14.崩壊/15.死へのいざない/16.揺れる大祀廟
17.蝕/18.没した日は、いずれまた
斑鳩宮の一室。実質的に布都の自室として使われていた部屋には今、神子と屠自古の姿があった。
当の部屋の主といえば、部屋の中央に敷かれた布団の上で、死んだように眠っている。
その顔は血の気も生気も失ったように白く、呼吸も戸のすきまを抜ける風のようにか細い。額から流れ出る多量の汗だけが、彼女が生きていることの証明になっているのが皮肉である。
「……嘘でしょう」
「いつから……布都はこの状態に」
絶句する屠自古と神子は、布都の傍らにいる薬師へと尋ねる。
「昨晩から急に発熱と少量の喀血があったそうです。私が呼ばれたのは明け方でしたが……その頃にはこの状態で……」
「こ、これは……なんなのだ!? 病か!?」
「……落ち着いて、屠自古」
薬師に近寄って問い詰める屠自古を抑えつつ、神子は視線で同じ問いをした。
「……はい。私には……はっきりとは分かりませんが、これは病ではなく……何らかの毒を盛られたのではないかと……」
「ど、毒!? 誰が……!」
言いかけた屠自古は、自分で気付いてしまった。神子も同じ予想を立てたのだろう、口を真一文字に結んで表情を固くしていた。
「しかも、これは即効性のある毒ではありません。長い年月をかけて、ゆっくりと身体を蝕んでいくような毒でしょう……。ここまで進行してしまえば、私には打つ手がありません」
「……分かりました。診て下さり、ありがとうございます。謝礼は後ほど」
「いえ、負った人を救えなかったというのに、謝礼など……」
そういうと薬師は申し訳なさそうに部屋を後にした。
途端に屠自古は顔を真っ赤にして叫んだ。
「どっ! どういう事ですか!! あれじゃあ、まるで布都がもう助からないみたいじゃない!」
「……屠自古。あなたも気付いていると思いますが……布都の身体を蝕んでいるのは……道教の修行で使っている丹砂に他ならないでしょう」
「……な、んで……。まさか、青娥の奴が……」
そこで二人は人の気配を感じて、扉の方に勢い良く振り返る。そこにはさっきまで陰も形もなかった青娥の姿があった。
彼女は床に伏せ布都を見て、無表情なままで佇んでいる。
すぐさま屠自古が弾かれたように立ち上がる。
「道士……! 答えろ、布都がこうなったのは……お前が与えた丹砂のせいなのか!?」
睨みつけながら問う屠自古へ向けて、青娥はゆっくりと唇を動かす。
「ええ、そうです」
一瞬の沈黙の後、怒号が響き渡る。
「き、貴様ァああああ! やはり我らを謀ったのかぁぁ!?」
屠自古は憤怒のままに青娥へ突進する。
いつもの青娥ならば、それをひらりと躱してクスクスと笑っていそうなものである。しかし、この時、彼女は屠自古の両手から逃れることなく、その首元を易々と握られた。
「や、止めなさい! 屠自古!!」
神子は慌てて二人の身体を引き離す。青娥は喉を押さえて咳き込み、屠自古は怒りに全身を震わせたままで叫ぶ。
「何故です!? こいつが布都を……! それにあなただって丹砂を……!」
「違うのです! 私は気付きました。彼女の唇がずっと、震えていることに」
神子の言葉を受け、屠自古は少し冷静になる。
そして髪を振りほどかれ、衣を乱して床に転がる青娥へと視線を送った。
耳を澄ませば、青娥娘々は一人呟いていた。誰に聴かせるでもなく、回らない呂律のままで。
「違うのよ。違うの知らなかったのよ。私はわざとやったんじゃない。私は知らなかった。違うのよこんなはずじゃなかった私は知らなかったこんなはずじゃなかった私は騙していない私は違う私は私は私は裏切ってない私は……」
そこには、いつも余裕たっぷりで妖しげな笑顔を浮かべている青娥の姿はなく、ただ虚ろに床を見つめて呪言のようにうわ言を述べる、哀れな女の姿しかなかった。
「青娥! しっかりしてください! これは、どういう事なのですか!?」
神子はきつけをするように青娥の肩を揺さぶり、彼女の頭を上げさせた。
すると青娥は神子の肩を掴み、物乞いをする民のようにその顔を近づけてきた。
「違うのです! 豊聡耳様! 私はこんなつもりじゃなかった。私は布都ちゃんを殺そうとなんてしてない! 私は知らなかった、こんなことになるなんて……知らなかった!」
「知らなかった、とは……どういう事なのです? 丹砂の毒性については青娥も熟知していると、前に言っていたではなかったですか?」
「知らなかったんです。布都ちゃんの力が……あの素晴らしい力が……仏教のせいで弱まっているなんて……私は知らなかった!!」
そう。
物部布都の神通力は、彼女の継いだ神の血によって成り立っている。それは日本に古来より伝わる信仰の力といっても良い。
しかし蘇我氏の推し進めた仏教の布教により、大和の民は日本の神を信仰しなくなった。仏教の教えを信ずるようになった。
それは皮肉にも、布都がデタラメのつもりで兄に説明した通り、彼女自身の神通力を弱める結果になったのだ。
「い、いいい、今の布都ちゃんは大した神通力なんて持っていない……こんな才能の乏しい人には、道教の修行なんて耐えられるはずがない……丹砂を服用したらこうなるのは当然なんですよ!!」
「道士!! 貴様が布都の修行を見ていたのではないのか!? 何故、気付かなんだ!」
「この子は隠してたのよ……体調が優れないのを直隠しにしていた……だったら分かるわけないじゃない! 信仰によって“道”の才能が増えたり減ったりするなんて私は知らなかったのよ! それに、最近の不調は誘拐された精神的な負担からとも思っていたし……」
「……なんて……ことでしょう」
神子は目眩がする気分であった。
青娥には悪意がなかった。ただ知らなかっただけ。それだけで、布都は死のうとしている。
なんだこれは。どうすればよい? 神子は頭の中の思考回路が、次第に白く染められていくのを感じた。
「道士。神子様は……大丈夫なのだろうな!?」
「え、ええ。豊聡耳様は……本人の資質による力……このまま丹砂を飲み続けても問題はない」
自分が無事だというのは、それは安心できる。しかし、肝心なのは布都だ。
「布都は……どうすれば良いのです。どうすれば……彼女を助けられますか?」
神子の問いに青娥は押し黙り、床に伏せる布都へと視線を送った。
そして数秒の沈黙の末、その首を横に振る。
「もう……この子は……助かりません。もって……あと一月でしょう」
それを聞いた瞬間、神子は言葉を失った。
「……っ!」
「ふ、ふざけるなよ……。こんな馬鹿なことがあるか。不老不死を目指して……それでこんなに早死にしてしまうなんてことが……あってたまるか……」
「私の……せいです。私が全て悪い……私が……」
しばし、三人は呆然とその場に立ち尽くした。
無力感。国を統べようという王。弓と雷術に秀でた武人。道教に通じた仙人。三人が揃っていて、目の前の死にかけた少女の一人を助けることも出来ない。
「なんと……無意味なのでしょう。私は……」
神子が呟いた瞬間、布都の閉じられていた瞼が微かに動いた。
そして薄っすらと開いた瞳が、神子の顔を見つめた。
「布……都?」
「たいし……さ……ま」
ともすれば聞き逃してしまいそうなほど、微かな声。
神子はとっさに耳を近づけた。
「たいし……さま?」
「ええ、私です。豊聡耳神子です!」
「われ……は……し、ぬの……ですか?」
単純な質問。
どんな人間でもこの状態になれば、自分が命の危険に晒されていると分かるだろう。
ここで「死にません」と偽って、それが何になるのであろうか。
神子は心苦しさを感じながらも、歯を食いしばって伝える。
「ええ……。布都……あなた、は……し……死んでしまうのです」
それを聞いて、布都の手が神子に向かって、弱々しく伸ばされる。
力を失って今にも床へ崩れ落ちそうなその手を、神子はしっかりと握ってやった。
そして、彼女は再び青白い唇をなんとか動かす。
「……た、いし、さま……」
「はい。……なんですか?」
「わ、れ……は……」
「はい」
「し……にたく……な、い」
屠自古が壁を殴る音は、小さな部屋の中に反響した。
◇ ◇ ◇
確かに青娥の責任と言えば、そうであるとも言えよう。
しかし元を辿れば、神子が己の夢の為に仙人になることを望んだのが始まり。布都はそれについてくる形で仙人を目指したのだ。
それが、彼女を死に導く結果になるのだとしたら、彼女を殺したのは自分である。
――神子はそのように思っていた。
「神子様ッ!」
屠自古の声にハッとすると、目の前に敵の槍衾が迫っていた。
それを間一髪、日輪の力で撃退すると、大きく飛び退いて屠自古の元に戻る。
「ありがとうございます、屠自古。助かりましたよ」
「……戦場で呆けるなど、あなたらしからぬ失態ですね。……神子様、今は蘇我軍の大将として戦場に立っているのです。しっかりしてください」
「え、ええ」
それでも今回の采女氏との戦いでは、神子はとにかく動きに精彩を欠いた。それが多少なりとも影響したのか、蘇我軍は攻めきれずに撤退する羽目になってしまう。
「……すみません」
「何を謝ることがありますか。全ての戦で相手を倒せたら、苦労はしません」
野営地に戻ってきた神子は、屠自古と二人きりで話す。
「……私は……どうしても布都の事が気になってしまいます」
「私だって、気になりますよ。今思い出しても……悔しくて……どうにもならない。でも、やらなきゃいけないことは、やらなくては」
「屠自古は強いですね。……私は」
「自分のせいだと、思い込まないでください。……あなたまで落ち込んでしまったら、布都だって悲しむでしょう。……なにより、私はどうすればいいんです」
「……すみません。肝心な時に頼りにならずに。……私など所詮は戦いの才があっただけの……凡夫に過ぎなかったのですね」
「……神子様?」
屠自古は気づいた。
豊聡耳神子が、自分の前で、初めて弱みを見せていることに。
「一人の少女が死の淵に臨もうというのに、私には何も出来ない。ただ死に行く布都を看取ることしか……。それで、何が王ですか。何が……聖人ですか」
彼女の声は震えていた。怒りか悲しみか。
その時、屠自古は神子本来の人間に、ようやく触れた気がした。
彼女が生きてきた年月、綺麗に美しく装ってきた“王”という殻が、今崩れ去ろうとしている。中から流れ出た無垢な少女は、今までに溜め込んできた全てを、この場に吐き出そうとしていた。
今まで彼女は数多くの死に関わってきた。自らの手で葬った敵、志半ばで倒れた仲間。剣の師・椒林はまるで仙人のように達観した最期であった。
しかし、彼女の近くにいるものが惨たらしく死に向かう様を見るのは、初めてのことであった。天真爛漫な彼女が、あれほど弱り衰え、藁にもすがる想いで自分に手を伸ばす姿など、想像もしていなかった。
その衝撃は、神子が今まで積み上げてきたものを打ち崩すのに、十分過ぎるものだったのだろう。
「何が……未来永劫続く、平和な国を作る……ですか! 私は自分の欲望の為に巻き込んだ少女の、たった一人も救うことすら出来ない! それで未来の民を想っているなど……自己陶酔に浸っていたんです! 自分が特別な人間だと、勘違いをしていただけの、愚かな人間!」
「神子……様」
「すみません、屠自古。……私は……もう、戦う理由を……失ってしまった気がします」
屠自古も掛ける言葉が見当たらず、ただ彼女の傍にいてやる事しか出来なかった。
この日を境に、聖徳王は明らかに戦意を喪失し、蘇我軍の勢いも目に見えて落ちていくのであった。
◇ ◇ ◇
斑鳩宮。布都の自室では、青娥が付きっきりの看病をしていた。
「おぉ……太子様。戦は、どうでしたか……?」
神子の来訪に笑顔を見せる布都であったが、その身体は床に伏せたままである。青娥の作る薬によって気休め程度の回復は見せたが、彼女の命がもう持たない事に変わりはない。
「しばらくは小康状態が続いています。……それよりも布都。今日は面白い物を持ってきましたよ」
言うと神子は持ってきた小包を開ける。
そこには何やら図画の描かれた球体が入っていた。
「わぁ、綺麗ですね……。それは……なんですか……?」
「これは地中石と言います。私たちが住む世界を示した地図です。衣孟が大陸で手に入れたのを、送ってきてくれたのです」
「衣孟が。……へぇ~。これが……海の向こうの世界なのですか……」
布都は身体を起こすと、手を震わせながら球体を握った。そして表面に描かれた地図を楽しそうに眺める。
「……すごいですねぇ……。これが……この豆粒みたいなのが、我々の住む大和ですか」
「ええ。我々にとっては広大な土地ですが、海の向こうには大和よりも大きな、想像も出来ない世界が広がっているのですね」
「うわぁ……我も……いつか……行ってみたいな……あ」
ボトッ、と球体が床に落ちた。そして、その上から真っ赤な血が降りかかる。
「布都!?」
「いけない! 横になって!」
青娥が慌てて布都の身体を抑えるが、発作を起こした彼女は口から血反吐を吐きながら、目を見開いて暴れだす。
「うぅぅう! うぐぅうゥウあああああああ! 痛い……痛いぃぃぃいい!! 太子……様……助け……て!!」
「布都! どうか落ち着いて」
「ああああ!? ぐぅぅうあああっ、ァアわああア! あああああがっ、うっぇぇえっ」
一際大きな咳き込みと共に吐き出されたどす黒い血が、彼女の白く細い身体を汚した。身を捩って痛みに耐える彼女は、その身体を押さえつける青娥を跳ね飛ばして、床の上をのたうちまわった。
「うぅぅうぅ! アアァァアア!? 痛いッ痛いっぃいぃ!! 死にたくない!」
身体を蝕む激烈な痛みが、彼女の心の奥に抑えこまれていた死への恐怖を呼び覚ます。
あるいは外からの鋭い痛みで、内から襲いくる鈍い痛みを掻き消そうという防衛本能か。
「我はまだああぁぁァ! 死にたくないぃぃいいイイやあああ! 太子様ぁああ! 我はまだ死にたくない! 嫌だぁあああ嫌だァァアア」
半狂乱になって泣き叫ぶ布都を見て、神子は茫然自失となってしまった。
彼女は血をまき散らしながら床を這いずり、神子の方へと近づいてくる。――それはまるで、生者の魂を求める死霊のように。
「助けて助けて助けて太子様我はまだ死にたくないいいいい嫌だ嫌だこんなところで死ぬなんて嫌だあああああなんで我が死ぬのですかなんで我は我は太子様と共に仙人になるはずなのになんで我が死ななくてはあああああ嫌ぁあああああ」
とん。
布都の首筋に綺麗な手刀が入った。
いつの間にか駆けつけた屠自古が、鮮やかに布都を気絶させたのであった。
「……暴れられるよりは、布都の身体にも良いでしょう。あやうく舌を噛み切るところでした」
「え、ええ。そう……ですね」
血で汚れた服や寝具を取り替えて、布都を再び寝かせてやった。
それが終わると三人は沈痛な面持ちで押し黙る。
「……たいし……さま……」
あまりにも静かな為、布都の寝言も良く聞こえた。
「われ……あしを……っりたく……ない」
後には穏やかな寝息。
こうしてみると死期が近い重病人とは思えない。
またしても沈黙が場を支配し――
「……豊聡耳様。屠自古さん」
それを打ち破ったのは、青娥の掠れた声。
「話があります」
◇ ◇ ◇
斑鳩宮の庭で、三人は密談をした。
青娥の話は至って簡単。――布都を救う唯一の方法についてであった。
「尸解仙……」
「そう。自らを呪い殺し、一度死してから蘇る究極の邪法」
邪仙である彼女が言い憚る程の、危険で邪悪なる最終手段。それが尸解仙の術であった。
「そんな方法があるのなら……何故最初から言わないのだ、道士よ」
屠自古の責めるでもない、純粋な疑問に青娥は表情を暗くする。
「……これは元々、実力の足りないものが仙人になろうとして行う方法です。つまり位としては最も低い仙人となってしまう。さらに一旦死ぬことにより脳の一部が機能を失うかもしれない。よくあるのは記憶の欠落ですね」
「この際、位などはどうでも良いでしょう。記憶喪失になっても、死ぬよりは良い。布都が生き残れるのならば……」
「その確率も低いので、私は渋っていたのです。……以前の布都ちゃんならいざ知らず、今の彼女は……尸解仙の術を用いても復活できるかは分からない」
「……失敗すれば、そのまま死ぬという事か」
「そういう事です。それに最大の欠点は……尸解仙という存在そのものにある」
青娥は一呼吸を置くと、意を決したかのように口を開いた。
「尸解仙となるための原動力は生への執着。それは転じれば生きている間に、その人間が持っていた理想や願望、夢や野望などの欲望の力。その欲によって蘇生するのです。――つまり、それは生き返って尸解仙となった者の人生が、生前の欲望に支配されるということ」
「……それは、恐ろしいことか? 人間は誰しも欲望を持ち、それを少なからず糧にして生きている」
屠自古の口調は冷静であったが、その表情からはまるで罪に問われた身内を弁護するような必死さがにじみ出る。布都を救う方法ならば、多少の欠陥からは目を逸らしたいのだ。
しかし、そんな誤魔化しはいけないと、青娥が首を横に振る。
「程度の問題です。私たちは欲に打ち勝ち、欲を律することができます。時には欲に負けることもありましょうが……。しかし、尸解仙は違う。欲望そのものによって産まれた存在と言っても良いのですから、その人格すらも欲望に支配されてしまう」
「想像が及びませんが……。たとえば私が尸解仙になったら、良き国を作ろうとすることだけを考える、飢えた獣のようになってしまうということでしょうか」
「私はさしずめ戦闘狂か?」
神子と屠自古の例えに、青娥は少し困ったような表情をみせる。
「これは伝え聞いた説なので、必ずしもそういう風になるとは限りません。私も尸解仙というもの何人かと会いましたが、一見するとまともに見えます。しかし、それが生前の人格と同一だったのかは分からない」
神子はしばらく考えた。
それしか布都を救う方法がなければ、それを実行に移すしかないだろう。
だが青娥の言うリスクもある。もしかしたら今の人格を失ってしまうかもしれない。――本人の同意なしに決めて良いことだろうか。
そして布都はこの事を聞いて、同意するのだろうか。
「青娥……。尸解仙の術が成功する確率は、如何ほどなのですか?」
「術者の精神状態にも大きく左右されますからね。正味、今の布都ちゃんの状態では……絶望的な数字かと」
「……くそっ。どうすれば良いんだ?」
「…………」
神子は頭を悩ませる。
先ほどの布都の姿を思い起こせば、確かに彼女の精神が弱りきっているのは明白。死への恐怖で錯乱し、自分への謝罪の言葉を呟き――。
『たいしさま……あしを……っぱりたくない……』
「……あ!」
そこで神子の頭に、天啓が如き思いつきが舞い降りた。これならば布都の精神状態を良好にでき、尸解仙の術の成功確率を上げられる。そんな方法。
「分かりました。布都に尸解仙の術を施しましょう」
「……一縷の望みに賭けるという事ですか」
「大丈夫。私に案があります。――これを実行すれば、布都が復活できる確率は格段に上がるはずです」
「そんな方法があるのですか!? それは一体……?」
屠自古の問いに、神子は「しかし」と言葉を挟んだ。
「それを実行するには、一つだけ条件があります。私は今から、その条件を満たしに行く」
「行くって……何処へ? 条件とは何ですか?」
「条件、それは……」
神子は鼻から大きく息を吸った。そして、口から溜め込んだ空気を吐き出す。
彼女は思い出していた。
これまでの人生。これまでの歩み。
鵜眞や椒林によって育てられ、稀代の武士、そして為政者となるべく成長してきた過程を。
その力を振るって蘇我を助け、敵対する豪族たちを討ち滅ぼしてきた記憶を。
信頼できる仲間との出会い、そして別れ、時には楽しく笑い、また悲しさに打ちひしがれてきた、全ての出来事を。
そして去来する幾つもの大きな想いを、しかと、その胸に刻み込んだ。
それで頭の中が明瞭になった気がする。ごちゃごちゃとした後先の考えは、それで押し出してしまう。
全ての人への贖罪。全てを捨てるという覚悟。
さぁ、彼女の心は決まった。だから堂々と仲間へ宣言する。
「これから都へ行き……。鵜眞にこれまでの全てを話し、私は王を辞めます」
全てを話す。
それは神子が不老不死を望み、仙人になろうとしていること。そのために道教を信仰して、道士に師事していること。隠れ蓑として仏教を広めさせたこと。その全てを、鵜眞には黙っていたこと。
それらを暴露するということだ。
相手からすれば裏切られたも同然。そんな告白をするというのだ。
無論のこと青娥は反対した。もとから鵜眞に対して「道教と不老不死」について教えるのは好ましくないと思っていたし、ここまでコトを進めたのならば尚更だ。
屠自古にしてもそうであった。以前は「父に計画を秘密とするのは、父が裏切ると懸念することである」と嫌った。しかし、ここまで秘密裏に計画を進めてきたのであれば、裏切っているのは自分たちである。それを許すほど父が寛容であるかは、娘としても自信がない。
いや、むしろ許してはならないだろう。国を治める者の一人として、国の民を欺き、不老不死にならんとしている一派を、許していいはずがない。
しかし、神子は都へ向かった。
彼女とて不安がない訳ではない。
鵜眞を騙していたことを本人に伝えるという事が、果たしてどんな結末を生んでしまうのか。底知れぬ不安があった。
自分を軽蔑するだろうか。自分を憎むだろうか。自分を罵るだろうか。自分を死罪にしようとするだろうか。自分に失望するだろうか。
生まれた時に命を拾われ、それから実の親子以上に親しく、国を作るために共闘してきた理解者。そんな存在に、自分はどう思われるのだろうか。
それを差し置いても神子は告白する。
それが布都を救う唯一の方法であるのならば、彼女はその道を選ぶしかない。
まだ自らの理想を語る資格を有したいのであれば、神子は布都を救うしかないのだから。
「私は、人間であることを捨てようとしていました」
その一言目を、神子はしっかりと言葉にした。
目の前に座した鵜眞の目を、正面からまっすぐに見据え、戦場でいつも見せるような精悍さで、神子は告げる。
「不老長寿の存在である仙人への到達。道教の信仰はそれを実現させます。私は永遠の栄華を誇る国を治めるため、道教を究めるという道を選択しました。――鵜眞、あなたを欺いて」
鵜眞は驚いた。目を見開いて、口からは自然と「なに……?」と言葉が漏れる。
それは当然であろう。どんな冷静な人間であろうとも、この状況で驚かない方がおかしい。
まだ、この場で取り乱しはしないのが、神子にとってはありがたかった。
「あなたに勧めた仏教という宗教も、国をたやすく治める為の偽装に過ぎません。つまり私と、あなたの妻である布都と、あなたの娘である屠自古は……あなたを裏切っていたのです」
「ならば」
ようやく自らの意志を言葉にした鵜眞は、怒りでもなく悲しみでもなく、ただ冷静な口調で問う。
「ならば、なぜ、その策謀を私に話すのだ。全てはまだ水面下で行われるべき段階だろう?」
「……その通りです。本来であれば、まだ私たちはあなたに全てを隠したままであったはず。いえ、あなたが死んでしまうまで、秘密だったはず。――布都が、倒れなければ」
そして彼女は説明する。
青娥の目算が誤りであって、布都は仙人の修行には耐えられなかったこと。神子はそれを何としても救いたいということ。
そして、神子が王を辞することで、布都は尸解仙として生き返る光明が見えるということ。
鵜眞はそれを、ただ静かに聴いていた。
最低限、鵜眞には全ての真実を伝える。――神子にとって、これは最後の贖罪なのである。
それが受け入れられず、この場で斬り捨てられそうになったとしても、神子の作戦に影響はない。
つまり布都を助けるには、王、そして蘇我軍の大将としての職務を放棄して、しばらく時間を使わなければいけないという事なのだ。それは完全なる自己満足であり、自分勝手な判断であると自覚している。
「布都が尸解仙となるまでは……布都の無事をこの目で確認するまでは……。私は王を名乗ることも、その責務を果たすことも……出来ないのです」
戦場で自らの命を顧みずに放心してしまうほどだったのだ、その精神的な打撃は気の持ちようでどうにかなるものではなかった。だから布都を眠りにつかせた後に、自分だけのうのうと王の座に君臨していることは出来ない。
「だから、私は王を辞めるのです」
言ってしまえば鵜眞の同意を得なくとも、このまま全てを捨てて布都や屠自古と“あの場所”へ逃げればそれでいい。そして布都が復活を遂げるまで、屠自古や青娥と隠居すれば良い。
だが何も言わずに鵜眞と別れるのだけは許せなかった。一番大事な人を裏切ったまま、騙したままで別れるのは。
それが蘇我軍を敵に回すリスクを負ってまで、神子が自分の心を納得させたい最低限の誠意なのであった。それに、突如として神子が失踪するよりは、鵜眞もその後の対策が色々と捗るだろう。
「そう、か。まさか……お前たちに謀られるとはな」
「……すみません。私はあなたの期待したような、素晴らしい為政者にはなれなかった。全てを投げ出してまで、己の満足を求める……愚かな女です」
なにしろ彼女たちには時間がない。
王としての掛け替えのない立場、戦神としての圧倒的な戦力を失うのはしょうがないとしても、その他の職務すらも他の将に引き継がせる余裕がなかった。
まだ衣孟がいれば彼に大半のことを任せられたのだが、いない人を頼っても仕方がない。
実際のところ、蘇我氏からすれば迷惑どころの話ではないのだ。
「……いや」
鵜眞は神子の卑下に「そんな事はない」と即答の否定は出来ないものの、何かを言いかける。
しかし、その気遣いを断るように、神子は立ち上がった。
「……それでは」
伝えるだけ伝えれば、あとは潔く消え失せよう。
その場を去ろうとした神子の背中を、父の一言が追いかけた。
「待て。私に協力させろ」
「……えっ?」
意外な一言。
裏切った相手から。それを相手に伝えた上で。そんな言葉が出るわけがない。
だから神子は訝しんで眉をひそめた。だが、それを気にせず鵜眞は話す。
「思えば……私も悪かったのだ。私はお前の悩みを聞きながら、それを本当に解決しようと取り組んではこなかった。――布都にしてもそうだ。彼女は私の妻であるというのに、お前に任せきりで何もしてやれなかった。その結末が、今の病状だというのだろう」
「そんな事は……! 全ては私の弱い心が原因です。不老不死など、目指すべきではなかった。それだけのこと……」
「いいや。神子、お前こそが不老不死になるべきなのだ。そして、未来永劫に続く素晴らしき国を治めるべきなのだ」
「その為に、私はあなたを裏切った」
「しかし、仲間のために、それを私に話した」
鵜眞は娘の頭に手を置くと、笑顔で優しく撫ぜる。神子の癖っ毛がくしゃりと乱れた。
「全てを許そう。いや、私がお前たちに許されたいのだ」
「鵜眞……あなたという人は……!」
「だから、神子よ。お前が王を辞めるというのも認める。確かに強大な戦力を失うのは、多少は厳しくなろうが、それでも我々は物部に勝つ。心配するな」
「……!! 私は、ひどい裏切り者です。最初から、私は王になるべきではなかった……!」
「違う。お前の選択こそが王に必要な素養だったのだ。布都を捨て、覇権を得たところで、それは今までの凡百の王と変わらぬ。全てを捨ててまで彼女を救おうとする、その心こそが王にふさわしいのだ」
「それを認めてくれるのは……鵜眞。あなただけでしょう」
「安心しろ。私の目が黒いうちは、お前たちの安全は保証する。――布都を連れて隠居する場所を、私に教えるのだ。私がお前たちを守る。責任を持ってな」
なんという得難い助けであろうか。
今までの信頼を裏切り、恩を仇で返した相手。それが自分たちの窮地に手を差し伸べてくれた。
神子にとっては彼の用意する蘇我軍の護衛そのものより、その言葉だけでもどれだけの力になったか。
「私は……大祀廟という場所に向かおうと思っています。青娥娘々が地下に建造した、私の宮殿のようなものです」
「分かった。ならばそこには、なんとしても戦火の及ばぬように努力しよう。お前たちは何も気にせず、布都を助けることに集中するのだ」
「……鵜眞。私は今日、あなたに刃を向けられても、仕方ないと、そういう覚悟でやってきました。それを、しかし、あなたは……」
「娘に刃を向ける父が、どこにいるか。――妻を、そして娘を……頼んだぞ。王よ」
こうして神子は最大の理解者であった鵜眞と、穏やかに決別できた。
あとは布都を救うために、前に進むのみである。神子は急ぎ足で斑鳩宮へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
第一の関門が鵜眞への告白だとすれば、第二の関門は布都の説得である。
「布都を騙すなんて、一見すると簡単そうですけどね」
「しかし、彼女がたまに発揮する鋭さには、天性のものがあります。あっさりと看破される恐れも……」
「でも布都ちゃんは、豊聡耳様に心酔している部分がありますからね。まさか豊聡耳様が嘘をつくとは思っていないかも」
「……とにかく、私の立ち振る舞いが重要になりますね。……それでは、いざ、いってきます」
屠自古と青娥に見送られ、神子は布都のもとへと向かった。
もはや血臭にまみれ、重苦しい空気が充満している部屋。在りし日の天真爛漫な彼女の面影は消え失せ、今は死への恐怖で半狂乱になった少女が横たわるのみ。
「布都……」
声を掛けると、首がギギギと横に動いた。そして濁った瞳が神子を捉える。
「たい、し……さま」
「喋らなくても良いですよ。辛いでしょう。……今日は、あなたに折り入って頼みがあってきました」
「たのみ……?」
そこで神子は彼女の脇にさっと身体を寄せると、その白く小さな手を、優しく握った。
「布都。私を助けて欲しい」
声にならない否定が、布都の表情に浮かぶ。
それはきっと「こんな状態の私が、何を手助けできるというのでしょう」といった意味合いだろう。
だが、それに構わず神子は続けた。
「実は、私も死ぬのです」
「!?」
今度はより大きな反応で、布都は表情を変える。
それに手応えを感じた神子は、畳み掛けるように続ける。
「布都がこのような状態になってしまったのは、仙人になる修行の代償であると聞いたでしょう?」
「……ええ。私の身体は丹砂に蝕まれたと……」
「はっきり言うと、私も実力が足りなかったようなのです。今までの戦いで力を使いすぎた私は、青娥の思っていたよりも衰えが早くやってきたようなのです」
「そ、んな……」
「だから私も、布都と同じように毒で身体を冒されてしまいました。いずれ、死ぬでしょう」
神子はわざと具合が悪いふりなどはしない。そんな薄っぺらい演技では、布都に感づかれて逆に嘘がバレると判断した。
だから布都の目の前にいるのは、いつもと変わらない健康な神子。
「……でも」
「ええ、今は元気に見えるでしょう? でも布都だって、突然具合が悪くなった。――戦いで修行が疎かになりがちだった私と違い、布都は熱心に修行に取り組んでいましたから。あなたの方が先に症状が出てしまっただけ」
「うそ……そ、んな……」
愕然とする布都を見て、神子は手応えを感じた。それと同時に、あまり酷な話を続けると彼女の精神がもたないのではないかという危惧もあった。
「だが、安心してください。青娥は私たちに救済の道を示してくれました。――それが一度死してから仙人となり復活する、尸解仙の術」
「しかい、せん……」
「一度死すという怖ろしさ、そして生き返った者が生前の人格を保っていられるかも定かではない……。そんな危険がありますが、時が来れば不老不死の仙人として復活する秘術なのです」
死の直前にいる者からすれば、もはや一度死ぬということも、人格を失うかもしれないということも、大した恐怖ではないのかもしれない。
布都は特に怯えることもなく、神子の話に聞き入っていた。
「な、るほど……しかし、我に……協力できる事とは……?」
「私は……はっきり言うと、一度死ぬことに恐怖心を持っています。本当に復活できるのか? そのまま死して朽ちることはないのか……? だから、その不安を払拭する為にも、誰かに先んじて尸解仙になってもらいたい」
「……! それが、つまり……」
「そう。布都……私より先に尸解仙となるため、眠りについてはもらえませんか」
これが神子の考えだした、布都を救う方法であった。
以前より、彼女が神子の役に立つことを何より望んでいたのは周知の事実。なにせ彼女は、その為に仙人になろうとしたのだから。
だから彼女の動機を強くし、精神的な昂ぶりを起こすには、神子の役に立つという餌を与えれば良い。
しかも、それが尸解仙の術を施すことに直結すれば、手間が省けるということだ。
「わ、たし……は……」
「どうでしょうか。あなたが助かる道はそれしかない、とはいえ……自らの命を断つという、極めて重要な選択肢なのです。決定権はあなたに……」
「やります!」
その声には力強さがあった。それを聞いて神子は確信する。布都はきっと尸解仙になれるだろうと。
もしも布都を救う為と尸解仙の道を薦めたとしたら、彼女はまた足を引っ張ったと己を責めて落ち込んだままだったろう。それでは成功するはずがない。
だが、こうして神子の役に立つ為であると導けば、彼女は全身から活気を溢れさせる。
自分が神子の命を救う。彼女にとってこれ以上の至高があるだろうか。
「……本当ですか、布都。とても助かります……!」
もしも神子が人を騙す演技に長けているとしたら、きっと両の瞳に涙を滲ませて布都の両手を固く握っていたところだろう。
しかし神子は布都に儚げな笑顔を向けるので精一杯だった。憂いと嬉しさの入り混じった表情を見せなかっただけでも上出来だ。
「なにを、おっしゃる……我の命……太子様のため、に……お使いください」
布都の喉が掠れた声を搾り出し、ひび割れた唇が忠誠の言葉を紡ぐ。
こうなれば後は彼女の心が熱いうちに、迅速に事を進めなければならない。
「ありがたい。それでは、明朝になったら早速、向かいましょう」
「……どこへ?」
「尸解仙の術には大掛かりな設備と、長い時間が必要です。だから行くのです。――大祀廟に」
神子の本拠地となる予定の大祀廟については、布都もその話を以前に聞いたことがある。だから、そこに行くという意味も同時に知る。布都はその瞳を驚きに瞬かせた。
「……それ、では……太子様の、仕事は……」
「当の本人が死のうというのに、仕事どころではありませんよ。安心してください。鵜眞にも許可を取りました」
「そ、うですか……ならば、安心……です」
心の底から吐き出すような安堵の溜息を聞き、神子は思わずその手で布都の額を撫でてやりたくなった。
だがそれを我慢して、床に座したまま固く握った両手を腿の上に置く。
これ以上近づいては、彼女の前で上手な嘘を吐き続けられる自信がないのだ。
「遠出になりますからね。今日は青娥の薬を飲んで、ゆっくりと休んでください」
「……は、い。うれしい、です。こんな身体になっても……まだ、あなたの役に立てる、なんて……」
神子は立ち上がり、静かに振り向いた。そしてゆっくりと、かつ出来るだけ早くに戸へと向かう。
まるでなみなみと水の注がれた器をその胸に抱いているように、心から本音が零れて嘘がばれてしまわないように、布都の目の前からその姿を消したのだ。
部屋を出た神子は、待っていた二人に向けてゆっくりと頷いた。
いよいよ自分たちは、布都を尸解仙とするべく蘇我氏を離れる。
布都を眠りにつかせて、大祀廟を仮封印するまで三日ほど。そこから布都が復活するまで、どれだけの時間が必要かは分からない。
しかし、それが終われば三人は蘇我へと戻り、神子は再び王として君臨するだろう。
それまでの辛抱だ。布都が復活さえすれば、また彼女たちの戦いは始まるのだ。
◇ ◇ ◇
青娥が建造した大祀廟は、蘇我領の外れにひっそりと存在した。
一見すると何の変哲もない小山であるが、その頂点には地下深くへと続く階段の入口がある。そして、そこを下っていくと巨大な廟が広がるのだ。
「布都、大丈夫ですか?」
「ええ、問題ありません。……お気遣いなく」
神子は馬から降りた彼女へと手を差し伸ばしたが、布都はそれを断って自分の足で立ってみせた。
彼女の心は再び強さを取り戻し、身体もそれに応えるかのように回復したのだ。
ただし、それが仮初めであることは、経験から分かってはいる。
「……この下に大祀廟があるのですか。予め建造を進めておいて良かったですね」
地面の下にあるものといえば墓の穴くらいしか知らないが、大祀廟がそんなちゃちなものでないのは青娥から聞いている。神子は期待と不安の入り混じった様子でいた。
そんな彼女の様子を楽しむかのように、青娥は自信ありげに、そして自慢気に笑う。
「ふふ、だから言ったでしょう? 何があるか分かりませんからね」
そんな中、屠自古は一番後ろに陣取って周りを警戒するように辺りを見回している。そして、ふとある事に気づいて青娥の背中へと問い掛ける。
「道士よ。そういえば大祀廟にはキョンシーとかいう化物が衛兵として準備されているのだろう? それらは何処に?」
「キョンシーとは屍体なのですから、地面に決まっているでしょう?」
言いながら青娥は足元を指さす。この辺り一帯には、大祀廟を侵そうという者あらば、地面から這いでてそれを阻止するキョンシーが埋まっているのだ。
その不気味さに屠自古は顔をしかめながらも、小山を登り始めた。
「それにしても屠自古さん。あなたまで私たちに同行しなくとも良かったのに。豊聡耳様を失った蘇我軍には、一人でも有能な将が必要でしょう?」
「私もそれは屠自古に言ったのですが……」
「馬鹿を言うな。神子様が眠りにつかれるというのに、妻である私がそれを見届けない訳にはいかないだろう?」
布都の手前、そのような説明をする屠自古であったが、本当は布都だけが眠りにつくのであって、神子はそうではない。
本音を言えば布都が倒れたのに、自分一人だけが戦場にいるのがいたたまれないというのがあり、さらに言えば青娥に場を任せるのが信用ならなかった事もある。
「……ここが入り口か。随分と大きな扉だ」
小山の頂点には、青銅で造られた巨大な円状の扉があった。模様も窪みも取っ手もないので、まるで地面にただ置かれた鉄材のようであるが、青娥が手を触れながら何事かを唱えると、それは音もなく口を開いた。
ぽっかりと開いた地面の穴は、直径が神子の背の三倍はあろうかという大きさ。馬ごとでも何でも入れてしまいそうだ。
中から吹き上がってくる生臭い土の臭いと、濁った沼をのぞき込んでいるような暗さが合わさり、その穴は身を投じるのを躊躇うのに十分な雰囲気を醸し出している。
太陽の光が届いているのは階段の三段目くらいまでで、それより下の様子は全く窺い知れない。
「ご覧のように中は暗くなっていますので、足元に気を付けてください」
「あ、ならば私が照らしましょうか。……光よ」
神子の手のひらに眩い光を放つ玉が現れた。
その明かりに照らされると、穴の中の様子が分かった。といっても見えるのは地下深くへと続いている階段のみ。その他のものは視界に存在しない。
照明を持つ神子を先頭にして、一行は地下へと続く階段を降り始める。
「随分と長い階段ですね……それに大きい。まるで軍隊でも行進できそうな造りだ」
一段一段が、まるで踊り場のように大きな造りになっている。それは緩やかに右回りの湾曲を描いており、どうやら円筒状の壁に沿って階段がぐるりと張り付いているようだ。
「そりゃ浅いところに広い空間を作ったら、天井が崩れてきてしまいますからね。いつぞやの洞窟のように。――それに階段が暗くて狭かったら危ないでしょう? 可能な限り大きくしておいたのです」
「そんなに広いのか? この下にある大祀廟というのは」
「豊聡耳様の本拠地ですからね。それは広いですよ……このように」
階段を何百段は降りただろうか、青娥の言葉が終わるのと同時に目の前が開けた。
光源が不十分で見えないが、反対側の壁が見えない程度には大きい。神子は光の強さを上げて、それを遠くに放り投げた。
「日輪よ!」
まるで太陽のような輝きが地下を照らし、大祀廟の全容をその目に見せる。
そこには巨大なドーム状の空間が広がっていた。
全ての壁は湿り気と緑色の苔に覆われ、しかしその広さ故に閉塞感はない。まるで豊かな緑に地を覆われた平原にやって来たようだ。
天井も鳥が飛べるくらいに高く、青色でないのを除けば空と変わりないように見える。
青娥以外の三人は、しばし呆然と天井を見上げた。
「おわぁ……すごい」
「これは、どうやって作ったのですか?」
「掘りました。主に私と、掘削キョンシーが」
「驚いた……斑鳩宮よりも断然広い。いや、あの扉の向こうに空間が広がっているとしたら、小さな集落程度の広さはあるか?」
屠自古が指さしたのは、巨大な空間の端にある巨大な扉、というより門であった。その表面には美しい色彩で大陸風の絵画が描かれている。
「ええ、ご名答。あの向こうには豊聡耳様の為の宮殿があります。布都ちゃんには、まずそこで眠りについてもらいましょう」
青娥が先導するように扉へと向かう。すると、それは主の来訪を察知したように、ひとりでに口を開いた。
あちら側の空間から、黴と何かのすえたような臭いが吹き込んできた。
「ぐっ。うぅ、にゃんにゃん……なんか臭いよ……」
「ああ~。あっちはキョンシーちゃんたちに造らせていたから……。彼らの臭いが染み付いちゃったのかも。あとで脱臭しておきますわ」
「……それは是非、お願いしたいですね」
扉をくぐって暫く歩いていくと、空間の形はやがて一本道に変わっていき、その終着点に宮殿がそびえ立っていた。
それは古代に大陸の王たちが、自らの力を示す為に作り上げた王宮と比べても遜色ない。大和の人間からすると色彩がけばけばしい気もしたが、この際文句は言えないだろう。
「うーむ。建築様式が大陸調なのは仕方ないが。いやはや、神子様の住処としては斑鳩宮に負けるとも劣らない……いや、随分と豪奢なものだな」
「ここならば私と布都も、安心して眠りにつけますね」
「……うん。ありがとう、にゃんにゃん」
「礼には及びませんよ。元はといえば私のせいなのですから。さて、何処で眠ってもらおうかしらね? 一応、祭壇を作っておいたんだけど……」
宮殿の中央には、ちょうど人ひとりが横になれる程度の台が鎮座していた。元は謁見者の持ってきた供物を並べる為の台なのだろうが、小柄な人間ならば寝台代わりにならないこともない。
布都は大理石で造られたそれに手を置いて、しばらく宙空を見つめ始める。
これから一度死ぬというのだ。彼女も覚悟を決めるのに時間が必要なのだろう。
「……太子様」
「なんですか。布都」
「我は……これから死ぬのですね」
神子はしっかりと頷いた。
「そう。そして……生き返る」
「生き返らないのかもしれない」
「いや、きっと、生き返ります」
そこで布都は唇の端を吊り上げると、悪戯を思いついた子供のように、ニッと笑った。
「我がそのまま死んだら……。太子様はどうされますか? やっぱり怖いから尸解仙の術は辞めます?」
「いや、どうせ死ぬのですから、私も尸解仙の術を施すしかないでしょうね」
「ふふ……」
「……あっ」
布都がにやりと笑ったのを見て、神子は口を手で抑えた。青娥と屠自古も会話を聞いて思わず「しまっ……」と零してしまう。
「……我が生き返ることの成否に関わらず、神子様は尸解仙とならなければいけない。――ならば、我を実験体にする必要はないでしょう?」
「そ、それは」
布都を何とか元気づけ、そして尸解仙への誘いをすることに集中し過ぎていた。良く考えれば、その話は破綻していた。
「分かっています。そもそも、神子様が仙人になれないなど、ありえない。我とあなたでは才能が違いますから。神子様はそんな凡夫ではないし、にゃんにゃんも二度過ちを犯すほどのうっかりさんではないでしょう」
「……布都……私は……」
「我を元気づける為の嘘でしょう? しかし、安心してください。我はそんな太子様たちの気遣いだけで、心に勇気を持てました。我は、きっと蘇る。そして太子様たちと永遠の時を生きる」
神子の顔から狼狽が消え、代わりに戦の前に見せるような、兵たちを鼓舞するような精悍な顔が現れる。
「……ならば、覚悟は出来ているのですね」
「もちろんです。さぁ、にゃんにゃん。我に尸解仙の術とやらを、施してくれ」
隠すことは何もなくなった。
青娥は尸解仙の術の手順を説明し、布都を祭壇へ横にならせる。
「それでは、今から祭壇を封鎖します。そこで布都ちゃんは呪詛を己の身体に流しこむ。しばらくすると貴方は致死量の呪いをその身に刻む事になるでしょう。そして、この部屋に仕掛けられた尸解仙の術式が、己を呪い殺した者を蘇らせる」
「あとは、我が復活するまで大祀廟を封印しておけば良いのだな」
まるで自分が復活することは絶対であると言い切る、自信に満ちた表情を浮かべる布都。それを見て安心する神子と屠自古。
全員がその演技を完璧にこなし、いよいよ別れの時がきた。
「布都、安心してください。私たちはあなたが復活するまで、この近くに隠居して待ちます」
「まぁ、私に限っては先に寿命を迎えるかもしれないけどね。だから布都、早めに復活を頼むわよ」
「……さて、それでは……始めましょうか」
布都は烏帽子を取ると、それを神子に手渡した。
「我が復活した時……。何年後になるか分かりませんが……。これをあなたから渡されたい」
「……分かりました。それでは、おやすみなさい。布都」
当然、別れの言葉は彼女たちに要らない。
少し長い眠りにつくだけのこと。そう信じきっているからこそ、この場に悲しみの表情を浮かべる者はいなかった。
「みんな、おやすみ。――またね」
布都が手を振って、三人がそれに応えて、宮殿の扉は閉まった。
しばらくすると、宮殿の中から声が漏れ出す。自分を殺すために紡がれる呪詛の詠唱。その震える声を背中で受けながら、神子たちは歩き始めた。
布都と別れた三人は、無言で大祀廟の中を歩く。宮殿から広場に戻る道は、あたりに漂うキョンシーの死臭を掻き消すほど、ひどく重苦しい空気だった。
「布都は……どのくらいで蘇生するのでしょうね」
「こればかりは分かりません。過去の尸解仙の例を見ても、それは数日から数年と幅があります。復活の理由は不明なんです」
「何年経とうとも、きっと布都は復活しますよ。そうに違いない」
そして彼女たちが大扉をくぐり、広間に戻ってきた時のことである。
突如として、青娥が足を止めた。神子が「どうしました?」と覗き込むと、その目は大きく見開かれ、こめかみには冷や汗を垂らしている。
「……青娥?」
神子が問いかけると、青娥は鋭い目付きで天井――つまりは地上の方を睨めつけた。
「神子様、屠自古さん。ここで待っていてください」
「どうしたのだ……? 道士、説明しろ」
「……キョンシーが活動を始めました。つまり、この大祀廟に敵が攻め入ってきたのです」
「なんですって……!?」
この大祀廟の存在は、この地下にいる四人以外には誰も知らないはず。そして、外からみれば至って普通の小山にしか見えない場所。そんなところに敵が攻め入ることがあるだろうか。
「何かの間違いでは? 例えば、ただ散策にきた人を敵だと……」
「いいえ、私の衛兵キョンシーは明確な侵入の意思に反応して起動します。しかも全てのキョンシーが蘇っている……ということは、敵は相当な数……一つの軍隊級のはずです」
「……馬鹿な? そんな軍を運用できるという事は、ここに大祀廟があると知っている者でなければ……。しかも、ここにいるのは聖徳王である神子様。それを討とうとする者が、蘇我の領内にいるはずがない」
「とにかく!」
二人の疑念を半ば無視して、青娥は彼女たちに背を向けた。その顔には焦りのためか冷や汗が垂れる。余裕の笑みでも、取り乱したわけでもない、緊張。
その初めて見る表情に、二人は押し黙った。
「……失礼。私は地上に行ってキョンシーの援護をしてきます。豊聡耳様たちは、ここで待機していてください」
「そんな、一人で!? それに迎撃ならば私たちも加勢を……」
「敵の得体が知れません。もしも抑えきれぬようでしたら、布都ちゃんを連れて逃げてください。非常口を開けておきます」
言って青娥は地上に通じる階段とは別の、広場の一角を指さした。そこには鉄の扉があり、青娥の声に応えて錠前がひとりでに外れた。
こういった周到さは流石、邪仙として暗躍してきた青娥であった。
「それにご安心を……。長年、大陸の仙界で生き抜いてきた邪仙のやり方を、大祀廟を襲う不届き者たちに見せつけてやりますよ」
青娥はいつもの調子でクスクスと笑い、その身を翻すと風に乗るように宙へ浮いた。そして地上へ繋がる穴へ向けて、一直線に翔んでいく。
残された神子と屠自古は、それを見送ってから途方にくれた。
「どうします……? 今からでも道士の援護に……」
「いや、彼女を信じましょう。それよりも布都のところに戻って、一度尸解仙の術を中断させた方が……」
言って大扉の方に向き直った神子は、ふと視界の端に映った鉄扉が気になった。
「……神子様、何か?」
「あの扉……」
神子の感覚が、長年を戦場で生き抜いてきた鋭いものが、扉の向こうから何かを受け取った。
非常口というのは、もちろん外へと繋がっている。でなければ意味がない。そしてこういった場所のものとなれば、その出口は通常の出口からかなり離れた別所にあるのが自然といえよう。
でなければ、逆に敵からの侵入口になるからだ。
だがもし、相手がこの大祀廟の構造を、それこそ非常口の位置まで正確に把握していたとしたら?
「……いけない!」
神子が叫んだのと同時、青娥によって錠を外された鉄扉が、勢い良く開いた。
そして、その向こう側から無音で侵攻する者たち。数十人の刺客が、一斉に広場へとなだれ込んできた。
「うぅ!? そんな馬鹿なっ」
「この者たちは……!」
脱出口からの侵攻――その最悪の事態もそうであるが、それ以上に神子たちは刺客の格好を見て呻きを上げさせられた。
赤青緑、黄色に白。それぞれの扱う属性を象徴する紐をたなびかせ、揃いの烏帽子を頭に載せる。
その姿を見間違うはずがない。
「こいつら……物部の術師ですよ!?」
「ええ、どうやら……そのようですね」
そう。なだれ込んできた刺客たちの格好は、見間違いようがない。物部の誇る秘術使い。
彼らが侵攻してきたという事は、つまり大祀廟を攻めにきたのは物部軍という事になる。彼らが神子の命を狙うのは当然といえよう。だが――
「なんで蘇我領の此処に、物部軍がやってくるのだ……!?」
それがおかしい。この大祀廟は蘇我領の端とはいえ、何の衝突もなく物部軍が侵攻できる場所でもない。防衛のために配備されている蘇我軍が、領内に侵攻する物部軍を無視するわけもない。
「分かりません……! しかし、今は戦うしかない!」
「そうですね。二十人……程か。私と神子様ならば、造作もなく……」
屠自古の言葉が終わる前に、秘術使いの一人が右手を高く掲げた。それが開戦の合図となる。
「火槌!」
掛け声と共に術師の手から、火炎の柱が伸びる。それを左右に分かれて躱す神子と屠自古に、他の術師からも狙いが定められる。
「水敷!」
「金牙!」
それぞれの得意とする秘術で、神子たちを葬らんとする秘術使いたち。当たれば即死の凶悪な威力に、屠自古は冷や汗を掻きながら回避を続ける。
神子は難なく術をやり過ごすと、一気に術師へと肉薄し、丙子椒林剣の刃をきらめかせた。
「ぐぁあああ!?」
接近すれば秘術使いは恐るるに足りず。術師の一人を切り捨てると、神子は振り返り次の相手へと狙いを定める。
「く、来るなァ! 風砕!」
恐怖に震えながら叫んだ術師の右手から、圧縮された暴風が神子へと伸びる。しかし、あまりにも直線的な攻撃が彼女に通じるはずもなく――それは難なく避けられるはずであった。
神子の身体が吹き飛ばされ、地面に転がったのを、屠自古は唖然と見つめていた。
「み……神子様ッ!?」
「ぐ、ああ……だ、大丈夫、です」
起き上がった神子は、腕からの流血をものともせず駆ける。そうしなければ次々に襲いかかる術に、今度こそ命を獲られるからだ。
「大丈夫なのですか!?」
矢を射て反撃しつつ、屠自古は神子の身を案じた。
ちょうど近くに寄った彼女は、丙子椒林剣を汚した血を振り払いつつ、屠自古に応える。
「問題ありません。……と、言いたいところですが」
「怪我が、酷いのですか!?」
「……いえ。あの避けそこなった直前から、何かこう……身体の調子がおかしい」
「なんですって!?」
日輪の加護というのは、何も戦いの時に敵の攻撃から身を守る障壁となるだけのものではない。
彼女の身体を護る聖なる光は大小の病はもちろん、人間なら誰しも陥る好不調の波すらも消し去り、彼女を常に聖人として万全の状態に維持している。
だから彼女が不調を訴えるという事は、それだけで異常な事態なのである。
「身体の中にある何かを、地面の下に引っ張られているような……重くて避けづらい」
「……神子様が不調とは……。こんな時にッ」
「屠自古は何ともないのですか?」
「え、ええ」
そこで二人は一旦、離れる。術師にとっては敵がまとまっている事ほど、やりやすい事はない。対術師の基本は狙いをバラけさせて、動きまわる。そして、肉薄し片付ける。
「敵の術師たちの心中から……私たちに対する自信を感じとれます」
「物部の秘術使いは、みなそうでありましょう。自信過剰なのです」
「いえ……彼らは、何か策を持っている。そして、この場に突入した時より、その自信は……芽生えていた。私が感じ取ったのは、彼らの勝利への確信だったのでしょう」
「どういう事なのです!?」
「つまり私の身体が鈍いこと。これは、相手から何かの干渉があるとみてよい」
「……それは、一体……」
「屠自古が何ともないのであれば……それは、恐らく……」
不調ながらも神子は屠自古との見事な連携で、秘術使いたちを次々に斬り捨てていく。もともと日輪の力に護られている神子には、秘術使いの攻撃は通りにくいのもあった。
そして、ついには秘術使いも最後の一人となる。
「彼らの自信。――それは仙人の力を封じる“何か”でしょう」
剣が最後の一人を貫いた時、神子は答えに到達した。
「ご名答。流石は聖徳王、豊聡耳神子だな」
それを賞賛する声が、鉄扉の向こうから聞こえた。
物部の兵を引き連れ、広場へと姿を現したのは、ここに居るはずのない人物。
「なッ……!? なぜ、貴様がここに……」
「あ、あなたは……?」
「怨敵を討つには、最大の戦力が必要。それだけのことだ。だから俺がきた」
弓を構えて立ちはだかるのは、物部を率いる大和一の弓使い。
「物部杜矢……!」
◇ ◇ ◇
屠自古は弓を構え、鏃を杜矢の心の臓へと合わせる。
「……神子様。青娥を助けに行ってください」
屠自古は考えた。神子が「身体の中の“何か”が引っ張られている」と表現した敵の罠。その“何か”が仙人の力であるというのなら、青娥はどうなっているのだろうと。
「確かに……修行途中の私でこれですから、仙人そのものである青娥は、かなりの苦戦を強いられているはず。……ですが」
「ここは私一人で十分です」
「ふはは! 俺一人に対し、女一人で十分とはな。蘇我屠自古、貴様に用はない。――俺は聖徳王と戦いにきたのだ」
言うと杜矢は神子へ向けて矢を放った。同時に屠自古も矢を放つ。
謎の仕掛けによる負担はあるものの、真正面からの矢を弾けない神子ではない。杜矢の放った鏃はあっさりと神子に弾かれる。
一方、屠自古の放った矢はまっすぐに杜矢の胸へと向かったが、横から割って入った火の壁に阻まれた。杜矢を守る専属の秘術使いのしわざである。
攻撃されたこと、攻撃を躱されたこと。神子はそのどちらにも関心を示さず、ただ杜矢の鏃を弾いた刃を凝視した。そして、何かを悟ったように杜矢へと視線を戻す。
「……杜矢、あなたは……!?」
「ふん。気付かれてしまったか。まぁ、よい」
「どうしたのです? 神子様」
屠自古は冷や汗を流す神子へと問うた。彼女は丙子椒林剣を構えたまま杜矢の顔を睨み、そのあと天井を見上げる。
「……奴の矢は、ただの矢ではない。超越的な力が込められています」
「私の雷矢みたいなものですか? それならば珍しくも……」
「いえ、原因は彼の右手に巻かれた……数珠にあるとみた」
「数珠……あ!?」
確かに杜矢は右手首に、琥珀色の数珠をつけていた。
それは一見すると、どうでも良いことにも思える。しかし、つけている相手は物部杜矢なのである。それは看過できない異常。
「まさか、物部の首長が仏教を……!?」
「しかも、その力を戦いに利用している。この事から考えるに、仙人の力を封じるこの……結界のようなものも、もしかしたら仏教の……」
「ご明察。腕っ節だけではなく分析も素晴らしい。流石は俺の軍を手こずらせてきただけある」
杜矢は隠そうともせず、手首に巻いた数珠を見せびらかすようにした。
「お前らの信仰する道教……。それは大陸において超人を生み出し、国を荒らした。それに対抗するために広められたのが仏教。故にあの宗教には、仙人に対抗する術が豊富に伝えられている。その一つが仙人殺しの結界であり……この数珠だ」
背中の矢筒から一本取り出す、それを杜矢は弓へと番えた。
「半分仙人になりかけているのだったな、聖徳王。――当たると、痛いぞ?」
言われた神子は、くるりと踵を返した。その背を無防備に、杜矢の鏃の前に晒す。
「……青娥が心配です。屠自古……この場を頼みました」
「了解です」
神子は杜矢を無視し、地上へ向かう階段へと駆けた。
「逃がすものか!」
杜矢の放った矢は、白い光を纏いながら神子の背中へ飛来した。
それを横手から、雷を纏った矢が弾き飛ばす。
「お前の相手は私だと言ったろう、物部杜矢」
飛来する矢に、己の矢をぶつける。その離れ業をやってのけるのが、自分以外にもいたことへの驚きを、杜矢は隠そうとしなかった。
そして「ふむ」と品定めするように屠自古の顔を見て、宥めるように語りかけた。
「……女だてらに蘇我の副将を務める者、ただの縁故ではなかったようだな。だが俺の目的は聖徳王だと――」
杜矢は次の矢を番えたが、すでに神子は階段を駆け上がっている。――射的距離外。こうなれば目の前の邪魔者を始末するしかない。その狙いは屠自古へと切り替わった。
ようやく自分へと殺意を向けられ、屠自古は心を踊らせた。
「大和一の弓使い、弓聖、その腕前を見せてもらおうか」
「まぁ、多少はやるようではあるが……。俺には到底、敵わぬわ」
周りの術師たちを手振りで後ろに下がらせ、杜矢は屠自古との一騎打ちに応じた。
「一つ、聞きたい」
互いに弦を引き絞りながら、屠自古は敵に問うてみた。杜矢は意外にもそれに応じる。
「なんだ?」
「……お前のところに、蘇我河憂江という者が嫁いだはずだ」
「ああ? ふむ、蘇我家の者、か」
「私の……姉であり、母代わりの人だった。それは今、どうしているか?」
「……そが、の……かわうえ? おぉ!」
杜矢は白い歯を見せて笑みを作ると、数珠をちゃりと鳴らして答える。
「さぁ、知らんな」
「何っ? お前の妻だろう。知らぬはずが――」
「嫁にきた日から延々、地下牢に一人でおったはずだからな。――今は正気を保っているのかすら定かではない」
「……!!! 殺す!」
屠自古の放った憤怒の雷矢は、辺りを稲光で照らしながら、杜矢の命を奪わんと突き進んだ。杜矢はそれを見てから己の右手を矢から離し、咄嗟に横へ跳ぶ。
杜矢の身を覆う衣装が、雷に引き裂かれて半分ほど消し飛ぶ。地面に転がると同時に素早く起き上がると、彼は次の矢を番えた。その動きは、恐ろしく早い。
屠自古も、杜矢の白く輝く鏃を難なく躱すと、次の一手に備える。
「雷矢は溜めに時間が掛かるが……奴の白い矢は溜めがない……ならば、あれよりも我が雷矢の方が威力は上のはず……となると」
屠自古は、杜矢が自分に撃ちこんでくるのを待って、それを打ち消すように真正面から矢を重ねることにした。威力で勝るのなら、相手の矢をはじき飛ばした上に、そのまま杜矢を討ち取れるはずだ。
屠自古は足を止めると弦を引き絞り、じっと杜矢の動きを見た。
杜矢も出方を伺うように一瞬、動きを止める。しかし時間を作らせれば屠自古が有利なのは分かっているようで、すぐに彼女へ向けて矢を放った。
「えぃィ! 喰らえ!」
数珠から発した白い輝きが、杜矢の鏃に宿る。放たれた白き流星は、屠自古の身体へと真っ直ぐに飛ぶ。
「……よし、くらえ! 召雷!」
雷を纏った矢は、驚くべき正確さで敵の矢を正面から捉えた。
その力は白い輝きを散らし、そのまま敵の身体に食らいつく――はずであった。
だが屠自古が目にしたのは、逆に弾かれる己の矢と、軌道をずらして自分へ向かってくる杜矢の矢。
「ば……馬鹿な!? 溜めなしの白い力が……私の雷より……!?」
驚愕の表情は、すぐに苦悶のそれへと変わる。
屠自古の膝を矢が掠めていった。致命傷ではないものの、動きを鈍らせるこの傷は圧倒的不利を生む。
「ぐっ……ぬァ……!」
激痛に顔を歪め、膝は勝手に地面へと倒れこむ。
片膝をついた状態になる屠自古は、しかしその弓だけはしっかりと握っていた。
「……ふん。勝負あったな。その足では、避けられまい」
杜矢はとどめとなる矢を番えた。その切っ先は屠自古の額へと狙いを定めている。
背中の矢筒に手を伸ばしつつも、屠自古の目は光を失っていた。
「……今から雷を溜めたところで……奴の白い輝きには勝てない……」
屠自古は矢を番えたものの、自分が勝つ道を想像すらできないでいた。
膝から流れ出る血と痛みが、頭の中を支配していく。いつのまにか右手は震え、まともに狙いすらつけられないでいた。
「さて、早くしないと聖徳王が『あいつら』に討ち取られてしまう。――さっさと死ね。蘇我屠自古」
「神子……様」
彼女なら。私の尊敬する、あの人なら。こんな状況でどうするだろうか?
信じられない事態が起きても、彼女は決して慌てず、状況を分析し、そして勝利へと導く。
“夫婦”となってから、彼女の傍で戦ってきた自分は、彼女の妻として、最後まで諦めてはならない。無様な死に方は出来ない。
「……私は……蘇我屠自古……聖徳王の、妻である!」
「そうか。往ねッ!」
杜矢が矢を放つのと同時、屠自古も矢を返す。
しかし右手の震えのせいか、矢はあらぬ方向に飛んでいき、杜矢の頭の上を越えていく。もはや矢に込める力もなかったのか、それは虚しく小さな放電を纏うのみ。
屠自古は倒れこんで矢から身を躱そうとするも、避けきれずに右足を貫かれた。
「ぐ、ああああぁぁ! ぐぅぅ……!!」
あまりの痛みに白目を剥き、地面をのたうち回る。背中の矢筒からは矢がばらばらと零れ落ちる。
「ふっ。間一髪で命は助かったか……といっても、ほんの僅かな時間のみだがな」
完全に足をやられた。これで次の一手は絶対に防げない。
杜矢は勝利を確信し、しかし慢心せずに近寄らず、次の矢を番えた。近寄って剣で息の根を止めようとし、最後の反撃を食らっては面白くない。
杜矢は愉悦に顔を綻ばせた。死を待つしかない獲物、家畜――それが見せる最期の哀れな表情。あるいは嘆き、泣き叫び、悲しむ姿。それを踏みにじる事を、杜矢は至上の喜びとしていた。
その死を待つしかない獲物――蘇我屠自古は、しかし笑っていた。
「……く、ははは! 上手いこと……さっき喰らった右足に……刺さってくれた。儲けものだ……!」
杜矢は落胆した。死の間際の発狂は、興ざめである。見飽きたものなのだ。
「どうした? 気でも狂ったか……負け惜しみか?」
「いいや、物部杜矢。勝利の確信だ」
屠自古は左手を杜矢へと突き出し、狙いを定めた。
獲物の目は死んでいなかった。杜矢の心中を僅かな喜びと、たっぷりの嗜虐心が満たす。
「この期に及んで雷術か。溜めが終わる前に、俺の矢は貴様の脳天を貫く」
「溜めなら終わってるよ。とっくにね」
屠自古の左手が握りこぶしを作る。その瞬間、杜矢は自分の背後から雷鳴の轟きを聞いた。
「後ろ……!?」
「鏃に込めた雷槌は……今、鳴り響く!」
先ほど屠自古が放ち、杜矢の頭上を越えていった矢。
それは彼の後ろに控えている術師たちのところへ飛んでいき、地面に深々と刺さっていた。
それは地面の中で雌伏の時を過ごし、今、屠自古の合図にて力を解き放つのだ。
「馬鹿なッ!? そんな芸当が出来るなど……」
「私はこれでも、術に関しては……天賦の才を持っているのでね」
屠自古が笑うのと同時、爆発のような雷鳴が広場を覆った。土塊を巻き上げながら空間を引き裂いた雷は、無防備に立っていた術師たちを一瞬で焼き尽くす。悲鳴を上げることなく全滅した仲間を見て、杜矢は絶句した。
「が……ぐっ!?」
砕けるのではないかというほど、その並びの良い歯を食いしばる。額から脂汗を滲ませる杜矢を見て、屠自古は満足気に嘲笑した。
「どうした? 杜矢殿。あなたらしくもない、部下の一人や二人、死んでもどうという事はないでしょう?」
「きっさま……! 分かっていて……!」
屠自古は見抜いたのだ。あの絶体絶命の窮地において、杜矢の力の秘密を。
いくらなんでも溜めなしで、かつ何のリスクもなく雷矢を上回る威力を産み出す力が、杜矢本人に備わっているとは思えなかった。
ならば、一体どうして杜矢の矢はあれだけの威力を誇ったのか?
その答えは、仏教の性質に目を向ける事で得られた。――道教が個人の力の拡張ならば、仏教は大勢の力を集めるものである。
つまり杜矢も仲間の力を借りていたのだ。手首の数珠は周りに控える術師たちの力を、杜矢一人に集めさせる装備。だから杜矢は仲間を下がらせた。矢に力を供給するのに集中させるために。
そして術師たちがいなければ、杜矢は光の矢を使うことは出来ないのだ。
「おのれェ……! 小癪な……!」
「これでお前は、ただの弓使いだ。……力を封じられたとはいえ、神子様がお前に倒されることなどあり得ない」
「く……ああああァァ! 死ねぇぇぇ!」
屠自古は瞳を閉じる。
これで杜矢はただの弓使い……とはいえ、今の自分には十分過ぎる難敵だ。足も動かせず、矢を番えるのも召雷をするのにも時間がない。
だが、十分だ。神子のために己はやるべき事をやった。そのように胸を張って討ち取られよう。
杜矢は背中の矢筒から引き抜いた矢を番えると、一切の容赦なく屠自古の顔へ向けて、それを射た。
「屠自古!」
杜矢の放った矢が、横手から吹き込んできた突風によって狙いを逸らされる。
この突風は、間違いなく物部の秘術によるもの。だが、一体誰が?
いや、振り向くまでもなかった。その声は幾度となく屠自古の耳に入り、幾度となく屠自古と喧嘩をした声。
「ふ……と?」
「屠自古! 無事か!?」
そこには秘術を放つ構えで、堂々と仁王立ちする物部布都の姿。その背には弓矢が一つ。目には燃えるような闘志を帯びている。
「……何故、貴様……が? お前は死んだと……」
屠自古だけでなく、杜矢までもが驚愕に目を見開いている。
尸解仙の術を施しているはずの布都が、ここに駆けつけ、風を吹かせて屠自古を助けた。その事実は双方にとって意外なことであったのだ。
「……はァ……っはァ……」
荒い息を吐きながら、布都はやっとの事で立っている。死にかけの彼女が術を使うなど、自殺行為に等しい。
それでも布都は、構えを解かない。
「なんで、布都!」
「だって……戦いの音が聞こえてきたから……不安になって……そしたら屠自古が……」
「早く尸解仙の術を……! そうしないとあんたはっ……」
「それより! 屠自古は太子様を助けに行って!」
布都が目線を送った先を見ると、地上へと繋がる階段で、大勢の敵兵と戦う神子の姿が小さく見えた。
「兄が、私は死んだと思っていた!」
「……? え……!」
一見すると意味不明な布都の叫びも、屠自古はすぐさま理解できた。
「まさか……!? 分かった。布都……頼んだわよ!」
「任せて!」
「ぐっ……。待て、いや……布都……貴様ァ……!」
屠自古が足を引きずりながら階段へ向かうのを、杜矢は睨みつけることしか出来なかった。光の矢を失った彼にとっては、拙い術を扱う死にかけの小娘でも油断は出来ない。
屠自古へ矢を引いた瞬間に、己の命が獲られるかもしれないのだ。
「布都! 貴様、実の兄に向かって刃を向けるというのかッ!?」
「おに……いや、物部杜矢……。あなたは私が……討つ!」
◇ ◇ ◇
「何故……だ!」
身体を重くする結界。不安定な足場。圧倒的な人数差。それらの不利を枷としながらも、神子は迫り来る刃を次々に弾いて躱す。
「何故だ、何故だ。……何故ッ!」
神子が地上へと向かおうとした時、ちょうど天井の入り口が開け放たれ、敵の軍勢が押し寄せてきた。この時点で青娥が防衛に失敗し、敗れたという事は確定する。
それの動揺もあろうが、それ以上に彼女を困惑させたのは、押し寄せてきた敵についてである。
「何故……蘇我の兵が、私を襲うのです!」
そう。この大祀廟に攻め入り、神子に槍の穂先を向ける兵士たちは、見間違えるはずもなく蘇我の兵士たちであった。
神子は当然、自分は聖徳王であり蘇我軍の大将であると主張したが、兵士たちは狂乱のように神子へ襲いかかるばかりで声は届かない。
「……くっ。このままでは……!」
味方である蘇我軍を斬り捨てることも躊躇いがあるし、何より今の状態では返り討ちにあう可能性がある。神子はなんとか戦いを止めさせようとする。
「仕方ない。手荒ですが……日輪よ!」
神子の左手が兵士たちの最前列、その少し手前の階段を捉えた。すると、そこに太陽の光が発生する。神子が幾度と無く蘇我軍を助けてきた、日輪の力である。
『ぐぅぁあああ!?』
『目があああ!』
突然の強烈な光に、兵士たちは足と手を止め、一瞬だけ場が静まり返る。その隙をついて神子は今一度、大声で宣言する。
「みなさん! 聞いてください、見てください! 私は聖徳王です。君たちを率いる者であり、蘇我を勝利に導くもの……」
「黙れ! この化物め!」
最前列にいた兵士の一言で、神子は理解する。
彼らは決して狂乱状態でも、彼女の言葉が聞こえていなかったわけでもない。
相手が聖徳王であると知って、完全なる敵意を持って刃を向けていたのだと。
『そうだそうだ!』
『死ね! この化物め!』
『よくも騙してくれたな!』
そのような声が神子に向けて、一斉に放たれる。そして彼らの刃は再び彼女の命を狙ってきた。
「うぅっ!? な、なにを……! みんな、どうしたのですか!?」
剣で攻撃を防ぎながらも、神子は次第に後退を余儀なくされる。このままでは階段の下まで押し切られ、そうなれば大量の兵士に周りを取り囲まれる。流石にその状態になれば神子といえども、ただでは済まない。
「神子様!」
背後から頼れる声が聞こえた。
それと同時に、神子の脇を雷矢が駆け抜ける。
兵士たちは蜘蛛の子を散らすようにそれから逃れようとして、バランスを崩して階段を転がっていった。
『うわあああぁぁ』
『ぎゃあ!』
悲鳴と苦悶の声を耳にしながら、神子は咄嗟に振り返った。
「屠自古!」
「神子様、これは……!」
「なぜ、撃ったのです!?」
「言ってる場合ですか! 相手が蘇我軍だろうと……この状況では殺されて終わりです。反撃しなければ!」
「……それは……ぐ、ううう」
蘇我の兵たちは、相手がいよいよ反撃してきたと憤り、また恐れをなした。自分たちのように密集した群衆の中に、さきほどの様な雷矢は効果てきめんだ。一気に半壊状態にさせられてしまう。
『次の矢が来る前に、早く奴らを殺すのだ!』
『ウオオオ! いけええええ!』
鬨の声と同時に、蘇我兵たちは得物を振り上げ、階段を駆け降りてくる。
「さぁ、ご決断を!」
「あ……! 屠自古、足を……!」
神子は気付いた。ここまで駆けつけた屠自古の右足に、一本の矢が貫通していることに。そんな状態で自分を助けに来てくれた忠心に感動すると同時に、屠自古が蘇我兵たちの刃から逃れる方法がないことを察する。
「私は……屠自古。あなたを守る!」
神子は迫り来る敵を睨みつけると、丙子椒林剣の柄を強く握った。
そして大きく振りかぶって、叫ぶ。
「日輪よ! 我を救い給え!」
彼女の両手が眩い輝きに包まれる。
丙子椒林剣の刃が、黄金色の鞘を纏い、彼女自身の背よりも長い光の一閃を産み出す。
同時。彼女の身体が悲鳴を上げる。
肉体に這いずりまわる仙人の力。それが結界によって地面に押し付けられている。それは、肉を内側から引き裂かれ、食い破られるような痛み。
神子が本来持つ日輪の力を使うことで、結界はよりその重圧を増すようで、神子は内臓が幾つか食いつぶされるのを感じた。
だが、振り切る。
「いけええぇぇぇ!」
刃は天井に突き刺さる。そして金切り声を上げながら、岩を引き裂いていく。
あまりの迫力に腰を抜かすなり、その場で防御の姿勢を取る蘇我兵たちだったが、肝心の刃は彼らには届かなかった。
ただ、その掘削された天井は崩壊を始めた。
『うわあああ!』
『やっぱり無理だ!』
降り注ぐ岩自体というよりも、神子の力を目の当たりにして兵士たちは戦意を喪失した。一部が階段を逆走して逃げ、あとの残りも神子に立ち向かおうとはしなかった。
満足気に力を収めた神子の口角から、一筋の血が流れる。
「……事情を話してはくれませんか」
近くに倒れこんだ兵士に向け、神子は問うた。
すると彼は怯えきった瞳で神子を見返し、ぶるぶると首を横に振った。
神子を見る瞳は、いつぞや向けられた敬意や憧憬とは掛け離れ、ただ人間に仇なす化物を見るかのような、恐怖と敵意に満ちていた。
とても話が出来る状況ではない。神子は今一度、その兵士に問いただそうとし――
「事情なら。私が説明しようか」
神子は、その声に動きを止めた。
階段の上の方から響いた、聞きなれた声。
それは物部の秘術使いの登場よりも、杜矢の推参よりも、蘇我軍の乱入よりも、何よりもあり得ない事であった。
そして、彼がそこに現れた意味を考えれば、この一連の戦いの真実は、神子にとって受け入れがたいものになる。だが、全ての辻褄が合う。
神子は、己の心臓の音を聞いた。
荒く脈打つその鼓動は、彼女の人生において、今が最たる動揺を引き起こしていると証明している。
言葉を失い、ただ呆然とする。しばらく、時間が止まった。
「……ちち……う、え……」
同じように呆然としながら、しかしすぐに怒りの感情を表に出し、屠自古が吠える。
「なぜ……! 父上がここにいるっ! これは、どういう事なのだ!!」
何人かの家来を引き連れ、堂々と構える鵜眞は、両の手に備えた数珠をちゃりと鳴らして答える。
「簡単な事だよ。屠自古。――お前たちが私を裏切っていたように、私もまたお前たちを裏切るということ」
はっきりと答えを聞いた。
神子と屠自古は、まるでその身を剣で貫かれたかのように、苦悶の表情を浮かべて、後退りする。
「……神子様。父にこの場所を教えたと、言いましたね」
「え、ええ……」
神子は剣の切っ先を地面に向け、唇を震わせていた。ちょうど地上からの光が差し込み、鵜眞の姿は逆光で黒く塗りつぶされている。その表情は見えない。
「それは、ほんの数日前の出来事だったはず。それから敵対関係にあった杜矢と、こうも結託できるはずがない。つまり――」
「や、めて……やめて!」
からん。
剣が石階段を叩く音が、虚しく響いた。
神子は、その場に蹲って両耳を塞いだ。そして、ついに尻餅をついて鵜眞を見上げる。
「神子、お前はここで――死ぬのだ」
鵜眞が右手をかざすと、そこには白い輝きが生まれる。無論、彼は神通力の類には無縁だった。それを可能にしているのは両手の数珠と、仏教の法力。和の力。
そして、仙人を屠る力。
「さらばだ、神子」
父の手から放たれた光の矢は、神子の胸に向かって真っ直ぐに飛んだ。
◇ ◇ ◇
「布都、お前のような愚図が……俺を殺せると思っているのか」
「物部の一族は秘術を敵に回すことがない。だから秘術に対抗する術に乏しい。自分で分かっているのであろう? 我が怖いのか?」
「死に損ないが……お前のような、能なしの屑がッ! 俺を、物部杜矢を殺すというのかッ!」
杜矢は狙いを合わせたまま、布都は構えを解かぬまま、お互いに動かずにいた。
どちらかが仕掛ければ、どちらかが死ぬ。それも確率は五分五分だ。
そんな膠着状態。杜矢は口によって布都の動揺を誘おうとしていた。
「昔からお前はそうだった。疫病神め。今更になって誰も必要としていない神の力などに目覚め、王の寵愛を受けるなどと余計なことをしやがって。お前のせいで物部一族は崩壊しかけたのだ。――それを俺が纏めてあげて、物部の勢力を守ってやったのだ。感謝しろ」
「その物部も、終わりだろう。蘇我氏はお前たちを打ち破る」
「……バカめ。まだ気付かないのか? 俺たちは……」
「知っておるわ! 蘇我……蘇我鵜眞が我々を売ったのだろう!」
布都は気付いていた。
兄が自分の生存に驚いたということ。それは相手に自分の病状が知れ渡り、しかも尸解仙の術を施そうとしている事さえ漏れていたということ。
そんな秘密を漏らすことが出来るのは、青娥か鵜眞くらいの者であり、しかし青娥は布都につきっきりの看病をしていたのだ。
だから、自分たちを裏切ったのは鵜眞である。そのように気付いていた。
「……おぬしらを、物部氏を打ち破る蘇我氏は……鵜眞ではなく、太子様や屠自古の率いる蘇我氏だ。お前たちを倒し、大和を一つにし、永劫続く平和な国を創り上げるのだ!」
「ふん。化物どもが治める国など、民は誰も求めてはおらぬ。……ああ、屠自古、といえば。蘇我屠自古……奴には姉がいてな」
「屠自古? 何が関係ある」
「貴様を蘇我にやったのと引換に、鵜眞が俺に寄越したのだ。屠自古の最愛の姉をな。お前のせいで、そいつが今どんな目に遭っているか……」
「小癪な真似は止めろ! それは我のせいではない。全ては頭の狂った貴様の悪行ではないか! だから我は成敗する。――饒速日命の名において、邪悪なる存在を消し去ってくれる!」
「ぐ……き、さま……俺を愚弄するか!」
「ふん。どうした? 我を動揺させるつもりが、逆に焦っているのはおぬしの方ではないか? 指先が、震えておるぞ」
「お、おおおおおァァァアア!!」
杜矢は絶叫と共に、その矢を放った。光の加護を失った、ただの矢。しかし当たれば人の命を奪う凶器。
「……! 風よ!」
布都は素早く右手を振るい、辺りに突風を巻き起こした。
矢はそれに煽られて軌道を変え、あらぬ方向に飛んでいった。
風は杜矢へも届いたが、防御の姿勢を取れば吹き飛ばされるほどでもない。
「糞が! しかし、風で防御されるだけならば……! 撃ち続ければ勝てる!」
杜矢は急いで次の矢を取ろうと、背に腕を回した。
しかし、そこに在るはずの矢がなかった。
ようやく気付いた。背中の矢筒にたっぷりとあったはずの矢。それらの課す重さが、突風に煽られた時より失われていたことに。
「!?」
「物部杜矢。覚悟」
地面に散らばった己の矢、そして自分に向けて弓を引く妹。両方に目をやってから、杜矢は声にならない叫びを上げた。
「~~~~ッ!?」
咄嗟に身体を捻り、致命傷を避ける。しかし矢は右肩に深々と刺さり、彼の長年鍛えあげてきた筋肉を破壊する。
「ァァ! うぉぉおぉ!?」
杜矢が矢を拾おうと屈んだ瞬間、さらに背中から突風がきて再び矢を吹き飛ばした。今度は本人も踏ん張りの利かない姿勢だったので、風に煽られて地面を転がる。
彼の身体と矢は絶望的なまでに離れてしまった。
「ぐぅ、おぉぉ! おい! 鵜眞は、あやつと蘇我兵は! 何を手こずっておるんだぁぁぁ!」
なまじ、弓矢の腕に絶大なる自信があったせいだろう。彼は腰の剣を抜くという選択肢を失っていた。
「……哀れだな。あれほど最強であることを自負していたというのに、最後に助けを求めるのは長年の仇敵か」
「うるさいうるさいうるさい! 黙れ黙れ黙れ! 民のことなど考えず、好き勝手に生きてきた貴様に何が分かる! 挙句の果てに不老不死の化物になろうとしただと!? この物部の面汚しがッ! 鵜眞の奴に知らされた時は、どうしようかと思ったものだ、この汚物めっ!」
「言いたいことは、それだけか」
矢を番えて、足元に倒れる兄へと狙いを定める。
鵜眞と彼の間で、どのようなやり取りがあったのかは、少しばかり気になる。しかし、今は一刻も早く神子の援護にいかなければいけない。
布都は、静かに息を吐いた。ようやく、彼女は血の継りから解放される。
「あああああああああ! この汚らしい売女が!! 穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れた身め穢れたッ――」
<穢れた身め>
<穢れた身め>
<穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
それは呪怨のように粘着質で、怒号のような激しさで、喚きのような喧しさで、神子の脳内に響きわたってきた。
辺りの者が彼女に向ける感情。それが言葉として理解できてしまう。仙人としての修行を積み、より研ぎ澄まされた感性がそうさせてしまうのだ。
<穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め>
それは彼女たち『不老不死の化物』を蔑む、合言葉のようなものなのだろう。
兵士たちの心の奥底から湧き上がる言葉は、まるで長年の仇敵に向けられるような呪詛。
人間離れした戦神。自分たちの国を救う存在。それに付き従う女たち。
それらに向けられていた強烈な崇拝の心は、ある仕掛け一つで全く逆の意味に受け取られる。
人間離れした化物。自分たちの国に巣食う存在。それに付き従う女たち。
崇拝は憎悪に。憧憬は畏怖に。心酔は嫉妬に。眩しさは痛みに。光は闇に。恩は仇に。先導者は扇動者に。救世主は、傾国の化物に。
敵は大祀廟にあり、と命じられ。または王が化物であったと聞かされ、半信半疑のままに。それぞれの想いを胸に秘めて行軍してきた兵士は、地面の下から這いでてきた動く死体を見て確信したことだろう。
――王は、人に害為す化物であった。
<穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め>
その仕掛けを施したのは誰なのか?
仕掛けられる立場にいるのは誰だけなのか?
この言葉を誰が考え出したのか?
答えを、神子は、知ってしまっている。
なぜなら一際大きく、先ほどから聞こえてくるのだ。
<穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
目の前にいる鵜眞の心から、呪言のように漏れ出して、彼女に対する感情が。
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
「危ない!」
屠自古の放った矢が、神子へと向かった光の矢を弾いた。
そうしなければ、豊聡耳神子は絶命していただろう。まったくの防御も回避も、抵抗もせずに。
<穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め>
「神子様! <穢れた身め><穢れた身め> 何をして <穢れた身め><穢れた身め> んですか <穢れた身め><穢れた身め> 抵抗を <穢れた身め><穢れた身め>」
もはや屠自古の言葉を上書きするほど、その怨嗟は響きわたっている。
神子は瞬きも忘れ、じっと階上の鵜眞を見た。そして、唇を震わせながら何とか言葉を紡ぐ。
「何故、ですか。鵜眞……あなたは……確かに裏切ったのは私たち、でも……あなたは、私を拾い育ててくれた……」
「死ね、神子」
再び放たれた白い矢は、かろうじて屠自古の矢が防いだ。
「屠自古。邪魔をするな」
「父上っ! いや、蘇我鵜眞!! 神子様の命を狙うとは、どういう事だ!」
屠自古は脚の怪我も忘れ、怒りに頬を紅潮させて声を荒げる。
「どの口が言うか。私を裏切り、民を裏切り、全てを騙した。穢れた身め」
「……! ふざ、けるなよ。神子様が告白する前から、杜矢と手を組んでいたのだろう。私たちを、亡き者にするために……! 神子様が告白したのを良い事に、先に裏切っておいて、同じように民を騙しておいて、その言い草ァ!」
蘇我鵜眞と物部杜矢が手を組んでいた――
この大祀廟を包囲した連携をみても、その事実は明らかだろう。
問題はそれが何時からだったのか?
少なくとも、神子が裏切りを鵜眞に告白する以前からだったという、屠自古の推測は正しいだろう。
神子たちが仙人を目指した事に感づいて、それから手を組んだのか。もしくは、それ以前から? まさか、全ての最初から?
また、どのような同盟関係なのかも重要である。
神子たちを暗殺する為だけの同盟だったのか? あるいは蘇我と物部の戦争すらも、彼らの結託の裏に操られた茶番だったのか?
それらを、どのように考えたとしても、屠自古の怒りは収まらなかった。
対する鵜眞は、怒りとは無縁の、死相のような無表情で答える。
「……屠自古。私の絶望が分かるか?」
<穢れ><た <身め穢れた 身め>>
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
声が一段と大きくなる。神子は顔を両手で覆い、指の間からかろうじて鵜眞の姿を見つめた。
光の矢と、雷矢のぶつかり合いは続く。ただ地面に伏せる、無力な少女の目の前で。
「自分が生涯を賭けて創り上げたものを、不老不死の化物どもに奪われる悲劇を。しかも、それは自分が命を拾ってやった娘同然の者。そして実の娘。契を交わした妻。――ひどい裏切りではないか」
「論点をずらすな! 答えろ。お前はいつから杜矢と通じていた!? 神子様が青娥と会う前から、お前は……!」
「私はな、神子」
突如、屠自古から視線を自分に移され、彼女の胃は握りつぶされたように痛んだ。
「本当に、お前を後継者にしようとした。お前を聖徳王としようとした。お前こそが為政者にふさわしいと思っていた。――それが命惜しさに化物になった悲しみを、お前は分かるか? いや、分かるまい」
「そ、れ……は、ち、ちがう……私は」
「鵜眞ァ! 嘘をつくんじゃない! 命が惜しくなったのは、お前の方だろう。神子様は信じていたのに……死が近くなったからといって、これからの生を往く者に嫉妬などしないと、神子様は信じていた!!」
そこで鵜眞は初めて、この場で感情を顕にした。
それは、屠自古のものとは比較にならないほど、燃え盛る憤怒。
「違う! 嫉妬などでは、断じてない! お前らのような邪道の化物を狩るのが、我々為政者の役目なのだ!」
「ならば、さきほどの裏切りを責める言動はなんだ! お前は本当のことを言ってなどいないのだろう! 自己を正当化し、神子様を罪悪感で押し潰そうとしている! 神子様、奴の言葉に耳を傾けては……」
そこで屠自古は口を噤んだ。
何度目かの光の矢との撃ち合い。彼女はそれ以前に、杜矢とも一戦交えていた。その連戦の代償――それは弓矢使いにとっての致命傷。
「おや? 屠自古よ。背中の矢筒、空に見えるが」
屠自古は右足の痛みを思い出したかのように、その場で片膝をついた。
「ぐゥ……神子様……! ここまで来たならば、仕方ありません。私も覚悟を決めました。――父を討つ覚悟を。……あなたも、どうか……覚悟を決めてください」
「……父を殺すと申したか。やはり化物は、化物らしい醜悪な心を持つようだな。――先に死ね、屠自古」
鵜眞の狙いが神子から、屠自古へと切り替わる。防御手段もなく、足の怪我で回避も叶わぬ彼女へ向け、一撃で致命傷となる光の矢が放たれた。
「……くっ」
目を瞑りかけた屠自古の視界に、一つの人影が飛び込んだ。それは尋常ならざる速さで駆けつけて、手にした得物で光の矢を弾く。
その姿は、燦々たる輝きに護られている。
「……鵜眞」
「神子よ。ついに私に刃を向けるか」
「私はあなたと戦いたくありません」
「当然だろう。私がお前を助けてやった、育ててやった、王にしてやった。命の恩人なのだぞ」
「私は……あなたを裏切った。しかし、あなたも裏切った。少なくとも、あなたは……私たちに協力すると言ってくれた。だから、この大祀廟の場所を教えたのですから」
「まさか、騙した相手に騙されたから、殺すというのか? 流石は化物――」
「私は!! あなたの、ために……あなたの理想のために……!!」
「今さら、涙を流して許しを乞うのか?」
「私はもはや、豊聡耳神子ではありません。私は理想の国を作る。理想の王であり続ける。不老不死なる理想の国に君臨し続ける。――その意思の塊」
「……ほう。戦うのか。私と」
「ええ。戦いましょう。鵜眞。杜矢と覇権を争うように、私はあなたと大和の覇権を争う。今、ここで」
「穢れた身め……穢れた身め!」
鵜眞の右手が、神子を指した。同時に光の矢が出力され、同時に一切の容赦なく射出される。しかし容易に見切ると、神子は反射的にそれを弾く。
そして肉薄しようと階段を蹴った。
「くっ、行け!」
鵜眞の命で脇に控えていた兵が、神子へと突撃してきた。
何処かで見覚えがある。鵜眞の近衛兵であったか。
しかし戦場においては素性よりも何より、今持っている力こそが重要。
「……!! こいつ、出来る!」
神子は相手の力量を感じ取ると、手加減してどうにかなるものではないと看破した。だから一瞬で、一振りで斬り捨てる。
手練であったろう兵士は、無残にも胴体を斬り裂かれて死ぬ。
<穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め>
水の中に血を垂らしたように。一斉に声が広がり、周りから押し寄せた。
鵜眞だけではない。倒れた兵士たちから、さらには命尽きた者からも、その声は神子へ投げつけられる。
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
怨嗟の大合唱は、もはや大祀廟を覆いつくした。
「神子、どうだ? お前が共に戦い、必死に助け、勝利へと導いてきた兵たち。それから恨まれるというのは」
「……鵜眞っ! 兵たちに、何を……!」
「お前は、人の悪口を言わないな。それは大層素晴らしいことだろう」
鵜眞は光の矢を撃ち続け、神子はそれを弾き飛ばし続けながら、会話も続く。
「だが人は人を貶めるものだ。神子、お前に全くの落ち度がなかったとしても、悪意あるものが事実を歪めてお前を悪く言う。相手はそれを真に受けるとする。それが連鎖し、お前は自然と悪人になる。――しかもお前は他のものを悪く言わないから、悪くなっていくのはお前だけだ。分かるか? そういう事なのだ」
「馬鹿な。そんな事は、ないっ! 私は……!」
「お前は <穢れた身め> 兵に <穢れた身め> 慕われている <穢れた身め> とでも <穢れた身め> 思っていたのか <穢れた身め>」
「私は……そんな、私は、ただ……!」
周りの兵が、自分への憎悪を剥き出しにする。死んだ者さえも恨みを持って呪詛を唱える。神子を取り憑き殺そうと、化物を打ち倒そうと。
神子は兵も民であると考えていた。だから戦場においても彼らを使い捨てにすることなどせず、一人ひとりの心の内を知ろうと努力し、弱さの吐露もしっかりと受け止めてきた。
「なのに、なぜ」
言ってしまってから、首を横に振る。
そんな自分の考えは独りよがりだったのだ。彼らの心の内が、こんなにも自分への恨みで覆いつくされているなどとは、想像もできなかった。
自分は所詮、兵たちの心を知ろうとし、知ったつもりでいるだけで、何も分かっていなかったのだろうか。
そうでなければ、おかしいではないか。
必死に守り、導き、心を優しく抱きしめてきたはずの兵たちが、自分に槍の穂先を向けるはずがないではないか。
「人を殺す事に <穢れた身め> 秀でているだけで <穢れた身め> 戦神と崇められて良い気 <穢れた身め> なっていた <穢れた身め> ではないか? 周りの者の本心を <穢れた身め> お前は知らなか <穢れた身め> のではないか」
敵からすれば、神子はまさしく化物であったろう。
だが味方からすれば頼もしい王のはずであった。そのつもりであった。
ならば、その王が敵にまわるとなればどうだろうか。
兵たちの狂乱に近い敵意には、そういう想像をしたくなるものがあった。
思えば自分は布都や屠自古とのみしか、親しくしていなかったのではないか。
女であることを隠す意図があるとはいえ、自分と腹を割って話せる臣下は、大陸に旅立った衣孟くらいしか思い当たらない。
そんな、自分たちとは違うどこか遠くにいる王は、何を考えているのか分からない、化物のように見られてもおかしくはない。
「私は、違う! 国の、為……理想の……国の……」
「お前は <穢れた身め> あるから、人から敬 <穢れた身め> て慕われただけだ。本来のお前など <穢れた身め> 屋に捨 <穢れた身め> れていた、ただ <穢れた身め> 過ぎん。それを忘れて <穢れた身め> は思 <穢れた身め> がっ <穢れた身め> た」
神子は聞きとった。
鵜眞の心の内を聞きとった。
彼は不老不死を欲していた。しかし、知らぬが故に笑い飛ばしていた。
彼が物部杜矢と繋がっていたのは、いつからかは知らない。だがその意図に神子への敵意はなかった。むしろ、神子を王とする為の近道として、神子からすると相容れない考えに基づいた策略だったのかもしれない。
だが、神子が道教のことを話し、不老不死が現実のものと知り、神子がそれを実現しようとしていること。
そして、自分がその不老不死を手に入れることは出来ないと同時に知ったとき。
――彼の全ては逆転した。
老いとは、それほどまでに人を弱らせるものなのか。狂わせるものなのか。
裏切りの告白の前までは、鵜眞の神子を想う気持ちは、あの月を見た夜と変わらないはずだったのだ。それが不老不死という言葉一つで、老いへの恐怖一つで、ここまで彼を変貌させてしまったのだというのか。
『老いた人間の、死を近くに感じる人間の心が、どんなに醜く歪んでいくかを知らなさすぎる』
あれは誰の言葉だったか。神子は笑ってしまった。本当に自分は無知だったのだ。人の心を知らなかったのだ。
そして、そんな彼の心を知らずに踏みつけて、本人の前でのうのうと不老不死になると話した自分の愚かさを、哂った。
それは病床に伏せる布都に対して「あなたは死ぬけれど、私は不老不死になります。国のことは任せてください」というのと全く同じであった。布都に対しては絶対にそんな事は言わないはずであるのに、何故、自分は鵜眞に対してそんな事を言ってしまったのか。
「違う……違う……!!」
今までの鵜眞との会話が、頭の中に蘇る。
もしかしたら、自分が道教のことを告げる前から、鵜眞は神子を嫌っていたのではないか。人間離れした才に嫉妬し、利用するだけして、このように打ち捨てる算段を、いつから立てていたのだろう。
彼女は相手の心を“察する”ことしか出来ず、直接その心の声を聴き取れる訳ではない。だから、少しでも自信がなければ疑心に捕らわれる。自分の推測は思い込みであると考える。
ましてや今は、守ってきた全ての兵と、信じていた最愛の人の心が、自分の思っていたものとはかけ離れていたと見せつけられているところ。
彼女の疑念は止まらない。
一体いつから、鵜眞は私を恨んだのだろう。
あの時の優しい言葉も、厳しい言葉も、嬉しかった言葉も、その心の内に黒く渦巻くものを抱えながら告げられたものだったのか。私のことを殺したいほどに憎みながら、私と笑顔で話していたのだろうか。
<穢れた身め><穢れた身め>
『神子。お前に……王になってもらいたいのだ』
<穢れた身め><穢れた身め>
『……うむ。こうなったら、私たちが不老不死にでもなるしかないか。……はっはっは!』
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
『私は、どんな手でも使ってお前を“王”にする』
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
『男親は娘の成長を喜べないものなのだよ』
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
『娘に刃を向ける父が、どこにいるか』
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
『そうか。私とお前の理想は同じだったか。……これなら安心だな』
<穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め><穢れた身め>
「う、ああ、ああああ!」
丙子椒林剣の描く軌道が、次第に大ぶりになっていく。神子が感情的に叫ぶところなど、屠自古は見たことがなかった。
それだけ彼女は、未だかつてない状態になっている。未だかつてない危機に陥っている。
「神子、様! 神子様! 心を、どうか、心を……!」
「私はっ、鵜眞! 私はぁ……!」
「神子、お前の生きる世界は、こんなものなのだよ」
<穢れた身め>
からん。からん。からん。
三回ほど、金属の打ち鳴らされる音が聞こえた。
神子の立っている石段から三つほど下、そこに一本の板、のようなものが落ちている。
「神子……様」
屠自古はそれを呆然と見つめ、続いて神子の手元に目線を移す。そして、さらに驚愕に目を見開いた。
――丙子椒林剣が、折れている。根元から真っ二つに、無残にも折れている。
「もう、防ぐ手段がなくなったな」
鵜眞は無表情のまま、光の矢を産み出す。そして何の感慨もなしに矢を放った。
「あ……ああ……」
刃を失った愛剣を手に、神子は棒立ちだった。
その胸元へ光の矢が吸い込まれていき、心臓を食い破ろうとしている。
しかし、彼女は動けずにいた。
「神子様ッ!!」
階段から引きずり降ろされるように、彼女の身体が引っ張られた。
そして、入れ替わるようにして矢の軌道に舞い込んできたのは、深緑の衣装。
ぐしゅ
思いのほか鈍い音。溢れ出す色は赤というより黒で、貫通した切っ先は神子の目前で止まった。人間一人分の盾がなければ、神子の命はなかっただろう。
「と……じ……こ?」
丙子椒林剣の柄は神子の手元から離れて、甲高い足音を立てながら階段を落ちていく。
代わりに彼女の両手に収まったのは、真っ白な肌を赤で濡らした、彼女の妻であった。
「屠自古!!」
◇ ◇ ◇
脂汗を額に滲ませながら、やっとの思いで神子たちに合流した。
その直後であった。屠自古の胸を矢が貫いたのを目撃したのは。
「屠自古!?」
布都は自らの身体も顧みず、神子のもとへ駆け寄った。その直後には、鵜眞の左手に新しい光の矢が携えられている。
「鵜眞殿っ! やはりあなたが裏切ったのですね……!」
「布都姫。妻である君に裏切られたのは、私としても悲しい。だから死んで償うのだ」
「……屠自古、屠自古!」
胸に突き刺さった矢は、目的の傷を負わせると消滅する仕組みのようであった。そして屠自古の傷は蓋を失って、一気に血を失わせる。
「あ……ぅ……がはっ!?」
白目を剥きながら吐血する。どう見ても致命傷である。
神子は腕の中に彼女を抱いたまま、鵜眞を睨めつけた。
「私は……愚かだ……! 最初から、こうしていれば良かったのに!」
「戦おうというのか。今まで自分を育てた父と」
「あなたの事を鵜眞だと、私の中の鵜眞だとはもう、思わない!」
「ふふ、まぁ、良い。それで? 剣を失ってから、どう戦おうというのだ? その腰にあるのは儀礼剣だろう」
「……あなたは、本当に……鵜眞ではなくなってしまったのですね……」
淋しげな神子の呟きが、階段に吸い込まれていく。
以前の彼なら分かるはずなのだ。
自分のことを育ててくれた、あの蘇我鵜眞ならば。
豊聡耳神子が持つ力が、剣術だけではないと知っているはずなのだ。
「……布都。屠自古を」
「う、うん。頑張ります」
小さな身体には多少無理があったが、断れる場面でもない。布都は必死に屠自古の身体を背負った。
神子は両手を胸の前に合わせ、祈祷をするように目を瞑る。
その身体が淡い光に包まれるのと同時に、彼女の肌を内側から何かが引き裂いていった。足元の血溜まりが、少しずつ広がっていく。
「……日輪よ、我に……最後の力を」
「天への祈りか、辞世の句か!」
鵜眞はとどめとなる矢の一つを、構え、そして解き放った。
それに反応するように、神子は両手を頭上に掲げた。
「日輪よ、全てを貫け!」
神子の放った太陽の輝きに比べれば、鵜眞の矢などは象と蟻。一瞬で光の矢はかき消され、代わりに極大の日差しが大祀廟を照らした。
神子たちと鵜眞の間に振り下ろされた太陽の光は、巨大階段に突き刺さり、なおも地下へと突き進む。そして轟音を響かせながら階段を破壊していくのだ。
「ぬ、おおおぉぉ!? これは……!」
あまりの威力に、鵜眞も焦りの声を上げる。
階段から細かく岩が伐り出され、その傍から圧倒的熱力で全て蒸発する。
そんな脅威が自分たちの目の前に現れたのだ。逃げない方がどうかしている。
「ええい! 退くぞ!」
号令に従い、生き残った蘇我兵たちは一斉に地上へと逃げていった。崩壊する階段から我先に、仲間を押しのけて逃げ去っていく。
やがて太陽の光が収束する頃になると、階段には誰もいなくなっていた。――全ての力を使い果たした、神子の他には。
「……これで、良いのです」
蘇我氏からも敵とされた神子たちには、外からの増援という望みがない。青娥がそれに該当するかもしれないが、彼女は既に倒されている可能性の方が高いので、実質勘定には入らない。
だから神子たちにとっては、こうして地下に封じ込められた方が、もはや生き残るという点では上策なのだ。というよりも、こうするしかなかった。
「……屠自古!」
神子はふと傷ついた仲間の事を思い出すと、慌てて階段を降りていく。
途中から真っ二つに引き裂かれた大階段は、じきに崩壊を始める。一度壊れ始めたものは、連鎖するように次々と周りの岩石を巻き込んでいく。壁をぐるりと囲んでいた階段が崩れ去ると、その下にあった幾つかの非常口も埋め立てられてしまった。もっとも、大祀廟について詳しく知っているのであろう敵が、その非常口を封鎖していない事はないだろうから、最初から神子の脱出は不可能であった。
もう誰も、この大祀廟へは足を踏み入れることは出来ないだろう。――空を飛べでもしない限りは。
◇ ◇ ◇
「屠自古、屠自古!」
問いかけに、ようやく瞳が開いた。その視線はどこか宙空を彷徨ったあとに、神子の真っ直ぐな瞳へと吸い込まれる。
「ん、ぁ……神子様……」
「あぁっ! 私のせいで、屠自古……私を庇ってっ……!」
必死に傷口を押さえるも、そこから流れ出る血は止まることを知らない。
むしろ、こうして言葉を交わせているだけでも驚きである。
「……ふ、ふ。すみません」
「なっ、なにを謝っているのですか……!」
「あなたの妻、失格ですね」
「……ッ! 馬鹿……!」
神子は彼女の胸に顔を埋めた。
蘇我屠自古。聖徳王の妻としてやってきた彼女。
戦好きという歪んだ性格で、それに見合う確かな弓の腕と、冷静な采配。だけれど冷たいように見える外見と、その中身は真逆であると神子は知っていた。完璧であるように振るまい、過ぎるほどに周りに気を遣い、彼女は紛れも無く聖徳王の妻であった。
神子は何度、彼女に助けられたか。そして、最後まで彼女に助けられた。
「……今度、生まれ変わるなら……」
「……? はい」
「妻、としてではなく……同じ、仲間として、戦場を……駆けたい」
「えぇ、そうしましょう。私も王としてではなく、一兵卒として……!」
「はは、無理に合わせなくて良いですよ……。あなたは、王でいてください」
何か、屠自古の口調がやたら明瞭になった気がした。
ともすると、このまま回復するのではないかと思うほど、彼女の口は滑らかだ。
だが神子は知っていた。それは風前の灯というものだと。
「……古き自らを屠り、我は蘇る」
「屠自古?」
「それが、私の望みです」
まるで疲れ果て、眠りにつくように、彼女は瞳を閉じた。
しかし寝息は立てず、心臓も鼓動させず。彼女は永遠の眠りについたのだ。
「と、じこ……!」
滲む涙を抑えるように、両の拳を握り締める。
だが彼女の死に悲しんでいる暇はない。
彼女には最期を見届けなければならない仲間が、もう一人いるのだ。
「布都……あなたも、そろそろ……」
振り返った神子は、いつの間にか布都が声も出さず、地面に伏していることに気づいた。
神子と目が合った布都は、まるで悪戯を咎められた子供のように、照れ笑いした。
「布都! あなた、もう……!?」
「へへ……どう、やら……そのようで……」
「ひとこと言ってくれれば……! 急いで祭壇に向かいましょう!」
「いいえ、ここで良いのです……。我、は……屠自古の魂を、ここで捕まえる」
「!?」
布都は右手で宙を掴むようにすると、自分の手の甲をじっと見つめた。
「すでに尸解仙の呪詛は、この身に刻まれています。……あとは死ぬのを待つ、だけ……ならば、ついでにあやつの魂を捕まえてやろうと、思いましてね」
「それは、屠自古を亡霊にするという、ことですか?」
「……分からない。彼女がそれを望むのか、どうか……ただ……」
「はい。――なんですか?」
「我も、共に戦いたい。今度は守られる立場ではなく、太子様を守る近衛兵として……戦いたい……太子様、と……屠自古、と……」
「え、ええ……! 是非、お願いしま……」
言葉を途切れさせ、神子は布都の頬をそっと撫でた。
まだ温かさの残る肌からは、しかし生のぬくもりを感じない。
神子は理解した。彼女もまた、旅立ってしまったのだと。
「……終わった、のですね」
立ち尽くし、周りを見渡す。
屍体、死体、死骸。矢、剣、槍。血、血、血。
死屍累々の戦場跡、残ったのは自分だけ。地上への扉は固く閉ざされ、侵攻されることもなく、出られることもなく。
大祀廟には、豊聡耳神子を除いて生きる者はいない。
「なんだ、これは……はっ……はは……!」
神子は思わず笑みを零す。笑いたい。笑わなければ、どうにもならない。
屠自古と布都の死体を担ぐと、彼女はゆっくりと広間の奥へ向かった。
ぽたり、ぽたりと血の足跡を残しながら、彼女は門をくぐる。
そして、長い一本道を歩き、たどり着く。栄華を極めた己らが住まうはずだった、大祀廟の宮殿に。
「私が……ここまで生きてきて、やってきた事は……一体、なんだったのだろう」
祭壇の左右に、最後まで自分についてきてくれた、掛け替えのない仲間の遺体を置く。そして自らは祭壇の上に立ち、豪奢な宮殿の天井を見上げている。
「私はただ、良い国を作りたかっただけ……その為だけに走り続けてきた……その結果が……ふふっ、これか」
全てを失い。地下深くに閉じ込められ。そして、自らの死を待つ運命。
「ふ、ふふ、はは……はははっはっははは!」
彼女は腰に提げた七星剣を抜いた。
その刃は、まだ一滴の血も吸ったことのない処女。しかし、たっぷりと呪詛が刻み込まれている上、美しい宝飾が目に眩しい。その均衡を失った造形が、今の自分にひどく似ていると思った。
顎を上に突き出し、神子は喉元をさらけ出す。真っ白な肌、その雪原へと刃が口付けをした。
「私は……なんの為に、生きてきたのでしょう」
七星剣の刃が吸うのは、聖人の血。
最初で最後の甘美なる蜜は、その刃に刻まれた呪詛に吸い込まれていった。
かくして、大祀廟には生けるものなく、打ち捨てられた屍体はやがて朽ち果てる。
だが宮殿に眠る二つの死体は、いくら月日が流れようとも朽ち果てることなく、ただ眠っているだけのようだという。――それを確かめる術は、誰にもないが。
大祀廟から少し離れた草むらにて、蘇我の兵士の何人かが無残にも“喰い殺されて”いた。彼らに共通するのは、その死体が尽く屹立していた事と、先ほど捕らえた仙人の護送を任されていたことだろう。
「……なんてこと」
青娥にとって、雑多な男を騙して拘束を解くことなど造作も無い。
こうして隙を見計らい脱出したわけだが、彼女が大祀廟に戻って目にしたのは、想定外の事態であった。
「二重結界……。それも高僧による厳重な……」
大祀廟の眠る小山の周りには、既に法力を用いた結界が作られていた。中からはもちろん、外からこれを解除するのも難しい。ましてや邪仙である青娥にとって、この結界は天敵であった。
「あ! あいつは!」
「……しまった」
まだ蘇我兵が残っていたようで、青娥の出現に慌てる声が響いた。結界を張った高僧を呼ばれれば厄介、青娥は素早くその場から去っていった。
――彼女は神子に忠心を持っている。
惚れ込んでいる、というのが忠心であると同義ならば、それは間違いがない事実。
しかし彼女にとって忠心、あるいは忠義とは、大和の武士たちが持つものと、少し違った意味合いのものであった。
例えば屠自古のように神子を庇って落命したり、布都のように最後まで彼女と共に歩んだり。それは青娥にとっては自己満足でしかない。
彼女はあくまでも現実主義者。神子が最高の仙人として活躍できる機会を、自らが作り出す為に活動する。それが彼女なりの忠義なのだ。
だから、ここで無理に助けに行き、捕まったり死んだりしては、元も子もないという価値観。
「私は外を自由に動ける存在として、いつか豊聡耳様が復活するのを待つ。それまで大祀廟は監視程度に留めておき、雌伏の時を過ごす……」
彼女には絶対の自信があった。
豊聡耳神子は、いつか必ず復活する。
だから、その時の為に自分は虎視眈々と機会を待つのだ。
「……真の聖人は“復活”をするもの。豊聡耳様、あなたはいつか……必ずこの地にて復活する。そして、世界最高の道士として君臨する。それまで私は、死ぬわけにはいかない」
ただ青娥は神子の身が無事であったかを懸念している。
鵜眞の率いる蘇我軍と遭遇したので、青娥は事の顛末を推測し、大体の流れを把握した。そして、それが神子にどのような結末をもたらしたのかも、想像がつく。
彼女の想像通りなら、神子も命を失いかけ、尸解仙の道を選ぶだろう。
尸解仙になれば、人格を失う恐れがある。欲望に人格を支配され、生前の記憶を失った別人になると言われている。
「でも……彼女たちにとっては、その方が――人格も何もかも理想に押しつぶされた方が――幸せかもしれないわね」
こうして青娥娘々は、大和の地に住み着くことになる。
ただ、彼女もまさか、神子の復活が千年以上も後になるとは思っていなかったようだが。
◇ ◇ ◇
絶対的な存在である杜矢を失った物部氏は、その事実を直隠しにした。しかし、最大の仇敵である蘇我氏にとって、それは既知の話。――物部氏は勢いを失い、それにつけ込んだ蘇我氏はやがて一極勢力となる。
文字通りに大和を手中に収めた鵜眞であったが、時間はあっという間に彼の命を奪ってしまう。神子を地中に生き埋めにしてから四年、彼は病床に伏せていた。
もはや身体は枯れ木のようにやせ細り、髪の毛は余すところなく白くなり、その双眸には奸計を巡らせた全盛期の輝きはなかった。
鵜眞の権力に付き従う多くの者に囲まれ、涙ながらに看取られようとするなか、彼の胸中を占めていたのは孤独であった。
ここに、神子がいて欲しかった。
それは嘘偽りない願い。
不老不死の法を聞き、死への恐怖と生者への嫉妬が入り混じり、憤怒に任せて神子を討ちに動いた。彼女を地下に封印した後も、その絶大なる功績を隠すように貶めた。
だが老衰し死を迎えようとした時、ふとその激情は消え失せた。人生の終末に立つ男に、そのような気力はもうなかった。代わりに浮かび上がってくるのは、あの時の自分への叱咤の感情。
何故、自分は神子を殺そうとしたのか。
あれほどに可愛がり、王としての資質に惚れ込んだ、実の娘以上に仲の良かった娘を。
ありもしない噂で兵たちの疑心を煽り、停戦協定を結ぼうと裏で手を組んでいた杜矢に全てを漏らし、自らの手で討たねばなるまいと狂乱したのは何だったのか。
今さら考えても遅い。
良い結果もある。継続すればお互いが潰れてしまうまでの全面戦争に陥っていた物部との戦も、杜矢の憤死につけこんで余力を持ったまま勝つことが出来た。
そのおかげで、彼の夢であった自分の国は完成をみた。
しかし、隣に神子がいなければ。託すはずだった彼女がいなければ、そんな夢の実現もただ虚しいだけ。
「お祖父様。あとは私にお任せあれ」
精悍な顔つきで言い放った孫は、確かに才覚に優れるが、狡猾に過ぎると鵜眞は評価していた。しかし、彼に自分の後を継がせるしか選択肢はない。
これ以上ない適任者は、自分が捨てさってしまったのだから。
「月が見えぬな」
昼間にも関わらずそんな事を呟き、手を天井に伸ばした。
そしてそれが力なく空を掴むと、命の炎は静かに吹き消された。
周りからすれば死の間際の錯乱にしか見えなかっただろう。
彼の心の内を良く知る者は、彼の周りには一人としていなかったのだから。
◇ ◇ ◇
あれほど勇名を轟かせていた聖徳王の存在も、蘇我鵜眞の手によって葬り去られ、やがて歴史の流れの中に埋もれ、人々の記憶の中から消えていく。ただ小野衣孟などの一部忠臣の手により、書物にその名を残すのみとなった。
時は過ぎ、戦乱の世を駆けた人々も、次の代に移りゆく。
大和王、蘇我鵜眞。権力者たちは寿命という抗いようのない波に飲まれ、この世から去っていく。
しかし。この国には一人の聖人が眠っている。地下深くで、己の力を必要とされるまで、静かに眠り続ける真の王が。
人々が夜の闇に恐れをなし、怯え竦み、助けを求めるのならば。その太陽はまた昇るだろう。燦々たる輝きと共に。
<了>
あっさり狩られたっぽい芳香ちゃんに涙
難を言えばちょっと展開が唐突かと思うところがいくつかあることですが
基本的にはそれこそ昔の偉人の話をわかりやすく教えてもらっているかのようでした
凄い、本当に凄すぎる
其々のキャラがとてもカッコよかったです
この大長編の執筆本当にお疲れ様でした
屠自古がすごいかっこよかった。
誰も彼も思い悩んで道を決めてゆく様がよかったです。
ただ一つ言わせてもらうならば重要な場面でのキャラの描写が台詞だけで語られている所が
結構あって少し淡白に見えたのが残念でした。
同時に色々と考えさせられる事も多く、非常に楽しかったです。
しかし、予想していたとはいえ鬱展開でそのままエンドはちょっぴりショック・・・
最後に再開を果たした彼女達の笑顔を、あなたの文章で描いて欲しかった。
この設定で続編が出ることを、切に願います。
素敵な作品をありがとうございました。
原作テキストを読んで疑問に思う空白の部分たちを、ストーリーの中で理路整然と消化していきながらも、
エンターテイメント作品として仕上げる物語構築力には、流石、お見事の一言です。
聖徳太子が天皇でないことへの理由づけや、布都に死を求めた経緯などには、目を瞬いて感心します。
それに、資料を読んでいるのでは小難しいったらない当初の情勢が、簡単に、面白く、知ることが出来きました。
これから神霊組と付き合っていくには、最低限でも必須な知識だと思うので、これは大変ありがたいです。
淡泊に物事を説明していく文章は、読みやすさに貢献していました。
けれど、演出の爆発力や盛り上がりを削いでもいるようで、少し勿体ないと感じました。
要所では、ねちっこい描写やケレン味を意識しても良かったのではないでしょうか。
以下、雑感。
ああ……布都ちゃん。昔はこんなに健気でいい娘だったのに……。
今ではドヤ顔の良く似合う勘違い馬鹿娘になってしまわれて、おいたわしやー。哀れ。尸解仙の術は失敗してしまったのですね……。
あと、冒頭でお亡くなりになった葛城宿禰氏が、後半でゾンビーと化して襲ってくるのではないかとずっと思っていました。
神子たちが納得して尸解仙になったわけではないこと、屠自古亡霊化の描写がなかったのも僅かながら不満でした。
宮古芳香が出演していないのは、青娥が彼女が作ったのは神子が封印された後、という説を取ったからでしょうか。
青娥にゃんにはやっぱり悪意なんてないんです。で、でも、天使のような笑顔の悪魔みたいな彼女も、ちょっとだけ好きかも。
敵役の物部守屋のキャラクターも憎み切れない部分があって好きです。このお兄ちゃんはなぜかイケメンな気がします。
新キャラたちの諸々の設定が丁寧に拾われていて読み応えがありました。
ようやく彼女らのイメージが自分の中で固まったような気がします
お疲れ様でした、ありがとうございました。
とっても面白かったです。
芳香はこの頃まだ青娥のもとにはいない設定です。雑魚扱いなんてしませんよ!
このあと色々あって青娥は芳香と出会うんですが、それはまた別の話。ということで。
この話は飛鳥SFストーリーなので、あまり時代考証とかは正しくないですよ。
それこそ聖徳太子が女だった、というのと同じくらい、滅茶苦茶で幻想的な世界観です。
というわけであしからず。
彼女たちの幸せな生活は、これから皆さんの二次創作で書かれていくことでしょう(キリッ
それではみなさま。コメントありがとうございました。
うおおおおおおめっちゃ面白かった!!
ありがとーーー!!
青娥、屠自古、布都、神子、それぞれの人生がしっかりと見える素晴らしい作品だったと思います。
緊急事態でドタバタと分かれてしまった青娥と神子達が再会した時、どのような言葉を交わすのか想像すると楽しいです。
三者三様に生き、また長い時を生きるであろう彼女達に幸あらんことを。
神霊廟組の過去を咀嚼し料理しあげた力作に感謝を。
一気に最後まで読んでしまうほどに、この作品は面白かったです!
布都、屠自古、そして神子。
飛鳥の世を生き抜いた彼女ら三人は、千年以上もの時が経ち、そして元居た所とは違う、流れ着いた妖怪の楽園に今何を思うのだろうか。
尸解仙、または亡霊となった今、彼女達の心は救われたのだろうか。
私はそうであると信じたい。だがそれを知っているのはあの邪仙だけだろう。
だがこれだけはわかる。
今、彼女達は幻想郷に生き、仙人、亡霊となった身で世を謳歌している。
そしてその世を、彼女達は楽しそうに、幸せそうに過ごしていることを。
改めて思う、
これは大河ドラマ並の作品だ!
こんな素晴らしい作品に出会えたことに感謝します。
それではそろそろ失礼いたします。
感動する作品をありがとうございました!!!!!
さらば!