目を開けると一面の白い天井が飛び込んできた。
白い電灯が部屋を照らしているが、それをも溶かしてしまいそうなほど、壁もまた白かった。
覚醒するにしたがって、酷い頭痛と吐き気が襲い掛かってきた、こめかみを押さえようとすると、手錠でベッドにつながれているのがわかった。
……なんだこれ。
私は考えのまとまらない頭を叱責し、現状を理解しようとする。そしてすぐに後悔した。
メリーが死んだことを、思い出した。
私はそれが現実だと理解するのにかなり苦労して、それから逃れるために、想像するだけで吐き気を催すほどの酒を飲んだ。
そのあとは救急車の音が聞こえてきたことぐらいしか覚えていない、しかしその現実を再確認して、空っぽの胃から、私は胃液を撒き散らした。
嗚咽が止まらなかった、まだ狂っていない自分の心が憎らしかった。
「怖い夢を見るの」
最近痩せたね、とたずねたらメリーはそういって目を伏せた。
夕方にメリーの部屋を訪ねて、紅茶をご馳走になっていた。
カップに口をつけると香りが鼻腔をくすぐり、少し遅れて味がやってくる。
その様子をあまりにじっと眺めているので、おいしいよ。と言った後で何かがあるのかとメリーを観察して出た言葉だった。
「怖い夢って……どんな夢?」
「なんていえばいいか、難しいな」
メリーは下唇に手を当てて、考えるそぶりをする、少し時間がたって、上手くいえないけど、と切り出した。
「とりあえず普通に生活しているの、だけれど、こう、視線を感じるの」
「視線?」
「うん、見られている感じ、でも見られているだけで、何かをしてくるってことは無いの、ストーカーとかでもない」
「それじゃ透明人間?」
「それもちょっと違うな、本当に視線だけなの。何もしてこないし、何もしてくれない。それがわかるの」
「うーん、よくわかんないな」
「ごめんね、上手く言えれば……」
メリーは申し訳なさそうに目を伏せる。謝るようなことじゃないと思うのだけれども。
怖い夢。たかが夢じゃないかと笑い飛ばすことも出来るんだけれど、これを相談してきたのがかのマエリベリー・ハーンだというのが問題だった。
荒唐無稽な夢の話はこれまでにも何度か聞いた、でもその夢の中に彼女は物をなくし、その夢の中から物を持ち出してしまうのだ。
そういう若干の異常をもった彼女であるだけに、この夢も軽視していいものだとは思えない。
それにしても視線を感じる、というのはどう解釈すればいいのだろう。単純に考えるなら誰かから監視されているということなのだけれど、一介の学生を監視する意味がわからない。
そもそも監視なら何もしてこない、というのに当てはまらない気がする。ただ見られているだけ、それは街を歩いているときに、ふとこちらを見ていることに気づいたとかそういうことじゃないだろうか。
そう考えて口に出そうとして、メリーを見たところで、私は異常に気づいた。
両方の目から涙が途切れずにこぼれている、耳を澄ますとひっくひっくと短い嗚咽を繰り返していることがわかった。
「ちょ、ちょっと大丈夫?」
声に驚いたようにメリーはこちらに目線を合わせる、言葉の変わりに帰ってきたのは大きくなった泣き声だった。
声を上げて泣くメリー、私は戸惑っていたが、近づいていって頭を抱く。
「まったく、どうしたのよ……」
「……」
肩をぐっとつかまれたままでメリーの頭を幾度か撫でた、押し付けられている顔から流れる涙が、服にしみこんできているのがわかった。
メリーはしばらく泣いた後、泣き疲れたようでそのまま眠ってしまった。
無理に起こすわけにもいかなかったから、とりあえずベッドへと二人の体重を預けて、メリーを抱いたまま、私もまどろみを待つことにした。
私は蓮子と約束をしていた。
困ったときは相談をする。という単純なそれを、私はそろそろ破ってしまうのではないかと考えていた。
私の告白を聞いて蓮子は目を丸くし、口に手を当てて、しばらく黙った。
その見慣れた風景を見て、私は新しい手がかりが出ることを心の中で祈り、私の目を真剣に見つめる彼女に感謝をした。
思えば、いつも始まりは祈りと感謝だった。
荒唐無稽ともいえる難題に立ち向かうとき、ほんの少しの期待を頼りに諦めを押さえつけるように、私は問題と向き合っていた。
蓮子はそれを真剣にサポートしてくれて、一緒に頭を悩ませてくれた。もちろん相棒から相談されたときは私もそれに答えた。
今回も、厄介極まりないこの事態に対して、彼女は私を励まし、解決策を探ってくれていた。
結果が出るかはわからないけれど、私は相棒へと今一度の感謝を向け、悪い結末を迎えても心が折れぬよう、一度大きく息を吸った。
メリーの部屋での事件があって、気分は晴れなかった。
久々に彼女の紅茶が飲みたかったけれどもそれも叶わなかった。
だんだんと涼しくなってきている街中でも、まだ秋というには早く、セミ達も最後の命を振り絞っている。寒さが得意でない私は、来る秋に舌を出しながら街中を歩いていた。
きっと時間がたてば街路樹も姿を変えてくる、それが人工的に為されるためにいまいち四季を感じられることは無いのだけれども。
時は誰に対しても差別をしない、時に冷酷で時に暖かく感じるのはあくまで個人の感覚だ。
メリーが対面している悲しいこと。それももしかしたら時間が解決してくれるかもしれない。内容がわからないのだから今は何も言うことは出来ないけれど。
それが終ったら、いつもの彼女といつもの秘封倶楽部を続けることが出来るだろう。
もし、何かの問題があっても二人で頑張ればきっと何とかなるはずだ。
道をまっすぐ歩いていると、視界にケーキ屋さんが飛び込んできた。
私は少し考えてから店のドアをくぐる、流石に今すぐ戻ってとはいかないけれど、後でケーキを持ち込んでおしゃべりをしよう。甘いものと、少し渋めのメリーの紅茶。変わらない日常が彼女の心を癒してくれるはずだ。
いろいろ考えるよりも、行動に移してみてそれから考えてみよう
ショーウィンドウのケーキはきっちりといっぱいに並べられていた、それぞれが違う味のアピールポイントを持っていて、その中から私とメリーに合いそうなものを二つ選んだ。
店員の声に送られて、私は街に戻る。夕焼けが時間の経過を教えてくれていた。
これまでと同じように、蓮子は書籍から情報を得ようと言った。
今のところまだ結果は出ていないのだけれども、代替案があるわけでもなかったので任せることにした。
ただ、これまでで使えなかった物については、意見を出しておいた。
彼女が行ってしまった後で、私は物思いにふける。
今私が陥っている状態については説明したが、その詳細については黙ったままだった。
下手に焦らせないためという理由があったのだが、実際問題私に残された時間は一日と少しといった所だった。
さらにそれとは別に、一つの危惧が私に言葉を選ばせていた。
そしてその危惧が問題の解消に大きな障害になるだろうと、私は考えていた。
「や、ケーキかってきたよ」
「あら、ありがとう、遠慮なくいただくわ」
「メリーさんは紅茶を淹れてくださいまし」
「働かざるもの……ってわけ? わかったわ、蓮子は薄めが好みだったわね」
ケーキを持ってメリーを訪ねると、彼女は嬉しそうに笑って私を迎え入れた。
私の部屋に比べて、きっちりと片付けられた部屋は彼女の性格を現しているようだ、とはいっても私の部屋と比べて、なのだけれど。
暗に自己批判をしてしまい少し落ち込む、ケーキを食べるときにこんな調子ではだめだ。
やかんを火にかけているメリーの後ろを通って食器を準備する。白いお皿の上に形のいいケーキを並べる。
「ふむ……ナイスチョイス」
「でしょ? 残り少なかったんだからね」
「はいはい、感謝してるわよ」
全く感謝の様子が無いようにメリーは私の言葉を流す、いつものことなのだけれど。
ほんの少しぼうっとして、彼女の紅茶が来るのを待った、流石にフライングで食べ始めるほど行儀が悪くは無い。
「おまたせ、それじゃあいただきましょうか」
「まってました、それじゃあ、いただきます!」
元気よく言って私はケーキを食べる、甘さが口の中に広がって、幸せな気分になってくる。
口内の余韻を楽しんだ後、紅茶をすすって口直し、して次を食べようとする。
ちらりとメリーのほうへ視線をやると、彼女もまたケーキの美味しさに浸っているようだった、せっかく選んだのだから感想を聞いてみる。
「どうかしら?」
「んーおいしいわね、フルーツのほのかな甘みが好みよ、流石は蓮子……ケーキを選ばせれば右に出るものは居ないんじゃないかしら」
「もう、褒めすぎよ!」
ふふ、と笑ってメリーはこちらを見つめている、なんとなく恥ずかしいのだけれど。
それを伝えると、まぁいいじゃない。とのこと、仕方ないので気にしないようにして食べることにした。
そういうことを経て、ケーキを食べ終えた。喫茶店で食べるのも好きだけれど、やっぱり二人だけの空間で食べるのはまた違った味わいがある。
「幸せそうね、蓮子」
「もちろん、ケーキを食べるときは出来るだけ幸せに、がモットーなの」
「ふふ、貴女らしいわ」
「あ、馬鹿にしてる? メリーだっておいしそうに食べてたくせに!」
「私は貴女ほど真剣には食べていないわよ? ……それに馬鹿にもしていないわ、貴女が幸せそうだと私までうれしくなってね」
「もう、お母さんじゃないんだから」
少し意外なことをメリーが言うので、私は赤面しつつ返した、でもそれならもっと幸せそうなところを見せてあげようかとも思う。
「ねぇメリー、明日予定あいているかしら?」
「……明日ねぇ」
「えぇ、あいているなら少し出かけたいのだけれど」
「明日は白紙、よ」
「そう、それじゃあ、出かけましょう?」
「そうね……わかったわ、出かけましょ」
メリーはちょっと複雑そうな顔をしたけれど、私の誘いを受け入れた。結局その複雑な表情のわけを、私が知ることは無かった。
まだ電子化されていない書籍を床に広げて、蓮子はその中から情報を拾おうと躍起になっていた。
私は携帯端末を操作しながら、電子化された情報の海を彷徨っている、フィクションばかりが引っかかる作業だった。
蓮子は時折声に出して私に読み聞かせる、参考になりそうなら、そこから深く潜っていってもらう。
調査は芳しいとはいえなかったが、彼女に不安を抱かせないために焦りは見せない。
それだけではなく、自分が状況に慣れてきてしまっているのがわかった、当事者としてはあまり良くないことだ。
ある意味現状は安定しているといえる。しかしこれを受け入れるようなことがあってはならない。
いつまで続くかわからない苦しみから脱するためにも、目の前で全力を尽くし続けている親友の為にも。
電話を切ると急に寒さがやってきた。
秋はまだとはいえ、夕刻が近づけば気温が下がってくる、この独特の空気が気持ちよかったりすることもある
メリーとなんでもない話を長時間してしまった、本当に他愛の無い話ばかりで、私からすると明日また会うのだから、その時でいいじゃないかと思うようなことも多かった。
別に長話をすることは嫌いじゃない、それでも一応明日の準備というものがあるわけで、時間を長々と使うわけにはいかなかった。時間は有限なんだから、選択をするところではしないといけない。
明日に向けて気はあまりのっていなかった、できるなら心から楽しい場所に行ってみたいものだけれど、彼女の要望を聞かないわけにはいかない、いつもは私が我侭を言っているわけだし。
それでも、やっぱり遠いよ。
目的地は東京だ。私にとっては里帰りになるけれど、別に魅力的な場所ではない。
さらにいえば二人別々に行って向こうで合流しようという話になっている、時間のすり合わせが難しいということらしい、明日は白紙とか言っても、完全フリーではないとか。最初は先に行って待っててほしいとかだったんだから、それから考えれば進歩したともいえるのだけれど、よくわからない要求だった。
急に、ぞわりとした悪寒が全身に走った。
耳を澄ませ、と指示された気がして空気中の音を拾う。甲高いサイレンが聞こえた。
……なんだろ?
鼓動が高くなる、何故か嫌なイメージばかりが思い浮かぶ、そんなことあるはず無いと否定しながら、私は音を頼りに走っていく。
喧騒。現場が近いことを嫌でも理解させる大音響。空気に混じってきた焦げ臭いにおい。
走る。人ごみを掻き分け、それへと近づいていく、止めておけと本能が叫ぶ、それを無視して走る。
熱波。黒煙。赤に染まっていく視界。燃え上がっているのは間違いなく、マエリベリー・ハーンの住むマンションだ。
何故、さっきまで電話をしていて、そんなそぶりは、一体、何、が。
ぐちゃぐちゃになった思考をつなぎとめられず、私は誰彼構わず金髪の少女のことを尋ねた、誰一人として、その姿を見たという人は居なくて、一番現場に近い場所に居た一人は、首を、ゆっくりと、横に、ふった。
死者の名前として彼女の名前が読み上げられたとき、私の心はそれを受け入れなかった。
気づけばもう夕方が迫ってきていた。
ちらりと時計を見やる、頭の中で後数十分。と確認する、蓮子には伝わっていないようで安心する。
このあたりで蓮子はまた明日と言い出す。これまでと全く同じで、私に最悪が迫っていることも気づいていない。
……彼女をこのまま帰して、その結果また無力に打ちのめされる彼女をただ見せられるのだろう、私は手を出すことも出来ない、物語から退場した身分なのだから。
心を悟られないようにしながら、私は蓮子を見送ろうとした、だがそこで不意にこの円を壊すことが出来ると感じられた。
それを説明することは出来ず、直感でしかない、でも今蓮子を引き止めてしまえば、ただそれだけで、この怪異を打ち破れるとわかった。
それでも私には、ただそれだけのことがためらわれた。
一言で言えば不安。引き止める選択をした結果として、表れる現実が悪くないものであるという手ごたえが無かった。
もし、これまでと同様、もしくは更に悪い内容で確定されてしまうのだとしたら。
結局その不安を払拭できず、私は選択を保留した。
そしてこれから来る事態に備えて、睡眠薬を飲み込んだ。
飽きるほど見慣れた天井が私を見ていた。
ああ、まただめだった。小さく舌打ちをして、私は身体を起こす。
結局のところ私は死んで、蓮子は心を病んでしまった。
飽きるほど繰り返したその経験を、また心にしまって、私は最初の日を生きなおすことにした。
発端はいつ頃だったか思い出せない、最初の死因は交通事故だった、蓮子の目の前ではねられて即死……その後蓮子も飛び降り自殺を敢行してしまった。その時、吐き気を催すほどに酷い宇佐見蓮子の惨状を見ながら、死んでも視線は生きるのかと思っていたら、このベッドの上で目を覚ました。
最初はいやにリアルな最悪の夢を見たのだと思っていた。それでもどこか似たような数日を過ごして、私は死んだ。
蓮子は死にはしなかったものの、酒びたりになって狂っていってしまった、もちろん私はそれをただ見せられるだけだった。
幾度か繰り返して、かなり厄介な怪異に捕まっているのだと気づき、ここから脱する術を考えていたのだが、上手く行くことは無くてまた今回もベッドで目覚めることになった。
それでも唯一つの糸口と思えるものがつかめていた、それに対してどんなアプローチをすべきか、考えた末、私は十回前から手紙を書くことにしていた。全ての始まりの日に、手紙を書いてこれで何かが変わるのではないかと期待している。
はっきり言ってしまえば、私と蓮子がどれほど努力をしてもこの数日では何もできないはずだ、それでも私を救うのだとしたらきっと蓮子だろうし、私もそれを望んでいる。
この手紙がそれを可能にするものなのかはわからない、それでも何もせずに過ごすよりはよっぽど健康的ではないだろうか。
ケーキを食べたり、紅茶を飲んだり、どこかに出かけることを話したり、どこかに出かけたり、不安なことを話し合ったり、そういう日常を取り戻すために、私は手紙を書く。
そしてそれがなされるまで、拷問に近いような惨状を眺め続けても、私は決してあきらめることは無い。
みしらぬあなたへ。
私はあなたの事を知りません。それでも私の……いえ私達の未来を描くのはきっとあなただと思います。
おそらく直接的に助けてくれるのは私の相棒宇佐見蓮子でしょう、そしてこの怪異を打破したとき私はあなたの存在を認識できないと思います。
これは予感に近いものですが、多分真実でしょう。
だから、あなたが何かをなしてくれたとしても、私はあなたに感謝をすることは無いはずです。
それでも優しい視線を持つあなたに私は期待しています。
白紙に物語を紡いで、私達を救ってくださることを切に願います。
マエリベリー・ハーン。100と+αの回数を数えた時に記す。
秘封倶楽部の本領も発揮されず、「まだまだこれから話が広がるところだろ!?」というのが、一通り読み終えてから最初に思ったことでした。
起承転結の承までしか無いと感じたので、点数もこんな感じで。