船の見張りに徹していた所為で、出遅れた。光の満ちた法界に降り立った時には、
「姐さん!」
「あら一輪」
我らが姐さん――聖白蓮様は、船の仲間達に囲まれていた。ムラサが正面から抱きついて、鈍く涙声を上げていた。星が姐さんの背後に立って、宝塔を手に満足気に頷いていた。ネズミ――ナズーリンがいつもの冷ややかな表情のまま、しかし嬉しそうに姐さんの左手を握っていた。尻尾の籠の中で、鼠達が歓喜に沸いていた。割り込む隙がなかった。とりあえず、姐さんに何も変わりがないので安心することにした。紫雲のような淡い髪も、人を和ませる微笑みも、封印されたときのままだ。
姐さんは輪に入れない私を認めると、
「貴方も力を貸してくれたのね、一輪。嬉しいわ」
「は、はい」
瞳が潤んでいた。名前を呼んで、褒めてくれた。それだけで、胸が達成感で一杯になった。傍らの雲山とハイタッチをして、笑い合った。雲山は珍しく、いかめしい表情を緩めていた。
「ただいま。遅くなってごめんね」
「お帰りなさい、姐さん」
空飛ぶ宝物庫は、やっと終点に辿り着いた。
聖輦船は人里に降りて、命蓮寺となった。弟思いの姐さんらしい命名だ。
船だろうと寺だろうと、私の仕事は変わらない。見張りだ。姐さんや星に用のある者を、怪しくないか見極める。寺の前を通る者も、それなりに厳しく検査する。雲山の大きな目を以てすれば、難しくはない。結果、暇になる。
午後の陽気は春の始まりに相応しく穏やかで、眠気を誘う。竹製の門の前で、私は眠気覚ましの道具を取り出した。雲山に内緒で書いていた、太い巻物だ。菫色の紐を解いて、少し広げる。早速雲山が目を走らせた。
「え、これが何かって?」
入道の大頭が頷く。
「これはね、戻ってきた姐さんにやってあげたいこと帳」
その一。姐さんに笑顔でお帰りなさいと言う。
その二。姐さんの服や身体に異常がないか確かめる。
その三。姐さんに特製の薬草茶(カミツレと甘草)を淹れる。
以下、姐さんにしたいことを、巻物の終わりまで箇条書きにしてある。達成済みの事柄には、朱で取り消し線が引かれている。
「でもね、私がやる必要ないかも」
線が引かれている事柄は、極々僅かだ。お帰りなさいと言うことはできた。けれども身体調査はできなかった。星が手早く済ませていた。お茶はムラサが淹れた。ついでに言うと、ネズミが肩を揉んでいた。
皆、戻ってきた姐さんのために何かしたいのだ。千年分の恩返しだ。思いついた先から、行動に移す。風呂掃除、背中流し、垢すり、湯上りの冷や水運び。
「私も要領はいいはずなんだけどなぁ」
星やムラサのお手伝い欲に火がついていて、止められない。一歩出遅れ、先を越されてしまう。加えて、今回の一件での役割の薄さから、私は少し遠慮をしていた。ムラサは地底からはるばる船を動かしてきた。星は宝塔の力で姐さんの封印を解いた。私は飛宝を持ってきた人間を、上手い事船中に連れ込んだだけだ。ネズミや正体不明の新顔妖怪よりは、まともな働きをしたことは確かだが。新顔は邪魔しかしなかったし。
話を聞いていた雲山が巨大な手で、ものを押すような仕草をした。引いて駄目なら押すだけだと言うのだ。
「あのね、書いてあることを想像するだけでも楽しいのよ」
その十。姐さんの封印中の愚痴を聞いてあげる(必要ないかもしれないけれど)。
その十一。姐さんの料理を手伝う。手を切らないように注視する。
その十二。姐さんの新しい頭巾を縫う。色はお揃いにする。
その十三。姐さんの水垢離の案内をする。山にいい滝があった。紅葉の時期は最高かも。
「大事なことは書いて覚えなさいって、昔姐さんも言ってたし」
夢の詰まった巻物を抱き締めていると、
「そうよね」
「うぁ、ムラサ!?」
背中をつつかれた。振り返れば、船長帽を被った同志の姿。航海日誌と思しき、分厚い書物を私に広げて見せていた。内容は、私のものと大体同じ。いや、もっと過激で強気か。丸みを帯びた文字が、勢いよく紙の上を走っている。
五十六、聖の全身をくまなくマッサージする。足の裏を重点的に。
五十七、聖の着替えの助手をする。最初から最後まで。
五十八、聖の布教活動時に花を撒く。白くて花弁の大きなものを。
五十九、聖と二人きりで船に乗って幻想郷上空を飛ぶ。
大体四つに一つくらいは、「済」の丸判子が押されていた。
「三割くらいはできたかな。順調順調」
頁を繰る手も御機嫌だ。指先が、箏を弾くように跳ねている。
「ムラサは積極的だものね」
「一輪も行けばいいじゃない」
「姐さんは、皆の姐さんだし。私、それほど力になれなかったし」
「そんなことないわ。一輪と雲山だって頑張ってた。皆頑張ったから、聖を取り戻せたのよ」
肩に手を置いて、ムラサは歯を見せて笑った。
「星は山の神社に挨拶に行ってる。ナズーリンはお供。ぬえは昼寝。で、私が見張りを代わる。来客なし。ほら、誰もいないよ」
日誌で背中を押された。寺の内側へと。姐さんのいる場所まで、あと僅か。
ムラサは門の下に碇を打ち下ろすと、腰掛けた。
「行っておいで、今日は一輪に譲ってあげる」
何ていい奴。私はムラサを浅く抱いて黒髪に指を絡ませ、
「ムラサ、姐さんと雲山の次に愛してるかも」
「あんまり嬉しくないわ」
渋い声に送り出された。
「姐さん?」
木彫りの仏像の立つお堂に、私は足を踏み入れた。古い木の軋む音がした。姐さんは座禅を組んでいるのかと思ったら、胡坐の格好で眠っていた。静謐な空気に、寝息が混ざる。今の世界は平和そのものだ。気候も昼寝にぴったりだ。修行熱心な姐さんが寝てしまっても、仕方がないだろう。栗色の長い髪が、お堂を吹き抜ける春風に揺れていた。
「雲山、起こしちゃ駄目」
私は姐さんを起こさないよう、足音を殺して近付いていった。もうすぐ西日の射し込む時間だ。せめて日除けになりたい。
「んー」
姐さんの身体が傾いだ。私は大急ぎで金の小輪を繰り、雲山の両手で細い身を受け止めさせた。冷たい板の間に姐さん直撃という事態を、何とか避けられた。雲山が、姐さんをどうすればいいかと訊いてくる。
「ええと」
ひとつ閃いて、私は正座して雲山に耳打ちした。入道の色鮮やかな腕が、姐さんの頭を私の腿に載せる。膝枕だ。
「こんな感じかな」
「んぅ」
雲山の手を調整して、腿と腿の間に姐さんの寝顔が来るようにした。
人一人分の重みが、太腿に伝わってくる。姐さんの熱と重みだ。そう思うと、嬉しくて飛び跳ねそうになった。身体の興奮を抑えるのが大変だった。ふくらはぎを撫でる巻き髪が、くすぐったくて心地良い。蓮の香りがする。こんなに姐さんが近いなんて、何時以来だろう。
考えていたら、姐さんの右腕が真っ直ぐに上がってきた。起こしてしまったか。息を止めて様子を見守った。
(姐さん……?)
姐さんは右の拳でお堂の天井を指すと、
「ぅん、にゃむさーんっ」
南無三、そう呟いた。それで満足したのか、腕を下ろした。気が抜けた。
「姐さんたら、夢の中でも説法ですか」
そういえば、大昔に膝枕をしたときにも、同じような事があった気がする。そのときは「喝」だったか。寝惚けた姐さんが、懐かしい。二度と手に入らないと思っていた温もりが、ここにある。
私は輪を鳴らすと、雲山に隣室から薄い毛布を持って来させた。姐さんの身体をしっかり覆うようにかけた。消えてしまわないように。
鶯が鳴いていた。姐さんは眠り続けていた。春を告げる甲高い囀りが、安らいだ吐息を遮る。
昔は、春が来るのを恐れていた。姐さんの封印は、初春に執り行われると告げられていたから。自分が封じられることよりも、ずっと嫌だった。雲山の拳で姐さんを気絶させて一緒に逃げようと、何度考えたことか。提案して、姐さん本人に力ずくで止められたけれど。姐さんは、人間の裁きを受け入れると言った。人間と共に生きるのなら、人間の法で裁かれるのは当然だと。妖怪の私には、認め難い話だった。姐さんの言うことだから、頷くしかなかったが。
封印も何もなく、平穏な修行の日々を過ごしていたかった。今のように。千年間、ずっと。姐さんの隣で、巻物に目を通して。小難しい話を聞いて、居眠りをして、やんわりと叱られて。
(でも、千年は過ぎてしまった)
取り戻すことはできない。姐さんのいない日々は、長かった。灯りのない部屋に閉じ込められたかのようだった。仲間の輪も途切れ、何もかも消えるかと思われた。
今の世は、幻想郷は平穏だ。人と妖が、スペルカードルールの下で共存している。姐さんの理想とは少し違うかもしれないけれど、人間と妖怪が平等に過ごせている。
船が動き出して、仲間の輪がまた繋がって、姐さんが帰ってきた。夢のようだ。夢ではないと思いたい。
懐の巻物に、手を当てた。幸せを覆うように。
(前の千年は、取り戻せないけれど。次の千年は、素晴らしいものに変えて行けるから)
きっと。
浄土の方角からの陽が、まばらに瞳に当たる。眩しさに瞳を擦り、
「ん、姐さん……」
「はい、ぎゃくてーん」
「え!?」
私は姐さんの顔を真上に見た。してやったりという感じの笑顔だった。頭が不安定だ。妙な形の枕に乗っている。横を見ると、外された頭巾があった。枕が飛び跳ねるように動いた。
「十七番・一輪に膝枕をしてあげる。達成ね」
「え、えええ」
そうだ、これは姐さんの膝だ。何て失礼なことをさせているのだろう。私が起き上がろうとすると、
「ちゃんと寝てないと駄目。目標を完璧に達成できないわ」
両頬をしっかと押さえつけられた。流石姐さん、凄まじい力だ。暴れても起きられそうにない。しかし頬を引っ張って遊ぶのはどうか。
姐さんはまったりと笑うと、指を鳴らした。紫色の巻物が、幽霊のように飛んできた。私のやってあげたいこと帳より数段、巻きが太い。留め具の紫水晶を解くと、
「戻ってから作ったの。皆にやってあげたいこと帳」
広げて私に見せてくれた。
一番・皆にありがとうの気持ちを伝える。
二番・皆にごめんなさいの気持ちを伝える。
三番・皆をぎゅってする。
流れるような筆致のひとつひとつに、姐さんの愛情が籠もっていた。できた事柄には、朱筆で花丸がついていた。
「まだ全然できてないのよね。皆遠慮しちゃって」
「姐さんは、やってもらう側でいいんですよ」
「私もやってあげる側がいいの」
頬に人差し指がめり込んできた。「の」の字を書いている。こそばゆい。
「皆には、目一杯苦労をかけたもの。千年分恩返しさせて」
「な、姐さんの為なら、苦労なんて」
苦労も苦労にならない。やりたいからやっているだけだ。今回の姐さん大復活だって、仲間の誰も面倒だとは思わなかっただろう。皆が一つの輪になって、成し遂げた。そこには苦痛も厄介も、利益を求める心もなかった。ただ、姐さんに会いたかったのだ。
「じゃあ、恩の返しっこね。一方通行はよくないわ」
「姐さん、もう」
言っても聞かない人だ、止められない。
夕刻の風が肌を撫でて、気持ちよかった。姐さんの髪が日除けになっていた。お堂の向こうに、橙や桃の色の空が広がっていた。
「皆が変わってなくて、安心したわ」
星やムラサや一輪がぐれちゃったらどうしようかって、心配してたの。しみじみと、姐さんは語った。ありえない話だ。
「千年やそこらで、変わる訳ないじゃないですか」
一度与えられた温かさは、簡単には消えない。いつまでも胸中に宿って、私達をひとつにする。その温かさをくれたのは、他でもない姐さんだ。
――そんなところに隠れていないで、一緒にお経を読みましょう。
差し伸べられた手に、救われた。居場所をくれた。そんな姐さんだから、
「私もムラサも、星もナズーリンも、新顔の正体不明妖怪も。姐さんが大好きなんですよ」
陽だまりのように、皆が集まってくるのだ。
隣にいた雲山と一緒に、格好よく笑いかけた。大好きの気持ちを込めて。姐さんは、目頭を押さえていた。
「そういうこと、急に言わないで。私が涙もろいの、知ってるでしょう」
「とてもよく」
そこに、聴き慣れた足音が近付いてきた。
「聖、ただいま戻りました」
「おや、今日の聖は一輪のものか」
「ふう、見張りって船長より暇ね」
「聖、晩ごはんまだー?」
星が礼儀正しく会釈をし、ネズミが私を見てにやけた。ムラサは碇を担いで溜息。新顔は箸を打ち合わせ駆けてきた。
星が姐さんの涙を見つけて、何事かと問うた。姐さんは嬉し泣きだと答え、私の身体を起こしてくれた。
私は番を代わってくれたムラサに頭を下げた。ムラサは照れ隠しなのか気取っているのか、口笛を吹いていた。
「聖、ねえごはんー」
「はいはい、今日は私が作るわ」
立ち上がる姐さんの後ろに、
「お手伝いさせてください」
星とムラサが続いた。雲山と一緒に、私も志願した。
その十一。姐さんの料理を手伝う。手を切らないように注視する。
目標を果たせそうだった。
「お願いね」
星の手招きで、ネズミもやってきた。つまみ食い目的だろう、新顔もついてきた。土間の厨房に、一つの輪ができあがった。
「お台所、もう少し広くすればよかったかしら」
呟く姐さんの横顔は、泣き笑い。幸せを吸い込んで、輝いていた。
その百。姐さんを心からの笑顔にする。
私は心の中で、やってあげたいこと帳の項目に取り消し線を引いた。
最上の千年が、始まろうとしていた。
誰に言われるまでもなく、自然と心からのギブ&テイクが成り立っていて。
こういう関係、いいですよねぇ。
あの人の為にやってあげようと思っていたら、実はあの人も自分の為にやってくれようと思っていて。
まさに恩返しのしあいっこ、好意のかけあいっこ。
読んでいるこちらまで穏やかな気持ちになりました。
家族っていいものだよね。
読んでてニヤニヤが止まらなかった。
良いですよね~、こういうの。
聖様ほどの求心力があれば、人と妖怪の信仰が一気に命蓮寺に傾くかもしれんね。
そりゃ加奈子様も警戒するはずだ。
激しく続編をキボン。
わたしのこころがもうぼろぼろです
温まるお話、ありがとうとざいました。
ひじりんはほんに可愛いのう
ハートフルな命蓮寺一家…素敵です!
文ァ! カメラを持てぃ!!!
白蓮の寝言は勢いのままに打ちました。
白蓮はとても格好いい、信念あるボスのはずなのに、何故か可愛さも感じます。
お話に山や谷を用意するのは、あまり得意ではありません。
でも、何かしら、皆様の心を動かせたらな、と思います。
皆が皆、役割を交代しあっているいるのですね。
空の上でタイタニックごっこですね、わかります。
素敵なお話をありがとうございました。