1.
「……あつっ」
命蓮寺の離れの縁側で、茜に染まった空を眺めていた。
遠くに浮かぶ入道雲の群れも赤く染まって、ホオズキみたいになっているのも見受けられる。
あんな高くにあったらさぞかし暑いだろうに。
くだらないことを思いながら視線を庭先へと落としてみれば、村紗がまいた打ち水の跡もきれいさっぱり無くなっていた。
「……あつ……」
待ちぼうけをくらってどれだけ時間が経ったかと考えつつ、待っている馬鹿馬鹿しさが汗とともにじんわりと沸き上がってくる。
いつもならどこへともなく自由気ままにしている、この封獣ぬえが、残暑の熱に耐えながら、誰かを待つなんて……。
それこそ、今年の異常な暑さにやられたのだろうか。
一度、寒くなったかと思えば再びの暑さにもううんざりしてしまう。
漂う温度と湿度から逃れるように、背中を反らして後ろを向いてみるけれど、閉ざされた襖は未だに開くこともなかった。
「――――ひ、聖、この柄は……」
「よく似合っていますよ、星」
「いや、そう言われても、これは子供向けな気が」
「え?そ、そうでしょうか?」
「い、いや、一概にそうとは言えませんが……」
……何やってるんだか。
代わりに漏れてきた星と聖の会話に毒づいて、再びぼんやりと視線を漂わせた。
それでも、襖の向こうからは、変わらずに慌てたような星とピントのズレた聖の会話が流れてくる。
まったく、いつまで時間がかかるんだろう。
人里の祭りに出掛けると聖に伝えたのが、そもそも間違いなのだ。
色々言われることは予想していたけれど、まさか浴衣を着て行けと言われるなんて思ってもいなかった。
私も星も断ってみたものの無駄。
一人でできるからと早々に逃げた私はともかく、星はがっちりと聖に捕まって、襖行きなわけで……。
そうしてそのまま、二人は、なかなか出てこない。
身支度を終えて縁側に戻ってきても、ずっと妙な会話が聞こえてきているだけだった。
「……はぁ」
それを聞いていることも、こうして待っていることも、全部、面倒臭い。
祭りが始まれば誰も彼も浮かれているだろうけれど、今の私はどうにもそうならないでいた。
考えてもみれば……。
こんな気分になっている原因は、私と星、どちらにあるのだろうか。
そもそも、もうずっと前の、ずっと昔のことを引っ張り出そうとしなければ良かったのかもしれない。
「…………あ~」
いつもと違った服装は、妙に落ち着かなかった。
浴衣の布地の感触も、膝下まで覆われた違和感も、背中の羽だって少しばかり窮屈な感じがして、むず痒かった。
「……」
けれど、そんなことは大したことではない。
「……あ~ぁ」
これからのことさえも面倒臭く思ってしまうことに、服装の違和感は、さほど関係ないのだ。
……やっぱり、私が誘った感じなんだろうなぁ……。
そうなったのは…………やっぱり星が、悪い。
最近はお盆だとかで朝から晩までずっとお勤めで、話かけてもすぐに行ってしまうし、用があるかと思えば「お前も手伝ってくれ」とかなんとか。
結局、星のボケた頭に一撃を入れて、話を聞かせたはいいけれど。
「……はぁ」
これじゃあ、振り回されっぱなしだったところに、ダダをこねたみたいじゃないか。
昼間の星を思い出せば、一目瞭然……。
子供の急な発言に驚いたみたいな顔をして、「……なんだ?祭りに行きたいの……か?」なんて。
思い出すと、少し腹が立った。
「…………星のアホめ……」
別に行きたいというわけじゃない。
ただ、人里で祭りがあると、伝えただけだったのに……。
膝を抱えて、身体を丸める。
足首まで覆う布地に着いた鼻孔は、古めかしいタンスの匂いを感じ取って、わずかにひんやりとした感覚を頭にまで与えてくれるようだった。
「……」
「――――待たせてしまって、すまない」
声と同時に襖が開く音に、私はびくっと身体を跳ね上げた。
「……ぬえ?」
床板から真っ直ぐに伸びた背筋も一瞬、ゆっくりと背骨を湾曲させて首を後ろに向けると、そこには私を見下ろすように星が立っていた。
黒の下地に、黄色でデフォルメされた虎のプリントがぎっしり載せられた浴衣を着て。
「…………ふつー、虎柄じゃないの?」
「わ、私に言うなっ!これは聖が用意していたもので……そ、その……用意して貰ったから……無下にするわけにも……いかないし……」
瞬間的に言葉を強くしたものの、その勢いはすぐに消えた。
星は顔を赤めてうつむき、人差し指同士をチョンチョンと合わせるようにしていた。
襖越しに聞こえてきていたのは、このことだったんだろう。
連れて行かれたときの勢いのまま断るなり、換えてもらえば良かったのに。
相変わらず、律儀なヤツ……。
ぼんやりと星を眺めていると、髪が綺麗に整えられていることに気が付いた。
仕度をする前は、いつも通り無造作に跳ねまわる髪型だったはずだ。
今もその名残は消えていないものの、前髪や後ろ髪がしとやかに流れているように思える。
「あ……」
それと、もう一つ。
頭頂のリボンにいつぞやのカンザシが付け足されていた。
「な、なんだ?まだ何か、あるか?」
「…………ん、なんでもない」
わざわざ挿していこうなんて考えるヤツじゃない。
恐らく聖の仕業だろう。
気もなく返事をしながらも、わずかに緩んでしまった口角を結ぶ。
危うく余計なことを口にしてしまいそうだった。
同時に先ほどまでの心持ちが少し軽くなった自分自身が、なんて単純なんだろうと呆れてしまう。
こんな些細なことで、勝手に何かを期待してしまうような心、いつから持ちあわせてしまったんだろうか。
「ぬ、ぬえ?ど、どうかしたか?」
原因となる相手の様子に、なんとも微妙な視線を送ってやりながら、もう一度「なんでもない」とだけ伝えて、私は遠くの景色に目を移した。
茜の空は、先ほどのまま。
けれど、ホオズキみたいな雲はもうどこかに行って、散り散りになったまばらな雲がゆっくりと進んでくる。
「……ぬえ」
そこに、何か言いたそうな表情をしているだろう星が、呆れたように息を吐き出したことだけがわかった。
「……」
ため息を吐きたいのはこっちの方だ。
本当に、コイツはマイペースで困る。
いつだってマイペースで、物を落とすだけでなく、口から出たことも忘れてしまいそうな、困ったヤツ。
……私みたいに、勝手に忘れていないというのも、困りものかもしれないけれど……。
「……あつい」
誤魔化すように口にしてみる。
「今年の残暑は、堪えるな」
そんな、なんでもないつぶやきを星はさらりと拾った。
「……だる」
「真夏の時よりは楽だろうに」
「……めんどくさ」
「はは、お前はいつもそう言っている気がするな」
「…………」
「?」
続けた言葉も、全部漏らすこと無く拾っていく。
そうしてくるのに……。
「……バカ虎」
その拾った言葉を、どこにやってしまうのか……。
「――――い、痛っ!?」
なんとも呑気な星の無防備なスネを右の羽で思いっきり弾いてやる。
けれど、爆ぜるような音がして星がスネを押さえてうずくまったくらいの変化しかなかった。
「ぬ、ぬえっ!お、お前という奴はっ」
情け無い声を上げて涙目になっている星の姿がそこにある。それでも、私の心境に差したる変化はないみたいだ。
いつもだったら、意地悪く笑ってしまいそうなところであっても、どうにもため息しか浮かんでこない。
私は、それを漏らすことはせずに、ぼんやりと遠くを眺めていた。
「……はぁ」
結局、間を置いて、星が息を吐き出した。
根比べは私の勝ちだな。
比べてもいないことを思いながら、星を見上げる。
「まったく……お前は……」
星は、心底呆れたような様子で片目だけを向けて、私を見下ろしていた。
「……とら……」
「うん?」
虎ちゃんキャラの浴衣はやっぱり似合わない。
頭のカンザシだって、見慣れていないから似合っているのかどうか。
でも、それ以上に。
今日の、今だけは、なんだか困った顔を浮かべている星が、なんだか似合っていない気がした。
「さぁ、ぬえ、行こう」
困った顔に、はにかみ笑いを載せて星は言った。
同時に差し出された手が、私の眼前でピタリと止まる。
無骨な、ちょっと固そうな手。
手をとっても、その感触はあまりいいものじゃないんだろう。
「……しょうがないなぁ」
そう思いつつも、私は星の手を取った。
やっぱり骨ばった感触があって、少し固い。
けれど、隆起した指の付け根は、ほど良く柔らかくて、
「――――うぁっ」
急に手を引かれて、私は強制的に立ち上がらされた。
「行こう」
コイツは……。
本当に、何も考えていないみたい。
星の当然という様子に、わずかな怒りと、それ以上の呆れを覚える。
けれど。
「どうかしたか?」
「別に」
私の足取りが重くないのは確かだった。
私は温かな手に導かれるままに、縁側を後にした。
2.
人里はすでに大賑わいだった。
里の入り口ですら提灯が煌々と灯り、語らう人間たちの姿が幾つも見受けられる。
よくよく見てみれば、聖輦船を追いかけていた人間の姿もあって、少し気が引けた。
「あら、妖怪寺のじゃない」
無言のままに通り過ぎようとしたけれど、向こうはそうさせてくれなかった。
いつもの紅白の衣装を揺らして、一歩近づいてくる。
「あぁ、これは、博霊の」
「妖怪寺とは、ご挨拶なヤツ……」
「なに?妖怪寺でしょ?」
にこやかに挨拶をした星の後ろからポツリとつぶやいてみたけれど、博霊の巫女にはきっちりと聞こえたようだ。
提灯の灯りのせいで紅白というよりも紅っぽい巫女は、一度だけ私にキツい半眼を向けてから、面倒臭そうに息を吐き出してみせる。
「妖怪僧侶たちが祭りに来るなんて珍しいわね。あの住職が黙ってなさそうなのに」
「今日は個人的に楽しみに来ただけでしてね。あぁ、聖からは許可を得てきているので大丈夫」
「ふ~ん、まぁ、これだけ賑やかなんだもの、確かに楽しまなきゃ損よね」
一方的に納得したのか巫女は、肩の力を抜いた。
あっさりと私たちへの興味を薄ませて、視線を周囲へと向ける横顔は人々の往来すらも楽しんでいるようだった。
どこか柔らかな瞳は、あちこちに灯った光を反射してどこか幻想的に見える。
あぁ、この目に惹かれるんだろうな、なんて思わなくもないものだった。
「あぁ、そうだ」
けれど、それも短い声とともに瞬時に消え去る。
「どうでもいいけど、面倒だけは起こさないでね」
さほど興味無さそうな表情で、巫女は一言だけ言った。
星は愛想良く笑い、私は興味もやる気もなく返事をして、祭り会場へと再び歩を進める。
会場へと続く通りに差し掛かると、入り口よりも更に活気のある光景が広がっていた。
縦に伸びる道など関係無く、縦横無尽に思い思いのままに人々は歩いている。
響き渡る祭り囃子と声が交じり合って、うるさいくらいの喧騒だった。
しかし、そんな雑多な騒音も里の人々を焚き付けるスパイスになっているみたいだ。
それは、里の人々だけではない。
人々の中に紛れているどこかで見たことのある妖精や、月人に兎、亡霊に半人、仙人、もちろん妖怪も。
皆、いつもと違う雰囲気を楽しんでいることは一目瞭然だった。
星の半歩後ろを歩きながら、キョロキョロと目を向ける。
「……うるさいくらいだ」
「はは、そうだな。普段だったら騒々しいと言えるだろうな」
「何が楽しいんだろうね、まったくさ」
「あぁ……う~ん、何がというわけでもないんだろうけどな」
「……まぁ、祭りだからか」
「祭りだから、だな」
私たちは同じように首を動かして、人々の流れを追っていた。
いつもと違った様相の通り。
道行く人はどこか楽しそうで、何かにつけて足を止めている。
「ん?」
中でも、一際、人だかりができているところで、星も私も足を止めた。
喧騒の中で大いに賑わうその一角は、突然笑い声が上がったり、息を飲むように魅入られていたりする不思議な様子だった。
「なにやってんの?」
「ん?あぁ、えっと、これは……能だな、たぶん」
「たぶんって、何?」
人垣が高くて、背伸びをしてもよく見えない。
星は肩を避けるようにして下がって、人垣のわずかな隙間を開けてくれた。
爪先立ちして覗き見れば、あぁ、本当だ。
桃色の長い髪が踊っている。
最近、命蓮寺にやってきている、からかい甲斐の無さそうなヤツだ。
コロコロと変わる面の下の無表情が妙に印象に残っている。
能を舞っている今でさえ、かすかに伺える表情はやっぱり無表情。
「こんなところで能って……」
「う~ん、動き的に、能なのか怪しいけれどなぁ」
機械仕掛けみたいなコミカルな動きは、星の言う通り能なのか疑問ではある。
しかし、今まで見たこともない動きは、場の雰囲気と祭り囃子と相まって、面白おかしいと思えなくもない。
ちらりと見物人に目をやれば、やっぱり楽しそうな人や妖怪の姿が見て取れた。
「妖怪って、随分と人といられるようになったんだね……」
ぼんやりと口にしてしまった。
「――――へぇ、珍しい」
「ああん?」
背後から急に含み笑いみたいな声をかけられた。
思わず声を上げながら振り返ると緑の巫女がきょとんとした顔で立っていた。
けれど、すぐに慌てて足元に目をやり、前にいた子供をずいっとこちらに押しやってくる。
「わ、私ではなくて、諏訪子様です、全部、きっと」
おいおい。
ごめんなさい、なんて表情でいるけれど、子供を盾にするなんて……って、わけでもないか。
私が呆れ顔で子供の方に視線を向けると、麦わら帽子についたぎょろりとした目玉がこちらを見ていた。
あまりに緑のヤツが押してきているみたいで、距離の近くなった子供の顔は見えない。
けれど、こんな帽子をかぶっているのなんて、そうそういない。
未だに前に押し出してくる緑巫女に瞳を戻すと、彼女の後方にもう一人の山の神が立っていることもわかった。
「山の神様もお祭りとはね」
三人とも浴衣を着ているが、配色だけはいつもの感じで締まっているのか締まっていないのか……。
いい加減、緑巫女の手を逃れた子供サイズの神様はようやく私を見上げて、訝しげに、しかし、不敵に口元に笑みを載せていた。
「どこまでいっても神もお祭り好きだからね。こうして幻想郷まで来ているんだし、楽しむのは義務みたいなものさ」
得意気に言う姿は、いたずらそうな子供のようだった。
「どちらかというと、珍しいのは、そっちじゃない?」
けれど、今度は見透かしたような瞳で私と星を射抜いてくる。
星は怯むことも無く愛想良く笑ってみせた。
「これも、成り行きというか縁みたいなものですよ。貴方の言われたことそのまま、郷に入っては郷に従え、といった感じで」
「ふ~ん、仏教の教えが聞いて呆れちゃうね」
一言ごとに小さな山の神は表情を変える。
どれが本心なのか全くわからせようとしないみたいだ。
面を変えることで自身の感情を見せる面の妖怪とは違い、コイツは自身そのものをすげ替えて見せているようだった。
「諏訪子、その辺にしておけ」
流石に困り顔になってきていた星を助けたのは、後方の山の神だった。
緑巫女の前に出ると、腕を組んで視線を麦わら帽子へと叩き降ろす。
「祭りだからといって、はしゃぎ過ぎるなと言っただろう」
「あ~、そうだった、そうだった」
悪びれる様子も無く麦わら帽子を揺らして、小さい方の神は子供のように笑った。
「すまないな、よく言っているつもりなんだが、変わる様子が無くて……」
「あ、いえ、それは、こちらのコイツもそんな感じなので」
むぅ、何か急に良からぬことを言われた気がする。
更に追い打ちをかけるように「お互いに大変」なんて言っている星に向けて、私は脊髄反射のように蹴りをくれていた。
「いっ!?また、お前はっ!!」
「うっさいっ!!変わる様子がないのは、星だって同じようなもんだろっ!!」
「な、なにっ!そんなことないだろう!?」
「あ、そう。相変わらず物を落としたり、忘れたりしている奴は、どこの誰だっけ?」
「うっ、それは……」
「この前は、袴をはき忘れて表に出ようとして――――」
「――――ちょっ、ぬえっ、おま、それはっ!た、ただ、あ、暑かったから……暑かったからぁっ!」
「……まさかの涙目かよ……」
呆れた毘沙門天だ……。
あ……代理だからしょうがないか。
まぁ、星だし……。
「なんだか楽しそうねっ!!」
「げっ……」
守矢神社の連中との間を割って湧いて出たのは、自信満々な天人だった。
「この私が、混ざってあげてもいいわよっ!!」
「うわ…………ちょー上から目線」
噂に違わぬ傍若無人ぷりだ。
面倒事に首を突っ込んでくると聞いてはいたけど、一番の面倒事はこの天人だとしか思えない。
「はい、解散、解散。星、行こう」
「あ、あぁ、そうだな」
私の声を合図に、守矢も私たちもパラパラと散っていく。
「え?え?え?ちょ、ちょっと!?」
その場に残されていく天人だけは、私たち面々を慌ただしく目で追いながらも、ポツリと取り残されていくようだった。
「い、いいのか、ぬえ?」
「いいの、いいの。あーいうのは、放っとくに限るんだ」
「……なんとなくは分かるけど」
天人のことを気にしながらも、私を眺めやる星を睨んでやる。
「…………お前、ケンカ売ってるのか?」
星は、ごめんというように苦笑いを浮かべて、頬を掻いていた。
「……まったく」
はぁ、と息を吐き出して、星から目を切る。
本当に……。
こんなにもわかってしまうというのは、それはそれで考えものだ。
頭を振って、もう小さくなっているだろう天人の方を一瞥すると、ヒラヒラとした服の女性が呆れ顔で天人をあやしていることがわかった。
いや、逆に怒らせているような……。
そこに、酔っ払った小さな鬼が飛び込んできて、周囲は更にややこしくなり始めていた。
「浮かれてるヤツばっか…………って、星?」
ため息を吐き出して視線を戻すと、焼きとうもろこしの屋台で品物を受け取っている星の姿があった。
星はとうもろこしを二本持って帰ってくると、一本を渡してくる。
「ほら、ぬえも食べるだろう?」
「ん、あぁ、うん」
芳ばしい香りを味わいながら、一口。
甘みとよく合うしょっぱさを感じながら、そのまま二口目を開けたところで、
「……おいおい、毘沙門天代理……」
今度は、蒸かし芋の屋台に走る星の姿があった。
その後も、星が屋台に向かって走り回っていた光景は続いていた。
わたあめに、金魚すくいに、射撃に、振り回される私としては、困ったもの。
おまけに無駄にお面まで買ってきて、勝手に被せてくるし。
今、流行だかなんだか知らないけど、黄色でアホ面した仙人のお面って。
そもそも、これ敵じゃないか、敵。
聖が見たらなんて言うだろうか……。
そんなことも気にせずに、星はご機嫌で、時折声をかけられても、頬を緩めたままだった。
そんな風にバタバタと祭りを周りながらも、それはそれで楽しいと言えなくもなかった。
3.
……。
…………。
……なんでこうなったし。
いつの間にか、私一人でガキンチョに取り囲まれていた。
どこの子供か知らないけれど、勝手についてきたりして、群れのようになってしまっている。
面倒臭いと思いつつ、盆踊り会場の隅っこに移動をしてきてみれば、ここまで来るのにまた子供が増えているような気がした。
「だーかーら、裾、引っ張るなってのっ」
浴衣の裾を引っ張られるのなんて、もうずっとだった。
言っても言っても、代わる代わる引っ張ってきて、あぁ、もうっ、またっ。
まとわりついてくるヤツらを引き離して、げんなりと肩を落とすと、ガキンチョ共は調子に乗って、羽やら髪やらを引っ張ってくる。
い、いい加減、お灸を据えてやろうか。
「お、お前ら、それくらいに――――がっ」
途中で、急に髪を強く引っ張られて、頭が後ろにガクンッとなった。
頭が取れるような感覚と、筋肉がよじられるような痛みが首筋を襲う。
これには思わずしゃがみ込んでしまった。
うぅ、涙が出そうだ。
どうして私が、どこのどいつか知れない子供の面倒を見なきゃいけないのか。
そもそも、なんでこんな状況になってるんだ。
「お・ま・え・ら……」
涙目のまま、ゆっくりと顔を上げて凄んでみせると、私を引っ張っていたであろうガキンチョたちが「逃げろ~」なんて笑い声を上げて走り去っていった。
くそ、なんなんだ、アイツら、人間はいつから怖いもの知らずになったんだ。そんなのは自信過剰であっさりと恐怖する武芸者だけで充分だというのに。
「…………はぁ」
大妖怪という肩書きも虚しく、走り去っていった子供の方を眺めながら、長いため息を吐き出すしかなかった。
「……あん?」
と、それも束の間。
まだ残っていた子供たちの一人が、私の裾を引っ張ってきた。
「…………迷子って、こんなに多く出るもんだっけ」
同じように息を吐き出す。
もうこうなっては、しょうがない。
親を探してやるなんてバカバカしい。
それでも、見上げてくる不安げな瞳が、いつ泣き出すかわかったものじゃない。
空腹でもないのにそんなものなんて、面倒なだけなのだ。
「はいはい、じゃあ、勝手に付いてこれば……」
力もなく、手をひらひらとさせて周囲のガキンチョに合図を送ると、ゆるゆるとした足取りで祭りの只中へと舞い戻ることにした。
4.
ぐったりとしながら、ようやく星を探していた。
私を取り巻いていた子供たちをそれぞれの肉親やら知り合いやらに返してからの捜索だ。
もう、いつもの何倍の働きと体力の消費をした感覚だった。
まったく……どれもこれも、きっと星が悪いんだ。
「星から、かき氷せびろ……」
いちご、いちご。
せこいことを考えながら、足を運ぶ。
どこを探せばいいとか、あまり考えているわけではなかった。
歩いていれば見つかるだろう。
なんとなく、そんな感じで歩を進めれば……ほら。
なんの面白みもなく星の姿を発見した。
ただ、予想外だったのは、
「なんで、寅も囲まれてるかな……」
星は星で、人間に囲まれていた。
私とは違って、子供ではなく、大人に。
営業スマイルをしているけれど、もう長時間そうしているのか頬がわずかにピクピクとしていることがわかった。
恐らくは入信者とか、寺の噂を聞いている者たちだろう。それに、物珍しさにただ集まって来ている者もいる気がする。
星は絶え間なく、人の対応をしていた。
初老な人間が多く、拝まれたりして慌てている。
頬のピクピク加減が、次第に細かくなってきているのは、気のせいではないだろう。
……無理なんてするから。始めから力を抜いてればいいのに。
いい気味だ、なんて思いながら、ニヤニヤと星の様子を眺めていた。
少しすると、星がこちらに気が付いた。
私の様子に悔しそうな表情を浮かべたけれど、それもすぐに対応で引っ込む。
追い打ちとばかりに、あっかんべーをしてやると、更に悔しそうにしていた。
しかし、諦めたように他にはわからない程度に脱力すると、「すまない」と言いたげに視線を送ってくる。
まぁ、お人好しな星のことだ、断れるわけもない。
わかっていたことに、テキトーに手を振って返事をして、私は少し距離を取って人だかりのない屋台の端に陣取ることにした。
途切れることのない人々の往来の間から、ぼんやりと星を見やる。
「……ホント、お人好しだよね」
こんな時まで、真面目に相手をすることなんてないと思うのに。
寺のためとか、みんなのためとか……思ってるのかもしれない。
あ、なにか困ったことを言われたみたいだ。
口元がおぼつかなくなっている。
元々、人と接する機会が多いはずなのに、急な対応に弱いところが変わらないのはなぜなんだろう。
それに裏表があるとまでは言わないけれど、もっと力を抜いていてもいいと思ってしまう。
「…………まぁ、星だし……」
そのまま、星は人々の声に耳を傾けている。
真剣なその姿は、どこか懐かしいように思える。
昔、聖が封印される前はよく見ていた星のああいう姿も、こちらに来てからはあまり見ていなかった。
私が他のところに出かけてしまうことが原因なんだろうけれど。
「……」
人に囲まれている星の姿は、嫌いじゃない。
アイツには似合っている、なんて思わなくもなかった。
……なんだか、懐かしい。
昔はこうやってよく星のことを眺めていた。
よく人に囲まれていたから、話をできるのなんてお勤め前の早朝くらいだった。
それも、堅苦しいナズーリンが早めに迎えに来るから、短い時間だけだったし。
本人に自覚はないだろうけど、やっぱり星は誰かを繋ぐことに長けている。
聖だけでなく星がいたことで妖怪と人間の共存はなっているように思えるし。
それを、ずっと、私は見てきた。
遠くから、近くから。
ずっと……。
アイツの一挙一動は、私を飽きさせないから。
星の面白いくらいの行動は、すぐにでも思い出せる。
……だから。
「…………なんで、覚えてないかな……」
……だから。
…………今日のことだって。
ふと、命蓮寺でのことを思い出して、胸が痛くなった。
チクリと刺さる小さな痛みが、深く、深くに……響く。
こうして……祭りに来たのだから、それでいいはずなのに。
祭りに二人で来たという事実があれば、いいはずなのに。
それで、私が気にしていることも、終わり。
……そのはずなのに。
どうしても……星が……忘れてしまっていることが……。
…………。
人の、垣根のようになった人々の向こうにいる星は、どうにも……遠い。
「――――――――――――ねぇ……星は…………?」
人波が、言葉をさえぎる。
目の前の人波は、こんなにあっただろうか。
わずかにしか見えなくなった星は、一度見失ってしまえば、わからなくなってしまいそうだ。
「……別に……覚えてなくても…………いい、か」
それでも、やっぱり……。
何か、ちっぽけなものが、胸につまっているようで……。
「おっちゃん、これ、やる」
暇そうにしている屋台の主人に強引にお面を被せて、私は人波に紛れるようにして、その場を離れた。
5.
「…………いて……」
鼻緒が切れたのは、つい先ほど。
裸足で歩き回ることも少なくなったのがいけないのか。
地面から顔を出す小さな石ころが、足の裏を突いてくる。
一歩、一歩と踏み出す度に異なる痛み。
それが……煩わしくて、仕方無い。
「……なんで、歩いてんだろ……」
飛んで帰れば良かった。
誰に止められているわけでもない。
人影が飛んでいるなんて珍しいことでもなんでもないのに。
「……」
こうして、ぼんやりと考えている間に飛んでしまえば、いい。
すぐに命蓮寺に着くし、何より、こんな面白くもない場所から消えることができる。
「……なんで、だろうな……」
いつの間にか、手にぶら下げていた下駄へと落としていた視線をわずかに持ち上げる。
眼前には、里とは打って変わって暗い夜道が広がっていた。
月と星の灯りでぼんやりと浮かぶだけで、足元も見えない道。
例え危険が潜んでいるとしても、気が付かずに踏みつけてしまうだろう。
「…………」
それでも、私は、飛ぶこともせずに地面をのたうつように歩いていた。
里から響く祭り囃子は、すでに小さくなっている。
けれど、反響する音は、まだ私を取り巻いているように思えなくもなかった。
「……………………いて…………」
浮いたような声。
周りの音よりも強くあるはずなのに……。
いや、だからこそ、浮いてしまったように聞こえるのかもしれない。
……。
…………
「………………っ…………だから……、痛いっての…………」
足に伝わる痛みだけは、私の声と同じよう。
私が思っているのだから、それもそのはずで。
だからこそ、足から伝わる石の感触は、確かに私と同じ場所に存在しているのだと思わせてくれた。
……でも……。
…………あったかくも、ない。
「……あ~ぁ、やっぱり、来なきゃ良かった」
思い切って、声を上げてみる。
くだらないことを考えるよりも、先ほどまでのことを振り返った方が、よっぽどいいような気がした。
しかし、それは、またそれ。
くたびれたのに加えて、なんというか、損をしたようにしか思えない事実があるだけだった。
……。
どいつもこいつも浮かれていて、楽しそうで。
そんなの…………面白くもない。
「……?」
祭り囃子が止んだ気がした。
振り返ると、里の灯りはやっぱりあって、祭りそのものが終わったわけではなさそうだ。
音の無くなった闇夜は灯りを協調していて、ここから眺める景色は、より一層、遠くに見えてならない。
「――――あ」
急激に、空の光が増した。
かと思えば、光は夜空すら照らすように弾けて広がった。
煌めく赤色が花のように咲いて、遅れてやってきた全身を心地良く揺さぶる重低音とともに、名残惜しそうに消えていく。
二発目が打ち上がったのは、その少し後。
同じように広がる緑の閃光は、やっぱり名残惜しそうで、夜闇に染み入って消える。
その後も、そのまた後も、次々と上がる大きな花火を、ぼんやりとその場で見上げていた。
「……」
花開く光はその種を替え、吹き上がるように、そして滴るように。
眩い光が、見上げる私を焦がしてしまうみたいな錯覚が、あった。
「……夏の終わり……か」
余韻を空に残す光。
夏の終わりの風物詩。
こんなもので、終わる、夏。
こんなもので、終わったと言われてしまう。
あの光は、まだ、残っていたいんじゃないだろうか、なんて。
滴り落ちる火花は、勝手な終わりを、嘆いているんじゃないだろうか、なんて。
「……」
ゆっくりと、打ち上がる花火に手を向ける。
……ここで、あれらをわからなくしたら、どうなるだろう……。
人間には、妖怪が降ってくるように見えるかもしれない。
中には、金とか、そんなことを思う奴もいるかな、なんて思って。
「…………い――――」
「――――ぬえっ!!!」
「いけ」と力を放とうとした瞬間、後方から声がした。
目を向ければ、遠くから花火で浮かび上げられた人影が駆けてくる。
……残念。
光さえなければ、誰だかわからなかったのに。
誰だかわからなければ、私はそのまま……力を放っていただろうに。
駆けてくるのは紛れも無く、星だった。
「ぬえっ!」
星は速度を緩めることもなく、こちらに近づくと、そのまま、
「――――この、バカ者めっ!!」
「あぶっ!?」
勢いのまま、ラリアットを繰り出した。
強かに顔面を打たれ、視界に火花が散る。
思いもよらない行動に、私はバランスを崩して、抵抗も虚しく地面に尻もちをついた。
「な、何すんだ、このバカ寅っ!」
患部を抑えつつ、目を向けると、腕を組んで仁王立ちする星の姿があった。
プスプスと煙の上がりそうな表情の星は、額に汗。
よく見れば、呼吸も大きく、整えるようにしているようだった。
「バカはお前だ、このバカぬえっ!一体どれだけ探したと思っているんだ!!」
「だからって、いきなり殴ることないだろ、バカ寅!」
「日頃の行いが悪いからだ、まったく」
「日頃のことは関係ないだろっ!」
「ああ、そうとも、関係ないともっ」
「くっ、このっ」
「お前が付けていた面を屋台の亭主がつけているとも知らずに、妙に親密に話をしてしまっていたとか、それを知り合いに見られて不可解な目で見られていたとか、そんなことは一切関係ないからな、ぬえっ!」
星に掴みかかってやろうかと思って立ち上がる。
しかし、正面に捉えた星の様子に、その考えもすぐにぼやけてしまった。
「…………うっさい、バカ寅」
代わりに小さく言って、踵を返す。
微かに見えた星の困った表情が、ぼんやりと私の頭に張り付いていた。
「……ぬえ」
余韻のように残る星は、そっと唇を震わせる。
どうしてか、情け無いような、声で、そっと。
……聞きたくない……。
そんな……しょげた声で……しゃべらないでよ……。
「ぬ――――」
どんと鳴る花火が一つ上がって、全ての音を遮った。
じんと響く音は鼓膜だけでなく、全身を震わせるように大気を揺らす。
まるで、この夜から音そのものをわからなくするみたいに。
けれど、反響は残響に変わって、すぐにただの静寂に戻って、しまった。
……。
もし、続いてくれたなら……星の言葉を聞かなくてもいいのに。
「……ぬえ」
ほら……やっぱり。
……星の、声……。
「…………ぬえ」
ホント……うるさい……。
早く、次の花火が来てくれることを思う。
それも、連続した、全部を揺らしてくれるみたいな音。
けれど。
――――ドンッ。
空から落ちてくる音は、やっぱり一つきりで。
ポツリ、ポツリと上がっては、辿々しく振動を響かせるだけ。
それでも。
それでも、一帯の音を隠してくれていた。
……帰ろ。
一歩、足を踏み出す。
暗くて見えない地を、踏む。
それは、どこまでも沈んでいってしまいそうな錯覚にも似ている気がした。
でも、それくらいが……私にはちょうどいい――――。
「ぬえ」
足に合わせて動かした手を、星が掴んだ。
「……なに?」
「どこに行くつもりだ?」
「…………別に……」
握られた手が、痛い。
力強い星の手は私を離さないようにしている、みたいだった。
どこに行くなんて、そんなの……決まってるのに……。
………………帰るだけ……。
…………それだけ。
言う必要も……ないこと……。
言わなくても……わかっていることなのに。
振り返ることのない私を、星は手を掴んだまま。
私もそれを振り払うこともせず、ただ、顔を合わせることもなく、止まっていた。
「……」
「……」
ピタリと止まった空間に、遠くで花火が上がる。
チカチカとするような閃光は、視覚だけでなく、心まで刺激しているようだった。
弾けたように強く、消えるように弱く、鼓動を落ち着かせない。
けれど、明暗の度に、私たちを照らして、また、隠してくれていた。
光の明滅でぼんやりとした私の視界は、何を捉えているのだろう。
そんなことも、よくわからない。
ただ、照らされた光でわかるのは、私と星はまだ、動き出すこともできないでいることだった。
「……急にどこかに行ってしまったから……心配、した」
そんな中で、ようやく聞こえたのは、星の、力の無い言葉だった。
「……置いて、いくな」
独り言みたいな星の、声。
けれど、それは、確かに私に向けられたもので。
「……なに、それ……別に……置いていってない……」
「……」
「ただ……帰ろうと思っただけだから……」
「声をかけてくれれば良かっただろう……」
「……迷惑でしょ」
「……どうしてだ?」
「…………」
「…………」
「…………うっさい」
「……」
ずっと……変わっていない……。
私は……いつまで…………星を困らせれば気が済むのだろう。
「……離して……よ」
コツ。
後頭部を骨ばった感触が軽く突いた。
髪越しに伝わってくる温度に、それが星の額だと分かるのに時間はかからなかった。
星の、寄りかかってくるような髪と小さな吐息が、かかる。
トクン、トクンとした鼓動は、私から湧き出ているはずなのに、星から伝わってきていると、勘違いしてしまいそうだった。
「…………わからないんだ」
ポツリとした声が鼓膜を揺らして、思考を割く。
星の声は、揺々と不安定なはずなのに、それでも私の意識をまどろわせる。安心とか、不安とか、そういう意識の狭間に投げ出されて、私は静かに目を閉じてしまった。
「……」
何も見えない、真っ暗になった中で、小さな呼吸の音が、ただただ私を安堵させるように揺れて返している。
けれど、その半面、離れていく瞬間は、堪らなく心を締め付けるようだった。
「……お前がいないと、どう楽しんでいいのか、わからないんだ」
……そんなの……。
「……一緒にいたときは……あんなに楽しかったのに……一人になると、どうしたらいいのか……」
……ただ……慣れてない、だけなんだって……。
「ぬえがいるだけで……安心するし、退屈しないんだ……」
……じゃあ……。
……どうして……そんな情け無い声……してるんだよ。
……約束のこと……思い出したわけでも、ないのに。
……。
だって……あんなの……約束じゃ、なかったから……。
……ただ、私が。
勝手に約束だと思っていただけの……。
昔、昔々の……ただの、いつもの話の中の暇潰しみたいな……もの、だったから。
「なぁ、ぬえ……」
……。
「……色々あったけど……今日は、楽しかったな」
……良い事なんて、なかったのに?
「……とても楽しかった」
……浴衣の柄が変で、出だしから巫女にいいように言われて、山の神に気を使って、一人ではしゃいで、仕事から離れているのに仕事のことして…………今も、私に振り回されてるのに……?
「今日は……とても、とてもとても楽しかった」
静かに聞こえる星の声は、じんわりと私の中でこだまする。
それは、時間を巻き戻して今日のことを思い出させるみたいだった。
星と並んで歩いた、あの時間。
手を引かれた瞬間や、袖が触れた一瞬でさえも。
…………それは。
……………………とても、素敵で……。
ここから見えた、遠くの、今も煌々と煌めいている里の灯りよりも、温かった気がした。
「言い過ぎ……」
私が目をゆっくりと開いて、ポツリとつぶやくと、星はいつもみたいに、ははっと笑った。
「久しぶりにはしゃいでしまった」
「知ってる」
「こんなに食べて、遊んだのも、随分と昔のことだった」
「……知ってる」
「あんなに人に集まられたのも、初めてだった」
「…………知ってる」
「……財布を落としたとか、浴衣を汚してしまったことも――――」
「全部……知ってる」
星は、また小さく笑った。
楽しそうに笑っていることが、見なくてもわかる。
いつの間にか光らなくなった空の、暗闇の中でもはっきりと、わかる。
「一緒に、帰ろう」
星が前に出た。
少し引っ張られるような手の感覚。
握られた手は、じんわりと熱い。
涼しげな夜風に強められる手の温度は、終わりを迎える季節に相反して、終わりがないんだと思えた。
「……うん」
小さくうなずく。
ようやく視線を向けた先の星は、なんだか呆れていて、でも、どこか安心したみたいな顔をしていた。
その表情を照らすように先ほどよりも一回り大きな花火が盛大に咲いた。
そして、次に来る、大きな大きな振動と、心地よい静寂を心待ちにしながら、私は一歩、踏み出――――、
「あ」
そうだった。
「どうした?」
「…………下駄、壊れてた」
手に持っていた下駄を掲げると、二足は合わさってカラリと音を立てて揺れた。
6.
まどろんだ意識の中で、夜道を歩く足音が一つだけあることを感じていた。
眠気に小さな抵抗をして瞼を持ち上げると、星の後頭部がこれでもかというくらい近くにある。
帰り道でおんぶをせがんでいた自分を微かに思い出して、私は睡魔に負けて再び瞼を落とす。
密着した背中の感覚と、時折当たるくせ毛の感触を感じながらも、瞳を開けることも、指を動かすことも、できなかった。
頬を、星の肩が押す。
布地を通り越してでも分かる少し固い感触。
けれど、それも不快ではなかった。
鼻孔をわずかにくすぐる柑橘の香りが、原因かもしれない……。
……あったかい。
伝わる温度が、心地良い。
地を離れて、ゆらゆらとした不安定な感覚も、薄い。
鼓動のように響く振動は、私を安心させてならなかった。
「…………まったく、お前は相変わらずだったな……」
声が……聞こえる。
「祭りに行きたそうな顔をしているかと思えば、次にはつまらなそうにしているし……」
…………しょ……う?
「……祭りに行けば、今度は道行く人をどこか羨ましそうに見ていて」
…………。
「…………子供の面倒を見ていたのは、意外だったけれどな」
…………うっさ……い…………。
……耳が……くすぐったい。
星の、髪の毛が…………当たるから……かな。
「……ぬえ」
………………ん……?
「それでも、お前は、やっぱりお前だな」
…………。
「約束は破るために覚えておく、だっけ?」
「はは、ひねくれ者の、お前らしい言い分だな」
「…………祭りに行ってみようなんて、そんな昔の、小さな……約束も忘れてなかった」
……星との……約束……だから…………ね。
……くすぐったい。
耳に当たる感覚も、身体に触れる温度も、全部。
でも……やっぱりそれは私を心地良いまどろみから離してはくれない。
足が揺れて、風に触れる。
夏の、終わり。
涼しくなった空気が、次の、そのまた次の季節を急かしているみたいな……。
「…………あ~、楽しかったな」
…………うん…………。
「また、来ようか」
……う……ん。
小さく。
ただ、小さく。
私は息をするように、口唇を開いたと………………思う。
終わり
「……あつっ」
命蓮寺の離れの縁側で、茜に染まった空を眺めていた。
遠くに浮かぶ入道雲の群れも赤く染まって、ホオズキみたいになっているのも見受けられる。
あんな高くにあったらさぞかし暑いだろうに。
くだらないことを思いながら視線を庭先へと落としてみれば、村紗がまいた打ち水の跡もきれいさっぱり無くなっていた。
「……あつ……」
待ちぼうけをくらってどれだけ時間が経ったかと考えつつ、待っている馬鹿馬鹿しさが汗とともにじんわりと沸き上がってくる。
いつもならどこへともなく自由気ままにしている、この封獣ぬえが、残暑の熱に耐えながら、誰かを待つなんて……。
それこそ、今年の異常な暑さにやられたのだろうか。
一度、寒くなったかと思えば再びの暑さにもううんざりしてしまう。
漂う温度と湿度から逃れるように、背中を反らして後ろを向いてみるけれど、閉ざされた襖は未だに開くこともなかった。
「――――ひ、聖、この柄は……」
「よく似合っていますよ、星」
「いや、そう言われても、これは子供向けな気が」
「え?そ、そうでしょうか?」
「い、いや、一概にそうとは言えませんが……」
……何やってるんだか。
代わりに漏れてきた星と聖の会話に毒づいて、再びぼんやりと視線を漂わせた。
それでも、襖の向こうからは、変わらずに慌てたような星とピントのズレた聖の会話が流れてくる。
まったく、いつまで時間がかかるんだろう。
人里の祭りに出掛けると聖に伝えたのが、そもそも間違いなのだ。
色々言われることは予想していたけれど、まさか浴衣を着て行けと言われるなんて思ってもいなかった。
私も星も断ってみたものの無駄。
一人でできるからと早々に逃げた私はともかく、星はがっちりと聖に捕まって、襖行きなわけで……。
そうしてそのまま、二人は、なかなか出てこない。
身支度を終えて縁側に戻ってきても、ずっと妙な会話が聞こえてきているだけだった。
「……はぁ」
それを聞いていることも、こうして待っていることも、全部、面倒臭い。
祭りが始まれば誰も彼も浮かれているだろうけれど、今の私はどうにもそうならないでいた。
考えてもみれば……。
こんな気分になっている原因は、私と星、どちらにあるのだろうか。
そもそも、もうずっと前の、ずっと昔のことを引っ張り出そうとしなければ良かったのかもしれない。
「…………あ~」
いつもと違った服装は、妙に落ち着かなかった。
浴衣の布地の感触も、膝下まで覆われた違和感も、背中の羽だって少しばかり窮屈な感じがして、むず痒かった。
「……」
けれど、そんなことは大したことではない。
「……あ~ぁ」
これからのことさえも面倒臭く思ってしまうことに、服装の違和感は、さほど関係ないのだ。
……やっぱり、私が誘った感じなんだろうなぁ……。
そうなったのは…………やっぱり星が、悪い。
最近はお盆だとかで朝から晩までずっとお勤めで、話かけてもすぐに行ってしまうし、用があるかと思えば「お前も手伝ってくれ」とかなんとか。
結局、星のボケた頭に一撃を入れて、話を聞かせたはいいけれど。
「……はぁ」
これじゃあ、振り回されっぱなしだったところに、ダダをこねたみたいじゃないか。
昼間の星を思い出せば、一目瞭然……。
子供の急な発言に驚いたみたいな顔をして、「……なんだ?祭りに行きたいの……か?」なんて。
思い出すと、少し腹が立った。
「…………星のアホめ……」
別に行きたいというわけじゃない。
ただ、人里で祭りがあると、伝えただけだったのに……。
膝を抱えて、身体を丸める。
足首まで覆う布地に着いた鼻孔は、古めかしいタンスの匂いを感じ取って、わずかにひんやりとした感覚を頭にまで与えてくれるようだった。
「……」
「――――待たせてしまって、すまない」
声と同時に襖が開く音に、私はびくっと身体を跳ね上げた。
「……ぬえ?」
床板から真っ直ぐに伸びた背筋も一瞬、ゆっくりと背骨を湾曲させて首を後ろに向けると、そこには私を見下ろすように星が立っていた。
黒の下地に、黄色でデフォルメされた虎のプリントがぎっしり載せられた浴衣を着て。
「…………ふつー、虎柄じゃないの?」
「わ、私に言うなっ!これは聖が用意していたもので……そ、その……用意して貰ったから……無下にするわけにも……いかないし……」
瞬間的に言葉を強くしたものの、その勢いはすぐに消えた。
星は顔を赤めてうつむき、人差し指同士をチョンチョンと合わせるようにしていた。
襖越しに聞こえてきていたのは、このことだったんだろう。
連れて行かれたときの勢いのまま断るなり、換えてもらえば良かったのに。
相変わらず、律儀なヤツ……。
ぼんやりと星を眺めていると、髪が綺麗に整えられていることに気が付いた。
仕度をする前は、いつも通り無造作に跳ねまわる髪型だったはずだ。
今もその名残は消えていないものの、前髪や後ろ髪がしとやかに流れているように思える。
「あ……」
それと、もう一つ。
頭頂のリボンにいつぞやのカンザシが付け足されていた。
「な、なんだ?まだ何か、あるか?」
「…………ん、なんでもない」
わざわざ挿していこうなんて考えるヤツじゃない。
恐らく聖の仕業だろう。
気もなく返事をしながらも、わずかに緩んでしまった口角を結ぶ。
危うく余計なことを口にしてしまいそうだった。
同時に先ほどまでの心持ちが少し軽くなった自分自身が、なんて単純なんだろうと呆れてしまう。
こんな些細なことで、勝手に何かを期待してしまうような心、いつから持ちあわせてしまったんだろうか。
「ぬ、ぬえ?ど、どうかしたか?」
原因となる相手の様子に、なんとも微妙な視線を送ってやりながら、もう一度「なんでもない」とだけ伝えて、私は遠くの景色に目を移した。
茜の空は、先ほどのまま。
けれど、ホオズキみたいな雲はもうどこかに行って、散り散りになったまばらな雲がゆっくりと進んでくる。
「……ぬえ」
そこに、何か言いたそうな表情をしているだろう星が、呆れたように息を吐き出したことだけがわかった。
「……」
ため息を吐きたいのはこっちの方だ。
本当に、コイツはマイペースで困る。
いつだってマイペースで、物を落とすだけでなく、口から出たことも忘れてしまいそうな、困ったヤツ。
……私みたいに、勝手に忘れていないというのも、困りものかもしれないけれど……。
「……あつい」
誤魔化すように口にしてみる。
「今年の残暑は、堪えるな」
そんな、なんでもないつぶやきを星はさらりと拾った。
「……だる」
「真夏の時よりは楽だろうに」
「……めんどくさ」
「はは、お前はいつもそう言っている気がするな」
「…………」
「?」
続けた言葉も、全部漏らすこと無く拾っていく。
そうしてくるのに……。
「……バカ虎」
その拾った言葉を、どこにやってしまうのか……。
「――――い、痛っ!?」
なんとも呑気な星の無防備なスネを右の羽で思いっきり弾いてやる。
けれど、爆ぜるような音がして星がスネを押さえてうずくまったくらいの変化しかなかった。
「ぬ、ぬえっ!お、お前という奴はっ」
情け無い声を上げて涙目になっている星の姿がそこにある。それでも、私の心境に差したる変化はないみたいだ。
いつもだったら、意地悪く笑ってしまいそうなところであっても、どうにもため息しか浮かんでこない。
私は、それを漏らすことはせずに、ぼんやりと遠くを眺めていた。
「……はぁ」
結局、間を置いて、星が息を吐き出した。
根比べは私の勝ちだな。
比べてもいないことを思いながら、星を見上げる。
「まったく……お前は……」
星は、心底呆れたような様子で片目だけを向けて、私を見下ろしていた。
「……とら……」
「うん?」
虎ちゃんキャラの浴衣はやっぱり似合わない。
頭のカンザシだって、見慣れていないから似合っているのかどうか。
でも、それ以上に。
今日の、今だけは、なんだか困った顔を浮かべている星が、なんだか似合っていない気がした。
「さぁ、ぬえ、行こう」
困った顔に、はにかみ笑いを載せて星は言った。
同時に差し出された手が、私の眼前でピタリと止まる。
無骨な、ちょっと固そうな手。
手をとっても、その感触はあまりいいものじゃないんだろう。
「……しょうがないなぁ」
そう思いつつも、私は星の手を取った。
やっぱり骨ばった感触があって、少し固い。
けれど、隆起した指の付け根は、ほど良く柔らかくて、
「――――うぁっ」
急に手を引かれて、私は強制的に立ち上がらされた。
「行こう」
コイツは……。
本当に、何も考えていないみたい。
星の当然という様子に、わずかな怒りと、それ以上の呆れを覚える。
けれど。
「どうかしたか?」
「別に」
私の足取りが重くないのは確かだった。
私は温かな手に導かれるままに、縁側を後にした。
2.
人里はすでに大賑わいだった。
里の入り口ですら提灯が煌々と灯り、語らう人間たちの姿が幾つも見受けられる。
よくよく見てみれば、聖輦船を追いかけていた人間の姿もあって、少し気が引けた。
「あら、妖怪寺のじゃない」
無言のままに通り過ぎようとしたけれど、向こうはそうさせてくれなかった。
いつもの紅白の衣装を揺らして、一歩近づいてくる。
「あぁ、これは、博霊の」
「妖怪寺とは、ご挨拶なヤツ……」
「なに?妖怪寺でしょ?」
にこやかに挨拶をした星の後ろからポツリとつぶやいてみたけれど、博霊の巫女にはきっちりと聞こえたようだ。
提灯の灯りのせいで紅白というよりも紅っぽい巫女は、一度だけ私にキツい半眼を向けてから、面倒臭そうに息を吐き出してみせる。
「妖怪僧侶たちが祭りに来るなんて珍しいわね。あの住職が黙ってなさそうなのに」
「今日は個人的に楽しみに来ただけでしてね。あぁ、聖からは許可を得てきているので大丈夫」
「ふ~ん、まぁ、これだけ賑やかなんだもの、確かに楽しまなきゃ損よね」
一方的に納得したのか巫女は、肩の力を抜いた。
あっさりと私たちへの興味を薄ませて、視線を周囲へと向ける横顔は人々の往来すらも楽しんでいるようだった。
どこか柔らかな瞳は、あちこちに灯った光を反射してどこか幻想的に見える。
あぁ、この目に惹かれるんだろうな、なんて思わなくもないものだった。
「あぁ、そうだ」
けれど、それも短い声とともに瞬時に消え去る。
「どうでもいいけど、面倒だけは起こさないでね」
さほど興味無さそうな表情で、巫女は一言だけ言った。
星は愛想良く笑い、私は興味もやる気もなく返事をして、祭り会場へと再び歩を進める。
会場へと続く通りに差し掛かると、入り口よりも更に活気のある光景が広がっていた。
縦に伸びる道など関係無く、縦横無尽に思い思いのままに人々は歩いている。
響き渡る祭り囃子と声が交じり合って、うるさいくらいの喧騒だった。
しかし、そんな雑多な騒音も里の人々を焚き付けるスパイスになっているみたいだ。
それは、里の人々だけではない。
人々の中に紛れているどこかで見たことのある妖精や、月人に兎、亡霊に半人、仙人、もちろん妖怪も。
皆、いつもと違う雰囲気を楽しんでいることは一目瞭然だった。
星の半歩後ろを歩きながら、キョロキョロと目を向ける。
「……うるさいくらいだ」
「はは、そうだな。普段だったら騒々しいと言えるだろうな」
「何が楽しいんだろうね、まったくさ」
「あぁ……う~ん、何がというわけでもないんだろうけどな」
「……まぁ、祭りだからか」
「祭りだから、だな」
私たちは同じように首を動かして、人々の流れを追っていた。
いつもと違った様相の通り。
道行く人はどこか楽しそうで、何かにつけて足を止めている。
「ん?」
中でも、一際、人だかりができているところで、星も私も足を止めた。
喧騒の中で大いに賑わうその一角は、突然笑い声が上がったり、息を飲むように魅入られていたりする不思議な様子だった。
「なにやってんの?」
「ん?あぁ、えっと、これは……能だな、たぶん」
「たぶんって、何?」
人垣が高くて、背伸びをしてもよく見えない。
星は肩を避けるようにして下がって、人垣のわずかな隙間を開けてくれた。
爪先立ちして覗き見れば、あぁ、本当だ。
桃色の長い髪が踊っている。
最近、命蓮寺にやってきている、からかい甲斐の無さそうなヤツだ。
コロコロと変わる面の下の無表情が妙に印象に残っている。
能を舞っている今でさえ、かすかに伺える表情はやっぱり無表情。
「こんなところで能って……」
「う~ん、動き的に、能なのか怪しいけれどなぁ」
機械仕掛けみたいなコミカルな動きは、星の言う通り能なのか疑問ではある。
しかし、今まで見たこともない動きは、場の雰囲気と祭り囃子と相まって、面白おかしいと思えなくもない。
ちらりと見物人に目をやれば、やっぱり楽しそうな人や妖怪の姿が見て取れた。
「妖怪って、随分と人といられるようになったんだね……」
ぼんやりと口にしてしまった。
「――――へぇ、珍しい」
「ああん?」
背後から急に含み笑いみたいな声をかけられた。
思わず声を上げながら振り返ると緑の巫女がきょとんとした顔で立っていた。
けれど、すぐに慌てて足元に目をやり、前にいた子供をずいっとこちらに押しやってくる。
「わ、私ではなくて、諏訪子様です、全部、きっと」
おいおい。
ごめんなさい、なんて表情でいるけれど、子供を盾にするなんて……って、わけでもないか。
私が呆れ顔で子供の方に視線を向けると、麦わら帽子についたぎょろりとした目玉がこちらを見ていた。
あまりに緑のヤツが押してきているみたいで、距離の近くなった子供の顔は見えない。
けれど、こんな帽子をかぶっているのなんて、そうそういない。
未だに前に押し出してくる緑巫女に瞳を戻すと、彼女の後方にもう一人の山の神が立っていることもわかった。
「山の神様もお祭りとはね」
三人とも浴衣を着ているが、配色だけはいつもの感じで締まっているのか締まっていないのか……。
いい加減、緑巫女の手を逃れた子供サイズの神様はようやく私を見上げて、訝しげに、しかし、不敵に口元に笑みを載せていた。
「どこまでいっても神もお祭り好きだからね。こうして幻想郷まで来ているんだし、楽しむのは義務みたいなものさ」
得意気に言う姿は、いたずらそうな子供のようだった。
「どちらかというと、珍しいのは、そっちじゃない?」
けれど、今度は見透かしたような瞳で私と星を射抜いてくる。
星は怯むことも無く愛想良く笑ってみせた。
「これも、成り行きというか縁みたいなものですよ。貴方の言われたことそのまま、郷に入っては郷に従え、といった感じで」
「ふ~ん、仏教の教えが聞いて呆れちゃうね」
一言ごとに小さな山の神は表情を変える。
どれが本心なのか全くわからせようとしないみたいだ。
面を変えることで自身の感情を見せる面の妖怪とは違い、コイツは自身そのものをすげ替えて見せているようだった。
「諏訪子、その辺にしておけ」
流石に困り顔になってきていた星を助けたのは、後方の山の神だった。
緑巫女の前に出ると、腕を組んで視線を麦わら帽子へと叩き降ろす。
「祭りだからといって、はしゃぎ過ぎるなと言っただろう」
「あ~、そうだった、そうだった」
悪びれる様子も無く麦わら帽子を揺らして、小さい方の神は子供のように笑った。
「すまないな、よく言っているつもりなんだが、変わる様子が無くて……」
「あ、いえ、それは、こちらのコイツもそんな感じなので」
むぅ、何か急に良からぬことを言われた気がする。
更に追い打ちをかけるように「お互いに大変」なんて言っている星に向けて、私は脊髄反射のように蹴りをくれていた。
「いっ!?また、お前はっ!!」
「うっさいっ!!変わる様子がないのは、星だって同じようなもんだろっ!!」
「な、なにっ!そんなことないだろう!?」
「あ、そう。相変わらず物を落としたり、忘れたりしている奴は、どこの誰だっけ?」
「うっ、それは……」
「この前は、袴をはき忘れて表に出ようとして――――」
「――――ちょっ、ぬえっ、おま、それはっ!た、ただ、あ、暑かったから……暑かったからぁっ!」
「……まさかの涙目かよ……」
呆れた毘沙門天だ……。
あ……代理だからしょうがないか。
まぁ、星だし……。
「なんだか楽しそうねっ!!」
「げっ……」
守矢神社の連中との間を割って湧いて出たのは、自信満々な天人だった。
「この私が、混ざってあげてもいいわよっ!!」
「うわ…………ちょー上から目線」
噂に違わぬ傍若無人ぷりだ。
面倒事に首を突っ込んでくると聞いてはいたけど、一番の面倒事はこの天人だとしか思えない。
「はい、解散、解散。星、行こう」
「あ、あぁ、そうだな」
私の声を合図に、守矢も私たちもパラパラと散っていく。
「え?え?え?ちょ、ちょっと!?」
その場に残されていく天人だけは、私たち面々を慌ただしく目で追いながらも、ポツリと取り残されていくようだった。
「い、いいのか、ぬえ?」
「いいの、いいの。あーいうのは、放っとくに限るんだ」
「……なんとなくは分かるけど」
天人のことを気にしながらも、私を眺めやる星を睨んでやる。
「…………お前、ケンカ売ってるのか?」
星は、ごめんというように苦笑いを浮かべて、頬を掻いていた。
「……まったく」
はぁ、と息を吐き出して、星から目を切る。
本当に……。
こんなにもわかってしまうというのは、それはそれで考えものだ。
頭を振って、もう小さくなっているだろう天人の方を一瞥すると、ヒラヒラとした服の女性が呆れ顔で天人をあやしていることがわかった。
いや、逆に怒らせているような……。
そこに、酔っ払った小さな鬼が飛び込んできて、周囲は更にややこしくなり始めていた。
「浮かれてるヤツばっか…………って、星?」
ため息を吐き出して視線を戻すと、焼きとうもろこしの屋台で品物を受け取っている星の姿があった。
星はとうもろこしを二本持って帰ってくると、一本を渡してくる。
「ほら、ぬえも食べるだろう?」
「ん、あぁ、うん」
芳ばしい香りを味わいながら、一口。
甘みとよく合うしょっぱさを感じながら、そのまま二口目を開けたところで、
「……おいおい、毘沙門天代理……」
今度は、蒸かし芋の屋台に走る星の姿があった。
その後も、星が屋台に向かって走り回っていた光景は続いていた。
わたあめに、金魚すくいに、射撃に、振り回される私としては、困ったもの。
おまけに無駄にお面まで買ってきて、勝手に被せてくるし。
今、流行だかなんだか知らないけど、黄色でアホ面した仙人のお面って。
そもそも、これ敵じゃないか、敵。
聖が見たらなんて言うだろうか……。
そんなことも気にせずに、星はご機嫌で、時折声をかけられても、頬を緩めたままだった。
そんな風にバタバタと祭りを周りながらも、それはそれで楽しいと言えなくもなかった。
3.
……。
…………。
……なんでこうなったし。
いつの間にか、私一人でガキンチョに取り囲まれていた。
どこの子供か知らないけれど、勝手についてきたりして、群れのようになってしまっている。
面倒臭いと思いつつ、盆踊り会場の隅っこに移動をしてきてみれば、ここまで来るのにまた子供が増えているような気がした。
「だーかーら、裾、引っ張るなってのっ」
浴衣の裾を引っ張られるのなんて、もうずっとだった。
言っても言っても、代わる代わる引っ張ってきて、あぁ、もうっ、またっ。
まとわりついてくるヤツらを引き離して、げんなりと肩を落とすと、ガキンチョ共は調子に乗って、羽やら髪やらを引っ張ってくる。
い、いい加減、お灸を据えてやろうか。
「お、お前ら、それくらいに――――がっ」
途中で、急に髪を強く引っ張られて、頭が後ろにガクンッとなった。
頭が取れるような感覚と、筋肉がよじられるような痛みが首筋を襲う。
これには思わずしゃがみ込んでしまった。
うぅ、涙が出そうだ。
どうして私が、どこのどいつか知れない子供の面倒を見なきゃいけないのか。
そもそも、なんでこんな状況になってるんだ。
「お・ま・え・ら……」
涙目のまま、ゆっくりと顔を上げて凄んでみせると、私を引っ張っていたであろうガキンチョたちが「逃げろ~」なんて笑い声を上げて走り去っていった。
くそ、なんなんだ、アイツら、人間はいつから怖いもの知らずになったんだ。そんなのは自信過剰であっさりと恐怖する武芸者だけで充分だというのに。
「…………はぁ」
大妖怪という肩書きも虚しく、走り去っていった子供の方を眺めながら、長いため息を吐き出すしかなかった。
「……あん?」
と、それも束の間。
まだ残っていた子供たちの一人が、私の裾を引っ張ってきた。
「…………迷子って、こんなに多く出るもんだっけ」
同じように息を吐き出す。
もうこうなっては、しょうがない。
親を探してやるなんてバカバカしい。
それでも、見上げてくる不安げな瞳が、いつ泣き出すかわかったものじゃない。
空腹でもないのにそんなものなんて、面倒なだけなのだ。
「はいはい、じゃあ、勝手に付いてこれば……」
力もなく、手をひらひらとさせて周囲のガキンチョに合図を送ると、ゆるゆるとした足取りで祭りの只中へと舞い戻ることにした。
4.
ぐったりとしながら、ようやく星を探していた。
私を取り巻いていた子供たちをそれぞれの肉親やら知り合いやらに返してからの捜索だ。
もう、いつもの何倍の働きと体力の消費をした感覚だった。
まったく……どれもこれも、きっと星が悪いんだ。
「星から、かき氷せびろ……」
いちご、いちご。
せこいことを考えながら、足を運ぶ。
どこを探せばいいとか、あまり考えているわけではなかった。
歩いていれば見つかるだろう。
なんとなく、そんな感じで歩を進めれば……ほら。
なんの面白みもなく星の姿を発見した。
ただ、予想外だったのは、
「なんで、寅も囲まれてるかな……」
星は星で、人間に囲まれていた。
私とは違って、子供ではなく、大人に。
営業スマイルをしているけれど、もう長時間そうしているのか頬がわずかにピクピクとしていることがわかった。
恐らくは入信者とか、寺の噂を聞いている者たちだろう。それに、物珍しさにただ集まって来ている者もいる気がする。
星は絶え間なく、人の対応をしていた。
初老な人間が多く、拝まれたりして慌てている。
頬のピクピク加減が、次第に細かくなってきているのは、気のせいではないだろう。
……無理なんてするから。始めから力を抜いてればいいのに。
いい気味だ、なんて思いながら、ニヤニヤと星の様子を眺めていた。
少しすると、星がこちらに気が付いた。
私の様子に悔しそうな表情を浮かべたけれど、それもすぐに対応で引っ込む。
追い打ちとばかりに、あっかんべーをしてやると、更に悔しそうにしていた。
しかし、諦めたように他にはわからない程度に脱力すると、「すまない」と言いたげに視線を送ってくる。
まぁ、お人好しな星のことだ、断れるわけもない。
わかっていたことに、テキトーに手を振って返事をして、私は少し距離を取って人だかりのない屋台の端に陣取ることにした。
途切れることのない人々の往来の間から、ぼんやりと星を見やる。
「……ホント、お人好しだよね」
こんな時まで、真面目に相手をすることなんてないと思うのに。
寺のためとか、みんなのためとか……思ってるのかもしれない。
あ、なにか困ったことを言われたみたいだ。
口元がおぼつかなくなっている。
元々、人と接する機会が多いはずなのに、急な対応に弱いところが変わらないのはなぜなんだろう。
それに裏表があるとまでは言わないけれど、もっと力を抜いていてもいいと思ってしまう。
「…………まぁ、星だし……」
そのまま、星は人々の声に耳を傾けている。
真剣なその姿は、どこか懐かしいように思える。
昔、聖が封印される前はよく見ていた星のああいう姿も、こちらに来てからはあまり見ていなかった。
私が他のところに出かけてしまうことが原因なんだろうけれど。
「……」
人に囲まれている星の姿は、嫌いじゃない。
アイツには似合っている、なんて思わなくもなかった。
……なんだか、懐かしい。
昔はこうやってよく星のことを眺めていた。
よく人に囲まれていたから、話をできるのなんてお勤め前の早朝くらいだった。
それも、堅苦しいナズーリンが早めに迎えに来るから、短い時間だけだったし。
本人に自覚はないだろうけど、やっぱり星は誰かを繋ぐことに長けている。
聖だけでなく星がいたことで妖怪と人間の共存はなっているように思えるし。
それを、ずっと、私は見てきた。
遠くから、近くから。
ずっと……。
アイツの一挙一動は、私を飽きさせないから。
星の面白いくらいの行動は、すぐにでも思い出せる。
……だから。
「…………なんで、覚えてないかな……」
……だから。
…………今日のことだって。
ふと、命蓮寺でのことを思い出して、胸が痛くなった。
チクリと刺さる小さな痛みが、深く、深くに……響く。
こうして……祭りに来たのだから、それでいいはずなのに。
祭りに二人で来たという事実があれば、いいはずなのに。
それで、私が気にしていることも、終わり。
……そのはずなのに。
どうしても……星が……忘れてしまっていることが……。
…………。
人の、垣根のようになった人々の向こうにいる星は、どうにも……遠い。
「――――――――――――ねぇ……星は…………?」
人波が、言葉をさえぎる。
目の前の人波は、こんなにあっただろうか。
わずかにしか見えなくなった星は、一度見失ってしまえば、わからなくなってしまいそうだ。
「……別に……覚えてなくても…………いい、か」
それでも、やっぱり……。
何か、ちっぽけなものが、胸につまっているようで……。
「おっちゃん、これ、やる」
暇そうにしている屋台の主人に強引にお面を被せて、私は人波に紛れるようにして、その場を離れた。
5.
「…………いて……」
鼻緒が切れたのは、つい先ほど。
裸足で歩き回ることも少なくなったのがいけないのか。
地面から顔を出す小さな石ころが、足の裏を突いてくる。
一歩、一歩と踏み出す度に異なる痛み。
それが……煩わしくて、仕方無い。
「……なんで、歩いてんだろ……」
飛んで帰れば良かった。
誰に止められているわけでもない。
人影が飛んでいるなんて珍しいことでもなんでもないのに。
「……」
こうして、ぼんやりと考えている間に飛んでしまえば、いい。
すぐに命蓮寺に着くし、何より、こんな面白くもない場所から消えることができる。
「……なんで、だろうな……」
いつの間にか、手にぶら下げていた下駄へと落としていた視線をわずかに持ち上げる。
眼前には、里とは打って変わって暗い夜道が広がっていた。
月と星の灯りでぼんやりと浮かぶだけで、足元も見えない道。
例え危険が潜んでいるとしても、気が付かずに踏みつけてしまうだろう。
「…………」
それでも、私は、飛ぶこともせずに地面をのたうつように歩いていた。
里から響く祭り囃子は、すでに小さくなっている。
けれど、反響する音は、まだ私を取り巻いているように思えなくもなかった。
「……………………いて…………」
浮いたような声。
周りの音よりも強くあるはずなのに……。
いや、だからこそ、浮いてしまったように聞こえるのかもしれない。
……。
…………
「………………っ…………だから……、痛いっての…………」
足に伝わる痛みだけは、私の声と同じよう。
私が思っているのだから、それもそのはずで。
だからこそ、足から伝わる石の感触は、確かに私と同じ場所に存在しているのだと思わせてくれた。
……でも……。
…………あったかくも、ない。
「……あ~ぁ、やっぱり、来なきゃ良かった」
思い切って、声を上げてみる。
くだらないことを考えるよりも、先ほどまでのことを振り返った方が、よっぽどいいような気がした。
しかし、それは、またそれ。
くたびれたのに加えて、なんというか、損をしたようにしか思えない事実があるだけだった。
……。
どいつもこいつも浮かれていて、楽しそうで。
そんなの…………面白くもない。
「……?」
祭り囃子が止んだ気がした。
振り返ると、里の灯りはやっぱりあって、祭りそのものが終わったわけではなさそうだ。
音の無くなった闇夜は灯りを協調していて、ここから眺める景色は、より一層、遠くに見えてならない。
「――――あ」
急激に、空の光が増した。
かと思えば、光は夜空すら照らすように弾けて広がった。
煌めく赤色が花のように咲いて、遅れてやってきた全身を心地良く揺さぶる重低音とともに、名残惜しそうに消えていく。
二発目が打ち上がったのは、その少し後。
同じように広がる緑の閃光は、やっぱり名残惜しそうで、夜闇に染み入って消える。
その後も、そのまた後も、次々と上がる大きな花火を、ぼんやりとその場で見上げていた。
「……」
花開く光はその種を替え、吹き上がるように、そして滴るように。
眩い光が、見上げる私を焦がしてしまうみたいな錯覚が、あった。
「……夏の終わり……か」
余韻を空に残す光。
夏の終わりの風物詩。
こんなもので、終わる、夏。
こんなもので、終わったと言われてしまう。
あの光は、まだ、残っていたいんじゃないだろうか、なんて。
滴り落ちる火花は、勝手な終わりを、嘆いているんじゃないだろうか、なんて。
「……」
ゆっくりと、打ち上がる花火に手を向ける。
……ここで、あれらをわからなくしたら、どうなるだろう……。
人間には、妖怪が降ってくるように見えるかもしれない。
中には、金とか、そんなことを思う奴もいるかな、なんて思って。
「…………い――――」
「――――ぬえっ!!!」
「いけ」と力を放とうとした瞬間、後方から声がした。
目を向ければ、遠くから花火で浮かび上げられた人影が駆けてくる。
……残念。
光さえなければ、誰だかわからなかったのに。
誰だかわからなければ、私はそのまま……力を放っていただろうに。
駆けてくるのは紛れも無く、星だった。
「ぬえっ!」
星は速度を緩めることもなく、こちらに近づくと、そのまま、
「――――この、バカ者めっ!!」
「あぶっ!?」
勢いのまま、ラリアットを繰り出した。
強かに顔面を打たれ、視界に火花が散る。
思いもよらない行動に、私はバランスを崩して、抵抗も虚しく地面に尻もちをついた。
「な、何すんだ、このバカ寅っ!」
患部を抑えつつ、目を向けると、腕を組んで仁王立ちする星の姿があった。
プスプスと煙の上がりそうな表情の星は、額に汗。
よく見れば、呼吸も大きく、整えるようにしているようだった。
「バカはお前だ、このバカぬえっ!一体どれだけ探したと思っているんだ!!」
「だからって、いきなり殴ることないだろ、バカ寅!」
「日頃の行いが悪いからだ、まったく」
「日頃のことは関係ないだろっ!」
「ああ、そうとも、関係ないともっ」
「くっ、このっ」
「お前が付けていた面を屋台の亭主がつけているとも知らずに、妙に親密に話をしてしまっていたとか、それを知り合いに見られて不可解な目で見られていたとか、そんなことは一切関係ないからな、ぬえっ!」
星に掴みかかってやろうかと思って立ち上がる。
しかし、正面に捉えた星の様子に、その考えもすぐにぼやけてしまった。
「…………うっさい、バカ寅」
代わりに小さく言って、踵を返す。
微かに見えた星の困った表情が、ぼんやりと私の頭に張り付いていた。
「……ぬえ」
余韻のように残る星は、そっと唇を震わせる。
どうしてか、情け無いような、声で、そっと。
……聞きたくない……。
そんな……しょげた声で……しゃべらないでよ……。
「ぬ――――」
どんと鳴る花火が一つ上がって、全ての音を遮った。
じんと響く音は鼓膜だけでなく、全身を震わせるように大気を揺らす。
まるで、この夜から音そのものをわからなくするみたいに。
けれど、反響は残響に変わって、すぐにただの静寂に戻って、しまった。
……。
もし、続いてくれたなら……星の言葉を聞かなくてもいいのに。
「……ぬえ」
ほら……やっぱり。
……星の、声……。
「…………ぬえ」
ホント……うるさい……。
早く、次の花火が来てくれることを思う。
それも、連続した、全部を揺らしてくれるみたいな音。
けれど。
――――ドンッ。
空から落ちてくる音は、やっぱり一つきりで。
ポツリ、ポツリと上がっては、辿々しく振動を響かせるだけ。
それでも。
それでも、一帯の音を隠してくれていた。
……帰ろ。
一歩、足を踏み出す。
暗くて見えない地を、踏む。
それは、どこまでも沈んでいってしまいそうな錯覚にも似ている気がした。
でも、それくらいが……私にはちょうどいい――――。
「ぬえ」
足に合わせて動かした手を、星が掴んだ。
「……なに?」
「どこに行くつもりだ?」
「…………別に……」
握られた手が、痛い。
力強い星の手は私を離さないようにしている、みたいだった。
どこに行くなんて、そんなの……決まってるのに……。
………………帰るだけ……。
…………それだけ。
言う必要も……ないこと……。
言わなくても……わかっていることなのに。
振り返ることのない私を、星は手を掴んだまま。
私もそれを振り払うこともせず、ただ、顔を合わせることもなく、止まっていた。
「……」
「……」
ピタリと止まった空間に、遠くで花火が上がる。
チカチカとするような閃光は、視覚だけでなく、心まで刺激しているようだった。
弾けたように強く、消えるように弱く、鼓動を落ち着かせない。
けれど、明暗の度に、私たちを照らして、また、隠してくれていた。
光の明滅でぼんやりとした私の視界は、何を捉えているのだろう。
そんなことも、よくわからない。
ただ、照らされた光でわかるのは、私と星はまだ、動き出すこともできないでいることだった。
「……急にどこかに行ってしまったから……心配、した」
そんな中で、ようやく聞こえたのは、星の、力の無い言葉だった。
「……置いて、いくな」
独り言みたいな星の、声。
けれど、それは、確かに私に向けられたもので。
「……なに、それ……別に……置いていってない……」
「……」
「ただ……帰ろうと思っただけだから……」
「声をかけてくれれば良かっただろう……」
「……迷惑でしょ」
「……どうしてだ?」
「…………」
「…………」
「…………うっさい」
「……」
ずっと……変わっていない……。
私は……いつまで…………星を困らせれば気が済むのだろう。
「……離して……よ」
コツ。
後頭部を骨ばった感触が軽く突いた。
髪越しに伝わってくる温度に、それが星の額だと分かるのに時間はかからなかった。
星の、寄りかかってくるような髪と小さな吐息が、かかる。
トクン、トクンとした鼓動は、私から湧き出ているはずなのに、星から伝わってきていると、勘違いしてしまいそうだった。
「…………わからないんだ」
ポツリとした声が鼓膜を揺らして、思考を割く。
星の声は、揺々と不安定なはずなのに、それでも私の意識をまどろわせる。安心とか、不安とか、そういう意識の狭間に投げ出されて、私は静かに目を閉じてしまった。
「……」
何も見えない、真っ暗になった中で、小さな呼吸の音が、ただただ私を安堵させるように揺れて返している。
けれど、その半面、離れていく瞬間は、堪らなく心を締め付けるようだった。
「……お前がいないと、どう楽しんでいいのか、わからないんだ」
……そんなの……。
「……一緒にいたときは……あんなに楽しかったのに……一人になると、どうしたらいいのか……」
……ただ……慣れてない、だけなんだって……。
「ぬえがいるだけで……安心するし、退屈しないんだ……」
……じゃあ……。
……どうして……そんな情け無い声……してるんだよ。
……約束のこと……思い出したわけでも、ないのに。
……。
だって……あんなの……約束じゃ、なかったから……。
……ただ、私が。
勝手に約束だと思っていただけの……。
昔、昔々の……ただの、いつもの話の中の暇潰しみたいな……もの、だったから。
「なぁ、ぬえ……」
……。
「……色々あったけど……今日は、楽しかったな」
……良い事なんて、なかったのに?
「……とても楽しかった」
……浴衣の柄が変で、出だしから巫女にいいように言われて、山の神に気を使って、一人ではしゃいで、仕事から離れているのに仕事のことして…………今も、私に振り回されてるのに……?
「今日は……とても、とてもとても楽しかった」
静かに聞こえる星の声は、じんわりと私の中でこだまする。
それは、時間を巻き戻して今日のことを思い出させるみたいだった。
星と並んで歩いた、あの時間。
手を引かれた瞬間や、袖が触れた一瞬でさえも。
…………それは。
……………………とても、素敵で……。
ここから見えた、遠くの、今も煌々と煌めいている里の灯りよりも、温かった気がした。
「言い過ぎ……」
私が目をゆっくりと開いて、ポツリとつぶやくと、星はいつもみたいに、ははっと笑った。
「久しぶりにはしゃいでしまった」
「知ってる」
「こんなに食べて、遊んだのも、随分と昔のことだった」
「……知ってる」
「あんなに人に集まられたのも、初めてだった」
「…………知ってる」
「……財布を落としたとか、浴衣を汚してしまったことも――――」
「全部……知ってる」
星は、また小さく笑った。
楽しそうに笑っていることが、見なくてもわかる。
いつの間にか光らなくなった空の、暗闇の中でもはっきりと、わかる。
「一緒に、帰ろう」
星が前に出た。
少し引っ張られるような手の感覚。
握られた手は、じんわりと熱い。
涼しげな夜風に強められる手の温度は、終わりを迎える季節に相反して、終わりがないんだと思えた。
「……うん」
小さくうなずく。
ようやく視線を向けた先の星は、なんだか呆れていて、でも、どこか安心したみたいな顔をしていた。
その表情を照らすように先ほどよりも一回り大きな花火が盛大に咲いた。
そして、次に来る、大きな大きな振動と、心地よい静寂を心待ちにしながら、私は一歩、踏み出――――、
「あ」
そうだった。
「どうした?」
「…………下駄、壊れてた」
手に持っていた下駄を掲げると、二足は合わさってカラリと音を立てて揺れた。
6.
まどろんだ意識の中で、夜道を歩く足音が一つだけあることを感じていた。
眠気に小さな抵抗をして瞼を持ち上げると、星の後頭部がこれでもかというくらい近くにある。
帰り道でおんぶをせがんでいた自分を微かに思い出して、私は睡魔に負けて再び瞼を落とす。
密着した背中の感覚と、時折当たるくせ毛の感触を感じながらも、瞳を開けることも、指を動かすことも、できなかった。
頬を、星の肩が押す。
布地を通り越してでも分かる少し固い感触。
けれど、それも不快ではなかった。
鼻孔をわずかにくすぐる柑橘の香りが、原因かもしれない……。
……あったかい。
伝わる温度が、心地良い。
地を離れて、ゆらゆらとした不安定な感覚も、薄い。
鼓動のように響く振動は、私を安心させてならなかった。
「…………まったく、お前は相変わらずだったな……」
声が……聞こえる。
「祭りに行きたそうな顔をしているかと思えば、次にはつまらなそうにしているし……」
…………しょ……う?
「……祭りに行けば、今度は道行く人をどこか羨ましそうに見ていて」
…………。
「…………子供の面倒を見ていたのは、意外だったけれどな」
…………うっさ……い…………。
……耳が……くすぐったい。
星の、髪の毛が…………当たるから……かな。
「……ぬえ」
………………ん……?
「それでも、お前は、やっぱりお前だな」
…………。
「約束は破るために覚えておく、だっけ?」
「はは、ひねくれ者の、お前らしい言い分だな」
「…………祭りに行ってみようなんて、そんな昔の、小さな……約束も忘れてなかった」
……星との……約束……だから…………ね。
……くすぐったい。
耳に当たる感覚も、身体に触れる温度も、全部。
でも……やっぱりそれは私を心地良いまどろみから離してはくれない。
足が揺れて、風に触れる。
夏の、終わり。
涼しくなった空気が、次の、そのまた次の季節を急かしているみたいな……。
「…………あ~、楽しかったな」
…………うん…………。
「また、来ようか」
……う……ん。
小さく。
ただ、小さく。
私は息をするように、口唇を開いたと………………思う。
終わり
ぬえはネガティブな役回りがハマりますね。
乙女なぬえがかわいい
(さなぬえ れいむぬえ こいぬえ ふらぬえ こがぬえ むらぬえ ひじりぬえ まみぬえ もこぬえ)まだあるかな?
本当にぬえはこういう役回りが似合います。
ちょっと「……」を使いすぎていたり、ぬえの心境をストレートに書きすぎている気がしました。
お約束的な展開、勿論構わないのですがその展開でも読者を引きこませるような、そんな文章を読んでみたいです。
(と言いつつ、私もあまり具体的なことは言えず……申し訳ない)