Coolier - 新生・東方創想話

五十三・九十七・レイセン。

2022/08/04 17:22:42
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 大時代の弾丸が耳を掠めて飛び去っていく。
 言うまでもないが、こんなものは脅威でもなんでもない。脅威というのは秒速三億メートルで忍び寄る非破壊レーザーだったり、目の前を歩く仲間の頸をにわかに食い千切りたくなる遅効性催眠術だったり、夜寝付けないでいると不意に襲ってくる身体中を掻きむしりたくなるほどの狂気のことだ。
 これらの災厄が――最後者を除いて未だ私の身に降りかかっていないのは、ひとえに私たちの存在が、高貴なる月の神々にとっては表の月のレゴリス塵同然に軽視されるべきものであるからだろう。
 よって我々玉兎の殺し合いの相手は、もっぱら玉兎だった。
 その日、私は負傷し動けなくなった同胞を担いで廃墟の街を彷徨っていた。
 撤退時に敵が追撃をかけてくることは滅多にない。それは前線にいる兵士たちの情けや寛大さではなく、ただ彼らの就業規則にそう記されているからだとリーダーが言っていた。「街の隅っこのそのまた隅っこで戦争ごっこをしている我々〝レジスタンス〟のことなど、中央で暮らすやつらはその日の夕飯のメニューほども気にしていない」。リーダーはことあるごとにそう吐き捨てていたし、実際そう間違っていないのは確かだと思う。
 背負っているものがダメになってきた感覚があったので、私は廃墟の中で彼女を横たえた。ヘルメットを外し、顔にかかった若葉色の髪をかきわけたとき、私はようやくその遺体が十七だと気付いた。
 十七は私より前からレジスタンスにいる玉兎で、右も左もわからず震えていた私の背中に薄っぺらい毛布をかけてくれた最初の同胞だった。
 私は装備入れから白いシートを取り出し、遺体の頭から爪先まできっちりと覆い隠した。遺体を囲うように四本の棒を突き立て、間に低純度のフェムトファイバーロープを架ける。最後に胸の前で両手を合わせて起動コードを読み上げると、白いシートが勢いよく燃え上がった。一連の所作には穢れの発生をある程度抑制する効果がある。
 アジトの入り口に辿りついた私は、空っぽの廃屋の中で独り言を言った。
「五十三です」
 虚空から返事があった。「お前一人か?」
「尾行はありません」
 廃屋の床が靄のように掻き消え、アジトの入り口の地下階段が現れる。もっとも、私にはこの程度の幻覚ならば難なく看破できるだけの能力があった。同胞の話を信じる限り、私は少しばかり優秀らしい。
 奥へ進むと、門番係の玉兎――十八が岩壁にもたれて煙草を吸っていた。
 彼は私をちらりと見ると、さっきと同じことをもう一度問いなおした。「お前一人か?」
 私はようやく質問の意図を理解した。
「そう。四班は私以外全滅」
「十七も?」
「ちゃんと処理した」
「そうか」
 最後の返事は上擦っていた。

 ホールに入ると、同胞の玉兎たちがなにやら色めき立っていたので訳を聞いてみた。
「おお、五十三か。お疲れ……。リーダーが新入り拾ってきたってよ」
 見ると、ホールの壁際で見慣れない玉兎が泣いているのを数人の同胞がなだめているところだった。おおかた今回の戦いで住む場所を失ったのだろう。
 私たちレジスタンスの目的は玉兎による玉兎のための解放運動だ。月の地下をのたくる溶岩チューブのいくつかを隠れ家に、都の辺境警備軍と日夜絶望的なゲリラ戦を続けている。
 リーダーは最終目標として都の完全制圧、そして現在月の民の奴隷となっている全玉兎の解放を掲げているが、これははっきり言って笑い話だ。なぜなら今私たちが勝った負けたと騒いでいる相手は敵の主戦力でもなんでもない、ただ少しばかり頭数が多いだけの木端玉兎だからだ。彼らの多くは都で軽犯罪をはたらき、その後くじ引きか何かでこの辺鄙な土地に配属されている。そんな烏合の衆が束になっても敵わない月人という生き物が都にはいて、私たちはその月人がさらに束になっているところへ特攻をしかけようとしているのだが、なんと前座である烏合の衆を相手に未だ手をこまねいているというわけだ。
 同じ玉兎同士殺し合うのはレジスタンスの理念に反するのだが、向こうが聞く耳を持たない以上、リーダーは強硬姿勢をとると決めていた。彼の情報によれば、都では玉兎に対して酷い洗脳教育が行われているらしい。
 警備軍が駐在する街には非戦闘員も多く住んでいるため、戦闘中やむを得ず民間の玉兎を巻き込んでしまうことは少なくない。リーダーはこうして親兄弟を失った玉兎を手厚く保護する。私や、あそこで泣いている新入りを含め、ここにいる大部分がそんなふうな理由で行き場を失くした玉兎だった。
 しばらくぼんやりと様子を眺めていると、奥の部屋から二人組の玉兎が現れた。リーダーと、側近の〝一〟だ。一はきょろきょろとホールを見渡したかと思うと、私を見つけ、リーダーに何か耳打ちし、二人揃って私のほうへ向かってきた。
「四班が壊滅したというのは本当か?」
 リーダーの声は早くも悲痛に満ちていた。
「はい。不意を突かれました」
「くそっ‼︎」
 彼は力任せに壁を殴りつけた。ホールが一瞬静まり返る。
「貴重な戦力の喪失だ。こんなことではいつまで経っても……」そこまで言って、彼はため息にも似た深呼吸をした。「……過ぎたことは仕方ない。それよりも五十三、お前に新しい仕事だ。今日からあそこにいる新入りの教育係をやってもらう」
「嫌ですけど」私は言下に切り捨てた。
「五十三、そう言わないで」交渉を継いだのは一だった。彼女はまだすんすんと泣いている新入りを見やって、「ああ見えて見込みがあるのよ。保護する際に落ち着かせようと催眠術をかけたんだけど、ほとんど無意識で跳ね返されたわ」
 私はいささか驚いた。「一さんの催眠を?」
 一はこのレジスタンスにおいて、私に次いで強力な催眠術を使う実力者だ。諸々の実務もテキパキこなすため、もとは都にいたのを逃げてきただとか、実は伝説のスーパー玉兎に変身できるらしいなどと好き勝手噂されているが、同胞からの信頼は厚い。
「ええ。だからぜひあなたに頼みたいの。現状レジスタンスで最も能力が高いあなたに、彼女にも力の使い方を教えてあげてほしいのよ」
「そう? ふーん。教育係ねぇ……」気のない返事をしてみたが、内心悪い気はしていなかった。
 煮え切らない態度に痺れを切らしたのだろう、リーダーが割って入った。「勘違いするなよ。これは頼み事じゃない。命令だ」彼は機嫌が悪そうに踵を返すと、もと来た扉へつかつかと去っていく。
「ごめんなさい。九十七をお願いね」
 そう言って、一も彼とともに出ていった。
 一人残された私は改めて新入りを見た。さすがにさっきよりは泣きやんでいるようだったが、長い髪を地面につけてどんよりとしゃがみ込んでいる。取り巻いていた同胞たちも今は距離を空けている。
 私は彼女のそばへ近寄ると、正面に立って言った。
「んーっと……私、あんたの教育係の五十三。これからいろいろ教えるから、そのつもりで」
 我ながら大した自己紹介だ。まあこんなものだろう。
 新入りは私の顔をぽかんと見上げ、そして突然、爆発したみたいに吹き出した。
「あははは! なにそれ! ゴジュウサンって! ひー、ふふっ……!」
 あまりにも予想外の反応をされたため、私の頭は完全に固まってしまった。塹壕の中で前後左右に手榴弾を投げ込まれたときでさえ、この百分の一も硬直しなかっただろう。
 新入りはお腹をかかえて笑い続けていた。私は徐々に冷静になってくると、やっと彼女が私の名前を笑っているのだと飲み込めてきて、なんとも言えない気分になった。
「ここでは数字が名前なの。幼い頃に拾われて、親から貰った名前も知らないような同胞が大勢いるし……」
 新入りはそれを聞いてもなお笑いがおさまらないようだった。
「いやでも、だって、自分で好きな名前付ければ良くない? なんで数字なの……ふっ、ふふ」
 だんだん私もイラついてきたが、と同時に、言われてみればそのとおりだと思う自分もいて、私はこの異色の新人になんと声をかければ良いのかてんでわからなくなってしまった。
 そうこうしていると、周囲から同胞たちの聞き慣れない声が聞こえてきた。それは笑い声だった。ここ何ヶ月、いや、何年か。笑い声など聞いた覚えがなかったものだから、私もつい和んでしまう。
 しかしいつまでも空気を緩めているわけにもいかないので、私は気を取りなおして、もう一度新人に向き直った。
「あんたも同じなのよ。今日からここで生きていくためには名前が必要なの。さっき一が言ってたわよね。たしか、九十……」
「違うわ」
 彼女はきっぱりと否定した。
「それはただの番号よ。名前とは言わない。他の人がどうだとかは知らないけど、私には全然関係ない話。私は自分の名前をちゃんと覚えてるんですもの」
 彼女の真っすぐで真っ赤な瞳に、この私ですら気圧されそうになった。
 呼び名の統一はここでの規則だし、その制度に異を唱える者もこれまで特にいなかった。無意味な強情だと思いつつ、しかし私はほんの少しの好奇心から、彼女にその先を促してみた。「名前は?」
「レイセン」
 新入りは長い髪をかき上げて答えた。

 作戦中以外の行動は比較的自由だ。私はレイセン――九十七を連れて近くの街まで買い出しに来ていた。私たちレジスタンスの玉兎は耳の形に特徴があるため、私は常時光の波長を弄って見た目を偽装し、念のため帽子も被る。ただし、加入から日の浅い九十七はまだその必要もない。
「五十三ちゃんは街に来るのもひと苦労なんですね。っていうか、なんでみんな耳しわしわなんですか?」
 私はちょっと目を伏せた。「ストレスよ。あんたもすぐこうなるわ」
「げー! 嫌すぎる」九十七は露骨に舌を出した。「あれ? でもたしか、リーダーの耳はピンピンしてましたよね」
「あー、あれは特別よ」彼女の言うとおり、リーダーの耳はいつ見ても凛々しく真っすぐに突き立っていた。それは時に、私たちの抵抗を支える象徴でもあった。「それだけ強靭な精神を持ってるってことよ。そのくらいじゃなきゃ、リーダーなんて務まらないんでしょう」
「ふーん。キョウジンねぇ」九十七はもう興味を失ったらしい。その目は店先に並んだ人参ばかり凝視している。
 ひととおり食糧品を買ってあとは帰るだけというとき、九十七の姿が消えていることに気付いて肝を冷やした。しかし彼女は店と店の間からひょっこり出てきて、なにやら満足げに私のもとへ戻ってきた。
「勝手にいなくなっちゃダメでしょ!」私は声の波長を弄り、九十七以外には聞こえない声で怒鳴った。
 彼女はうるさそうに耳を押さえたが、私はその長い両耳の付け根になにか光るものを見つけた。「なにそれ?」
 すると彼女はパッと明るくなって、私に頭頂部を見せつけてきた。「ふふ、いいでしょ? 耳飾りです。たった今そこの露店で買いました」
「アクセサリーってこと?」私は呆れ返った。「私たちは兵士なのよ。そんなもの戦場に必要ないわ」
「頭がカチカチねぇ。ちゃんと五十三ちゃん先輩の分も買ってきてますよ」
 そう言って、彼女が小さな紙袋を押し付ける。
「あのねぇ……」
「先輩! 先輩は顔もかわいいんだから、もっとオシャレしなきゃダメですよ。こんなふうに髪伸ばすとかさ」
「あんたのは長すぎよ」
 ため息をつきながら、私は建物のガラスに映った自分を見た。髪は手入れしていないので質が悪く、肩の上でバッサリと切り揃えられている。顔は……よくわからないが、これもなんだかんだ、褒められて悪い気はしなかった。
 しかし、同時に嫌な記憶が蘇った。
 あれは私がレジスタンスに拾われてすぐの戦闘だった。私は当時四人チームの最年少で、チームは姿を隠しつつ敵陣のすぐ背後まで忍び寄っていた。敵の一部が囮に向けて撃ち尽くした瞬間を狙い、私たちは電光石火のごとく奇襲する。私たちの勝利は確定していた。しかし、近接戦闘に持ち込まれた一人の仲間――もう名前も忘れてしまった――が、彼女の長い髪を掴まれ姿勢を崩したのだ。その先は言わずもがなである。その日からしばらく、私はヘルメットに収まらない髪の毛を偏執狂的に切り続けた。
 私はどこかいつも浮かれ調子の九十七に釘を刺した。「あんた、そんなんじゃすぐ死ぬよ」
 そう言ったとき、彼女が柄にもなく悲しそうな笑みを浮かべたものだから、私はなにかとんでもなく悪いことをしたような気分になった。
「でも、したいじゃないですか、オシャレ。どうせ死ぬんなら、私は好き勝手やってから死にたいなって」
 うまく反応することができず、話はそこでぱったりと途切れてしまった。
 押し付けられた紫色の紙袋はとりあえずポケットにしまって、私たちはアジトに辿りつくための結界順路を確認しながら、ぽつぽつと歩いて帰った。

 その夜、私は昔の夢を見た。
 暗い路地裏で寝ていた私に、白髪の玉兎が声をかける。
 寝る場所がないの?
 私は黙って頷く。
 家族は?
 黙って首を振る。
 名前はなんというの?
 首を振る。
 そう。私といっしょね。
 おばさんも名前、ないの?
 私は、一。
 いち?
 さあ、私の目を見て。あなたの孤独や不安、全部取り去ってあげるから。
 私は彼女の赤い瞳を見つめた。けれど、私の凪いだ心の世界には波紋ひとつ立たない。
 ……なんて強力な。
 なんのこと?
 彼女は少し考えたあと、もう一度私の目を見て言った。
 私といっしょに来ない? あなたに住む場所をあげる。それから家族も。もちろん名前もあげるわ。
 私の、名前?
 一の背後の夜空には、美しい青い星が輝いていた。
 今日からあなたは、五十三。
 ――私はゆっくりと目を覚ました。
 ぼうっと光る常夜灯に透かして手を何度か握ってみる。リアルな夢だったから、なんとなくまだ夢の中にいるような気がした。
 私は同室の九十七に声をかけてみた。「起きてる?」
「起きてますよ」すぐに返事があった。
 私は昼間の彼女を瞼の裏に思い出し、唐突にこの世のすべてが嫌になった。「あんたさ、向いてないよ」
「いないでしょ、そんな兎。向いてる兎」
「いるのよ、ここに。私はここが向いてる」
「嘘ばっかり」彼女の声が部屋のなかで溶けていく。「知ってますよ。先輩が夜、布団の中で震えてるの」
 私は言い返すつもりもなかった。「まあね。でも、私のは違うの。死ぬことへの恐怖とか、私のはそういうんじゃない。私はただ……」
 私が恐れているのは、私の世界を満たす虚無。
「……とにかく、私はこれでいいのよ。私は戦うのが得意だし、他にやりたいこともないし」私はまた全身を掻きむしりたくなる衝動が湧き起こるのを抑えるべく、祈るように会話を繋いだ。「でも、あんたは違うでしょ。臆病で、自分勝手で、髪が綺麗で、笑い声はちょっとムカつくけど、かわいくて……。それで……親の愛も知ってる」それは半分自傷行為だった。「だから、あんたは死ぬべきじゃない」
 長い沈黙が続いた。
 寝てしまったと思ったとき、彼女はまた口を開いた。
「私ね、いつか地球に行ってみたいんだ」
「地球に⁉︎」私は飛び起きんばかりの勢いだった。「地球って、あの穢れた星に? なんだってあんなところに?」
「昔、お母さんに本を読んでもらったの。地上の生き物は私たちよりずっと寿命が短くて、人間っていう、弱くて愚かな種族が支配していて……」
 私もその程度なら知っている。月の民とは穢れきった地上に見切りをつけ、はるか昔に故郷を捨てた地球の生物とその末裔だ。
 彼女は暗闇のなかで話し続ける。「人間のいろんなことを習ったわ。彼らはすぐに仲間同士で殺し合いをしたり、むやみに自然を破壊したり、とにかくどうしようもないの。でも……」
「でも?」何が彼女の心を捕らえたのか、その答えが知りたかった。
「でも、月での暮らしなんかよりずっと楽しそうなのよ!」
 私は布団の中でずっこけそうになった。
「た、楽しそうって、なにそれ?」
 彼女の姿は見えないが、声が弾んでいるのはよくわかる。「全部よ、全部。月にはない文化に、月とは違う歴史、月では味わえないようなスリル、ショック、そしてサスペンス……」
「なんの本読んだのよ」
「とにかく、それを一言で言うなら――未知への好奇心、ってとこかな」途中から彼女の声が耳元に寄ってきた。声の波を調節したのだろう。「先輩は知ってますか? 私たちのご先祖様のこと」
「先祖?」私はなにも知らなかった。
「私たち玉兎の先祖は、都にいる嫦娥って人が飼っていたたった二匹の兎だったんです。嫦娥様が月に移り住むとき、ペットとして地球から持ち込まれたの。その子孫やら、クローンやら、クローンの子孫やらが何千年も遺伝子を改良され続けた結果が今の私たち、玉兎なんですって」
「なんか壮大な話ね」
「だから、同じなんですよ」彼女は私の耳元で囁くように言った。「私たちはみんないっしょなんです。先輩も、私も。先輩の心の中にも、臆病で、自分勝手で、綺麗な髪に憧れてて、笑顔がすてきな兎の女の子がちゃんといるんですよ」
 小さな私の心臓が、どきん、と跳ねた気がした。
 彼女はそう言ったきり黙ってしまった。私は布団の中で自分の胸に手を当てて、今まで考えようともしなかったことをいくつもいくつも想像した。
「……ねえ、まだ起きてる?」
「もう寝てまーす」
「……おやすみ」
「……おやすみなさーい」
 その日はうなされることもなく、ぐっすりと眠れた。

 数ヶ月後、九十七の耳も徐々にくしゃついてきたころ、私たちレジスタンスにとって過去最大の好機が訪れようとしていた。
「いよいよ今日だ!」リーダーが会議机の前で声を張る。「三時間後、この辺境の地に憎き貴族どもの視察が入る。我々はそこを急襲、件の月人を人質にとる!」
 同胞たちはざわついたが、明るい顔をする者は少ない。それほどまでにここしばらくの作戦は失敗が続いていたのだ。
 九十七が手を挙げて質問した。「月人ってめちゃくちゃ強いって聞きましたけど、勝算はあるんですか?」
 誰もが気になっている――というより、ずっと見て見ぬふりをしてきた問いだった。しかしリーダーは私たちの予想に反して、その質問を待ってましたと言わんばかりに勢いづいて語りだした。
「いい質問だ。結論から言えば、やつらの強さもピンキリだ! ほとんどの月人は丹やら術やらで肉体を強化しているが、逆に言えばそれだけのやつも大勢いる。中央に行けば行くほど戦闘とは無縁の高貴な暮らしをしている連中だ。カタログスペックにどれだけの差があったところで、穢れを厭うあまり虫一匹殺せないような腑抜けに我々が負ける道理はない!」
 リーダーの力強い断言によってざわつきに活気が加わった。が、私の頭は冷めていた。彼が言っているのは、視察に来る月人が戦闘慣れしていない「かもしれない」という可能性に過ぎない。しかし、劣勢の我々にとっては捨て置くわけにいかない大チャンスであることもまた事実だ。彼もそれをわかっているのだろう。だから私も、なにも言わなかった。
「人質をとって、やつらに何を要求するんです?」同胞の一人が言った。
「ある者の身柄だ」リーダーはニヤリと笑った。「そいつさえ手に入れば、すなわちすべての玉兎の解放に繋がる」
 彼の言葉の真意は誰にもわからなかったが、その自信は本物のようだった。
 私たちは班ごとに分かれ、それぞれの持ち場に散った。ただし、最初の奇襲をかけるのは私と九十七の二人に決まった。最も強力な少数精鋭で必ずターゲットを奪取する。
 数十分の待機ののち、敵は姿を現した。
 ターゲットは四人の護衛を連れていた。中央で守られている月人は白と黒の怪しげな面で顔を隠し、通りの玉兎たちの呼びかけに小さく手を挙げて応えている。護衛の玉兎は多少体格が良いようだが、私に言わせればいつも戦っている辺境警備軍と大差ない。はっきり言って隙だらけだ。
 いける。
 私はテレパシーで周囲の同胞に合図をかけて、九十七と同時に通りの真ん中へ飛び出した。
 突撃と同時に放った銃弾で護衛は瞬く間にくずおれた。ターゲットは何が起こったのかもわからず立ち尽くしている。私は分身による撹乱も交えつつ、ターゲットの後頭部に向けて蹴りを放つ。簡単だ。
 簡単すぎる。
 私の蹴りは空を切った。ターゲットの白黒面に爪先がかすり、黒い左半分が砕け散る。面の下から覗く朱色の瞳に気付いた瞬間、私はその眼光に両目を射抜かれ、生まれて初めて出会う概念に打ちのめされた。それは残酷なまでにはっきりとして永遠に覆らない、生物学的〝種〟の隔壁――。
 逃げて!
 そう叫ぼうとした瞬間――そう、まさに瞬間的に、私たちの周囲に白い布で顔を覆った五人の玉兎が現れた。私はとっさに位相をずらして敵の攻撃をかわしたが、その辺の兎とは明らかにモノが違う。一対一なら勝てなくもないだろう。しかし、この人数差では……。
 そこまで考えてようやく気が付いた。間違いない。これは罠だ。月人がついに私たちの殲滅に本腰を入れ、あまつさえ自らを囮にするという狂気の策を実行したのだ。
 私の脳内が絶望一色で塗り潰された。
 撤退して!
 私はテレパシーで周囲に呼びかけた。しかし、誰からも応答がない。代わりに聞こえてくるのは、何人もの同胞の断末魔。
「きゃあ!」
 声のしたほうを向くと、九十七の手から小銃が弾かれていた。尻餅をついた九十七を仕留めるため、敵の二人が銃を構える。
 私は自分の相手を強引に振り切り、彼女の前に身をすべらせた。
「先輩‼︎」
 大通りに銃声が響く。
 私は足と胴体に被弾していた。
「うっ……」
 実を言うと、敵の銃弾をこの身に受けたのは初めての経験だった。たいていの攻撃は位相をずらすことで無効化できたし、こんな旧式の銃の弾速なんて脅威でもなんでもなかったからだ。
 そんなだから、私の痛覚は一瞬で音を上げた。
「あああぁっ!」
 それが私の悲鳴だったのか、それとも九十七のものだったかはよくわからない。九十七は自分の瞳を真っ赤に燃やして、周囲の敵を一時的に硬直させた。その波動の出力は訓練中に見たことがないほど大したものだった。
 彼女は私の手を引いて、巧みに姿をくらませた。
「あー……逃げられる」
 撤退のさなか、敵の玉兎が気だるげに言うのが聞こえた。変声機を通した気持ちの悪い声だった。
 私はすぐに歩くこともままならなくなり、九十七の小さな身体に背負われた。
「もういいって……置いてって」私は痛みでおかしくなりそうな頭をなんとか働かせた。「弾……当たってないよね? ホローポイントで良かった」
「喋るな! 黙れ!」九十七に怒鳴られた。「そうだ……リーダーに連絡して救護班の手配を……」
 私はすぐに彼女を止めた。「ダメだって。リーダーへのテレパシーは禁止でしょ。もし敵に探知されて彼の居場所がバレたら私たちは終わりなのよ。それに……」私は自分の傷に意識を向けた。最低限の止血はしたが、結末は見えている。「言ったじゃん……もういいって」
 彼女は聞こうとしなかった。
 私は温かい後輩の背中と暖かい陽の光の間でサンドイッチになりながら、もう少しだけこうしていたいなぁと思った。
「開けてください! 先輩が!」
 うとうとしかけていた私はその声で現実に返った。廃屋の床の幻覚が消え、九十七は急いで階段を駆け降りる。私はアジトで待機していた何人もの同胞に囲まれ、ホールの長椅子に寝かされた。
「お前までやられたのか……」リーダーは深い絶望の淵に叩き落とされた顔をしていた。「誰か……誰か他に生存者は?」
「私のせいなんです」九十七が泣きそうになりながら言う。「先輩は私を庇って」
「視察は罠でした」私は声を絞り出した。「白い覆面の玉兎が待ち伏せしていたんです」
 リーダーは怒りに震えた。「賤兎ども……!」
 私はそれだけ伝えると、なぜだか急激にほっとした。
 私の仕事はこれで終わりだ。もう戦わなくていいんだ。これ以上痛い思いはしなくていいし、新しい死に立ち会う必要もない。
 九十七を見ると、彼女はずっと心配そうに私のことを見守っていた。あとのことは、私ができなかったいろんなことは、きっと彼女がやってくれる。彼女はきっとこの月の狂気から逃げ出して、あの青い星へ――未知で溢れた地球へ行って、そこで幸せを見つけてくれる。私はそう考えるだけで十分だった。
 なんだか、体が冷たくなってきたなぁ……。
「……この部屋、寒くないか?」
 同胞の一人がそう溢した。すでにお通夜みたいに静まり返っていたみんなは最初、誰もその言葉に反応しなかった。しかししばらくすると、何人かの同胞もぽつぽつと同じことを訴えはじめた。
「寒い……よな。なんだこれ……」
「誰か冷房入れたのか?」
 どうやら私の体温がみんなに移ったとか、そういう冗談ではないらしい。
 全同胞にテレパシーが入った。
「緊急! 緊急! こちら十八! 二番ゲートに異常あり!」
 続いて一番、三番、四番の見張りからも同じ緊急連絡が入る。「緊急!」「緊急!」「こちら四番――」
 テレパシーが入り乱れ、ホールは大パニックになった。
「どうした! 落ち着けお前ら!」リーダーは隣にいた一に確認を求める。「どうなってる⁉︎」
 一は額に冷や汗を浮かべ、ホールのモニターに監視カメラの映像を分割して映し出した。私たちは息を呑んだ。
「アジトが……凍ってる?」
 廃墟の外部に取り付けられた監視カメラの映像を見ると、アジトの四つある出入り口を含め、この辺り一帯の地表がすべて氷のような半透明の水色に染められつつあった。
「あ、て、天井に!」
 誰かが指差したのを見ると、同じものがホールの天井からも霜が降りるように広がってきて、あっという間にホール全体の壁や床を覆い尽くしてしまった。
 誰もが慌てふためくなか、リーダーだけは微動だにせず、しかし周囲の壁の色と同じくらい青ざめていた。「永遠の魔法だと……? こんだけ大規模な防穢……まさか……!」
 十八から耳をつんざくようなテレパシー。「敵襲です! 紫色の……」数秒の沈黙。「なんだ、こ」
 テレパシーはそこで途絶えた。
「二番ゲートの映像、出します」一が迅速にモニターを操作する。
 二番ゲートは私たちがよく使う、あの隠し階段のある廃屋だ。映し出された映像では、その廃屋の入り口に――いや、割れた窓や天井の穴、その他あらゆる間隙に向けて、おびただしい数の紫色の球体が殺到していた。
「穢身探知型機雷!」リーダーは全身に怒りをみなぎらせた。「あいつか! あのキメラ女か‼︎」
 洞窟の上のほうから爆発音や振動が伝わりだした。モニターの左下に、未だなにが起きているのかわからないという様子の同胞が映る。彼の部屋の入り口から紫色の球体が入り込んだかと思うと、それは瞬く間に部屋いっぱいになだれ込み、そのうちの一つが監視カメラの画角ぎりぎりまで広がった次の瞬間、激しい揺れといっしょに映像が途絶えた。
「逃げ遅れを指揮します!」
「バカ! お前は行くな!」
 一が一人でホールを飛び出した、そのわずかにあとだった。ひときわ近い爆発音が聞こえ、ホールから伸びる廊下の曲がり角になにかが叩きつけられた。すでに事切れた一だった。
「ふざけるなよ……なめやがって!」リーダーは完全に平静を失ってるようだったが、それでも今の私たちにとっては、彼だけが最後の希望だった。
 リーダーは服から薬草のようなものを取り出し、口に入れて咀嚼した。
「あまるしによく!」リーダーがわけのわからない名前を叫んだ瞬間、天井や壁や床の外側でなにかがブーンという音を立てているのが聞こえてきた。まるでアジト全体が揺れているような不吉な波動を感じ、私は直感的に、これは私たち玉兎の使う技とは根本的に別のものだと悟った。「還せ!」
 彼が手を向けた先の氷が円形に溶け去った。と、同時に、その岩壁にぽっかりと穴が開き、ずっと奥まで続く通路が現れた。どうやら私たち同胞にも知らされていない非常用の脱出路のようだ。
 氷の壁は徐々に復活しつつある。リーダーはまず、一の亡骸を確認した。そして次に、満身創痍の私を一瞥。そして三番目に、九十七に目を留めた。
「そこのお前! いっしょに来い!」彼は九十七の腕を強引に引っ張り、通路の中へ連れ込もうとした。
 しかし、九十七は抵抗した。「待って! 先輩を置いてけない!」
「行って」私の声はもう微かにしか響かなかったが、なんとか彼女に聞こえるよう調節した。「逃げて。レイセン」
 彼女の抵抗が弱まったのを確認し、リーダーはホールにいる残りの同胞にこう告げた。「お前らはここで食い止めろ! いいな!」
 そして、通路は再び氷の壁に閉ざされた。
「……置いていかれた?」
 誰かがそう言ったが最後、ホールは阿鼻叫喚の地獄絵図に姿を変えた。追い討ちをかけるように紫色の球体が侵入する。同胞たちは抵抗を試みたが、球体は機械的な動きでこれをかわす。運良く何機かを撃墜することができても焼け石に水だった。
 私が纏う濃厚な死穢に反応したのだろう、球体が動けない私の身体にゆっくりとまとわりついてくる。
 視界のすべてが光に包まれ、とどめの爆殺が始まった。


 ――より――て――――こい――――
 こんっ。
 遠くから音が聞こえた。
 ――われ、しんと――りて――――たたりそ――
 こんっ。
 声には聞き覚えがあった。あの不気味な変声機だ。
 ――より後――祝と為りて――祭らむ。冀くは、な祟りそ――
 かんっ。
 音は少しずつ近付いているようだった。
 どこへ?
 私は今、どこにいる?
「今より後、吾、神兎の祝と為りて、永代に敬ひ祭らむ。冀くは、な祟りそ、な恨みそ」
 ガンッ!
 鋼で岩を打つような音が響き、私は完全に覚醒した。
 辺りを見ると、私はホールの長椅子に寝かされたときから変わらず同じ位置に――長椅子は無残に破壊されていたが――横たわっていた。
 助かった?
 しかし、周囲には同胞の死体がいくつも折り重なっている。どうやら私は無意識のうちに、自身に届くすべての爆発の位相をずらしていたようだった。
 ホールの隅でごぼごぼという水音がした。まだ生きている同胞がいるようだ。私のようにとまではいかずとも、いくつかの爆発を凌いだのだろう。ただし、もう数刻ももちそうにない。
 こつこつという足音が聞こえ、白い布で顔を隠した玉兎たちがホールの中へ入ってきた。
「生存者発見」やはり変声機を使っている。「欠損甚大、蘇生の見込みありません」
「了解」
 発見されたのは例の死にかけの同胞だった。
「今より後、吾、神兎の祝と為りて、永代に敬ひ祭らむ。冀くは、な祟りそ、な恨みそ」
 ガンッ!
 さっきから聞こえてきていた異音の正体がわかった。音は、瀕死の同胞の心臓を貫いた鉄剣が地面に当たって鳴るものだった。
「もう一人います」覆面の玉兎が私の横に来た。「処理します」
 私の心はもう、氷のように動かなかった。
「今より後、吾、神兎の祝と為りて、永代に敬ひ祭らむ。冀くは――」
『待って』
 玉兎の詠唱がぴたりと止まった。
 誰かがホールの中へ入ってくる。
 私はその瞳にも見覚えがあった。
「さ、サグメ様」玉兎たちは慌ててその月人に跪いた。「いけません、禊祓がまだ……」
 サグメと呼ばれた女は白い大きな翼を持っていた。ただし、片方だけの。「この兎、傷が二つしかない」
「あー、爆発の怪我じゃないですねこれ」玉兎が私の傷を見て言う。「通りで撃ち込んだ発信機だ」
「サグメ様、報告が」ホールの外から別の玉兎が言った。玉兎は一の遺体になにやら機械をかざしていた。「遺体の耳紋照合とれました。脱走したトゥーレーク・キー(夢解き師)で間違いありません」
 サグメは小さく手を挙げて応えた。
「第一目標には逃げられましたが、第二はクリアですね。これでやつはもう新しい手駒を増やせない」
 サグメはなにも言わず、もはや瀕死状態の私をじっと見ている。そして私に向かって口を開いた。
『あなた』なぜか鳥肌が立つような語り出しだった。「あの爆発を生き延びたの? 個別に変調してあった機雷を全部?」
 私は力無く答えた。「えぇ、まぁ。でも、どうせ死ぬわ」
「いいえ、あなたは死なない」サグメは口に片手を当て、その美しい片翼を開いた。「あなたの運命は、今、ここで逆転したのよ」
 覆面の玉兎が困惑した様子で訊いた。「サグメ様、このような場所でそのお力を……」
「ここが使いどきと見たのよ。そもそも、まだ回復の見込みがある者を処理しようとしたのはなぜ? あなたたちの本来の職能はなに?」
「申し訳ありません、まさかあの攻撃で生き残りが出るとは思わず」
 サグメは再び私に向き直ると言った。「その負傷、都に行けばまだ治せるわ」
「治す?」私は目の前の月人がなにを考えているのかさっぱりわからなかった。「なに言ってんの?」
「あなたの力が必要なのよ」
 そう言ってサグメが片手を挙げると、覆面の玉兎たちが私に目隠しをし、手足を縛った。
「第六槐安通路を開けます。急いでください。いくら防穢コーティングがしてあると言っても、ここの穢れは……酷い」

 私は真っ白なベッドの上で目を覚ました。いつの間にか力尽きて眠ってしまっていたらしい。
「ふかふかだ」
 驚きが思わず声に出た。未だかつてこんな布団で寝起きしたことはなかったのだから、少しくらい多めに見てほしい。
 さらに驚いたことといえば、あれだけ無残に開いていた身体の傷が綺麗さっぱりなくなっていたことだった。皮膚の引きつりも、縫いあとすら残っていない。これが月の都の水準なのかと、私は素直に舌を巻いた。
 個室の扉が開き、サグメと覆面の玉兎が入ってきた。
[ご機嫌いかが?]
 サグメが妙なプレートを見せてきた。
 こちらが意図を掴めずにまごまごしていると、隣の玉兎が通訳した。
「サグメ様は本来、滅多なことで口を開けない。ここに書かれているのがサグメ様の言葉だ」
 貴族というのにもいろいろ苦労があるのだろう。私は適当に相槌を打った。
[あなたに頼みがある]プレートの文字がひとりでに変化した。[あなたたちのリーダーの居場所を教えて]
 私はサグメに催眠術をかけようとした。しかし、なぜか力が使えない。
 サグメは眉ひとつ動かさず、[催眠術は一時的に封じている]
 とっくに詰んでいるのだと気付かされた私は、最後の抵抗を試みた。すなわち、黙秘権の行使である。
[どう? 教えてくれる?]
 私はベッドに深く身を沈め、じっと天井を見つめることにした。
 居心地の悪い無言がしばらく続いた。すると突然、サグメが私の目の前にプレートを差し出した。
[具合が悪いの?]
 プレートの内容を見た覆面の玉兎は頭をかかえた。「サグメ様、こいつは無視してるんですよ」
[ふむ]
 もちろん私は騙されない。こいつらは私の口を割らせるためにわざとふざけた調子を演じているのだ。でなければ、月の都の重鎮がこんなおっちょこちょいだということになる。
 私は引き続き無視を決め込んだ。
[黙秘はあなたのためにもなりません]
 私をたぶらかそうったって、そうはいかない。
[あなたが協力してくれなければ、私たちは無理やり協力させなければならなくなる]
 なんだって?
[あなたに催眠術をかけることになるわ]
 私はベッドから飛び出そうとした。しかし、周囲には透明な結界が張ってあるようで、私はまたベッドの上に弾き返される。
[どう? 協力してくれる?]
 私は舌を噛んで死のうとした。しかし、開いた口が震えて上手くできない。これもやつらの仕業だろうか? いや、私が舌を噛もうとした瞬間、やつらに緊張が走るのがわかった。じゃあ、これはいったい?
 答えは簡単だった。あのとき、あの大通りでサグメを襲おうとした私に撃ち込まれた弾丸は、私の肉と骨だけでなく、私がかつて持っていた勇猛な心までをもズタズタに引き裂いたのだ。
 その事実に気付いてしまった私は、へなへなと力が抜け、ベッドの上でうなだれた。
[どうかしら]
 しかし、幸か不幸か、無言を貫くだけの力はまだ残っていた。
 私は再び目隠しをされ、別室に連れて行かれた。
 五分ほどどこかを歩かされたあと、そこで私は目の見えないまま椅子に座らされた。手足が椅子に拘束される。嫌な予感がした。
「ちょっとパッチ貼りますね」いつもと違う変声機の声がした。
「なんの薬? 自白剤?」
「チャネルロドプシン発現剤です。赤が効くやつ」
「あっそう」
 なにを言っているのかわからなかったが、私は最後まで虚勢を張ることに決めた。
 そのまま数分間放置された私は、次第に身体中の表皮がピリピリと痒みを帯びてくるのを感じた。さっき貼られたパッチのせいだろう。
「はい、じゃあ目隠し取りますね」
 声とともに、目隠しが取り外された。
 そこは私たちが住んでいたアジトのホールより二回りも三回りも広い空洞、というより、ドームだった。
 目隠しを持った玉兎がすたこらと部屋の外へ走り去る。例のやつらと違い、顔を隠す布の色が黒い。
 私の正面には、背丈のゆうに四倍はあるであろう巨大な襖がそびえ立っていた。そのさらに上にガラス張りの広い窓があり、奥に部屋が広がっている。部屋には先ほどの玉兎と同じ、黒い覆面の玉兎が三人立っていた。
「えー、じゃあ、始めます」
 三人のうちの真ん中が変声機を通して言う。すると、部屋の照明が徐々に暗くなっていった。
「なに、映画でも始まるの?」
 私の問いかけに答える者は当然ながら誰もいない。部屋はどんどん光量が落ちて、ほとんどなにも見えなくなったが、壁全体がぼんやりと暗赤色に光っているようだ。
「遮光確認」
「遮光よし」
「はいじゃあ始めます」
 三人の玉兎が三つのボタンに手を置いた。私は思わず歯を食いしばる。
「スイッチ……ぴょん!」
 タン! という銃声のような音が鳴り響き、私は反射的に震え上がった。しかし弾丸の類いは飛んでこない。よく見ると、どうやら先ほど目の前にあったあの巨大な襖が勢いよく開いたようだ。奇妙なことに、襖の奥にはさらに襖があった。
 タン! タン! タン!
 次々と襖が開いていく。
 タン!
 十枚目の襖が開いたとき、真っ暗な壁の襖の奥に、私は真っ赤な塊を見た。
「あれは……!」
 身の毛もよだつ嫌悪感に揉まれ、全身から冷や汗が噴き出す。私は拘束を解こうとやたらめったら暴れ回ったが、まったく効果がなかった。
 襖の奥の赤色光がゆっくりと輝度を増していく。私にはその正体がもうわかっていた。絶対にあれを見てはいけないことも。
 襖の奥が狂ったように赤く輝く。
 それは巨大な単眼だった。
 いつか話に聞いた、地球に生息するという昆虫の眼――複眼、といったか――。まるでそれのように、いくつもの赤い目玉が敷き詰められて、一つの大きな狂気の瞳を形成しているのだ。
 私は両目を固く瞑った。しかし、眼球の水晶体内を高エネルギー粒子が泳ぎ、目を開けているのと同じ視界が瞬く間に構築される。
 私は叫び声を上げたが、もはや自分自身にも聞こえない。
 この部屋全体が、私が、私の瞳が、私の脳が、すべてが、赤色の狂気に沈んでいった。

 ――私は夢を見ていた。
 ……いや、これは夢じゃない。
 あの目にやられて見せられている催眠術だ。
 自分でも驚いたことに、私は明瞭な自己認識を保ったまま、自らの精神世界に入り込んでいた。
 私は記憶の世界を歩きはじめた。
 辺りはどこを見ても見覚えのある景色だったが、いくつものシーンが不自然に継ぎ合わされている。
 不思議な感覚だ。
 やがて、路地裏で眠る兎の女の子を発見した。
 私の記憶にあるとおり、今でもたまに見る夢と同じように、幼い私のもとへ一がやってきた。
 しかし、そこで異変が起きた。
 最初に一の顔がぼやけて認識できなくなったかと思うと、今度は彼女の身体に四角いノイズのようなものが走り、最後には、ふっと消えてしまったのだ。
 一が消えると、次には周囲の路地にも無数のノイズが走りだす。やがて景色は食い尽くされ、黒く染まり、そして新しく改竄されて、賑やかな大通りに生まれ変わった。
 それは私が一度も見たことのない通りだった。店先には見たこともない食べ物が並び、見たこともないほどたくさんの玉兎で賑わい、みんな平和そうに囲碁なんかを打って暮らしている。
 この世にこんな場所が存在するなんて、信じられなかった。
「これは都近辺の一般的な街の様子よ」
 聞き慣れた声が聞こえ、私は驚きのあまり飛び上がった。
 隣に立っていたのは、死んだはずの一だった。
「一さん! 生きてたんですね! っていうか、この景色はいったい?」
 一は優しく微笑みながら首を振った。
「残念ながら、本物の私はすでに死亡しました。ここにいる私は、この記憶調整プログラムの一部。この装置を設計したのは私なのよ」
 唐突すぎて言っていることが飲み込めない。頭が痛くなりそうだ。
「本来ならこうやってあなたの記憶を書き換えて、嫌な記憶を消したり、トラウマの治療なんかに使うことができるものなの。ただ、あなたは少し耐性が強すぎた。だからこうして私が出てきたのよ」
 私はなんとか理解しようと、必死で状況を整理する。
「じゃ、じゃあ、私は今、なにをされてるんですか? やつらは私をどうしようと?」
 一は首を振った。「記憶処理は失敗です。本当ならあなたに幸福な過去を植えつけて、レジスタンスとの繋がりを上手く薄れさせたかったみたいだけど。結果は今あなたが体験しているとおり。あなたは記憶の改変を完全に客観視できてしまっているわ」
 大通りが私たちから急速に遠ざかり、今度はアジトのホールに移り変わった。ここもまた、ノイズに侵食されていく。
「彼……あなたたちがリーダーと呼んでいる玉兎のことだけど」一は私の記憶の中のリーダーをそっと見つめた。「五十三、あなたは彼のことをどう思っているかしら」
 私は記憶の中で勝利への道筋を熱弁しているリーダーを見た。彼の顔も、すでにぼやけてよくわからなくなっている。
「別に……なんとも思いません。古参の同胞たちはかつての彼の戦場での勇姿を目を輝かせて語りますが、私が入ったときには、もう彼は机の前で声を出すだけの人だったし、それに……」私はレジスタンス最後の瞬間を思い出した。「彼は、みんなを見捨てて逃げました」
「そう。やっぱりね」一はどこか寂しそうな顔をした。「いいかげん、あなたにだけは、本当のことを教えるべきね」
 私は驚いて一を見た。「どういうことですか?」
 一はノイズに呑まれていくリーダーの姿を見つめながら、とうとう彼女しか知らない真実を漏らした。「彼の正体は、都を裏切った月の民。本当は玉兎でもなんでもないわ」
「な、なんですって!」
 一は滔々と語り続ける。「その昔、ある事件によって立場を悪くした彼は、私と二人で都を抜け出したの。彼の目的は一部の月人への復讐と、都のとある重鎮を排除すること。野心家の彼のことだから、あわよくばそれを足がかりにさらなる政変を狙っているんでしょうけど、私にはそこまで教えてくれなかったわ。
 ここに残されている私の記憶は都を出る前までのものだけど、あなたの記憶を少し見せてもらった限り、多分、レジスタンスメンバーの多くは私が催眠術をかけて攫ったのでしょう」一は複雑な面持ちでその先を続けた。「幸せな記憶を消し、名前も奪い、リーダーが伝説的指導者であるかのような記憶を植え付ける。そうして組織を大きくして、玉兎の解放なんていう心にもない旗印を掲げ、彼は中央と戦う兵力を得ようとした。けれど、結果はあなたの知っているとおり」
 一の語る言葉は、なにからなにまで驚きと失望と怒りの連続だった。
 あなたはどうしてそんな男に従ったんですか。
 そう詰問しようかとも思ったが、とうの昔にノイズに呑まれてなにもなくなった虚空を寂しげに見つめる彼女を見ると、ついにその気も失せてしまった。
「五十三、ここから先はあなたの自由です」一は私の目を真っすぐに見据えた。「私は私と彼の敗北を認めます。でも、彼はきっとそうじゃない。その命ある限り、多くの者の人生を狂わせるでしょう」一の顔にノイズがかかりはじめる。「あなたがサグメたちに協力しても、あなたを責める同胞は一人もいないわ」
 この期に及んで、私は彼女の言葉を邪推した。「もしかして、これこそが洗脳プログラムじゃないの? あなたが語ったことが真実だという証拠は? 私にリーダーを売らせるための……」
 そこまで言って、急に自分の言葉がバカらしくなった。思い返せばリーダーの言動にはおかしな点が多々あった。実際のところ、私は彼女の言葉をもうすっかり信じていたのだ。
「でも、だったらもう……嫌。私はもう嫌だ。もう戦いたくない。戦う必要なんてない」
 私の心はすっかり折れていた。
 それは、柔らかいベッドで眠る心地よさを知ってしまったから。
 とても奴隷になんか見えない、輝くような笑顔の玉兎たちを見てしまったから。
 肉をえぐり、相手に地獄の苦しみを与える弾丸の脅威を、痛みを、この身をもって知ってしまったから。
「死んでいった同胞の心は、いつまでもあなたと共にある。それに――」崩壊しつつある一の右腕が、私の後ろを指差した。「忘れないであげて」
 私は顔を上げ、ゆっくりと振り返る。
 そこには長椅子の上でぐったりと横たわる私と、それを懸命に見守る九十七――レイセンがいた。

 部屋の照明が点けられた。大きな襖はぴったりと閉じ、その奥に潜む狂気の光を欠片も漏らさぬよう閉じ込めている。
 私は手足の拘束を外された。
「ご気分はどうですか?」
「ご心配ありがとう。最悪よ」
 黒覆面の玉兎の頭に軽く触れると、彼女はその場でぱたりと倒れ、すーすーと寝息を立てはじめてしまった。
「な、なんだなんだ? どうなってんの?」
 ガラスの向こうの玉兎が非常ボタンを押す。私はすぐに白覆面たちに囲まれ、銃剣を突きつけられた。
「ただの挨拶よ。彼女の波長、寝不足みたいだったから」
 警戒一色だった玉兎たちに突然緊張が走る。彼らの視線を辿ってみると、そこには例の月人――サグメが近付いてきていた。
[どうやら効かなかったようね]
 私は短い髪をかき上げて言った。「まあね。私にかかればあの程度の狂気、一晩中でも浴びていられるわ」
[困ったわね。私たちはなんとしても今、やつの居所を突き止めないといけないのに]
「そのことなら心配いりませんよ。今の私はもう、レジスタンスの兎じゃなくて――」
 先輩‼︎
 えっ⁉︎
[どうしたの?]
「テレパシーです!」私はレイセンからの突然の通信に慌てた。「リーダーといっしょにいる玉兎から通信が入りました!」
 辺りがにわかにざわつきはじめる。「逆探知開始します」
 私は耳に逆探知用のヘッドセットを着けられ、そのままレイセンとの交信を続けた。
 先輩⁉︎ 良かった、ほんとに無事だったなんて!
 レイセン! どうしたの? 今どこにいるの?
 だが、返ってきた言葉は最悪を想像させるものだった。
 先輩、先輩は私の分も……
 なに? どうしたの?
 生き――
 レイセン⁉︎
 テレパシーはそれっきり途絶えてしまった。
[逆探知はできた?]
 覆面が私の耳から装置を取り外しながら言う。「既知の海近辺の溶岩チューブからと思われます」
 私はサグメに縋りつくようにして言った。「あの、私の後輩が……リーダーといっしょにいる兎が危ないんです! あの子だけは!」
 サグメは即答した。[善処しましょう]
「第十一槐安通路、いつでも開けます!」武装を整えた白覆面がサグメの前に整列した。
 サグメは玉兎たちに頷いて、それから私を見た。[あなたは……]
「五十三です」
[五十三、あなたは自分の元上司と戦えますか?]
 私はきっぱりと宣言した。「戦います」

 槐安通路の異空間を抜けると、私たちは怪しげな建物の中に出た。驚いたことに、私たちがアジトにしていた場所よりもずっと近代的な見た目をしている。こここそが最後の砦ということなのだろう。
 サグメがスッと手を振ると、途端に冷気が立ちのぼり、廊下の壁や床がたちまち例の氷のようなもので覆われていった。
[抗戦意思のない人質がいるため機雷は使えない。ツーマンセルで動き、目標を発見次第テレパシーで知らせよ]
「了解」
 私はサグメといっしょに探索を始めた。四人の玉兎がついてきたが、これは私の監視も兼ねているのだろう。
 連絡はその後すぐに訪れた。
 目標発見! やつは――
 テレパシーが切断された。
「サグメ……様、十時の方角から接敵報告。一瞬で切れました」
 私がそう伝えると、サグメ様は頷いて、目の前の壁をバラバラに切り刻んだ。
 私は改めて冷や汗を浮かべる。もし彼女が穢れ――命のやりとりを厭う種族でなかったとしたら、私はあの大通りでこの壁のようにバラバラになっていたことだろう。
 いくつかの壁を破壊したのち、私たちはついに彼の姿を捉えた。
「動かないで!」私は両手で銃を構える。「投降してください。これ以上は無意味よ」
 リーダーは私に気付き、苛立たしそうに目を細めた。「お前……裏切ったのか? チッ、これだから玉兎は」
 彼の足元には白覆面が倒れている。しかし、肝心の彼女の姿がない。
「レイセンはどこですか?」
「レイセン?」リーダーが首を傾げる。「誰だそいつは」
「九十七です」
「九十七……?」リーダーはなおも首をひねった。「んな番号いちいち覚えてねぇよ」
 私は彼に向けて発砲した。ぴんと伸びた左耳が根元から吹き飛び、ひらひらと軽薄そうに落下する。
「ふざけたこと言ってると、次はその目玉をぶちぬくわよ!」
 激昂する私をサグメ様が遮った。
[お久しぶりです]
 さしもの彼も分が悪いと見たのか、かなり警戒した姿勢をとる。
「あんたか……。この冷房止めてくれないか?」
 散っていた玉兎たちも部屋に集まり、リーダーは完全に追い詰められる形となった。
 サグメ様は淡々と言葉を紡ぐ。[哀れなものですね。仮にも月の民ともあろうものが、造り物の付け耳やカラーコンタクトまでして玉兎になりきって。兎のほうがよほど勇敢な者がいますよ]
「言ってろ。そう言うお前らこそ、増えすぎた玉兎の反乱が恐ろしくって嫦娥のやつをどうにもできないでいるんじゃねぇのか?」
[彼女の件は当然の措置です。あなたは自分のことをタカ派だと考えているのでしょうが、その思考回路は始点から終点まで臆病者のそれです]
「何千年も先送りにしてきたお前らこそ臆病者だろうが!」
 二人のやりとりは何ひとつ理解することができなかったが、私はあの男の妙な余裕が気になった。これだけの戦力差を前に開き直っているのか、それともなにかまだ、切り札があるのか……。
[どちらにせよ、あなたの負けです。あなたが使役する守護霊にもあなた自身にも、この状況を打破する力は無い]
「どうかな……」リーダーはぼそりと呟いた。
[これからあなたを拘束しますが、抵抗すればするだけ罪も重くなるものと心得てください]
 白覆面の玉兎が六人がかりでリーダーを囲み、その手に慎重に錠をはめようとする。
 男の両目が怪しく、赤く光った。
 突然ばたばたと倒れだす白覆面に、私も他の玉兎も、おそらくはあのサグメ様も、なにが起こったのかわからなかっただろう。
「初めからこうしときゃ良かったんだ」
 顔を上げた男の瞳を初めて真正面から見たとき、私の呼吸は浅くなり、心臓がキュッと冷たくなるのを感じた。彼の今の赤は、決してカラーコンタクトの赤なんかじゃない。
 それはレイセンの目だった。
 私は一方的に意味のわからない言葉を叫びながら銃を乱射した。しかし銃弾はすべて標的をすり抜け、後ろの壁を破壊する。
「遅すぎたくらいだ。最初から一の目を俺に移植してれば、事はもっと上手く運んだに違いない」
 私は銃の弾が切れたあとも、自分の魔力を撃ち出し続けた。
「無駄だってのに、お前はうるさ……」
 男の腹に無数の風穴が開きはじめる。
「お、おま、なんで⁉︎」
 男は私に蜂の巣にされながら驚愕の表情で後ずさった。
 私は簡単にかわされることがないよう、エネルギー弾の波形を一つひとつ変調しながら撃ち出していた。もはや呆れすらしない。やつはあれだけ長い時間をともに過ごしてきたというのに、私たち玉兎の力の性質をなにひとつ知らなかったのだ。
「ま、待て! 五十七! やめろ! 五十……八か? 撃つのをやめろ!」
 これだけ穴だらけになっても生きているのは月人の持つ生命力の妙だろう。男は弾をすり抜けるのをあきらめ、衝撃波による攻撃に転じた。
「おい、本当に俺を裏切るのか⁉︎ 育ててやっただろう五十九! い、いや、三十七! お前、お前は……!」私は攻撃の手を一瞬たりとも休めることなく、同時に衝撃波を相殺し続ける。「なんなんだお前は⁉︎ なぜそこまで強い! お前は……お前は誰だ⁉︎」
 限界に達した怒りと衝撃波の衝突で、私の短い紫色の髪が炎のように逆立った。
 そのとき、急に糸が切れたかのように男の衝撃波が消えた。私はなおも撃ち続けたが、サグメ様に止められてようやく、もう決着がついているのだと理解することができた。
 男はぼろ雑巾みたいになっているが、まだ生きていた。
「……お前ら……後悔するぞ」
 サグメ様が死にかけの男に近付いた。
[目の移植手術を手引きした者がいますね? 反嫦娥派のトップは誰ですか?]
 彼はもう目が見えていないようだった。
「どうせお前ら……全員殺される。五十三……そうだ、五十三だ。お前もよく覚えとけ。いつか俺が……正しかったと気付く。このままじゃ……月の都はあの狂人に、滅ぼされるんだよ……。俺もお前らも……全員……純」
 男はそれ以上喋ることができなかった。男の周囲、あらゆる角度から現れた弾丸が彼の全身を貫いていた。
 サグメ様は片手を軽く挙げ、透明な結界で返り血を防いでいた。
「あ、あの、サグメ様が合図したから、今のって撃ってよかったんですよね?」白覆面の玉兎が変声機越しでもわかるほど狼狽した声で言った。「わ、私、人殺すの初めてで……!」
[ええ。完璧な反応速度でしたよ]サグメは別の玉兎にも文字プレートを見せた。[ひどいようなら、セイランに記憶処理をしてあげて]
 そして再び振り返ったとき、サグメはあることに気が付いた。[五十三はどこ?]
 私は建物の中をさらに奥へと走り続けた。どこかにレイセンが捕まっているはずだ。たとえ両目を失っていても、私の傷を完璧に治したあの医療技術があればまた見えるようになるかもしれない。
 生きてればね。
 私は無意識の心の声を必死で押し殺そうとした。
 正直キツイでしょ。
 そんなことはない。レイセンは必ず生きてる。
 あの男が用済みの足手まといを生かす理由がある?
 うるさい。なにも考えるな。
 心の声は最短距離で結論だけ出し、満足げに去った。
 私は無心で廊下を駆け、順番に部屋を覗いた。初めは空っぽの部屋を見るたびに焦りが募っていたのだが、いつしかそこに何もないことを確認するたび、安堵している自分に気付く。私は自分の波長が狂いそうになっていることすら客観視していた。
 そして、私はついに引き当ててしまった。
「レイセン?」
 そこには手術台に乗せられたままの一人の兎の少女がいた。少女は頭から爪先まで、白いシートできっちりと覆い隠されている。
 私はシートをめくらなかった。顔を確認する必要もなかった。
 彼女の自慢の長い黒髪が、手術室の床まで垂れ下がっていた。

[あなたの所属が決まったわ]
 サグメ様がベッドの横でプレートを見せる。
[明日からあなたは私の管理下を離れ、綿月姉妹の受け持ちとなります]
「嫌ですけど」私は言下に切り捨てた。
 サグメ様は困り顔をした。[ふむ……]
 私はふかふかのベッドに深く沈んだ。一生こうしているのが私の夢だ。
「あの覆面部隊ですか?」しかし、この月の都では役目の放棄は許されない。そんなことは知っていた。
[いや。たしかにキヨメでも良かったけど、綿月家の兎は〝月の使者〟を担当しています]
「使者?」私は少し引っかかった。「どこへの?」
[地上への]
 その文字を読んだとき、私は布団の中で小さく震えた。
[と言っても、出動は滅多にないわ。主な仕事は地上へ落とされた罪人を迎えに行くことだったり、あとは、まずありえないけど、地上から攻めてきた人間の撃退とか]
 私の期待は急速に冷めた。「嫌です。戦うくらいなら……」その先の言葉は思い付かなかった。
[なんとかなるわよ]
 部屋のドアが開き、一人の知らない玉兎が入ってきた。覆面ではない素顔の玉兎は久しぶりだ。
[この子はリンゴ。綿月家までの道案内を頼んである]
「よろしくでーす」リンゴという兎は馴れ馴れしい笑顔で手を振った。
[それじゃあ]サグメ様は立ち上がって出て行こうとしたが、最後になにか少し考えてから、私としっかりと目を合わせて、プレートの文字を変えた。[幸運を祈る]
「……ありがとうございました」
 幸運、か。
 私と最も縁遠い言葉だ。
 私はリンゴに連れられて、月の都のいろいろな場所を見せてもらった。手を触れずに開く襖にはじまり、文字が自在に拡大縮小できる古書、食べると一週間眠らずに働ける団子、見上げると首が痛くなるほど大きな鳥居……。すべてが初めての経験だった。しかしなにより心に染み入ったのは、平和そのものとも言っていい、街の玉兎たちの笑顔だった。
 リンゴはこんなことも教えてくれた。
「あそこに木が生えてるでしょう? あれには近寄っちゃいけないよ」
「木? あの枯れ木のこと?」
 それはどこからどう見てもなんてことのない、ただの寂しい枯れ木だった。しかし、この月の都ではどういうわけか、いたるところにこれが生えているのだ。
「ただの枯れ木と思ったら大間違いよ。あれは優曇華の木。穢れを吸って育つ木なの」
「ウドンゲ? ずいぶん変な名前付けられたものね」
 リンゴは遠巻きに木を眺めながら説明してくれた。「優曇華は周囲の穢れを吸って、それはそれは綺麗な実をつけるのよ。聞いたことない? 蓬莱の玉の枝」
「ないわねぇ。あいにく浅学なもので」
「貴族たちはあれを穢れセンサーにしてるのよ。だから……私たちは近付けないの」
 私は少し意地悪をしたくなった。
「今、私たち、って言った」
 リンゴはちょっと固まったが、すぐに普段どおりの笑みを貼り付けた顔で振り返る。「言ったっけ? そんなこと」
「ちょっと待ってね。ん、あ、あー」私は自分の声の波長を調節した。「『あー……逃げられる』」
 リンゴは目を丸くした。「うーわ、マジっすか。変声機いらずだ。しかも解読復号も自由自在って、ずるいわぁ」
 彼女の反応に私はすっかり満足した。「どうする? 大通りの続きをやる?」
「勘弁してくださいよ」リンゴは苦笑いで答えた。
 リンゴとは綿月家の門前まで送ってもらって、そこで別れた。なんだかんだ、悪いやつではなさそうだった。
 私は門番にサグメ様の書類を見せ、広大な綿月邸へ入場した。
「初めまして」間もなく二人の月人に出迎えられた。「私は綿月豊姫。事情は聞いてるわ」
「妹の依姫です。お姉様と二人で月の使者のリーダーをしています」
 私はまたサグメ様のような筆談が始まるのかと身構えていたので、とりあえず安心した。「初めまして。今日からお世話になる五十三です」
 すると二人は顔を見合わせ、困ったような顔をした。
 姉の豊姫が言う。「五十三ねぇ。いやいや、あなたが気に入っているならそれでもいいのよ。でもそうじゃないなら、いつまでも番号で呼んでちゃ不便じゃないかしら」
 考えたこともない話だった。私ははいともいいえとも言うことができず、ただ一人で困惑した。
「お姉様。この子はもう私たちのペットなのですから、私たちが新しい名前を付ければ良いのでは?」
「それもそうね。本人が良ければだけど」そう言って、豊姫様は私に視線の高さを合わせた。「どうでしょう。なにか希望はある?」
 私の新しい名前。
 私は、私がこれまでの兎生で出会ってきた人たちの名前を思い起こした。
 一、十七、十九、五十二、四十……。最初のほうは数字ばかりだ。
 月の都で会ったのは、サグメ様と、リンゴと、豊姫様、依姫様。名前を知っているのは思ったより少ない。玉兎の一般的な名前ってどんなんだろう。ああ、さっきリンゴに聞いとけばよかった。
「希望がなければ、私が付けてあげましょう。そうね……」依姫様が顎に手を当てる。
 そのとき、私のしわくちゃの耳が、懐かしいテレパシーを受け取った。
(自分で好きな名前付ければ良くない?)
「依姫様、私……」もちろん、そんなはずはない。聞こえた気がしたのはただの空耳だ。でも、私が自分で選んでいいのだとしたら、私はやっぱり、この名前がいい。「レイセンです。私、レイセンです」
 二人はまた顔を見合わせて、そして今度は、嬉しそうに微笑んだ。「よろしく。レイセン」

 綿月姉妹の当初の期待に反し、私は自分勝手な兎だった。戦闘訓練には滅多に顔を出さず、少しでも危険そうな任務は全力で嫌がる。私のバディに選ばれた兎はさすがに気の毒だったけど、プライベートでそれなりに遊ぶのでチャラということにする。
 私は玉兎たちのテレパシーネットワークに参加した。ネットワークは都の兵隊兎だけでなく、餅つき兎や農民兎、商人兎や囚人兎まで、あらゆる兎が好き勝手にしゃべくる混沌ラジオだ。私は暇さえあればそのラジオを聞いていた。そしてごくたまにこっそりと流れてくる砂金のような物語――地上任務の武勇伝を、じっと耳をそばだてて待っているのだ。
 そんな日々が何年も続いた。
 あるとき、こんな噂が流れた。
「私すごいこと聞いちゃった!」
「すごいこと?」
「地上の人間が表の月に来て、旗を立てていったんだって!」
 なんとも眉唾な話だったが、大げさで噂好きの玉兎ネットワークは出どころも不明なその噂話を爆発的に広めていった。
「旗? って、領土を主張してるってことか?」
「怖い……地球人が攻めてくるんじゃ……」
「地球人って強いの?」
「俺聞いたことあるぜ、あいつらとんでもない武器持ってんだよ」
「あの噂本当? 辺境のほうではもう地球人が入り込んでるってやつ……」
「私昔見た! 大通りですんごい戦闘してて……!」
 戦争だ。
 戦いが始まる。
 いや、もう始まっている。
 我々は劣勢らしい。
 同胞が大勢死んだ。
 戦争が始まった――。
 私はラジオを聞くのをやめ、部屋の隅で両耳を握りしめ、思い出し、震えた。もう限界だった。私はすっかり月の流儀に辟易していた。訓練はサボれても、重要な任務からは絶対に逃げきれない。失敗したらそこで終わり。ここにはたしかに愛もある。豊姫様も依姫様も悪いお方ではないし、私のわがままも多めに見てくれている。しかし、いざ戦争となって私が現場でやることは、レジスタンス時代とまったく同じ。そうだった。結局この世界は元から、なにひとつ変わってなんかいなかった。
 私は部屋を飛び出して、月の使者が使う倉庫の鍵を破壊した。そこには年代物の刀剣から最新式のレーザー砲までがずらりと並んでいるのに混じって、うっすらと光り輝く半透明の羽衣が眠っていた。
 私はそれを一枚掴み取り、大急ぎで駆け出した。
「あら、レイセンじゃない」息を整えながら振り返る。豊姫様が立っていた。「そんなに急いでどこへ行くの?」
 私はとっくに狂っていた。あるいは月の光そのものである羽衣に触れていたせいかもしれないが、畢竟最後のひと押しであったことに間違いはない。
 私は瞳を真っ赤に迸らせ、明らかな戦闘の意思を見せた。
「あっそうだ。出かけるのなら、一つ伝言を頼んでもいいかしら」
 にもかかわらず、豊姫様は私に、いつもとなんら変わらない態度で話しかけたのだ。
 私の狂気が薄らいでいくのがわかった。
「八意様という方に会ったら、綿月姉妹は元気でやってます、って伝えてもらいたいの。私たちのお師匠様だから、きっとあなたにも良くしてくれるわ」
 そこで私は気付いた。豊姫様は、私の脱走を見逃してくれようとしているのだ。
「あぁ、でも八意様のことだから、絶対に見つけ出せないような場所に住んでいるかも。無理そうだったら、そうね。白兔神を探してみるのもいいでしょう。なんたって兎の神様だもの。きっと……」
「豊姫様」
 続く言葉を見つけられず、私は薄暗い静寂のなかにただ立ちすくむ。
 豊姫様は私の前まで歩んでくると、私の手の中に、なにか小さくて硬いものを手渡した。「忘れ物よ」
 息が止まるほどの情動が起こった。
 ゆっくりと開いた手のひらの上には、乾いた血で真っ黒になってしまった、二つの耳飾りが置かれていた。
「サグメさんから預かっていたのをすっかり忘れてたの。あなたの服を処分するとき、ポケットから出てきたからって。それとも、もういらなかったかしら?」
「そんなことありません」私は深く深く頭を下げた。「ありがとうございました」
「行ってらっしゃい。気を付けてね、レイセン」
 私は二度と振り返らなかった。屋敷の塀を越える最後の瞬間、私の耳はたしかにもう一度だけ、豊姫様の言葉を聞いた気がした。
 幸運を祈るわ。

 それからの十年間、私は一九七〇年代の日本という国を生きた。もしもこのことをかつての同胞に話す機会があれば、「それはどこの海から近いんだ?」と聞かれたことだろう。そして私はこう答えただろう。「しいて言うなら、静かの海かな」
 私は今、地上にいる。
 月の羽衣は月と地上とを行き来する乗り物だった。私は月の都を抜け出したあと、羽衣を使って地上へ降りて、人間に紛れて暮らした。
 生き延びるのにはそう困らなかった。人間は拍子抜けするくらい脆弱で、私は好きなときに好きな食べ物を堂々と盗んで食べた。唯一住む場所には苦慮したが、それにしても贅沢さえ言わなければ十分なだけの空き家が無数にあった。
 私は普段、神社仏閣を巡って歩いた。安直な発想だとからかわれそうではあるが、豊姫様から頂いたアドバイスにあやかろうとしたのだ。噂で聞いていたとおり、地上の神社では月の都の重鎮たちの多くが神様として祀られていた。どれほどの意味があるかはわからなかったが、なるべくそういった神社――都の開祖の月夜見様とか、そのお姉様だとかを祀っている神社には近付かず、やむを得ず近くを通るときは両耳を押さえて足早に駆け抜けた。
 私はまず、八意様という月の民を探した。信心深そうな老人を狙ってヒアリングをし、「八意」の名を持つ神様が祀られている神社を探してみたが、これがまた捗らない。地上にはこんなに神社があるのに、肝心の信仰心がすっぽり抜け落ちているようだ。それでもなんとか手に入った情報をもとに電車やバスを乗り継いで神奈川の八意思兼神社やら東京のこぢんまりとした気象神社やらへ熱心に参詣したのだが、叩けど鳴らせど何も出なかった。
 並行して、私は白兔神様の捜索も行った。幸いこちらは謎のヤゴコロ神よりもスムーズに聞き取りが進み、鳥取の白兎神社に祀られているとすぐに突き止めることができた。情報収集のために人間の多い関東を拠点にしていたため長旅となったが、あそこで食べた三色団子はおいしかった。
 結論から言うと白兔神様もその神社にはいなかった。しかし、有力な情報も手に入った。途方に暮れて団子を頬張っていたとき、私の様子を見かねた別の神様が声をかけてくださったのだ。その神様によると、どうやら白兔神様はもう何百年も神社を留守にしているという。私は団子をどっさりと持って東京へ帰った。
 そういうわけで、こんにちの神社巡りはとっくに本来の意味を忘却し、敬虔で健康的なライフワークのひとつになっている。
 私は長野県の小さな祠で手を合わせ、近くの自然石に腰を下ろした。
 その山からは人間の世界を一望することができた。この十年、私も広い範囲を見たわけではないが、人間文明の興隆はめざましい。街並みの美意識などはまだまだ月の都に遠く及ばないが、これから何十年、何百年と経てばそれもわからなくなるだろう。
 私は近くの山の山肌を見た。草木の若い緑のなかに、ぽつぽつと寒々しい茶色が広がっている。人間たちが材木を伐り出した跡だ。
 私は地上が嫌いじゃない。月の都よりずっと卑しく、洗練のせの字も生えない赤ん坊だが、私にはそれがむしろ肌に合っていた。それは私が人間より優れているから、自由気ままに振る舞えるからというわけではなく、私は彼らの、人間たちの底なしのバイタリティをほんの少しだけ羨んでいるのかもしれない。
 だけど……。
「ここもいつか、月の都みたいになっちゃうのかな」
 広がっていく茶色がいつかのノイズと重なって見え、私は意味もなく、その二色の光景を何十分も眺めていた。
 水筒の水を飲み干して、さあ下山だと腰を上げたとき、急に背後から声をかけられた。「もし、そこの兎さん」
 私は驚いてひっくり返りそうになった。
「驚かせてすまんかったね」その神様は私が座っていた石に腰かけて言った。「この石ね、わし」
 最初私は彼がなにを言っているのかわからなかったが、出し抜けに理屈を閃いた。
「あ、あー! 石の神様! どうもすみません」
 神様はいいよいいよと手を振った。
「いやあね、見慣れない妖怪がいたもんだから、つい声をかけてしまった」
 妖怪。私はその言葉に引っかかった。「妖怪……ですか? 私って」
 神様は不思議そうに言った。「だって、人じゃないだろ? 幽霊には見えんし、神様でもなさそうだし、そもそもなにより、兎の耳が生えとる。じゃあ、兎の妖怪以外考えられんよ」
 私はなにか、今まで探し求めてきたものとまったく別の扉が開いたような直感にさらされた。
「ね、ねえ、その妖怪兎って、私以外にもいるの? どこにいるの?」
 しかし神様は渋い顔をしてしまった。「いや……言われてみれば、もうずっと見てないかもな。昔はこの辺にもいっぱい跳ねとったんだが」
「そうですか……」
 私が落ち込んでいるのを見て、神様は気遣ってくれているようだった。「お前さん、仲間がいないのか。わかる、わかるぞぉ。寂しいよなぁ」
「仲間……」いないというわけでもない。でも、みんな置いてきてしまった。「そうですね、少し寂しいです」
「兎は寂しいと死んじまうって言うしなぁ……。あっ!」突然、神様が大声を出した。「あそこならまだいるのかもなぁ!」
 私はその言葉に飛びついた。「ど、どこですか?」
「幻想郷だよ」
 私はその不思議な響きを口の中で繰り返した。「幻想郷……?」
「その昔、山奥の幻想郷ってところにそりゃあもう強い妖怪やら悪霊やらがわんさかいたんだが、いつだったかなぁ、百年くらい前かなぁ。そいつらを一網打尽にしようってんで、国家規模の封印作戦があったんだよ」
「封印? じゃあ、そこにいた妖怪たちはもう……」
 神様は目を光らせた。「話はこっからだ。そのとき封印に関わった陰陽師やら呪術師やら坊主やらはその場で皆殺しにされちまったわけだが、どうも風の噂で聞いた話じゃ、幻想郷の妖怪はその封印を逆手にとって、封印の内側を絶対不可侵、誰からも干渉されない妖怪たちの楽園にしちまったってんだ!」
 私は雷に打たれたような衝撃を受けた。「私、そこへ行きたいです!」
 神様は私の勢いに押され気味だったが、そこへ行くための方法を教えてくれた。「博麗神社ってとこを探せ。お前さんなら多分結界の中へ入れるだろう。ただし、一度入ると外へ出るのが厳しいぞ」
 私はさっそく向かってみることに決めた。「貴重なお話をありがとうございます! ……そうだ」ふと思いついたことを聞いてみる。「あなたもいっしょにそこへ行きませんか?」
「わしは……おっ」
 神様がなにかに気付いたので、私も彼が向く方角を見た。するとなだらかな山道の先から、腕に買い物袋を提げた人間の女性と、その子どもであろう、小さな男の子が楽しげに話しながらやってくるのが見えた。女性は私に気付くと小さく会釈し、男の子もそれに倣った。そして女性は買い物袋から小ぶりなミカンを取り出して、そっと祠に供えた。
「わしはもう少しここにいるよ」神様の声は人間たちに聞こえていないようだった。「もう少しだけ、頑張れそうだ」
 私は神様に別れの挨拶をして、その山を立ち去った。親子は私の挨拶に少し驚いていたようだったが、すぐにまた手を繋いで、仲良く歩きだした。

 博麗神社に辿りつけたのは次の日の真夜中だった。私は神社の鳥居に近付くよりも前にその存在を感じ取った。それほどに強い結界が張られていたのだ。
 結界の中に足を踏み入れた瞬間、私はそれが月の都を隠しているのと同じタイプの構造であることを直感した。
 私は慎重に結界の波長を読み解こうとした。しかし、無理やり破って入るためには膨大な量の計算か、もしくは私の持ち得ない種類の力が必要だとすぐにわかった。
 私は耳を隠していた帽子を脱ぎ捨てた。
「幻想郷の妖怪よ! 私は月の都から逃げてきた! どうか私を中へ入れてください!」
 ぐにゃん、と空間が変わる感覚があった。
 そして次に気付いたときにはもう、私はあっけないほど簡単に、幻想郷に入ることができていたのだ。
 そこはさっきまでと同じ神社のようでもあったが、瞳に映る波長が明らかに違っている。私はここにいるかもしれないという同胞を探しに、神社から立ち去った。
 結界をくぐったときの反動か、それとも前日からずっと歩き通していたせいか、私は鬱蒼とした竹林のなかで力尽き、その場に座り込んでしまった。
 空には大きな満月が出ていた。普段はあまり見ないようにしているのだが、今日はなぜだか無性に見たくなった。
 あの神様は言っていた。幻想郷に入ることはできても、出ることは難しい。私は服の背中に畳んで挟んでいる月の羽衣のことを考えた。もちろん、またこれで月に帰ろうなんてことは考えちゃいない。それでも、その気になれば帰れるのとそうでないのとでは心持ちが別だった。
 冷たい土の上に寝転がり、澄んだ星空を見上げているうちに、私は唐突に、これまで歩んできた兎生を思い返した。思えば生まれてこのかた、運の良いことなどひとつもなかったのかもしれない。
 そして、ここにも同胞はいなかった。私はこれから一生、この土地に縛られて生きるしかないらしい。
 ずーっと、一人で。
 サク、と落ち葉を踏む音が耳に届いた。私は重い身体をなんとか起こし、音のしたほうを見て、目を見張った。
「うさぎ……だ」
 そこにいたのは、薄いピンク色の服を着た黒髪の兎だった。
 私は思わず考えざるを得なかった。私の重大なピンチに際しここぞとばかり現れたこのお方こそ、豊姫様の言っていた兎の神様、白兔神様その人なのでは……、と。
 私は気力を振り絞ってその兎に尋ねた。「あ、あなたはいったい……?」
 するとその兎は片方の眉をつり上げ、やたら訝しげにこう訊いてきた。「順番が逆じゃないかねぇ。名乗るなら自分からってのがここらのスジよ」
 私はやや呆気にとられたが、すぐに居住まいを正して言った。「私はレイセンといいます。あの夜空に浮かぶ、月の都から逃げてきました」
 兎はなにか、「はーん」とでも言いたげな顔をして、それからこう言った。「レイセンね。私は、因幡てゐ」
「え?」
「だから、名前だってば。私の名前。因幡てゐ」
 聞いたこともない名前だった。神様じゃないとかいう以前に、本当に名前としても聞いたことがなかったので、私は思わず、
「ぷっ……ふふっ……あはは」吹き出してしまった。
「あっははは! なによテイって、どういう名前なのよ! ふふふふっ!」
 考えてみれば、こんなちんちくりんが偉い神様のわけがないじゃない。あー、おかしい。「ほんっと、ツイてないわー」
 てゐと名乗った妖怪兎は額に青筋を浮かべ、あからさまにキレていた。「ひ、ひとの名前聞いといてあんたねぇ……」
 悪いとはわかっていても、どうしても笑いが止まらなかった。まるでこれまで生きてきた分、すべての笑いを吐き出しているみたいだった。
「気持ち悪いやつねぇ。月の兎はみんな狂ってるってのは本当だったのね」てゐは怒りを通り越して呆れているらしい。「なんかムカつくけど、とりあえずその長い髪はたいてからついといで。土だらけで屋敷に上がられちゃかなわないよ」
 私はようやく笑いの渦から這いずり出して、よくわからないけれど、彼女についていくことにした。
「あぁ、それと――」てゐは背中を向けたまま、イタズラっぽくこう言った。「あんた、今日からツイてるよ」


 月に玉兎多しと言えど、私ほど波瀾万丈の兎生を歩んだ玉兎はそういない。てゐと会った当時、私はそう信じて疑っていなかった。しかし今の私に言わせれば、このときの私はまだまだひよっこも同然である。
 彼女がそれまでに想像すらしなかったいくつもの神秘に出会うためには、これからさらに三十年近くを数える必要があるのだが、それはまた、別のお話。
https://twitter.com/K_T_Takenoko
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100東ノ目削除
物語の冒頭では単なる番号名だったのが、レイセンの名を名乗り、(この後が原作通りに進むのなら)地上で新たな名を授かる、というのにエモを感じました。歴史を感じる良い作品でした。
3.100ふぇぶりゅう削除
普段遅読ですが、一気に読んでしまいました。
「私、レイセンです」でふいに涙が出ました。
鈴仙の過去はいろいろ想像を掻き立てられますが、原作の情報や世界観を拾いつつシリアスな名作に仕上げているのが素晴らしかったです。
4.100サク_ウマ削除
石の神様の「まだもう少し頑張れそうじゃ」とてゐの「あんた、今日からツイてるよ」が良すぎる。
「今回の話はこれで終わりだがコイツにはこの先サイコーなあれこれが待ってるぜ!」で締めるの最高だなと思います。お見事でした。
5.80竹者削除
よかったです
6.100名前が無い程度の能力削除
とても良かったです。
名前というものが強い意味を持つ場所で、自らその意味や思いを背負って名乗りを上げる五十三に感動しました。月で名前を持つということは自由であることだと思います。己は符号ではなく存在証明をしているとも。もともと催眠に耐性があったので、もしかするとわりかし自我が強かったのかもしれないですね。だからこそ考えてしまい、虚無が恐ろしい。虚無に怯えながら非日常を生き抜いて、レイセンの人格が形成されていくわけですが、根っこが臆病でありながら、自由に生きることへ踏み出せた彼女の精神面の変化を感じ取れました。めぐり合わせとでも言いますか、いい人にも悪い人にも出会って、それを糧として生き延びたから、最後のてゐの台詞が素晴らしく良いものに思えます。
7.100のくた削除
読み耽りました。「名前を笑われた」と「名前を笑った」の対比がものすごく好き
8.90夏後冬前削除
月の都の話、考えてみたこともあるんですが自分には全く想像ができなかったので、ここまでしっかり描かれたのは純粋に凄いな、と感じました。レイセンの瞳を移植する部分、かなりショッキングな内容だったので、もっとここの部分を強調するように書いてくれたらもっと良かったな、と感じました(九十七の瞳についての言及を前半でやるなど)
9.100南条削除
とても面白かったです
鈴仙の暗い過去とそこから好転していく人生が素晴らしかったです
石の神様が特によかったです
10.100名前が無い程度の能力削除
テンポよくスルスル読めました
一匹の玉兎が大迷惑ウサコスおじさんや月の都に振り回されつつ名前を継ぎ原作に至るまでのお話、とても良かったです
11.100名前が無い程度の能力削除
「あんた、今日からツイてるよ」
13.無評価相月八舞兎削除
永夜抄・儚月抄・紺珠伝のストーリーを思い出しながら読みました、とても面白かったです!
14.90福哭傀のクロ削除
ダークだったりバイオレンスな話も月の都が主となる話もあまり得意ではないんですが
不思議と楽しめました。
前半部分の五十三と九十七、五十三が名前をもらうまでの話は
明らかにバッドエンドが常に隣にありながらも健気に生きる玉兎、
そして明かされる真実からの結末と、
じっくりと描かれておりとても楽しめました。
それに対して後半のレイセンの物語が少しサクサク進んでしまった印象を受けたので、
(そもそも作者さんの中ではそういう風に分けていないのかもしれませんが)
後半部はもっとサクサクで後日談的にまとめてしまうか
前半部分と同じくらいたっぷりと描いたほうが
個人的にはバランスとして好きかもしれません。
細かい掛け合いも素敵でした。