Coolier - 新生・東方創想話

夜雀の歌が聞こえる

2008/08/20 11:43:10
最終更新
サイズ
77.52KB
ページ数
1
閲覧数
1154
評価数
4/20
POINT
1120
Rate
10.90

分類タグ






 
 
  月の明かりが静かな夜に、夜雀の歌が聞こえる。





 ―――― なじかは知らねど 心わびて
        昔の伝説(つたえ)は そぞろ身に染む
        わびしく絶え行く 涙の流れ
        川面に 夢々暗く映ゆる

 ―――― 美(うる)わし 貴方の瞳に恋(こ)いて
        曲がき翼もて 木々の絶え間を
        飛びつつ口ずさむ 歌の声の
        くすしき魔力(ちから)に 魂(たま)も迷う

 ―――― 道行く旅人 歌にあこがれ
        月明かりも見ず 仰げばやがて
        闇夜に沈むる 人も鳥も
        くすしき魔歌(まがうた) 歌うローレライ








 さてさて、この月夜に歌い上げまするは

 とある盲目の少女と、夜雀を巡る物語
 
 今は昔、人と妖が、血と骨とを賭けて闘っていた頃

 人と妖の釣り合いが、厳しく貫かれていた頃の物語

 お席はそのまま。酒の肴にご静聴くださいませ

 耳を澄ませば、ほら、聞こえてきますでしょう?

 夜道に惑う、不埒な小鳥の鳴き声が――












 1.梟の夜鳴声





 誰かが私を殺す相談をしている声で目が覚めた。どんなに周りがうるさい時でも、自分の名前だけは耳にくっきりと飛び込んでくるのは何故だろう、そうぼんやりと考えながら、体温で暖められた布団から這い出る。
 深呼吸して夜の冷たい空気を肺腑に取り込み、聴覚が鋭敏さを取り戻すのを待つと、隣で寝ている姉さんを起こさないように静かに窓を開けた。
 今日は月が出ているのだろうか? ……私の目が光を失って久しい。幼い頃、庭で昼寝をしていた時に、両の瞳を小鳥に啄まれてしまったためだ。
 その代わりに、私は聴覚の網を周囲に張り巡らせる事で視界に代える技術を身に付けた。単に常人より耳が良いというだけではなく、視覚の不備を補って余りある情報収集能力である。
 だが、その異能の事は自分の胸に仕舞い、誰にも勘付かれないように気を付けている。どんな人格者だって、自分の生活を勝手に盗み聞かれていると知れば、良い気持ちはしないだろう。特に、人には言えないような事をしている者達は……。
 秋の収穫祭が近いだけあって、夜の人里は平生より活気があった。出店の準備に追われる者。演し物の練習に余念がない者。逢引を楽しむ若い男女に、早くも羽目を外し過ぎてしまった酔っ払い。
 そして、浮き足立った里の外れ、妖怪達の姿もちらほらと見受けられるような立地の寂れた小屋で、男達は私を始末する計画を練っているのだ。
 うんざりとして、私は意識を里近くの森へ向けた。
 たとえ殺されるにしても、せめて相手ぐらい選びたいものだ。少なくとも人間はお断り、彼女でないと意味が無い。そう、もし叶うならば、あの美しい歌声の主に。この感情が、恋なのだろうか。……おそらく違うのだろうけど、あまり語彙が豊富な方ではない。
 夜の森へ耳を澄ませると、どこかうら淋しい、しかし実に多彩な音が聞こえてくる。うねる葉擦れの音や、暗い川のせせらぎ。かん高い虫の鳴き声に、飢えた獣の遠吠え。妖怪達の落ち着かない様子から、今日はよく晴れた月夜である事が知れる。無数の鳥の合唱の中には、私の目玉を喰らった嘴の主が居るのだろう。
 それでも、鳥の鳴き声は、私が最も愛している物の一つだ。特に、梟の狩猟の雄叫びは良い。皆はその風貌に愛らしさを感じるらしいが、とんでもない。彼らは獰猛な狩人なのだ。暗闇を見通す目と、精確に相手の位置を割り出す耳を持ち、ほぼ無音の飛行から繰り出される爪は、まず獲物を逃がす事がない。
 熊鷹の風切りも捨て難い。森林の生態系の頂点に位置する《森の王者》。ある時は威風堂々と大空を旋回し、またある時には小回りのきく機動力を生かして縦横無尽に飛び回り、哀れな獲物達を震え上がらせる。翼を畳んで加速をつけた飛び込みは、恐怖を感じる暇すら与えないだろうが。
 ……けれど、今私が聴きたいのは、もっと恐ろしい捕食者の、不吉な囀りだった。

 ―――― なじかは知らねど 心わびて

 そんな私の恋慕に応えてくれたのか、夜空に歌が響き渡る。彼女の高らかな呼び声は、あっという間に森の喧噪を駆逐し、私の心を鷲掴みにする。

 ―――― 昔の伝説は そぞろ身に染む

 この歌声を聴いていると、まるで自分も空を飛んでいるかのように錯覚してしまう。流れてゆく黒い森を眼下に、青白い月の光を浴びて……。
 もし私が彼女の肉体の一部となれば、そんな夢想は叶った事になるのだろうか? この鳥籠から、抜け出す事が出来るのだろうか?

 ―――― わびしく絶え行く 涙の流れ

 だが、私の地獄耳を以ってしても、彼女の位置を特定するには至らなかった。それどころか、歌以外の彼女の音を、私はまだ耳にした事がない。文献にも、その一般的な特徴しか載っておらず、姿形は不明とされているようである。

 ―――― 入り日に 夢々赤く映ゆる
 
 だから私は、この縁(よすが)に縋り付くしかない。何度も彼女の歌を暗唱するうちに、すっかり歌詞と旋律を覚えてしまった。軽やかで、かつ蕭然とした歌声をなぞって、心の中で夜に口ずさむ。今度は、この目だけではなく、喉笛を、と。……いけない、興奮し過ぎて鼻血が出そうだ。

「るい~、起きてるの?」

 寝惚け眼の姉さんの声に、私は幻想から引き戻された。少し残念に思いながらも、従順な妹の体裁を整える。

「もしかして、眠れないのかしら? ――あの子の事で、るいが気に病む必要はないのよ。ご両親だって、あなたに感謝してたんだから。もっと見つかるのが遅れていたら、今頃……」
「ううん、大丈夫。……ちょっと、歌が聞こえてきたの」
「歌? こんな夜中に誰かしら」

 姉さんの足音が近づき、窓の外に耳を傾ける気配がする。けれども彼女の耳には、夜の森がどんな素晴らしい喧騒に満ちているのか、聞き取る事は出来ないだろう。

「私には聞こえないわねぇ。まあ、早く寝なさい。しっかりと布団を被ってね、そう。本番も近いんだから、風邪をひいたら元も子もないわ。明日も合唱の練習があるんでしょ。 誰か迎えに来てくれるのよね? 寄り道しちゃいけないわよ。練習が終わったら真っ直ぐ帰ってくる事。それに――」
「姉さんは心配性ね。分かってる」

 姉妹二人暮らしの生計を支えるしっかり者の姉さんは、たった一人の肉親である私にとことん過保護で、こちらが辟易してしまうぐらいだった。剥製作りを主な生業とし、有事には武器を握る事だってある器用な手が、私の頭を優しく撫でる。作業場に漂うのと同じ、薬品の匂いがした。

「最近、森の妖精達の動きが活発になっているらしいわ。白沢様も警戒を呼びかけていらっしゃるみたい。絶対に、一人で出歩いては駄目よ」
「……うん、そうする」

 傍から見れば、私は無力な盲目の少女だろう。しかし集中すれば、木の葉一枚一枚が奏でる音まで聞き分ける事が出来る私の聴覚は、夜闇を見通せない目より、余程身を守る役に立つはずだ。勿論、自身が十分警戒していればの話ではあるが。
 窓を閉めた姉さんが布団に戻る様子を聞きつつ、もう一度森へと耳を澄ませてみるが、あの歌声は既に止み、静寂がぽっかりと口を開けているだけだった。
 月光がこの部屋にも差し込んでいるのか、もう私に知る術は無い。





 2.天蛾の蠱道





 翌日、朝食を終えた私は、いつになく楽しげな姉さんに手を引かれ、《何か》と引き合わされていた。
 促されるままに手を伸ばした先には、かなり上質な反物の感触、しかも恐らく新品である。順に手を這わせてみると、私の(豊かとはお世辞にも言えない)体格に合わせて仕立てられた着物である事が分かった。そんなことをせずとも、耳で聞けばすぐに把握出来たのだけれど。

「ん、ええと……」
「るいはこれまで引き篭もってばっかりで、碌に服も持ってなかったでしょ? ずっと同じ格好なものだから、呉服屋のお上さんが仕立てて下さったのよ」
「でも、これ……、とても普段着には出来ない」
「そうね、まあ、お祭りの日には着ていきましょう。お礼も忘れないようにしなきゃ」
「うん、……うん」

 ずっと昔、誰もが妖魔の存在を信じ、畏怖していた頃。東の国の人里離れた辺境の地に、《幻想郷》と呼ばれる妖異の巣窟があり、迷い込んだら最後、妖怪達に喰われてしまうと恐れられていた。しかし中には、妖怪が人里に下りてこないように見張り、時には退治するため、幻想郷に住み着く人間もあった。
 私達が住んでいるのは、そんな勇敢な(或いは奇特な)人間達の子孫が築き上げた里であり、幻想郷が外の世界から隔離された今でも、人間対妖怪の構図は保たれている。それ故に里の中での連帯感は強く、両親を早くに亡くした姉妹が生き延びてこられたのも、周りの人々の親切があったからだ。不埒な私ではあるが、感謝の念を忘れた事はない。
 それなのに私の耳は、人間同士の不協和音ばかり拾い集めてしまう。表面の態度が綺麗な分、憎い疚しい妬ましいと、独り言ばかりが耳障りに響く。今でこそ、人間なんてそんなものさーと達観してしまっているが、何度幼心に耳が腐ってしまうと考えた事か。まあ、そんなこんなで里一番の耳年増を自負するまでになってしまった私。無論、性的な意味も含めてである。
 お上さんが太っ腹なのは構わないが、この着物の裏に潜んだ打算を実際に聞きつけてしまうと、素直に喜べない自分がやはり恨めしい。呉服屋の長男はお年頃で、姉さんは里でも引く手数多の美人である。それなのに姉さんは、包帯が顔面を横断している私のために、ありとあらゆる縁談を断り続けているのだ。何でもこなせる自慢の姉だが、時々判断力がおかしくなる。
 色調や模様に疎い私のために、姉さんは逐一説明を入れてくれた。

「色は臙脂――深く柔らかく落ち着いた紅色。きっとあなたに似合うと思うわ。それで、蝶々の翅(はね)の模様が染め抜いてあるの。私の青紫の着物とお揃いよ」
「それは……嬉しいなぁ」

 何故って、蝶は鳥に食べられるものだから。そんな戯れ言を考えていると、家の前に人の気配が近付いてきた。

「おーい! 迎えに来たぞ!」
「あら、もうそんな時間なのね。るい、身支度は出来ているかしら」

 支度といっても、部屋からの白木の杖を持ってくるだけで済む。玄関の向こうには、一人の背の高い少女が待ち受けていた。

「おはよう、れいさん。ははっ、今日も良い天気だ!」 
「毎日わざわざ済みません。るいの事、どうかよろしくお願いします」
「いやいや、無理を言ってるのはこっちなんだから、なんて事はないさ。それより、素晴しい天気だ!」
「……ええ、確かに。絶好の洗濯日和です。そうだ、るい、知らない人にお菓子を貰ったり、付いていったりしちゃ駄目よ? 危ないと思った時には、まず大声で助けを――」
「うん、分かってる。おはようございます。サラダさん」
「青くて高くて申し分のない空だ!」

 しきりに良い天気! である事を強調する少女は、お祭りで歌を奉納する合唱団の仮のまとめ役で、本名を嫌い、異国の野菜料理の名前を名乗っている変わり者。朝採りの野菜のようなさっぱりとした性格で、爽やかに響く良い声の持ち主だ。また極度の夜盲症で、対策として妙ちくりんな眼鏡を持ち歩いている。彼女の場合、先天性なので鰻を食べても効果が無いらしい。
 真っ直ぐ帰ってくるのよー、と念を押す姉さんに別れを告げ、里の中心部へと向かう。





「――彼女が妖精の悪戯に遭ったって聞いた時は焦ったよ。ただでさえ今年は流行り病やら何やらで歌い手が足りなかったし、祭りまで二週間を切っていたし。そして純粋に仲間として心配だった。おっと、大丈夫かい?」

 道行く人にぶつかりかけ、転びそうなふりをする私を、サラダさんが支えてくれる。ただし、私が痩せぎすとはいえ、赤ん坊にするような手軽さで。とある事情から、彼女の身体能力は常人の比ではない。ひょろりと肉食獣めいた外見を裏切らない、彼女は優秀な空の狩人である。
 朝から人の往来が活発な目抜き通り。杖を頼りに歩く私を大抵の人が気遣ってくれるが、私には杖無しで走り回れるだけの自信があった。意識を身の回りに集中し精度を増せば、隣を歩く彼女の表情さえ窺う事が出来る。
 ……蝙蝠の反響定位みたいだ、と考えて落ち込んでしまう事もしばしば。あれは鳥類ではなく哺乳類であるらしい。
 猛禽類の鋭い目付きに似合わない朗らかな笑顔で、彼女が続ける。

「しかし君は即戦力以上だね。少なくとも歌声は一等だ! レイラがもう少しで首を吊りそうな勢いだったから、本当に助かった」
「ん、いえ、……まだ足を引っ張っているみたいで、精進します。それで――」

 くどいくらいに私を持ち上げるサラダさんだったが、心の底からそう思っているらしいので、どう返して良いのか分からなくなってしまう。だが、唯一自慢出来る特技である歌を褒められる事は、素直に嬉しい。歌っている時だけはどんな罵詈雑言も耳に入らなくなるから、家では日がな一日小鳥の真似事をしていた。ただ、他人と合わせて歌う事にはまだまだ慣れていないので、現在猛練習中である。(ちなみにレイラというのは、幻想郷の外から来た稀人である。外来人が突飛な行動をとることは珍しくないが、彼女は海向こうからやってきたためか、輪をかけて奇行が目立つ。)
 他人に期待される事なんて初めてで。だからまだ、あの男達には殺されるわけにいかない。何より歌は、私と夜雀を結ぶただ一つの物なのだ。収穫祭のハレの日は、人里で人と妖怪が公然と交じり合う偶の機会でもある。もしかしたら、彼女も姿を現すかもしれない……

「あの……、良かったら、病院に寄ってくれませんか?」
「ああ、彼女のお見舞いかい? 君が第一発見者なんだってね。あの高さから落ちて命があった事が奇跡なら、偶然君がその場に居合わせた事も奇跡だ。二度ある事は三度ある。まだ意識不明とはいえ、その思いやりが無駄になる事はないはずだ。さあ行こう。今すぐ行こう!」
「えっと、引っ張らないで下さい~!」

 私が最初に夜雀の歌を聞いたのは、約一週間前。残念ながら、その時の事はあまり覚えていない。記憶力の良し悪し以前に、注意力が散漫なのだ。それにしたって、あの体験は異常だった。
 家で簡単な雑事をこなしていた私は、突然、強いお酒を一気に流し込まれたような感覚に襲われて朦朧とし、そのままふらふらと日が落ちかけた森の奥へ誘い込まれていった。やがて衝撃が甘い痺れに変わり、酩酊感の中で、自分が誰かの歌声を耳にしているのだと理解した瞬間、絹を裂くような叫び声に現実へと引き戻されたのだ。
 何はともあれ声のした方に向かうと、谷底のせせらぎの中に横たわるか細い呼吸、そして、笑いながら谷川を立ち去る男達の足音を発見してしまう事になる。
 露見すれば非難を免れない異能を隠し通すためには、谷底の少女を見捨て、何事も無かった振りをするのが最良の選択だった。しかしその時の私は、例の歌声の事を何かの啓示だと思い込んでしまっていたのだ。妖怪達の棲む森から辛うじて逃げ戻ると、少女を助けるために応援を頼み、結果として命だけは拾うことが出来た。
 それでも、一応その男達の事は黙っておくことにした。彼女と男達の関係がはっきりしていなかったし、何らかの報復を受けること請け合いだったからだ。彼らは、そういった手合いだった。嫌な予感は的中し、少女が男達と険悪な関係にあったこと、さらに、どうやって嗅ぎつけたのか、彼らの興味が私にも移ったことを聞き知ることになる。
 夜の森で意識不明の重体となった少女と、現場に居合わせた私の奇妙な行動は、悪戯な妖精の仕業として説明が付けられ、私はその無用心な振る舞いを、姉さんにこっ酷く叱られる羽目となった。同時に、合唱団に所属していた少女の穴を埋めるため、働きもしないで歌ってばかりいる不良娘が目をつけられたわけだ。
 さて焦ったのは犯人達だ。件(くだん)の少女が生きているは、犯行現場に第三者が居た事が分かったはで青い顔。その第三者が自分達の悪事に勘付いていたのだと勝手に思い込み(あながち的外れでもなかったが)、学習能力が足りないのか要領が悪いのか、両者の口を封じるために動き出したのだ。
 そこで、私は自分が無力だと思われている事を利用し、少女が収容されている病院の備品を盗むなり何なりして、警備を強化させようと目論んでいた。折角体を張って助けた命、見捨てたとなると寝覚めが悪い。





 しかし、サラダさんと私が病院の前に到着した時、既にそこはてんやわんやの真っ最中で、里の治安を守る自警団の姿もちらほらと聞こえてきた。呆気にとられる私に、一人の小さな女の子が声を掛けてくる。

「貴重で高価で危険な薬品が複数点盗まれたそうなのです。朝っぱらから堂々と。これはもう、お見舞いどころではありませんね?」
「あーっと、……あれれ?」
「おお、サトコじゃないか。良い天気だね!」
「のびやかな青が気持ち良い、素晴らしい空だと思うのです」
「そうだ。いつまでも眺めていたくなる空だ」
「……サトコさんはこちらで何を?」
「二人を待っていたのですよ。まさか練習を怠けるつもりなのですか?」

 からりと透き通ってはいるが、どこか捉えどころのない不思議な声の少女は、サラダさんの昔馴染みで、合唱団の一員でもあるサトコさんだ。
 鍛えられ引き締まった肢体に合わせ、髪を後ろで一括りにしたサラダさんに対し、小作りで儚げな造形に、長々と流れる髪を纏うサトコさんは好対照をなしていた。容姿も性格も全く違う二人の仲の良さは、友人というより相棒、或いは姉妹のそれだった。事実、早くに母親を亡くしたサトコさんは、サラダさんの家に引き取られてから久しいらしい。
 サラダさんは私と同年代、サトコさんにいたってはその半分くらいの年齢に見えるが、実は二人とも、少なくとも私の数倍は生きている大先輩である。前者は代々続く獣人の家系であり、後者は妖怪を片親に持つ混血児だ。
サトコさんの大きくつぶらな瞳が私を見据えた。獰猛な猛禽を思わせる身のこなしのサラダさんを鷹に例えるとすれば、彼女はそのふっくらと膨らんだ髪の影法師も相まって、梟のような印象を受ける。恐るべき感覚器官を備えた、あくまでも静かに佇む暗殺者に。

「ええと、まだ集合まで時間があったので、ちょっとお見舞いを、と。……でも、何でここに来る事が分かっていたんですか?」
「私、趣味と実益を兼ねて、占いをしているのです。言っていませんでしたか? 絶対当たる、いや全然当たらないと評判なのです」
「それは評価が分かれていると言うんじゃあ……」
「サトコ、その評判の占いで盗んだ犯人を見付けられないのかい?」
「占えますよ、しばしお待ちを」

 そう言って、半妖は人差し指でこめかみをぐりぐりと押し始めた。まだ押している。……まだまだ押している。
 獣人の相棒はぼうっと空を眺めていたので、私もそれに倣う。いや、空の音なんて聞こえるはずもないのだけれど。

「――これは、蟲道の問題なのです」
「おっと?」
「蟲道とは、文字通り虫を使う術、特に毒を生成し蓄える技術を指します。毒薬変じて甘露となる。そもそも薬は毒を適切に薄め配合して使うものなのであり、薬も使い過ぎれば毒となります」
「アレが百薬の長だったり、百毒の長だったりする話かな?」
「身体の毒の釣り合いを調整するために薬を使うのですから、どんな薬にも副作用があります。つまり、副作用以上の有用な効果がある時に限り、毒は薬として成立するのです。これは、こういう問題」
「虫はどこに行ったんだい?」
「無視については後ほど説明するとして。さしあたり大雑把に纏めておくと――人生色々、という事なのでしょう」
「……大雑把過ぎです!」
「物は言いよう、という事だね? 犯人は分かった事だし、そろそろ行こうか。ぐずぐずしているとあの姉妹に怒られてしまう」
「え、え?」

 サトコさんの占い(多分)はわけが分からないうちに終わってしまったが、二人の間には通じるものがあったらしい。私には介在しようのない、阿吽の呼吸である。
 まあ、あれだけの騒ぎになっているのなら、暫くは警戒が厳しくなる事だろう。労せずして目的が遂げられていた事に拍子抜けしながらも、これで男達の目標が絞られるという事実に、私は身を引き締めた。





 3.イルスタードダイブ





 自分を中心に半径約50メートルの円。それが、周囲の状況を正確に把握出来る領域の限界である。その内側に死角はないものの、距離が離れるにつれて世界は曖昧になっていく。地形なり音の多寡なりで精度は左右されるが、何より重要なのは集中を乱さない事だ。練習からの帰途、遠く日没を告げる鐘の音を聞きながらも、私は辺りの様子にこそ耳をそばだてていた。
 私達姉妹が住む家は森に近い里の端にあり、男達が集まる小屋はその反対側にあるため、私は彼らの計画に対して、概要以上の情報を掴んでいない。しかし、彼らの慎重になりきれない動向を耳にし続けていれば、何とか対応は可能である。
 事件を目撃した(かもしれない)私の口封じ(ついでに色々)の試みは、毎度、あまりにもお粗末な計画に基づいて繰り返されていた。私の聴覚を差し引いたとしても、成功の可能性は五分といったところ。
 小細工を弄さず、王道を仕掛ければか弱い少女である私なんてどうにでもなるのに……。いや、自分も人の事は言えないか。このままだとじり貧になることは目に見えているものの、なかなか彼らの尻尾を掴む事が出来ずにいる。そういう用心だけは周到なのだ。
 練習不足を補うためにぎりぎりまで粘っていたので、既に人里は夜の帳に包まれていた。にもかかわらず、まだまだ祭りへ向けての準備や、話し合いを続けている人々も多い。そんな浮ついた里の風景に混じって、こっそりと私の跡をつけてくる複数の足音があった。私は、白木の杖を軽く握り締める。

「そういえば、さっきサラダに不思議な事を言っていませんでしたか。今夜は里の守りを堅くした方が良いとか……。実は貴方も占い師なのですかね」

 獣人の能力を生かした里の護人の一人として、夜間警備の任に当たっているサラダさんに代わり、サトコさんが付き添いを申し出てくれていた。
 彼女の台詞は遠回しな響きを纏い、易々と本音を覗かせない。その癖、時折こちらの心理を見透かしたような言葉を閃かせるので、対人経験の乏しい私の話し相手としては手に余る。

「いえ……、何と無くそう思っただけで」
「ふーむ。何と無くなのですか。へー」
「あはは……」
「ふふふふっ」

 本当に何と無くとしか言いようがないのだ。練習中、認識を思いっきり拡散してみた際に、妖怪達の動きが常と違うような気がしたのである。
 無論、地獄耳の事を言えるはずもなく、理由については口を濁したが、サラダさんは進言してみると即答してくれた。彼女は、他人を疑わない事を自らの美徳としているらしい。
 幻想郷の人間が滅ぶと妖怪も困るため、人間の里は妖怪の賢者に保護されている。
 とはいえ、あくまでも後ろ盾としての意味なので、小競り合い程度なら日常茶飯事だ。『妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する』という構図を維持するための、最低限の儀礼的なものである。
 戦いの中で妖怪が命を落とす事は滅多にないし、そうそう本気を出すこともないため、人間側の損害も甚大という程ではない。まあ、外の人間はよく妖怪に食べられているが。
 目下注意すべきは男達の尾行である。武器を隠し持っているようだけれど、まさかサトコさん共々襲うつもりなのか。里の中心部から離れるにつれて賑わいこそ少なくなるものの、人目が絶える事はまず無いので、いざとなったら保護者の勧め通り、大声を上げる事にしよう。家はとっくに調べられているだろうが、姉さんはああ見えてかなり強いので心配無い。半分とはいえ妖怪のサトコさんを捻じ伏せる事も、簡単ではないだろうし――
 心ここに在らずの状態で世間話を交わしていると、突然何か大きな塊が、遥か真上、認知外の空間から風を切って急降下してきた。物理的に不意打ちされる経験から長く遠ざかっていた私は、豆鉄砲を食った鳩よりも驚き、何の反応も出来ずに硬直する。
 一瞬、世界が形を失い、私は縋る物の無い暗闇へ放り出された。遅れて自分が悲鳴を上げていた事に気付き、何とか聴覚を立て直す。
 気付けば謎の飛来物は、立ち尽す私達を押し潰す事もなく、頭上でぐるぐると旋回を始めていた。それが翼を広げた巨大な猛禽である事に気付き、私はほっとする。
 なんだ、鷹かー。

「って、でかい!?」
「はっはっは。悪い、驚かせてしまったね」
「しかも良い声です!」
「サラダ、何かあったのですね」
「ああ、もうすぐ聞こえてくると思うけど」

 人間の背丈を優に超える巨大な鷹が、気さくに声を掛けてきた。頭部には、鳥目対策の妙ちくりんな眼鏡――前面を分厚くし、覗き窓を嵌めたような代物で、恐らく呪器の類――を装着している。声が違うので最初は判らなかったが、口調はあの半人半獣そのものだ。
 獣人には、呪いや祟り、魔法を掛けられたことが原因となる後天性と、血筋による先天性とがある。前者は変身しても人間の姿を残しているが、後者は完全に動物の姿になってしまう。
 鷹は、サラダさんが変身したものだったのだ。知らなかったわけではないが、実物を目の前にしてみると、その、予想以上に格好良い。やっぱり鷹は良いなぁ。
 そして彼女の言葉通り、激しく打ち鳴らされる半鐘の音が人里に響き渡る。長く続いた乱打は、一旦間をとって再び繰り返された。これまでにも幾度となく聞いた、妖怪の襲来を告げる警鐘である。しかもその調子からして、相手はかなり大勢らしい。

「今回はやっこさん方、大分気合が入っているみたいでね。久しぶりに腕が鳴るよ! 当直の者達は迎撃の準備に入った。非戦闘員の避難が済み次第、控えの部隊も出る」
「せっかちだこと。その按配だと、今夜は長引きそうなのですね……」

 里の人々がしぶしぶ祭りの用意を切り上げ、各々に割り当てられた役目を全うしようと走り出す。怯えた子供の泣き声や、大人達の怒号が飛び交う中、私の跡をつけていた男達も行動を始めていた。緊急事態に退散するのかと思いきや、騒ぎに乗じて事を為すつもりなのか、じりじりと冷静に距離を縮めてくる。
 これは不味い。体力の無さには自信がある私、平生の規範が通じない非常時となれば、彼らから逃げ切れる確率はぐんと落ちる。当然、反撃となると尚更難しい。

「あの、サラダさん――」
「すまないが後にするんだ。遊撃と取り残された人の救出を任されていてね。あまり時間は無い」
「うう、せめて冥土の土産に、翼とか撫でさせて下さい」
「何を言っているんだ? るいが心配だと君の姉さんが駄々を捏ねてね。サトコが付いているから心配ないと言ったんだが、そわそわして戦闘どころじゃなさそうだった。そこで、私が迎えに来たというわけさ」
「……ええと、姉がご迷惑をお掛けしましたぁ……」

 助かった。でも凄く恥ずかしい。いつも避難を手伝ってくれている隣の家族には、向こうで話をすれば良いだろうか――。身の危険が薄まった途端に俗っぽい事を考えてしまう自分に苦笑していると、サトコさんが鷹の背中にひらりと飛び乗った。

「謝る事はない。私も少し気になっていたんだ」
「ふーん、信頼してくれているのではなかったのですか? ――ま、それは置いておきましょう。るい、上に乗るにはコツがいるので、今回は下で我慢して欲しいのです」
「え、きゃっ」

 心の準備も出来ないまま大きな鉤爪に体を攫われ、世界が後方へ急加速する。音が歪んで景色が千々に砕け散り、驚愕を自覚することも出来ず心の臓が縮こまる。耳元で風が轟々と唸り、濁流に呑まれたような心地でどれほど耐えただろうか、すっかり見当識を喪失した私は、ほうほうの体で地面に降り立った。

「大丈夫かい? 出来るだけ優しく持ったつもりだったんだがな」
「いえ……、飛んだのは初めての事で……うぷ」

 初体験に幻想を抱いていたつもりはないが、とにかく高速過ぎた。感動する暇など、色々な意味でありはしない。
 全く動じていない同乗者に肩を貸してもらって礼を言い、再び夜空に飛び立ってゆくサラダさんを見送る。変身した獣人は、妖獣並みの力と人間の知恵を併せ持つ。そう簡単に妖怪に遅れを取る事はないだろうけれど……。そんな私の不安を見通したかのように、長い髪がふるふると揺れた。

「問題ないのです。サラダはお調子者ですが、妖怪相手に油断するような素人ではありません。あ、今夜の妖怪は虫の群れとの事らしいのですが」
「虫ですか……。私はちょっと苦手です。蚊の羽音とか、蝉の合唱とか、忍び寄る芋虫毛虫とか」
「でも、美味しいのですよ」
「……まあ、蜂の子ぐらいは料理したこともありますけど」

 相変わらずの、感情が読めない声。髪に覆われた小さな顔(かんばせ)は、変わらぬ気怠げな無表情で飾られている。そんなサトコさんについては、地獄耳の私もほとんど情報を手に入れることが出来なかった。
 もしかしたら、自分と同じように引き篭もりなのかもしれない。占い師って、そんな印象を受ける。

「『そういえば、蝶って料理に使えるのだろうか?』……ふふ」

 独り言を呟いて、私は首を捻った。サトコさんはあらぬ方向へ微笑したまま、髪に手櫛を通している。





 4.ミステリアスソング





 緊急時の避難場所には、防備が整っている公共施設や有力者の敷地が指定されている。その内の一つである稗田家は、膨大な量の知識を蓄え、幻想郷の歴史を独自に編纂する役割を持つ家である。
 八代目の《御阿礼の子》――転生を繰り返し、人間が幻想郷で安全に暮らすための指南書《幻想郷縁起》を代々執筆し続けている稗田家の当主――である稗田阿弥は既に亡く、現在は阿弥の甥が当主代理を務めている。
 実利を優先して装飾を排し、それでも格式を失わない歴史ある広間は、限度一杯の人々を収容しざわめきに満たされていた。杖を持った私と背が低いサトコさんは、警備の都合上、子供やお年寄りと共に別室へと通される。
 二人して壁際に並ぶと、私は屋敷内の声に聞耳を立てた。
 里の全域に避難が勧められるほどの大規模な襲撃は久しぶりだったものの、人々は比較的落ち着いているようだった。前線の者達の無事を祈る者。気を紛らわすために軽口を叩き合う者。最近の睡眠不足を補うためか、立ったまま寝ている猛者もいる。
 そして、遠く干戈を交える音が聞こえてくる。妖怪達の大部分は例の森からやって来ているようで、既に森林に近い里の端で衝突が起こっていた。戦闘の状況を聞き取ろうと耳を澄ませると、朧げながらも、戦況は拮抗している事が判った。
 妖怪は一匹一匹の身体能力が高く、腕力、敏捷性、頑丈さ或いは特殊能力といった各自の得意分野を活かし、力任せに人間達を圧倒しようとする。対する人間が誇るのは、先祖代々受け継がれ洗練されてきた技であり、発展し鍛え上げられ続ける武具道具、そして何より仲間との連携であった。
 妖怪一匹に対し常に複数で当たり、その長所を封じ込めようとする人々と、たとえ囲まれようとも退かず、実力を以って自らの流儀を押し通そうとする妖怪達との攻防は一進一退の様相を呈し、段々と人間側に疲れが見えてくる。常より長引いている戦闘に、銃後の者達も不安の色を隠せなくなっていた。
 やがて、迎撃部隊が一斉に撤退を始める。勢い付いて攻め込む妖怪達に、しかし思わぬ方角から雨あられの猛攻が降り注ぐ。森側の集団とは別に、里の各地へぱらぱらと進入していた妖怪達。その別働隊を各個撃破するために散開していた精鋭達が、激戦区へと到着したのだ。
 彼ら彼女らの大半は獣人や妖怪退治の専門家で、一人一人、或いは一組一組が妖怪に比肩する実力者である。西洋の魔術を使う者があれば、拳一つを武器にする者もいる。式神をけしかける術者の隣で、魔性の楽隊が狂騒曲を奏でる。護り手の代表である白沢様は、虫の軍団の長らしき少女と刃を交えていた。
 どっちが妖怪だか判然としなくなってきた戦場に、姉さんらしき人影を聞きつける。鬼蜘蛛の妖怪が踏み抜く足を構えた大鎌で薙ぐが、更に切り込んだところを毒液で狙われ、体勢を崩す。そんな彼女の危機を救ったのは、亀よろしく上空から投げ落とされた大甲虫だった。再び獲物を掻っ攫おうとする鷹に、蜂の軍団が追い縋る。
 双方共に被害を受けてはいるが、妖怪は、怪我や戦意喪失で無力化した人間を狙わないし、人間も、逃げ出したり降参したりした妖怪を追う事はない。奇妙な合意がそこにあった。
 どうも今回の襲撃は食糧を目的としたものではないらしい。そもそも腹を空かせて里を襲うのは下等な妖怪だけであり、単独犯か、多くて数匹の集団が関の山だ。かといって力自慢をしたいのなら、直接妖怪退治の専門家に勝負を挑めば良いのだし、指導者らしき少女も、虫達の統制を取りきれていないようである。めいめいが暴走しつつも、全体としては一つの目的に群がっているこの状況。もしかして彼らは、怒っているのだろうか?
 私は、尾行してきた男達の手際が妙に良かった事を、彼らの冷静さを思い出していた。これまでに人間の悪徳を散々耳にしてきた自分ですらあまり想像したくない可能性だったが、よもや彼らは、私を捕えるために妖怪達を挑発したのではあるまいな……。手段に目的が釣り合わないか。しかし、私が副次的な目標だと仮定すれば……。
 いやいや、到底信じ難い仮定だった。不確実な要素が天こ盛りの計画で、人間が人間を狩るために妖怪を利用するなんて、そんなの――

「『どっちの方が恐ろしいのやら』。貴方は、そう思ったのでしょう?」

 半妖の少女の呟きに、私の心臓が大きく跳ねた。冷たい汗が顔面の包帯を濡らす。ただ、自分の心中をずばり言い当てられたからだけではない。彼女の声は、普通なら唇に耳を寄せてやっと聞き取れるか聞き取れないかという小ささだった。それはつまり、私の能力が――

「『覚られている』のですよ。そう、混乱するのも当然かもしれませんが。貴方は、情報収集に長けた能力が、自分以外にも備わっているという可能性を念頭においておくべきなのでした」

 長い髪を掻き上げ、サトコさんが私の顔を覗き込んでくる。その何でもない仕草にすら心を乱され、思わず全神経を集中させて彼女の様子を探ってしまう。人形のような矮躯、億劫そうな無表情の隅々まで確認すれば、彼女が理解可能な存在になるとでも言うように。

「片親が覚(さとり)という妖怪でして、私もその能力を受け継いでいるのです。胸中を見透かし、考えを読み取り、心の声を聞く能力。ただし、私の場合、自分の意思とは無関係にですが。それにしても、貴方は中途半端な事をしています。……『自覚はある』のですか。能力を隠すなら隠す。晒すなら晒す。知り得た知識全てに責任を持てなくとも、誰が貴方を責めると言うのでしょうか。胸を張って悪事を告発すれば、たとえ逆恨みされたとしても、誰かが貴方の味方に付くはずなのです。どっちつかずの日和見なら、身を滅ぼしても自業自得」

 いきなり図星と正論で滅多刺しにされ、早くも私は戦意喪失してしまった。表情一つ変えずに、彼女は続ける。

「この能力は残酷ですが、私が嘘をつかない限り――悪用しようとしない限り、落ち度は相手にあります。疚しい心、悪の秘密が、自分自身へと突き付けられるだけなのですから。即ち私への恐怖は、己への恐怖。故に、覚を撃退するためには、そう、《思わず》の一撃が必要だったのです。そして、私が占い師を生業としているのは、――こんな話とは何の関係もありません」

 今度はずるりと転びそうになり、危うく何とかの先の杖で踏みとどまった。流石、見事に心の隙をついてくる。

「私は、自分が責任を持てる範囲でこの能力を活かそうと思っただけなのです。占い師が金銭と引き換えに提供できるのは、単なる選択肢のみ。それ自身には何の価値も無いのですが、選択肢が万物の記憶と結びつく事で、物事の確率を操作する事が出来るのです。未来は予定されているのではなく、確率によって構成されていますから」

 ――曰く、世界は三つの層が互いに影響し合って構成されているとの事らしい。一つは、生き物や道具等がある、物理法則に則って動く《物理の層》。二つ目は、心の動きや魔法や妖術など、結果の解釈で左右される《心理の層》。最後の一つが、万物が出来事を覚える《記憶の層》で、確率の変化に深く関わっている。占い師は、この三つ目の層に干渉する事によって、未来を操る事が出来るというのだ。

「例えば、《紅い物を身に付けると良い事がある》という占いの結果が出た事を世界が記憶している事によって、《良い事がある》結果が占いに付いてくるのです。ここで重要なのは、《紅い物を身に付ける》かどうかの選択が相手に託されている事。この緩衝材が無いと、結果が相手の物になりません。……私の能力は、その相手に託すべき選択肢を選別する事にとても役立つのです。しかも、能力の及ばない記憶の層を通す事で、その残酷さを和らげる事が出来ます。――大雑把に纏めると、当たるも八卦、当たらぬも八卦」
「は、はぁ。そうですかー」

 最初の衝撃から頑なに身構えていたつもりだったが、彼女の意味不明な話を聴くにつれ、いつの間にか自棄になってしまっていた。今の超理論も、彼女なりの、精神の緊張をほぐすための荒療治だったのだろう。かなり適当な事を言って思考停止を誘っているとしか思えない。

「それは心外なのですが……、まあ良いでしょう。私は貴方に、選択肢を伝えられれば構わないのですから」
「あの、その前に一つ、言いたい事があるんですが……」
「貴方は『サトリで覚子(さとこ)は安直なんじゃあ』と思っているのですね? ふふふっ、これでも気にしているのです」
「あ、……ごめんなさい」

 そして、彼女が囁き私が思う、静かな会話が再開された。

「そういえば、虫の話がまだでしたね。貴方は、蝶と蛾の区別をつける方法を知っていますか? 『蛾は夜に飛び、蝶は昼に飛ぶと思う』……確かに、蛾は夜間に飛ぶ事が多いのですが、昼行性の蛾の仲間も少なくないのです。逆もまた然り。『蛾はとまる時、翅を開いているはず』……それはまあその通りなのですが、蝶にも翅を広げてとまる者がいるのですよ。太陽光線を受け止めて体を温めたいだけの場合もあります。『蛾より蝶の方が綺麗だ』……論外なのです。地味な蝶は幾らでもいますし、昼行性の蛾は得てして美しいものです。……そう、一番良い方法は、触角の先の形を見る事ですが、これも絶対確実とは言い切れません。専門家の間でも、蝶と蛾の区別がつけられていない種がいるのですから。それでは、《蝶と蛾の境界》はどこにあるのでしょうか?」

 小揺ぎもしない瞳で私を見据えながら、覚の少女は唇に指を添える。一言一句を確かめるように発音し、自分でも何かを吟味しているような調子だ。

「…………毒と薬は同じ物でありながら、使用方法如何によって呼び分けられます。似たような物には勿論の事、実際を同じくする物の間にも、境界は存在するのです。では、《人と虫との境界》は? これは簡単かもしれません。少なくとも――『人間は脊椎動物で、虫は無脊椎動物だから――』……そう。それでも、その線引きは絶対ではないのです。《蝶と蛾の境界》が、《毒と薬の境界》が時として曖昧になってしまうように、人と虫とが逆転し、混同されてしまう事もあるのですよ。……境界は呼吸しているのです。何者も通さない完全な結界に、意味などありません」

 そこまで言うと、彼女は私にそろりと体を寄せてきた。半妖であるためか、その体温はひやりとしている。

「一度、外の状況に耳を通してみてくれませんか」
「あ、はい、そうですね。……今回はぐりぐりしないんですか?」
「あれは虫がいたのです」
「……」

 そして、外の風景が脳裏に像を結んだ瞬間、私は勝負が決着しつつある事を悟った。大方の妖怪は敗走し、殿(しんがり)を務める数匹の妖怪だけが必死の足掻きを見せている。
 相手するのはたった一人の少女。嵐のように浴びせ掛けられる打撃、射撃、妖術奇術をいとも簡単にいなし、赤子の手を捻る要領で妖怪達を吹き飛ばす。もし私がすぐ傍で聞いていたとしても、その面妖な飛行を捉える事は難しかっただろう。それなのに、少女の呟きは余裕綽綽とした調子で響く。

『久しぶりに根性ある妖怪が出たって聞いたんだけど。何だ、弱っちぃ奴ばかりじゃないの。面白くないわね~』

 呆然と人間側の練達が遠巻きに見守る中、妖怪達がことごとく蹴散らされてゆく。サトコさんが、感嘆の色を隠さずに囁いた。

「博麗の巫女が出張って来たのでしたら、もう心配は要らないでしょうね。――ああ、まだ話は済んでいないのでした。蝶と蛾の間だけではありません。何事にも例外が、境界線に跨る物が存在します。私がその典型的な例なのです。妖怪の力を持ちながら、人間社会に溶け込み、暮らしを共にしている。と言っても、どちらかに与するつもりはありません。客の大半は人間ですが、妖怪の知り合いもいますしね。――え、『夜雀にも知り合いがいるのだろうか?』……残念ながら、私も詳しくは知らないのです。貴方もこだわりますねぇ。そう、その執着の善し悪しについては、いつか自身で境界を引かなければならないのでしょう。人間が妖怪になる事があるように、妖怪にも人間らしさが残っているように、……この私が存在するように、《人間と妖怪の境界》にも、通い合う道が存在するのですよ。たとえそれが蜘蛛の糸のように細く、複雑な道だとしても。今は意味が分からなくとも、この選択肢が《記憶の層》に干渉出来れば十分なのです」

 やがて、避難場所にも朗報が伝えられると、人々は歓声を上げ、勇敢な戦士達を祝福した。手に手を取り合って喜ぶ奥方連。何事かと目を覚ます居眠りをしていた者。
 けれどもまだまだ片付けるべき事は山積みである。建物の被害は日が昇ってから確認するとしても、怪我人の治療は急を要するし、火災や毒、妖怪の残党にも処理が必要だ。何より、祭りに影響が出ないか心配する声が大きかった。
 さあ、お次は私達の出番だ、いやお前はこっちを手伝えと、三々五々に散らばってゆく人々に混じり、私は家路につく。
 幸い、近くで戦闘が行われたにもかかわらず、住まいに被害はないようだった。周囲に男達の気配が無い事を確認し、送ってくれたサトコさんに感謝の意を伝える。
 色々と彼女に聞きたい事はあったが、まだ自分の中で上手く纏まってくれていなかった。彼女も自分から説明する気は無いらしく、二人して他愛ない世間話をしていた道のり。覚も色々と大変らしい。性的な意味も含めてである

「……人間の想像力は、計り知れませんねぇ。あ、最後に一つだけ、聞いても良いですか?」
「女の子に年齢を聞いてはいけないのですよ?」
「分かってて言ってますよね……。あの、何で私に、その能力の事を明かしてくれたんですか?」
「貴方が自分の命をどう利用しようと勝手……、しかし、私達の合唱にはその声が必要なのです。せめて、祭りの日までは生き延びるように」
「ぜ、善処します。はい」
「それと、薬品を盗んだのは私なのです」
「え!?」
「そういう事なのですよ。それでは、また明日会いましょう」

 それきり口を噤んでじっとこちらを見据えた後、唐突に彼女は踵をめぐらせた。
 言うまでもなく、覚ならぬこの身には彼女の真意など確かめようがない。





 5.夜雀の歌





 家の中には人気が無かった。姉さんはまだ残務に追われているのだろう。私は、とりあえず湿った包帯でも換えようかと引き出しを開け、中身を探った。
 眼球を失った場合は、眼窩の形が崩れないようにする必要性と見た目の問題から、義眼を嵌める事が一般的だったが、私は呪的な装飾が施された包帯で代用している。義眼は、姉さんが作った動物の剥製を思わせて受け付けなかったのだ。
 居間の飾り棚の上からは、トカゲや鳥、獣達の、硝子で出来た瞳が見下ろしている。生き物の死体を、そのままの姿で、ずっと……。

 ―――― 美わし 貴方の瞳に恋いて

 そうして包帯を外そうとした時、またあの不吉な調べが響き渡った。姉さんの事や覚の話が一遍に頭から吹き飛び、杖を掴んだまま無我夢中で外へと飛び出す。

 ―――― 曲がき翼もて 木々の絶え間を

 相変わらず位置を特定する事は出来なかったが、心なしかその声が近いような気がした。風にざわざわと蠢く森を目の前にして立ち止まり、私は夜空を仰ぐ。

 ―――― 飛びつつ口ずさむ 歌の声の

 自分でも気付かないうちに、私は彼女に合わせて口ずさんでいた。もしこの歌が聞こえているなら、会いに来て欲しい。その存在を確かめさせて欲しい。攫って欲しい。包帯の下の暗闇が、熱を持って疼く。

 ―――― くすしき魔力に 魂も迷う

 次の瞬間、耳元で音が弾け、誰かが悲鳴を上げて地面に叩きつけられた。そのまま、地面を跳ねて痙攣する。――小型の虫の妖怪だった。
 気が付けば、種々の妖怪達が、また狼や犬の類の妖獣が、森の中から群れ集ってきていた。突然後ろから肩を掴まれ、ぎくりとして耳をそばだてる。

「大丈夫か? 一体何でこんな所に……。っと、包帯? あー、取り敢えず走るぞ!」

 そう言って森へと妖気を叩きつけ、妖魔達が怯んだ隙に私の手を取って駆け出したのは、里の守護者である白沢様だった。
 そのまま森から十分遠ざかると、誰も追って来ない事を確認し、腰に手を当てて仁王立ちになる。彼女は、頭から角を生やして怒っていた(比喩である、念のため)。

「小物ばかりで助かったが……。それで、お前は何者だ? こんな夜に一人歩きは感心しないぞ。しかも森に入ろうとしたりして――何のために私達が心を砕いているのか分らないじゃないか!」
「あ、その、ごめんなさい……」
「その位にしておいてあげて下さい。ちょっと事情があるのですよ」
「え? サトコさん――」
「心配要りません。白沢様は私の能力もご存知です。気になさらないとは言いませんが、誠実なお方ですから。実は――」

 偶然現れたのではなく、得意の占いで待ち構えていたらしいサトコさんが、白沢様に私とその異能の事を大雑把に説明する。里の守護者はふむふむと頷き、何でもないかのように私の手を取った。

「成程、まあお前の気持ちは分からないでもないが。……しかし何だ、少しぐらい人を頼ってみても良いんだぞ。特に肉親にぐらいなら、打ち明けても嫌な顔はしないはずだ。零(れい)の事なら私も知っている。しっかりした姉じゃないか」
「はい、私の、自慢の姉です。ですが……」
「いや、良い。口を突っ込みすぎたな。だが、妖怪の件なら私にも対策が立てられる。ちょっと私の家まで来てくれないか。覚子さん、もし暇があったら、零にもその事を伝えておいてもらえないだろうか。あと、葬儀場の手配のことで――」

 サトコさんに細々とした連絡を頼むと、白沢様は私を自分の住まいに案内してくれた。理知的な、深みのある声から窺える実直な人柄そのままの飾り気の無い住居には、山と積まれた古い書物の匂いが充満している。
 しかし、綺麗に整頓されていただろう家財の一部は引っ繰り返され、お酒の瓶が囲炉裏の傍に転がされていた。犯人は、何食わぬ顔で台所から現れた一人の少女である。

「あら、ハクタク。おつまみが何処にあるか知らない?」
「あら、じゃないだろう! 勝手に忍び込むな!」
「あらら、だって折角里まで来たのに、お酒の一杯も売ってないんだもん」
「ここは酒屋じゃないぞ?」
「えー。折角張り切ったのに」
「報酬ならちゃんと支払うさ。何なら頭突きでも構わないぞ」
「やってみな、その変てこな帽子が潰れるよ」

 白沢様と憎まれ口の応酬を交わすのは、無数の妖怪達を軽々と打ち破ったあの巫女さんだった。しかめっ面をする半人半獣も意に介さず、飄々とした調子で室内を物色している。
 すぐ近くにいるはずなのに、時折彼女の姿がぶれて聞こえるのは、果たして私の気のせいだろうか? 彼女の持つ特殊性は、私やサラダさんのそれとは一線を画している。顔色一つ変えず妖異を討滅する手際は妖怪たちに蛇蝎の如く忌み嫌われ、味方のはずである人間にも畏怖の眼差しを向けられている。そんな巫女の神社に訪れるのは、よっぽどの変わり者だけだ。壊滅的に不器用で短気な性格がその風潮に拍車をかけている。

「大体あんた、私が来なかったら危ないところだったじゃないの」
「お前が現れなかったら、あいつを説得出来ていたかもしれなかったんだがな」
「はぁ? その帽子の下、蛆でも湧いてるんじゃないの? 人間と妖怪が仲好し小好しなんて、そんな戯れ言をほざくのはあのババァだけで十二分よ! たとえあんたが半分人間でも、妖怪の味方をするのなら容赦はしない」
「違う。詳しくは明かせないが、彼女達の大切なものが誰かに荒らされたんだ。その犯人の引渡しを要求してきた。私だって、里にそんな人間がいると信じたくはないが……」
「ふん、知った事じゃないわよ」

 巫女さんは納得していないようだったが、憂い顔の白沢様が差し出した座布団には、素直に胡坐をかいた。そして、その犯人の正体に思いを巡らせている私に視線を移す。

「で、あんたは何者? その包帯……、木乃伊か何か?」
「ち、違います。死体じゃないです」
「あれま、そんな気がしたんだけど」
「彼女はあの大鎌使いの妹だ。おっと、待たせて済まないな。今持ってくるよ」

 一旦家の奥に引っ込んだ白沢様は、古い小さな箱を持ち出してきた。巫女さんが興味津々に身を乗り出す。

「何それ? 秘蔵の酢昆布でも入ってるの?」
「おつまみから離れろ。……夜雀の歌は人を惑わし道に迷わせると伝え聞く。一番適切な対策は、夜の森を一人で歩かない事なんだが、お前の場合はそうも言ってられないな。確かに、耳が良い者には、その分歌の魔力が覿面(てきめん)だろう」

 箱の中には、小粒の鈴の房が仕舞われていた。白沢様がそれを摘み出すと、しゃらんと涼やかな音色が広がる。

「そこで、歌には楽器で対抗すれば良いと考えたんだ。これは昔、神社の祭具を新調した時、先代の巫女から預けられていた物だ。いつか役に立つ時が来るんじゃない? とな」
「って、私のじゃん……」
「お前が持っていても仕方ないだろう? 妖怪退治の専門家が使っていた鈴だから、魔を退ける効果は抜群のはずだ。また、夜雀の歌声は他の妖怪か何かを呼び寄せる力を持つらしいが、低級な奴なら、この音色を聞くだけで尻尾を巻くだろう」
「私のー!」
「それと、夜雀は人を鳥目にしてくる事があるそうなんだが――、お前には関係なさそうだな」
「あ、はい、そうですね。……けど、大丈夫なんですか?」
「にゃーー!!」
「良いんだ。他にも何かあったら訪ねて来てくれ。私で良かったら相談に乗る」

 鈴の房を杖に括り付けてもらい、私は白沢様に丁重にお礼を述べた。これで夜雀が近寄らなくなるとすると複雑な心境だったが……。心遣いが有難い事に変わりはない。
 束の間、彼女に男達の件を打ち明けてしまおうかと思ってしまったが、その性格を鑑みると出来ない相談だ。真面目で人間が大好きな彼女は、男達のような種類の悪を理解する事は出来ないだろう。そして、彼らはその隙を逃さない。
 その時、じっと鈴に見入っていた博麗の巫女さんが、今度は私をむすっとした表情で睨み、ずかずかと近寄ってきた。思わずのけぞってしまった私に、数枚のお札を押し付けてくる。

「その杖に貼っときなさい。鈴の効果が倍にはなる」
「あ、ありがとうございます。ええと」
「馬鹿。別にお礼を言われる筋合は無いわ。里の人間に死なれると、私が仕事を怠けてるって思われるの。……精々気を付ける事ね」

 そのまま身を翻して出口へ向かう彼女だったが、いきなり室内へ飛び込んできた人物に突き飛ばされて囲炉裏に落下しかけ、散々踏ん張った末にやっと飛べる事を思い出した。超然としているんだか、抜けているんだか。そして――

「っ! るい!」
「ね、姉さん!? むぐ――」
「良かった……、本当に、良かったぁ」
「――……」
「零、妹が可愛いのなら、少し腕を緩めたほうが良い」

 目に涙を浮かべた姉さんに思いっきり抱きつかれ、言葉どころか呼吸まで奪われた私は、またもや白沢様に命を救ってもらうことになった(正直、今回の方が危なかったような)。
 すっかり不貞腐れてしまった巫女さんと、微笑ましい光景を前にした顔付きの白沢様が見守る中、姉さんが改めて私を抱きしめ直す。

「もう、本当に心配したんだから! サトコさんに聞いたわよ!」
「ん……」
「あれほど真っ直ぐ帰って来なさいって言ったでしょう!」
「うん、ごめんね」
「あなたは、私たった一人の家族なんだから、ずっと、ずっと――」
「ごめんね……」
「――るい、もう、勝手にどこかに行ってしまっては駄目よ……」
「……うん」
「ねえ、ハクタク。これ、私が悪いの? 私がここに居ちゃいけないの?」
「いや、そもそもお前は不法侵入者だ」

 姉さんの腕の中で、汗と血が混じった甘い匂いを嗅ぎながら、私は全然別の事を考えていた。
 泪(るい)なんて、自分に似合わない名前もあったものだ、と。





 6.ヒューマンケージ




「むかーし昔、ある所に、険しい岩山に囲まれた小さな国があった。武骨だが堅実な繁栄を誇るその国を訪れた旅人は、決まって同じ噂を耳にすることになる。
『ほら、天まで届きそうな背の高い塔が、お城から伸びている様が見えるだろう。あの塔の』てっぺんには、この国のお姫様が住んでいらっしゃるんだ。何でもものすごい美人で、偶然窓の外を通りかかった鳥が、お姫様に見惚れちまって墜落した、なんて話もあるくらいだ。光輝くそのお姿から、《灯台姫》なんて綽名がついてるのさ。塔の入り口は厳重に封鎖されていて、その上幾重にも張り巡らされた罠が侵入者を拒んでいる。――当り前だろう、お姫様にあこがれて何とか一目その美貌を拝見しようと、あわよくばお近づきになろうって男達が絶えないからだよ。しかしまず不可能だろうね。私達でさえ、そのご尊顔を拝見する機会が全然無いって言うんだから……」
 その日も灯台姫は、部屋に一つきりある窓から外の世界を眺めていた。質素な暮らしを旨とする市井から立ち上る細い煙を、長らく国を外敵から守ってきた堅牢な霊峰の稜線を。
 すると、一羽の大きな鷹がすぐそばを飛んでいるのに気が付いた。どうやら、塔の上をぐるぐると旋回しているらしい。やがて鷹は窓の縁に留まり、目を丸くするお姫様の手の平に、赤いリボンを落としていった。灯台姫は、そのリボンを髪に結んだ。
 次の月にも、大きな鷹はやってきた。お姫様はその鷹がほかのどんな鳥よりも威風堂々としていることに、その鋭い瞳に深い知性が宿っていることに、そして嘴に青いリボンが銜えられていることに気が付いた。そのリボンを、灯台姫は無言で受け取る。言葉は必要ないのだった。三ヶ月目には、お姫様の長い髪に、赤青紫のリボンが並ぶこととなる。
 それからしばらくしたある日、たっぷりと髭を蓄えた王様が政務を執る広間に、城の入り口の方からざわめきが伝わってきた。ずかずかと部屋の中央を横切って玉座に歩み寄るのは、上品かつ精悍な顔つきの、身なりのいい青年である。武器を構えようとした一人の若い兵士を、王様は厳しく叱りつけた。

『馬鹿者! この方こそ、かの山脈を統べる霊鳥の長であるぞ。知らなくても無理はないこの城を訪れなさるのは、我が祖父の曽祖父との盟約の儀以来だからな。しかし、私の代で拝眉の栄に浴することができるとは。未だにこの目が信じられませんわい』

 恭しく頭(こうべ)を垂れる王様に、霊鳥は顔を上げるよう言った。

『丁重にせずともよい。そなたの祖父の曽祖父とは、共に悪魔どもとの戦場を駆け、安い酒を酌み交わした仲。そなたはあやつの血を確かに受け継ぎ、国を良く治めている。今日は折り入って頼みたいことがあり、ここに参ったのだ』
『して、ご用件とは?』
『うむ。実は、そなたの娘を――灯台姫を、私の妃に迎え入れたい。古い習わしに従い、一月ごとに赤、青、紫のリボンを贈り、彼女はそれを身に付けることで応えた。後は、父親であるそなたの承諾を得るだけだ』
『なんと! いつの間に!』

 流石に驚いた王様だったが、うんうんうんうん唸った挙句、渋々と首肯した。

『嘘偽りなく申し上げますと、貴方様がお相手だとしても、不安を拭いきれないのです。これは娘を持つ父親の業、ご理解下され。しかしながら、互いに気持ちが通じている以上、是非もありません。古い習わしにある通り、家中にあるリボンを持たせて送り出しましょう』
『おお、そうか! これはめでたい。場所が場所で無かったら、小躍りしてしまうところだ』

 我慢しきれずに、霊鳥はその場で踊り始めた。仕方がないので、王様や兵士たちも、その日中踊って過ごすことになった。
 ――お姫様が城を去って三か月が経った。まだぎっくり腰が抜けず、休み休み仕事を片づけている王様の元に、慌ただしく兵士が駆け込んできた。

『王様、霊峰から火急の手紙が届きました!』
『ほう、火急とな』
『火急です』
『本当に火急?』
『火急ですってば』
『火急かのぅ』
『火急ったら火急です』
『バットをボールで打つ球技は?』
『野球です。はっ、しまった!』
『ふぉっふぉっふぉっ』

 そんな遣り取りがあったかどうかはさておき、兵士の中から屈強の者達が選りすぐられ、直ちに岩山へ向かった。しかしすぐに目敏く発見された兵士達は、霊鳥の住む城へと連行されることになる。
 広大な山脈を支配する王は、見るも無残にやつれ果て、私室の椅子に腰かけていた。執務机の上には、涙で滲んだ跡のある手紙。

『陛下、一体何を書いていらっしゃるのですか?』
『何をだって? 謝罪文だよ。ちょっとメイドと話していただけなのに、浮気者! と叫びながら机を投げつけてきたんだ。見ろ、これがそのたんこぶ、そして三度目の駄目出しを食らった手紙さ。一体彼女は何者なんだ? 毎日こちらがへとへとになるまで散歩に付き合わせるは、食事のたびに食糧庫を空にしようと目論むは。喧嘩自慢の配下達でさえ、尽く闘技場の外まで投げ飛ばされる有様だ』
『だからこそ、ああして幽閉しておかなければならなかったのでございます』
『おまけに、母上や姉上まで妻の味方についてしまった。乙女心が分かってないの何のと抜かしてな。昔から口で女に勝てたことは一度もない。悪魔どもよりも手強いよ。そして、私は孤立無援というわけだ。助けてくれ!』
『名立たる古の賢者にさえ、ついに一人として異性の心情を解明できたものはおりません。しかし、ご安心下さいませ。それは姫様なりの愛情表現なのです。失礼ながら、褥(しとね)は共になさったのでしょうか?』
『ああ。命の危険を感じたよ』

 と、こうして灯台姫と霊鳥の王は、並ぶ者の無いおしどり夫婦として後世に語り伝えられることになった。これが私の一族の出自だよ。そういや親父も随分と尻に敷かれてるな。あっはっは」
「お、おしどり夫婦ですか? それ」
「岩山といえば、私は鷲の印象があるのですが。まあ、血は争えませんね」

 昨夜の襲撃の余波もあって、今日は各員個人練習の運びとなった。
 私の場合、他人と調子を合わせる事が唯一の隘路となっているので、サトコさんとサラダさんの二人(もしかしてこの単位は相応しくないのだろうか?)にわざわざ付き合ってもらっている。
 実を言うと、私が家に誰かを招く事は初めてのことだ。姉さんの過保護は功罪半ばし、私は何不自由なく育つ事が出来たものの、友達らしい友達も出来なかった。考えてみれば、ここ一週間ほどで随分と私の世界は広がっている。
 最初、私は谷底の少女を見つけるために歌に導かれたのだと思い込んでしまった。しかしそれは勘違いで、道無き夜道にとことん迷う羽目に陥る。姿を見せない歌声の主に恋々とし、男達の犯罪に巻き込まれ、合唱団に参加する事になり、色々変な人と直接言葉を交わし……
 一体どこに行き着く事やら、夜雀ならば知っているのだろうか。

「ほほう、これはよく出来てるね。今にも空に向かって飛び立ちそうだ! ここにあるのは全部れいさんが作ったのかい?」
「はい、そうですよ。隣が作業場で」
「ああ、薬品の匂いがするから分かる。……っと、良いな、兎のまである。旨そうだ」
「……食べられませんよ? 残っているのは骨と皮だけですし、目玉や舌は作り物です」
「なあに、これでも私は雑食だ」

 練習が一段落ついた私達は、居間で一服しているところだった。飾ってある剥製の中には鷹も含まれていたので、サラダさんが気分を悪くしたりしないか心配だったが、どうやら杞憂に終わったらしい。
 姉さんは、昨夜の事後処理の関係で呼び出されていた。
 生け捕りにされた妖怪は一定の仕置き(恥ずかしい服で練り歩くとか、書き取り一万回とか、かなり屈辱的な刑らしい)を経て野に放たれる事になるとのことだが、その代わりに妖怪の道具や、自分の体の一部を差し出す妖怪もいる。妖怪の爪や皮は貴重な薬や呪(まじな)いの材料になる他、武器や防具にも使用されることになる。
 精神を主体とする妖怪に対しては、武具の実際的な切れ味や硬度以上に、材料の謂れ、道具の曰くこそが効果を発揮するのだ。樹齢数千年の大樹の枝から切り出して作られたとか、妖怪数千匹の血を吸ったとか。あの魔除けの鈴が良い例である。
 人間もまた格好の材料である。徳を積んだ者の灰をお守りにしたり、英雄の骨を武具に組み込んだりすれば、様々な恩恵を受ける事が出来るだろう。妖怪の体もまた同様。
 生き物の身体の扱いに天稟を発揮した姉さんは、そういった材料の加工を手伝っているのである。あの大鎌も、然る鎌鼬の猛威が込められているらしい。
 そんな事をサラダさんに説明していると、不意にサトコさんが口を挟んだ。……いや、釘をさしてきた。

「武器といえば、私に腕っ節を求められても困ります。半妖といっても、純粋な腕力は大した事がないのですから、『捻じ伏せられる』とどうしようもありません・悪しからず。まあ、こう見えても病気には罹りにくいのですが」
「えと、恐縮です……」
「誰しも向き不向きがあるという事だね。私はこう見えても料理がからっきしで、昨日など鍋の底が抜けてしまって――何故苦笑するんだい?」
「見た感じ、サラダに一番似合うのは生の野菜と肉なのです。……るいは『料理が得意』なのでしょう?」
「あ、ええ、これでも料理は得意分野なんです。慣れれば、家事も大抵の事は」
「無職だからかい?」
「ぐうっ……」

 ぐうの音が出ただけでも御の字だった。生まれてこの方、私は手に職をつけた事がないのだ。同年代の少女達がそれぞれに活躍する中、姉が過保護だから、目が見えないからという言い訳が通用すると思うほど、私は世間知らずではない。
 ……分かってはいるのだが、いざ働けと言われると、尻込みしてしまう自分がいる。恐らく、そう問われた経験がほとんど無いからだろう。
 サトコさんは自分なりの考えを持って仕事をしているし、サラダさんは、鋭い顔立ちに似合わない社交性を備え、里のどこに行っても知り合いがいないことはない。私には、二人の姿が眩しく響く。

「君も、いつまでもれいさんにおんぶにだっこというわけにもいかないだろうからね。私の知り合いに、《松の爺さん》と呼ばれている奴がいるんだが――庭に大きな松の木があるお屋敷で、身寄りの無い子供達を預かっている。そいつが、住み込みのお手伝いさんを募集してるんだよ。歌って踊れるお手伝いさんを。もし良かったら、君を推薦しようと思う」
「え、ええと、そんな急に……、あと、私踊れませんし、見えません」
「まあ、じっくり考えてくれて構わないよ。ただ、彼の人柄は私が保証する。老いてはますます壮(さかん)でね。助兵衛だが、未成年は口説かない」
「……ありがとうございます。姉と相談してみますね」

 何となく不安が残る提案だったが、引き篭もりの私には良い機会かもしれなかった。これまでの単調な生活が嫌になったわけではないが、毒を食らわば皿まで。この際冒険してみよう、という気分になっていたのだ。
 しかし問題は姉さんの心配性で、合唱団に誘われた時も延々渋った挙句、送り迎え等の条件を付けてやっと首を縦に振ったのだった。今でこそ応援してくれているが、家を出るなんて言い出したら卒倒しかねない。
 ――その時、いつの間にかサトコさんが押入れを開けて中の箱を取り出そうとしているのを聞き付け、私は反射的に怒鳴ってしまっていた。自分でも驚くほどの大声で。

「それは姉の仕事道具です! 勝手に触ってはいけません!」
「――『両の瞳を小鳥に啄まれてしまった』……そうして貴方は盲目になったのですが、それなら何故、鳥を愛するようになったのでしょうか。――憎んでも仕方ないのでは? ……分かりませんね。私は覚といえど、人の心を全て読み取れる訳ではないのです。『思わず』……誰しも自覚無しに、随分な事をやってのける。そこに如何な罪があるのでしょう」

 箱の中に詰まっている硝子製の瞳を眺め、例のひそひそ声で意味不明な事を囁く。その箱には見覚えがある。あの日、日頃掃除が行き届かない所を掃除をしていた私は、うっかり押入れの中身を落っことしてしまったのだ。壊れてはいないかとひやひやしたものだった……

「いじってはだめですってばぁ!」
「一つ、確かめて置きたい事がありまして。鳥は、最初に人間のどの部分を狙うものなのでしょうか。逆に、人間は鳥を何処から食べるものですか?」
「こら、サトコ。人の家の物を勝手に物色して良いのは、英雄一味だけだと相場が決まっている。大妖魔でも退治しに行くつもりかい?」
「いいえ、もう用事は済んだのですよ。虫の件は、あの騒々しい連中に任せておくが吉でしょう。それにしても……」

 半人半妖の少女は、居並ぶ精巧な剥製を見渡して、目を閉じる。

「良く出来ているのです」
「あ、はい、自慢の姉でして……」
「全くだな。さて、そろそろ練習に戻ろうか」

 頭の片隅にもやもやとした物が残ってしまい、私は思考を切り替えるために一つの質問を試してみる事にした。前から気になっている事だったのだが、彼女なら大真面目に答えてくれるだろう。

「あの、サラダさん。――空を飛ぶって、どんな感じなんでしょうか?」
「うん? 空を飛ぶのは空を飛ぶ感じなんだが、これでは答えにならないんだろうね。強いて言えば、歌う事に通じる!」
「は、はい」
「届くのが声か爪かの違いしかない。それにしても、人間はよくよく空を飛ぶ事に憧れるものだ。頑張れば、結構自分で飛べそうなものなのに」
「そうなんですか?」
「そうだとも。ああ、この間は急いでいたから、あまり空を飛んだ感じはしなかったかもしれないな。機会があったら、この次はもっと高い所に飛んであげよう。ただし、私の上に乗れるのはサトコだけだがね」
「遠慮しておきます………………!」
「何故そこで変な想像をするのですか!?」

 ええと、内容はさて置き、思考は切り替わった。そういう方面に関しては、サトコさんは思いの外初心(うぶ)らしい

「あーあーあー。聞こえません! 何にも聞こえないのですよ!」
「……………………?」
「か、勘弁してくださいなー」





 その日の夜、私は一つの決心を胸に、寝衣を着た姉さんと向かい合っていた。
 初めて夜雀の歌を聞いた時、自分がこれからすべき事に筋道がついたような気がして嬉しかった。日の光が、目的地への道を陰影豊かに照らし出す。しかしその道は、まだ私の前に提示されただけに過ぎなかったのだ。実際に自分の足を動かさなくては、どこにも辿り着けはしないのである。
 幾ら待ち侘びても、彼女の方から会いに来てくれる事はない――、そんな直感があった。この安全な鳥籠から抜け出し、私の方から出向かなければならない。よしやその為に、何を失う事になろうとも。
 それでも、何故そこまで夜雀にこだわるのかと聞かれれば、『一目惚れだから』と答えるしかない。体が疼いて、もうどうする事も出来ないのだ。
 いや……、何か忘れていないだろうか?
 ともかく、私はサラダさんの申し出を紹介し(当然助兵衛のくだりは省いた)、可能なら挑戦してみたい旨を伝えた。猛反対されるのは覚悟していたが、意外にも姉さんは微笑を浮かべ、すとんと首肯してしまう。

「ん……、良いの?」
「あら、何年一緒に暮らしてると思ってるの。るいの心が決まっている事くらい、お見通しよ」
「でもね、ええと」
「縁が切れるわけじゃなし。るいには何の心配もさせないから。ま、話はお祭りが終わった後ね。今日もちゃんと眠るようにするのよ。毎日練習続きで大変かもしれないけど、私も楽しみにしているわ」
「ありがとう、姉さん」

 昨日はあまり睡眠が取れなかった事もあり、心身共に疲れていた私は、ぐっすりと眠り込んだ。





 翌日、《松の爺さん》の体は自室で、頭部は松の木の下で、それぞれ発見された。
 病院の少女は、まだ目覚めていない。





 7.真夜中のコーラスマスター





 ――収穫祭の当日。晴れれば満月の夜。
 姉さんに手を引かれ、里の中心部に設けられたお祭りの会場に向かった。それぞれ、臙脂と青紫の着物に袖を通している。お揃いの蝶柄だ。
 鈴の鳴る音を道連れにして、そわそわした人々の間を歩く。今日限りのハレの日に、楽しまなければ損だものと、気合を入れた老若男女。大はしゃぎの子供を持て余す夫婦に、孫にせがまれて頬を緩める老人。初々しくも朱を散らし、それでも繋いだ手を離そうとしない若い二人組。
 やがて厳粛に祭りの始まりが告げられるものの、静けさが保たれていたのは最初だけ。
 収穫祭の主役、豊穣神様が演壇に登るとそれだけで拍手喝采が巻き起こり、熱の入った挨拶から(「みんなー! 今日は私の為に集まってくれてありがとー!」)、乗り乗りの演説を一席ぶち(「お芋の、お芋による、お芋のための――」)、結局、いつの間にか飲めや食らえの大騒ぎに雪崩れ込む(もう誰も話なんて聞いちゃいないので、豊穣神様も実力行使に出る)。
 この日ばかりは人と妖、そして神との垣根もおおっぴらに打ち崩され、手に手を取り合って祝い遊ぶ。酒を囲んで身を寄せ合えば、年の差に何の意味があろうか。無礼講ここに極まれり。無論、最低限の礼節を弁えていなければ、早々に酔い潰されて笑われるだけだ。
 合唱団の出番は最後の方なので、ひとまず会場をぐるりと巡る事にした。姉さんが、祭りの風景を一つ一つ語ってくれる。
 渡された提灯の列に並んで、一体どこから湧いて出たのか、色取り取りの出店が軒を連ねていた。商品もこれまた常には目にしない珍妙な道具ばかり。生きているかのように振舞う市松人形に、煙の色が次々に変わる煙玉、被ると呪われて外せなくなるお面まで。
 中には明らかに人外が営む店があるが、誰も気にするものもいない。それどころか大盛況の屋台も多い(人面魚掬いとか、射的――高速移動する店主に当てられたら一等賞、とか、奇怪! 焼鳥人間! とか)。
 燭台に囲まれた小さな空き地は、大道芸人達がその腕前を競う場となっていた。虚無僧風の男が壺に向かって尺八を吹くと、蛇がにょろりと立ち上がって男に突っ込みを入れる(そのまま漫才に突入)。見事な芸を見せる猿回しがいると思いきや、実は猿の方が人間を操っていた。見事な刃物捌きを見せる奇術師が、見物客の頭に載せたさくらんぼうを何の断りもなく狙う(失敗した)。
 里の中心、篝火に照らされた広場には大掛りな舞台が設けられ、今日の為に練習を重ねてきた者達が、神様に努力の賜物を奉納している。古式ゆかしい伝統舞踊から、今時の悲喜交々な芝居まで。私達の合唱も、ここで披露された。
 結論から言ってしまえば、合唱はとても楽しかった。異人の少女の指揮の下、皆の歌声が一つに溶け合って高らかに響き、ずらされて入り組んだ調べを奏でる。高温と低音の掛合いを鋭利な独唱が貫き、やがて全てが調和に沈む――。
 サラダさんの伸びやかで奔放な旋律。サトコさんの透徹で揺るがない韻律。全く違う質を持った声が和して、一つの曲になる。野生の鳥には出来ない相談だ。確かに、これをどんな感じかと聞かれたら困ってしまう。私は、こんなこと他に知らない。
 ああ、歌うのは楽しいな、と思い知る。
 大勢の前で歌うのが初めてなら、その大勢の人が拍手してくれるのも初めてで。あまりの感動に、今なら涙の一つも流せるのではないかと思ったほどだった。共同で何かをやり遂げるという達成感を、幾ら私でも実感せざるを得ない。
 ……また来年も一緒に、という非常に魅力的な申し出もあったのだが、いやはや、そうは問屋が卸さないらしい。





 私は、更衣室で舞台の衣装から着物に着替えながら、会場に紛れ込んでいる男達の動向に耳を傾けていた。着物の方が若干動きにくいものの、他の団員と混同されるわけにはいかない。姉さんは現在、お祭りの本部に呼び出されて足止めを食っている。
 さて彼らの状況といえば、たこ焼片手だったり、輪投げに興じていたりとお祭りを満喫しているご様子。本当にやる気があるのかと問い詰めたい。
 私は最初、彼らのやり口が回りくどく、勿体振ったものばかりである事を不思議に思っていたのだけれど……、事実彼らは楽しんでいたのだ。必要に迫られての事ではなく、道楽としての狩猟。獲物を追い詰めいたぶって、その恐怖を弄ぶ人間ならではの愉悦。
 生憎と私もお純な小娘ではないので、それなりの方策を練ってはいるが、相手もその道の熟練者だ。さあ、どこまで通用するか。
 その時、先に着替えて出て行ったサトコさんが戻ってきた。入口の脇で立ち止まり、私の決意を見極めるかのように、大きな瞳をぎょろつかせる。
 思うに、彼女が占い師を生業にしているのは、誰も知らないはずの秘密を知っていることを、誤魔化すためではないだろうか。半覚の少女は、きっと私以上に慎重で、私と違って思慮深い性格だ。容赦なく耳を刺す他人の声に配慮できるだけの優しさと余裕を兼ね備えている。もし再び会えるならば、色々と突っ込んだ話をしてみたいものだ。そうすれば、私も立派に独り立ちできる度胸が付くような気がした。
 胸の内に渦巻く疑問には答えず、サトコさんは唇を開いた。

「私は、サラダのことを実の姉妹のように想っています。それは、仲が良いとか、好ましいという意味ではないのです。ただ、互いの生が尽きるまで関わり合いになり続けるだろうという確信があるだけ。姉妹とは深い絆のこと。血縁か、同等以上に濃い架け橋が渡されているということ。それ以上でも、それ以下でもありません。母に先立たれ、父と物別れに終わった私は、サラダの裏表のない性格に幾度となく救われてきました。だからと言って、感謝の念を抱いたり、恩返しをしようとは考えません。――そして、あなたは私達の姉妹ではないのです」

 長々と一息に告げると、少女は更衣室から去った。私も杖を片手に後へ続く。長い髪を外套のように纏った矮躯の隣には、夜盲症対策の眼鏡を頭に巻いた相棒が、鷹の姿で待っていた。二人の足元に置かれた籠には、どこかで聞いた覚えのある球体が山積みになっていた。

「……どうしたんですか、お二人とも」
「はは、君の健闘を称えに来たのさ。さっき思いっきり褒めちぎったつもりだったんだが、まだ足りない! この姿で会えば君も喜ぶとサトコに言われてね」
「はぁ……、確かに興奮しますが」

 あっけらかんと笑うサラダさんに、男達を出し抜く方法ばかり考えていた私は、どう反応すれば良いのか分からなかった。思わず、正直なところを口に出してしまう。それにしても、一体――

「『何のつもりだろう?』……これで最後のつもりなのです。忘れ物を取りに来たのでもありませんよ。ただの仕事のお話です」
「占い師は、占うだけではないんですか……?」
「その通り。だから私は、ここにいるのです。本来なら、成り行きを見守るべきかもしれないのですが。……るいは、無為に死ぬだけだった彼女に、私達の仲間に、選択肢を与えましたからね。たとえ彼女がもう目を覚まさないとしても、その事に意味が無いはずがありません。ここから先はそのお礼、特別優待権一名様なのです」

 そう言って、サトコさんは僅かに唇の端を歪めた。思わせぶりな態度ばかりで、私の事をどう思っているのか、おくびにも出してくれない。澄ました顔して、やはり私よりもずっと捻くれているのではないだろうか。

「『そんな中途半端な』はお互い様。それに私、半人半妖ですので、どっちつかずが売りなのですよ。さあ、選択肢をこじ開けてあげましょう。その先はご勝手に」
「ですけど――」

 せめて一つだけ、教えて欲しい。

「よく事情が分からないんだが、私は何をすれば良いんだい?」
「『何をすれば良いんだい?』……悪漢を挫き、友人を助けるのです! 私が手綱を取りましょう」
「ああ、それだけ分かれば十分だ」

 本当に、私にとっても十分である。
 覚の少女は足元の籠から伸びた導火線に蝋燭で火を付け、サラダさんの背に飛び乗った。二人の間には説明など必要ないらしい。まさしく刎頸の交わり、どんな状況であっても互いに絶対の信を置く、血の通った絆。羨ましいような、少し引いてしまうような。
 程無くして、煙玉から勢い良く煙が噴出し始める。

「あの……」
「煙は人体に無害らしいですよ。あと、後ろ」

 煙に姿を隠したつもりで、男達の一人がすぐ背後に迫っていた。とはいえ、彼らには見えず、私には丸聞こえの状況。大胆にも会場の真ん中で振われた拳を容易く避け、杖で相手の鼻っ柱をしたたかに打つ。
 背後で巨大な猛禽が羽ばたく音を聞きながら、私は祭りの賑わいの中を走り出した。
 疾風迅雷、誰にも反応する暇を与えないまま、鷹の少女は男の一人を空中高く放り投げると、返す翼でもう一人を吹き飛ばす。その背のサトコさんは、拾い上げた燭台を投擲し、私を追おうと思っていたらしい者を不能にした。手弱女らしからぬ豪の一投、その先読みから逃れるのは不可能に近い――。って、謙遜してた割には、結構強いじゃないか。
 やれ喧嘩だと無責任に囃し立てる声、保安要員を呼ぶ笛などで辺りが騒然とする中、サトコさんが呟く。

「……何故って、一人ではないのですからねぇ。しかし貴方の場合、最後は独力で進まなければならないのですよ。忘れないで下さい。私は、最低限の選択肢を与えただけなのです。そう、どちらかの味方というわけではありません。また会いましょう。どんな形であれ」

 言葉にならない感謝の念を送りながら、私は森の方角へとひた走った。しゃん、しゃんと鈴が鳴るにもかかわらず、あの夜雀の歌声は、今夜も響き渡っている。
 それでも私は、前回のように我を忘れることが出来なかった。今日の彼女に、甘えは許されない、そんな気がしていた。
 向き合って、決闘しなければならない……





 8.ブラインドナイトバード





 ……まあ、幾ら悟ったような事を言ったからといって、それで体力不足を克服出来るわけもない。走りに走り、里の外れで早々に音をあげた私は、ずるずるとその場にへたりこんでしまった。
 何とは無しに、右手に持っていた杖を持ち替えてみると、左手だけが異様に疲れている事が分かる。いや、逆だ。右手だけ全然疲れていないのだ。杖から何か震えるものが流れ込んでくるような感触。恐らく、博麗印の鈴とお札の副次的効果だろう。いやぁ、良い仕事してるなあ。参拝したことはないけど。
 会場で私を助けてくれた二人は、男達共々鎮圧されてしまったらしい。先程の大立回りもお祭り騒ぎの一部分として呑み込み、神遊びは滞りなく続けられている。しかし、悪漢の中には難を逃れた者もいるようで、着々とこちらに近づいてくる足音があった。そう遠くない場所に一名。かなり後方を走るもう一名。
祭りは、男女の交歓の場でもある。今夜ばかりは、地位や種族のしがらみから愛の営みが解き放たれるのだ。故に生娘が提灯明かりの届かない場所で一人きりになるのは禁物である。何をされても文句は言えない。一応、彼ら彼女らにも注意しなければならないだろう。
 私は、重労働に抗議の声を上げる両足を叱咤し、杖を頼りに立ち上がった。音源を迂回できる、最短の道筋を脳裏に思い描く。冥い森の中に入ってしまえば、地の利はこちらにある。





 うねる葉擦れの音や、暗い川のせせらぎ。かん高い虫の鳴き声に、飢えた獣の遠吠え。相も変わらない森の喧騒に包まれて、私はやっと人心地がついた。祭囃子も悪くないが、かくも不埒な私には、この物淋しい雰囲気の方が性に合っているのかもしれない。
 思わず声を出しそうになる衝動をこらえるために、私は自分の腕を噛み締めた。杖は、音を鳴らさないよう地面に横たえてある。
 辺りに妖怪達の気配は無い。先程、森の妖怪に襲い掛かられた際、鈴を滅茶苦茶に振り回して撃退したのだった。尤も、博麗の万能鈴(風邪にも効きそうだ)も人間までは追い払ってくれないらしく、追っ手を近くまで呼び寄せてしまう事を余儀なくされた。
 木の幹にもたれ掛り、じっと息を殺して、すぐ傍を通り過ぎる男をやり過す。提灯をぶら提げて私を探す彼の息遣いは乱れ、夜の森への恐怖が如実に滲む。それでも、その顔には暗い喜びが浮かび、私に残った僅かな良心を怯えさせた。
 ……まだ、まだ待たなくてはならない。時機が来るまで身じろぎもせず、体力を温存し、呼吸を整えておくべきだ。
 先行していた男に、もう一つの足音が近づいていく。ぎくりとして振り返った男の首は、一瞬の後に胴体から泣き別れ、落ち葉散り敷く森の地面に転がった。低い風切り音と共に大鎌の血振いを終えた『姉さん』が、男の取り落とした提灯を拾い上げる。
 さあ、ここからが正念場だ。心臓が自分のものとは思えないほど激しく早鐘を打ち、やかましくて仕方がない。爪で包帯を掻き毟る。失くしたはずの眼球が脈打つ。
 彼女が、ゆっくりとこちらに忍び寄って来る。何故忍び寄る必要があるのだろうか? 庭で昼寝している私の目を覚まさせないために?

「るい、そこに居るんでしょう?」
「……そうだよ」

 姉さんの柔らかい呼びかけに応えて、私は杖を手に立ち上がった。相変わらず鳴り止まない胸にもうちょっと静かにしておくれと頼みながら、大鎌を担いだ彼女に向き直る。
 私は臙脂、姉さんは青紫。お揃いの蝶の翅――いや、今は夜だから蛾かな?

「ね、私も殺すの?」
「あら、そんな事はしないわ。るいはたった一人の家族なんですもの。でも、悪い子ね。あれだけ、勝手にどこかへ行っちゃいけないって言ったのに。真っ直ぐ家に帰るようにって」
「ごめんなさい。……でも」
 
 姉さんは鎌を無造作に放り捨てると、懐から一挺の鋏を取り出した。可愛い小鳥の羽切りをする優しい手付き。
 彼女の言う事さえ聞いていれば、私は何不自由無く暮らす事が出来るのだろう。だが私は、外の世界に味を占めてしまった。きっと姉さんにはお見通しだ。――私のたった一人の家族なのだから。

「心配しないで。どんなことがあっても、るいの事は私が護ってあげるから。ほら、悪い人はもういないわ。一緒に家へ帰りましょう」

 転がる首を指し示し、大振りの鋏をかちかちと鳴らす姉さんの顔には、いつもと変わらない微笑が浮かんでいる。
 確かに、飼い慣らされた小鳥では、鳥籠の外で三歩と命を保てないのかもしれない。それでも、私にはもう諦めきれそうになかった。一目で良いから、あの歌声の主に出会いたいと願ってしまったのだ。最初は、骨まで残さずその血肉にして欲しいと。今は、一節だけでも私と合わせて欲しいと。
 それが分かっているから、彼女は鋏なんて持ち出したのではないだろうか。私を自分の巣に引き止める為には、羽切りが足りないと思ったのだ。今度は、この目だけではなく、喉舌を。

「ずっと、私達は家族なのよ……。大丈夫、るいを誑かした人達も、今にやっつけてあげるわ。もっと早くにそうするべきだった。だから、知らない人についていっては駄目よ」

 姉さんは、私から歌を――仲間まで奪ってしまうつもりなのだろうか。そんな惨い事、私には耐えられそうにもない。皆と歌えば、私も飛べるかもしれないのに。
 けれど、姉さんにだけ責任を押し付けてはいられない。幼い私は、彼女の行為を何の罪も無い小鳥達になすり付けた。生きる為には彼女に縋るしかないという事実に、その狂気を直視する事が出来なかった。他人の粗ばかり盗み聞いて。他のお家も同じなのだ、あのお家よりましなのだ……と。挙句の果てには、自分から求めた醜聞すら厭い、自分勝手な歌に逃げ込む始末。
 もし私が姉さんを安心させてあげられていたら、外でもないあなたを嫌うわけがないと、教えてあげられていたら……。
 でも、もう遅い。

「私は、帰らないわ」
「……」

 そっと包帯を撫でる。私の眼窩にわだかまる闇と、森の夜闇が溶け合った。
 私の耳では捉えられない、何かが崩れていく音が響く。きっと、姉さんにだって届いている。こうなったら、行き着く先を確かめるしかあるまい。そこに何が待ち受けていようと。叩いた戻りの橋は、砕け壊れてしまった。
 鋏を片手に、提灯をもう片手に、誰かがにっこりと笑みを深くする。

「ねえ、るい。とっても綺麗な瞳を手に入れたのよ。深い漆色の……。きっとあなたに似合うと思うわ」
「瞳は、良いの。もう……」
「真っ直ぐ家に帰るようにって、言ったでしょ」

 ふらり、と姉さんの体が傾ぎ、そのままよろよろとこちらへ向かって来た。鋏が神経質そうに鳴る。蝋燭の火が揺れる。
 私の全身はこれでもかとばかりに張り詰め、少し動いただけで溶けた中身が溢れてしまいそうだった。聴覚はますます冴え渡り、夜の森はそのあられもない姿を剥き出しにしている。

「私も剥製にするの?」
「そんな事はしないわ。るいはたった一人の家族なんですもの。だから、大丈夫。痛くしないやり方を知ってるの。すぐに代わりも用意するわ。――柘榴みたいに綺麗な赤い舌を」
「ん、姉さん、私は……」
「あなただけしかいないのよ、るい――」

 私は、姉の虚を衝いて提灯を蹴り上げた。蝋燭の火が消え、ついに月光だけが幽かな明かりとなっただろう森を駆け出す。脇腹を熱く刃物が掠めるも、決死の走りは止まらない。

「待って! 置いて行かないで!」
「じゃあ、一緒に来て」

 鈴の音を追い掛ける彼女だったが、木の幹に半身を打ち付けて勢いを殺される。再び走り出そうとしてしかし、今度は木の根に蹴躓いて転倒した。身体能力の差は絶望的かもしれないが、ここから先は私の世界だ。

「るいが悪いんじゃ無いの……! その舌が悪いのよ! 自由に、させ過ぎた。――その足がるいを連れて行くの? ううう、そんなことしちゃいけない……。いけないったらぁ」

 流石は姉さん。鋏の先端が掠めただけなのに、私の脇腹はぱっくりと割られていて、どんどん血が――赤い血かどうかは確かめようがないが――流れ出してゆく。素人判断では致命傷になるかどうか不明だけれど、近いうちに動けなくなるのは必至だろう。

「見えない。どこにいるの? そっちね……。すぐ行くわお願い待っていて! 破れても私が繕ってあげるから。――るいを、一人になんてさせないから! あなたが見えないの。……どうして? 月が、見えなくなった……?」

 一歩踏み出す毎に鈴が涼しげな音色を響かせ、前方の妖気を駆逐していく。その音色が姉さんを呼び寄せる。
 鋏で枝を払い、手探りで私を追う彼女からそれなりの距離を稼ぐ事が出来たが、彼女から私の位置をくらます事は無理だろう。それでもこの杖が無ければ、私は今頃妖怪の腹の中に収まっていると言う板挟みだ。
 ……鬼さんこちら、手の鳴る方へ。

「どうして見えないのよぉ……。ずっと一緒なのに、るいは私の――なんだから。何故私の傍に居てくれないの。満月だから明るいはずなのに。何で見えないの……。嫌、それなら、こんなものいっそ――」

 姉さんは私の言葉を、歌を聴いてはくれなかったのだろうか。舞台の上から彼女の姿を聞き付けた時、とても嬉しかったのに。負け惜しみではなく、私は姉さんの事が好きだったはずだ。彼女の罪を押し付けた鳥を、いとおしむ事が出来たから。
 そうでなければ、今、涙を流したいなんて思わない……
 全く、こんな時に自分でも何を考えているのか分からなくなってきた。脳に血が回っていないのだろうか。いや、これまでもそうだった。何一つ確かめようとしなかった。決着を避けていた。
 今はただ一歩でも近く、目的地へ。行き着ける場所まで。
 
「っあぁ、――――あ、ああ! ――あっ――うあ、ああああああああああああっ! ………………………………………………あは、これで、お揃いね!」

 彼女は嬉々として狂行に及ぶ。自らの両目を潰し、眼球を抉り出して捨てたのだ。嗚咽にも聞こえる哄笑が、臓腑から絞り出されて私の耳朶を犯す。
 だが、姉さんがどう出るかについては、半ば予想がついていた。何故って、たった一人の家族だから。私の自慢の姉、手強くって当然だ。
 ああ、そういえば、もう一つ自分に嘘をついている事があった。あの日、偶然あの剥製用の瞳を見つけてしまった直後に、魔性の歌声が聞こえてきたのだ。あれが切っ掛けだった。現実から目を背けるわけにはいかなくなる、危うい均衡を崩すほんの一押し。歌声の主と、会って伝えなければならないことがある。それは――何だっけ?
 いけない、頭がぼうっとしてきた。出血が多すぎるのかな、お腹が暖かいんだか寒いんだか……

「ふふふっ、あははははははっ!」

 彼女が猛然と疾走を始める。木にぶつかり、地形に足を取られても意に介する事はなく、鋏を構えて鈴の音を狙う。見る見る縮まっていく距離に、私は決断を迫られた。
 考えなければ……。夜雀は人を鳥目にする。梟は無音の飛行で獲物を狩る。鷹は翼を畳んで急降下する――。いやいや、それがどうした。《人間と妖怪の境界》はどこにあるのだろうか。皆私達の歌を聴いて拍手してくれた。魔除けの鈴の音が夜の森に『反響』する。すぐ後ろに姉さんがいる。微笑んでいる。

「るい……、危なくなったら、大声で助けを呼ばなくちゃ駄目よ。口を開けて……」

 振りかぶった鋏はしなる木の枝に流されて届かず、たたらを踏んだ彼女は地面に這い蹲った。――弾かれたように立ち上がる。全速力でぶつけ、転がった肉体はどう痛んでいてもおかしくないのに、目から血の涙を流しながら、壊れたからくり人形のように忠実に、彼女は走る事を止めようとしない。
 だから、決められるのは私だけだ。

「……ごめんなさい。巫女さん、白沢様。私には、妖怪より人間の方がずっと恐ろしいんです。だから」
「あはは、るい、ずっと、ずーっと、一緒だから――」

 私は手に持った杖を、前方の目的地に向かって思いっきり投げ付けた。そのまま、脇の木立へと体を放り出す。勢いのままに太い幹に頭部が衝突して裂け、駄目押しに足が嫌な方向へと曲がる。
 そして、白木の杖は狙いあやまたず谷の対岸へと突き立った。あの少女が落ちていった谷の、川を挟んだ向こう側へ。一際高く鳴った鈴の音を追って、青紫の蛾が――夜盲の鳥が宙を舞う。翅も、翼も持っていないのに。
 ……やがて、水が跳ねる音と共に、夜の森に普段の喧騒と沈黙が戻ってくる。私の心臓の音ももうほとんど聞き取れない。血で濡れた肌に葉っぱや土がまみれ気持ちが悪かった。森の黒々とした影が覆い被さってきて、熱い吐息が零れる。

 これまでよ、姉さん。私、は、いかなきゃ。
 
 息も絶え絶えに横たわる私には、その後姉さんがどうなったのか確かめる余裕も無かった。
 だって聞こえるのだ。ほんのすぐ傍で。夜雀が――歌が。





 ―――― 

 とうに体力は限界を迎えていたので、私は歌声の主に向かって這い進むしかなかった。疲労で辺りの様子を探る事も出来ず、場所と時間の感覚を失い、しかし残った唯一の衝動に突き動かされて、肺の底から歌を絞り出す。

 ―――― 道行く旅人 歌にあこがれ

 地面を掻く爪に砂が入り込む。前進する速度は微々たるものだったが、私の中にはこれ以上無い歓喜の波があった。やっと彼女の居場所がはっきりしたのだ。あとちょっとほんのもう少し。記憶がぼろぼろと崩れ、思考が散り散りになってゆく。いや、まだ駄目だ。たとえこの声が嗄れ果てるとしても……

 ―――― 月明りも見ず 仰げばやがて

 指の先が、固い何かに触れた。岩ではない。滑らかで、微かに温かみを感じさせる曲面。はは、ようやく合点が行った。鈴の音色にもかかわらず歌が聞こえてきたのは、声が卵の中で反響していたからなのだ。
 なけなしの気力を振り絞って、爪を卵の殻に叩き付ける。その双方にひびが入り、私の意識が痛みで遠く霞んだ。

 ―――― 闇夜に沈むる 人も鳥も

 もう自分でも何をしているのか分からなくなりながら、二度、三度と爪を立てる。その度に新たな亀裂が走り、ついに殻の一部が崩落した。卵の上部に開いた穴から雲一つ無い空が覗き、青白い月の光が差し込んでくる。

 ―――― くすしき魔歌 歌うローレライ

 矢も楯もたまらず、私は両の爪を振り回した。殻を粉砕しざまに翼を広げ、夜へと飛び立つ。


 勇み立つ心のままに、有らん限りの声を張り上げ、歌う。この狂おしい夜空一杯に、いや、あの空の彼方まで届くように。 



 この暗闇に、私を縛るものは何も無い。誰もが、私の歌に耳を傾けずにはいられないのだ。だけど……




 私はこの歌を、一体誰に聞かせたかったんだろう? 仰ぎ見た、真円のはずの月が歪んでいる。





 ……まあ、いっか。あの音はもう、聞こえてこない。








































 月の明かりが静かな夜に、夜雀の歌が聞こえる。







 だから、もう歌しか聞こえない。






































 ―――― なじかは知らねど 心わびて
        昔の伝説は そぞろ身に染む
        わびしく絶え行く 涙の流れ
        川面に 夢々暗く映ゆる

 ―――― 美わし 貴方の瞳に恋いて
        曲がき翼もて 木々の絶え間を
        飛びつつ口ずさむ 歌の声の
        くすしき魔力に 魂も迷う

 ―――― 道行く旅人 歌にあこがれ
        月明かりも見ず 仰げばやがて
        闇夜に沈むる 人も鳥も
        くすしき魔歌 歌うローレライ













 ――これにて、わたくしの歌物語は仕舞いにございます

 件の少女がどうなったのかって? これは無粋なことを聞きますな

 生憎と鳥頭でございまして。そもそも詳しくは聞き及んでいないのですよ



 と、もう赤提灯も途絶えまする。ここらでお開きといたしましょう

 さらば、可愛い小鳥さん。夜遊びの帰り道には、よくよく気を付けて下さいまし

 忘れてはなりません。暗闇に潜み、あなたを待ち受けている誰かのことを――ね
























(了)
    



 

 
 泪(るい)という名前は、ミスティア(Mystia)とmiss+tear(泪)の言葉遊びだったりします。
 ……綴りが全然違う事には目を瞑って欲しいのですが。

 お初にお目にかかります。プラシーボ吹嘘と申します。
 何しろ初めて完成させたssなので、お見苦しい点が多々あるかとは思いますが、感想、駄目出し、突っ込み等、コメントして頂ければ嬉しく思います。

 また、作中の歌は、作詞・H. Heinrich 訳詞・近藤 朔風 の『ローレライ』を参考にさせていただいております。というかそのままです。


 それでは、ご読了ありがとうございました。
 もし楽しんで頂けたのでしたら、これもっけの幸いです。



 追記
 2009/02/25
 誤字脱字を訂正すると同時に、部分的に加筆・修正をいたしました。

 09/17
 この話の登場人物は、地霊殿のキャラクターとは関係がありません。念のため。
 投稿した時点では、まだ製品版を手に入れていませんでしたので。

 コメントして下さった方々へ
 7,11,13 の方
 大変励みになります。次回作も鋭意努力する所存です。

 
プラシーボ吹嘘
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.760簡易評価
7.80からなくらな削除
ほう、なかなかに良いかと
「サトコ」で反応したのは私だけじゃないと思う(笑)
多少長かったですが、それに見合った内容だと思います
次回作も期待
11.100名前が無い程度の能力削除
処女作でこれほどとか次回作が楽しみじゃないか。
あと関係無いけどさくらんぼがツボった。
13.80名前が無い程度の能力削除
好ろしくてよ。
16.100reengi削除
最初の主人公が登場したところから先の読めない展開に引きずり込まれ、終盤の真実がわかる場面で今までの積み重ねてきた伏線とミスリードが一気に明らかになったところで、このSSはやばい、すごいと思いました。
一見エピソードと関係ないように見える会話、設定も、最後に分かった真実からその意図がある程度読めてくる、この感覚は良いものでした。
更にオリジナルキャラクターがみんな生き生きしてて、
私は特に「サトコ」さんの性格が良いと思いましたね。とぼけた言い回しの占い師、でも実は結構良い子、好きです。
70KBを超える容量は、自分はあまり読まないのですが、この作品については先が気になって冗長さを感じませんでした。
素晴らしい。