1、
「年を取る最中の大根を捕まえてきますわ」
バターを買い足してきますとでも言うかのような気楽な調子で咲夜は宣言した。
「行きなさい。とびっきり活きのいいやつを頼むよ」
ティーカップを口元に運びながらのんびりと応じたレミリアに、咲夜は片手を胸に当てて軽く頭を下げ「完璧な大根をお待ちくださいな」という台詞だけ残して姿を消した。
「レミィ、年を取る最中の大根って?」
訝しげに眉根を寄せる友人に対し、館の主人は鷹揚に笑った。
「全然知らない。でも面白そうじゃない」
空の高いところに昇った月が湖面に艶やかな光を落とす時分である。
吸血鬼と魔女の茶会は夜通し続く。茶会のアンニュイな会話は、いつしか咲夜についての話題に変わっていった。
2、
発端は咲夜の最近の過ごし方にあった。
今年の秋はとても短く、咲夜が日々の雑務に追われ紅葉を楽しむ暇を逃しているうちに、季節は足早に通り過ぎようとしていた。新異変発生の報ですら天狗の新聞で知る始末で、異変解決に遊びに出ることすらできなかった。
数日前などはレミリアとパチュリーの深夜のお茶会の給仕をしている最中に、夜風に当たってくしゅんと小さなくしゃみを漏らしてしまい、二人から温かくして寝なさいと気遣われてしまった。瀟洒なメイド失格である。「これではいけない」と咲夜は思った。
「遊び心が足りてないのね」と咲夜は大真面目に考える。時間の矢は後ろ向きに飛ばない。人間である自分は、むしろ意識して時間を楽しまなければ、人生はあっと言う間に過ぎてしまう。忙しさにかまけて余裕を忘れかけていたツケがここ数日来ているのだ。そう咲夜は考えた。
さて、咲夜には取って置きの気分転換の方法があった。珍味ハンティング(咲夜式)である。これは唯の珍味探しとは違って、その食材にまつわる謂れやエピソードと一緒に食材を収集し、物珍しさや不思議さのスパイスを脳という舌で楽しむという遊びだ。昔つくった竹の花ごはんもその一環である。どちらかといえば精神に存在の多くを依存する妖怪向けの習慣だと言えなくもない。
もっとも、最近は珍味ハンティングも多少マンネリ気味でそれ自体作業感が出てきてしまっていた。だから何か新機軸になる、最近の疲れを吹き飛ばすようなへんてこなものはないだろうかと悩んでいた。
ある日、買い出しに立ち寄った里の八百屋「義左衛門」で、面白そうな話を聞いた。
八百屋の店主とお使いに来たらしい小間使いの会話だ。
「今朝採れた大根はないのかい。うちの旦那が熱冷ましに食いたがってるんだ」
「馬鹿言っちゃいけねえ。こんな日に大根なんて採れるもんか。今日は大根の年取りじゃねえか」
「ごめんなさい、その話詳しく聞いていいかしら?」
割って入った咲夜が店主から聞きただしたのはおよそ次のような話である。
――「大根の年取り」という農家なら誰でも知っている言い伝えがある。十日夜(陰暦10月10日)に大根畑に立ち入ることを戒めるものである。この日は大根にとっての正月のようなもので、年越しをする大根がすくすくと生長する日なのである。この日に大根畑に立ち入って大根を取ってはならない。特に夜は。なぜなら、大根が太る音、うなる音、割れる音を聴いてしまえば――その人間は死ぬからである。
「面白そう」と咲夜はつぶやいた。
誰も取ることができない十日夜の大根は、頭で味わう珍味としてはかなりのものだと言って良い。
八百屋は慌てた。「あんた、まさか取りに行くつもりじゃないだろうな」
「取りに行きたいです」
「馬鹿な! さっき言っただろう、死ぬかもしれないんだぞ! 命が惜しくはないのか」
「天寿を全うするつもりなので命は惜しいです。死なずに手に入れます」
そう言って咲夜はさっさとお店を後にした。
「何を考えてるか分からん……」とは八百屋の言、「かっけえ」とは小間使いの言である。
悪魔に仕えるメイドの面目躍如であった。
「大根の年取り」の怪音は「出会ったものは必ず死ぬ」系の怪異だといえる。これは誰がその話を生きて伝えたのかという点で非常に怪しく、おのずから眉唾であると分かるものだ。ところがここは生憎幻想郷であり、死なない奴もすでに死んでいる奴もびっくりするほど多い。
今回の大根の話だって、そうした誰かが人間が大根の音を聞いて死ぬところに居合わせていた可能性もある。実際に音で人間が死ぬことも十分あり得る。
咲夜もそのあたりについては考えていた。
とりあえず香霖堂で外の世界のものだという高性能な耳栓を買った。また、彼女はいざとなったら時を止めて音より早く動けば良いと考えた。とどのつまり、あまり深くは考えていないのであった。
3、
高くのぼった月に照らされ、夜空は黒硝子のように透き通っている。
晩秋の気配をにじませた風が銀髪をさらさらと吹き流した。
人間の里にほど近い丘の麓。主人と友人の茶会の席から抜け出した咲夜は、人ひとりいない農道を誰に見せるわけでもなく瀟洒に歩いていた。辺りには、土の中から顔をちょこんとのぞかせる大根の畑が広がっている。大根は月明かりを受けて鈍い白に輝いていた。
やがて目当ての畑を見つけると、その一角に畝を踏みつけないよう気を付けながら歩み入る。
傍らには蝙蝠羽の飾りをつけた案山子が立っており、「紅魔館の大根畑」という札を首から掛けている。
ここは紅魔館が里の農家と契約して借りている畑の一角だ。
もともと農家が半人前の子ども達に世話を任せている畑であるが、それなりに広いため余ったスペースを貸し出しており、紅魔館からも種まきや盛り土の度に妖精メイドが時々通って最低限の世話をしている。ここのものなら、いつでも咲夜は持ち出して良いのである。
咲夜はさっそく近くの大根を引き抜こうとした。だがその時、咲夜の背に、誰かに見られているような嫌な感覚が走る。
耳栓をしているのでよくわからないが、何かが音を立てているようにも思える。
咲夜は背後の存在に気取られないように大根に伸ばした手をゆっくりと戻し、代わりに銀のナイフをすらりと引き抜いた。
3秒だけ時を止めて振り返り、あぜ道の木立の陰に当たりをつけて、ナイフを10本ほど投げつける。
世界が動き出すと、ドサリと闇の中で何かが倒れたような気配がした。
「大根の精かしら?」
4、
検分してみて、咲夜のあては外れた。
そこに倒れていたのは、赤いベストが印象的な騒霊だったのだ。
咲夜はその騒霊、リリカとは何度か会ったことがある。
何かリリカが言っているので音対策のためにきつく締めていた耳栓を少しだけ緩めると、「さっきから話しかけてたのにひどい!」と涙目で抗議された。
「ごめんなさい聞こえませんでした。それにしても、何をしていたんでしょう」
「えー聞きたい? じゃあ教えてあげる」
5、
「大根が年を取る音をサンプリングしてくる」
リリカの発言にルナサは無言で「はあ」という顔をした。
「姉さーん、普通もうちょっと興味持たない?」
「音集めはいいんだけどね。最近あんたが拾ってくる妙な音が押し入れの中で喧嘩してるの。今もブンブン唸っているし、もう何が何だか」
「あれは全部はずれの音。砂金は砂の山の中から見つけるもんよ」
そこにメルランが割って入り「リリカが拾ってくる音、私好きよ。たとえばウサギが跳ねる音とか」と助け舟を出してくれたので、ルナサも「確かにあれは良かった」と言ってくれた。
その盛り上がりもリリカが「あいつはぴょんぴょん跳ねながらどっかに逃げちゃった」と言い出すまでのことだったが。
リリカは、倉庫に詰め込んだ幻想の音がしばしば脱走することに悩んでいた。
長年音集めをやっているうちに気づいたのは、すぐに逃げ出す音と、しばらく留まる音と、いつまでも馴染む音があるということである。
音の生態系に馴染む音を連れてこれば、生態系は長期に安定するし、そうでなければすぐに崩壊して他の音の流出を招く。
別に音が逃げ出しても、コピーできた音はリリカのキーボードから出すことができるのだから実害はないともいえるのだが、「オリジナル」の脱走した音はどこか以前と響きが異なってしまうように思われた。
一度気にしだすと、リリカにはその微妙な差異が決定的なように思われた。
親しい誰かと、親しい誰かの写真が代替となりえないようなものだ。
とにかく、このままオリジナルの幻想の音たちが逃げ出し続けるのは痛手である。
早急に倉庫の生態系のニッチに、力のある幻想の音を補ってやる必要があるだろう。
それでルナサもなるほどと合点した。
逃げ出したうさぎの跳ねる音の代わりに、同じかそれ以上の幻想の音を探してやらねば、あれは当分おとなしくなるまい。
最終的にルナサは大きくため息をつき、妹にサンドイッチを持たせて送り出してやった。
これがリリカが大根畑までやってきた理由だった。
6、
「分かった?そういうわけで、今から大根が年を取る音を収集するのよ」
「それでこんな夜更けに独りで。小さいのに偉いと思います」
「えへへ。……って、そうじゃなくて。メイド人間がいるとサンプリングに邪魔だから出てってよ」
リリカによれば、大根が年を取る音はまだしないという。
もちろん、騒霊であるリリカには、大根が地下から水を吸い上げる微かな音や、大根が人間には見えないくらい小さく震えながら背を伸ばしていく音が今でも聞こえていた。だが、そうした音は今夜のターゲットではない。
リリカが狙うのは、あくまで人間にも聞くことができるという十日夜の大根の音なのである。
きっと、年を取る音というくらいだから、日付が変わる頃にははっきりと分かるほどの音になるんじゃないかしらとリリカは予想した。
そこで畑中に音だけ捕まえる特殊な霊体の網を張って、件の音が現れるのを待つことにした。
だが、大根を抜かれてしまうとせっかく苦心して張った網がバランスを崩して破れてしまう。
一度破れれば次のチャンスは来年になってしまう。
「しかし十日夜のうちに取らないと意味がないし早く取らないと間に合いません」
「そんなことないって。大体、明日とったやつだって区別つかないよ」
「そうは言ってもお嬢様に完璧な年取り中の大根を持って行くと約束してしまいましたし……」
「じゃあ音がしたら私がそれを捕まえる。あなたはそのあと大根を採る。どう?」
「もしも日付が変わるまで音がしなかったら、もう十日夜の大根じゃなくなります。不確実です」
「駄目だ、この完璧主義メイド。頑固」
「あなただって、普通に大根が成長する音でいいじゃない」
「やだ」
「完璧主義な騒霊ねえ」
双方ともに一歩も譲らず、あわや弾幕勝負かというそのとき、大根畑を包み込むような巨大な霊力の気配が蠢く。
咲夜とリリカはとっさに辺りを警戒する。ほどなくして、第三の声が晩秋の夜に朗々と響いた。
「十日夜に大根畑に立ち入るとは、不届き千万!命が惜しくば立ち去りなさい!」
7、
「いや、だからね?出て行ってくれると助かるってことなんだけど」と穣子が肩を落としてしょげる。
穣子の霊力は巨大だったが攻撃向きとは言い難い性質のものであり、わりとあっさりと撃墜されていた。
一陣の木枯らしが畑を渡って、生焼けのさつま芋の香りが畑の土の香りと混じり合うように広がる。
大根畑は今や白く輝く大根の間にさつま芋や南瓜や赤黒い古代米がばらまかれ、月明かりの下でとても賑やかだった。
咲夜はすべての弾が大根を綺麗に避けて落ちていることに気づき、少し感心した。
「なぜ出ていかなくてはならないのでしょう」
「そうそう。理由を言ってくれなきゃ分からないよ」
「まずはじめに言っておくと、大根の音を聞いたら死ぬって話、嘘だから」
そう言って穣子は事情を話し始めた。
穣子は大らかな性格だが、こと秋の作物については自他の妥協を許さない並々ならぬこだわりを持っている。
豊穣神にとって、収穫祭は特別に楽しく、そして大事な人と神の儀礼の場である。
収穫祭ではいつも氏子からその秋に取れた作物を供され、もてなされる。その篤い信仰心に対して、穣子としても何か応えたい。
そこで豊穣神と人とをつなぐ古き作物である鏡草、つまり大根を最高の出来にすることで毎秋の最後の置き土産とすることにした。
そのためには、畑をただ大根を美味しくしたいという想いで満たし、夜通し神の霊力をめぐらす必要があるのである。
これが穣子が十日夜に誰も大根畑に入れたがらない理由であった。
はるか昔から人間には十日夜に大根畑に入るな、大根は取るなと言い聞かせてある。
とはいえ神の心人知らずといったところで、なぜ駄目なのだとよく質問された。
その度に穣子は自分のこだわりについて滔々と説いた。多くのものはそれで納得してくれたが、たまに理屈が通じないものもいた。
子どもや、その土地に流れ着いたばかりの新参者などである。
ある時、どう説明しても分かってくれない農家の悪ガキがいた。穣子が冗談めかして「十日夜に大根畑に入ると……死ぬ」と言ってみたところ「死ぬのか」と衝撃を受けた子が皆に言いふらし、いつの間にか噂は広まり、今では日本中で信じられる俗信となった。
穣子は嘘が広まったことに驚き、事あるごとに訂正しようとしたが、この話は親が子どもに十日夜に大根を取るなと教えるためには都合の良い話なので、現在に至るまで広く流布され、信じられたままになっている。穣子もある時期から面倒になって訂正するのをやめ、追い返すのに効果的なときは適当に使うことにした。
ただし、相手がそれを恐れない場合は本当のことを話して配慮してくれるように頼みこむことにしている。
十日夜の大根の生長は譲れないこだわりだ。
穣子にとって大根の出来は、その年の秋の収穫が完璧かどうかを決める大事なものなのである。それに、今年は特に手を抜く訳にはいかない。
穣子の心には、ここ数年家族の農作業を手伝うようになった幼い少年の姿が映っていた。
その男の子が今年、この畑の大根を担当している。
大根は作りやすく、人と神の絆を深めるためのうってつけの作物。
その出来が良いほど、幻想郷の農家の少年は一つ大人に近づくのである。
昨年の収穫祭で穣子に「美味しい大根ができるようにがんばる!」と朗らかに宣言した彼の努力を、少しでも応援したかった。
これが穣子の事情だった。
8、
「畑のこの辺りは紅魔館が農家の方と契約して、自由に採っていいことになっているはずですが……」
「私は豊穣の神だからここの畑の大根全部、おいしく稔らせなきゃいけないの。だからおいしくなるまでは畑に入らせるわけにはいかないの。明日以降にしてくれると嬉しいわ」
「神様の事情を言われても、私は無神論者なので」
「もうー頼むからお願いだからー それに一本でも抜かれると他にも影響するのよ」
穣子によれば、大根の稔りの完成は十日夜から翌朝日が昇るまでかかる仕事なのだという。
そして、その仕事の最中に一本でも大根が引き抜かれると、他の大根が最高の仕上がりに到達できなくなってしまう。
それは舌達者でなければ見過ごすかもしれない微妙な差異だが、それでもやはり穣子はこだわりたかった。
「一本でも引き抜くと、畑中がみんな驚いちゃうからね」と穣子は補足した。
穣子と咲夜が大根取りの是非について話し合っているところに「音を探すくらいいいでしょ」とリリカが割り込んだ。
「やり方がダメ」穣子はにべもない。
リリカは良い音が見つからないとき、手持ちの幻想の音をぶつけてみて目当ての音をおびき出すという方法論を確立していたが、これが穣子の「驚かしちゃダメ」原則に引っかかってしまった。大根に耳があるのかどうかは分からないが、相性の良くない音があるのは確かだという。
「だいたい大根が太る音って私も聞いたことないんだけど」
「ないんだ……」
「たぶんマンドラゴラに似てると思います」
穣子がマンドラゴラを知らなかったので、咲夜はパチュリーの受け売りを説明した。
それは恐ろしい人型の根菜で、地面から引っこ抜くとこの世のものとは思えない絶叫を上げ、聞いた人間を絶命させるという。
だがマンドラゴラは貴重な魔法薬の材料であり、また西洋妖怪にとってお馴染みの珍味である。泥棒対策に紅魔館の庭にも植えてある。ちなみに苦いのでレミリアは嫌っている。
「マンドラゴラに似てるとすると、ギャーッ!!!て感じの音ね。きっと」リリカはキーボードで神経を逆なでする音を奏でた。
「ちょっと、やめて! それに私の大根はそんな嫌な音で叫んだりしないし」
「じゃあどんな音なら満足できるのさ」
「断然もっと幸せそうな音」
穣子とリリカはにらみ合い、お互い無言になった。
素っ気なく自分の分の大根を抜いて紅魔館に戻ってもいいはずだが、咲夜は何となく二人のことが気になりそうできずにいた。
神様も騒霊も、無視しても館の生活は問題なく回っていくはずなのだ。
でも冷たいと言われたくもないなと思った。少し昔にも誰からかそんなことを言われたような気がした。
山からの風が畑を渡って、大根の葉を小さく揺らす。
大根の本体は地上の風に影響されることなく暖かな地面の下で幸せに育っているのだろう。
今夜は持久戦になりそうだと考えた咲夜は、近くを飛んでいた伝書コウモリを捕まえる。
その子に帰りが遅くなる旨を言づけると、これで一安心とばかりにどこからかレジャーシートと喫茶道具を取り出して、紅茶を淹れ始めた。
我ながら暢気だわと咲夜は思った。
以前永遠亭の背の高い方の兎に、心の波長が長くなってきていると言われたことを思い出す。
咲夜は一片の情にとらわれることが昔より増えなと思った。いつの間にか表面が曇ってしまった銀のナイフを見つめるような気持ちで、咲夜は変わりつつある自分のあり方についてぼんやりと想いを巡らせた。晩秋の長夜は移ろいについての思索にうってつけである。
大根が年をとる今夜、大根と一緒に自分もまた一つ年を取るようなそんな気がした。
それが良いことなのか、まだ若い咲夜にはどうにも判断がつかなかった。
四半刻ほど穣子とリリカはああでもないこうでもないと話し合いを続けていた。
咲夜は小さくあくびした。
「どうしましょう。ふくふくと太る完璧なタイミングの年取り大根を早く持って帰りたいのに……」
「ふくふく?」
咲夜の独り言にリリカは何かぴんと来るものがあったらしく、キーボードを空中に浮かべると、試行錯誤しながら「ふくふく」という感じの音を奏でた。音に合わせてキーボードの鍵盤がオレンジやグリーンに優しく明滅する。
「あっそれっぽい」穣子はにっこり笑った。
「これが大根が太る音ね」
「でも大根が割れる音だとかうなる音もあるそうですが」
「うなる音だったら風の音が似てるかも」
リリカは轟々と音を奏でた。
「大根は十日夜に供えられたぼた餅を食べたくて、首を伸ばすとも言われてるわ」
「食いしん坊なのね」
リリカはグゥーッというお腹の鳴るような音を奏でた。
「十日夜に餅を搗く音を聞いて育つとも聞きました」
リリカはポコン、ペコンとリズミカルな音を奏でた。
「これは大根が割れる音といえなくもないかも」
「そうかな」
「そうかもしれない」
音を奏でる度にキーボードは輝きを増していった。
リリカが奏でる音を聴きながら、穣子は畑中に霊力を循環させていく。
すると、畑の中から微かに、しかし確かに、「大根が太る音」としか言いようのない音がした。
耳ではなく脳で聴いているのだろう。咲夜がそう思ったとき、幻想の音は畑中で場所を変えながら、もう一度、またもう一度と何度も跳ねた。「聴こえるわ」「聴こえる」と神様も騒霊も呟いた。
リリカは「やっぱり曲霊が潜んでたんじゃん」とご機嫌だ。
「大根の生長する様子をここの三人が一緒に思い描いたからね。実際あの音がイメージにぴったりだったからかしら。畑の中に何人かいても上手くいく方法があるなんて、千年来の発見」と穣子も感心して、リリカと咲夜に「信仰をどうもありがとう」と丁寧に礼を言った。
「別に信仰していませんが」と怪訝な顔をした咲夜に「信仰は親交よ」と返して穣子はひたすら楽しそうだ。
嬉しそうな二人を見てなんだか自分まで楽しくなった咲夜は、二人にも熱い紅茶を淹れてあげた。
穣子は農家から供えられたおはぎを二人に分けてくれた。あたりにはリリカの奏でる幻想の音が木霊する。
そのようにして大根はすくすくと背を伸ばし、ふくふくと太り、十日夜は更けていった。
9、
扉の鈴をカランと鳴らして咲夜は帰宅を告げた。
「遅かったね。それで首尾は?」
「あいにく、今夜は大根はお預けでした」
レミリアは言葉と裏腹に楽しそうな咲夜の顔を覗き込み、ふーん?と首を傾げる。
「お嬢様、来月の初めに数日お休みをいただきたいのですが」
「好きにしなさい」
10、
収穫祭の最終日に当たる穣子農家の大宴会は、人里の庄屋の屋敷で開かれた。
騒霊三姉妹の三女の新曲「オオドシ鏡草の収穫」が披露される中、紅魔館のメイド長手製の創作大根料理が参加者全員にふるまわれ、湯上りの豊穣神がほくほく顔で料理に舌鼓を打ち歌ったり踊ったりと近年まれにみる盛り上がりである。
長年穣子を信仰する農家たちをして、こんなに盛り上がった穣子様を見るのは30年ぶりくらいだと言わしめる程であった。
穣子を信仰する農家は皆素朴で陽気な人々だった。
強面のおじさんが咲夜の料理を食べながら、この南瓜はうちで取れただのこの米はこの秋の野分にもびくともしなかっただのと自慢を延々と語ったかと思えば、小さな男の子が酔っ払った穣子に肩車されてはしゃぐ。
リリカの演奏が佳境に入ると、大根農家の鈴城さんが感極まって泣きながら咲夜に滔々と語った。
「大根はな、ただの野菜じゃねえ。小さな種からまるまると太る。大根の葉は畑にすき込んで肥やしになる。雑穀にこいつを混ぜた糧飯にご先祖が何度も飢饉から救われた。それに豊作の年には食べ過ぎた腹を優しくいたわる効能が役立つ。秋の終わりに稔って、その秋の収穫すべてに感謝をささげ、締めくくる野菜なんだ。幻想郷ができるよりも前から、穣子さまとの宴会の締めには新米の餅と一緒にこいつを必ず捧げている。それをよくここまで美味しく料理してくれてよう……曲まで作ってくれちゃってよう……アンタら最高だ」
鈴城さんの大演説は、場に紛れ込んだリリカファン倶楽部会員の歓声で途切れがちで聞きやすいとは言い難かったが、咲夜は案外面白そうににこにこと笑っていた。
リリカ、穣子、穣子農家の人たち。それぞれが完結した世界を持っている。
咲夜はあの時無理やり大根を取ってこなくてよかったと思った。余分な縁がつくる出来事の中に、普段の暮らしからは得られないものがひそんでいるのだ。
今日は洋風の創作大根料理もいくつか試している。紅魔館に帰ったら土産話とともに早速改良版の調理に取り掛かろう。年取り途中の大根という珍味(咲夜式)が手に入らなかったのは惜しいけれど、普段の気のない大根料理が物語を得て何か完全になるのも面白い。
咲夜の世界はいつだって、紅魔館で完結し完璧だ。でも、その完璧さにかまけて、完璧さを守るようなことばかりしていれば、結果的に「思わぬ完璧さ」からは離れてしまうようにも思う。
「結果よりも過程を楽しむのさ」と笑うレミリアの横顔を咲夜は思い出していた。
「完璧に一つ加える遊び心が大事なのよ」とも主は言っていた。
今ならその余裕の意味が咲夜にも少し解るような気がした。
「年を取る最中の大根を捕まえてきますわ」
バターを買い足してきますとでも言うかのような気楽な調子で咲夜は宣言した。
「行きなさい。とびっきり活きのいいやつを頼むよ」
ティーカップを口元に運びながらのんびりと応じたレミリアに、咲夜は片手を胸に当てて軽く頭を下げ「完璧な大根をお待ちくださいな」という台詞だけ残して姿を消した。
「レミィ、年を取る最中の大根って?」
訝しげに眉根を寄せる友人に対し、館の主人は鷹揚に笑った。
「全然知らない。でも面白そうじゃない」
空の高いところに昇った月が湖面に艶やかな光を落とす時分である。
吸血鬼と魔女の茶会は夜通し続く。茶会のアンニュイな会話は、いつしか咲夜についての話題に変わっていった。
2、
発端は咲夜の最近の過ごし方にあった。
今年の秋はとても短く、咲夜が日々の雑務に追われ紅葉を楽しむ暇を逃しているうちに、季節は足早に通り過ぎようとしていた。新異変発生の報ですら天狗の新聞で知る始末で、異変解決に遊びに出ることすらできなかった。
数日前などはレミリアとパチュリーの深夜のお茶会の給仕をしている最中に、夜風に当たってくしゅんと小さなくしゃみを漏らしてしまい、二人から温かくして寝なさいと気遣われてしまった。瀟洒なメイド失格である。「これではいけない」と咲夜は思った。
「遊び心が足りてないのね」と咲夜は大真面目に考える。時間の矢は後ろ向きに飛ばない。人間である自分は、むしろ意識して時間を楽しまなければ、人生はあっと言う間に過ぎてしまう。忙しさにかまけて余裕を忘れかけていたツケがここ数日来ているのだ。そう咲夜は考えた。
さて、咲夜には取って置きの気分転換の方法があった。珍味ハンティング(咲夜式)である。これは唯の珍味探しとは違って、その食材にまつわる謂れやエピソードと一緒に食材を収集し、物珍しさや不思議さのスパイスを脳という舌で楽しむという遊びだ。昔つくった竹の花ごはんもその一環である。どちらかといえば精神に存在の多くを依存する妖怪向けの習慣だと言えなくもない。
もっとも、最近は珍味ハンティングも多少マンネリ気味でそれ自体作業感が出てきてしまっていた。だから何か新機軸になる、最近の疲れを吹き飛ばすようなへんてこなものはないだろうかと悩んでいた。
ある日、買い出しに立ち寄った里の八百屋「義左衛門」で、面白そうな話を聞いた。
八百屋の店主とお使いに来たらしい小間使いの会話だ。
「今朝採れた大根はないのかい。うちの旦那が熱冷ましに食いたがってるんだ」
「馬鹿言っちゃいけねえ。こんな日に大根なんて採れるもんか。今日は大根の年取りじゃねえか」
「ごめんなさい、その話詳しく聞いていいかしら?」
割って入った咲夜が店主から聞きただしたのはおよそ次のような話である。
――「大根の年取り」という農家なら誰でも知っている言い伝えがある。十日夜(陰暦10月10日)に大根畑に立ち入ることを戒めるものである。この日は大根にとっての正月のようなもので、年越しをする大根がすくすくと生長する日なのである。この日に大根畑に立ち入って大根を取ってはならない。特に夜は。なぜなら、大根が太る音、うなる音、割れる音を聴いてしまえば――その人間は死ぬからである。
「面白そう」と咲夜はつぶやいた。
誰も取ることができない十日夜の大根は、頭で味わう珍味としてはかなりのものだと言って良い。
八百屋は慌てた。「あんた、まさか取りに行くつもりじゃないだろうな」
「取りに行きたいです」
「馬鹿な! さっき言っただろう、死ぬかもしれないんだぞ! 命が惜しくはないのか」
「天寿を全うするつもりなので命は惜しいです。死なずに手に入れます」
そう言って咲夜はさっさとお店を後にした。
「何を考えてるか分からん……」とは八百屋の言、「かっけえ」とは小間使いの言である。
悪魔に仕えるメイドの面目躍如であった。
「大根の年取り」の怪音は「出会ったものは必ず死ぬ」系の怪異だといえる。これは誰がその話を生きて伝えたのかという点で非常に怪しく、おのずから眉唾であると分かるものだ。ところがここは生憎幻想郷であり、死なない奴もすでに死んでいる奴もびっくりするほど多い。
今回の大根の話だって、そうした誰かが人間が大根の音を聞いて死ぬところに居合わせていた可能性もある。実際に音で人間が死ぬことも十分あり得る。
咲夜もそのあたりについては考えていた。
とりあえず香霖堂で外の世界のものだという高性能な耳栓を買った。また、彼女はいざとなったら時を止めて音より早く動けば良いと考えた。とどのつまり、あまり深くは考えていないのであった。
3、
高くのぼった月に照らされ、夜空は黒硝子のように透き通っている。
晩秋の気配をにじませた風が銀髪をさらさらと吹き流した。
人間の里にほど近い丘の麓。主人と友人の茶会の席から抜け出した咲夜は、人ひとりいない農道を誰に見せるわけでもなく瀟洒に歩いていた。辺りには、土の中から顔をちょこんとのぞかせる大根の畑が広がっている。大根は月明かりを受けて鈍い白に輝いていた。
やがて目当ての畑を見つけると、その一角に畝を踏みつけないよう気を付けながら歩み入る。
傍らには蝙蝠羽の飾りをつけた案山子が立っており、「紅魔館の大根畑」という札を首から掛けている。
ここは紅魔館が里の農家と契約して借りている畑の一角だ。
もともと農家が半人前の子ども達に世話を任せている畑であるが、それなりに広いため余ったスペースを貸し出しており、紅魔館からも種まきや盛り土の度に妖精メイドが時々通って最低限の世話をしている。ここのものなら、いつでも咲夜は持ち出して良いのである。
咲夜はさっそく近くの大根を引き抜こうとした。だがその時、咲夜の背に、誰かに見られているような嫌な感覚が走る。
耳栓をしているのでよくわからないが、何かが音を立てているようにも思える。
咲夜は背後の存在に気取られないように大根に伸ばした手をゆっくりと戻し、代わりに銀のナイフをすらりと引き抜いた。
3秒だけ時を止めて振り返り、あぜ道の木立の陰に当たりをつけて、ナイフを10本ほど投げつける。
世界が動き出すと、ドサリと闇の中で何かが倒れたような気配がした。
「大根の精かしら?」
4、
検分してみて、咲夜のあては外れた。
そこに倒れていたのは、赤いベストが印象的な騒霊だったのだ。
咲夜はその騒霊、リリカとは何度か会ったことがある。
何かリリカが言っているので音対策のためにきつく締めていた耳栓を少しだけ緩めると、「さっきから話しかけてたのにひどい!」と涙目で抗議された。
「ごめんなさい聞こえませんでした。それにしても、何をしていたんでしょう」
「えー聞きたい? じゃあ教えてあげる」
5、
「大根が年を取る音をサンプリングしてくる」
リリカの発言にルナサは無言で「はあ」という顔をした。
「姉さーん、普通もうちょっと興味持たない?」
「音集めはいいんだけどね。最近あんたが拾ってくる妙な音が押し入れの中で喧嘩してるの。今もブンブン唸っているし、もう何が何だか」
「あれは全部はずれの音。砂金は砂の山の中から見つけるもんよ」
そこにメルランが割って入り「リリカが拾ってくる音、私好きよ。たとえばウサギが跳ねる音とか」と助け舟を出してくれたので、ルナサも「確かにあれは良かった」と言ってくれた。
その盛り上がりもリリカが「あいつはぴょんぴょん跳ねながらどっかに逃げちゃった」と言い出すまでのことだったが。
リリカは、倉庫に詰め込んだ幻想の音がしばしば脱走することに悩んでいた。
長年音集めをやっているうちに気づいたのは、すぐに逃げ出す音と、しばらく留まる音と、いつまでも馴染む音があるということである。
音の生態系に馴染む音を連れてこれば、生態系は長期に安定するし、そうでなければすぐに崩壊して他の音の流出を招く。
別に音が逃げ出しても、コピーできた音はリリカのキーボードから出すことができるのだから実害はないともいえるのだが、「オリジナル」の脱走した音はどこか以前と響きが異なってしまうように思われた。
一度気にしだすと、リリカにはその微妙な差異が決定的なように思われた。
親しい誰かと、親しい誰かの写真が代替となりえないようなものだ。
とにかく、このままオリジナルの幻想の音たちが逃げ出し続けるのは痛手である。
早急に倉庫の生態系のニッチに、力のある幻想の音を補ってやる必要があるだろう。
それでルナサもなるほどと合点した。
逃げ出したうさぎの跳ねる音の代わりに、同じかそれ以上の幻想の音を探してやらねば、あれは当分おとなしくなるまい。
最終的にルナサは大きくため息をつき、妹にサンドイッチを持たせて送り出してやった。
これがリリカが大根畑までやってきた理由だった。
6、
「分かった?そういうわけで、今から大根が年を取る音を収集するのよ」
「それでこんな夜更けに独りで。小さいのに偉いと思います」
「えへへ。……って、そうじゃなくて。メイド人間がいるとサンプリングに邪魔だから出てってよ」
リリカによれば、大根が年を取る音はまだしないという。
もちろん、騒霊であるリリカには、大根が地下から水を吸い上げる微かな音や、大根が人間には見えないくらい小さく震えながら背を伸ばしていく音が今でも聞こえていた。だが、そうした音は今夜のターゲットではない。
リリカが狙うのは、あくまで人間にも聞くことができるという十日夜の大根の音なのである。
きっと、年を取る音というくらいだから、日付が変わる頃にははっきりと分かるほどの音になるんじゃないかしらとリリカは予想した。
そこで畑中に音だけ捕まえる特殊な霊体の網を張って、件の音が現れるのを待つことにした。
だが、大根を抜かれてしまうとせっかく苦心して張った網がバランスを崩して破れてしまう。
一度破れれば次のチャンスは来年になってしまう。
「しかし十日夜のうちに取らないと意味がないし早く取らないと間に合いません」
「そんなことないって。大体、明日とったやつだって区別つかないよ」
「そうは言ってもお嬢様に完璧な年取り中の大根を持って行くと約束してしまいましたし……」
「じゃあ音がしたら私がそれを捕まえる。あなたはそのあと大根を採る。どう?」
「もしも日付が変わるまで音がしなかったら、もう十日夜の大根じゃなくなります。不確実です」
「駄目だ、この完璧主義メイド。頑固」
「あなただって、普通に大根が成長する音でいいじゃない」
「やだ」
「完璧主義な騒霊ねえ」
双方ともに一歩も譲らず、あわや弾幕勝負かというそのとき、大根畑を包み込むような巨大な霊力の気配が蠢く。
咲夜とリリカはとっさに辺りを警戒する。ほどなくして、第三の声が晩秋の夜に朗々と響いた。
「十日夜に大根畑に立ち入るとは、不届き千万!命が惜しくば立ち去りなさい!」
7、
「いや、だからね?出て行ってくれると助かるってことなんだけど」と穣子が肩を落としてしょげる。
穣子の霊力は巨大だったが攻撃向きとは言い難い性質のものであり、わりとあっさりと撃墜されていた。
一陣の木枯らしが畑を渡って、生焼けのさつま芋の香りが畑の土の香りと混じり合うように広がる。
大根畑は今や白く輝く大根の間にさつま芋や南瓜や赤黒い古代米がばらまかれ、月明かりの下でとても賑やかだった。
咲夜はすべての弾が大根を綺麗に避けて落ちていることに気づき、少し感心した。
「なぜ出ていかなくてはならないのでしょう」
「そうそう。理由を言ってくれなきゃ分からないよ」
「まずはじめに言っておくと、大根の音を聞いたら死ぬって話、嘘だから」
そう言って穣子は事情を話し始めた。
穣子は大らかな性格だが、こと秋の作物については自他の妥協を許さない並々ならぬこだわりを持っている。
豊穣神にとって、収穫祭は特別に楽しく、そして大事な人と神の儀礼の場である。
収穫祭ではいつも氏子からその秋に取れた作物を供され、もてなされる。その篤い信仰心に対して、穣子としても何か応えたい。
そこで豊穣神と人とをつなぐ古き作物である鏡草、つまり大根を最高の出来にすることで毎秋の最後の置き土産とすることにした。
そのためには、畑をただ大根を美味しくしたいという想いで満たし、夜通し神の霊力をめぐらす必要があるのである。
これが穣子が十日夜に誰も大根畑に入れたがらない理由であった。
はるか昔から人間には十日夜に大根畑に入るな、大根は取るなと言い聞かせてある。
とはいえ神の心人知らずといったところで、なぜ駄目なのだとよく質問された。
その度に穣子は自分のこだわりについて滔々と説いた。多くのものはそれで納得してくれたが、たまに理屈が通じないものもいた。
子どもや、その土地に流れ着いたばかりの新参者などである。
ある時、どう説明しても分かってくれない農家の悪ガキがいた。穣子が冗談めかして「十日夜に大根畑に入ると……死ぬ」と言ってみたところ「死ぬのか」と衝撃を受けた子が皆に言いふらし、いつの間にか噂は広まり、今では日本中で信じられる俗信となった。
穣子は嘘が広まったことに驚き、事あるごとに訂正しようとしたが、この話は親が子どもに十日夜に大根を取るなと教えるためには都合の良い話なので、現在に至るまで広く流布され、信じられたままになっている。穣子もある時期から面倒になって訂正するのをやめ、追い返すのに効果的なときは適当に使うことにした。
ただし、相手がそれを恐れない場合は本当のことを話して配慮してくれるように頼みこむことにしている。
十日夜の大根の生長は譲れないこだわりだ。
穣子にとって大根の出来は、その年の秋の収穫が完璧かどうかを決める大事なものなのである。それに、今年は特に手を抜く訳にはいかない。
穣子の心には、ここ数年家族の農作業を手伝うようになった幼い少年の姿が映っていた。
その男の子が今年、この畑の大根を担当している。
大根は作りやすく、人と神の絆を深めるためのうってつけの作物。
その出来が良いほど、幻想郷の農家の少年は一つ大人に近づくのである。
昨年の収穫祭で穣子に「美味しい大根ができるようにがんばる!」と朗らかに宣言した彼の努力を、少しでも応援したかった。
これが穣子の事情だった。
8、
「畑のこの辺りは紅魔館が農家の方と契約して、自由に採っていいことになっているはずですが……」
「私は豊穣の神だからここの畑の大根全部、おいしく稔らせなきゃいけないの。だからおいしくなるまでは畑に入らせるわけにはいかないの。明日以降にしてくれると嬉しいわ」
「神様の事情を言われても、私は無神論者なので」
「もうー頼むからお願いだからー それに一本でも抜かれると他にも影響するのよ」
穣子によれば、大根の稔りの完成は十日夜から翌朝日が昇るまでかかる仕事なのだという。
そして、その仕事の最中に一本でも大根が引き抜かれると、他の大根が最高の仕上がりに到達できなくなってしまう。
それは舌達者でなければ見過ごすかもしれない微妙な差異だが、それでもやはり穣子はこだわりたかった。
「一本でも引き抜くと、畑中がみんな驚いちゃうからね」と穣子は補足した。
穣子と咲夜が大根取りの是非について話し合っているところに「音を探すくらいいいでしょ」とリリカが割り込んだ。
「やり方がダメ」穣子はにべもない。
リリカは良い音が見つからないとき、手持ちの幻想の音をぶつけてみて目当ての音をおびき出すという方法論を確立していたが、これが穣子の「驚かしちゃダメ」原則に引っかかってしまった。大根に耳があるのかどうかは分からないが、相性の良くない音があるのは確かだという。
「だいたい大根が太る音って私も聞いたことないんだけど」
「ないんだ……」
「たぶんマンドラゴラに似てると思います」
穣子がマンドラゴラを知らなかったので、咲夜はパチュリーの受け売りを説明した。
それは恐ろしい人型の根菜で、地面から引っこ抜くとこの世のものとは思えない絶叫を上げ、聞いた人間を絶命させるという。
だがマンドラゴラは貴重な魔法薬の材料であり、また西洋妖怪にとってお馴染みの珍味である。泥棒対策に紅魔館の庭にも植えてある。ちなみに苦いのでレミリアは嫌っている。
「マンドラゴラに似てるとすると、ギャーッ!!!て感じの音ね。きっと」リリカはキーボードで神経を逆なでする音を奏でた。
「ちょっと、やめて! それに私の大根はそんな嫌な音で叫んだりしないし」
「じゃあどんな音なら満足できるのさ」
「断然もっと幸せそうな音」
穣子とリリカはにらみ合い、お互い無言になった。
素っ気なく自分の分の大根を抜いて紅魔館に戻ってもいいはずだが、咲夜は何となく二人のことが気になりそうできずにいた。
神様も騒霊も、無視しても館の生活は問題なく回っていくはずなのだ。
でも冷たいと言われたくもないなと思った。少し昔にも誰からかそんなことを言われたような気がした。
山からの風が畑を渡って、大根の葉を小さく揺らす。
大根の本体は地上の風に影響されることなく暖かな地面の下で幸せに育っているのだろう。
今夜は持久戦になりそうだと考えた咲夜は、近くを飛んでいた伝書コウモリを捕まえる。
その子に帰りが遅くなる旨を言づけると、これで一安心とばかりにどこからかレジャーシートと喫茶道具を取り出して、紅茶を淹れ始めた。
我ながら暢気だわと咲夜は思った。
以前永遠亭の背の高い方の兎に、心の波長が長くなってきていると言われたことを思い出す。
咲夜は一片の情にとらわれることが昔より増えなと思った。いつの間にか表面が曇ってしまった銀のナイフを見つめるような気持ちで、咲夜は変わりつつある自分のあり方についてぼんやりと想いを巡らせた。晩秋の長夜は移ろいについての思索にうってつけである。
大根が年をとる今夜、大根と一緒に自分もまた一つ年を取るようなそんな気がした。
それが良いことなのか、まだ若い咲夜にはどうにも判断がつかなかった。
四半刻ほど穣子とリリカはああでもないこうでもないと話し合いを続けていた。
咲夜は小さくあくびした。
「どうしましょう。ふくふくと太る完璧なタイミングの年取り大根を早く持って帰りたいのに……」
「ふくふく?」
咲夜の独り言にリリカは何かぴんと来るものがあったらしく、キーボードを空中に浮かべると、試行錯誤しながら「ふくふく」という感じの音を奏でた。音に合わせてキーボードの鍵盤がオレンジやグリーンに優しく明滅する。
「あっそれっぽい」穣子はにっこり笑った。
「これが大根が太る音ね」
「でも大根が割れる音だとかうなる音もあるそうですが」
「うなる音だったら風の音が似てるかも」
リリカは轟々と音を奏でた。
「大根は十日夜に供えられたぼた餅を食べたくて、首を伸ばすとも言われてるわ」
「食いしん坊なのね」
リリカはグゥーッというお腹の鳴るような音を奏でた。
「十日夜に餅を搗く音を聞いて育つとも聞きました」
リリカはポコン、ペコンとリズミカルな音を奏でた。
「これは大根が割れる音といえなくもないかも」
「そうかな」
「そうかもしれない」
音を奏でる度にキーボードは輝きを増していった。
リリカが奏でる音を聴きながら、穣子は畑中に霊力を循環させていく。
すると、畑の中から微かに、しかし確かに、「大根が太る音」としか言いようのない音がした。
耳ではなく脳で聴いているのだろう。咲夜がそう思ったとき、幻想の音は畑中で場所を変えながら、もう一度、またもう一度と何度も跳ねた。「聴こえるわ」「聴こえる」と神様も騒霊も呟いた。
リリカは「やっぱり曲霊が潜んでたんじゃん」とご機嫌だ。
「大根の生長する様子をここの三人が一緒に思い描いたからね。実際あの音がイメージにぴったりだったからかしら。畑の中に何人かいても上手くいく方法があるなんて、千年来の発見」と穣子も感心して、リリカと咲夜に「信仰をどうもありがとう」と丁寧に礼を言った。
「別に信仰していませんが」と怪訝な顔をした咲夜に「信仰は親交よ」と返して穣子はひたすら楽しそうだ。
嬉しそうな二人を見てなんだか自分まで楽しくなった咲夜は、二人にも熱い紅茶を淹れてあげた。
穣子は農家から供えられたおはぎを二人に分けてくれた。あたりにはリリカの奏でる幻想の音が木霊する。
そのようにして大根はすくすくと背を伸ばし、ふくふくと太り、十日夜は更けていった。
9、
扉の鈴をカランと鳴らして咲夜は帰宅を告げた。
「遅かったね。それで首尾は?」
「あいにく、今夜は大根はお預けでした」
レミリアは言葉と裏腹に楽しそうな咲夜の顔を覗き込み、ふーん?と首を傾げる。
「お嬢様、来月の初めに数日お休みをいただきたいのですが」
「好きにしなさい」
10、
収穫祭の最終日に当たる穣子農家の大宴会は、人里の庄屋の屋敷で開かれた。
騒霊三姉妹の三女の新曲「オオドシ鏡草の収穫」が披露される中、紅魔館のメイド長手製の創作大根料理が参加者全員にふるまわれ、湯上りの豊穣神がほくほく顔で料理に舌鼓を打ち歌ったり踊ったりと近年まれにみる盛り上がりである。
長年穣子を信仰する農家たちをして、こんなに盛り上がった穣子様を見るのは30年ぶりくらいだと言わしめる程であった。
穣子を信仰する農家は皆素朴で陽気な人々だった。
強面のおじさんが咲夜の料理を食べながら、この南瓜はうちで取れただのこの米はこの秋の野分にもびくともしなかっただのと自慢を延々と語ったかと思えば、小さな男の子が酔っ払った穣子に肩車されてはしゃぐ。
リリカの演奏が佳境に入ると、大根農家の鈴城さんが感極まって泣きながら咲夜に滔々と語った。
「大根はな、ただの野菜じゃねえ。小さな種からまるまると太る。大根の葉は畑にすき込んで肥やしになる。雑穀にこいつを混ぜた糧飯にご先祖が何度も飢饉から救われた。それに豊作の年には食べ過ぎた腹を優しくいたわる効能が役立つ。秋の終わりに稔って、その秋の収穫すべてに感謝をささげ、締めくくる野菜なんだ。幻想郷ができるよりも前から、穣子さまとの宴会の締めには新米の餅と一緒にこいつを必ず捧げている。それをよくここまで美味しく料理してくれてよう……曲まで作ってくれちゃってよう……アンタら最高だ」
鈴城さんの大演説は、場に紛れ込んだリリカファン倶楽部会員の歓声で途切れがちで聞きやすいとは言い難かったが、咲夜は案外面白そうににこにこと笑っていた。
リリカ、穣子、穣子農家の人たち。それぞれが完結した世界を持っている。
咲夜はあの時無理やり大根を取ってこなくてよかったと思った。余分な縁がつくる出来事の中に、普段の暮らしからは得られないものがひそんでいるのだ。
今日は洋風の創作大根料理もいくつか試している。紅魔館に帰ったら土産話とともに早速改良版の調理に取り掛かろう。年取り途中の大根という珍味(咲夜式)が手に入らなかったのは惜しいけれど、普段の気のない大根料理が物語を得て何か完全になるのも面白い。
咲夜の世界はいつだって、紅魔館で完結し完璧だ。でも、その完璧さにかまけて、完璧さを守るようなことばかりしていれば、結果的に「思わぬ完璧さ」からは離れてしまうようにも思う。
「結果よりも過程を楽しむのさ」と笑うレミリアの横顔を咲夜は思い出していた。
「完璧に一つ加える遊び心が大事なのよ」とも主は言っていた。
今ならその余裕の意味が咲夜にも少し解るような気がした。
19時~20時くらいには空の一番高いところにあります。
19時半頃に紅魔館を出発し、一時間以内くらいには畑に着いているイメージです。
咲夜が大根を引っこ抜こうとしていたのは21時より手前になります。
楽しませてもらいました
大根も含めて皆、活き活きしていて面白かったです
お題があってのこの出来、素晴らしいです。
咲夜の成長物語になっていたのが良かったです。