カランコロンと下駄の音が鳴り響く。
天気は雨。水無月も中旬となり、幻想郷にも梅雨が訪れていた。
人々はしとしとと降り続ける長雨にうんざりしているのか、普段ならば活気に満ち溢れている人里の通りには数える程度の人影しか見られない。
そんな中、彼女の姿は一際目立っていた。
歩いている者のほとんどが傘を差して俯きがちに歩いているのに対し、彼女はまるで雨が降っているのが嬉しくてたまらないとでも言うように楽しげに歩いていた。その弾むような歩調に合わせて、彼女の履いている下駄がカラコロと音を鳴らす。
彼女が持っている傘は幻想郷でも珍しい紫色で、一つ目つけてベロを出してる、お化け傘。傘が少し持ち上がったときに覗ける瞳は、紅と碧のオッドアイ。
多々良小傘だった。
◇ ◆ ◇
小傘はこの梅雨という時期が好きだった。長々と細々と降り続ける雨には風情があるし、何しろ彼女自身傘から化けた付喪神<ばけどうぐ>である。己の分身たる自慢の化け傘を差して、雨の中どこに向かうでもなくふらりふらりと散歩するのが彼女の好きな時間だった。
カランコロンと下駄の音が鳴り響く。
「あれ?」
一通り人里を歩き回り、さてそろそろ帰ろうかと思った矢先、小傘の目に飛び込んでくるものがあった。
「どしたのお前さん、こんなところで」
民家の間の細い路地。その奥まったところにあった若草色の唐傘である。
妖怪に化けてしまったとはいえ小傘も唐傘も傘のうち。ひょいとその唐傘を拾い上げ、同族として話しかけた。
「はら、捨てられちゃったの? そんなにきれいな色なのに?」
その唐傘は今こそ泥で汚れてしまっているものの、元は鮮やかな緑色だったことが見て取れる。それなのに捨てられる理由が小傘にはまるで分からなかった。
「ん、どれどれ」
ばさぁ、と小傘が唐傘を開くと、骨が何本か折れてしまっているのが分かった。
「ひぃふぅみぃ……。結構折れちゃってるねぇ。でもこれくらいなら修理できそうなもんだけど」
唐傘は答えない。
「うーむ、もし良かったらだけどさ、お前さんうちに来ない? うちにはお前さんと同じような子たちがいるから寂しくないと思うよ」
少なくとも泥に塗れてるよりはずっといいでしょ、と小傘は言う。
唐傘は答えない。
「ふふ、決まりだね。ちょっとかび臭いけどいいところだよ。あぁでもお前さんはすぐにいなくなっちゃうかもしれないけどねぇ」
小傘は広げた唐傘を閉じると、カラコロと音を立てて歩き始めた。
「んー? そのまんまの意味だよ。いーこと思いついたからさ、それで一緒に人間を驚かそうと思ったの」
唐傘は答えない。
「あ、そういえば私のこと言うの忘れてたね。何を隠そう、わちきは化け傘。愉快な忘れ傘こと多々良小傘だよぅ」
唐傘は答えない。
「そうそう、私も人に捨てられちゃった傘だからさぁ、お前さんみたいなのは放っておけないんだよね。――お前さんは私みたいになっちゃいけないよ? これはこれで楽しいけど、傘は人に使われてなんぼってさぁ」
唐傘は答えない。
しかしそれでも小傘と唐傘は確かに『会話』していたのだった。
◇ ◆ ◇
だいぶガタがきて開きにくくなった引き戸を力任せに引き開ける。
見上げた空はもはや見慣れた濃灰色。空一面の雲からは止むことなく小粒の雨が降り続いている。
はぁ、と男はため息をついた。
梅雨だから雨が降るのは仕方がないということは分かっている。この時期に雨が降らなければ夏に水不足になることも当然分かっている。だがこれで二週間連続の雨模様だ。いい加減に太陽の光を浴びたいと思っても無理はないだろう。
ぐぅ、と湿気に満ちた空気の中で伸びをする。常時湿気で蒸し暑い梅雨だが、早朝のこの時間だけはわずかに気温が低く、心地いい。
「ん?」
自分の家の壁に何かが立てかけられている。なんだ誰かの忘れ物かと思ったが、それが何なのか分かった途端男の眠気は軽く吹き飛んだ。
「俺の傘じゃねぇか」
それは少し前に強風に煽られたせいで骨が折れてしまい、もったいないと思いながらも捨ててしまった唐傘だった。
でもなんでこんな所に。そう思い、彼は唐傘を手に取る。若草色の傘紙。傘の柄に刻まれた細かい傷。間違いなく彼の傘である。
何となく傘を開いてみると、折れていたはずの骨が下手くそに修理されていた。
「おかしなこともあるもんだ」
まさかこの傘が妖怪変化に化けて帰ってきた訳ではあるまいな。
そう訝しみはしたが、たかだか数年しか使っていない傘がまさか化けることはあるまい、と思い直す。
「ま、得したってことでいいのかね」
彼は傘を閉じると、それを持って家の中へと戻っていった。
◇ ◆ ◇
「よかった。ちゃんと帰れたみたいだね」
男が唐傘を持って家の中へ入っていく様子を見て、小傘は安堵したように呟いた。
続いて男の驚きによって満たされたお腹をさすりさすり。
「さーて、お腹もふくれたし、今日は何して遊ぼうかなー」
早朝の誰もいない通り道。
カランコロンと下駄の音だけが鳴り響く。
天気は雨。水無月も中旬となり、幻想郷にも梅雨が訪れていた。
人々はしとしとと降り続ける長雨にうんざりしているのか、普段ならば活気に満ち溢れている人里の通りには数える程度の人影しか見られない。
そんな中、彼女の姿は一際目立っていた。
歩いている者のほとんどが傘を差して俯きがちに歩いているのに対し、彼女はまるで雨が降っているのが嬉しくてたまらないとでも言うように楽しげに歩いていた。その弾むような歩調に合わせて、彼女の履いている下駄がカラコロと音を鳴らす。
彼女が持っている傘は幻想郷でも珍しい紫色で、一つ目つけてベロを出してる、お化け傘。傘が少し持ち上がったときに覗ける瞳は、紅と碧のオッドアイ。
多々良小傘だった。
◇ ◆ ◇
小傘はこの梅雨という時期が好きだった。長々と細々と降り続ける雨には風情があるし、何しろ彼女自身傘から化けた付喪神<ばけどうぐ>である。己の分身たる自慢の化け傘を差して、雨の中どこに向かうでもなくふらりふらりと散歩するのが彼女の好きな時間だった。
カランコロンと下駄の音が鳴り響く。
「あれ?」
一通り人里を歩き回り、さてそろそろ帰ろうかと思った矢先、小傘の目に飛び込んでくるものがあった。
「どしたのお前さん、こんなところで」
民家の間の細い路地。その奥まったところにあった若草色の唐傘である。
妖怪に化けてしまったとはいえ小傘も唐傘も傘のうち。ひょいとその唐傘を拾い上げ、同族として話しかけた。
「はら、捨てられちゃったの? そんなにきれいな色なのに?」
その唐傘は今こそ泥で汚れてしまっているものの、元は鮮やかな緑色だったことが見て取れる。それなのに捨てられる理由が小傘にはまるで分からなかった。
「ん、どれどれ」
ばさぁ、と小傘が唐傘を開くと、骨が何本か折れてしまっているのが分かった。
「ひぃふぅみぃ……。結構折れちゃってるねぇ。でもこれくらいなら修理できそうなもんだけど」
唐傘は答えない。
「うーむ、もし良かったらだけどさ、お前さんうちに来ない? うちにはお前さんと同じような子たちがいるから寂しくないと思うよ」
少なくとも泥に塗れてるよりはずっといいでしょ、と小傘は言う。
唐傘は答えない。
「ふふ、決まりだね。ちょっとかび臭いけどいいところだよ。あぁでもお前さんはすぐにいなくなっちゃうかもしれないけどねぇ」
小傘は広げた唐傘を閉じると、カラコロと音を立てて歩き始めた。
「んー? そのまんまの意味だよ。いーこと思いついたからさ、それで一緒に人間を驚かそうと思ったの」
唐傘は答えない。
「あ、そういえば私のこと言うの忘れてたね。何を隠そう、わちきは化け傘。愉快な忘れ傘こと多々良小傘だよぅ」
唐傘は答えない。
「そうそう、私も人に捨てられちゃった傘だからさぁ、お前さんみたいなのは放っておけないんだよね。――お前さんは私みたいになっちゃいけないよ? これはこれで楽しいけど、傘は人に使われてなんぼってさぁ」
唐傘は答えない。
しかしそれでも小傘と唐傘は確かに『会話』していたのだった。
◇ ◆ ◇
だいぶガタがきて開きにくくなった引き戸を力任せに引き開ける。
見上げた空はもはや見慣れた濃灰色。空一面の雲からは止むことなく小粒の雨が降り続いている。
はぁ、と男はため息をついた。
梅雨だから雨が降るのは仕方がないということは分かっている。この時期に雨が降らなければ夏に水不足になることも当然分かっている。だがこれで二週間連続の雨模様だ。いい加減に太陽の光を浴びたいと思っても無理はないだろう。
ぐぅ、と湿気に満ちた空気の中で伸びをする。常時湿気で蒸し暑い梅雨だが、早朝のこの時間だけはわずかに気温が低く、心地いい。
「ん?」
自分の家の壁に何かが立てかけられている。なんだ誰かの忘れ物かと思ったが、それが何なのか分かった途端男の眠気は軽く吹き飛んだ。
「俺の傘じゃねぇか」
それは少し前に強風に煽られたせいで骨が折れてしまい、もったいないと思いながらも捨ててしまった唐傘だった。
でもなんでこんな所に。そう思い、彼は唐傘を手に取る。若草色の傘紙。傘の柄に刻まれた細かい傷。間違いなく彼の傘である。
何となく傘を開いてみると、折れていたはずの骨が下手くそに修理されていた。
「おかしなこともあるもんだ」
まさかこの傘が妖怪変化に化けて帰ってきた訳ではあるまいな。
そう訝しみはしたが、たかだか数年しか使っていない傘がまさか化けることはあるまい、と思い直す。
「ま、得したってことでいいのかね」
彼は傘を閉じると、それを持って家の中へと戻っていった。
◇ ◆ ◇
「よかった。ちゃんと帰れたみたいだね」
男が唐傘を持って家の中へ入っていく様子を見て、小傘は安堵したように呟いた。
続いて男の驚きによって満たされたお腹をさすりさすり。
「さーて、お腹もふくれたし、今日は何して遊ぼうかなー」
早朝の誰もいない通り道。
カランコロンと下駄の音だけが鳴り響く。
雨の中を楽しそうに歩く小傘が、唐傘に話しかける小傘が、可愛くてたまりませんっ!
梅雨空やその下の里の描写も過不足がなく素敵でした。
盗まれたり、壊れたり、すり替わってたり。梅雨のこの時期、傘が泣いてるよ全く。
と、作中では描写されていない唐傘のセリフを想像したら良い気分になったのでこの点を。
お見事でした。次作を期待しております。
みんな得して悪いことなしですね。
こんなにも優しい唐傘なら拾ってあげたいです。
壊れてしまったのかを確かめるより先に、まず見栄えの点で自分と比べる。
そして、捨てられるなんて奇妙な話だと考える姿には、なんとも言えない物悲しさがありますね。
自分を卑下するような事を言わないで欲しい、貴女は不要な存在なんかじゃないと叫んで伝えたくなるような苦しさです。
そんな寂しい雰囲気も漂っていたのですが不思議と卑屈な感じは無く、仲間に誘う場面はごく自然なものとして受け入れられました。
憐憫とは異なるようで、慰め合いとも違う印象。彼女の人柄が偲ばれる、とても優しい言葉ですね。
冒頭にある小傘の明るい調子が、この場面に影響を与えているために殊更そう感じられたのかもしれません。
降っている雨は涙ではなく、二つの傘の心を癒してくれる奇跡の雨。
この物語の中で彼女達が幸せになれないなんて展開は、絶対にありえないでしょう。
救いに満ちた世界が広がっているようでした。
修理可能、そしてすぐにいなくなるかも、という流れでおやっと思う。
そして(おそらくは極上の笑顔と共に)発せられた言葉。
「一緒に」人間を驚かせようという誘いは、両者の関係を対等にする素敵なものですね。
どちらが上位の立場であるかを考えていると無意識に言葉遣いも変わってしまうものですが、そんな嫌味がまるでない。
彼女の傘にも使われている紫色は、作り出す事の難しさから多くの地域で高貴の象徴になっていたといいます。
まさにそんな止ん事無い生まれの方のような、精神的な美しさを感じ取りました。
さて、ようやく自己紹介が始まり、付喪神になった経緯を簡単に話す小傘。
明るい口調だけれど内容は同情されるようなもので、それでも決して暗いだけではないと感じました。
小傘の魅力が上手く描かれており、特に「傘は人に使われてなんぼってさぁ」というのが良かったです。
この台詞には、いったいいくつの感情が込められているのでしょうね。とても味わい深い言葉です。
>唐傘は答えない。
>しかしそれでも小傘と唐傘は確かに『会話』していたのだった。
雰囲気を形成するだけであった無色の沈黙は、読み返した際に、いつの間にか七色に輝いている事に気づかされます。
一読の段階では小傘の声が道具に響いて、僅かな反響音があるだけのようでした。
しかし、次に読んだときには曖昧な感情が感じられ、三度目では返答が、四度目は戸惑い、今度は喜び。
読むたびに唐傘の言葉が違って聞こえるようで、何度も読みたくなる、他の方にも是非そうして欲しいと感じました。
ここを読み返さないのは勿体無いと言えるでしょう。寡黙でありながら多弁という、不思議な感覚でした。
場面は変わって、捨てられた傘の持ち主視点へ。早朝の気持ちよさが適度な文章量で語られる。
そして……薄っすらと予感していた未来が訪れたのだと分かった時、手を叩いて喜びました。
とても素敵な驚かせ方ですね。
満腹になり、小傘の心も満たされるという二重(緑の唐傘と持ち主の利益を含めれば四重)に幸せになれる作戦とは。
読み終えた後、ずっと幸せな気持ちに浸れました
小傘の魅力を余すところなく表現している、とてもいい作品ですね。
描写の過不足については、ひとつだけ気になった箇所があります。
傘の妖怪ですから雨音は常に存在しているのが当たり前で、それが意識されていなくとも問題ないのかもしれません。
しかし、民家に挟まれた狭い通路を進むのに傘を畳まないで通れるのか、ぶつからないのかというのは疑問でした。
テンポを重視するのであれば、路地の奥ではなく手前に傘が落ちている状況で良かったのでは……。
不満はそのくらいで、他には気になる点もない、素晴らしいお話でした。
この物語では出番がありませんでしたが、小傘と他の傘たちとの暮らしも見てみたいですね。
最後の締めで、始まりと同じようにカランコロンという下駄の音が響くのは余韻を出していて良かったです。