その日、香霖堂は朝から静かだった。
客らしい客も、客らしくない客も誰一人訪れる事は無く、店の戸はまだ一度も開かれていない。
店主である森近霖之助も外に出る事は無く、ずっと本を読んで過ごしているだけだった。
「…もうこんな時間か」
香霖堂の店主、森近霖之助は、本から時計へと目を移し、一人呟いた。
既に外は夜の帳が落ち始める頃、この日初めて、霖之助が時間を知った瞬間だった。
日が暮れたからといって何かをする訳でもなく、明かりを点けて再び本に目を落とす。
誰も訪れないまま、朝から晩まで本を読んで過ごす。
今や霖之助の日常の大半は、その繰り返しによって過ぎていった。
勿論、時々外に出ては、何か珍しい物は落ちていないかと森などを探索する事も有る。
蒐集してきた物を調べ、価値の有る物無い物で扱いを分けて、店に並べたり並べなかったりもする。
そうして知識を溜め込む事や道具を集めたりする事も有る。
霖之助は、ずっとそれを続けてきた。
「お邪魔する」
明かりを点けてから暫くした後、この日初めて香霖堂の扉が開かれ、女性が一人店内へと入ってきた。
「ああ、いらっしゃい」
流石に客が来ては読書を続けるわけにもいかないので、霖之助は読みかけの本を机に置き、客の方に向き直る。
店に入ってきた客、上白沢慧音は、店内に敷き詰められた商品には目もくれずに、客用の椅子に腰掛けた。
「二日ぶり……だったかな?」
「いや、五日ぶりだ。 すまないな、中々来れなくて」
「…むしろ来てくれてありがとうと言いたいよ、君は香霖堂の常連だしね」
何か買っていった事はあまり無いけど、と苦笑しながら付け加える霖之助。
実際、ここ暫く店の商品が変動した事は無かった。
「買いたいと思える物が有れば買うよ。 寺子屋の教材に使えそうな物とか」
「生憎、此処の基本方針はそう簡単に変えられないけどね」
「それじゃあ、買いたくても買えないな」
「買いたい人が買っていってくれれば良いんだ、此処にはそんな程度の物しか置いていない」
「その割には、客に対して随分とふっかけていると聞くが」
「僕は商売人だからね」
商品を欲しいと言う人に高く売りつける、そんな商売でやっていける辺り、霖之助には商売の才能が有るのかもしれない。
むしろ、交渉人と言うべきだろうか。
「…まあ、積もる話は後にして、夕御飯にしないか? その様子だと、お腹も空いているだろう」
「別に構わないが、あまり食材は残ってないよ」
「そうだろうと思って私の方で準備しておいた。 たまには里に買出しに来い」
「ついこの間も行ったさ」
「懐かしい話だな。 では、少し台所を借りるぞ」
調子の良い会話をぶつけ合い、慣れた様子で香霖堂の台所に向かう慧音。
手に持っていた袋の中身は見えなかったが、膨れ具合から判断して、それなりに量の有る夕餉になりそうだった。
霖之助は自分の胃袋の具合を確認するが、特に問題は無い。 空腹も思い出している。
やがて霖之助の所まで漂うであろう夕餉の香りを待ちながら、霖之助は再び本へと目を向けた。
何度もこうしてくれているのだから、任せていても大丈夫だろう。
香霖堂の卓は、そんなに大きくは作られていない。
商品が並べられている所はともかく、それ以外の部屋は質素そのもので、この居間も然程広くない。
そこに置かれた卓にいくつもの料理が並べば、その気が無くても大変なご馳走に見えるだろう。
「さあ、遠慮無く食べてくれ」
エプロン姿のままの慧音が、白米の盛られたお椀を差し出して、霖之助に勧める。
食事の用意をして貰えるのは霖之助にとって有り難いのだが。
「…二人で食べるには多過ぎるんじゃないか?」
「五日分の栄養だからな」
「纏めて摂る必要は無いと思うけどね」
確かに量は多いが、食欲をそそる匂いが霖之助の空腹感をより刺激してくる。
今まで何度も味わっている料理なだけに、今回も美味しいのだろうと霖之助は確信している。
何度も食べさせてもらっていたのだから、美味しいに違い無い。
互いに一礼し、料理を口に運び始めた。
「最近、商売の方はどうだ?」
料理が半分ほど片付いた所で、食事を始めてから無言だった慧音が口を開いた。
「見ての通りさ、君なら分かるだろう」
霖之助は、平然とそう言ってのけた。
当然、店を訪れる客は滅多に来ず、短い時で数週間、酷い時は数ヶ月も間が開いた事も有る。
商売をする者としてそれではどうなのかと疑いたくなるが、本人は全く気にしていない様だ。
「…そうだな、最近物が動いてない」
香霖堂の品揃えは全くと言えるほど減る事が無く、霖之助の手形が商品にはっきりと残るほど、その場所に留まっている。
元々立地条件はあまり良くなかったのだが、まるで人が訪れるのを忘れた様に、店は埃に包まれていた。
「誰か来てはいるのか?」
「君ならしょっちゅうだが」
「真面目に答えてくれ、これでも割と真剣に聞いているんだ」
箸を止め、じっと霖之助を見つめる慧音。
「…それこそ見ての通りさ、常連だったお客も随分前から来なくなった。
一つ前に来た客は、君だったよ」
少し声の調子を落とし、淡々と現状を述べる。
「……やっぱりそうか」
過去、僅かに居た香霖堂の常連は時と共に香霖堂に立ち寄る事は無くなり、それに合わせて香霖堂の客足も遠のいた。
既に、香霖堂を訪れる者は余程の物好きか、訳有りの妖怪くらいになっている。
「でも、慧音が来てくれているさ」
今では、香霖堂の常連と呼べる者は、上白沢慧音ただ一人しか居ない。
「煽てても何も買えないぞ」
「やましい気持ちは無いと言いたいよ」
霖之助の言葉に澱みは無く、商売する気も感じられない。
「全く…そんなだから何も買われないんだぞ」
「買いたいと思う人が居なければ仕方が無いさ。
店も何とかやっていけているし、今はこれといった問題は無いよ」
カタッ
霖之助の言葉に反応したかの様に、慧音は手に持っていたお椀を置く。
「……どうしたんだい?」
妙に力の篭った音が響き、慧音の様子に戸惑いつつ霖之助も箸を置いた。
慧音は黙り込んだまま、霖之助の方を眺めている。
そのまま数十秒ほど経って、慧音の表情が暗いものに変わった。
「…なら、霖之助は今の暮らしに満足しているのか?」
慧音の言葉に、霖之助も表情を曇らせる。
「それは、どういう意味だい?」
「そのままの意味だ」
今の霖之助の暮らし―――香霖堂の暮らしは、霖之助にとってどうなのかということを。
「……そうだな、もう少し繁盛してくれれば文句は無いよ」
霖之助の今の生活は、霖之助の希望そのものである。
自由気ままな生活に、外の世界の道具を集める古道具屋の経営。
本を読み、様々な知識を身に着けるという事も好きなだけ出来る。
「そうか……」
長く息を吐き、慧音は言葉を続ける。
「私は歴史を編纂していく過程で、お前の歴史も見ていた。
そうしている内に、気付いてしまったんだよ」
「…何にだい?」
一度言葉を切り、真剣な眼差しで慧音は言い放つ。
「霖之助の歴史から二人の名前が消えて以来、お前の歴史は、動かなくなっていたんだ」
二人。
霖之助の歴史から消えた、二人の少女の事。
その事を引き合いに出され、霖之助は不機嫌そうに呟く。
「…どうしてそう言えるんだい?」
不可解そうに慧音を見やる霖之助。
「あの二人がまだ霖之助の歴史に居た頃、お前の歴史は複雑なものだった。
毎日の様に語り合い、知識をぶつけあっては、色々考え出していたのだろう」
霖之助がその知識をぶつけていた相手が、その少女達なのだろう。
「あの二人がお前の歴史から居なくなってから、お前の歴史は薄くなっていった。
……寂しくはならないのか?」
人の歴史は、その人自身に大きな変化が訪れた時、様々に変化していく。
その変化こそが、霖之助の歴史だったはずだ。
「…人間と半妖だ、特に気にしてはいないよ」
それが必然だから、と霖之助は呟く。
人間と半妖、どちらの歴史が長くなるかは、比べるまでも無く誰にでも分かる事である。
「――そうだろうな。
それから先のお前の歴史は、まるで何も無かったかの様に白く、同じ様な事が少しだけ書かれているだけだった。
…まるで、妖怪の歴史の様にな」
数多の人間や、個々の妖怪の歴史を知る慧音は、今の霖之助の歴史に妖怪を重ね合わせていた。
何も変わらず、生きる事を目的とした妖怪の歴史を、霖之助に見ていた。
「…随分と言ってくれるね、何処まで分かっているつもりだい?」
「霖之助はいつも私に色々と教えてくれていたからな、とても楽しそうに」
誰かに知識を語る時、語り手はその応えに最も興味を示す。
自らで紡ぎあげた知識は、誰かに伝えられる事によって力を得るからである。
一人だけで考えられ、纏められた『知識』は、普遍的な『知識』となる事は無い。
それこそ、霖之助のあまり好まない『天狗の新聞』と大差は無いのだ。
「…知識は他人との重ね合わせて積み上げられていく物だ。
あの二人が来なくなってから、お前の知識は沼の様に溜まっているだけではないのか?」
少し棘の有る言い方だが、霖之助は何も言い返そうとはしなかった。
それは、慧音の指摘が正しいという事を意味している。
「…すまなかった。 だが、分かってしまうんだ。
私の知る歴史だけじゃない、お前の知る歴史でもな」
「僕の歴史?」
「そう、お前がずっと書き留めていた歴史だ」
霖之助の書き留めていた歴史、日記という名の歴史書。
いくつか有るその中の最も新しい冊子は、もう長い事使われ続けている。
「以前見せて貰った時、大体予想通りだと思った。
…それと一緒に、安心もしたよ」
知識を積み重ねる機会が減った事により、霖之助の日記は殆ど書かれる事は無くなった。
変化の無い日々が大半を占めているのだから、書き記す意味も殆ど無い。
しかし、それは続けられている。
「何も無い歴史の中で、私との事が少しだけでも書いてあるのが嬉しかったんだ。
……私がしてきた事も、無駄ではなかったんだってな」
霖之助の書き記す日記は、数日に一度、慧音が訪れた日に書かれていた。
あの二人と同じ様に話し合い、新たな考えと視点を得た時に、日誌は長く書き綴られる。
そして、霖之助の歴史は微かながらも変化を続けていた。
「同情なら御免だよ、君に迷惑は掛けられない」
ただ、それが霖之助にとって心苦しかった。
「…そう言われるだろうと思って、勝手に続けていたんだ。
これは私個人の勝手な気持ちだ、嫌なら嫌と言ってくれて構わない」
例え本人が満足していると言おうとも、同じ事を周りが思っているとは限らない。
今の霖之助が今の生き方に満足していると言うのであっても、霖之助の歴史を知る慧音はそれを許したくないのだろう。
「…君は自分勝手だな、初めて知ったよ」
「ああ、そうさ」
しかし、それはまだ慧音の思い込みに過ぎない。
「……ここまでされているのに、断れる筈が無いじゃないか」
それを受け入れられて、漸く意味を成すのである。
「今日はありがとう、美味しかったよ」
その後、大分冷めた夕食をやっつけて、再び話し合う慧音と霖之助。
食後のお茶が尽きる頃には、既に夜も大分更けていた。
「…久しぶりかもな、こんなにお前と話し込んだのは」
「そうかな。 僕はつい最近にも有ったと思うけど」
「……そうか、ならそうかもしれないな」
この日、どれだけ二人が語り合おうとも、お互いが最も知りたいと思っていた事を知る事は出来なかった。
慧音は、霖之助自身の考えを。
霖之助は、慧音の真意を。
そしてその向こう側に有る答えを、直接聞こうとしていた。
既に二人は、その答えは分かっているというのに。
「流石に泊まる訳にはいかないから、そろそろお暇させて貰うとしよう」
後片付けを終えた慧音が、帰り支度を済ませて立ち上がる。
結局この日も何も買いはしなかったが、霖之助は十分に満足していた。
「たまには店内を掃除したらどうだ? 売れる物も売れなくなるぞ」
「これでも気を付けているつもりさ」
店内を見回し、霖之助に忠告する慧音。
微かに何か呟いていたが、霖之助の耳には届かなかった。
そして、店から出ようと戸に手を掛けた慧音に、霖之助は伝える。
「……また来て欲しい、慧音」
「……言われなくても、な。 霖之助」
もう一度店内を振り返った慧音は、霖之助とその一言だけ交わし、人里へと戻って行った。
その後姿を暫く見送ってから、霖之助は筆記用具を探し始める。
この日、幻想郷の歴史書に、新たな歴史が書き加えられた。
客らしい客も、客らしくない客も誰一人訪れる事は無く、店の戸はまだ一度も開かれていない。
店主である森近霖之助も外に出る事は無く、ずっと本を読んで過ごしているだけだった。
「…もうこんな時間か」
香霖堂の店主、森近霖之助は、本から時計へと目を移し、一人呟いた。
既に外は夜の帳が落ち始める頃、この日初めて、霖之助が時間を知った瞬間だった。
日が暮れたからといって何かをする訳でもなく、明かりを点けて再び本に目を落とす。
誰も訪れないまま、朝から晩まで本を読んで過ごす。
今や霖之助の日常の大半は、その繰り返しによって過ぎていった。
勿論、時々外に出ては、何か珍しい物は落ちていないかと森などを探索する事も有る。
蒐集してきた物を調べ、価値の有る物無い物で扱いを分けて、店に並べたり並べなかったりもする。
そうして知識を溜め込む事や道具を集めたりする事も有る。
霖之助は、ずっとそれを続けてきた。
「お邪魔する」
明かりを点けてから暫くした後、この日初めて香霖堂の扉が開かれ、女性が一人店内へと入ってきた。
「ああ、いらっしゃい」
流石に客が来ては読書を続けるわけにもいかないので、霖之助は読みかけの本を机に置き、客の方に向き直る。
店に入ってきた客、上白沢慧音は、店内に敷き詰められた商品には目もくれずに、客用の椅子に腰掛けた。
「二日ぶり……だったかな?」
「いや、五日ぶりだ。 すまないな、中々来れなくて」
「…むしろ来てくれてありがとうと言いたいよ、君は香霖堂の常連だしね」
何か買っていった事はあまり無いけど、と苦笑しながら付け加える霖之助。
実際、ここ暫く店の商品が変動した事は無かった。
「買いたいと思える物が有れば買うよ。 寺子屋の教材に使えそうな物とか」
「生憎、此処の基本方針はそう簡単に変えられないけどね」
「それじゃあ、買いたくても買えないな」
「買いたい人が買っていってくれれば良いんだ、此処にはそんな程度の物しか置いていない」
「その割には、客に対して随分とふっかけていると聞くが」
「僕は商売人だからね」
商品を欲しいと言う人に高く売りつける、そんな商売でやっていける辺り、霖之助には商売の才能が有るのかもしれない。
むしろ、交渉人と言うべきだろうか。
「…まあ、積もる話は後にして、夕御飯にしないか? その様子だと、お腹も空いているだろう」
「別に構わないが、あまり食材は残ってないよ」
「そうだろうと思って私の方で準備しておいた。 たまには里に買出しに来い」
「ついこの間も行ったさ」
「懐かしい話だな。 では、少し台所を借りるぞ」
調子の良い会話をぶつけ合い、慣れた様子で香霖堂の台所に向かう慧音。
手に持っていた袋の中身は見えなかったが、膨れ具合から判断して、それなりに量の有る夕餉になりそうだった。
霖之助は自分の胃袋の具合を確認するが、特に問題は無い。 空腹も思い出している。
やがて霖之助の所まで漂うであろう夕餉の香りを待ちながら、霖之助は再び本へと目を向けた。
何度もこうしてくれているのだから、任せていても大丈夫だろう。
香霖堂の卓は、そんなに大きくは作られていない。
商品が並べられている所はともかく、それ以外の部屋は質素そのもので、この居間も然程広くない。
そこに置かれた卓にいくつもの料理が並べば、その気が無くても大変なご馳走に見えるだろう。
「さあ、遠慮無く食べてくれ」
エプロン姿のままの慧音が、白米の盛られたお椀を差し出して、霖之助に勧める。
食事の用意をして貰えるのは霖之助にとって有り難いのだが。
「…二人で食べるには多過ぎるんじゃないか?」
「五日分の栄養だからな」
「纏めて摂る必要は無いと思うけどね」
確かに量は多いが、食欲をそそる匂いが霖之助の空腹感をより刺激してくる。
今まで何度も味わっている料理なだけに、今回も美味しいのだろうと霖之助は確信している。
何度も食べさせてもらっていたのだから、美味しいに違い無い。
互いに一礼し、料理を口に運び始めた。
「最近、商売の方はどうだ?」
料理が半分ほど片付いた所で、食事を始めてから無言だった慧音が口を開いた。
「見ての通りさ、君なら分かるだろう」
霖之助は、平然とそう言ってのけた。
当然、店を訪れる客は滅多に来ず、短い時で数週間、酷い時は数ヶ月も間が開いた事も有る。
商売をする者としてそれではどうなのかと疑いたくなるが、本人は全く気にしていない様だ。
「…そうだな、最近物が動いてない」
香霖堂の品揃えは全くと言えるほど減る事が無く、霖之助の手形が商品にはっきりと残るほど、その場所に留まっている。
元々立地条件はあまり良くなかったのだが、まるで人が訪れるのを忘れた様に、店は埃に包まれていた。
「誰か来てはいるのか?」
「君ならしょっちゅうだが」
「真面目に答えてくれ、これでも割と真剣に聞いているんだ」
箸を止め、じっと霖之助を見つめる慧音。
「…それこそ見ての通りさ、常連だったお客も随分前から来なくなった。
一つ前に来た客は、君だったよ」
少し声の調子を落とし、淡々と現状を述べる。
「……やっぱりそうか」
過去、僅かに居た香霖堂の常連は時と共に香霖堂に立ち寄る事は無くなり、それに合わせて香霖堂の客足も遠のいた。
既に、香霖堂を訪れる者は余程の物好きか、訳有りの妖怪くらいになっている。
「でも、慧音が来てくれているさ」
今では、香霖堂の常連と呼べる者は、上白沢慧音ただ一人しか居ない。
「煽てても何も買えないぞ」
「やましい気持ちは無いと言いたいよ」
霖之助の言葉に澱みは無く、商売する気も感じられない。
「全く…そんなだから何も買われないんだぞ」
「買いたいと思う人が居なければ仕方が無いさ。
店も何とかやっていけているし、今はこれといった問題は無いよ」
カタッ
霖之助の言葉に反応したかの様に、慧音は手に持っていたお椀を置く。
「……どうしたんだい?」
妙に力の篭った音が響き、慧音の様子に戸惑いつつ霖之助も箸を置いた。
慧音は黙り込んだまま、霖之助の方を眺めている。
そのまま数十秒ほど経って、慧音の表情が暗いものに変わった。
「…なら、霖之助は今の暮らしに満足しているのか?」
慧音の言葉に、霖之助も表情を曇らせる。
「それは、どういう意味だい?」
「そのままの意味だ」
今の霖之助の暮らし―――香霖堂の暮らしは、霖之助にとってどうなのかということを。
「……そうだな、もう少し繁盛してくれれば文句は無いよ」
霖之助の今の生活は、霖之助の希望そのものである。
自由気ままな生活に、外の世界の道具を集める古道具屋の経営。
本を読み、様々な知識を身に着けるという事も好きなだけ出来る。
「そうか……」
長く息を吐き、慧音は言葉を続ける。
「私は歴史を編纂していく過程で、お前の歴史も見ていた。
そうしている内に、気付いてしまったんだよ」
「…何にだい?」
一度言葉を切り、真剣な眼差しで慧音は言い放つ。
「霖之助の歴史から二人の名前が消えて以来、お前の歴史は、動かなくなっていたんだ」
二人。
霖之助の歴史から消えた、二人の少女の事。
その事を引き合いに出され、霖之助は不機嫌そうに呟く。
「…どうしてそう言えるんだい?」
不可解そうに慧音を見やる霖之助。
「あの二人がまだ霖之助の歴史に居た頃、お前の歴史は複雑なものだった。
毎日の様に語り合い、知識をぶつけあっては、色々考え出していたのだろう」
霖之助がその知識をぶつけていた相手が、その少女達なのだろう。
「あの二人がお前の歴史から居なくなってから、お前の歴史は薄くなっていった。
……寂しくはならないのか?」
人の歴史は、その人自身に大きな変化が訪れた時、様々に変化していく。
その変化こそが、霖之助の歴史だったはずだ。
「…人間と半妖だ、特に気にしてはいないよ」
それが必然だから、と霖之助は呟く。
人間と半妖、どちらの歴史が長くなるかは、比べるまでも無く誰にでも分かる事である。
「――そうだろうな。
それから先のお前の歴史は、まるで何も無かったかの様に白く、同じ様な事が少しだけ書かれているだけだった。
…まるで、妖怪の歴史の様にな」
数多の人間や、個々の妖怪の歴史を知る慧音は、今の霖之助の歴史に妖怪を重ね合わせていた。
何も変わらず、生きる事を目的とした妖怪の歴史を、霖之助に見ていた。
「…随分と言ってくれるね、何処まで分かっているつもりだい?」
「霖之助はいつも私に色々と教えてくれていたからな、とても楽しそうに」
誰かに知識を語る時、語り手はその応えに最も興味を示す。
自らで紡ぎあげた知識は、誰かに伝えられる事によって力を得るからである。
一人だけで考えられ、纏められた『知識』は、普遍的な『知識』となる事は無い。
それこそ、霖之助のあまり好まない『天狗の新聞』と大差は無いのだ。
「…知識は他人との重ね合わせて積み上げられていく物だ。
あの二人が来なくなってから、お前の知識は沼の様に溜まっているだけではないのか?」
少し棘の有る言い方だが、霖之助は何も言い返そうとはしなかった。
それは、慧音の指摘が正しいという事を意味している。
「…すまなかった。 だが、分かってしまうんだ。
私の知る歴史だけじゃない、お前の知る歴史でもな」
「僕の歴史?」
「そう、お前がずっと書き留めていた歴史だ」
霖之助の書き留めていた歴史、日記という名の歴史書。
いくつか有るその中の最も新しい冊子は、もう長い事使われ続けている。
「以前見せて貰った時、大体予想通りだと思った。
…それと一緒に、安心もしたよ」
知識を積み重ねる機会が減った事により、霖之助の日記は殆ど書かれる事は無くなった。
変化の無い日々が大半を占めているのだから、書き記す意味も殆ど無い。
しかし、それは続けられている。
「何も無い歴史の中で、私との事が少しだけでも書いてあるのが嬉しかったんだ。
……私がしてきた事も、無駄ではなかったんだってな」
霖之助の書き記す日記は、数日に一度、慧音が訪れた日に書かれていた。
あの二人と同じ様に話し合い、新たな考えと視点を得た時に、日誌は長く書き綴られる。
そして、霖之助の歴史は微かながらも変化を続けていた。
「同情なら御免だよ、君に迷惑は掛けられない」
ただ、それが霖之助にとって心苦しかった。
「…そう言われるだろうと思って、勝手に続けていたんだ。
これは私個人の勝手な気持ちだ、嫌なら嫌と言ってくれて構わない」
例え本人が満足していると言おうとも、同じ事を周りが思っているとは限らない。
今の霖之助が今の生き方に満足していると言うのであっても、霖之助の歴史を知る慧音はそれを許したくないのだろう。
「…君は自分勝手だな、初めて知ったよ」
「ああ、そうさ」
しかし、それはまだ慧音の思い込みに過ぎない。
「……ここまでされているのに、断れる筈が無いじゃないか」
それを受け入れられて、漸く意味を成すのである。
「今日はありがとう、美味しかったよ」
その後、大分冷めた夕食をやっつけて、再び話し合う慧音と霖之助。
食後のお茶が尽きる頃には、既に夜も大分更けていた。
「…久しぶりかもな、こんなにお前と話し込んだのは」
「そうかな。 僕はつい最近にも有ったと思うけど」
「……そうか、ならそうかもしれないな」
この日、どれだけ二人が語り合おうとも、お互いが最も知りたいと思っていた事を知る事は出来なかった。
慧音は、霖之助自身の考えを。
霖之助は、慧音の真意を。
そしてその向こう側に有る答えを、直接聞こうとしていた。
既に二人は、その答えは分かっているというのに。
「流石に泊まる訳にはいかないから、そろそろお暇させて貰うとしよう」
後片付けを終えた慧音が、帰り支度を済ませて立ち上がる。
結局この日も何も買いはしなかったが、霖之助は十分に満足していた。
「たまには店内を掃除したらどうだ? 売れる物も売れなくなるぞ」
「これでも気を付けているつもりさ」
店内を見回し、霖之助に忠告する慧音。
微かに何か呟いていたが、霖之助の耳には届かなかった。
そして、店から出ようと戸に手を掛けた慧音に、霖之助は伝える。
「……また来て欲しい、慧音」
「……言われなくても、な。 霖之助」
もう一度店内を振り返った慧音は、霖之助とその一言だけ交わし、人里へと戻って行った。
その後姿を暫く見送ってから、霖之助は筆記用具を探し始める。
この日、幻想郷の歴史書に、新たな歴史が書き加えられた。
さみしい雰囲気の漂うお話でございました。
通い妻な慧音……いい!
でも次代の博麗や魔理沙の子孫達の存在が排斥されてる設定が自分には飲み込めませんでした
霖之助ならばなんだかんだで彼女達の子供達まで世話を焼いてしまいそうですから
あなたの他のssも読みたい。
寂しい雰囲気もいいものですね^^