1/
広い夜。
見渡すかぎりの草原の中を一人歩く。
周りには誰もいない。
人の気配もなければ獣の息遣いも皆無だ。
それは、明るい闇だった。
月が近いせいだろう。
昨夜黒い海に似ていた草原は何かのステージのように明るい。
冴え冴えとした月光に照らし上げられた広場。
それが、どこかの劇場のようだと思った。
ただ、周囲に幕はない。
世界は見渡すかぎりの草原で、
カーテンのような木々もなければ、
観客も団員もありはしない。
周囲には何もない。
あるものは月光と白い闇だけ。
風は吹かず、草は揺れる事さえしなかった。
なんて、静か。
――――どくん、と。
一際高く、心臓が鳴った。
――――なぜ?
草原の中で佇むそれを、見てしまったから。
――――何も感じない?
心が根こそぎ空っぽになる。
――――眩しかった。
美しすぎた、その姿。
月を見上げる表情も。
質素な舞台で月光に照らしだされる姿も。
その存在自体が、言葉にできないほど美しかった。
そこには全てがあった。
私が求めていたものを凌駕する全てが。
だが若い私は頑なで、
それを受け入れる事も、
理解することもできず。
憎しみだけを武装した。
――――アイツハ、父ノカタキ。
そう思い込むことによって、
一瞬の記憶を消し去ろうとした。
後悔などという念は皆無だ。
私は求め、自らの全存在をかけてそれに抗った。
そこに間違いなどありえず、
私は彼女の偶像に惹かれ、
望むモノを手に入れた。
――――その代償に、私は未来を捨てた。
私は此処で彼女を穢す。
そして、私は必ず彼女に出会おう。
それが約束されたものであると信じて。
たとえ結末を知っていようとも躊躇う事など何もない。
私は歩きだす。
彼女は不思議な物を見るように私を見る。
未定だった予定調和。
私は―――――、と言い。
彼女は―――――、と言った。
お互い、そのあとに言葉はなく。
――――ただ舞い散る花弁が、一つの終わりを告げていた。
2/
寝ぼけた脳に意識を集中させ、布団から上半身を起こす。
――――嫌な夢を見ていた。
悪夢か質の悪い幻想か。
良い夢でないことは体にべたつく、異常な汗の量が物語っている。
「なんて寝覚めの悪い」
そう独白し、うつむき加減に自分の格好を改めて眺め、さらに悪態づく。
よほど酷い夢を見ていたのだろうか。
白を基調とした寝巻が汗で濡れ、ところどころ透けて見える肌はどことなく卑猥な空気を醸し出している。
とりあえず今やることが決まった。
「さっさと着替えよう」
この格好でいるのも不愉快になったとこだし。
なにより、
腕をまわして後ろの襟元に手をかけ、そのまま邪魔な衣服を脱ぎにかかる。
一般の婦女の方はこの脱ぎ方を良しとしないらしい。
慧音は髪が邪魔になるからだとか言ってたっけ。
私にすれば些細なことだが―――――。
「妹紅、ちょっといいか?」
不意に、隣から声がした。
「・・・慧音。ごめん、起こしちゃったな」
「そんなこと・・・。妹紅、ちょっといいか」
言って、私の額に手を当てる慧音。
返事を待たないのは相変わらずのことなので、もう諦めている。
こんな通過儀礼にも2,3日前までは自然と顔が蒸気してしまい、
熱があると大騒ぎされる始末だったりした。
今では慣れたものだが。
できれば多少の気恥ずかしさを覚えていることに気づいてほしい。
「――――熱はない、みたいだな・・・。じゃあ早く着替えた方がいい。汗が凄いことになってるぞ?」
「あー、うん。そうする。・・・ありがと、慧音」
布団から立ちあがり、緩慢な動作で部屋を出る。
途中、慧音の様子を見ると、やはりというか何というか。
心配そうな顔で私を見つめていた。
父親にもそんな顔されたことないのにな、とふと寂寥感がよぎる。
・・・もう覚えてないけどさ。
それでも慧音のそんな顔は、決して見ていて気持ちの良いものじゃなかった。
「笑った顔がいいのに・・・」
そりゃあもう格別に。
あれを見るためなら例の小うるさい学び舎に行くのも知識を身につけるのも吝かじゃない。
後ろ手に襖を閉じ、目も閉じる。
他愛ない些細な出来事。
にも関わらず、思いを馳せればこんなにも沢山の気持ちが溢れ返る。
こんな日がいつまでも続けばいい・・・。
そう、私は思っていた。
3/
最近、妹紅の様子がおかしい。
具体的な表現には困るが、なんというか元気がないのだ。
およその見当はついている。
しかし、解決する方法が見つからない。
私は全ての歴史を網羅していると自負しているが、それでもわからないことはある。
その最たるものが今回の元凶である『夢』だ。
人はなぜ夢を見るのか。
いや、これでは少し語弊がある。
なぜ、人や妖怪は夢を見るのか。
これなら誤解はないだろう。
そう、何も夢を見るのは人だけではない。
妖怪や私のような半獣の半端者でも眠りにつけば夢を見ることがある。
ただ、人と私たち(私や妖怪のこと)ではその内容が持つ意味合いはガラリと変わるだけだ。
人が見るのはあくまで自分の欲望や感情が具現化したものにすぎないが、
私たちが見るのは記憶に留められなくなった過去の記憶。
無意識化に追いやられ、おぼろげながらにしか思い出せなくなった偶像だ。
楽しかったこともあるし嬉しかったこともある。
だが、その逆もまた然り。
だから。
多くの歴史を知る私はそれ相応の夢を見るし、
永い年月を生きてきた彼女は永い眠りで永い夢を見る。
血に塗れた彼女も、迫害を受けた鬼も。
もはや人とは呼べない、永遠を生きる者たちも・・・。
妹紅の様子が最近おかしいのは悪夢に、自分の過去に囚われているからとみて間違いない。
解決策がないというのもまた事実。
私の能力は端的に言えば『歴史を操ること』だが、その実態は『作るか』『消すか』の二択しか存在しない極端なもの。
悪夢の内容はわからないが、あの妹紅を苦しめるような罪悪。
過去を改竄しようものなら、何かしらのパラドックスが生まれてもおかしくはない。
もしかしたら、私と過ごした時間が消えてしまうかもしれない・・・・。
私は、怖いのだろうか。
――――時に、その体躯に不相応な振る舞いを見せる彼女。
――――時に、その体躯に相応な振る舞いを見せる彼女。
お前の笑顔を見ていたい。お前の泣き顔は見たくない。お前の喜ぶ姿を見るのは嬉しい。お前の苦しむ姿を見るのは辛い。お前がいれば全てが満ち溢れる。お前がいなければ全てが欠け落ちる。
彼女に特別な感情がないのかと問われれば、答えは即座に飛び出す。
欺瞞も偽善もありえない。
だからこそ、私は。
上白沢 慧音は。
妹紅がどうしようもなく壊れてしまったとき、彼女の悪夢の元凶である『歴史』を消すだろう。
たとえ、結果的に私と妹紅の今までが無くなってしまっても、それで彼女が救われるのなら。
私はきっと、躊躇わない。
だから、今だけは。
もう少し、もう少しだけ・・・。
4/
日が昇る。
目が眩む様な日差しは窓から差し込み、今も私の節々を漫然と照らし上げている。
「・・・眩しい」
手のひらで傘の代わりをさせるが、指と指の隙間から差し込む木漏れ日のような光が私を照らす。
本当に、眩しい光―――――。
思いかけて、ふと夢で見た草原の映像が脳裏に再生される。
あの、この世のものとは思えない美しい姿を。
「蓬莱山、輝夜」
ゆっくりと紡ぐ、彼女の名前。
「かぐや姫」と呼んだのは誰だったか。
記憶を探るように目を瞑る。
そういえば、彼女と初めて顔を合わせたのはあの草原だった。
人も獣もいない、月の光がよく映える場所。
その中で一人佇み、空を仰ぐ彼女の姿。
一度見た時は心惹かれ。
二度見た時は怒りに胸を焦がし。
三度目の時には、禁断の果実を口にしていた。
それが最後の邂逅。
あれから彼女は多くの刺客を送り込んできた。
時に私は、酷い傷を負うこともあった。
痛みと苦しみと、殺意と憎悪で心が燃え、体よりも精神が音をあげていた。
楽になりたいと叫びたかった。
無意識に進む足は歩むことをやめない。
このまま当てもなく彼女を探し続け、一人、永遠の時を過ごすのかと嘆いたこともあった・・・・。
すでに忘れたはずの記憶を、感情を、昔とは違う気持ちで想う。
なぜ、いつから私はこうなったのだろう。
不思議だ。
あれほど胸を焦がし、復讐心に打ち震えていたのに。
いつのまにか忘れていた。
どうでもよくなっていた。
彼女と出会ってから――――。
頭の中で場面が変わり、辺りは薄暗い森の中へと移る。
確かそう、あれは目が痛くなるような雨の降る日。
私の前には一人の半獣がいた。
頭に角を生やしたそいつは、不躾に私をジロジロと眺めまわすと、
ここで何をしていると言い、私の目と鼻の先にまで迫った。
確かこの時、顔を背けてしまったのではなかったか。
以前は誰かを殺すのに飽き飽きしていて、また殺さなくちゃいけないのかと思っていた気がする。
そして半獣は、顔を背けた私を訝しがるように多くの質問をしたのだ。
詰問ではなく質問を。
そいつは優しかった。
素性を探るような質問は一切せず、私を気遣うような素振りしか見せなかった。
泣いているのか、と聞かれ。
泣いていないと答えた。
酷い顔をしてる、と心配され。
水溜りを見ると、本当に酷い顔だった。
そういったいくつかのやりとりを繰り返し、気がついたら。
半獣に連れられ、温かい湯船につかっていた。
嫌がる私を家へと案内し、何も言わずに世話を焼いてくれた。
――――懐かしい思い出。
今でも何かと面倒を見てくれる、慧音との出会い。
だけど、迷惑をかけるのは私ばかりで。
いつも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
せめて今回だけは。もう手遅れかもしれないけど安心させてやりたい。
私なりのやり方で――――
ふと目をあけると先ほどまでの強い日差しとは違う、穏やかな光が飛び込んできた。
誰かがかけてくれたタオルケットが落ちる。
どうやら眠ってしまっていたようだ。
雲ひとつない月が綺麗な明るい夜。
空にはあの日と同じ満月が昇っている。
気持ちは自分でも驚くくらい落ち着いていた。
後は一歩前へ進むだけ。
姿見の前に立つと、昨日までの鬱々とした顔はそこになく。
いつも通りの私がそこにいた。
あの日を境に色褪せてしまった白い髪。
数百年はゆうに過ぎたというのに変わらない体躯、容姿。
外見にそぐわない、鋭い瞳。
花よ、蝶よと愛でられていた頃の私はもういない。
それでも私は藤原妹紅なのだ。
そしてこれからも変わらずに。
なればこそ。
胸を張ろう。
前を向こう。
両足は地面を踏み締めて。
両手はドアを開け放つ。
月に立ち向かうように胸を張る。
「いってきます」
住み慣れた家と家人への挨拶を済ませた。
5/
「いってきます」
その声は私の耳へ静かに響いた。
私はどうするべきなのだろう。
追いかけるのか?
妹紅を追いかけて、行くなとでも言うつもりか?
そんなことはできない。
妹紅の足枷になってどうする。
じゃあ待つのか?
ここで一人、帰ってくるかもわからない妹紅を待ち続けるのか?
・・・・・・。
帰ってこなかったらどうする。
なぜ追わなかったのか、なぜ止めなかったのか。きっと後悔する。
・・・・・・。
追えばいい。後悔したくないなら。失いたくないなら。止めるべきだ。
知ってる。わかってる。
でも。
「止めることなんか、できるか!」
あいつを支えるべき者があいつの決心を鈍らせるなんて、馬鹿げてる。
それに妹紅は『いってきます』と言った。
なら、ちゃんと帰ってくるはずだ。
ここはあいつの家でもあるのだから・・・。
待って待って、待ち続けて。
妹紅が帰ってきたら言ってやろう。
『おかえり、遅かったな』、と。
だから私はここにいよう。
黙って見守っててやるんだ。
「・・・・行ってらっしゃい、妹紅」
決して相手には届かない小さな声が、暗闇に響いた。
6/
――― 一度手をだしゃ、大人になれぬ。――――
――― 二度手をだしゃ、痛苦も忘れる。――――
――― 三度手をだしゃ、・・・・・・ ――――
幾百年忘れる事がなかった呪いの言葉。
永かった・・・。
どれほどの月日が流れたか・・・、今では思い出すこともできない。
だから幾百年。
あまりにもお粗末な数え方だが、これでいい。
実際に私が『生』を実感できたのは、未だこの身が人間だった頃と、良き隣人と過ごした僅かな間だけなのだから。
足は何かに呼ばれるように、引き寄せられるように前へ前へと進んでいく。
一度も通ったことのない獣道。
にもかかわらず、体は迷いもせずに奥へ奥へと進んでいく。
不安はなかった。
むしろ、私は妙な安心感さえ懐いていた。
何らかの確信が私の中にあった。
自然と心拍数が上がっていく。
息が自分でも驚くほど切れ切れになっている。
体を支配する焦燥感。
一刻も早くそこへ行きたいと心が急き、移動は早足から駆け足へと移行する。
石や根に躓き、
枝に服を破られながら、
必死に走る。
そして、
「蓬莱山輝夜!」
7/
幾度、こうして空を仰いだだろう。
そこは見渡すかぎりの草原で、周りには誰もいない。
虫も獣も、付き人も。
ここにいるのは私だけ。
ここにあるのは私を照らす月と、幻想の舞台のみ。
明るい闇に包まれて、私はただ大きな月を仰ぎ見るだけ。
干渉しようとするモノは何一つない。
風も生き物も同じ。
なんて、静か。
屋敷から出られない代わりに許された、年に一度だけの機会。
主人が従者に『許される』ことなんて本当はないはずなのだが、事情が事情。
仕方ないのかもしれない。
まあ、この場所にくる許可を得るのも容易じゃあなかったが・・・。
何度も首を横に振られたし、何度も怒られた。
だが彼女も強情ではあるが分からず屋ではない。
いつも私の思いを尊重してくれる良き従者だ。
彼女がいなかったら、とっくの昔に私は自分を見失っていたかもしれない。
そして、その彼女の制止を振り切るだけの理由が私にはあった。
ある予感があったのだ。
ここにいればいつかあの子に会える機会が得られるのではないか、と。
そんな予感。
待ってどうするのか。
会ってどうするのか。
胸の内を様々な思いがかけめぐり、最後には答えも出ずにここへ足を運んでいた。
なんとなく。
けども強い意志で、支えられて。
今も私はここにいる。
そしてここで。
「蓬莱山輝夜!」
幾百年待ち続けた相手の声を聞いた。
8/
広い夜。
見渡すかぎりの草原の中を一人歩く。
周りには空を見上げる少女が一人。
他には人の気配もなければ獣の息遣いも皆無だ。
それは、明るい闇だった。
月が近いせいだろう。
黒い海に似ているであろう草原は何かのステージのように明るい。
冴え冴えとした月光に照らし上げられた広場。
それが、どこかの劇場のようだと思った。
ただ、周囲に幕はない。
世界は見渡すかぎりの草原で、
カーテンのような木々もなければ、
観客も団員もありはしない。
周囲には何もない。
あるものは月光と白い闇だけ。
風は吹かず、草は揺れる事さえしなかった。
なんて、静か。
なんて、荒々しい鼓動。
――――どくん、と。
一際高く、心臓が鳴る。
――――なぜ?
草原の中で佇むそれを、見てしまったから。
――――何も感じない?
怒りも恨みも、そこにはない。
――――眩しい。
幾百年過ぎた今でも変わらぬ、その姿。
月を見上げる表情も。
質素な舞台で月光に照らしだされる容姿も。
その存在自体が、言葉にできないほど美しかった。
そこには全てがあると思っていた。
私が求めていたものを凌駕する全てが。
だが若い私は頑なで、
それを受け入れる事も、
理解することもできず。
憎しみだけを武装した。
――――アイツハ、父ノカタキ。
そう思い込むことによって、
一瞬の記憶を消し去ろうとした。
後悔などという念は皆無だ。
私は求め、自らの全存在をかけてそれに抗った。
そこに間違いなどありえず、私は彼女の偶像に惹かれ、望むモノを手に入れた。
――――その代償に、私は未来を捨てた。
私は彼の地で彼女を穢し、此処で彼女に出会った。
それが約束されたものだったかはわからない。
果たしてこれが結末なのかさえわからない。
私は歩きだす。
彼女は慈しむように私を見る。
未定だった予定調和。
私はまた会ったな、と言い。
彼女はまた会ったわね、と言った。
お互いに視線を交わし、相手の幾百年を眺める。
「まだ生きてたんだな」
「まだ生きてたのね」
「もう死んでるかと思ってたよ」
「もう死んでるかと思ってたわ」
「「死ねないんだけど」」
月明かりの舞台で二人で笑いあう。
この瞬間を第三者の誰かが見ていたなら二人の関係はとても良好なものに映っただろう。
二人はまるで一対の華のようだった。
二人はそれ以上は何も言わず、正反対の道へと歩き始める。
恐らくこれは終わりではない。
再度顔を合わせれば殺しあうだろう。
相手を語る言葉に気遣いは生まれないだろう。
出会いと別れを繰り返しながら、永遠の付き合いは続いていく。
だけど今だけは、
この幻想の一時に感謝をこめて――――。