冬も深まる如月の頃、幻想郷は白い雪に覆われる。
冬の妖怪や、氷の妖精などは元気よく飛び回っているが大抵の者は外に出るのも億劫になる。
それは、三途の川でも同じ事で。
「あー、寒い寒い」
寒い寒いと言いながら、特に寒そうでもなく樹木の根を枕に雪の上に寝っ転がっている一人の娘。赤い髪の毛に、妙に薄着なその姿が艶めかしい、そして木に立てかけてあるのは大きな鎌。
死神、小野塚小町である。
「こんな日はお仕事なんてやってらんないね~」
何に対してか、言い訳をするかのような台詞を吐く。
仕事というのはもちろん三途の川の渡し守だ。この三途の川を彷徨う魂を見つけ、裁判長である閻魔の下に導くのが彼女の仕事である。
この川は、その人間が生前に得た罪によって長さが変わるという。
そして、その川に死神の船以外が浮かぶ事はない。
死した魂は、死神に連れられ川を渡り裁きを受けるのだ。中には例外もいたりするが。
しかし、この日の小町に仕事をする気はあまりないらしく。
「お昼寝お昼寝」
そんな事を言いながら目を閉じる。寒かろうが暑かろうが彼女にはあまり関係のない事のようで。気分良さそうに昼寝を決め込む腹のようである。
横になって一刻も経っただろうか、ざく、ざく、と言う音が小町の耳に入る。雪の上を歩む音だ。
「ありゃ、お客さんかね」
気持ちよく眠ろうとしていたというのに間の悪い事だと思いながら、目を開き頭をボリボリと掻く。
音のする方に目を向けると、ひょこひょこと歩いてくる人影が見えた。
こちらから川辺に彷徨う魂を探す気は無かったが、あちらからやって来たのなら仕方がない。
「やれやれだねえ」
人影が徐々に大きくなってくる、小柄な老人だった。羽織袴を身につけ、口元には白い髭を蓄えている。そして何よりも特徴的なのはその手に持つ五尺程の手槍。高齢なのだろうが、かくしゃくとした歩みだった。魂にそんな事を言っても始まらないが。
どこか、硬い岩のような印象の老人だった。
近づいてきたその老人が小町の事を認めたようだ、声を掛けてくる。
「そこな娘よ」
「あいよ、なんだい爺さん」
小町の言葉に少し驚いた様子で眉を上げて、老人は続ける。
「ああ、すまんな、此処はどこであろうか、儂は先ほどまで小田原の邸宅にいたはずなのだが、いつの間にか雪の上に投げ出されておった、しかも不思議な事に寒くもない」
「小田原?あー……爺さんアンタひょっとして外来人かい?」
小野塚小町は幻想郷担当の死神ではある、しかし常世と違ってあの世は八雲紫と博麗の巫女のつくった結界が曖昧な部分がある。
冥界や、天国、地獄と呼ばれる部分は外の世界と幻想郷と言うようには別れていない。故にその入口の三途の川に時たま外来人が流れ着く事はままあった。
特に、ここ数十年ほど、死者の数が増えており、小町も何度か外の人間を運んでいる。その死者達からいくらか外の話を聞いていた。明治維新、そして、今は大正というのだったか。
「外来人?はて、儂は日本人だが」
「ああ、ああ、良いさ、ここに来るもんに外も中も無いさね」
「ふむ、良く分からん事を言う、しかしどういう事なのかの、儂はもう殆ど身動きも取れぬ程に病に蝕まれておったというのに」
「まだ良くわかってないんだねえ、無理もないけれど」
「どういうことかな?」
「んーと、取り敢えず気を落ち着けて聞いておくれよ、ここはね、三途の川、そしてあたいは死神の小野塚小町」
「……ほう」
老人は落ち着いて腕を組む、槍は握ったまま。
自分が死んだ事を肯んじられる人間などそう多くはない。普通ならばここまで言った所で冗談だと思い大笑いするか、悲観して取り乱す人間が殆どだ、それを宥めたりするのも死神の仕事だったりするのだが、この老人はそのどちらとも違った。
「なるほど、つまり儂は死んだのだな、これが夢か何かでなければ」
「まあ、そういうこったね、分かりが良くて助かるよ」
「何となくそんな気はしていた。よもやとは思うていたが、そうか」
「そんでこれからアンタはあたいに連れられて、閻魔様のお裁きを受けに行くのさ」
「そうかそうか」
小町が説明をすると、まるで老人は我が意を得たりというように一つ大きく頷いて。
「ようやっと、儂は死ねたのか」
にこりと笑ってそう言った。
年老いて死んだ人間の中には、稀にこういう者もいる。そう思い小町は船の方へと向かって歩き出す。
「取り敢えず船に乗りなよ、ああそうそう、爺さん名前はなんて言うんだい?」
「おお、そう言えばこちらはまだ名乗っていなかったな、許せ」
「んで?」
「儂は山……いや、小輔、只の小輔でよい」
「あいよ、んじゃあ小輔の爺ちゃん、早速行こうか、死出の旅へ」
言って老人を促し、船に乗り込む、機嫌の良さそうな老人と、力の抜けた少女を乗せて、船は岸を離れだした。
「どんぶらこ~どんぶらこ~ってね」
白く煙った霧の中、小町の船が川を進む。
鼻歌交じりに小町は櫓を操っている。と、何か気がついたように手を打って小輔と名乗った老人に声を掛ける。
「そうだ爺さん、あたいさ三途の川を渡るんなら駄賃貰わなきゃいけないんだよ」
にかっと笑って広げた手を老人に差し出す。
老人はキョトンとした顔で小町を見つめた。
「ふむ、三途の川の六文銭か、いやしかしまいったの、生憎と手持ちは……」
「懐探ってみなよ、爺さん」
「懐?」
老人が怪訝な顔をしながら懐を探ると、じゃらじゃらと大量の銭が溢れ出してきた。
己の手の中に握られた銭を見つめて老人は不思議そうな声を出す。
「なんだ、これは?」
「おーおー、見事なもんだ、これだけ持ってる奴なんて滅多にいないよ」
「さても不思議な事よな、何時の間に儂はこんな物を持っておったのか」
「この銭はね、生前の人徳ってえ奴によって持ってる量が変わるのさ、一体どこから沸いてくるのかはあたいにもわからないけどね」
「ふむ、人徳、人徳のう」
「そ、この川はね、生前の罪の量によって長さが変わるのさ、んで、それに釣り合う銭を持ってない奴はお裁きを受ける前に川に落とされて地獄行きってわけ」
「ふむ」
実際は死神の力による距離を操る程度の能力によって川幅は変えられる。
死者の霊と会話し、その魂が裁きを受けるに値するかどうか見極めるのも死神の仕事の一つだった。銭は、その判定の目安の一つだ。
「ならば儂は危ういな」
「へえ、そんだけ持っててかい?」
「相場が分からんと言うのもあるが、儂のした事を考えるとな、ま、行く末は最早ないとしても来し方を思うには長い方がちょうど良い」
「ふぅん……な、爺さん聞かせとくれよ、アンタ生前は何してたんだい?」
小町が尋ねると、老人は自分が船に乗った岸を見つめた。もう決して戻る事のない常世を見つめようとしたのだろうか。
「そうさな、まあ色々とやっては来たが……」
顎に手をやり髭を撫でる。その仕草はどこか威厳すら感じさせるたたずまいだ。
「ひとごろしかの」
「へぇそいつはまた、罪深いこったね」
「そうさな、斬らねばならぬ理由があった、というのは言い訳にはなるまい、それに、わしの命で多くの人間が死んだ」
「ふぅん、後悔してるのかい?」
問われると老人は腕を組んだ。少し眉間にしわを寄せている。
何事か、考えているような、思い出しているような、そんな表情だった。
「後悔、というのとは違うな、己のなしたることを思えば、その時その時で最善の道はあれしかなかったと思っておる、ああ、儂にとってと言う事ではないぞ」
「じゃあ、何にとってだったのさ」
「国、そして志かの」
「志ね、あたいにゃよくわかんない感覚だ」
「なに、儂にもいまだ良くわかっておらん、本当は一介の武弁でありたかった、この槍でもって身を立てる、江戸に千人の弟子を迎えた道場を建てる、そんなことを夢見とった。志というのは、他人が落っことしていったものだったな」
言うと老人はその五尺ほどの手槍をぽんぽんと叩いた。
穂先が霧の中だというのに光っている。猛々しく、どこか哀しげに。
「みぃんな、先に逝ってしまった」
老人は離れていく岸を見つめている。
「先に死んだ人間とは会えるのかな?」
「さぁてね、地獄に堕ちるか天国に昇るかによって違うんじゃあないかい?それに、転生してたら会えないかもねえ」
「そうか」
船は水を切り裂いて進む。
ぎぃこぎぃこと、小町の操る櫓の音だけが川面に響く。
「ここのところ、お外は大変だったみたいだねえ」
「ふむ、そんな事も知っておるのか」
「まあね、幾らか話も聞いているし」
「大変と言えば大変であったかな」
「爺さんも苦労したのかい?」
「苦労、苦労なあ、果たしてあの時代を生きて苦労をしなかった者がいたのかどうか」
「そりゃまた、難儀な時代に生まれちまったんだねえ」
岸から目を離した老人が小町に目を向けた。
「聞きたいのだが、高杉、だとか吉田、坂本、木戸、西郷、大久保、伊藤、桐野なんて者達を運んだりしたかな?」
どこか、期待するような声で老人が尋ねた。
小町は顎に手を当てて思い出そうとしてみる、しかし、聞き覚えはなかった。
「いんや、覚えはないねえ」
「然様か」
「お友だちかい?」
「そうだな、友達などと言うにはおこがましいが、そう呼べるのは伊藤くらいのものかな、後は儂の師というか、尊敬していた人たち、そして、儂が殺した者達か」
「へえ」
「あの中の一人でも生きておってくれればなぁ、まあ、伊藤は割と付き合ってくれたが、そうすれば儂が舵取りなどしなくてすんだというのに」
「舵取りって何の?」
「日本の、だな」
何か、毒でも吐き出すように老人は大きなため息をついた。
「へえ、爺さん偉い人だったのかい」
「偉くなど無いよ、元帥、宰相、閣下などと呼ばれはしたが。ただ他にやれる人間がいなかった、だから儂にお鉢が回ってきただけの事で、本来その様な器ではなかった」
「仕方ないね、そういうもんだ」
小町が言うと老人は今度は船の進む先に目を向けた。対岸は、霧に包まれて見えない。
「儂は貧乏人の倅でな」
「うん」
「身分を侍と称していたが、元々は中間という小間使いのようなもので、寝る時は藁むしろ、子どもの時分に腹一杯飯を食うた記憶もない。村では仲の良かった娘が人買いに売られていくなど、しょっちゅうであったし、冬になれば幾つかの家族は飢えて死んだ。貧乏とは、あらがえぬ理不尽そのものであった、それが、幼心に嫌で嫌でたまらなかった」
老人は槍を抱えて肩をすくめる。
何だか背中が小さくなったように見えた。
「かといって学もないから精々槍の腕を磨いた、庭の木を棒でつっぱらかしてな、先も言ったとおりいつか江戸に上り、武で身を立てようと思ってのう」
槍を抱えたまま、老人は掌を見つめた。
「まあ、そうおかしな事じゃないんじゃないかい?」
「しかしな、出会ってしまったのだなあ、夢に」
「夢か、良い事じゃないのかい?」
「ああ、それは楽しかったよ、しかしな、一人で見るには大それた夢だった、国の形を変えようと、己ら貧乏人がなんとか幸福に暮らせる国を作ろうと、仲間と共に見たからこそ夢は美しかった。共に夢見た仲間達が一人死に、二人死に、そうしていくうちに、何が何だか分からなくなってしまった」
少し前に明治維新という大きな事件があった事を小町は聞いている。
それは、多くの人間が死んだのだという。
さらに最近ではこの幻想郷の外の世界の更に外でも多くの人が死んだという事だった。
「何故、儂が生き残らねばならなかったのか、儂などより聡明な人間はあの頃はいくらでもいた、それなのに、全部儂に押し付けて、先に逝ってしまった、あの人達が残した夢の欠片を何とか拾い集めようと必死だった」
「頑張ったんだねえ」
「だけどの、所詮儂は長州の芋侍でしかなかったな、戦を止める事が出来ず、戦果を上げ、国は富んだがあたら若い命を散らせ、挙げ句の果てが明治の妖怪呼ばわりよ」
日清戦争、日露戦争、そして、世界戦争等という言葉は聞いた。
この幻想郷では考えられない程の規模の殺し合い。
かといって、小町にその事に関する感慨はない、人は生き、そして死んでゆく、それが、運命というものなのだから。
「そんな風になりたくはなかったのにな、ただ、誰も飢える事のない国が出来ればそれで良かった、爵位ももろうた、恩賜の金時計ももろうた、けれど、そんなものが欲しかったわけではない」
消沈してしまった様子の老人を見つめて、小町は腕を組む。
すっかり小さくなってしまった老人の背中は、枯れた老木のように見えた。
「あのさ、爺さん、こりゃここのところの話なんだがね」
「なにかの」
「他の死神からも話を聞くんだけどもさ、ここのところ、飢えて死んだって話は減ってるんだってさ、子どもが死んだって話も、昔と比べてだけどね」
ぴくり、と老人の背中が動いた。
「アンタが何をした人なのかはあたいには分からないけれど、アンタがどれだけ人を殺したのかはわからないけれど、例え押し付けられた事だったとしても、取り敢えず正しいと思ったことをしてきたんだろ?」
「まあ、な」
「それがどうだったか、ってえのは閻魔様が教えてくれるよ、話聞いてりゃ少なくともアンタのお陰で飢えないで済んだ子どもは増えたんじゃないかねえ」
「およそ、人間では言えぬ台詞だの」
「まあ、死神だからね」
「神も仏も、おらぬと思うていたよ」
「罰当たりだねえ、爺さん」
「罰でも、当ててくれれば良かったのだがな」
「アンタが殺した人間も、アンタが死なせた人間も、そんな台詞は聞きたかないだろう」
「ふむ」
老人は背筋を伸ばす。
まるで、戦にでも出るかのように。
「そうか、そうだな、いわでもの愚痴であったな」
「あたいは良いさ、そんな事を聞くのも仕事の内だからね、思った事は言うけれど」
「なるほどの」
「まあ、神様の端くれだからね、本当に、端っこの方だけれど」
深い霧の中、船は進む。
消えゆく定めの魂を乗せて。
ぽつり、と老人が呟く。
「思い出だけは、色褪せる事はなかった」
「もう、全てが思い出になったさ、死んじまったんだからね」
背中で、老人がふっと笑ったように見えた。
四季様はこの老人をどう裁くのだろうか。
考えても、意味のない事だが。
「上手い事を言う」
「あんがとさん」
「儂も、お主のように軽妙に生きられればの」
「まあ、云百年とこの仕事してるからね、いちいち重かったら運ばれる方が嫌だろうさ」
老人が向き直り、小町の顔を見つめた。
柔和な顔をしていた。
「礼を言う、小町とやら、儂は死したと聞いて、全てから解放されたと思っておった、そうではないな、全て抱えて死んでいこう、罪も、栄光も、何もかも」
「無かった事には出来ないからね、ま、思う所があるなら閻魔様に堂々といいなよ、堅い人だけれど、そう話の分からない人でもない」
「うむ、儂の人生、そう悪いものでもなかったようだ」
そう言うと老人は立ち上がり、大事そうに抱えていた槍を握り直し、天に向かって放り投げた。
ちゃぽん、と言う音と共に槍は川へと吸い込まれていった。
「おや、大事そうにしていたのに」
「最早一介の武弁に戻る事は出来ぬ、儂はやはり山県小輔ではなく、山県有朋として死んでゆこう、全てを捨てて、あの頃に戻ろうとは虫のいい話であった」
船は進む、櫓の音だけを響かせて。
その上に立つ老人は、じっと対岸を見つめ、風に吹かれていた。
まるで、何もかもと向き合うように。
「会えるといいね」
「なにがかの?」
「アンタの会いたかった人たちに」
「そうだな、愚痴は、高杉さんに聞いてもらう事にしよう、昔のように」
半ば独り言のような言い方だった。
今日の仕事はこれで終わりかな、そんな事を考えながら小町は櫓をこぎ続けている。
対岸は、まだ見えない。
山県有朋
旧名 山県小輔
足軽中間の子として生まれ、長じてからは吉田松陰に師事し、長州藩の維新志士として回天に尽力する。五尺の短い手槍の扱いに秀で、槍の小輔の異名をとった。高杉晋作率いる奇兵隊に所属し、世に出る切っ掛けを得た彼は、その後目覚ましい栄達を遂げる。
回天後、明治に入りその権力は増大し、内閣総理大臣、内務大臣、陸軍参謀総長などを歴任し、元老中の元老と呼ばれ、日本陸軍の基礎を築いた彼は、やがて国軍の父とも呼ばれるようになっていく。
元帥陸軍大将、従一位、功一級金鵄勲章、公爵その他諸々の栄光を誇った彼は、得られる誉れは全て得たと言って良い。しかしながら彼の葬儀は国葬とされながらも、その強大な権力と、長州閥という点から東京の民には嫌われ、彼の骸を見送る人々の数はまばらであったという。
晩年も己の事を一介の武弁と語っていた彼の死後、元老の中に軍歴のない人間達だけが残り、徐々に軍部と政府の統制は失われていく。そして山県の死から七年後世界恐慌が起こり、日本はその混迷を深めていく事となる。
1922年2月1日、小田原の邸宅で死去、享年83歳
山縣なる人物は知らないのですが楽しく読ませていただきました。人生を振り返り、良しとして逝ける姿の気持ちいいこと。こまっちゃんの気っ風も心地よし。
ただ作品の物語性が「山縣氏の半生」にしかなく、全体に観れば東方SSとして起伏がなかったことだけ気になりました。
総理大臣やってたぱっとしない人だ……(失礼
もっとよく知りたいな、調べてみよう
なんだかしみじみとしながら読ませていただきました。
小町が出演ているだけで、東方色は薄い気がしました。が、この雰囲気が好きだ。(断言
山県氏の自称は「山縣」だった気がするので、『儂はやはり山県小輔ではなく、山県有朋として死んでゆこう』の部分だけは
「山縣」として人物紹介で注釈すべきなのではないかと思いましたが、そうかこちらが修正後か。
となると、どちらがいいかは判断しかねるのでこれでもいいのかな。
いくやまいまい……
個人的にこまっちゃんはとても聞き上手なイメージなので、
このようなアプローチの物語におけるホスト役としては、まさにはまり役だと思いました。
山県翁最後の旅路のツアコンが優しい死神さんで本当に良かった。