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≪描いた風景たち≫
■第一景 ~ ユー・アー・マイン (博麗霊夢 × レミリア・スカーレット)
■第二景 ~ リーブ・フロム・メランコリー (封獣ぬえ × 村紗水蜜)
■第三景 ~ プリーズ・モア・ウォームス (河城にとり × 霧雨魔理沙)
■第四景 ~ グッド・モーニング・デイズ (幽谷響子 × 多々良小傘)
■第五景 ~ フロム・ハート・トゥ・ハート (古明地さとり × 古明地こいし)
■第六景 ~ マイホーム・ユアネーム (蘇我屠自古 × 物部布都)
「あら、降ってきちゃった」
吸血鬼の鈴を転がしたみたいな声に、霊夢は欠伸を漏らして起き上がった。
「……雨?」
「いいえ、初雪よ。霊夢」
縁側に腰かけて、羽を休めているレミリアの背中が見えた。グラスのワインの紅色が、ちらつく粉雪のなかで浮き上がっていた。吸血鬼は、ちらりと振り返っては、まるで見せつけるみたいに、唇についたワインを舐め取った。紅い瞳の監視をすり抜けて、グラスに一粒の白雪が舞い降りたことを、レミリアは知らない。
「雪景色って、無常を感じるわ」
「あんた、無常の意味、わかって云ってんの?」
「あら、パチェに『方丈記』を朗読してもらったことなら、あるわ」
レミリアは『ゆく河の流れは』と最初の一節を口ずさんで、そこで記憶を落っことしていた。霊夢は炬燵のうえのストロベリーキャンディーを口に放り込んで、舌で転がしながら、ブランケットを肩に引き寄せた。風向きは意地悪だ。雪が土足で上がり込んで、畳をいじめていた。
「ねぇ、レミリア」
「なにかしら?」
「雪が入ってきちゃってるわよ――いい加減、中に戻ったらどう?」
吸血鬼は、ワインをくゆらせるだけ。
「もう少し、このままで」
そうは問屋も博麗も卸さない。霊夢はブランケットを羽織って立ち上がる。ブランケットの模様は、飛び交うコウモリ、隅っこには「for my Reimu」の血文字みたいな刺繍。
「畳が傷むじゃないの」
そう云って、レミリアの肩をつかんだ瞬間、世界が火花でいっぱいになった。口を塞がれて息が止まった。霊夢は、濡れた畳へと仰向けに倒されていた。一瞬の出来事だった。
「ったぁ……」
なにすんだ、と云おうとして、舌がもつれた。鉄の味が酒気といっしょになって、舌のうえに残っていたからだ。喉を鳴らして呑みこんでから、ようやく、それが血の混じった赤ワインだってことに気づく。
「ふふ、いただきます」
レミリアの舌のうえには、ワインの代わりに、ストロベリーキャンディーが唾液を帯びて光っていた。
「やだ、あんた――なにしてんのよっ」
ナイトキャップに鉄人包丁のごとき手刀を叩き込んでやろうとしたけれど、レミリアはするりと翼をはためかせて、境内に舞い降りた。雪のうえをステップする音が、小太鼓のように耳を打つ。
ほのかに頬を染めて、雪景色のなかでレミリアは踊っていて。霊夢は、外に出てまで追いかけてやる気にはなれなかった。
「また一歩、私のものになったわね、霊夢」
吸血鬼がステップを止めて、右の手首を見せつけてきた。傷口から流れ出た血が、白い腕に紅い河を通していた。肘先まで筋を引いたあと、グラスのワインへと波紋を広げていった。
「『淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて』 ――あなたが弾けちゃう前に、手に入れてやるんだから」
ぺろり、とストロベリーキャンディーが顔を出して、こちらを見つめてきたので、霊夢は肺炎をこじらせた犬みたいな息を漏らした。
「ほんと……勝手なやつね、あんたは」
「わかってくれて嬉しいわ――さぁ、炬燵に帰りましょうか」
やれやれ、と霊夢は茶の間に戻って、ちゃぶ台に突っ伏した。
「風邪ひいちゃ嫌よ、霊夢」
コウモリ柄のブランケットを、肩にかけてくれる手つきだけは、ひどく優しかった。
「昔の時代には、香辛料を求めて船で世界一周した人もいたそうね」
「ふぅん、それがどうかしたの?」
「ありがたく食べなさいってこと」
水蜜がパイプの煙を吐き出しながら、鍋に入ったカレーを杓子でかき混ぜている。タバコを吹かしながら料理をするなんて、見つかったらなんと云われるか、わかったもんじゃない。ぬえは、貰ってきたリンゴをかじっては、忙しなく揺れるセーラー服の背中を見つめていた。
「さて、あと少しで完成ね」
戸棚の引き出しから、銀の匙でいろんなスパイスをすくっては、鍋に放り込んでいく。迷いはない。まるで高性能のカラクリみたい、とぬえは思った。
「そーいえば、天気はどう? 出航日和?」
「あいにくの雪だよ、ムラサ」
そう、と云って、水蜜がパイプを噛んだ。嵐の夜ほどじゃないけれど、雪の曇り空は、船長の肩を落ち着かなくさせているみたいだった。ふっと手が止まって、雪みたいに真っ白なキャプテン帽を、くしゃくしゃに握りしめた。
「あはは……やっぱり、どんなにイライラしたって、パイプなんて吸うもんじゃないね。自分の味がわからなくなっちゃった」
座敷のほうが、にわかに騒がしくなってきた。キュロットスカートのすそを跳ねあげて、船長は眉根を寄せて振り返る。
「どうしよ、もう時間か」
「味見しよっか?」
ぬえは、思い切って云ってみた。水蜜の料理を眺めているのも楽しいけれど、水蜜の味見をするのは、もっとわくわくする。
「じゃあ、お願いしようかな――ほい」
小皿に取って、手渡してくれる。水蜜の手は、溶けかかった雪みたいに、冷たくて不安定だった。
「美味しいね。美味しいけど、ちょっと違う」
「やっぱり、足りないかな」
ぬえはかじっていたリンゴを、水蜜に差し出した。
「隠し味」
「食べさしじゃない」
「包丁かして」
なにするの、と声をかける水蜜に、イタズラ、と返してやる。リンゴをひと口大に切って、それを箸でつまんだ。
「いざ、出航します」
アップル号を、カレーに投入する。二秒と待たずに、アップル号は深海に呑みこまれた。
「……沈んだけど」
「世知辛い話だよね、カレーだけに」
「なにが云いたいの、ぬえ」
ぎりり、とパイプの悲鳴が落っこちた。
「こうしたかったの」
水蜜から杓子を奪い取って、カレーの海に潜り込ませる。二秒と待たずに、アップル号は深海から浮き上がった。
「はい、救出成功っ」
呆気にとられて立ち尽くしている水蜜の目の前で、カレーまみれのリンゴを口に放り込む。
「うん――辛くて、甘くて、美味しいよ」
ムラサの味だ、そう呼びかけようとしたけれど、帽子ではたかれたので云えなかった。
「ばか、バカぬえ」
舟幽霊は、けれど我らが船長は、キャプテン帽を目深にかぶって、ずんずんと台所から去っていってしまった。
「えへへ」
はたかれた黒髪を撫でた。ぬえはイタズラの成功を噛みしめながら、カレーの香りのなかでガッツポーズした。
「魔理沙ってば、張り切りすぎだよ、まったく――そんなに丈夫な身体じゃないってのにさ」
「……面目ない」
にとりは腰に両手をあてて、ベッドにダウンしている普通の魔法使いを見下ろしていた。足元には、雪の名残で濡れた一斗缶に、愛用の工具一式。
「ストーブが使えなくても、暖炉があるじゃないか」
「それに気づいた時にゃ、立つ気力もなくてな」
魔理沙が、苦笑いと咳を同時にこぼした。目の下に浮いた隈が痛々しかった。頬もこけているように見えた。
「私が点検に来なかったら、どうなっていたことやらね」
「さぁな、死んでいたかもしれん」
氾濫した河みたいに冗談にならない言葉だった。にとりは奥歯を噛んだ。両手をぎゅっと握って、けれど緩めて。ふっと息をついて、工具を取り出して、故障したストーブを修理した。一斗缶からポンプで燃料を汲み上げて、ストーブに給油した。その間、ずっと魔理沙の視線を感じていた。ふと首を巡らせてみたが、目はそらされてしまった。
「はいよ、いっちょ上がり」
「助かったぜ」
ストーブの電源を入れた。かまくらの中で焚き火をしているみたいな、くぐもった音が部屋の壁を這い昇っていった。作動を確認すると、にとりは外に出て皮袋に雪を詰め込み、能力で空気中の水分を集めて袋を満たし、チャックを閉めて即席の氷嚢を作った。
戻ったときには、すでに部屋のなかは暖まっていた。氷嚢を渡してから、椅子を引き寄せて、ベッドのそばに腰を落ち着けた。
「その――暖炉の音は、好きになれないんだよ」
突然、魔理沙が云った。
「音かい?」
うなずきが返ってくる。
「夜に独りで研究してるときに、薪が砕けてバチって鳴るとさ、びっくりしちゃうんだよ」
そうなったら、もう駄目なんだ、と魔理沙は云った。氷嚢で隠れているせいで、目元が見えなかった。
「落ち着かなくなって、暖炉の前を離れられなくなる。以前は、そんなこともなかったのに」
「科学の勝利だね。ストーブは偉大だ」
ストーブの無表情な外装を撫でてやる。そっけなく熱風を吐き出し続けるマシンは、けれど照れたみたいに一声、うなりを上げた。
「……魔法と科学は、真理を追い求めるって意味では、本質は同じなんだって聞いたんだけどな」
氷嚢をずらして、魔理沙はようやく視線を合わせてくれた。瞳だけが生気をみなぎらせていて、まぶしかった。
「私は、もっと単純なとこで、同じなんだって思うんだ」
「聞こうじゃないか、盟友」
「奇跡だよ」
ひゅい、とにとりは、思わず椅子から身を乗り出してしまった。
「みんなを、あっと見返してやれるような奇跡を、ちっこい人間の手で起こすことができるんだ」
きせき、と口のなかで繰り返す。
「――もっとも、ほかの魔法使いの連中は、取り合っちゃくれないけどな」
「そうかい、私は悪くないと思うけどね。奇跡、夢があって好いじゃないか」
なんて云ってやると、魔法使いは静かに笑った。いつもの飄々とした笑みではなく、かまくらを作っている幼子みたいな笑みだった。
「だから、お前がいてくれて、好かったよ」
「……今日の魔理沙は、おかしいね」
「風邪のせいだぜ」
「違いない」
ストーブの火力を、ちょっとだけ低めると、ほいさっと椅子から立ち上がった。
「ささ、休んだほうが好い。ぐっすりとね。なんなら、河童流の子守歌でも贈ろうか?」
「ストーブで充分だ」
「嬉しいね、手間が省ける」
とりあえず、お粥でも作ってあげようか。
にとりは部屋から出た。音を立てないようにドアを閉めてから、宝物を抱きしめるみたいに両腕をつかんで、笑った。
「もう失くしちゃったかと思ってたのよ。ほんと、ありがとうねぇ」
「いえいえ。こちらこそ、ご馳走になってしまって」
「また来てちょうだいね。あの人も喜ぶわ」
そう云って、その人は、戸棚に飾られた写真立てに眼差しを送ったのだった。
「……好かったね、ちゃんと見つかって」
隣の唐傘お化けに呼びかけた。雪は、里に入ったときと変わらない勢いを保っていた。
「まだ降ってる。響子ちゃん、はいりなよ」
小傘がナス色の傘を差しだしてくれた。響子はうなずいて、そっと寄り添った。二人ぶんの足音が転がった。雪を踏みしめる音は、懐かしい記憶をたぐり寄せるときの音に似ていた。
「あの人、嬉しそうだったなぁ」
唐傘お化けのつぶやきが、白い息といっしょに冬空へと浮かんでは、消えていった。
「諦めかけてたんだろうね。思い出のかけらってやつなのかな」
ねぇ、寒くないの、そう呼びかけをしてみた。ちょっと寒いかもって、声が返ってきた。傘を握りしめる手が、捨て猫みたいに震えていた。
薄桃色のマフラーを解いて、片っ方を小傘の首にまわした。そのためのマフラーだった。そう思ってしまうくらいに、長さはぴったりだった。二人は冬空の帰り道を、肩をくっつけて歩いた。
「どう?」
「うん、好い感じ」
それでも、手の震えはおさまっていなかった。そこだけが、無人島に取り残されたみたいだった。手は透きとおるくらいに白くて、今にも雪景色のなかへと溶けて、消えてしまいそうだった。
「てぶくろ、しないの?」
「……持ってないんだ、私」
そう、と返して、自分の手のひらを見下ろす。緑色のミトンの手袋。この道具だって、そのために作られたのだとしたら。響子は両手を広げて、小傘の手を覆った。ひとり雨宿りを強いられたみたいな、そんな切ない冷たさが、毛糸の網目ごしに伝わってきた。
「――響子ちゃんっ」
小傘が立ち止まった。空色の髪の毛が、野兎みたいに弾んだ。赤青の瞳に、初春の日差しのような輝きが宿っていた。
「ど、どうしたの?」
顔を近づけられて、白い息が顔にかかってきた。さっき食べさせてもらった、チョコチップクッキーの匂いがした。
「いま、わた、わたしも――思い出したの、忘れもの」
「えっ――じゃあ、取りに戻らないと」
「違うんだよ、そうじゃないんだよ」
もう片っ方の手が、手袋に重ねられた。ぎゅっと力をこめて、よっつの手が傘の軸へと寄り添った。
「ずっと、ずっと前のことなんだけど」
小傘が切り出した。
「私を使ってくれてた人も、こんな手袋してたの。ぎゅって握ってくれてた。そこだけ、すんごく温かかったんだよ」
温かかったんだよ、と小傘は繰り返した。雪のひとひらが、目の前をすり抜けていった。
「ありがと――ありがとう!」
うん、うん、と響子は何度もうなずいた。そしたら、小傘はナス傘をほっぽり出して、笑いながら走り出した。下駄の歯が雪を跳ね上げた。五十メートルほど走ったところで、どんぐりみたいに転んでしまった。白雪を、しこたま空色の髪にのっけて、小傘はありがとうって、また声をあげてくれた。
「はい、どういたしまして!」
だから、響子はヤマビコを返した。
自分はここにいるって、空へと合図を送るみたいに。
緑色のミトンの手袋をはめた手を、精いっぱいに振った。
「お姉ちゃん、ただいまっ」
「……遅かったですね、こいし」
さとりは目をこすって、まどろみの名残を払いながら微笑んだ。
「すんごい雪だよ。埋まっちゃうかと思った」
やっぱり我が家は快適だねー、と妹は帽子をラックに引っかけた。雪の欠片が落っこちては、カーペットに染み込んでいった。さとりは暖炉に薪を二本ほど放り込んでから、真っ白なタオルで妹の顔を拭いてやった。こいしは、大人しく目をつむってくれていた。
柱時計が一日の終わりを告げた。小鳥の眠りだって覚ませないほどに、ささやかな声を部屋に届けてくれていた。それは、明日への合図でもあった。
「好い匂い。お姉ちゃん、またパン焼いてるの?」
「えぇ、明日も地上に行くんでしょう? お腹が空くだろうと思って」
言葉を交わしながら、キッチンミトンをはめて、煉瓦造りのかまどを開ける。心地よい熱気が、さとりの頬をなでた。焼きたてパンの香りも一緒になって、部屋のなかへと広がっていった。
「美味しそう!」
いつの間にか、こいしが背中にのしかかってきていた。やわらかだけれど確かな重みが、温もりを連れて伝わってくる。肩に置かれた手のつたなさは、焼きたてパンの香りみたいに心をくすぐってくれた。
「うん、上出来ね」
「いっこ、いっこだけ食べていい?」
「もちろん。作り立てがいちばんですから。パンも、夕ご飯もね」
「むぅ、次は早めに帰ります――これで好いでしょ?」
素直でよろしい、とさとりは笑って、パンを大皿に並べた。クロワッサン、ベーグル、スコーンにポテトパイまで、ぜんぶが真新しい湯気を立てて、テーブルに並べられた。暖炉の火が、ぱちんっと喜んだ。柱時計は変わらぬ時を奏で続けていた。
いただきます、と手を合わせて、こいしはアップルパイにかじりついた。目を細めて笑いながら。ぱりぱりと音を立てながら。自分が焼いたパイを、食べてくれていた。口の端についてしまった蜜が、明かりを浴びて光っていた。立ちのぼる香ばしい匂いは、いつまでも色褪せない讃美歌を唄ってくれているような気がした。
さとりは、かまどに入れられたパンみたいに、気持ちが膨らんでいくのを感じた。
「やっぱり、お姉ちゃんの料理は、おいしい」
妹が、ちゃんと口のなかを片付けてから、照れたように笑った。
「こいし」
「なぁに?」
両手で頬杖を突きながら、さとりも微笑んでみせた。
「わたし――いま、幸せよ」
こいしは、目をぱちくりさせたあと、胸をとんとんと叩いた。さとりはコーヒーを淹れてやった。角砂糖の数は、今日も二つだった。息を吹きかけてから、妹はコーヒーを口に含んだ。
それから、口を開きかけて、また閉じて、三つ目の瞳を撫でてから、やっぱり照れたように笑った。
「えっと……ありが、とう?」
「こちらこそ」
だから、今は、それでいいのだ。
パンをバスケットに包んでから、かまどの煤をかき出し、テーブルを布巾で拭いて、食器を洗いにキッチンへ行こうとした。ふと、袖を引っ張られた。こいしの緑がかった髪が、さとりの頬に触れた。
「どうしたの」
「明日は、うちにいる。お姉ちゃんと、いっしょにいる」
柱時計の音よりは大きくて、けれど暖炉の火の温もりよりは、不確かな声だった。
「雪がひどいから?」
「うん、雪がひどいから」
それなら仕方ないな、と髪を撫でてやった。袖は離されなかった。
「お姉ちゃん、十二時の鐘は鳴ったんだよ。明日は、もう今日なんだよ」
「そうね」
「だから、今から一緒なの」
「……甘えんぼさんね」
食器なんて、いつでも洗えるのだから。
そう考え直して、さとりはコーヒーの二杯目を淹れた。
「おい、物部」
「なんだ、蘇我」
「……なんぞコレ」
ふふんっと、鼻で笑われた。
「おぬしは、かまくらすら知らんのか?」
「違ぇよ、そのボロっちい祭壇はなんだって訊いてんだよ。ひな人形とデートするってのか?」
屠自古は腕を組んで、物部の運んでいる物体に目をやった。赤い垂れ幕は物々しいが、端っこがほつれて糸きれが飛び出してしまっていた。よく見ると、垂れ幕は画鋲で留めてあり、祭壇の素材はダンボールであった。
道士は、笑みを崩さない。
「学究の不足だな、蘇我。かまくらは、元々は水神を祀るための祠として作られたのが始まりなのだ」
物部は、祭壇をかまくらへと蹴りこんだあと、スコップの背を振るって形を整えた。
「ささ、入るがよい」
「やだよ」
「我は先に行くぞ」
聞いちゃいねぇ。
物部が腰を屈めて入っていく。結わえた銀髪が、虎のしっぽみたいに揺れていた。かまくらに降り注いだ日差しが、星屑の光をたたえて輝いていた。ため息をひとつだけ、積もった雪へと染み込ませてから、物部の後を追った。
「おほんっ――えー、水神様。竜神様。我ら太子様の治世が日輪のごとく、末永く瑞穂の国を照らし続けることを願って、ここに聞こし召し頂きたい次第で候……」
物部は平服して大幣を振るい、長ったらしい祝詞をあげてから、とどめに「キエーッ」と奇声を発して神事を終えた。
「終わったぞ、蘇我。ケーキでも食らおう」
「これ、お前が作ったのか?」
物部がどや顔でうなずいて、箱から取り出したショートケーキの蝋燭に、火を灯した。かまくらの薄暗がりが、さあっと払われた。物部の端正な顔が、淡い陰影を引き連れて、視界から浮き上がって見えた。思わず胸を右手でおさえた。ほっぺの生クリームを、人差し指ですくって舐めている物部が、普段とは違って見えてしまった。
「……なんだか、不思議だと思わんか?」
「な、何がだ?」
物部がケーキを咀嚼しながら、微笑んで云った。
「蘇我と物部……お家で争った者どうしが、同じ家のなかで、菓子を食らっておるのだからな」
そう云って、狭っ苦しい家をぐるりと指さす。波の満ち引きみたいに、蝋燭の明かりが雪のうえを滑っていた。口のなかで溶けていった、生クリームとイチゴの味が、舌のうえで踊っていた。
「……とじこ」
「は?」
ぼそっと漏らされた言葉が、鈴の音のように耳を打った。物部が目をそらして、ハエを払うように手を振ってきた。
「やめだやめ――おぬしと我には、似合わぬ響きだ」
銀髪の道士は、胡坐をかいて、頬杖を突いて、フォークを口にくわえて、空っぽになった皿を見つめている。指でわけの分からない図形まで描き始めたので、屠自古は烏帽子を外してから、唇を震わせた。
「……ふと」
「なっ」
布都が、顔をあげてくれた。屠自古は頬をかいて、ケーキの最後のひと口を放り込んだ。
「家族ごっこ? お友だちか? なんでも好いが、せっかく用意してくれたんだから、付き合ってやろうじゃないか」
「そ、そが……」
肩をひっつかんだ。
「屠自古だ」
布都の瞳が、蝋燭に照らされて、潤んでいるように見えた。視線がそらされた先には、実体のない亡霊の脚があるはずだった。布都が、何かを盗み出すように上目遣いで窺いながら、そっと唇を震わせた。
「……とじこ」
「違う」
「刀自古っ」
「違う」
息を吸い込む音が、かまくらに鳴り響いた。
「――屠自古!」
「……うん、布都」
ふと、ふと、そう繰り返してから、屠自古は身体を離した。
「さぁ、一家団欒だ。酒でも呑もうじゃないか。持ってきてるんだろう?」
「もちろんだ、我に任せよ――呑み比べとしゃれ込もうではないか」
屠自古は、鈴を転がしたみたいに笑った。
「やってやろうじゃん」
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―― スノウ・ラフスケッチ ――
≪描いた風景たち≫
■第一景 ~ ユー・アー・マイン (博麗霊夢 × レミリア・スカーレット)
■第二景 ~ リーブ・フロム・メランコリー (封獣ぬえ × 村紗水蜜)
■第三景 ~ プリーズ・モア・ウォームス (河城にとり × 霧雨魔理沙)
■第四景 ~ グッド・モーニング・デイズ (幽谷響子 × 多々良小傘)
■第五景 ~ フロム・ハート・トゥ・ハート (古明地さとり × 古明地こいし)
■第六景 ~ マイホーム・ユアネーム (蘇我屠自古 × 物部布都)
【第一景 ~ ユー・アー・マイン】
「あら、降ってきちゃった」
吸血鬼の鈴を転がしたみたいな声に、霊夢は欠伸を漏らして起き上がった。
「……雨?」
「いいえ、初雪よ。霊夢」
縁側に腰かけて、羽を休めているレミリアの背中が見えた。グラスのワインの紅色が、ちらつく粉雪のなかで浮き上がっていた。吸血鬼は、ちらりと振り返っては、まるで見せつけるみたいに、唇についたワインを舐め取った。紅い瞳の監視をすり抜けて、グラスに一粒の白雪が舞い降りたことを、レミリアは知らない。
「雪景色って、無常を感じるわ」
「あんた、無常の意味、わかって云ってんの?」
「あら、パチェに『方丈記』を朗読してもらったことなら、あるわ」
レミリアは『ゆく河の流れは』と最初の一節を口ずさんで、そこで記憶を落っことしていた。霊夢は炬燵のうえのストロベリーキャンディーを口に放り込んで、舌で転がしながら、ブランケットを肩に引き寄せた。風向きは意地悪だ。雪が土足で上がり込んで、畳をいじめていた。
「ねぇ、レミリア」
「なにかしら?」
「雪が入ってきちゃってるわよ――いい加減、中に戻ったらどう?」
吸血鬼は、ワインをくゆらせるだけ。
「もう少し、このままで」
そうは問屋も博麗も卸さない。霊夢はブランケットを羽織って立ち上がる。ブランケットの模様は、飛び交うコウモリ、隅っこには「for my Reimu」の血文字みたいな刺繍。
「畳が傷むじゃないの」
そう云って、レミリアの肩をつかんだ瞬間、世界が火花でいっぱいになった。口を塞がれて息が止まった。霊夢は、濡れた畳へと仰向けに倒されていた。一瞬の出来事だった。
「ったぁ……」
なにすんだ、と云おうとして、舌がもつれた。鉄の味が酒気といっしょになって、舌のうえに残っていたからだ。喉を鳴らして呑みこんでから、ようやく、それが血の混じった赤ワインだってことに気づく。
「ふふ、いただきます」
レミリアの舌のうえには、ワインの代わりに、ストロベリーキャンディーが唾液を帯びて光っていた。
「やだ、あんた――なにしてんのよっ」
ナイトキャップに鉄人包丁のごとき手刀を叩き込んでやろうとしたけれど、レミリアはするりと翼をはためかせて、境内に舞い降りた。雪のうえをステップする音が、小太鼓のように耳を打つ。
ほのかに頬を染めて、雪景色のなかでレミリアは踊っていて。霊夢は、外に出てまで追いかけてやる気にはなれなかった。
「また一歩、私のものになったわね、霊夢」
吸血鬼がステップを止めて、右の手首を見せつけてきた。傷口から流れ出た血が、白い腕に紅い河を通していた。肘先まで筋を引いたあと、グラスのワインへと波紋を広げていった。
「『淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて』 ――あなたが弾けちゃう前に、手に入れてやるんだから」
ぺろり、とストロベリーキャンディーが顔を出して、こちらを見つめてきたので、霊夢は肺炎をこじらせた犬みたいな息を漏らした。
「ほんと……勝手なやつね、あんたは」
「わかってくれて嬉しいわ――さぁ、炬燵に帰りましょうか」
やれやれ、と霊夢は茶の間に戻って、ちゃぶ台に突っ伏した。
「風邪ひいちゃ嫌よ、霊夢」
コウモリ柄のブランケットを、肩にかけてくれる手つきだけは、ひどく優しかった。
【第二景 ~ リーブ・フロム・メランコリー】
「昔の時代には、香辛料を求めて船で世界一周した人もいたそうね」
「ふぅん、それがどうかしたの?」
「ありがたく食べなさいってこと」
水蜜がパイプの煙を吐き出しながら、鍋に入ったカレーを杓子でかき混ぜている。タバコを吹かしながら料理をするなんて、見つかったらなんと云われるか、わかったもんじゃない。ぬえは、貰ってきたリンゴをかじっては、忙しなく揺れるセーラー服の背中を見つめていた。
「さて、あと少しで完成ね」
戸棚の引き出しから、銀の匙でいろんなスパイスをすくっては、鍋に放り込んでいく。迷いはない。まるで高性能のカラクリみたい、とぬえは思った。
「そーいえば、天気はどう? 出航日和?」
「あいにくの雪だよ、ムラサ」
そう、と云って、水蜜がパイプを噛んだ。嵐の夜ほどじゃないけれど、雪の曇り空は、船長の肩を落ち着かなくさせているみたいだった。ふっと手が止まって、雪みたいに真っ白なキャプテン帽を、くしゃくしゃに握りしめた。
「あはは……やっぱり、どんなにイライラしたって、パイプなんて吸うもんじゃないね。自分の味がわからなくなっちゃった」
座敷のほうが、にわかに騒がしくなってきた。キュロットスカートのすそを跳ねあげて、船長は眉根を寄せて振り返る。
「どうしよ、もう時間か」
「味見しよっか?」
ぬえは、思い切って云ってみた。水蜜の料理を眺めているのも楽しいけれど、水蜜の味見をするのは、もっとわくわくする。
「じゃあ、お願いしようかな――ほい」
小皿に取って、手渡してくれる。水蜜の手は、溶けかかった雪みたいに、冷たくて不安定だった。
「美味しいね。美味しいけど、ちょっと違う」
「やっぱり、足りないかな」
ぬえはかじっていたリンゴを、水蜜に差し出した。
「隠し味」
「食べさしじゃない」
「包丁かして」
なにするの、と声をかける水蜜に、イタズラ、と返してやる。リンゴをひと口大に切って、それを箸でつまんだ。
「いざ、出航します」
アップル号を、カレーに投入する。二秒と待たずに、アップル号は深海に呑みこまれた。
「……沈んだけど」
「世知辛い話だよね、カレーだけに」
「なにが云いたいの、ぬえ」
ぎりり、とパイプの悲鳴が落っこちた。
「こうしたかったの」
水蜜から杓子を奪い取って、カレーの海に潜り込ませる。二秒と待たずに、アップル号は深海から浮き上がった。
「はい、救出成功っ」
呆気にとられて立ち尽くしている水蜜の目の前で、カレーまみれのリンゴを口に放り込む。
「うん――辛くて、甘くて、美味しいよ」
ムラサの味だ、そう呼びかけようとしたけれど、帽子ではたかれたので云えなかった。
「ばか、バカぬえ」
舟幽霊は、けれど我らが船長は、キャプテン帽を目深にかぶって、ずんずんと台所から去っていってしまった。
「えへへ」
はたかれた黒髪を撫でた。ぬえはイタズラの成功を噛みしめながら、カレーの香りのなかでガッツポーズした。
【第三景 ~ プリーズ・モア・ウォームス】
「魔理沙ってば、張り切りすぎだよ、まったく――そんなに丈夫な身体じゃないってのにさ」
「……面目ない」
にとりは腰に両手をあてて、ベッドにダウンしている普通の魔法使いを見下ろしていた。足元には、雪の名残で濡れた一斗缶に、愛用の工具一式。
「ストーブが使えなくても、暖炉があるじゃないか」
「それに気づいた時にゃ、立つ気力もなくてな」
魔理沙が、苦笑いと咳を同時にこぼした。目の下に浮いた隈が痛々しかった。頬もこけているように見えた。
「私が点検に来なかったら、どうなっていたことやらね」
「さぁな、死んでいたかもしれん」
氾濫した河みたいに冗談にならない言葉だった。にとりは奥歯を噛んだ。両手をぎゅっと握って、けれど緩めて。ふっと息をついて、工具を取り出して、故障したストーブを修理した。一斗缶からポンプで燃料を汲み上げて、ストーブに給油した。その間、ずっと魔理沙の視線を感じていた。ふと首を巡らせてみたが、目はそらされてしまった。
「はいよ、いっちょ上がり」
「助かったぜ」
ストーブの電源を入れた。かまくらの中で焚き火をしているみたいな、くぐもった音が部屋の壁を這い昇っていった。作動を確認すると、にとりは外に出て皮袋に雪を詰め込み、能力で空気中の水分を集めて袋を満たし、チャックを閉めて即席の氷嚢を作った。
戻ったときには、すでに部屋のなかは暖まっていた。氷嚢を渡してから、椅子を引き寄せて、ベッドのそばに腰を落ち着けた。
「その――暖炉の音は、好きになれないんだよ」
突然、魔理沙が云った。
「音かい?」
うなずきが返ってくる。
「夜に独りで研究してるときに、薪が砕けてバチって鳴るとさ、びっくりしちゃうんだよ」
そうなったら、もう駄目なんだ、と魔理沙は云った。氷嚢で隠れているせいで、目元が見えなかった。
「落ち着かなくなって、暖炉の前を離れられなくなる。以前は、そんなこともなかったのに」
「科学の勝利だね。ストーブは偉大だ」
ストーブの無表情な外装を撫でてやる。そっけなく熱風を吐き出し続けるマシンは、けれど照れたみたいに一声、うなりを上げた。
「……魔法と科学は、真理を追い求めるって意味では、本質は同じなんだって聞いたんだけどな」
氷嚢をずらして、魔理沙はようやく視線を合わせてくれた。瞳だけが生気をみなぎらせていて、まぶしかった。
「私は、もっと単純なとこで、同じなんだって思うんだ」
「聞こうじゃないか、盟友」
「奇跡だよ」
ひゅい、とにとりは、思わず椅子から身を乗り出してしまった。
「みんなを、あっと見返してやれるような奇跡を、ちっこい人間の手で起こすことができるんだ」
きせき、と口のなかで繰り返す。
「――もっとも、ほかの魔法使いの連中は、取り合っちゃくれないけどな」
「そうかい、私は悪くないと思うけどね。奇跡、夢があって好いじゃないか」
なんて云ってやると、魔法使いは静かに笑った。いつもの飄々とした笑みではなく、かまくらを作っている幼子みたいな笑みだった。
「だから、お前がいてくれて、好かったよ」
「……今日の魔理沙は、おかしいね」
「風邪のせいだぜ」
「違いない」
ストーブの火力を、ちょっとだけ低めると、ほいさっと椅子から立ち上がった。
「ささ、休んだほうが好い。ぐっすりとね。なんなら、河童流の子守歌でも贈ろうか?」
「ストーブで充分だ」
「嬉しいね、手間が省ける」
とりあえず、お粥でも作ってあげようか。
にとりは部屋から出た。音を立てないようにドアを閉めてから、宝物を抱きしめるみたいに両腕をつかんで、笑った。
【第四景 ~ グッド・モーニング・デイズ】
「もう失くしちゃったかと思ってたのよ。ほんと、ありがとうねぇ」
「いえいえ。こちらこそ、ご馳走になってしまって」
「また来てちょうだいね。あの人も喜ぶわ」
そう云って、その人は、戸棚に飾られた写真立てに眼差しを送ったのだった。
「……好かったね、ちゃんと見つかって」
隣の唐傘お化けに呼びかけた。雪は、里に入ったときと変わらない勢いを保っていた。
「まだ降ってる。響子ちゃん、はいりなよ」
小傘がナス色の傘を差しだしてくれた。響子はうなずいて、そっと寄り添った。二人ぶんの足音が転がった。雪を踏みしめる音は、懐かしい記憶をたぐり寄せるときの音に似ていた。
「あの人、嬉しそうだったなぁ」
唐傘お化けのつぶやきが、白い息といっしょに冬空へと浮かんでは、消えていった。
「諦めかけてたんだろうね。思い出のかけらってやつなのかな」
ねぇ、寒くないの、そう呼びかけをしてみた。ちょっと寒いかもって、声が返ってきた。傘を握りしめる手が、捨て猫みたいに震えていた。
薄桃色のマフラーを解いて、片っ方を小傘の首にまわした。そのためのマフラーだった。そう思ってしまうくらいに、長さはぴったりだった。二人は冬空の帰り道を、肩をくっつけて歩いた。
「どう?」
「うん、好い感じ」
それでも、手の震えはおさまっていなかった。そこだけが、無人島に取り残されたみたいだった。手は透きとおるくらいに白くて、今にも雪景色のなかへと溶けて、消えてしまいそうだった。
「てぶくろ、しないの?」
「……持ってないんだ、私」
そう、と返して、自分の手のひらを見下ろす。緑色のミトンの手袋。この道具だって、そのために作られたのだとしたら。響子は両手を広げて、小傘の手を覆った。ひとり雨宿りを強いられたみたいな、そんな切ない冷たさが、毛糸の網目ごしに伝わってきた。
「――響子ちゃんっ」
小傘が立ち止まった。空色の髪の毛が、野兎みたいに弾んだ。赤青の瞳に、初春の日差しのような輝きが宿っていた。
「ど、どうしたの?」
顔を近づけられて、白い息が顔にかかってきた。さっき食べさせてもらった、チョコチップクッキーの匂いがした。
「いま、わた、わたしも――思い出したの、忘れもの」
「えっ――じゃあ、取りに戻らないと」
「違うんだよ、そうじゃないんだよ」
もう片っ方の手が、手袋に重ねられた。ぎゅっと力をこめて、よっつの手が傘の軸へと寄り添った。
「ずっと、ずっと前のことなんだけど」
小傘が切り出した。
「私を使ってくれてた人も、こんな手袋してたの。ぎゅって握ってくれてた。そこだけ、すんごく温かかったんだよ」
温かかったんだよ、と小傘は繰り返した。雪のひとひらが、目の前をすり抜けていった。
「ありがと――ありがとう!」
うん、うん、と響子は何度もうなずいた。そしたら、小傘はナス傘をほっぽり出して、笑いながら走り出した。下駄の歯が雪を跳ね上げた。五十メートルほど走ったところで、どんぐりみたいに転んでしまった。白雪を、しこたま空色の髪にのっけて、小傘はありがとうって、また声をあげてくれた。
「はい、どういたしまして!」
だから、響子はヤマビコを返した。
自分はここにいるって、空へと合図を送るみたいに。
緑色のミトンの手袋をはめた手を、精いっぱいに振った。
【第五景 ~ フロム・ハート・トゥ・ハート】
「お姉ちゃん、ただいまっ」
「……遅かったですね、こいし」
さとりは目をこすって、まどろみの名残を払いながら微笑んだ。
「すんごい雪だよ。埋まっちゃうかと思った」
やっぱり我が家は快適だねー、と妹は帽子をラックに引っかけた。雪の欠片が落っこちては、カーペットに染み込んでいった。さとりは暖炉に薪を二本ほど放り込んでから、真っ白なタオルで妹の顔を拭いてやった。こいしは、大人しく目をつむってくれていた。
柱時計が一日の終わりを告げた。小鳥の眠りだって覚ませないほどに、ささやかな声を部屋に届けてくれていた。それは、明日への合図でもあった。
「好い匂い。お姉ちゃん、またパン焼いてるの?」
「えぇ、明日も地上に行くんでしょう? お腹が空くだろうと思って」
言葉を交わしながら、キッチンミトンをはめて、煉瓦造りのかまどを開ける。心地よい熱気が、さとりの頬をなでた。焼きたてパンの香りも一緒になって、部屋のなかへと広がっていった。
「美味しそう!」
いつの間にか、こいしが背中にのしかかってきていた。やわらかだけれど確かな重みが、温もりを連れて伝わってくる。肩に置かれた手のつたなさは、焼きたてパンの香りみたいに心をくすぐってくれた。
「うん、上出来ね」
「いっこ、いっこだけ食べていい?」
「もちろん。作り立てがいちばんですから。パンも、夕ご飯もね」
「むぅ、次は早めに帰ります――これで好いでしょ?」
素直でよろしい、とさとりは笑って、パンを大皿に並べた。クロワッサン、ベーグル、スコーンにポテトパイまで、ぜんぶが真新しい湯気を立てて、テーブルに並べられた。暖炉の火が、ぱちんっと喜んだ。柱時計は変わらぬ時を奏で続けていた。
いただきます、と手を合わせて、こいしはアップルパイにかじりついた。目を細めて笑いながら。ぱりぱりと音を立てながら。自分が焼いたパイを、食べてくれていた。口の端についてしまった蜜が、明かりを浴びて光っていた。立ちのぼる香ばしい匂いは、いつまでも色褪せない讃美歌を唄ってくれているような気がした。
さとりは、かまどに入れられたパンみたいに、気持ちが膨らんでいくのを感じた。
「やっぱり、お姉ちゃんの料理は、おいしい」
妹が、ちゃんと口のなかを片付けてから、照れたように笑った。
「こいし」
「なぁに?」
両手で頬杖を突きながら、さとりも微笑んでみせた。
「わたし――いま、幸せよ」
こいしは、目をぱちくりさせたあと、胸をとんとんと叩いた。さとりはコーヒーを淹れてやった。角砂糖の数は、今日も二つだった。息を吹きかけてから、妹はコーヒーを口に含んだ。
それから、口を開きかけて、また閉じて、三つ目の瞳を撫でてから、やっぱり照れたように笑った。
「えっと……ありが、とう?」
「こちらこそ」
だから、今は、それでいいのだ。
パンをバスケットに包んでから、かまどの煤をかき出し、テーブルを布巾で拭いて、食器を洗いにキッチンへ行こうとした。ふと、袖を引っ張られた。こいしの緑がかった髪が、さとりの頬に触れた。
「どうしたの」
「明日は、うちにいる。お姉ちゃんと、いっしょにいる」
柱時計の音よりは大きくて、けれど暖炉の火の温もりよりは、不確かな声だった。
「雪がひどいから?」
「うん、雪がひどいから」
それなら仕方ないな、と髪を撫でてやった。袖は離されなかった。
「お姉ちゃん、十二時の鐘は鳴ったんだよ。明日は、もう今日なんだよ」
「そうね」
「だから、今から一緒なの」
「……甘えんぼさんね」
食器なんて、いつでも洗えるのだから。
そう考え直して、さとりはコーヒーの二杯目を淹れた。
【第六景 ~ マイホーム・ユアネーム】
「おい、物部」
「なんだ、蘇我」
「……なんぞコレ」
ふふんっと、鼻で笑われた。
「おぬしは、かまくらすら知らんのか?」
「違ぇよ、そのボロっちい祭壇はなんだって訊いてんだよ。ひな人形とデートするってのか?」
屠自古は腕を組んで、物部の運んでいる物体に目をやった。赤い垂れ幕は物々しいが、端っこがほつれて糸きれが飛び出してしまっていた。よく見ると、垂れ幕は画鋲で留めてあり、祭壇の素材はダンボールであった。
道士は、笑みを崩さない。
「学究の不足だな、蘇我。かまくらは、元々は水神を祀るための祠として作られたのが始まりなのだ」
物部は、祭壇をかまくらへと蹴りこんだあと、スコップの背を振るって形を整えた。
「ささ、入るがよい」
「やだよ」
「我は先に行くぞ」
聞いちゃいねぇ。
物部が腰を屈めて入っていく。結わえた銀髪が、虎のしっぽみたいに揺れていた。かまくらに降り注いだ日差しが、星屑の光をたたえて輝いていた。ため息をひとつだけ、積もった雪へと染み込ませてから、物部の後を追った。
「おほんっ――えー、水神様。竜神様。我ら太子様の治世が日輪のごとく、末永く瑞穂の国を照らし続けることを願って、ここに聞こし召し頂きたい次第で候……」
物部は平服して大幣を振るい、長ったらしい祝詞をあげてから、とどめに「キエーッ」と奇声を発して神事を終えた。
「終わったぞ、蘇我。ケーキでも食らおう」
「これ、お前が作ったのか?」
物部がどや顔でうなずいて、箱から取り出したショートケーキの蝋燭に、火を灯した。かまくらの薄暗がりが、さあっと払われた。物部の端正な顔が、淡い陰影を引き連れて、視界から浮き上がって見えた。思わず胸を右手でおさえた。ほっぺの生クリームを、人差し指ですくって舐めている物部が、普段とは違って見えてしまった。
「……なんだか、不思議だと思わんか?」
「な、何がだ?」
物部がケーキを咀嚼しながら、微笑んで云った。
「蘇我と物部……お家で争った者どうしが、同じ家のなかで、菓子を食らっておるのだからな」
そう云って、狭っ苦しい家をぐるりと指さす。波の満ち引きみたいに、蝋燭の明かりが雪のうえを滑っていた。口のなかで溶けていった、生クリームとイチゴの味が、舌のうえで踊っていた。
「……とじこ」
「は?」
ぼそっと漏らされた言葉が、鈴の音のように耳を打った。物部が目をそらして、ハエを払うように手を振ってきた。
「やめだやめ――おぬしと我には、似合わぬ響きだ」
銀髪の道士は、胡坐をかいて、頬杖を突いて、フォークを口にくわえて、空っぽになった皿を見つめている。指でわけの分からない図形まで描き始めたので、屠自古は烏帽子を外してから、唇を震わせた。
「……ふと」
「なっ」
布都が、顔をあげてくれた。屠自古は頬をかいて、ケーキの最後のひと口を放り込んだ。
「家族ごっこ? お友だちか? なんでも好いが、せっかく用意してくれたんだから、付き合ってやろうじゃないか」
「そ、そが……」
肩をひっつかんだ。
「屠自古だ」
布都の瞳が、蝋燭に照らされて、潤んでいるように見えた。視線がそらされた先には、実体のない亡霊の脚があるはずだった。布都が、何かを盗み出すように上目遣いで窺いながら、そっと唇を震わせた。
「……とじこ」
「違う」
「刀自古っ」
「違う」
息を吸い込む音が、かまくらに鳴り響いた。
「――屠自古!」
「……うん、布都」
ふと、ふと、そう繰り返してから、屠自古は身体を離した。
「さぁ、一家団欒だ。酒でも呑もうじゃないか。持ってきてるんだろう?」
「もちろんだ、我に任せよ――呑み比べとしゃれ込もうではないか」
屠自古は、鈴を転がしたみたいに笑った。
「やってやろうじゃん」
~ fin. ~
.
甘えん坊なこいし可愛いです
だから、一番あったかいのは、冬なんだよね。
個人的にはゆっくりと時が流れるようなものを期待しましたがいい意味で裏切られました
大きめの雪の結晶がサクサク降り積もるようで気持ちいいです
小傘と響子のエピソードが好き
自分はぬえとムラサの話が特に好きです。
船に見立てたリンゴを柄杓ですくい上げるという行為一つから色々な意味合いを感じ取れるのがとても良いと思います。
短いながらも、キャラクターの個性を光らせる小物や描写が随所に見られて、丁寧に作られているな、と感じました。レミリアのワイン、村紗のパイプ、にとりの「氾濫した河みたいに~」の例え等。ぐっと臨場感が増す気がして、こういう部分がしっかり描かれている作品、好きなんですよね。