私とルーミアは珍しく人里の外れの空き地に来ていた。ベンチに座る私達が見つめる先には人間の子供達がサッカーをしていた。
「やっぱり子供は可愛いわねぇ、食べてしまいたいわ」
「ル、ルーミア…」
「嘘よ、嘘。でも可愛いのは本当」
ルーミアはにやりと笑ってみせる。
「にしてもサッカーなんて珍しいわね」
「本当。一昔前に流行ってたよね」
私がまだ東ドイツにいた頃、サッカーは国威発揚の象徴たるスポーツであった。国家保安省、つまりシュタージから全面的な支援を受けるベルリナー・ディナモを表向きには応援しながら裏ではこっそりハンザ・ロストックを応援していた。ベルリナーは審判を買収してまで勝利を重ねるチームなことから嫌う市民もいた。私は国家人民軍の音楽隊にいたので便宜上応援せざるを得なかった。
私が幻想郷に来てから一瞬流行ったことはあったが人間の関心の移り変わりは早いものであっという間に廃れてしまったのを覚えている。
「みすちーはサッカーやらないの?」
「やったことないし…」
最近、私の知らないところでルーミアは変わってきている。リボンを付けているものの、風貌が変わった。
髪は長くなりスカートの丈も長くなり、さらには性格まで若干変わっている。
サッカーの話を切り出してきたのはルーミアだった。以前ならそんな事は絶対に言わなかったと思うがこれも変化の影響なのだろうか。
「最近いろいろ思い出すようになってねぇ…外の世界にいた頃、サッカーをしていたことがあったのよ」
「まさか人間に混ざって?」
「本気出したらふっ飛ばしちゃうから軽くよ、軽く」
ルーミアは古びた選手名鑑をカバンから取り出し私に見せる。
「……実際のところ、ブンデスリーガに妖怪の選手は何人かいたのよ」
「この3番と8番は妖怪なの」と指を差しながら説明する。
「それって規約…いや法律に引っかかるんじゃないの?東ドイツでは人間とは別の……」
「西ドイツではそんな決まりないわよ」
「え?」
「西ドイツでは人間と妖怪は区別されていなかった」
「戦時中の迫害が影響していたのよ」
「私も色々されたけどあの時代は……酷いものだったから……。反動ね」
ルーミアの言う通りだった。言葉にするのも悍ましいあの時代の反動からか西ドイツ政府は妖怪の存在を積極的に受け入れることに決めた。市民権や国籍まで与えるという戦前なら考えられない対応であった。
東ドイツ政府も似たような対応をしたが市民権は別でありパスポートには種族の欄が作られ、妖怪は第二階級市民として扱われた。
音楽隊等、妖怪を文化的な活動に参加させたが、人間と妖怪の結婚を認めない等、どうしても壁があった。
「西ドイツは妖怪にも市民権があったのよ。人間と同じ存在。まあ人間に同化させたい気持ちも多少なりともあったかもしれなかったけど…」
「実際政府の中枢に妖怪がいたしね。82年からのヘルムート・コール政権では…」
「ルーミア、政治の話は分からないから…」
「あぁ、そうだったわね」
「……ところで、なんで急にサッカーの話を?」
ルーミアは一瞬だけこちらを見ると目を逸らした。その目はどこか悲しみを帯びているように見えた。
「子供達を見ていると昔のことを思い出すわ」
「戦前はポーランドに住んでいたのだけどその時、恋人がいたのよ、彼はサッカー選手だった。ドイツが侵攻する前、レギア・ワルシャワってチームにいたの。いつもベンチだったけどね」
言葉を失った。ルーミアが恋人という単語を口にしたのは今までなかった。
「忘れもしない1944年のあの夏。私は彼と一緒に国内軍の一員として戦った。ドイツ人である私がポーランドの解放のために戦ったなんて不思議よね。今でもなぜあんなことをしたのか覚えてないわ」
ルーミアは空を見上げた。
「9月の終わりだったかな。私達は包囲された。何とか抵抗したのだけど彼は私を庇って銃で撃たれてしまった。胸から血が流れるばかりで目の前が真っ白になった」
ルーミアは静かに語る。しかしその手は震えていた。
「人を食べたのはそれが最初で最後」
その一瞬、ルーミアの目が怒りに震えたのを私は見逃さなかった。
「彼を撃った親衛隊の男が彼を食べろって。そしたら見逃すって言ったの。嘘だなんて分かっていた。でも恐怖と絶望に襲われて理性を失っていた。彼を離したくなくて……食べた」
「私は彼を抱きしめて腕に齧り付いた。あの血肉はどこか苦くて苦しくて胸が締め付けられるようだった」
「結局、私が助けられることはなかった。化物は退治されなきゃいけないって言われて撃たれたの」
「あれ以来、人を食べたことなんてないの。愚かな行為だった。ここに来てから人食い妖怪と流布したのは私自身。もう人間とそういう関係になんてなりたくなかった、から」
「戦後も色々あったのよ。人間社会で普通に暮らして働いて遊んで……まあ楽しかったわ」
普段は闇の中で暮らすルーミアが人間社会で生きていた姿を想像できなかった。彼女にもそんな時期があったことなんてこれまで考えもしなかった。
「結婚の誘いもあったわ」
「え、そうなの!?」
私は思わず声を上げていた。
「でもね、一度も踏み出せなかった。彼の影がチラついてね」
「結局、私は過去に囚われているの」
「リボンに辛い記憶を詰め込んで子供になろうとした」
ルーミアはリボンの端を指先で優しく摘んだ。
「記憶は私を逃がしてくれない」
その言葉には普段のルーミアの明るさはどこにもなかった。
「子供に戻ればあの頃に戻れると思った。でもそんな事は無理だった」
私は何か言葉を発しようとしたができなかった。彼女のあまりにも重い話をただただ受け止めることしかできなかった。
ルーミアは話を終えると子供達の方を見つめた。その目はどこか潤んでいる気もしたが、見ないふりをした。
その時、ボールがそれてこちらに転がってきた。ルーミアは目元を拭い足で止めてみせた。
「おねーさーん!そのぼーるこっちにくださーい!」
声が空き地に響いた。ルーミアはベンチから立ち上がると、ボールを拾い上げた。
「みすちー、ちょっと行ってくるわね」
そして彼女は私に向かってウインクすると軽やかな足取りで子供達の方へ向かっていった。
ルーミアは子供達とボールを蹴り合い無邪気な笑顔を見せていた。その姿からは普段の陰気な言動や表情など感じられない。
戦争も迫害も悲惨な過去も、一瞬でも忘れて今を生きることができたのではないかとふと思った。
☆☆☆
「おねーさんたち!さよーならー!」
「うん、また会いましょうね」
日が傾き子供達は家に帰っていった。
二人きりの空き地。私も帰ろうと思い翼を広げようとした。
「せっかくだしみすちーの昔の話も教えてよ」
参った。そんなことをするつもりはなかったのだけど。
「つまらないわよ?」
「いいのよ、とにかく聞きたいから」
「仕方ないなぁ……」
1945年5月8日、ドイツ国は連合国に無条件降伏したのはルーミアも知ってるわよね?
あの時聞いたカール・デーニッツのラジオが今でも耳にこびりついているの。
人民法廷で死刑判決を受けて以来、国内を逃げ回っていた私はようやく解放の時を迎えたわ。
え?なんでそんなことになったのかって?
……まあ、妖怪だったこともそうだけど私の歌声が当局に問題視されたのよ。それで反逆罪で死刑になった。
……あまりこの話はしたくないからこの辺でいい?
悍ましい時代が終わったとはいえ本土決戦でドイツは荒れていた。住む場所もなかったわ。
暫くして連合国による統治が始まった。私はソ連が統治する地域へと向かった。
今思えば希望を見ていたのかもね。あの国に。
そしてソ連が統治する地域は1949年にドイツ民主共和国として独立した。さっきも話したように妖怪も積極的に公的機関に引き入れようとした政府の方針で私は兵営人民警察の音楽隊に入隊したの。
歌手としてそこそこ有名だったのよ。それに内務省が目をつけたんじゃないかしら。
兵営人民警察は後に国家人民軍になった。確か1973年に……私はシュテファンって人に会ったの。彼は元々地上軍所属の人だったが戦闘訓練での負傷で音楽隊に転属してきた。
妖怪である私には監視役がつくのだけどそれが彼だったと思う。前の監視役達がそうだったのだけど妖怪に対しては抵抗がある人が多かった。
でも彼は違った。
東ドイツでは妖怪と人間が婚姻関係を結ぶのは法律で禁じられていた。でもね、私は彼のことが好きになっていたの。
「ローレライ少尉はいつも歌声が綺麗ですね(少尉なんて立派な階級を持っているがそんなモノに意味などなかった。プロパガンダとして私を利用したい軍の意向だ)」
軍の音楽隊でトランペット奏者をしている彼、シュテファン・ヴァイスはいつものように私に話しかける。
軍には妖怪の兵士が何人かいたが皆、基本的に監視官がついていた。主な目的は問題の早期発見の為。
シュテファンは私の監視役であり宿舎では一緒の部屋で過ごしていた。
私達はただの監視官と被監視者で終わる予定だった。
「シュテファン君、また聞いてたの?夜雀の歌なんて退屈なんじゃないの?」
「ローレライ少尉、貴女の歌には力があるんですよ。科学じゃ計り知れないような力が」
真面目な顔でそう言われるのだから照れてしまう。
妖怪ではなく人間として見てくれる。それはかつて人間であった私にとってそれは、あまりにも……。
東ドイツにおいて妖怪と人間はあくまでも別種として扱われてしまう。同じ国に生きているはずなのに。
「シュテファン君、もし私が人間だったら……」
そう言おうとした瞬間、シュテファンは私の口を人差し指で封じた。
「それは禁句ですよ」
でも、そんなことを言う彼の目にはどこか迷いが見えた。
確かその日は航空軍のジークムント・イェーンが宇宙飛行士として宇宙に行った日だった。
食事、訓練、就寝。様々な場所で私達は一緒にいる時間が増えた。
いつの間にか、二人きりの時は敬語も消え、私のことをあだ名で呼ぶことも増えていた。
呼ばれる度に心の奥がドクンと波打つ。でもこの感情はこの国においては存在しちゃいけない。この思いだけは抑え込まなければならない。
しかしその思いはダムが決壊するように崩れていった。
誰かの為に歌いたい、そう思えたのはシュテファンが初めてだった。
「みすちー?みすちー?」
目の前にひらひらと上下に動く手のひらが見えた。
「あ、ごめんなさい……」
どうやら話に夢中になっていたようで辺りは暗くなっていた。冷たい空気が頬を撫でる。
「また明日にでも、ね」
☆☆☆
家に戻ると私は箪笥から軍の制服を取り出していていた。
シュテファンが首を吊って自殺して以来、見る事すら避けていた制服。
突然、シュテファンと共に軍を首になった90年の夏。彼が首を吊り人間に復讐心を持ち始めた再統一の日。遺品を身に着けトラバントでドイツ中を回った91年の秋。
屋台やバンド活動をしても気が晴れることはなかった。私はあの日から止まったままなのかもしれない。
気づけば夜になっていた。私は部屋の明かりもつけず彼の制服をベッドの上で広げていた。
「そう言えばこの制服のポケット、見たことなかったな」
以前から不自然に膨らむ胸ポケットが気になっていたが、もし遺書だったりしたらと考えると恐ろしくなり見ることができなくなっていた。
手が震えるが私は覚悟を決めポケットに手を突っ込んだ。
「……やっぱり」
そこにあったのは折りたたまれた一枚の手紙だった。開いてみるとそのドイツ語の筆跡は彼のものであった。
“愛しき貴女へ“
どうしてこれまで見ようとしなかったのか。自分の弱さに腹が立つ。
でも……。
“この手紙を読んでいるということはもう僕は君の前には居ないのだろう。
君は気付いていたと思うが私は監視役だった。同志ホーネッカーからの直接の命令だった。
最初は妖怪の監視役なんて嫌で嫌で堪らなかった。でも君の優しさに触れる度にその気持ちは変わっていった。君を見張るのではなくただ君の隣にいたかった。“
視界が涙で滲む。しかし読まなければならない。それは彼の為にも。
“君に気持ちを伝えた時、やってしまったと思った。もしバレてしまえば君と一緒に軍をクビになるかもしれないからだ。でも伝えなければ後悔すると思った。
もし法律が変わって妖怪と人間が平等になったら。もしこの分かれたる国が再び一つになったら。その時は……。“
「じゃあなんで……!」
今更言われても遅い。生きてるうちに言ってほしかった……!
感情が揺さぶられる。
……でも私はすぐに気付いた。もしさらに踏み込んでいたら彼は1961年に西ドイツに亡命したコンラート・シューマンのように裏切り者とされヴォルフ・ビーアマンのように市民権を剥奪され国外へ追放されてしまうかもしれない、という事。
そう、彼は……できなかったのだ。東ドイツを愛していた彼にとってその選択肢はできるはずがなかった。
“あの夜。私はミスティに一つ約束をした。それは君を守るということ。でも何一つ守れなかった。
君が妖怪という理由で影でどれだけ傷つき泣いたのかを知っている。でも君はいつも笑っていたね
私は愚かしくも見て見ぬふりをした。軍での立場を守るという愚かな理由で。
許してほしい。“
“これを書いているのは1990年の7月。壁はなくなりあともう少しでドイツは統一するだろう。もし統一する時が来るのならば。
その時はミスティ、君を迎えに行く。
君の歌はローレライの呪われた歌などではない!私の心の支えであり世界で最も美しい。ニーナ・ハーゲンもあっと驚くような。
あともう少し。待っていてほしい。“
‐シュテファン・ヴァイス
「……っ!あ……!」
思わずグシャリと手紙を握りしめた。
目からは涙が溢れた。
「会いに来てよ!」
絶叫。それはしかし叶いもしない願い。
あの日。ケーキを持ってドアを開けた。しかし目の前に広がっていたのはロープに吊られている彼。
「会いに来てよ!なんで……なんで行っちゃうのよ……」
私は暗闇の中で嗚咽を漏らすことしかできなかった。
☆☆☆
「急激な西側文化の流入。みすちーの恋人さんはもしかしたら“心臓発作“で苦しんでいたのかもね」
次の日、私の暗い表情を見て心配してきたルーミアに私は全てを打ち明けることにした。
「社会主義体制から資本主義へのあまりにも急な経済体制の転換」
「みすちーが軍をクビになったように仕事をクビになる人もいた。誰もが統一を祝っているわけではなかった」
「そして祖国が消えるということ。それはとてつもない喪失感に襲われたでしょうね」
「ルーミア……」
「……まあ私も好きな人を目の前で喪った事、あるから」
ルーミアはそう言うと、一枚の古びた写真を見せてくれた。そこに写っていたのはルーミアと……。
「でも私は今を生きている。それは何故だと思う?」
「な、何故ってそんなの……分からないよ……」
ルーミアは暫く私を見つめ空を見上げた。
「それは過去を忘れなかったこと」
「人ってのは忘れてしまったら本当に死んでしまうの。これはアフリカのある国の教えだけどね?」
「覚えていれば大切なモノは消えやしない」
ルーミアは私の手を両手で握りしめ、
「そうすればシュテファンさんもきっと……ね?」
私はその手を握り返した。
☆☆☆
私は小さな、とても小さな墓石の前に立っていた。
その墓には遺体など埋まっていない。なぜなら彼は、私の中にいるのだから。
「久し振りね。ミェシュ」
返事はない。
「紫に土下座して頼み込んだ甲斐があったわ」
久しぶりのポーランドの風はどこか優しかった。
「私も過去と向き合うことにしたの。もう忘れたいなんて考えない」
私はワインボトルを2杯のグラスに注ぐとそのうちの1杯を墓の前に静かに置いた。
「貴方、飲みたいって言ってたわよね?このワイン。これは神奈子に無理言って」
チンと音がする。私は一気にワインを飲み干した。
そして“彼”のグラスを傾け墓石にワインを垂らした。
「美味しい?……なーんて、味なんて分かるわけない、か」
「ルーミア、そろそろ時間よ」
紫の声が聞こえる。私は振り向きグラスを丁寧に袋に入れると静かにほほ笑んだ。
「ええ、行きましょう。私達がいるべき場所へ」
その日のワルシャワではパレードが行われていた。皆、とても古めかしい格好をして。
「やっぱり子供は可愛いわねぇ、食べてしまいたいわ」
「ル、ルーミア…」
「嘘よ、嘘。でも可愛いのは本当」
ルーミアはにやりと笑ってみせる。
「にしてもサッカーなんて珍しいわね」
「本当。一昔前に流行ってたよね」
私がまだ東ドイツにいた頃、サッカーは国威発揚の象徴たるスポーツであった。国家保安省、つまりシュタージから全面的な支援を受けるベルリナー・ディナモを表向きには応援しながら裏ではこっそりハンザ・ロストックを応援していた。ベルリナーは審判を買収してまで勝利を重ねるチームなことから嫌う市民もいた。私は国家人民軍の音楽隊にいたので便宜上応援せざるを得なかった。
私が幻想郷に来てから一瞬流行ったことはあったが人間の関心の移り変わりは早いものであっという間に廃れてしまったのを覚えている。
「みすちーはサッカーやらないの?」
「やったことないし…」
最近、私の知らないところでルーミアは変わってきている。リボンを付けているものの、風貌が変わった。
髪は長くなりスカートの丈も長くなり、さらには性格まで若干変わっている。
サッカーの話を切り出してきたのはルーミアだった。以前ならそんな事は絶対に言わなかったと思うがこれも変化の影響なのだろうか。
「最近いろいろ思い出すようになってねぇ…外の世界にいた頃、サッカーをしていたことがあったのよ」
「まさか人間に混ざって?」
「本気出したらふっ飛ばしちゃうから軽くよ、軽く」
ルーミアは古びた選手名鑑をカバンから取り出し私に見せる。
「……実際のところ、ブンデスリーガに妖怪の選手は何人かいたのよ」
「この3番と8番は妖怪なの」と指を差しながら説明する。
「それって規約…いや法律に引っかかるんじゃないの?東ドイツでは人間とは別の……」
「西ドイツではそんな決まりないわよ」
「え?」
「西ドイツでは人間と妖怪は区別されていなかった」
「戦時中の迫害が影響していたのよ」
「私も色々されたけどあの時代は……酷いものだったから……。反動ね」
ルーミアの言う通りだった。言葉にするのも悍ましいあの時代の反動からか西ドイツ政府は妖怪の存在を積極的に受け入れることに決めた。市民権や国籍まで与えるという戦前なら考えられない対応であった。
東ドイツ政府も似たような対応をしたが市民権は別でありパスポートには種族の欄が作られ、妖怪は第二階級市民として扱われた。
音楽隊等、妖怪を文化的な活動に参加させたが、人間と妖怪の結婚を認めない等、どうしても壁があった。
「西ドイツは妖怪にも市民権があったのよ。人間と同じ存在。まあ人間に同化させたい気持ちも多少なりともあったかもしれなかったけど…」
「実際政府の中枢に妖怪がいたしね。82年からのヘルムート・コール政権では…」
「ルーミア、政治の話は分からないから…」
「あぁ、そうだったわね」
「……ところで、なんで急にサッカーの話を?」
ルーミアは一瞬だけこちらを見ると目を逸らした。その目はどこか悲しみを帯びているように見えた。
「子供達を見ていると昔のことを思い出すわ」
「戦前はポーランドに住んでいたのだけどその時、恋人がいたのよ、彼はサッカー選手だった。ドイツが侵攻する前、レギア・ワルシャワってチームにいたの。いつもベンチだったけどね」
言葉を失った。ルーミアが恋人という単語を口にしたのは今までなかった。
「忘れもしない1944年のあの夏。私は彼と一緒に国内軍の一員として戦った。ドイツ人である私がポーランドの解放のために戦ったなんて不思議よね。今でもなぜあんなことをしたのか覚えてないわ」
ルーミアは空を見上げた。
「9月の終わりだったかな。私達は包囲された。何とか抵抗したのだけど彼は私を庇って銃で撃たれてしまった。胸から血が流れるばかりで目の前が真っ白になった」
ルーミアは静かに語る。しかしその手は震えていた。
「人を食べたのはそれが最初で最後」
その一瞬、ルーミアの目が怒りに震えたのを私は見逃さなかった。
「彼を撃った親衛隊の男が彼を食べろって。そしたら見逃すって言ったの。嘘だなんて分かっていた。でも恐怖と絶望に襲われて理性を失っていた。彼を離したくなくて……食べた」
「私は彼を抱きしめて腕に齧り付いた。あの血肉はどこか苦くて苦しくて胸が締め付けられるようだった」
「結局、私が助けられることはなかった。化物は退治されなきゃいけないって言われて撃たれたの」
「あれ以来、人を食べたことなんてないの。愚かな行為だった。ここに来てから人食い妖怪と流布したのは私自身。もう人間とそういう関係になんてなりたくなかった、から」
「戦後も色々あったのよ。人間社会で普通に暮らして働いて遊んで……まあ楽しかったわ」
普段は闇の中で暮らすルーミアが人間社会で生きていた姿を想像できなかった。彼女にもそんな時期があったことなんてこれまで考えもしなかった。
「結婚の誘いもあったわ」
「え、そうなの!?」
私は思わず声を上げていた。
「でもね、一度も踏み出せなかった。彼の影がチラついてね」
「結局、私は過去に囚われているの」
「リボンに辛い記憶を詰め込んで子供になろうとした」
ルーミアはリボンの端を指先で優しく摘んだ。
「記憶は私を逃がしてくれない」
その言葉には普段のルーミアの明るさはどこにもなかった。
「子供に戻ればあの頃に戻れると思った。でもそんな事は無理だった」
私は何か言葉を発しようとしたができなかった。彼女のあまりにも重い話をただただ受け止めることしかできなかった。
ルーミアは話を終えると子供達の方を見つめた。その目はどこか潤んでいる気もしたが、見ないふりをした。
その時、ボールがそれてこちらに転がってきた。ルーミアは目元を拭い足で止めてみせた。
「おねーさーん!そのぼーるこっちにくださーい!」
声が空き地に響いた。ルーミアはベンチから立ち上がると、ボールを拾い上げた。
「みすちー、ちょっと行ってくるわね」
そして彼女は私に向かってウインクすると軽やかな足取りで子供達の方へ向かっていった。
ルーミアは子供達とボールを蹴り合い無邪気な笑顔を見せていた。その姿からは普段の陰気な言動や表情など感じられない。
戦争も迫害も悲惨な過去も、一瞬でも忘れて今を生きることができたのではないかとふと思った。
☆☆☆
「おねーさんたち!さよーならー!」
「うん、また会いましょうね」
日が傾き子供達は家に帰っていった。
二人きりの空き地。私も帰ろうと思い翼を広げようとした。
「せっかくだしみすちーの昔の話も教えてよ」
参った。そんなことをするつもりはなかったのだけど。
「つまらないわよ?」
「いいのよ、とにかく聞きたいから」
「仕方ないなぁ……」
1945年5月8日、ドイツ国は連合国に無条件降伏したのはルーミアも知ってるわよね?
あの時聞いたカール・デーニッツのラジオが今でも耳にこびりついているの。
人民法廷で死刑判決を受けて以来、国内を逃げ回っていた私はようやく解放の時を迎えたわ。
え?なんでそんなことになったのかって?
……まあ、妖怪だったこともそうだけど私の歌声が当局に問題視されたのよ。それで反逆罪で死刑になった。
……あまりこの話はしたくないからこの辺でいい?
悍ましい時代が終わったとはいえ本土決戦でドイツは荒れていた。住む場所もなかったわ。
暫くして連合国による統治が始まった。私はソ連が統治する地域へと向かった。
今思えば希望を見ていたのかもね。あの国に。
そしてソ連が統治する地域は1949年にドイツ民主共和国として独立した。さっきも話したように妖怪も積極的に公的機関に引き入れようとした政府の方針で私は兵営人民警察の音楽隊に入隊したの。
歌手としてそこそこ有名だったのよ。それに内務省が目をつけたんじゃないかしら。
兵営人民警察は後に国家人民軍になった。確か1973年に……私はシュテファンって人に会ったの。彼は元々地上軍所属の人だったが戦闘訓練での負傷で音楽隊に転属してきた。
妖怪である私には監視役がつくのだけどそれが彼だったと思う。前の監視役達がそうだったのだけど妖怪に対しては抵抗がある人が多かった。
でも彼は違った。
東ドイツでは妖怪と人間が婚姻関係を結ぶのは法律で禁じられていた。でもね、私は彼のことが好きになっていたの。
「ローレライ少尉はいつも歌声が綺麗ですね(少尉なんて立派な階級を持っているがそんなモノに意味などなかった。プロパガンダとして私を利用したい軍の意向だ)」
軍の音楽隊でトランペット奏者をしている彼、シュテファン・ヴァイスはいつものように私に話しかける。
軍には妖怪の兵士が何人かいたが皆、基本的に監視官がついていた。主な目的は問題の早期発見の為。
シュテファンは私の監視役であり宿舎では一緒の部屋で過ごしていた。
私達はただの監視官と被監視者で終わる予定だった。
「シュテファン君、また聞いてたの?夜雀の歌なんて退屈なんじゃないの?」
「ローレライ少尉、貴女の歌には力があるんですよ。科学じゃ計り知れないような力が」
真面目な顔でそう言われるのだから照れてしまう。
妖怪ではなく人間として見てくれる。それはかつて人間であった私にとってそれは、あまりにも……。
東ドイツにおいて妖怪と人間はあくまでも別種として扱われてしまう。同じ国に生きているはずなのに。
「シュテファン君、もし私が人間だったら……」
そう言おうとした瞬間、シュテファンは私の口を人差し指で封じた。
「それは禁句ですよ」
でも、そんなことを言う彼の目にはどこか迷いが見えた。
確かその日は航空軍のジークムント・イェーンが宇宙飛行士として宇宙に行った日だった。
食事、訓練、就寝。様々な場所で私達は一緒にいる時間が増えた。
いつの間にか、二人きりの時は敬語も消え、私のことをあだ名で呼ぶことも増えていた。
呼ばれる度に心の奥がドクンと波打つ。でもこの感情はこの国においては存在しちゃいけない。この思いだけは抑え込まなければならない。
しかしその思いはダムが決壊するように崩れていった。
誰かの為に歌いたい、そう思えたのはシュテファンが初めてだった。
「みすちー?みすちー?」
目の前にひらひらと上下に動く手のひらが見えた。
「あ、ごめんなさい……」
どうやら話に夢中になっていたようで辺りは暗くなっていた。冷たい空気が頬を撫でる。
「また明日にでも、ね」
☆☆☆
家に戻ると私は箪笥から軍の制服を取り出していていた。
シュテファンが首を吊って自殺して以来、見る事すら避けていた制服。
突然、シュテファンと共に軍を首になった90年の夏。彼が首を吊り人間に復讐心を持ち始めた再統一の日。遺品を身に着けトラバントでドイツ中を回った91年の秋。
屋台やバンド活動をしても気が晴れることはなかった。私はあの日から止まったままなのかもしれない。
気づけば夜になっていた。私は部屋の明かりもつけず彼の制服をベッドの上で広げていた。
「そう言えばこの制服のポケット、見たことなかったな」
以前から不自然に膨らむ胸ポケットが気になっていたが、もし遺書だったりしたらと考えると恐ろしくなり見ることができなくなっていた。
手が震えるが私は覚悟を決めポケットに手を突っ込んだ。
「……やっぱり」
そこにあったのは折りたたまれた一枚の手紙だった。開いてみるとそのドイツ語の筆跡は彼のものであった。
“愛しき貴女へ“
どうしてこれまで見ようとしなかったのか。自分の弱さに腹が立つ。
でも……。
“この手紙を読んでいるということはもう僕は君の前には居ないのだろう。
君は気付いていたと思うが私は監視役だった。同志ホーネッカーからの直接の命令だった。
最初は妖怪の監視役なんて嫌で嫌で堪らなかった。でも君の優しさに触れる度にその気持ちは変わっていった。君を見張るのではなくただ君の隣にいたかった。“
視界が涙で滲む。しかし読まなければならない。それは彼の為にも。
“君に気持ちを伝えた時、やってしまったと思った。もしバレてしまえば君と一緒に軍をクビになるかもしれないからだ。でも伝えなければ後悔すると思った。
もし法律が変わって妖怪と人間が平等になったら。もしこの分かれたる国が再び一つになったら。その時は……。“
「じゃあなんで……!」
今更言われても遅い。生きてるうちに言ってほしかった……!
感情が揺さぶられる。
……でも私はすぐに気付いた。もしさらに踏み込んでいたら彼は1961年に西ドイツに亡命したコンラート・シューマンのように裏切り者とされヴォルフ・ビーアマンのように市民権を剥奪され国外へ追放されてしまうかもしれない、という事。
そう、彼は……できなかったのだ。東ドイツを愛していた彼にとってその選択肢はできるはずがなかった。
“あの夜。私はミスティに一つ約束をした。それは君を守るということ。でも何一つ守れなかった。
君が妖怪という理由で影でどれだけ傷つき泣いたのかを知っている。でも君はいつも笑っていたね
私は愚かしくも見て見ぬふりをした。軍での立場を守るという愚かな理由で。
許してほしい。“
“これを書いているのは1990年の7月。壁はなくなりあともう少しでドイツは統一するだろう。もし統一する時が来るのならば。
その時はミスティ、君を迎えに行く。
君の歌はローレライの呪われた歌などではない!私の心の支えであり世界で最も美しい。ニーナ・ハーゲンもあっと驚くような。
あともう少し。待っていてほしい。“
‐シュテファン・ヴァイス
「……っ!あ……!」
思わずグシャリと手紙を握りしめた。
目からは涙が溢れた。
「会いに来てよ!」
絶叫。それはしかし叶いもしない願い。
あの日。ケーキを持ってドアを開けた。しかし目の前に広がっていたのはロープに吊られている彼。
「会いに来てよ!なんで……なんで行っちゃうのよ……」
私は暗闇の中で嗚咽を漏らすことしかできなかった。
☆☆☆
「急激な西側文化の流入。みすちーの恋人さんはもしかしたら“心臓発作“で苦しんでいたのかもね」
次の日、私の暗い表情を見て心配してきたルーミアに私は全てを打ち明けることにした。
「社会主義体制から資本主義へのあまりにも急な経済体制の転換」
「みすちーが軍をクビになったように仕事をクビになる人もいた。誰もが統一を祝っているわけではなかった」
「そして祖国が消えるということ。それはとてつもない喪失感に襲われたでしょうね」
「ルーミア……」
「……まあ私も好きな人を目の前で喪った事、あるから」
ルーミアはそう言うと、一枚の古びた写真を見せてくれた。そこに写っていたのはルーミアと……。
「でも私は今を生きている。それは何故だと思う?」
「な、何故ってそんなの……分からないよ……」
ルーミアは暫く私を見つめ空を見上げた。
「それは過去を忘れなかったこと」
「人ってのは忘れてしまったら本当に死んでしまうの。これはアフリカのある国の教えだけどね?」
「覚えていれば大切なモノは消えやしない」
ルーミアは私の手を両手で握りしめ、
「そうすればシュテファンさんもきっと……ね?」
私はその手を握り返した。
☆☆☆
私は小さな、とても小さな墓石の前に立っていた。
その墓には遺体など埋まっていない。なぜなら彼は、私の中にいるのだから。
「久し振りね。ミェシュ」
返事はない。
「紫に土下座して頼み込んだ甲斐があったわ」
久しぶりのポーランドの風はどこか優しかった。
「私も過去と向き合うことにしたの。もう忘れたいなんて考えない」
私はワインボトルを2杯のグラスに注ぐとそのうちの1杯を墓の前に静かに置いた。
「貴方、飲みたいって言ってたわよね?このワイン。これは神奈子に無理言って」
チンと音がする。私は一気にワインを飲み干した。
そして“彼”のグラスを傾け墓石にワインを垂らした。
「美味しい?……なーんて、味なんて分かるわけない、か」
「ルーミア、そろそろ時間よ」
紫の声が聞こえる。私は振り向きグラスを丁寧に袋に入れると静かにほほ笑んだ。
「ええ、行きましょう。私達がいるべき場所へ」
その日のワルシャワではパレードが行われていた。皆、とても古めかしい格好をして。
一方この長さだと、どうしてもそこのインパクトに比重が寄るので、設定を納得すると今度は話の本筋がちょっと淡白だなあと思うところ。妖怪の存在が認められてはいるが、しかし許されてはいない、というif世界線での人妖の悲恋というところは間違いなく面白い題材なので、ここを数十kbくらいの長さで読みたいという気持ちがあります
社会の中でがっつり正体を現していた二人にそれぞれの歴史を感じました
とてもよかったです