしょうけど……あ」
神奈子は、八雲一家が隠れて泳ぎの練習をする理由に思い当たった。
「もしかしたら、向こうも私達と事情は同じなのかもしれないね。諏訪子のプールの影響は、色んな所にあるらしい」
大人から子供まで、妖怪から神様まで、誰もが満足できると宣伝するレジャースポット、『カッパピアーウー』。
それは、水を弱点中の弱点とする式の子にも、特訓に向かわせるだけの魅力があったのではなかろうか。
神奈子はニヤリとして、自分の家のカナヅチに言った。
「あんな小さな子に負けてちゃいられないよ、早苗」
「わかってます。私もなんだかやる気がでてきました」
早苗は拳をぐっ、と前で握って、特訓に臨む意気込みを見せる。
「もう一つ目標ができたね、早苗……」
出し抜けに発言したのは、もう一方の神様だった。
腕を組んで対岸を睨み据える諏訪子。何やら大まじめな顔つきである。
「どうしたんですか、諏訪子様」
「いい? よく聞きなさい。あの胡散臭いスキマ妖怪のプロポーションは、大体こっちの熟女キャラと一致するわ」
「おい待て。誰が熟女キャラだ。オンバシラで縦に殴んぞ」
「そして私の体型は、あっちの式の猫ちゃんの方と同じくらい」
目を吊り上げる神奈子を無視して、諏訪子はしたり顔で続ける。
「戦闘力のバランスはここまで互角。しかし、一つだけ私達一家が、遅れをとっているポジションがある」
「はぁ」
「早苗、あんたのこと言ってるのよ。だからあんたは、あの狐の妖怪並の戦闘力を目指しなさい」
「…………………………」
「…………………………」
「………………はいっ!?」
諏訪子の言っている意味を理解した早苗は、裏返った声で聞き返した。
「目指すって、まさか、あの体をですか!?」
「そう、あの体よ。あんたもまだ成長してるんだから、道は閉ざされてないわ」
「険しすぎます! だってあの狐さん漫画みたいな体型だったじゃないですか! 胸はツインメロンだし、お尻はビッグピーチだし! 尻尾なんてアイテムまで!」
「そこよ。あの多すぎる獣の尻尾はアピール的に諸刃の剣でもあるわ。夏の解放的な爽やかな空気の中で、あの毛深さは暑苦しさを想像させうる。だからあんたが同等まで体型を引き上げれば、決して勝てぬ相手では……」
「真面目な顔して、どっかのエロオヤジみたいなこと言わないでください!」
顔を真っ赤にして、早苗は洩矢神の帽子を思いっきり引き下げた。
「もう! 諏訪子様はそうやってふざけてばかりで!」
「あはは、ごめんごめん。まぁ、あんまり大きくても、泳ぐのに邪魔だしね。でも早苗が成長したら、ちゃんとサイズの合う水着買ってあげるわよ」
「これからずっとそういうこと言うなら、もう水泳の特訓なんてしませんからね」
「それは勘弁。じゃあまずは、準備体操から始めようか。こっちが浅いから、来て来て」
「あ、待ってください」
岸辺を跳ねていく諏訪子に、早苗も駆け足でついていった。
ちなみに神奈子は離れた位置で、「熟女……少女……せめてその間くらいは……」とブツブツ呟いていた。
3 守矢一家の水泳特訓
お客さんだったり何だったりで、多少の足踏みはあったものの、ついに守矢一家の水泳特訓が始まろうとしていた。
三人は湖の浅瀬の前に集まって、準備体操を行う。
「いっちに、さんしっと。早苗! 今日の目標は、平泳ぎよ!」
ストレッチで腕を伸ばしながら、諏訪子ははきはきした声で言った。
「やっぱり平泳ぎか。何にせよ、カナヅチの人間には、ちょっとハードルが高いんじゃないかしら……」
とこれは、膝の屈伸をする神奈子。
けれども、同じく膝を伸ばす早苗の意見は、違うようである。
「あの、せめて泳ぎを一つだけでも覚えられたらいいな、と思います。そうすれば、後々恥ずかしい思いはしないですみそうだし……」
「よしよし、いい心がけね」
「あ、でも平泳ぎはちょっと嫌です。なんか見た目がダサい気がするし」
「こら! カナヅチのくせに偉そうな注文つけんじゃないの!」
ビシッと神の説教。これには全く反論できず、早苗はうっと怯んだ。
諏訪子は突きつけていた人差し指を引っ込めて、得意げに小さく振りながら、
「それに、早苗は勘違いしてるわよ。平泳ぎはカッコ悪くないわ。きちんと泳げる者の姿は、可憐にして優美。息継ぎも比較的簡単だし、水にこれほど親しめる泳法もないんだからね」
「そうなんですか?」
「そう。体も引き締まってプロポーションがよくなるのよ」
「プロポーション、うーん……」
「論より証拠。私のカッコいい泳ぎをとくとご覧あれ」
諏訪子がスクール水着の「東風谷」の上を、どんと拳で叩く。
彼女の宣伝文句と自信満々な態度に、早苗も少し興味が湧いてきた。横の神奈子の方をちらりと見てみると、
「ま、諏訪子の方が私より泳ぎが上手いのは間違いないわ」
と、さほどこだわりのない口調で、同じ神様の実力を認める。
これを聞いて早苗は、改めて本日の特別コーチに頼むことにした。
「では、お願いします諏訪子様。私にカッコいい平泳ぎを教えて……あ、その前に実際に見せてください」
「もっちろん! それじゃ、行くわよ!」
諏訪子は湖の端まで、とと、と走り寄り、突然パッと頭の帽子を脱いで、遠くに投げた。
「どりゃあ!」
気合いの声とともに、紺のスクール水着が、青い湖面の下に飛び込む。
跳ねた水しぶきが、陸にいる早苗達の元まで飛んできた。
ごう、と水の『うなり声』がした。
激流が起こり、その中心部で黄色い影がびゅん、と移動し、白い泡で出来た大波が後方へと巻き上がった。
ぎゅん、ぎゅん、ぎゅん、と秒刻みで約十メートルずつ移動する影は、UFOが空をワープするかのように、色づいた湖の中を縦横無尽に出没する。
最後の一蹴りで、諏訪子の体は水面へと飛び出し、破砕音の中で風に揺れていた帽子を、見事頭でキャッチして、勢いのまま空から岸に戻ってきた。
体についた水滴を拭おうともせず、実に爽やかすっきりな顔で、
「あー! チョー気持ちいい!! どう早苗!? カッコいいでしょ平泳ぎ!」
「無理ですっ!!!」
早苗は険しい顔で絶叫した。
「それは平泳ぎじゃないです! 私が地上を走るよりも圧倒的に速いじゃないですか! 最後の動きなんて、対空魚雷みたいでしたよ!」
「平気平気。神のパワーとちょっとしたコツがあるだけよ。早苗ならできるようになるって」
「百万歩譲ってできるようになったとしても、自慢にならないし知り合いに絶対引かれます!」
「河童にはモテるよ? いや本当に」
「別にモテたいと思いません!」
早苗がぶんぶん首を振ると、諏訪子はついに、ぷく~と膨れてしまった。
その後ろから神奈子が、両腰に手を当てて歩いてくる。
「まぁいきなりあれじゃ怖じ気づくのも無理はないよ。平泳ぎを目指すのもいいけど、まずは早苗の意思を尊重しなきゃね。どれ、私がいくつか型を見せてやろう」
「あー! 神奈子ずるい! コーチの役目を横から奪う気ね!」
「神奈子様、お願いできますか?」
「早苗までー!?」
ムンクの叫びのポーズで嘆く諏訪子に、早苗はすかさず弁解する。
「あの! 諏訪子様の泳ぎは本当に凄いと思いましたし、正直ちょっと見直しました。けどあれはレベルが高すぎます。まさしく神の平泳ぎです」
「…………」
「本当に格好良かったし、いつか身につけられたらいいな、と思ってますよ。だからその時はよろしくお願いします!」
「……ふむ、そういうことならよろしい」
と、早苗の必死の説得に、あっさりと相好を崩す洩矢神。
「じゃ次は私の出番ね。まずはクロール。早苗、見てなさい」
神奈子は低く、鋭く湖に飛び込み、リズミカルに水をかき泳ぎ始めた。
むやみやたらに音を立てず、抵抗など感じていないかのように、水面を滑るように進んで行く。
素人目にも美しいフォームであることがわかるし、なにより速い。
「わぁ……すごい。神奈子様も泳ぎが上手なんですね」
「………………」
「あ、もちろん諏訪子様の方が凄いと思いますけど」
「気を遣わなくたっていいって」
諏訪子は苦笑して、早苗の足をちょいとつつきつつ、
「ああ見えて、神奈子ってスポーツ万能だからね。クロールだけじゃなくて、平泳ぎも上手いのよ意外と」
「そうなんだ。えーとあと何でしたっけ。バタフライ? もできるんでしょうか」
「もちろん。見たいんならリクエストしてみたら?」
「じゃあせっかくだし……神奈子様ー! バタフライも見せてくださーい!」
呼びかけに応じて、神奈子の泳ぎが変化した。水面を両側から撫でるように、腕を大きく同時に動かし、体を波打たせて進む。
さっきよりもさらに迫力ある泳ぎっぷりである。
「すごい! じゃあえーと、背泳ぎでしたっけ。背泳ぎお願いします!」
神奈子はすぐに仰向けになり、腕を後ろ回しに変えて泳ぎ始めた。今度はバタフライよりも大分しなやかな動きである。
さらに途中でターンまで決めて、神奈子は泳ぎ続ける。
早苗が歓声を上げる横で、今度は諏訪子が口でメガホンを作って、
「神奈子ー! 片抜手ー!」
「片抜手? なんですそれ」
「そういう泳ぎ方もあるの」
神奈子は、体を横向けにし、片手クロールと平泳ぎの足を組み合わせた、不思議な泳ぎ方を始めた。
クロールほど速くないが、しかし見ていて楽しい泳ぎ方である。
「すごーい! じゃあ神奈子様! 白鳥できますか!?」
早苗の珍妙なリクエストに、神奈子は泳ぎを中断して、体を起こした。
一見、水の中で立ったままでいるように見えるが、よく観察すれば、水面下において立ち膝で、足を素早く動かしているのが分かる。
上半身は優雅に、すいーっ、と水面を移動していた。
まさに白鳥。諏訪子がぶっと吹き出した。
「あはは! リクエストする早苗も凄いけど、やる神奈子も凄いわ!」
「諏訪子様! 諏訪子様も何か希望は無いですか!?」
「じゃあ神奈子! 飛行中のウルトラマン!」
神奈子はシュワッチとY字体系になって、バタ足を始めた。
きゃあきゃあ、と喜ぶ二人の注文は、さらにエスカレートしていく。
「神奈子様! 犬神家できます!?」
逆さまになって、両膝から下だけ水面から突き出す神奈子。
「神奈子! スピニングバードキック!」
水面から出た神奈子の両脚が、ぐるぐると回転。
「次はぼのぼの君やってください! あ、シマリス君でもいいです! いぢめる? のポーズ!」
「神奈子! リヴァイアサンやって! フィーリングで! ……おお!? 確かにそれっぽい!」
「じゃあジョジョ立ちでお願いします! すごい、水面に立ってるし!? 山吹色の波紋がっ!?」
「ならそのまま厄神泳法よ! もっと速く速く! トルネード泳法の方がネーミングいいかな!?」
「神奈子様! ガンキャノン泳法でよろしくお願いします!」
「よーし神奈子! お次はオンバシラ泳法行ってみようか!」
「いい加減にしなあんたら!!!」
ついに泳ぐ神様はキレたらしく、本物の御柱が、陸の二人目がけて飛んできた。
○○○
「さて、本題からちょっとずれたけど! あらためて洩矢諏訪子の水泳道場の始まり始まりー!」
と、スクール水着の神様は、拳を「おー!」と突き上げて、特訓開始の音頭を取った。
もっとも、そこまでテンションが高いのは彼女だけであり、残る二人はどちらもポーズに付き合あわずに、ぎこちない拍手をしただけであった。
それが不満だったらしく、諏訪子はもう一度拳を上げて、
「早苗! おー!」
「お、おー……」
仕方なさそうに、恥じらいつつも、早苗は小さく拳を上げる。
「神奈子! ダァーッ!!」
「なんで私には猪木なのよ!」
反射的に放たれた神奈子の闘魂ビンタを、諏訪子はひょいと身軽にかわしつつ、
「じゃ、ま、そういうことで。えーと何から教えてあげようかな。息継ぎとか浮き方とか手足の動かし方とか……」
「そもそも早苗のカナヅチレベルがどれくらいかを計らないと、教えようが無いでしょ」
「あ、そうね。早苗、あんた全く泳げないの?」
「全く泳げません」
早苗は自信たっぷりにのたまった。
「威張ってどうすんのさ。じゃあ、足がつかない場所で浮ける?」
「浮きません。だからカナヅチというんです。たぶんあっという間に沈みます」
地球は回る、世界はそういうふうに出来ている、とでも言いたげである。
あまりと言えばあまりな答えに、諏訪子はがっくりと頭を垂れた。
帽子をいじりながら、あー、やら、うー、やら唸ってから、
「……お風呂には入れるよね」
「入れます。というか、そこまでレベル下げられるとさすがに悲しいです」
「だってあっちの式の子は水アレルギーみたいなもんでしょ。次はえーと、そうだ。頭全部水に浸かって、目を開けられる?」
「ちょっと自信がないかも……」
早苗の表情から自信が抜け、困ったようにあごに指を当てる。
つまり彼女のレベルは、典型的に泳ぐのがダメな人、であると、神様達は判断した。
「よし。じゃあ早苗。あんたの第一歩は、まず水に慣れることよ。さ、来て来て」
諏訪子は早苗の手を引いて、湖に入っていく。
「わ、結構冷たいですね」
「涼しくて気持ちいいでしょ。今日は気温が高くなりそうだし、泳いでるうちに気にならなくなってくるわよ。でもカナヅチの早苗は、それができるようになる前に……」
身長的に首まで浸かった神様は、大きな声で宣言した。
「第一ステージ、水中にらめっこ!」
「水中……にらめっこ?」
単語の組み合わせに嫌な予感がした早苗は、まだ競技が始まってもいないのに複雑な表情になる。
「そうよ! 水の中でにらめっこするの。息を止める練習と目を開く練習。カナヅチさんは、まず水に慣れなきゃね」
「はぁ」
「笑ったら負け。息が続かなくなっても負け。笑うのを我慢したら、嫌でも酸素を消費するし。ちょうどいい特訓でしょ?」
「参考までに聞きたいんですけど、諏訪子様は何秒くらい潜ってられるんですか」
「うーん、覚醒状態なら、半年くらいかな」
「単位が違う! 私は十秒すら怪しいんですってば!」
たまらず抗議する風祝に、神様の方はケロっとした顔で、
「まぁまぁ、私を笑わせたらすぐに負けになるんだからいいじゃない。さ、やろやろ」
「しょうがないですね……あ、息止めのコツとか教えていただければ」
「おお、そっちが先だったわね。水に入る前に大きく口から吸って止めて、水の中では鼻からほんの少しずつ息を吐くの。そうしないと鼻に水が入ってくるから要注意」
「口から吸って、鼻から出す……」
「そうそう、慣れれば無意識に出来るようになるわ。あとは水を怖がらないことね。とにかく大事なのは体をリラックスさせて、十分に気合いを入れること! 以上!」
「わかりました。じゃあちょっと待ってください。変顔選びますから」
「……そっちに気合い入れるんだ」
背中を向けた早苗に、今度は諏訪子の方が困った笑みになる。
さて、そんなほのぼのとした練習風景を、神奈子は陸で休憩がてら、麦茶を飲みながら眺めていた。
「諏訪子ー、あんまり無理させんじゃないわよ」
「わかってるってー」
諏訪子は元気に手を振って答えてくる。
だが、あくまで神奈子は、早苗の一挙一動を、油断の無い瞳で注視していた。
カナヅチが直るなら、それに越したことはない。しかし当人の心の傷をえぐるとなれば話は別だ。
何か危険な兆候があれば、神奈子はすぐにでも止めに入るつもりであった。
やがて、早苗は準備を完了させたようで、諏訪子とのにらめっこ対決へ向かおうとしていた。
「じゃあ行くよ。せーのっ」
「にーらめっこしーましょ!」
「あっぷっぷ!」
緑と黄色の頭が、水中に消える。
神奈子は軽く腕を組んで、じっと待った。
すぐに、水面にぶくぶくと泡が立ち、ばしゃりと水が飛び散った。
「ぶはぁ! ぜー、はー!」
「早苗! 大丈夫かい!?」
神奈子はハッとなって駆け寄ったが、近づくにつれて速度が遅くなる。
「諏訪子?」
「ぜー、はー、ぜー、はー」
なんと、先に頭を出したのは、諏訪子の方だった。
次に早苗が「ぷはぁ!」と頭を出す。
「はーはー、私の勝ちですね諏訪子様」
「ぜー、はー……おのれー! もう一回だ早苗!」
「望むところです!」
何が何やらさっぱり分からない神奈子の前で、二人はまた水中へと沈む。
五秒もたたないうちに、一人がギブアップして水から頭を出す。
またも童顔の神の方である。
「ぜーはー、ぜーはー!」
「諏訪子、あんた何やってんの?」
「ぜーはー! にらめっこに決まってんでしょ!」
「そうじゃなくて、何ですぐに上がっちゃうのよ。手加減してあげてるとか?」
「違うわよ! 本気でやって負けてるんだから仕方ないじゃん!」
と、頭の帽子と共に涙目でこっちを見ながら、諏訪子はまくし立てる。
そこで早苗がまた浮上してきた。
「ぷはぁー! やりましたね! 二連勝です!」
「早苗……」
「神奈子様もご覧になりましたか!? 私の勇姿!」
「いや、全然見えなかったけど……」
「もう一回だ早苗! 次こそ絶対に笑わないでやる!」
「ふふふ、かかってきなさい諏訪子様!」
三度、水中に入っていく二人。
陸の上の神奈子も好奇心に突き動かされて、二人と一緒に潜ってみることにした。
髪の毛まで水に沈ませ、うすく緑がかった水の世界に視界が移り変わる。
別に神だけに許された能力ではないが、神奈子の視力は地上だろうと闇夜だろうと水中だろうと変わらない。
特にこの湖は透明度が高いため、遠くまで複雑な湖底の地形や、自由気ままに泳ぐ小魚たちの姿も、はっきりと見渡すことができる。
そんな湖の中、ごく近い距離、神奈子の目の前で、諏訪子がとても変な顔をしていた。
目尻を人差し指で、びーん、と釣り上げて、口を思いっきり横に広げている。元々顔の筋肉が柔らかくて表情豊かなので、普段の倍の広さの顔になっていた。
ぷっ、と神奈子の口から、泡一つ分の息が漏れる。
さて、早苗は。と横を向くと。
――…………ゴボハァッ!!?
神奈子の口から、大量の泡が漏れた。
そこにあったのは、もはや自分の知る東風谷早苗の顔ではなかった。
むしろ神奈子にトラウマを植え付けるレベルの、恐るべき変顔であった(注:詳しい描写については、彼女の名誉のため、控えさせていただきます)。
――ゴボハッ、ボハッ。
酸素が急激に消費され、あっという間にレッドゾーンに達したために、神奈子はやむなく浮上した。
ついで、諏訪子も耐えられなくなったらしく、息を求めて水から上がってくる。
ぜーはー、と乱れた呼吸を取り戻す二人に遅れて、早苗が上がってきた。
先程の顔が幻だったかのような、いつもの愛らしい表情で、
「どうでした、神奈子様!?」
「お、驚いたわ……私がこれまで見た中で一番凄い変顔だった。あれじゃスサノオもうっかり逃げ出しかねない」
「そうでしょう! 元の世界でも負け無しでした! こっちでも無敗記録を続けられますかね!?」
「でも早苗。今後にらめっこはお嫁に行くまでは止めておきなさいね。神の忠告よ」
あどけない顔できょとんとする風祝に、神奈子は真剣に訴えた。
そこに、悔しさと不満を詰めた、幼い声が割って入る。
「ちょっと早苗早苗、私の顔だって結構凄かったでしょ!? それともレベル低かった!? 神奈子!?」
「いや、諏訪子の顔もなかなかだったよ。私は慣れてるからいいけど、普通はあれだって吹き出す」
「でしょ!? でも早苗、全然笑わなかったじゃない! どうしてさ!?」
「えっ、だって、水の中って、なんかピントが合わなくてもやもやしてますし」
「………………」
諏訪子が頭を抱えこみ、神奈子も成る程と納得した。
早苗の方からは、相手の顔がよく分からない。しかし神の視力を持つ諏訪子は、早苗の変顔をマックスの状態で視界に入れてしまうのである。
これでは勝負は一方的になってしまうのは当然な話であった。
「こうなったら神奈子。水中眼鏡だ。家から探して持ってきて。早苗に私達の変顔を見せつけてやるわよ」
「…………私はごめんだね。どうしてもっていうなら自分で持ってきなよ」
自分の変顔を見てもらうために水中眼鏡とは、何というか目的がずれている気がすると思ったのだが、こっちの神様はそう思ってないようで、凄い勢いで神社に走っていった。
残った神奈子は、改めてもう一人に問う。
「早苗、にらめっこはともかく、顔に水をつけても大丈夫だった?」
「あ、はい。付けるだけなら」
「そう。いや、ならいいんだ。最初の関門はクリアしたってことね」
「そうですね。自信が出てきました!」
弾けるような明るい声を添えて、早苗は笑った。
昔から知る表情に、神奈子も思わず笑みを返す。だが心の内では、彼女の表情の裏で何か起こってないか、探り続けていた。
○○○
その後、ダッシュで戻ってきた諏訪子と、至高の変顔を隠し持っていた早苗による、水中にらめっこ対決がしばらく続いた。
結果から言うなら、諏訪子は自らの風祝に対して全く歯が立たず、十連敗、オール黒星に終わった。例え水中眼鏡を装備させようと、早苗の普段の顔とのギャップはあまりにも凄まじく、最後には思い出し笑いで、始まる前に勝負がつく有様であった。
やがて、早苗が水中で息を止めるのに慣れたわけだし、これ以上やっても無駄に時間を過ごすだけだということで、レッスンは次の段階に移ることになり、
「今度は実際に泳ぐ感触を覚えてもらおう。今の訓練で覚えた息を止めるのと合わせて、最終的には自力で泳げるようになるのが今日の目標ね」
と陸の上で説明するのは、スクール水着の神様ではなく、深紅の布ビキニの神様、神奈子である。
早苗の希望もあって、諏訪子と代わり番こに、指導することになったのであった。
「たっぷり息を吸い込めば、人の体は水に浮きやすいように出来ている。後は素人にありがちな無駄にもがく癖を無くして、水を効率よく移動するコツを覚えれば、どんな泳法もスムーズに上達する。だから、その感覚をまず覚えてもらいたいね。けどカナヅチのあんたが、いきなり支え無しで泳ぐのも辛いだろうから、これを用意したわ」
と神奈子が手に抱えているものを見て、生徒役の早苗はたじろいだ。
「あの……できれば普通のビート板にしてくれませんか」
「そんなもんこっちにあるわけないでしょう。大丈夫、これもちゃんと浮くようにまじないかけたから」
「でもそれ、奉納用の絵馬に使う板ですよね……」
人の胴ほどの幅がある四角い板は、元々神木から作った儀礼のためのものである。
これをビート板代わりにするとは罰当たり極まりないが、何しろ罰を与えるはずの神様が真顔で勧めてきているので、巫女としては微妙な心境であった。
「じゃあ浮き輪の方がいいなら、こういうのもあるけど」
「いえ、ビート板の方がいいです」
にこやかに勧めてくる神奈子に、早苗は、はっきりと、ビート板を強調した。
少々残念そうに、神様は手にした浮き輪――しめ縄とも言う――を片づけ、
「じゃ、水に入ろうか。30分泳いだら、また休憩しよう」
「はい。よろしくお願いします神奈子様」
道具はいただけないものの、神奈子の指導は懇切丁寧で、何よりわかりやすいものだった。
早苗としても、小さい頃、風祝としての稽古の時から慣れているので、彼女を信頼しきっている。
だが……、
「むぅ。やっぱりなんか面白くないね」
と離れた場所にて、水中から顔半分上を出し、その様子を眺めていた諏訪子は、口の中で呟いた。
ちなみに彼女はさっきまで変顔の研究をしていたのだが、早苗が次のステップに行くということで、遠くから見守ることにしたのである。
が、仲むつまじく泳ぎの練習をする二人は、何だか自分の時よりも親しげに見えてしまい、諏訪子としては穏やかではない。
頭の帽子を脱いで、湖に浮かばせ、
「あの二人をどう思うケロ君?」
と諏訪子が尋ねると、
『全くもってけしからんね。ケロちゃんのことを忘れているらしい』
とヘリウムガスを飲んだような声で、答えが返ってくる。
「そうよね。ちょっと十年ばかし先輩だからって、早苗のことは自分が一番わかってると思ってるよね、あれ」
『まさしく。大体ろくにケロちゃんに相談せずに、勝手にこの地に早苗や神社を連れてくるとは、誘拐行為に等しいぞ』
「早苗の方も神奈子を信頼しすぎじゃないかしら。酒飲んでだらしなくなった姿を見れば、幻滅するかと思えば、そうでもないし」
『うむ。最近は早苗自身も嗜むようになってきて、神奈子を遙かに凌ぐ酒乱っぷりを見せているしな』
もちろん、帽子との会話は、全て諏訪子の腹話術なのだが、それにツッコむべきはずの二人は、向こうで仲良く泳ぎの練習である。
「ちょっと脅かしてあげようか」
『それは面白い考えだ。でもケロちゃん。あまりひどいことをすると、あのオバ魔神が黙ってないんじゃないかな』
「何の。ほんのすこーし脅かすだけよ。それとケロ君。オバ魔神はいくらなんでも可哀想だ。せめてマダム神奈子と呼んであげなさい」
と、本人が聞いたら憤慨しそうな一人芝居を終えて、諏訪子は湖の底に沈んだ。
「力任せじゃなくて水に馴染むように。そうそう、上手いじゃないの。ビート板が無きゃカナヅチには見えないよ」
「えへっ、そうですか? まぁこれ絵馬の板ですけどね」
「それは言いっこ無し」
神奈子は笑って、早苗の泳ぎを指導していたが、
――やっぱり血は薄まって無いのかねぇ
と、心中で秘かに舌を巻いていた。
実際、褒めるコメントはお世辞ではなく、早苗はカナヅチどころか、かなり水慣れしているようにしか思えなかった。
おたまじゃくしが、カエルの母から教わらなくても泳ぎを覚えているように、無意識に足をひれのように滑らかに動かしている。
その姿は、神奈子がよく知る神の動きに、だぶって見えた。
もっとも、守矢の系譜の原点が現人神時代の諏訪子であり、早苗にもその血が受け継がれているという真実を、本人はまだ知らない。
そこら辺の事情を詳しく語ることになれば、諏訪の国に戦を挑んだ自分の事についても語ることになる可能性があるし、早苗が本物の神の境地へと入り込むまでは、神奈子はその事実を内緒にしておくことにしていた。
この選択を許してくれた諏訪子にも、本心から感謝している。
――まぁ、しばらくは、こういう時間もいいでしょ。
と神奈子はコーチ役となりながら、心を許した家族と過ごす、掛け替えのない時間を味わっていた。
「あれ、神奈子様。何だか水の様子がおかしいような」
「そうね」
今日は風もそんなに吹いていないのだが、なぜか湖面にさざ波が立っていた。
すぐにその原因に神奈子は気付いたが、
「まぁ、あんたは気にせず泳ぎなさい」
「でも……」
早苗は泳ぎを中断して、湖の中で立ち、ビート板を抱えるようにして持つ。
つい今まで、水に慣れた姿勢を見せていたばかりなのに、今は不安を隠そうともせず、縮こまって視線をさまよわせている。
神奈子がその様子を怪訝に思っていると、周囲の波の数が増え始めた。
水位が至る所で上下し、砕けた波浪が白い泡を生むようになって、水音のボリュームも大きく、広がっていく。
そしてついに、二人がいる環境は、静かな湖畔どころか、満潮の海のごとき状態に変わってしまっていた。
この事態に早苗はパニックになる。
「かっ、神奈子様! 助けて!」
「落ち着きなよ早苗。ここはまだ足は着くんだから」
異常に慌てる早苗に、神奈子は面食らいつつ、遠くの一点で目を止めた。
――まーたろくでもないこと考えてやがるわね、あのカエルは。
神奈子の推察の通り、波を起こしている正体は、遠くから二人を見ていた諏訪子であった。
湖に念力を少しずつ流し、水面を揺らしていたのだ。諏訪湖を含めた諏訪の地の自然神としての顔を持つ諏訪子にとっては、この程度の芸当は、お腹を膨らませたり凹ませたりするくらい簡単なことだった。
大した意図はない。当人としては、二人の反応が楽しみなだけだったのだが。
「ん?」
と諏訪子の顔から、悪戯を楽しむ童女の笑みが消えた。
早苗はこの程度の波でも恐いのか、ひどく狼狽しているのがここからでもわかる。
そんな彼女を、神奈子は多少呆れた様子でなだめていた。
ところが早苗はそれでも落ち着かずに、神奈子にしがみつくようにして怯え……、
「……………………」
また諏訪子はムカムカしてきた。
何だか、自分の狙いとは正反対の効果が生まれている。
――くっそー。これじゃ神奈子の株が上がるばっかりじゃん。
と舌打ちしていると、当の神と目が合った。
波を起こしているこちらには、とっくに気付いているようで、「ふふん」と勝ち誇ったかのように笑い、早苗の頭を撫でている。
諏訪子はいよいよ頭が沸騰した。
――ぐぐー……あのオバ魔神! わざと私に見せつけてるな!
諏訪子は嫉妬に任せて、拳を握り固め、気合いと共に湖の下の大地へと振り下ろした。
○○○
「あわわ……、あれ、おさまってきましたね」
揺れうねっていた湖面が、天気が変わるように少しずつ、起伏を消していった。
やがて周囲から波が消え、湖の様子が元通りになって、早苗は息をつく。
「よかった。あ、神奈子様ごめんなさい。私ったら子供みたいにしがみついちゃって」
「すぐにまたしがみつきたくなるかもよ」
神奈子はぼそりと言った。
細めた目が凝視する先、遠くの湖面がわずかに持ち上がった。
徐々に水面は盛りあがっていき、臓腑を震わせる轟音まで響いてくる。
次の瞬間、二人に向かって迫ってきたのは、風が起こしたさざ波ではなく、まっしぐらに岸に向かってくる、津波であった。
地震のエネルギーを飲み込んだ水は、小規模のものであっても、並の生物であれば、ひとたまりもない脅威である。
「きゃー! わー! 死んじゃうー!!」
パニックに陥った早苗は、涙を浮かべて絶叫し、再び神奈子にしがみついた。
彼女が見上げる前で、津波は自らの自らのエネルギーを誇示するかのように、大きく背伸びをしながら、分厚い水の壁を築きあげる。
「……ったく」
面倒くさく神奈子は呟いて、尾に火がついた猫のように暴れる風祝を脇にどかし、水面を蹴って飛んだ。
一蹴りで、迫り来る波と同じ高さまで到達して、
「ふんっ!」
無言の気合いとともに、片手を突き出す。
波を揺り動かす暴風が巻き起こった。
だがそれは、八坂神奈子の体から放たれたエネルギーの余波に過ぎない。
暴れる波のエネルギーは、我に返ったように自らのいた場所、湖へと崩れ落ちていく。
水壁によって遮られていた、守矢神社の裏林。その前の岸に、一柱の神が腕組みして立っていた。
神奈子は彼女の元へと下りていきながら、
「ちょっと、何してんのよあんたは」
「ふーんだ。誰かさんのニヘラニヘラした顔がいやらしかったから、さっぱり洗い流してあげようと思っただけよ」
つん、とすました顔で、諏訪子は言い張る。
「いくら早苗が丈夫だからって、あんなの下手したら大怪我してたわよ」
「早苗には当たらないようになってたもんねー」
もちろん、神奈子も分かっていた。ミジャグジを御する諏訪子の祟り神としてのエネルギーは、底力だけなら神奈子をも凌ぐのだが、かといってコントロールが不得手というわけでも無いのだ。例えそれが、人智を超えた自然エネルギーであっても、である。
とはいえ、本人にコントロールする気が全く無いことが多いという、性格的な欠陥も持っていたが。
「何するんですかぁああああ!!」
「ぬおぉっ!?」
横から不意打ちのショルダータックルを喰らって、諏訪子はよろめき、大の字にひっくり返った。
「諏訪子様の仕業でしょ今の! 本当に怖かったんですからね! 二度とやらないでください! 殺す気ですか!? あんな波起こして!」
「あーうー!」
馬乗りになって、ビート板(絵馬)で神を叩く風祝は、不遜だとか罰当たりだとかそんな感情は頭に無い様子であった。
それにしても、いつも常識外な人妖と付き合っている早苗にしては、意外な程のうろたえっぷりである。
彼女の様子が、神奈子の頭に引っかかるところがあったが……
「お取り込み中のところを失礼」
と背中に声をかけられ、神奈子は「おや」と振り向いた。
別れて反対の岸にいたはずの八雲一家。その一員である、水着姿の八雲藍だった。
肌が水に濡れていることから、ついさっきまで泳いでいたことがわかる。
となると、彼女が憮然としている理由にも、自然と見当がついた。
「先程、津波がこちらまで押し寄せてきたので、少々気になりまして……」
初めの社交辞令の際に見せた柔らかい物腰では無い。声色にも、はっきりと非難の色が見えた。
「危うくうちの式が怪我をするところでした。そうする必要が無いのであれば、今後は控えていただきたい」
「すまなかった。ちょっとうちのもんが悪ふざけしてね」
「ちょい待ち、神奈子」
と横から口を挟んだのは、騒ぎを引き起こした張本人である諏訪子だった。
早苗のマウントポジションから脱けだしたらしく、体についた土を軽く払いながら、何やら難しい顔で、
「狐さん。これは私の推測だけど、あんた達、私が妖怪の山に造ったプールで泳ぐために、練習しにきたんじゃないの?」
「左様ですが」
「だったら、あの程度の波、顔色一つ変えずに切り抜けることができなきゃダメだと思うな」
意味深な台詞に、眉をひそめたのは藍だけではなく、神奈子もである。
残る早苗も含めて、三人が訝しく思う前で、諏訪子はとくとくと語る。
「『カッパピアーウー』はね、単なるプールじゃないの。波のプールは本物の波、流れるプールは本物の川をイメージして作られている。津波や鉄砲水、大渦巻だって発生するわ。ちょっと泳げるだけの妖怪なら、溺れたって不思議じゃない程度のアミューズメントなのよ」
「待ちな。それは流石に問題があるでしょうが」
「大丈夫よ神奈子。そのために河童の監視員を増やしたんだもん。でも顔を水につけたり、ビート板でバタ足できるくらいじゃ、安全に過ごせる遊び場じゃないのは事実。何から何まで制御された完全なアトラクションなんてぬるすぎるわ。この幻想郷に似合うのは、危険と表裏一体のスリル。弾幕ごっこと同じよ」
確かに、外界によくあるプール程度の刺激では、日々空を飛び回って弾幕をかいくぐる妖怪達を満足させるのは難しいだろう。
なんとなく議論をすり替えようとしていやしないか、と神奈子は思わないでも無かったが。
「というわけで、もしそっちの猫ちゃんがあの波を自力で何とかできなかったのなら、諦めた方が無難かもね」
「…………お言葉ですが」
藍の切れ長の視線が、早苗の方を向いた。
「そちらの風祝殿も、あの津波に大層な慌てっぷりだったようですが」
「わ、私はそんな……!」
「目を腫らしていますし、頬に残っているのは涙の痕。加えてここに来た時の諏訪子様とのやり取り、さらには津波の際にそちらの岸から聞こえてきた悲鳴の声も一致します」
「………………」
淡々とした口ぶりで藍に指摘され、早苗は結局何も言えずに俯いてしまった。
諏訪子は半眼になって言う。
「早苗があの波で大慌てしたことが、貴方に何か関係あるわけ?」
「いえ、別に。ただ……」
藍は小さく鼻で笑って、口の端を持ち上げ、
「蛇の神に蛙の神。その二柱に仕える風祝がカナヅチとは、いささか滑稽だな、と思いまして」
――あ、まずい。
神奈子は心の内で、そう呟いた。
盟友の後ろ頭から、かっちーん、と金属の鳴るような音が聞こえたのである。
案の定、彼女は低い声で、
「早苗の方は、今日まで泳ぐ機会が無かっただけよ。才能はあるもんね。今日の上達ぶりは、未来の金メダル候補を見るようだったもん。そっちの猫ちゃんは、顔を水につけるのだけでも、ギブアップするんじゃないかな」
諏訪子の反論に、藍は柳眉をしかめ、頬をひくつかせて、
「私の式はもう足のつかない所でも一人立ちできます」
「早苗だってできるわ」
「はったりですね。ビート板を持つ彼女が何よりの証拠」
「そっちこそ、猫ちゃんが顔を水につけられないのを否定しなかった」
「なんの。試していないだけですよ。顔を洗う程度の造作の無さです」
「あらあら、その顔を洗うだけで、日が暮れないことを祈るわ」
「なら私も、素潜りの達人と浮上の素人が同居した奇特な金メダリストが誕生しないことを祈りますよ」
神奈子は呆れ果てて何も言えず、早苗の方は状況におろおろしている。
そんなギャラリーと対照的に、狐と蛙は返答の度に半歩踏み出し、至近距離で睨み合っていた。
余裕と憤怒が入り交じった、強烈な笑みを互いに浮かべ、
「早苗は特訓すれば、あっという間に泳げるようになるし、あんな波だって一人で何とかできるわ!」
「私の式だって、あっという間に泳げるようになるし、あれくらい一人で切り抜けることができます!」
「へー! 顔も水につけらんないのに!?」
「そっちも水に浮かないのにですか!?」
「なら、どっちが早く泳げるようになるか競争しようじゃない! うちの風祝の泳ぎっぷりを、そのほっそい目の裏に焼き付けてやるわ!」
「望むところです! そちらこそ、うちの式を甘くみたこと、後悔しますよ! 今夜はその帽子まで、悔し涙を流して眠れぬことでしょうね! では失礼!」
藍は踵を返して、湖の岸辺をわざわざ歩いて去っていった。
九尾の逆立つ背中には、赤い炎のオーラが、めらめらと燃えている。
「神奈子っ! バトンタッチ!」
残った怒れる神の方に、無理矢理バチーンと片手を叩かれて、神奈子は思わず顔をしかめた。
「いったいわね! 何すんだ!」
「次は私が早苗を教える番! こら逃げるな!!」
慌てて神社に走ろうとした早苗の背中に、諏訪子はカエルジャンプで飛びつき、押し倒した。
「んっふっふ。さぁ早苗、お稽古の時間よ。二人であの生意気な狐に、一泡吹かせてやろうじゃない」
「あ、あの諏訪子様。できればその、優しくぬるい練習を希望したいです」
「……早苗、カナヅチ克服に一番必要なもの、それって何か知ってる?」
神様は、とても素敵な笑みを浮かべて聞く。
冷や汗を一筋流していた早苗は、指を立てて、朗らかな声で、
「せ、潜水服ですね! ファイナルアンサー!」
「はい残念ー! 答えは根性だ! さっさと行けぇ!」
「嫌ー!! 神奈子様、今こそですよ! フォローフォロー!!」
「あ、麦茶無くなったんで、家から持ってくるわ」
「裏切り者ー!?」
じたばたと動いてもがく早苗を、小さな神様は担いで湖に運んでいく。
それを見送って、神奈子は神社へと一端戻ることにした。
耳に馴染んだ絶叫に、後ろ髪を引かれつつ。
○○○
神社の母屋に入った神奈子は、玄関に用意しておいたタオルで体を拭き、それから麦茶のある台所ではなく、廊下の奥へと向かった。
自室の扉を開けて入り、押し入れの下段にしまっておいた段ボールを引っ張り出す。蓋を開くと、中には細穴に紐を通してまとめられた紙束が詰まっていた。
外界にいた頃の、神奈子の日記である。神が日記というのも酔狂に思われるかもしれないが、神奈子とて大昔からそんなことをしていたわけではない。
ここ十年と少しという短い年月。すなわち守矢神社当代の風祝、東風谷早苗と出会ってから始めた日課だった。
神奈子は箱の中をあさって、奥の紙束を一つ取り出し、日付を確かめる。
「これね…………」
和紙に小筆で書かれた文は、早苗が地元の幼稚園に通っていた頃、川に泳ぎに行って、溺れて帰ってきた日に記したものだ。
すなわち、彼女がカナヅチとなり、それを境に泳ぐのが嫌いになった事情が、ここに残されている。
十年前の事件を、もう一度記憶から掘り起こすため、神奈子は文面を読み進め始めた。
○月○日
悪い予感が当たった。
帰りの遅い早苗が、紅白の四角い車で運ばれてきた。めでたい外装だが、神社に集まった大人達に、ハレの気配は一切無し。
担架に乗って運ばれる幼子は、朝出て行った姿とは似ても似つかず、ひとつまみの霊力をかろうじて宿し、青い顔をして眠っていた。
彼女の祖母、当代の風祝の話を、私は人に交じって、注意深く聞いた。
夜は私も、枕元について看病してやった。私がここにいる限り、邪気や物の怪は彼女に近づけない。
早苗はうなされており、時折何か言葉を囁いている。が、神の聴力にもよく聞き取れず、断片的には譫言に過ぎなかった。
見立てではもう命に別状はなかったものの、今朝にあれほど泳ぎに行くことを楽しみにしていたのだから、今日の出来事が後の早苗にどれほどの影を残すことになるか、それだけが気がかりだ。
もう一つ。
又聞きではあるが、現場にいた人間達の証言も気がかりだった。
幼稚園側の監督に問題はなかったのか、危険な場所だったのではないか、などと、早苗の親戚は彼女の祖母に問いつめた。
しかし、早苗が泳いでいた河川は浅くて流れも緩く、見通しもよいので、子供が遊ぶ場としてはもっとも適当だったらしい。
それなのに、事件は起こった。
突然早苗のいた場所の水があばれだし、彼女を中心に波や渦を起こして、溺れさせようとしたのだという。
目撃者は幼稚園関係者だけではなかったので、この突拍子もない話も一応は受け入れられたらしい。年寄りの中には、河童の仕業だとか、百年前にはたまにそういうことがあったと聞いている、と言う者もいたが、そちらは殆どの人間が聞き入れなかった。
しかし、私はむしろ確信している。
原因は人に非ず。異常現象、そしてこの子の体から抜け落ちている霊力がその証拠。
早苗は何を見たのか。起きたらそれとなく聞いてみなくては。
当時の自分も相当動揺していたらしく、今読み返してみると、文も筆跡もたどたどしい。
神にとって巫女が、それも先祖返りを果たした異能の人間が、どれほど貴重なものか。この身を持つものにしか分かるまい。
なおかつ、彼女が溺れた要因が、『人の手の届かぬ領域』の問題であったことが、神奈子を義憤に燃やした。
あの時は、例え犯人がそこらの小妖怪であろうと、早苗を危険な目に遭わせた存在に、神罰を下す気でいたのだ。
だが、楽しみにしていた水泳が、小規模の水害で台無しになったことは、やはり早苗自身にとって大変なショックだったようで、後日彼女は、そのことについて記憶をぽっかりと無くしてしまっていた。
そしてそれから、早苗は二度と、泳ぎたいなどと口にすることは無かった。
わざわざ傷に触れることもないので、神奈子も早苗と語る際には、水遊びに関する話題を避け続けてきた。
結局、直接的な原因のわからぬまま、こっちに来てしまうことになったのだが……。
神奈子はもう一度日記を読み直しつつ、黙考した。
今日一つ、新たに分かったことがある。
早苗が今もカナヅチだといっても、極端に水を苦手とする、あるいは泳ぐのが致命的に下手、というわけでないことだ。
顔を水につけることだってあっさりクリアしていたし、神奈子が足の使い方を褒めた時だって、まんざらではなさそうだった。
では彼女が泳げなかったというのは、ただの食わず嫌いみたいなものだったのか。過去の記憶を読み返しても、ヒントは見つからない。
いや……確かあの時……、早苗が明らかに動揺した瞬間があった。
「突然……水があばれだして……」
まさかと思ったが、神奈子は日記を閉じ、すぐに湖に戻ることにした。
○○○
嫌な予感に引っ張られるように神奈子が岸に戻ると、そこには諏訪子が一人で立っていた。
なぜか、いつもの帽子をかぶっておらず、素足で土を踏んで、何かを手に持ち、湖の方をじっと眺めている。
彼女が教えていたはずの早苗の姿は、側になかった。
「諏訪子!」
「あ、神奈子。遅かったわね」
「早苗はどこ? まさか一人で泳がせてるの?」
「ほら、あれ見て」
と、諏訪子は湖を指さした。
その先の遠くに、大人が一人立てるくらいの足場ができている。
白の水着を着た少女は、そこに座っていた。
だが、頭に乗せているものが違う。この位置からでも目立つ大きな帽子は、いつも諏訪子がかぶっているケロ帽である。
何だか予想していたのとは違う光景を、神奈子は尖った目付きで検分し、
「なんだいあの格好は……あんたの帽子よねあれ」
「あれはクイズ帽よ」
「クイズ? 泳ぎの練習は止めたの?」
「ちゃんとやってるってば。……では続きまして、第五問!!」
諏訪子は右手に乗せている、蛙の形をした小物に向かって、大きな声で言った。
「『宝永四年の赤蛙』! ケロちゃん三倍祭りというお得スペルだけど、この宝永四年に噴火した山は浅間山である! ○か×かー!」
早苗のいる足場とはそれぞれ異なる位置に、小島が二つ浮かび上がった。
片方には○の看板が。もう片方には×の看板が刺さっている。
突然、早苗が立っていた足場が沈みだし、彼女は大急ぎで水に入って、×の方向へと泳ぎ始めた。
答えが富士山なので×だということは、神奈子にも分かったが……分からないことが別にある。
無事に足場にたどりつき、肩で息をしている早苗を確認して、諏訪子は再び手元の蛙オプションに向かって呼びかける。
「はい正解ー! では次の問題は一分後に始めます!」
「…………何してんのあんた達」
「クイズ方式の練習よ。無事に正解の方にたどり着けばいいけど、不正解の足場は、たどり着いてもすぐに沈むようになってるの」
「…………へぇ」
「実はこれも、『カッパピアーウー』のアトラクションに入ってるのよ。十問正解で合格、豪華賞品をプレゼント。神奈子もやってみない?」
明るさ抜群の諏訪子に対し、神奈子は脱力しきっていた。
無茶な特訓をしていやしないかと、心配して急いで戻ってきたのに、二人はずいぶんほのぼのとやっていたらしい。
それにしても……、
「ちゃんと泳いでるわね早苗……ずいぶん早い上達じゃないかしら」
「そりゃあ、やっぱり私の子孫だもん。はっきり言ってまだヘタクソなんだけど、水が苦手なんてありえないありえない。ちゃんと教えれば、一日でこんなもんよ」
「なんか術使ってるんじゃないの?」
「あ、バレた? 実は浮力を大きくしてるの」
「浮力……そうかなるほど」
泳ぎの初心者にとって、一番厄介なのが息継ぎ。そしてそこからくる焦りである。
すなわち、常に体が沈んで溺れやしないかという恐怖がつきまとっているために、地上よりも余裕を持って動くことができないのだ。
しかし、浮力が高ければそれだけ水に呑まれる恐怖は軽減され、息継ぎのタイミング等も覚えやすくなる。
後は徐々に普通の水に戻していくだけで、自然と水泳のコツを覚えることができるとすれば。
まさしく、湖の水を操ることのできる、洩矢諏訪子ならではの特訓法だった。
「いくら私だって根性だけで何とかさせようとしないって。どう? 見直したかしら」
「感心したわ。あんたって意外に、水泳のコーチに向いてるのかもね」
「ふふ……でしょ? まだ試してないけど、今なら早苗だって、短い距離を自力で泳げると思うわ。あの狐の悔しがる顔が楽しみだ」
と、陸から巫女の様子を眺める諏訪子は、神奈子の褒め言葉に、上機嫌なようだった。
早苗がカナヅチになった経緯というものを、彼女は全く知らない。
神奈子自身、確信が持てていないこともあったし、もしこれで普通に泳げるようになるのであれば、それでいいと思っているゆえ、教えていなかった。
今もそう思っている。しかし、一度はっきりさせておかなければいけないことがある。
前の早苗の態度と、日記のヒントから見つかった、ある疑惑。
「諏訪子、一つ頼みがある」
「なに?」
「波を起こしてくれない? 早苗が泳いでる最中に。軽いやつでいい」
「およ」
と、諏訪子は湖から顔を戻す。意外そうに神奈子を下から覗き込み、
「神奈子の方から、そんなこと頼むなんて変ね」
「気になってることがあるんだ。今、確かめてみたい。お願いするわ」
「よくわかんないけど、実際あのプールで遊ぶ前には、波にだって慣れなきゃいけないしね」
「そうね……」
「早苗ー! 次の問題行くよー!」
諏訪子が通信用の蛙に向かって呼びかけると、遠くの小島で両膝をついていた少女は、こちらに見えるよう手を振った。
「では第六問!! ケロちゃんこと洩矢諏訪子が外界で味わったお供えには、お菓子もいっぱいありましたが、ポテトチップスの味で一番好きなのは『のりしお』である! ○か×か!!」
再び別の場所に浮上した足場に、早苗は迷うことなく、○の方へと向かって泳ぎだした。
「正解正解。……じゃ、いっちょやってみますか」
諏訪子は神奈子の提案を勘ぐったりせず、大いに乗り気で、湖面に手を入れた。
ふわっと、肩にかかる金の髪が、根元から持ち上がり、神気が波動となって、指先から流れ出す。
彼女の呼びかけに反応して、水達が様相を変えた。静かにまどろんでいたのが、新たに命を吹き込まれたかのように、意志を持って活動を始める。
さざ波から高波へと、やがて荒波へと、猛々しい波浪を作りながら、轟々とうねり出す水の群れ。
それらの勢いは、やがて遠くの湖面まで届き、
「きゃー!!」
向こうで泳いでいた早苗の体が、悲鳴つきで波の上に持ち上げられた。
暴れ馬に乗ったハムスターのごとく、揺れ動く青緑の谷間の中で、あられもなく叫びながら翻弄されている。
神奈子は額に手をやりながら、
「おいおい、ケロすけ。軽い奴って言ったでしょうが」
「これくらい軽い軽い。本番の方はもっと強いし」
「……明日、ちょっと施設の見学に行くわ」
大家主として当然の判断だったのだが、企画立案者の方は口を尖らせて、
「あ、ダメよ。まだ内緒なんだから。明後日まで待ってよ」
「いいや待たない。きちんと安全その他について確かめてみなけりゃ、守矢神社の名前は使わせないよ」
「元は私の神社でしょうが! それに来たって無駄よ。みさえ封じの結界が張ってあるもんね」
「誰がみさえだ! 適当なこと抜かすなシンノスケが!」
「いでで! あれ、じゃあ早苗はひろしになるのかな……早苗?」
ぐりぐり攻撃を喰らいながら、諏訪子は湖の方を見て――硬直した。
神奈子もすぐに、異変に気付き、顔色を変えた。
早苗の悲鳴が途絶えている。
湖面の起伏の中、白い姿が出たり消えたりしてる。
しかし決して自力で泳いではいない。力を失って、為されるがままになっているのだ。
そしてただ溺れているのでもない。普段の霊力が感じられない。いつの間にか、電気が切れたかのように、完全に意識を失っている。
非力な体が波の中でもまれるようにして、ついに跳ね上げられ、うねる青の中に飲み込まれた。
「諏訪子!」
神奈子が注意する前に、諏訪子の体は波に飛び込んでいた。
暴れる水の影響を全く受けずに、湖を高速で移動し、消えた風祝の元へと。
○○○
凪いだ湖の裾が、ちゃぷん、と寂しく音を立てる。
溺れた早苗は気を失ったまま、岸辺に横になっている。諏訪子は両膝を抱えたまま、じっと瞬きもせずに、心配そうに彼女を見ていた。
神奈子もその側に腰を下ろし、二人のいる光景を目に映している。
目を覚まさぬ少女と、それを見守る神の姿。それは、生気を失っていた幼い早苗と、一晩中看病してやった自分の姿を、容易に連想させた。
「……ごめん」
全てを話し終えてから、神奈子は諏訪子に謝った。
早苗が泳げなかった原因が、過去に受けた心の傷によるものだということ。諏訪子にそのことを黙っていたこと。最後にその根本を確かめるために、諏訪子に波を起こさせたこと。
ありのままに話している間、彼女は黙って聞き、最後に小さく唱えるように言った。
「……ただのカナヅチじゃなかったんだ……そっか……」
納得したような、達観したようなそんな口ぶりだった。
こんなことになるのであれば、彼女だって、無理に早苗を泳ぎに連れ出すことはしなかっただろう。
かつての自分と同じ苦しみを、親友に与えてしまったことが、神奈子にとって辛かった。
「ねぇ……神奈子」
「ん……」
「自分が神様なんだな、って思う時って、どんな時?」
「えっ?」
と神奈子は一瞬、言葉に詰まる。
予想外だったこともあるし、質問の意図が計れなかったこともある。
「そりゃあ……一々挙げられないくらい、いっぱいあるわよ」
「うん、私もいっぱいあるんだけど……」
諏訪子は微苦笑する。
横になる風祝の額のあたりに、深い眼差しを注いだまま、
「私はさ。早苗はまだ、本物の神様の感覚を知らないんじゃないかな、って思ってたの」
「………………」
「この子がその道を歩みたいんなら、これから苦しくて嫌なことをたくさん味わう前に、ちゃんとその感動を教えてあげたかった」
「………………」
親友の思い詰めた横顔に、神奈子は言葉を失った。
もっと詳しく、そのことについて聞く前に、かすかな呻き声がする。
ハッとして、二人は早苗の表情を確かめ、
「諏訪子様……」
「早苗!? あ、だめ。まだ起きなくていいわ」
身じろぎする風祝を、諏訪子は慌てて抑える。
「気分はどう? 具合が悪いところとか無い?」
「……気分は最悪です。具合もよくありません。波は嫌だって言ったじゃないですか」
「ごめん早苗。私が諏訪子に頼んだんだ」
相棒の神が傷つく前に、神奈子はかばった。
早苗にとって、その答えはやはり意外だったらしく、
「神奈子様が? どうして……」
「あんたのトラウマが残っていないかどうかについて、はっきりさせておきたかった。下手に泳げるようになったと勘違いしちゃ、後で取り返しのつかないことになりかねない。おかげで明らかにすることができたけど、二人に辛い思いをさせたのは間違いないわ」
神奈子は心から謝罪した。
横になる少女は、自分の身に起こった異変について、ようやく悟ったらしく、
「トラウマ……そっか。私、トラウマにかかってたんですね」
「何か……小さい頃のこと、思い出したかい?」
「いいえ……でも……」
早苗は仰向けになったまま、ぼんやりと宙を見上げ、
「すごく怖かったです。懐かしいっていうのもあったけど、怖かった。……最初は、楽しかったんです。思ったより泳げるし、水の中は気持ちいいし、きっとこのままいけば、大丈夫なんだって、思えたんです。けど……水が動き始めると、何だか、いきなり体が金縛りにあったみたいに、動かなくなりました……怖いだけじゃなくて、何も考えられなくなって……」
「………………」
「本当に目の前が真っ暗になっちゃいました。でも……諏訪子様の声が最後に聞こえて、ホッとしました」
「早苗……」
わずかに震える声で、諏訪子はそう呼ぶ。
早苗は困ったように眉を下げ、優しく微笑んだ。
「そんな顔なさらないでください、諏訪子様。波は無理かもしれませんけど、泳ぐのはなんとかなりそうですし……」
横になる風祝は、神の小さな手を握り、
「水が気持ちいいのは、嘘じゃないです。本当ですよ。諏訪子様が教えてくれたおかげです。だから、私もプールに連れてってくださいね」
「……うん。私も、もう無理は言わないよ」
諏訪子は鼻をすすり、早苗の手を胸に抱いて、頷いた。
早苗は安心したように、また目を閉じる。
「くすん、いい話だなー」
とそこに、えらく場違いな声が紛れ込んできた。
神奈子と諏訪子は、同時に振り向く。
いつの間にか岸に立っていたのは、長い金髪をまとめ上げ、紫と黒リボンのビキニ姿をした妖怪。ハンカチを目に当てている、八雲紫だった。
神奈子は立ち上がって、そちらまで歩いて行き、ため息混じりに苦言を呈す。
「あのさ。もう少し空気を読んでくれないかね、八雲の」
「あら失礼しましたわ。泣ける話に弱いんです私」
と、嘘泣きとしか思えぬ綺麗な顔を見せて、紫はハンカチを下に開いたスキマに落としていた。
相変わらずつかみ所のないふざけた態度だ。
機嫌を損ねた神を相手にしても、まるでペースを乱さぬ妖怪など、滅多に存在するものではない。
「で、何の用かしら」
「先程、うちの式がそちらに失礼をしたようで、主が尻ぬぐい役として来ましたの」
「ああ、別にわざわざ謝るこっちゃないよ。なんならうちのカエルもそっちに向かわせようか」
「ええ無論」
きっぱりと即答されて、神奈子は多少面食らった。
気のせいだろうか。スキマ妖怪の様子が変だ。謎めいた微笑が、先程挨拶された時よりも、こちらを威圧しているような。
諏訪子が後ろから跳ねてきて、
「そっちの猫ちゃんは、泳げるようになった?」
「ぼちぼちと言ったところですわね。そこでのびてるナメクジさんといい勝負かと」
「…………ナメクジ?」
「あら、マムシとガマの神様、とくれば、その間にいるのはナメクジでしょう? ずいぶん大きくて動かないナメクジですけど」
「……………………」
「泳ぎが苦手なのも無理はないですわね。いっそ海の水なら、溶けて無くなっちゃったかしら。それなら神様もとうに諦めがついたでしょうに」
紫は胡散臭い笑みのまま、棘が見え隠れした言葉を連ねた。
さすがの諏訪子も唖然として、即座に言い返せずに、困った様子で隣の相方を見る。
だが神奈子はむしろ、面白い、と頬の端を持ち上げた。
「……どうやら、狐と猫を従える古狸さんは、ずいぶんとお怒りなようね」
「ええ。うちの式達を危険な目に遭わせて、腹の虫がおさまらないわ。加えて先程の式からの言伝は、こちらへの挑戦状と受け取った。やらぬ道理は無い」
紫の目が細く、鋭くなった。
どうやら、先程の諏訪子の津波は、九尾の式の怒りだけではなく、寝ていた怪異の化け物を起こしてしまったらしい。
眼前の妖怪からは、はっきりと、敵意を含んだ濃厚な妖気が噴出していた。
人の身を超えた三者の間で、空気が張り詰め、力場が歪んでいく。
土や木がざわめく程緊迫した世界の中、紫はスキマに腰掛けながら、どこまでも妖艶な笑みを浮かべて言った。
「ただ、こののどかな湖の側で弾幕ごっこというのも、風情も新味も感じられないわ」
「お望みなら場所を変えるかい?」
「どうせなら、水泳で勝負をつけるのはいかが?」
「水泳?」
意外な提案に、眉根を寄せて聞き返したのは、諏訪子である。
「場所はもちろんこの湖。お互いの力量に合わせて、25m、100m、200mに分けたリレー対決。コースはそちらが決めて構いません。これならお互い無駄に傷つけ合わずにすみますし、暑苦しくもならないでしょうから」
「ふぅん……」
紫の説明を聞くうちに、神奈子にある推測が生まれた。
怒る姿勢は小道具、これまでの口上も全て中身のない挑発なのではないか。
つまり彼女は、この勝負を仕掛けるために、わざと因縁をつけているとすれば……。
次に当然疑問に思うべき事は、紫がこちらと勝負を願う、その理由である。
「いい加減腹を割ろうじゃないか、八雲紫。あんたが今日ここに来た……うちの湖をわざわざ選んだ本当の目的はなんだい」
あえて真っ直ぐ、神奈子は問うてみた。
意外に効果はあったらしく、紫は水着に似合わぬ扇を開いて、口元を隠しながら、
「ではお言葉に甘えて、種を明かしましょう。守矢神社――正確にはその内の一柱がプロデュースした大型屋内外プール施設、『カッパピアーウー』のことです」
「ああ。確かに私は関わっちゃいないが、もしかしてそれがそっちの都合で危険だから、ここで潰しておこうって腹かい?」
「それはまた別な話。しかしあのテーマパークは、施設の収容能力と宣伝効果による推定動員数を計算した結果、秋が来るまでの短い残りの夏、相当な混雑が予想されますわ」
「………………」
「つまり、今夏にあのプールでのんびりと泳ぐことができるのは、関係者に対して配られるプラチナチケットを使った、先行公開日のみ。特に最高責任者と一部の技術職人には、優先的に五枚が配られたという情報を手に入れましたの」
神奈子は、はたと思いついて、諏訪子の方を見た。
スキマ妖怪の方も、視線はもう一柱の神に向いている。
「洩矢諏訪子。貴方は自分の分、そして自らの家族の分を除いて、後二枚チケットを所有しているはず。それを我々八雲に、譲っていただきたいのです」
「ま、正確には私はフリーパス持ちだから、三枚余ってるんだけどね。けど私の心がいくら海より広いからって、いきなり人の庭に現れて図々しく泳がせてもらって、露骨な挑発してくるような奴に、大事なチケットを分けてあげるのは気が進まないなぁ」
「そのための勝負ですわ。それも不正の起こりにくい、穏便な種目」
言葉とは裏腹に、スキマ妖怪は不穏な気配を漂わせていた。
諏訪子はそれに対し、悠然とした笑みを浮かべ、頭に乗せた帽子を、くいっ、と直し、
「そっちは何を賭けるんだい? 受けるかどうかはそれ次第だね」
「まずはこれ」
紫が唐突に指を鳴らすと、空間がまた裂けた。
二柱は即座に注意を払う。しかし、スキマからもったいぶった手つきで取り出されたのは、奇怪な物ではなく、幻想郷では珍しいプラスチックの袋だった。
大妖怪はそれを、かさかさと振って見せる。
その音に、岸で伸びていた現人神が、がばっ、と体を起こして復活した。
「まさか!」
今まで気絶していたとは思えない俊敏な動作で、早苗は紫へと猛ダッシュする。
「や、やっぱり! ポテトチップス! しかもコンソメパンチ!!」
「なにぃー!?」
守矢一家に激震が走った。
「ちょ、待った! うすしおある!?」
「のりしおも!!」
今までの威厳はどこに行ったのか、神奈子も諏訪子も血相を変えて、ご馳走を見つけたハイエナのごとく駆け寄る。
二柱の興奮は、紫が別の色の袋を二つ取り出してみせたことで、さらに高まった。
「それだけじゃありませんわ。これはジャワカレー、ボンカレー、バーモントカレー」
「そ、そんな!!」
「ポッキー、コアラのマーチ、かっぱえびせん、うまい棒全種」
「う、嘘でしょ!」
「ガリガリ君にピノにハーゲンダッツ」
「ああなんてことなの!」
「後はこの有象無象の漫画類。ジャンルは問わず、少年漫画から少女漫画まで」
「ぎゃー!!」
シリアスだった展開はCMに入り、三者は隕石が庭に落っこちてきたみたいな大騒ぎになった。
さらにスキマから外界の貴重品が取り出される度に、守矢一家は右往左往する。
そんな反応をにこやかに見ていた紫は、やがてスキマを閉じ、
「では改めて問いましょう。この度の八雲一家の挑戦、受けてくれるかしら!?」
「イェア!!」
三人の神の声は、ぴたりと合わさり、あっさりと勝負することに決まった。
○○○
「コンソメパンチー!!」
カナヅチから一歩脱けだしたばかりの風祝が、迷うことなく湖へと飛び込んだ。
「ボンカレー! ハーゲンダッツ!」
謎の呪文を唱えつつ、四肢を動かして、ただただ必死に泳ぎまくる。それもクロールなのか平泳ぎなのかよくわからない、常識を越えた泳法である。
はっきり言ってフォーム的にはマイナスなのだが、それを補って余りあるパワーと情熱が、彼女を沈むことなく進ませていた。
「うーん。ご褒美があるとここまで違うものなのか」
神奈子は腕を組んで、早苗が本番に備えて練習する様を、感心して見つめていた。
苦手ジャンルを欲望で克服するというのは、神職的にいかがな物かと思うが、向こうが出してきた報酬のことを思うと、神奈子も止めるつもりにはならない。
むしろ、一番やる気になっているのは、隣のケロちゃんなのかもしれないが。
「コアラのマーチ……コアラのマーチ……」
と血走った目をして呟きながら、ヒンズースクワットをして体を温める姿は、神様というよりも可哀想な子であった。
信者一同これを行えば、さぞかし珍奇な邪教集団が出来上がるだろう。
「しかし厄介な弱点をつかれたもんだね。もうとっくに外に未練は無くしたと思ったんだが……ああ、のだ●って完結してたのね。ひょっとしたらNAN●も」
と、顔を覆って嘆く八坂神も、普段の威厳が宇宙の彼方まで飛んでいることに気付いていない。
「コアラのマーチ…………よし神奈子! 200mは私が出るわ! ぶっちぎるから!」
「OK諏訪子。グッドラック。じゃあ私が100mで、早苗が25m。ま、順当な配役ね。あんたの相手はスキマか、それとも九尾か」
「誰が相手だろうと、わたしは一向に、かまわんッッ!!」
諏訪子は、ふーん、と鼻息を荒くして、対岸の強敵に炎の視線を注いでいた。
平泳ぎマスターのコンディションもモチベーションも、全く心配はいらないようである。となると、
「問題は早苗か。今は何とか根性でやっているけど、何かあったらいきなりプッツンってことも考えられる」
普通、全くのカナヅチだった者が一日で25mを泳げるようになるというのは、常識的に考えて無謀かつ無茶苦茶な話だ。
しかし早苗は奇跡的なパッション(主にジャンクフードの魔力)によって、それを克服しかけていた。
それでも火事場の馬鹿力というのは、長続きしない神秘の力。そしてそれが失われた時のダメージは計り知れない。ましてや足の着かない水場となると。
「体力を考えて、そろそろ上がらせた方がいいかもしれないわね」
「そうね。あれだとすぐバテちゃうよきっと」
二人は思わず、顔を見合わせた。
「珍しく意見が一致したわね」
「こういう時の私達二人は……」
「……どんな相手にだって負けたことが無い。今回は二人じゃなくて三人だけど」
「そうね」
泳ぎ続ける早苗を見て、神奈子は深い感慨を抱いた。
信仰を集めるため、すなわち消えゆく運命にあった自分たちを神として生かすため、元の生活を捨ててまで懸命に生きる、現人神。
しかし彼女の力は今でも、ちょっと奇跡を起こすくらいの、一人の少女に過ぎないのだ。けれども、まだ走り始めたばかりの後輩は、二人の神にはとても眩しく、頼もしく映っていた。
「三人で協力する、って、こっちに来てから初めてじゃないかしら」
「何言ってんの。毎日が協力生活だったでしょ」
「……そういうことを臆面もなく言えるのが、あんたの性格よね」
「にへへ」
諏訪子が茶目っ気のある笑みを見せ、神奈子も微笑する。
神代の昔から続くコンビは、互いの片手を打ち合わせた。
「さて、私達も水に慣れてくるか」
「神奈子、競争しない?」
「本番前にかい? けど臨むところさね」
守矢神社の二柱は、巫女に切り開かれる未来に沿って、並んで歩き始めた。
4 水泳対決 vs八雲一家
ついに、対決の時間があと五分に迫った。
守矢一家と八雲一家。幻想郷に幾多ある勢力の中でも、少数精鋭という言葉が最も似合うであろうこの一派。
片や天地を創造することさえ可能な神が二柱、片や万物の理に手を加えることのできる大妖怪と九尾の式。
お互いの野望のため、弾幕ごっこならぬ水泳ごっこに舞台を変えて、妖怪の山にある守矢神社裏の湖にて、火花を散らすこととなった。
種目は100m自由形、200m自由形、25m自由形、という変則フリーリレー。
湖の中にいくつも立てられた巨大な御柱が、競泳のコースを示していた。
第一スタート地点の岸にて、八雲紫は改めてルールの説明をしてくる。
「スタートはこの時限式クラッカーを使います。音が鳴ると同時に競技はスタート。第一泳者から第三泳者まで、それぞれタッチで交代し、ゴールを目指す。ここまではよろしくて?」
「ん」
「この岸から100mの直線コース、200mで湖の外周を回り、最後の25mで中央の小島を目指す。ゴール地点にあるスイッチに先にたどりつき、それぞれのチームのフラッグが先に上がった方を勝者とする。コース取りはそちらが決めた通り。念のための確認はお済み?」
「ああ。問題ないよ」
軽いストレッチで体を温めつつ、神奈子は答えた。
すでに気持ちはレースに入っており、水着姿の全身から、神々しい覇気がにじみ出ている。
対して、隣のスキマ妖怪は、相変わらずとらえどころのない笑みを浮かべており、まだ日傘をさしているその姿も、選手というより審判を務めるかのような落ち着きっぷりであった。底知れない、という意味では、これほどぴったりの存在はいないだろう。
「まさかスキマ妖怪と、泳ぎで競い合えるとは思わなかった。一介のスイマーとして、勝負を楽しみにしてるよ」
「こちらとしても光栄な話ですわ。正々堂々、よろしくお願いいたします」
紫は日傘を閉じて、リボンでまとめ上げていた髪の毛を解き、またのんびりとまとめ直し始めた。
一見、怪しいところはない。クラッカーも特に変わった様子はなく、コースを御柱で指定したのはこちらである。
――だが向こうは何をしてくるか得体の知れない相手。油断すんじゃないわよ、諏訪子。
遠くに見える親友に向けて、神奈子は念じた。
○○○
紫達のいる第一スタート地点と、湖を挟んだ反対の岸付近。湖面に作られた即席の足場で待つのは、第二泳者の二人である。
「私の相手はあんたか。狐さん……いや八雲藍だったわよね」
「ええ。先程は失礼いたしました。洩矢諏訪子様がお相手とは、至極恐縮です」
馬鹿丁寧な口調で、妖狐の式は謝罪も含めた挨拶をしてくる。
主人の方とは対照的な、噂通りの真面目な性格。だが、彼女も自分と同じく、物事に熱くなる素質を持っているということは、先の一件でよくわかった。
特に、八雲一家としてのプライド、および式に対する愛情は、彼女の根っこにあるらしい。
実力もそれに見合ったものがあるだろう。だが、水に弱いという式神の性質は、どんなに隠そうとしても、負担に繋がる。
諏訪子は帽子の上にコアラのマーチを思い浮かべながら、
「私達にあんなご馳走見せちゃったのはまずかったわね。手強いのは私だけじゃないよ。神奈子はもちろん、早苗だってそう」
「承知していますよ。どうぞ、お手柔らかに」
その藍の答えは、諏訪子にとって少々意外だった。
自分を前にして多少緊張していると思ったが、その裏にある確かな自信の臭いを感じ取ったのだ。
思えば、水に弱い式を二人も抱えながら、この勝負を提案してきたのは、向こうのスキマ妖怪の方である。
となれば、こちらも驚くほどの仕掛けを、この式も隠し持っている可能性があった。諏訪子の実力をもってすれば、そんなものに足元をすくわれるとは思わないが。
――あとは早苗か。あの小さい猫ちゃんは、今日一日でどれくらい成長したのかしら。
諏訪子は遠目に、斜め向かいの足場で待つ、風祝達を見た。
○○○
湖に浮かぶ六畳の小島をゴール地点とし、そこから正確に25m離れた場所に足場を造り、第三地点とする。
四方を湖に囲まれるこの場所には、アンカーとして両一家の期待を背負い、同時にもっとも水泳能力に乏しい二人が配置されていた。
そのうちの一人である早苗は、ここに来るまでレースに勝つことで頭がいっぱいだったのだが、今は別の対象に気を取られていた。
「………………」
準備体操をするふりをして、横目でもう一人の泳ぎ手を見る。
そこでしゃがみこんでいるのは、オレンジのワンピース水着に身を包んだ、化け猫の少女である。
幻想郷には様々な妖怪が住んでいるが、その中でも多い種族の一つに、妖獣というものがある。
人並に、時には人よりも大きい、中には人間によく似た姿を持つ、早い話が擬人化された動物のような外見をした物も少なくない種族。
この前の異変で会ったネズミは、正直受け入れがたいと感じたものの、猫となれば話は別だ。
小さい頃から、野良猫に餌をやったり連れて帰ったりした経験を持つ早苗にとって、猫とお話ができるなんて、まさに幻想郷に住む者ならではの役得だと思っていた。
確か、彼女の名前はちぇん。橙と書くらしい。一番上は胡散臭くて不気味、真ん中は真面目で怖そうだった。
だから八雲一家の中で、一番自分と近くなれる存在が、彼女なのではないかと思う。
しかし橙は、早苗のことなど意識の外にあるらしく、ここに来てからずっとしゃがんだままだ。
片腕を抱き、湖面をじっと見つめ、尻尾の先を小さく震わせている。
どうやらこれからの勝負に、凄く緊張しているらしい。小さい頃、別の野良猫が縄張りをうろついていた時のミィちゃんを思い出す。
深呼吸している彼女に、早苗は思いきって声をかけてみた。
「怖いですか?」
まるで石を投げつけられたように、びくっ、と橙はこちらを向いて、大きな目をさらにまん丸にした。
「実は私もちょっと緊張してるんです。今日泳げるようになったばっかりだから」
と早苗は少々恥ずかしく思いつつも、正直に話す。
「橙ちゃんでしたよね。貴方のことを少し、神奈子様から聞きました。式神って水に弱いし、化け猫もそうなんですって? それなのに、泳げるようになるなんて凄いです」
できるだけ、優しい声で、人見知りする年下の子と話すように、早苗は続けた。
式神の子は、大きな両耳だけをぴくぴく動かして、こちらの顔をじっと見据えている。
「なんか変なことになっちゃいましたけど、今日はお互い頑張りましょう。あ、そうだ。橙ちゃんも諏訪子様がお造りになったプールに、遊びに行くの?」
「……うん」
ようやく頷いてくれる。そして、こちらの質問に、確かに返事もしてくれた。
もう一歩早苗は、会話に踏み込んだ。
「じゃあ、向こうでも会えるかもしれませんね。その時は、一緒に遊んでくれますか」
橙はまた、こくりと頷いて、緊張が溶けてなくなったような、はにかんだ笑みになった。
正面からそれを受けた早苗は、首筋まで熱くなって、思わず顔をそらす。
――か、可愛い! やだ、どうしよう! うちにもほしい!
これから勝負に臨むというのに、今から賞品を変えてもらえないか相談しようかなどと、不届きなことまで考える。
もし彼女が手に入ったら、一緒にご飯を食べて、お風呂にも入って、寝るときも一緒で、異変解決の時は召喚獣となって……。
獣人の相棒なんて、まさに物語の主人公ではないか、と妄想は、一瞬でその域まで加速する。
だがだが、あっちの賞品も捨てがたい。お菓子や漫画といった嗜好品は、こちらに来くる際に諦めなくてはならなかったものばかり。
持ち込んだ物が無くなってから、こちらの世界で工夫してみたり、里の洋菓子屋でアルバイトしてみたりしたが、そんな苦労が今日報われるかもしれないのである。
向こうの世界の品々を手に入れることで。
「…………あ」
早苗は葛藤を中断して、空を見上げた。
――向こうの世界……か。
懐かしさと寂しさの混じった不思議な風が、心の内を通り抜けた。
だが、もうそんな感情に、涙を流すことも少なくなった。
向こうの世界。いつからだろう。そんな風に、自分が元いた世界を言うようになったのは。
生活が一段落して、幻想郷の色に染まってからかもしれない。それでもたまに思うのだ。この空も、外の世界と繋がっているんだろうか、と。
人から神へ、そして幻想の世界へ。小さい頃から遊んでいた神奈子、そして諏訪の地で弱っていた諏訪子を失わないため。それがここに来た、何よりの理由であった。外の世界で親しんだものを諦める度に、女子高生だった東風谷早苗は軽くなって、それがこの幻想郷で暮らしていく、自信に繋がっていた。
そのはずだったのに、今また、外界の品々に翻弄されている自分がいる。
二柱の神様だって、同じようなものだけれど。
本当にそれでいいんだろうか。これから先、自分はそんな気持ちで、この地でやっていけるんだろうか。
そもそも、神様になるって、どういうことなんだろう。
いつの間にか早苗は、勝負に集中できなくなっていた。
○○○
「14時29分ジャスト。時間ですわね」
紫が独り言のように呟いたのを耳にし、神奈子は岸の上に引かれた、白線の位置に立った。
思考は澄み渡り、100m先の目標まで、ぴたりと照準が当てられる。
いつの時代においても、戦に臨む前は、今のように冷徹な感情を全身に浸透させることができる。
戦神としての横顔も持つ、八坂神奈子の力の一端だった。
対して、相手になるスキマ妖怪は、相変わらず危機感が感じられず、鼻歌まで歌う余裕があるようだった。
パラソルを携えたまま、彼女は設置型クラッカーのスイッチを押して、元の位置に戻す。
「では、三十秒後にスタートの合図があります」
紫は日傘をしまって、神奈子と同じく白線の位置に立ち、水着のラインを少し直していた。
その光景を最後に、神奈子は目を閉じて雑念を消し、スタート前の集中に入った。
意識が全方位に広がり、湖よりも山よりも大きく、世界の中心から下界を俯瞰する感覚。
その精神はただ一つ、始まりの合図を待っていた。
ホーーーホケキョ。
――――うぐいす?
神奈子が不思議に思って、薄目を開けると、すでにスキマ妖怪が先に湖へと飛び込んでいるところだった。
「なっ!?」
咄嗟にクラッカーの方を見るが、もう蓋が開いて煙が出ている。
「神奈子、始まってるっつーの!!」と、諏訪子の念話が届いた。
「なんで、クラッカーがうぐいすの声で鳴くのよ!!」
神奈子は罵声を上げ、紫に遅れて湖へと飛び込む。
先手を取られたが、水を一掻きするだけで、わずかな動揺はあっという間に静まり、猛スピードで体は進み始めた。
泳法はクロール。最も速度に自信がある得意型である。相手が諏訪子級の泳ぎ手では無い限り、負ける要素は全くない。
前を行く紫には大きくリードされたが、スタート後の彼女のスピードは、驚くほどでもなかった。第二地点にまでは追いつけるはず。そう神奈子は思った。
だが……。
――これは!?
戦慄した。
水の抵抗が、普段よりもだいぶ強いのだ。まるで斜面を流れる川を上るように、強烈な負荷が体にまとわりつく。
それは前方をマンボウの如く、のんべんだらりと推進し続ける、妖怪から伝わるものだった。
――何かの妖術!? いや違う。これは本物の水流……けどどうして!
「ふふふ、これぞ八雲紫のスキマ泳法よ」
困惑する神奈子の頭上から、スキマ妖怪の高笑いが降ってきた。
○○○
一方、第二地点で待つ二人は、対照的なポーズを取っていた。
腕を組んで仁王立ちする神様と、頭を抱え込む九尾の式である。
「……すみませんね。あんな主で」
力の無い藍の呟きが、諏訪子の耳に入った。
しかし別に相手が小細工してくることなど、諏訪子も十分に予想の内に入れている。それを考慮に入れての余裕であり、自らのチームに対する自信だったのだ。
ただ一つ、解せないのは、自分に匹敵する実力を持つ神奈子が、前を泳ぐ紫に置いてけぼりを喰らっていることである。
「……見たこともない泳ぎ方ね。どういう仕組みなのかしら」
「主の得意技であるスキマ泳法です」
藍はご親切にも解説してくれた。
スキマ泳法とは、八雲紫だけに許された、奇天烈な泳法のことらしい。
自らの周囲にスキマをいくつも配置して開閉し、都合の良い水流を自ら生み出すことによって、推進力を得るそうな。
本体はうつ伏せの状態で息継ぎをしつつ、足を細かく動かすだけでよいという、傍目には寝ながら足をばたつかせているようにしか見えない省エネ泳法。
さらに、この泳法の後ろで泳ぐ者は、相手に密着しない限りもろに逆流を受けることになり、強烈な負荷がかかるのだという。
それが狙いだったからこそ、あのクラッカーでフェイクをしかけることで、紫は神奈子にスタートで前に出ようとしたのだろう。
合図は合図。確かにケチのつけにくい反則ギリギリの作戦だった。
主はともかく、九尾の式の方は、この手のやり方が好きではないようで、ため息をつきつつも、
「……しかし、これもまた勝負。私とてプラチナチケットを手に入れたい気持ちに、偽りはありません。我が主の策に乗り、勝たせていただきます。お許しを」
「いいわよ。気にしてないわそんなの」
諏訪子は相変わらず余裕の態度で、藍の挑戦状を鼻で笑った。
「むしろ感謝しなきゃいけない。だって、久々に神奈子の本気が見られるんだからね」
勝ちにきているのは、八雲一家だけではない。
諏訪子達、守矢一家も。ただしこちらは正統な実力で、真っ向から相手をたたきつぶすのみ。
慄然とする藍に対し、蛙の女神は宣告した。
「守矢の誇る泳法は、我が神の平泳ぎだけにあらず。しかと見よ。我が盟友八坂神奈子は、神のクロールを操る」
○○○
一方、現在進行形で泳ぎを競っている二人だが。
「らくちんらくちん~♪」
と、先頭を行く八雲紫は、得意のスキマ泳法で、水流に流され続けていた。
傍目には水着姿の土左衛門のようで、全くレースを行っているように見えない。時々思いついたように足を動かして、また止めたりしている。
しかし、スピードは決して遅くはなく、音の無いエンジンを積んでいるかのように、彼女の体は一定の速度で進んでいた。
当然のことながら、見た目通り本人も形勢を楽観しているようで、顔を入れたスキマの中で、鼻歌まで歌っている有様である。
そんな余裕のスキマ妖怪の元に、音が近づいてきた。
山から下りてくる鉄砲水のような、激しい水音だ。しかしここは山間とはいえ、晴れた日の湖の中なので、土石流というのは考えにくい。
不思議に思った紫は、鼻歌を止めて、スキマをもう一度空中に開き、音の正体を確かめた。
神さびた古戦場
泡立つ湖水を、白い背びれのようにして切り分け、猛烈な勢いでスキマ妖怪へと接近する、赤い水着の女性がいた。
長い両腕が高速で水を掻き、頭部は全く水面から上がらない、息継ぎ無しの捨て身の構え。
だが、彼女は一切スピードを緩めることなく、全身で吠え猛っていた。
――待てやこらぁああああああ!!
神奈子だった。
しかし、いつもの冷静沈着な神奈子では無かった。
息継ぎする時間さえ惜しんで、ひたすらクロールで力強く掻き泳ぐその姿は、むしろ新鮮な祟り神の様相だった。
「ひぃっ!?」
紫が青ざめて姿勢を戻し、スキマ泳法のスピードを上げる。
しかし増強された逆流をものともせず、怒気を溢れさせながら、神奈子は真っ直ぐ泳ぎ進む。
その姿には、もはやスマートさの欠片も残っていない。すでに彼女にとって、急ぎ泳ぐ八雲紫も、逃げる子羊と大差ない。
コースを示す御柱まで、彼女の覇気に揺れ動き、断続的な雷鳴のような音を轟かせていた。
うつ伏せになって必死に遠ざかる妖怪と、うつ伏せになって凶暴に追い詰める神。
遠くから見る者には笑いを誘う光景かもしれないが、割と近くで観戦していた妖精や鳥達は、二人が進む先で、気絶して落ちていく。
お互いの泳法を駆使した水上の壮絶なレースだけではなく、異常なまでの妖気と神気の格闘戦が、空中でも広げられているからである。
まさに、湖をフィールドにした、守矢と八雲の代表の死闘であった。
しかし士気が大きく上回っていたのは、神奈子だった。
水の怪物と化した神は、コース終盤にさしかかって、大きく開いていた差を縮め、ついに競泳者と並走する。
向こうは慌てて退避しようとするが、神奈子は逃さずに体を近づける。
このまま抜き去ることは造作もない。しかしそれでは腹の内はおさまらない。
神奈子は、わざわざ、連鎖する水雷のごときクロールの勢いを、横の存在にぶつけた。
「きゃああああ!!」
水圧に跳ね飛ばされ、スキマ妖怪はあっけなくコースアウトしていった。
○○○
順位が逆転し、神奈子はさらにペースを上げる。
先を遮るものがいなくなった今、クロールの加速力が余すところ無く発揮される。
200mの第二スタート地点、飛び込みの姿勢で待っていた諏訪子は、手を後ろに伸ばして、
「神奈子、カモン!」
「任せた諏訪子!」
短く言葉を交換し、タッチを交わすと、神奈子が力尽きた気配があった。
彼女の意志を受け継ぎ、守矢神社最強のスイマーは、すかさず水に飛び込んだ。
湖の中に視界が移る。
一瞬縮めた体が、背骨の反動、両足のキック、両腕のプル。三つ揃った完璧な動作を見せた。
早苗に見せたような本気の泳ぎではなく、水に馴染んで負担をかけない、流麗な平泳ぎである。
けれども、諏訪子が水を泳ぐ、ただそれだけで周囲の生き物たちは、大小様々な畏敬の念を発していた。
諏訪子はそれらを受け取る。水に耳を澄ませ、肌で感じることで、ありとあらゆる存在の『声』を諏訪子は聞くことができた。
泳ぐ小魚の群れだけではなく、流れに揺れる水草も。多くの生き物だけではなく、川底の石や土に眠る魂も。そして、水というシンプルな存在自体も。
それはまさしく、神の世界だった。万物の脈動と慈愛を、体の奥底から感じられる、世界で一番優しくてもの悲しい視座だった。
この感覚を、早苗に知ってもらいたい。まだ遙かな境地であるかもしれないが、彼女なりに水を楽しみ、味わってもらいたい。
諏訪子の願いは、神としての喜びを、早苗にいつか知ってもらうことであり、そのための第一歩が今日の場だったのである。
そしてそれは、部分的に成功し、殆どを不意にしてしまった。
だが、あるいはこのレースがきっかけとなって、早苗が泳ぎを好きになるチャンスが、再び生まれるかも知れない。
諏訪子が水と溶け合いながら、そんな風に思いを馳せていた時だった。
ざわり、と湖水とはまるで違う感触が、全身を浸した。
プレッシャー。それも水の中を突き進む、強烈な気配の波動である。
――神奈子?
自らの泳ぎに匹敵する気配といえば、神奈子以外にいない。諏訪子はそう思って、振り向いた。
しかし違った。
冷たすぎるプレッシャーは、自分よりも遅れてスタートした第二泳者のものだった。
そして彼女が迫ってくるスピードに、諏訪子は度肝を抜かれた。
――は、速い!?
今の諏訪子の泳ぎは、例え本気じゃなくても決して遅くはない。むしろ魚よりも速い平泳ぎだというのに、徐々に差を縮められている。
迫り来るのは、残像ができるほど両腕を高速で回す、バタフライの魔神と化した、八雲藍の姿であった。
いや、それだけではない。彼女の推進力は、両手の回転運動だけでは説明がつかない。
バタ足か? だが洩矢諏訪子のカエルキックに勝る脚力を、九尾とはいえ、一介の妖怪が体得しているというのか。
両者の距離は、すでにのんびりと考え事をしていられる差では無くなっていた。
諏訪子は慌てて、本気の平泳ぎに戻る。
だが、トップスピードに乗る頃には、前の神奈子が作ってくれたレースの差は消えていた。
ついに並走するようになり、スピードがほぼ一致した段階になって、諏訪子は八雲の式の秘密に気がつき、驚愕した。
――尻尾……だと……!?
なんと、八雲藍は己の尻尾をスクリュー状に使うことで、膨大な推進力を生むことに成功していたのである。
両腕の運動、両足の運動、そして九つの強大な筋肉に支えられた尻尾の運動が一つにまとまった時、それは諏訪子の神の平泳ぎに迫る速度となっていたのである。
まさか、水に弱い式神がこれほどの実力者とは。
諏訪子の焦燥が、次第に強敵を見つけた高揚へと変わっていく。全身から神通力がほとばしり、神の平泳ぎは再び力を取り戻す。
――ついてこれるか!? 八雲藍!!
――無論!! 私は私の式のため、神を超える!!
――笑止!!
デッドヒートが繰り広げられた。
諏訪子の方が、頭一つ抜けだし、速度もほんのわずかに上回っている。
だがしかし、第三泳者の実力が互いに未知数な以上、この差はあってないようなもの。
「早苗! 任せたわ!」
「橙! 後は任せた!」
二人がタッチを受け渡したのは、ほぼ同時であった。
○○○
打ち鳴らされた手は、痛くはなかった。
諏訪子の気持ち、期待と優しさの合わさった、絶妙な力加減のタッチだった。
受けた早苗は、無言でプールに飛び込む。
頭がまだ整理できておらず、勝負に迷ったまま、ただ必死に手足を水中で動かした。
気持ちの乗らない雑なフォームは、水に嫌われたかのように、思うように前に進めない。
前で全力で猫かきをしている橙に、スピードで大きく遅れを取っていた。
「せめて、ついて行かなきゃ」というずるい自分が現れ、早苗はそれを振り切るように、がむしゃらに四肢をばたつかせた。
今になってこんな風に悩んでいる自分が、情けなく、歯がゆかった。
――あれ?
レースに集中できない。だからこそ、早苗は異変に気付いた。
最初は錯覚かと思ったが、違う。
湖の様子が何だか変だ。
『波』ができている。『流れ』が起こっている。風もないのに、なぜか途方もない力が上空から水を動かしている。
前を行く橙は、気付いてない。必死に泳いでいるだけだ。しかし、早苗は後を追えなかった。波が自分の体を揺り動かす度、呼吸が苦しくなった。
――怖い。
ずきん、と胸の奥で響いた『激痛』に、悩みも何もかもが全て、ぐちゃぐちゃにかき回された。咄嗟に背中を丸め、何とか気持ちを落ち着けようとする。
視界が薄暗くなる。このままでは溺れてしまう、と思った。
幼い記憶が蘇る。あの時もそうだった。何もさせてくれない。決して許してもくれない。止めていた息が、肺の中で減殺され、意識が遠のいていく嫌な感覚。
それは次に、苦しさや悲しさが平坦になって、世界に溶けていくような、優しすぎる絶望の感触に変わるのだ。
ああ、人じゃなくなるって、こんな感じなのかな。
なんとなく、そんな馬鹿なことを、最後に考えて、
また早苗の世界は真っ暗になった。
○○○
その日は、しとしとと降る雨の中、縁側に座って、二人で雨音を聞いていた。
「神様ってなんでしょう」
口に出してみると、ずいぶんシンプルな質問に思えた。幼稚といってもいい。
でも隣に座る存在は、決してその問いを、あしらったり、馬鹿にしたり、こねくり回したりせずに、答えを出してくれた。
右と左。二つの人差し指を頬に当て、にぱっ、と笑ってくれたのだ。
けど早苗は言った。
「違いますよ」
「違うの!?」
ポーズを取っていた神様は、大変なショックを受けたようだった。
頭の上にある帽子の目玉も、びよよんと飛び出ている。
「いえ、そういう意味の違いますではありません」
「聞こう」
「神になるにはどうしたらいいのか、ということです」
「いやもうあんた、現人神でしょうが」
「諏訪子様や神奈子様の域に達せたとは思えません」
「達しました、って自信満々で言われなくて安心したわ」
「でも、達せるとも思えないんです」
ふうん、と縁側に並んで座る諏訪子は、目を閉じて、かすかに頷く。
こちらの話について考えているだけでなく、奥に隠していた不安を、耳で聞き当てているようだった。
やがて、早苗にとって一番身近な神様は答えた。
「神は信仰によって神となる」
「はい、知っています」
「本当に?」
「う、本当かどうかわかりません」
「早苗は私を信仰してくれている?」
「ええ、もちろん。神奈子様と同じくらい」
「そこは神奈子よりも、って答えて欲しかったな」
にはは、と笑う諏訪子は、もう前みたいに苛めてこなくなった。
どちらか一つを選ぶまで、絶対に諦めてくれない。そんな時は、諏訪子様よりも神奈子様の方がいいかも、と思ってしまうこともあった。
でもそれを言うと、諏訪子は早すぎる冬眠に向かってしまうので、早苗は最後まで頑張った。もっとも、神奈子の方がしつこい時も、ごくたまにあるので、お相子のようなものである。
「早苗は信仰してくれている。それを私は知っている。でも信仰とは何ぞや」
「信じること」
「私の何を信じているの?」
ご加護、霊験、いくつもの単語が、目の前の神様を見ていると、頼りなく思えてしまう。
たぶん、困り顔になっていたのだろう。助け船がやってくる。
「何も考えず、一番しっくりくる答えを出してみて」
早苗は言われた通りに、答えを出した。
「諏訪子様すごいなぁ」
「それはきっと大正解」
諏訪子は縁側の木の床の上にしゃがみ、膝を手で支えて、こちらを見つめた。
「でも私は誰かに、すごいなぁ、って思わせるために何かをするわけではないわ。小さいすごいなぁ、がどんどん集まって、大きなすごいなぁになったのよ」
「つまり私が諏訪子様の域に達するには、あと何百年か何千年かかるわけですか」
「それはわからないけど、今の早苗にだってできることはあるわよ。人からどんな時にすごいなぁって思われるのか、考えてごらんなさい」
しゃがんだ神様の下には、山が見えた。
そんな神様が、自分のためにちゃんと答えてくれるというのは、とても嬉しかった。
こんなに大きい神様になっても、自分と同じ目線でいられるのは、すごいなぁ、と早苗は思う。
それは答えになってないけど、なんとなく目指したくなる世界でもあった。
「ありがとうございます諏訪子様。おかげで少し、迷いが晴れました」
――私も、諏訪子様や、神奈子様に近づけたらいいな。
そんな風に思って。
――早苗さん! しっかり、しっかりして!
子供の声が、暗闇を払った。
○○○
水は素直である。見えざる人の心に対してすら、水は素直である。
コップに注いで、言葉をかければ、正の感情に秩序を取り戻し、負の感情に乱れ散る。
自然は時にさらに雄大に、水に怒りを託し、時に水で喜びを表現する。
水とは表現の道具であり、悠久の時を、神や妖怪や人間や動物達の、媒質として過ごしてきたのだ。
幻想郷の大妖怪が二体、信仰を取り戻した神が二柱。
互いに水泳に全力で臨み、力を吐きつくしていた。
その力には、いずれも共通の意志が込められていた。互いに定めた、ゴールへと向かう意志が。
だがそれは、類い希な神水を保有する諏訪湖に余すところ無く伝わり、誰もが予想せぬ、致命的な事態を引き起こそうとしていた。
湖の四方の水面が、歪な形で隆起した。
水の群れは互いに終局へ向かおうと、同時に滑り動き始めた。
はじめに気付いたのは、息を切らしていた諏訪子だった。だが気付いたときには、波の狭間に阻まれ、手の届かぬ所まで流されて移動していた。
次に気付いたのは、紫だった。だが彼女は、スキマをすぐに展開できるほど、力が残っていなかった。
同時に気付いたのは、神奈子だった。だが彼女も結界に費やしていた力はすでに無く、波を即座に止める術を持っていなかった。
そして、最後に気付いた藍は、式が水で剥がれそうになるほど、一時的に憔悴し、荒波に翻弄されていた。
だが、彼女は見た。ゴール地点を囲むように動く波、その向こうで浮かんでいた、
「そんな……!」
式の式と風祝、第三泳者の二人の姿に。
○○○
重たい瞼を、億劫になりつつも開ける。
音が耳に戻ってきた。やけに回りが騒々しい。途方もなく大きい洗濯機の中のようだ。
いきなり時を跳び越えてきたのかもしれない。冷たい水に浸かっている今も、どこか現実感が薄い。
けど右腕だけが温かく、柔らかい。誰かに支えられている。
徐々に霧が晴れるように、早苗は意識を取り戻した。
天国というわけではないらしい。レースもまだ終わっていなかったようだ。
でも、確かに意識が無くなる前、沈もうとしていたはずだったのに、なぜか今も溺れずに生きている。
頭の働きが追いつかない。海に飛ばされたんじゃないかと錯覚するほど、波が周囲で暴れ狂っている。
自分の腕に掴まっていた存在が、くたりと力を失い、寄りかかってきた。
水に濡れた茶色い髪の毛の間から、黒く尖った獣の耳が飛び出ている。共に競争していたはずの、妖怪の子だった。
そこで早苗はようやく、自分を助け出したのは、彼女だという事実までたどりついた。
――どうして……?
彼女にとっても大事な、勝たなければいけない勝負のはずだったのに。
妖怪の子は――橙は腕の中で力を無くしている。水の中に引きずり込まれるように、重くなっていく。
轟音が止まない。
あらためて、早苗は自分たちの置かれた状況を確かめた。
冗談じみた光景が、周囲に広がっていた。
あり得ない程高い波が、四方から伸び上がっている。
空を覆い隠し、腹の奥まで響く曲を奏でながら、お互いを牽制し合い、力の置き所を探している。
足が地につくほど水が吸い上げられ、それらは全て、早苗達を押しつぶす壁の加勢となっていた。
諏訪子と神奈子の姿は見えない。沈もうとしている式の子の保護者達の姿も、波に隠れている。
今、自分たちは致命的な危機にさらされている。
早苗の心に、過去の傷が鳴り響いた。
暴れ狂った川の中で、息も絶え絶えになりながら、ひたすら神に祈ることしかできなかった、あの恐怖が蘇った。
だが、水の中から、早苗は橙を助け起こす。
奥歯を噛みしめ、震える脚に活を入れ、気合いを込めなおす。
もう自分は、あの頃何もできなかった人間の女の子ではない。もっと大きな……。
波が待ちきれないように、上から倒れ込んでくる。
早苗は右手を頭上に掲げ、叫んだ。
「奇跡よ!」
全身から霊力がほとばしり、伸ばした手の先に、天蓋が出来た。
雪崩れ込んできた波達が、その勢いに跳ね返される。早苗の全身にも、巨岩を背負わされたような重さが加わった。
――か……神様の第一条件は、ど根性です!
教わった言葉を勇気に変えて、早苗は続けざまにくる衝撃を、こらえ続けた。
今日まで貯めた信仰力が、水桶に穴が開けられたかのように、抜け落ちていく。
急激な要請に、あっという間に力が失われていく。だが、耐えて神の応援を待つ早苗に、予期せぬ祝福が届いた。
間近で感じた、つきたてほやほやの信仰心が。
「凄い……!」
橙の声だった。
彼女の信仰を土台にして、早苗はもっともっと、放出する力を増やした。
右手の先から光の粒がこぼれ、足元までを黄色く輝かせる。迫り来る四種の力に対し、早苗は大きく五芒星を描いて抵抗した。
奇跡が運命をねじ曲げる。
猛々しく暴れ回っていた力は、早苗達の方向を逸れ、同士討ちを始めた。
水のアーチを作って、お互いの体を削り合い、波は下の存在を傷つけることなく、段々と崩れ落ちていく。
やがて、湖を覆っていた轟音も引いていき、世界が塗り替えられていく。
早苗は右手を下ろした。
全てが終わった後、諏訪湖は再び、元の静けさを取り戻していた。
「……橙ちゃん!」
我に返った早苗は、腰にしがみついていた橙に呼びかける。
「怪我は無かった!? 平気!?」
「早苗さん……」
彼女はきつく抱きしめてきて、早苗の顔を見上げながら言った。
「まるで神様みたい!」
憧れと賞賛のこもった歓声が、早苗の心の内で弾けた。
探していた答えの欠片を、今確かに、手に入れた。そんな思いにとらわれる。
早苗は思わず、顔をほころばせ、鼻を高くして、茶目っ気たっぷりに言う。
「あら、言ってませんでした? 私、これでも神様なんです」
ばしゃん、と頭に水がかかってきて、橙は悲鳴を上げ、逃げてしまった。
削り切れてなかった波の一部が、落っこちてきたらしい。
完全に濡れネズミとなった早苗は、笑みを消し、
「……まぁまだ見習いなんで、こんなものですけどね」
と、偶然の天罰に、ふてくされた声でぼやいた。
「橙ーー!!」
二人は呼び声が聞こえた方を向く。
それぞれ岸へと流されていた四人が、一斉にこちらに飛んでくる。
特に先頭にいた九尾の狐は凄いスピードで、飛鳥のごとく式の元に舞い降り、
「橙! 大丈夫だった!?」
「はい藍様! 早苗さんが助けてくれました」
橙も彼女の主に飛び付いていく。
早苗にとって、なんとなく意外な光景だった。
見た目は違う動物だし、式神って聞いてたけど、なんだか親子みたい。
と、思っていると、狐の母の潤んだ瞳が、こちらを向いた。
「東風谷早苗殿。貴方に感謝しなくては。我が式の命を救ってくれたのは、まぎれもなく貴方の力だ。主として深い借りができた」
「そ、そんな。深い借りだなんて」
「そうそう。先に助けられたのはこっちだもんね」
ぽん、と背中を叩かれる。軽みのあるその声は諏訪子だった。
彼女は水の上を歩いて、早苗の横を過ぎ、藍に抱きついていた橙の元まで近寄って、
「……まさかレースを捨てて、溺れるうちの早苗を助けてくれるとは思わなかった。それも苦手な水の中を必死に泳いでさ。猫ちゃんの実力を本気で見くびっていたよ」
「猫ちゃんじゃなくて、橙です!」
「橙か。ありがとう。橙は泳ぐのが好き? それともまた、水が怖くなった?」
「いいえ! 泳ぐのは好きです! 今日ここで好きになりました!」
二人はさっきまで勝負していた雰囲気を、とうに無くしていた。
藍も気安くこちらに話を振ってくる。
「早苗さんは? 泳ぎはどう?」
「あ、はい。泳ぐのは好きです。波は怖かったけど、もう大丈夫です。橙ちゃんのおかげです」
「橙のおかげ?」
「はい!」
「そう。それは嬉しい言葉ね。また橙と遊んでくれると、私としてはなお嬉しい」
もちろんです、と早苗は、藍に手を差し出した。
握り返してくる温かさは、人の温もりに劣らぬ、わだかまりなど解いてしまう優しさがあった。
そんな四者の和気藹々とした光景を、残る神様と八雲の主は、離れた場所から眺めていた。
「守矢神社の秘蔵っ子。その才能をとくと拝見させていただきましたわ」
「なんの。まだまだ修行不足よ」
紫の賞賛に、神奈子は肩をすくめながらも、やはり誇らしさを覚えていた。
才能があるのは、子供の頃から知っていた。でも、やはりこの少女には、こちらに来ても驚かされてばかりな気がする。
神奈子や諏訪子から見れば、まだまだつかまり立ちが出来たくらいなのだが、しかしそう遠くない未来に、自分たちを越える信仰を手に入れられるかもしれない。そんな風に思わせるだけの何かを、当代の風祝は持っていた。
それに、
「私はそちらの式二人にも驚かせてもらったね。水に弱いなんて嘘なんじゃない? それともこの子達が特別なのかい?」
「ええ、どちらも自慢の式ですもの」
そう囁いたのは、権謀術数を用いる百戦錬磨のスキマ妖怪。
けど神奈子には、そんな彼女の本音がついこぼれたようにしか聞こえなかった。
諏訪子は橙と早苗の肩を叩いて、元気よく言う。
「よし! 二人共! だいぶ遅くなっちゃったけど、一端休憩してお昼ご飯にしよう! その後ここで、皆でまた泳ぐわよ!」
「えー、またですか諏訪子様?」
「当然よ! あんな大きな波を克服できたんだから、早苗も自信持ちなさい! 後はあの変な泳ぎを矯正すれば、特訓はおしまいにしてあげる!」
「へ、変な泳ぎって、失礼な! 私だって必死で泳いだんですよ!」
「橙だって、まだ泳ぎたいよね?」
「はい諏訪子様! もっと泳いでみたいです!」
「あ、橙ちゃんが泳ぐなら……私も……」
「こら早苗! 下心で泳ぐんじゃなくて、もっと素直に水泳というものを……!」
「まぁまぁ、そう熱くならずに」
説教を始める諏訪子を、九尾の式が困った笑顔でなだめる。
式の式はその様子を見て吹き出し、その笑いが早苗にもうつる。
荒れ狂っていた面影はすでに無く、湖は再び、平和な笑い声を取り戻していた。
5 エピローグ
夕刻の守矢神社。
居間にあるちゃぶ台を囲んで、二柱の神様が座っている。
スプーンをグーで握って、嬉しそうに膝を揺らしている諏訪子。
その向かいに胡座をかく神奈子も、台所の方から目を離さず、口元に隠しきれぬ笑みが浮かんでいた。
やがて、ぷ~ん、とまったりした香ばしい匂いが部屋まで漂ってきて、神様達は思わず身を乗り出した。
間をおかず、「できました!」の声とともに、既に部屋着に着替えた早苗が、お皿を二つ運んでくる。
「お待たせしました! 約一年ぶりのボンカレーでございます!」
「いよっ、待ってました!」
と諏訪子は拍手して、ほかほかと湯気の立つ一皿を、うやうやしく卓に迎えた。
「あれ!? 早苗、こっち辛口でしょ!」
「あ、ごめんなさい! 諏訪子様は甘口でしたね」
「そうそう、忘れちゃダメよ。こんな辛いの、神様にあげたら罰が当たるわ」
「悪かったね。わたしゃこんな甘ったるいの食える方が信じられん」
神奈子は口をひん曲げて、諏訪子と自分の皿を取り替えた。
諏訪子はべー、と舌を出して受け取り、二柱は巫女が中辛カレーを取りに戻るまで待つ。
「ふふふ、カレーカレー」と愛おしそうに小鼻を動かす盟友に、神奈子も文句を言わず、似たようなことをしていた。
すぐに軽やかな早苗の足音が近づいてきて、テーブルに三人分の皿が揃った。
守矢一家の三名は、二拝二拍一拝を終えて、
「それでは、いただきまーす!」
と食前の合い言葉が終わらぬうちに、熱々のカレーにスプーンを差し込む。
それからしばらく、夢中でカレーを頬張る時間が続いた。
「あーうー! この味! カレーはやっぱり最高ね!」
「もぐ……そうね。久しぶりだし、運動の後だから、余計に美味いわ」
「そして勝った後だから、なおさら美味なり!」
「あれ、私達って勝ったんですかね」
「両方の勝利!!」
カレー味のスプーンをトロフィーのように掲げて、諏訪子は上機嫌で言った。
結局、水泳対決の勝負はうやむやになってしまったが、再度決着をつける程の敵愾心は、お互いの一家に残っていなかった。
となると、賞品はどうなるのか、という話になるのだが、結局諏訪子が「カッパピアーウー」のチケットを八雲一家に譲ることにしたため、八雲紫からも外界の品々の多くをもらえることになったのである。
というわけでさっそく、食卓から失われて久しいカレーをいただこうということで、意見が一致したのであった。
「あ、おかわりもありますよ諏訪子様」
「おかわり!」
「いいのかい早苗? 前に食べた時は、カレーの一滴は血の一滴とか言ってたじゃない」
「いいんです神奈子様。まだジャワカレーやバーモントカレーも残ってます。けどそれだけじゃなくて、もう私にこのレトルトに未練はありません。それよりも、新しい目標ができました」
早苗は匙を置いて、拳をぐっと握り、力強く宣言した。
「東風谷早苗はカレーを自分で作ります!」
どーん。
と、宣言したはいいが、二柱の神様は、狐につままれたように瞬きした。
「えーと、つまりそれは、ルーというかカレー粉を含めて、全て自分で作るってこと?」
「その通りです!」
「スパイスは?」
「栽培します!」
「種は?」
「もらいました!」
「気候とかその他諸々の条件は?」
「奇跡とお二人の神徳で、何とかします!」
常識的な懸念は、非常識な暴論によって片付けられた。
これにはノリの良い諏訪子も、腕を組んで首をひねり、
「できるかなぁ……」
「いや、いい考えだと思うよ私は。もしそれができるなら、守矢のオリジナルカレーをプールのメニューにすればいいじゃない」
「あ、そうか! それじゃあポテトチップスも作らなきゃね!」
「ええもちろん! なんだか楽しくなってきましたね!」
「じゃあ私は少女漫画でも書くか」
「……………………」
「……………………」
「…………冗談よ?」
神奈子は、蒼白になる二人に、汗を一粒たらして言った。
微妙になった場の空気を、諏訪子が咳払いして戻し、
「さぁ! 『カッパピアーウー』の開園式は、二人とも参加して挨拶してもらうわよ! その前の最後の一日、つまり明後日は絶対に遊びに行こうね二人とも!」
「はい! 今から本当に楽しみです。橙ちゃん達もその日に来るって言ってましたし、それに、泳ぐのってあんなに楽しいんですね、知りませんでした」
「全く。ちょーっと教えてあげれば、すぐに泳げるようになるんだから。私の才能は途絶えていなかったってことね」
「諏訪子様の才能?」
「ゲコッ、なんでもない」
早苗の疑問に、神様は慌てて誤魔化すように、おかわりしたカレーを口に運んだ。
神奈子は食べる手を一端止め、改めて真面目な声音で聞く。
「早苗、本当に大丈夫なのかい?」
「はい、神奈子様。もう水は平気です。溺れた時のこと、思い出したけど、大丈夫です」
「そうか……いや、あんたが大丈夫ならいいよ」
神奈子は微笑した。
長年胸につっかえてきた物が、ようやく取れた心地だった。
カレーだけではなく、早苗がトラウマを克服するのに一役買ったという点についても、八雲一家には感謝するべきなのかもしれない。
今日のことをきっかけにして、これから先もひょっとしたら、あの愉快な一家と何かの付き合いがあるような気がしてきた。
そんなことを思いつつ、お皿を綺麗に空にしてから、神奈子はぽつりと言った。
「そういえば、早苗を小さい頃溺れさせたのは、結局妖怪だったのかしらねぇ」
「わかりませんけど、たぶんそうだと思います。凄く強い力をあの時感じました」
「よければ詳しく話してちょうだい」
「私も興味あるな」
神奈子と諏訪子は、早苗に話をせがんだ。
彼女は物憂げな表情で、取り戻した当時の記憶を、静かに語り始める。
「あの日……私は幼稚園でおよぎのじかんがあったから、朝早くにみんなでバスに乗って、近くの川に行ったんです。川といっても、小さい子を遊ばせる場所なので、大人じゃ泳ぎにくいくらいの浅い所ですし、まず溺れることは無かったと思います」
「ふむふむ」
「それで、私はひまわり組の中で一番泳ぎが上手だったんです。本当ですよ? もっと深いところまで行ってみようって、ちょっと離れた場所までいって…………それからずっと、そこからの記憶が無かったんです」
「今日の出来事がきっかけで、思い出したんだね」
「なんかミステリーな感じ」
神様達は、卓の上に少し乗り出す。二柱の反応に、早苗は苦笑いしつつ、語り始めた。
「実はその時、『何か』を見つけたんです。『誰か』かもしれないし、今でもよくわかりません。でもその時は、まるで怖くなくて、それどころかとても温かい存在に感じました。私はその『何か』と一緒に、泳いで遊んでいた覚えがあります」
「………………」
「そして、そのうち『何か』は、私が泳いでる回りで、波とか渦とかを起こし始めました。私も最初は楽しんでいたんですけど、そのうち水の流れが速くなって、恐ろしくなっちゃって……」
神奈子は、ぴくり、と眉を動かした。
早苗の語る内容に、十年前には思い浮かばなかった、ある推理が生まれたのだ。
気のせいか、横に座る存在も、様子がおかしい。
「泣き叫んでも、全然『何か』は許してくれませんでした。それどころか、さらに激しく波を起こして、大笑いしてました。あれ以来、私は泳ぐのが怖くて、波が嫌いになったんです」
早苗は暗く沈んだ声で締めくくった。
話を聞き終えた諏訪子は、目をまん丸に開いて、両唇を噛み、だらだらと額から汗をたらしていた。
その様子に、神奈子は確信した。
十年前の早苗のトラウマ事件の真相と、今回の騒動の全ての引き金となった、真犯人に。
「なるほど。そういうことだったか……」
「ご、ごちそうさま早苗! もうお代わりはいいわ。私ちょっと用事思い出したから!」
「私もちょっと用事思い出したわ」
卓から立ち上がるなり、ぴょんと跳ねて出て行こうとした神の襟元を、神奈子はがっちりと掴んだ。
聞くものを震え上がらせる、凄みのある声で、
「諏訪子……じーっくり話を聞かせてもらおうか」
「か、かなちゃんったら何その顔、すげぇ恐いんだけど。私怒ることしたっけ?」
「そうね。なぜか知りたければ、自分の胸に聞いてみなさいよ」
「えー、私のおっぱいちっちゃいし。って何言わせんのさ神奈子ったらスケベー」
「……おうこら、いい度胸じゃないか! オンバシラでケツバット食らわせたくなるくらい、すごーくいい度胸だ!」
「えへへ、ありがとありがと…………さいなら!!」
「逃げるなぁ!!」
一瞬の隙をついて脱出した蛙を、大蛇は怒濤の勢いで追いかけた。
居間に残った巫女の少女は、神奈子が何で怒っていたのか、諏訪子がどうして逃げ出したのか、まるで分からず、きょとんとしていた。
まぁ、きっと朝には二柱とも、帰ってきて説明してくれるだろうと思って、洗い物を済ませることにする。
お皿を三人分運びながら、ふと思い出すのは、昔の記憶。
「『何か』ちゃん……名前が確かあったはずだったんだけど、何だったかしら」
セピア色をした現人神の記憶には、懐かしい外の風景と、諏訪の地の豊かな自然。
そして、確かに存在していた、威風堂々とした蛇の神様と、天真爛漫な『何か』ちゃんの影が映っていた。
(おしまい)
数々のシーンが脳内でもうね…ジ○リ級作画でフルアニメーションで映像再生しまくりですよ。カッパピアーウーの話もいつか読みたいかも。
そして、スイミングスクールの日の夕飯は何故かカレーが多かった記憶があるので泳いだ後カレーなのはオレ的に間違ってはいない。最近泳いでねぇなぁ…
あとプールで食べるカップヌードルやコロッケの味はマジぱねぇ
とても有意義な時間をつかわせていただきました。
誤字? ともいえないかもしれませんが、
>受けた早苗は、無言でプールに飛び込む
気になったので、一応指摘まで。
未来、橙に文字通りの猫可愛がりする早苗さんが目に浮かんで、もう最高です。
全て読み終えた今、このセリフがひどく深みを帯びてくる!
帯びないな!
帯びませんわ!
畜生、この一言のインパクトが強すぎてもう!www
これだけの長さのものを一挙に読めたのは久しぶりです。
全員魅力的で良いなあ。これだけ長いのにもっともっと読みたい。
良い作品を読ませていただきました。ありがとうございます。
やっぱり後日談が見てみたいですねー
この後の展開が楽しみで仕方ありません。
ともあれ、前作と合わせて楽しませていただきました。
神奈子が良い具合にツッコミ役になっていて、テンポ良く読めることができました。
とても良い作品をありがとうございました。
これから八雲家や他の勢力とどう関わるか楽しみです。
過去と現在が往来するのも楽しいです。
どちらを先に読むにしろ、後に読む方はすでにストーリーや結末を知っているので余計にそう感じたのかもしれません。
とは言え非常に面白かったです、とくに橙を守る早苗さんのシーンが良かったです。
一家という言い方がとても良く似合う、暖かい三柱が魅力的でした。
八雲一家と古明地一家が自分内ツートップだったんですが、守屋一家もいいものだと思える作品でした。また次回作が楽しみです。
後味も良くスッキリして読み終えたのですが、
最後の荒波は何だったのか気になって気になって・・・。
紫様、きのこの山を忘れないでください。
魅力が一杯詰まったお話でした。
2 本立ての面白い構成も上手くいってたと思います。それぞれに魅力があって。
ただ私は先に「やくもりや」を読んでいまして、日を置いても若干読み進め難かった部分はありました。結果がわかっているせいかなぁ。仕方ないんですけどね。
何よりも、キャラがそれぞれ息づいていることに感動しました。
あ、誤字報告です。
紫が水泳勝負のルール説明をしている場面で、ゴールのスイッチを押したときに出るものが
「やくもりや」では花火、「もりやくも」ではフラッグになっていましたよっと。
そして諏訪子さまは相変わらず悪戯好きだなぁって思いました。
いい話ありがとうございます
今更ながら誤字報告です
早苗の「対空魚雷みたいでしたよ!」のとこ対空じゃなくて空対ですね
対空だと魚雷が航空機落とすことになるので・・・
ところで、早苗さんの手作りカレーが食べたいのですが、どうすればいいのでしょうか?