果たして少女に、己の正体を暴くことは叶うのか。
“Unidentified Finding Object” in the Twilight Sky ――“U”
主な登場人妖
封獣ぬえ 妖怪鵺。現在、訳有って命蓮寺に身を寄せているが……。
聖白蓮 古の僧侶にして大魔法使い。人間と妖怪の平等を掲げ、人里の近くに命蓮寺を建立した。
寅丸星 白蓮を仰慕する虎の妖獣。毘沙門天の代理として、今も昔も寺の信仰の拠り所となっている。
村紗水蜜 白蓮に心酔する船幽霊。聖輦船の船長として宗徒達を牽引する。ぬえとは旧知の間柄。
雲居一輪 白蓮に敬忠する入道使い。相方の雲山と共に宗徒達を護り、律する。
雲山 白蓮に敬忠する入道。一輪の相方として、命蓮寺の内外に睨みを利かせる。
ナズーリン 星の部下に付く鼠の妖獣。他の宗徒達と一線を画し、独自の思惑から行動する。
多々良小傘 忘れ傘の付喪神。最近は、命蓮寺の面々をからかうことに力を入れている。
古明地さとり 妖怪覚。地霊殿の当主。その能力から地底の住人達に忌避され、同時に怖懼の対象となっている。
古明地こいし さとりの妹。その能力故に疎まれることを厭い、自ら第三の目を閉じた。以来、彷徨の日々を送っていたが……。
霊烏路空 さとりの飼いうにゅ。旧灼熱地獄の火力調整役を任されていたが、とある策謀に巻き込まれ八咫烏の力を呑んだ。
火焔猫燐 さとりの飼い火車。旧灼熱地獄の燃料調達と怨霊の管理を受け持つ。空とは昔馴染みの親友。
星熊勇儀 鬼の四天王の一角。酒と喧嘩をこよなく愛す。旧都の住人達に慕われている。
水橋パルスィ 嫉妬深い緑眼の橋姫。地上と地底を繋ぐ橋渡し役であり、また橋守を務める。
上白沢慧音 人里に住まう半獣の歴史家。人にも妖にも属さない姿勢を保ち、周囲からは一目置かれている。
藤原妹紅 竹林に暮らす妖怪退治屋。余人には窺い知れぬ過去を持つ、謎めいた人物。
霧雨魔理沙 人の身の魔法使い。とある事情から実家を勘当され、今は魔法の森に居を構えている。
アリス・マーガトロイド 魔法の森の人形遣い。魔理沙とは犬猿の仲であると同時に好敵手。魔界と浅からぬ因縁がある。
東風谷早苗 守矢神社の風祝、兼、現人神。奉る二柱と共に、命蓮寺の建立に一役買った。
6.Flyer
(鶫の声は夜闇を飛び、一つ屋根に留まらず)
(妖し姿は暗雲に紛れ、京洛の人心に定まらず)
(裂かれた五体の海原に漂い、散々に封ぜられたならば)
(朝焼けの中で、我が止り木は何処に在りや?)
※
仰向けに見上げる満天の星空も、絵巻に伝えられる昔と何ら変わってはいなかった。この寂寞とした、しかし胸を締め付けられる感慨を抱いたのは、これで二度目の経験だ。
一度目は、千と数百年を地底に隠遁して過ごしたのち、どさくさ紛れに地上へ抜け出してきたあの日のこと。不覚にも感極まった私は、飽きることなく星々を仰ぎ見ながら、それまで空の本当の広さを忘れてしまっていた事実に愕然とさせられていた。照る太陽の眩しさも、風が運ぶ草花の匂いも、長らく私には縁遠いもので。ただただ湧き上がる解放感に圧倒されるばかりだった。
その時悟った気になれた自由の意義も、今では色褪せてしまったけれど。
彼らにとってはどうだったのだろうか? 意に反して闇へと葬られた船の乗組員達が、久方振りのお天道様を拝んだ払暁に。例の摩訶不思議な世界に幽閉されていた彼女が、千年越しの朝日を浴びた薄明に。あるいは昨晩、旧都を見晴らす御殿で対峙し対決したあの妖怪達が――妹やペット達はともかく、あの恐るべき『お姉ちゃん』が――再び大空を見上げる機会があったのなら。
昔と変わらないな、とでも漏らしたのかしら。覚(さとり)ならぬ我が身では、彼女達の想いを見通すことは叶わない。
「……。私には、分かりっこない――」
そして今夜だ。たった二日振りに眺め渡す夜空に、どうしてこうも心が揺り動かされるのだろうか。千と数百年の月日に匹敵する何かが、此度の船路にあったとでもいうのか。この未定義の感情を暴いてしまうことが、果たして自分のためになるのか……。誰も、懇切丁寧に教えてはくれないのだ。
背泳ぎの姿勢で星の雲海に浮かびながら、私は正体不明の想いを持て余していた。空の鳥、夜の鳥と書いて“ぬへ”と読む。もう未確認飛行物体(ユーフォー)の飛ばなくなった空には果てが無く、どんなに耳を澄ませたところで、同胞の鳴き声が聞こえてくるはずもない。そもそも、同胞なんて居た試しが無かったんだっけ。
無性に孤独感が押し寄せてきて、私はぎゅっと頭を抱えた。答えの出ない疑問と焦燥とが満腔に回って苦しい。中身を注ぎ足し過ぎた容器の如く、不意に吐き気が込み上げてきて、酷くむせぶ。思わず爪を立てたこめかみに、血と水とが伝った。
帰ったら皆が居る。そのことが、今の私にはたまらなく厭(いと)わしいのだ。
1.Spreader and Detecter
(貴方は、本当にまだそれを探し求めているの?)
(命辛々逃げ出して、耳を塞いで震えていた癖に)
※
できる限り目立たぬよう、私はこっそりと自分の席に滑り込んだ。他の全員は既に揃っていたが、幸い私の遅刻を咎める者は居ない。丁度朝餉の配膳が終わったところらしく、吸い物からは熱々の湯気が立ち上っている。暦の上で春とはいえ、まだ早朝の風から寒気の抜けきっていない時分だった。
「さあ、皆さん。合掌いたしましょう」
口を開くは、人数分の膳が並べられた座敷、その上席に着座する少女である。たおやかな外目にやはり薫然とした風格を備える彼女の名を、聖白蓮という。ここ命蓮寺の実質的な首領たる尼僧だ。
各々手を合わせる所作に倣い、私も両手の平を胸の前で揃えた。毎度のことながら、この一々畏まった雰囲気には慣れることがない。何故、飯一杯食べるのにありがたがったり冥福を祈ったりしなければならないのだろう。この寺の戒律は比較的チャランポランなものだと聞いたが、細かいところで堅苦しくて仕様が無かった。
しかし、今は宿を頼っている身の上、この程度は我慢しなければ大人げないか。ひとまずのところ、私は彼女に付いて行くと決めたのだから。
小鳥の囀りが表から澄み通る、儀式めいた静寂。一座を見渡した白蓮が、眉間に力を入れて大喝する。さあ、皆さん一緒に元気良く! 最初は『い』!
「いざ―――――――!」
『――――南無三――!』
「いただきますじゃないのっ!?」
※
「って夢を見たんだけどー」
「もぐ。それが遅刻の言い訳になるとでも思ってるの? お寝坊さん」
もはや見慣れた朝食の風景。お漬物と五穀米を諸共(もろとも)に掻き込む隣席の妖怪が、私に肘で小突かれて胡乱に視線を返す。
「大体アレは何事なのよ? 事ある毎になむさんなむさんーって」
「南無三とは南無三宝の略称です。三法は御仏の教えにおいて重要視される『仏』、『法』、そして『僧』のことを指して、南無はそれらに縋るという意味合いよ」
「そいつは前にも聞いた。にしても、毎度ああ声高に叫ぶことはないでしょうよ。心臓に悪いったら」
「気合いよ気合い。それより、ぬえがちっとも反省の色を見せていないことの方が気になるわね。朝は早く起きてご飯の支度を手伝うよう、一輪から注意されていなかった?」
喋りながらも豆腐を箸で摘もうと奮闘しているのは、我らがキャプテンこと村紗船長。明るいセーラー服にさっぱりとした表情がよく似合う彼女に、船幽霊という肩書はあまり似付かわしくないようにも思えるが。こうも美味しそうに吸い物を啜る死人は他に居まい。居て欲しくない。
「健全な妖怪は、普通朝早くに起きないと思うんだけど」
「貴方もいい加減慣れないと。昨日も一昨日も寝坊してきたでしょ。それに、廊下の雑巾掛けをサボった件に関しては言い訳できないよね」
「耐えられないのよ。私の正体不明が段々お茶の間じみてきていることに」
「あむあむ、働かざる者食うべからず。今後ちゃんとやるって約束できるなら、ご飯のおかわりを許しましょう」
「はーい。明日からちゃんとやりますよ。また柄杓でご飯を装(よそ)おうとしないでよね」
「あれはつい癖で――。いや、今日からやれっての」
私達のひそひそした会話を打ち切ったのは、控え目な咳払いの音だった。ムラサの真向かいに座る少女が、静かな口調で続ける。
「こら、二人とも。箸と舌を同時に動かすとは礼節に悖(もと)りますよ」
「はい。ごめんなさーい。今、皆の分のお櫃(ひつ)も持ってきますから」
「……ごめんなさい」
小さく呟き、そそくさと台所へ向かうムラサの背を見送る。斜向かいの少女は、何事も無かったように、しかしかなりの速度で料理を平らげつつあった。
寅丸星。命蓮寺において最も白蓮の信頼が厚い妖怪であり、毘沙門天の代理として他の宗徒を導くことを自らの任としている。決して融通の利かない性格ではないが、生来のものだろう生真面目さは、どうも肌に合わなかった。今朝は仕事着に比べて簡素な衣服を身に纏っているせいか、虎柄の髪色が一層派手に映る。
「まあ、良いではありませんか。久し振りに皆が揃っての朝食なのですから。黙々と箸を動かすより、きっとご飯も美味しく感じますよ」
「本当、全員集まっているのは珍しいですね。特に――あれ? さっきまでそこに座っていたはずなのに」
そして彼女の隣が白蓮の席だ。長方形の長辺、それぞれの片端にムラサと星が座し、二人に挟まれた短辺で尼公は上品に箸を使っている。新入りの自分の席が上座にあることは奇妙に思えたが、これは顔見知りと隣り合う方が気が楽だろうという白蓮の配慮らしい。
きょろきょろと辺りを見回す虎柄の少女へ、尼公が和やかな眼差しを向ける。
「そういえば、星」
「は。何でしょうか」
「頬にご飯粒が付いていますよ」
「え……、あ。その、何を」
頬に向かって伸ばされた白蓮の手を、星は身を捩って躱した。追い縋る指先から、さらに機敏な動作で逃れようとする。
「あら、動いたら取れないではないですか」
「お気遣いなく。聖のお手を煩わせるまでもありません。ありませんってば」
要は恥ずかしいのだろう、朱を散らして逃げ回るほっぺ。追う尼公の指。段々とその攻防は激しさを増し、今や拳闘家の試合のようになっていた。ここの連中は毎回漫才を挟まなければ飯も食えないのか、と呆れる私の目の前で勝敗は決し、顔を真っ赤にした星がマットならぬ畳へ沈む。
「ふん。それにしても……。ここが私の席、か」
「ぬえ、どうかしたの?」
「……ううん」
耳敏く私の呟きを拾ったのか、勝ち取ったお米粒を手に白蓮がこちらを見遣った。事情を知らぬ者にも一目でで懐の広さが知れる、慈愛を湛えた微笑み。何でもないわ、と口の中で返事をして、自分の膳へ視線を落とす。
私の席。その響きに気恥ずかしさと居たたまれなさを同時に感じながら、私は奥歯で味のしないお浸しを噛み締めた。
「どうしたのよ、ぬえ。おかわりどころか一杯目も残してたじゃない。体調悪いの?」
「いいや、その、ちょっと食欲が湧かなかっただけ」
「まさか、変なもの拾い食いしたんじゃないでしょうね」
「してないよ。考えてみたら、私達ってそもそも朝御飯食べる必要が無いんじゃ……」
「食事もまた仏道修行の一環なの」
妖怪を始めとする人外にとって、人間のような食事は必須ではない。存在が精神の面に傾いている以上、必要なのはやはり精神的な『食餌』なのだ。例えば私は人間の恐怖心を煽ってそれを喰らうが、人の血肉を啜って魂ごと取り込んでしまう妖異も多い。驚愕、嫌悪、悔恨、怨怒、……人が牛馬の各部位に異なる名称を付して食べ比べるように、妖怪によって好む精神の部位は異なり、また捕食の仕方も千差万別である。食事の有り様こそが種の個性を形作ると言っていい。
かといって、人間流の食事を楽しむ妖怪が珍しい訳ではない。味覚を通して精神を豊かにすることができれば、妖(あやかし)としての貫録に繋がるからだ。実際に、力ある妖怪ほど人間以上に文化的な振る舞いを見せると言われている。
食事が修行という弁は、文字通りの意味とも捉えられるだろう。
「ほら、手が止まってるわよ」
「これも精神修養の一環ってこと? ああもう、苛々させられるだけだわ」
現在、私はムラサと共に朝食の後片付けの真っ最中であった。他の妖怪達も各所に散らばり、寺の掃除に洗濯にと、めいめい割り当てられた雑務をこなしているはずだ。
一客一客のお椀を、キュッキュッと指で音を鳴らすようにして磨いてゆく。命蓮寺の構成員は二十を下らず、食器の数は単純計算ででかなりのものだ。積み上げられた順番待ちの小山に、私は早くもうんざりし始めていた。対して、大鍋やら擂鉢やらの調理器具を洗うセーラー服の表情は楽しげにすら見える。
「だって、自分達の料理が美味しく食べてもらえるのは嬉しいでしょう」
「そういうもんなの? 私は料理なんて柄じゃないけど……」
「今度手伝ってみない? これまた下拵えが大変なんです」
「正体不明仕込んでいいなら」
「だーめ」
命蓮寺の顔役を務めているのは毘沙門天の代理たる寅丸星だが(といっても、取り仕切りは白蓮の意向を酌みつつだ)、細々(こまごま)とした家事の采配はこの船幽霊に任せられることが多かった。船長、あるいはキャプテンと皆から頼られているだけのことはあり、白蓮の求心力とは別種の統率力を備えている。
「でも、柄杓をお玉代わりに使うのはどうかと思うわ」
「あれは柄杓の形をしたお玉杓子なのです」
「あ、そうだったんだ。……え? あれれ?」
元々、ムラサは船を祟り沈没させる海難事故の念縛霊だったらしい。その昔白蓮と出会い、彼女の言葉に改心し神仏へ帰依するようになったのだという。人間の苦しみを糧とする本分を捨てた転身は、己の存在を根底から覆すような所業だと思うのだが……。それほどまでに、あの尼公の法力は強大だということか。
「私、もっと厳格な奴だと思ってたわ」
「誰のこと?」
「白蓮よ。変わり者なんだろうなっては予想してたけど、想像以上に気さくだったというか、俗っぽいっていうか。ぶっちゃけ尼さんに見えないわ」
「聖もある意味相当な破戒っぷりだしねぇ。平均と見るには問題がある」
比丘(びく)は二百五十戒、比丘尼は三百四十八戒の具足戒を護持すべきだと伝え聞くものの、曰く、白蓮はかなり放埓な僧であるらしい。自身はともかく妖怪達の素行にはかなり寛大なようだ。より多くの者を救えるよう、門戸は広くとの考え方なのかしら。
「それでも、我々にとって尊いお方であることは変わりない」
「私だってそこを疑ってる訳じゃないよ。だけどさぁ――」
彼女が飛び抜けた人格者であることを認めたからこそ、しばらくの間は付いて行こうと決心したのだ。だが、その結果自分がどう態度を改めるのかについては、まだ深く考えを巡らせていなかった。
もしかしたらムラサ達のように人を殺めぬ誓いを立て、別の精神的な拠り所を求めることになるのかもしれない。そんな自分の姿を想像するのは難しかった。ここを頼った時点で正体不明度が右肩下がりだとは言え、長年培ってきたアイデンティティを放棄するには、少なからず勇気を必要とする。
それに、彼女の掲げる理想論については、とても諸手を挙げて賛同することはできない。
「人間と妖怪が平等に暮らせる世界なんて、夢のまた夢だよねぇ」
「私がここに居るのは、聖がそうは思っていなかったからよ」
「けど、そのせいで魔界の片田舎に封印されちゃったんでしょ」
「むー」
「幻想郷が妖怪にとって棲み易い所なのは分かったけど、人間と妖怪の争いは形を変えてまで続いているんじゃん」
人と妖を同じ舞台で対峙させる弾幕ごっこも、決して両者の立場の平等を約束するものではなく、また必ずしも全ての妖怪がその恩恵に預かれている訳でもないだろう。白蓮の理想は、そのまた上の段階を謳っている。
「こればっかりは話し合ってみないと分からないわ。……ああ、今日の晩ご飯は要らないって聖が仰っていたわね。里の偉い人達から宴会に招かれたそうよ」
「大丈夫なの? がんもどきに毒を仕込まれたりして」
ぎろりと横目で睨まれ、慌てて皿洗いを再開する私。
「これまでに船を訪れた里の人間達は、単に我々が妖怪だからといって毛嫌いすることは無かった。あれなら、聖のお言葉を頭ごなしに否定したりはしないでしょう」
「……でも、賛成するとも限らない」
ちっとも減る様子を見せないお椀の山を横目で見つつ、適当に合いの手を打った。
「ムラサも一緒に行くの?」
「まさか。大人数で押し掛けても迷惑なだけですわ。星がお伴をするそうだから、いざと言う場合にも心配は無用だろうし」
慣れた手付きで釜の内側を洗いながら、腕まくりした少女は呟く。
「あの巫女や魔法使いみたいな奴がごろごろしているとすると、少々不安ですけど」
「アレは特殊な部類だと思うわ。でも、里の連中だって元々は妖怪退治専門業者の末裔なんだっけ。私のこと全然怖がってくれなかったし」
「ちょっと、手を出さないよう言い含められていたじゃない」
眉を吊り上げる船幽霊に、私はひらひらと手を振ってみせた。
「ほんの少し恐がらせてやるつもりだったのに、頭撫でられた上にお強(こわ)持って帰らされた。この年になってお嬢ちゃん扱いなんて……、屈辱」
「変わった人間も居るものねぇ」
「白蓮みたいな人間も滅多に居ないと思うわ」
そう、彼女のような人間と出会うことなんて、この先も二度と無いだろう。奇縁であることは間違いないが、必然と呼ぶには抵抗が残った。紆余曲折の経緯があった私をムラサ達は受け入れてくれたけれど、その逆も然りかと自問すれば答えに詰まる。
果たして私自身は、彼女達を受け入れることができるのだろうか?
※
ひいひい言いながら作業を終えると、休む間も無く外の掃除を手伝うようにとのお達しがあった。見るからに重そうな調理器具をひょいひょい片付け始めた(日頃から身の丈以上もある金属塊を振り回していれば、そりゃあ軽々としたものだろう)相手に文句を付けるべくもないが、かといって気が進む訳もなく、わざとゆっくり廊下を歩いてみる。
「ばぁっ! うっらめしやーっ!」
「…………」
曲がり角から古典的な化け傘が飛び出してきたような気がしたが、気のせいだったようだ。
「ねぇ、今の驚いた?」
「…………」
「ねぇってば、本当は心臓止まっちゃうくらいびっくりしたんでしょ?」
「…………」
命蓮寺はムラサ達の操る聖輦船が着陸、変形したものだが、廊下や各部屋に通底する雰囲気には、ここが荒れ空を進む船の内部だったとは思わせない気品がある。尤(もっと)も、院内の一部――仏像が安置されているお堂など、人目に触れやすい部分――こそ細密な木像彫刻や金銀珊瑚の箔、紐綴りのギヤマン細工といった荘厳具(しょうごんぐ)で格調高く飾り立てられているものの、機関区や居住区の通路は古色床(ゆか)しい木目を基調とする素朴なものだ。
聖の乗る船、聖輦船。来る者拒まず、乞うもの逐(お)わず。
「わちきは愉快痛快な忘れ傘、多々良の小傘と申すん、だけ、ど。あのー、もしもしぃ?」
「…………」
「な、なによー。無視することないじゃない!」
「…………」
残念ながら板張りの床は長く続かず、さほど歩かないうちに私は土を踏んでいた。建物の側面に開いた通用口は、船でいえば喫水線下にあるため、寺院らしからぬがっちりした造りである。
疎らな木々に囲まれ、滑らかな湾曲を描くお寺の横腹。じっくり見直してみると、外観にはそこかしこに船形態の名残が見受けられる。キャプテン曰く、その気になればいつでも空を飛べる用意はあるらしい。最近は舵輪を握る機会が少なくて寂しい限りとも。
「うぅ、どうして? 私、正々堂々驚かせようと……」
「…………」
「ふえ、ぐすっ、ううううぅぅー」
「…………」
船壁に吊るしてあった箒を手に取ると、それだけは新規に建設された三門へと向かう。目的の人物はすぐに見付かった。禁欲的に頭巾を被った佇まいは、白蓮よりもよほど正統派の尼さんっぽい。
「おはよう、一輪。こっちを手伝えって言われて来たんだけど」
「やる気の無い人材を寄越されても、余計な手間が掛かるだけだわ」
「付け加えておくと、私は掃除するくらいなら何もかも吹っ飛ばした方が早いと思っているクチ」
「帰って寝てても構わんが。――。いや、雲山は同感だって」
箒片手に呆れてみせる少女。その腰に吊り下げられた金の輪っかには霧のような不定形の塊が絡み、いかにも頑固親父といった風(ふう)のしかつめらしい表情が張り付いている。
入道使いの雲居一輪と、その相棒である雲山。彼女達もまた白蓮を信奉する妖怪であり、専ら命蓮寺の守衛を任じていた。
「どうしたの? 人の顔をじろじろと」
「べっつにぃー」
我々の取り柄といえば力仕事、屋内の細かい作業には向いていないからと、一輪達は進んで外回りの役目を買って出ている。体の大きさを自在に変える能力を持ち、強力(ごうりき)が自慢である反面ちまちましたことが苦手な入道と、その豪腕を巧みに御する少女の組み合わせは、大雑把な領域でこそ真価を発揮するとの売り込みだ。
他の奇抜な面子に比べて親しみ易い外面(そとづら)のためか、参堂客の案内役や里人相手の渉外を任されることも多いらしい。
「うーらーめーしーやー」
「…………」
「しくしくしくしくしくしくしくしくしく……」
「…………」
仏頂面通りに頑固一徹な雲山に対して、一輪の方は律義でありつつ捌けた性格をしており、頭の回転も速い。凸凹ながら息の合った二人組である。白蓮のことを姐さんと慕う忠義心は疑いようもなく、寺住まいの妖怪宗徒達からも、ムラサと並んで一目置かれていた。
「でも今一つぱっとしないんだよね。地味って言うか」
「荒事係が目立ってどうする。雲山共々、寺の敷石となれればそれで本懐よ」
「でもきっと私の方が強いと思うのー」
「……あんた、私と村紗とじゃ露骨に態度変えるわよね。ところで、そこの泣きべそかいてる妖怪は何事?」
「面白かったから放置してたんだけど、こうなると鬱陶しいわ」
不意打ちで背後を振り返ってみる。ちらりと真顔でこちらを盗み見た小傘は、すぐによよよと泣き崩れた。嘘泣きかい。
「それで、私はどこを掃き清めればいーの?」
「うーん。実はもう粗方(あらかた)終わっちゃってて。――。え? ああ、本当。お客様のようね」
雲山が眺めている方を見遣れば、丁度既視感のある人影が門の向こうへ降り立とうとしているところだった。
「おはようございます、妖怪さん」
「おはようございます。貴方はええと、守矢神社のいつぞやの――」
緑なす長髪に蛇と蛙の髪飾り、一風変わった碧瑠璃(へきるり)の巫女装束。私の記憶が正しければ、東風谷早苗という名の風祝――風神に仕える巫女であり、彼女自身も信仰の対象となり得る現人神だ。
正直、彼女のことは不得手だった。あの白黒の魔法使いもそうだが、正体不明を恐れずに好き好んで追い回すなど感性が狂っているとしか思えない。地下の安穏とした生活が長く勘が鈍っていたとはいえ、この鵺妖怪を打ち破った実力も人間離れしている。しかも敗者を神社まで連行して撮影会と来た。天狗も変な神様の二人組もノリノリで、妙ちくりんな薄い服やら水着やら……。断然プライドがぼろぼろである。エイリアンを何だと思ってやがるんだ。いや、違うけど。
「むむ。またぞろ妖怪退治でもしにきたのかしら?」
険のある口調の私に、早苗は苦笑を返す。
「朝っぱらから羽目を外していては流石に身が持ちません。今日のところは平和的にと。――お望みとあらば、も一つ黒星を進呈して差し上げますが」
「いえ、結構。一体どのようなご用件でしょうか。姐さんにお会いになります? 立ち話もなんですから、中へどうぞ」
「お気遣いはありがたいのですが、里に人を待たせているのです。後日改めてご挨拶させていただくとして、今日はこの場で失礼しますね。はい、こちらをどうぞ」
物腰柔らかに早苗は微笑む。まっこと驚くべきことに、彼女はイケイケ妖怪退治モードと社交モードの使い分けが可能らしい(逆に空恐ろしいような)。
さて一輪が受け取った風呂敷包みには、どうも重みというものが欠けている様子だった。よもやと思って片手を翳してみると、果たして布の間から自分の使い魔が顔を出す。
「UFOならぬ謎の飛行物体。妖怪の山で収集できた分をお返しに参りました」
そう、宿願叶って白蓮が封印から解き放たれたとはいえ、まだまだ万事遺恨無く片付いた訳ではない。『飛宝』こと砕けた飛倉の破片は、悪戯な妖精らの手によって幻想郷中へ散り散りになってしまっていた。悪用される危険性もあるため、星の部下であるダウザーが休む暇も無く回収作業を進めていたのである。
だが、一部の飛宝は彼女の力だけでは取り返すことが困難な状況にあった。特に妖怪の山は排他的な天狗達が支配しており、鼠にこそこそ嗅ぎ回られることを良しとしなかったのだ。困った星は、天狗達の信仰を集める守矢の神社へ協力を求めに赴いた。
「大変だったのよ。見る妖怪によってクラゲになったり鍋の蓋になったり。目を離すとどこかへ逃げ出してしまうし。神奈子様が天狗達の説得に成功なされたからよかったものの」
「そうまで尽力して下さったとは、姐さんもお喜びになることでしょう。厚く御礼を申し上げねば」
「これは純粋な善意でやったことだから、欠片(かけら)も恩を売るつもりはない、そう神奈子様は仰っていました」
二人の会話は、あらかじめ用意された文面に忠実である。善意という言葉に私は内心構えを取っていた。そんなことを宣(のたま)う奴に限って、後々どんな代償を吹っ掛けてくるか分からない。
「――そして、いずれ守矢の神社と貴院との親交を結ぶ場を設けられれば、と」
「……左様ですか」
「え、どういうこと?」
「私は言付けを仰せ付かっただけですので。ご尊住によろしくお伝えください。それでは」
丁重なお辞儀と薄い笑みを残し、早苗は飛び立っていった。私にはどこか腑に落ちない印象が残ったが、一輪は何がしかの事情を察したらしい。思案顔で、風祝が小さくなってゆく空を見上げている。
「薄々感じてはいたけれど、あの神様、相当抜け目ない方ね。流石、“外”からの移住なんて大それた計画を決行するだけの肝っ玉だわ」
「今のは……釘を刺しに?」
「牽制もあるかも知れないけど……。本心から私達と親交を結びたいのなら、今の内に何らかの打診があってよさそうなものじゃない。それが毎度言葉尻を濁してばっかりで、何を企んでるんだか」
少女は腰の輪っかに手を遣り、その感触を確かめるようにした。
「守矢の神社は、山の妖怪だけでなく人里にも信仰を根付かせつつある。命蓮寺はその里のすぐ隣に――いや、そもそも土地を選定したのもあの神様だった」
「へー、そうだったんだ」
「『いずれ』だなんて、暗に時期尚早であることを示しているのだとも取れる、といったら深読みかしら。私達が人里と良好な関係を築くのならば、親しくしておいた方があちらさんにとっても利益になるわ。神社と寺院(かわらぶき)とは、人の口に上るほど相容れぬ存在ではない」
傍から見れば商売敵とも取れるが、上手く業務提携できれば長い目で見て得をするのだと、入道使いは説明した。社会経済は専門分野から外れているので、適当に聞き流す。
「だからあからさまではないにしろ、向こうから積極的に手を結ぼうとしてくるだろうと思ったのに。無論、神様連中が優位を保てる形で。――。どのみち今の命蓮寺の影響力じゃ、あちらさんのアプローチを待ってから後の先を取るしかない」
「ふぬ。意味が分からん」
考え考え言葉を紡ぐ一輪には、会話の途中で独特の間を挟む癖がある。相方と交信しているのだろう。
「でも、もし命蓮寺が里の人々に受け入れられなかったら。最悪の場合、幻想郷にとって厄介な勢力になるとしたら――。向こうには手を差し伸べるか差し伸べないか選ぶ猶予がある。つまりは様子見ってとこ」
「難しい理屈を捏ねたものね。だとすると、あいつら寺のこと見下して日和(ひよ)ってるの?」
「少なくとも、最悪の可能性が払拭されるまでは。組織の長として妥当な判断じゃないかしら。――。雲山がそう思うのも尤もだけど、もっと楽天的に捉えましょうよ。軽々しく扱われるよりずっとマシだわ。最低限時流を見極める眼力が無ければ、組織は上手く回らない。流れに留まれば置いて行かれ、逆らえば押し潰される。歴戦の神霊ならばそれくらい承知のはず。姐さんの場合は……」
ふと目を瞑って口を噤み、一輪は私に風呂敷包みを差し出した。強面(こわもて)の入道が、その体を守るかのように取り巻いてこちらを見据える。
「さあ、丁度仕事が出来たわね。この飛宝を村紗か星に渡してきて。多分、今頃は機関室に居るでしょうから」
素直に荷物を受け取り、私はその場を辞した。誰か忘れているような気がしたが、きっと気のせいに違いない。
お寺に機関室があると言うのも妙な話だ。複雑な凹凸が壁面や床、天井からも盛り上がり、それぞれの表面にもまたびっしりと込み入った術式が施されている室内。混沌と秩序が同居する、人によっては頭痛がしそうな光景だった。聖輦船にとっての心臓部だとは聞いているが、個人的にはムラサ達の趣味の部屋だと認識している。
床にがっちりと固定された機器の合間を縫って奥へ進むと、見知ったセーラー服の少女が熱心に機材を弄っている背中に出くわした。まだこちらに気付いた様子も無い。
「……ばぁっ!」
「ほわひっ!? ――ってぇー、驚かさないでよ、手元が狂うじゃない。その辺べたべた触っちゃ駄目。ぬえがここに来るのも珍しいわね。機関(からくり)に興味あるの?」
「無い無い。だから嬉しそうな顔しないで。よくもまあこんなごちゃごちゃしたの相手に会話できるね」
「自分の船が可愛くない船長なんていませんものー。まあ、素人さんにこの機能美は理解できないか」
「うっとりされても……。はい、これ。妖怪の山に散っていた破片だって。例の風祝が持ってきた」
「ほう。意外と早かったね」
第三者の声は上からだった。箱形の長高(たけたか)い機器と天井の間から、鼠の耳と鼠色の髪の毛が這い出ている。
「こらそこ、勝手に登らない。毛が落ちる」
「ふふふ。こういう狭い場所はなんとも落ち着くな。よっと」
しなやかな身のこなしで滑り降りてきたのは、探し物を生業とする鼠達を束ねる頭目、小さな賢将ことナズーリンだった。星直属の部下として命蓮寺のために働いている妖怪の一匹ではあるが、その飄然とした物腰からは、他の宗徒と一線を画する世間擦れした雰囲気が滲んでいる。謎っていうと、少しだけ対抗意識。
「ご主人様が気を回してくれて助かったよ。あの山は私でさえ潜入に骨が折れるんだ。子ネズミ達ではとてもとても」
「今日は朝食に参加してたみたいだけど、小休止? 破片はもう揃いそう?」
「九割五分と言ったところかな。残りも場所の目星は付いているし。二三、交渉の必要がある連中が居るが……。これはまたご主人様に出張ってもらうしかあるまい。ともすれば、聖直々に出向いていただく必要があるやもしれないが」
「そんなに厄介な相手なの?」
私は疑問を口にした。あのはきはきとした虎柄の妖怪は、結構なやり手だと思っていたのだが。交渉事に関しては、どこか奇矯な印象のある白蓮よりも得意そうだ。
「湖畔の吸血鬼、高草郡の兎共辺りはまだ話し合いの余地があるんだがね」
「ご主人様と言えば、あの毘沙門天様はいつになったら現れるのかしら。用件があるって言ったのは向こうなのに」
「さあ? 私はご主人様の秘書官ではないよ。君、飛宝から件(くだん)の仕掛けは除いてあるのかい?」
「あ、ええ。大丈夫」
「ぬえの使い魔を回収に応用できれば早かったんだけれど」
飛倉の破片に仕込んだ正体不明の種には、追い出された場合に私の元へ戻ってくる程度の簡単な指令しか与えていなかった。こちらから認知しない限り自由に操ることもできず、全ての破片に種を植えた訳でもないので、飛宝を探す助けにはなれなかったのだ。
「これは、一旦私からご主人様に預けておくよ」
「うん、頼んだわ。船に組み込む前に検分してもらわなきゃ」
荷物を受け取り、部屋を出て行くかと思われたナズーリンはしかし途中で足を止めた。振り返るその表情には、いつもの醒めた態度とは違う、躊躇(ためら)いめいた色が浮かんでいる。
「そう言えば……、君達、スネークを見掛けなかったかい?」
「スネーク?」
「私の子分の一匹だよ。今朝から姿が見えなくてね。お陰で少し尻尾が寂しいな」
そう嘆息してくねらせる長い尻尾の先には、布の敷いてある空の籠が揺れていた。覚えている限り、そこには常に一匹から数匹の大鼠が納まっていたような。
「鼠なのにスネーク……」
「探し物は貴方の専門でしょう。私達に尋ねられても」
「奴は隠れんぼの天才なんだ。ひょっとすると私でも手を焼きかねない。ま、それは自分の意思で姿を消した場合の話だけれど」
ダウザーの思わせ振りな台詞に、船幽霊は瞳を眇(すが)める。
「それじゃまるで――」
「ああ、私は勾引(かどわ)かされたのだと踏んでいる。廊下に爪痕が残っていたんだ。できれば気に留めておいてくれ。全く、これ以上野暮な仕事が増えなければいいんだが」
ナズーリンが立ち去ったのち、私とムラサは不思議そうに顔を見合わせた。
「誘拐されたって? 誰が、何のために鼠なんかを」
「食餌としてでしょうか。それとも愛玩用……は、無いな」
「鼠を食べる獣は多いけど、わざわざナズーリンの部下を選んで――」
「大体私は面白くないのよ。船にネズミが堂々と居付くなってのー! よりにもよって猫科の虎が飼い主だから、面と向かって文句は言わないけどさ」
「まあまあ」
「うう、ネズミめぇ。備蓄が……。大切な保存食が……」
「あー、ええと、そうだ」
船のこととなると途端に喜怒哀楽の激しいムラサである。昔の失策を思い出したのか、がっくりと項垂(うなだ)れてしまった少女の気を引こうと、私は懐中の“それ”を手の平に乗せ、差し出してみた。
「ねぇ、これ、何に見える?」
「ええと――、ミニチュアかしら、錨の。これだけじゃとても船種までは判別できないけど、素敵な意匠ねぇ。で、正体は?」
「うふふ、不明に決まってるじゃない」
「気になるなぁ。ぬえにはどう見えるのかしら?」
「それこそ秘密」
「あらあら、キャプテンに向かってケチな物言いですこと」
「船長権限を行使する?」
「無理強いはしない。クルーがその気になるのを待ちましょう」
「……うん。いつか、気が向いたら教えてあげなくもないわ」
彼女の予想通り、“それ”には正体不明の種が仕込んであった。
生まれ付き私に備わった才能は、様々な物品や概念の定義を否定することで対象を正体不明にするというものだ。人が未知の存在に対して、まず既知の情報を組み合わせ命名することで理解の第一歩とするように、正体不明にされた物の姿は、認知する者の知識や経験、気性やその時の気分によってすら変化する。しかも“それ”には恣意的に認識を偏らせるような細工が施してあるのだ。偏光性を備えているとでもいうべきか。
「舵輪じゃなくて繋ぎ止める錨、か。ムラサらしいと言えばらしいわね」
“それ”を誰かに見せて反応を試すのが最近の日課だった。誰しもが私に答えを明かすよう求めるものの、応えられるはずもない。正直なところを言ってしまえば、きっと笑い物にされるだろうから。
※
“それ”を手遊(てすさ)びに、私は自室へ続く廊下を歩いていた。考え事は、今後の身の振り方についてだ。現在はこうしてお寺でのほほんと暮らしているが、いつまでも態度を曖昧にしておく訳にもゆくまい。『はっきり』だなんて鵺らしくないから、今の内に適当な言い訳を考えておこうと思う。
命蓮寺を頼ったのにはいくつかの理由がある。第一に、地上における拠点の確保。人間を怖がらせるにしろ暴れるにしろ、寝起きする場所は必要だ。地上の勢力図は意外に緊密で、新しい縄張りを作るのは面倒だった。
ムラサ達による白蓮の解放を邪魔してしまった引け目もある。正体不明の種は結局、彼女達の有利に働いたものの、一応罪の意識も感じてはいるのだ。基本的に一匹狼な自分だったが、色んな連中と生活を共にするという経験もまあ、ちょっとぐらいならいいかなぁ、と思わないでもないような。窮屈な生活には閉口させられるが、ご飯は確かに美味しいし。
そしてもう一つ、あの聖白蓮の理想とやらを見極めてみたいと思ったのだ。最初からムラサ達のような信奉者になるつもりは毛頭無いが、好奇心はそそられる。彼女の志が薄っぺらなものならば、とっとと見切りをつけてしまう心積もりだ。自分自身がどちらを望んでいるかについては、まだ姿勢を決めかねているが。
「貴方、その人形をどこで――」
思案事に夢中になっていたせいか、背後から近付いてくる人物に気付くのが遅れてしまった。耳慣れない声に振り返ると、立ち姿もやっぱり目に覚えが無い。
「――って、あら、見間違いだったのかしら。ただの木の板じゃない」
「……誰?」
「他人に名を尋ねる時はまず自分から名乗るのがセオリーでしょ? ま、別に礼節を期待していた訳じゃないから構いませんけど。私はアリス・マーガトロイド。貴方の名前はサムでいいわね」
絵に描いたような西洋人、金髪碧眼の少女である。顔は日本人離れというより人間離れに整っており、仏蘭西人形が命を得吹き込まれ動き出したのだと言われても頷けそうだ。片手には魔道書らしきぶ厚い本を抱え、またバスケットを提げた小さな人形が傍らに浮かんでいる。よく目を凝らすと、細い魔力の糸が人形と少女の指とを結んでいることが分かった。傀儡遣いか。
「サム、貴方はこのお寺の住人?」
「封獣ぬえ! 通りすがりの正体不明よ」
「サムはサムシングのサム」
「聞いてないし。せめて上手いこと言ったって顔をしなさいな」
いくら正体不明とは言え、好き勝手に変な綽名を付けられるのは嫌だ。だが、アリスは私の不満顔を素気無く無視してしまう。
「門のところで話し込んでいたでしょう? 取り込み中みたいだったんで、裏口から勝手にお邪魔したんだけど」
「ああ、あの時はスルーに必死だったから……。貴方も魔法使いね。白蓮から魔法を習いに来たの?」
昔日の白蓮は僧侶として名を馳せていたが、今となっては魔法使いの方がその実態に近いらしい。先日も未来の大魔法使いを称する黒いのがやって来て、魔術の教えを(遠回しに、しかも図々しく)乞うていた。二人で楽しくマラソンや器械体操に勤しんだようだ。魔界仕込みのプリーステスが持論は、『健全な魔法は健全な肉体に宿る』。魔法使いには十分な基礎体力と柔軟な身体作りが不可欠らしい。振り付け付きの説法といい16ビートの声明(しょうみょう)といい、基本的に体育会系な命蓮寺である。
しかし、アリスは澄ました表情で首を振った。
「生憎と、白蓮さんに教わることは何も無いわ」
「ふーん。あんたの肩書にも大が付くと?」
「魔法使いにとって重要な魔法は須(すべから)く術者のオリジナル。白蓮さんの得意分野は身体強化でしょう? 私の研究テーマには大して関係無いもの」
「あっそう。――ぬ? 白蓮の得意分野ってそんなんだったっけ。どうして知ってるの?」
私の質問には答えず、人形遣いはバスケットの中から一封の封筒を取り出す。
「会ってみてもいいけど、きっと話が長くなるでしょうし。また後日にしておこうかしら。サム、これを白蓮さんに渡しておいて頂戴」
「だから、私の名前はぬえだってば。ぬぅ・え!」
「ぬえ? あー分かった。ぬえーぬえーて鳴くからぬえなのね」
「誰がそんな安直な命名をされますか! 鵺は本来トラツグミのことを指すの。転じて、『鶫のように不吉な声で鳴く正体不明の妖怪』が鵺と呼ばれるようになったのよ!」
……受け売りである。
「蛇やら鳥やらの混ざり者なんて謂(い)われてるけど、それは私の存在を恐怖した人間達が想像力を働かせただけのこと。定義に囚われない曖昧さこそが鵺の力の源なのー!」
「勉強になりました。けれど正体不明をウリにしたいんなら、自分でべらべらと解説しない方が身のためなんじゃない?」
「うぐぐぐぐー! こいつむかつく……」
「じゃ、私はお暇するわ」
二の句を継げない私を背に、元来た通路を戻ってゆくアリス。丁字の曲がり角に差し掛かった途端、死角から懲りない化け傘が飛び出してきた。
「うらめぺひゅっ!?」
傍らの人形が反射的に動き、主を襲おうとした不届き者の側頭部にバスケットを叩き付ける。重石でも入っていたのか、ごふっと鈍い音が響いた。床に崩れ落ちる小傘へ、無表情のまま問う人形遣い。
「あら、大丈夫? 大丈夫なら私のバスケットに謝りなさい」
「ひ、ひうぅ」
「謝らないなら、これからじっくりと大丈夫に仕立ててあげるけど」
「あう、ご、ごめんなひゃいでぅ……」
「……はぁ、私も悪かったわ。これから廊下を走らないように注意するのよ」
そう淡々と告げてアリスは立ち去った。後には、頬を押さえて涙目のからかさお化けが取り残される。
「酷い目に遭った。何も殴らなくてもー……」
ごしごしと目尻を擦っている彼女を見ていると、何故だか無性に意地悪したい気持が湧き上がってくる。その両手を縛り上げて思い付く限りの罵詈雑言を浴びせ掛ける機会を見送ったのは、付喪神の足元の床に妙な掻き傷を見付けたからに過ぎなかった。
「これはもしかして――」
「ぬえこさんや、さっきはよくもあっしを放置プレイにしてくれたにゃーでごわす」
「そのキャラ混ざってるよね? 統一感皆無だよね?」
混ざり過ぎである。あんたは何と何のキメラだ。
いや、今は床の傷痕を優先しよう。小動物が暴れて木板に爪を立てたらこんな風になるだろうか。それにしては、まるで文字を書き損なったような不自然さがある。使い込まれた木板の別の傷と比べれば、最近出来たものであることは明らかだ。
ひょっとして、ナズーリンの言う誘拐された子分に関係するものではないだろうか?
「どうしてぬえっちは私を執拗に無視するの?」
「特にこれといって理由は無い。あと、屋内では傘を畳みな。こないだも部屋が水浸しになってたって星がご立腹だったわ」
「ああ、それでお尻ぺんぺんされたのね。独鈷杵で」
「前に私が叱られた時の文句、脅しじゃなかったのか……」
小傘だからとの理由かもしれない。
それにしても、近頃頻繁にこの妖怪と寺院内で遭遇するのだが、何かしら企みがあるのだろうか。見るからに物事を深く考えていなさそうなふにゃっ面である。
「今日はまた白蓮ってのを驚かしに来たんだけど、取り込み中だったから後回しにしたんだ」
「その気遣いを他に向けないの?」
「ナムサン――! ナムサン――! って鏡の前で練習してたわ」
「練習してたのか……。あいや、それは驚かせる絶好の機会だったと思う」
「ナムさんってどこの人なのかなぁ?」
「召喚の儀式でもない。いい? 南無三は元々南無三宝の略で――」
「――なんと? 宝塔を賊に盗まれたって?」
「――しっ、ナズ、声が大きいですよ!」
また受け売りの知識を披露しようとした矢先だった。星とナズーリンの、どこか切迫したやり取りが聞こえてきたのは。
二人は曲がり角から一つ先の部屋に居るらしい。息を潜めて耳を澄ますと、辛うじて会話の内容を聞き取ることができそうだ。小傘は私ほど聴覚が鋭くないらしく、唇に人差指を添える私を不思議そうに見詰めている。
「どういうことなんだ? まさかご主人様よ、『また』――」
「いいえナズーリン。そんなはずはありません。きちんとこの戸棚に置いていたのですから。鍵こそ掛けていませんでしたが……」
「最後に確認したのは?」
「昨日の夜、寝る前にはちゃんとあったんです。本当ですってば。そんな目で私を見て楽しいんですか?」
「この埃の跡は、しかし……。待った、誰かが聞き耳を立てているようだ」
戸に手を掛ける気配。星が顔を出す寸前、私は小傘を抱えて角の陰に飛び込むことに成功した。
「誰も居ませんが……」
「私のひげが信用できないかい? ふむ。すると、猫か犬でも迷い込んだのかも知れないな」
「まさか、曲者が犯行現場に戻ってきたのでは」
「ぬ、ぬえー。ぬえぇー」
「この鳴き声は! ……なんだ、ただの鵺ですか」
良かった。どうにか誤魔化せたようだ――。
「って、納得するなーっ!」
「おや、びっくりした。ぬえ、どうして貴方がそこに?」
しかも素か。当然の如く部屋に連れ込まれる私だが、小傘はちゃっかり姿を消していた。おとぼけさんに見せ掛けて、彼女も意外とはしっこい。
部屋が誰に割り当てられているものかは一目瞭然だった。箪笥や行李等、品物が収まりそうな家具は全て開け放たれ、露出した衣装の四分の一は虎縞だ。壁の衣紋掛けにはこれまた立派な余所行きの服が掛かっている。当人は別段派手だと自覚していないらしく、私や他の妖怪に虎柄を勧めてきたこともあるが、これまで首を縦に振った者は居ない。
「下着まで……」
虎縞は彼女のトレードマークであり、毘沙門天の代理としての威厳を出すためにも必要不可欠との事情は知っているが、これもまた私が星を敬遠してしまう理由の一つなのである。どうも彼女には善意を押し付け気味なところがあった。悪意が無いことを承知している分、微笑ましくもあり、始末に困りもする。
「さて、知られてしまったことには仕方がありません」
「待って。偶然通り掛かっただけで、立ち聞きするつもりは無かったの。独鈷杵だけは勘弁してよ」
「何の事ですか……? まあ、こうなったら事情を説明する他ありませんね。ああ、他言は無用ですよ?」
「と言っても、事は単純だ。毘沙門天様の宝塔が、所定の位置から無くなっていた、今分かっている事実はこれだけだよ」
「宝塔が独り歩きする訳が無いでしょう。誰かが持ち出したに違いありませんとも」
「私はただ、あらゆる可能性を考慮すべきだと提案しているのさ」
飄々とした態度のナズーリン。床に散乱した衣服を仕舞い直す星は、納得いかない様子で口を尖らせている。それにしても、泥棒に侵入されたお手本のような散らかり具合だ。床板こそひっくり返されていないが、行李の一つなど横倒しにされ、中身が生卵のように零れている。
「この様子だと、宝塔以外にも被害が出ているんじゃない?」
「大変言い辛いのですが、その、これをやったのは私です。ひょっとしたらどこかに紛れ込んでいるのかも知れないと……。他には、特に紛失している物も見当たりませんでした」
「へ? 盗まれたんじゃなくて?」
「えと、それは」
「この調子で探偵ごっこをするのも一興だが、なに、心配はご無用。こんなこともあろうかと、宝塔に現在地追跡装置を取り付けておいたんだ」
私達二人の訝しげな表情を受け、ダウザーは得意げに胸を張る。
「ここ幻想郷には油断ならない賊が多いと聞くからね。あの黒い魔法使いも、名うての盗人と言う評判じゃないか。それでなくとも妖精の悪戯が心配だ。そこで、目ぼしいお宝には万が一紛失しても追跡できる装置を仕込んでおいた。お宝の価値を損なうような細工ではないから安心してくれ」
「そんな、私は何も聞いていませんよ」
出来過ぎた話に困惑しているらしき主人へ、部下は真面目くさった表情を向ける。
「事後承諾を貰えれば構わないだろうと思ったのだが。出過ぎた真似をしたかい?」
「それは……いいえ、よくぞ手を打ってくれました。またナズーリンに助けられましたね。貴方のような部下を持てたことは、万の宝より有難い巡り合わせです」
「ご主人様。感謝の言葉はもう少しオブラートに包んでくれと注意しているだろう。これは半分、私の趣味のようなものだしな」
衒い無い星の笑顔に、ナズーリンはしらっとした表情を作りつつ視線を脇に逃がす。なんとなく所在が見付からない私である。帰ろうかな……。
「では早速お願いできますか。騒ぎにならないうちに処理できれば、それに越したことはありません」
「ああ。この石が宝塔の存在する方向を指し示してくれる」
懐中から取り出されたのは、碁石大に加工され、細い鎖が取り付けられた半透明の青石だった。ナズーリンが小さく呪文を唱えると、石からこれまた青い光が一直線に伸びる。その先は、私達の誰もが考慮していなかったろう向き――床へ。
「……え? 下?」
「真下、ですね。」
「そのようだ。どれ、距離は――」
首を捻る二人を尻目に青石を持って部屋の対角線を往復するナズーリンだったが、光の角度が目に見えて変わる様子は無い。
「かなり深いな。床下やモグラ穴の比ではない」
「それって……、地面に埋まってるってこと?」
「ちっ、まさか……」
特に裏を含ませたつもりはなかった私の言葉へ、軽く舌打ちするナズーリン。その傍らでは、星が難しい顔をして考え込んでいる。
「むむむ……、もぐらより深く潜る動物となると、お魚……? おや、何か心当たりがあるのですか?」
「いや、何でもないよ。しかしご主人、宝塔が旧都に持ち込まれているとなると、私達だけで内々に事を運ぶのは面倒だぞ」
「旧都というと、ムラサ達が住んでた地底都市のことだよね? えと、ちょっと飛躍し過ぎなんじゃ――」
隠しきれなかった私の動揺にも取り合わず、鼠は確信有りげに頷いてみせる。
「ふん。あくまでも万が一の話だが、念のためにも白蓮に相談した方がいい」
「そうね。聖のご判断を仰ぐことにしましょう。地底に関しては船長や一輪達の方が詳しい事情を知っているでしょうか。そういえばぬえ。貴方も――」
「船長といえば、星。ムラサがあんたのことを待ってたみたいだけど、いいの?」
「ああ! 参ったな。この騒ぎにかまけてすっかり忘れていました。ナズーリン、伝言を頼まれてくれませんか?」
「船長にかい? 彼女、時々私を見る目が怖いんだよ……。ここはぬえ、君が適任だと思う」
「えーと、私は白蓮に用事が……」
拗ねたムラサの厄介さは誰しも知るところである。機嫌が悪い日など、実際に湿気を発散させてくるから困りもの。対外的にはおっとりしているものの、案外浮き沈みの激しい気性なのだ。船幽霊だけに。
「そうですね。自分が全面的に悪いのですから、まずは私から謝りに行くのが道理というものでしょう」
「ちぇっ。そういう顔をすれば人が動くと思っているんだからな、ご主人様は。船長と一輪には私から話を通しておくよ」
伝言の内容を聞いたナズーリンは、さっさと部屋を出て行った。あの鼠も鼠でスリルを楽しんでいる節がある。実際、彼女が狼狽した場面を見たことがある者はいないという話だ。
「ぬえ、貴方も聖に用件が?」
てきぱきと擬音が聞こえてきそうな手早さで衣類を収納しつつ、星は私に向き直る。ここで預かり物を託してしまってもいいのだが……。そういえば彼女にはまだ試す機会が無かった。私は“それ”を取り出し、虎柄の毘沙門天に見せ付けてみる。
「ね、これ、何に見える?」
「そっ、それは――! どうして貴方が“それ”をっ! か、返しなさい! 返しなさいったら!」
「ちょっ、待ってこれ正体不明だから! 本物じゃないから落ち着いて!」
反応は予想以上に劇的だった。さっと頬を紅潮させた星が取り乱した様子で体当たりしてきたのを危うく回避するも、素早い身のこなしで襟首を掴まれてしまう。
「ジャスティス!」
「……ぐ、くるし……い……」
例の封筒を突き付けていなければ、私は今頃哀れ二度目の臨終を迎えていたことだろう。ここまで顕著な成果を呼び起こしてしまう危険性があるとなると、今度から人選には慎重を期さねばなるまい。
※
自分は模範的な仏教徒の私室を知らないが、概して禁欲的なものなのだろうとは考えている。彼女の部屋はまさしく想像していた通りの質素さで、最小限に配された家具と名も知らぬ仏具の並びが物静かな共鳴を成していた。むしろ、部屋の主の服装の方が異質に映えるくらいだ。雄筆たる箴言が収められた額縁と、能舞台に用いられるような二三の面が、さして広くはない室内を見下ろしている。
異界へと封じられ、千年振りに顕界へと復活した古の僧侶。白蓮は命蓮寺における事実上の指導者であり、今現在の私の後見人だ。だからといって、頭が上がらない訳ではないけれど。
書き物をしようとしていたところだったのだろう。部屋の隅には机が片寄せられ、寺のそこかしこから漂ってくるのと同じ抹香の匂いに混じって、墨汁のそれが鼻腔をくすぐる。命蓮寺に住み始めてそれなりになった。この部屋を訪れたのは一度や二度ではないが、私は一向にこの香りに慣れることができずにいる。
大体、どうして私まで付き合わなければならないのか。慣れない正座を強いられた私は、ちらりと白蓮の顔を仰ぎ見る。封を切られた手紙に視線を落とすその表情は真剣だった。
「これは、魔界からの便りですね」
自然にはありえないグラデーションの長髪を波打たせる尼僧は、徐(おもむろ)に口を開く。魔界といえば彼女が封印されていた異世界だ。確かに、封筒に押されていた魔法印はなかなかお目に掛かれない立派なものだった。私の隣に座す星が首を傾げる。
「法界には、他にも封印されていた者がいらっしゃったのですか?」
「いえ……。これを持って来たのは、どのようなお方でした?」
「アリスって名前の、お人形さんみたいな魔女だったわ。実際に人形を連れていたけど」
「怪しいですね。船も無しに人間界と魔界を渡ったとでもいうのでしょうか?」
「その子は、金色の髪に青い瞳の?」
「うん。海向こうの人の見本に採用できるくらい」
「ああ、心当たりがあります。その子はきっと、『あの方』の遣いの者なのでしょう」
白蓮は遠い目付きで、過去を回想している様子だった。ややあって、しみじみとした口調で語り始める。
「私もまさか、流された先で誰かと出会うとは思ってもみませんでした。人とも妖ともつかないあの圧倒的な存在は、何人たりとも侵入を許さないはずの禁じられた地へ、容易く足を踏み入れてきたのです」
「始めて聞いたわ。当たり前に考えて、あんたやあんたを封じた連中より格上の奴が居たってことよね」
「はい。彼女は魔界の創世神を名乗り、幾許かの啓示を授けてゆきました。私ではその深遠な精神の半分も理解できなかったのですけれど。……まるで自分自身こそが法則であり規則であるとでも言いたげな、傲慢で慈愛に満ちた面立ち。あの方ならば、世界の境界をこじ開けることなど造作も無いでしょう」
「魔界に千陸万海を数えれど、覆う空は唯一つ。その空の色を統べるお方が魔界のどこかに在(おわ)すとは聞き及んでいましたが、実在していたとは。して、文(ふみ)にはなんと?」
「貸してたWii返せ、と。私としたことがうっかりです」
「花札屋の購買層の広さは半端無いな!」
地底でも流行ってたらしいなぁ、毬男パーティ・スーパーデラックス。まさか魔界にまで進出していたとは。それにしても、壮大な肩書の癖に案外せせこましいお方である。
「あの時は私も解放されたばっかりで浮かれていましたから……」
「『うぃー』とは一体何のことなのでしょうか」
「魔法使いのための最新の修錬機器です。仮想的な世界に身をおいて苦行をこなすことで、徒(いたずら)に危険を冒すことなく、居ながらにして思考力や忍耐力、集中力を鍛えることができるのです」
「そのような呪具が存在していたとは、流石は魔法のメッカと呼ばれるだけのことはあります」
「彼女の差し入れのお陰で、時の流れから置いて行かれずに済みました。特に新聞や雑誌はありがたかったですねぇ」
「しかし、封印されても尚(なお)倦まず修行を欠かさなかったとは、感服するばかりです。漫然と日々を過ごしてきた我が身が情けない」
「そのようなことはありません。貴方は私が放逐されてからもずっと寺を守り、耐え忍んでくれていたそうではないですか。ムラサ達と共に私のために尽力してくれたこと、いくら感謝してもし足りませんよ」
「くっ、聖……」
私は手も足も出さずに黙っていた。生半可なツッコミスキルでこの二人の天然空間に踏み込もうものなら、常識とやらを粉砕されて自滅するのがオチだ。
大体、もう私がここに居る理由は無い。段々足も痺れてきた。そろそろ帰ってもいいだろうか。
「ぬえ、アリスさんはもう帰ってしまわれたの?」
「あ、うん。引き留める暇も隙も無かった」
「そう、残念ね。積もる話がありましたのに」
だからさっさと帰ったんだろうなぁ。手紙の内容はWiiとそのアリスと言う少女に関することが大半らしく(極めてプライベートな情報に触れられていたので、内容は割愛する)、話題は消えた宝塔へと移った。
「――まあ、地底にですか」
「その可能性が高いということです。私がもっとしっかりしていさえすれば……」
「過ぎたことを悔やんでも仕様がありません。賊の正体に心当たりは?」
「それが……。実は昨日の夜半、不自然な気配に気付いて飛び起きたことがあったのです。室内には影も形も無かったのですが、戸に僅かな隙間が……。思えば誰かの声を聞いたような記憶もあります。あの時もっと注意していれば――」
「ならば、私が犯人かもしれないよ」
私の冗談めかした言葉に、二人はきょとんと振り向いた。
「ほら、私って毎日夜更かししてるし、星の認識を誤魔化すことぐらい訳無いわ」
「何か証拠はあるのですか?」
「ふえ?」
「貴方が盗んだという証拠です」
「……そりゃ、無いけどさ」
白蓮の真摯な眼差しに居たたまれなくなり、私は口をへの字にして目を逸らした。ちょっとした冗句のつもりだったのに、まるでつまみ食いを見付かった子供のように情けなくなる。
「そうですか、安心しました」
「どちらにせよ、内部の者の犯行とは思えません。宝塔を盗むような性根も、それを地下深くに置いてくる理由も術(すべ)もも無いでしょう。朝食には皆顔を出していましたし」
「でも、宝塔って結構な価値があるんでしょ。それだけで拝借してみたくならない?」
「金銀の重さで量れる価値ではありませんよ。ともあれ、大事(おおごと)になる前に対策を講じませんと」
「今晩は里の皆様にご招待を受けていますから、明日までに意見を纏めておくことにしましょう。ぬえも協力してくれる?」
「協力って、何をしろと」
「貴方が自ら考えて動いてくれれば、それで構いませんよ」
「んな、投げ遣りな……」
結局、部屋を退出するその間際まで、白蓮はじっと私の目を見詰めていた。どうもあの瞳は苦手で困る。私の正体を見極めようとするその輝きは……、苦手以上に、恐ろしい。
彼女はああ見えて、案外残酷な性格なのではないだろうか。そう漠然とした感慨を抱きながら、私は後ろ手に戸を閉めた。お腹の中にごわごわとした膜が張っているような感覚がある。ややもすれば、本当に体調を悪くしてしまったかもしれない。
※
「協力って言われてもねぇ……」
どちらかと言うと、私は他の皆が楽しくしているのをぶち壊しにして楽しむ性格なのだ。自慢じゃないが、他人と協調して何事かを成し遂げたことなど一度もない。場を引っ掻き回せと頼まれれば、幾らでも大暴れできるのだが。
命蓮寺の屋根――聖輦船における甲板部分に寝っ転がって見上げる空には、とうに星々が瞬いている(虎柄でない)。新入りが手伝えるような雑務は午前中に終わってしまった。他の宗徒に混じって仏道修行に入れ込む身でもなし、自分で勉強するような気概も無い。ムラサは他数名の妖怪と連れ立って人里へ買い物に出掛けてしまった。お腹の異和感から昼食を摂る気にもならず、ここで風に当たっていたのだ。
自室に籠もっていても退屈なだけ。不調は治ったものの、夕餉に顔を出す気分でもなかった(何度でも言わせてもらうが、精進料理で私の腹は膨らまない)。落日の茜色が大空を一撫でし、遅れて紺色が染み渡る様を自堕落に眺めるのは、今日が初めてではない。
宝塔の一件に関して。漏れ聞こえてきた声によれば、明日星とナズーリン、そして地底経験のある妖怪とで――封印を免れた宗徒もまた存在したのだ――旧都へと赴くらしい。私も志願してみようかしら。久方振りに羽根を伸ばせる良い機会かもしれない。
「また邪魔になっちゃうかな。――それと、闇に乗じて妖怪を驚かそうとしても無駄だと思うよ」
「ぎくっ。……むぅ、折角里でこんにゃく買ってきたのにぃ」
抜き足差し足で近付いてきていた小傘は、むくれた表情で私を覗き込んだ。
「人間を怖がらせるにはお饅頭じゃなきゃね」
「お饅頭?」
「ここらで一杯のお茶が怖い。ちなみに私は半熟のゆで卵が怖いわ。山盛りくれたら驚いてあげちゃう」
「あー、確かに気持が悪いよねぇ。なんか中途半端な感じでさ」
分かってないな、その中途半端さが良いのに。
「白身は半透明でぷるぷる。黄金色の黄身がどろっと垂れてくるのが良いんじゃないの!」
「やっぱり卵は目玉焼きで決まり! ここ座っていい?」
「あッちょっと待って痛たたたたた痛い痛い!」
思い切りよくお尻を下ろされた下敷きに、私の背中から生える器官が潰されていた。
「おおう、ご免なすって。てっきり飾りみたいなもんかと」
「しっかり神経通ってんの! あんたの悪趣味な傘と一緒にしないで」
「え? わちきの傘はこれ一本だけよ?」
「まさにその傘が気色悪い。つまりあんたが悪趣味だ!」
「えええ? 他に誰も居ないみたいだけどー……。怖いわねぇ」
ああ、この化け傘泣かせたい。
「て言うかー、その背中から飛び出してるのは何物なの」
「これ? 何でもないわ」
「はてな、禅問答のつもり?」
文字通りの意味である。他のどの生物の器官にも似ているようで似ていないこれらは、鵺の正体不明性の発露なのだ。しかし赤いのだの青いのだの呼んでいると不便なので、便宜的に“翅(はね)”“鰭(ひれ)”と呼称していた。“棘(とげ)”と“蔦(つた)”は、普段は邪魔になるため体内に仕舞い込んである。あくまでも一時的な名付けなので、飽きたらまた新しい名前を考えなければなるまい。
「時代は横文字。“バジリスクウィング”なんてどうかな」
「だっさーい」
「近う寄れ、その生意気な舌を引っこ抜いてやる」
潰されてしまった“鰭”を労わるように舐めていると、憎きお尻の持ち主が立ち上がり、門の方に目を凝らす。
「あー、帰ってきた」
「誰が? ――ああ」
そう言えば、里の重鎮にお呼ばれしてたんだっけ。立ち上がって背伸びをしてみると、丁度白蓮と星が妖怪達に迎えられているところだった。心なしか、皆の様子がおかしいように見える……。
ほけーっと突っ立っている小傘を残して屋根から飛び降りてみると、戸惑いと緊張が空気を通して伝わってきた。
神妙な一輪の手前に帰還した二人。その内、星は明らかに怒気を発散させていた。彼女が怒りを露わにしている場面を見たのはこれが初めてだったが、顔立ちといい衣装といい整っているだけに迫力がある。玄関には心配顔のムラサが立ち、他の妖怪達も何事かと囁きを交わし合っている。白蓮だけは普段通りの落ち着いた佇まいを保っているが、よく見れば、誰とも目を合わせようとしていなかった。
「ムラサ、どうしたの?」
「分からない。でも――」
「決裂、かな」
どこかで誰かが呟いた。星は憤懣(ふんまん)やる方ない様子で口を開く。
「人間達の態度と来たら! あれでは聖を封印した者達と同じではないですか!」
「星、少し落ち着きなさい」
「しかし、言うに事欠いて詐欺師などと……! 無礼にも程があります!」
「少し己を省みることです。仏の顔もサンドバッグと言いますよ。間違った用法であることは百も承知ですが、私は自分が御仏より温和だとは思っていません。怒りには、また別の出番があるでしょう」
「仏の顔も三度、ですね。正しくは」
そりゃ仏様もぶちキレる。星の訂正は場違いに的確だった。
しかし、やっとこさ私にも事情が呑み込めてきた。招待された人里の席で一悶着あったのだろう。一輪達は僅かに褪せた顔色で二人を見遣りつつ、踏み込むことを躊躇っている。他の妖怪達も動揺した様子だったが、騒ぎ立てる者は一人も居なかった。温和な毘沙門天の弟子の滅多に見せない態度が、妖怪達に口を挟ませないのだ。夜闇に敏い私は、彼女の声音に一抹の無理を察する。
一方、主人の方へ顔を向けようともしていないナズーリンを発見し、ムラサが丁寧に、しかし切羽詰まった調子で問うた。
「ナズーリン、事情を知っているんですか?」
「直接嗅ぎ付けてはいないよ。子ネズミを一匹潜り込ませておいてはいたが」
「簡潔にお願いします」
「聖が一席ぶったところに一部の人間が噛み付き、座はそのまま解散さ。私に言わせれば、どっちも過敏に反応し過ぎだろうがね」
「それじゃちっとも分かりません!」
「ふぅ。君が簡潔にと言ったんじゃないか。争点は自ずと想像が付くだろう?」
「なっ、あんたねぇ――」
醒めた態度を崩さない鼠妖怪に、船幽霊が語気を強めかけたその時、状況の俯瞰に努めていた入道使いが呟く。
「ええ、雲山。どうやらお客様のようね。場合によっては、歓迎すべからざる……」
入道が表情を険しくする方角に、飛来する一番(ひとつがい)の翼が霍然と広がった。夜目にこそ眩しいそれは燃え盛る炎で織られていて、根元には人間大のシルエット。さらに目を凝らせば、翼を先導するようにもう一体の人影が空を飛んでいる。
山門の向こうに降り立ったその人物は、儀式じみて仰々しい帽子を被っていた。理知的な瞳の印象に違(たが)わず落ち着いた、しかし断固とした口調で、立ち塞がる一輪達越しに尼僧の背中へ声を掛ける。
「私は上白沢慧音と申します。白蓮殿にお目通り願いたい。先の一件について、お耳に入れておいていただきたい話があるのです……」
※
訳有りらしい来客によって、張り詰めた空気は寺院の中へ持ち込まれることとなった。膳が全て片付けられたお陰で余計に広々とした、薄明かりが陰影を強調する座敷。その一番奥に白蓮が座り、隣に星が腰を下ろす。虎柄の少女は、先程の態度が嘘のように落ち着いた立ち居振る舞いだった。慧音と名乗った人物も、寒々とした空間を挟んで広間の反対側に正座している。もう一人、炎の翼が印象的だった少女は名乗りも座りもせずに隅の柱へ寄り掛かり、遠巻きに見守る妖怪達を油断無い目付きで見返しながら、無言の圧力を放っていた。
皆が不安げな面持ちの中、私は隣のナズーリンへ小さく耳打ちする。
「あんた、どうせあの二人のことも調べ上げてるんでしょ?」
「ああ、通り一遍の知識ならね。上白沢は人里に住む歴史家だ。血の半分に呪いを受けているが、里の人間からの信頼は厚い。それとこっちを睨んできたのが――おお、怖い――藤原妹紅。凄腕の妖怪退治人だと聞いている。あの姿のまま少なくとも三百年は生きている人間だ。実力は推して知るべし」
「三百年って、本当に人間?」
「それは呼ぶ者によるだろうね」
言われてみれば、光沢の薄い白髪(はくはつ)を垂らす立ち姿には外見年齢不相応の貫録がある。慧音の護衛として付いているのであれば、先の炎は我々に対する実力の顕示か。
口火を切ったのは里の歴史家だった。
「最初に申し上げておきますが、私は詫びを入れるために参ったのではありません。自分は一介の歴史家に過ぎず、里人の意見を代表するような器でもない」
「それなのに、貴方はわざわざ来て下さったのですね」
白蓮の静かな応答に、慧音は一つ溜息を漏らした。
「酒の席とはいえ、彼らの貴方方(がた)に対する言葉は乱暴に過ぎた。頭を冷やし反省して然るべきでしょう。ですが、どうして彼らがああも憤ったのか、見当が付いておいでですか?」
「かつて、同じような罵言を頂戴したことがありました。仏門にありながら邪法を修め、己の欲のために用いたと。妖怪退治を謳いながら陰でそれらを助け、人に仇なす者を救ったと。……聖者の顔を騙りながら、化け物の首領に成り下がったと」
感情を押し殺したような語り口に歴史家はじっと耳を傾け、沈鬱な面持ちになる。
「……実は不躾ながら、あらかじめ貴方方の身の上を調査させていただきました。概要に過ぎないとはいえ、無遠慮を謝しましょう」
「お気になさらないで下さい。降って湧いたような集団が民の歓心を集めたともなれば、識者が正体を危ぶむのは当然のことです。今夜の席も一つはそのために――私共の品定めを期して設けられたのでしょう?」
「否定することはできません。ですが、純粋な歓待の意があったことも、お心に留めておいていただきたい」
慧音のいかにも誠実な言葉に、白蓮はやや睫毛を伏せる。
「彼らを責めるつもりはありません。全ては己の不徳がいたすところ。皆様の振る舞いもまた、私の未熟さ故のことなのです。むしろ率直な胸の内を語っていただいてありがたいくらいですよ。……とは申し上げましても、簡単に考えを改めるつもりはありませんが」
「声の大きい者達の言葉を里の総意と取られても困ります。しかし率直に申し上げて、里の人間達が全面的に貴方の理想へ賛同するとは思えません。私もまた、その理想を受け入れようとは思わない」
「それでも――」
「お待ち下さい。そもそも貴方は、大きな勘違いをなさっているのではないでしょうか」
強まりかけた尼僧の語調は、あくまでも静かに断ち切られる。
「人間と妖怪が平等に共存し、助け合う密厳の世。それが尊い考え方であることは確かでしょう。私にも頭ごなしに否定することはできない。かつて貴方を弾劾した人々より、いっそこの里の者達の方が理解を持っているはずです。現に里の人間は妖魅妖魔を隣人として受け入れ、心ある妖怪には胸襟を開きます。中でも徳の高い者には、それが人外の存在であろうと敬意を払うことを欠かさないでしょう。貴院が虐げられてきた妖怪を救うと仰るのなら、少なくとも私は邪魔立てはいたしません。それが、今宵の内に伝えたかったことの第一です」
「では――」
「しかし、人間と妖怪は対立するものであると定められた前提を譲ることはできません。妖が人を喰らい、人は妖を討つ。それが幻想郷の大原則なのですから」
集まる視線を物ともせず、歴史家は滔々と語り続けた。妖怪退治屋が、どこか気まずげに白髪を弄ぶ。ナズーリンは他でもない、虎柄の主の表情を瞬き一つせず見詰めていた。もしかしたら、この場で一番客観的なのは私なのかもしれない。人事とも言う。
「この里の由来をご存知ですか? 幻想郷は、遥か古来より妖異奇怪の集う郷として知られていました。その妖怪達が降りてきて人々を脅(おびや)かさぬよう見張るため、誰に命じられるともなく結集した勇敢な者達、里の人々はその末裔です。怪異と対等に渡り合う異能の者は、ともすれば怪異に近しい存在と判断されたのでしょう。私のような半妖や、まつろわぬ者の血筋、故郷を逐われた罪人や異端達の流入する先でもありましたから。妖と共に大結界で封じられ、それでも人間は妖怪と争いを繰り広げてきました。昨今でこそ暴力は緩やかになり、妖怪退治を専門とする門戸の数も減りましたが、妖異に屈しない志まで失われた訳ではありません」
「……それで、あのように」
尼僧は視線を持ち上げ、真摯な眼差しが交錯する。
「貴方の語る理想が罷り通ってしまえば、祖先代々受け継がれてきた、そして受け継いでゆくだろう彼らの誇りと存在意義を無にすることになりかねません。だとしても、先刻の的外れで無礼な発言は許容されるものではありませんが」
「いえ、私の方こそ不勉強だったようです。皆様の事情も知ろうとせず、得々と我が意ばかりを語るとは面目次第も無い」
「もう一つ問題があります。スペルカードルールという擬似的な決闘を制定してまで人間対妖怪の構図を維持することには、重要な意義があるのです。歴史書を紐解けば判るように、闘争こそが時代の変化を生み出す原動力。人間は妖怪の圧倒的な力に対抗するため知恵を絞り技を磨き、妖怪もまた後れを取らぬよう己の有り様を研鑽します。貴方の語る通り、誰にでも平等で弱者が虐げられることのない世界が生まれれば、向上心は失われ、停滞と衰退がこの郷を覆ってしまわないとも限らない……。極論は承知の上ですが、これが私の、貴方の理想を支持できない理由です」
「畢竟(ひっきょう)、私はどこまでも浅はかだったようですね。寺に居た頃と変わらないのは、自分も同じか……。しかし、道が険しいのは覚悟の上。私は己の考えを貫くつもりです」
「――あんたらさ、単に良い子ぶってるだけじゃないの?」
これまで口を開くことが無かった妹紅の第一声に、場の氷点がぐんと下がった。同じく黙って話を聞いていた星が硬い瞳を向ける。
「それは、どういう意味ですか?」
「私にゃ人間と妖怪の平等なんざどうでもいいが、そのすかした態度が気に食わない。率直な意見が聞けてどうのこうのって言ってたけど、あんたらこそ本音で語っているのかしら?」
「聖が虚言を弄しているとでも?」
「私の崇高な思想は理解を得られなくて当然なんだ、ってさっきから聞こえるのよ。対話をしようとしてないのはどっち? 物分かりだけいい振りしなさんな」
「おい、妹紅。らしくないぞ」
制止の声も意に介さず、妖怪退治屋は不機嫌そうに二人を睨む。虎柄の少女は唇を引き結んで何も言い返さない。
「私はね、あんたらみたいな聖人君子もどきを見てると虫酸が走るんだ。覚悟の底が見え透いてるったら。何千何百年と殺し合いを続けてきた同士が説法一つで握手できりゃ、誰も苦労はしないんだ」
「妹紅、いい加減に――」
「慧音はお行儀が良過ぎるの。妖怪だろうが絶滅危惧種だろうが、ぶつぶつ言い訳せずに勝手に救ってればいいじゃない。そこに正義だの悪だの持ち込んでくるから耳障り――」
「妹紅――!」
「ちょっ待っ慧っがふっ」
すっくと立ち上がった慧音が、妹紅の肩を掴んで思いっきり頭同士をぶつけあう光景を、誰しも唖然として見守る他なかった。
「妹紅っ!」
制裁はそれだけに留まらない。柱に向かって突き飛ばし、跳ね返ってきた顎に掬い上げるような一撃(2hit)。さらに垂直に跳び上がり、ふらついた相手へ重力を威力にした額(ひたい)を浴びせる(3hit!)。流れるような頭突きの連続に、さしもの不老者もノックアウトされたようだった。
「妹紅、何をやっているんだ!」
お前は何をやっているんだ。どさりと倒れ伏す妖怪退治屋。流石に引いている周囲を見渡し、慧音は頭を掻く。
「その……、恥ずかしいところをお見せしてしまいました。こいつも普段は思慮深いのですが、トラウマの数は他の追随を許さないもので……。今宵は、これにて失礼いたします。突然押し掛けた上にこの有様で、面目無い」
「滅相もありません。本当に、お二人のような方々がいらしてくれて有難いことだと思っていますよ」
「いずれ、機会があったら私の家にいらして下さい。我々には、もっと互いに得るものがあるはずです」
命蓮寺一同に見送られ、二人の来客は(片方は気絶していたが)夜道を帰途に就いた。思い詰めたような白蓮の横顔に、私が掛ける言葉は無い。
※
そのまま寝床に戻る気分にもなれず、私はまたお寺の屋根をぶらついていた。余談だが、私は屋根と呼ぶより甲板と呼んだ方が好きである。少しだけ、夜空を飛んでいる気分に浸れるからだ。
早く寝ないとまた朝寝坊してしまいそうではあるが、そうそう昼夜逆転の生活に馴染めるはずもない。空の鳥、夜の鳥と書いて鵺と読む。封獣ぬえは夜空を飛んでなんぼなのである。
「私は、狼狽する人間を見物するために空を飛ぶけど――」
空、特に夜空が人間達の空想に与えてきた影響は計り知れないだろう。小高い丘の上に登れば大地の様子は一変するが、星の模様が変わることはない。雲より高い山に登ったとしても、人の身で星に手が届くことは叶わない。母なる海と陸とを見下ろす夜空の星は、昼の太陽とは別の意味で絶対的な存在だ。
だから人々は天空を神々の住処とし、あるいは死者の国とした。憧れと畏怖が天蓋に描く幻想から数多の怪物が生まれ落ち、地の底や水平線の向こうと同様に、大空は人の立ち入りが許された領域ではなかった。
だが、人は指を咥えて諦めることをよしとしない生き物だ。空に果てが無いのと同様、彼らの欲望に際限は無く。
「――人間は、星を掴むために空を飛ぶのか」
人が誰でも空を自由に飛ぶ術を開発した時、空に対する畏怖は失われるだろう。学者達が夜空に鏤められた神話の正体を暴くなら、そこは神も妖怪も棲むことができない不毛の土地と化すだろう。
あの風祝は私のことを星々を渡るエイリアンと称したが、精々暗雲を纏って飛ぶような航空高度の妖怪でしかない。故に、かつては正体が見破られないよう細心の注意を払ってきたのだ。
彼女の居た“外”では鵺なんてお茶の間の話題として焼き菓子の如く消費されるだけなのかもしれないが、そうそう簡単に夜の空を諦めてなるものか。とはいえ、世界を変えることと自分が変わること、その難しさの違いを、私は最近になって意識し始めたばかりなのである。
「おや、まだ起きていたのですか?」
「……、それはこっちの台詞よ、白蓮」
夜の散歩で出会した相手は意外な人物だった。確か、健康増進のためにも早寝早起きは欠かさないとか言ってなかったっけ。
「まだまだ、健全な妖怪が床に就く時間じゃあない」
「私もどちらかといえば不健全な人間なので。一緒にいい?」
向かい合っているよりは隣の方がいくらかマシだ。首肯して、のんびりとした彼女の歩調に合わせる。私が黙り込んでいると、向こうから話題を振ってきた。
「貴方、これまでに人間に退治されたことは?」
「藪から棒に失礼ね。……まあ、ほとんど無いけど」
「鵺の出没談は昔からよく伝え聞いていて、気になっていたのです」
「あんなの大半は嘘っぱちよ。伝えられている私の姿は、人間共の想像力の産物。退治されたって言うのはきっと他の怪物が間違えられたのか、手柄欲しさのでっち上げね。ひょっとすると、私以外にも鵺的妖怪が居たのかも。確認しようと思ったことは無いけどー」
まあ、実は一度だけ本気で痛い目を見たことがあるのだが。あいつだって可憐な女の子よりも世にもおぞましい化け物を射落としたと報告した方がウケが良かったに違いない。ノーカウントである。でも、子孫を見付けたら祟ってやろうっと。
「そんなことより、白蓮って封印されている間何をしてたの?」
「外界との接触は制限されていましたので、普段は一人で体と精神を鍛えていました。魔界の住人――『あの方』とそのご家族が面談に訪れることも稀にありましたが」
「えー……。そんな服役中の人みたいな……」
「じっとしていては健康に良い訳がありません。筋力トレーニングも、身体が衰えない程度には」
「私だったら三日で飽きるわ。坊主でもないのに」
「十年紀に開催される魔界駅伝で殿堂入りしたのは懐かしい思い出です。便宜を図っていただいた『あの方』には、到底感謝が追い付きませんね」
「……意外と充実してるじゃないか」
「健全な精神は健全な肉体に宿る。常ならざる力を行使する魔法使いたるもの、常人に勝る体力を身に付けなくては」
「魔法使いには、筋肉とは無縁でひょろっちい印象があったのに。折角魔法のメッカなんだから、魔法の修行はしなかったの?」
「それは勿論です。日々、世の中は広いと思い知らされました」
「へえ、なんか面白い魔法はあった? 地獄のたこ焼きとか」
「そうですねぇ。オワニモと言う呪術が特に印象的でした」
「なんだそれ?」
「同色の魔物を四体揃えることで時空の狭間への扉を開き、同時にエネルギーを引き出す特殊な魔法がありまして」
「……随分と限定的な魔法なのね。使い終わったら酒場でカビてそう」
「懐かしいな。全国大会では惜しくも二位でした」
「何の? ――いや、やっぱり言わなくていい」
夜空を見上げながら会話していると、すぐに屋根の縁(へり)まで辿り着いてしまった。甲板から地面へ、艦首を挟むようにして左右に架けられたタラップの一方を降りつつ、白蓮が尋ねる。
「ぬえは、長らく地底で暮らしていたのですよね」
「うん。でも、旧都の事情はムラサ達に聞いた方が早いと思うけど」
ずっと正体不明で通してきたため、私の交友関係は酷く狭い。冷やかしより深く面識があるのはムラサ達を他に四五人くらいのものか。彼女達が住んでいたのは旧都の郊外も端であり、私の塒(ねぐら)はさらなる外縁、人家も見当たらない荒れ地だった。
それでも、空が見えない点を除けば地底の生活は悪くなかった。人間ばかりか人外にも嫌われた妖怪が追いやられた場所柄、大抵の者は他人を深く詮索しようとしない(ムラサ達は例外で、私は辟易させられたものだ)。正体不明には過ごしやすい所なのだ。
自分の理解できない者を遠ざけるのは人間だけではない。他のどんな生物にも器物にも似ていない外面の私は、元々他の人外にすら敬遠されていた身だ。友達が居ないのは鵺の勲章である。
「地霊殿、と言う施設は知っているでしょう。怨霊を管理している」
「そりゃ、地底で地霊殿を知らない奴はモグリさ」
「一輪から聞き及んでいます。そこには心を読む妖怪、覚が住んでいると」
「会ったことは無い。……噂ぐらいなら」
陰気かつ陽気な妖怪達が群れ集う旧都にすら近付かない私が、その奥地にある地霊殿に近寄るはずも無い。いいや、頼まれたってお断りだ。
――覚、妖怪に最も忌み嫌われた妖怪にしてあらゆる魑魅魍魎の天敵。爪も牙も持たない彼女はその一睨みで心を透かす。眼で殺す。精神を自身の核とする妖怪にとって、読心能力は心臓を外気へ剥き出しにさせられるようなものだ。際者(きわもの)揃いの地底の住人にすら地霊殿を忌避する者は多く、旧都を牛耳る鬼達でさえ、よほどのことがない限り御殿とその住人に手を出そうとはしない。文字通り、『睨みを効かせている』訳だ。
しかし私の知る限り、彼女が市井に口を出してきた例も無い。あくまでも、恐怖によって無用な騒乱をあらかじめ抑止する役目を果たしているのだろう。
「正体不明がモットーの私にとっては、生きた悪夢のような奴よ。できれば一生関わりたくないわ」
「成程。やはり恐ろしい方なのですね」
「ぬ、鵺だっておっかないわよ~? そうそう、明日星が地底に乗り込むんでしょ。私も一緒に行っていいよね」
「あら、丁度良かったわ。ぬえにも付いて来てもらおうと思っていたところなのです」
「付いて『来て』? 白蓮も行くつもりなの?」
「星やムラサには反対されてしまいましたが。救うべき妖怪が多過ぎてノイローゼになると」
「ああ、言わば最前線に派遣されたランプの貴婦人ね……。どんな超人よ」
「安心して下さい。走って赴く訳ではありません」
「誰もそんな心配はしていない。でも、宝塔のためにお寺の首領まで動く必要があるの?」
「賊の正体如何(いかん)で、あるいは」
再び沈黙が降りる。今更ながら、白蓮の唐突な質問が気になった。私の退治された経験なんて、訊いてどうするというのだろうか。蒸し返したくない話題だが、誤解されるのも気分が悪い。
「……同情するつもりなら、迷惑以下だ」
「いいえ。そんなつもりは」
「個人的な恨みはあるにしても、ある意味納得はしてるわ。妖怪は人間に討ち取られるもの、あの歴史家のご高説通り、それが自然の摂理って奴よ。蜘蛛が蝶々を喰い殺すように。蜘蛛も食べなければ死んでしまうように。私は、そう考えてる」
「……自然の摂理、絶対不変の法、か。色即是空、空即是色」
「は?」
「私に、皆に敬われる資格などないのかもしれません。この執着は、空(くう)へ至るに程遠い」
星空を仰ぐ瞳に無数の瞬きを映して、尼公はそれ以上詳しくは語らなかった。私は彼女の隣を歩きながら、後ろ手に“翅”と“鰭”を絡み合わせ、そっと面差しを俯ける。お腹の底に溜まった“もやもや”が、やけに重く感じられた。
※
「毘沙門天体操第一ぃ、始めっ」
まだ日も昇り切らない早朝。命蓮寺の面々は薄明るい庭に整列し、毘沙門天先生こと寅丸星の号令に合わせて徒手体操を行なっていた。
「腕を元気良く上げてぇー、法の光で世界を照らす運動! しち、はちっ」
叩き起こされて眠気の醒めやらない私も、列の一番端っこで欠伸を噛み殺していた。壇上でお手本となっている虎柄の動きに合わせ、思いっきり伸びをする。朝の爽やかな大気の中、凝り固まった筋肉が解(ほぐ)されてゆく感覚は案外気持が良いものだ。
「宝棒を振るい仏敵を打ち祓う運動! 強くっ、早くっ、しなやかにぃーっ」
何でも、毘沙門天の威光を学ぶと共に健康増進を図ることができる画期的な運動らしい。四天王はいつから体操のお兄さんになったんだ。ともあれ、体操着姿の毘沙門天さんは生き生きしていた。
「怯むことなく三毒を見据えましょう。オン、ベイシラっ、マンダヤ、ソワカーっ!」
……仏教のなんたるかが段々判らなくなってくるのは私の修行が足りないからだろう。そわかーっ。
「――おぉーきく悟りを開いて深呼吸ぅー。いざぁ――南無三」
運動自体は単純なので、私でも最後まで付いてゆくことができた。おお、なんだか心身共にすっきりさっぱりしたような気がする。これが毘沙門天のご加護って奴なのかしら。
体操が終わった後は星のありがたーい訓示を拝聴する(あるいは聞き流す)のが宗徒達の日課だったが、今朝は代わりにムラサが壇上に立った。珍しい――と言い切れないほど、私の欠席率は高い。
「えー、今日は朝食の後、皆で出航の準備をします」
「……? 出航? 船の?」
「はい、午前中には離陸したいので。忙しくなるとは思いますが、各自早めに自分の作業を終えること。特に機関員、二つ喚鐘が鳴ったら直(ただ)ちに機関室へ集合して」
白蓮はとっておきのカードを切ったのだ。聖輦船に乗って赴くと言えば、船を飛ばしたくて内心うずうずしていたムラサは一も二も無いし、全員で乗り込むとなれば星も強くは言えまい。多少彼女らしからぬ強引さを感じないでもないが、きっと自分達には思い至らない深い考えがあるのだろう、――と、妖怪達は思うはずだ。
「でも、こんな大きな建物が地下に潜れるのかな」
「聖輦船はこれでも小回りが利くものなのよ。まあ、いざとなったら私と雲山が物理的に道を拓くまで」
「その豪快さは海賊の域じゃない?」
「――外装担当は一輪の指示をよく聞いて動いて下さい。遊覧船として回遊していた時とはかなり仕様を変えるつもりなので、その点戸惑わないように。少しでも疑問があったらベテランの乗組員へホウレンソウを欠かさないこと。安全第一を心掛け、楽しい航海にしましょう!」
『おーっ!』
瞳をきらっきらさせて指示を出されると否が応にも志気が上がるらしい。他の宗徒達も意気軒昂な様子で、十数人分の突き上げられた拳が場を締める。
どうもこういった盛り上がり方は苦手だ。周囲が一致団結して事に当たっていると、つい天邪鬼に反応してしまう。壇上から降りたムラサは、真っ先に白蓮の元へぱたぱたと走り寄り、何やら話込んでいた。そのはしゃぎ様から空元気を連想するのは考え過ぎか。他にも数人の妖怪達に囲まれて、尼僧の笑顔に昨夜の陰りは見当たらない。
ぽつんと離れている私を見かねたのだろうか。歩み寄ってきた一輪が、一拍置いて両手を腰に当てる。
「そら、ぼさっとしてる暇は無いわよ。特に使いっ走りの小僧にはね。……働かざる者食うべからず。雑用なら山ほどあるから、あんたも食い逸(はぐ)れる心配は無いと言う訳」
少女の隣で入道がむっつりと頷く。不承不承首を縦に振ってみせて、私は二人に背を向けた。
朝食もそこそこに(南無三斉唱を警戒したが、何事も無くてほっとしたやら寂しいやら)終えると、早速宗徒達は各々の分担をこなし始めた。離陸するための外付けに関する作業は勿論、久し振りの飛行と言うことで、調度類や仏像が揺れで倒れないよう固定したり、不慮の事故に繋がらないよう日用品を整理したりと大わらわだ。
ムラサと白蓮は船の心臓部で調整中。専門知識を持たない私は、指図されるがままに荷物や伝言を抱えて乗組員たちの間を飛び回ることになる。普段なら仕事を覚えさせるという名目で種々の手伝いをさせられているところだが、今日ばかりはその余裕も無いらしい。
ようよう雑用が一段落した私は、暇を見て人気の無い寺の裏庭をぶらぶらしていた。朝は問題無かった例の違和感がぶり返し、窮屈な通路を動き回っていたのが原因で、風に当たっていれば治まるだろうと考えてのことである。船体をそのまま寺院として利用している都合上、一般的なお寺と違って各施設が一つ所に纏まっているため、庭と言っても藪だらけの簡素なものだったが。
「おう、丁度良いところに居やがった」
聞き覚えのある声がした方向を確かめてみれば、見覚えのない風体の少女が木立を抜けてくるところだった。波打つ暗色の髪に、生成りのワンピース。肩から提げた巨大な鞄を除けば、純朴な村娘といった出で立ちだ。
「おっと、他の連中は呼ばないどくれよ。見た目ほど怪しい者じゃない」
人目を忍んでか妖怪寺の裏口を訪れ、白昼とはいえ明らかに人でない自分へ声を掛けるにしては、やけに気安い調子である。見た目以前に行動が怪しすぎた。
「あんた、誰?」
「おん? 忘れたとは言わせないぜ」
ふてぶてしくにやつかれ、私は不意にその人物の正体へ思い至る。
「霧雨魔理沙……? 冗談としても微妙な格好ね」
「こいつか? 魔法で色を変えてみたんだよ。明日明後日で元に戻る」
そう言って、魔理沙は普段の金髪とは程遠い色の髪に手櫛を入れてみせた。私が気になったのは服装の方なのだが。例の白黒衣装にとんがり帽子と言う魔法少女ルックの印象が強すぎて、なかなか顔形に気が回らなかった。
「なあに、宗旨替えでもしたの?」
「いんや、朝市にどうしても外せない用事があってだな」
「狐狸の類が化けて出るならまだしも、あんた里の出身だって言ってなかったっけ。どうして変装する必要があるのさ」
「ん。……なんて言えばいいか」
魔理沙のにやにや笑いに苦いものが混じる。どうも、強いて軽く振舞っている気配がした。小娘一人で魔法の森に暮らしている事情と結び付けるのは、ちと勘繰りが過ぎるだろうか。無粋を承知で突っ込んでみる。
「帰っても敷居を跨がせてもらえないとか? それとも決まりが悪い?」
「決まりが悪いどころの話じゃない。店の若い衆に見付かったら、物理的に連れ戻されるぜ。首に縄を括り付けられて」
「……いくら何でもそこまでする?」
「この私の実家だからなー」
親子だの兄弟だのの係累と無縁な私では、その手の機微を察しようがない。第一人間社会とやらが複雑過ぎるのだ。やれ恋の駆け引きだ、やれ位階争いだに憂き身を窶(やつ)す連中は、ともすれば鵺妖怪より理解不能である。もっと単純に生きられないのかしらと、しがらみを持ち合わせない鵺妖怪は無責任に感想を述べたのだった。
「まぁいいや。何しにここに来たの? 白蓮に用事?」
「まさかこの格好で飛んで帰る訳にもいかん。ちょいと空き部屋を貸してもらおうと思ったんだ」
中にトレードカラーの服が仕舞われているのだろう、ひょいと魔法使いは鞄を持ち上げてみせる。野外で着替えたりしないだけの恥じらいは持ち合わせているようだ。私としても、無下に断る理由は無いが。
「見逃してくれよ。お前と私の仲だろう?」
「どんな仲だ。まあ私は門番じゃないし。でもさぁ、こそこそしなくたって最初から白蓮に言えば良かったのに。あいつなら、頼まれなくたって自分の部屋を貸してくれそう」
「見せびらかすような格好じゃないだろうが」
「あら、とっても似合ってると思うよ、その一式」
「うぅ、こいつは魔法使いの沽券に係わる問題でなぁ」
頬に暁を散らして少女は唸る。恥ずかしがるその気持に共感できるからこそ、私の追及は意地悪だった。
「はは、うそうそ。黙っててあげるわよ。……そうだ、箒はどこに置いてるの?」
「実は朝方も裏口を使わせてもらってて、箒は更衣室に置きっぱなしだ。その時は誰とも鉢合わせなかったが」
私の脳裏に消えた宝塔の影が過(よぎ)った。この寺の警備体制はどうなっているのだろう。
……待てよ。箒を置いて出たのなら、家から着て来た魔法使いルックも一緒に置いて行っても構わないはずだ。ならば今鞄に入っているのは何だろう? 市で求めた品物か。よもや、これから中身が入るのではあるまいな。
私が疑問を口にするよりも早く、魔理沙が質問を返してくる。
「お前こそ、こんな所で何してたんだ?」
「私? サボってなんかいないよー」
「にしちゃあ、朝は忙しそうな気配がしてたけど。イベントでもやるのかね?」
「行事って訳でもない。ま、下手に首突っ込んで邪魔しちゃ悪いしね。自主的に休憩してた」
「ふうん」
注意散漫気味に魔法使いは唸り、帽子を被っていない頭を撫でた。神や妖怪とも対等に渡り合うこの少女が苦手意識を持つとは、実家とやらは相当おっかないところなのだろう。
「ところであんた、私のこと怖いと思う?」
「いや別に」
「即答とか……」
「驚異的っちゃ驚異だが、もっと手強い連中ならぞろぞろ居るしなぁ。ぶっとばしてどうにかできるもんなんて怖かないさ。その上まだ明るい時分から腐ってやがる。正体不明の看板はもう仕舞いかえ?」
「そうなるかもね。今のままじゃ」
私の弱気に、魔理沙はちょっと目を見開いた。弁解させてもらえるならば、これは自分なりに考えた末の冷静な結論である。
かつて京の都では、いわば正体不明の一芸で身を立てていた。それがここ幻想郷において通用しない現実は、目の前の少女を始めとする人間達との戦いで身に染みている。これからも正体不明で売って行くつもりならば、もう一工夫必要ということだ。
「首を洗って待ってなよ。明日にでもぎゃふんと言わせてやる。――着替えたのってどの部屋?」
例によってがっちりとした戸を引き開けながら、私は尋ねた。入ってすぐは水密性を保つため小さな部屋となっており、もう一枚の扉を開かなければ通路の先は見通せない。船の最後部は物資の保管を用途とする部屋で占められていて、元々人通りは少なかった。
「すぐそこだぜ。物置にしか使ってないって聞いてる。埃っぽいのは我慢してやろう」
「へぇ、どうしてそんなこと詳しいの?」
「人聞きの悪いことを言うな。まるで私が家探しに這入ったことがあるみたいな口振りじゃないか」
軽薄そうに唇の端を持ち上げてみせる魔理沙。ここは一つ、鎌をかけてみて損は無いかもしれない。
「這入ったといえば、この間寺に盗人が現れたらしいの。毘沙門天的な宝塔が無くなったんですって」
「ほお、そいつは災難だったな。何の心当たりも無い私にはそれぐらいしか言えないし、先を越されたなんて思っちゃいない」
「私は毛頭あんたを疑っちゃいないし、早晩炙り出される犯人に同情もしない。ご心配には及びませんわ。命蓮寺の宝物には、残らず発信機が仕掛けられているんだから」
魔法使いが口を開くまでに、鶯一匹分の間があった。
「発信機? 今度はどんな種だ?」
「備えあれば憂い無し。私は噛ませてもらえなかったから詳しいことは知らないよ。今朝方虎が他にも紛失物が無いかどうか点検してたから、今頃鼠達が回収して回ってると思う」
「おま、本気かよ……」
「私が嘘を吐(つ)いてるとでも? 疑うなら鼠を呼んできて確認してもらってもいいわ。あんたの身の潔白は、すぐにでも証明されるでしょうから」
「はっは、大きなお世話だそして急用を思い付いた。失礼させてもらうぜ」
「待ってよ、着替えるんじゃなかったの?」
「私としたことが、ペットの餌をやり忘れていたに違いない!」
この分だと、今日が初犯と言う訳ではなさそうだ。笑顔を強張らせて私の横を追い越した少女、その背へ覆いかぶさるように、ぴたりと身体を張り付かせる。薄暗い個室で二人きり。魔理沙が幽かに声を震わせた。
「何の真似だ?」
「ふふ、なーんでもないわ」
耳元で囁いてみせて、私は身体を離す。
「“葉っぱ”がくっついてたから、取ってあげただけ。ほら」
「葉っぱ……? ああ、悪いな」
私が摘み取った“それ”を一瞥したきり、魔理沙はどたどたと寺の内部へ走っていった。“それ”――実際には折り取った指の爪の一枚を、私は床へ放り捨てる。
封獣ぬえが抱える致命的な急所。それは、定義を失わせたものが他人にどう認識されているのか、詳細を確かめることが不可能だということである。鵺妖怪最大の強みは相手の知識によって無限大の多様性を帯びることが可能な点だが、その強みが他人任せな以上、一度劣勢になってしまえば、ずるずると受け身に回らざるを得ないという短所にも転ずる。正体不明の一本槍では、いつぞやの夜のように敗北を喫してしまうだろう。
その対抗策として考えられるのが今し方の手腕である。相手の認識を上手く誘導することができれば、戦略の幅も広がるはずだ。……まだまだ研究途上もいいとこだが。
と、扉の向こうに駆け足の音が戻って来た。服はそのまま、箒を肩に担いだ魔法使いは、私の顔を見るなり鞄の中から平たい箱を取り出し、
「白蓮によろしく言っといてくれ。じゃあな!」
こちらの腕の中へ押し付けるや否や、言葉を返す暇も与えず猛然と寺を後にする。箒に跨って飛ぶ少女の背を開け放たれた外側の扉から眺め、手元の箱に視線を落とせば、里で人気がある菓子屋の包装だった。
ひょっとして、今日ばかりは普通に挨拶するつもりだったのかもしれない。多少なりとも罪悪感があった。抱き付いた時に仕込んだ悪戯の種が、必ずしも不幸の芽を出す訳ではないとしても。
「さて、もう少しで出航の時間かしら」
私も船内へ戻ろうとして、開け放したままでは不味いかと振り返る。少女の姿はもう空に無かった。帰る家が複数あることが果たして幸いなのか、やはり私には分からない。昔の自分ならこんな疑問、一笑に付してしまえるはずなのに。
扉が閉まり、私は暗い個室に取り残される。“もやもや”は消えて無くなるどころか、その容積を増しつつあった。普段は何ともないのに、一度気にし出すと憚らない。この息苦しさを一体どう解釈すべきなのか。妖怪覚なら、そのものずばりの答えを返してくれるのだろうか。
……我ながら、笑えない冗談もあったものだ。
※
菓子折りを台所の毒見したがりな妖怪達に預け、当てもなく院内をぶらついてみる。
突然地底に向かうと言い渡されて皆困惑するだろうと思っていたのだが、存外すんなりと受け入れている者が多かった。封印されていたといっても住めば都。花と言えば六花(りっか)程度しか見当たらない根の国にも、長く暮らせば愛着が湧くらしい。私にはピンと来ないが、第二の故郷と言ったところか。厨房で昼食の準備をしていた妖怪達は、久々の旧都で何を買い込むかについて盛り上がっていた。
暇潰しの種を探し歩いてみるも、また面倒な仕事を押し付けられては敵わない。出発の準備に余念が無い船員達をこっそり見物する。広間には主だった宗徒達が打ち合わせの席を設けていて、冷やかせる雰囲気ではない。元来た道を辿り直しつつ、何とは無しに耳を済ませる。
「私、物欲ってあんまり無いのよね。大抵そこらの木の枝で寝てたし。……と」
普段から使われている様子の無い部屋に何者かの気配を感じ、そっと隙間から覗きこんでみる、その眼前でがらりと戸が開いた。特に待ち構えていた訳でもない自然体で、虎柄の少女が口を開く。
「おや、誰かと思えばまたぬえでしたか。どうしてこんな所に?」
「いやー、まあ」
星の背後に目を遣れば、部屋の主題は瞭然だった。まず注目を引くのは、水晶や琥珀、瑪瑙や色硝子が加工された数珠の連なりだ。灯された明りに煌びやかなそれらの隣で、細かい装飾が施された金銀の杯盤や梵音具(ぼんおんぐ)が鈍い輝きを放っている。遠目には地味な年代物の木彫り物も、碌な鑑定眼を持たない私にだって手の込んだ品と知れた。ごちゃごちゃしている割に埃っぽさはなく、魔理沙が着替えたのとは別の倉庫のようだ。
「元々寺にあった財宝はほとんどが散逸してしまいましたが、最近また集まってくるようになったのです。放っておくとごちゃごちゃになってしまうから、そのうち目録でも作ろうかと整理していたのだけれど……。如何せん数が多くておっつかない。今回の航海では少々無茶をするかもしれないと船長も言っていたので、せめて邪魔にならないよう片付けておかなければと」
「ふーん。これだけあれば資金繰りには困らなさそうね」
「貨幣に代えるなど以っての外。これらは全て神仏を慰撫し称えるためのものなのですよ」
ついきらきらした石ころに目を奪われてしまったことを、私は後悔していた。この真面目な毘沙門天の代理は、冗談が通じないことでもよく知られている。少なくとも、窓の無い宝物庫で二人きりになりたい相手ではない。
「昨日は取り乱して申し訳ありませんでした。結局、“あれ”の正体は何だったのでしょう」
「……ああ、“あれ”のことか。知らない方が精神衛生上良いと思う」
「気になるなぁ。念のために訊いておきますが、私に“あれ”がどう見えたかについて、貴方にも伝わっているのですか?」
「ううん。知ったこっちゃない。見当は付くけど」
「むぅ、分かりました……。もし都合が悪くなければ、梱包を手伝ってはくれませんか? 私一人では到底間に合いそうになくて」
是非とも遠慮したかったものの、気の利いた言い訳が思い付かないまま室内へ招き入れられる。星は小さな仏像や装飾具を手際良く箱へと仕舞い込んでいた。真似して大皿と大皿の間に和紙を挟みつつ、こちらが一方的に気まずい沈黙を埋めようと思案する。
「昨日のアレ、本気で怒っていた訳じゃないんでしょ」
不思慮な切り出し方かと思えたが、妖怪は苦笑いで頷いた。
「ああいう事態を夢想だにしなかったとは言いません。それに、私が声を上げていなければ、聖はきっと一人で耐え忍んでしまったことでしょうから。寺の皆に、心配を掛けまいとして」
「で、最悪なのは別のルートから話が伝わった場合ね。ムラサ辺りが爆発してたら、それこそ話がこじれるだけじゃ済まない。一度出来た凝(しこり)は、簡単に溶けて無くならない」
「船長は、聖のこととなると盲目的になる嫌いがあります。無理にそれを改めるべきとも私は思いませんが。彼女の一途な想いは、聖にとって何物にも代え難い宝ですよ。多少行き過ぎな面は一輪達が上手く補佐してくれているようですし」
「一途ねぇ。分かってるよ、寺の皆が白蓮のこと大好きなのは。……あんたの場合はどうだったの?」
「へ? あの、私には毘沙門天の代理という立場が――」
荷仕舞いの手を止めないまま、星は器用にあわあわしている。
「違う。あんたも部外者として立ち会ったつもりじゃないんだろってこと」
「ああ……。正直、彼女の言葉が一番堪(こた)えましたね。歩行さんと仰いましたか」
「惜しい、のかなぁ」
「後光さんでしたっけ?」
妹紅だろ。どんだけ楽しい覚え違いをしているんだ。まあ、面白いのでわざわざ正したりはしないけど。
「確かに聖は――私は、逃げていたのかもしれませんね。どれだけ居たたまれなかったとしても、空気に流されるままあの場を立ち去るべきではなかった。もう自分の耳を塞ぐような真似はしないと、心に決めていたというのに。……ああ、愚痴のようになってしまって申し訳無い」
再び苦笑して、妖怪は一から木箱の紐を結び直す。かっちりとした結び目を確認して、今度は本物の微笑みを浮かべた。
「内緒ですよ? こんな弱気を見せていたと知られては、皆に示しがつきませんので」
約一名にはばればれのような気もしたが、これもやはり正さない。正しさの光は、私の背負う混沌と暗い溝を挟んで真向かいにある。
代わりといってはなんだが、別の話題へ水を向けることにした矢先、星の方からそれを尋ねてきた。
「ぬえ自身、どう考えているのですか? 聖の目指す、人と妖が平等に生きる世界について」
「んん、実現性は置いとくとして……。気になるのは、どうして白蓮が妖怪を救おうなんて言い出したのかよ。元は良いとこの尼さんだったんだよね。弟の方も高名な僧侶で」
人々の要請に応えて妖怪を退治する振りをしながら、実は裏で妖怪を改心させ、密かに手助けをしていた。実際に脅威は取り除かれているのだが、化け物を手懐けている裏切り者と受け取られても不思議ではない。
皆から尊敬され信頼されていただろう彼女が、何故異端の思想に走ったのだろうか。わざわざ人間達に恨まれるようなことをして、何の利益があるというのか? お坊さんが皆我欲を捨てた聖人だなんて、私は夢にも思っちゃいないのだ。
「損得の問題ではありません。虐げられし弱者を身を呈して庇うとは、そうそう真似のできない、立派な行いではありませんか」
「仏様の思し召しって奴? どうだかねー。あんたは訊いたことがあるの?」
「はて、そういえば直接伺ったことはないですね。しかし経典に照らしてみれば、民に仇なすものとして恐れられていた異形の者が仏法に帰依することも珍しい話ではないのです。今では護法善神として崇められている八部衆の夜叉や阿修羅も、元は土着の荒ぶる神々が御仏の教えに触れ、改心した者だと伝えられています」
「ああ、昨日の敵は今日の友、少年誌的な展開という訳か。専門用語を抜きに説明してくれるとありがたいわ」
怯える人間を見物することが生き甲斐とはいえ、これまで人間の文化を研究する必要に迫られたことは無かった。正直、毘沙門天が仏教の世界観でどのくらい偉いのかも判っていない。八部衆とかより上なのかしらん? といった具合だ。
「そうですねぇ……。幅広い仏教思想の一種に、悪人正機という概念があります。真剣に突き詰めていくと限(きり)が無いのですが、語弊を恐れず一片の言葉で代表させるとすれば……『善人尚以て往生を遂ぐ、況(いわん)や悪人をや』」
「それなら分かる。敢えて世間一般の常識を否定し論破することで、受け手に強いインパクトを与える論文の手法でしょう?」
「身も蓋もない言い方をしますね。文字通りの意味に捉えてもらって結構ですが、ここでの悪人とは特に己の罪深さを自覚しているの者を指します。自分の罪業を悔い真摯に善行を積む者こそ仏国土に近付くのです。本来、生きとし生ける者は生まれながらにして須く悪人なのですから。凡夫としての各々の有り様を知り、己が如来によって救済されると言う絶対的な真実を認めることによってようやく――」
「止め止め! 頭が痛くなってきたわ。相変わらず、神様仏様の教えって無駄に難解よね」
お手上げしてみせる私に、星は教師が出来の悪い教え子に向けるような、慈しみの眼差しを向ける。
「無理からぬこと。私や聖だって、日々先達の境地に一歩でも近付こうと行を積んでいるところです。慌てて全てを理解しようなどと考える必要はありません。ただ、問答することを怠ってはいけない。御仏のお教えを疑わず瞑想することと、目を閉じて現実を見ようとしないことは違います」
「はぁ……」
「念仏を唱えて縋る者一切を、御仏は平等に救済なさるでしょう。しかしその事実は、自分さえ救われればそれで良いと割り切られてしまいかねない。もしより多くの者が救われるよう願うならば、自ら考え行動しようとしなければいけません。人は誰しも己一人で生きているのではないのですから」
自分の胸に手を当てて言葉を切り、少女は穏やかに目尻を下げる。私は、たまたま手に持っていた銅鏡に視線を落とした。愛想の無い少女の顔が、鈍く掠(かす)れて映り込んでいる。
「で、私は具体的に何をすればいいの?」
「最初は形から入ってみればどうですか? 強いて自分に苦行を課すことはありません。毎日の勤めを欠かさず行うようにすれば、自ずと課題は見えてくるもの」
「うう、どいつもこいつも最終的な結論は同じなのね。要は仕事をサボるなって言いたいんでしょ」
「自覚があるのは良い傾向ですよ?」
笑って片目を閉じる星。このままお説教に突入するのかと危ぶまれたその時、寺の敷地を漏らさない喚鐘の音が連続して響き渡った。作業の中断を告げ、虎柄の少女が立ち上がって背伸びをする。そこかしこに散らばっていた財宝は、見違えてまとまりを成していた。
「離陸の準備が整ったようですね。また後ほど手伝ってくれるとありがたいのですが」
「いいよ。その代わり、ちょっと教えて欲しいことがあるの」
「貴方にもようやく向学心が芽生えてくれましたか……。と、集合の合図が掛かっていますから、今は急ぎましょう」
「じゃあ一つだけ。どうして今日は、そんな物を頭に乗っけてるの?」
「ふぇ? そんなものって……。あれっ! まさか、いつから!? うわ、なんかぷにぷにしてるし。……ひゃ、に、握り返されたー!?」
混乱する星を残し、私は部屋を後にした。敢えて何が頭上に乗っていたかは言うまい。毘沙門天の修法とは、かくも深遠なものかと考えさせられる次第である。
※
操舵室と呼ばれている部屋は、集まった妖怪達で賑々しかった。どんな理屈が働いているのか、前方の壁には寺院の外の景色が映し出されている。その手前には浮き輪大の舵輪が据え付けられているが、これといった実用性は無く、見立てとしての補助器具に過ぎないらしい。決して狭い空間ではないものの、寺住まいのほぼ全員が揃っているとなると流石に手狭である。その一員にやたらハイセンスな茄子色を見掛け、私は持ち主の肩を小突いた。
「小傘、あんたこんなとこで何してるの? あと傘は畳みなさい邪魔だから」
「閉じたら呼吸できなくなっちゃうじゃない」
「そういうもん? ――じゃなくて、あんたはいつから劇団命蓮寺の一員になったのかって尋ねてるの。それに最近、人間じゃなくて妖怪ばっかり驚かそうとしてるそうじゃん」
成功率は零に近いが。そう言えばこいつには“あれ”を見せていないなと思ったが、まあ結果は容易に予想できる。
「私も最初は巷で噂の尼さんを驚かせようと思ったの。でもそいつは寝間着の背中にウナギをもぞもぞさせながら語ったのよ。人間と妖怪が平等に背中にゅるにゅる共存する世界を!」
「小傘、あからさまに他人の影響受け易そうな性格だからねぇ。……ウナギ混ざってる」
「そして私は悟ったの。これからは人間だけじゃなく、妖怪も平等に驚かせば良いんだって!」
「おおう。その発想は――いやいや」
「新しい時代の波が来るわ。妖怪が妖怪を喰らい、人間が人間を討つびっくりどっきりワールドが!」
「前者はともかく、後者は時代遅れなんじゃ」
「これから皆で地底の妖怪を驚かせに行くんでしょ? 招待状も貰ったし。わちきも乗っていいかって頼んだら快く承諾していただきやしたー」
「泣いちゃっても知らないよ。地の底には私でさえ目を背けたくなるような連中がわんさか屯(たむろ)してるんだから」
「はい、静聴ー」
妖怪達がぴたりとお喋りを止め、舵輪の傍に立つ尼に向き直った。その反対側にムラサが立ち、神妙な面持ちで続ける。
「聖、万事滞りなく整いました。新規稼働部は接続良好。各機関の点検も抜かりなし。準備万端、おーけーですよ」
「そうですか。では、お願いできる?」
「了解です。野郎共! 錨を揚げろーっ!」
セーラー服亡霊少女の号令に従い、日に焼けて筋骨隆々なムキムキ兄貴達が――登場してたまるか。掛け声は単に気分の問題らしい。古びた木戸が押し開けられるような軋みと共に部屋全体が鳴動し、それだけだった。ムラサの満足げな表情からして、命蓮寺から聖輦船への変形は無事完了したようだ。
「一輪、そっちはどう?」
「〈村紗? ええ、目視できる限り問題無いわ。出るとこは出て引っ込むところは引っ込んでいる。――。雲山も異常無しだって〉」
甲板で待機していたのだろう入道使いの声は、何故か舵輪から響いてきた。採光鏡や通信設備は最近になって新調した設備らしく、声無きどよめきに得意満面のムラサ船長である。
「うふふふふふふふ。わくわくー」
テンション高過ぎのムラサ船長だった。アルカイック微笑を絶やさない白蓮の隣で、遅れてやってきた星はそわそわと辺りを見回している。
「ナズーリンの姿が見当たりませんが……」
「鼠は船に乗り遅れることが無いし、降りる時期を失することもない。機を見て敏の姿勢は素直に評価しているのです。心配は要らないでしょう。聖、号令をお願いします」
「ええ、判りました。――こほん」
口元を引き締めた尼公が、やはりおっとりとした口調で妖怪達に呼び掛けた。
「予定通り、本日は地底へと向かいます。浮かれるなとは言いませんが、欲に駆られて道に迷わぬよう、無益な諍いを起こさぬよう、誰一人として欠けることなく帰還できるよう、めいめいが自重するように」
誰も、何のために全員で地の底へ赴くのか白蓮に問い質すことはない。それだけ彼女は信頼されているのだ。私には、盗まれたと思(おぼ)しき宝塔を探すことの他にも目的があるような気がしてならないのだが……。
「それでは参りましょう。新しき風に蘇りし旧(ふる)き都へ、いざ――」
『出航――!』
「なっ、出航ーぉ」
自分だけ間違えてしまったじゃないか。未だ以って命蓮寺の基準が分からない。南無三道は一日にしてならずということかしら。
一時は高みに突き抜けた機関の駆動音が、重く低く安定した。感覚的な重力の増大によって、船体が垂直に上昇していることを知る。窓に映る景色の方向が変わり、徐々に遠ざかってゆく人里が確認できた。大人は大概慣れた様子で聖輦船を見送っているのに対し、子供達はまだ無邪気な笑顔で手を振っている。
巨大な親父の渋面が手を振り返している様を思い浮かべ、私はくすりと笑みを漏らしてしまった。隣の小傘がひょいと唐傘を傾ける。
「どしたの? ぬえたろー」
「ううん。昼間っから空を飛ぶのには抵抗があったんだけど……ね」
本日は、天気明朗にして空高し。法力を纏った飛刹が、白い雲を靡(なび)かせて青空を滑る。目的地は太陽の光すら届かぬ忌まわしき奈落の底。彼女達はその暗がりで、いかなる光を見出そうというのか。どこか遠くを見据える尼公の真剣な表情は、乗組員達に一筋縄で終わらない航海を予感させ――
「早速ですが、お昼ごはんといたしましょう!」
『いよっ、待ってましたー!』
「…………」
何は無くとも腹拵えだとの提案に沸き返る船内で、私は一人、遠い目を振り向けるのだった。
(続く)
もしくは聖輦船。
内容は寺組の丁寧な描写が稀な方なのもあって面白かった。
しかもこの長さで連作とは思わなかったので、期待して待たせていただきます。
続き楽しみにしてます。
惜しい作品だと判断できます。故の100点です。
三部作に渡る大長編。「いったいどんな深~いシリアス世界に浸り込ませてくれるのか」とわくわくしながら開いてみたら…コメディ要素多過ぎるww
まぁ、これ程の長さになれば合間合間に息抜きも必要なのでしょう。面白おかしく、しかし真面目な場面もやはり楽しませて頂きました。続きにも期待が高まります。
初めの人物紹介が翻訳小説の扉ページっぽくてニヤリとしました。
続きいってきます。
それでは、続編に向けて出航!