前方異常なし。左右両側とも敵影感知せず。
上方や後方にわずかな不安要素はあるものの、感知用の式を展開していため視覚、聴覚ですら判別できない変化も情報として自然に伝達される。
そこまでしてからやっと藍は安堵したように息を吐き、すずりに筆を付けた。
何故、ただ筆を走らせる作業にここまで注意しなければ行けないかというと。
言うまでもない。
八雲家には、一人の大きないたずらっ子がいるからである。
普段は大人しく、家の中で結界全体の様子を観察していたりするのだが。それに飽きた瞬間に、やんちゃな子供なんて比べモノにならないほどの、厄介な存在に変わる。神出鬼没ないたずらで、妨害のしようがない行為を繰り返してくる。着替えを見られても問題ない点で言えば、異性でないだけ幾分かマシではあるが。
今、紫に覗かれることは、異性に着替えを覗かれるよりも恥ずかしい。
なぜなら、書いている内容というのが……
『ああ、紫様、私はあなた様にしのんでいる想いがございます。薄汚い、私のような獣にとっては恋の季節だからでしょうか。いままで必死にネコを被り、秘めたる感情を我慢していたのに、それができないほどで……家事をしながら、そのお姿を見ただけで高鳴る鼓動を止めることができないなんて。
あの日、私に差し出されたその手、それを掴んで手に入れた温かい家庭、なのに。
それ以上に、求めるのです。
傲慢で贅沢な感情が、紫様の隔たりのない愛が、私を苦しませるのです。
私の胸を貫き、こんなにも心を掻き回して。
その笑顔で、冷静でいようとする私の心を破壊する。
ああ、紫様…… 紫様……
いつかこの想いを……きっと……』
日記としては艶がありすぎて。
恋文としては、少々重すぎる。
中途半端すぎる内容のものであったから。
春は、いつもこうだ。
冬眠しているうちは面倒ごとを押し付けるなんて、と怒りも湧いてくるが。
その黒い感情が雪と一緒に解けて流れてしまう。
残るのは、ただ主が恋しいという、卑しい感情だけ。
そんな心のままに筆を取った結果がこれだ。途中で捨てよう捨てようとは思っていたのだが、ついつい気が乗ってかなりの量を書いてしまった。こんなものを主に見られたら、もう恥ずかしくて死んでしまうかも――
「藍ちょっと買い物を頼みた――」
「う、うわぁぁぁぁっ!?」
ビリビリビリ……バシャア……
視界の中だから大丈夫、そう安心していた目の前からいきなり紫が顔を出してきて、藍は慌ててその紙を破り捨て、すずりの墨汁を紙に被せた。
ただ、あまりに慌てていたおかげで――
「藍? これはどういうことかしら?」
「え、いえ、あのっ! す、すみませんっ!」
墨汁の一部が、紫の顔面にべっとりと付着してしまっていた。
◇ ◇ ◇
「幽々子、実は私、命を狙われているかもしれないの……大袈裟だとは思うのだけれど」
その一言は、親友がのほほんと饅頭を食べる手を一瞬だけ止めさせた。
「妖獣愛護団体に?」
「そうそう、虐待しすぎて……って違うわよ! ……ちがう、わよねぇ、たぶん。虐待とかしてないと思うのよ。少し厳しく接することもあるけれど、それはあの子達のことを思ってやっているだけですし、でも伝わらなかったら同じですものね。でもちゃんとご飯が美味しかったらお礼を言ってるし、掃除をしている姿を見かけたら激励もした。はぁ、本当に何が悪かったのかしら……」
言葉を発するたびに段々と座高が低くなり。
ついにはコタツの上に突っ伏して、愚痴を零し始めた。手を枕にしてまるで涙を流すように、肩を小刻みに震えさせている。
「あら、もしかして落ち込んでるの?」
「崖っぷちですわ」
ひょいっ がづっ
言いながら、枕にしていた一本の手を饅頭の盛られた盆へと向ける。が、その手は空を切り、硬いコタツの机部分に指先をぶつけてしまった。
「……落ち込んでいるのですけれど?」
「あらあら、それは大変」
顔を起こし恨みがましい視線を向ければ。
紫の視界に、にこやかに微笑む親友の姿が映った。お饅頭を大事そうに抱えた状態で。しかも片手でそれを口に運ぶことを続けていた。
まるで、悩みよりもそちらが優先と言わんばかりに。
「傷つくわ……」
「そんな酷い事があったの、可愛そうに……」
「現在進行中なのだけれど?」
「あらあら、それは大変。紫をここまで追い込むなんて相当な善人ね。しかも美人に違いないわ」
「もういい、寝る……」
ついに、ふてくされてしまう。
饅頭を取ろうと伸ばしていた手を引き戻し、今度は机の上ではなく畳の上に、ごろんっと寝転がった。さらに隙間から毛布を取り出して被るというなんとも重装備である。
その対面に座ったままの幽々子は、珍しく暗い雰囲気を背負いっぱなしの紫を不思議そうに見つめ、最後に残った饅頭を名残惜しそうに口に入れる。
「昨日の湿った煎餅あげるから、元気を出して」
「いらない」
「あら、じゃあ。タクアンをあげましょう。漬け初めてまだ半刻ほどしか経っていない、ほとんど生の大根だけど」
「いるはずがない」
「じゃあ何が食べたいの?」
「……食べられないから落ち込んでるわけじゃないわよ。あなたと一緒にしないで」
「あらあら、そうなの?」
饅頭と一緒に準備していた自分の湯飲みを傾け、わずかに口の中に残った後味を押し流す。そうやって自分の調子をまるで崩さず、見た目だけなら何も考えていないように見えるのに。
「藍とうまくいってない。だから朝ご飯も昼ご飯も自宅で食べず。何もやることがなかったからここにやってきた。そんな気がしたのだけれど」
「――っ!」
紫が毛布を跳ね除けて起きあがると、そのコタツの上には一つの饅頭と湯飲みが準備されていて。相変わらずニコニコと笑う幽々子が「どうぞ」と言うように手の平を紫に向けていた。
「ああ、もぅ、あなたって人は。そういうところが嫌いですわ」
「褒め言葉と受けとらせていただいても?」
「どうぞご自由にっ!」
目を細めながら饅頭を頬張る紫に向けて、くすくすと声を漏らすものの、口元は無造作に開いた扇子で隠されておりその本当の表情は見えない。柔らかな物腰で隙だらけに見えるのに、その透き通った瞳だけは常に紫の方を向いている。
さきほどの愛護団体発現も最初から全てを見通してのモノか。
それとも単なる思いつきか。
「それで、天下の大妖怪である紫様が、冥界の亡霊などを尋ねた理由をお聞かせ願えるかしら?」
「……はい、これ」
これ以上何かを話すとボロを出すだけだと思ったのか。
紫は素直に一枚の紙を取り出したのだった。
ぼろぼろに皺の入り、
所々墨汁で汚れた、
まるで破り捨てられた後に、無理矢理くっつけられたような紙を。
そのため一部分しか読み取れなかったが……
確かに、そこには。
よく知った人物の字で、残酷な描写が並んでいた。
「ああ、紫様 し んで 。薄汚い、 獣 。 ネコ 被り め 我慢 できない …… その 鼓動を止める 。
私 の手、それを掴んで
傲慢で贅沢な 、紫様 を苦しませる
胸を貫き、 掻き回して。
その 顔 を破壊する。
ああ、紫様…… 紫 ……
……きっと……』
◇ ◇ ◇
「破り捨てたのは、やはりこの内容の発覚を恐れたため、それに違いないわ」
幽々子は、どこからかメガネを取り出し、躊躇うことなく装着すると。くぃっと指で持ち上げつつ、その紙を紫に突き返した。
そして、またどこから持ってきたのか。
黒光りするパイプを口に咥える。
外の世界から流れ着いた知識によるもので、探偵という職業の真似らしい。
「そして、この内容からして。その恨みは尋常なものではない。笑顔の裏で、常に計画を練ってたに違いなっ――っけほっけほっ」
「ねぇ、幽々子? あなたふざけてるでしょ?」
「こほっこほっ! な、何を言うのかしら! 私が肺を病むのを覚悟で一生懸命推理しているというのに」
「必要ないし、全然いらないし小道具」
「あら、じゃあ、メガネを外しましょう」
「パイプを片付けなさい……」
無理にパイプタバコを吸ったせいで咳き込む幽々子をジト目で見つめて、紫は隙間を操作する。とりあえずあのボロボロの紙をくっつけただけの手紙の内容が本当かどうかを確かめるのが先決ということで、隙間を使って白玉楼からマヨヒガを覗いてみよう。ということになった。
あまり近くで開いたら、藍が気付いてしまうので、観察するとは言っても大きな身振り手振りしかわからない。けれど音を拾うためだけの針の穴くらいのスキマも併用することで、それを補おうというわけだ。
「やっぱり、探しているようね、あなたを」
幽々子の言うとおり、少し遠くに開いた隙間で屋敷を斜め上から眺める限りでは。藍が先ほどから廊下を行ったりきたり。紫の部屋と台所を往復しているようにも見える。
「とりあえず、今、どこかにいることを伝えた方がいいんじゃないかしら? 博麗神社にいるとか適当に、ね」
「そうね、じゃあ貸してもらえる?」
隙間を操作しながら、左手を幽々子の方へと向けてくる。
筆を貸せ、という意思表示であることに気付き、ゆったりとした仕草で部屋を出て行くと道具を抱えて戻ってきて、ぽんっとその手の中に置いた。
指で触れば、少しだけ温もりのある木の滑らかさが伝わってきて。
その先には、柔らかい綿のようなものが。
「わー、ありがとうこれで……ってこれ耳掻きっ! 何を書けって言うのよ……」
「あら、違ったかしら?」
「……やはりふざけてるわね? 私をからかっているんでしょう?」
「あらあら、そんなことありませんわ。私は常に紫のために全身全霊を尽くしておりますもの。ただ、少しだけ最近、耳の聞こえが悪くなってきたような気がして。私がいくら必死に聞き取ろうとしているというのに、調子が悪くて大切な言葉を把握できないなんて。ああ、なんという悲劇でしょう……」
ぐぐっ、と手の中の耳掻きが折れそうなほど手に力を込める紫だったが、長い付き合い上のほほんとした状態の彼女に何をしても聞き流されるだけなので、諦めたように、ぽんぽんっと膝を叩く。
すると、扇子で口元を隠したままの幽々子が『よっこらしょ』と、なんとも気の抜けた台詞を吐きながら、紫の膝の上に頭を乗せてくる。
「その前に、筆よこしなさいな。さっさと終わらせるから」
「仕方ないわねぇ、はい、どうぞ」
その幽々子の手の中に、筆とすずり、そして一枚の紙を見つけた紫は手際よく隙間を開き。空中に紙を固定してサラサラと文字を書きなぐって、ぽいっと空間の中に放り込む。
霊夢のところ、夜まで。
たったそれだけ、書いただけなのだから簡単、丁寧。
それをさっきから藍が行ったり来たりしている廊下に置けば完了。
作業を終えた後は、筆を耳掻きに置き換えて親友のへと向ける。紫の重い内心を知ってか知らずか、気持ちよさで鼻歌を鳴らし始める親友に向けて、軽くため息を吐いた。
そうやってしばらく遠見の隙間から様子を覗いていると。
再び、藍が戻ってきて。
置かれた紙に気がついた。
『おや、もしかしてこれは……』
少しくぐもってはいるものの、音を拾うための隙間の調子も悪くないようだ。
問題は、やはり細かな動きや表情がわかりにくいことか。
だからいつもと違う藍の仕草を鮮明に知ることが出来ない。
「あの子、何をしているのかしら?」
普通なら、あれだけ書けば即座に伝わるはずなのに。
何故かずっとその文字を見つめて、突っ立っている。
細かな動作が見えないのでよくわからないけれど、歩くときに大きく揺れていた尻尾が。急にぴたり、と停止し固まったように見えた。
ただ、次の瞬間。
くしゃり……
「え?」
「あら?」
幽々子と紫の驚きの声が揃う。
あの、藍が。
紫の言葉にいつも躊躇わず従う藍が。
紫の伝言が書いてある紙を握り潰したのだから。
そして、どんどんっと、隙間からも伝わるほど足音を響かせて廊下を歩き去っていく。その様子をしばらく呆然と見詰めていた主はというと……
「はぁ、何が原因かしらねぇ……」
頬を指で掻きながら、瞳を瞑ることしかできない。
しかし幽々子だけは、その藍の様子を透き通った瞳で追い続け。
「あら、お年頃ね♪」
楽しそうに、ころころと笑い声を漏らしたのだった。
◇ ◇ ◇
「紫、やはりこれは事件ね。幻想郷を揺るがせる妖獣の反乱よ」
「……そうかしら、いまいちそういう実感がわかないのだけれど」
耳掻きに満足した幽々子は、再びコタツに戻り。紫と対面になって座る。そして居間に置いてあった碁石を机の上に持ってきて、並べ始めた。
メガネを装着したままで。
もう、その時点で紫は疑いの眼差しを向けるしかない。
それにもう一つ気になることがある。
「ほら、この白の碁石を紫だとするでしょう? すると夜、寝静まった頃を見計らってこう、黒い石の藍があなたの寝室に忍び込んで、逃げようとしたところで橙がこう――」
「ねえ、幽々子」
「あら大事な作戦会議中に何かしら?」
「それよりも、あなたの大事な仕事の方は大丈夫なの? それに帽子も被っていないようだし」
そう、あのぐるぐるが印象的な、いつもの帽子を被っていない。あれだけ目立つものを急に取れば、そんな疑問が出てきて当然というもの。
すると、幽々子は少しだけ視線を紫から逸らし。
閉じられた障子の方を見上げた。
「……霊体の数を確認して印を押す、簡単な仕事ですわ」
「は?」
「簡単な仕事ですもの」
「……まさか、妖夢に?」
「ほら、よくあるじゃない。一日代理とか、おまけに帽子も被れるなんて、もう、妖夢ったら幸せ者ね」
「あなたこそ、いつか寝首かかれるわよ、本当に」
単純でありながら重要な作業を押し付けられた妖夢が、緊張し、震える手で印を押していく姿が容易に想像できる。その上で家事もこなさないといけないのだから、いつか胃に穴が開いてしまうんじゃないだろうか。
「ほらほら、そんなことより。あっちで動きがあるみたいよ」
幽々子が閉じた扇子で空中に開かれっぱなしの隙間を指すと、確かに橙と藍が何かを相談しているような場面が映し出されていた。
紫が慌ててその音を拾うと。
『準備万端ですね! 藍様!』
『紫様がいなくて良かったね、とても準備がしやすかったよ。とぉぉぉっっってもねっ!!』
『……藍様、怒ってます?』
『ははは、何を馬鹿なことを言っているんだい。橙、私はいつだって冷静だよ。さあ、さっさと支度を整えて、何も知らない紫様を待ち伏せしようじゃないか』
『はいっ!』
音だけ聞いても、なんだか藍のピリピリした様子が伝わってくる。
ただ、やはりその声質からは殺気というものはでは伝わらないのだが。
「……何かしらね、この不安は」
紫の胸を何かがチクリッと突くような、そんな違和感がある。
少しだけ怒っているだけのように見えるのに。
それだけではない何か、もっと深い感情のようなものが藍から見て取れるような気がしたから。
「待ち伏せね、橙の前で物騒な物言いなんて珍しいのではないかしら」
「ええ、何かにイライラしているようには見えるけれど、それが何かわからないのが問題よね」
「あら、意外と理由は簡単かもしれないわよ?」
「何か知っているような言い方ね」
「ええ藍が何に怒っているのか、少し考えればわかることですもの」
そう言って、さきほどからずっと掛けっぱなしのメガネを、くぃっと指先で持ち上げ。
もう片方の手で扇子を流れるような動きで開く。
しかしすぐには口を開こうとせず、紫の思考が冷静さを取り戻すのを待つように。
ゆっくりと、告げる。
「春だから、ですわ♪」
それを聞いた直後。
紫は満面の笑みを浮かべて。
隙間の中に消えてしまう。
「あら、あらあらあら? 真剣に言ったつもりだったのだけれど」
顎に手を当て、小首を傾げ。
さきほどまで紫が居た場所をじっと見詰める。
「春は、人と妖を狂わせる。そんな不思議な季節ですもの」
そうつぶやく幽々子の視線の先には、大きな桜の影が映り込んでいた。
◇ ◇ ◇
すっかり、日が暮れてしまっていた。
幽々子のところから姿を消したはいいものの、やはりすぐに自宅に帰ることができず。珍しくぶらぶらと幻想郷を飛び回ることとなってしまった。おかげで、胡散臭いヤツが飛び回っている、と白黒の魔法使いからは後ろ指を指され。
妖怪の山へ入ろうとすると、知り合いの鴉天狗が気を使いお世辞を交えながら話しかけてくる始末。
ただ、時間を潰していただけなのに腫れ物扱いされるとは、余計に不機嫌になるというもの。さすがにそのまま山に居ても居心地が悪かったので、結界の様子を本格的に探ってから戻ることにした。
けれど、紫が確認するまでもない。
その仕事は完璧だったから。
春が来て、目覚めたばかりの紫に負担をかけないようにと。
ある一匹の可愛い式が、頑張ってくれたから。
「……あ」
そこでやっと、思い出す。
思い出して。
思い知らされた。
自分の過ちを。
自分の愚かさを。
妖怪の賢者と呼ばれ、奢っていた自分の浅はかさを。
「そうね、春ですものね。幽々子」
くすり、と。
やっと本来の全てを見通しているような笑みを取り戻し。
紫は帰路につく。
愛らしい、妖獣が待つ。屋敷へと。
ぱぁんっ! ぱぁんっっ!
「紫様、今年もよろしくお願いしますっ!」
「よろしくお願いいたします……」
騒がしい、色取り取りの罠が仕掛けられた自室で。
元気な橙と、少し気を沈ませた藍が三つ指をついて紫を出迎えた。
だって今宵は。
二人が紫のために開いてくれる宴の日。
毎年恒例の、元旦を眠ったまま迎える紫のためだけに開かれる新年会。
橙が鮮やかな部屋の飾り付けを担当し。
藍がいつもよりも料理に手を掛ける。
それを忘れて、夜まで霊夢のところに行く。なんて嘘の書き置きを残したのだ。怒らない方がおかしい。
「藍、ごめんなさいね。年のせいかしら……こんな大切な日を忘れるなんて」
「……勿体ないお言葉です。紫様」
こんな日だから、ついつい藍も感情的になってしまい。
紫に対する想いをしたためた。
それがどんな感情かは、紫もわかっているつもりだったのに。心の底から信じてあげることが出来なかった。
それはきっと。
この季節のせい。
出会いと、別れを司る『春』という不思議な季節が、二人の心を揺れ動かし。すれ違いを生み出してしまっただけ。
「式でありながら、分をわきまえず……、その迷いが、紫様に何かを勘繰らせることとなってしまったのでしょう。しかし、出来れば……朝食や昼食には戻っていただかないと、心配になると言いますか……不安になると言いますか……」
「ええ、善処させていただきますわ」
そんな二人の小さな不安。
疑心暗鬼が生み出した、ちょっとした喜劇。
「良い酒の肴もできたことですし。今宵は楽しみましょうか、藍」
「……むぅ~~っ!」
「もちろん、橙もね」
「はいっ!」
そんな元気の良い返事を聞きながら、美酒に酔い。
心の底から、笑い合い。
その日は、まるで仲のいい親子のように。
畳の上で川の字を書くように、眠ったのだった。
◇ ◇ ◇
それが、八雲一家の一年の始まり。
宴の次の日は、畳の上でごろごろと。
二日酔いの体を転がして、昼過ぎまでのんびりと、家族水入らずで楽しむのだ。
「しくしく……」
そう、水入らずで。
「しくしくしく……」
水入らず、で……
「しくしくしくしく……」
「……で? なんであなたがここにいるのかしら?」
水入らずで寝ていたはずなのに、いつのまにやら紫に背中から抱きつく不穏分子が居た。
姿は見えないが、紫の胸の前に回された袖と。
聞き覚えのある声で判別は簡単。
「酷い、酷いのよっ! 妖夢ったら。私が昨日仕事をさせたことを根に持って、朝のおかずを3品も減らして出してきたのよ!」
「……どうでもいい、凄く、どうでもいいわ」
「そんな、それでも親友かしらっ」
「ごめん、後ろから大声出さないで、頭痛いから」
二日酔い状態で目覚めた瞬間、いきなり背中から愚痴が飛んでくる。
なんと気分の悪い覚醒の仕方だろう。
しかもその声で起こされたのは紫だけでなく。
珍しく主よりも遅くまで眠っていた藍が尻尾をゆっくりと揺らして上半身を持ち上げ。ぼんやりとした瞳で、紫に抱きつく幽々子を見る。
「藍、この変なの気にしなくていいから、ゆっくり眠ってなさい。今日くらいは」
「ああ、酷い、酷いわ。昨日はあんなに深く、想いを確かめ合ったというのに」
「え? 昨日? 昨日、紫様は……霊夢のところに行っていたのでは?」
「いえ、ちょっと相談事があってね」
「密会していたのよぉ~」
密会、その淫靡な言葉に。藍の耳が大きく跳ね上がる。
そして目を丸くしながら、紫と幽々子を交互に見た。
「み、密会……そ、そんなっ……霊夢をダシにしてまでっ!? 紫様はそれほどまでに、幽々子様を、ううぅぅぅぅっっ! 紫様の節操なしっ!」
そして、何故か瞳に涙を溜めて。
いつもの藍からは想像できない、乙女のような仕草で走り去っていく。
「ちょ、ちょっと、藍、節操なしって。何か誤解をっ! あ、イタタタタタ……」
大声を出して止めようとするが、二日酔いの頭痛のせいで思い切った声量が出せない。しかも手を伸ばして止めようとしても、後ろから抱き付く亡霊が邪魔で、肘を少しだけ伸ばすのが精一杯である。
「あらぁ? これはまた波乱の予感かしら?」
「それを持ち込んでくれたのは、どこのどなた?」
「さぁ? 誰かしらねぇ、絶世の美女には間違いないのでしょうけれど」
「その魂、直接閻魔様に届けてあげてもいいのだけれど?」
「あらあら、美人薄命とはこのことね」
「死んでるじゃない」
「それは盲点でしたわ」
そうやって、幻想郷に名の知れた二人が不毛な言い争いを繰り返す中。
体を丸くし、気持ち良さそうに寝息を立てる橙だけは。
春を存分に満喫しているように見えた。
上方や後方にわずかな不安要素はあるものの、感知用の式を展開していため視覚、聴覚ですら判別できない変化も情報として自然に伝達される。
そこまでしてからやっと藍は安堵したように息を吐き、すずりに筆を付けた。
何故、ただ筆を走らせる作業にここまで注意しなければ行けないかというと。
言うまでもない。
八雲家には、一人の大きないたずらっ子がいるからである。
普段は大人しく、家の中で結界全体の様子を観察していたりするのだが。それに飽きた瞬間に、やんちゃな子供なんて比べモノにならないほどの、厄介な存在に変わる。神出鬼没ないたずらで、妨害のしようがない行為を繰り返してくる。着替えを見られても問題ない点で言えば、異性でないだけ幾分かマシではあるが。
今、紫に覗かれることは、異性に着替えを覗かれるよりも恥ずかしい。
なぜなら、書いている内容というのが……
『ああ、紫様、私はあなた様にしのんでいる想いがございます。薄汚い、私のような獣にとっては恋の季節だからでしょうか。いままで必死にネコを被り、秘めたる感情を我慢していたのに、それができないほどで……家事をしながら、そのお姿を見ただけで高鳴る鼓動を止めることができないなんて。
あの日、私に差し出されたその手、それを掴んで手に入れた温かい家庭、なのに。
それ以上に、求めるのです。
傲慢で贅沢な感情が、紫様の隔たりのない愛が、私を苦しませるのです。
私の胸を貫き、こんなにも心を掻き回して。
その笑顔で、冷静でいようとする私の心を破壊する。
ああ、紫様…… 紫様……
いつかこの想いを……きっと……』
日記としては艶がありすぎて。
恋文としては、少々重すぎる。
中途半端すぎる内容のものであったから。
春は、いつもこうだ。
冬眠しているうちは面倒ごとを押し付けるなんて、と怒りも湧いてくるが。
その黒い感情が雪と一緒に解けて流れてしまう。
残るのは、ただ主が恋しいという、卑しい感情だけ。
そんな心のままに筆を取った結果がこれだ。途中で捨てよう捨てようとは思っていたのだが、ついつい気が乗ってかなりの量を書いてしまった。こんなものを主に見られたら、もう恥ずかしくて死んでしまうかも――
「藍ちょっと買い物を頼みた――」
「う、うわぁぁぁぁっ!?」
ビリビリビリ……バシャア……
視界の中だから大丈夫、そう安心していた目の前からいきなり紫が顔を出してきて、藍は慌ててその紙を破り捨て、すずりの墨汁を紙に被せた。
ただ、あまりに慌てていたおかげで――
「藍? これはどういうことかしら?」
「え、いえ、あのっ! す、すみませんっ!」
墨汁の一部が、紫の顔面にべっとりと付着してしまっていた。
◇ ◇ ◇
「幽々子、実は私、命を狙われているかもしれないの……大袈裟だとは思うのだけれど」
その一言は、親友がのほほんと饅頭を食べる手を一瞬だけ止めさせた。
「妖獣愛護団体に?」
「そうそう、虐待しすぎて……って違うわよ! ……ちがう、わよねぇ、たぶん。虐待とかしてないと思うのよ。少し厳しく接することもあるけれど、それはあの子達のことを思ってやっているだけですし、でも伝わらなかったら同じですものね。でもちゃんとご飯が美味しかったらお礼を言ってるし、掃除をしている姿を見かけたら激励もした。はぁ、本当に何が悪かったのかしら……」
言葉を発するたびに段々と座高が低くなり。
ついにはコタツの上に突っ伏して、愚痴を零し始めた。手を枕にしてまるで涙を流すように、肩を小刻みに震えさせている。
「あら、もしかして落ち込んでるの?」
「崖っぷちですわ」
ひょいっ がづっ
言いながら、枕にしていた一本の手を饅頭の盛られた盆へと向ける。が、その手は空を切り、硬いコタツの机部分に指先をぶつけてしまった。
「……落ち込んでいるのですけれど?」
「あらあら、それは大変」
顔を起こし恨みがましい視線を向ければ。
紫の視界に、にこやかに微笑む親友の姿が映った。お饅頭を大事そうに抱えた状態で。しかも片手でそれを口に運ぶことを続けていた。
まるで、悩みよりもそちらが優先と言わんばかりに。
「傷つくわ……」
「そんな酷い事があったの、可愛そうに……」
「現在進行中なのだけれど?」
「あらあら、それは大変。紫をここまで追い込むなんて相当な善人ね。しかも美人に違いないわ」
「もういい、寝る……」
ついに、ふてくされてしまう。
饅頭を取ろうと伸ばしていた手を引き戻し、今度は机の上ではなく畳の上に、ごろんっと寝転がった。さらに隙間から毛布を取り出して被るというなんとも重装備である。
その対面に座ったままの幽々子は、珍しく暗い雰囲気を背負いっぱなしの紫を不思議そうに見つめ、最後に残った饅頭を名残惜しそうに口に入れる。
「昨日の湿った煎餅あげるから、元気を出して」
「いらない」
「あら、じゃあ。タクアンをあげましょう。漬け初めてまだ半刻ほどしか経っていない、ほとんど生の大根だけど」
「いるはずがない」
「じゃあ何が食べたいの?」
「……食べられないから落ち込んでるわけじゃないわよ。あなたと一緒にしないで」
「あらあら、そうなの?」
饅頭と一緒に準備していた自分の湯飲みを傾け、わずかに口の中に残った後味を押し流す。そうやって自分の調子をまるで崩さず、見た目だけなら何も考えていないように見えるのに。
「藍とうまくいってない。だから朝ご飯も昼ご飯も自宅で食べず。何もやることがなかったからここにやってきた。そんな気がしたのだけれど」
「――っ!」
紫が毛布を跳ね除けて起きあがると、そのコタツの上には一つの饅頭と湯飲みが準備されていて。相変わらずニコニコと笑う幽々子が「どうぞ」と言うように手の平を紫に向けていた。
「ああ、もぅ、あなたって人は。そういうところが嫌いですわ」
「褒め言葉と受けとらせていただいても?」
「どうぞご自由にっ!」
目を細めながら饅頭を頬張る紫に向けて、くすくすと声を漏らすものの、口元は無造作に開いた扇子で隠されておりその本当の表情は見えない。柔らかな物腰で隙だらけに見えるのに、その透き通った瞳だけは常に紫の方を向いている。
さきほどの愛護団体発現も最初から全てを見通してのモノか。
それとも単なる思いつきか。
「それで、天下の大妖怪である紫様が、冥界の亡霊などを尋ねた理由をお聞かせ願えるかしら?」
「……はい、これ」
これ以上何かを話すとボロを出すだけだと思ったのか。
紫は素直に一枚の紙を取り出したのだった。
ぼろぼろに皺の入り、
所々墨汁で汚れた、
まるで破り捨てられた後に、無理矢理くっつけられたような紙を。
そのため一部分しか読み取れなかったが……
確かに、そこには。
よく知った人物の字で、残酷な描写が並んでいた。
「ああ、紫様 し んで 。薄汚い、 獣 。 ネコ 被り め 我慢 できない …… その 鼓動を止める 。
私 の手、それを掴んで
傲慢で贅沢な 、紫様 を苦しませる
胸を貫き、 掻き回して。
その 顔 を破壊する。
ああ、紫様…… 紫 ……
……きっと……』
◇ ◇ ◇
「破り捨てたのは、やはりこの内容の発覚を恐れたため、それに違いないわ」
幽々子は、どこからかメガネを取り出し、躊躇うことなく装着すると。くぃっと指で持ち上げつつ、その紙を紫に突き返した。
そして、またどこから持ってきたのか。
黒光りするパイプを口に咥える。
外の世界から流れ着いた知識によるもので、探偵という職業の真似らしい。
「そして、この内容からして。その恨みは尋常なものではない。笑顔の裏で、常に計画を練ってたに違いなっ――っけほっけほっ」
「ねぇ、幽々子? あなたふざけてるでしょ?」
「こほっこほっ! な、何を言うのかしら! 私が肺を病むのを覚悟で一生懸命推理しているというのに」
「必要ないし、全然いらないし小道具」
「あら、じゃあ、メガネを外しましょう」
「パイプを片付けなさい……」
無理にパイプタバコを吸ったせいで咳き込む幽々子をジト目で見つめて、紫は隙間を操作する。とりあえずあのボロボロの紙をくっつけただけの手紙の内容が本当かどうかを確かめるのが先決ということで、隙間を使って白玉楼からマヨヒガを覗いてみよう。ということになった。
あまり近くで開いたら、藍が気付いてしまうので、観察するとは言っても大きな身振り手振りしかわからない。けれど音を拾うためだけの針の穴くらいのスキマも併用することで、それを補おうというわけだ。
「やっぱり、探しているようね、あなたを」
幽々子の言うとおり、少し遠くに開いた隙間で屋敷を斜め上から眺める限りでは。藍が先ほどから廊下を行ったりきたり。紫の部屋と台所を往復しているようにも見える。
「とりあえず、今、どこかにいることを伝えた方がいいんじゃないかしら? 博麗神社にいるとか適当に、ね」
「そうね、じゃあ貸してもらえる?」
隙間を操作しながら、左手を幽々子の方へと向けてくる。
筆を貸せ、という意思表示であることに気付き、ゆったりとした仕草で部屋を出て行くと道具を抱えて戻ってきて、ぽんっとその手の中に置いた。
指で触れば、少しだけ温もりのある木の滑らかさが伝わってきて。
その先には、柔らかい綿のようなものが。
「わー、ありがとうこれで……ってこれ耳掻きっ! 何を書けって言うのよ……」
「あら、違ったかしら?」
「……やはりふざけてるわね? 私をからかっているんでしょう?」
「あらあら、そんなことありませんわ。私は常に紫のために全身全霊を尽くしておりますもの。ただ、少しだけ最近、耳の聞こえが悪くなってきたような気がして。私がいくら必死に聞き取ろうとしているというのに、調子が悪くて大切な言葉を把握できないなんて。ああ、なんという悲劇でしょう……」
ぐぐっ、と手の中の耳掻きが折れそうなほど手に力を込める紫だったが、長い付き合い上のほほんとした状態の彼女に何をしても聞き流されるだけなので、諦めたように、ぽんぽんっと膝を叩く。
すると、扇子で口元を隠したままの幽々子が『よっこらしょ』と、なんとも気の抜けた台詞を吐きながら、紫の膝の上に頭を乗せてくる。
「その前に、筆よこしなさいな。さっさと終わらせるから」
「仕方ないわねぇ、はい、どうぞ」
その幽々子の手の中に、筆とすずり、そして一枚の紙を見つけた紫は手際よく隙間を開き。空中に紙を固定してサラサラと文字を書きなぐって、ぽいっと空間の中に放り込む。
霊夢のところ、夜まで。
たったそれだけ、書いただけなのだから簡単、丁寧。
それをさっきから藍が行ったり来たりしている廊下に置けば完了。
作業を終えた後は、筆を耳掻きに置き換えて親友のへと向ける。紫の重い内心を知ってか知らずか、気持ちよさで鼻歌を鳴らし始める親友に向けて、軽くため息を吐いた。
そうやってしばらく遠見の隙間から様子を覗いていると。
再び、藍が戻ってきて。
置かれた紙に気がついた。
『おや、もしかしてこれは……』
少しくぐもってはいるものの、音を拾うための隙間の調子も悪くないようだ。
問題は、やはり細かな動きや表情がわかりにくいことか。
だからいつもと違う藍の仕草を鮮明に知ることが出来ない。
「あの子、何をしているのかしら?」
普通なら、あれだけ書けば即座に伝わるはずなのに。
何故かずっとその文字を見つめて、突っ立っている。
細かな動作が見えないのでよくわからないけれど、歩くときに大きく揺れていた尻尾が。急にぴたり、と停止し固まったように見えた。
ただ、次の瞬間。
くしゃり……
「え?」
「あら?」
幽々子と紫の驚きの声が揃う。
あの、藍が。
紫の言葉にいつも躊躇わず従う藍が。
紫の伝言が書いてある紙を握り潰したのだから。
そして、どんどんっと、隙間からも伝わるほど足音を響かせて廊下を歩き去っていく。その様子をしばらく呆然と見詰めていた主はというと……
「はぁ、何が原因かしらねぇ……」
頬を指で掻きながら、瞳を瞑ることしかできない。
しかし幽々子だけは、その藍の様子を透き通った瞳で追い続け。
「あら、お年頃ね♪」
楽しそうに、ころころと笑い声を漏らしたのだった。
◇ ◇ ◇
「紫、やはりこれは事件ね。幻想郷を揺るがせる妖獣の反乱よ」
「……そうかしら、いまいちそういう実感がわかないのだけれど」
耳掻きに満足した幽々子は、再びコタツに戻り。紫と対面になって座る。そして居間に置いてあった碁石を机の上に持ってきて、並べ始めた。
メガネを装着したままで。
もう、その時点で紫は疑いの眼差しを向けるしかない。
それにもう一つ気になることがある。
「ほら、この白の碁石を紫だとするでしょう? すると夜、寝静まった頃を見計らってこう、黒い石の藍があなたの寝室に忍び込んで、逃げようとしたところで橙がこう――」
「ねえ、幽々子」
「あら大事な作戦会議中に何かしら?」
「それよりも、あなたの大事な仕事の方は大丈夫なの? それに帽子も被っていないようだし」
そう、あのぐるぐるが印象的な、いつもの帽子を被っていない。あれだけ目立つものを急に取れば、そんな疑問が出てきて当然というもの。
すると、幽々子は少しだけ視線を紫から逸らし。
閉じられた障子の方を見上げた。
「……霊体の数を確認して印を押す、簡単な仕事ですわ」
「は?」
「簡単な仕事ですもの」
「……まさか、妖夢に?」
「ほら、よくあるじゃない。一日代理とか、おまけに帽子も被れるなんて、もう、妖夢ったら幸せ者ね」
「あなたこそ、いつか寝首かかれるわよ、本当に」
単純でありながら重要な作業を押し付けられた妖夢が、緊張し、震える手で印を押していく姿が容易に想像できる。その上で家事もこなさないといけないのだから、いつか胃に穴が開いてしまうんじゃないだろうか。
「ほらほら、そんなことより。あっちで動きがあるみたいよ」
幽々子が閉じた扇子で空中に開かれっぱなしの隙間を指すと、確かに橙と藍が何かを相談しているような場面が映し出されていた。
紫が慌ててその音を拾うと。
『準備万端ですね! 藍様!』
『紫様がいなくて良かったね、とても準備がしやすかったよ。とぉぉぉっっってもねっ!!』
『……藍様、怒ってます?』
『ははは、何を馬鹿なことを言っているんだい。橙、私はいつだって冷静だよ。さあ、さっさと支度を整えて、何も知らない紫様を待ち伏せしようじゃないか』
『はいっ!』
音だけ聞いても、なんだか藍のピリピリした様子が伝わってくる。
ただ、やはりその声質からは殺気というものはでは伝わらないのだが。
「……何かしらね、この不安は」
紫の胸を何かがチクリッと突くような、そんな違和感がある。
少しだけ怒っているだけのように見えるのに。
それだけではない何か、もっと深い感情のようなものが藍から見て取れるような気がしたから。
「待ち伏せね、橙の前で物騒な物言いなんて珍しいのではないかしら」
「ええ、何かにイライラしているようには見えるけれど、それが何かわからないのが問題よね」
「あら、意外と理由は簡単かもしれないわよ?」
「何か知っているような言い方ね」
「ええ藍が何に怒っているのか、少し考えればわかることですもの」
そう言って、さきほどからずっと掛けっぱなしのメガネを、くぃっと指先で持ち上げ。
もう片方の手で扇子を流れるような動きで開く。
しかしすぐには口を開こうとせず、紫の思考が冷静さを取り戻すのを待つように。
ゆっくりと、告げる。
「春だから、ですわ♪」
それを聞いた直後。
紫は満面の笑みを浮かべて。
隙間の中に消えてしまう。
「あら、あらあらあら? 真剣に言ったつもりだったのだけれど」
顎に手を当て、小首を傾げ。
さきほどまで紫が居た場所をじっと見詰める。
「春は、人と妖を狂わせる。そんな不思議な季節ですもの」
そうつぶやく幽々子の視線の先には、大きな桜の影が映り込んでいた。
◇ ◇ ◇
すっかり、日が暮れてしまっていた。
幽々子のところから姿を消したはいいものの、やはりすぐに自宅に帰ることができず。珍しくぶらぶらと幻想郷を飛び回ることとなってしまった。おかげで、胡散臭いヤツが飛び回っている、と白黒の魔法使いからは後ろ指を指され。
妖怪の山へ入ろうとすると、知り合いの鴉天狗が気を使いお世辞を交えながら話しかけてくる始末。
ただ、時間を潰していただけなのに腫れ物扱いされるとは、余計に不機嫌になるというもの。さすがにそのまま山に居ても居心地が悪かったので、結界の様子を本格的に探ってから戻ることにした。
けれど、紫が確認するまでもない。
その仕事は完璧だったから。
春が来て、目覚めたばかりの紫に負担をかけないようにと。
ある一匹の可愛い式が、頑張ってくれたから。
「……あ」
そこでやっと、思い出す。
思い出して。
思い知らされた。
自分の過ちを。
自分の愚かさを。
妖怪の賢者と呼ばれ、奢っていた自分の浅はかさを。
「そうね、春ですものね。幽々子」
くすり、と。
やっと本来の全てを見通しているような笑みを取り戻し。
紫は帰路につく。
愛らしい、妖獣が待つ。屋敷へと。
ぱぁんっ! ぱぁんっっ!
「紫様、今年もよろしくお願いしますっ!」
「よろしくお願いいたします……」
騒がしい、色取り取りの罠が仕掛けられた自室で。
元気な橙と、少し気を沈ませた藍が三つ指をついて紫を出迎えた。
だって今宵は。
二人が紫のために開いてくれる宴の日。
毎年恒例の、元旦を眠ったまま迎える紫のためだけに開かれる新年会。
橙が鮮やかな部屋の飾り付けを担当し。
藍がいつもよりも料理に手を掛ける。
それを忘れて、夜まで霊夢のところに行く。なんて嘘の書き置きを残したのだ。怒らない方がおかしい。
「藍、ごめんなさいね。年のせいかしら……こんな大切な日を忘れるなんて」
「……勿体ないお言葉です。紫様」
こんな日だから、ついつい藍も感情的になってしまい。
紫に対する想いをしたためた。
それがどんな感情かは、紫もわかっているつもりだったのに。心の底から信じてあげることが出来なかった。
それはきっと。
この季節のせい。
出会いと、別れを司る『春』という不思議な季節が、二人の心を揺れ動かし。すれ違いを生み出してしまっただけ。
「式でありながら、分をわきまえず……、その迷いが、紫様に何かを勘繰らせることとなってしまったのでしょう。しかし、出来れば……朝食や昼食には戻っていただかないと、心配になると言いますか……不安になると言いますか……」
「ええ、善処させていただきますわ」
そんな二人の小さな不安。
疑心暗鬼が生み出した、ちょっとした喜劇。
「良い酒の肴もできたことですし。今宵は楽しみましょうか、藍」
「……むぅ~~っ!」
「もちろん、橙もね」
「はいっ!」
そんな元気の良い返事を聞きながら、美酒に酔い。
心の底から、笑い合い。
その日は、まるで仲のいい親子のように。
畳の上で川の字を書くように、眠ったのだった。
◇ ◇ ◇
それが、八雲一家の一年の始まり。
宴の次の日は、畳の上でごろごろと。
二日酔いの体を転がして、昼過ぎまでのんびりと、家族水入らずで楽しむのだ。
「しくしく……」
そう、水入らずで。
「しくしくしく……」
水入らず、で……
「しくしくしくしく……」
「……で? なんであなたがここにいるのかしら?」
水入らずで寝ていたはずなのに、いつのまにやら紫に背中から抱きつく不穏分子が居た。
姿は見えないが、紫の胸の前に回された袖と。
聞き覚えのある声で判別は簡単。
「酷い、酷いのよっ! 妖夢ったら。私が昨日仕事をさせたことを根に持って、朝のおかずを3品も減らして出してきたのよ!」
「……どうでもいい、凄く、どうでもいいわ」
「そんな、それでも親友かしらっ」
「ごめん、後ろから大声出さないで、頭痛いから」
二日酔い状態で目覚めた瞬間、いきなり背中から愚痴が飛んでくる。
なんと気分の悪い覚醒の仕方だろう。
しかもその声で起こされたのは紫だけでなく。
珍しく主よりも遅くまで眠っていた藍が尻尾をゆっくりと揺らして上半身を持ち上げ。ぼんやりとした瞳で、紫に抱きつく幽々子を見る。
「藍、この変なの気にしなくていいから、ゆっくり眠ってなさい。今日くらいは」
「ああ、酷い、酷いわ。昨日はあんなに深く、想いを確かめ合ったというのに」
「え? 昨日? 昨日、紫様は……霊夢のところに行っていたのでは?」
「いえ、ちょっと相談事があってね」
「密会していたのよぉ~」
密会、その淫靡な言葉に。藍の耳が大きく跳ね上がる。
そして目を丸くしながら、紫と幽々子を交互に見た。
「み、密会……そ、そんなっ……霊夢をダシにしてまでっ!? 紫様はそれほどまでに、幽々子様を、ううぅぅぅぅっっ! 紫様の節操なしっ!」
そして、何故か瞳に涙を溜めて。
いつもの藍からは想像できない、乙女のような仕草で走り去っていく。
「ちょ、ちょっと、藍、節操なしって。何か誤解をっ! あ、イタタタタタ……」
大声を出して止めようとするが、二日酔いの頭痛のせいで思い切った声量が出せない。しかも手を伸ばして止めようとしても、後ろから抱き付く亡霊が邪魔で、肘を少しだけ伸ばすのが精一杯である。
「あらぁ? これはまた波乱の予感かしら?」
「それを持ち込んでくれたのは、どこのどなた?」
「さぁ? 誰かしらねぇ、絶世の美女には間違いないのでしょうけれど」
「その魂、直接閻魔様に届けてあげてもいいのだけれど?」
「あらあら、美人薄命とはこのことね」
「死んでるじゃない」
「それは盲点でしたわ」
そうやって、幻想郷に名の知れた二人が不毛な言い争いを繰り返す中。
体を丸くし、気持ち良さそうに寝息を立てる橙だけは。
春を存分に満喫しているように見えた。
ほんわかあったかくてすごく今幸せです!
特に幽々子様とゆかりん2人のかけあいの描写がお気に入りですw
幽々子様の方が胡散臭いと言われるスキマ様よりイイ性格してるssは珍しい
引っ掻き回してるなぁゆゆさまw
なんというか可愛いw
ゆゆさまは厄介者でしかないww
最後の純情乙女藍と惚けたゆゆ様、そして愛され妖怪の紫なんてもうたまりません。
藍は冷静沈着な描写が多いですが、こういうのもいいなあ。
ゆゆ様が素敵w