Coolier - 新生・東方創想話

薄明の空には、いとおしUFOを浮かべて ――“F”

2010/05/03 02:21:34
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“Unidentified Finding Object” in the Twilight Sky ――“F”







 前編はこちら









 主な登場人妖?


 封獣ぬえ          背中の鵺的器官が反乱を起こす夢を見て以来、一人でお風呂に入れない。
 聖白蓮           『私は、私の理想を裏切らない。それだけです』←ぬえに涙目で撤回を求められる。
 寅丸星           『宝塔以外、全っ部失くしてしまいましたぁー!!』
 村紗水蜜          執拗に薦められるほうれん草缶。一口食べて、開かれる新世界への扉。
 雲居一輪          長雨続き。借りた魔界風の僧服を着ていたら、星に白蓮と間違われた。
 雲山            咄嗟に巻物へ化ける完璧なフォローで、向こう一週間尼公が増えた。
 ナズーリン         ほんの些細な遊び心から、本当の父親をダウジング。河川敷で黄昏れたあの日の思い出。
 多々良小傘         びっくりさせようと思って妊娠を告白したら、温かく祝福される。でも空きっ腹。
 古明地さとり        『さとり』は長女が代々襲名。本名がいとしなのはダ・ヴィンチ・コード並みの機密だ。
 古明地こいし        気が付くと、青春18きっぷを握り締めて遥か天竺へ向かっていた。
 霊烏路空          ゆでたまごたべたい→そうだ、自分で産めばいいんじゃね!?→お燐に相談して怒られるの無限ループ。
 火焔猫燐          次の休暇には、北米大陸横断レースに参加して遺体を回収する予定。
 星熊勇儀          求人欄に抱き枕の募集広告を載せるも一向に音沙汰無し。今夜も独り寝に枕を濡らす(酒で)。
 水橋パルスィ        最近のマイブームは一人ポッキーゲーム。分身(大)の勝率が七割五分。
 上白沢慧音         『この帽子の秘密を知られたからには、生かして帰す訳にはいかないな……』
 藤原妹紅          久し振りに白髪染めを試してみたら、想定外のろりろりしさに幻想郷騒然。
 霧雨魔理沙         さらっさらのストレートヘアに憧れ、一ヶ月掛けて開発した魔法。何を間違ったかスーパーサイヤ人。
 アリス・マーガトロイド   いざ発進! 大江戸ゴリアテ人形!
 東風谷早苗         諏訪子様が告げた衝撃の真実。『早苗、実はあんた、光合成してるんだ』















 2.Rider and Diver







(貴方がその手を差し伸べるのなら)
(私は目となり、耳となり)
(弛まぬ歩みとなりましょう)







 ※







「ねぇ星。色即是空に空即是色、これってどういう意味なの? 文句だけは聞いたことあったんだけど」
「むむ。一から説明するとなると一日二日では足りませんが、初心者向けに説明しますと――、『色――ありとあらゆる存在は、空――固有の本質を持たず、因縁――関係性、相依存性によってあらしめられる。故に逆も然り』。個々の存在はそれ自身のみでは世に意味を成さず、故に絶対的な存在は存在し得ない」
「あんた、理解させる気無いでしょ」
「そうですねぇ。例えば、『万人にとって最も価値のある宝』、なんてものは存在しません。何故なら宝の価値は、時代や土地によって、勿論人によっても変化します。ならば、そんな宝を追い求めても無駄でしょう。同じことが、お金や地位、名誉にも言えますね。逆に、何でもない路傍の石ころがその人にとってこの上なく大切な宝物になるかもしれない。だから特定の物事にばかり執着するのは愚かなことだ、と先人は語るのです。これは相当ざっくりした物言いで、解釈の仕方によっても色々なので、詳しくは後日じっくりと指導いたしましょう」
「遠慮しとくわ……。あ、待って。じゃあ『空』に至るってことは、何にも無くなるってこと?」
「ええと、仏教には空思想というものがありまして。存在に固有の本質が無いということを悟れば、物事と虚飾抜きで相対し、そのありのままを見ることができる。口では簡単に言えますが、私自身その境地に達しているとは言い難いです」
「分かったような、ますます分からないような……」
「思えば貴方の正体不明というのも興味深い。定義を否定された物体。色や形といった性質をそのままに、万人の共通理解である名前を失った物以前のモノは、ある意味物体そのものに近しいのかもしれません。これは、今後取り上げるべき価値のある命題ですね――」
「よくもそんな難しいことを考えながら生きていけるもんだ。疲れてしまわない?」
「私が特別なのではありません。人は誰しも、生きている限り世に問いを発し続ける哲人なのです」
「……やっぱり私には、人間って訳分かんないわ」







 上空に飛び上がったのは、単に昼食(何を食べたのかは秘密だ。これ以上仏教集団命蓮寺のイメージを崩壊させる訳にはいかない)を楽しむためだった。水兵さん直伝の味と無辺の眺望を堪能した後は、お天道様としばしのお別れだ。
 雲の上に居たら雨傘って意味無いんじゃ、と指摘を受けた化け傘は本気で凹み不貞寝。室内なのに揺れ動くという不条理に幾分の割り切れなさを覚えた私は、例によって外で風に当たっていた。
 船と聖をこよなく愛するムラサには悪いが、空に在るなら生身が一番好ましい。特別な目的が無くとも、夜空を自在に飛び回る解放感は値千金である。

 いや、脱がないけどね。

 霞む地平線を眺めていたのも束の間、今や聖輦船は、投光機の照明を頼りにほぼ垂直な潜航の最中だった。ごつごつした岩土のトンネルがのんびりと上に流れて行く様は、深海魚にでもなった気分だ。縦穴の直径は船体の幅に対して十分に大きいものの、穴底へ目を凝らす入道使いに油断は無い。

「村紗……。少しずつ傾斜が緩くなっていることに気付いてる? 先行して様子を見てみるわ」
「〈ええ、お願い〉」

 雲山を繋いでいる金輪とは別、小さな木製の輪っかを通し、一輪とムラサは会話を行っていた。地下へ突入するにあたって手動操縦へ切り替えてからというもの、操舵室はぴりりとした緊張感に包まれており、無駄話ができる雰囲気ではない。
 私は甲板の突起に絡めていた“翅”を解き、縦穴の下方へ飛び降りた少女の後を追う。

「何か?」
「暇なので」
「なら、船尾の見張りを交代してやってよ。またさっきみたいに上から誰か落ちてくるかも分からない」
「何だったのかしら。何事も無かったように転がり落ちていったけれど」
「曲者だとしても問題無い。姐さんの法力が満ちた今の聖輦船は、ちょっとやそっとの衝撃ならばびくともしないのです」
「なら下の見張りも要らないんじゃん」
「この速度で岩壁と正面衝突したら、流石に航行に差し支えるでしょ」

 村紗の舵捌きが狂うはずもないか、と少女は呟く。緊急時には彼女と雲山が障害物との間で緩衝材となり、あるいは豪腕を以って押し通るのだろう。命蓮寺の守護者にして殴り込み隊長。清楚な外見によらず、色んな意味で前衛向きだ。

「ムラサとは古い付き合いなの?」
「ええ、雲山とほどじゃないけどね。――。あ、恥ずかしいからその話はするなって」

 以心伝心の相方は、相も変らぬむっつり顔を雲の体に浮き上がらせ、眉間に皺を寄せて宙空を睨んでいる。再度の報告を始めた一輪を尻目に、私は好奇心から縦穴の壁を軽く引っ掻いてみた。
 剥がれ零れた土塊(つちくれ)は、音も無く深い闇へ落下し、落下し、落下し……。ついに乾いた音を立てて急斜面を跳ねた。どうやら、この先は緩い弧を描いて水平に近付く構造らしい。

「あら、耳が鋭いのね」
「暗闇が私のテリトリーですもの。――あ! 蝙蝠みたいって思わなかった? あんな中途半端な正体不明と一緒にしないでよ。私は最初っからどの勢力にも属さない」
「あの話、日和った挙句に孤立してたっけ。あんた、地底都市に知り合いって居る?」
「いんや、生まれて以来(このかた)独身貴族を貫いてるの。兄弟や恋人の一人も居た試しが無い。物心付いた時から私は私、ぬへは鵺。誰も何者も無いってね」

 その事実について特段の感傷は無い。境遇に託(かこつ)けて愚痴るような湿っぽい性根ではやっていけない稼業なのだ。

「私は謎に満ち満ちた空想から産まれた存在だけど、ムラサは元々人間なんだよね。一輪はどうなの?」
「さて、どうだったかしら。姐さんのお傍に居ると、あまり意識しなくなるみたい」
「白蓮は元人間で合ってたっけ。この私が言うのもなんだけど、人間ってつくづく意味不明な連中だわ。身分だの係累だのにこだわってばっかり。もう少し気楽に暮らしても良さそうなのに」
「人の数だけ業がある。人の数だけ救いがある。あんたは独り身を気取りたいのかも知れないけど、どうかしたら生き別れの妹が居たりするかもしれないわ」
「冗談じゃない。封獣家の血統書なんかが世に流出したら、私は外国に逃亡するしかないわ。あの世だと追い付かれかねないし」
「意味を判らなくする程度の能力を持ち、名前は封獣もえ」
「そんなあざとい名前の身内は願い下げよ!」
「性格は姉と対照的に大人っぽく――」
「私が子供っぽいみたいな言い方するな!」
「――と、雲山が申しております」
「妄想しておりますの間違いでしょ!」
「そうよね。ここは姉か兄を想定するべきだったわ」
「私が末っ子ポジションだって言いたいの!?」
「躾のなっていないペットかなぁ」
「うわーん。一輪お姉ちゃんが意地悪したって、白蓮に言い付けてやるぅー!」
「……お前に姉呼ばわりされる筋合いは無い」
「何故そこで素に戻る」

 軽口を叩き合いつつ、後方の船へ逐一報告を繰り返す。目立った障害にも出会うことなく進んでいると、傾斜の変化が顕著になり始めた。照明が届くか届かないかの所を踵で滑り降りていた私に、一輪が声を掛けてくる。

「妹の話で恐縮だけど、ぬえ。古明地こいしを知っている?」
「知らない名前。どうして?」
「昨晩、姐さんに地霊殿のことについて根掘り葉掘り尋ねられたのよ。今回の遠征に関係あるかもしれないと思って」
「あんたも、そう考えますか」

 一輪達も宝塔の件については了承しているはず。白蓮の指示に疑問を持っているのは、私だけではなかったのだ。旧都の広がる地層に着けば、どうせナズーリンの青石が最終目的地を明らかにするのだろうが。

「姐さんのことだから間違いは無いんだろうけどね。探し物一個に総動員体制ってのは、少し不自然よ」
「一時的に人里から距離を置くため、なんて穿ちすぎか。地霊殿にまで行かなくても十分だし。っと、その古明地こいしって――」
「お察しの通り、地霊殿当主の妹君。あんたなら何か情報を持ってるかなーと」
「一輪も知ってる通り、私は郊外とすら言えないとこに棲んでたから、流行りの話題には疎いの」
「だからこそ気が合いそうだと判断したのよ。彼女は重度の偏屈屋だから。家には滅多に帰らず放浪三昧で、近頃は地上にも出没しているとか」
「私が変人扱いされたのはまあ良いとしましょう。そいつは古明地姓の覚妖怪なんでしょ? 地上になんて出てきて大丈夫なの?」
「問題が無いこともないけど。古明地こいしは、第三の目を封じられている」

 一輪の声が、底知れぬ竪穴で虚ろに反響した。

「旧都の路地裏じゃ、姉が読心能力を独占するために妹の瞳を縫い閉じたんだって囁かれているわ。眉唾としても、あり得ない話じゃない」
「おお怖い。妹に生まれなくて良かったー。きっと碌でもない目に遭っていたに違いないわぁ」
「姐さんも『姉』よ。念のため」

 弟のことを随分と尊敬し、また大事に思っていたらしい。ムラサから耳にタコができそうなくらい聞かされたエピソードだ。

「しっかし第三の目が見えない覚なんて、炭酸の抜けたソーダみたいなものじゃない?」
「ところがどっこい、盲(めくら)が度々常人離れした感覚を身に付けることがあるように、妹君は独自の能力に目覚めてしまった。心を読む姉と対極の、無意識を操る能力に」
「無意識……と言われましても。フロイトさんだっけ? それとも血液型占いの話?」
「学が足りていないな。――。百年は昔だったか。私やムラサもほんの少しだけ会話を交わしたことがあるけど、尋常な奴じゃなかったわ。彼女は他人に意識を、人格を認めない。養豚場の豚どころか、道端に生えている雑草を眺めるような目で私達を捉えていた」
「逆に言えば、一輪達を眺める目付きで路傍の石を蹴り転がすのね。そんな奴が地上に現れて大丈夫なの?」
「それ故に『問題無いこともない』。どちらにせよ彼女は無意識で行動できるから、向こうが望まない限りこちらから相手を認識するのは不可能に近いって話」
「……まさか、そのこいしが犯人だとでも?」

 入道使いと入道は、ちらりと横目で私を見た。

「なんの根拠も無い憶測よ。でも今朝方ネズミが言っていたことが本当だとしたら――宝塔と地霊殿の座標が重なっているとしたら、一番疑わしいのは彼女ね」
「一体何のために宝塔を?」

 そして同じ頃、ナズーリンの子分であるスネークとやらが姿を消している。そこに因果関係があるとしたらどうだろう? や、今の今まで忘れていたのだけど。

「――。何のために、か。私じゃ一生あの妹君の思考を理解できるとは思えないし、想像したくもないわ」
「妹も妹で警戒されているみたいねぇ」
「実際本人を目の当たりにしてみれば判る。陰惨たる逸話には事欠かない姉君と違って、彼女の噂は極端に少ないの。本気で地霊殿に乗り込むとなると、はぁ、ちょっと気が重いわ。――。次点なら、里に出没するっていう火車かしら」
「猫車を押してる化け猫のこと?」
「会ったことあるの?」
「むかーし昔、一度っきりね。地霊殿の連中で面識があるのはそいつだけよ」
「猫が鼠を攫うってのは、少し出来過ぎかしら――」

 一輪が考え込んだその時、手にしていた木輪が軽く振動した。輪の一部分を軽く押さえると、心配そうな船長の声が飛び出してくる。

「〈一輪、どうかしたの? 通信が途切れていたみたいだけど〉」
「心配無いわ。雲山がカラオケの練習をしていただけだから」
「〈凄く聞きたい。……じゃあなかった。人が神経使って仕事してるんだから、遊んでちゃ駄目じゃないのー〉」
「あらま、悪かったわね。今の内に乗組員へ呼び掛けておいた方がいいんじゃない? 順調に来てればそろそろ関所よ」
「関所?」
「知らないの? ああ、ぬえはこっそり抜け出して来たんだっけ。しかし、話は聞いたことがあるんじゃない?」

 さらりと笑い、少女は頑固親父の眉を軽く燻(くゆ)らせた。

「地下へ地上へ想いを架ける、緑色の眼をした橋姫のお話をね」







 ※







 これまで通ってきた洞窟とは段違いに広い、半球状の空洞だった。聖輦船が顔を出した天井付近の洞穴以外にも大小様々な横道が口を開けており、どうやら各通路の結節点となっているらしい。一目でそれと知れるのは、大空洞の底に溜まった青緑の湖が発する、朧げな青白い光で照らし出されているからだ。
 輝く湖面の逆光に、岸から岸へと架けられた一本の橋のシルエットが浮かび上がっている。湖を渡るために橋を必要とする者がここを訪れるとは考えにくい以上、これが実用品ではなく、なんらかの象徴であることは明白だろう。
 欄干には金髪の少女が一人腰掛け、足をぶらぶらさせながら水面を眺めていた。反対側に接舷した船の甲板からは、彼女の背中しか窺うことができない。

「こんにちは。貴方が橋守さんですね?」
「……今日は、ですって? 開口一番嫌味な奴ね。ここが夜も昼も無い地底だと知ってその言いよう、忌々しいったらありゃしないわ」

 船上に佇む白蓮の挨拶に少女は振り向きもせず、どっちが嫌味だか分からない台詞を返した。

「私は聖白蓮と申します。この先へ進ませていただきたいのですが――」
「進みたけりゃ進めばいいじゃない。わざわざ寡婦(やもめ)に声を掛けていくなんて、私のことを見下して、優越感に浸る魂胆なんでしょう。浅ましいわね……」
「一輪、今日のパルスィって一段と不機嫌だと思わない?」
「残念なことに絶好調ね」
「あら、誰かと思えば、どこぞの禁欲的な連中じゃない」

 やっと頭(こうべ)を巡らせた少女が、甲板に勢揃いした妖怪達を翡翠の双眸で認め、険のある表情を少しだけ緩めた。地底でも顔が広かったムラサは(鵺妖怪に話し掛けてきたくらいだ)、この妖怪とも顔見知りらしい。私だって話には聞いている。地下と地上を濁った情で結ぶ、嫉妬に狂う橋姫――水橋パルスィの存在を。

「都の隅っこで暮らしてた変な連中が、いつの間にか姿を消していた。この頃は地上との交流も頻繁になってるから、さして意識はしていなかったけど……。ああ、前々から不思議に思ってたんだ。この船のことで船長だなんて呼ばれてたのね」
「そうなの。で、こちらが――」
「貴方達が二言目にはありがたがっていた恩人か。千年間も封印されていたそうじゃない。大願果たされ復活したってことかしら」
「ええ、皆の尽力のお陰で」

 莞爾(かんじ)とした立ち姿の尼公へ、パルスィは一転して朗らかな笑みを向ける。

「良かったじゃない。おめでとう。――なんて言うと思ったのかしらおめでたい脳味噌だわ。千年もの間離れ離れになっても慕ってくれる皆が居る。危険を顧みず助け出しに来てくれる仲間が居る。ああ妬ましい妬ましい! 私はずっとここで独りぼっちよ」
「話には聞いていましたが、予想以上に個性の強烈な方のようですね」
「だが、聖の大好物ではないかい? いやご主人、皮肉で言っている訳ではないよ」

 甲板の後方では、星いつの間に乗り込んでいたのかナズーリンが星とひそひそ話し合っている。突然叩き起こされたのだろう小傘は、唐傘共々まだ寝惚け眼(まなこ)だった。笑顔で向かい合う橋姫と尼公の隣でムラサはおろおろ。黙って事の推移を見守っていた一輪が、私に耳打ちする。

「口の悪さほど性格が悪い奴じゃないから安心していいわ。誰に対してもあの態度だから。なんだかんだ言って、職務には忠実だし」
「確かに、ああも極端だといっそ清々しいなぁ」

 水場が好きなムラサの付き添いで、何度もここを訪れたことがあるらしい。器用に欄干の上で半回転し、笑顔のまま陰鬱な気を発散させるパルスィ。重いんだか軽いんだか判らない空気の中で、困り顔の船幽霊が思い切って割り込んだ。

「ええと……。もしかしてご機嫌斜め?」
「今頃旧都は宴会の真っ最中よ。私みたいに陰気な女を招待しなかったのは賢明の至りねー。ふん、アルコール中毒でくたばってしまえ」
「うう……。ねえパルスィ、私達、旧都まで行きたいんだけど――」
「あーら、折角脱出できたのに、また闇の中へ舞い戻る気なの?」
「果たさなければならない用件がありまして。橋守さん、どうかお通し願えますか?」
「だから、通す通さないの権限なんて私には無いんだってば。ここで計られるのは、単にあんた達の心積もりよ」

 作り笑顔を引っ込めた橋姫は、どこからか真新しい台帳と筆記具を取り出し、文字を書き付け始めた。

「お役所仕事で悪いけど、時刻の横にそれぞれ記名してくれないかしら。一応、ここを行き来する者には全員やってもらうことになってるの」
「これ、まだ新品みたいね」
「きちんとこの橋を渡って、しかも私に挨拶していく奴なんて滅多に居ないんだもん。どうせ密出入国者が後を絶たないから、儀礼的なものだけど」

 ちらっと目配せされて、私は視線を泳がせた。すらすらと自分の名前を書き込み、白蓮が尋ねる。

「各々直筆で記名した方がよろしいでしょうか」
「そうしてくれると助かるわ。後で呪いに使ったりはしない。どうせ体の一部が必要だから」

 順繰りに台帳が妖怪達の手を渡り、私にも回ってきた。白蓮や星を始めとして、皆達筆なものである。最後に書き添えた自分の字が恥ずかしい。誰の髪の毛も挟まっていないことを確認し、台帳を小傘へと手渡す。

「ん。これでいーい?」
「ご協力どーも。初めて旧都に入る連中も何人か居るみたいね。そいつらは特に注意なさい。いくら鬼達が仕切っているとは言え、あそこは基本的に無法地帯。どっちにせよ鬼の流儀は喧嘩上等だし、自分の身は自分で守ること。さあ、『ここを通りたくば私を倒してからにしろ』なんて馬鹿なことは言わないから、さっさと立ち去ることね」
「あ、これだけで良いんだ」
「そうよ、この橋が皆の役に立つことこそ、私の本望――」

 言葉を切った橋姫は、すっと緑眼を細め、婀娜(あだ)っぽく首を傾げる。突如として足場が消失し、私は一時空を泳いだ。

「――な訳無いでしょう、戯(たわ)け共め。私の嫉妬がそんなに浅いと思ったか」

 気が付けば、橋姫の不敵な形相が目の前にあった。どこまでも深い緑の双眸に、己の驚愕した表情が映り込んでいる。頭を掴む両手を振り解こうとした刹那、背中から水面に叩き付けられ、氷のように冷たい水が全身を包み込んだ。

「仲好し小好しで結構なことね。でもそんなお寒い家族ごっこじゃ、お茶の間の一つも沸かせられやしない。泥沼の愛憎から目を背けて、おままごともいいところ」
「――っ」
「妬ましいわ……、その無邪気な楽観論。喜びを共有できる仲間が妬ましい。冒されぬ理想が妬ましい。どうせまた独りきりになるのなら――」

 光る湖面と呼気の泡がぐんぐんと遠ざかる。言葉を発しようにも気管は冷水で埋まり、手足は鉛を縛りつけられたように重い。閉じた瞼の裏で尚、緑の瞳が爛々と光っている。
 ……が、この程度のまやかしに欺かれる私ではない。意識に暗幕を張って幻覚を遠ざけ、後ろ手に正体不明を練り上げ――

「――って、あれ?」

 次の瞬間には、私は変わりなく聖輦船の甲板に立ち尽くしていた。他の妖怪達もまた、はっとした顔付きで辺りを見回している。橋姫は未だ欄干の上に腰掛けたまま。にやにや笑う彼女の手元で、台帳から鉱石インクが蒸発していた。

「髪の毛が無かろうと、名前さえ手に入れてしまえばこんな芸当朝飯前よ。少しは肝が冷えたかしら?」

 茫然と、あるいは憮然とした表情でパルスィを見詰める妖怪達。ただ一人彼女の精神攻撃に動じた様子を見せなかった白蓮が口を開く。

「何故このようなことを……」
「私は強い想いで地底と地上を望み、繋ぐ妖怪。その嫉妬の一部を貴方達の目蓋に植え付けたわ。これで迷うことなく旧都と地上を往復することができるでしょう。一種の保険みたいなものね。有効期限は再び日光を浴びるまで。太陽の光を望む心を失えば、闇の住人となり戻れなくなるけど」

 閉じた瞼の裏に目を凝らすと、蜘蛛の巣のように複雑に入り組んだ地図が浮かび上がった。細かい説明を受けずとも、感覚的に現在地が把握できる。

「橋守さん。貴方は――」
「それ以上言ったら本気で呪うわよ」

 不機嫌な口調で白蓮を制し、橋姫は再び湖面に向き直る。

「人と妖の平等を謳ってるんだって? 聖人だか変人だか知らないけど、私は好きで己の本分を全うしているの。満たされては意味が無い。ま、望まれて請け負った仕事でもあるしね。外野が無責任な口を挟むのは無粋極まる」
「私は、どのような時も自分の言葉に責任を持っているつもりです」
「つもりなら誰でも超人になれるのよ。後ろを見てご覧なさい」

 私にとっては目の前だ。ふらりと身体を傾(かし)がせたムラサは、しかし自分の足で踏み止まっていた。どうにか笑みを浮かべてみせるものの、痛ましそうな顔色は隠せない。

「ムラサ……!」
「あいや、私は大丈夫ですよーっと。それでパルスィ、どっちに向かうのが最適でしょうか」
「船がその大きさだと――。あの洞窟を抜けると良いわ。少し遠回りになるけど、幅には十分に余裕を持たせられる。……白蓮とやら、貴方のその澄み切った瞳、はっきり言って気に入らないの。私の気分が変わらないうちに、とっとと失せなさい」

 静まり返っていた湖面に白々とした魚の影が跳ね、波紋が橋脚に反射する。僅かに表情を曇らせ、無言のまま尼公は橋姫へ頭を下げた。友人に肩を貸そうとして断られながら、一輪が小さく呟く。

「言ったでしょう。あの橋姫は徹頭徹尾、紛(まが)うことなきプロフェッショナルよ」







 再び動き出した聖輦船の船尾に座り込み、私は遠ざかってゆく橋を眺めていた。パルスィは手前の欄干から動かず、じっと視線を湖へ落としている。
 ムラサは舵輪を握るや否や元気を取り戻していたが、一体何が彼女の琴線に触れたのだろうか。全員が同じ幻術を仕掛けられたかどうかもはっきりしない以上、推測の仕様も無いが。
 すっきりしない私の背後から、話し掛けてくる者が居た。

「やれやれ。彼女とは初対面だったが、地底の連中はどいつこいつも一癖あるようだ。無論、君達も含めてね」
「ナズーリン、あんた地底に行ったことあるの?」
「この間野暮用があったんだ。鼠には住み易いくらいだが、あの乱痴気ぶりは、ご主人様には受け入れ難いかもしれない」
「宝塔の位置は掴めたんでしょ。さっさと奪取しに行けば良いんじゃない?」
「元凶を解消しなければまた同じことが繰り返されるかもしれないとは思わないかい? それに地霊殿の姉妹は、私にとっても脅威に違いない」
「やっぱり地霊殿かー。星と一緒に行けば?」
「ご主人様は……、そう、妖怪だよ。覚は妖怪の天敵。交渉するにしろ戦うにしろ、とてもじゃないがまともに太刀打ちできるとは思えない」
「だから、まだ人間に近い白蓮が来なきゃいけなかったとでも?」
「さあね。私に読心の技はない。探し人は昔から苦手なんだ」
「座る?」
「や、お構いなく」

 首と尻尾を横に振る鼠の大将は、あくまでも日頃の冷静な態度を崩そうとしない。その達観した物言いといい、見ていて憎たらしくなってくるほどだ。

「で、私以外に探し物が?」
「気が付いているかな。白蓮は君をとても気に掛けている」
「……ま、睨まれているような気もするけど」
「かつて慣れ親しんだ仲間達が結集した、その後最初に加わった乗組員だからね。今後も同じ船に乗り合わせる者は増えていくだろう。ために、君の次第は重要だ」
「悪いけど、模範生とは百八十度懸け離れているつもり」
「自覚があって結構」
「あんたには言われたくないなー」

 お互いに目も合わせないまま、会話は続く。

「千年という月日を耐え、彼女達の絆は風化しなかったかもしれない。しかし、人間だろうと妖怪だろうと、全く変わらない者もまた居ない。ご主人様にしても、彼女にしてもね。老婆心ながら忠告させてもらうが、君はもっと白蓮に気を使ってやった方が良い。新天地に至って、彼女なりに思うところがあるだろうしさ」
「は? それはムラサ達に頼んだ方が早いんじゃない?」
「船長達では少々親し過ぎる。この手の問題はね、近ければ近いほど良いというものじゃないんだ」
「逃げ足ばっかり早い癖して偉そうに。……偉そうな奴って、どうしていつも具体的なことを言わないまま、遠回しに仄めかして逃げるのかしら」
「どうしてだと思うかい?」
「実際は本人も本当のところを知らないから、誤魔化しているだけなんでしょ」
「へぇ、なかなか筋が良いね」

 私から一歩引いた立ち位置で、ナズーリンは静かに笑っていた。共に朝食の席に並んでいる時でさえ、彼女はそうやって皆の輪へ踏み込もうとしないのだ。それでも気取っているように見えないのは、己の身の丈を知っているからなのかもしれない。

「しかし、一つだけ重要な点を見落としているな。本当に本当のことなど、最初からどこにも存在しない、という前提だよ」
「それは困る。正体に正答が無かったら不明も意味を失くしてしまう」
「絶対不変の真理なんてものは、どこにも存在しない。何故ならそれは、この私が真剣に探し当てようとして唯一空振りに終わったものだからだ」
「うっわ、気障(きざ)な奴」
「ふふふ。これはいつか使ってみたいと思っていた台詞でね……。私と子ネズミ達は、一足先に旧都へ潜入して情報を集めようと思う。後でご主人様にそのことを伝えておいてくれないか」
「また雑用? 自分で伝えなよ」
「付いて来られても迷惑なんだ。彼女はどうもネズミの気を知らなくて困る。はっ、知られても困るがね。ただし、しばらくの間は見張りを怠らないようにしてくれ。ここはまだ彼女の視程範囲内だ」

 私はぎくりとして橋姫を見る。今や湖の光はごく薄くなり、橋桁(はしげた)に並べられたカンテラが光源に成り代わっていた。水面に反射した深緑の瞳が、じっとこちらを見据えている。

「――手を差し伸べることそれ自体は、罪でもなんでもない……。問題は、貴方が貴方自身の残酷さを自覚していないということよ。光を求めることは、闇へ惹かれることとまた同義……」

 取り残される橋姫の呟きには、意外にも感嘆と寂静(じゃくじょう)の響きが伴っていた。

「お行きなさいお逝きなさい。貴方達には立派な資格がある。地獄へと落ちる、その資格がね――」







 ※







 飛刹は、旧都の上空を悠然と航行していた。懐かしき平安の京を思わせる碁盤目状に並ぶ市街地。その中央を貫く目抜き通りに灯る提灯の並びは地平線に収束し、まるで飛行機の滑走路のようである(実物を見たことがある訳ではないが、きっとこんな感じだ)。操舵室に安置されたナズーリンの青石からは、宝塔の位置を示す光線が真っすぐ正面へと伸びていた。

「この先に、伝説のラピュタがあるのね……」
「あー、またムラサのテンションが妙な方向に」
「聖、ラピュタとは何のことでしょうか」
「魔界の新聞で目にしたことがあります。都市部では大衆向けの公共交通機関として運用されているそうで」

 俯瞰する常夜の都はちらちらと瞬く明りが星のようで、反転した夜空を泳いでいる気分に浸れるものだが、宴会の今日は倍加した照明がイルミネーションじみて眩しかった。何を祝っているのかは知らない。とにかく飲んで騒げれば満足な鬼達は、突発的な酒の席を都市丸ごと巻き込んだお祭りにまで盛り上げる常習犯だ。酔った勢いで新たに酒を呑む口実が生み出される悪循環は、最長で一ヶ月近く続いた記録すら残っている。地底の住人はその印象に比して陽気な者が多く、一度調子に乗り出すと手が付けられない。

 船は出し物の一種として認識されているらしく、拍手喝采で迎えられていた。謎の飛行物体の報せは既に旧都中へ伝わったようで、沿道や屋根の上は赤ら顔の見物客で賑やかである。始めは船に取り付こうとする妖怪達を追い払おうとしていた一輪達も、ついには甲板の戸口前に陣取って胡坐をかくしかなくなってしまったほどだ。飛び交う怒号や囃し歌、何より好奇心で満ちた衆目にうんざりして内部へ戻った私の役目は、船が誉め称えられてご満悦なムラサと、真面目な顔でどうでもいい会話を繰り広げる白蓮達とにツッコミを入れようとして挫折することである。

「うふふ。次はアクロバット飛行しちゃおっかな~」
「誰かー、ムラサを舵から引き剥がしてー」
「聖、アクロバットとは何のことでしょうか」
「ゴルバットの進化系でしたっけ」
「〈こちら一輪。村紗ー、聞こえるかしら〉」

 通信が来た。天の助けか。

「〈唐傘お化けが騒ぎに巻き込まれて連れ去られちゃったんだけど、どうしましょうか〉」
「星です。あれ程不用意に外へ出るなと言っておいたのに……。他の出入り口はちゃんと封鎖されていますか?」
「〈うん。小傘は締め切る前から外に居たみたい。――。まるで荒波に揉まれる木の葉みたいね。あらら、うわー、あちゃー〉」
「きっと無事に帰ってくる。あいつには伝家の宝刀、さでずむがあるのよ……」
「〈ぬえ、居るなら扉の番を代わってくれない? 船に落書きしようとしている連中を追っ払いたいから〉」
「船そのものを正体不明にしちゃうってのはどう? ――あ、ちょっと待って。決断早いんだから」

 ずんずん部屋を出て行こうとする白蓮に、追い縋る私と星。おっとりしている割に足が速く、甲板へ向かう通路の途中でやっと追い付いた。

「早く救出しに行きませんと……」
「お気持は分かりますが、この人混みではとても。探し物ならナズーリン――は別行動でしたか」
「あいつも大概強(したた)かだから、案外楽しんでくるんじゃない? 本気で深刻な事態なら一輪が見過ごすはずもないわ。多分」
「ですが、彼女は見るからに薄幸そうでしたし――」

 途端、強烈な揺れが船体を襲った。私は壁に“鰭”をつっかえさせてどうにか転倒を免れ、星は白蓮に抱き留められてじたばたと踠(もが)いている

「船が止まった……? 外に出てみましょう!」
「白蓮落ち着いて。あまり気合いを入れ過ぎると星の命にかかわるよ。今、背骨がめりめりっと」







 甲板への扉を開け放つと、先程とは比べものにならない大音声(だいおんじょう)が鼓膜を震わせた。徐々に下降してゆく聖輦船は、左右のみならず前方をも人垣に取り囲まれている。野次馬達は一様に興奮し、アイドルの舞台に詰め掛けるファンを思わせた。だが、船の推進を受け止めることができる規模の装置はどこにも見当たらない。この異様な熱狂は一体……。

「片手で止めるだなんてまあ――。人力車じゃないのよ?」

 唖然とする一輪と対峙している人物が、どうやら歓声の中心らしい。額から生えた一本の角に、片手で掲げる丹塗りの大盃(おおさかづき)。引っ切り無しに上がる黄色い悲鳴が、彼女の正体を物語っている。

「驚いたね。見慣れない船が空に浮かんでると聞いて駆け付けてみたら、予想以上の大物じゃないか。あんたがこの船の主かな?」

 語られる怪力乱神。元・山の四天王が一角。力の勇儀こと星熊勇儀の背景に色取り取りの花火が咲き乱れ、その影法師を大きく引き伸ばす。

「船長は別におりますが……。私は聖白蓮と――」
「あー、いいよいいよ。本音を言っちゃぁ、お前さんが何者だろうがさして違いは無いんだ。問題は腕っ節の方さ」
「聖、この者は言い伝えられし鬼の生き残り。酒と力比べにしか興味を持たない荒くれです。立ち居振る舞いからして、この都を取り仕切っている者達の代表格かと」
「そこの虎柄は分かってるじゃないか。いかにも、私はここで一番な大酒飲みの乱暴者さ」
「そうでしたか。卒然にお騒がせしてしまったことをお詫びします」

 白蓮の丁重な言葉を、勇儀は豪放に笑い飛ばした。

「あっはっは! なんのなんの、騒がしいのならいくらだって大歓迎さ! まっ、ピーチク煩(うるさ)いだけの連中ならばご退場願うが」
「ならば、静かに運行するよう言い付けておきましょう」
「そう遠慮しなさんな。ささ、駆付け三杯」
「私はこれでも仏道を修める者。不飲酒戒を破る訳には参りません」
「そうかいそうかい。ならお楽しみは一択だな。あんた、お鉢より重い物を持ったことがないとは言わせないよ」

 快活な口調とは裏腹に、鬼の物腰には有無を言わせない凄みがあった。小細工一切抜きの純然たる強者の威風。気の弱い者ならば、その眼光に射竦まれただけで精神的に打ち負かされてしまうに違いない。

「私共には貴方方と争う理由がありません。穏便に通してはいただけないでしょうか」
「飯を食うことに理由が要るの? とことん奥床しい奴だね。それとも、こう言ってやれば満足かしら。――『ここを通りたくば、私を倒してからにしな!』」

 馬鹿と喧嘩は旧都の華。謎の侵入者と我らが大将の大立ち回りを期待して、観客のボルテージは天井知らずだった。轟然と沸き返る野次は、もはやステージではなくアリーナを連想させる。
 すらりとした体躯に闘志に満たした勇儀に対し、白蓮は憂い顔で睫毛(まつげ)を伏せた。

「話し合いの余地は無い、ということですか。無為な暴力を前に、しかし甘んずる由(よし)も無い……」
「おっ、やっとやる気になってくれたかな。あんたらが憎くて邪魔をしているんじゃないんだ。この盃から一滴でも酒が零れたら、その時はなんなりと協力しよう」
「聖……。ここは私達にお任せを。正義無き者に後れを取る道理は無し」
「姐さんの船を拳で止めた。勇儀さんといえども、一発殴り返して差し上げないと気が済みません」
「えーっと、私はこの流れ遠慮しときたいんだけど――」

 両手に独鈷杵を構えた虎柄の毘沙門天と入道の怒面を膨らます尼姿の少女が、白蓮を守るように並んで鋭く鬼を見返す。遅ればせながら正体不明を纏いつつ、私も仕方無く三叉槍状の得物――“棘”を取り出して備える。どこに隠し持っていたのかは自分でも分からない。これを便宜的に“嚢(のう)”と呼んでいる。
 こちらの動きを気にする様子もなく、勇儀は大盃になみなみと注がれた酒をぐびりと呷(あお)り、液面の高さを調節していた。

「ハンデはこんなもんかなぁ。悪いが、そっちの三人は勘定に入れてないんだ」

 安全を期して徐々に下降していた船体は、ついに目抜き通りへと軟着陸した。俄然妖怪達との距離が近くなり、喧騒と高揚の只中にあって落ち着き払った尼公と、ますます不敵な笑みを深める鬼神。一輪が提げる木の輪より、操舵室からの連絡が響いた。

「〈強行突破の準備は整えておきますが、最終手段ですよ。くれぐれもお気を付けて。勇儀さんは色々と抜群ですから〉」
「分かったわ、村紗。船には傷一つ付けさせない、――。おや、頭数合わせということですか」

 人混みから三つの影が飛び出し、勇儀の前に着地して船体を揺らした。見るからに頑強そうな三匹の鬼が、昔話に出てきそうな厳(いか)つい金棒を担いでいる。

『――姐さん。我々が露払いを』
「ちったぁ相手を見なよ、若いの。お前達程度じゃ前座にもなりゃしないって」

 三人の背を見て軽く眉を顰めた勇儀は、気を取り直して大笑し、大盃を頭上へゆるりと舞い上げて構えを取った。その一瞬、ギャラリーがしんと静まり返る。

「ま、いっか! 余興ぐらいにはなるだろ。細かいことは後だ後。さァさ、お楽しみと行こうじゃないか!」
「……お手合わせ願いましょう。いざッ!」

 爆発的な吶喊(とっかん)が上がると同時に、四体の鬼は動き出した。勇儀は甲板を蹴って飛び上がり、残る三人は金棒を振り翳して私達の元へ突進を開始する。がむしゃらだが圧倒的な腕力を前にして、一輪は冷静に金輪を回す。

「愚かね。理を伴わない力を振るおうとすれば――」

 地響きを立てて猛進する一列へ、左右から挟み込むように巨大な雲の拳が襲い掛かった。図体だけの相手と踏んだのか、両端の鬼は鼻で笑い、走りながら受け止めようとする。しかし、彼らがどんなに怪力を誇ったところで雲山の攻撃を阻止することはできなかっただろう。二つの拳はなんの抵抗も無く鬼達を喰い込ませ、濃い雲霧の中へと包み隠した。

「――力に振り回され、やがて自ずから滅するでしょう」

 呟き、私より一拍早く駈け出していた虎柄の少女は、躊躇いなく目眩ましの雲へと飛び込んでいた。聴覚に頼って内部の様子を探れば、鬼達は予想外の事態に戸惑い足並みを乱している。その間に割って入った星は、両の独鈷杵を羽根箒の如く操り、態勢を崩した二つの巨体を易々と掬い上げていた。
 鵺も彼女に倣うことにしよう。思い切り姿勢を低くして残る一名の足元へ滑り込み、背中の“翅”と“鰭”を相手の四肢に絡ませる。“棘”の石突を甲板に突き立てて支えとし、身体全体を捻って放り上げる。

「貴方は誰に何をされたのかさえも――、えーと。あん、全然台詞考えてなかった」

 猪突猛進の敵を往(い)なすことなど朝飯前の芸当だった。自分の生み出した勢いをそのままに宙へ投げ出された鬼達の一体一体へ、今度こそ強烈な拳骨がお見舞いされる。三人の名も知らぬ鬼は為す術も無く吹き飛ばされ、遥か彼方へ飛んで行った。

「墜落音がもの凄かったけど、建物が壊れたんじゃないの?」
「堀に落としたつもり。落ちてると良いな」
「そ、それより聖を――」

 頭上を見上げた私達は、すぐに加勢が無用であることを悟った。野次馬達も思わず息を呑み、激しい乱打戦を演じる二人に魅入られている。

「普通に殴り合ってるし……。白蓮って魔法使いじゃないの?」
「聖の十八番はご自身の身体強化の術ですから。それにしてもあの鬼、言うだけのことはあります。片手で聖と対等に渡り合おうとは」

 確認できるのは高速で繰り広げられる応酬の残像のみ。互いに片手での攻防であるものの、まるで肩から一本ならぬ腕を射出しているかのようだ。機関銃の如く間断無しに鳴り響く拳の音は、一撃一撃が決して軽くないことを如実に示している。

「ははは! やるじゃないか! 私の目に狂いは無かったね!」

 激しい闘いへ晒されている片手とは対照的に、両者もう一方の腕は微塵もぶれてはいない。丹塗りの大盃には細波(さざなみ)すら立っていないことだろう。相対する白蓮の片腕には、輝く魔力が収束している。

「どうしても酒蛮の業を手放せぬと言うのなら、手荒な方策も已むを得まい――」

 振り抜かれた平手が空間をごっそり圧殺する寸前に、勇儀は大盃を高々と放り上げていた。自身は下方へと身を退き、追撃の直拳を左手で受け止めながら、自由になった右手を撃ち返す。砲撃と見紛う突き上げもまた、白蓮の左手に遮られ、握り締められる。互い違いの鍔迫り合いだ。力比べは拮抗するかと思いきや、尼公の背後に無数の小魔法陣が展開されてゆく。

「おっと、逃がしませんよ?」
「いーや、捕まったのはあんたの方だ」

 余力を残していたのは鬼神も同じだったらしい。力任せに白蓮の胸元を引き寄せると、己の頭を仰け反らせる。額の鋭い一本角を活かした頭突きは、お仕置きでは済まされない威力だろう。あわやと目を覆いかけたその時、辛くも相手を振り払ったのは勇儀の方だった。防御を選ばせない閃光が発射されたのは――。

「今、白蓮の目からレーザーが……。雲山の真似?」
「流石、元祖は違うわね」
「どうしよ。私、もう平常心で彼女と顔を合わせる自信が無いわ」

 一閃された鬼の爪から放たれる怪光線が、全ての魔法陣を掻き消すと共に肉弾の追撃を阻む。呵呵大笑しながら盃を受け止める仕草は磊落(らいらく)にして流麗で、下っ端の鬼達とは流石に格が段違いだ。その彼女に互角の白蓮はどれだけ人間離れしているというのか。割り込むなど以っての外。ますますヒートアップする観客と共に傍観するしかない私達である。インターバルを挟む二人の瞳には、一種似通った光があった。

「気に入った! 今夜は駄目になるまで遊べそうだね!」
「巻物を使うまでもないと思っていましたが……。失礼を詫びましょう。貴方の拳には、全霊を以って応える必要がありそうですね」
「ねぇムラサ。もう誰もこっちのこと見てないしさー。先に行っちゃってて良いんじゃない?」
「〈聖、格好良過ぎですっ……!〉」
「ナズーリン、写真取っておいてくれるでしょうか……」
「最近は活動写真ってのがあるらしいわ。――。む、何事?」

 最初に異変に気付いたのは、いつものように一輪、ひいてはまだ膨らんだままの雲山だった。あれほど盛り上がっていたギャラリーは鳴りを潜め、代わって恐々としたどよめきの波濤が人垣を伝わってゆく。雑踏から拾い上げた単語に、私を含めた宗徒達の表情が強張った。あの勇儀でさえ、一旦構えを解いてまで目抜き通りの最奥へ剣呑な視線を向けている。
 程無くして、異変が目に見えて現れ始めた。立錐の余地も無かった人混みは徐々に散(ばら)け、潮が引くように、あるいは蜘蛛の子を散らすようにしてこの場を逃げ去ってゆく。

 通り沿いの家屋からさえも人の気配が消えた旧都は、先刻との落差もあって廃墟さながらの寂しさだった。船の周囲に残った地底の住人が勇儀を含めてほんの十数名の妖怪達に絞られてしまった頃、目抜き通りの先に小さな人影が現れる。

「彼女が、地霊殿の当主……」

 洋燈を手に提げた少女は、無人と化した通りをたった一人で歩いていた。厳密に言えば一人きりではない。その足元に落ちた影の如く、一匹の黒猫が忠実に寄り添っている。マイペースな歩調は貞淑さの表れか、それとも待ち人を意に介さない狷介さを示しているのか。

 じりじりと彼女の歩数を数える時間が過ぎ、ようやくその容貌が明らかになった。あどけなさを残した顔立ちには愁いが滲み、瞳は半ばまで瞼で覆われている。地底の住人の常である雪膚からは、陰湿さより病弱そうな印象が先に立った。
 何より目を引くのは、身体の各部から伸びた管らしき器官が繋がる胸元の球体だ。ぎょろりと虹彩を剥いた第三の目が、通りへと降り立った勇儀へ向けられる。気怠げな双眸は、黒猫の二又に分かれた尻尾を追っていた。

「地上からやって来た、凶悪極まりないならず者が暴れているとの報告を受けて駆け付けてきたのですが……。え? 『どこが駆けていたんだ』ですって? 返す言葉もありません。最近どうも運動不足で。代わりに運動してくれるペットを見付けなければいけないわ」
「こっちにはまた別の報せが駆けて来たよ。あんたが世にも恐ろしい猛獣達を引き連れて、今夜の晩餐を探し歩いているってね」
「猛獣達……? 今、連れているのはこの子だけですけど」

 洋燈と入れ替えに抱き上げられた黒猫が、こちらを向いて高く鳴いた。つと引き上げられたの三つの瞳が、私達をじろりと眺め渡す。内臓を無遠慮に撫で回されるような感覚に、悪寒が背骨を凍らせる。

「……そして、この方々が鎮圧すべき侵略者なのかしら」
「私達は――」
「ふむふむ。おおよその事情は承知できましょう。それに貴方達の素性も。仕掛けたのは勇儀さんの方でしたか。鬼流の挨拶のようなものですからお気になさらず。それにしても立派な船ですね。ほう、そんな経緯があったのですか――」

 一方的に喋りながら、覚妖怪は第三の視線を巡らせていた。壁を隔てようが地に潜ろうが、その読心能力から逃げ隠れることはできない。赤裸々な内面を晒し出され、言い訳する暇も与えられないのである。皆の手前でなければ、全速力で逃走を図っていたことだろう。今彼女は、私の正体を丸裸にして具(つぶさ)に観察し、検分し、類推し――。

「ぬえ、大丈夫? 顔色が真っ青だけど……」
「邪魔しないで。今素数を数えているところだから。素数は自分以外の誰にも割り切れない孤高の数字なんですって」
「さとりさん。できれば――」
「把握しています。貴方方がこの目を不快に感じていることは、誰よりも私が知っている。それでも習い性ですから……。ああ、申し遅れました。私は地霊殿の当主を務めております、古明地さとり。見知っておいて下さった方も多いようですね。そちらの自己紹介なら結構です。もう追々終わりますから。ご用件も、――成程、承りました」

 傍目からすると自己完結しているようにしか見えない少女は、申し訳無さそうな顔で勇儀へ向き直る。

「こちらの方々は地霊殿のお客様です。今日のところは穏便に通していただけないかしら? それとも、仕切り直しを待ちきれませんか」
「答えが判りきっているっていうのに、訊く必要はないだろ」

 酒と間違えて酢を飲み干してしまったような顔をして、腕組みをした鬼はぶっきらぼうに言った。さとりは軽く頭を下げる。

「『興が削がれた。また飲み直しだ』ですか。ご迷惑をお掛けしますね。もしよろしければ、後ほど人数を貸してくれません? 人手が必要になりそうなもので」
「あんたの頼みを無下にする訳にゃいかないだろう。若い衆に声を掛けておくよ」
「ありがとうございます。しかし、強要はいけませんよ」

 唇の端をひくつかせる勇儀を尻目に、覚妖怪は黒猫を肩に乗せ、どことなく艶っぽい仕草で洋燈を拾い上げる。

「改めて歓迎するとしましょうか。ようこそ、二つ目の太陽が輝く昏(くら)い都へ。地霊殿までは私が案内いたします。ペット同伴は可ですからご心配無く。……そうそう、白蓮さん。貴方は妖怪への並々ならぬ同情心をお持ちのようだけど」
「――。ええ、この非力な腕が届く限りは、虐げられた者達を救いたいと」
「ふふ。変わった考えをお持ちなのね。異端といってもいいかもしれない」

 頑として動揺を表わさない白蓮。見上げるさとりの表情は、誰の期待にもそぐわない、優しげな微笑みだった。

「私個人の興味としても、貴方方を歓迎したいと思っているの。……ああ、確かに私も乗った方が早いですねぇ。ですがお断り申し上げます。乗り物酔いする性質ですから――」














 3.Believer and Truster







(盲目的に信じることが罪なのか)
(裏切りはその報いなのか)
(瞼の裏、思い描く世界には光が溢れ)
(私は暗闇の中に跪く)







 ※







「あーん。この墨中々落ちないわ。時間をおけば取れるかな……」
「傘って新陳代謝するの?」
「ほら、唐傘って外骨格生物だからー」
「脱皮するんだ!?」

 結局自力で船に帰りついた小傘は、ぶつくさ文句を言いながら布切れで傘の汚れを拭っていた。左右で色の違う瞳を皿のようにして、細かい染みや解(ほつ)れが無いかも入念に調べている。

「かさかさは~、撥水性が、命なの~」
「良かったじゃない。落書きされる程度で済んで。世が世なら倫理的な規制を受ける事態に発展していたかもしれないし」
「良かーない。これはわちきの半身のようなものなの。私自身に落書きされたところで結果は同じだわ」
「気付いてなかったの? 額に堂々と『ご自由にお持ち帰りください』って書いてあるわよ」
「なんと! 誰か鏡持ってないかしら?」
「私は……、今持ち合わせが無い」
「じゃーぬえぬえが拭いてよー」
「えー? 前髪で隠しとけばいいじゃない。鏡台なら誰かの部屋にあると思うけど。どうせ真に受けてあんたを持ち帰る奴なんて居ないわよ」
「がーん」

 露骨にショックを受けた顔で、めそめそし始める小傘。

「どうせ……どうせこの傘のセンスは時代を先取りし過ぎて凡人には受け入れられないわよー!」
「何を偉そうに。私は嫌いじゃないけどね、その配色」
「ぐすん。ほんと?」
「製作者の意図がさっぱり不明な感じが鵺心をくすぐるのです」
「むぅぅぅぅ。さり気無く馬鹿にされたような気がするー」
「あ、そうそう。武者修行の成果は上がったの? 妖怪という妖怪を片っ端から驚かせる旅に出たのよね」
「執拗にヨーグルトを唐傘へ掛けようとする連中や隙あらば下駄に踏み付けられたがる連中から逃げるのに精一杯でそれどころじゃなかったわ」
「一体全体どんな状況よ。……まあ、無事で何よりね。逃げ込んだ先がラスボスの居城ってのはいただけないけど」

 地霊殿は旧都の最奥――平安京でいえば大内裏――に位置する建物だった。円形の敷地の大半は、遠目には珊瑚礁のような色取り取りの植物群に覆われ、そのまた中心に旧都の木造家屋からは懸け離れた洋風の御殿が聳(そび)えている。異界めいた不気味な森林は地霊殿に住まうペット達の遊び場であり、不用意な来訪者を寄せ付けないための結界でもあった。
 着陸に適当な空き地が無かったため、聖輦船は宙に浮いたまま建物へ直接係留されており、その甲板からは旧都全体が一望できる。揺れ動く光の群れを見るに、まだまだ百鬼夜行の宴は続行中らしい。
 下方に視線を転じれば、今までにない近距離から御殿の細部を観察することができた。一歩間違えばサイケデリックになりかねない独創的な色使いは、紫を基調としてどうにかファンシーの範疇にまとまっている。色鮮やかなステンドグラスや絡み付く真っ白な蔦が相俟(あいま)って、遊園地のアトラクションのような雰囲気が醸し出されていた。
 こうして見比べてみると、嫌でも地霊殿の放つ異彩が目に付く。これが主の性格を反映したものならばさもありなんだ。

「んー、取れたかな」
「全然取れてない。もう、ちょっと貸してみて」
「痛っ、そんなに強くしないでよ。おでこが削れちゃうじゃない」
「こうでもしないと落ちないじゃん。気付かないあんたもあんだだけど、一体誰がこんな手の込んだことを……。こら、逃げない」
「やあ、離してよ~」
「……見掛けないと思ったら、あんた達こんなところで何やってんの」

 布切れを片手に嫌がる小傘の頭を抱え無理矢理拭き取ろうとしていると、やってきた一輪に胡乱な眼差しを送られてしまった。

「いやこれはその……。そーよ! いやいやする涙目な女の子へ強引に迫ってるの! 何か文句ある!?」
「どうして開き直るのやら。見なかったことにしておくとして、こいつ、あんたの知り合い?」

 そう言って、一輪は小脇に抱えていた物体を仰向けに下ろす。ぼさぼさの長い黒髪に大きなリボンを結び、背中からは黒い翼を生やした少女である。眼を閉じたままぐったりしているその顔には、全く見覚えが無かった。

「いえ。知らない奴よ」
「船にちょっかいを出してたんで雲山に脅しを掛けてもらったら、失神しちゃって。地霊殿の住人かしら」
「雲山が? 気絶止まりで済んでると良いけど」

 心臓発作でぽっくり逝っていないかどうか確かめるために伸ばした手が触れる直前、少女が薄く目を開いた。ぼんやりとした瞳が私を捉えるか捉えないかのうちに、彼女の手が私の手首を掴み、強引に引き寄せる。思わぬ力強さに対応が遅れた私は、うつ伏せに力の限り抱き締められてしまうこととなった。背骨ピンチ。

「ちょっ――」
「んにゅ。もぅちょっと寝かせて……」
「ぐ、ぅ……。デジャヴが……」
「んふふ~、お燐、あったかいね~」

 この度危うく本物の地獄へ直通しそうになっていた私を救ったのは、フルスイングされた唐傘の一本足打法だった。馬鹿力が緩んだ隙に振り解いて呼吸を整えつつ、頭を抱えて悶絶する少女を見遣る。

「だいじょーぶ? ぬえが誰にでも手を出そうとするから痛い目を見るのよ」
「抜かせ。――あと、ありがとう。迷彩を点(つ)けっ放しにしてたわ」

 私のことを知らない者から見れば、そいつにとって適当な生き物なり死に物として認識されるはずだ。それにしても最近つくづく窒息と縁がある。慣れてしまって冷静な自分が怖いくらいだ。

「あたたたたた……。あれ? ここはどこ? 私は誰?」
「ほら、小傘が頭なんか打(ぶ)つから可哀そうなことに」
「だって脛は痛いでしょ? 一つ目の弱点は目玉っていうけど、実際小指をぶつけた時の方が天国に近いもん」
「いや、残念なのは元からみたいよ」

 見れば、翼の少女は懐から取り出した手帖をのろのろと捲っているところである。

「えー、忘れた頃に読むこと、by私。――私は誰。私の名前はれい……う? じ、うつほ。さとり様のペットで最強の地獄烏。――ここはどこ。辺りを見渡して、親切そうな人に尋ねましょう」

 きょろきょろと見回して一輪を見付けた少女はぱっと顔を輝かせ、隣の親父を見て怯み、そのまた隣に居た小傘の頭上を見てしまってぴょっ! と、悲鳴を上げた。

「……小傘、少しの間その一つ目を向こうへ向けておいてくれないかしら。雲山もお願い」
「目玉怖い目玉怖い目玉怖い――」
「ほーら、もう恐いのは居ませんよ。こっちを向いても大丈夫」
「ほ、本当に……?」

 ぷるぷる震えつつも呼び掛けに応えようとする少女の背後に忍び寄り、私は背中の器官を一斉に拡げてみせた。

「ばあっ!」
「うにゅにゃー!?」
「ぬえったら!」

 脳天に拳骨を頂戴しました。親父の方でない辺り、一輪もまだまだ甘い。







 翼を大きく広げての威嚇態勢から落ち着きを取り戻した少女は、存外にすらりとした体躯の持ち主だった。両手でスカートの端を摘んで膝を曲げ、軽くお辞儀をしてみせる。

「私の名は霊烏路空。皆からはおくうって呼ばれています。ご主人様の下で殺生を積み、今や最強の力を手に入れた地獄烏ですわ。先の醜態は忘れて下さる?」
「忘れてやってもいいですけど、貴方はさっき船に何をしていたの?」
「それはですね……。ええと、お燐を探して中庭に出てみたら、変なお船が浮かんでいるのが見えて居ても立っても居られなくなって、それでどうにか中に入ろうとしていたら巨大な顔が目の前に――。そこから先は覚えていません。気が付いたらお辞儀していました」
「実に便利な鳥頭ね」
「失礼な。現にあそこに船が浮いて――。あれ? 居なくなってる!? 確かに空に浮かんでたはずなのに!」

 まさしくその船の甲板で驚きに目を瞠(みは)る空。ひょっとして理知的なんじゃと疑ったこっちが馬鹿だった。

「貴方達はさとり様のお客様なのよね?」
「そーよ。VIP待遇なのです」
「もう一度お名前を伺ってもいい?」
「これで三度目だけどね。私は封獣ぬえ」
「自分は雲居一輪です。こっちは雲山」
「そしてわちきが多々良小傘。四人合わせて――!」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ごめんなさい」

 落ち込んでしまった小傘を放置し、地獄烏は正体不明を解除した私に問う。

「見掛けない顔だけど、さとり様にどんなご用かしら。場合によってはミディアムですわー」
「あんたの思っているような用じゃないよ」

 断言してはみたが、実際のところ白蓮の目的は未だ不明なのだ。幸い、おくうがそれ以上追及してくることはなかった。

「残念ですわ。こんなに大きな船を焚き木にしたら壮観でしょうに。まだ私の炉へ火が入っていなかったことに感謝しなきゃ。あ、でもお客様は応接間に待たせておくものだってお燐が……」
「それは結構。大所帯ですから、一度に押し掛けてしまっては迷惑でしょう?」

 入道使いの弁もまた苦しい。地霊殿の中へ招き入れられたのは白蓮と星のみだったが、より正しく言えば二人以外の全員が御殿の内部へ足を踏み入れることを辞退したのだ。長きに渡って擦り込まれた覚妖怪についての風聞、地底の猛者をも戦々恐々とさせる所業の数々は、そう簡単に払拭できるものではない。

 怨霊すらも恐れ怯む少女――古明地さとりが旧地獄後に地霊殿を構えた第一の理由は、地獄が移転してからもこの地に残る浮かばれない霊達を監視するためだった。そしてもう一つの側面は――これは意図されたことではないかもしれないが――旧都に集まったはぐれ者の妖異、特に他人と協調できない者や危険な思想・性質・能力を持つ者が争乱の種にならぬよう予防することである。
 地底の住人の大半は、周囲と馴染めず抑圧され、地上から放逐された者が占める。鬼達が手綱を誤ったり、野心や怨恨から地下と地上の盟約を違(たが)えるような妖怪が出れば、彼女は容赦無くその者を粛清するだろう。たとえ、それが彼女の身内であったとしても。
 そして万が一さとり達がその能力を悪用して横行闊歩するようなことがあれば、鬼は純然たる武力を以って叩き潰す。最悪の結末は相討ちか。暴威による制圧力と恐怖による抑止力。威力の均衡を軸として和平を推し進めるは、最善ではないとしても次善な構図である。

 ここまで毘沙門天先生の受け売り。よくもまあ他人から話を聞いただけですらすらと思い付くものだ。勇儀の反応を見る限り、対立しているというより一方的な苦手意識のようだったが。
 一人事情を知らない小傘が、あっけらかんと尋ねる。

「ねぇ、お燐って誰のこと? 抱き枕に名前を付けているの?」
「お燐は私と同じでさとり様のペットよ。この地霊殿が出来た頃から一緒に居たんで、もう随分と長い付き合いになるけど……。えーと」
「手帖なら反対側のポケットに仕舞い込んでいましたね」
「お、あったあった。お燐のお仕事は怨霊の管理と死体の運搬。私はその死体を燃料にしたり中庭の蓋を開け閉めして火力の調整を行っていましたの。――段々思い出してきた。私達はペットの中でも一番の古株なので、えっへん、地霊殿で最も重要な役目を請け負っていたのですわ。最近は事情が変わって、灼熱地獄跡の天窓も開けっぱなしだけど」

 何故か自慢げに胸を逸らすおくう。彼女の言う中庭は直ぐに見付かった。背の高い建物に囲まれる広々とした一角には――庭といっても草木一本生えていないが――真ん中に巨大な穴がぽっかりと口を開けている。耳を澄ませば、きっと吹き上がる風の音だろうが、死人達の怨嗟の声が唸りとなって聞こえてきた。

「そういえばおくうさん、貴方が火力調整役なら、昨年末に活性化した間欠泉について何か知らないかしら。簡単な顛末なら伺っているのだけど、関係者から見ればどうなのかなと」
「何度もお話ししたでしょう、刑事さん。その件についてはもうほとんど覚えていなくって――。あ、お燐!」

 途端に明るくなった地獄烏の笑顔の先に歩いていたのは、先程さとりに連れ添っていた、二又の尻尾を持つ黒猫であった。床へ伸びる猫のシルエットが不自然に揺れたかと思うと、膨張して人の形を取る。その影の本体もまた、業火の色で薫灼されたような赤い髪をお下げにする少女へと変貌していた。

「おくうが虐められているような気がして来てみれば、妙な面子が揃ったもんだ」
「地獄の輪禍、火焔猫燐。地霊殿の住人にしては露出が多い方でしたね」
「あたいをその名前で呼んで良いのはご主人様だけさ。……本当はさとり様にも呼んで欲しくないんだけど。お燐で良いよ、入道回しのお姉さん。あんた達のことは覚えてる。偏屈揃いな住人の中でも毛色が違ったからね」
「お燐の知り合いなの?」
「いいや、買い出しの時に顔を合わせたことがあるだけ。そしてそっちのお嬢さん、通りで会った時は不思議と気が付かなかったけど……」

 にやにやと笑うその顔には、やはり見覚えがあった。かつて旧都の郊外で暮らしていた頃、死体漁りをしていた火車に、不覚にも素顔を見られてしまったことがある。邪険にあしらわれても尚馴れ馴れしく食い下がってくるその物腰は、特に苦手な部類だった。結局名前を覚えることもなく、二度と会わないと思っていたのだが……。

「意外だね。いかにも一匹狼な面(つら)してたお嬢さんが、よりによってこんな連中と連(つる)んでるなんて」
「それはまあ罪滅ぼしというか、興味本位というか」

 こっちが訊きたいくらいである。

「時に、お姉さんと居た水兵さんも一緒かい? ほら、葛屋の銘菓と同じ名前な――」
「その話は軽くトラウマですから……」
「気を付けなよ。今、あそこは苺水蜜とかジャンボ水蜜とか売り出し中なの。それはそうと、あの白蓮って魔法使いと虎柄のお姉さんは何をしに来たんだい? さとり様は心配無いって言ってたが」
「ええと――」

 言葉に詰まった私達に代わり、またもや小傘が身を乗り出してきた。

「驚かせに来たに決まってるわ!」
「……覚妖怪をかい? 土台(どだい)無理な相談だねぇ」
「何も考えず、計画を悟られないようにすればあるいは」
「こいし様みたいな芸当だ。でも確かにあの魔法使い、どっか底知れないところがあるわね。人里じゃ彼女の噂で持ち切りだよ。空から降りてきたお寺には、妖怪すらも手懐けるど偉い尼さんが住んでた、と」
「必ずしも好意的な解釈ばかりじゃないですけれど――。里に出入りしてる火車ってのは、やっぱり貴方のことでしたか」
「多少の縁があってね。博麗神社にもちょくちょく御飯(おまんま)を戴きに行くし。最後にはさとり様の所に帰ってくるにしても、猫は貢いでくれる相手を限定しないものさ。妖怪寺なんかが出来たせいで、死体をちょろまかすのが難しくならないと良いねぇ」

 考え込んでいる様子の一輪。少しも分かっていなさそうなおくう。小傘がまた余計なことを言い出す前に、私から訊いておきたいことがあった。

「あんたも猫なら、鼠を取るんでしょう」
「ん? そりゃ十二支の一件もあるし、嬲(なぶ)って遊ぶのも面白い。だけど寺猫は抹香臭くてご免だね。あの寺には立派な猫さんが鎮座していらっしゃるみたいだし」
「スネークという名前の鼠を知らない?」
「スネーク? 聞いたことないが――。もしかして、こないだ庭をちゅうちゅう嗅ぎ回っていた鼠さんのことかな。惜しいところで逃がしちゃったけどー」
「この間?」
「一週間くらい前のことよ。妙な形の棒を担いだ……。美味しそうな奴だったが、喰えない奴でもありそうだ。そうそう、あたいには一々獲物の名前を確認するような習慣がなくてね。もう腹の中に収まってしまっていても怨みっこなしだよ。猫が鼠を捕まえるのは自然の摂理だ」
「食べたことは否定しないのね。よく舌が回るってことは判ったけど」
「あたいも猫舌には違いないが、喉元過ぎれば熱さ忘れる。ここんとこ物忘れが激しくって。二枚舌は、それだけ舌の根が乾くのが遅いらしいけどね」
「舌先三寸。腹に一物?」
「消化不良はそっちじゃあないかい?」

 意味深に科(しな)を作ってお燐は嘯(うそぶ)く。あからさまに怪しさをアピールされると逆に何か知っているのかもしれないと勘繰りたくなるが、それが彼女の狙いである可能性もある。私の問いに、一瞬逡巡したように見えたのは気のせいか。お燐はおくうと対照的に、駆け引きを楽しむタイプのようだ。恐らく、二人はなるべくして凸凹コンビになったのだろう。

「ま、お姉さん達が何を企んでいようと、さとり様にはお見通しさー。あたいもサボってるのがばれる前に戻らなきゃ」

 不気味な森の広さは、同時に第三の目の視認距離でもある。その半径が係留された聖輦船の高度に達しているということは、今まさに私達の思考が覗き見られている可能性があるということだ。逃げ出せば白蓮への不義理になり、かといって覚妖怪に面と向き合う勇気は無い。誰に待機を言い渡されたのでもなく、命蓮寺の妖怪達は葛藤の中で立ち往生していた。
 もし白蓮が一声上げれば、宗徒達は御殿に踏み込むことを恐れないだろう。望まれれば、さとりと敵対することも厭わないはずだ。だが、彼女は依然として自分の思惑を明かそうとしていない。毘沙門天の宝塔を取り返すという大義名分は、その本意の何割を占めているのだろうか。
 あくまでも陽気に、しかし抜け目なく黒猫は私達の表情を観察していた。

「ストレスを溜めると健康に悪い。敷地内は自由に散歩してて良いよ。世間様が言うことにゃ、ペットには癒し効果があるらしいね。中には理性的じゃない奴も居るけど躾は行き届いてる。下手な真似をしない限り出会い頭に喰われはしないわ。丸呑みされちゃうと死体が手に入らないから気を付けて」
「遠慮しておきます。雲山は動物の子供アレルギーなので」
「親父さんには灼熱地獄跡の熱を利用した温泉がお勧め」
「釜茹で地獄の間違いじゃない?」
「血の池地獄と見せ掛けて、ワイン風呂だったりするんだなーこれが」
「アルコールはちょっと……」
「皆が噂しているほど、ここも悪いところじゃないさ。死後の保障はばっちりだし、火葬代も浮くときた。死にたがりにゃ天国だ」

 縁日の香具師(やし)の如く大袈裟な身振り手振りでおどけてみせるお燐に、話題に置いて行かれて不満そうなおくうが口を尖らせた。

「ねぇってばー。私、お燐のことを探していたんだけど」
「はて? なんの用件かいな?」
「忘れたー」
「……はぁ。きっと火を貸して欲しいって伝言だろ。さっき食材を厨房に届けた時、火種を分けておいたから問題は無い。おくうの火力じゃシチューも黒焦げさぁね」
「じゃあじゃあ、このお船と遊んでていい?」
「駄目駄目。おくうがその目をして揉め事が起きなかった日は無いんだから……。あたい個人としちゃ、お姉さん達と事を構えるつもりは無いよ。あの尼さんを敵に回すと厄介だし。法力の強い坊主の死体はご馳走なんだけど。念のために爪は磨いておこうかな。さておくう、ここらでお暇しようか」
「お燐が言うんなら――」

 促され、地獄烏は唐傘お化けの人型の方をどっこいしょと担ぎ上げる。

「待て待て。小傘をどうする気?」
「だってこれ、お持ち帰りはご自由にって書いてありますわよ」
「きゃー、誘拐されるー」
「……ちょっと嬉しそうね。でも、こっちの付属品を忘れています」

 茄子色の傘を一瞥(いちべつ)し、誘拐犯は首を振った。

「その傘、ださ格好悪いもん」
「ががーん」
「左右で色が違う瞳が珍しくて綺麗だから、後で剥製にしてもらお!」
「傘はあたいが貰い受けるよ。ちょい、そこの鵺的な妖怪さん」

 再起不能に陥った小傘を肩に担いだおくうは、止める間もなく船から飛び降りる。傘を畳んで私の耳元に唇を寄せるお燐。

「お仲間の付喪神さんについては心配しなさんな。おくうは光りものに目が無くってね。飽きるのも早いから、後で適当に解放しておくよ」
「あ、うん」
「それと、最後に言っておくわ……。さとり様はあんたが思っているほど無慈悲じゃない。飛切(とびき)り残酷ではあるけれど」
「そんなこと私に言われても――ひゃっ!」
「初心(うぶ)なもんだ。再会を祝して乾杯といきたいが、仕事が残っているんで失礼するよ」

 私の項(うなじ)を吐息で撫で、くすくす笑いを漏らしながら黒猫は離れて行った。再びぱらりと唐傘を拡げその骨組へ楽しげな視線を這わせる彼女に、一応の反撃を試みる。

「お燐、最後に訊いておきたいことがあるの」
「ん? あたいは素敵な傘だと思うよ? この輻(や)の放射具合なんて職人芸だねぇ」
「小傘に伝えてやったら喜ぶと思う。それよりあんた、いつもあの烏と抱き合って眠ってるの? 小鳥の雛じゃあるまいし」
「んにゃ!? そいつをどこでっ、あわわ――」
「……ぬえ、オチないまま落ちたけど」
「この高さじゃ助かるまい。冥福を祈るとしよう」

 予想以上に取り乱した黒猫は、目を白黒させたり頬を染めたり忙しくしながら墜落していった。もしかしたら唐傘を落下傘にして助かったかもしれないが、多少意地悪が過ぎたか。

「一輪、彼女は何か知っていると思う?」
「私には脈有りに見えた。簡単に尻尾を出す手合いじゃないからはっきりとは言えないにしろ。ともかく、認識を改めなければならなさそう」

 何のことやらピンとこない私へ、一輪は腕組みしていた指を立てる。その傍らで、雲山が所在なさそうにふわふわと浮き沈みしていた。

「古明地の当主のことよ。これほどペットに慕われていたとは思わなかった」
「確か、言葉を持たない動物達にとっては読心能力が都合良かったんだっけ」
「それだけなら、あの二人のように人の形を獲得した時点で離れて行ってしまうはずよ。血も涙も無い残忍な独裁君主だとの風説ばかり聞かされていたけれど、一種の人格者ではあるようね。それともこのお屋敷、主人が主人ならペットもペットか。視野を広く取らなきゃ火傷じゃ済まされないわ」
「……そうだ。あんたには“これ”見せてなかったっけ」

 私は“それ”を手の平の上に乗せて差し出し、反応を窺う。入道使いは訝(いぶか)しげに目を凝らした。

「拳と掌(てのひら)の……模型? かしら。これだけだとちょっと不気味ね。一体何の意図が?」
「ううん、ちょっとしたお遊びよ」

 あれだけ騒がしい都の宮城だというのに、地霊殿の森と接する区画の建物は荒れ果て、言葉を前世に忘れてきた者達の巣窟と化していた。どこまでも広がる黒々とした天井には、月どころか星の一欠片も輝かない。長年慣れ親しんできた光景であるにもかかわらず、今は無性に底抜けの大空が懐かしかった。







 ※







「あら、ぬえじゃない」
「ぬえじゃない」
「いーや、ぬえだね」
「どうせぬえですよー」

 群衆の散らかしたゴミや落書きを清掃する作業に戻った一輪、その物問いたげな視線から逃れるようにして、私は船の内部へと戻った。静止さえしていれば聖輦船も命蓮寺も廊下の印象は変わりないが、停泊地が停泊地だからだろうか、普段より静かで、床の軋みが明瞭に聞こえてくる。ばったり出会したムラサの気取った微笑みも、どこか精彩を欠くように思えた。それは相手も同様だったらしい。

「まだ気分が優れなかったりするかしら?」
「ううん。今も読心の射程範囲内に居ると思うと、落ち着かないだけ」
「私もそわそわしちゃって。採光鏡越しに目が合ったように見えた時はぞっとしたわ」

 両腕を背中に回して首を傾げるムラサは、じっと私の顔を見詰めていた。

「それで、気晴らしにまた悪戯でもしようと?」
「しない。考え込んでるのも癪だから、少し横になっていようかと」
「抜本的なんだかその場凌ぎなんだか。……私も整備が手に付かないし、仮眠でも取ろうかしら」

 ムラサの船に掛ける情熱は計り知れないものがある。手伝いが居ない訳ではないが、管理・運行に関する重要な部分は大抵彼女一人でこなしているのだ。その上家事の仕切りまで任されているのだから、実は寺で一番働き者なのではないだろうか。船長なのに。その熱心さには頭が下がると同時にちょっと引いてしまう。いや、引け目を感じてしまうのだ。

「って、なんで付いてくるの」
「む?」
「もう私の部屋なんだけどー」
「お邪魔していいですか?」
「……言っておくけど、何も無いよ」

 その言に偽りは無い。物置と化していた空き部屋を貸してもらったのはいいが持ち込むような私物も無く、中古の行李やくすんだ鏡台でやっと体裁を取り繕っている有り様である。元から置いてあった荷物は片隅に積み上げられ、お座なりに寝床が確保してあるのみ。

「うわ、本当にがらんとしています」
「ムラサの私室がごちゃごちゃし過ぎなんだって」
「分けてあげようか?」
「私のところまで海洋博物館にしてしまうつもりなの……?」

 彼女の部屋は船舶関連の書籍やオブジェが所狭しと並べられており、とても参考にできる代物ではない。資料を片手にこんこんと湧きだす蘊蓄は尽きることがなく、一度引き摺り込まれた者はキャプテンが満足するまで脱出できない魔の海域と恐れられている。と、あの星が辟易した表情で語るのだから信憑性は十分だ。

「何か失礼なことを考えられているような気が」
「褒め言葉の類だと思うぜい。――ああ、座布団の一枚も無いなんて。その辺の箱にでも座ってて」
「お構いなくー。ほら見て、こんなの手に入れちゃった」

 そう言いつつ梱包用の箱に腰掛けたムラサが取り出したのは、いつの間に入手していたのか、一冊の雑誌だった。表紙を飾るキャッチフレーズは、『旧都の旬を余すところ無くお届け! 月刊まるごとキュート(はぁと)創刊号』。ポーズを決めて微笑む妖怪アイドルの周りを様々な惹句が縁取っている。二人で等閑(なおざり)に捲ってみれば、各種広告の間を話題の記事に行楽情報、知識人のコラムや漫画で埋める形式らしい。

「凄いわねぇ。巻頭なんか総天然色よ。昔は瓦版くらいしか無かったのに」
「最近になって地上から技術が流入し始めたってさ。きっと天狗や河童の仕業だね」

 『創刊に寄せて』のコーナーには、天狗の幹部や河童の頭領らしき名前に並んで『守矢神社代表・八坂神奈子』とある。人里に地底にと手広い奴だ。

「今日はヤマメちゃんのオンステージだったんですって。このお祭り騒ぎ、きっとそれが火種になって、都中に延焼したのね」
「ヤマメって良く聞く名前だけど、芸能人なの?」
「歌って踊れるアイドルだけど、主な演目は綾取りです」
「それはツッコミ待ち?」
「もう少し早く出発していれば、生で観れたかもしれないわね……」
「へぇ、好きなんだ」
「いいえ、私は聖命だから。でも雲山が大ファンでね~。ライブに駆り出された一輪が、毎度やつれた顔で戻って来たものよ」
「おー。意外や意外」
「未亡人キャラは雲山の好みど真ん中」
「そんな設定で売ってるアイドルは置いといて。あの入道雲はどこへ行こうというの……」
「気持は判らないでもないわ。私だって聖のコンサートを企画したいもん。――いーややるね!」
「待って船長! 私を置いてどこへ向かおうというの!」

 『星熊勇儀の散歩筆撮』。皆の人気者勇儀姐さんがぶらりと訪れた旧都の名所を写真を交えて語るエッセイ(ただし二行目から酒の話題)を流し読みしながら、私は問う。

「聖命のムラサは、心配じゃないの?」
「え? ……んー、気にならないと言えば嘘になるけど」

 僅かに目尻を下げて苦笑し、船幽霊が答えた。

「聖ならきっと大丈夫よ。星も付いてるし」
「でもあの二人、結構抜けているところがあるじゃん。格闘ならいざ知らず、覚は精神攻撃の金メダリストよ。総合力なら橋姫の比じゃない」
「戦いに行く訳じゃあるまい。話し合いたいことがあるって、聖もさとりに仰っていたし……」
「交渉事なら尚更(なおさら)不利になる」
「そっか……。しかし、覚妖怪にも弱点はあります」

 お姉さんぶってぴんと指を立て、前々から対策していただろう、ムラサが説明する。

「第一に思考外の攻撃。故意無き事故は覚の急所だと言い伝えられているけれど、これを意図的に行うのはよっぽどの達人か馬鹿でない限り無理でしょう。二つ目は能力の限界。彼女が読めるのは表層意識だけで、過去の記憶や深層心理を読める訳ではない。これは又聞(またぎき)の又聞だから信憑性は薄いわね」
「ふぅん。そっか、てっきり昔のあんなことやこんなことを知られてしまったのかと焦ってた」
「問題は、彼女がその意識を誘導することに関してもスペシャリストであること。覚の種族は例外無く優秀な催眠術師よ」
「終わった……。もう駄目だ……」
「他に対抗策があるとすれば、できるだけ大勢で、しかも一斉に相手することぐらいかしら。こちらの思考は嫌でも目に入るから、情報量に処理が追い付かなくなって頭をパンクさせることができる……らしい」
「それなら、やっぱり付いて行った方が良かった?」
「通りで私達と相対していた時は混乱した様子も無かったけどね。正直、私はあいつがおっかなくってしょうがないわ。彼女の正面に立って平静を保っていられる自信が無い。聖の役に立ちたいのは山々だけど、足手纏いになっちゃいそうで」
「銃後でやってることと言えば、他人の部屋に来て雑誌を読むことだし」
「ぬえ、今日は意地悪ねぇ」

 雑誌に視線を落として悔しそうなムラサの隣、私は惰性で頁(ページ)を捲る。……この鬼、本当に酒の話しかしないつもりだ。

「結局、白蓮の目的が判らなきゃどうしようもないか」
「目的って……。宝塔を取り戻すために来たんじゃなかったっけ」
「そりゃ、そうだけどー」

 しかし、少なくとも何か宝塔以外の動機があるはずなのだ。一週間前にナズーリンが地霊殿の近所で目撃されていることと、今回の遠征に関連性があるのならば。どうせさとりに私達の事情は筒抜けだろう。抵抗も無く受け入れられたということは、少なくとも地霊殿が不利になる類の話ではないということだ。
 一旦その会話は打ち切りになり、ぎこちなくも話題は雑誌に移る。

「おお、来月号は心霊スポット特集みたい。読者の投書を募集していますとな」
「妖怪が怪談に肝を冷やしてどうするの」
「この手のエピソードを聞くと身につまされるわ。とても他人事とは思えない」
「そういや、ムラサは船幽霊なんだった。怨霊の一種?」
「新しい個性と名で縛られた私は、もう成仏することはできません。当時からこういう相談窓口があれば、少しは違ったかもね」
「あいや、このコーナーでは浮かばれない霊の身の上話を取材するつもりじゃないと思うよ?」

 それは避けられたかもしれない悲劇。私は迂闊にも、欠片の心構えも無しに次の頁を開いてしまった。飛び込んでくるのは、でかでかと写植された『貴方はもう食べた? 変わり水蜜十二色揃い踏み!』の見出し。いかにも柔らかそうな半透明でぷるぷるした葛菓子の写真がフルカラーで紹介され、蠱惑的な肢体を惜しげもなく晒している。この道千年な名物店長へのインタビューへ目を通す前に、雑誌は勢いよく閉じられた。

「…………」
「えー……、その……」

 ぐずぐずに濡れて腐り落ちる『まるごとキュート(はぁと)』創刊号。滴り落ちる水と磯の香り。室内に満ちる湿気と寒気。露骨に近寄り難いムードを発散するムラサは陰惨な目付きで宙を睨む。そんなに嫌だったのか、贈呈用水蜜セット。橋姫の心中攻撃よりダメージが大きそうだ。

「もしかしてムラサ、本名は水蜜っていうの?」
「……どうせけしからん名前とか思ってるんでしょ」
「えっと。私なんかほら、名前がまんま体を表してるけど――」
「……私、いやらしくなんかないもん。えろくねーし。透けねーし」
「ご、ごめんなさい」

 水蜜……。桃の品種にありそうな名前だ。桃色の印象に関連付けられたくない気持は、分からないでもない。
 お説教が様になっているのは星、小言を言わせれば右に出る者が居ないのは一輪と入道の二人組だが、臍を曲げられると手に負えないのがこの船幽霊である。ちなみに白蓮はというと、こちらを困ったような顔で見詰めてくる反則技を使ってきた。
 とにかく、錆が浮いてくる前に現状を打破しなければ。気を引けそうなものはないかと部屋を見渡して、違和感に気付く。気のせいか、第三者が近くに潜んでいるような……。

「……どうしたの?」
「しっ、少し黙って――」

 乙女の私室に無断侵入とは不逞な輩である。私が目を付けたのは押し入れだった。上段には私の布団ぐらいしか仕舞われておらず、身を隠すにはうってつけだ。不審げに立ち上がったムラサを唇に指を当てて制し、戸の窪みに手を掛ける。何が飛び出て来ても反応できるよう構え、素早く一気に引き開けた。

「――あれ?」
「なんだ、誰も居ないじゃないじゃないの……。鼠か何かじゃない?」

 押し入れの中には小動物一匹見当たらない。安堵とも落胆とも付かない心持ちを覚えた直後だった。胸を撫で下ろすムラサの背後で、誰かがすっくと立ち上がる気配を感じたのは。振り向く瞳に映ったのは、梱包用の箱の下部から迷彩服が生えた異様な人物。いや、箱を頭に被っているだけの……やっぱり異様な風体である。

「すまない。驚かせてしまったな」

 低い男性の声だった。響きの渋さから中年の域には達していそうだが、弛まぬ訓練を積んでいることの明らかな、鍛え上げられた肉体には隙が無い。呆気(あっけ)に取られる私達へ、箱が告げる。

「俺はスネーク。話は大将から聞いているだろう?」
「大将って……?」

 どうしよう。お前は何者だとか、どうして私の部屋に隠れていたのかとか、質問したいことは山ほどあったが、深く突っ込んだら危険な気がしてならない。その、肖像権とか大丈夫なのか。内心びくびくな私の傍らで、思いの外冷静にムラサが答える。

「ナズーリンの部下ですね。取り敢えず、その箱を脱いだらどうでしょう?」
「結構。緊急事態なんでな」
「星なら白蓮と一緒に居るはずだけど――」
「いや、今はお前達の力が必要だ」

 ふざけた被り物で表情は見えず、しかしながら真剣そのものの声色で箱男は言った。

「大将が連中に捕えられた。このままでは、命が危ういかもしれない」







 ※







「生命の危機とは穏やかじゃないね」
「そうと決まった訳じゃないが。でなかったら貞操の危機だろう」

 どちらにせよ看過できる事態ではない。義憤に燃える私達は共にナズーリン救出のため――単に部屋でうじうじしているよりマシだと思っただけなのだが――意を決して地霊殿への潜入を試みた。箱男に先導されるがまま、見咎められること無くあっさりと御殿内へ忍び込むことに成功する。スリルがあってちょっと楽しいかも。

「けど、どうしてもここを通らなくちゃ駄目なの?」
「潜入工作の基本だろう。それに、ペットの中には鼻の利く奴も多いからな」

 私達が四つん這いで進んでいるのは、今日この日のために用意されていたかのような通気ダクトらしき設備である。定番と言えば定番だが、まさか自分が通ることになるとは思わなんだ。

「あとどのくらいで着くんですか?」
「まだ四分の一といったところだ。途中からは普通に廊下を進む必要があるから、場合によっては戦闘になるかもしれない。心しておいてくれ」
「どうしてムラサまで付いて来るかなぁ」
「船とクルーは一蓮托生。乗組員を見捨てたとなればキャプテンの肩書が廃(すた)るわ。どーせ心を読まれるなら、ガッツのあるところを見せつけて差し上げます!」
「……はは、無理はしないでね」

 中年のケツと必要以上に息巻くムラサに挟まれての行軍。慣れない姿勢を強制され続けるためか、変な箇所の筋肉が早くも違和感を訴えている。考え無しに引き受けてしまったことを少々後悔しつつ、声を小さくして尋ねた。

「ムラサ、一輪には連絡したっけ」
「ええ、他の皆にも呼び掛けておくよう頼んでおいたわ。時化(しけ)に備えて態勢を整えておけと」
「そんなことをしたら、さとりにばれやしないかな」
「私達がここに潜入している時点で、導火線には火が着いていたのでしょう? 爆発する前に消し止めなきゃ。できれば、聖の面談を邪魔しないようにしたいわね」

 どう上手く忍んだところで、第三の目が気紛れにこちらを向けばゲームオーバーだ。その時は力尽くで人質を奪取して逃げるだけだと、傍迷惑に開き直ってしまった船幽霊である。
 基本的に暗がりの道中だが、所々の金網から光が漏れ、耳を澄ませば住人達の息遣いを感じることができた。複雑な構造に反響しているためか場所の特定はできないが、意味の通じる会話は他愛も無い雑談ばかりだ。

「私達のことは大して話題に上ってないな。動物の言葉は流石に通訳できないけど」
「特に騒ぎになっている様子も無いの?」
「うん。警備らしい警備も居ないみたい。だけど意外と躾が良いのね。もっと騒がしい奴らかと思ってた」
「次の角を右だ。また天井が低くなるぞ」

 黙々と手足を動かすのにも飽きてきた。ナズーリンの部下は全てを説明すると混乱の元になると言って詳しい話をしようとしなかったが、いくつかはっきりさせておきたいことがある。

「あんたを攫った犯人についてぐらい教えてよ。それはナズーリンを捕まえた奴と同じなの?」
「それが――、判らない」
「は? 判らない、って」

 あんまりな答えに、思わずムラサが声を上げる。

「丸一日以上捕まっていた訳ですよね。今さっきナズーリンに助けられたものの、ミイラ取りがミイラに成り代わった。その後私達に助けを求めて今に至る、と。目隠しされていたとしても、声ぐらいは聴いたんじゃ」
「声は聞いた。顔も見たはずだ。しかし改めて思い出そうとすると、記憶にはそこだけ霞が掛かっている。何もかも自分の気のせいだったような……、気が付いたら誘拐されていたという感じだ」
「それじゃ、犯人が誰なのかも、地霊殿の住人なのかも――」
「複数犯の可能性もある。あの大将が碌に対応できなかったくらいだ。特殊な手段で感覚を誤魔化されているとしたら俺だけでは対策の取りようがない。蛇の道は蛇。鵺は確か、その道の専門家だと聞いているが」
「認識操作は得意分野じゃあるけど、訓練したり勉強したりした訳じゃないからなー。命の危機って何?」
「血抜き、剥製、そんな言葉を聞いたような気がする。重ねて言うが、誘拐されたという実感がまだ湧いていないんだ。まるで俺が自分の意思でここに赴き、拘束されていたかのような……。危害は加えられなかったが、水も食料も与えられずに放置されていた」
「飲まず食わずですか? 言ってくれたら用意したのに」
「問題無い。少しばかり食糧庫から失敬しておいた。しかし思い返してみると、生き物扱いすらされていなかったのかもしれないな」
「ほどほどに無事だと良いんですけど」

 私としては、そもそも囚われのナズーリン姫という構図が思い浮かばないのだが。いつも飄々として逃げ足の速い鼠を捕まえるとは、一体誰の仕業なのか。私の知っている範囲だと、候補は噂の少女ぐらいしか思い浮かばないが――。

「あ痛っ、ぬえ、急に止まらないでよ」
「静かに。この声は……」

 しっとりと落ち着いた、それでいて耳朶に響き残る特徴的な声音は、一度聞いたきりだが間違えようがない。古明地さとりの口舌だ。

「……。貴方のような人間は珍しいですね。己の精神を厳しく律し、言動をそれと違えようとしない。聖と名に負うだけのことはある。それとも、名に負うからこそですか? 最終的に、両者の違いは無くなってしまうものですが……。――『人間』。そう、私のようなモノから見れば、貴方はまだまだ人間の域に留まっています。人と妖の境界は、どこに存在するとお考えです?」
「それは……、軽々しくお答えすることはできませんね」

 返事は白蓮の声。どうやらこの管路は、二人が居る部屋にも通じているらしい。

「人間と妖怪は地続きでありながら、その間には深い溝がある。人と動物の間に、言葉の壁があるように。――その通り、肉体を資本とするか、精神を拠り所にするかの違いでしょう。故に私は人間よりも妖怪に恐れられているのですが――。ああ、慎み深くしたところで無駄です。貴方方は私に対して恐竦(きょうしょう)と嫌悪と、そして憐憫の想いを抱いていますね。お気になさらずとも結構。遠巻きに忌み嫌われることこそ覚の本望なのですから。……尊敬の念をお持ちになるのは勝手ですが、そんなに大層なことはしていませんよ。私個人の財産と言えば、あの子達の思慕の情くらいしかありませんので」
「……どうしたの?」
「さとりと白蓮が会話してる。今んとこ平和的に。貴方方ってことは、星も一緒に居るようね。私達に気付いている様子は無し」

 立ち止まったまま、台詞だけなら一方的な対話に耳を澄ませる。二人の表情を想像しようとして、それは失敗に終わった。

「本当に変わった方々だこと……。『人と妖が、互いに荘厳し合う密厳の世』ですか。立派な思想だとは思いますが、日陰に慣れた者達にとっては多少眩し過ぎるかもしれません」
「弁えているつもりです。実際に地底の様子を目の当たりにして、虐げられ封印された者達も、単に世を拗ねてばかりいる訳ではないのだと思い知りました。また己の傲慢さにも……。私のような者の手を借りずとも、彼らは逞(たくま)しく前向きに暮らしている」
「『それでも、縋り付く者が居れば手を差し伸べたい』。……貴方は?」
「私も、聖と同じ考えです。救える者が居れば救いたい。それが何者でどんな罪を犯してきたとしても、救済を望む者には慈悲が与えられるべきでしょう」
「生憎と私には仏道の素養が無いのですが……。自分に言わせてみれば、神仏も妖怪も、そして人間も畜生も、然したる違いはありません。力の差はあっても格調の違いなど――下らない」

 流石の毘沙門天代理も声音に緊張を隠し切れていなかった。沈黙を挟み、さとりが静かに微笑む気配がする。

「ふ、ふふふ。うちに客人など滅多に来ないもので。その上礼儀正しい方々なんて尚更。寛げと言われても難しいでしょうが、せめてもてなしは受けて行っていただけませんか。晩餐を用意させております。心配なさらずとも肉や卵は抜きで。他の皆様は別の食卓の方がよろしいかもしれませんが」
「あの、それで――」
「あー、はい。盗まれたという宝塔の件ですか。私の耳には入っていませんが。恥ずかしながら、ペットの管理については不十分なところがあるのです。粗相があったのならお詫びしましょう。探し出すよう言い渡しておきますね。焦るお気持は理解できますが――え? もう部下に探させている? いえ、私が心配しているのはその方の身の安全で。手を出さないように連絡を……。そうだ、お茶のお代わりは?」
「あ、お構いなく――」
「そうですか。香りがきつ過ぎましたか。困りましたねぇ。紅茶の他にはミルク程度しか……。ふむ、乳製品もできれば遠慮したいと。そうだ、貰い物の珈琲がありましたっけ。皆には苦い苦いと不評で――。ええ、自分で挽きますが。仕事はペットに任せっきりですから、他にすることが無くて」

 そのまま独り言のような調子で、覚は続ける。

「それにしても、人と妖の共存とは。人間同士、妖怪同士の争いは、今も昔も絶えることを知らない。同じ種族の間でさえ、分かり合うことは難しいというのに。果たして平等とは、そうまでして追い求める価値のあるものなのでしょうか――」
「おい、いつまでそうしているつもりだ? できれば潜入が発覚しないうちに大将を助け出したい」
「あ、ごめんごめん。急がないといけないんだった」
「ねぇ、どんなことを話してたの?」
「一応歓迎はされているみたい。内容はともかく、双方穏やかなものよ。……怖いくらいにね」

 最後は口の中で呟き、私は再び暗がりを進み始めた。白蓮達の会話はすぐに聞こえなくなり、やがて心臓の拍動が雑音を締め出してゆく……。







「おー、明るくて広い。失って初めて気付くありがたさね」
「そう大袈裟なものじゃないと思うけど」

 四つん這いから解放された私達は、地霊殿の薄暗い廊下を進んでいた。外観と同じくファンシーな色合いで統一された内装はますますテーマパークじみていたが、どこか退廃的で血生臭い香りがするのは考え過ぎだろうか。箱男は大きめな鼠の姿に戻り(ある程度力をつけた妖怪は、特に元が動物や無機物だった場合、大抵が自在に姿を入れ替えることができる。……まさか変装じゃないよね?)、小走りに二人の前を行く。

「うーん。本当にこんな堂々と歩いてていいのかしら」
「私の正体不明が信用できないの?むしろ堂々としてなきゃ怪しまれるわよ」

 自身は勿論のこと、不安そうなムラサ、そしてナズーリンの子分にも、私の使い魔を取り憑かせ、正体不明の結界を展開していた。こちらの正体に確信を持てない者から見れば、私達は“地霊殿の廊下を歩いているべき誰か”にしか見えない、はずだ。実はぶっつけ本番で、本当のところはまだ手探りの段階なのだが。

「でも、必ずしも友好的な相手と認められる訳じゃないのよね」
「そこはそこ。私の恣意で正体不明の方向性を変えることができる。偏光を加えるとでも表現するべきかな。今回の場合、できるだけ観察者のストレスにならないよう設計してあるの。曲者より同僚と鉢合わせした方が面倒が少ないでしょう? それでも十割方確実とは言えないけど――」
「その時は、応援を呼ばれる前に沈める」
「……気絶させれば十分じゃ」
「放置しておいたら他のペットに見付かるかもしれないわ。安全を期すなら、床か壁の中へ沈めておくべきです。もし相手が手強かったら、私が足止めするんで二人は走って下さい」
「気合いが入ってるのは良いとして。折角白蓮達が友好ムードなんだから水は差さない方が」
「じゃ、永遠に沈める」

 ともあれ当分の間口を封じることができれば、と考えたところで、読心能力の存在を思い出した。やはり交戦そのものを避けるのが賢明だろう。
 等間隔に扉が並ぶ事務的な造りの廊下は人気も無く、遠く動物達の鳴き声と一行の足音が響くのみ。ここまで順調に来た事実が、逆に不安を煽るくらいだ。

「嵐の前の静けさだったりしてね……」

 ムラサも同じ気分らしい。気を引き締めて掛からねばと思った矢先、前方に小さな足音を聞き付ける。目配せし、努めて自然な風を装う私達と、その背中へ素早く隠れる鼠。曲がり角から現れたのは、鶏冠(とさか)や肉垂(にくすい)に風格を漂わせた、こちらの胸元までも背がある大きな雄鶏だ。

「おぉ、丁度良いところにおった」

 鶏の顔の横に吹き出しが表示されるの図。シュールである。

「細かいことを気にしたら負けってことね」
「あんたら、うちのばーちゃんを知らんかいの」
「いいえ。見掛けていませんが……」
「むう、そうかい。近頃は儂の言うこともよう聞かんで困る。嘴の黄色いひよっこが年寄りを馬鹿にしくさって」
「あの、私達はこれで――」
「まあまあ、待ちなされ」

 朗らかに通り過ぎるとした私達だったが、ご年輩の雄鶏は皺々の瞼に半ば覆われた目玉をぎょろつかせ、こちら引き留める。いつでも飛び掛かれるよう、ムラサが身構えるのが分かった。

「お主(ぬし)らは新入りじゃろう? この先は灼熱地獄跡の管理施設じゃよ」
「灼熱地獄……」
「あの辺りは古い施設を改装しただけじゃからのう。どっちを向いても似たような造りで、迷い易くなっとる。覚様がおられる本館は逆方向よ。どれ、案内してやろう」
「あー、いえ、その地獄跡に用が――」
「娘っ子の遊び道具にしていいもんなぞないわい。下手に足を踏み入れて浮かばれぬ霊の仲間入りした連中なら、儂は仰山知っとるよ。悪いことは言わん。引き返しなされ」
「……そう。実は頼まれごとがありまして。かえん――」

 船幽霊の言葉を遮り、私は口早に割り込んだ。

「――お燐から呼ばれてるの。怨霊なら慣れてるから心配無用よ」
「なんじゃ、お燐ちゃんの友人か。新入りじゃなかったんかい……。てっきりてっきり。年は取りたくないのう」
「それじゃあ。ばーちゃんが見付かると良いね」
「おー、そうじゃったそうじゃった。黒猫に伝えといてくれんか。何を企んでいるのかは知らんが、また覚様に気を揉ませるようなことはせんでくれとな」

 ひょこひょことした足取りで老雄鶏は通り過ぎて行った。振り返るのを我慢して私達も歩き、足音が聞こえなくなったところでやっと溜息を吐き出した。

「私の迷彩、やっぱり潜入工作には向いてないかな。相手にどう見られているのか判らないんじゃ。最悪、複数人にであったら即ばれるかも」
「でも今回は切り抜けられたじゃない。……火焔猫燐を知ってるの?」
「さっき甲板で会った。彼女のことはお燐って呼んだ方がいいよ。誰にだって名付けの悩みはある」

 再び鼠を先頭にして、今度は急ぎ足で進む。どうやら御殿の中央部から外縁部へ向かっているようで、生活の気配は急速に薄れていた。ナズーリンの部下はレーダーでも付いているかのように――実際彼女達がその手の術を持ち合わせていないとは思えない――迷うことなく進んでゆく。と、船幽霊がセーラー服の中から震えるものを取り出した。一輪が持っていたのと同じ、通信用の木輪だ。

「はい、こちらキャプテン」
「〈村紗? 今どこに居るの?〉」
「あ、一輪。今はねー、ほら、例の中庭の建物へ向かう渡り廊下よ」
「〈無事侵入できたら連絡を頂戴って言ってたでしょう〉」
「ごめんごめん、忘れてた。まだ誰にも見咎められたつもりはないけど、外から何か窺える?」
「〈表立って動きは無い。無茶だけはしないでね。あのネズミのことだもの。何もしなくたってエンドロール辺りでひょっこり姿を現すと思うわ。……ぬえに代わってくれる?〉」
「ん」
「あい、もしもしー」
「〈ぬえ? 村紗に気を付けてやってね。あの子、清純派の振りして結構気性が荒いから〉」
「ちょっと一輪! 聞こえてるわよ!」
「〈はいはい。もう止めないからどうにでもしなさい〉」

 それで通話はお終いだった。まだ少しむくれているムラサに輪を返却する。

「ムラサ――」
「分かってる。頭に血が上ってないか釘を刺されたのよね」

 軽く肩を竦めてみせて、セーラー服の少女はナズーリンの子分に頷いた。その速度は駈け足を通り越して疾走に近付く。空を飛んででも追い縋るのがやっとだ。

「広いお屋敷ねぇ……。船の幾つ分あるのかしら」
「余所見しないの。遅れてるよ」
「足が遅くて悪かったですね。っと――、危ない!」

 急制動を掛け、突然速度を落とした鼠の前に滑り出る私とムラサ。一本道の正面に仁王立ちしているのは、赤髪を二つお下げにした少女だ。私の正体は隠せないと考えていいだろう。

「ちょいと待ちなよお姉さん方、地獄はすぐそこだってのに、そんなに急いでどこへ生(い)くんだい?」
「貴方は火車の……お燐ですね。道を開けないなら力尽くででも突破させていただきますが」
「そういきり立ちなさんな。寿命が縮むよ? 大きい鼠を探してるんだろう」
「お燐、何のつもり……?」
「あたいもあの後知ったのさ。はぁ、よりによってこんな時に。無用な争いはお互い勘弁だろ? お手引きが入り用じゃないかい?」
「申し訳ありませんが、道案内なら間に合っています」
「じゃああたいが勝手に後を付いて行くよ。その方が何かと誤魔化しが効く」

 疑いの眼差しを向けられても余裕の態度を崩さない火車。問答無用で襲われるよりはマシ、下手にこじらせるよりも、との判断と漠然とした焦りがあって、私達は速やかに妥協へ至った。
 ムラサより数歩遅れ、その背中を追いつつお燐と並走する。

「一筋縄じゃいかない面構えの連中だとは思ってたけど、見事に厄介事を持ち込んでくれたもんだ!」
「発端はそっちのはず。犯人を知ってるんでしょう?」
「見当は付いてるよね? それで正解さぁ」

 ぱちりと片目を閉じてみせる少女。暗喩はそれで十分だった。覚られることのない盲目の覚、古明地こいし。

「だけど、一体なんのために?」
「あたいが知る訳ないだろう。さとり様だって、こいし様の考えだけは読めないんだから」
「本当? 覚妖怪はその気になれば植物だって読心できるんじゃなかったっけ?」
「こいし様は逃げ出したのさ。古明地の本分からね」

 吐き捨てるような黒猫の口調には、多分に苦いものが混ざっていた。

「人の心を読むから嫌われる。それなら瞳を潰してしまえばいいだなんて、お腹が減るのが嫌だから飯を食わないって言ってるようなもの。浅はかだねぇ愚かだねぇ。読心能力を代償に、こいし様は無意識を操れるようになった。誰からも嫌われない代わりに、誰のことも好きにならない。他者との繋がりを受け入れられなければ、そいつは観葉植物どころか物言わぬ路傍の石と変わりない。いくら覚だからって、石ころの思考は読めないね」
「強制されてではなく――自分から」

 私の呟きは問い掛けに届かず、述懐は続く。

「第三の目を閉ざし心を閉ざした臆病者でも、さとり様にとっちゃ唯一残された肉親だ。不憫で仕方なかったろうねぇ。どうにかその想いを探ろうと懸命になって挫折して。あの手この手で傷を癒そうとしては拒絶されて。見ちゃあいられなかった。どの道あたいには、手も舌も出せなかったけどさー。慰めの言葉一片掛けてやれずに、歯痒いったらなかったよ! ――おっと、ちょい喋り過ぎちゃったかな。あたいの悪い癖だ。同情作戦はこのくらいにしとこうか」

 辛辣な口調から一転、人懐っこい仕草でお燐は私に擦り寄ってくる。

「あによ。気色悪いなぁ」
「お次はぬえが話をする番じゃないかい? 聞きたいね、伝説の鵺妖怪に隠された過去! お手元にハンケチを御用意よ。笑い涙が止まらない!」
「んな訳あるか。あったとしても話してたまるか」
「いけずだねぇ。ならば、どうしてあんな抹香臭い集団に混じっているのかだけでも!」
「さっきも言わなかったっけ。特段強調するような理由は無い。そういうあんたこそ、ご主人様がおっかなくないの?」
「――恐い。饅頭よりもお茶よりも恐いに決まってる。それを相殺してあまりある飼い猫暮らし。拾ってもらった恩義があれば、気の合う仲間が居て食い扶持も稼げるときた。それに何より……」
「……何より?」
「ああ、駄目だ。恥ずかしくて口に出せやしないよ!」
「例の烏と裸で抱き合って眠ってる癖に」
「ち、違う違う。色気のある話じゃないさ。単に親愛の表現ってね」
「本気で裸なの!?」
「しまった。これで掘った墓穴はまだ三つ目だ。今月中に九つは揃えないといけないのに。昔はおくうと毎晩のように枕を並べてたもんだが、あの件以来めっきりでね。寂しい限り」

 よよと顔を覆う手の指の間から、火車の瞳が覗き、怪しく光った。

「ぬえ、あの尼さんには気を付けな。見たよ聞いたよ昨晩の騒動。中々どうしておっかないペテン師だ」
「ペテン……、だって? 何を根拠に――」
「どうどう、お嬢さんが怒ることないじゃないか。それに根拠なんて無いよ。あたいの類稀なる勘って奴かなー」
「恐れ入った。ムラサに聞こえてたら今頃猫挽き肉ね」
「経験の差だよ。あんたは人間を空から眺めているばっかりだったろう? あたいはこれまでに何千何万という死体を、霊を相手にしてきた。これでも目利きには自信があるのさ。殺してみれば、もっとはっきりするだろうけど――」
「ぬえ、置いて行くわよー!」

 いつの間にか、先を行く二人と大きく引き離されていた。速度を上げて追い付こうとした矢先、前方の側面から伸びる廊下より、見覚えのある影が飛び出してくる。甲板で出会ったおくうと呼ばれる黒い翼の少女だ。

「居た居た、お燐!」
「おくう、どうしてここに!?」
「お燐を探していたのよ。用事がなんだったかは忘れちゃったけど……、新しい用事が出来たから問題無いわ!」
「ね、お燐。あんた船長のことどう見えてる?」
「船長? あの子はあんたの妹じゃなかったのかい?」

 この期に及んで、私は迷彩の新たな欠点に気付かされることになる。観察者の望む方向に認識をずらすフィルターは、好戦的な相手の場合逆効果になりかねないのだ。それにしても、おくうの対応は極端過ぎた。

「ちゃんと覚えていますとも。侵入者は燃えるゴミ!」
「――しっ! 鴉らしく行水してな!」

 腕を炎上させながらのラリアットを床を転がって回避し、地獄烏の背後へ回り込むムラサ。抜き打つ柄杓から放たれた呪いの水は、鴉の発散する熱気に中てられ、犠牲者の生気を奪う前に蒸発してしまう。一見防御の必要がなかったことを鑑みて、素早く飛び退いたおくうの反応は本能的なものだったのだろう。船幽霊の足元を中心に溢れ出した水溜りから、武骨な錨が突き出していた。さらなる炎を片腕に集める少女へ、その親友が叫ぶ。

「おくう! まずは竃に火種を焼(く)べなきゃ!」
「あ、そっか――」
「駄目だおくう! こんなところで本気を出したら地霊殿が燃えちゃう!」
「そ、そうだった。ええと――」
「ほらほらおくう、早くしないと侵入者が逃げちゃうよ!」
「あう、一度にそんな言われてもー……」
「捕まえた! ぎゅーっ」
「うにゅー!?」

 出鱈目な指示で混乱させている間に距離を詰め、お燐はおくうを取り押さえることに成功していた。さっさと行け、そう目で合図され、私達は半ば自棄になって飛ぶ。鼠が立ち止まったのは、その地点からほんの一つ角を曲がった先の扉だ。何の変哲もない一枚戸には、しかし鍵が掛けられていた。

「こじ開けよっか?」
「無用よ、ここは私に任せておいて」
「お得意のアンカーで扉ごと粉砕しようって腹じゃないだろうね。ナズーリンまで木端微塵になったらどうするの?」
「そんな野蛮なことはしないわよ。……ぬえの中で、私はどんな人物造形なのかしら」
「暴れん坊船長、純情派」
「これでも良いとこのお嬢さんで通ってたのにぃ……。せめて頼れる姉御肌でお願いします」
「頼りにしてるよっ、ムラサお姉ちゃん♪」
「それは何かが違う」
「あら、折角身体張ったのに」

 満更(まんざら)でもない顔をしつつ、軽く握ったムラサの手に再び柄杓が出現する。押し付けられた器の部分がじわりと扉に沈み込み、続いて柄、それを掴む右腕と、船幽霊の少女は扉をあっさり擦り抜けてゆく。最後には人型の濡れ跡が残り、ややあって部屋の内側から鍵の開く音がした。

「おお、たまには幽霊っぽいことするじゃない」
「コツを掴めば誰だって壁抜けくらいできますよ」
「えー、どうだろ」

 扉の向こうは何も無い部屋だった。殺風景どころの形容では物足りない。文字通り、内装が皆無なのである。壁紙や敷物すら存在せず、建材は剥き出しのまま。後ろ手に鍵を掛け直す扉と正面の壁に嵌(は)め込まれた硝子窓が、辛うじてここが箱ではなく部屋なのだと主張している。特に利用されていない場所だったとしても、こうまで徹底的に空っぽにする必要はあったのだろうか。

 ナズーリンは、部屋の中心に脈絡も無く転がされていた。手足に食い込む縄、頭部に巻かれた目隠しの帯、咬まされた猿轡、とお約束に則って拘束されている少女は、こちらに気付いた気配を見せる。ひとまず戒めを解くために駆け寄ろうとした私を、ムラサが目付きも厳しく制した。

「罠でもあるの? あからさま過ぎて怪しいといえば怪しいけど――」
「いいえ、この光景を目に焼き付けておこうかと」
「ムラサ、結構良い性格してるよね」
「これが薄暗い船倉だったらなぁ。……じゅるり」
「本当に良い趣味してる!」

 はっちゃけ気味の船長と私の足の隙間を潜り、上司の元へ向かう鼠。背後へ回り込んだと思うと拘束が切り落とされ、解放されたナズーリンは、強いて緩慢に身を起こしつつ瞳を瞬(しばた)かせた。

「大丈夫? 何もされなかった?」
「ああ。お陰様で五体満足だ。しかし面目無い、いや、面目丸潰れだよ。敵の手に落ちた挙句、こんな手間を掛けさせてしまうとは。ご主人様に合わせる顔が無いな」

 自嘲的に呟きつつ、子分を手の平に乗せて二言三言会話を交わす。

「宝塔は――? そうか、それなら仕方が無い。ご苦労だった」

 労いもそこそこに指を鳴らすと、何も無い空間から籠が膨らんだ。子ネズミを滑り込ませては長い尻尾に取っ手を掛ける。そうして私達に向き直ると、彼女にしては珍しい、皮肉抜きの微笑を浮かべた。

「――何はともあれ、助かったよ。礼は言わないが、この借りは必ず返させてもらう」
「いいよ。私は案外楽しめたし。良い暇潰しの種になった」
「これからどうします? あ、取り敢えず一輪に連絡しとこう」

 ナズーリンの無事を確かめた私は、改めて室内を見回した。愛想も素っ気も無い無機的な内装に鼠が一匹というシチュエーションは、モルモットを用いた実験を思わせる。そうすると、嵌め殺しの硝子板が覗き窓か。その向こうに見下ろせるのは巨大な円形の穴。どうやら、この棟は灼熱地獄跡へ通じる中庭に面しているようだ。

「――騒ぎにはなっていないようですって。お燐、上手くあの鳥を言い包(くる)めてくれたのかしら。理想的なのは、このまま誰にも気付かれずに船へ戻って、何食わぬ顔で白蓮を迎えるシナリオかな。またあの通気抗を通らなきゃいけないと思うとうんざりですが」
「船長、その通信機は聖も携帯しているのだろうね?」
「うん。あと、星にも渡してあったと思うけど」
「私が預かっているよ。戸棚の上に置きっ放しになっていたんだ」
「星ってさぁ……。あ、ぬえも欲しい?」

 冗談じゃない。それこそしがらみの最もたるものではないか。

「要らないよ。ねぇ、思い切って白蓮達に事の次第を説明してみたら? さとりも意外と話の分かる奴っぽかったし、疚しいところが無いのは一目ではっきりするだろうしさ」
「私も考え付かなかった訳ではないが。どうやら、そうすんなりとはいかないらしい」

 ナズーリンが懐から取り出したマッチ大の棒を一振りすると、二本対になった細長いロッドへと瞬時に伸び直る。片手の五指で交差させて構え、油断無い視線の先には、一人の少女が佇んでいた。

「……っ!」
「いつの間に!?」

 私とムラサの驚愕を気にも留めず、少女は礼儀正しく帽子を取る。誰何(すいか)の必要は無かった。古明地さとりが纏うのと同じ、管と球体から成る器官が胸の前に位置し、だがその瞳は冷たく閉ざされている。

「貴方達にとっては初めまして。私、古明地こいしって謂います」

 他に出入り口が無い密室で、扉の鍵も開けずにどうやって室内へ? 答えは簡単、今まで気付けなかっただけで、最初から彼女はこの部屋の中に居たのだ。
 身構える三人へ、無意識の少女は屈託無い笑みを浮かべる。僅かな邪気も存在を許されないその笑顔は、一見して地獄に舞い降りた天使のようだ。

「地霊殿へようこそ。こんなに沢山招待した覚えは無いけど、歓迎するわ」
「貴方ですね? 子ネズミを連れ去り、ナズーリンを監禁したのは」

 険しい表情で問い掛けるムラサに対し、こいしは帽子の鍔で口元を隠す。

「名前は知らないけど、そこの鼠さんを捕まえたのは確かに私です」
「何故?」
「何故って、鼠の方が持ち運びしやすそうだったから。雲よりも虎よりもね」
「私達はさしずめ、命蓮寺の面々を、そして今の船長達を誘(おび)き寄せるための生餌という訳か」
「あら、貴方だって魅力的よ。一度飼ってみたいと思っていたところなの。ハムスター」

 相手をするのも馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻を鳴らすナズーリンだが、少女に悪びれた様子は見当たらなかった。

「貴方達を家に招待したかったのは本当よ
なの。人々の話題を独占した空飛ぶ宝船、そして妖怪達に囲まれた奇矯な聖人。きっと面白い連中に違いない。世にも珍しい話を知っているに違いない」
「だからって、誘拐しなくても――」
「その方がドラマチックでしょう? 新聞を切り抜いて作った招待状もちゃんと渡したし」
「招待状どころか、犯行声明にも心当たりはありませんが」
「奇麗な目をした唐傘の子、あれ、お仲間じゃ無かったの?」
「よりによって一番うっかりしてそうな奴に……」
「いや、そんなことはない」
「どうしてナズーリンが庇うの」

 くすりと目尻を下げたこいしは、帽子を上にずらしてその唇だけを露出させる。

「何より、私と遊ぶ大義名分ができるじゃない。きっと楽しい悲鳴を聞かせてくれるに違いない。上げさせてくれるに違いないわ。その点、お姉ちゃんはいざとなったら意気地が無いんだから」
「うわ、なんて自分勝手な」
「船長、きっと彼女に悪気は無い。ただ、良心の方も欠けているようだが……」
「まあまあ、そう身構えなくてもいいわ。貴方達を見て気が変わったの。手荒な事をするつもりはありません」

 元通りに帽子を被り直し、少女は興味津々といった面持ちで私へ上体を傾け、まじまじと見詰めてきた。

「何さ?」
「貴方が話に伝え聞く正体不明の妖怪、鵺だったのね。前にどこで何度か見掛けたけど、よく分からない変な奴としか思っていなかった」
「――! 迷彩はまだ解いていないのに」
「どんな見掛けをしていても貴方は貴方だもの。気に入ったわ、その歪(いびつ)な顔形」
「……嫌な予感」
「平安の夜を騒がせた伝説の未確認飛行物体。昔語りに名高いその実物を手懐ければ、お姉ちゃんの鼻を明かせるはず!」

 満腔に喜色を浮かべた少女の無邪気さは、白痴の狂気に通じるものがある。他人と噛み合わず、世界から孤立して、そのことを自身はなんとも思っていない。私の感情など、彼女は一切視界に入れていないようだ。

「あの目玉が奇麗な女の子はおくうに取られちゃったけど、貴方は私が連れ帰ってあげる」
「どーして私があんたのペットにならなくちゃいけないんだ」
「え、駄目なの?」

 まさか断られるとは思ってもみなかった、という表情で目を見開くこいし。

「いきなりそんなこと言われて了承する訳無いじゃん」
「顔に書いてあるわ。『誰か拾って下さい』って。鏡で確認した方が良いかもよ?」
「そんな、馬鹿なこと……」
「文字なんて見えませんが。本人が嫌がっている以上、ぬえは渡しませんよ」
「別にムラサの物になった覚えも無いけどー」
「あらら?」

 柄杓を手に一歩進み出たムラサの気概は嬉しいが、かっとなりそうなのは私の方だ。泣く子も黙る恐るべき鵺妖怪を捕まえてペットになれだと? ふざけるのも大概にして欲しい。件の少女はムラサの方を一瞥しただけで、にこやかな瞳を私へ向ける。

「この辺りじゃ幽霊なんてレア度は0よ。わざわざ飼おうとは思わない。どうせお燐が掃いて捨てるほど世話してるしね」
「おっ、怨霊と一緒くたにされた……!」
「鵺といえば頭が猿、体が狸、手足は虎でしっぽは蛇。なんならその一部分でも良いのよ? 残りはその内生えてくるでしょうから」
「人をヒトデ扱いするな」
「強いて言うなら、今の地霊殿には猿人分が足りていない」
「また一番致命的な部位を要求するね!」
「そんなに嫌? じゃあ猿以外の全部で妥協しましょう」
「同じことじゃないの……」
「我儘な子ねぇ。分かりました。貴方がそう望むなら――」

 僅かに表情を曇らせ、こいしは顔を俯けた。

「――全身あますところなく可愛がって欲しいと頼むのなら。髪の毛から足の爪まで、隈(くま)なく私に支配されたいと願うのなら! 一肌脱いであげましょう」

 少女を中心に覚の力――その反転されたものが発散され、ダウザーが眼光を鋭くした。私は体内から“棘”と“尾”を取り出す。

「お姉ちゃんが言っていたわ。飼い物の躾は最初が肝心だってね。……おいでよ。瞳を鎖で縫い閉じて、私しか見えなくしてあげるから」

 捻じくれた慈愛に満ちるこいし。その周囲の空間が歪んで見えるのは、彼女の力が世の理に受け容れられず、拒絶反応を起こして空間が沸き立つからだ。幼気もここまでくればおぞましい。強烈な圧迫感とは裏腹に少女の存在は意識から薄れ、気を抜けば自分が何と相対しているのか分からなくなってしまうだろう。

「はぁ。結局こうなるのねー」
「消えた? あれ、何が消えたんだっけ――」
「船長、落ち着いてぬえを観察しろ。彼女は何かに勘付いているようだ」

 私以外の二人は、既にこいしのことを見失っていた。認識を逸らされている、いや、盲点を操作され、意識の底へ潜り込まれているらしい。

「二人共、私なら居場所を確認できてる。まだ一歩も動いてないよ。誤認しないよう、正体不明は解除しておくから――」
「――こいし様ぁー! 居るんですかー? あれ、鍵が掛かってる。まさか、さっきの暴漢に襲われてるんじゃ!」
「ちっ、間の悪い連中だ。取り敢えず部屋を脱出するぞ!」

 がんがんと硬い物で戸が殴られる音と共に聞こえてきたのは、地獄烏の切羽詰まった声。扉の前をこいしに陣取られている以上、出入り口は一つしかない。舌打ちしたナズーリンがロッドを叩き付けたのは、反対側の覗き窓だ。硝子が粉々に砕け――と思いきや、罅(ひび)一つすらも入っていない。
 事態が緊迫していただけに、ちょっと白けてしまう一同である。

「……えーと」
「あー、それ耐熱耐圧の式が練り込まれているから、ちょっとやそっとじゃ割れないわ」
「どんまい、ナズーリン」
「……ムラサ船長、頼めるか」
「迷わず指名してくれてありがとう。どうせ馬鹿力ですよーだ!」

 天井から漏れ滴るのは、冷たい塩水だけではなかった。肩の上へ回した両手に錨を掴み取り、膨れっ面のムラサが叫ぶ。

「野蛮と言いたきゃ言えー! でぇいやっ!」
「流石にそこまでは……。がさつとやんちゃ、どっちが良い?」
「こうなったらぶち破るしかっ! こいし様、扉からできるだけ離れて下さい!」
「――え? おくう、待って待って! 貴方手加減なんてできないじゃない!」
「全く、取り留めの無い。これだから荒事は嫌なんだ」

 壮絶な重量を誇る金属塊で殴り付けられ、哀れ窓は壁ごと粉砕されてしまった。直後、閃光と共に扉が弾けて室内を灼熱が満たす。間一髪中庭へ逃れ出た私達の頭上で、吹き出す炎に煽られたこいしがあーれーと宙を舞う。
 朦々と煙が立ち上る棟の向こうには、聖輦船の泰然たるシルエットがあった。潜入時は人目に付かないようかなり遠回りをしたらしく、直線距離は思ったより短い。

「あつつ。いつ見ても凄いわね。私もおくうみたいなペットが欲しいわ~」
「どうしてこっちを見る。夜の鳥だからって、あんな馬鹿っぽいのと同列にされる謂れは無い」
「心配しないで。お鵺におくうみたいな愛らしさは求めないから」

 地獄の竃へ通じる大穴の対岸にこいしは着地していた。スカートの裾に焦げ跡を拵(こさ)えつつ、他に表情を知らないとばかり笑顔は揺るがない。誰だお鵺って。

「曲解されないようはっきり言っておく。私には、あんたのペットになるつもりなんてこれっぽっちも無い」
「一体どうして? あんなに物欲しげな顔をしていたじゃない。独りぼっちで寂しそうにしていたじゃない」
「――っ」

 そんなことは、無かったはずだ。本当に私のことを誰だと思っているやら。正体不明の恐怖を纏って飛ぶ鵺が、そんな弱虫である訳が無いだろう。

「私は、お姉ちゃんみたくペットをほったらかしにしたりしないわ。病気になったら付きっ切りで看病してあげるし、死んでも愛情を込めてお墓を作ってあげる。と言っても、土の中に埋めてしまったりなんかしない。腐ってしまう前に剥製にして、枕元に置いて毎朝おはようを言うの。寝る時はおやすみのキスをしてあげるわ。ね? 素敵でしょ? 絶対お鵺を寂しくなんてさせない」
「成程、魅力的な提案ね。でも――」

 皮肉たっぷりにこいしを見返す。もし、万が一の話。かつて私が人恋しい想いに囚われたことがあったとしても、それは昔の話だ。今の私には、鏡の中にそんな顔を見付ける理由が無い。

「そう、悪いけど、暇潰しの相手なら間に合ってる。あんたよりよっぽどからかい甲斐のある連中よ」
「ぬえ……」
「……ああもう、言えば良いんでしょ言えば! 私の居場所はあの船なの。少なくとも今んとこは。あんたはお呼びじゃないのさ、陰険女郎」
「〈――そうだったの。本当に、有難いことね〉」

 私とムラサはぎょっとしてナズーリンを見た。耳がおかしくなったのでなければ、彼女から聞こえてきたのは別室に居るはずの尼公の声である。その手には、一輪が持っていたのと同じあの木輪が――。そうだ、星の忘れ物か。

「ナズーリン、いつから!?」
「勝手なことをしてくれさって!」
「はは。説明の手間を省いたまでさ」

 その時、こいしが背にした建物の屋根を飛び越し、何かが砲弾じみた速度で突っ込んできた。勢いそのままに着弾――もとい、着地して砂埃を巻き上げたのは、我らが妖怪寺の尼公、聖白蓮である。

「話は聞かせていただきました。ぬえがこう言っているのですから、諦めてはいかが?」
「ああ、おば様がお鵺の現飼い主なのかしら」
「飼い主ではありません。彼女の仲間です」
「うう、見ないで……。いっそ殺してぇ……」
「ぬ、ぬえ。私は嬉しかったわよ?」
「ちなみに船の方にも回線を繋いでおいた。状況は全員が把握済みだ」

 ムラサの慰めも遠く響く。ネズミめ、なんて事をしてくれやがったんだ。お前を殺して私も死ぬ。その前に恥ずかしくて死ぬ。穴があったら入りたい。顔から火が出るとはこのことか。

「あら……。ぬえ、どうかしたんですか? 真っ赤じゃない。もしかして熱でもあるの?」
「〈姐さん、それ以上傷口を広げないであげて……〉」
「あ、一輪。今ぬえが林檎みたいに赤面して狼狽えててねー。必見よ必見。耳まで赤くなっちゃって」
「好し好し。これで借りは返せたな。――ふむ、ようやくご主人様も登場か」
「おーい、ぬえー。聞きましたよ! 私はとっくに貴方を命蓮寺の一員だと思っていましたが……。どこか距離を置かれているようで気になっていたのです。勿論、心から歓迎しますとも!」
「あう、ち、違うの! これはアレよ。しつこく言い寄ってくる男に男友達を彼氏と偽って紹介するらぶこめ的な作戦なんだって! あんた達は利用されただけ。うふあは、やーい騙されたー」
「『でも、仲間って呼ばれたのは結構ぐっと来た』、ですか。皆さん、仲がよろしいんですね」
「ぐふっ」

 降って湧いたような羞恥プレイで虫の息だった私に止(とど)めを刺したのは、遅れて登場した毘沙門天と地霊殿当主の二人組である。ふわりと降り立った星は、まず申し訳無さそうな面持ちで部下の元へ向かう。

「すみません。貴方が危難に瀕しているとは露知らず、暢気にお茶菓子まで頂いていたとは。至らぬ我が身が情けない」
「気にしないでくれ。これは私のミスが招いた事態だ。自力で挽回するさ」
「とにかく、無事で良かったです」
「だから止(よ)せ。私はまだ仕事を遂せていない。労わりも過ぎれば有難味が薄れるぞ」
「分かりました……。三人共、怪我はありませんか?」
「ああ――」

 一方で、さとりもこいしの隣へ降り立っていた。片割れだけでもどこか淫靡な印象を与える姉妹だが、二人揃うとえも知れぬ背徳感を漂わせる。姉の妖艶さを花唇(かしん)に例えるなら、妹は精巧な造花のそれか。似ているようで似付かない歪な組み合わせは、それだけで独特の緊張を辺りに発散させていた。

 特に姉妹で会話らしい会話を交わすこともなく、年長の覚は対岸をざっと見渡す。

「――はい。大凡(おおよそ)の事情は把握しました。妹がご迷惑をお掛けしたようですね」
「妹さんがいらっしゃったのですか?」
「隠すつもりはありませんでしたが、放浪癖のある子で。改めて紹介しましょう。妹の――」
「古明地こいしです。お初にお目に掛かりますわ。鬼のように強い人間さん」
「私は聖白蓮。古の僧侶、言ってしまえば魔法使いです。そしてこちらに御座(おわ)すのが――」
「寅丸星と申します。毘沙門天の代理として、命蓮寺の信仰を司っております」
「うーん、ビシャモンなんて怪獣は知らないわね」
「こいし、毘沙門天は天麩羅の一種ではないわ」

 仄暗い倦怠感を漂わせる姉へ、妹はさも楽しげに笑い掛けた。

「ねーお姉ちゃん、あの子を飼ってもいいでしょう? 責任持って世話するから」
「……。答える前に説明が必要かしら」

 独り言(ご)ち、さとりは気怠げな半眼を白蓮へ向ける。

「私の目を以ってしても、妹の思考を読むことはできません。覚の瞼が閉じると共に、この子は頑なに心を鎖(とざ)し、独りの世界で無為に過ごす妖怪へと成り下がってしまった。それを哀れに思った私は何とかその精神を救おうと手を尽くしましたが……。ご覧の有り様でして」

 自分について語られているというのに、こいしの微笑には些(いささ)かの変化も見られない。実の姉と二人っきりだろうと、蛆の湧いた腐肉を前にしようと、彼女にとっては違いなど無いのだろうか。

「しかし、この厚い岩盤に風穴を開ける者が現れ、地底へ新しい風が吹き込むようになってからというもの、少しずつですが、妹は変わってきたように思います。心なしか、その瞼にも血が通っているような……。自分からペットを欲しがるなんて、一昔前には考えられなかったことです。できることなら、その意思を尊重してあげたい――」

 ふわりと柔和な視線を投げ、妖怪は笑う。

「――ですから、心置きなく妹のペットになってあげて下さい。さもなくば、首に縄を括ってでも」
「この妹にしてこの姉あり……」

 ムラサが愕然として呟く。妹を天使とするなら、姉の笑顔は菩薩のそれだ。慈愛ではなく恐怖を以って衆生を導き、絶望の下に救済する地獄の仏。信者達は念仏代わりに陰口を叩き、差し伸べられる手に怯えて暮らすのだ。

 静かに呼吸を整え、白蓮は目蓋を落とす。

「残念だわ。さとりさんとは分かり合えると考えていたのに」
「私が貴方を把握するように、貴方が私を理解することはありません。価値観も語る言葉も違う者同士が法の下に釣り合う理想郷など、所詮は儚い幻想――。夢想家(ロマンチシスト)の妄言でしょう」
「どうしても、争わなければならないと仰るのですか……?」
「『平等』、その言葉を否定するつもりは無いのです。蜘蛛が網に掛かった蝶を捕食するかの如く、妖は人を喰らう。野生の掟は世界を均(ひと)しく覆っている。本来、平等とは真(まこと)に厳しく、弱肉強食たる理(ことわり)のはず」
「理、ですか……。実は私、聖とは名ばかりの破戒僧でして。理を捻じ曲げる術には精通しているのです。戒律を軽視する訳ではありませんが、それに感(かま)けて大切な教えを忘れはしない。覚りの境地には遠くとも。――侶(とも)を蔑ろにしてまで至る仏国土とは何ぞや? 」
「ふうむ。善知識(なかま)のためなら地獄に堕ちても構わないと」
「いかにも。お分かりとは存じますが、私は口先ばかりの理想家(ロマンチシスト)ではありません」

 静かに見開かれた瞳には、力強い光が宿っていた。その傍らで、錨をぶんと振り下ろすムラサ。

「困りますわ~。ぬえは大事な乗組員なのです。引き抜きは船長の私を通してもらわないと。底抜けの未練に溺れたい方から、ご遠慮無く前へどうぞ」
「やれやれ、きな臭くなってきたな。騒々しいのは皆に任せるとして、私は一足先に失礼しよう」
「おっと、あんたみたいな美人さんが壁の花なんて勿体無いね。あたいと一口付き合ってやくれないかい?」

 こっそり立ち去ろうとしたナズーリンの前に立ち塞がったのは、黒猫から伸びる少女のシルエットだ。猫が影の中へ沈むのと入れ替りに、陽気な火車が飛び出してくる。

「じゃじゃーん! 皆さんお待ちかね、お燐ちゃんの登場だよっ!」
「こう言って欲しくて生きてきたんだろう? ばっかみたいだね、君は」

 醒めた瞳の鼠妖怪を、お燐はますます面白がっているようだ。

「つれないねぇ素気無いねぇ。あたいも争いを回避しようと努力したんだけれどー、こうなったからにはお互い引き下がれないよね。踊る阿呆に見る阿呆。難しい顔ばっかりしてないで、たまにゃぱーっとはしゃがなきゃ! それとも、碌にリードされたこと無いから不安かい?」
「ナズ、加勢が必要ですか?」
「心外だよ。私が猫科相手に怯んだことがこれまでにあったかな?」
「そうですか……。困ったらいつでも呼んで下さいね。貴方は変なところで意固地なんだから」
「こっちの台詞だ、ご主人よ」
「――姐さん、後ろに気を付けて!」

 振り返れば、今まさに中庭へ到着しようとしていた一輪と、壁の穴から迸る純白の光。光の強さが極まったと思われた次の瞬間、穴を二周りほど広げつつ眩い炎の塊が発進した。顔を覆わずにはいられない熱波を放射しながら飛翔する光球は、勢い余って向かいの建物の屋根を焦がしつつ大きく弧を描き、やっと中庭の上空で静止して地底世界を煌々と照らす。白い殻が割れ現れたその核は、今日三度目の対面となる少女だった。

「さとり様の敵は排滅! さとり様の仇は撃滅! 焼き捨てご免のこの私が来たからには、侵入者だろうが闖入(ちんにゅう)者だろうがヴェリー・ウェルダンでお陀仏ですわ!」
「……あれは、さっきの烏?」

 霊烏路空(推定)は、変身ヒロインよろしく大幅に様変わりしていた。まず服装からして違う。胸元から露出した赤い目玉を思わせる器官や、右腕の先に取り付けられた、砲塔の如き六角筒。右足と左足には、それぞれ溶け固まった岩や公転する光の粒のようにも見える装飾。翼の上から羽織ったマントの裏地には星空を模した明暗が揺れ、得意げに掲げた左手の先には、不吉な光輪が浮かんでいる。そして、肌にひしひしと感じる莫大な力の放出。先程までとは明らかに別人だ。もしかしてヒロインではなく怪人の方か。

「黒い太陽、ヤタガラス様のお力があれば、外はパリッと中はジューシー。地球に優しいバーベキュー! 私のナカはもうトロトロのアツアツです! 食べたい奴から喰ってやる!」
「しかも、ますます頭が湧いているような……」
「ヤタさんは処理能力を圧迫するからねぇ。今のおくうは思考が当社比十分の一さ」
「あんまり変わらないような気もする」
「火力は万倍どころじゃ済まないけどー。後で回収できなくなるから、魂まで灰にされないよう注意しなよ?」
「取り敢えず、真っ先に冷や水を浴びせておくべきかしら」
「――。注意して、村紗。あの装備は太陽の化身たる八咫烏の発露。神の力を呑んだ欲深き地獄の烏、それが彼女のことだったのね。皆々、くれぐれも気を抜かないで」

 一輪と雲山のコンビに続き、船に待機していた妖怪達が続々とこちら側の岸へ降り立っていた。その数二十名弱、命蓮寺に住まう宗徒のほとんどが集合している形だ。手に手に得物を携えた様子を見て、星が軽く眉を上げる。

「これは一輪の指示ですか? 総動員とは少々やり過ぎな気も――」
「そんなことを言えるのは、状況を俯瞰していないからよ。ったく、涅槃図にしては趣味が悪い」

 入道使いの揶揄はすぐに知れた。ある者は左右の棟に開け放たれた扉から、ある者は屋根を乗り越え、あるいは飛び越え、多種多様な動物達がぞろぞろと姿を現す。空を飛び交う者、地を踏み締める者、壁を這いずる者、土を掻く者。重々しく床を踏み締める巨体の横で、群れを成した小人達が跳ね回る。人を乗せて飛べそうな猛禽、鋭い牙を剥き出しにする猛獣から、宙を泳ぐ魚や動きだした樹木といった変わり種まで。ざっと百種類を数えるだろうか。地霊殿側もまた、総力を結集していたようだ。さとりの周囲は、お燐やおくうのような人型を取るペット達が固めていた。

「……これはこれは。動物園――いや、サーカスを開けそうな面々ですね」
「烏合の集ならばありがたいがな。しかし、最も脅威なのは目に恐ろしい怪物ではなく――」
「――人に変化(へんげ)している連中、ですか? ひいふうみい、よういつむう……」
「ほら、あんたもいつまで死んでるつもり」
「ああん」

 恥じらいの余り突っ伏していたところを一輪に蹴り起こされる。覚から視線を逸らさないまま、白蓮が私に声を掛けた。

「ぬえ。具合が悪いなら無理にとは言いませんが、力を貸してくれませんか? 貴方の手が必要なの」
「……良いよ。丁度憂さ晴らしがしたかったところでさ」

 気が昂ぶっているからだろう、読心能力はさほど気にならなかった。……本音を言うとかなり恐いが、竦み上がるほどのものではない。目下の懸案事項は、無意識に潜む妖怪、古明地こいし。その実力は未知数という他ないだろう。

「ねぇ、お姉ちゃん。あの人達が皆殺しになったら、お鵺も私のペットになってくれるかな」
「それは自分の目で確かめなさい、こいし。私も貴方のためだけに腕を振るう訳ではありませんが……、敢えてこう申し上げておきましょう」

 一歩も退かずに尼公を睨み返しながら、さとりは対岸へ宣告する。

「貴方方がどのような正義を標榜していようと、この子がどのような業を背負おうと、私ぐらいは、妹の味方で居たいの。差し当たって、喧嘩を売る動機はそれで十分です」
「そうしてあたい達ときたら、どこのどんな輩が敵に回ったところでご主人様の味方って訳さ! 理由は後で考える!」
「さとり様っ! 私は何を焼き尽くせばいいの? どのくらい熱く燃え上がればばいいの?」

 己を恋い慕うペット達をぐるりと見渡し――、

「……ふふ。少し早いですが、給餌の時間としましょうか。不断に照らす地獄の業火を以って、彼奴原(きゃつばら)の本性を暴き出すのです」

 地霊殿の当主、忌み嫌われし妖怪筆頭は大見得を切る。

「今宵こそ、地の底に阿鼻叫喚を取り戻す夜。ここらで一遍、死に様晒して差し上げろ!」

 主人直々の命令だからか、狩猟本能に火が付いたのか。恐らくはその両方だろう。号令一下に高く低く、歌い上げるかのように細く太く、総じて獰猛に十人十色の咆哮を上げるペット達。気炎万丈たる唸りに取り囲まれて尚、白蓮は穏やかに告げた。

「降り掛かる火の粉は払わねばなりません。皆々、覚悟はよろしいですか?」

 一同は無言で頷き、厳かに構えを取る。多勢に無勢で、しかも地底世界に名立たる恐怖の象徴を相手取ろうと、臆して逃げ出す面々ではない。そこに、敬愛する尼公の一声あらば。

「遍照煙る軍場(いくさば)にあって、各々が信ずるものの加護があるよう祈りましょう。……参ります」

 まさか、この期に及んでフェイントも何もあるまい。既に耳慣れたやり取りだ。発声は正しくはきはきと――。最初は、『い』!

「いざ―――――――ッ!」
『――――南無三――ッ!』







 鬼も怨霊も酔い痴れる晩のこと。星明りも届かぬ地の底の、旧き都の最果てで。
 私達の斉喝を合図に、決戦の火蓋は切って落とされたのだった。








(続く)





 
 ご読了ありがとうございました。プラシーボ吹嘘と申します。

 当作品は次編で完結となります。流れの通り派手な弾幕ごっこ(?)と相成りますが、作者の病気に生温かい目でお付き合いいただければ幸いです。
 これまで以上に濃い味付けとなりますので、どうぞお口直しをご用意なさった上でご覧下さいませ。


 笑いあり笑えなかったりの死闘を経て、少女はいかなる答えへと至るのでしょうか。乞う、ご期待です。


 以下追記

 次編はこちらになります。
プラシーボ吹嘘
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コメント



0.1320簡易評価
5.無評価名前が無い程度の能力削除
冒頭の登場人妖紹介のあまりの内容に思わずフリーレス。今から本編読んできます。
7.100名前が無い程度の能力削除
ぬえかわいいよぬえ、船長かわいいよ船長。
ここからさらに濃くなるのが楽しみ。
9.80名前が無い程度の能力削除
人妖紹介に惹かれてこっち先に読んでしまった。
続きに期待して今はこの点数で。
16.100名前が無い程度の能力削除
熱い。なんて熱いんだ。燃え過ぎてフュージョンしそうだ。
地霊組の台詞がいちいち格好良いなぁ。そのセンスがうらやましい。
読み返すとさり気ないところに複線が張ってあって緻密に練られてるのがよく分かる。
あと裸で抱き合って眠る烏と猫が気になって夜も眠れません先生。
17.90ずわいがに削除
パルスィ…。凄いね、地底でも間違いなく実力者だと思うよ。流石は地下と地上を繋ぐ縦穴の番人だ。
そしてやっぱりさとりの放つ雰囲気もこれまた凄い。まさしく地底の嫌われ者。心を読む能力を活かしてる。
で、スネークはいったいどういうことなんですかwwwホントこの作品はシリアスやりたいのかギャグやりたいのか;ww
18.100名前が無い程度の能力削除
このような病気なら是非私も患ってみたいものです。
情景が目に浮かぶような文章。小気味よい掛け合い。
びっくり箱を開いてしまったかのような奇天烈な異能描写。
なにより東方キャラをよく把握し上手く動かしていらっしゃる。
……作品の長さで倦厭される方もいらっしゃるでしょうが、
翻れば、それだけ長くのあいだ良い作品と関わっていられるということ。
続きに期待しております。
26.90葉月ヴァンホーテン削除
熱くなってきましたね……!
次いってきます!
28.100ニュートン削除
次への引きが上手いですね。王道を分かってらっしゃる。
それでいて、キャラ贔屓せずブレのない描写。

描写があまりにも丁寧すぎたので、前半で妙蓮寺組に感情
移入しすぎた私は思わず後半「おのれ~」と思ってしまい
ました。
それにしてもこいしちゃんの猟奇性はとても魅力的です。
34.無評価??? ? ?????削除
????????????????????
??? ? ????? http://gucci.konjiki.jp/
35.100非現実世界に棲む者削除
地底対地上妖怪による妖怪大戦争ですか。
旧都の宴はかなり盛り上がることでしょう。
かくいう私自身もわくわくしてきました。
というわけで早速完結編へ、出発!