注)本編は作品集49の「クリスタライズ・シルバー 序章」及び、作品集50の「クリスタライズ・シルバー それが起こる前の話」、「クリスタライズ・シルバー」、「クリスタライズ・シルバー 中編」の完結編にあたります。
・これまでの粗筋
千年昔の幻想郷でのこと。氷の妖精・チルノが冬の妖怪・レティと共に、泣きながら妖精達を凍らせ、仕舞いには自分も凍りつかせた。同じ頃、博麗神社に行けども行けども辿り着かぬと、天狗達が慌てふためいていた。
魂を成仏させる剣を一本相棒に、それを家業として細々と生きる(?)半霊の少年・魂魄 妖忌は、職業柄いつ化けて出てきて来てもいいよう人気のないところ積みあがった凍った妖精達の山に通うのが日課になっていた。
そこで出会った亡霊の少女・西行寺 幽々子と知り合い、気が合い、話を弾ませた。その流れの中で、妖忌は幽々子から成仏を頼まれる。しかし、妖忌が結論を出す前に、レティが暴威を伴って参上する。これを迎え撃ち、相打ちとなった幽々子は、空に開いたスキマの中に消えた。
幽々子との接点を保つ為、妖忌はレティを助ける。そうして自宅に戻った妖忌を待っていたのは、スキマ妖怪・八雲 紫が式・八雲 藍だった。藍は妖忌に幽々子の亡霊の成仏を依頼し、今、幻想郷に忍び寄る危機を語る。
幻想郷の四季が死のうとしていること、代わりに仮初めの春が覆い尽そうとしていること、それを許せば幻想郷の全ての命が妖怪桜・西行妖に食い尽くされることを説明。
そうなった経緯として、藍の主、紫が手勢を伴って月へ攻め入り、深手を負って敗走。傷を癒す為、生前の幽々子は西行妖の力を借りるが、それは巡り巡って幽々子を自害に追い込む。それを目の当たりにした紫は、事実を受けたくないという想いを西行妖に囚われ、西行妖の虜となり、亡霊の幽々子を作り、現状を作り上げたと説明した。
博麗の巫女や深山の天狗との共闘を呼びかける藍だが、博麗神社はすでに幻想郷から分断され、天狗達は背後関係をおぼろげながら掴んでいながらも、真っ先に異変解決の妨げになるであろうレティを狙ってくる。
これに失望した藍は、全てを妖忌とレティに託して天狗の追撃を食い止める。
異変解決専門の巫女の力を借りられず、深山の天狗に追い立てられ、藍を残して行く道中、妖忌は四季の死は妖精の死も意味していることに気付き、凍った妖精達はそうして延命していることにも気付き、レティが戦う動機も理解した。
冬の妖怪は、春を生き返らせる為に。
半霊の少年は、亡霊の少女の望みを叶える為に。
白玉楼へ飛ぶ。
・これより本編です。楽しんで頂ければ幸いです。
キルケニーの ねこ二ひき
たがいにはらで おもうには
二ひきじゃ 一ぴきおおすぎる
そこで二ひきはたたかった ののしった
ひっかいた かみついた
あとには つめとしっぽがのこっただけ
キルケニーのねこ二ひき いなくなった
上も下も定められないくらいに何もなく、真っ白な空間で、火の玉の後を追って飛ぶのは、まだ未熟さが残る身体に白楼剣と名づけたばかりの剣を携えた俺、魂魄 妖忌。それと、青と白の軽装を身にまとった立派な女性、レティ・ホワイトロック。
もうそろそろ、敵地に突入するかもしれない。だからその前に、レティに聞いておきたい。
「あのさ、レティ。幽々子のことなんだけど」
レティを見る。さっきは笑ってくれたが、もう無表情に近い顔をこちらに寄越す。
「幽々子の人が違ってしまったって感じたのは、ひょっとしたら、賢くなっているだけじゃないのか、って思ってさ」
レティから言葉はなく、抑揚のない顔があるだけで、ただでさえ自信のない俺の持論が、展開しづらくなる。
「えっと、最初は他人の痛みとかわからなかったけど、今は賢くなって他人の痛みがわかるようになった、とか」
言い切って、改めてレティを伺う。
相変わらず。少なくとも、関心はしてなさそうだ。でも、呆れているという感じでもない。いや、そもそも、簡単に読み取れる表情をしていない。
すると、レティから。
「妖忌君、おもしろいことを思いつくのね。でも正直なところ、藍さんの話を聞いてから、あれはどうでもよくなっちゃったの、ごめんなさい」
抑揚ないレティの応対に、俺は黙った。また、俺達は違う目的の為に戦っていることを思い知った。
俺は幽々子を成仏させる為に、レティは春の為に。
少し寂しさを感じたと同時、俺達を案内していた火の玉が消えた。
そして、白が終わって、一面が桜色に染まった。
そこは春だった。
むせ返るような桜の芳香。雲が掛かる上空にすら舞っている花弁。地平は桜色の霞が掛かっている。空は明るくて、雲はなく、太陽すらもない青空。そして、どうにも生温い、淀んだ春の瘴気が充満しているのが嫌という程わかる。
ここの春は確かに死んでいる。まるで香り付けをした死体の臭い。俺が言うのもなんだが、恨めしい亡霊が迷い出そうな雰囲気だ。
反転して落下している俺達。遠い地面。その地面の分厚く覆う濃い桜の花。その規模の大きい桜こと、西行妖の前では、隣にある幽々子自慢の庭園、白玉楼もこじんまりして見える。
「妖忌君」
言われるなり、俺と並んで飛んでいたレティが身を寄せてきた。
「私から離れないで。私の寒気なら、この春の毒気はある程度は相殺できるから」
俺を気遣ってくれるが、抑揚の無さは相変わらずだ。
「それにしても、おぞましいな。春が腐っている」
「死んでいるのよ。下手をしたら、私の寒気でどこまでも寒くできるくらい」
「なら、ここ全……」「それは無理。まだ向こうの、仮初めの春を維持する力の方が強い」
言葉を打ち切られてまで否定された。
俺は、眼下の大きな桜色の塊を睨み付ける。
「バケモノ桜め」
吐き捨てた俺のすぐ隣で、レティはつぶやく。
「私は、こんな感じの冬は欲しくないけどね」
「レティはな。でも、こいつはスキマの妖怪を操って異変専門の巫女を閉じ込めてまで、この春を謳歌しようとしている奴だ」
「……私なら、そんな細かいことはしないけどね」
二度も、あの西行妖の事を、自分のことを振り返るように語ったレティ。
これ以上は会話にならないと思い、俺も口を閉ざした。
地面のほとんどを桜の花で埋め尽くしていると錯覚したくなる様なくらい、花をつけた満開の西行妖を避けつつ回り込んで、その桜の傘の下まで降りて、近づいて、はっきり見て取れる、あまりにも西行妖の花の美しさ。それと、あちこち壊れたり崩れたりしている白玉楼。
屋敷の方は当時のままだろう、生前の西行寺 幽々子が己諸共、殺し尽した頃の。だが、俺達は屋敷に用事がある訳ではない。
屋敷を越えて、俺たちは桜、つまり西行妖の前に降り立つ。
足元に敷き詰められた花びらの絨毯、その中心、西行妖。根元に二つの人影。
大きな幹に背を預け、頭、肩、胸、長い金の髪に乗っている花びらを払いもせず、腰から下は花びらの絨毯の下に埋もれている。半開きの瞳は正面の俺達ではなく虚空を見ている。半ば開いた口から何の言葉も発せられそうにない。彼女が話に聞いていた八雲 紫。
その隣に佇み、一本伸びた背筋に刀を持たず、手も、腰も、足も、千切れることなく繋がった立ち姿。長くはない桜色の前髪の切れ間から覗く瞳は、こちらを睨み付けていた。幽々子が敵としている。
「いらっしゃい、レティ・ホワイトロック。……と、言いたい所だけど、お持て成しの準備が整う前に来るなんて、せっかちな方」
「正直、会話するのもうっとうしいわ。貴女は邪魔なだけよ」
抑揚はない。
「本当、せっかちな方」
幽々子の返しにも、沈黙で返したレティ。俺が彼女に代わって会話に応じる。
「幽々子、お前の依頼を果たしに来た」
少し間があってから、幽々子は俺によく見えるように笑った。
「妖忌。それは、もういいのよ、あれはただの気の迷い。貴方もわかるでしょ。屋敷のみんなはここにいるし、紫もずっと一緒にいてくれる。満開の西行妖をいついつまでも愛でることが出来る。私には嬉しいことばかり」
両手を広げて一回転し、こちらに向き直った幽々子は、俺を睨む。それがまるで別人に見えて、さっきの持論を翻したくなる。
「第一、妖忌の力って大した事ないでしょ、剣を振り回すのが精々で。私を成仏させるなんて夢また夢。誰かさんの言葉を借りれば、貴方は邪魔なだけよ。前みたいに物陰で震えているか、でなければ、とっとと帰って」
俺達の間に沈黙が訪れる。
その間、俺は幽々子の言葉を噛み締めた。
「よく、わかった」
「そう、なら、お帰りは」
言葉を被せた。
「いや、そうじゃない。戦う意思が固まったということさ。この期に及んで俺に『帰れ』というお前が、俺の知る西行寺 幽々子だ!」
俺は白楼剣に手を掛ける。
「そう。私も、よくわかったわ」
幽々子から、表情が消えた。切り替わった。
が、何もさせない。
俺は飛び込む、地面の上を滑るように。そして、白楼剣を抜く。
距離を半分も詰めない内に、幽々子が手を振り上げた。途端、花びらも舞い上がって、その花びらが俺に触れるなり衝撃が走る。まさか、この一枚一枚が炸裂するというのか。
なす術がない。花びらの弾ける力に押されて、俺も否応なく上昇し、そのまま破壊の渦に飲まれて千切れて消えようかという時、俺を冷たい風が包んだ。
その一瞬で、炸裂が消え、西行妖の花びらが、ただの桜の花びらと変わらなくなった。
何がそうさせたのか。俺のすぐ下を通過する白く長い寒波、いや、はっきりと見える冷たき力に固められた、帯のように長く伸びる白い槍が、逆さに流れる桜の滝を割って幽々子に迫る。
しかし、そこに至る直前の空間に黒い線。別の世界が口を空ける裂け目、スキマが開いた。その穴に正面から飲み込まれた白い槍、それと、その裏から飛び込んだ幽々子。加えて、俺は見逃さなかった、幽々子が西行妖の幹に手を突っ込んで、引き抜き、その手に楼観剣を握った姿を。
スキマが閉じる。咄嗟にレティを見る、正面を向いたままで、その背後の空間に黒い線が走る。
間に合え。
「楼観剣に、断てないモノはないわ」
振り返ったレティ、彼女が繰り出した寒気の白い槍は真正面から楼観剣とぶつかり合い、霧散。勢いが全く弱らぬまま、レティの頭上から振り下ろされる、長く、分厚い刃。
刹那。重い、強い、一太刀。
打ち込まれた衝撃だけで、周りの桜の花びらは高く舞った。地面代わりの木の根が軋んだ。仮初めの春の中、寒気以外で時間が凍り付く。
感じた。俺の背に、断たれたレティの前髪数本が落ちるのを。
見た。俺の目の前に、目を見開いた幽々子の顔。間に、刀身をぶつけ合い、硬直する、楼観剣と白楼剣。
「訂正しとけ、『断てないモノはあんまりない』てな」
「妖忌……」
俺は両手で受け止めている。だが、幽々子の楼観剣の握りが左手だけと気づいた時、彼女の開いた右手に花びらが渦巻いて固まったのを見た。
まずい、思った時はもう遅かった。桜の球が俺の脇腹に接触する。…………直前に、割り込んできたのは、背後から伸びた白い手。
重なる手と手、弾ける寒波と衝撃、その直後、剣を払って飛び退く幽々子。あの炸裂する花びらが炸裂することなく、平然と飛び退く。
追えない、一歩踏み出した後で、俺にはあの桜を払う力がないことを思い出す。十二分に距離が開いて着地するまでの間、俺は幽々子を見送ることしか出来なかった。
背後から伸びた腕は俺の胴に絡んで、そのまま、耳元に囁く腕の主、レティ。
「学習、されちゃったかしらね」
「何をだ」
「それは」とレティが言い終わらぬ内に、幽々子の四方にスキマが現れる。しかし、当の幽々子は「いいよ」と一蹴。代わりに、遥か頭上に向けて手をかざす。
「もっと、花を頂戴」
がさがさという音がずっと上の方から降ってくる。それと共に、俺達の空を覆う西行妖の花咲く枝から、途轍もなく濃い桜色の津波が、真下に押し寄せていた。
呆然とする俺、しかし、レティは抑揚のないまま。
「やっぱりわかっているか、花びらと寒気、総量ではどうしても寒気が負けるもの」
他人事のように語るレティと、無言の俺の前方で、幽々子は両手を水平に振る。桜の津波が回る。花の嵐だ。一歩も動けない。
「さて、こうなると妖忌君が頼みの綱ね」
俺が?
「私の寒気がいくら総量で負けていても、互いの力で相殺する割合が大きすぎるから、決め手にはならない」
俺はまだ見上げている。激しい桜の波間の向こう側に、ぽつぽつと空を見渡せる空間が、いわゆる空一面を覆っていた桜花に穴が開いていた。
減っている。考えてみれば当然だ、花びらが舞えば、その分、花も散る。花が尽きれば……などという考えが掠めるなり、八雲 紫が式、八雲 藍が話してくれた言葉も脳裏を通過する。西行妖は春と共に花を咲かせる、白玉楼は仮初めの春を繰り返す。合わせて、春を繰り返せば、また花を咲かせる、花は尽きない。要するに、ジリ貧だ。いやなもんだ、仄かな希望を自分で打ち砕くのは。
すると、レティは言う。
「敵は、私以上に早く決着をつけたがっているようね」
混乱しそうになった。
「待て、おかしいぞ。逆だろう?」
「長丁場でいいなら、私達が来た時から花びらが弾けているわ。わざわざ、懐深くにまで誘い込んで、あんな風に、私を一刀両断出来るよう、待ち構える必要なんてないもの」
言われてやっと、俺は気づいた。レティは恐らく正面を見据えていることを、自分の正面であまりにも分厚く波打つ桜の渦の向こうに現れては消える幽々子がいることを、そして切っ先以上に鋭い幽々子の眼光を。
俺は何を呆けていたんだ。勝手に絶望して。ナマクラ以外に武器はない俺が、こんな所にいるだけで場違い甚だしいのに、それでも飛び込んだのは俺なのに。
「それよ、妖忌君」
己の行いに思い悩んでいた俺は、レティの言葉に聞き入った。
「妖忌君、何も考えなくていいわ。相手の方が決着を急ぐ理由なんて考えなくていい。確実なことは、あの子の刃が私を狙っている。そして、貴方の刃もあの子に届く、ということよ」
抱き締められている位置関係で、レティの表情はわからない。でも、笑っていると思う。何故なら、抑揚ない声の中にも弾む物があったからだ。
「貴方へのおまじないは済ませたわ。だから、私も貴方に賭ける」
その一言の後、俺とレティの位置が入れ替わった。つまり、レティが前に出た。
息を呑む瞬間。「俺にどうしろと?」などという、湧いて出た疑問は果てに追いやった。対応しろ、望まれたのはそれだけ、レティが賭けたのはそこだけ。
レティの白い槍、一条、二条、三条、まだ数はあるが狙うは一点、正面。穿たれていく桜の波、だが、その行く先の桜の波が真っ二つに裂かれ、白い槍の群れもまとめて切り払われた。楼観剣の剣風、一度はレティの圧倒的寒波を切り裂いた、あの一閃。
俺は、今、飛び出し、桜花の風穴を駆けていく。
正面を駆けながら詰め寄る二人。レティは掌に白い力を蓄える。幽々子が楼観剣を片手に持ち替え、空いた手を無造作に花びらの中へと投げ出した。
勢いをそのままに、掌に蓄えた、寒気の、桜の、塊を衝突。
そして、一方的に弾かれたのはレティ、方向は右。消しきれない衝撃に押されて、さらに右の奥へと押し込められる。
多分、平気だろう、けれども瞬間では立て直せない。そう、幽々子は、俺との一騎打ちを演出した。
受けて立つ。狙いは二つに一つ、楼観剣をかわしてから打ち込むか、弾いて打ち込むか。周りは花、かわしてもそっちをかわしきれない。
足を止めた幽々子は、俺を見据えたまま、頭上で楼観剣をくるりと回してから、止めた。楼観剣の長い刀身を中心に、桜の花が渦を巻く。さながら、花びらの竜巻をまとった楼観剣、例え受けても花びらの衝撃で打ち砕かれる。かわす、のも無理だ。楼観剣の竜巻は大きく、広い。俺は、花の方を防げない。
なら、俺も賭ける。レティの寒気が残るここが花びらの力をわずかでも相殺し、俺に返しの一太刀を浴びせる余力が、その一瞬が、そこにある事を。
両手に握る楼観剣。俺の背中から後ろの空間が花の海に飲まれていく。
正面。刃と竜巻、同時に来る。
刃を外へ流す、ことは出来ない。楼観剣の剣速は、俺の動きも、反応も、全て上を行った。俺は受け止めさせられたのだ、真正面から。そして、楼観剣の圧力に上から押さえつけられ、俺は足まで止められた。
俺は、刀越しに力で押さえつけられた。勢いで竜巻を乗り切ることも、背後から迫る花びらの海を振り切ることも出来ない。
竜巻の花が、腕に、顔に、今はちりちりするだけ。間もなく、俺と幽々子の空間も花で埋まろうとしている。
でも。
でも、まだ。俺は動ける。
一太刀。
一太刀でいい。
一太刀分の時間でいい。
もってくれ、寒気よ、俺よ。
そして届いてくれ、白楼剣よ。幽々子を、解放してくれ。
一歩。
腕、足、歯。握り込む、押し出す、食いしばる。白楼剣と触れ合う楼観剣を、斜め上に押し返すだけの一歩が、完全に踏み出せた。その力は、楼観剣を幽々子の頭上の、もっと上まで一気に弾いて、桜花の波の向こう側まで飛ばした。
二歩。
それは訓練の中で身についた連続した自然な所作。空手で、驚き、立ち尽くす幽々子の体を、左肩から右脇腹へ、一直線に、白楼剣を振り下ろす。そして、このナマクラが唯一鋭利に変じる手応え。
三歩。
はっきりと情が湧くよりも早く、俺は、倒れる幽々子を、俺に斬られて微笑み浮かべた幽々子を抱き留めたくて、思わず踏み出していた。
そして、一歩、下がった。
後ろに倒れる幽々子の、その背後に広がったスキマから伸びた腕が幽々子を抱き締め、背後の人物の汚れた金色の髪の間から、あまりにも強い凝視が、俺の足を退かせた。
楼観剣が、花びらの向こうのどこかに落ちた音。
それがきっかけで俺は踏み止まった。足が止まると同時に、俺は訳もわからないまま、幽々子の背後にいる相手を見つめ返した。実際、訳がわからなった。
「そう。貴方自身が冬の寒気をまとっていたから、西行妖の破砕を免れたのね」
今、睨む相手の口から語られて、俺は気付かされた。レティの言ったおまじないはそれだったんだ。あの時、俺自身に冬の寒気を蓄えさせて、俺自身が西行妖の花びらの炸裂を相殺できるようにしていたのか。
だが、それよりも、どうしてだ。どうして、お前にそんなことを気付かされなきゃならないんだ。
気づけば、俺は声を張り上げていた。
「おかしいじゃないか、おかしいだろ。ありえないだろ。そうだろ、八雲 紫!」
言葉をぶつけた後でちゃんと見た、俺を見下ろす紫の目と、真正面から。
「よくも、よくも。今まで積み重ねてきた物が、全て失われた」
間近で、少し見上げた先にある、紫の目の色にあきらかな敵意が宿った。正気、といっていいのかどうかわからないが、紫は正気だ。そして、紫に抱かれる幽々子は今、焦点の定まらぬ視線を宙に投げ出し、唇から言葉が漏れてくることはなさそうだった。
ありえないことばかりだ、紫もそうだが、今の幽々子も……
その時、何の前触れもなく、幽々子を手放して紫が翻る。俺が幽々子を受け止めた直後、紫が振り返った先、花びらの天幕を破る一刀が紫の首を狙う。その刃、紫は上下に挟み込んで止めた。
幽々子を受け止めた俺の前にある物。楼観剣。紫、の手から滲む血、すぐ凍る。舞う桜の花びら。少し離れて西行妖。そして、楼観剣を握ったレティ。
レティは、淀みなく紫の首を狙った。
「貴女が、こまどりを殺させたのね」
レティがそのつぶやきを紫に聞かせた刹那、四方に発生したスキマがレティを中心に交差。しかし、重なる直前、楼観剣を手放して飛び上がったレティは回りながら桜の波間に消えた。
スキマが閉じて、レティが木の根に降り立つ音、そしてレティの着地点から寒気が広がって花びらの幕が晴れ、視界が広がる。
俺の腕の中には虚ろな幽々子、目の前には背を見せる八雲 紫がばりばりと音を立てながら、凍ってへばりついた手を楼観剣から剥がしている。恐らくは今、正面のレティを睨み付けているのだろう。
レティから。
「あの桜が、わざわざ時期を見計らって何某の巫女を封じ込めるのはおかしいと思っていたけど、入れ知恵したのが貴女とは思いもしなかったわ」
やはり、声の抑揚がない。
「よく言う。私を釣り上げる為に後ろの幽霊をけしかけておいて」
紫は、握り直した楼観剣を木の根に突き立て、声色に苦々しさを混ぜて答えた。
すると、レティは息を吐くついでに応対するような態度で。
「そこの亡霊を妖忌君にどうにかしてもらおうと下心があったのは認めるけど、正直、それ以上の期待はしてないわ」
口ぶりの割には、紫が正気でいることがさも当然のようなレティ。
対する紫が、感情と呼吸を乱さぬ様に返答する。
「躊躇なく私を殺そうとしておいて、よくそこまでとぼけていられるわね。貴女、私以上に性格悪いわよ」
レティは首を傾げた。しかし、心が動いているようにはとても見えない。
「買い被らないで、『何をして欲しくないのか』くらいならわかるけど、『何でして欲しくないのか』なんて知らないわ。興味もないし」
紫は鼻で笑った。
「冴えない遺言ね」
紫に猛りはない。けれどその分、冷たさを含んだ物言い。
「……不思議ねえ。私を本気で殺そうとする今の貴女より、初対面の私を片手間で張り倒した頃の貴女の方が、怖かった気がするな」
率直な感想。けれども感情が、血が全く通っていない声色で、レティは返した。
粛々と殺し合いの話を進める二人は、俺達の事など忘れている。少なくとも、俺にはそう思えた。俺は、無反応の幽々子を抱きしめて声を張り上げた。
「八雲 紫。お前、何をした」
「それもそうねぇ。ゆっくり話してくれないかしら、貴女が正気を失ったフリをしていた訳とか」
「話す口など、ない」
俺には拒絶の背中、レティには排除の一歩を見せた。だが俺はそれでも、この両腕に余る幽々子を抱いて絶叫する。
「違う!お前が正気だったこととか、どうでもいい!」
紫の足が止まった。
「なんで幽々子が成仏しないんだ!俺のナマクラに斬られた亡霊が、現世の未練を断ち切られた亡霊が真っ先に失うのは生前の姿だ!
それなのに、それなのにどうして、幽々子はこんなにもはっきりとした姿を保っている!?
なんで俺は幽々子を抱くことが出来る!?お前は幽々子に何をしたんだ!?」
振り返った紫。彼女は、唇を噛んでいた。目も訴えている。今にも溢れ出そうな感情を必死に飲み込もうとしている。同じくらいの強さで、吐き出してしまいたいとも思っていそうだ。まさか、辛いとか苦しいとか言い出すつもりか、お前が境界を操る力で、幽々子を亡霊にしておいて。
力では圧倒的に及ばない境界の妖怪を、怒りで睨み返した俺。だが、その視線も紫の向こうに注目が行った、レティが両手に寒気を集めている。
俺の視線に気付いた紫が正面のレティを見直した。しかし、力を蓄えていたレティが見た方向は、俺達がいる前方ではなく、真上。
「アナタが、一番せっかちなのね」
高密度でつながった、まさに滝か洪水かの如く押し寄せる桜の花びらが、レティの真上から押し寄せる。真下のレティは、白く彩った両手を頭上に。
重なる、膨らむ、爆ぜる、桜と白、それは衝撃と寒波。一瞬の中で認識する、突風と化した寒気に混ざる花びらは、その寒さの中でも力の全てを失っていない。花びら同士が触れ合った瞬間に発生した炸裂が突風を掻き乱す。
この風を受ければ俺も漏れなく数珠繋ぎの炸裂をもらう。かわす間もない、虚ろな幽々子は自分を守ろうともしない、だから俺が。
俺が幽々子を庇おうとする直前、俺達の前に黒い壁が、違う、壁と見紛うまで広く開けられたスキマが現れた。突風、寒波、花びらの脅威はスキマの中に消えた。
「紫、あんたが……」
「動くな。そして、もうこの戦いに関わらないで」
背中を見せている。顔は見えない。
「その子を手放さないで、そうしている限り、貴方達が花びらに狙われることはないわ。あれもあれで、幽々子を守ろうとしているから。でも、私と違ってかなり大雑把だから、ちょっと累が及ぶかもしれないけど、その時は貴方が何とかして頂戴」
紫の意識は俺達に注がれてはいない。でも、問わずにはいられない。
「俺は、正直、こんなこと初めてでどうしていいのかわからない。けど、俺は幽々子を救いたい。紫、お前はどうなんだ」
紫が、鼻で笑った。
「藍、貴女の差し金ね。何も知らないとはいえ、なんで、こんな子まで巻き込んだのよ。寄越すのなら、レティ一人でよかったのに」
紫が半ば振り返って見せた横顔、瞳には堪え切れない温かみ、親しみ、そして悲しみ。
「悔しいわね。ここに来たのが貴方一人だけだったのなら……」
まさか、さっきは自分を嘲っての笑いだったのか。
「待て、待ってくれ!何で戦っているんだ!幽々子を成仏させる俺が一番邪魔じゃないのか」
「……続きは、あの妖怪と決着をつけた後でね」
紫は話を打ち切り、取り付く島なく、突き立てた楼観剣と俺達を残し、目の前のスキマに飛び込んだ。同時に、スキマが閉じた。
まるで幕が開いたように広がる景色は、天を覆わんばかりの西行妖の花咲く枝の下で、早く流れる雲のように溢れかえる花びらの、そのぽっかり開いた中心で舞い踊る青と白、レティ・ホワイトロック。
レティの周りだけ、桜の花びらの密度は薄くなる。そして白い槍を飛ばし、受けた枝と桜の花がそのまま散り、桜色の天球を穿つ。最中、桜に巻かれたレティが跳ね上がった。押し寄せる桜色に飲み込まれる直前、レティは一回転、共に起こる寒波、その冷たさはここまで届いた。桜色が弾かれ、空を覆う桜色を背景に一人分の青と白がくっきり浮かび上がる。その瞬間、空に断裂を現す黒い線、スキマが一直線に、レティを飲み込むように走った。
翻って、桜の渦ごとスキマを飛び越えたレティに、そのスキマから飛び出した紫が風のように迫る。
紫、爪を立て、振るう。五指、いずれも空を裂いてスキマを広げ、レティを襲う。
レティ、空諸共に六分割される直前、花びらの炸裂に弾かれた。いや、寒気を弱めて自身を弾かせて、そして、かわした。
返す刀、のスキマを走らせようと身構えた紫、同時に、レティは衝撃で煽られた体に勢いを付けて花びらが分厚く広がる所に飛び込んだ。今度は炸裂で呷られず、突き進む。
紫が空中で二の足を踏んだ。追撃をしない?もしかして、いや、いくらなんでも、それはないんじゃ……
レティは今、桜の花びらの向こう。その花びらの向こうでは、炸裂に次ぐ炸裂が幾重にも連なり、花の嵐となっていた。だが間もなく、嵐の中から竜巻の様な乱れが起こった。しかも、その竜巻は真横に伸び、最も絢爛に桜の舞う所、西行妖へと向かっていた。
紫は苦虫を噛み、指で裂いたスキマに入った。
西行妖、その枝という枝が、さらには根も、揺れた。ずっと上から、ばさばさと鳴る音は、まるで西行妖の呻きにも聞こえて、この白玉楼の土も空気も全てを鳴動させていた。幽々子は虚ろなままでも首を返して、桜色の空を作る西行妖に目をやった。
そして、花という花が散った。しかし、舞ってはいなかった。散った花びらは輝きを放って一つの塊と化し、勢い、風を切り裂いてまさに流星の化身となり、横へ伸びる桜の竜巻の先端に降り注いだ。
狙い外れて自らの根が砕けることも厭わぬ桜の流星。竜巻がそれを一発受ける毎に、竜巻に見せている花びらの覆いは削られていき、時間にしてものの一秒足らずで、青と白の女の姿を浮き彫りにする。しかも、レティに、かすった程度でも傷が見られる。攻撃は届いていた。
その時だ。より攻撃的に花を飛ばす西行妖の、巨大な樹冠の中頃、太い幹と太い枝の元にスキマを通じて現れた八雲 紫。彼女は震えながら、近くの枝を掴んで仁王立ち。
震える?その違和感が俺に気付かせた。正面を睨む紫の眉間から流れる、血。
一度は捨てた考えが蘇る。そこに桜の流星は降ってはいない。しかし、桜の花びらは舞っている、間違いない、桜の花びらは紫にも炸裂している。西行妖は紫を諸共にしてでもレティを排除しようとしている。
「浅はか。私達が同士討ちを恐れると思ったか!」
叫ぶ紫。鳴動して白玉楼を共振させる西行妖。だが、レティは無言で突っ込んだ。
スキマの黒と寒波の白が水平に重なり、垂直に抜ける輝く桜色。
飛ぶ高さを上げて交差点をかわしたレティ、それに飛び掛かる紫、自らに打ち込むことを厭わない西行妖の、桜の流星雨の中で、雨をかわしながら、枝から枝を縫って、渡って、舞うような、踊るような、二人。レティは白い線を、紫は黒い線を、宙に残すも、桜色の閃光が全てを塗り潰していく、枝を折ろうが、幹を砕こうが、根を裂こうが、紫に血飛沫を舞わせようが、全てはレティに仕留める為に。
遠目で見るから、俺は気付いた。
俺達の周りに花びら舞っていない。いや、俺達がいるところ以外も花びらの密度が薄くなっている。ただし、ある場所を除いて。
流星になり損なった桜の花びらが、あらゆる場所に舞っていた桜の花びらの多くが、西行妖の樹冠の遥かに狭い範囲を、レティと、それに肉薄する紫さえも包み込む様に舞っている。それが綺麗な球形と見て取れた瞬間から、あっという間、花びらの球が縮んだ。中心にはレティと紫、かつ、西行妖の樹冠の中心付近。
白と黒を飲み込んだ桜の球。次に起こるのは。
巻き込まれる。
思ってすぐ、俺は伏せた。木の根と木の根の隙間に、幽々子と一緒に潜り込んだ。
炸裂。衝撃。到達。通過。全て一瞬。
その後、俺達に降り注ぐのは、花びら、それと、木の破片。
顔を上げて、視界のそこら中に花びらと木の破片、さらに、俺達から離れた場所にどさどさと音を立てて積みあがる、並みの木の幹まである西行妖の枝。挙句、西行妖の根元近くに積みあがる枝の山から溢れるのは、生前の顔だけがへばり付いた亡霊と、顔のない丸いだけの魂達、しかも人間の魂と妖怪の魂が入り乱れて飛んでいる。
あそこにいるのは、自分の死を受け入れられないと嘆く霊達の、自分が死んだことさえわからず途方に暮れる霊達の、行き場のない者達が固まっている。あそこには近づけない、幽々子はもちろん、俺でさえ当てられる。藍が言っていた西行妖の犠牲者の魂か、確かに恨めしさが伝わるな。
そこまで見取ってから、折られた枝と霊の多さに気づいて、減った分を確認すべく、俺は上を見る。桜の天球、最早、空を覆う程ではなく、所々の枝が折られて節々から胡散臭い青空が窺える、桜の花に至っては三割くらいにまで減っているという有様。
レティは、レティはどこだ。
いた、すぐに見つかった。花が全て飛んだ西行妖の枝に引っ掛かっていて、その姿は二つ畳んだボロ雑巾の様だった。皮と少しの肉で繋がっている両腕、裂け始めている腰、腿の細かい切れ方で間延びして見える左足、絞ったように滴っているのは間違いなく血。彼女は、ぴくりとも動かない。
なら、同じところにいた紫は。レティの近くにはいない。右、左、上、下、後ろ、首を振り回している内に、紫の姿を見付けた。西行妖の根元。血に塗れているが、ちゃんと両足で立っている。そして、彼女が睨む先にはレティ。
レティを助けに行かないと。紫は敵である俺にも気遣ってくれた。しかし、だからって、このまま紫を勝たせても同じことの繰り返しだ。そうだ、この仮初めの春を維持することがいい筈がない。幽々子にとっても、きっと紫にとっても、だ。
白楼剣に手を掛けた。だが、足が動かない。近付くこと拒んでいる。俺が躊躇した後、俺がこの目で見たのは、白い槍、つまりはレティが寒波を束ねた白い一撃を、紫がスキマを以て防ぐ光景。なんと、先手を打ったのはレティだった。
面食らった俺の前で、ピクリとも動かずにぶら下がったままのレティが繰り出す、白い槍の連射は間髪ない程に厚みを増し、あまつさえその周囲に白い風をまとってさえいる。紫は一歩も動かず、スキマを開いて受け続ける。
その時、上から、レティにとってはまさに背後から、桜の流星が降り注ぐ。しかし、レティに向かう閃光は瞬く間に光と勢いを弱めて、白い風に脇に除けられる様にレティのそばを掠めて消えていく。
なんだ、これは。
まさか、レティの力がさっきより増しているのか?そういえば、心なしか、さっきより寒さを感じる。
届かない攻撃を仕掛け続ける西行妖、何故かそこから一歩も動こうとしない紫、レティもレティでそれ以上仕掛けようとしない。三者は、完全に膠着した。
しかし、このままではレティが負ける。確かに、受け続けさえすれば西行妖の花が減るし、今はかなり花が減っている。それでも、もとの数が桁違いに多かった上に、仮初めの春とやらが巡ってくれば、西行妖はまた花を咲かせる。紫がその気になれば、今、壁として使っているスキマの反対側から飛び込んで、強襲することも出来る。
敵は焦っているとレティは言ったが、やはり長期戦を挑める余裕があるのは紫達の方ではないのか?
その時。
空の光量が減っていく。それと共に雲が出てきた。
突如として始まった天候の変化。まさか、今がそうなのか。これから始まるのか。春が一巡するのか。
桜の向こうの空の全てが、雲に覆われる。
そして、そして。
寒くなった。
…………勘違い、じゃない。これは寒冷が居座っている幻想郷の寒さ。
開いたスキマの前でうな垂れる紫。新たに花をつけない西行妖。
まさか、今は冬なのか。もしかして仮初めの春は、最初に仮初めの冬から始まるのか?
だから、冬から始まる故に、季節が一巡する手前の白玉楼に来たレティを、一刻も早く排除したかった。噂通りの妖怪なら、一握りでも冬があればこんな箱庭の春を壊すのは造作もない。
そして、俺の推理は間違っていない。全然、暖かくならない。それどころか、気候は春と逆の方向に突き進んでいる。空気が引き締まって感じる程の寒気、しかも一過性の寒さではない、底を一段深める、留まる寒さ。
だが、何故だ。この寒さを『冬』とも感じない。もっと恐ろしく、おぞましい、寒気の集合体と感じるのは何故だ。
そして、レティが動いた。
枝に引っ掛かったまま体が丸まり、動く左足で千切れ掛かった左腕を持ち上げて、その左腕を口で噛んで傷口と傷口を重ねる。しばらくすると、レティは口を離し、その後で左腕は肘を曲げ、指を一本ずつ折って拳を握る。左腕が元に戻った。レティの表情は猛りも陰りもないまま、当たり前の事として右腕も同じようにして難なく繋げて、右腕で右足を、左手で腰をぴったり寄せてくっつけた。
その直後、治ったばかりの両腕で木の枝を思い切り押して真上に飛ぶ。同時に、レティを包んでいた白い風が散って、紫を襲っていた白い槍も止んだ。ただ、それも手加減とか、そういう類ではない。それはレティが身の回りに留めていた寒気の範囲を拡大させて、空気の中に寒気が混ざっただけ。底が深まった寒気に腕の中の幽々子が震えて、俺も同時にレティの放った網に掛かった様な悪寒に震えた。
紫が開いていたスキマの壁が閉じた。西行妖の花びらは灯を失った。
紫がスキマを走らせる、西行妖が桜の流星を降らす。スキマはレティに届かず閉じた、花びらはすぐに光を失って舞い落ちる。
周囲の激しさに反して、ゆっくりと、上昇しながら体をおおよそ縦に回転させたレティは、頭と足の上下を整えてから、宙で止まる。
大きく、激しく、揺れる、西行妖。しかし、花びらは何物にも変わらず、ただ、綺麗なだけ。
レティの周り、深々と降る雪と見紛う桜の花。その近くの空に黒い線。
紫のスキマ。
紫がスキマを渡ってレティの背後から飛び出す、直前、縦に割けた背後のスキマを、レティの回って放った蹴りが横の一文字に振られると、開きかけていたスキマが瞬く間に閉じた。逃げ遅れて宙から飛び出して残った紫の左手をレティはつかむ。
紫のスキマを閉じた。違う、閉じたというより、開いたスキマを瞬時に繋げた。ついさっき、レティが自分の体にしたのと同じ事を、やった、のか?なら、この白玉楼の世界を支配しているのは西行妖でも、八雲 紫でもなく、レティ?
その間にも、紫の左腕はみるみるうちに白く、霜が降りる。程なくして、紫の腕から力がなくなり、レティの手の上にだらしなくぶら下がった。レティは腕を引く、出てきたのは、その腕だけ。トカゲの尻尾のように、紫は自分の腕を切り捨てて逃れた。
レティは、紫が切り捨てた腕を掌で遊ばせながら、正面の、じわり、じわりと、霜の白に侵食されていく西行妖と向かい合う。両者の間、未だに桜の花が舞っている。
それは、空気が冷たく、冴え渡っていたせいか、レティの囁くような語りかけは、俺の所にもはっきり届いた。
「貴方に悪意はない」
静かな物言い。
「貴方は一人の少女の為に花を咲かせただけ」
西行妖の花びらは光を灯す。しかし、散った後はすぐ花びらに戻って、はらはら落ちる。
「わかっている」
理解を示す物言い。けれど、レティの言葉の中に生き物としての温もりが無い。
「でも、許してあげない」
レティが両手を広げた。寒気が流れていく。行く先は、レティの元。目に見える程の寒波が一箇所に凝縮されていく。その総量がどれ程の物かは想像もつかないが、寒気が尽きる気配はない。レティが集めたいだけの寒気が集まる。そういえば、死んだ春の中ではどこまでも寒くなる、レティはそう嘯いていた。
そして今、レティは同じ事をしようとしている。西行妖にさっきされた事と、同じ事を。
「白銀になれ」
圧縮した寒波が一気に広がった。しかし、炸裂ではない、一気に寒くなっただけ。体の奥深くが凍りつくような思いをして、寒さ以上に抗いがたい恐怖に体が震えた。幽々子も震えている。俺の恐怖が伝わったからか。
晴れない雲、暗いままの空、あまりにも光の少ない世界。
花が散った。幹が凍った。樹皮が割れた。枝が折れた。西行妖が崩れていく。
裂けた、千切れた、砕けた、落ちた。西行妖の木片から沸いて出た魂。
人がいる、妖怪もいる、顔が無くてわからない者も、ただ漂って、とても暗いこの世界を、魂達の篝火がうっすらと照らしている。いや、魂達の中には、この妖気溢れる寒さに負け、半ば魂としての形が崩れかかっているものまでいる。寒気の白と魂の青白さが重なった向こう側で、老木のような西行妖の姿と、その頂上から、粉雪のように白く凍り付いて舞い落ちる西行妖の花びらよりもゆっくりと降りてくるレティ・ホワイトロック。
幽々子が守ろうとしたあの桜が、今、死に掛けている。その事に同情しているからなのか?それとも俺自身の魂が凍りつきそうな程の寒さのせいか?
違う。それだけじゃない。西行妖にはおぞましさを感じたが、向かっていく意思は維持できた。けれど、魂の弱い光量に晒されて、蝋よりも、死体よりも、蒼くて白いレティの姿を遠目に、俺は西行妖に近づくことすら出来ない。
「レティ・ホワイトロック!」
絶叫、西行妖の根元から、声の主は八雲 紫。
また、そこにいる。西行妖がレティを仕留めようとした後もそこに立っていた。もしかしたら、最初に俺達が来た時も、そこにいなかったか。
だが、俺の疑問に関係なく話は進んでいく。
「私達の負け。春を繰り返す式は崩れた。もう同じ式を組むことはできないでしょう。貴女が忌む仮初めの春が幻想郷を侵すことはないわ」
「なら、ここをもっと寒くしましょう」
「もう終わったの。貴女は目的を達したのよ。早くここから出て行ってお友達の妖精と祝勝会でも何でも開けばいいわ!」
「これが枯れた後にそうさせてもらうわ」
「貴女は!」
遠くの紫を見る視界の隅に見切れて、スキマから伸びた手が楼観剣を握って引き込んだ光景が俺の目に飛び込んだ。
驚いて楼観剣のあったところを一度は凝視してからすぐに紫を見る。右手に握った楼観剣を握った紫が、西行妖の根元から跳躍、続いて西行妖の幹を蹴って垂直に駆け上がっていく。
西行妖の枝の上にレティが降り立つ。そして、手放した紫の腕が、枝に弾かれながら下に落ちていく。
紫の正面から降って来る腕。それを見て、紫は楼観剣を噛んで帯剣、空いた右手を伸ばす。駆け抜ける紫、右の掌に左腕が収まった刹那に接着。楼観剣の柄を握る右掌、続いて左掌。口を開ける。刃が解き放たれた。
垂直に走りつつ楼観剣を構える紫。レティは何もしない、寒気を固めた白い槍もなければ、寒気をまとっているようにも見えない。
楼観剣、一刀両断。
断たれた枝。飛びのいて難を逃れるレティ。紫は勢いを持て余し、西行妖の幹にしたたかに体をぶつけるも、それで無理矢理に方向転換してレティを追う。
白く寒い世界と化した白玉楼。人魂の蒼白い薄明かりに照らされながら枝から枝をふわりと舞うレティ。冴え渡る鋭さで蒼々と輝く楼観剣は、血の赤を散らせる紫に振るわれて、幾度と無く空を切っていた。
俺自身、剣の心得もあるし、その上で遠目から見ているから良くわかる。恐らく、紫は碌に剣を握った事など無いだろう、完全に、レティに弄ばれている。あのままじゃ、百年追いかけまわしてもカスリもしない。
その時だった、幽々子が寝返りをうって俺の腕から零れ落ちた。
「悪い、幽々子」
俺は手を伸ばすが、幽々子はその手をよけ、西行妖の元に駆け出した。そして、握られているのは白楼剣。
驚いて確認した。やっぱりない。
しまった、出遅れた。距離を離された。これじゃ、追いつくのは西行妖の下になる。くそ、よりにもよって、なんだって、タチの悪い霊が集まっている方に行くんだ。それに白楼剣は俺が振らないと力は発揮しない。
幽々子を追う俺がその方を見ることはないが、近付いているからだろう、文字通り頭上のレティと紫の会話が、はっきりとした形で降ってくる。
「ねぇ、紫。この箱庭を壊したくないから全力を出さないのは貴女の勝手だけど、にもかかわらず、そんなものを必死に振り回してまで私を殺そうとするのって、なんか矛盾してない?」
「だったら寒くするなぁ!」
幽々子、まさか紫を助けに行くつもりか。
止めないと。西行妖の力添えのない今、お前がナマクラ一本でどうにか出来る相手じゃない。情けを掛けてくれる、相手でもない。
「変なの。私が邪魔なら、ここと外を繋げて普通の春を呼び込めば簡単に退散するのに」
「諭される覚えはない!」
幽々子が足を止めたそのすぐ隣に、切られたばかりの枝が降って来た。
幽々子は飛ぶどころか、その場に両膝をついて、うなだれる様に頭を下げた。
予想外。追いつこうとする俺には嬉しい展開。だが、落ちてきた枝から恨めしく噴き出した魂が今まさに襲い掛かろうともしていて、結局は危機的状況継続中かよ。
なんだって、なんだって西行妖の根元なんかで立ち止ま…………
ん?そこは、もしかして、紫が立っていた所じゃないのか。
「あら、さっさと見限ってここと幻想郷をつなげると思ったけど、違うんだ」
「そうよ!私の希望はほとんど潰えた!でも、たった一つだけ、この世界を完全に隔離すれば、幽々子の安らかな眠りだけは護れる!それは幻想郷への被害もなくなる事も意味する!全部もう終わっている!貴女はこれ以上、何もしなくていい!幻想郷に帰るだけでいい!」
「はて、深山がそれで納得してくれるかしら」
上から降ってきた会話の文面の中に、何か聞き流せない引っ掛かりを感じた。けれど、それに構ってはいられない。幽々子が俺に見せているのは背中だが、わかる。幽々子はきっと、膝の上で白楼剣を両手に握り込んだ。
まるで俺にも見せ付けるように、白楼剣を振り上げる。その時、恨めしく沸いて出た魂が幽々子に迫る。しかし、幽々子は全く構わず、振り上げた白楼剣の切っ先を真下に叩き付ける。
が、どっちもさせない。俺は全身でぶつかって幽々子を押し倒し、転がり揉み合う中で奪い返した白楼剣を切り上げ、迫る魂に縦一文字の一閃。経文不要の成仏に魂は形を無くし、白い粒となって消える。俺の下には、仰向けに押さえつけられた幽々子。
他に悪霊の類はいない。いるのは、前後不覚で答えを求めているであろう魂達と、白楼剣を握った真っ当な半人半霊と、何故か成仏しない亡霊。
「納得する、しないではないわ!私はただ、死を忌避するあまり、死に誘う力の真価を知ろうともせずに自害した罪深い友を護りたいだけ!」
「あと、貴女の命を救う為の薬欲しさに、季節外れの西行妖の桜を咲かせたくて、たくさん殺した分も、よね」
あと、絶叫するスキマの妖怪と、心を感じさせない冬の妖怪、それに死に掛けている妖怪桜、それだけ…………ん、何?それだけじゃ、ない。
落ち着いて。目に入ったモノがもう一つある。それは、俺の下で寝転がされた虚ろな眼差しの幽々子の隣、西行妖の木の根に埋もれながらも瞳を閉じて横たわる、もう一人の幽々子がいた。
「私の為に、私の所為で、私がいたから!幽々子は犯さなくてもいい罪を犯した。だから私が」
「ボケた振りして幸せを貪る、と」
「黙れ、黙れ黙れ黙れぇ!あそこまでしないと痛みが完全になくならないのよ!」
くそ。俺も誰かさんみたいに、叫ぶだけ叫んでみたい気分だ。
幽々子が白楼剣で殺そうとしていた、いや、壊そうとしたのは、西行妖の根元で永眠する幽々子自身。
……滅茶苦茶だ。確かにそれなら、自身の遺体をこれでもかと壊せば、確かに亡霊も諸共に消えるかもしれないさ。そうなれば、紫の戦う理由もなくなる。
けど、そんなのは成仏じゃない。
退治だよ。
自分で、自分を退治するつもりだったのか。
虚ろに輝く幽々子の瞳の中に、戸惑う自分を見る。そうだ、俺がしっかりしないでどうする。
少し持ち直した。
「この異変の裏、例え一時でも正気の私が何かしている事が知れれば、幻想郷の力ある者全てが白玉楼の平穏を破りに来る、今の貴女のようによ、レティ!」
「取って付けたように聞こえる」
「うるさい!お前なんかに力ある者の苦しみがわかってたまるか!」
「なまじ万能だから無様を晒している様に見えるけど」
なまじ万能。それが、このにわかに信じられない事態を可能にしたのか?
生前の姿そのままの亡霊と、一年以上前に死んだと聞かされた死体が瓜二つ。そして、どうやったか知らないが、幽々子の死体は四肢や胸元とか首筋の一部が、西行妖の木の根と境目なく一体になっていた。
「私だって、私だってずっと、ずっと狂っていたかった!後先考えずあんなことした後で、ぬるま湯に浸かって精神を腐らせて死にたかった!
でも、わかるのよ、この世界の末路が!!果てが!結末が!色んなのが!
そして、溢れてくるのよ、それを防いで、かわして、打ち砕く方法が!」
「それは難儀ね。惰眠を貪れないことに同情するわ」
レティの口先から出た同情という言葉に情は無い。だからこそ余計に紫が口走った「あんなこと」が心に残る。
どれのことを言っているんだ?仮初めの春で満たしたことか?西行妖に命を貢ぎ続けたことか?幻想郷の季節を死に導いたことか?幽々子の肉体が瑞々しいことか?それとも。
思案する俺の脇を通り抜け、白楼剣へと幽々子の手が伸びる。さすがに二度も奪わせない。俺は手をとって押さえつける。それでもなお、幽々子はもぞもぞと蠢いて白楼剣を求める。
……それとも、幽々子の魂を、こんな訳のわからん亡霊にしたことか。
「同情って、そっちじゃないでしょ!レティ、貴女のような存在でも私の心の機微はわかる筈よ!幽々子と引き剥がされるなんて考えたくもない!」
「ふんふん」
「幻想郷に帰ってよ!色んなこといっぱい諦めたから!この世界を完全に閉じるから!私は幽々子と一緒にいられればそれでいいから!だから!」
「この桜を枯らすまで帰らないわよ」
「ふざけるな!」
西行妖の枝の落ち方が激しくなる。見るまでもない。紫の振り回す楼観剣の刃先が乱れていて、レティが逃げ回っている。そのあおりを、枯れかけた西行妖が被っている。
言葉もなく、白楼剣に手を伸ばし、その都度、押し返される幽々子。俺が白楼剣で切ったから、幽々子が生前と死後に身に着けた知識も何もかも、全てが「迷い」として消えてなくなったのかもしれない。
そして、紫が薄々は不毛と知りつつも一緒に居たいと懇願するのは、赤ん坊のような幽々子の亡霊とか、それとも物言わぬ幽々子の死体とか。
そんな迷いが、俺の手を伸ばさせた。そして、瑞々しい幽々子の亡骸の頬に触れる。
……え?
「枯らさないでよ!色々諦めたって言ったでしょ!もう満開にしないから!もう仮初めの春もいらないから!もう迷惑を掛けないから!私を痛め付けたいのなら何だってされるから!だから!お願いだから枯らさないで!」
「やっぱり寒さが足りないなぁ」
「もういいでしょ、充分寒いわよ!幻想郷でこんな寒かった日なんて私、知らないわよ!大妖としての誇りも、同じ高みで語り合える者達も、全部、全部、失くした私からこれ以上奪うというの?」
「……花はともかく、落ちた枝とかは元々余分な部分で、精々垢を落とした程度のものよ。もっと、そうもっと、芯から凍りつくようにしないと」
「やめて、そんなひどいことしないで、西行妖を枯らさないで……」
まさか。
まさか、そんな。
「枯れたら幽々子が死んじゃう!」
微か。しかし、それでも確かにある、生命の鼓動。死体じゃない。
ここに横たわっている西行寺 幽々子は生きている。
亡霊と生身が並ぶ幽々子。
俺は上を見る。同時に、右手で収めた白楼剣を強く握り、左手で幽々子を抱き締める、幽々子に馬鹿な事をして欲しくないから体で動きを制限させる為に、俺がそれ以外に気をとられても平気にする為に。
いや、違う。怖かったからだ。手放したら、俺の知る亡霊の幽々子が消えてしまうような気がしたから。そして、誰かと身を寄せ合っていないと、俺まで消えてしまうような気がしたから。
そして、ゆっくりと空へと舞い上がる無形の魂達と同じく、花の全てを失って老木と見紛う西行妖が伸びていく先へと俺は視線を上らせる。
深い、とても深い寒気の中で、西行妖の太い枝の上、紫は頭を押さえて、楼観剣を突き立てて両膝をつき、金色の髪と息切れして吐く息を白く染める。二段上の枝から、それを見下ろすレティの瞳に心情を表す色がなく、それでも色で表現するなら虚無の白一色。だが、俺が目を奪われたのはレティの向こう側の景色、折れて縮んだ西行妖の向こう側、つまり、空。
なんだ、あれ。
空に留まって、今の西行妖なら飲み込める程、一面に広がる不定形の浮遊物は雲のようだが、違う。蒼白く輝いている。あれで雲なら、背後に満月の輝きがあることになるが、太陽のなかったこの世界、月があるとは思えない。いや、本音をいえば見覚えが、いやいや、俺がよく見慣れたものに似ている。ただ、あまりにも大きさが違いすぎて、そう考えないようにしていた。
しかし、見えるモノは見える。西行妖の幹に沿うように、紫のそばを、レティのそばを通り抜けた「それ」の群れが、力無く散って落ちる桜の花と入れ違いで上昇を続け、雲らしき物のひとつとなる場面を、俺は確かに目撃した。
そう、あの雲は、魂の塊だ。まるで、逆さまに降る雪が、そこに積もっていくような。
なぜ、どうして、魂が雲のようになっているのか。全ては今、感じている『寒さ』が答えだ。『死』が放つ冷気をかき集め、強めている、ここを寒くする為に。それはお前の仕業か、レティ・ホワイトロック。
そして、くそ、だから、だからか、レティは自分のことのように西行妖を語っていたのか。確かにそれなら、深山がまず何よりも、死んだ春の中にいるレティをどうにかしようとしたのも頷ける
西行妖は生気を集めて繚乱を成す化け物。レティ、お前は、死気を集めて極寒を成す化け物。桜か人か、するかしないかは些細な違い、お前達は似た者同士、同じような本性を持つ化け物か。
頭痛にあえぐ紫が、頭を抱え、脂汗を浮かべつつも叫ぶ。
「幽々子と西行妖をくっつけて命を繋げても駄目!幽々子の大好きな花咲く春を繰り返しても駄目!芽ぐむ春をかき集めても駄目!生命から春を搾り出して集めても駄目!
だから魂を分けて作った幽々子に生きる強さとか学ばせて肉体に還元しようとしたけど肝心の魂の方が強制成仏だ!でも成仏なんて出来っこない、死霊と生霊のスキマの存在だから割り切れなくてぶっ壊れて駄目になった!
いくらやっても幽々子は生き返ろうとしない!自分自身を死に誘って果てたあまりにも罪深い魂は強情に死んだままでいようとする!
そうこうしている内に冬に追いつかれてこのザマよ!」
……たった、それだけのことだったのか。
幽々子の亡霊が、今、ここにいる理由が、寝ている幽々子を起こす為の捨て石か?
眠り続けているとはいえ、生きている、それも友人の魂を二つに引き裂いて、その割った魂を友人と瓜二つの形を与える。そんな魂の陵辱以外何物でもないこの行為が、たったそれだけのことの為に。
『なまじ万能だから無様を晒している様に見えるけど』
そんな程度じゃない。
藍、お前が言った通りだ。お前の主人は、間違いなく狂っているよ。
紫は突き立てた楼観剣を支えに背筋を伸ばし、手で押さえた額から脂汗を零し、心なしか目も血走っているように見える。
「もう幽々子を元に戻すことは諦めたわ!私も西行妖の花が咲かない季節は頭痛で何も出来なくなる!だから、私達はもう何も出来ないわ!」
紫は懇願している。されているレティの顔には、何の表情も滲んでいない。
「今の私に残っているのは幽々子だけなの!幽々子しかいないの!だから帰って下さい!お願いします!後生ですからぁ!」
表情そのままで、レティは首を傾げた。
「……ああ。なんだ、そういう話をしてたんだ」
レティは首の傾きを直した。
「ん、っと。『大切な人を奪わないで下さい』、『誰も死なせないで下さい』、あと『私が身代わりになってもいいから助けて下さい』かな。そういう泣き言を聞かされるのって、辟易しているの」
「他にどうしろっていうのよ!」
「あのさ、寒くしてたその周りで勝手に死なれて、挙句に泣き言を聞かされるのよ、私はとても迷惑しているわ」
紫が止まった。
頭痛も忘れて、ぽかんと呆けた顔でレティを見ていた。
「……そりゃ、そーだ……」
呆けたままで口をついて出た言葉が、それ。
そして、紫の頬は引きつって、程なく、大きく口を開けた。
「あ、は……。
あはは、はは、寒くする事しか頭にない妖怪相手に泣き落としだって、あはは、ははは、はっはは、あははははははははははははははははははははははははははははは!」
口と同じように、紫の瞳も、大きく、大きく、見開かれていく。
「はは、はひ、ひ、はは、は、恥ずかしー、私馬鹿すぎー、頭悪すぎー!はは、は、はははははははははははは!」
紫は、笑いすぎて、弓のように反り返っていた。剥き出した双眸に映るのは、間違いなく、絶望を絵に描いたような蒼白く輝く雲。それと、髪を引き抜くように、頭皮を削るように、頭も掻き毟っている、多分、それ以上に頭が痛むのだろう。
「あは、ああ、あは、はは、はら、いたーい、あたま、いたーい、ゆゆこ、あたま、いたいよぉう、う、うは、ははははは、はふ、は、ははははは……」
笑い、仰け反る、紫に引かれて、直立で堪えていた楼観剣が傾く。それから、楼観剣が枝から抜けた。笑いながら紫の上半身が倒れていく、楼観剣も同じく、切っ先が半円を描いて一度は天を差すが、陽が傾くのと同じ加減で斜めに倒れていく。
が、切っ先は綺麗に斜めを差した所で止まった。また、笑い声も止まった。
刃が返る。柄に両手。跳ね起きる紫の体。反動で物凄まじく半円の軌跡で振り下ろされた楼観剣。
目で追えるものではないが、確かに俺はそれを目で捉えた、楼観剣の刃から黒い一閃が起こり、飛んでいく。その先には、レティ。
レティが突き出した右手。その中心を駆け抜ける黒い閃。後、右手、二つに割れる。
しかし、そこまで。
レティは何事もなく、少しずれて二つに右手を、左手が下から回り込んで右手首を握り込む。少しの間だけそうした後、左手を離す。左手と変わらぬ挙動をする右手、もう繋がった。
楼観剣で飛ばしたのはスキマ。それは確かに届いて、レティを切った。ありったけの妖力も含んで一閃が走る、楼観剣とは、ああいう使い方をするものなのか。思えば、幽々子の太刀を受けた時の重さは、それが作用していたから。いや、それはともかく今だ、受けたレティの様子を見る限り、驚きも何もないまま。
「それ、やるの。間違って西行妖を伐っても構わないのね」
全身で楼観剣を振って、まるで土下座するような格好の紫が、体を起こし、ゆっくり立ち上がる。右手で弄んだ楼観剣を肩に担ぎ直し、へばりついた様な笑顔、頭を掻き毟るのをやめて噴出した血が眉間と目尻を伝って頬を流れて零れ落ちる。
「あっはは、へーき、へーき、あきらめたもん。夏秋冬ずっと頭が痛くてもへーき、幽々子が元に戻らなくてもへーき、西行妖が花をつけなくてもへーき、全然へーき」
とても愉快そうにしている紫に、まっ平らな表情で投げかけるレティの視線。その時、何故だか俺は、レティの視線がひどくつまらない物を見る様な視線と感じた。
そして、レティの口が開く。
「普通に考えたら、痛み止めの備蓄が残っている間に親友と今生の別れを済ませて、西行寺のお嬢さんが死に掛けのスキマ妖怪を死に誘って、それでおしまい。
お嬢さんも死へ誘う力の意味も真剣に考えたでしょうし、スキマの妖怪が醜態を晒すこともなかったでしょうし、この桜もここまで精気を食らって本当の意味で妖怪変化となる事もなかったでしょうね」
「なにいってるのぉ?私は幽々子と一緒にいられるだけで幸せいっぱいだよ。生きてる幽々子と一緒に生きられるだけで幸せ。幽々子も私と一緒で幸せ。幸せな私達と一緒で西行妖も幸せ。殺されたみんなだって幸せ。
幸せだよねぇ、みんなぁ!」
空の、境目をなくして一つとなった魂魄の雲に向けて叫ぶ紫。
レティはつぶやく。相手に聞かせるではなく、ただの独り言として。
「足りなかった釘。果てさて、あまり大雑把にしか物を考えない私にすら至らないくらい『知恵』が足りなかったのか。
それとも、助ける為に友達も何もかも、歯を食いしばって氷付けにして回った妖精にも劣るくらい『覚悟』が足りなかったのか」
「なんのお話ぃ? どーでもいいから私達の幸せの為に死んでよ、レティ」
紫は楼観剣を構え、刀身をなぞる。スキマの黒に染まっていくのが見て取れる。
「それ以前に『素直』じゃない、か」
すううぅぅ、と、レティがひたすら息を吸い続けていた。
闇に染まった楼観剣を振り上げた紫、一歩踏み出すレティ。
そのレティが西行妖を背負っているにも関わらず、紫は容赦なく振り下ろす。
黒の一閃。
レティは両手を広げて、それを迎えた。
楼観剣を振り下ろした刹那の後、西行妖の大きな幹が半ばまで裂けた。スキマはそこで閉じた。しかし、その間にある物は両断された筈、つまりレティは。
そして、レティは開いた両腕を閉じた、右手は自分を抱きしめるように、左手は目尻を押さえるように顔面を鷲掴み。その所作でわかった、レティは今、真っ二つになった自分を繋げようとしている。
今までの事をそんなに長い時間じゃない。それを成すまで、多分、五秒も掛からない。しかし、ほんの短い時間でも、ほぼ無防備で足が止まるのは、追撃の好機。
スキマの黒を帯びた楼観剣を手に、紫が転身。振るうは一文字の横一閃。縦から横、十字に四分されれば、さしものレティも易々と自身を繋げる事は出来まい。
そして、全力で振るわれた楼観剣は、黒い閃を走らせる…………直前に紫の手から、するりと抜けた。
紫は目を剥いた。多分、今の俺もそう。一人例外のレティは、楕円に回って飛んでくる楼観剣をきっちり受け止めた。もうレティの体は、半ばつながったようだ。
紫はそのまま倒れて、レティを見上げた。レティは佇んだままで、紫を見下ろした。訳がわからなくて表情を失くした顔と、興味を惹かなくて表情の無い顔の二つが並んでいた。
レティは無言で、楼観剣を紫へと放り投げた。そうされてやっと、紫はレティを睨み返すという形で、表情を取り戻した。
目の前に投げ捨てられた楼観剣を手に取り、紫は立ちあがる。しかし、紫は立った直後に膝を付き、さらに再び楼観剣を落とした。
紫はしばらく、途方に暮れたようにそのままでいて、そして、落とした楼観剣を見てから、楼観剣を握っていた右手を見た。
その手は、ずっと、震えていた。自分の意思では止められないらしく、震える右手を左手で握り込んで抑えようとしているが、その左手も震えているという有様だった。
紫の身に一体何が起こったのか?などと頭を捻って考えるまでもない。こんな現象、毎年、当たり前のように目撃している。紫は寒さにやられて、体を壊した。だから、楼観剣を持つだけの握力も、直立を保てるだけの力も失われていて、敵を目の前にしていながら、座り込んで震えている。
完全に終わった。
全部を見ていた訳ではないが、紫はレティに対し、敵愾心を剥きだしにして楼観剣を振り回していた。しかし、その行為は、今の白玉楼という砂上の楼閣を少しでも崩さない為に極力スキマを振るいたくないから行った、破れかぶれの行為。そんな紫に対して、レティは何もしていない。あくまで西行妖を枯らす為だけにこの箱庭を寒くし続けていただけ、紫はその煽りを受け続けて倒れた。
八雲 紫は、結局、レティに敵として扱われなかった。それでも、この結果。
今一度、紫は楼観剣を手に、立ち上がる。瞳になけなしの力を宿して、乱れがちな呼吸も一定の調律を保っている。しかし、意図せず楼観剣の切っ先がふらふらと震えている事実は、何にも増して心細い。
立っているだけでやっと、という紫に向けて、レティは一歩、前へと踏み出した。
正直、意外だったレティの行動に、紫は持てる限りの力を込めて踏み込むという動きで応じた。
しかし……。しかし、だ。
踏み込みから楼観剣の斬撃への連動が形となる前に、レティは二歩、三歩、四歩と一気に、かつ、これまでにない素早さで距離を潰してきた。
「斬る」では捉えられない。俺と同じ結論を導いたであろう紫が、眼前より迫るレティに「突き」を放った。
さらに意外。咄嗟に放った楼観剣の突きは、なんとレティに突き立った。
楼観剣の刃を返して抉るか切り開くかすれば、咄嗟の上に咄嗟を重ねようとした紫はそう思った事だろう。しかし、意外は続く。紫が楼観剣をどうこうするよりも早く、レティはそこから更に一歩踏み込んで自身の体から刃先を貫通させ、さらに前進を始めた。
あっという間もなく、レティは楼観剣の長い刃渡りを突き進んで一気に根元まで貫かせた。紫が恐怖に気色ばみ、楼観剣を手放すも、レティの左手は逃げ遅れた右手を捕まえた。
その手を振り払って紫は離れようとするが、レティは左手一本で力いっぱい引き込んだ。紫は堪らず、レティの胸に飛び込まされた。
その瞬間を逃さず、レティの右手は紫の腰に周り、その身を力強く引き寄せた。しかし、この瞬間を逃さなかったのは紫も同じだった。難を逃れた紫の左手は、宙空に黒いスキマの切断面を刻みながら、鎌で薙ぐようにレティの後頭部に迫った。……が、黒い断裂はレティに至る前に消えてしまって、結果、紫の生身の左手がレティの髪を梳くに留まった。
そうして、二人は間近で視線を重ね、動きはぴたりと止まっってしまった。
胸と胸、腰と腰を押し付け、前髪は触れ合い、鼻先も触れ合おうかという距離。
吐息さえも相手をくすぐるような所から、レティは紫に語りかける。
「わざわざ悪態なんてつかなくても、寄ってくる相手は勝手に死んでいってもらうだけよ。心配しなくても、一緒に死なせてあげる」
紫が目を伏せる。額と額が触れる。
「……それこそ、私を買い被らないで」
はっきりとした意思で返答する紫、そしてもう一言語るレティ。
「そう?今の貴女は、赤くて、青くて、甘そうな、可愛いだけの女の子にしか見えないわ」」
首から回る紫の白い手がレティの蒼白いうなじを撫でる。
「私はそんなしおらしい女じゃないわ。貴女の髪に触れる私の手、今は感覚がないから何も出来ないけど、少しでも感覚が戻れば貴女の……」
レティの左手が紫の右手を手放す。解放された紫の右手は力なく、ぶらりと垂れ下がった。
「首を……」
レティが開けたばかりの左手は、伏せていた紫の顎に触れる。
「……薙…」
それから、レティは紫の顎をしゃくり上げた。
「……ぐ」
二人の顔はさらに近づいて。
前髪が絡まる。
鼻先がすれ違う。
そして、唇が重なる。
直後、紫が刎ねる様に一度だけ、びくんと痙攣をした。
まさか、『極寒の口移し』……か。
唇が離れると、まるでつっかえがとれたように紫は力なくレティにもたれ掛かり、レティはそんな紫をやんわりと抱く。死んだように動かなくなった紫を左手に、残った右手で自身を貫通していた楼観剣を引き抜き、楼観剣は無造作に投げ捨てた。投げ捨てられた楼観剣は枝から枝に弾かれながら、ついには俺達のそばに突き刺さった。
それから、紫を抱いて宙に躍り出たレティは、ゆっくりと、枝を縫って、降りてくる。その動きは微風にもあおられる粉雪のようでもある。
突き立った楼観剣を飛び越えるように、レティは音もなく着地。そのまま普通に歩いて、俺と幽々子の前を横切り、生きて横たわる幽々子の前で足を止める。その隣に、抱いていた紫を寝かせる。
レティは紫を丁寧に扱った、幽々子と触れ合うように、抱き合うに、離れ離れにならないように。
それから、レティは俺達と目を合わせた。
「いつまで、そうしているつもり?」
何をそうしているのか、と考えて、俺は亡霊の幽々子を抱き締めていることを意識した。
尤も、俺が何か言うのを、レティは待たずに喋り始める。
「出来るだけ西行妖から離れて頂戴。貴方の魂まで白銀にしたら、流石に後味が悪いから」
「殺して、終わりか?」
「枯らして、よ。紫は一緒に死にたがっていたからそうしてあげるけど、基本的に私は人も妖怪も殺すつもりなんてないわ。ただ、周りが勝手に死んでいくだけ」
そして、レティは足元の二人に吐き捨てるようにつぶやく。
「ほんと、辟易するわ」
抑揚がないせいか、しゃべることすら煩わしそうにして話を打ち切ったレティは、ふわりと地面から離れて、降りてきた時と同じ速度で上昇していった。
少しずつ、空へ、俺と幽々子以外の魂達と昇っていくレティの後ろ姿と、それらを待つ一塊の魂。
この光景を前に、俺は、もうどうしようもないことを悟った。
多分、紫だけなら、今の俺でも助けられる。レティが何をするか知らないが、レティは紫の生死にはあんまりこだわっていないようで、抱えて一緒に逃げることも出来るだろう。ただ、助かったら助かったで、紫に恨まれそうだが。
今、体内がどこよりも寒くなっているであろう紫の、かすかな寝息は、すぐそこにある木の根や幽々子の髪に霜が掛ける。隣り合う紫と幽々子に、俺は凍りついた妖精達の山の上で眠る、二人の妖精を思い出す。
やはり、あの妖精達を並べたのはレティなのだろう。なら、顔には出さないが、レティは紫も幽々子も哀れんでいる。せめて、一緒に死ねるように、か。
でも、俺は一切同情できない。
幽々子は紫の薬欲しさに、自分の顔見知りの人間から紫の知り合いの妖怪まで西行妖に捧げた。
紫は幽々子を生き返らせたくて、幻想郷にある全ての命と、幻想郷の全てを西行妖に捧げようとした。
西行妖は寄越されるがまま、精気を吸い続けた。
そして。
人が死んだ。
妖怪が死んだ。
妖精も死んだ。
幻想郷も死にかけた。
だから、レティは夥しい死を纏って、死が起こす極寒で満たす為に白玉楼に来た。
とてもわかりやすい、因果応報だ。春を偏らせた挙げ句に腐らせた。だから、冬がもっともおぞましい形で偏った。その為、紫が、幽々子が、西行妖が、レティの手に掛かろうとしている。
……ただ、紫も、幽々子も、それを望んでいるだろう。
しかし、それなら何故、俺は逃げようとしないんだ。不毛な自己犠牲で手遅れになるのなら、結局、その後に化けて出た霊をバッサリやるのが成仏屋の、いつもの処置だ。今回もその類だ。
その類の筈なのに……。
俺が抱く亡霊の幽々子が、頭一つ高い顔を上に向けていることに気づいたのは、俺がうつむくのをとりあえず止めた時だった。虚ろな筈の瞳がレティを見据えていると思った時、幽々子は俺の手を振りほどいた。
白楼剣は奪われていない。それを確認しただけで、俺は一歩も動けなくなった。
幽々子はゆっくりと踏み出す。同じ緩慢な踏み込みで二歩目。とても遅い歩みで、紫にも、生身の幽々子にも目もくれず、進んでいく。
どこに?
行く先にあるのは、突き立てられた楼観剣が、一本。
あれ?
この光景、見たことがある。
いつ?
この身を包む寒さ。西行妖の為に死んだ魂の冷たさ、西行妖の為に死んだ幻想郷の春の冷たさ。
向こう側の大きな白。凍った西行妖、凍って積みあがった妖精達。
俺に被さる暗さ。明るさをなくした空、陽光を遮って出来た木の陰。
歩いて遠ざかる幽々子の背中。ゆっくりとしか歩けない幽々子、ゆっくりと歩いた幽々子。
「幽々子……」
呼びかけるだけだった。あの時の俺は、もう少し、喋った。
あの時?
俺の目に映る幽々子が、背中を見せたまま俺に手を振った。『あの時』の幽々子は、楼観剣を持っていた。
『私が化けて出たらお願いね~』
ありありと、『あの時』の幽々子の台詞が蘇る。
そして、俺も『あの時』の様に一歩も動けないでいる。
はっきり、気付いた。俺は、この寒さが、怖いんだ。死を取り込んで起こした寒さに組み込まれるのが恐ろしくて『あの時』も、そして今も、動けない。
幽々子も『あの時』と変わらない、死気を寒気に変えたレティ・ホワイトロックに挑んだ『あの時』と、全く変わらない。ただ一つ、その後ろ姿が弱々しいことを除けば。
幽々子は、楼観剣の前。振っていた手の反対、つまり空いた手を楼観剣に伸ばす。
握れば、一気に、切り掛か……。
俺は、走れた。
走って、幽々子を背中から、抱き締めた。
背中に埋もれる俺は、そのまま幽々子に言う。
「行くな」
幽々子の動きが止まった。伸ばせば楼観剣が手に取れるにも関わらず、手を止めた。
越えられた、『あの時』越えられなかった境界線を。
だから、『あの時』に言えなかった台詞もすんなり言える。
「俺が助ける。だから、行くな」
幽々子は崩れる。俺は幽々子を支えた。
元々、力なんてなかった。俺と戦った時の力なんて、記憶と一緒にどこかにいっていた。一時、そんなになっても、幽々子は戦おうとした。今は、見上げることもせず、木の根に目を落として、涙も落としていた。嗚咽はなく、小さく肩を震わせての、涙。頼りなく、弱りきった背中。幽々子はもう、戦えない。
辛くて悲しくて出た涙、なんだろう。でも、俺が幽々子の内心は知る由もない。だから、俺は幽々子と一緒に泣くことは出来ない。
その代わり、俺は、俺で、責任を取る。
幽々子を座らせて、手放す。
俺一人が立って、正面に手を伸ばす。
そして握る、楼観剣を。
上空を仰ぎ見る。
その時、レティの横顔と目があった。こちらに向けた背中はそのままで首を少し回して、左目だけでこちらを見ていた。
ずっと、俺達を見ていたのか?
怖い。生まれて初めて、自分が消えてなくなる恐怖を味わっている。
呑まれるな、声に出して振り切れ。
「俺は、幽々子を救う為にここに来た」
レティは何も言わない。
一方、俺の声は大きくなる。
「幽々子は、もうすでに西行寺 幽々子の亡霊でもない!ある意味で俺と大差ない!だから!いや、とにかく!俺は幽々子を護る!」
俺は楼観剣を引き抜く。
「その為なら、お前とも戦う!レティ・ホワイトロック!」
当のレティは、どこかぼんやりとしたような横顔の、左目の視線だけを寄越して。
「あ、そう」
背中を向けたまま、レティは上空の雲に向き直った。
その後で、一言、ぽつり。
「妖忌君とは、こうはなりたくなかったな」
その直後、目に映る空気の所々に白い物が混じる。魂魄の白じゃない。それ以外で知っている白。あれは、レティが固めた寒気の槍が染まっていた白。
視界に無数、連想する雨粒。でも大きさは帯のように伸びる槍。
気付いた瞬間、押し寄せてくる、それも、速い。
同時に西行妖の幹が割れて、俺達に覆い被さって来る。一瞬後には俺達を押し潰すだろうが、その僅かな時間、傘となってレティの力を弾いてくれた。
振ってくる木陰以外に激しく隈なく降り注ぐ白い槍。一瞬、目に映る景色が白くなった。雪が積もってではない。凍って、だ。白玉楼の全てが凍って、だ。
適当にやってこれか。これが今のレティの普通か。しかし、破壊力はない。枯れ木に等しい西行妖の幹を破壊できていない。そこに、活路はある。
楼観剣を構える。
振る、振ってくる西行妖の巨大な幹をなぞるように、一文字に。
そして、飛べ、斬撃よ。
振り切った直後、迫る西行妖の幹が二つに割れて、直後に砕けて、白い槍を幾十か、もしくは幾百を砕いて、さらには空気を裂き、俺の一閃は距離を越えていく。それが、楼観剣の手応えでわかった。
しかし、届いたのか。
頭上、遥か高く。上昇に上昇を重ねたレティを睨んだところに、寒気の歪み。それはすなわち大気の乱れとなり、俺の見た先から押し寄せる乱気流。
それを隔てた向こう側のレティは、今、左手で右手をさすりながら、全身の前後をひっくり返し、俺を正面に見据えてゆっくり上昇していた。
その瞬間は見逃したが、何がどうなったのかは想像がつく。レティが振り返って、俺の斬撃を叩き落した。そして、俺を正面に見据える。しっかり、俺を敵と認識したようだ。
俺は飛ぶ。この寒波に無風地帯がある内に。
両手を広げ、大の字で上昇していくレティ。そのすぐ後ろには、渦を巻きながら高度を下げてきた魂の雲。二つに折れて高さも半分になった西行妖を越えたレティは、大きな一つの塊となった魂魄の群れにその身を沈めていく。
「There were once two cats of Kilkenny,
Each thought there was one cat too many;
So they fought and they fit, And they scratched and they bit,
Till, excepting their nails, And the tips of their tails,
Instead of two cats, there weren’t any.」
そんなの感じのを歌っていたな、深山の天狗達と遣り合おうとした時、前はハヒフヘホがどうたらって歌だった。そして、ああ、くそ、紫の時は歌わなくて、俺の時は歌うのかよ!
歌うに応えて揺らめいた蒼白い天が、レティが潜った場所を中心に渦巻く点を先端に、寒気を、有り余る魂を、とぐろまく塊の渦と為し、逆さまにそびえる山の赴きそのままに、俺と、西行妖目掛けて墜ちて来た。
「魂を弾にするなぁ!」
この形は、俺が幽々子と出会った時に見たもの、レティと幽々子がぶつかり合って互いに滅茶苦茶になったあの形。
楼観剣で作った無風地帯に押し寄せる、とぐろを巻く蒼白い魂の雲、はたまた山か。それより前に、無数に現れては滅茶苦茶に降り注ぐ白い槍、降り注ぐ様は雨、というよりも、吹き荒ぶ様は吹雪だ。
雲は吹雪の向こう。レティは雲の中。道のりは、長い。
気をしっかり持て。己を保て。出来なければ、俺も一握の雪になる。
構える楼観剣。迫る白い槍を砕いて降下してくる魂の雲までの、空路を切り開く為に振り下ろす……ことはせず、踏み止まる。
吹雪く白い槍の向こうにあるのは、痛みも、苦しみも、悲しみも、生きていた頃の顔も忘れ、行き場もなく、寒波の下地となった数珠繋ぎの魂。そうなる以前は、幽々子にかどわかされ、或いは殺されて、西行妖に精気を絞り尽された命。死も生も弄ばれた者達。
駄目だ、斬れない。この魂達を傷つけることは出来ない。
なら、肚も決まった。
レティは自分を指して「大雑把」と言った。その言葉を信じるなら、あの薮蚊のような白い槍の群れは俺をちゃんと狙っているわけではない。なら、斬り開く以外の方法で突き進むことも出来る。
俺は楼観剣をそのままに飛ぶ勢いを増す。
すぐに進行方向に被さる白い槍。白楼剣、抜刀、同時に叩き付ける。
もし、失敗すれば……。
レティが創る白い槍。枯れた西行妖を破壊は出来なかったが、俺の右腕にはナマクラ越しでしっかり威力が伝わる。
白い槍を弾き、また弾かれつつも俺自身は制御できるような体勢を保ち、速さはそのまま。多少勝手は違っても、そういう飛び方は毎日やっている。木の幹を蹴って、枝と枝の間を抜けていくのと同じだ。
果たして、俺の予想も的中していた。群れなす白い槍の刃先、急旋回した俺になんら見向きすることなく素通り。別の群れが偶然に被さってくるまで、その猶予は一秒二秒にも満たないかもしれないが、五秒から十秒も凌げば、あの雲に至る。
直後に新しい白い槍が掠めて俺の体に凍傷の切り傷を刻むが、俺の動きも、剣も、どうこうなる程ではない。むしろ、この冷たさに、身が引き締まる。
寒波が、俺の動きを絡めとろうとしている。飲み込もうとしている。
渦巻く雲、その巨大が、目前に。近すぎて、白い槍も起こらない。
雲を切り開く剣は決まっている。あとは一瞬の見極めを、誤らないようにするだけ。この俺を、意思ある魂を飲み込もうとする意思諸共、その波間に漂う魂もまとめて成仏させる。
ぶつかる、白楼剣の刃、錐揉む魂の集合体の先端。
寒波の束縛。回転の力。視界の全てを覆い隠して空の一片すら見せてくれない、全て一塊の魂。
手応えでわかった。いかに切れ味が最高へと変じた白楼剣でも、数瞬間の後に、俺が弾かれ砕かれ飲み込まれる…………前に、白楼剣の背中から楼観剣を叩き付ける。
剣の十文字、しかし一閃が煌くのは、楼観剣に後押しを受ける白楼剣の刃だけ。
そして、振りきった。斬り開いた。諸共、俺をとらえようとする寒気と、俺自身の悪寒も切り払った。
散る魂。開いた雲。そばを駆け抜ける魂を飲み込んだ寒波。前後左右を埋める蒼白い光。死気を寒気に変えるだけの領域。魂が蓄えた生前の全てを踏み躙る場所。幽霊が踏み入ってはならない世界。そこに飛び込んだ、俺。
レティが見当たらない。楼観剣を握る手が震える。
見通せる先にもレティはいない。楼観剣はまだ振れない。
さらに奥へと斬り開く為、白楼剣の返す刀。
その時。
ふわり、と。白楼剣を振り下ろす最中に、軽やかな何かが俺の隣を横切る。
ぽん、と。白楼剣を振り切った腕の肩を叩かれた。
「妖忌君、あっち行って」
俺は硬直した。
すぐそこの真横から、普通に肩に触れて、抑揚のない声を掛けてきた、レティ・ホワイトロック。
刹那の内、レティは綿にでもするように、俺の肩半分をあっさりとむしり取った。
俺が見たもの。表情の乏しい横顔。レティが手から払ったのは俺の肩。そして、見送った後で目の前から溶けるように消えていくレティの後ろ姿。
お前、そんな風に姿を隠せるのか?
消えていく。見えなくなる。追えなくなる。
駄目だ。俺の後ろには、レティの行く先には、幽々子がいる。
二歩も三歩も出遅れて、俺も他の魂達と同じ方向に落下。
振り返ってすぐ、目に入ったのは、見失いかけているレティの後ろ姿と、その向こうから、蒼白い中で一際異彩を放つ小さな桜色が、レティに近付く。
桜の花、一輪。
レティは、すぐそこまで迫った一房の桜の花を優しく握り込んだ。ほんの一瞬、動きが止まった。目でも追える。
地面に落下する勢いは弱まらない。だが、今しか好機はない。同時に、背後の俺を意識して振り返ったレティとも、目が合った。
その瞳。抑揚のなさは変わらず、しかし、そこに混じるのはこれ以上ないくらいの意思表示、注意、警告、威嚇、「来るな」と訴えている。こちらがそれを読み取った時、レティの両腕が開く。何度も見ている、それは、敵を迎える時の姿勢。
恐怖。でも、噛み殺す。
そんな中、白楼剣を握る手が解けていく。肩をむしられた影響だが、完全に千切れていないだけでもまだ良し。それに、もう片方は無事、楼観剣を握るこの手は。
楼観剣を強く握る。
一刀木っ端微塵。やって、みせるさ。あの時と同じように、幽々子をバラバラにさせてなるものか。レティ、今のお前なら、その絶大な寒気を以てして、……以てして、何故突っ込む?
違う。迷うな。刃先が乱れる。今は幽々子を思え。
間近で見た、春の思い出を語る幽々子の笑顔。遠目で見たことがある、冬に妖精達と戯れるレティの笑顔。
凍った妖精達に手を合わせていた幽々子。凍った紫を生身の幽々子の隣に寝かせたレティ。
心と一緒に失ってしまった幽々子の表情。ずっと抑揚のないレティの表情。
幽々子は自分の存在を消そうとしてまで、異変の終結を願った。そしてレティは……。
『もっと、そうもっと、芯から凍りつくようにしないと』
そこまで、寒気は足りているのか、今。
今の寒気を、補っているのは死気。
死。
「自分の『死』で補うつもりか!?」
堪えられなかった俺の絶叫。
落ちていきながらも、近付いているからわかった、正面から向かい合うからわかった。
レティは、黙って、苦笑い。
ち く し ょ う
この期に及んで、何故。
幽々子の姿を重ねてまで、何故。
俺が迷うのは、何故。
楼観剣の握りを解く。空の左手は、右手から滑り落ちて宙を舞う白楼剣を取った。投げ出された楼観剣は尻目にもせず、この身を死地に躍らせる。
手が吸い付いた。改めて、白楼剣との一体感。
こっちが、一番なじむ、か。
最後の最後で馬鹿な選択をした。だが、迷うよりはマシだ。
いくぜ、相棒。
己の全てを懸けてお前を試す。妖怪の迷い、断てるものなら断ってみせろ。
空を蹴って、俺は踏み込む。
迎え撃つレティの広げた両手が、少しぶれた。
そこに一筋。
一刀両断を。
がむしゃらに振ったが、それでも最高に近い一太刀が振れたという感覚の直後、振ったのがナマクラ故に訪れる最悪に鈍い手応え。いつもは忌むべき類の手応えだが、今、この時に限っては嬉しい、白楼剣がレティに届いた事を雄弁に物語っているからだ。
そして……
弾かれた、白楼剣はレティを切れず。
捕まった、弾かれた白楼剣の勢いに体制を崩した俺の体が、レティの閉じた両腕の中に収まった。
堕ちていた、抱かれた俺は半ば凍りついて、レティと共に堕ちていく。
切り開いた魂の雲が、埋まっていく。
レティを組み込んで、寒波は落ちていく。
俺も間もなく、溶けて西行妖を枯らしにいく。
終わった。
「……馬鹿」
え?
ひっくり返った。俺の上下が戻った。
舞うように、ゆっくり落ちている。魂の雲も同じ。
俺が凍りつくだけの寒さはあるが、何だろう、今まで寒さの中にあった刺々しさや、おぞましさが感じられない。
体の自由の利かない俺の額に、レティは額をぶつけた。
「馬鹿すぎるわよ、貴方は!」
思い切り怒られた。
「私の寒気をここまで強くする条件が重なるだけでも奇跡なの!八雲 紫を相手にここまで出来るなんてありえないの!今、この瞬間しか、西行妖を枯らす機会なんてないの!幻想郷の四季を死に追いやるバケモノを滅ぼすのは今しかないの!」
間近で怒鳴られる。
「それなのに、私の邪魔をして。かと思えば楼観剣を捨てて白楼剣で挑んでくる。馬鹿にしているの」
「お、俺はそこまで馬鹿じゃない。俺はただ、幽々子を助けるついでに、お前も助けようと思っただけだ。それにお前が、こんな春か冬かよくわからん中で死んだ未練で、化けて出られても困る」
言った後で、言った本人が頭を抱えたくなるくらいの無茶苦茶さ加減だ。
レティの、とても深いため息。気持ちはわかる。さぞかし呆れていることだろう、そう思ったが、そうではなく、レティはどこか落ち着いた顔を見せてくれた。
「……馬鹿すぎる、死んでも治らないくらいに。でも、その馬鹿さ加減のせいで、私が眠らせていた里心も目を覚ましたじゃない」
「どういうこ……」と、言いかけたが、聞き返す間もなく、レティは俺を手離した。そんな中で、俺はひとつだけ、確信していた。
よくわからないけど、レティは、やめたんだ。
体の動かない俺、為す術も無く地面に落ちていく。が、途中で止まった。誰かが空中で受け止めた。誰か、と考える前に、顔を覗き込まれた。
幽々子だった。
「ずっと、見上げていたわ」
そうなのか?
「全くの人形、という訳でもないのね」
ゆっくりと、俺を抱えた幽々子が地面に降り立つ。そのすぐ後に、レティも降り立つ。俺は、投げ捨てた楼観剣とレティを切り損ねて弾かれた白楼剣は先に地面に来ているな、と思っていた。ちなみに、簡単に見渡したが、どちらも見付からなかった。
それから一歩、二歩と少し足を進めたレティは、生身の幽々子と紫が眠る所で足を止める。何をしてもおかしくないが、不思議とそういう心配はなかった。また悲しいかな、何か起こったとしても、俺にはもうどうすることも出来ない。
レティは凍った紫を起こし、その背中をさする。
間もなく、紫は目を開け、たちまち激しい咳を繰り返した。驚いたことに、すぐさま蘇生した。これには、レティというよりは、紫の生命力に感動した。
蘇生してすぐ、ぼんやりと顔を上げた紫に、しゃがみ込んで視線の高さを合わせたレティ。
「枯らすのやめた」
紫は、瞬きをしただけ。
「でね、これから寒気を全部散らすから」
しばらく、紫はレティと見合ったまま、やっぱり、ぼんやりとしていた。
そして、目の焦点があうなり、苦悶の表情を顕にして霜と土を被った金色の髪を振り乱し、レティの両肩をつかんで声のない絶叫と、その時に出る白い息をぶつけていた。
しゃべることも出来ない満身創痍の紫は、多分、幽々子と一緒に殺してくれと懇願しているのだろう。
そんな紫の目の前で、レティは握っていた手を開く。現れたのは一輪の桜の花と、そこに羽を休めている光る蝶。
それを見るなり、あれほど取り乱していた紫が止まった。その光る蝶が、死へ誘う力の現れであることは、だいぶ後になってから教えてもらった、それが命を糧に咲かせる桜の花の上にとまっていることが指し示す意味も。
「貴女達にトドメを刺そうとしたら、一輪だけ咲いて邪魔をしたの」
レティは蝶を摘んで取る。
「貴女を助けたかったからなんでしょうけど、一体どこの誰が、この寒さの中でなけなしの春を振り絞って咲かせたというのかしらね」
レティは、掌の中で瑞々しく咲く桜の花を生身の幽々子の上に置く。
そして、立ち上がり、光る蝶を唇に挟む。舌なめずり。蝶を口に含んでから、ごくり、と喉を鳴らした。
紫は、またぼんやりと、レティを見上げる。
「あ~、疲れた。軽く百年分は暴れたわね」
空を仰ぎ見るレティ。そこには暗い空と、ボロボロになりながらも一本芯の通って伸びる西行妖、そして一つの塊ではない無数の魂達が思い思いに飛び回っている。
一息だけ入れて。
「次は、互いに爪を立てることなく、じゃれ合いたいものね」
風が吹き込んできた。突風ではない程度の、風。
空気が少し温くなった。
さっきより暗くなった。
空には星が瞬いていた。
俺は納得した。
そういうことか、今のレティが寒気を散らすということは、そこに満たされていた、元は仮初めの春だった物も散らすということ。つまり、白玉楼を隔離する結界の完全な崩壊。
ここは、もう幻想郷。
今は、もう春。
そしてレティも、もういない。
仮初めの春を巡る異変が、完全に終わった。
そう実感したのも束の間。
うなだれる紫に真下から手が伸びて、紫の頬を撫でた。
誰の手?思う前に、初めて聞く声が、弱々しく響く。
「ゆか……り…」
呼ばれて、驚いている紫は、頬に触れている手に、自分の手を重ねる。そして、見詰め合っている、うっすらと目を開けたばかりの、生きている幽々子と。
「あたた……かい」
その声に弾かれて、紫は、横に俺達がいることも、声が出ないことも忘れて、必死に話しかけていた。生きている幽々子は、声のない語り掛けに何度も頷いていた。
俺を抱く、霊の幽々子を見た。少し見上げたところにある瞳に、やはり、ぼんやりとしていた。しかし、その瞳が写しているのは紫と幽々子だ。何を感じているのか?それとも何か芽生えているのか?
そのすぐ後。
わずかに首を傾けて向ける、生きた幽々子の閉じかけた目と、じっと見つめる霊の幽々子の虚ろな瞳が重なった。
互いの目の前にいる幽々子の視線を追って、俺と紫の視線も重なった。俺はきっと無表情で、紫は滝のような涙を流して、それは頬に触れる幽々子の手からも溢れていた。
「……その子のこと、おねがい……」
向き直った紫の目の前で、友は、目を閉じて、手が滑り落ちる。
紫は辛うじて受け止め、自分の頬に押し付ける。声の無い呼び掛けを繰り返す。しかし、友の手が、瞳が、唇が、応えてくれなくなったことを思い知るのみ。
そして。
すぐに。
紫が生身の幽々子の手を振り払い、その手で頭を押さえ、掻き毟り、口は開いて閉じて、悲哀の涙が苦悶の涙に変わる。生身の幽々子に、縋りつくように覆い被さる。
頭痛。そうに間違いない。心労が引き金か。
と、俺が結論付けた途端、俺を抱きとめていた幽々子が、俺を手放してから紫の隣にかしずく。手放された俺は千鳥足ながらも紫の前に座り込む。
幽々子は、痛みに悶える紫の頭を撫でた。俺は、紫が落ち着くのを待った、きっちり言ってやりたいことがあったから。
幽々子に撫でられる内に、紫の呼吸が落ち着いて、頭を掻き毟る指が止まる。
今か。
「紫。お前を撫でているその子は、確かに見た目は西行寺 幽々子と瓜二つだけど。中身は違う。そうだな、お前が生き返らせたいと願う西行寺 幽々子を真似ているだけでしかない。
少し妙な言い回しになるけど、その子は、お前、八雲 紫と西行寺 幽々子の間に生まれた子供、だよ」
指と指の間から俺を伺う紫。
俺も、真正面から視線を重ねる。
「だからさ、もうその子に甘えるのはやめて、お前の親友の、西行寺 幽々子を成仏させてくれよ。
もうお前しか、生前の幽々子を弔える奴はいないんだ」
止まった。
俺を見て、顔を、体を、起こす。
涙の乾いていない疲れきった表情を俺に見せた。
が、それでもなお、紫は額に手を当て、全身を捻るようにして、悶える。その所作が痛みを訴える中、紫は、自分から、歯を食いしばり、地面である西行妖の根に頭を打ち付ける。
止めようとする霊の幽々子を払って、紫は二回、三回、四回、額を割って血に塗れても繰り返し。そして、多分、十回超の頭突きの為に頭を振り被った所で、倒れる。
生身の幽々子の隣、額から流血して、荒い呼吸を繰り返して横たわる紫。酷い有様には違いないが、とりあえず、頭痛はどっかに飛んでいったようだった。
紫は、そのまま、物言わぬ友を抱く。
その時、俺でもはっきり感じられた、紫の奥底から力が湧き出るのを。
紫が口を開く。
「ふぅ……じ……み……の…ぉ……」
必死に、まさに絞り出した、しわがれた声。
「む……す……め……ぇ」
すると、生身の幽々子が蛍のような淡い光に包まれた。
「さ……い……ぎ…ょ…ぉ…う」
その光は、生身の幽々子と繋がる、西行妖の木の根を伝う。
「あ……や……か……し……」
光は根だけではなく、幹を登る。だが、光の動きが乱れる。
紫を見た。歯を食いしばるあまり、瞼のまで痙攣しているかのように表情が歪んでいる。苦悶を噛み殺そうとして、そうしている。ああ、頭痛か。
紫の手が、生身の幽々子の上に置かれていた、一厘の桜の花を取る。
それを食らう。
花びら一枚ずつ、細かく噛んで、すり潰して、ゆっくり飲み込む。
一噛ごとに、紫は新しい涙を零す。
幽々子は、そんな紫の頭を撫でる。
痛くて泣いている訳じゃない。けれど、今の幽々子にそれがわからない。だからなのか、紫の落涙は、やむことはなかった。
八雲 紫は、どうしても痛み止めが欲しかった。そう、この淡い光の為に。
後から聞いた話。これは封印の式を組み上げている時に起こる発光現象だそうだ。つまり、西行妖の満開を阻害する式。情緒を削がれる物言いだが、俺はその時に感じたことを覆すには至らない。
痛みを超え、広がり続ける光は、枝という枝にまで染み渡り、ついには西行妖の全てが光に包まれた。
この光は、柔らかくて、温かい。この輝きに、俺は送り火が発する、遠くまで届きながら、どこか控え目な、あの輝きを思い出した。
だが、この光もさらに強い光に飲まれようとしている。同じ理由で、空の星も消えかかっている。
朝日が昇る。
普通の朝が訪れる。
そうだ。ここはもう、普通の幻想郷だった。
「『富士見の娘、西行妖満開の時、幽明境を分かつ』……」
今日は雲ひとつない晴天で、ここ白玉楼にも燦々と陽の光が降り注ぐ。尤も、俺は今、濃い影の中に座って、傍らに剣を二振り置き、書架をしたためる。
「『その魂、白玉楼中で安らむ様、西行妖の花を封印しこれを持って結界とする』……する、する……えっと『する』から、なんだっけ」
紫が西行寺 幽々子に送った句を残そうと思い立って、独り、こうしている訳だが、いかん。忘れた。
途方に暮れて天を仰ぐ。そこには大きく広がった濃い緑。
頭上のそれは葉桜の西行妖。花も見事ではあったが、これだけ大きいと葉を茂らせても立派なものだ。この桜、花を愛でるだけでは勿体無い。
思い返してみれば、初めて会った時の幽々子は花の綺麗さしか話していなかったな。
俺はあれ以来、この白玉楼に住み込んでいる。根城のあばら家が木っ端微塵になったし、俺もここには居たいと思ったが、正直、だからこそ幽々子とは距離を置きたかった。しかし、八雲 紫の命を受けた八雲 藍にこれでもかと拝み倒されて、住み込みを決意した。
俺の日課は、紫や藍と一緒に幽々子の面倒を見る傍ら、庭の手入れをし、その合間に剣の鍛錬をしている。
安請け合いは俺の十八番みたいになっているが、それでもこの白玉楼の手入れがこんなに手強いものとは想像していなかった。
まず、西行妖の餌食になった被害者で、魂の状態がすこぶる良好で肉体の損傷が少ない者は紫が問答無用で生き返らせて、かつ記憶も奪って元の場所に返す手伝い。それも春先にはだいぶ落ち着いた。
……俺もすっかり慣れてしまったが、確かに、紫の力は万能に近く、あんなに簡単に人間や妖怪を生き返らせるとは思ってもみなかった。
しかしながら、肉体の損傷やらその他諸々の条件が重なって、当然、生き返れないのもいる。そんな地縛霊じみた連中を相手するのが成仏屋の本領である。
出会い頭にばっさり成仏、なんてことはなく、相手の話を聞いたりなんだりして、そいつの気が向いたら成仏させる。もちろん、一番いいのは遺族のまっとうな供養だし、その手助けは惜しまない。しかし、それ以外、いわゆる恨み骨髄な奴とかは問答無用で成仏させて閻魔様の元に送り付ける。
と、もしかして俺、本業の成仏屋でタダ働きをしている?
……ま、いいか。元々、報酬は静かな棲家の確保なんだから。
とはいえ、あれだけのことがあったわりに外の、いわゆる世間の動きは鈍い。まあ、妖精達は何事もなかったように元気にそこら中を飛び回っているし、俺達の事後処理のお陰で人間の数が大幅に減ったという訳でもない(あくまで「大幅に」は、ね)。異変専門の巫女にしても解決済のことに首を突っ込まないだろうし、案外「冬が長かった」くらいにしか考えていないかも。そして一番活発に動いていそうな深山の天狗達は、この白玉楼を訪ねることはおろか、その気配すら感じないという有様。
ここまで真相追及の手が鈍いと、俺の知らないところでかなりの部分は話がついているんじゃないかとも思える。
で、話をつけたであろう八雲 紫は、今でも頭痛に悩まされている。やせ我慢も多いが、酷いときは素直に俺達を頼ってくれる。それ以外の時は、あの時の印象が嘘としか思えないくらい我が儘で、可愛げのある言い方をすれば、元気だ。
その紫は、幽々子を立派な淑女にしようと画策しているらしく、付きっきりで教育している。今も外に連れ出して教育中、らしい。
ただひとつ、不安があるとすれば、淑女にしてからどうするつもりなのかを、俺が一切聞かされていない、ということだ。藍曰く、俺が聞かされていないということは、その方がうまくいくから、とのこと。ただ、それでも不安にさせてくれるのが、藍も紫がどうするつもりなのか知らされていなさそうなんだよなぁ。
とはいえ、幽々子が赤ん坊のままでいい訳はないし、紫にはちゃんと実績があるし、それに、俺が教えられるのは剣のことだけだし。
……そう、剣。
俺は傍らの白楼剣と楼観剣に目を移す。
迷い以外は何も切れないナマクラと、西行妖が用意した屠殺の剣。俺は、レティと戦ったあの時、あえて白楼剣を選んだ。今思えば、だからレティは、白楼剣の一太刀を受けた。楼観剣を選んだのなら、きっと、触れることも出来ず消し飛んでいただろう。この結論には紫も太鼓判を押してくれた、……嬉しくはない。
遡れば、そんな状況にまでなったのは、俺自身の至らなさがあったからだ。最初の時に戦おうとする幽々子を止められなかったこと、一緒に戦うレティの本音を知ろうともしなかったこと、何よりも、俺が弱いということ。たかが幽霊だ、なんて言い訳は通用しない。いや、言い訳にしちゃいけない。
レティと対峙した時、レティも助けたい等と言ったが、本当は、楼観剣で命を断つ、つまりは人を斬る業を背負えなかっただけではないのか。しかし、幽々子の心も何もかも消し去ったのは白楼剣の一太刀で、白楼剣には白楼剣で人を斬る業があった。情けない話、俺はあの日まで、剣を握っていながら人を斬る業については全くの無頓着だった。
なら、斬る覚悟さえあればそれでいいのか?少なくとも、それが必ずいい結果に結びつく訳ではない。レティを相手に消し飛ばなかったのは、俺がレティを斬ろうとしなかったからだ。
このままではいけない。楼観剣の収め所として、俺がそれを所有すると決まった日から、そんな言葉を心の中で繰り返すようになった。
俺は、弱い。
その時。
「よぉぉおお~~きッさぁぁああ~~ん」
聞きなれた声だ。しかも、共同生活の成果で、俺の名前を呼ぶ声だけでどうして欲しいのかも大体わかるようになった。多分、今、俺は苦笑いを浮かべているだろう。
向こうから、九つの狐の尻尾をばさばさとはためかせながら、藍が西行妖の日陰に、文字通り飛び込んで来た。
「妖忌さーん、幽々子さんが大変なのですー!」
藍が泣きついてくるのも白玉楼の新名物だ。藍には内緒にしているが、ここの幽霊達も密かに楽しみにしているようで、俺から後日談を聞きたがる。
「で、何があったの」
「幽々子さんが妖精達を色々丸呑みして紫様がけらけら笑っているのです」
あまり詳細に想像したくない場面だ。
「赤ん坊はなんでも口の中に放り込みたがるというが、またぞろ珍妙なことになったな」
「すいません、私が付いていながらこんな妙な事になってしまって」
涙目の藍を前に、胸の内だけでため息をつく。
「気にするな、早い所、みょんな現場に案内してくれ」
「ありがとうございますぅぅぅ~」
これが白玉楼の力関係。
藍がへたに意見すれば主人の紫に折檻される。しかも幽々子は藍の話を全く聞かないので折檻のされ損。そんな幽々子でも俺の言うことはすんなり聞いてくれる。俺は俺で、藍からの頼み事は断りきれない、もちろん気の毒だから。ちなみに、紫は俺と幽々子で掛かれば折れてくれる事もあるが、あまり期待は出来ない。
いくらこれが日常とはいえ、しかし、たまには愚痴の一つも言いたくなる。
「ったく、日に日に図々しくなってくるな、あのクソババアは」
さらに滲んだ涙目を俺に見せ付ける藍。
「お願いですから、紫様を、特に御本人を前に、そんな事を言うのは止めてください」
藍は口にしないが、わかっている。幽々子の手前もあってか、紫は俺を不当に、もしくは過剰に折檻したりはしない。その分、藍に回る。
「わかったから、早く行こうか」
「そうしましょう。あの氷精が手遅れになる前に」
すごく不吉な文言を聞かされたような気がした、今度の冬がひとつの山場というのに……。しかし、あまりにも不吉すぎて俺は聞き返す手間を省いた。
書きかけの書架を懐に収め、白楼剣と楼観剣を手にとって立ち上がる。
肩の力を入れなおす。
皆が苦労している。今こうして藍が、巻き込まれて俺が、一生懸命に学んでいる幽々子が、俺の知らない所ではきっと紫が。でも、この苦労は、苦痛じゃない。
願うなら、この思いが……。
?おや。
「『願うなら、二度と苦しみを味わうことの無い様、永久に転生することを忘れ』」
突如立ちつくして、ぽつりとつぶやいた俺に、藍が不安そうに尋ねる。
「ど、どうしたのですか?」
俺も俺で、すぐにいつもの調子に戻す。
「なんでもない。早く行こう」
俺は藍を急かして、藍もそうしてくれて、二人で西行妖の木陰から飛び出す。
俺は白玉楼に来てから、いつも思うようになった事がある。
『俺は弱い。だから、強くなりたい』と。
どこまで強くなればいいのか、どう強くなればいいのか、全然わからない。でも、さしあたっての目標は、幽々子抜きであのクソババアに一泡吹かせてやれるようになること。
だから俺は、今日も幽々子の元に駆けていく。
絶対零度は静止の世界、即ち極寒とは死の世界である、か。
あくまでも寒くすることだけを行う冬妖怪、それによる副次作用は慮外のそれで、故に『冬のレティ』は触れてはならぬ化け物である。これまでの作品での意味ありげな描写が繋がったように思えました。
このレティは本気でかっこいい。そして妖忌マジ主人公。