紅い屋敷の紅い雨
窓からふと外を見た。綺麗に手入れをされた庭園には季節の花々が色鮮やかに咲き誇り、気持ち良さそうに雨に打たれていた。花に限らずスペアミントやバジル、レモングラスなどのハーブ類もその葉に雨露をたっぷりと貯め込み気持ち良さそうに揺れている。
悪魔の館と呼ばれる紅魔館だが、その庭園はまるで天国を連想させられる程に美しかった。美しい物が溢れていた。
咲夜の目に一番印象強く映った物は赤かった。それは天国の様な庭園の少し先、紅魔館の敷地への出入りに使う鉄格子の門の外にあった。正確に言えば立っていた。
「美鈴の奴、流石にこの雨じゃ居眠りもできないか」と優しさの籠った声でそう言った。
なにか体の温まる様なものでも差し入れに持って行ってあげようかしら。と思う咲夜だった。
キッチンの勝手口から庭園に出ると、優しい匂いがした。雨の匂い、土の匂い、濡れた植物の匂い。大きく息を吸い込み、優しい成分で肺を満たした。
先ほど目に付いたハーブが植わっている花壇まで来てスペアミントを一本摘んだ。勿論、彼女は瀟洒なので雨に濡れたりはしない。フリルの付いた折り畳み傘を左手に持ちながらの作業だ。
キッチンに戻って来ると妖精のメイドにお湯を沸かすように言い付け、自分はその間に摘んできたミントを適当な大きさに千切り、香りが出やすいようにと掌で数回叩いた。
妖精のメイドはハーブティーを淹れると理解したようで、ティーカップとソーサーのセットをいくつ用意すれば良いのかを咲夜に尋ねた。
「メイド長、なんだか嬉しそうですね」
「そう? あぁ、別にお嬢様にお持ちする物ではないから普段使いのティーカップで良いわ。白色の物を二つね」
咲夜は疑問に思った。
私はなぜ嬉しそうにハーブティーの準備をしているのだろう? 普段居眠り癖の酷い美鈴が真面目に門番をしている事が嬉しかったのだろうか? それとも庭園で優しい匂いを嗅いだからだろうか? 雨でお嬢様が大人しくされているからだろうか?
答えは出なかった。
「お湯、沸きました」と妖精のメイドが言った。
「ありがとう、後は私がやるから。あなた達も少し休憩にしなさい。それが終わったら夕食の用意を始めるわよ」
わかりました。と妖精のメイドは嬉しそうにキッチンを飛び出して行った。
シルバーのトレイには新緑を思わせる透き通った色のミントティー、クリームチーズとブルーベリージャムのサンドウィッチが乗っていた。
咲夜はそれを右手に乗せ、左手にフリルの付いた折り畳み傘を持った。
両手が塞がっていてドアを開けられない事に気が付き、少し照れたように傘を一度置いて、左手でドアノブを押した。瀟洒であることとお茶目であることは共存できるようだ。
庭園に出るとやはり優しい匂いが充満していた。
「ふふ」
上機嫌になり柄にもなく鼻歌を歌ってみたが、これと言って気に入った曲がある訳ではないので即興でメロディーを響かせた。
左手にフリルの付いた折り畳み傘、右手にはハーブティーとサンドウィッチを乗せたシルバーのトレイ。この季節の湿気に負けずに綺麗に纏まった銀髪はほのかに甘い香りを放ち、背中は棒でも入れてあるかのように真っ直ぐな姿勢を保ち、すらりと伸びた細い脚とカツカツと一定のリズムを刻むヒール。彼女にはやはり瀟洒という言葉が似合った。
「お疲れ様、お茶にしましょう」
鉄格子の門の前まで来ると咲夜は美鈴にそう言った。
「わあ、咲夜さん。嬉しいですね」と嬉しそうに美鈴は答えた。
お持ちしますよ。と門の外側から内側に身を滑らせながらそう言うと美鈴は右手で咲夜の傘を持った。左手には自分の傘が収まっているので傘の二刀流使いの様な姿になり咲夜に笑われた。
門のすぐ横にある詰所で二人はハーブティーを飲んだ。
「雨だと昼寝が出来ないから眠い?」
「いえいえ、別にそんな事はないですよ。おぉ、このサンドウィッチとっても美味しいですね」
立ったまま寝ていたので。とは口には出さずに、クリームチーズとブルーベリージャムのサンドウィッチを頬張りながら美鈴は答えた。
「咲夜さん、雨の日は好きですか?」
「好きか嫌いかと聞かれれば嫌い」
「でも雨の日は大抵機嫌が良いですよね?」
咲夜もサンドウィッチを一口。
「むむ、味見しないで作った割には良い甘さね。吸血鬼に仕えるメイドが雨の日に機嫌が良いだなんて有り得ないわ」
「あはは、確かにそうですね」と美鈴は楽しそうに笑う。
「私は雨の日、好きですよ。勿論、お嬢様が雨の日を嫌っているのは知っています。吸血鬼に仕える門番としては心苦しいですけど、私は雨の日が好きです」
白い歯を見せながら美鈴はそう言った。
「これはお嬢様に密告しないと駄目ね」
咲夜は笑いながらそう言った。
優しく屋根を打つ雨音が響く。二人はいつの間にか話す事を止め、雨音に耳を傾けていた。
「さて、休憩はそろそろ終わりにしましょうかね」
美鈴は立ち上がり、両手を伸ばし背中を逸らす。
咲夜は美鈴のその動きを竹の様だといつも思う。力強くそれでいてしなやかに動く美鈴の鍛えられた体は、天に届くほど高く伸び、風向きに合わせてその身を逸らす。だがどんなに強い風が吹いても折れる事無く青々と茂る竹を連想させられる。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
空になったティーカップとサンドウィッチが乗っていたお皿をトレイに乗せながら咲夜は一つ質問をした。
「ねぇ、なぜ雨の日が好きなのかしら?」
「雨が降ると咲夜さんが優しくなるからです」
自分の顔が赤くなるのを感じた咲夜は時間を止めてその場から逃げだした。
止まった時間の中、彼女は余りに照れて、慌てて門を後にしたので、フリルの付いた折り畳み傘を詰所に忘れて来てしまった。これでは瀟洒とは呼べないかもしれない。
キッチンに帰った頃には服も髪もびしょびしょに濡れてしまったので、そのまま時間を止めて部屋に戻りシャワーを浴びて着替えを済ませた。
美鈴はまれに恥ずかしくなるような事を平然と言ってのける事がある。咲夜はその度に時間を止めて彼女の前から逃げ帰ってくるのだった。
ひょっとしたらからかわれているのかもしれない。十数年しか生きていない人間なんて妖怪から見たら赤子同然なのだから。と咲夜は思った。
そう思うと無性に腹が立ったので、また時間を止めて門の前へ向かった。フリルの付いた折り畳み傘を回収し、美鈴の額目掛けてナイフを投げ、ナイフの時間も止めた。
あとはパチンと指を鳴らして止まっている時間を元に戻せばこの気が少し晴れるかもしれない。
屋敷の中に戻り、庭園が見渡せるバルコニーまで来ると咲夜は止めていた時間を元に戻した。
次の瞬間、美鈴の悲鳴が聞こえたので、小さくガッツポーズをして仕事に戻った。
「やっぱり雨の日は好きよ」
そう誰かに答えるように呟いた。
雨の記憶
瞳を閉じ、耳を澄ませる。庭の枯山水を打つ雨音が聞こえる。それはごく僅かな音量で、消え入りそうな、不安にさせられるような音だと妖夢は思った。
すうっと少しだけ息を吸い込む。僅かに漂う松の脂の匂いを感じ、昨日の昼に庭の松の木の手入れをした事を思い出した。その匂いは師匠であり祖父である妖忌の事を連想させた。
そして瞳を開け、鞘に収まっている剣の柄に手を掛ける、次の瞬間には閃光の様に剣はその身を走らせた。
「また失敗」
妖夢は雨を斬ることが出来なかった。そもそも雨を斬ることなど出来るのだろうかと疑問に思う事は無かった。この世に斬れない物はほとんど存在していないし、現に師匠が雨を斬ったところをその目で確かに目撃していたのだから。
雨を斬るとどうなるのか。妖夢は鮮明に覚えていた。
一瞬より短い時間、刹那と呼ばれるようなほんの僅かな短い時間の抜刀。気が付くと冷たい銀色の刀身が現れていて、それに気が付くとぴたりと雨音が消える。雨音が消えていることに気が付くと再び雨が地面を打つ音が再開されるのだ。
「雨を斬れるようになるには三十年掛かる」とその時師匠は教えてくれた。眉唾物だ。と妖夢は思ったが「はい」と返事をした。
師匠は厳しい人だった。
剣術に関しては、技は盗むものだと言い、何か特別に教えてくれるようなことは無かったし、幼いから、孫だからと言って手加減をしてくれるようなこともなかった。
庭師の仕事に関しては厳しく指導された。木の剪定一つでもそうだった。間違った枝を切ろうものなら烈火の如く怒られ、拳骨が頭上に降ってきた。
雨だろうと雪だろうと休み無く稽古に参加させられた。それでも師匠のことを嫌だと思ったことは一度もなかった。それよりも早く一人前になって師匠を喜ばせたいと思っていたくらいだった。
だから師匠がある程度自分のことを認めてくれて「これからはお前が幽々子様を守る盾となりなさい」と言ってくれた時は涙を流して喜んだ。
祖父はとても優しい人だった。
女子は見た目も大事だ。と毎月、綺麗に髪を切ってくれた。綺麗な服も買い与えてくれた。風邪を引けば懸命に看病してくれたし、剣術庭仕事以外の事で泣き言を言えば優しく頭を撫でて話を聞いてくれた。勉学や書道、華道に茶道も教えてくれた。
だから祖父が白玉楼を去る時には泣き付いて止めようとした。
彼が白玉楼を去ったのは今日の様な雨の日だった。そっとしとしとと落ちてくる雨で、空の成分が染み出して落ちてくるような雨の日だった。
頭を左右に振って余計な考えを振り払い、意識を集中させる。今度こそ雨を斬るのだ。と意気込む。
瞳を閉じて、耳を澄ませて、少しだけ息を吸い込む。今度は松の脂の匂いは感じなかった。雨粒が前髪を伝って鼻の頭に落ちた。右の耳たぶから我慢しきれなくなった雨粒が落ちた。神経は先程より澄み渡っている。
いける。と妖夢は思った。
そして瞳を開け、一瞬より早く抜刀した。
「また失敗か……」
「妖夢、そろそろお茶にしましょう。私は腹ペコだし、貴方は少し体が冷えているわ」
「わっ! 幽々子様。いつの間に?」
「いつの間にって、さっきからいたわよ?」
「まったく気が付きませんでした」
「妖夢は夢中になると周りが見えない」と幽々子は微笑んだ。
「周りが見えない」と復唱した。
そうだ。幽々子様の言う通りだ。と妖夢は思った。
「着替えを済ませたら直ぐにお茶の用意をします」そう言って妖夢は自室へと向かった。
ささっと着替えを済ませると、妖夢は髪を拭いた。台所へ向かい窯に薪を何本か入れて火力を上げる。水釜から柄杓で三杯の水を薬缶にいれて窯に乗せる。その間にお茶請けになりそうな菓子を探す。戸棚の奥に置いてあったどら焼きはいつの間にか無くなっていたので、湯呑をしまう引戸に隠していたみたらし団子を瀬戸物のお皿の上に移した。
お湯が湧いたら急須と湯呑を暖める。茶葉は主の友人からの頂き物で上物だった。茶筒を開けるとさわやかな茶葉の香りが漂う。
茶葉を急須に入れ、お湯を入れる。蒸らす時間は……台所から縁側まで歩く時間を考えれば十分だった。お盆に急須と湯呑とお茶請けを乗せ、妖夢は台所を後にした。
「お待たせしました、幽々子様」
「もう空腹で死にそうよ」
「どら焼き」
妖夢がそう言うと幽々子は視線を逸らした。
「私も食べたかったです」
「何を言っているのかよくわからないわ」
「幽々子様は良いですよね。昨日の夕飯の後に三つ食べたんですから。残りの一つは今日の稽古の後に食べようと楽しみに取って置いたのに無くなっているんですよ」
頬を膨らませながら妖夢はお茶を注ぐ。茶葉の香りが二人の間に広がる。
「まぁ、美味しそうなお茶ね」と幽々子は話を逸らした。
お茶請けのみたらし団子を食べ終え、湯呑が空っぽになると幽々子は扇子を広げてゆっくりと扇ぎ始めた。
「妖夢、あまり焦らなくても時間は幾らでもあるわ」
「焦る?」
「妖忌は何百年も妖夢より年上なのよ。同じことが出来なくたってしょうがないわ」
「……」
「雨が降ると師匠のことを思い出してしまいます。それで――」
幽々子は妖夢の話を遮るように彼女の手をそっと握った。
「お爺ちゃん子に爺馬鹿ね。あなた達は」
妖夢は何も言わずに幽々子の顔を見る。
「今日みたいな雨が降ると二日三日後に妖忌から手紙が届くのよ。雨が降ると妖夢のことが気になって仕方がない。孫娘は元気にしてますか? とか、幽々子様に迷惑はかけていませんか? とかね。多分直接あなたに手紙を書くのが恥ずかしいのでしょう」
嬉しい気持ちで胸が苦しくなった妖夢は幽々子の手を強く握り、読ませてくれるように頼んだ。
「駄目よ。決して妖夢には見せない様にって書かれているから。でも、そうね。今度、妖夢にも手紙を書くように返事をするわ」
「約束ですよ! 幽々子様」
わかったと幽々子は返事をすると、少し部屋で昼寝をすると縁側を後にした。
その日から、妖夢は雨が降ると嬉しそうに、楽しそうに空を眺めたり、剣術の稽古をするようになった。
そして、一月後。
梅雨の終わりも近づいた頃の事だった。
ゆっくりと落ちてくる雨粒を全身で感じ、枯山水の砂利一つ一つを打つ雨音を聞き分け、こっそりと近づく幽々子の気配を感じ、吸い込む空気に漂う松の脂の香りを嗅ぎ、かつて師匠が雨を斬った際の様子を頭の中に描き、ゆっくりと瞳を開いた。
全身の力を抜き、そっと剣の柄に手を乗せ、刹那より早く抜刀した。
一秒程、雨音が止んだ。
雨を斬ったのだ。
かつて師匠がやって見せた時に比べれば、雨音が止んだ時間は短いが、確かに妖夢は雨を斬ってみせたのだ。
「妖夢、妖忌から手紙よ」
「今行きます!」
妖夢はびしょ濡れのまま、縁側に駆け上がり、幽々子から手紙を受け取った。そして嬉しそうにその封を切った。
雨の航路~キャプテン・ムラサ~
村紗は普段より大粒の雨が降る日が好きだ。風が強くて、傘を差しても体が濡れてしまう様な横殴りの雨だと最高だと村紗は思う。
そんな雨の日を村紗は嬉しそうに「シケが来た」と言う。
村紗の言うシケの日が来ると彼女はふらっと散歩に出かける。命蓮寺の住人達はなぜこんな雨風の強い日に出かけていくのか全く理解が出来なかった。しかも満面の笑みで「少し散歩に行ってくるね」と楽しそうに一言残して出かけるのだ。理解に苦しむ。
とは言え、そんな日に村紗が何をしに出かけるのか確かめようとは誰も思わなかった。何しろ外に出れば傘を差しても体が濡れてしまう様な横殴りの雨が降っているのだから。
その日も村紗が好むような大粒の雨が降り、風の強い日だった。例によって彼女は命蓮寺の面々に「ちょっと散歩に行ってくるね」と残し外へ出かけて行った。
傘も差さずに村紗は歩く。時折風で帽子が飛びそうになると帽子を右手で抑え、「シケが来た」と嬉しそうに呟いた。その表情は、新しい玩具を買ってもらった子供のようだった。
勿論、そんな天気の中、外出する人もいなければ妖怪も居ない。誰もいない人里を抜けて、迷いの竹林の前を通る。強い風に揺られ竹林は悲鳴のような、唸り声の様な、不気味な声を上げる。村紗はそんな事気にもせずに歩みを進める。とても上機嫌に。
小一時間歩いた頃、彼女は妖怪の山の麓までやって来た。道中で拾った大きな熊笹の葉を三枚、大切そうに持ちながら更に村紗は進む。
山の麓には渓流がある。雨が降っていなければ美しい水音を響かせ、優雅に、華麗に流れる渓流だ。だが、今日は違う。山に降った雨を一身に集め、岩をも砕く濁流となって、轟音を響かせ、荒々しく流れている。
「ふふふ」
村紗は濁流と化した川を眺めると大切に持って来た熊笹を取り出した。
葉の先と付け根にそれぞれ二か所切れ目を入れると丁寧に折り目をつけて笹船を三隻こしらえた。
「今日こそは!」
誰に言うでもない決意の言葉を放つと川辺へと降りて行った。
茶色く濁った水。腹の底が揺れるような轟音を響かせ流れていく水。時折、木や岩すらも流れている濁流に村紗は臆することなく進んだ。
「キャプテン、危険です。こんな日に出航するなんて」
「止めるな。もう時間が無いのだ」
「それでも……」
「心配するな。私は必ず帰ってくる。そうしたら、君を、君を嫁に……」
「あぁ、キャプテン」
「聖……」
一人二役の小芝居を終わらせると村紗は熊笹で作った笹船を一隻、濁流へと投げた。
「いざ、霧の湖へ!」
荒れ狂う海に出航した船。
水の流れは想像以上に早く、強烈だった。それに加えて大粒の雨に、強風が吹きつける。過酷な航海になると村紗は予想していた。
笹船を見失わない様に空を飛びながらその行方を辿った。
茶色く濁った水のうねりは川底の岩にぶつかり水面を山の様に膨らませた。
「水のっ、山だとっ! 面舵一杯っ!」
キャプテン役の村紗の叫び声が船内に響いた。
「舵が、舵が利きません」
船員役の村紗の情けない声が返ってきた。
「利かせるんだ! こんな所で沈む訳にはいかないんだぞ」とキャプテン役の村紗の叱咤激励が飛ぶ。が、乗組員の奮闘空しく、笹船は渦に飲まれてそのまま浮かび上がることは無かった。
「ちぇ、もう残機は二つか」
そう言うと笹船をもう一隻、濁流にそっと浮かべた。
今度は難なく、水面の山を越え荒れ狂う水面を勇敢に進んだ。
二隻目の笹船はとてもタフだった。大きなうねりにも負けず、落差のある流れを奇跡的に回避し、一度渦巻きに捕まったが幸運にも抜け出す事に成功した。
きっとキャプテンの腕が良いのだろう。と村紗は考えて、にやにやと笑顔を浮かべた。
しかし、キャプテンには不安に思う事があった。それは上空から休み無く振り続ける大粒の雨だ。船の前後には排水の為の切り口が開けられてはいたが、その排水能力が追い付いていないのだ。つまり、雨水と濁流の飛沫が徐々に船内に溜まってきている。
確かに今回の笹船は頑丈で、航海も順調だが、このままでは目的地の霧の湖に到着する前に重みに耐えきれず沈んでしまうのではないかと危惧していた。
「キャプテン、大変です。左舷を見て下さい!」乗組員役の村紗が叫ぶ。
「あ、あれは!」キャプテン役の村紗が叫ぶ。
「何ですか、あれは」乗組員役の村紗がキャプテン役の村紗に問う。
「ついに現れたか、海の悪魔。リヴァイアサン!」とキャプテン役の村紗が叫ぶ。
笹船の横を並走するように人の腕程の流木が流れている。だが彼女の目には確かに海の怪物、リヴァイアサンに見えていた。
リヴァイアサンはその体を大きく回転させ始めた。当たるか当たらないかの僅かな差で船は悪魔の攻撃を回避する事に成功した。が、相手は流れに身を任せる流ぼ、リヴァイアサン。予想外の動きを見せる。突然姿を消したかと思うと、次の瞬間、船の真下から急浮上をし、船体を粉々に粉砕し、そのまま川底へと沈んでいったのだった。
「うわぁー、最悪だよ。なんてタイミングで……」
それから彼女は上流を確認し、流木が流れて来ない事を確認してから三隻目の笹船を川へと投下した。
雨風は大分弱まってきている。空を見上げた村紗は満足そうな表情で天を仰いだ。
雲の隙間からは僅かに日の光が射し始め、帽子を吹き飛ばす程の風はもう吹いてはいない。
「ついにやったぞ、妖怪の山の渓流から霧の湖までの大航路! 制覇してやったぞー」
三隻目の笹船は荒れ狂う濁流を抜け、ついに霧の湖に辿り着いた。
村紗は嬉しそうに笹船を拾い上げ、湖畔へと降り立った。
そして、周囲に誰もいない事を確認してから柄杓を取り出した。
「ふふふ、お前達はここで溺れて死ぬが良い」と船幽霊役の村紗が現れる。
「キャプテン、船幽霊です! 逃げましょう」と乗組員役の村紗が慌ててキャプテンの肩を揺する。
「総員、脱出しろ」とキャプテン役の村紗は感情を押し殺したように言った。
柄杓から水を少し落とす。笹船への直撃は免れたが、波紋が笹船を揺らす。
「キャプテン、総員脱出しました。後はキャプテンと私だけです」と乗組員役の村紗。
「副長、君は良い船長になるだろう。私はこの船と共に逝く」とキャプテン役の村紗。
「キャプテン……」と声を詰まらせる乗組員役の村紗。
「聖にすまないと伝えてくれ」とキャプテン役の村紗は最期の言葉を口にした。
そして、笹船は船内に溜まった水の重さに耐えきれなくなり、沈んでいったのだった。
「さて、帰るかな」
彼女は嬉しそうに帰路に着いた。
達成感と疲労感に包まれ、雨風の弱くなった空を村紗はふわりと飛んだ。
雨の日の一人遊び。誰にも内緒のキャプテンごっこ。今度はどこの海を航海しようかなと村紗は考えていた。
ハレの雨、ケの雨、雨の酒
境内の紫陽花が嬉しそうに雨に打たれている。白、青、紫、ピンク色。守矢神社に植えられている紫陽花は四色あったが、どれも幸せそうに雨に打たれていた。
「紫陽花と雨は最高の組み合わせだと思わないか?」
隣に座っている神奈子がそう諏訪子にそう尋ねた。二番目かな。と諏訪子は答えた。
「一番目は?」
「そりゃ雨蛙でしょうよ」
雨蛙と紫陽花の組み合わせが一番目なのか、雨蛙と雨の組み合わせが一番目なのかは確認せずに神奈子は、それも良いなと答えた。
いや、紫陽花とならカタツムリも悪くないかなと神奈子は考えたが、口には出さずに「雨と紫陽花を肴に一杯どうだい?」とお猪口をくいっと飲み干す動きをして見せた。
「良いねぇ」
二人は一斉に立ち上がり、台所へと向かった。
台所では早苗が忙しそうに夕食の準備をしていた。
ちなみに、守矢神社では神も巫女も関係なく当番制で家事を分担していた。今日は早苗が家事担当の日。
「なにか肴になりそうな物はないかい?」
「にとりさんからお裾分けで頂いたきゅうりがありますよ」
「おぉ、良いね。それじゃ私が切っとくから神奈子は皿と味噌の用意をお願い」
「あいわかった」
神奈子はそう言うと手慣れた手付きで味噌桶から少量の味噌をすくい、きゅうりを乗せる為の皿を食器戸棚から一枚取り出した。
「お皿はここに置いとくよ。味噌と酒は私が運んでおくからお猪口は任せた」と神奈子は鼻歌交じりに答えた。
「はいよ」ときゅうりを切りながら諏訪子は答える。
こういう時のチームワークは抜群だなとそのやり取りを聞きながら、ふふっと笑ってしまう早苗だった。
「お二人は雨が降っていると喧嘩をしないんですね」
「そうかい?」少しだけ恥ずかしそうに答えた諏訪子。
「ええ」
「早苗も少し飲む?」
「もう少しで支度が終わるので、それから」
「はいよ。じゃあ待ってるからおいでね」
きゅうりを乗せたお皿とお猪口を三つ、お盆に乗せ諏訪子は縁側へと戻って行った。
諏訪子が縁側に戻ると外は既に暗くなっていた。勿論、縁側から紫陽花は薄らにしか見えないし、色の識別も難しくなっていた。
この季節はある時刻を過ぎるとあっという間に暗くなる感じがする。遥か上空で待機していた夜の成分が一斉に飛び降りて来て昼の成分を一掃するイメージ。
その様子は外の世界で見た戦争映画を彷彿させられた。ヘリコプターから迷彩服を着こんだ屈強な兵隊達が一斉に飛び降りて、敵基地を制圧するシーンだった。なんという題名だったかは覚えていないし、思い出す気もないけれど、この季節の夜の訪れ方をイメージするとそういう感じだと諏訪子は思っていた。
「あっという間に夜になっちまうね、この季節は。もう紫陽花は見えないね」
「雨音を肴にすればいいさ」
「雨が止んだら?」と悪戯な表情で諏訪子は質問した。
「雨雲ってのはどうだい?」
「この呑兵衛め。何だって良いんじゃないかい」ケロケロと笑った。
しばらくすると早苗も小さな酒宴に加わった。
時間は少し進み次の日の夕方、これまた守矢神社の縁側を舞台とする。
昨日と同じように雨が降っていた。紫陽花を喜ばせるようにしっとりと優しい雨が降っていた。
「雨と紫陽花って素敵な組み合わせですよね」
隣に座っていた早苗が諏訪子にそう訊ねた。二番目かな。と諏訪子は答えた。
「じゃあ一番目は何ですか?」
「そりゃあ雨蛙だよ」
「雨と雨蛙の組み合わせも確かに素敵ですね。風情があると思います」
紫陽花と雨蛙の組み合わせが一番良いと思っていた諏訪子だったが、雨に打たれる雨蛙の姿を想像した。確かにその組み合わせも悪くないと考えて、だよね。と答えた。
「早苗、一杯どう?」と昨日、神奈子がやって見せたようにお猪口をくいっと飲み干す仕草を早苗に見せた。
「少しだけですよ?」
そう言うと早苗は立ち上がり、スカートの皺を伸ばして「支度をしてきます」と台所へ向かった。
縁側に早苗が戻って来ると、外は暗くなっていた。雨音以外は何もしない、そんな優しい暗闇が守矢神社を包んでいた。
そういう優しい暗闇を早苗は幻想郷に来て初めて知った。光を遮られ、星の光も届かないような暗い、暗い夜。それでもそこに漂う空気は柔らかい。風が、雨が、土が、全てが優しい成分を放出しているので、暗闇に対して恐怖を覚えるようなことは無かった。
「さて、雨音を肴に飲もうか?」
にこにこと笑顔の諏訪子は早苗が用意したお酒を注ぎながらそう言った。
「私は雨音でお酒が飲めるほど呑兵衛ではありませんよ」
「あはは、そうだったね。それじゃ、ガールズトークでもしようか。神奈子相手じゃ出来ないよ」ケロケロと笑った。
茹で上がった枝豆を指で摘まみ、中の豆を口へ。豆の香りと甘みが口の中に広がると、少しだけ幸せな気分にさせられる。気が付けば二人とも無言で枝豆を頬張った。
枝豆を食べると無言になるなと早苗も諏訪子も思った。蟹を食べる時程ではないが、ついつい食べる事に夢中になってしまい、口数が減るのは確かだと思う。
ガールズトークにしろなんにしろ、枝豆しか肴を用意しないで飲み始めると無言になる。
少女が二人、黙々と枝豆を食べ続けるのもどうかと思い、早苗は口を開くことにした。
「諏訪子様、雨は好きですか?」
「うん、今日みたいなしとしと雨だと最高に好きかな。酒が飲みたくなる程にね」
「私は癖毛が言うことを聞かないので余り好きではないです」
「そうだね。早苗の髪は結構癖が強いからね。まぁ神奈子や魔理沙程じゃあないけど大変だろうね」
「諏訪子様や霊夢さんの様なサラサラした髪質が羨ましいです」
「私は早苗の髪、好きだよ」と言うと手を伸ばし、肩にまで伸びた早苗の髪をそっと掴んだ。
しばらくすると台所から一升瓶を抱えた神奈子が二人の所へやって来た。
「なんだい。一杯やっているなら私も混ぜておくれよ」
「今日はガールズトークで一杯やってるんだ。神奈子は少し居にくいかもよ」
「私だって乙女だぞ。ガールズトークで一杯でも二杯でも飲めるさ」そう神奈子が答え、三人で笑い合った。
翌日も雨が降っていた。優しく、地上の全てをそっと濡らすような雨が。
守矢神社の縁側には神奈子と早苗が座っていて、少し濃く淹れた緑茶と醤油の香りが薄らとする煎餅の組み合わせで一息ついている所だった。
「こう毎日雨だと困ってしまいます」
「そうかい? 私は嬉しくて酒が飲みたくなる位だよ」
「諏訪子様も雨が降るとお酒が飲みたくなると言っていました」
そうだろう、そうだろう。と神奈子は笑った。
「この季節に雨が降るっていうのは当たり前なんだが、とても喜ばしいことなんだよ」
「喜ばしい?」
「この季節に雨が少ないと稲穂は病気になりやすい。野菜は育ちにくい。稲穂が病になり、野菜が育たなければ人は飢える」
早苗は難しい顔で神奈子の言葉に耳を傾けていた。
「だからこの季節に雨が沢山降ると昔の人間は喜んだ。今では農家や八百屋の人が喜ぶのかな? 私も諏訪子も昔から人と共に暮らしてきた。人間が喜べば私達、神も喜んだ。それはそれは、酒宴でも開く程にね」
なるほど。と早苗は言った。
「早苗の目からみたら毎日毎日飲んでいる飲んだくれに見えるかもしれないが、私や諏訪子はこの恵みの雨に嬉しい気持ちや感謝の気持ちを持って酒を飲んでいるんだ。言うなれば祝い事をしているようなものだよ」
その姿を見て早苗は思った。
まるで呑兵衛の言い訳みたいだと。でもそれは口にしなかった。神奈子の言っていることが良くわかったし、楽しくお酒を飲んで、秋には美味しいお米が食べられれば何一つ文句は無いなと思った。そして――
「神奈子様、一杯どうですか?」
と片目を閉じた。
窓からふと外を見た。綺麗に手入れをされた庭園には季節の花々が色鮮やかに咲き誇り、気持ち良さそうに雨に打たれていた。花に限らずスペアミントやバジル、レモングラスなどのハーブ類もその葉に雨露をたっぷりと貯め込み気持ち良さそうに揺れている。
悪魔の館と呼ばれる紅魔館だが、その庭園はまるで天国を連想させられる程に美しかった。美しい物が溢れていた。
咲夜の目に一番印象強く映った物は赤かった。それは天国の様な庭園の少し先、紅魔館の敷地への出入りに使う鉄格子の門の外にあった。正確に言えば立っていた。
「美鈴の奴、流石にこの雨じゃ居眠りもできないか」と優しさの籠った声でそう言った。
なにか体の温まる様なものでも差し入れに持って行ってあげようかしら。と思う咲夜だった。
キッチンの勝手口から庭園に出ると、優しい匂いがした。雨の匂い、土の匂い、濡れた植物の匂い。大きく息を吸い込み、優しい成分で肺を満たした。
先ほど目に付いたハーブが植わっている花壇まで来てスペアミントを一本摘んだ。勿論、彼女は瀟洒なので雨に濡れたりはしない。フリルの付いた折り畳み傘を左手に持ちながらの作業だ。
キッチンに戻って来ると妖精のメイドにお湯を沸かすように言い付け、自分はその間に摘んできたミントを適当な大きさに千切り、香りが出やすいようにと掌で数回叩いた。
妖精のメイドはハーブティーを淹れると理解したようで、ティーカップとソーサーのセットをいくつ用意すれば良いのかを咲夜に尋ねた。
「メイド長、なんだか嬉しそうですね」
「そう? あぁ、別にお嬢様にお持ちする物ではないから普段使いのティーカップで良いわ。白色の物を二つね」
咲夜は疑問に思った。
私はなぜ嬉しそうにハーブティーの準備をしているのだろう? 普段居眠り癖の酷い美鈴が真面目に門番をしている事が嬉しかったのだろうか? それとも庭園で優しい匂いを嗅いだからだろうか? 雨でお嬢様が大人しくされているからだろうか?
答えは出なかった。
「お湯、沸きました」と妖精のメイドが言った。
「ありがとう、後は私がやるから。あなた達も少し休憩にしなさい。それが終わったら夕食の用意を始めるわよ」
わかりました。と妖精のメイドは嬉しそうにキッチンを飛び出して行った。
シルバーのトレイには新緑を思わせる透き通った色のミントティー、クリームチーズとブルーベリージャムのサンドウィッチが乗っていた。
咲夜はそれを右手に乗せ、左手にフリルの付いた折り畳み傘を持った。
両手が塞がっていてドアを開けられない事に気が付き、少し照れたように傘を一度置いて、左手でドアノブを押した。瀟洒であることとお茶目であることは共存できるようだ。
庭園に出るとやはり優しい匂いが充満していた。
「ふふ」
上機嫌になり柄にもなく鼻歌を歌ってみたが、これと言って気に入った曲がある訳ではないので即興でメロディーを響かせた。
左手にフリルの付いた折り畳み傘、右手にはハーブティーとサンドウィッチを乗せたシルバーのトレイ。この季節の湿気に負けずに綺麗に纏まった銀髪はほのかに甘い香りを放ち、背中は棒でも入れてあるかのように真っ直ぐな姿勢を保ち、すらりと伸びた細い脚とカツカツと一定のリズムを刻むヒール。彼女にはやはり瀟洒という言葉が似合った。
「お疲れ様、お茶にしましょう」
鉄格子の門の前まで来ると咲夜は美鈴にそう言った。
「わあ、咲夜さん。嬉しいですね」と嬉しそうに美鈴は答えた。
お持ちしますよ。と門の外側から内側に身を滑らせながらそう言うと美鈴は右手で咲夜の傘を持った。左手には自分の傘が収まっているので傘の二刀流使いの様な姿になり咲夜に笑われた。
門のすぐ横にある詰所で二人はハーブティーを飲んだ。
「雨だと昼寝が出来ないから眠い?」
「いえいえ、別にそんな事はないですよ。おぉ、このサンドウィッチとっても美味しいですね」
立ったまま寝ていたので。とは口には出さずに、クリームチーズとブルーベリージャムのサンドウィッチを頬張りながら美鈴は答えた。
「咲夜さん、雨の日は好きですか?」
「好きか嫌いかと聞かれれば嫌い」
「でも雨の日は大抵機嫌が良いですよね?」
咲夜もサンドウィッチを一口。
「むむ、味見しないで作った割には良い甘さね。吸血鬼に仕えるメイドが雨の日に機嫌が良いだなんて有り得ないわ」
「あはは、確かにそうですね」と美鈴は楽しそうに笑う。
「私は雨の日、好きですよ。勿論、お嬢様が雨の日を嫌っているのは知っています。吸血鬼に仕える門番としては心苦しいですけど、私は雨の日が好きです」
白い歯を見せながら美鈴はそう言った。
「これはお嬢様に密告しないと駄目ね」
咲夜は笑いながらそう言った。
優しく屋根を打つ雨音が響く。二人はいつの間にか話す事を止め、雨音に耳を傾けていた。
「さて、休憩はそろそろ終わりにしましょうかね」
美鈴は立ち上がり、両手を伸ばし背中を逸らす。
咲夜は美鈴のその動きを竹の様だといつも思う。力強くそれでいてしなやかに動く美鈴の鍛えられた体は、天に届くほど高く伸び、風向きに合わせてその身を逸らす。だがどんなに強い風が吹いても折れる事無く青々と茂る竹を連想させられる。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
空になったティーカップとサンドウィッチが乗っていたお皿をトレイに乗せながら咲夜は一つ質問をした。
「ねぇ、なぜ雨の日が好きなのかしら?」
「雨が降ると咲夜さんが優しくなるからです」
自分の顔が赤くなるのを感じた咲夜は時間を止めてその場から逃げだした。
止まった時間の中、彼女は余りに照れて、慌てて門を後にしたので、フリルの付いた折り畳み傘を詰所に忘れて来てしまった。これでは瀟洒とは呼べないかもしれない。
キッチンに帰った頃には服も髪もびしょびしょに濡れてしまったので、そのまま時間を止めて部屋に戻りシャワーを浴びて着替えを済ませた。
美鈴はまれに恥ずかしくなるような事を平然と言ってのける事がある。咲夜はその度に時間を止めて彼女の前から逃げ帰ってくるのだった。
ひょっとしたらからかわれているのかもしれない。十数年しか生きていない人間なんて妖怪から見たら赤子同然なのだから。と咲夜は思った。
そう思うと無性に腹が立ったので、また時間を止めて門の前へ向かった。フリルの付いた折り畳み傘を回収し、美鈴の額目掛けてナイフを投げ、ナイフの時間も止めた。
あとはパチンと指を鳴らして止まっている時間を元に戻せばこの気が少し晴れるかもしれない。
屋敷の中に戻り、庭園が見渡せるバルコニーまで来ると咲夜は止めていた時間を元に戻した。
次の瞬間、美鈴の悲鳴が聞こえたので、小さくガッツポーズをして仕事に戻った。
「やっぱり雨の日は好きよ」
そう誰かに答えるように呟いた。
雨の記憶
瞳を閉じ、耳を澄ませる。庭の枯山水を打つ雨音が聞こえる。それはごく僅かな音量で、消え入りそうな、不安にさせられるような音だと妖夢は思った。
すうっと少しだけ息を吸い込む。僅かに漂う松の脂の匂いを感じ、昨日の昼に庭の松の木の手入れをした事を思い出した。その匂いは師匠であり祖父である妖忌の事を連想させた。
そして瞳を開け、鞘に収まっている剣の柄に手を掛ける、次の瞬間には閃光の様に剣はその身を走らせた。
「また失敗」
妖夢は雨を斬ることが出来なかった。そもそも雨を斬ることなど出来るのだろうかと疑問に思う事は無かった。この世に斬れない物はほとんど存在していないし、現に師匠が雨を斬ったところをその目で確かに目撃していたのだから。
雨を斬るとどうなるのか。妖夢は鮮明に覚えていた。
一瞬より短い時間、刹那と呼ばれるようなほんの僅かな短い時間の抜刀。気が付くと冷たい銀色の刀身が現れていて、それに気が付くとぴたりと雨音が消える。雨音が消えていることに気が付くと再び雨が地面を打つ音が再開されるのだ。
「雨を斬れるようになるには三十年掛かる」とその時師匠は教えてくれた。眉唾物だ。と妖夢は思ったが「はい」と返事をした。
師匠は厳しい人だった。
剣術に関しては、技は盗むものだと言い、何か特別に教えてくれるようなことは無かったし、幼いから、孫だからと言って手加減をしてくれるようなこともなかった。
庭師の仕事に関しては厳しく指導された。木の剪定一つでもそうだった。間違った枝を切ろうものなら烈火の如く怒られ、拳骨が頭上に降ってきた。
雨だろうと雪だろうと休み無く稽古に参加させられた。それでも師匠のことを嫌だと思ったことは一度もなかった。それよりも早く一人前になって師匠を喜ばせたいと思っていたくらいだった。
だから師匠がある程度自分のことを認めてくれて「これからはお前が幽々子様を守る盾となりなさい」と言ってくれた時は涙を流して喜んだ。
祖父はとても優しい人だった。
女子は見た目も大事だ。と毎月、綺麗に髪を切ってくれた。綺麗な服も買い与えてくれた。風邪を引けば懸命に看病してくれたし、剣術庭仕事以外の事で泣き言を言えば優しく頭を撫でて話を聞いてくれた。勉学や書道、華道に茶道も教えてくれた。
だから祖父が白玉楼を去る時には泣き付いて止めようとした。
彼が白玉楼を去ったのは今日の様な雨の日だった。そっとしとしとと落ちてくる雨で、空の成分が染み出して落ちてくるような雨の日だった。
頭を左右に振って余計な考えを振り払い、意識を集中させる。今度こそ雨を斬るのだ。と意気込む。
瞳を閉じて、耳を澄ませて、少しだけ息を吸い込む。今度は松の脂の匂いは感じなかった。雨粒が前髪を伝って鼻の頭に落ちた。右の耳たぶから我慢しきれなくなった雨粒が落ちた。神経は先程より澄み渡っている。
いける。と妖夢は思った。
そして瞳を開け、一瞬より早く抜刀した。
「また失敗か……」
「妖夢、そろそろお茶にしましょう。私は腹ペコだし、貴方は少し体が冷えているわ」
「わっ! 幽々子様。いつの間に?」
「いつの間にって、さっきからいたわよ?」
「まったく気が付きませんでした」
「妖夢は夢中になると周りが見えない」と幽々子は微笑んだ。
「周りが見えない」と復唱した。
そうだ。幽々子様の言う通りだ。と妖夢は思った。
「着替えを済ませたら直ぐにお茶の用意をします」そう言って妖夢は自室へと向かった。
ささっと着替えを済ませると、妖夢は髪を拭いた。台所へ向かい窯に薪を何本か入れて火力を上げる。水釜から柄杓で三杯の水を薬缶にいれて窯に乗せる。その間にお茶請けになりそうな菓子を探す。戸棚の奥に置いてあったどら焼きはいつの間にか無くなっていたので、湯呑をしまう引戸に隠していたみたらし団子を瀬戸物のお皿の上に移した。
お湯が湧いたら急須と湯呑を暖める。茶葉は主の友人からの頂き物で上物だった。茶筒を開けるとさわやかな茶葉の香りが漂う。
茶葉を急須に入れ、お湯を入れる。蒸らす時間は……台所から縁側まで歩く時間を考えれば十分だった。お盆に急須と湯呑とお茶請けを乗せ、妖夢は台所を後にした。
「お待たせしました、幽々子様」
「もう空腹で死にそうよ」
「どら焼き」
妖夢がそう言うと幽々子は視線を逸らした。
「私も食べたかったです」
「何を言っているのかよくわからないわ」
「幽々子様は良いですよね。昨日の夕飯の後に三つ食べたんですから。残りの一つは今日の稽古の後に食べようと楽しみに取って置いたのに無くなっているんですよ」
頬を膨らませながら妖夢はお茶を注ぐ。茶葉の香りが二人の間に広がる。
「まぁ、美味しそうなお茶ね」と幽々子は話を逸らした。
お茶請けのみたらし団子を食べ終え、湯呑が空っぽになると幽々子は扇子を広げてゆっくりと扇ぎ始めた。
「妖夢、あまり焦らなくても時間は幾らでもあるわ」
「焦る?」
「妖忌は何百年も妖夢より年上なのよ。同じことが出来なくたってしょうがないわ」
「……」
「雨が降ると師匠のことを思い出してしまいます。それで――」
幽々子は妖夢の話を遮るように彼女の手をそっと握った。
「お爺ちゃん子に爺馬鹿ね。あなた達は」
妖夢は何も言わずに幽々子の顔を見る。
「今日みたいな雨が降ると二日三日後に妖忌から手紙が届くのよ。雨が降ると妖夢のことが気になって仕方がない。孫娘は元気にしてますか? とか、幽々子様に迷惑はかけていませんか? とかね。多分直接あなたに手紙を書くのが恥ずかしいのでしょう」
嬉しい気持ちで胸が苦しくなった妖夢は幽々子の手を強く握り、読ませてくれるように頼んだ。
「駄目よ。決して妖夢には見せない様にって書かれているから。でも、そうね。今度、妖夢にも手紙を書くように返事をするわ」
「約束ですよ! 幽々子様」
わかったと幽々子は返事をすると、少し部屋で昼寝をすると縁側を後にした。
その日から、妖夢は雨が降ると嬉しそうに、楽しそうに空を眺めたり、剣術の稽古をするようになった。
そして、一月後。
梅雨の終わりも近づいた頃の事だった。
ゆっくりと落ちてくる雨粒を全身で感じ、枯山水の砂利一つ一つを打つ雨音を聞き分け、こっそりと近づく幽々子の気配を感じ、吸い込む空気に漂う松の脂の香りを嗅ぎ、かつて師匠が雨を斬った際の様子を頭の中に描き、ゆっくりと瞳を開いた。
全身の力を抜き、そっと剣の柄に手を乗せ、刹那より早く抜刀した。
一秒程、雨音が止んだ。
雨を斬ったのだ。
かつて師匠がやって見せた時に比べれば、雨音が止んだ時間は短いが、確かに妖夢は雨を斬ってみせたのだ。
「妖夢、妖忌から手紙よ」
「今行きます!」
妖夢はびしょ濡れのまま、縁側に駆け上がり、幽々子から手紙を受け取った。そして嬉しそうにその封を切った。
雨の航路~キャプテン・ムラサ~
村紗は普段より大粒の雨が降る日が好きだ。風が強くて、傘を差しても体が濡れてしまう様な横殴りの雨だと最高だと村紗は思う。
そんな雨の日を村紗は嬉しそうに「シケが来た」と言う。
村紗の言うシケの日が来ると彼女はふらっと散歩に出かける。命蓮寺の住人達はなぜこんな雨風の強い日に出かけていくのか全く理解が出来なかった。しかも満面の笑みで「少し散歩に行ってくるね」と楽しそうに一言残して出かけるのだ。理解に苦しむ。
とは言え、そんな日に村紗が何をしに出かけるのか確かめようとは誰も思わなかった。何しろ外に出れば傘を差しても体が濡れてしまう様な横殴りの雨が降っているのだから。
その日も村紗が好むような大粒の雨が降り、風の強い日だった。例によって彼女は命蓮寺の面々に「ちょっと散歩に行ってくるね」と残し外へ出かけて行った。
傘も差さずに村紗は歩く。時折風で帽子が飛びそうになると帽子を右手で抑え、「シケが来た」と嬉しそうに呟いた。その表情は、新しい玩具を買ってもらった子供のようだった。
勿論、そんな天気の中、外出する人もいなければ妖怪も居ない。誰もいない人里を抜けて、迷いの竹林の前を通る。強い風に揺られ竹林は悲鳴のような、唸り声の様な、不気味な声を上げる。村紗はそんな事気にもせずに歩みを進める。とても上機嫌に。
小一時間歩いた頃、彼女は妖怪の山の麓までやって来た。道中で拾った大きな熊笹の葉を三枚、大切そうに持ちながら更に村紗は進む。
山の麓には渓流がある。雨が降っていなければ美しい水音を響かせ、優雅に、華麗に流れる渓流だ。だが、今日は違う。山に降った雨を一身に集め、岩をも砕く濁流となって、轟音を響かせ、荒々しく流れている。
「ふふふ」
村紗は濁流と化した川を眺めると大切に持って来た熊笹を取り出した。
葉の先と付け根にそれぞれ二か所切れ目を入れると丁寧に折り目をつけて笹船を三隻こしらえた。
「今日こそは!」
誰に言うでもない決意の言葉を放つと川辺へと降りて行った。
茶色く濁った水。腹の底が揺れるような轟音を響かせ流れていく水。時折、木や岩すらも流れている濁流に村紗は臆することなく進んだ。
「キャプテン、危険です。こんな日に出航するなんて」
「止めるな。もう時間が無いのだ」
「それでも……」
「心配するな。私は必ず帰ってくる。そうしたら、君を、君を嫁に……」
「あぁ、キャプテン」
「聖……」
一人二役の小芝居を終わらせると村紗は熊笹で作った笹船を一隻、濁流へと投げた。
「いざ、霧の湖へ!」
荒れ狂う海に出航した船。
水の流れは想像以上に早く、強烈だった。それに加えて大粒の雨に、強風が吹きつける。過酷な航海になると村紗は予想していた。
笹船を見失わない様に空を飛びながらその行方を辿った。
茶色く濁った水のうねりは川底の岩にぶつかり水面を山の様に膨らませた。
「水のっ、山だとっ! 面舵一杯っ!」
キャプテン役の村紗の叫び声が船内に響いた。
「舵が、舵が利きません」
船員役の村紗の情けない声が返ってきた。
「利かせるんだ! こんな所で沈む訳にはいかないんだぞ」とキャプテン役の村紗の叱咤激励が飛ぶ。が、乗組員の奮闘空しく、笹船は渦に飲まれてそのまま浮かび上がることは無かった。
「ちぇ、もう残機は二つか」
そう言うと笹船をもう一隻、濁流にそっと浮かべた。
今度は難なく、水面の山を越え荒れ狂う水面を勇敢に進んだ。
二隻目の笹船はとてもタフだった。大きなうねりにも負けず、落差のある流れを奇跡的に回避し、一度渦巻きに捕まったが幸運にも抜け出す事に成功した。
きっとキャプテンの腕が良いのだろう。と村紗は考えて、にやにやと笑顔を浮かべた。
しかし、キャプテンには不安に思う事があった。それは上空から休み無く振り続ける大粒の雨だ。船の前後には排水の為の切り口が開けられてはいたが、その排水能力が追い付いていないのだ。つまり、雨水と濁流の飛沫が徐々に船内に溜まってきている。
確かに今回の笹船は頑丈で、航海も順調だが、このままでは目的地の霧の湖に到着する前に重みに耐えきれず沈んでしまうのではないかと危惧していた。
「キャプテン、大変です。左舷を見て下さい!」乗組員役の村紗が叫ぶ。
「あ、あれは!」キャプテン役の村紗が叫ぶ。
「何ですか、あれは」乗組員役の村紗がキャプテン役の村紗に問う。
「ついに現れたか、海の悪魔。リヴァイアサン!」とキャプテン役の村紗が叫ぶ。
笹船の横を並走するように人の腕程の流木が流れている。だが彼女の目には確かに海の怪物、リヴァイアサンに見えていた。
リヴァイアサンはその体を大きく回転させ始めた。当たるか当たらないかの僅かな差で船は悪魔の攻撃を回避する事に成功した。が、相手は流れに身を任せる流ぼ、リヴァイアサン。予想外の動きを見せる。突然姿を消したかと思うと、次の瞬間、船の真下から急浮上をし、船体を粉々に粉砕し、そのまま川底へと沈んでいったのだった。
「うわぁー、最悪だよ。なんてタイミングで……」
それから彼女は上流を確認し、流木が流れて来ない事を確認してから三隻目の笹船を川へと投下した。
雨風は大分弱まってきている。空を見上げた村紗は満足そうな表情で天を仰いだ。
雲の隙間からは僅かに日の光が射し始め、帽子を吹き飛ばす程の風はもう吹いてはいない。
「ついにやったぞ、妖怪の山の渓流から霧の湖までの大航路! 制覇してやったぞー」
三隻目の笹船は荒れ狂う濁流を抜け、ついに霧の湖に辿り着いた。
村紗は嬉しそうに笹船を拾い上げ、湖畔へと降り立った。
そして、周囲に誰もいない事を確認してから柄杓を取り出した。
「ふふふ、お前達はここで溺れて死ぬが良い」と船幽霊役の村紗が現れる。
「キャプテン、船幽霊です! 逃げましょう」と乗組員役の村紗が慌ててキャプテンの肩を揺する。
「総員、脱出しろ」とキャプテン役の村紗は感情を押し殺したように言った。
柄杓から水を少し落とす。笹船への直撃は免れたが、波紋が笹船を揺らす。
「キャプテン、総員脱出しました。後はキャプテンと私だけです」と乗組員役の村紗。
「副長、君は良い船長になるだろう。私はこの船と共に逝く」とキャプテン役の村紗。
「キャプテン……」と声を詰まらせる乗組員役の村紗。
「聖にすまないと伝えてくれ」とキャプテン役の村紗は最期の言葉を口にした。
そして、笹船は船内に溜まった水の重さに耐えきれなくなり、沈んでいったのだった。
「さて、帰るかな」
彼女は嬉しそうに帰路に着いた。
達成感と疲労感に包まれ、雨風の弱くなった空を村紗はふわりと飛んだ。
雨の日の一人遊び。誰にも内緒のキャプテンごっこ。今度はどこの海を航海しようかなと村紗は考えていた。
ハレの雨、ケの雨、雨の酒
境内の紫陽花が嬉しそうに雨に打たれている。白、青、紫、ピンク色。守矢神社に植えられている紫陽花は四色あったが、どれも幸せそうに雨に打たれていた。
「紫陽花と雨は最高の組み合わせだと思わないか?」
隣に座っている神奈子がそう諏訪子にそう尋ねた。二番目かな。と諏訪子は答えた。
「一番目は?」
「そりゃ雨蛙でしょうよ」
雨蛙と紫陽花の組み合わせが一番目なのか、雨蛙と雨の組み合わせが一番目なのかは確認せずに神奈子は、それも良いなと答えた。
いや、紫陽花とならカタツムリも悪くないかなと神奈子は考えたが、口には出さずに「雨と紫陽花を肴に一杯どうだい?」とお猪口をくいっと飲み干す動きをして見せた。
「良いねぇ」
二人は一斉に立ち上がり、台所へと向かった。
台所では早苗が忙しそうに夕食の準備をしていた。
ちなみに、守矢神社では神も巫女も関係なく当番制で家事を分担していた。今日は早苗が家事担当の日。
「なにか肴になりそうな物はないかい?」
「にとりさんからお裾分けで頂いたきゅうりがありますよ」
「おぉ、良いね。それじゃ私が切っとくから神奈子は皿と味噌の用意をお願い」
「あいわかった」
神奈子はそう言うと手慣れた手付きで味噌桶から少量の味噌をすくい、きゅうりを乗せる為の皿を食器戸棚から一枚取り出した。
「お皿はここに置いとくよ。味噌と酒は私が運んでおくからお猪口は任せた」と神奈子は鼻歌交じりに答えた。
「はいよ」ときゅうりを切りながら諏訪子は答える。
こういう時のチームワークは抜群だなとそのやり取りを聞きながら、ふふっと笑ってしまう早苗だった。
「お二人は雨が降っていると喧嘩をしないんですね」
「そうかい?」少しだけ恥ずかしそうに答えた諏訪子。
「ええ」
「早苗も少し飲む?」
「もう少しで支度が終わるので、それから」
「はいよ。じゃあ待ってるからおいでね」
きゅうりを乗せたお皿とお猪口を三つ、お盆に乗せ諏訪子は縁側へと戻って行った。
諏訪子が縁側に戻ると外は既に暗くなっていた。勿論、縁側から紫陽花は薄らにしか見えないし、色の識別も難しくなっていた。
この季節はある時刻を過ぎるとあっという間に暗くなる感じがする。遥か上空で待機していた夜の成分が一斉に飛び降りて来て昼の成分を一掃するイメージ。
その様子は外の世界で見た戦争映画を彷彿させられた。ヘリコプターから迷彩服を着こんだ屈強な兵隊達が一斉に飛び降りて、敵基地を制圧するシーンだった。なんという題名だったかは覚えていないし、思い出す気もないけれど、この季節の夜の訪れ方をイメージするとそういう感じだと諏訪子は思っていた。
「あっという間に夜になっちまうね、この季節は。もう紫陽花は見えないね」
「雨音を肴にすればいいさ」
「雨が止んだら?」と悪戯な表情で諏訪子は質問した。
「雨雲ってのはどうだい?」
「この呑兵衛め。何だって良いんじゃないかい」ケロケロと笑った。
しばらくすると早苗も小さな酒宴に加わった。
時間は少し進み次の日の夕方、これまた守矢神社の縁側を舞台とする。
昨日と同じように雨が降っていた。紫陽花を喜ばせるようにしっとりと優しい雨が降っていた。
「雨と紫陽花って素敵な組み合わせですよね」
隣に座っていた早苗が諏訪子にそう訊ねた。二番目かな。と諏訪子は答えた。
「じゃあ一番目は何ですか?」
「そりゃあ雨蛙だよ」
「雨と雨蛙の組み合わせも確かに素敵ですね。風情があると思います」
紫陽花と雨蛙の組み合わせが一番良いと思っていた諏訪子だったが、雨に打たれる雨蛙の姿を想像した。確かにその組み合わせも悪くないと考えて、だよね。と答えた。
「早苗、一杯どう?」と昨日、神奈子がやって見せたようにお猪口をくいっと飲み干す仕草を早苗に見せた。
「少しだけですよ?」
そう言うと早苗は立ち上がり、スカートの皺を伸ばして「支度をしてきます」と台所へ向かった。
縁側に早苗が戻って来ると、外は暗くなっていた。雨音以外は何もしない、そんな優しい暗闇が守矢神社を包んでいた。
そういう優しい暗闇を早苗は幻想郷に来て初めて知った。光を遮られ、星の光も届かないような暗い、暗い夜。それでもそこに漂う空気は柔らかい。風が、雨が、土が、全てが優しい成分を放出しているので、暗闇に対して恐怖を覚えるようなことは無かった。
「さて、雨音を肴に飲もうか?」
にこにこと笑顔の諏訪子は早苗が用意したお酒を注ぎながらそう言った。
「私は雨音でお酒が飲めるほど呑兵衛ではありませんよ」
「あはは、そうだったね。それじゃ、ガールズトークでもしようか。神奈子相手じゃ出来ないよ」ケロケロと笑った。
茹で上がった枝豆を指で摘まみ、中の豆を口へ。豆の香りと甘みが口の中に広がると、少しだけ幸せな気分にさせられる。気が付けば二人とも無言で枝豆を頬張った。
枝豆を食べると無言になるなと早苗も諏訪子も思った。蟹を食べる時程ではないが、ついつい食べる事に夢中になってしまい、口数が減るのは確かだと思う。
ガールズトークにしろなんにしろ、枝豆しか肴を用意しないで飲み始めると無言になる。
少女が二人、黙々と枝豆を食べ続けるのもどうかと思い、早苗は口を開くことにした。
「諏訪子様、雨は好きですか?」
「うん、今日みたいなしとしと雨だと最高に好きかな。酒が飲みたくなる程にね」
「私は癖毛が言うことを聞かないので余り好きではないです」
「そうだね。早苗の髪は結構癖が強いからね。まぁ神奈子や魔理沙程じゃあないけど大変だろうね」
「諏訪子様や霊夢さんの様なサラサラした髪質が羨ましいです」
「私は早苗の髪、好きだよ」と言うと手を伸ばし、肩にまで伸びた早苗の髪をそっと掴んだ。
しばらくすると台所から一升瓶を抱えた神奈子が二人の所へやって来た。
「なんだい。一杯やっているなら私も混ぜておくれよ」
「今日はガールズトークで一杯やってるんだ。神奈子は少し居にくいかもよ」
「私だって乙女だぞ。ガールズトークで一杯でも二杯でも飲めるさ」そう神奈子が答え、三人で笑い合った。
翌日も雨が降っていた。優しく、地上の全てをそっと濡らすような雨が。
守矢神社の縁側には神奈子と早苗が座っていて、少し濃く淹れた緑茶と醤油の香りが薄らとする煎餅の組み合わせで一息ついている所だった。
「こう毎日雨だと困ってしまいます」
「そうかい? 私は嬉しくて酒が飲みたくなる位だよ」
「諏訪子様も雨が降るとお酒が飲みたくなると言っていました」
そうだろう、そうだろう。と神奈子は笑った。
「この季節に雨が降るっていうのは当たり前なんだが、とても喜ばしいことなんだよ」
「喜ばしい?」
「この季節に雨が少ないと稲穂は病気になりやすい。野菜は育ちにくい。稲穂が病になり、野菜が育たなければ人は飢える」
早苗は難しい顔で神奈子の言葉に耳を傾けていた。
「だからこの季節に雨が沢山降ると昔の人間は喜んだ。今では農家や八百屋の人が喜ぶのかな? 私も諏訪子も昔から人と共に暮らしてきた。人間が喜べば私達、神も喜んだ。それはそれは、酒宴でも開く程にね」
なるほど。と早苗は言った。
「早苗の目からみたら毎日毎日飲んでいる飲んだくれに見えるかもしれないが、私や諏訪子はこの恵みの雨に嬉しい気持ちや感謝の気持ちを持って酒を飲んでいるんだ。言うなれば祝い事をしているようなものだよ」
その姿を見て早苗は思った。
まるで呑兵衛の言い訳みたいだと。でもそれは口にしなかった。神奈子の言っていることが良くわかったし、楽しくお酒を飲んで、秋には美味しいお米が食べられれば何一つ文句は無いなと思った。そして――
「神奈子様、一杯どうですか?」
と片目を閉じた。
今日雨に降られて少しささくれた心がほんわか和みました。
キャプテンの話は笑ったw何やってんだw
優しい雰囲気で癒されます。
特に守谷一家のやり取り、素敵でした。
雨音を聞きながら寝れる雨の夜が好きです。
あと、なんとも言えない寂寥感も好きです。
神は恵みの雨を降らす...神奈子の言葉を聞いて成程と思いました。
そしてゆゆさまと妖夢が手を握り合った場面がとても良かったです。
妖夢の話が特に好きでした
健気が似合うというのは半人前ならではですね
確かに雨の日は静かなお酒が合いそうです
まあ、村紗船長の場合はどちらかと言えばこれからの台風シーズンでしょうか
とにかく彼女らしいお話だったと思います
読んでいて心が温かくなるようなストーリーばかりでした。
特にめーさく!ウブな昨夜さんにニヤニヤしてしまいました。
掌編と言わずに次回は長編を読ませて下さい!
少しだけ引かせていただきます
好みの問題なのかもしれません
内容は文句なしに良かったです